怖い話
ポルターガイスト
お盆は過ぎたが、まだまだ残暑は厳しい! ……と言うことで、身の毛もよだつコワーイお話です。これは、今から25年以上前に私自身が経験したことです。時期はお盆!
当時私は、まだ学生か働き始めたばかりだったと思う。お盆の前後は、母の田舎である叔父の家に行くのが恒例だった。母の田舎は、宮崎県椎葉村、想像でき ないほどの奥深い山の中に有った。その家と言うのは、つい先日、偶然にも「日本の秘境に暮らす家族」とか言うテレビ番組で、放送された家です。当時は、夏 ともなると親戚一同の避暑地と化していた。
さて、お盆ともあって、その家には親戚一同集まっています。夕方から飲めや歌へのドンチャン騒ぎ。日のどっぷり暮れたころ。「肝試しをしよう」と言う事 になりました。その家の裏山は先祖代々からの墓地になっていました。こう言う事が大好きな、私は、自分がまず一番だと、懐中電灯を持って墓地へ登っていき ました。墓地の頂上に付いた時点で懐中電灯で合図をする事になっていた。
その日は、曇りで星も出ていません。しかも、その家の周りには、見える範囲に家は一軒もない。500メートルぐらい離れたところにお隣が一軒あるが、谷 を越えた丘の向こうなので明かりは見えない。更に周りは奥深い照葉樹林が生い茂っている。つまり、墓地の中は真の暗闇なのだ。
墓地への斜面は、かなり急だった。私は、墓地の入り口まで来たところで、足を取られ滑ってしまい懐中電灯を落としてしまった。その衝撃で、電球が切れたらしく、懐中電灯はつかなくなった。「まずい」そう思ったが、後の祭りです。
私は、しばらくその場に立ち尽くしたが、本当の暗闇である。いくら経っても目はなれない。仕方なく這うように進む途中、墓石に突き当たり倒してしまっ た。そこは墓地と言っても、山奥である。その家とその上にあると言う家(何処にあるかは知らない)二軒の先祖代々のお墓らしい。墓石と言っても昔の物は 40・50センチほどの自然石が、やはり自然石のストーンサークルの真ん中に付き立ててあるだけなのだ。
私は大慌てで、墓石を建て直し、丁重にお詫びをして墓地の頂上まで登った。酔っていたので、良く覚えていないが、真っ暗闇の中、いくつもの墓石を「蹴飛 ばしたり突き飛ばしたり」しながら進んだ記憶がある。写真を見てもらえると分かるだろうが、踏みつけたお墓もあるかもしれない! 墓地の頂上は、木が切っ てあり見晴らしが利く。私は叔父の家の外にいる従兄弟に向かって、「ライトが切れたので降りれない」と叫んだ。しばらくすると、従兄弟が登ってくる懐中電 灯の明かりが見えた。
その頃には、だいぶ目が慣れてきたのか、不思議な物が見えることに気付いた。地面のあちこちに光のワッカがあるのだ。色は、夜光塗料の色で幾分緑を帯び た青い光である。何なのか? 光の正体に手を伸ばすと、それは墓地に置かれた湯飲みや茶碗だった。不思議な事だが、茶碗の縁がボーっと光っていたのだ。更 に驚いたのは、自分のスニーカーだ。周りの茶碗以上に、強い光を放っていた。
ちょうど、その時、従兄弟が登ってきた。彼はまだ目がなれていないせいか、光の環は見えないと言う。しかし、従兄弟によると、下から見ていると私の体全 体が、ボーっと人形に発光していて、何処にいるか一目瞭然だったと言う。懐中電灯を消してしばらく待つと、従兄弟にも光のワッカが見えてきた。
電灯を消すと完全な暗闇なので、相手は全く見えないが、なんと、お互い淡い光に包まれていて、何処にいるかはっきり分かる。世の中の様々な物は、その温 度に見合った周波数の電磁波放射をしている。恐らく、それと同時に微弱な可視光も放っているのだろう。或いは、人の目は、可視光以外の領域にも若干の感度 を持っているのかもしれない。どちらが正しいか判らないが、普段完全な闇と接する事は無いので、これらの事実に気付かないだけなのだろう。
本当の暗闇であるがゆえに、色々な物が発する僅かな光が見えたのだと思う。当時は、まだ若く目の光に対する感度も遥かに高かった事も、不思議な光が見えた要因かもしれない。
さて、ここまでは前置きで、これからが本番である。その後、我々は何事もなかったように、家に戻った。私は、更にビールをかっ食らって、早々と床に就いた。酔っていたので、直ぐに眠れたが、その晩一晩中、乾いた咳が止まらなかったのを記憶している。
そして、翌日、目が覚めると従兄弟が言った。「あんな、状態でよく眠れたね!」
聞くと、昨夜ポルターガイスト現象がおきたと言うのだ。仏壇の花瓶が揺れ始めライトが消え、部屋中が怪音に包まれたらしい。私は、昨夜のお墓の事を思い出し〈ヤベー!〉と思った。お仕置きをしようと思った相手が、酔っ払って寝ていたので霊が暴れまわったのだろうか?
その日の夜、早速、私は三脚にカメラをセットすると、仏壇の前で寝る事にした。しかし、夜が更けても何も起こらない。結局、そのまま寝込んでしまった。
しばらくして、私は従兄弟に起こされた。「始まった」と恐怖の顔をしている。仏壇に目をやると、花瓶が小刻みに揺れている。更に、仏壇の電気がチラチラと点いたり消えたりし始めた。その状態が続いた後、仏壇の電気は完全に消えた。そして、花瓶が激しく揺れはじめた。
……とその瞬間、その部屋の屋根裏でシンバルを叩いた様な大きな金属音が鳴り響いた。続いて「ゴトゴト」「バシバシ」「バンバン」すさまじい怪奇音が部屋中から鳴り響き始めた。更に、家の外からも怪奇音が聞こえてきた。
「ズズッ、ズズッ」っと、草履をはいた人間が、わざと音を立てて歩いているような音だ。……と突然「ズズッ、ズズッ」の歩く音から、「バタバタバタ」と走る音に変わり家の周りを走り始めた。「ズズッ、ズズッ」「バタバタバタ」の繰り返しが延々と始まった。
私は、家の玄関の前まで行って、扉に手をかけた。そして、怪音が玄関の前を通過した瞬間、勢いよくドアを開いた。シーン! 奇怪な足音はぴたりと止まっ た。私が、扉を閉めると、再び「ズズッ、ズズッ」「バタバタバタ」が始まる。何度やっても同じことの繰り返しだ。私はくまなく家の周囲を見て周ったが、勿 論、人の気配はない。
私が仏壇のところに戻ると、そこでは従兄弟が恐怖に震えながら待っていた。障子がひとりでに開いたと言う。私も、薄明かりの中で目を凝らすと、しばらく して確かに障子が少し動いたのだ。その最中にも、怪奇音は部屋の中と外で鳴り響いている。ポルターガイストは知っていたが、まさか自分がこれほどのポル ターガイストに遭遇しようとは思っても見なかった。
恐らく、30分はゆうに経った頃だろうか、だんだんと怪奇音が少なくなり、消え始めた。それと同時に、完全に消えていた仏壇の電気が再び点いたり消えたりし始めた。花瓶の揺れも収まった。やがて、仏壇の電気がポッっと点くと、それと同時にすべての怪奇現象が収まった。
その翌日も、私はその家に宿泊したが、何事も起こらなかった。以来、その家に行く度に、このポルターガイストを思い出すが、その時を最後に一度も起こっ ていない。ただ、この家では、お盆の期間中にたびたび怪奇現象は起こっている。私以外の者もたびたび怪奇現象に遭遇しているのだ。
その家がある椎葉村では、お盆は盛大に行われる。8月12日の夜は、仏壇に大量のお供え物をして、全員が起きて深夜零時を待つ。祖先の霊のお迎えなの だ。霊が入ってくる入り口は、仏壇と向かい合った縁側で、零時を過ぎるまで縁側の窓を開けて待つ。窓の外には、霊が足を洗うため、ご丁寧に洗面器に水を汲 んで置いてある。どうやら椎葉村の霊は、足があるようなのだ。したがって、足音を立ててもおかしくない??
