げんさんの住処
九月も半ばだというのに、大阪の夏は何とも言えずムシムシしている。とりわけJRの鶴橋駅付近、焼き肉屋が多いせいか、大阪のなかでもことさら暑さが厳しい気がする。
浜崎元は夕方の混み合った環状線からホームに降り立った。だぶだぶの綿ズボンにランニングシャツ、肩にはくたびれたワイシャツを羽織っている。まいどの夏の姿である。七十二歳にもなって、お洒落なんぞしても仕方がないと思っている。
「どないなっとんねん今年の夏は。地球温暖化が大阪に集中しとるんちゃうか」
浜崎はひとり文句を吐きながら、ホームのベンチに腰を下ろした。ズボンのポケットからクシャクシャになったタバコを取り出し、マッチで火をつけた。
「まいど、ゲンさん。今日はどないでしたか」
顔見知りの駅員が声をかけてきた。本名は(はじめ) というのだが、街のひとはみんな(ゲンさん)と呼んで いる。生まれてこのかたずっとこの地で暮らしてきたの だから、みな顔見知りみたいなものだ。
日曜になると、ゲンさんはたいてい競馬場へと出掛け ていく。長年染みついた若い頃からの習慣なのである。 今日はどないでしたかというのは、言うまでもなく競馬 の戦績のことだ。
「どないもこないもあるかい。取ったんは最初の二レ ースだけや。二千五百円もいかれてしもたわ」
ゲンさんは腹立たしそうにタバコを足元に投げつけた 「かなわんな。ホームを汚さんとってや。第一ここは 禁煙やって、いつも言うてますやろ」
「やかましわい。だいたい喫煙所がなんでホームの一 番端っこやねん。あんなところまで年寄りを歩かせよう ちゅうんか。ここは大阪じゃ、日本の法律なんか通用せ えへんのや」
「わかった、わかった。ほな、気いつけて帰りや」
駅員はニコニコ笑いながら、ゲンさんが捨てたタバコ を拾って去っていった。憎まれ口をきいても、みんなゲ ンさんのことを慕っている。その心根の優しさを知って いるからだ。
改札を抜けると、ゲンさんはガード下の路地をのんび りと歩いた。国道沿いの道のほうが早く家に着くが、昔 ながらのガード下が好きだった。串カツ屋「鉄ちゃん」 の看板に明かりが灯っている。店の中に椅子はなく、客 は立ったままで串カツをほおばり、コップ酒をあおる。 大阪にはこの手の立ちのみ屋が多い。いかにもせっかち な大阪人の気質を現している。
「鉄ちゃん」の牛串カツは絶品だ。それを一本と肝カ ツを一本、野菜の串を二本にコップ酒を二杯。いつもの ゲンさんのコースは決まっている。勘定は千円でお釣り がくる。暖簾をくぐろうとして、ゲンさんはふと立ち止 まった。
「あかん。やっぱり今日はやめとこ。二千五百円もい かれてしもたからな。こんどこそ万馬券当てて、死ぬほ ど牛カツ食うたるからな」
ゲンさんは月に十二万ほどの年金で暮らしている。ア パートの家賃は二万円。残りの十万が生活費だ。まあま あ一人で生活するにはできるが、贅沢はできない。
細い路地をクネクネ歩くと、小さな工場が立ち並ぶ一 角がある。ゲンさんも十年前までは、小さなネジ工場を 経営していた。町は活気に溢れて、たくさんの人間が働 いていた。なかでもゲンさんのネジには定評があり、大 手の建築会社や自動車メーカーがこぞって注文にやって きた。一時は七人もの人間を雇っていたこともある。
その自慢の工場も、十年前に倒産した。いくら技術が 高くても、単価の安い中国製品には負けてしまう。一代 で築いた工場や土地も、きれいさっぱり借金のかたに取 られてしまった。ゲンさんの工場の跡地は、時間貸しの 駐車場に変わった。
「あほんだら」
駐車場の前を通るたびに、ゲンさんは小さく呟く。誰 に恨み言を言うわけでもない。取引先の会社のせいでも、 中国のせいでもない。ただ自分の不甲斐なさに対して、 「あほんだら」と言ってしまうのだ。
八軒ほどの店が並ぶ小さな商店街。昔は三十軒もの店 で賑わっていたが、大手のスーパーに圧されて年々店の 数は減っていった。一軒の惣菜屋の前でゲンさんは立ち 止まった。
「おーい、オババ。おるかあ」
店の中に向かってゲンさんは叫んだ。
「はいはい、いらっしゃい」
今年で八十になるオババが、曲がった腰を手でおさえ ながら出てきた。オババの名前は「さくら」。小さいこ ろからの幼なじみだ。というよりも、ゲンさんの姐御と 言ったほうがいい。いつもなんやかんやで世話になって きた。かれこれ七十二年のつきあいとでも言おうか。
「ゲンさんかいな。あんたまた競馬に行っとったんか いな」
「そや。これしか楽しみ、ないさかいな」
「ええかげんにせんと、競馬場でデコの血管切れて死 ぬど」
「馬見ながら死ねたら本望や」
「あほ。ほんで、また負けたんかい」
「ほっといてくれ。ええから、コロッケ二個とメンチ 一枚包んでくれや」
「はいよ。いつもの晩飯やな」
オババは手際よくコロッケを包むと、もう一つの紙皿 にキャベツとポテトサラダを山盛りに入れた。
「野菜も食べなあかんで」
これもいつもの「おまけ」だ。ときには買った惣菜よ りも、おまけのほうが多い。
「いつも、すまんな」
ゲンさんは百円玉を二つ渡しながら言った。
「出世払いやで」
「この歳になって、どないして出世するねん」
「あほ。この世でちゃうわい。あの世で返せ言うとる ねん」
オババは皺くちゃの顔で豪快に笑った。さすがのゲン さんもオババの前では頭が上がらない。それでもゲンさ んは、そんなオババの顔を見るたびに、ずっとここで暮 らしていこうと思うのだ。
「まったく、口の減らんおばあやな」
ゲンさんは独りごちながら、すっかりと競馬の負けな ど忘れてしまった。
げんさんの住処2
「ハクツル荘」は、築三十年を越えようかというオンボロアパートだ。一階と二階にそれぞれ四部屋ずつある。ゲンさんの部屋は一階の一番端だ。三年前に妻の 花江が他界してから、このアパートに越してきた。六畳一間に四畳ほどの台所。トイレは付いているが風呂はない。貯蓄を切り崩せばもう少しマシなところにも 住めるが、本人はこれで充分だと思っている。
ガタがきているドアを開けると、玄関のたたきに封筒が一通落ちていた。差出人を見ると、浜崎卓也と書かれてある。ゲンさんの一人息子からだ。
「ふん! また、あいつからか。なんべん手紙寄越したって、ワシはおことわりや」
ゲンさんは、息子からの手紙をポイッとゴミ箱に放り投げた。
息子の卓也は地元の大学を卒業した後、大手のスーパーに就職した。今は家族三人で横浜に住んでいる。独り暮らしの父を気づかって、横浜で一緒に暮らそうと言ってきている。昨日も電話で激しい言い合いをしたばかりだった。
「だから、おやじ、もう歳やねんから、こっちへきたらええやんか」
「だれが、横浜なんぞに行くかい。ワシは大阪で死ぬんや」
「そんなこと言うてる場合ちゃうやろ。俺も支店長になったさかい、おやじ一人くらい養っていける。何も遠慮することないねんで」
「ほっといてくれ! おかあの墓もこっちにある。横浜なんぞに行ったら、誰が墓の世話すんねん。ワシはここを離れへんで」
ゲンさんの取りつく縞のない返事に、仕方なしに手紙を書いてきたのだろう。
