イギリスの探検家ジェームス・クックがモアイ像について「これは古代の遺物で、原住民ではなく、未知の建造者によって作られている」と洞察しているが、私も同感だ。モアイ像は二種類の岩石で作られているのだが、これが謎解きの糸口となる。 900体ほどあるモアイ像だが、そのほとんどは柔くて加工がしやすい火山凝灰岩で作られている。ラノ・ララクという石切り場は凝灰岩の山だ。もう一種類のモアイ像は、硬くて加工しにくい玄武岩で作られている。玄武岩で作られているモアイ像は数も少なく、最も古いモアイだと考えられている。 ボストン大学の地質学者ロバート・ショック教授は、ギザの大スフィンクスの建造年代調査で有名だ。地質学的に見ると大スフィンクスが建造されたのは少なくとも1万年以上前だという。そのショック博士はイースター島のモアイ像の研究もしている。 彼の調査によると玄武岩の石切り場は、現在のイースター島には存在しない。だが島の周辺の海底には存在するかもしれないという(『Forgotten Civilization忘れ去られた文明』99p~113p)。なぜなら最終氷河期が終わった2万年前から海面の高さが120メートルも上昇しているからだ。玄武岩の石切り場が海底にあるならば、玄武岩モアイ像が作られたのは、2万年前よりもさらに前になる。 現存する玄武岩モアイ像の一つは大英博物館に運ばれている。この玄武岩モアイ像は凝灰岩モアイ像とよく似ているが、風化の度合いが全く異なる。背中には写真のように彫刻が施されている。凝灰岩モアイ像の背中にも彫刻が施されているが、材質がもろいため、写真のように、今ではほとんど見えなくなっている。 玄武岩モアイ像が作られた年代は、インカ風の石壁の存在からも推測できる。インカ風の石壁もまた、2万年前よりも前から存在しているのだ。 インカ風の石壁が、2万年前から存在していることを証明するには、まず北極の地理的位置が変化していることを証明しなくてはならない。 古代の聖なる建造物は、太陽の昇る方向に合わされている。つまり真東だ。そうなるとギザの大ピラミッドのように東西南北も正確に建造した時代の方位に合うことになる。ところが中南米の遺跡の多くが、現在の北極と方位が合わない。これは不思議だ。原因としては地球の地殻が移動して、北極の地理的位置が変わったことが考えられる。 北極の地理的位置が移動していることを証明した科学者がいる。米国のチャールズ・ハップグッド博士だ。 チャールズ・ハップグッド博士は1958年に『Path of the Pole 極の通り道』を書いて、北極が地理的に移動していることを証明して、物理学者アルバート・アインシュタインに絶賛された。だが、その後も科学の進歩に合わせて改訂版を出している。その最新版は1999年に出版されているが、序文で以下のように書いている。
つまり北極の地理的位置がこの10万年間で3回も移動しているのだ。これが正しいならば、中南米の多くの遺跡の方位が、現在の北極にあっていないという謎が解消される。 例えばメキシコのティオティワカン遺跡は「神々の集まる場所」という名前なのだが、方位が狂っていることが謎とされてきた。ティオティワカン遺跡の中央には死者の道と呼ばれる中央軸があるのだが、現在の北極には向いていない。ところが最近では、多くの研究者による調査で、死者の道を辿っていくとハドソン湾に到着することがわかっている。つまりこの遺跡は5万年前から2万年前の北極を基準として作られているのだ(『Deep History and the Ages of Men 深い歴史・人類の時代』by Mark H. Gaffney)。 同じことはボリビアのティアワナコ遺跡についても言える。ここにはアカパナ・ピラミッドがあるが、2000年にオリジナルの土台が発掘された。その結果、方位が現在の北極に向いていないことがわかった。向いているのはハドソン湾なのだ(『深い歴史・人類の時代』49p)。 つまりこれらの遺跡は2万年よりも前に作られている。南米のボリビアやペルーには年代不詳の謎の遺跡がたくさん存在する。インカ風の石壁もその一つだ。 