勿論、霊が帰る8月15日の夜も深夜零時まで、全員で起きて待つ。仏壇には、大量のおみやげ物と「芋の茎」が供えてある。「芋の茎」は、お土産を持ち換 えるときにロープ代わりに使うそうだ。こんな様子を見ていると、この家では本当にお盆に霊が帰ってくるのではないかと思ってしまう。
しかし、ポルターガイストに関しては、私が倒した墓石の持ち主だろうか? いや、あの騒ぎようは一人ではなかった。きっと、私が「どついた」墓石の持ち 主全員かもしれない。 ……私が、口をつぐんだまま、墓石の件は誰にも話さなかった事は想像できるだろう。夜中に墓地に行って墓石を突き飛ばした事がばれ ると、叔父につるし上げられる事は間違いなかった! そろそろ、ほとぼりが冷めた頃だろうと思い、この恐怖の経験をここに公開したのだ。しかし、本当の恐 怖は、もっと意外なところに隠されていた。
私が、真夜中1人で上っていった墓地は、夜ともなるとマムシの巣窟と化す場所だったのだ。叔父は、霊が怖いのではなく、マムシが怖いので絶対に夜に墓にはいかないと言う。……ヒェ・、恐ろしや、恐ろしや!
当時私は、まだ学生か働き始めたばかりだったと思う。お盆の前後は、母の田舎である叔父の家に行くのが恒例だった。母の田舎は、宮崎県椎葉村、想像でき ないほどの奥深い山の中に有った。その家と言うのは、つい先日、偶然にも「日本の秘境に暮らす家族」とか言うテレビ番組で、放送された家です。当時は、夏 ともなると親戚一同の避暑地と化していた。
さて、お盆ともあって、その家には親戚一同集まっています。夕方から飲めや歌へのドンチャン騒ぎ。日のどっぷり暮れたころ。「肝試しをしよう」と言う事 になりました。その家の裏山は先祖代々からの墓地になっていました。こう言う事が大好きな、私は、自分がまず一番だと、懐中電灯を持って墓地へ登っていき ました。墓地の頂上に付いた時点で懐中電灯で合図をする事になっていた。
その日は、曇りで星も出ていません。しかも、その家の周りには、見える範囲に家は一軒もない。500メートルぐらい離れたところにお隣が一軒あるが、谷 を越えた丘の向こうなので明かりは見えない。更に周りは奥深い照葉樹林が生い茂っている。つまり、墓地の中は真の暗闇なのだ。
墓地への斜面は、かなり急だった。私は、墓地の入り口まで来たところで、足を取られ滑ってしまい懐中電灯を落としてしまった。その衝撃で、電球が切れたらしく、懐中電灯はつかなくなった。「まずい」そう思ったが、後の祭りです。
私は、しばらくその場に立ち尽くしたが、本当の暗闇である。いくら経っても目はなれない。仕方なく這うように進む途中、墓石に突き当たり倒してしまっ た。そこは墓地と言っても、山奥である。その家とその上にあると言う家(何処にあるかは知らない)二軒の先祖代々のお墓らしい。墓石と言っても昔の物は 40・50センチほどの自然石が、やはり自然石のストーンサークルの真ん中に付き立ててあるだけなのだ。
私は大慌てで、墓石を建て直し、丁重にお詫びをして墓地の頂上まで登った。酔っていたので、良く覚えていないが、真っ暗闇の中、いくつもの墓石を「蹴飛 ばしたり突き飛ばしたり」しながら進んだ記憶がある。写真を見てもらえると分かるだろうが、踏みつけたお墓もあるかもしれない! 墓地の頂上は、木が切っ てあり見晴らしが利く。私は叔父の家の外にいる従兄弟に向かって、「ライトが切れたので降りれない」と叫んだ。しばらくすると、従兄弟が登ってくる懐中電 灯の明かりが見えた。
その頃には、だいぶ目が慣れてきたのか、不思議な物が見えることに気付いた。地面のあちこちに光のワッカがあるのだ。色は、夜光塗料の色で幾分緑を帯び た青い光である。何なのか? 光の正体に手を伸ばすと、それは墓地に置かれた湯飲みや茶碗だった。不思議な事だが、茶碗の縁がボーっと光っていたのだ。更 に驚いたのは、自分のスニーカーだ。周りの茶碗以上に、強い光を放っていた。
ちょうど、その時、従兄弟が登ってきた。彼はまだ目がなれていないせいか、光の環は見えないと言う。しかし、従兄弟によると、下から見ていると私の体全 体が、ボーっと人形に発光していて、何処にいるか一目瞭然だったと言う。懐中電灯を消してしばらく待つと、従兄弟にも光のワッカが見えてきた。
電灯を消すと完全な暗闇なので、相手は全く見えないが、なんと、お互い淡い光に包まれていて、何処にいるかはっきり分かる。世の中の様々な物は、その温 度に見合った周波数の電磁波放射をしている。恐らく、それと同時に微弱な可視光も放っているのだろう。或いは、人の目は、可視光以外の領域にも若干の感度 を持っているのかもしれない。どちらが正しいか判らないが、普段完全な闇と接する事は無いので、これらの事実に気付かないだけなのだろう。
本当の暗闇であるがゆえに、色々な物が発する僅かな光が見えたのだと思う。当時は、まだ若く目の光に対する感度も遥かに高かった事も、不思議な光が見えた要因かもしれない。
さて、ここまでは前置きで、これからが本番である。その後、我々は何事もなかったように、家に戻った。私は、更にビールをかっ食らって、早々と床に就いた。酔っていたので、直ぐに眠れたが、その晩一晩中、乾いた咳が止まらなかったのを記憶している。
そして、翌日、目が覚めると従兄弟が言った。「あんな、状態でよく眠れたね!」
聞くと、昨夜ポルターガイスト現象がおきたと言うのだ。仏壇の花瓶が揺れ始めライトが消え、部屋中が怪音に包まれたらしい。私は、昨夜のお墓の事を思い出し〈ヤベー!〉と思った。お仕置きをしようと思った相手が、酔っ払って寝ていたので霊が暴れまわったのだろうか?
