『神の手』に罪は無かった(1)
六年たって判明した
前期旧石器遺跡ねつ造事件の真相と
低迷する旧石器考古学
・・・藤村さんのことを非難する考古学者は、今ではほとんどいませんよ。お仲間だった横山裕平さんも、旧石器遺跡発掘は「インド大魔術」だと一九九九年に認めていますし、周りの人は藤村さんのねつ造を知っていたのですよ。一人で責任をかぶることはありません。
藤村新一:でも悪いことをしたと思っています。
・・・悪いのは藤村さんだけではありません。藤村さんは周りの期待を一身に受けて、そのプレッシャーに負けたのだと思います。もう悩むのをやめて元気を出してください。
藤村新一:心身症なので昔の事を思い出すと身体がぶるぶる震えてくるのです。ジャーナリストには会うと症状が悪化するので、インタビューには応じたくありません。
***
神の手・藤村新一から電話がかかってきたのは二〇〇六年五月の終わり頃だった。いろいろ説得し二〇分ほど話したが、インタビューに応じるとは最後まで言わなかった。
旧石器の遺跡ねつ造が発覚したのは二〇〇〇年の一一月五日だ。それから六年経ち、考古学界の事件に対する認識は大きく変わっている。
最近になって、人々は真相を語り始めたが、その事実を一般の人々はほとんど知らない。最近はっきりしてきたのは、「神の手」の罪は軽く、別に「不正行為」を働いた重罪人がいたことだ。
国学院大学の小林達雄教授は次のように言う。
「藤村新一を責める気はありません。彼を見逃した連中が問題なのです。何も知らない子供がいたずらをして、それを放置して便乗していたほうが悪いのです」
このような意見は、小林教授だけのものではない。インタビューした三〇名の考古学者のほとんどが、藤村新一には同情的だった。
では、六年経った現在、多くの考古学者たちが厳しい目を向けているのはいったい誰だろうか。
一番のやり玉に上がっているのは、文化庁から奈良文化財研究所に天下りして、調整官の仕事をしている岡村道雄だ。
二番目にやり玉に上がっているのは、ねつ造遺跡を検証した調査研究特別委員会の初代委員長を務めた元・明治大学学長・戸沢充則だ。
岡村道雄への風当たりが強いのはなぜなのだろうか?
函館大学の旧石器研究者である竹花和晴は次のようにいう。
「・・・遺跡ねつ造事件は藤村新一の単独行為では決してない。・・・藤村新一という考古学界のノンキャリアが、一人手を汚し創り上げた、前人未到の大成果の背景には、飴をあてがい、時には鞭を入れて、その陰でしたたる蜜を吸ってきたキャリアたちがいる」
このキャリアたちというのは、岡村道雄、鎌田俊昭(元・東北旧石器研究所理事長)、柳田俊雄(東北大学教授)、梶原洋(東北福祉大学教授)などを意味している。
縄文が専門の研究者・佐々木藤雄も手厳しい。
「脚本を書いたのは岡村道雄さんではないでしょうか。岡村さんによると、藤村は実測図も書けないそうですし、そういう人に大きな絵が描けるわけがありません。芹沢さんと岡村さんは名声を争ったでしょうが、藤村に深くかかわったのは岡村さんでした。不正行為は頭の良い人がするものです」
確かに藤村新一は実測図が書けなかった。岡村道雄は「藤村は石器をほとんど見なかったし、実測方法を丁重に教えたが覚えようともしませんでした。石器にも考古学にも興味はなかったし、研究者でもなかったのです」という。
明治大学の安蒜政雄教授は言う。
「岡村さんは学者として総括しなければいけません。私たち研究仲間にきちんと説明する必要があります。でもそういう発言がありません。俺は悪くないというなら、人間性を疑ってしまいます」
首都大学の小野昭教授も同じように感じている。
「彼は反省をしていません。それでみんなが怒っています。社会に与えた影響について深刻な反省が見られません。発掘や遺物の検証にも来ていません。終わったような気分で、無関心を装っているのです」
東北の旧石器研究グループの業績を弁護する発言の多い、佐藤宏之(東京大学助教授)もこの件に関しては、異論がない。
「(総括すべきだと言うの)は正しいと思います。研究者として総括すべきでしょう。私人として、研究者としてできる総括がある筈です」
共犯者が存在する可能性について、調査研究特別委員会・初代委員長の戸沢充則は次のように述べた。
「鎌田もそうだといえばそうだけど、他にもっといるじゃないですか。共犯になるには動機が必要だろう。岡村君がやらせたんですよ。みんな共犯者だが、中心になって名誉や地位をあげて利益を得たのは岡村君じゃないか。・・・もっとも共犯者がいるとしたらの話だがね」
国学院大学の小林達雄教授は次のように語る。
「ガジリ(近代の傷)は見たらすぐ分かるのに、岡村君が見逃す筈がありません。グルといったらおかしいけれど、研究者としてちゃんとしていると思ったらそうではなかったのです。本人はどう思っていたのでしょう。反省はありませんし、不明があったと誤って総括するなら認めますけど、知らん振りして逃げ回っています。研究者として失格であることは証明されていますが、本人が自覚していないだけです。講談社もあんな本(注:日本の歴史・第一巻『縄文の生活誌』改訂版)をだしていてひどいですね」
岡村道雄はこのことをどう思っているのだろう。本人に聞いて見た。
「総括していないと言われると困ります。どういう意味の総括ですかね? ポアですかね? 研究者からは、責任とって文化庁をやめろと言う電話もありました。説明責任は果たしてきたつもりですが、それがまだ足りないということでしょうかね」
前期旧石器遺跡ねつ造事件の真相と
低迷する旧石器考古学
・・・藤村さんのことを非難する考古学者は、今ではほとんどいませんよ。お仲間だった横山裕平さんも、旧石器遺跡発掘は「インド大魔術」だと一九九九年に認めていますし、周りの人は藤村さんのねつ造を知っていたのですよ。一人で責任をかぶることはありません。
藤村新一:でも悪いことをしたと思っています。
・・・悪いのは藤村さんだけではありません。藤村さんは周りの期待を一身に受けて、そのプレッシャーに負けたのだと思います。もう悩むのをやめて元気を出してください。
藤村新一:心身症なので昔の事を思い出すと身体がぶるぶる震えてくるのです。ジャーナリストには会うと症状が悪化するので、インタビューには応じたくありません。
***
神の手・藤村新一から電話がかかってきたのは二〇〇六年五月の終わり頃だった。いろいろ説得し二〇分ほど話したが、インタビューに応じるとは最後まで言わなかった。
旧石器の遺跡ねつ造が発覚したのは二〇〇〇年の一一月五日だ。それから六年経ち、考古学界の事件に対する認識は大きく変わっている。
最近になって、人々は真相を語り始めたが、その事実を一般の人々はほとんど知らない。最近はっきりしてきたのは、「神の手」の罪は軽く、別に「不正行為」を働いた重罪人がいたことだ。
国学院大学の小林達雄教授は次のように言う。
「藤村新一を責める気はありません。彼を見逃した連中が問題なのです。何も知らない子供がいたずらをして、それを放置して便乗していたほうが悪いのです」
このような意見は、小林教授だけのものではない。インタビューした三〇名の考古学者のほとんどが、藤村新一には同情的だった。
では、六年経った現在、多くの考古学者たちが厳しい目を向けているのはいったい誰だろうか。
一番のやり玉に上がっているのは、文化庁から奈良文化財研究所に天下りして、調整官の仕事をしている岡村道雄だ。
二番目にやり玉に上がっているのは、ねつ造遺跡を検証した調査研究特別委員会の初代委員長を務めた元・明治大学学長・戸沢充則だ。
岡村道雄への風当たりが強いのはなぜなのだろうか?