ゲンさんとて、不安がないわけではない。最近は電車を乗り継いで競馬場に行くのさえ、少し億劫になりつつある。息子と一緒に暮らせば何の心配もいらない だろう。孫の公平の成長も楽しみだ。でもゲンさんはこの街を離れる気はない。それは、ここが終の住処だと自分で決めたからだ。
この街で生まれて、この街で育って、この街で女房と出会って共に働いてきた。息子を大学にまでやれたのもこの街のおかげだと信じている。だからゲンさんは、最期までこの街に包まれていたいと思っている。
「それにしても暑いのう。地球温暖化がこのアパートにだけ押し寄せとるんちゃうか」
ゲンさんはパンツ一枚になると、台所で顔を洗い、水を絞ったタオルで全身を拭った。節約のために風呂屋に行くのは、夏は二日に一度、冬は三日に一度と決めている。
窓を開け放し、ちゃぶ台を部屋の真ん中に置いた。冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、買ってきた惣菜と昨日余った冷やごはんを並べた。
部屋の隅にある小さな仏壇。ビールをもったまま線香に火をつけた。
「なあ、おかあ。ワシはずっとここにおるさかい、心配せんでもええで。おかあと同じようにこの街で死なんと、あの世でおかあに会われへんかもしれへんしなあ」
普段は口の悪いゲンさんも、仏壇の前ではしょんぼりとしてしまう。工場が潰れたときも、財産を無くしたときも、夫婦二人で乗り越えてきた。ゲンさんが落 ち込んでいるときにも、「おとうやん、命までは取られまへんて。そない心配せんでも、何とでもなりますって」と妻が励ましてくれた。その一言に幾度となく 救われてきたのだ。
「苦労かけっぱなしやったのう。あの世でまた一緒になったときは、思いっきり贅沢させたるからなあ。牛カツを腹一杯食わしたるさかいに、待っとれよ」
ゆっくりと夕飯を食べ、ゲンさんは床についた。開け放した窓から、やっと涼しい風が入ってきた。
げんさんの住処3
翌日の朝、というより夜もまだ明けきらぬ午前四時過ぎ、外の物音でゲンさんは目を覚ました。隣の部屋からドタンバタンという音が聞こえる。
「いったい何の騒ぎや」
隣の部屋は半年ほど前から空き部屋になっている。ゲンさんは窓の外に向かって怒鳴った。
「誰や! そこにおるんわ。泥棒やったら早よう帰れよ。こんなアパートに盗むもんなんて何にもないど」
仕方なく上半身を起こしかけたとき、窓の外から誰かが部屋の中を除いているのが目に入った。これにはゲンさんも腰を抜かしそうになった。
「何やお前は!」
慌てて部屋の明かりをつけ、もう一度窓のほうを見た。よく目をこらして見ると、そこには小学生らしき男の子が立っていた。
「何やぼうず。どこの子や」
「このアパートに引っ越してきたんや」
「引っ越しって、こんな夜中にか」
「そうや、引っ越しはいつも夜中や」
そう言うと、男の子は走ってどこかに消えた。どうやら隣の部屋に入っていったようだ。
「夜中に引っ越しって、そりゃあ引っ越しやのうて、夜逃げやないかい」
とにかく訳の分からぬまま、ゲンさんは再び布団の上にゴロンと横になった。まあ、朝になれば分かるだろう。
すっかり陽が高くなった八時過ぎに、ゲンさんは目を覚ました。普段なら七時前には起きるのだが、深夜の騒動で起きることができなかった。ご飯を炊き、目 玉焼きと味噌汁で簡単な朝食を済ませると、隣の様子が気になった。部屋のドアを開けて外に出ると、アパートの廊下で昨夜の男の子がしゃがんでいた。
「ぼうず、そんなとこで何しとんねん」
「別に何もしてへん」
「学校へは行かへんのか」
「知らん」
「知らんて、おかあはどこにおんねん」
「まだ、寝とる」
「朝飯は食うたんかい」
「まだや」
「子どもに朝飯を食わさんとは、どういうこっちゃ。しゃあないな、おっちゃんが食わしたるさかい、ちょっとこっちへ入れ」
ゲンさんは子どもを部屋に入れ、ご飯とお味噌汁をちゃぶ台に並べてやった。
「ちょっと待っとれ、目玉焼きもつくったるさかい」
男の子は何も言わず、ガツガツとご飯をかき込んだ。
「ぼうず、名前は」
「正太」
「いくつや」
「小学校三年」
「何人で暮らしとんねん」
「おかあと二人や、生まれてからずっと二人や」
「おとうはどないしてん」
「知らん」
まあ、夜中の四時に引っ越してくるくらいだ。何か事情があることくらいは想像がつく。このおんぼろアパートには、事情のない人間なんていないのだ。
「おかんは、働いとんのか」
「いつも夕方に出ていって、朝に帰ってくるんや」
水商売であることは間違いないだろう。まあそれはいいとしても、子どもを学校に行かさんというのはよくない。どうしたものかとゲンさんが考えているとき、隣の部屋から大きな声が聞こえた。
「正太。どこにおるねん。朝飯買うてきてや」
「いま、となりのおっちゃんの部屋や」
正太が隣の部屋に向かって叫んだ。壁が薄いので、これで充分に会話ができる。すぐにドアをノックする音が聞こえた。
「開いとるで」
ドアが開いて、三十前後の女が顔を出した。
「すんません。昨日引っ越してきた中谷と言います。子どもがお邪魔してるようで」
顔だちは悪くないのだが、いかにも水商売の匂いをさせた女だった。苦労人と遊び人の両方の顔が混ざり合ったような印象を受ける。いずれにしても、ろくな生きかたをしてこなかったのだろう。
「まあ、挨拶はあとでええ。あんたもこっちへ来て、飯でも食うたらええ。たんしたもんはないけどな」
「いやあ、そりゃあ助かります」
女はズケズケと上がり、ちゃぶ台の前に座った。
「中谷エリです。ちょっとした事情がありまして、あんな時間に引っ越したんですわ。お騒がせしました」
「まあ、事情は聞かへん。そやけどな、子どもはきちんと学校へ行かさんとあかんで」
「はあ、でも、住民票がまだないんです」
「住民票くらい市役所ですぐにもらえるやろ」
「そうなんやけど、ちょっと居場所を知られたくないから、取るわけには」
どうせ借金かなんかで、ヤクザにでも追われているのであろう。そんな連中は別に珍しくもない。借りたものを返さないのだから、エリがどうなろうが知った こっちゃない。しかし、子どもを大人の巻き添えにするのは許せなかった。ゲンさんは腕組みをし、何とかならないものかと考え込んだ。
「しゃあないな、ちょっと聞いてみたるわ」
「ほんまですか。おおきに。ほな、私は今晩から仕事 やさかい、もう少し寝かしてもらいますわ」
エリは自分の食器も片づけずに、サッサと部屋へと帰 っていってしまった。すると正太がすばやく食器をちゃ ぶ台から運び、台所で洗い始めた。ゲンさんは正太の後 ろ姿を見ながら「何とかしたらんとな」と呟いた。
げんさんの住処4
その日の午後、ゲンさんは正太を連れて近所の小学校を訪れた。そこには息子の卓也と同級生だった鈴木二郎が勤めている。学校はちょうど給食が終わり、昼休みの時間だった。
「浜崎というもんやけど、鈴木先生を呼んでくれんか」
訪問の理由を伝えると、二人は校長室へ案内された。校長と挨拶を交わしているところに鈴木が入ってきた。
「いやあ浜崎さん、ごぶさたしてます。卓也は元気でやってますか」
「横浜へ来い来いちゅうて、うるそうてかなわん」
「それは心配してるんですよ。独り暮らしやと、何かと心配なんですわ」
「何を言うとるねん、ワシはここで暮らすことに決めとるんじゃ」