その日の夜、早速、私は三脚にカメラをセットすると、仏壇の前で寝る事にした。しかし、夜が更けても何も起こらない。結局、そのまま寝込んでしまった。
しばらくして、私は従兄弟に起こされた。「始まった」と恐怖の顔をしている。仏壇に目をやると、花瓶が小刻みに揺れている。更に、仏壇の電気がチラチラと点いたり消えたりし始めた。その状態が続いた後、仏壇の電気は完全に消えた。そして、花瓶が激しく揺れはじめた。
……とその瞬間、その部屋の屋根裏でシンバルを叩いた様な大きな金属音が鳴り響いた。続いて「ゴトゴト」「バシバシ」「バンバン」すさまじい怪奇音が部屋中から鳴り響き始めた。更に、家の外からも怪奇音が聞こえてきた。
「ズズッ、ズズッ」っと、草履をはいた人間が、わざと音を立てて歩いているような音だ。……と突然「ズズッ、ズズッ」の歩く音から、「バタバタバタ」と走る音に変わり家の周りを走り始めた。「ズズッ、ズズッ」「バタバタバタ」の繰り返しが延々と始まった。
私は、家の玄関の前まで行って、扉に手をかけた。そして、怪音が玄関の前を通過した瞬間、勢いよくドアを開いた。シーン! 奇怪な足音はぴたりと止まっ た。私が、扉を閉めると、再び「ズズッ、ズズッ」「バタバタバタ」が始まる。何度やっても同じことの繰り返しだ。私はくまなく家の周囲を見て周ったが、勿 論、人の気配はない。
私が仏壇のところに戻ると、そこでは従兄弟が恐怖に震えながら待っていた。障子がひとりでに開いたと言う。私も、薄明かりの中で目を凝らすと、しばらく して確かに障子が少し動いたのだ。その最中にも、怪奇音は部屋の中と外で鳴り響いている。ポルターガイストは知っていたが、まさか自分がこれほどのポル ターガイストに遭遇しようとは思っても見なかった。
恐らく、30分はゆうに経った頃だろうか、だんだんと怪奇音が少なくなり、消え始めた。それと同時に、完全に消えていた仏壇の電気が再び点いたり消えたりし始めた。花瓶の揺れも収まった。やがて、仏壇の電気がポッっと点くと、それと同時にすべての怪奇現象が収まった。
その翌日も、私はその家に宿泊したが、何事も起こらなかった。以来、その家に行く度に、このポルターガイストを思い出すが、その時を最後に一度も起こっ ていない。ただ、この家では、お盆の期間中にたびたび怪奇現象は起こっている。私以外の者もたびたび怪奇現象に遭遇しているのだ。
その家がある椎葉村では、お盆は盛大に行われる。8月12日の夜は、仏壇に大量のお供え物をして、全員が起きて深夜零時を待つ。祖先の霊のお迎えなの だ。霊が入ってくる入り口は、仏壇と向かい合った縁側で、零時を過ぎるまで縁側の窓を開けて待つ。窓の外には、霊が足を洗うため、ご丁寧に洗面器に水を汲 んで置いてある。どうやら椎葉村の霊は、足があるようなのだ。したがって、足音を立ててもおかしくない??
勿論、霊が帰る8月15日の夜も深夜零時まで、全員で起きて待つ。仏壇には、大量のおみやげ物と「芋の茎」が供えてある。「芋の茎」は、お土産を持ち換 えるときにロープ代わりに使うそうだ。こんな様子を見ていると、この家では本当にお盆に霊が帰ってくるのではないかと思ってしまう。
しかし、ポルターガイストに関しては、私が倒した墓石の持ち主だろうか? いや、あの騒ぎようは一人ではなかった。きっと、私が「どついた」墓石の持ち 主全員かもしれない。 ……私が、口をつぐんだまま、墓石の件は誰にも話さなかった事は想像できるだろう。夜中に墓地に行って墓石を突き飛ばした事がばれ ると、叔父につるし上げられる事は間違いなかった! そろそろ、ほとぼりが冷めた頃だろうと思い、この恐怖の経験をここに公開したのだ。しかし、本当の恐 怖は、もっと意外なところに隠されていた。
私が、真夜中1人で上っていった墓地は、夜ともなるとマムシの巣窟と化す場所だったのだ。叔父は、霊が怖いのではなく、マムシが怖いので絶対に夜に墓にはいかないと言う。……ヒェ・、恐ろしや、恐ろしや!
テレポテーション
先週に引き続き、宮崎県椎葉村の叔父の家での出来事です。かなり昔の出来事で、正確に覚えていないが、やはり夏で、誰かの法事の為に親戚が集まっていた時の事です。
その家に法事の為泊まっていた叔母が、朝早くトイレに起きたときの事。まだ、辺りはやっと白み始めた頃だと言うのに、台所の方で誰かが茶碗を洗っている 音がしたそうだ。当時、その家の台所は土間から続く家の外にあり、扉で仕切られていた。叔母は、昨夜、皆で宴会をした茶碗が、そのままだった事を思い出し 〈いけない! もうこんなに早く、家の人が起きて茶碗を洗っている。私も手伝わねば〉と思ったそうだ。
そして、急いで服を着替えると、台所に向かった。その間も茶碗を洗う音は続いている。だがドアを開け、外の台所をのぞいた瞬間、茶碗を洗う音はぴたりと 止んだそうだ。しかも、その台所には誰もいない。当然その時間は、まだ家の者も寝ていたのだ。叔母は不思議に思い台所を見渡したが、茶碗は昨夜のまま、ト レーに入った状態で水につけられている。
そこの家には水道はなく、山の湧き水が生活用水である。茶碗の上からは湧き水が降り注ぎ、水の流れる「ちょろちょろ」と言う音がするだけだった。如何い うことだろうと、不思議に思いながらドアを閉め部屋に戻ろうとすると、なんと再び背後から「カチャ、カチャ」と勢いよく茶碗を洗う音が聞こえてきたそう だ。叔母は、恐怖を抑え再びドアを開いたが、またもやその瞬間に音はぴたりと止んだ。
結局、その叔母は、遠くから聴こえてくる茶碗を洗う音におびえながら、布団の中で皆が起き出す時間まで待ったと言う。これだけでも、十分すぎるほどの怪奇現象だが、実はこの時、更なる怪奇現象が起こっていた。
この怪奇現象が起こった時、この家では可愛い子ウサギたちが飼われていた。この子ウサギは、この家の主である私の叔父が、自分の山で杉の手入れをしているときに偶然見つけたものだった。叔父は、この子ウサギを家に持ち帰りペットとして鳥かごに入れて飼っていたのだ。
……ところが、怪奇現象の起きたその日、叔父が可愛がっていた子ウサギがいなくなっていた。そのウサギが入った鳥かごは、例の茶碗を洗う音が聞こえたと言 う台所に置かれていたのだ。しかも、ウサギたちの入れられた鳥かごは、なんと外から鍵が掛かったままの状態で、もぬけの殻となっていた。
さて、朝から大騒ぎである。叔父は「ウサギが消えてしまった」、叔母は「茶碗を洗う幽霊が出た」と……。結局、ウサギたちは昼前には近くの草むらで遊んでいるのが発見された。そして、この二つの怪奇現象は一緒になって、叔父によりある仮説が立てられた。
叔父の仮説はこうである。法事で人が集まり、大量の茶碗が洗われないまま一晩放置された状態を見た先祖の霊が、少しでも手伝いをしようと台所で茶碗を洗っていたのだ。そして、その時、籠に入れられた子ウサギを見てかわいそうに思い外に逃がしてやったに違いない。
こう結論付けると「いやービックリした。ウサギが突然消えたかと思った。しかし、ご先祖様の仕業だったんだ」……と、まるであたり前の出来事として納得してしまったのだ。
「おい、おい! ウサギが籠の中からテレポテーションしたんだぞ……、簡単に納得するな!」私は、あっけにとられたが、結局、その日の出来事は、こうし て決着がつけられた。ここでは、霊の存在は日常の事なのだ。ご先祖様のせいなら、何が起こっても、簡単に納得してしまうから驚きだ!
もし、ウサギの件がなかったら私は、「きっと水の流れる音を、寝ぼけて茶碗を洗う音と勘違いしたのだ」と片付けるところだった。何しろこの家では、湧き 水が生活用水なので24時間365日、台所と池と水場では水が流れっぱなしだった。更に、家の前の谷には渓流が流れ、ちょうど家の入り口の真下に滝が有 る。つまり、一日中、遠くから響いてくる滝の音と、家の周りを流れる湧き水の音が聞こえるのだ。夜などは多少不気味な雰囲気をかもし出す。
こんな状態なので、幽霊が出たと勘違いしてもおかしくは無いと思ったのだ! しかし、ウサギのテレポテーションだけは、全く不思議である。そんな悪戯をしそうな人もいなかった(ぐっすり寝ていた私を除いて)。本当に、ご先祖の霊の仕業だったのだろうか……?