函館大学の旧石器研究者である竹花和晴は次のようにいう。
「・・・遺跡ねつ造事件は藤村新一の単独行為では決してない。・・・藤村新一という考古学界のノンキャリアが、一人手を汚し創り上げた、前人未到の大成果の背景には、飴をあてがい、時には鞭を入れて、その陰でしたたる蜜を吸ってきたキャリアたちがいる」
このキャリアたちというのは、岡村道雄、鎌田俊昭(元・東北旧石器研究所理事長)、柳田俊雄(東北大学教授)、梶原洋(東北福祉大学教授)などを意味している。
縄文が専門の研究者・佐々木藤雄も手厳しい。
「脚本を書いたのは岡村道雄さんではないでしょうか。岡村さんによると、藤村は実測図も書けないそうですし、そういう人に大きな絵が描けるわけがありません。芹沢さんと岡村さんは名声を争ったでしょうが、藤村に深くかかわったのは岡村さんでした。不正行為は頭の良い人がするものです」
確かに藤村新一は実測図が書けなかった。岡村道雄は「藤村は石器をほとんど見なかったし、実測方法を丁重に教えたが覚えようともしませんでした。石器にも考古学にも興味はなかったし、研究者でもなかったのです」という。
明治大学の安蒜政雄教授は言う。
「岡村さんは学者として総括しなければいけません。私たち研究仲間にきちんと説明する必要があります。でもそういう発言がありません。俺は悪くないというなら、人間性を疑ってしまいます」
首都大学の小野昭教授も同じように感じている。
「彼は反省をしていません。それでみんなが怒っています。社会に与えた影響について深刻な反省が見られません。発掘や遺物の検証にも来ていません。終わったような気分で、無関心を装っているのです」
東北の旧石器研究グループの業績を弁護する発言の多い、佐藤宏之(東京大学助教授)もこの件に関しては、異論がない。
「(総括すべきだと言うの)は正しいと思います。研究者として総括すべきでしょう。私人として、研究者としてできる総括がある筈です」
共犯者が存在する可能性について、調査研究特別委員会・初代委員長の戸沢充則は次のように述べた。
「鎌田もそうだといえばそうだけど、他にもっといるじゃないですか。共犯になるには動機が必要だろう。岡村君がやらせたんですよ。みんな共犯者だが、中心になって名誉や地位をあげて利益を得たのは岡村君じゃないか。・・・もっとも共犯者がいるとしたらの話だがね」
国学院大学の小林達雄教授は次のように語る。
「ガジリ(近代の傷)は見たらすぐ分かるのに、岡村君が見逃す筈がありません。グルといったらおかしいけれど、研究者としてちゃんとしていると思ったらそうではなかったのです。本人はどう思っていたのでしょう。反省はありませんし、不明があったと誤って総括するなら認めますけど、知らん振りして逃げ回っています。研究者として失格であることは証明されていますが、本人が自覚していないだけです。講談社もあんな本(注:日本の歴史・第一巻『縄文の生活誌』改訂版)をだしていてひどいですね」
岡村道雄はこのことをどう思っているのだろう。本人に聞いて見た。
「総括していないと言われると困ります。どういう意味の総括ですかね? ポアですかね? 研究者からは、責任とって文化庁をやめろと言う電話もありました。説明責任は果たしてきたつもりですが、それがまだ足りないということでしょうかね」
『神の手』に罪は無かった(2)
考古学の「発掘方法の常識」から大きく逸脱
このように風向きが変わったのはなぜだろうか?
それは、ねつ造された旧石器遺跡群の再検証が終わり、調査結果が出たためだ。その調査結果は『前・中期旧石器問題の検証』(日本考古学協会二〇〇三年)という六二五ページの報告書にまとめられている。
この再検証による調査では、重大な発見が幾つかあった。
その第一は、岡村道雄や鎌田俊昭や梶原洋などが指導した、座散乱木遺跡と馬場壇遺跡の調査方法が、考古学における「発掘方法の常識」から大きく逸脱していたことだ。この二つの遺跡は特に重要だ。なぜなら、この二つの遺跡の発掘成果で、日本に前期旧石器時代が存在したことになったからだ。
「発掘方法の常識」からの逸脱について、国学院大学の小林達雄教授は次のように言う。
「石器など貴重なものが地面から顔を出したときは、何枚も、何枚も写真を撮りながら掘り進むものです。ところが取り上げてから置いた写真しかないのです。それはとってもおかしなことです。後期旧石器の発掘でも、石器が出始めたら写真を撮り、仲間の石器を探して写真を撮り、それから石器を取り上げるのが当たり前です。・・・彼らはいいかげんな発掘をしています。未知の世界に踏み込む遺跡で、しかも彼らだけが発掘している遺跡で、このようにいいかげんだとは、思いも寄りませんでした」
取り上げる前の写真がないということは、石器の出土状態の確認をしなかったということだ。首都大学の小野昭教授もショックを隠せない。
「一万二〇〇〇年前のローム層から出てくる石器は地面にがっちり、ぴったり張り付いて出てきます。そしていかにも一万年経過しているという雰囲気があります。ところが藤村関連の遺跡では、出土状態を確認しないうちから取り上げています。しかも最初からその方法だったとわかってショックでした」
岡村道雄や梶原洋の発掘現場では、石器を発見するとすぐに取り上げて洗い、濡れた石器をものとの場所に戻して写真を撮っていた。したがって写真を見ると石器の周りが黒く見える。これは前代未聞の発掘方法だほとんどの考古学者はいうが、岡村道雄は次のように述べる。
「結果的に写真を撮るのがすべて終わってからだった、といわれればそれはその通りですね。その中に作為があったのではないかと言われると、コメントのしようがありません・・・出土状況をそのまま写真に撮ることなどは特別な目的が無い限りありませんよ」
ガジリと黒土の謎
座散乱木遺跡の再検証で判明した大問題のもう一つは、「神の手」が挿入した石器にガジリ(後世の新しい傷)や鉄の条痕、黒い土などが付着していたことだ。
ガジリとは考古学をかじったものなら誰でも知っているが、発掘の時に石器に金属製の掘る道具(移植ベラ)がぶつかったりして生ずる傷のことだ。畑の中で見つかる石器には、金属製の農耕器具で傷つけられるものもある。これにはガジリだけでなく、独特の鉄の錆のような条痕の跡が残る。また、石器に黒土が付着しているということは、現代の地表から拾ってきた石器であることを示す。