強がってはみたものの、鈴木のやさしさは嬉しかった。悪ガキだった鈴木が立派に先生をやっている。それを見ると、つくづく時間の流れを感じてしまう。
正太の事情を一通り説明すると、校長も快く受け入れを約束してくれた。どういう手続きをするのかは知らないが、うまくやってくれると言う。本来は住民票などが必要なのだろうが、そんなことよりも人間のことを第一に考えてくれる。ゲンさんの住む街はそういうところだった。
「ほんなら、よろしゅう頼みますわ。何の事情か知らんけど、正太がこの学校に通っているのを分からんようにしてやってや」
「まかしといて下さい。教科書はあとで僕が届けておきますから」
もう一度礼を言って、ゲンさんと正太は学校をあとにした。
「よかったな正太。明日からしっかり学校へ行くんやで」
「うん。ありがとう、おっちゃん。そやけど、また」
正太は最後まで言わずに口ごもった。
「そやけど何や」
返事をしない正太の坊主頭をなでながら、もういちど聞いた。小学校の門を出ると、正太が校舎のほうを振り返った。
「せっかくこの学校へ入れてもらっても、どうせまたすぐに変わらんとあかん。せっかく友達ができても、すぐに別れなあかん。いっつもそうや」
正太は寂しそうに呟いた。この子は何度となく、夜逃げのようにして、街を転々としてきたのだろう。そのたびに寂しい思いをしてきたに違いない。他人の事情に首を突っ込みたくなかったが、ゲンさんは腹が立ってきたあのいい加減な母親を何とかせねばと思った。
「とにかく、昼飯でも食いにいこか。おっちゃんは腹がペコペコや」
「うん。俺もペコペコや」
ゲンさんは正太のまだ小さい手をぎゅっと握った。孫の公平の小さかったころを思い出していた。
昼御飯を食べるといっても、ゲンさんの懐具合ではそんな豪勢なものは食べられない。ゲンさんは駅前のほうに向かい、立ち食いのうどん屋に入った。
「ここのきつねうどんは天下一品や、夏の暑い日に汗をかきながら食うのがまたうまいんやで」
「俺も立ち食いうどんは大好物や」
「ほうか、ほうか」
ゲンさんは店に入ると、きつねうどんを二つ注文した。ここでもゲンさんは顔なじみである。うどんを鍋に放り込みながら店主が声をかけてきた。
「おう、ゲンさん。孫づれとは珍しいなあ」
「いやあ、孫とちゃうねん。きのう隣の部屋に越してきたぼうずや。正太いう名前でな、小学三年生や。覚えとったってくれ」
「よっしゃ、ほんなら正太、おっちゃんが引っ越し祝いをやるさかいに」
店主はおにぎりを一つ正太の前に置いた。
「おおきに。俺、おにぎり大好きやねん」
正太は愛想良く笑った。ゲンさんはその笑顔が気になった。これくらいの歳の男の子は、普通なら人見知りをするものだ。誰にでも愛想がいいというのは、そうしなければ生きてこれなかったからだ。自分を守るために笑顔をつくる。なんだかとても不憫に思えた。
うどんを食べ終えると、ふたりとも汗でびっしょりになった。ゲンさんはシャツを脱ぎ、ランニング一枚になっていた。正太もTシャツに何度も顔をスリ寄せて汗を拭っていた。
「どや、うまかったやろ」
「うん、やっぱり大阪のきつねうどんは最高や」
「ずっと大阪におったんちゃうんか」
「おとといまでは神戸におった。その前にも大阪で暮らしとったけど、生まれたんは明石やねん」
「そうかあ、なんや知らんけど、あっちこっち行っとるのお」
そこで正太が黙ったので、それ以上は聞かなかった。ゲンさんは、街のあちこちを案内してやった。惣菜屋のオババのところにも連れていった。一人で何か あったときのために、できるだけ知り合いに顔を見せておこうと思ったからだ。ついでにオババの店でコロッケを買い、アパートへと戻った。ちょっとしたふた り旅のようだった。
げんさんの住処5
アパートに戻ると、正太の部屋から何やらいい匂いがしていた。母親のエリが夕食の支度をしているらしい。
「ただいま」
正太が勢い良くドアを開けた。
「おかえり。あんた、今までどこ行っとったん」
「ゲンさんに、いろいろ案内してもらっとってん。学校へも連れていってもらったで」
みんなが「ゲンさん」と呼ぶので、正太も今日のうちにそう呼ぶようになっていた。その声を聞いてエリが台所から顔をだした。
「今朝がたはすみませんでした。何や、頭がボーッとしてましたんで、ろくに挨拶もせんと」
「いや、それはかまへんけど」
「それより、学校へは行けそうなんですか」
「大丈夫や、ワシの知り合いが先生やっとってなあ、住所がバレんようにうまくしてくれるそうや」
「ほんまに、ありがとうございます。この子の学校のことだけが心配やったんです」
エリはゲンさんの前で正座をすると、深々と頭を下げた。そして、もう一つだけ頼みがあると言った。
「私は晩御飯を食べたら仕事に行かなあきません。朝には帰ってきますけど、夜はこの子ひとりになってしまいます。何かあったときは、よろしく頼みます」
そう言うとエリは、再び頭を深々と下げた。
「よっしゃ、わかった。正太も寂しくなったら、おっちゃんの部屋へ来たらええわ」
「うん。でも僕、大丈夫や。ひとりは慣れとるから」
ゲンさんがいとまをしようとすると、エリがすかさず引き止めた。
「今日のお礼といっては何ですけど、一緒に夕飯、食べていってください。たいしたもんはありませんけど」
ちょっと疲れたので早く部屋で横になりたかったが、正太が袖を引っ張るので、夕飯をよばれることにした。
「ほな、そうさせてもらおか。そやけど、いつもは気い使わんでええで。あんたのところの家計もたいへんやろ」 二人も三人も一緒やと言ってエリは笑った。部屋の中に は小さなタンスが一つ。台所の近くにはカラーボックスが 置かれてあり、食器がきれいに整頓されていた。質素な生 活だが、小奇麗な部屋だった。
「昨日越してきたばかりやのに、よう片づいとるなあ。 たいしたもんや」
「物が何にもないさかい」
どういう理由で夜逃げしてきたのかは知らないが、エリ がいい加減な生活を送っていないことはよく分かる。夜の 仕事も、たぶん好きでやっているわけではなさそうだ。ゲ ンさんはホッとすると同時に、妙な色眼鏡でエリを見てい たことを恥じた。
食事が終わると、エリは身支度を始めた。ゲンさんは正 太を風呂屋に連れていくことにした。
「何から何まですんません。正太、おかあちゃんは仕事 に行くさかい、布団は自分で敷いて寝るんやで。正太が目 を覚ますまでには帰ってくるから」
エリは正太の首に鍵を掛けながら言った。
「わかった。おかあちゃんも、あんまり飲み過ぎんよう にな」
おそらく、この親子の会話は幾度となく繰り返されてき たのだろう。まるでお決まりの文句のように、二人の間で スムーズに交わされていた。
ゲンさんの風呂おけに二人分の手拭いを入れ、風呂屋へ と向かった。
「前の家には、風呂があったんか」
「うん。トイレの横に小さな風呂がついとった」
「そうかあ、これからはたいへんやな。風呂代もバカに ならへんからな」
「別に風呂に入らんかて死なへん。夏は水を浴びたらえ えんや」
「そらあ、あかん。毎日学校で汗をかくんやから、子ど もは毎日入らんとあかんのや」
小学三年にもなれば、自分の家がどういう状況かはわか るだろう。それがゲンさんにはせつなかった。何とか正太 を毎日風呂に入れてやりたいとおもった。