その家に法事の為泊まっていた叔母が、朝早くトイレに起きたときの事。まだ、辺りはやっと白み始めた頃だと言うのに、台所の方で誰かが茶碗を洗っている 音がしたそうだ。当時、その家の台所は土間から続く家の外にあり、扉で仕切られていた。叔母は、昨夜、皆で宴会をした茶碗が、そのままだった事を思い出し 〈いけない! もうこんなに早く、家の人が起きて茶碗を洗っている。私も手伝わねば〉と思ったそうだ。
そして、急いで服を着替えると、台所に向かった。その間も茶碗を洗う音は続いている。だがドアを開け、外の台所をのぞいた瞬間、茶碗を洗う音はぴたりと 止んだそうだ。しかも、その台所には誰もいない。当然その時間は、まだ家の者も寝ていたのだ。叔母は不思議に思い台所を見渡したが、茶碗は昨夜のまま、ト レーに入った状態で水につけられている。
そこの家には水道はなく、山の湧き水が生活用水である。茶碗の上からは湧き水が降り注ぎ、水の流れる「ちょろちょろ」と言う音がするだけだった。如何い うことだろうと、不思議に思いながらドアを閉め部屋に戻ろうとすると、なんと再び背後から「カチャ、カチャ」と勢いよく茶碗を洗う音が聞こえてきたそう だ。叔母は、恐怖を抑え再びドアを開いたが、またもやその瞬間に音はぴたりと止んだ。
結局、その叔母は、遠くから聴こえてくる茶碗を洗う音におびえながら、布団の中で皆が起き出す時間まで待ったと言う。これだけでも、十分すぎるほどの怪奇現象だが、実はこの時、更なる怪奇現象が起こっていた。
この怪奇現象が起こった時、この家では可愛い子ウサギたちが飼われていた。この子ウサギは、この家の主である私の叔父が、自分の山で杉の手入れをしているときに偶然見つけたものだった。叔父は、この子ウサギを家に持ち帰りペットとして鳥かごに入れて飼っていたのだ。
……ところが、怪奇現象の起きたその日、叔父が可愛がっていた子ウサギがいなくなっていた。そのウサギが入った鳥かごは、例の茶碗を洗う音が聞こえたと言 う台所に置かれていたのだ。しかも、ウサギたちの入れられた鳥かごは、なんと外から鍵が掛かったままの状態で、もぬけの殻となっていた。
さて、朝から大騒ぎである。叔父は「ウサギが消えてしまった」、叔母は「茶碗を洗う幽霊が出た」と……。結局、ウサギたちは昼前には近くの草むらで遊んでいるのが発見された。そして、この二つの怪奇現象は一緒になって、叔父によりある仮説が立てられた。
叔父の仮説はこうである。法事で人が集まり、大量の茶碗が洗われないまま一晩放置された状態を見た先祖の霊が、少しでも手伝いをしようと台所で茶碗を洗っていたのだ。そして、その時、籠に入れられた子ウサギを見てかわいそうに思い外に逃がしてやったに違いない。
こう結論付けると「いやービックリした。ウサギが突然消えたかと思った。しかし、ご先祖様の仕業だったんだ」……と、まるであたり前の出来事として納得してしまったのだ。
「おい、おい! ウサギが籠の中からテレポテーションしたんだぞ……、簡単に納得するな!」私は、あっけにとられたが、結局、その日の出来事は、こうし て決着がつけられた。ここでは、霊の存在は日常の事なのだ。ご先祖様のせいなら、何が起こっても、簡単に納得してしまうから驚きだ!
もし、ウサギの件がなかったら私は、「きっと水の流れる音を、寝ぼけて茶碗を洗う音と勘違いしたのだ」と片付けるところだった。何しろこの家では、湧き 水が生活用水なので24時間365日、台所と池と水場では水が流れっぱなしだった。更に、家の前の谷には渓流が流れ、ちょうど家の入り口の真下に滝が有 る。つまり、一日中、遠くから響いてくる滝の音と、家の周りを流れる湧き水の音が聞こえるのだ。夜などは多少不気味な雰囲気をかもし出す。
こんな状態なので、幽霊が出たと勘違いしてもおかしくは無いと思ったのだ! しかし、ウサギのテレポテーションだけは、全く不思議である。そんな悪戯をしそうな人もいなかった(ぐっすり寝ていた私を除いて)。本当に、ご先祖の霊の仕業だったのだろうか……?
憑依現象
怖い話と言うより「椎葉村の怖い話」みたいな状況になってきたが、今週も椎葉村で起きたコワーイお話です。舞台はやはり、叔父の家! しかし、今回は直接私が体験した事ではなく、叔父から聞いた話です。
叔父の家は、扇山(1661m)登山口への登り口近くにあります。これは数年前の出来事だそうですが、女子大生のグループが扇山の登山に訪れたそうで す。近くに大人数で泊まれる場所も無く、お金も無い彼女たちに、地区の集会所を解放し宿泊させたそうである。そして、その夜恐ろしい出来事が……と言いた い所だが、何事も無かったそうです。
次の日、彼女たちは早朝から登山準備を始め叔父の家にやってきた。叔父の家で、朝食をとり、おにぎり等の弁当を作って登山に望むのだ。勿論単なる親切心 で、叔父がこの役目を買って出たと言う。叔父が久々の若い女性グループの訪問に鼻の下を伸ばしていた事は想像に難くないが……!
とにかく彼女たちは、叔父の家で食事を済ませ、登山道を確認すると意気揚々と登って行ったそうである。それから数時間後、日も傾きかけた頃、彼女たちは突然戻ってきた。頂上まで登れば、戻ってくるのは日が暮れる頃だろうと思っていた叔父はビックリしたらしい。
ところが、彼女たちの様子がおかしい。聞くと、道に迷ってしまったと言う。しかし、これが不思議な事なのだ。扇山の本当の登山道(車が入れない)が始ま るのは、頂上の手前の八合目あたりである。そこまでは、林道松木線と言うたった一本の車の通行可能な道路が続いている。つまり、頂上手前の登山道入り口の 駐車場までは、道を間違えるはずがない。私は、扇山には登った事が無いので、その先の登山道の様子は判らないが、頂上までは2時間足らずで、やはり迷うよ うな道ではないと言う話である。
叔父も、迷いそうな場所の心当たりは無いと言うことで、一体何処で迷ったのか不思議で何度も聞いて見たそうだが、全く分からなかったと言う。とにかく彼 女たちは、真っ直ぐ進んだが、道はだんだんと獣道になり、奥深い山の中に入って言ったそうである。「如何も道を間違えたらしい」と思った彼女たちは、正し い道に戻ろうと山の中をさまよったと言う。そして、鬱蒼と木々が生い茂る薄暗い山の中で、それは起こった……。
一人の女子学生が、突然、正気を失い歩けなくなったのだ。彼女は、立ち上がる事が出来ず、地面にはいつくばった状態になり、言葉も全く話せず理解すらで きない状態になった。しばらく正気を取り戻すまで待っていたが、症状はひどくなる一方でらちがあかない。結局、登山を断念し引き返す事になった。
多少、山の中を徘徊したが、やがて林道松木線を見つけて、何とか戻る事は出来たそうだ。しかし、正気を失った女子学生は、まったく治る様子もなく、交互に担いで山を降りなければならなかった。
さて、叔父の家に担ぎ込まれた女子学生は、すさまじい状態だったらしい。四足ですら歩く事も出来ず、ただ畳の上をのたうち回っているだけ、叔父が話しか けようとすると激しく襲ってきた。これはとても手に負えないと判断した叔父は、直ぐに、正気を失った女子学生を病院に運ぶように言ったそうだ。一刻も早く 病院に連れて行かねばと言うことで、タクシーを呼んだ。
結局、その女子学生はタクシーに乗せられ病院に運ばれた。叔父がタクシーに乗せられた女子学生に、窓越しに顔を近づけると、その学生は正気を完全に失い よだれを流した顔を窓に押し付け、両手で激しく窓を引っかき叔父を威嚇したと言う。さすがの叔父も、あれほど怖い思いをした事はなかったと言っていた。
叔父によると、普段人の入らない山の中に分け入ると、憑かれる事が有るそうな。しかし、これほど激しい症状を見た事はなかったと言う。結局、後日叔父のところに連絡が入ったところでは、女子学生は病院で正気を取り戻し、その後、何事もなく生活していると言う。
これが、いわゆる憑依現象と呼ばれている物には間違いないが、本当に動物霊などに憑かれたのだろうか? ……それとも、普段と違う場所に迷い込んだ心労から正気を失ったのだろうか?