座散乱木遺跡一三層上面からでた前期旧石器時代のものとされた石器の、再検証による観察結果を見てみよう。
これによると、黒土が付着していた石器は二二点で四七・八%。ガジリが見られる石器は一八点で三六・七%、鉄の条痕が見られる石器は二五点で五一%という結果が出ている。
これは何を意味するのか? 鉄の条痕については、岩手県の考古学者で地質学者の菊池強一が再検証の時に褐鉄鉱の研究を発表するまで、詳しいことを知らない考古学者がほとんどだった。だが黒土の付着と、ガジリについては、旧石器の考古学者ならばだれでも知っている。
小林達雄が述べるように、岡村道雄や鎌田俊昭が石器に見られるガジリに気がつかなかったことはありえない。しかもガジリが一つの石器の裏と表に見られるものが五点もあるのだ。一つだったら発掘の時に傷つける可能性がある。だが二つもついていることは考えられない。
調査研究特別委員会副委員長の春成秀爾(国立歴史民俗博物館教授)は次のように述べている。
「座散乱木や馬場壇の報告書で石器の実測図は綺麗に描いてある・・・石器の刃部の角度を測って細かな分析をしているけれども、ガジリと古い剥離面とを区別せず、ガジリの角度も測っている・・・ガジリだらけの石器を分析対象に選んでいたこと、表面が薄汚れた石器の使用痕を高精度の光学顕微鏡を使って調べ、木を削った石器、皮なめしに使った石器などと結果を出していることも驚きであった」
高精度の光学顕微鏡を使用して石器の使用痕を調べたのは梶原洋だ。その時に黒土の付着に気がつかなかったのだろうか?
このように風向きが変わったのはなぜだろうか?
それは、ねつ造された旧石器遺跡群の再検証が終わり、調査結果が出たためだ。その調査結果は『前・中期旧石器問題の検証』(日本考古学協会二〇〇三年)という六二五ページの報告書にまとめられている。
この再検証による調査では、重大な発見が幾つかあった。
その第一は、岡村道雄や鎌田俊昭や梶原洋などが指導した、座散乱木遺跡と馬場壇遺跡の調査方法が、考古学における「発掘方法の常識」から大きく逸脱していたことだ。この二つの遺跡は特に重要だ。なぜなら、この二つの遺跡の発掘成果で、日本に前期旧石器時代が存在したことになったからだ。
「発掘方法の常識」からの逸脱について、国学院大学の小林達雄教授は次のように言う。
「石器など貴重なものが地面から顔を出したときは、何枚も、何枚も写真を撮りながら掘り進むものです。ところが取り上げてから置いた写真しかないのです。それはとってもおかしなことです。後期旧石器の発掘でも、石器が出始めたら写真を撮り、仲間の石器を探して写真を撮り、それから石器を取り上げるのが当たり前です。・・・彼らはいいかげんな発掘をしています。未知の世界に踏み込む遺跡で、しかも彼らだけが発掘している遺跡で、このようにいいかげんだとは、思いも寄りませんでした」
取り上げる前の写真がないということは、石器の出土状態の確認をしなかったということだ。首都大学の小野昭教授もショックを隠せない。
「一万二〇〇〇年前のローム層から出てくる石器は地面にがっちり、ぴったり張り付いて出てきます。そしていかにも一万年経過しているという雰囲気があります。ところが藤村関連の遺跡では、出土状態を確認しないうちから取り上げています。しかも最初からその方法だったとわかってショックでした」
岡村道雄や梶原洋の発掘現場では、石器を発見するとすぐに取り上げて洗い、濡れた石器をものとの場所に戻して写真を撮っていた。したがって写真を見ると石器の周りが黒く見える。これは前代未聞の発掘方法だほとんどの考古学者はいうが、岡村道雄は次のように述べる。
「結果的に写真を撮るのがすべて終わってからだった、といわれればそれはその通りですね。その中に作為があったのではないかと言われると、コメントのしようがありません・・・出土状況をそのまま写真に撮ることなどは特別な目的が無い限りありませんよ」
ガジリと黒土の謎
座散乱木遺跡の再検証で判明した大問題のもう一つは、「神の手」が挿入した石器にガジリ(後世の新しい傷)や鉄の条痕、黒い土などが付着していたことだ。
ガジリとは考古学をかじったものなら誰でも知っているが、発掘の時に石器に金属製の掘る道具(移植ベラ)がぶつかったりして生ずる傷のことだ。畑の中で見つかる石器には、金属製の農耕器具で傷つけられるものもある。これにはガジリだけでなく、独特の鉄の錆のような条痕の跡が残る。また、石器に黒土が付着しているということは、現代の地表から拾ってきた石器であることを示す。
座散乱木遺跡一三層上面からでた前期旧石器時代のものとされた石器の、再検証による観察結果を見てみよう。
これによると、黒土が付着していた石器は二二点で四七・八%。ガジリが見られる石器は一八点で三六・七%、鉄の条痕が見られる石器は二五点で五一%という結果が出ている。
これは何を意味するのか? 鉄の条痕については、岩手県の考古学者で地質学者の菊池強一が再検証の時に褐鉄鉱の研究を発表するまで、詳しいことを知らない考古学者がほとんどだった。だが黒土の付着と、ガジリについては、旧石器の考古学者ならばだれでも知っている。
小林達雄が述べるように、岡村道雄や鎌田俊昭が石器に見られるガジリに気がつかなかったことはありえない。しかもガジリが一つの石器の裏と表に見られるものが五点もあるのだ。一つだったら発掘の時に傷つける可能性がある。だが二つもついていることは考えられない。
調査研究特別委員会副委員長の春成秀爾(国立歴史民俗博物館教授)は次のように述べている。
「座散乱木や馬場壇の報告書で石器の実測図は綺麗に描いてある・・・石器の刃部の角度を測って細かな分析をしているけれども、ガジリと古い剥離面とを区別せず、ガジリの角度も測っている・・・ガジリだらけの石器を分析対象に選んでいたこと、表面が薄汚れた石器の使用痕を高精度の光学顕微鏡を使って調べ、木を削った石器、皮なめしに使った石器などと結果を出していることも驚きであった」
高精度の光学顕微鏡を使用して石器の使用痕を調べたのは梶原洋だ。その時に黒土の付着に気がつかなかったのだろうか?