風呂屋を経営しているのは、ゲンさんの幼なじみだ。ケ チで有名な男だが、ゲンさんはその男に貸しがあった。浮 気がかみさんにバレそうになったとき、アリバイ作りに協 力してやったのだ。そういった不誠実さが大嫌いなゲンさ んだが、どうにも泣きつかれて、その男のために一度だけ 嘘をついたことがあったのだ。
「よっしゃ。あのときの貸しを、いま返してもらおか」
ほとんど脅しのようではあったが、今後一切、正太から は風呂代を取らないと約束させたのである。
「これで毎日風呂に入れるで。おっちゃんが話をつけと いたから、いつ行ってもタダや。遠慮なんかせんと、一日 に三回でも四回でも入ったれよ」
「ほんまに、ええのん」
「子どもは、そんなこと気にするもんやない」
「僕、むちゃくちゃ嬉しいわ。ほんまは、風呂がないア パートでメゲとってん」
「よかったなあ」
ゲンさんは、自分のことのように嬉しくなった。
正太が部屋に入るのを見届けると、ゲンさんはよっこい しょと部屋の中にはいった。一日のうちにいろんなことが あったような気がする。さすがに少し疲れたようだ。布団 を敷いて、その上に座って缶ビールを飲んだ。
開け放たれた窓から入ってくる風が、少し涼しくなった ような気がした。
「正太のおかげで、この部屋の地球温暖化がすこしはよ うなったんかのう」
心地よい疲れの中で、ゲンさんは眠りに落ちていった。
げんさんの住処6 夕方の六時過ぎに夕飯を済ませると、正太は毎日のようにゲンさんの部屋にやってきた。ゲンさんが晩酌をしている横にちょこんと座り、宿題をしたり本を呼ん だりしている。しっかりしているとはいえ、まだ小学三年生だ。夜中にひとりぼっちでいるのは、きっと寂しいのだろう。ときどきゲンさんが「今夜はおっちゃ んと一緒に寝るか」と聞くと、いかにもうれしそうに「うん」と答える。事情は知らないが、何とかエリが昼間の仕事に就けないだろうかとゲンさんは考えてい た。
そんな生活がしばらく続いたある夜、隣の部屋のドアを誰かがドンドンと叩く音がした。正太はその瞬間にビクッと体を震わせた。
「誰やろ、いまごろ」
正太が越してきてから一ヵ月ほどが経つが、訪ねてきた人間はひとりもいない。ゲンさんはドアを開けて廊下に出た。そこにはきちんとスーツを着た、三十過ぎの男が立っていた。
「あんたは誰や」
ゲンさんが声をかけると、男は気の弱そうな目をしばしばさせた。
「この部屋に、女の人と男の子が住んでるはずなんですけど、知りませんか」
エリと正太は、この男から逃げて来たに違いない。ゲンさんは直観的にそう感じた。一見やさしそうだが、蛇のような目がそう思わせたのである。
「いやあ、知らんなあ。この辺でそんな親子は見たことないで」
ゲンさんは咄嗟に、口からでまかせを言った。
「そうですか。ほんなら、また出直してきます」
「なんやったら、伝言でも預かっとこか」
「いや、結構ですわ。日曜の昼にでもまた来ます」
ゲンさんは、わざと無愛想にドアをバタンと閉めた。男はなかなかアパートから去ろうとせず、窓の隙間からひとしきり部屋の様子を伺っていた。
やっと男がいなくなって正太のほうを見やると、膝をかかえて微かに震えていた。
「どないしたんや正太。あの男を知っとるんか」
「おれのお父さんや」
正太が蚊の鳴くような声で答えた。
「なんやて。どういうこっちゃ」
「あいつは、いつもお母さんを殴りよる。腹を蹴られて救急車で運ばれたこともある。お母さんの体は、あいつのせいで痣だらけや」
「そうか。そういうことやったんか。ほんで二人で逃げてきたっちゅうわけか」
「絶対に、あいつと一緒になんか暮らしとうない」
「大丈夫や、おっちゃんが守ったる」
それ以上のことは聞かなかった。詳しくはエリが帰ってきてから聞けばいい。正太に辛いことを思い出させたくなかった。
その夜、正太はゲンさんの布団にもぐり込んで眠った。ゲンさんは一晩中、正太の背中をさすってやった。
翌朝、エリが勤めから戻り、正太が学校へ行ったころをみはからって、ゲンさんは隣の部屋を訪ねた。昨夜の男のことを話すと、エリの顔も正太と同じように引きつった。
「そうですか。やっぱり追いかけてきましたか」
暗い表情でエリが話し始めた。
エリは明石で育ち、地元の高校を卒業後、神戸のデパートで働いていた。デパートといっても華やかな売り場ではなく、地下食料品街の調理担当だった。夫も同じく明石の出身。大学を卒業すると、三宮にある不動産会社に就職。半ば見合いのような形で結婚したのだという。
ほどなく正太が生まれ、実家近くのアパートで慎ましく暮らしていた。夫の暴力が始まったのはそのころからだった。とにかく我が儘な男で、少しでも気に食わないことがあれば、すぐにエリに手を上げた。正太のためを思い、必死になって我慢した。
しかしある夜、エリが新しい洋服を黙って買ったのを知り、夫は激怒した。腹を蹴られて、エリは意識を失った。それでも夫は顔面を殴り続けた。救急車で運ばれる途中、夫の声が聞こえた。
「高いところの食器を取ろうとして、椅子から落ちよったんですわ。おそらく机にでも腹をぶつけたんでしょうな。顔が少し腫れてるのは、意識を取り戻させようとして、私がピシャピシャと叩いたんです。まったく世話のやける女ですわ」
うっすらとした意識のなかで、エリはこの男から逃げなくてはと思った。正太も夫を怖がって寄りつこうとはしなかった。
翌日に退院すると、エリは正太を連れて家を出た。そして二人で生活していくには、夜の勤めしか方法はなかった。
ゲンさんはエリの話をじっと聞いていた。
「何で、実家に逃げへんかったんや」
「夫は一見やさしそうに見えるから、父も母も本気で信用してくれませんでしたんや。それに、とにかく同じ街にいるのも怖かったんです」
「まだ正式に離婚はしてへんのか」
「させてくれません。別れるんやったら、正太をよこせと言うんです。でも、正太が可愛いからやない。私への嫌がらせなんです」
「それにしても、ようここが分かったなあ」
「そりゃあ、不動産屋ですもん。調べよう思うたら簡単でしょう」
なるほどとゲンさんは膝を叩いた。確かエリの部屋には表札は出してないはずだ。それでも母子の二人暮らしということで当たれば、おおよその見当はつくのかもしれない。それにしても執念深い男であることには違いがない。やっかいなことだとゲンさんは思った。
「とりあえずは、今度の日曜に来ると言うとったで。今日は金曜日やさかい、あさってまでに何とかせんとあかんな」
「ご迷惑やと思いますが、なんとか力を貸してください。お願いします」
頼まれなくても、ゲンさんは何とかするつもりだった。夫婦のことに首を突っ込むつもりはさらさらない。しかし、昨晩の正太の怯えた姿を見ると、これは放っておくわけにはいかない。いつのまにか正太の存在は、ゲンさんの心の中でも大きくなっていたのである。げんさんの住処7 エリには、とりあえず寝ておくようにと言った。今夜も仕事に行かなければならないからだ。明日中には何とか算段を整えるから安心しろと約束した。男は日曜 に来ると言っていたが、明日にでも来ないとも限らない。そう考えると、今夜からでも二人をアパートの帰らすのは心配だった。
こんな時に、やっぱり頼りになるのは惣菜屋のオババである。ゲンさんは早速、オババの店へと向かった。