話は椎葉村から離れるが、私は、もう一つ憑依現象を知っている。それは、私の親戚の「奥さん」に起こった出来事である。あるときから彼女は、夜な夜な起 き出しては、家中を這い回るようになった。手足も使わずに、その仕草はまるで蛇のようだったと言う。医者に見せても分からず、その親戚は困り果てていた。
ところが、それからだいぶ経った頃、その親戚から連絡が入った。「奥さん」が完全に直ったと言うのだ。その親戚の話によると、結局、困り果てた末に霊能 者に見てもらったそうだ。すると、床下を調べろといわれ調べて見たところ、奥さんの寝ていた真下に蛇を祭る小さな祠が有ったらしい。それを移動したとこ ろ、奥さんは夜な夜な徘徊する事はなくなったと言う。
本当の原因は判らないが、これらは実際にあった話である。皆さんは、憑依現象を信じますか……? 奥深い山で道に迷ったとき、そこは、もう「物の怪」の領域かもしれない。けっして、無理をせずに戻る事をお勧めします。憑かれる前に!
叔父の家は、扇山(1661m)登山口への登り口近くにあります。これは数年前の出来事だそうですが、女子大生のグループが扇山の登山に訪れたそうで す。近くに大人数で泊まれる場所も無く、お金も無い彼女たちに、地区の集会所を解放し宿泊させたそうである。そして、その夜恐ろしい出来事が……と言いた い所だが、何事も無かったそうです。
次の日、彼女たちは早朝から登山準備を始め叔父の家にやってきた。叔父の家で、朝食をとり、おにぎり等の弁当を作って登山に望むのだ。勿論単なる親切心 で、叔父がこの役目を買って出たと言う。叔父が久々の若い女性グループの訪問に鼻の下を伸ばしていた事は想像に難くないが……!
とにかく彼女たちは、叔父の家で食事を済ませ、登山道を確認すると意気揚々と登って行ったそうである。それから数時間後、日も傾きかけた頃、彼女たちは突然戻ってきた。頂上まで登れば、戻ってくるのは日が暮れる頃だろうと思っていた叔父はビックリしたらしい。
ところが、彼女たちの様子がおかしい。聞くと、道に迷ってしまったと言う。しかし、これが不思議な事なのだ。扇山の本当の登山道(車が入れない)が始ま るのは、頂上の手前の八合目あたりである。そこまでは、林道松木線と言うたった一本の車の通行可能な道路が続いている。つまり、頂上手前の登山道入り口の 駐車場までは、道を間違えるはずがない。私は、扇山には登った事が無いので、その先の登山道の様子は判らないが、頂上までは2時間足らずで、やはり迷うよ うな道ではないと言う話である。
叔父も、迷いそうな場所の心当たりは無いと言うことで、一体何処で迷ったのか不思議で何度も聞いて見たそうだが、全く分からなかったと言う。とにかく彼 女たちは、真っ直ぐ進んだが、道はだんだんと獣道になり、奥深い山の中に入って言ったそうである。「如何も道を間違えたらしい」と思った彼女たちは、正し い道に戻ろうと山の中をさまよったと言う。そして、鬱蒼と木々が生い茂る薄暗い山の中で、それは起こった……。
一人の女子学生が、突然、正気を失い歩けなくなったのだ。彼女は、立ち上がる事が出来ず、地面にはいつくばった状態になり、言葉も全く話せず理解すらで きない状態になった。しばらく正気を取り戻すまで待っていたが、症状はひどくなる一方でらちがあかない。結局、登山を断念し引き返す事になった。
多少、山の中を徘徊したが、やがて林道松木線を見つけて、何とか戻る事は出来たそうだ。しかし、正気を失った女子学生は、まったく治る様子もなく、交互に担いで山を降りなければならなかった。
さて、叔父の家に担ぎ込まれた女子学生は、すさまじい状態だったらしい。四足ですら歩く事も出来ず、ただ畳の上をのたうち回っているだけ、叔父が話しか けようとすると激しく襲ってきた。これはとても手に負えないと判断した叔父は、直ぐに、正気を失った女子学生を病院に運ぶように言ったそうだ。一刻も早く 病院に連れて行かねばと言うことで、タクシーを呼んだ。
結局、その女子学生はタクシーに乗せられ病院に運ばれた。叔父がタクシーに乗せられた女子学生に、窓越しに顔を近づけると、その学生は正気を完全に失い よだれを流した顔を窓に押し付け、両手で激しく窓を引っかき叔父を威嚇したと言う。さすがの叔父も、あれほど怖い思いをした事はなかったと言っていた。
叔父によると、普段人の入らない山の中に分け入ると、憑かれる事が有るそうな。しかし、これほど激しい症状を見た事はなかったと言う。結局、後日叔父のところに連絡が入ったところでは、女子学生は病院で正気を取り戻し、その後、何事もなく生活していると言う。
これが、いわゆる憑依現象と呼ばれている物には間違いないが、本当に動物霊などに憑かれたのだろうか? ……それとも、普段と違う場所に迷い込んだ心労から正気を失ったのだろうか?
話は椎葉村から離れるが、私は、もう一つ憑依現象を知っている。それは、私の親戚の「奥さん」に起こった出来事である。あるときから彼女は、夜な夜な起 き出しては、家中を這い回るようになった。手足も使わずに、その仕草はまるで蛇のようだったと言う。医者に見せても分からず、その親戚は困り果てていた。
ところが、それからだいぶ経った頃、その親戚から連絡が入った。「奥さん」が完全に直ったと言うのだ。その親戚の話によると、結局、困り果てた末に霊能 者に見てもらったそうだ。すると、床下を調べろといわれ調べて見たところ、奥さんの寝ていた真下に蛇を祭る小さな祠が有ったらしい。それを移動したとこ ろ、奥さんは夜な夜な徘徊する事はなくなったと言う。
本当の原因は判らないが、これらは実際にあった話である。皆さんは、憑依現象を信じますか……? 奥深い山で道に迷ったとき、そこは、もう「物の怪」の領域かもしれない。けっして、無理をせずに戻る事をお勧めします。憑かれる前に!