『神の手』に罪は無かった(3)
ふわっとした土の謎
藤村新一がねつ造した石器は、ふわっとした土の中から出ていることが広く知れ渡ったのは二〇〇〇年の夏だった。月刊誌『現代』一一月号のインタビューで、藤村が次のように答えたのだ。
「石器の周囲にある礫(小石)は、たいてい腐っていたりするんですけど石器は腐らない。生きているんです。土もほとんど石器に付着していないから、掘り出すときは“ふわっ”と軽くとれる」
これを読んだ考古学者たちの多くが、藤村のねつ造に気がついている。「これはおかしいとすぐに気づきました。後期旧石器の石器を掘ったことがあればすぐにわかりますが、一万年とか二万年の歴史がパックされているのです。竹べらで掘ると竹が曲がりますし、腕が腱鞘炎になるくらい掘り出すのが大変なのです」(佐々木藤雄)
人類学者の馬場俊男も土が「柔らかい」という言葉で、ねつ造を確信したと言う。
国立歴史民俗博物館の故・佐原真館長は次のように言っている。
「移植ごてで土を削れば、今まで動いていない土を自分が動かしているのか、一度動かした土を掘っているのか、たいていの場合は分かるんですけどね」
だが、「ふわっとした土からでる」ことは、岡村道雄、鎌田俊昭、柳田俊雄、梶原洋、横山裕平などの旧石器の専門家が指導していた石器文化談話会では、まえからの常識であった。この時期のことを詳しく取材した『最古の日本人を求めて』(河合信和著)には、この話が二回も出てくる。
「彼は、この二、三年の間、移植ゴテを使っているうちに、土の手触りで、石器が出そうだ、と分かるようになった、という。掘っているうちに、コテの先の火山灰が、ふわっと軟らかくなるのだそうだ」
「“藤村君が大名人なら。私らは名人。・・・石器の乗っている土は、周りが硬いのに、そこだけふわっとするのです。コテでこう削っていても、あ、あるな、と分かりますものね”このような名人は、今や四、五人にもなっているのだという」
このエピソードは少なくとも一九八五年夏よりも前になることは確かだ。この本の執筆は一九八五年の晩秋には終わっていたからだ。
このことから分かることは幾つかある。一五〇名も居たという石器文化談話会のメンバーの多くは、地元のアマチュア考古学愛好家だった。かれらは地上に落ちている石器や土器を拾い、開発工事現場から出て来た石器や土器を採集していたが、学術発掘は初めてのことであり経験不足だった。
また、馬場壇A遺跡で石器を自ら掘り出したという角張淳一(株式会社「アルカ」代表取締役)や長崎潤一(札幌国際大学教授)は、当時、まだ大学生であり、経験が不足していたのだろう。
だが不思議なのは発掘を指導していた岡村道雄、鎌田俊昭、梶原洋などの旧石器の専門家たちの反応だ。彼らは、ふわっと出ることを不審に思ったはずなのだ。鎌田などは南関東の後期旧石器の遺跡での発掘経験もある。一方、岡村は金取遺跡で本物の旧石器の出土を確認しているのだ。
金取遺跡の石器の出方
座散乱木遺跡の調査が進んでいるころ、岩手県の金取遺跡で、発掘指導していた考古学者・菊池強一は、八万年前の地層に石器を見つけ、すぐに小林達雄教授と旧石器学界の長老・芹沢長介に連絡をとり、現地指導を頼んだ。
秋田の研究者たちを引き連れた小林達雄は、すぐにやってきた。
「これは古い地層だね。やー古いな。すべて残っている。チップ(小片)も自然の石も全部のこっている。いやー、締まってるなー(石器が土からはがれない)」と大喜びした。そしてその日の夜に岡村道雄に電話を入れた。「いやーこれはすごいよ。岡村君も見に来なさい」
岡村道雄はすぐに金取遺跡にやってきて「本当ですか?」と菊池に聞いた。そして崖のところから頭を出している状態の石器を見つけて動かそうとして「動かないなー」と言った。翌朝も岡村は土に埋まっている石器を動かそうとして「動かないなー」と言った。
このとき、菊池は・・・岡村さんは旧石器遺跡の、ぴしっと入っている石器を掘り出したことが無いのかな・・・と思ったと言う。だがもう一つの可能性がある。それは、それまでの岡村の発掘経験と異なっていたことだ。
記録を見ると一九八〇年四月に岡村道雄は「神の手」藤村が座散乱木の農道断面に埋め込んだ石器を取り出して感激している。
このとき岡村が掘り出した石器は藤村のねつ造だった。そうなると、ふわっとした土の中からとりだせたはずだ。だが金取遺跡の石器は、崖からとり出せないほどびっしりと土に堆積されていた。つまり座散乱木遺跡の経験と、金取遺跡の経験があまりにも違うので、岡村道雄は戸惑ったのではないだろうか?