「おーい、オババおるか」
オババは店の奥で惣菜の調理をしていた。
「ゲンさんか、こっちへ入っておいでや」
調理場ではオババと娘の明子が、何種類もの惣菜を手際よく調理していた。明子夫婦はいまだに子宝に恵まれず、サラリーマンをしている夫と三人で暮らして いる。明子はとうに四十を越えているが、まだ子供を諦めたわけではない。「明子の生んだ子の顔を見るまでは、死ぬわけにはいかん」というのがオババの口癖 だ。
「こんな朝早ようから、いったい何の騒ぎや」
「実はな、ちょっと頼みがあるんや」
「またかいな、まったく小さいころから、何にも変わってへんなあ」
「すまんと思とるがな」
ゲンさんは昨夜の出来事や、エリと正太の事情を詳しく話した。
「というわけや。どないしたらええんやろ」
いかにも困ったという顔をゲンさんがしていると、オババがニッと笑った。
「なんや、そんなことかいな。簡単なこっちゃ」
「なんぞ、ええ案があるんか」
「とりあえず二人は、今日から一週間くらい、うちの二階で寝泊まりしたらええ。それから明子、おまえはクリーニング屋の悪ガキをさらってこい」
「あの悪ガキさらって、どないすんの」
急に言われた明子が驚いて聞いた。
「二人が母子ということにして、日曜日はその部屋におるんや。確かに母子が住んどるけど、人違いやと思わせるんや」
「よっしゃ、わかったで。何やら面白そうやな」
明子も快く引き受けてくれた。まあ、オババが言いだしたことには逆らうこともできないだろうが。
「それにしても、さすがオババやなあ。こういう悪知恵は天下一品やな」
「あたりまえや。悪知恵が働かんで、大阪で生きていけるかい」
なるほどとゲンさんは感心した。
「それよりゲン。おまえは不動産屋へすぐに行け。不動産屋のジジイに口止めしとかんとあかん。あの欲張りジジイは、何か物もろたらほんまのこと喋りよるさかいにな。もしバラしたら、この街で生きていかれへんと言うとけ」
ひさしぶりにオババに「ゲン」と呼び捨てにされ、ふと小さいころに戻ったような気になった。困ったことが起きると、必ず姐御が解決してくれたものだ。
惣菜屋を飛び出すと、ゲンさんは言われたままに不動産屋に飛び込んだ。ゲンさんとオババの頼みとなれば、さすがの強欲ジジイも引き受けざるをえない。この二人を敵に回せば、冗談ではなく、本当にこの街で暮らせなくなるのである。
駅前の立ち食いそば屋できつねうどんをかき込むと、ゲンさんは急いでアパートに戻った。エリは当然寝ていると思ったが、ゲンさんがドアを開ける音を聞きつけてすぐにやって来た。どうやら一睡もしていないらしい。
「どないしたんや。寝とかんと仕事きついで」
「今日は休みにしてもらいました。何や、嫌な予感がしますねん」
「嫌な予感てどういうこっちゃ」
「日曜に来るて言うてたそうやけど、たぶん嘘やと思います。ゲンさんのことも疑うてると思う。妙に感の鋭いところのある男やさかい」
「もしかしたら今夜も来るかもしれんな」
「はい。私もそう思うんです」
「よっしゃ。そんなら、とにかく急がなあかん。段取りは整ってるさかい」
エリは部屋に戻ると、すぐに身の回りのものを鞄に詰め込んだ。とくに正太の学用品はすべて持ち出すことにした。正太の持ち物にはすべて名前が書いてあ る。万一それが男の目に触れないとも限らないからだ。家財道具はすべて家を出た後に買ったものだから心配ない。とにかく二人を特定するものさえなければい いのである。
エリが大きな鞄を二つ持ち、ゲンさんがダンボールを一箱抱えて、オババのいる惣菜屋へと向かった。
「オババ。エリさんを連れてきたで。心配やさかい、今夜から世話したってくれ」
「はじめまして、中谷エリと申します。無理なお願いで、ほんまにすみません」
エリは深々と頭を下げた。仕事へ行くときとは違い、全く化粧気のないエリの姿は、とても質素で健全な女性に映った。この子は夜の仕事をする人間やないとゲンさんは思った。げんさんの住処8 明子が正太を学校まで迎えに行き、そのまま惣菜屋まで連れて帰ってきた。早い時間に風呂屋に行かせると、その後は二階の部屋でじっとしてるように言い聞かせた。へたに街をうろついていると、ばったり男に出くわせないともかぎらない。
夕飯を済ませると、明子はアパートの部屋にいることにした。気のいいクリーニング屋の夫婦は、二つ返事で小学四年になる息子を貸してくれた。
「こんな子で役に立つんやったら、なんぼでも使うてやって。何なら一週間ほど預かってくれたら助かるわ」
息子は少々ふくれっ面をしていたが、ケーキを買ってやるといわれてホイホイとアパートまでついてきた。二三日は明子とアパートに泊まることになっている。
その日の夜八時過ぎ、案の定男がやってきた。隣の部屋をノックする音が聞こえた。「誰が住んでいるのか知らない」と言った手前、ゲンさんが顔を出すわけにはいかない。ゲンさんは注意深く隣の様子を伺っていた。万一のときは出て行くつもりだった。
やがて明子がドアを開ける音が聞こえた。
「夜分、すみません。ここは中谷さんのお宅と違いますか」
男の声が聞こえた。
「はあ? ちゃいますけど」
「おかしいなあ、不動産屋に聞いたんやけどなあ」
男が疑い深そうな声を出した。
「うちは中村や。中谷とちゃうで」
「あのう、お子さんと二人暮らしですよね」
「そうや。それがどないしてん」
「いやあ。ここにはいつからお住まいですか」
「なんや、あんたは。いつから住んでようが、あんたに関係あらへんやろ。あんた、警察の人か」
明子の剣幕に男がタジタジになっているのが分かる。
「いやあ、ちょっと知り合いを探してるもんで」
「とにかくウチらは半年前からここにおるんや。あの頭のボケた不動産屋が何と言おうと、そんなことは知るかい」
「あの不動産屋さん、頭がボケとるんですか」
「そや。有名や。このアパートの管理かていい加減なもんや。家賃さえきちんと払えば、やくざが住もうが、不法滞在者がいようが、あのジジイには関係ないんや」
「そうなんですか」
「あんたの探してる人かて、いつまでおったか分からん。ウチかて偽名で入居しとるんや。名前なんて適当なもんやで」
「でも、確かに」
男が言いかけた時に、明子が大声で怒鳴った。
「うるさいなあ。あまりしつこかったら人を呼ぶで。隣に住んどる人は元やくざや。ただでは帰られへんで」
明子がドアをバタンと閉める音がアパート中に響いた。
ゲンさんは台所の窓の隙間から、そっと外の様子を伺った。男はしばらく佇んでいたが、それから二階へと上がっていった。どうやら二階の様子も見にいくらしい。二階の四部屋はすべて男のやもめ暮らしだ。外から見ただけでも一目瞭然で分かる。
三十分ほどまたウロウロすると、男は退散していった。それから間もなくして、明子がゲンさんの部屋にやってきた。
「あんなんで、よかったんか」
「上出来や。あれ以上の芝居はないで」
「そやけどあいつ、気味が悪いわ。部屋の中をチラチラ覗いとったわ」
「やっぱり、どっかで疑っとるんやろ」
「そやけど、クリーニング屋のぼうずの顔見た時は、ハッとしとったで」
「まあ、正太と間違えることはないやろ。それに子供にまで芝居させるとは思うとらんやろ。まあ、第一関門クリアということや」