テヘランの亡霊
今週は椎葉村から一気に離れて、イランの首都テヘランのコワーイお話です。この話もだいぶ前のことで、1984年の10月に起きた事です。当時のイラン は、フセイン大統領率いるイラクとの間で、長い戦争の真っ只中にあった。俗に、イラン-イラク戦争を略して、イライラ戦争などとも呼ばれていた。
しかし、この年にようやく一定の停戦合意に達した。人口密集地及び都市部への攻撃を中断する事で合意したのだ。攻撃は、軍事施設に限られた。この停戦合 意を受けて、当時イランと合弁会社を作って石油開発に当たっていたIJPCは、施設の被害状況を調査する為に、調査員を派遣する事になった。こうして、当 時某会社で働いていた私もイランに送られる事になった。
9月22日、午前中にガイダンスを受け空港に向かった。話は脱線するが、ガイダンスの内容が傑作なので、ここでお伝えしておこう。これから被害の調査に 向かうと言うのに、なんと、すでに被害状況はほぼ掴んでいると言う。それによると、砂漠で乾燥しているせいで、さびなども無く、被害状況は日本側の予想と 比べて遥かに少ないと言うのだ。
・・・よって、仕事はするな。ただ行って仕事をする振りをして出来るだけ時間をつぶせと言うのだ。そして、あれもだめ、これもだめと、被害状況を過大報 告しろである。今考えるとトンでもない話だが、予算が組まれているので、それを消化したうえで、更に被害を過大に見積もる事でイラン側から余分な資金を引 き出そうと誰かが考えたのだろう。とにかく、仕事は楽勝だ! と考え、喜び勇んで出発したのを記憶している。
その夜、成田の出発ロビーで飛行機を待っているときに、NHKのニュースが始まった。その日のトップニュースは、これから行こうとしているイランの IJPCの施設が、フセインにより爆撃されたと言うものだった。そのニュースが始まったと同時に、飛行機への搭乗が始まった。
機内に入ってからが、大変だった。飛行機は、時間通り飛び立とうとあせっている物の乗客が言う事を聞かない。そのジャンボ機は、IJPCのチャーター便 だったので乗客は、全員イランに向かう人たちなのだ。結局、会社と連絡が取れた者と自主判断した者が、飛行機を降りたが、会社の指示を仰げなかった私を含 む大多数の人は、強制的にイランに連れて行かれることになった。
飛行機が着いた先は、イランのシラズと言う場所である。周囲は穴だらけの滑走路に、砂嵐の中凄まじいバウンドをしながら着陸した。そこは空港と言うより 廃墟で、天井は崩れ落ち、瓦礫が散乱するターミナルビルに、剥き出しの電線から無造作に電球が垂れ下がっていた。絶えず、遠くから機関銃の音が響いてく る。
その日の晩には、シラズを出発し、翌朝マシャールと言う場所に着いた。ここが目的地である。しかし、目的地に着いたものの仕事は当然出来ない。この間に フセインは、石油関連施設は、軍事施設とみなすと声明を発表し、数日後にイラクの攻撃が始まった。幸い宿舎は、IJPCの施設がある場所から数キロの位置 にあるので、宿舎で待機していた我々には人的被害はなかった。爆風で窓ガラスが数枚割れた程度だった。しかし、イラン人が5人亡くなったらしい。
その攻撃のすぐ後に日本大使館を通じて、イラクがロシア(当時ソ連)から買った近距離地対空ミサイルを使用するとの情報が入った。イラク側から、命中精度の悪いミサイルが直接飛んでくる為、何処に落ちるか分からない。直ぐに逃げろと言うのだ・・・。
直ちに、首都テヘランのホテルが用意されバスで逃げる事になった。1200キロの行程で、マシャールを午後一時に出発し、着いたのは翌日の午後一時半、 23時間30分の決死の逃避行だった。途中、ダンプと正面衝突寸前になり崖から飛び出しそうになったり、暴徒に囲まれて石を投げられたりの散々の道のり だった。テヘラン市内に近づいたところでは、二台の車とぶつかった。一台目とは怒鳴りあっただけ、二台目とは激しく衝突したので金で解決!
こうして、テヘランで着いた先はヒステグラルホテルと言う立派なホテルだった。ここは、イラン革命前はシェラトンホテル(ヒルトンかもしれない)だった 所を、没収した物だから立派で当たり前だ。しかし、着いた早々、アシュラの日(シーア派の指導者が拷問されて死んだ日)が始まり、イラン人が興奮している ので外出は出来ないと言われてしまった。
外出禁止令が解かれると、革命前のパーレビ国王が居住した元宮殿を見に出かけた。禿山の頂上にあるので、ロープーウェイで登らなければいけなかった。豪 華絢爛な宮殿が、今では博物館となっていた。しかし、この場所もロープーウェイが老朽化していて危ないから登るな、と日本大使館から通達が来た。
結局一日の大半をホテルに缶詰状態となったが、ホテルの中で面白い話を聞いた。そのホテルでは、革命の時に激しい戦闘が行われ、多くの人命が失われてい たのだ。一見、立派なホテルだったが、注意して調べると確かに銃弾の後などがいたるところに残されていた。・・・と言うことで、前置きは長くなったが、こ のホテルでは幽霊が出るのだ!
特にイーストタワー8階の一室には、女性の亡霊が出ると言う事だった。直接、英語が話せるメイドにも聞いて見たが、噂は真実だと言う。メイド達は、イー ストタワーの8階の掃除は、最後に残しておき、メイド全員で一緒にそのフロアーに行って掃除を行うらしい。掃除以外でも、8階に行く時は必ず二人以上で行 くそうだ。しかし、亡霊の出てくる部屋は、開かずの間となっていて、誰も立ち入る事は無いと言う。
そうなれば、早速、肝試しである。数人の仲間と、夜が更けるまで待った。夜中の12時を回った所で、イーストタワーの8階へ行った。高級ホテルだけ有って、廊下なども広くて大きなつくりだが、照明は非常に少ない。戦争中なので、エネルギー事情が悪いのだ。
薄暗い廊下を進むと、目的の部屋が見えてきた。その部屋の入り口には、鍵が幾つも取り付けられ、隙間にも板が打ち付けられて完全に目張りしてある。更 に、お札のような物がベタベタとはってある。その上近づくなと言わんばかりに、ロープで仕切りがしてあった。その異様な状況を、見せられないのが残念だ が、当時戦争中でカメラの持込が禁止されていたので写真は無い。
そこで、私は「勇気があるならエスカレーターを使わずに階段で1人で降りて来い」と仲間にそそのかされた。・・・当然、OKをして、私1人だけが、8階 から階段で降りる事になった。階段は、建物の一番端にあり、ひときわ薄暗い。薄暗く静まり返った階段は、想像以上に不気味だったが、その日はどうやら亡霊 はお留守のようで、とうとう現れる事は無かった。
それから、数日後、いつ帰国できるか分からないままホテルに滞在を続ける私たちに訃報が入った。そのホテルに足止めを食らっていた日本人の1人が、夜中に急死したのだ。日本大使館を通じて、亡くなった方の宿泊していた部屋が、臨時の告別式の場所に設えられた。
亡くなった方は、全く面識のない人だったが、日本人全員、焼香に行くようにと上司から指示があったので、私も焼香に行った。告別式が行われていたその部 屋は、イーストタワーの8階だった。そして、告別式の会場に近づくと、その部屋は、なんと例の「開かずの間」の向かいの部屋だったのだ。告別式の会場から 出ようとすると、目の前には、頑丈に封印されお札が張られた異様なドアがあるのだ。死因は、夜中の突然の心臓発作だったらしい・・・。
それ以後、二度とそのフロアーに近づかなかった事は、言うまでもない!