裏切られた信頼
岡村たちの発掘現場で、石器が出るとすぐ取り上げて洗ってしまったこと、石器にガジリが見られたこと、黒土が付着していたこと、ふわっとした土から石器がでてくること・・・などは、発掘当事者以外には知りえないことだ。したがって検証調査の結果、初めて一般の考古学者は、その事実を知ったことになる。
考古学の発掘には決められたマナーがある。
そもそも遺跡の発掘は破壊行為であり、密室の作業であり、現場で発掘した人にしかわからない事柄も非常に多い。そこで部外者は、まず岡村道雄、鎌田俊昭、梶原洋、柳田俊雄などの調査が信頼できるという前提で遺跡や石器を評価する。それが考古学界におけるマナーなのだ。遺跡の発掘が終わって報告書が出るまでは、部外者が彼らの研究を批判することも、口を挟むことも許されない。『前期・中期旧石器問題の検証』報告書ではつぎのように述べている。
「研究のプライオリティーを有する発掘担当者が、調査研究している最中に、部外者から“おかしいと思うから調べたい”と申し出があったとすれば、拒否するのが普通であろう・・・常識から外れるように見えても、確たる証拠を握っていない限り、発掘担当者が公表した所見を尊重しつつ論じるのが普通である」
一方、国学院の小林達雄教授は言う。
「考古学というものは遺跡と対話して発掘した第一次関係者の整理検討が終わらないと、外部のものは自由に触ったりできません。当事者たちは真摯な資料批判をしなければなりません。私たちは真摯な資料批判がされていると思う他ないのです」
ネブラスカ・リンカーン大学人類学教授のピータ・ブリードは次のようにいう。「前・中期旧石器の発掘は、有能で責任ある研究者によって監督されていた(註:鎌田や岡村、梶原、柳田などのこと)。私には彼らのすべてが騙されうるとは信じられないし、注意を怠っていたとしても彼らの業績のすべてがチャラになるとも思えない」
そう、このように、発掘当事者への信頼は厚いのだ。つまり「神の手」藤村新一のそばには、岡村道雄や鎌田俊昭、梶原洋や柳田俊雄などのそうそうたる旧石器の専門家が保証人として控えていたことが、遺跡ねつ造を成功させる重大な鍵になっている。
彼らが真摯な資料批判をしなければ、他にできる人はいない。かれらが常識から逸脱した調査をすることは重大な「不正行為」であり、それにくらべれば考古学の研究者ではなかった「神の手」の罪は、むしろ軽いのだ。なぜなら考古学では「ねつ造」や「偽物」の存在は日常茶飯事であり、それを見抜くのが専門家の仕事だからだ。
藤村新一がねつ造した石器は、ふわっとした土の中から出ていることが広く知れ渡ったのは二〇〇〇年の夏だった。月刊誌『現代』一一月号のインタビューで、藤村が次のように答えたのだ。
「石器の周囲にある礫(小石)は、たいてい腐っていたりするんですけど石器は腐らない。生きているんです。土もほとんど石器に付着していないから、掘り出すときは“ふわっ”と軽くとれる」
これを読んだ考古学者たちの多くが、藤村のねつ造に気がついている。「これはおかしいとすぐに気づきました。後期旧石器の石器を掘ったことがあればすぐにわかりますが、一万年とか二万年の歴史がパックされているのです。竹べらで掘ると竹が曲がりますし、腕が腱鞘炎になるくらい掘り出すのが大変なのです」(佐々木藤雄)
人類学者の馬場俊男も土が「柔らかい」という言葉で、ねつ造を確信したと言う。
国立歴史民俗博物館の故・佐原真館長は次のように言っている。
「移植ごてで土を削れば、今まで動いていない土を自分が動かしているのか、一度動かした土を掘っているのか、たいていの場合は分かるんですけどね」
だが、「ふわっとした土からでる」ことは、岡村道雄、鎌田俊昭、柳田俊雄、梶原洋、横山裕平などの旧石器の専門家が指導していた石器文化談話会では、まえからの常識であった。この時期のことを詳しく取材した『最古の日本人を求めて』(河合信和著)には、この話が二回も出てくる。
「彼は、この二、三年の間、移植ゴテを使っているうちに、土の手触りで、石器が出そうだ、と分かるようになった、という。掘っているうちに、コテの先の火山灰が、ふわっと軟らかくなるのだそうだ」
「“藤村君が大名人なら。私らは名人。・・・石器の乗っている土は、周りが硬いのに、そこだけふわっとするのです。コテでこう削っていても、あ、あるな、と分かりますものね”このような名人は、今や四、五人にもなっているのだという」
このエピソードは少なくとも一九八五年夏よりも前になることは確かだ。この本の執筆は一九八五年の晩秋には終わっていたからだ。
このことから分かることは幾つかある。一五〇名も居たという石器文化談話会のメンバーの多くは、地元のアマチュア考古学愛好家だった。かれらは地上に落ちている石器や土器を拾い、開発工事現場から出て来た石器や土器を採集していたが、学術発掘は初めてのことであり経験不足だった。
また、馬場壇A遺跡で石器を自ら掘り出したという角張淳一(株式会社「アルカ」代表取締役)や長崎潤一(札幌国際大学教授)は、当時、まだ大学生であり、経験が不足していたのだろう。
だが不思議なのは発掘を指導していた岡村道雄、鎌田俊昭、梶原洋などの旧石器の専門家たちの反応だ。彼らは、ふわっと出ることを不審に思ったはずなのだ。鎌田などは南関東の後期旧石器の遺跡での発掘経験もある。一方、岡村は金取遺跡で本物の旧石器の出土を確認しているのだ。
金取遺跡の石器の出方
座散乱木遺跡の調査が進んでいるころ、岩手県の金取遺跡で、発掘指導していた考古学者・菊池強一は、八万年前の地層に石器を見つけ、すぐに小林達雄教授と旧石器学界の長老・芹沢長介に連絡をとり、現地指導を頼んだ。
秋田の研究者たちを引き連れた小林達雄は、すぐにやってきた。
「これは古い地層だね。やー古いな。すべて残っている。チップ(小片)も自然の石も全部のこっている。いやー、締まってるなー(石器が土からはがれない)」と大喜びした。そしてその日の夜に岡村道雄に電話を入れた。「いやーこれはすごいよ。岡村君も見に来なさい」
岡村道雄はすぐに金取遺跡にやってきて「本当ですか?」と菊池に聞いた。そして崖のところから頭を出している状態の石器を見つけて動かそうとして「動かないなー」と言った。翌朝も岡村は土に埋まっている石器を動かそうとして「動かないなー」と言った。
このとき、菊池は・・・岡村さんは旧石器遺跡の、ぴしっと入っている石器を掘り出したことが無いのかな・・・と思ったと言う。だがもう一つの可能性がある。それは、それまでの岡村の発掘経験と異なっていたことだ。
記録を見ると一九八〇年四月に岡村道雄は「神の手」藤村が座散乱木の農道断面に埋め込んだ石器を取り出して感激している。
このとき岡村が掘り出した石器は藤村のねつ造だった。そうなると、ふわっとした土の中からとりだせたはずだ。だが金取遺跡の石器は、崖からとり出せないほどびっしりと土に堆積されていた。つまり座散乱木遺跡の経験と、金取遺跡の経験があまりにも違うので、岡村道雄は戸惑ったのではないだろうか?
裏切られた信頼
岡村たちの発掘現場で、石器が出るとすぐ取り上げて洗ってしまったこと、石器にガジリが見られたこと、黒土が付着していたこと、ふわっとした土から石器がでてくること・・・などは、発掘当事者以外には知りえないことだ。したがって検証調査の結果、初めて一般の考古学者は、その事実を知ったことになる。
考古学の発掘には決められたマナーがある。
そもそも遺跡の発掘は破壊行為であり、密室の作業であり、現場で発掘した人にしかわからない事柄も非常に多い。そこで部外者は、まず岡村道雄、鎌田俊昭、梶原洋、柳田俊雄などの調査が信頼できるという前提で遺跡や石器を評価する。それが考古学界におけるマナーなのだ。遺跡の発掘が終わって報告書が出るまでは、部外者が彼らの研究を批判することも、口を挟むことも許されない。『前期・中期旧石器問題の検証』報告書ではつぎのように述べている。
「研究のプライオリティーを有する発掘担当者が、調査研究している最中に、部外者から“おかしいと思うから調べたい”と申し出があったとすれば、拒否するのが普通であろう・・・常識から外れるように見えても、確たる証拠を握っていない限り、発掘担当者が公表した所見を尊重しつつ論じるのが普通である」
一方、国学院の小林達雄教授は言う。
「考古学というものは遺跡と対話して発掘した第一次関係者の整理検討が終わらないと、外部のものは自由に触ったりできません。当事者たちは真摯な資料批判をしなければなりません。私たちは真摯な資料批判がされていると思う他ないのです」
ネブラスカ・リンカーン大学人類学教授のピータ・ブリードは次のようにいう。「前・中期旧石器の発掘は、有能で責任ある研究者によって監督されていた(註:鎌田や岡村、梶原、柳田などのこと)。私には彼らのすべてが騙されうるとは信じられないし、注意を怠っていたとしても彼らの業績のすべてがチャラになるとも思えない」
そう、このように、発掘当事者への信頼は厚いのだ。つまり「神の手」藤村新一のそばには、岡村道雄や鎌田俊昭、梶原洋や柳田俊雄などのそうそうたる旧石器の専門家が保証人として控えていたことが、遺跡ねつ造を成功させる重大な鍵になっている。
彼らが真摯な資料批判をしなければ、他にできる人はいない。かれらが常識から逸脱した調査をすることは重大な「不正行為」であり、それにくらべれば考古学の研究者ではなかった「神の手」の罪は、むしろ軽いのだ。なぜなら考古学では「ねつ造」や「偽物」の存在は日常茶飯事であり、それを見抜くのが専門家の仕事だからだ。
『神の手』に罪は無かった(4)
沢充則は水戸黄門か?