「あの男、きっともう一回、不動産屋へ行きよるで。何となく私はそう思うわ」
なるほどとゲンさんは思った。半年前まで誰が住んでいたのか。それを確認しに行くかもしれない。
「わかった。明日の朝一番で不動産屋へ行ってくるわ。あのジジイにボケたふりやらさんとあかんな」
結局その夜は明子とふたり、夜更けまで酒盛りになってしまった。げんさんの住処9 明子の感はみごとに当たった。翌日の土曜日の昼過ぎに、エリの夫は不動産屋に現れた。朝のうちにゲンさんが手を打っておいたので、何とかバレずに済んだよ うだった。中谷エリは確かに契約には訪れたが、結局は引っ越してこなかったと説明したらしい。それでも男はしつこく聞き出そうとしたらしいが、不動産屋の ジジイがボケたふりを通したために、ついには諦めて帰っていったということだ。
「よかったなあ。これで一安心や」
「ほんとうに、助かりました」
その夜は惣菜屋の二階にみんなが集まり、ささやかなお祝いとなった。正太の顔からも不安気な表情はすっかり消えていた。オババはすっかり正太が気に入ったようで、あれやこれやと世話を焼いていた。ゲンさんは、ちょっぴり正太を取られたような気持ちになっていた。
「それよりエリさん。あんた、いつまで夜の仕事を続けるつもりや」
オババが急に顔をエリに向けた。
「何の資格もありませんよってに、昼の仕事は無理やと思うんです」
「正太はまだ子供や、母親が一番恋しいときなんや」
「それは十分にわかってます」
オババは、その場のいるみんなに宣言するように言った。
「エリさん。あんた、うちの店で働きなはれ」
この言葉にはさすがの明子も驚いた。
「何言うてんの、おかあちゃん。うちに人を雇うような余裕はないで」
「ワシはもう歳や。そろそろ料理を作るのもしんどいねん。これからはあんたとエリさんで店をやったらええ。それにエリさんはデパートの調理場で働いとったんやで、うちではできんような惣菜もよう知っとるやろ」
「そんなあ、そこまでしてもろたらバチが当たります」
エリも両手と振ってオババを見た。
「この店はワシの店や。ワシが社長や。この店のことは自分で決めるんやから、心配せんでええ」
一度言いだしたら、誰が何と言おうと引き下がらない。そんなオババの性格を明子は良く知っている。
「分かった。ほんならエリさん。よろしく頼みます。新しい惣菜をいっぱい考えて、二人で大儲けしましょ」
サッパリとした明子の性格も、オババ譲りだろう。
エリは礼を言いながら泣いていた。やっと落ちつくところが見つかったのだ。その背中に向かってオババが声をかけた。
「あんたのためやない。たしかにあんたは亭主のことでつらい思いをしたやろ。でもな、それはあんたが選んだ人生や。大切なんは、人生を選べん正太のこと や。親のせいで子供が悲しい思いをしたり、寂しい思いをすることが、ワシは一番つらいんや。正太のことは大事にしたらんとあかん。それが大人の役目ちゃう か」
その言葉にゲンさんも目頭を熱くしていた。ふと、横浜にいる息子と孫のことを思い出していた。
* ゲンさんの回りには、また平穏な日々が戻っていた。惣菜屋はエリが働きだしてから種類が増え、かなりの繁盛をみせるようになった。正太は母親がいることで、のびのびとした生活を送っているようだ。
オババはことのほか正太を可愛がり、まるで自分の孫のように思っている。それでも心根のやさしい正太は、一日に一回は必ずゲンさんのようすを見に来てくれる。
冬休みに入ってから数日が経ったころ、息子の拓也が急に訪ねてきた。
「なんや急に、どないしたんや」
「ちょっと大阪に出張で寄ってみたんや。どうや、身体は大丈夫か」
「お前に心配かけるほど、歳は取ってないわ」
憎まれ口をききながらも、ゲンさんは息子の気遣いが嬉しかった。
「今年の正月やけどな、横浜へ来て一緒に過ごさへんか。公平も会いたがってるし」
「生まれてこのかた、大阪以外で正月を迎えたことはない。あんまり変わったことしたら、それこそ死んでまうかもしれへんぞ」
「なにを言うとるねん。ともかくまた電話するから、今年は横浜へ来る算段しといてくれ」
拓也はそれだけ言うと、慌ただしく帰っていった。横浜までの交通費だと言って、封筒に五万円を入れて置いていった。
妻が死んでから、正月はいつも一人だった。大晦日の夜にはオババが作ってくれたおせち料理を一人で食べ、一日の朝には近くの神社に参る。ただそれだけのことを繰り返してきた。
「今年は、息子の世話になるかのう」
ゲンさんは妻の位牌に向かって呟いた。
一人が寂しいと思ったことはない。家族はやがてバラバラになり、人間最後は一人になる。そういうものだと思い続けてきた。でも、正太を見ていると、何だか家族が欲しくなる。きっと、若かったころの自分の家庭を思い出してしまうのだろう。
「よっしゃ。今年は横浜へ行ったろか」
いかにも恩きせがましく言うと、ゲンさんは布団の中にもぐり込んだ。孫への土産は何にしようか。どんな恰好で行こうか。そんなことを考えていると、自然と気持ちがウキウキしてきた。
年末から正月にかけて、都合十日間ほどをゲンさんは横浜の息子の家で過ごした。久しぶりに温かい雑煮を食べた。八畳ほどの和室。とても日当たりの良い部屋を、息子はゲンさんのために用意しておいてくれた。
「おじいちゃんも、ここで一緒に暮らそうよ。お父さんはいつも、おじいちゃんの心配ばかりしてるんだから」
孫の公平もそう言ってくれる。随分としっかりしてきたものだ。
「そやなあ。まあ、考えとくわ」
ゲンさんはそう言いながらも、そろそろ意地を張るのも潮時かなと思っていた。げんさんの住処10
大阪の街に戻ってから数日後、ゲンさんは梅田にある阪急百貨店へと出掛けた。横浜で世話になったお礼に、千枚漬けでも送ってやろうと思った。梅田のオフィス街はすっかり正月気分から抜けていた。
「まったく味もそっけもない街になってしもたなあ。昔はえべっさんの頃までは酒を飲んでたもんやけど」
えべっさんとは商売の神様である恵比寿神社の祭りのことである。毎年一月十五日には、盛大な祭りが神社で催される。そんな風情が大阪の街からもだんだんと消えつつあった。
阪急百貨店の中は、平日のせいか比較的空いていた。地下の売り場に下りていくと、正面に有名な千枚漬けの店が見えた。ゲンさんが品定めをしていると、若い女の店員が近づいてきた。
「当店の千枚漬けはとても味がよろしいですよ」
「そんなこと言われんでも知っとるわい」
百貨店独特の格式ばった物言いが、ゲンさんは苦手だった。
「それより、この五千円の詰め合わせやけど、なんぼのしてくれるんや」
「なんぼと言われましても、五千円は五千円です」
「一円たりともまけへんちゅうんか」
「はい、当店では値引きはしておりませんので」
「なに。それが大阪で通用すると思うとるんか」
店員は明らかに顔をしかめた。百貨店が値引きしないくらいはゲンさんでも知っている。ちょっと店員をからかってやろうと思っただけだ。なのにしかめっ面をされたのでは、とても買う気にはなれない。やっぱり地元の商店街で何かを買おうと考え直した。
「まったく最近の大阪の若い者は、ボケとツッコミのやりかたも知りよらへん」
ゲンさんは独りごちながら一階への階段を上りかけた。エスカレーターが見つからなかったので、まあ健康のためと思い階段を使うことにした。