しかし、この年にようやく一定の停戦合意に達した。人口密集地及び都市部への攻撃を中断する事で合意したのだ。攻撃は、軍事施設に限られた。この停戦合 意を受けて、当時イランと合弁会社を作って石油開発に当たっていたIJPCは、施設の被害状況を調査する為に、調査員を派遣する事になった。こうして、当 時某会社で働いていた私もイランに送られる事になった。
9月22日、午前中にガイダンスを受け空港に向かった。話は脱線するが、ガイダンスの内容が傑作なので、ここでお伝えしておこう。これから被害の調査に 向かうと言うのに、なんと、すでに被害状況はほぼ掴んでいると言う。それによると、砂漠で乾燥しているせいで、さびなども無く、被害状況は日本側の予想と 比べて遥かに少ないと言うのだ。
・・・よって、仕事はするな。ただ行って仕事をする振りをして出来るだけ時間をつぶせと言うのだ。そして、あれもだめ、これもだめと、被害状況を過大報 告しろである。今考えるとトンでもない話だが、予算が組まれているので、それを消化したうえで、更に被害を過大に見積もる事でイラン側から余分な資金を引 き出そうと誰かが考えたのだろう。とにかく、仕事は楽勝だ! と考え、喜び勇んで出発したのを記憶している。
その夜、成田の出発ロビーで飛行機を待っているときに、NHKのニュースが始まった。その日のトップニュースは、これから行こうとしているイランの IJPCの施設が、フセインにより爆撃されたと言うものだった。そのニュースが始まったと同時に、飛行機への搭乗が始まった。
機内に入ってからが、大変だった。飛行機は、時間通り飛び立とうとあせっている物の乗客が言う事を聞かない。そのジャンボ機は、IJPCのチャーター便 だったので乗客は、全員イランに向かう人たちなのだ。結局、会社と連絡が取れた者と自主判断した者が、飛行機を降りたが、会社の指示を仰げなかった私を含 む大多数の人は、強制的にイランに連れて行かれることになった。
飛行機が着いた先は、イランのシラズと言う場所である。周囲は穴だらけの滑走路に、砂嵐の中凄まじいバウンドをしながら着陸した。そこは空港と言うより 廃墟で、天井は崩れ落ち、瓦礫が散乱するターミナルビルに、剥き出しの電線から無造作に電球が垂れ下がっていた。絶えず、遠くから機関銃の音が響いてく る。
その日の晩には、シラズを出発し、翌朝マシャールと言う場所に着いた。ここが目的地である。しかし、目的地に着いたものの仕事は当然出来ない。この間に フセインは、石油関連施設は、軍事施設とみなすと声明を発表し、数日後にイラクの攻撃が始まった。幸い宿舎は、IJPCの施設がある場所から数キロの位置 にあるので、宿舎で待機していた我々には人的被害はなかった。爆風で窓ガラスが数枚割れた程度だった。しかし、イラン人が5人亡くなったらしい。
その攻撃のすぐ後に日本大使館を通じて、イラクがロシア(当時ソ連)から買った近距離地対空ミサイルを使用するとの情報が入った。イラク側から、命中精度の悪いミサイルが直接飛んでくる為、何処に落ちるか分からない。直ぐに逃げろと言うのだ・・・。
直ちに、首都テヘランのホテルが用意されバスで逃げる事になった。1200キロの行程で、マシャールを午後一時に出発し、着いたのは翌日の午後一時半、 23時間30分の決死の逃避行だった。途中、ダンプと正面衝突寸前になり崖から飛び出しそうになったり、暴徒に囲まれて石を投げられたりの散々の道のり だった。テヘラン市内に近づいたところでは、二台の車とぶつかった。一台目とは怒鳴りあっただけ、二台目とは激しく衝突したので金で解決!
こうして、テヘランで着いた先はヒステグラルホテルと言う立派なホテルだった。ここは、イラン革命前はシェラトンホテル(ヒルトンかもしれない)だった 所を、没収した物だから立派で当たり前だ。しかし、着いた早々、アシュラの日(シーア派の指導者が拷問されて死んだ日)が始まり、イラン人が興奮している ので外出は出来ないと言われてしまった。
外出禁止令が解かれると、革命前のパーレビ国王が居住した元宮殿を見に出かけた。禿山の頂上にあるので、ロープーウェイで登らなければいけなかった。豪 華絢爛な宮殿が、今では博物館となっていた。しかし、この場所もロープーウェイが老朽化していて危ないから登るな、と日本大使館から通達が来た。
結局一日の大半をホテルに缶詰状態となったが、ホテルの中で面白い話を聞いた。そのホテルでは、革命の時に激しい戦闘が行われ、多くの人命が失われてい たのだ。一見、立派なホテルだったが、注意して調べると確かに銃弾の後などがいたるところに残されていた。・・・と言うことで、前置きは長くなったが、こ のホテルでは幽霊が出るのだ!
特にイーストタワー8階の一室には、女性の亡霊が出ると言う事だった。直接、英語が話せるメイドにも聞いて見たが、噂は真実だと言う。メイド達は、イー ストタワーの8階の掃除は、最後に残しておき、メイド全員で一緒にそのフロアーに行って掃除を行うらしい。掃除以外でも、8階に行く時は必ず二人以上で行 くそうだ。しかし、亡霊の出てくる部屋は、開かずの間となっていて、誰も立ち入る事は無いと言う。
そうなれば、早速、肝試しである。数人の仲間と、夜が更けるまで待った。夜中の12時を回った所で、イーストタワーの8階へ行った。高級ホテルだけ有って、廊下なども広くて大きなつくりだが、照明は非常に少ない。戦争中なので、エネルギー事情が悪いのだ。
薄暗い廊下を進むと、目的の部屋が見えてきた。その部屋の入り口には、鍵が幾つも取り付けられ、隙間にも板が打ち付けられて完全に目張りしてある。更 に、お札のような物がベタベタとはってある。その上近づくなと言わんばかりに、ロープで仕切りがしてあった。その異様な状況を、見せられないのが残念だ が、当時戦争中でカメラの持込が禁止されていたので写真は無い。
そこで、私は「勇気があるならエスカレーターを使わずに階段で1人で降りて来い」と仲間にそそのかされた。・・・当然、OKをして、私1人だけが、8階 から階段で降りる事になった。階段は、建物の一番端にあり、ひときわ薄暗い。薄暗く静まり返った階段は、想像以上に不気味だったが、その日はどうやら亡霊 はお留守のようで、とうとう現れる事は無かった。
それから、数日後、いつ帰国できるか分からないままホテルに滞在を続ける私たちに訃報が入った。そのホテルに足止めを食らっていた日本人の1人が、夜中に急死したのだ。日本大使館を通じて、亡くなった方の宿泊していた部屋が、臨時の告別式の場所に設えられた。
亡くなった方は、全く面識のない人だったが、日本人全員、焼香に行くようにと上司から指示があったので、私も焼香に行った。告別式が行われていたその部 屋は、イーストタワーの8階だった。そして、告別式の会場に近づくと、その部屋は、なんと例の「開かずの間」の向かいの部屋だったのだ。告別式の会場から 出ようとすると、目の前には、頑丈に封印されお札が張られた異様なドアがあるのだ。死因は、夜中の突然の心臓発作だったらしい・・・。
それ以後、二度とそのフロアーに近づかなかった事は、言うまでもない!