このような「不正行為」が判明したにもかかわらず、考古学会は神の手・藤村新一だけを悪者にして、あとはお咎めなしで納めた。検証報告書を見ると、手厳しい批判はしているのに、なぜ学者による「不正行為」があったことを明言しないのだろう。そこに考古学界の悪しき体質がでているのではないだろうか。
このように話を運んだ多くの責任が、調査研究特別委員会の初代委員長であった戸沢充則にある。だからこそ、今になって戸沢充則はやり玉に上がっているのだ。
では戸沢充則がどんな間違いを犯しているのか、見てみよう。
多くの考古学者たちは、戸沢を初代委員長にしたのは失敗だと見ている。だが、これを口に出せる人は多くない。なぜなら徒弟制度がいまだに通用している狭い封建的な考古学界で、長老・戸沢充則の批判をするのはタブーだからだ。
人類学者で戸沢充則の影響力を恐れる必要がない馬場悠男は次のように語る。
「実は委員長は五〇歳ぐらいの教授がなるべきだと、みんなに言って、そそのかしたのですが、だれも乗ってきませんでした・・・戸沢さんには反発がありましたが、考古学の教授たちは、だれも真っ向から反対しません・・・戸沢さんに委員会をぎゅーじらしたのは失敗でしたね。戸沢さんはねつ造事件の当事者の一人でもあったわけですから」
同じく戸沢の影響力を恐れる必要のない縄文学者の佐々木藤雄は言う。
「明治大学を代表していた戸沢さんは、故・杉原教授の慎重路線を変えた、ねつ造事件の当事者の一人です。彼が委員長になるのでは、火をつけた本人が“誰が犯人だ!”と言っているようなものです。ねつ造事件に関しては、東北大と明治大学の責任が大きいのですが、特に旧石器研究を背負ってきた安蒜さん、戸沢さんの責任は極めて大きいと思います」
独断専行を好む戸沢充則は、教え子の鎌田俊昭のルートを使って、神の手・藤村新一と秘かに面談をはじめた。
このような戸沢充則の独断専行には、民主主義的性向が感じられない。藤村新一との面談は、当然、特別委員会で検討されるべきものだろう。特別委員会に「事情聴取部会」をつくれば、藤村新一からもっと綿密な情報が得られた可能性もある。
独断専行した戸沢充則は、藤村が自白をはじめたので狼狽することになる。
第三回の面談の後、藤村の主治医から「藤村メモ」が送られてきて、二〇数ヶ所のねつ造遺跡が告白されたのだ。
この告白メモの内容が事実かどうかは、当時、不明だった。まだ調査委員会が遺跡を検証中であり、ねつ造は大きく拡大しないと考えていた研究者も多かったのだ。
二〇〇一年九月三日に北海道の総進不動坂遺跡の再発掘検証調査が終わった。記者発表の前に、調査検討委員会のメンバーが集まり、再発掘の結果をふまえ、遺跡を評価する非公式の会議を開いた。
会議では遺跡の評価をめぐり、意見が二つに分かれていた。大勢を占めていたのは「現時点で遺跡自体の信ぴょう性に踏み込むのは時期尚早」という意見で、記者会見では「灰色」裁定に落ち着きそうだった。
その時、オブザーバーとして出席していた戸沢委員長が発言した。「ここにリストがある。彼(藤村)が告白した過去二年間のねつ造二〇数件が載っている」と言って、クリアファイルに入ったペーパーを頭上に掲げたのだ。調査検討委員会のメンバーは、藤村氏がねつ造を認めていることがわかり、声も出なかった。この「リスト」の存在が、記者会見の内容を「限りなくクロに近い」と踏み込ませることになった。
これが戸沢委員長の「告白リスト」の使い方だったとすると、まるで水戸黄門の印籠だ。
戸沢黄門の印籠が見せられなければ、総進不動坂遺跡の再発掘検証調査は「灰色」裁定で終わっていたのだろうか。戸沢黄門の印籠を見せるのは、学問的な方法なのだろうか。それとも旧石器考古学というのは、印籠を見せないと合意が得られないほど、非科学的・非論理的な学問なのだろうか。
埼玉県の田中英司(埼玉県立博物館)はいう。
「本来の学問的な検証作業による評価こそがねつ造資料に対する唯一の解決方法であるのに、その作業に先んじて当人への事情聴取を行っています。その結果、神の手を神の声にしかねない危うい事態を招いています。・・・厳しく検証による評価を示して、この学問の再生を図らなければいけなかったのです」
だが戸沢委員長が目指したのは「検証による評価を示す」ことではなく、「神の手を神の声にしかねない」、極めて非学問的な方法だった。
このような「不正行為」が判明したにもかかわらず、考古学会は神の手・藤村新一だけを悪者にして、あとはお咎めなしで納めた。検証報告書を見ると、手厳しい批判はしているのに、なぜ学者による「不正行為」があったことを明言しないのだろう。そこに考古学界の悪しき体質がでているのではないだろうか。
このように話を運んだ多くの責任が、調査研究特別委員会の初代委員長であった戸沢充則にある。だからこそ、今になって戸沢充則はやり玉に上がっているのだ。
では戸沢充則がどんな間違いを犯しているのか、見てみよう。
多くの考古学者たちは、戸沢を初代委員長にしたのは失敗だと見ている。だが、これを口に出せる人は多くない。なぜなら徒弟制度がいまだに通用している狭い封建的な考古学界で、長老・戸沢充則の批判をするのはタブーだからだ。
人類学者で戸沢充則の影響力を恐れる必要がない馬場悠男は次のように語る。
「実は委員長は五〇歳ぐらいの教授がなるべきだと、みんなに言って、そそのかしたのですが、だれも乗ってきませんでした・・・戸沢さんには反発がありましたが、考古学の教授たちは、だれも真っ向から反対しません・・・戸沢さんに委員会をぎゅーじらしたのは失敗でしたね。戸沢さんはねつ造事件の当事者の一人でもあったわけですから」
同じく戸沢の影響力を恐れる必要のない縄文学者の佐々木藤雄は言う。
「明治大学を代表していた戸沢さんは、故・杉原教授の慎重路線を変えた、ねつ造事件の当事者の一人です。彼が委員長になるのでは、火をつけた本人が“誰が犯人だ!”と言っているようなものです。ねつ造事件に関しては、東北大と明治大学の責任が大きいのですが、特に旧石器研究を背負ってきた安蒜さん、戸沢さんの責任は極めて大きいと思います」
独断専行を好む戸沢充則は、教え子の鎌田俊昭のルートを使って、神の手・藤村新一と秘かに面談をはじめた。
このような戸沢充則の独断専行には、民主主義的性向が感じられない。藤村新一との面談は、当然、特別委員会で検討されるべきものだろう。特別委員会に「事情聴取部会」をつくれば、藤村新一からもっと綿密な情報が得られた可能性もある。
独断専行した戸沢充則は、藤村が自白をはじめたので狼狽することになる。