その時、ゲンさんの足元でグキッといういやな音がした。
「アイタタッ」
ゲンさんはその場にうずくまった。どうやら足をひねってしまったらしい。立ち上がろうとしても、とても立てそうにない。
「誰か来てくれ。助けてくれ」
ゲンさんは売り場のほうに向かって叫んだ。
「どうしたんですか」
慌てて警備員と店員が駆けつけてきた。二人がかりで起こそうとしたが、ゲンさんがあまり痛がるので、とうとう救急車が駆けつける騒ぎとなってしまった。
ゲンさんは近くの総合病院に運び込まれた。レントゲンを撮った結果、骨には異常はなかったが、かなり重い捻挫をしていることが医師から聞かされた。
「とにかく、二ヵ月ほどは自宅で安静にしていてください。無理をすると、歩けなくなりますよ」
ギプスの石膏を固めながら看護婦が言った。
治療が終わって受け付けへ行くと、エリが迎えにきてくれていた。
「ゲンさん。どうしたんですか」
「いやあ、大したことはないんや。ちょっと躓いてしもてな。我ながら情けない話や」
「救急車で運ばれたって聞いて、もうびっくりしました。とりあえず私が駆けつけて来たんです」
「かたじけない」
少しばかりしょんぼりとしたゲンさんをタクシーに乗せ、エリはアパートまで連れて帰った。部屋の前では正太とオババが待っていてくれた。エリが布団を敷いてくれて、その上に寝かされた。
「ええ歳こいて、梅田の百貨店みたいな所へ行くさかいや」
オババが悪態をついた。いつもなら言われっぱなしにはしないが、さすがのゲンさんも今日は弱気になっていた。
「そやなあ。もうワシも一人で出掛けるときは、気いつけんとあかんなあ」
いつもとは違う殊勝なゲンさんの言葉に、三人は思わず顔を見合わせた。
「とりあえず、にぎり飯と惣菜を置いとくから、これを食うて早く寝るこっちゃ」
オババはそう言うと、腰をさすりながら帰っていった。
それから二週間ほどは、ゲンさんは歩くことすらできなかった。部屋の中でもトイレに行くのがやっと。もちろん風呂屋にも行けず、タオルを絞っては身体を拭くという有り様だった。
朝はエリ、昼はオババ、そして夕方には正太が食事を運んできてくれる。何とも情けない話だが、みんなには感謝せざるを得なかった。
「すまんな正太」
ゲンさんはお茶を沸かしてくれている正太に声をかけた。
「大したことあらへん。おっちゃんに助けられたことに比べたら、こんなことお安い御用や」
正太はニッコリと笑った。昨年の夏にこの街にやってきてから、もう半年になる。この年齢の子供は、日々しっかりと成長していく。正太のその成長が、ゲンさんにはとても眩しく見えた。げんさんの住処11 二月の声を聞いたばかりの寒い朝。オババが死んだ。
まだ夜が明けきらぬ早朝、アパートのドアが荒々しく叩かれた。ゲンさんは何か嫌な予感を覚えた。ドアを開けると、目を真っ赤にした明子が立っていた。
「どないしたんや」
「ばあちゃんが、今さっき死んでもうた」
「なんやと」
「朝起きたら、もう冷とうなっていたんや」
「分かった。すぐにエリと正太を起こしてくれ。ワシもすぐに行くさかい」
ゲンさんは急いで洋服を着替え、廊下に飛び出した。喪服などを出している暇はない。とにかく今は、早くオババの元へ駆けつけたかった。
隣の部屋から正太が飛び出してきた。
「おっちゃん」
すでに半ベソをかきながら、正太が走り寄ってきた。
「おかあちゃんは今、着替えとる。先に行っててくれと言うとる」
「よっしゃ」
ゲンさんの怪我はまだ治りきっていない。松葉杖で身体を支えながら、必死になって走った。正太が腰のあたりを支えるようにしてくれた。二人は何も言わずにひたすら早朝の商店街を走った。
「オババ。待っとれよ」
惣菜屋の裏口から家の中に入った。オババの部屋は一階の奥にある。襖を開けると、部屋の真ん中でオババが静かに横たわっていた。明子夫婦が枕元に座っている。ゲンさんはオババの横に正座をした。
「オババ」
ゲンさんは静かに話しかけた。
「あまりにも急過ぎるやないか。何で一言ワシに言うてくれへんかってん。これまでの礼も言うてへんのに、何で急いで死んでしもたんや」
ゲンさんはそこまで言うと、後は声にならなかった。
「オババ。ありがとうね」
代わりに正太が礼を言った。正太はオババの顔をさすりながら、何度も何度も礼を言った。正太が顔をさすり続けていると、オババの表情が嬉しそうになったように見えた。気がつくと、エリも部屋の片隅で泣いていた。
葬儀にはたくさんの人が駆けつけた。商店街の人間のみならず、かつてこの街に住んでいた者まで訃報を聞いてやってきた。オババは多くの人の心の支えだった。
焼き場で最後の別れをするとき、正太は柩にすがりついて離れようとしなかった。わき目もふらずに泣きじゃくった。そんな正太を見るのは初めてだった。ゲンさんは正太を抱きかかえるようにして、やっと柩から離れさせた。
参列者のみんなが、まるで子供のように泣いていた。
「正太。人間はいつかは死ぬんや。オババはよう長生きした。でもな、いくら歳とって死んだかて、やっぱり死んだらかわいそうや。大往生で良かった言う人もおるけど、ワシはそうは思わん。死ぬときはみんなかわいそうで仕方ない」
ゲンさんは妻の死を思い出しながら言った。正太はゲンさんの手をしっかりと握りしめ、小さく頷いた。
賑やかで、そして悲しい葬儀が終わった。大勢の参列者たちも、それぞれの住処へと帰っていった。オババの寝ていた部屋に、五人がポツンと取り残された。誰も口を開くことなく、遺影をボーッと眺めていた。
沈黙を破るように明子が言った。
「あのなあエリさん。さっき、うちの人とも話をしてたんやけど、あんたら二人でこの部屋に越してきてくれへんか。そのほうが正太も安心やろ」
「そんなあ。そこまで甘えるわけにはいきません」
「もちろん、ずっとというわけではあらへん。正太が大きくなるまで、ここで一緒に暮らしたらどないや。うちらも賑やかでええんや」
戸惑っているエリに向かってゲンさんも賛成した。
「せっかくそう言うてくれてんのやから、甘えたらどないや。たぶんオババもそうせいと言うやろ」
「ありがとうございます。そしたら、この子が中学に上がるまでは甘えさせてもらいます。その間に私もお金を貯めておくようにします」
エリは正座をして、深々と頭を下げた。明子もホッとしたように、やっと笑顔を見せた。げんさんの住処12 エリと正太が惣菜屋に引っ越すと、ゲンさんの隣の部屋には誰もいなくなった。足の怪我はだいぶ良くはなったが、ゲンさんは自分の部屋に閉じこもることが多くなった。二ヵ月ほど身体を動かさなかったせいか、すっかり足腰が弱った気がする。
「やっぱり、このへんが限界やな」
ゲンさんは誰にともなく呟いた。
オババが死に、エリと正太も落ちついた。きっとこれからも二人でがんばって生きていけるだろう。今度は自分のことを考えなければいけない。大阪で生まれ、大阪で死ぬと決めていた。この街が終の住処だと信じて疑わなかった。
「人生はうまく行かんもんや。そやけど、死ぬ場所くらい自分で決めたかったなあ」
この街で静かに死んでいったオババのことが、何だか羨ましくも思えた。
翌日、ゲンさんは息子の拓也に電話をかけた。
「あのなあ、お前のところに厄介になることにするわ」