サクサイワマンの巨石の壁や、オリャンタイタンボの見事な石壁も、現世のものとは思えない作りだ。クスコ市の太陽神殿にある内壁も、写真のように人間が作ったものとは思えないほど精密だ。花崗岩という最も硬い石の巨石を見事に組み合わせている。この精密な石壁は、強度な地震にも耐えることで有名だ。 これらから分かるのは、世界の古代遺跡が3種類に分類できることだ まずはローマ・ギリシャの遺跡や万里の長城など、現代の古代遺跡だ。古さはせいぜい2000年から2500年前。 2つ目は古代エジプト文明やシュメール文明、古代マヤ文明、インダス文明、黄河文明などの古代遺跡だ。これらの文明は2万年前に消滅した未知の文明を再興させるために生まれている。あるいは2万年前の天変地異を生き延びた人々によって作られている。 三番目の古代遺跡は2万年前から5万年前に黄金時代を迎えた未知の文明の残骸だ。未知の文明は2万年前の天変地異で滅びている。この三番目の遺跡が残っているのは主に南米大陸だが、イースター島にも残っていた。それがインカ風の石壁だ。 この仮説が成り立つには、チャールズ・ハップグッド博士の発見が正しいことが条件となる。そこでハップグッド博士が主張する「最終氷期の時代の北極はハドソン湾にあった」という説の証拠を検証しよう。 ハップグッド博士は著書『極の通り道』で、地理上の北極がハドソン湾にあった証拠を11ほど示している。だがここではそのうちの3つだけを検討しよう。それだけで十分だからだ。 証拠の第一は最終氷期最盛期である約2万6000年前から1万9000年前の間、北半球に分厚い氷床が存在していたことだ(DeepSeek)。 当時、北米大陸に厚さ3000メートルの氷床が存在していた。このように分厚い氷床が存在するのは、現在では南極大陸だけだ。つまり最終氷期の北米大陸は「北極大陸」だったのだ。「北極大陸」の分厚い氷床は、現在のボストンやシカゴ、ニューヨークなどの上を覆っていた。このことから地理上の北極は、現在の北極海ではなく、ボストン湾という北米大陸の北部に位置していたことがわかる。 次に、日本と米国の比較から、カナダのボストン湾に北極があったことがわかる。 日本と米国の緯度はほぼ同じところにある。ボストンやシカゴ、ニューヨークと同じ緯度にある日本の都市は、青森であり函館だ。ボストンやシカゴ、ニューヨークの上には厚さ3000メートルの氷が座っていた。では同じ緯度の青森や函館はどうだっただろうか? 日本の氷河期の専門家たちによると、最終氷期に氷床や氷冠(小型の氷床)は、全く存在せず、日本は森林地帯だった。日本アルプスに氷河があったのは海面から2500メートルも上だった(『極の通り道』103p)。日本全体は比較的に温暖で森林地帯だった。それは世界中にある最終氷期最盛期の世界地図を見るとわかる。地図はインターネットでもすぐに探せるし、小林国夫・坂口豊教授たちの著書『氷河時代』の121ページにも掲載されている。 同じ緯度にあってこれだけ気候が違うということは、北極の地理的位置が現在と異なっていた明白な証拠だ。現在の北極は北極海にあるが、ほぼ同じ緯度にある日本と米国の気候はよく似ている。最終氷期最盛期のころとは大違いだ。 最終氷期最盛期の地理的北極がハドソン湾にあったことは、当時のシベリア地方、アラスカ、北極海が、比較的に温暖な気候であったことからも証明できる。当時のシベリア、アラスカ、北極海には、マンモスやハイエナ、巨大な鹿などが住んでいた。だが1万7000年から1万8000年まえに一瞬で凍結されたことがわかっている(『神々の指紋』上巻284p 『極の通り道』93p)。 さらに英国北部の洞窟の発掘調査からも、北極の地理的位置が移動していたことが証明されている。 英国北部のヨークシャー地方というと北緯54度であり、函館よりもかなり北方だ。この地方には多くの洞窟があり考古学的な調査が行われている。2001年に調査報告書が出されているが、この調査結果もハップグッド博士が正しいことを示している。 カークデール洞窟で発掘された動物の遺骸を見ると、当時のこの地方の気候がわかる(『深い歴史・人類の時代』135p)。