第三回の面談の後、藤村の主治医から「藤村メモ」が送られてきて、二〇数ヶ所のねつ造遺跡が告白されたのだ。
この告白メモの内容が事実かどうかは、当時、不明だった。まだ調査委員会が遺跡を検証中であり、ねつ造は大きく拡大しないと考えていた研究者も多かったのだ。
二〇〇一年九月三日に北海道の総進不動坂遺跡の再発掘検証調査が終わった。記者発表の前に、調査検討委員会のメンバーが集まり、再発掘の結果をふまえ、遺跡を評価する非公式の会議を開いた。
会議では遺跡の評価をめぐり、意見が二つに分かれていた。大勢を占めていたのは「現時点で遺跡自体の信ぴょう性に踏み込むのは時期尚早」という意見で、記者会見では「灰色」裁定に落ち着きそうだった。
その時、オブザーバーとして出席していた戸沢委員長が発言した。「ここにリストがある。彼(藤村)が告白した過去二年間のねつ造二〇数件が載っている」と言って、クリアファイルに入ったペーパーを頭上に掲げたのだ。調査検討委員会のメンバーは、藤村氏がねつ造を認めていることがわかり、声も出なかった。この「リスト」の存在が、記者会見の内容を「限りなくクロに近い」と踏み込ませることになった。
これが戸沢委員長の「告白リスト」の使い方だったとすると、まるで水戸黄門の印籠だ。
戸沢黄門の印籠が見せられなければ、総進不動坂遺跡の再発掘検証調査は「灰色」裁定で終わっていたのだろうか。戸沢黄門の印籠を見せるのは、学問的な方法なのだろうか。それとも旧石器考古学というのは、印籠を見せないと合意が得られないほど、非科学的・非論理的な学問なのだろうか。
埼玉県の田中英司(埼玉県立博物館)はいう。
「本来の学問的な検証作業による評価こそがねつ造資料に対する唯一の解決方法であるのに、その作業に先んじて当人への事情聴取を行っています。その結果、神の手を神の声にしかねない危うい事態を招いています。・・・厳しく検証による評価を示して、この学問の再生を図らなければいけなかったのです」
だが戸沢委員長が目指したのは「検証による評価を示す」ことではなく、「神の手を神の声にしかねない」、極めて非学問的な方法だった。
『神の手』に罪は無かった(5)
戸沢に見る考古学界の悪しき体質
独断専行を好む戸沢充則は、もう一つ大きな間違いを冒している。それは藤村新一が渡した「告白メモ」を黒塗り文書に改竄(かいざん)し、その全容をいまだに公開していないことだ。
戸沢は藤村との四回目の面談で一〇項目にわたる質問状を渡し、藤村は戸沢との五回目の面談の時に、署名された「告白メモ」を手渡し、そのすべてに回答をしている。ところが戸沢はこのメモの存在を隠蔽したまま、その年の日本考古学会の大会で、面談の報告を行っている。
だが隠蔽(いんぺい)されていた「告白メモ」を、宮城県教育委員会が公表した。ここで注意すべきことがある。戸沢が宮城県教育委員会に渡した「黒塗り告白メモ」には一〇項目の質問のうち一、三、四を除く七項目の回答しか記されていないのだ。したがって一、三、四の質問内容も、回答内容も、まだ一つも明らかにされていないことになる。
さらに「黒塗り告白メモ」を読むと「(私●●●)とで行いました」「全部私●●(約一〇字伏せ字)とでねつ造してしまった」などの表現があちこちに出てくる。今でも、この伏せ字ついて疑問を持つ研究者は多い。
「共犯者の名前が書いてあったら、この文書を出すわけがないでしょうね。でも今になっても隠しているとなると、何かまずいことが書いてあったのではないかな、と思います。それにしても戸沢さんが個人で所有しているのはおかしな話です。二〇〇二年の考古学会では公表すると約束しているのですよ。(早傘「捏造問題連絡船」)
「戸沢さんがすべきことは、伏せ字だらけの文書をまず公表することでしょう。戸沢さんのやっていることは文書の検閲であり、歴史のねつ造です。埋蔵文化財は国民の共通財産ですが、伏せ字にされた文書も負の共有財産です。それを戸沢さんが個人で破棄するというなら、それは自らがねつ造の共犯者であったことを認めるものです」(佐々木藤雄)
このメモの内容が明らかにされても、重要なことが書かれていない公算も大だ。だが、「告白メモ」の一件は、公共の財産を個人のものにして隠蔽する戸沢の悪しき体質を明らかにしている。
東北大学名誉教授の芹沢長介によると、戸沢充則には、ねつ造事件を検証する資格などないという。なぜなら学生時代に石器をねつ造しているからだという。
「戸沢も怪しい男ですよ。僕が明治にいたとき、彼は学生でした。茂呂という遺跡を発掘したのですが、掘っていたときにある学生が黒曜石に移植ゴテをぶつけてガチャンと割ってしまいました。黒曜石を割ると石器によく似ているのですよ。僕たちはそれを見ていました。ところが杉原教授がそのことを知らなくて、報告書に石器として載せようとしたのです。杉原さんはどうしても実測図を書けといいます。私や松沢君が断ったら、戸沢にその話が行きました。戸沢はその小片が石器ではないと知っていたのに、図を書いたんですよ。かれは学生の時から石器をねつ造しているのですよ。今、大きなことをいえる立場ではありません。彼は上のものから無理言われると、平気でねつ造をするんですよ。人にとりいって、悪いことまでして、ねつ造までやって上にあがっていく人がいるんですね」
徒弟制度で上下関係が厳しい考古学の世界では、権威者に対するこのようなゴマスリもやむを得ない、と佐藤宏之(東京大学助教授)はいう。
「そんな例はいくらでもありますよ。先生がこう解釈した・・・といったら、生前にたてつくのは難しいのです。いうことを聞かない人は飛ばされます。見解の相違を押し殺して、先生のいう通りにするというのは普通ですね」
だが若いときの戸沢充則の行為は現代のグローバル・スタンダードで見ると、明らかに「学者による不正行為」にあたる。学者はもっと、良心的であるべきなのだ。
「神の手」の周りにいた専門家が、考古学界の常識から逸脱した調査をしていたことも、明らかに「学者による不正行為」だ。
これらの不正行為は、今、話題になっている東大の研究者の論文ねつ造や、ES細胞問題でデータねつ造をした韓国の黄禹錫教授、あるいは世界を揺るがしたベル研究所のヘンドリック・シェーンのデータ改竄と同じように「学者による不正行為」なのだ。
その事実を知りながら、トカゲのシッポを切って本体を温存した考古学会の長老たちは、なぜ「学者の不正行為」に目をつぶってしまったのだろうか。
戸沢充則のように、自分も行っていたからだろうか。あるいは佐藤宏之が言うように、それが当たり前の学界だからだろうか。あるいは鎌田俊昭が結婚したときの仲人が、戸沢充則だったためだろうか?