「そうか、やっと決心してくれたんか」
息子はホッとしたような声を出した。余程気にかけていてくれたのだろう。有り難いことだと、ゲンさんは初めて感謝の気持ちが沸いてきた。まあこれも、歳をとったということなのであろう。
横浜に引っ越すのは、三月の末ということに決まった。学校が春休みのときのほうが、何かと便利だろうということだ。孫の拓也も手伝ってくれるという。
引っ越しの準備を手伝いにくると言ったが、ゲンさんはそれを断った。慌ただしく越して行くのは嫌だった。一人でこの街に別れを言い、一人で去って行きた かったからだ。それに運ぶものなどほとんどない。家具は処分すればいいし、電化製品ももう必要がなくなる。妻と揃いで買った茶碗さえあれば、それだけでい い。段ボール箱が三つもあれば事足りるだろう。
横浜行きを決めた翌日、ゲンさんは惣菜屋に行った。オババの仏壇の前に座り、報告をした。
「なあオババ。ワシはこの街を離れるわ。この街で死にたいと思うとったけど、どうやらそれは無理そうや。もう二度と来ることはないかもしらん。寂しいけど仕方のないこっちゃ」
オババに向かって言うというよりは、自分に言い聞かすような口調だった。
「寂しくなるなあ。オババが死んで、ゲンさんもおらんようになって。なんやこの街やなくなるみたいな気がするわ」
明子がしんみりと言った。エリも突然のことで、何と言ったらよいのか分からないみたいだった。
「何よりも、正太が寂しがります」
小さな声でエリが言った。
「正太には、あんたから言うといてくれ。ワシも正太と別れるんが一番つらいんや」
「わかりました。今晩のうちに言うときます」
「まあ、行くまでにまだ十日ほどあるさかい、休みの日にどこかへ連れて行ったると言うといてくれ」
その日ゲンさんは、商店街の顔なじみを何軒か回った。みな一様に驚きを隠さなかった。横浜に息子がいることは皆知っているが、まさかゲンさんが行くとは 思ってもいなかった。なかには「うちで、一緒に暮らしたらええがな」と言ってくれる友人もいた。ありがたいことだとつくづく思った。
日にちが経つのが、とても早く感じた。
いよいよ引っ越しを明日に控えた日、ゲンさんは墓参り出掛けることにした。ちょうどドアを開けたとき、正太がやってきた。
「おっちゃん、どこへ行くんや」
「ばあさんの墓参りに行くところや」
「ぼくもついていったるわ」
「そうか。今日は学校は休みか。ほな一緒に行こか」
代々の墓は、一つ向こうの駅の寺にある。いつもは電車に乗ってしまうのだが、この日は歩いて行こうと思っていた。もう、このへんの風景も見納めだ。げんさんの住処13 街は年々変わりつつあるが、それでも昔ながらの店や道も残っている。ゲンさんは思い出を噛みしめるように歩いていた。
寺の前の花屋で、供えの花と線香を買った。墓を洗う水は正太が運んでくれた。春を感じさせる日差しがポカポカとしていた。線香に火をつけ、墓の前で手を合わせた。正太も同じように手を合わせてくれた。
「ばあさんや、ワシはこの街を離れるで。もう、戻ってこれへんかもしれん。ばあさんが生きておったら、もう少しがんばれたんやけど、一人ではもう限界や。しばらく会われへんけど、あの世で待っといてくれ」
ゲンさんは墓の前に、三十分ほども座っていた。その間中、正太がずっと背中をさすり続けてくれていた。
「さて、行くとするか。ついてきてくれたお礼になんぞ御馳走するで」
「お礼なんていらん。ぼくがおっちゃんと一緒にいたかっただけや」
正太の言葉に、ゲンさんは涙が出そうになった。この子とも、もう会えなくなる。そんな寂しさが急にわき出てきた。そんなゲンさんの気持ちを察したのか、正太が明るい声で言った。
「ぼくが中学生になったら、横浜に遊びに行ってもええか。おっちゃんの部屋に泊めてくれるか」
「おお、当たり前や。絶対に来てくれよ。約束やで」
「うん、約束や。ぼく、それまでに小遣いを貯めとくから。中学生なんてもうすぐや」
「そやな。またきっと会えるな」
正太のおかげで、ゲンさんは少し元気がでた。
寺からの帰りは、電車に一駅乗った。駅前に着くと、ゲンさんは正太を連れて串カツ屋の暖簾をくぐった。
「おう、ゲンさん。いよいよ明日か」
店のおやじが声をかけてきた。
「そうや。いろいろ世話になったなあ」
「寂しくなるなあ。達者で暮らせよ」
「何言うとんねん。別にアフリカへ行くわけでもあるまいし、横浜なんて近いもんや。ちょくちょく帰ってくるつもりや」
「まあ、それもそうやな。とにかく今日は俺の奢りや。牛カツを腹一杯食うてくれ」
「ほんまか。あとで後悔するで」
ゲンさんと正太は、あつあつの串カツをたくさん食べた。この味を忘れないようにと、ゲンさんはじっくり噛みしめながら食べた。
「うまかったなあ」
「うん。ぼく、はじめて食べたんや。前からいっぺん食べてみたいと思うとったんや」
「そりゃあ、良かったのお」
惣菜屋の前で正太と別れることにした。
「中に入らへんの」
「ああ、今日は疲れたから、もう寝るわ」
正太が皆を呼びに行こうとするのを、ゲンさんは止めた。また、湿っぽい気持ちになるのが分かっていた。
「明日は何時に引っ越すの」
「十時に引っ越し屋が来ることになってる。その時分に手伝いにきてくれたらええ」
「ぼくは、朝早く行ってもええか。朝御飯を一緒に食べようよ」
「そやな。ほんなら、七時くらいに来たらええわ」
「わかった。必ず行くから、待っといてや」
ゲンさんは、すっかり荷物が片づいた部屋に戻った。串カツ屋で日本酒を飲んだせいか、少し頭がボーッとしてきた。
「何や知らんけど、疲れたなあ」
布団を敷いて、もう寝ようと思った。横浜までの切符を財布の中に入れ、ボストンバッグにしまった。妻の位牌に手を合わせ、布団にもぐり込んだ。やがて、経験したことのないような睡魔が襲ってきた。
不思議な夢を見た。
ふと目を覚まして横を見ると、枕元に妻とオババが座っていた。二人とも、とても穏やかな顔をしてゲンさんをみつめている。
「何や二人とも、どこへ行っとったんや。探しとったんやで」
ゲンさんは二人に向かって話しかけた。妻がやさしくゲンさんの手を握った。オババがゲンさんの顔をなでてくれた。まるで小さいころに、母親に抱かれたような安心感に包まれた。
「ええ気持ちや。幸せや」
ゲンさんは心から呟いた。身体がふわふわと軽くなっていくようだった。げんさんの住処14 最終回 翌日の朝、正太はおにぎりと惣菜を持ってアパートにやってきた。
「おっちゃん、おはよう。朝御飯を持ってきたで。一緒に食べよう」
ドアをノックしても、中からは物音がしなかった。
「おかしいなあ。散歩でも行ったんかな」
ノブに手を掛けると、カギは開いていた。
「おっちゃん。入るで。まったく不用心やな」
正太が上がり込むと、ゲンさんはまだ布団の中で眠っていた。
「よっぽど疲れたんやなあ」
正太は起こさないように、やかんに水を入れ、それを火にかけた。振り返ると、ゲンさんは笑っているように眠っていた。しかし、その表情は確かに固まっていた。
「おっちゃん」
正太は大声で叫んだ。身体を揺すり、何度も何度も大声で呼んだ。ゲンさんは、目を覚ますことはなかった。
その顔は、まるで終の住処を見つけたかのように、穏やかなものだった。 <了>