いまだに日本の旧石器考古学界は元気がなく低迷している。その一番の原因は、身内をかばい、臭いものには蓋をする悪しき体質を持つ、長老たちの存在なのではないだろうか。「不正行為」をただす勇気を持たない、旧態依然たる長老たちが失脚しなければ、旧石器考古学界には陽が昇らないのではないだろうか。日本の考古学会はあまりにも自浄能力が不足ではないだろうか。
独断専行を好む戸沢充則は、もう一つ大きな間違いを冒している。それは藤村新一が渡した「告白メモ」を黒塗り文書に改竄(かいざん)し、その全容をいまだに公開していないことだ。
戸沢は藤村との四回目の面談で一〇項目にわたる質問状を渡し、藤村は戸沢との五回目の面談の時に、署名された「告白メモ」を手渡し、そのすべてに回答をしている。ところが戸沢はこのメモの存在を隠蔽したまま、その年の日本考古学会の大会で、面談の報告を行っている。
だが隠蔽(いんぺい)されていた「告白メモ」を、宮城県教育委員会が公表した。ここで注意すべきことがある。戸沢が宮城県教育委員会に渡した「黒塗り告白メモ」には一〇項目の質問のうち一、三、四を除く七項目の回答しか記されていないのだ。したがって一、三、四の質問内容も、回答内容も、まだ一つも明らかにされていないことになる。
さらに「黒塗り告白メモ」を読むと「(私●●●)とで行いました」「全部私●●(約一〇字伏せ字)とでねつ造してしまった」などの表現があちこちに出てくる。今でも、この伏せ字ついて疑問を持つ研究者は多い。
「共犯者の名前が書いてあったら、この文書を出すわけがないでしょうね。でも今になっても隠しているとなると、何かまずいことが書いてあったのではないかな、と思います。それにしても戸沢さんが個人で所有しているのはおかしな話です。二〇〇二年の考古学会では公表すると約束しているのですよ。(早傘「捏造問題連絡船」)
「戸沢さんがすべきことは、伏せ字だらけの文書をまず公表することでしょう。戸沢さんのやっていることは文書の検閲であり、歴史のねつ造です。埋蔵文化財は国民の共通財産ですが、伏せ字にされた文書も負の共有財産です。それを戸沢さんが個人で破棄するというなら、それは自らがねつ造の共犯者であったことを認めるものです」(佐々木藤雄)
このメモの内容が明らかにされても、重要なことが書かれていない公算も大だ。だが、「告白メモ」の一件は、公共の財産を個人のものにして隠蔽する戸沢の悪しき体質を明らかにしている。
東北大学名誉教授の芹沢長介によると、戸沢充則には、ねつ造事件を検証する資格などないという。なぜなら学生時代に石器をねつ造しているからだという。
「戸沢も怪しい男ですよ。僕が明治にいたとき、彼は学生でした。茂呂という遺跡を発掘したのですが、掘っていたときにある学生が黒曜石に移植ゴテをぶつけてガチャンと割ってしまいました。黒曜石を割ると石器によく似ているのですよ。僕たちはそれを見ていました。ところが杉原教授がそのことを知らなくて、報告書に石器として載せようとしたのです。杉原さんはどうしても実測図を書けといいます。私や松沢君が断ったら、戸沢にその話が行きました。戸沢はその小片が石器ではないと知っていたのに、図を書いたんですよ。かれは学生の時から石器をねつ造しているのですよ。今、大きなことをいえる立場ではありません。彼は上のものから無理言われると、平気でねつ造をするんですよ。人にとりいって、悪いことまでして、ねつ造までやって上にあがっていく人がいるんですね」
徒弟制度で上下関係が厳しい考古学の世界では、権威者に対するこのようなゴマスリもやむを得ない、と佐藤宏之(東京大学助教授)はいう。
「そんな例はいくらでもありますよ。先生がこう解釈した・・・といったら、生前にたてつくのは難しいのです。いうことを聞かない人は飛ばされます。見解の相違を押し殺して、先生のいう通りにするというのは普通ですね」
だが若いときの戸沢充則の行為は現代のグローバル・スタンダードで見ると、明らかに「学者による不正行為」にあたる。学者はもっと、良心的であるべきなのだ。
「神の手」の周りにいた専門家が、考古学界の常識から逸脱した調査をしていたことも、明らかに「学者による不正行為」だ。
これらの不正行為は、今、話題になっている東大の研究者の論文ねつ造や、ES細胞問題でデータねつ造をした韓国の黄禹錫教授、あるいは世界を揺るがしたベル研究所のヘンドリック・シェーンのデータ改竄と同じように「学者による不正行為」なのだ。
その事実を知りながら、トカゲのシッポを切って本体を温存した考古学会の長老たちは、なぜ「学者の不正行為」に目をつぶってしまったのだろうか。
戸沢充則のように、自分も行っていたからだろうか。あるいは佐藤宏之が言うように、それが当たり前の学界だからだろうか。あるいは鎌田俊昭が結婚したときの仲人が、戸沢充則だったためだろうか?
いまだに日本の旧石器考古学界は元気がなく低迷している。その一番の原因は、身内をかばい、臭いものには蓋をする悪しき体質を持つ、長老たちの存在なのではないだろうか。「不正行為」をただす勇気を持たない、旧態依然たる長老たちが失脚しなければ、旧石器考古学界には陽が昇らないのではないだろうか。日本の考古学会はあまりにも自浄能力が不足ではないだろうか。