ミノタウルス
先週のお話と同じころの出来事です。つまり、私が5~6歳ごろのことになります。当時私の家は、大通りから奥に入ったお墓の裏にあったことは先週書いたとおりです。ある夏の日の夜でした。寝室の窓は開け放たれていました。
窓の外には空き地があり、その向こうには墓地が広がっていました。窓から右を覗くと、お隣の旅館との間の高いブロック塀が見えます。その手前には、一本 の柿の木が茂っています。私は、何気なく窓から外を見ました。そのまま窓から体を乗り出して、右のほうの柿の木を見ました。
その時、柿の木の手前に、人が腕を組んで立っていることに気付きました。めちゃくちゃでかい人です。一瞬、巨人がいると思いました。しかし、よく見ると顔は人間ではありませんでした。牛だったのです。
大きな角をもった牛の頭の巨人が腕を組んで仁王立ちしていました。私は、泣き叫びながら「おばけ」がいると家族に訴えました。その日は、普段、夜は家にいない父が、なぜか居ました。家の北側は、旅館との間の高いブロック塀に接しているため、真っ暗な死角になっています。
誰かが潜んでいるのかもしれないと父は考え、すぐに調べに行きました。しかし、真っ暗で何も見えないために、すぐに戻ってきて、マッチとロウソクを持っ て再度、出て行ったように記憶しています。しかし、家の周囲には怪物どころか、誰一人いませんでした。結局、私の見間違いだということで処理されました。
翌日、お昼前だったと思いますが、旅館の塀と家の間の通路の真ん中で、巨大な錆びた包丁が落ちているのを母が発見しました。もちろん毎日通る場所なの で、それ以前からあった可能性はありません。前日の夜の間に何者かが、包丁をおいて行ったのです。やはり、誰かが居たんだ! 変質者かもしれないと大騒ぎ になりました。
しかし、あの夜、そこに立っていたのは人間ではありません。牛の頭をもった巨人です。なぜなら、私はこの目で見たのだから。いま思い出すとギリシャ神話に出てくるクレタ島のミノタウルスそっくりでした。……というより、ミノタウルスそのものだったのです。
窓の外には空き地があり、その向こうには墓地が広がっていました。窓から右を覗くと、お隣の旅館との間の高いブロック塀が見えます。その手前には、一本 の柿の木が茂っています。私は、何気なく窓から外を見ました。そのまま窓から体を乗り出して、右のほうの柿の木を見ました。
その時、柿の木の手前に、人が腕を組んで立っていることに気付きました。めちゃくちゃでかい人です。一瞬、巨人がいると思いました。しかし、よく見ると顔は人間ではありませんでした。牛だったのです。
大きな角をもった牛の頭の巨人が腕を組んで仁王立ちしていました。私は、泣き叫びながら「おばけ」がいると家族に訴えました。その日は、普段、夜は家にいない父が、なぜか居ました。家の北側は、旅館との間の高いブロック塀に接しているため、真っ暗な死角になっています。
誰かが潜んでいるのかもしれないと父は考え、すぐに調べに行きました。しかし、真っ暗で何も見えないために、すぐに戻ってきて、マッチとロウソクを持っ て再度、出て行ったように記憶しています。しかし、家の周囲には怪物どころか、誰一人いませんでした。結局、私の見間違いだということで処理されました。
翌日、お昼前だったと思いますが、旅館の塀と家の間の通路の真ん中で、巨大な錆びた包丁が落ちているのを母が発見しました。もちろん毎日通る場所なの で、それ以前からあった可能性はありません。前日の夜の間に何者かが、包丁をおいて行ったのです。やはり、誰かが居たんだ! 変質者かもしれないと大騒ぎ になりました。
しかし、あの夜、そこに立っていたのは人間ではありません。牛の頭をもった巨人です。なぜなら、私はこの目で見たのだから。いま思い出すとギリシャ神話に出てくるクレタ島のミノタウルスそっくりでした。……というより、ミノタウルスそのものだったのです。
およげ!たいやきくん
今から30年ぐらい前の「およげ!たいやきくん」という歌がはやっていた時のことである。どうも、私の感覚が鈍ったのか感受性がなくなったのか、はたま た霊や魔物すらも寄り付かなくなったのか、書き始めてみると怖い話はすべて昔のことばかりだ。……とにかく30年ぐらい前のあるとき、私は叔父の家に行っ た。叔父はまだ三十代、3・4歳の女の子が一人いた。その時叔父の家で、私は気持ち悪いものを見せられた。一体のインディアン人形である。
一見何の変哲もない、安っぽいプラスティック製の人形である。叔父の家には同じような人形がたくさんあった。すべてパチンコの景品で、叔父が子供のため に持って帰ったものだった。ところが、叔父に言わせると、その一体のインディアン人形だけは、他と異なるという。手渡された私は、その意味がすぐにわかっ た。
髪の毛が異常に長いのだ。人形の全長(10cmぐらい)の1.5倍ぐらいある。しかも髪の毛の長さは、全く不揃いでばらばらである。その人形が叔父の家 に来た時は、髪の毛は腰のあたりできれいに切りそろえられていたという。人形の髪の毛は、どう見ても本物ではなくプラスティック製だ。その髪の毛が叔父の 家に来てから伸びたのだ。その人形は、誰が見ても異様な姿と化していた。
叔父は、その人形が何か不吉なものをもたらすのではないかと考え、非常に気にしていた。叔父によると、その人形が来てから体調が思わしくないという。そ の人形を見せられてしばらく経ったとき、叔父は突然体調を崩してしまった。胃の調子が悪くなり極端に食欲がなくなった。叔父は、大病院で精密検査を受けろ という町医者のアドバイスを無視して、気分転換に温泉療養に行くと言って出掛けた。
しかし、体調が良くなることはなくすぐに戻ってきた。進行した胃癌だった。すぐに国立病院に入院をした。入院をした当初、やはり癌で入院をしていた自分 の兄のことをしきりに心配していたが、叔父は三十代……癌の進行も非常に速かった。殆どなすすべもなく、あっという間に亡くなってしまった。
遺体は、叔父の家に運ばれ告別式が執り行われた。当時、叔父の子供は、毎日のように「およげ!たいやきくん」のレコードを聴いていた。小さな子供が毎日、自分でレコードを操作して聞いていたので、レコードの針はレコード盤の上に乗ったままの状態だった。
告別式も無事終わり、一部の親族だけが、叔父の家に泊まり寝ていたときである。真夜中、線香が香る真っ暗闇の部屋で突然「およげ!たいやきくん」の歌が 流れ始めた。音は調子はずれに、鳴り出したりとまったりと、何度となく、夜中じゅう繰り返していた。当然、その場にいた全員が気づいていたが、誰もそのこ とは口に出さなかった。いまでも、「およげ!たいやきくん」の歌を聴くとあの時の恐ろしさが込み上げてくる。
ところで、叔父の病気とインディアン人形の関連はもちろん不明だ。この事を覚えているのもおそらく私だけだろう。インディアン人形が、その後どうなったのかも分からない。
しかし、数年前にテレビで、全国から供養のための人形が集まってくるという、お寺を特集した恐怖場番組があった。その寺でも、「特にいわくつき」の人形 は地下の特別室に安置されているという。そして、その「特にいわくつき」の人形たちが、テレビに映し出されたとき、私は衝撃を受けた。その中に叔父に見せ られたインディアン人形と瓜二つのインディアン人形があったのだ! 思わず背筋が寒くなった……。
一見何の変哲もない、安っぽいプラスティック製の人形である。叔父の家には同じような人形がたくさんあった。すべてパチンコの景品で、叔父が子供のため に持って帰ったものだった。ところが、叔父に言わせると、その一体のインディアン人形だけは、他と異なるという。手渡された私は、その意味がすぐにわかっ た。
髪の毛が異常に長いのだ。人形の全長(10cmぐらい)の1.5倍ぐらいある。しかも髪の毛の長さは、全く不揃いでばらばらである。その人形が叔父の家 に来た時は、髪の毛は腰のあたりできれいに切りそろえられていたという。人形の髪の毛は、どう見ても本物ではなくプラスティック製だ。その髪の毛が叔父の 家に来てから伸びたのだ。その人形は、誰が見ても異様な姿と化していた。
叔父は、その人形が何か不吉なものをもたらすのではないかと考え、非常に気にしていた。叔父によると、その人形が来てから体調が思わしくないという。そ の人形を見せられてしばらく経ったとき、叔父は突然体調を崩してしまった。胃の調子が悪くなり極端に食欲がなくなった。叔父は、大病院で精密検査を受けろ という町医者のアドバイスを無視して、気分転換に温泉療養に行くと言って出掛けた。
しかし、体調が良くなることはなくすぐに戻ってきた。進行した胃癌だった。すぐに国立病院に入院をした。入院をした当初、やはり癌で入院をしていた自分 の兄のことをしきりに心配していたが、叔父は三十代……癌の進行も非常に速かった。殆どなすすべもなく、あっという間に亡くなってしまった。
遺体は、叔父の家に運ばれ告別式が執り行われた。当時、叔父の子供は、毎日のように「およげ!たいやきくん」のレコードを聴いていた。小さな子供が毎日、自分でレコードを操作して聞いていたので、レコードの針はレコード盤の上に乗ったままの状態だった。
告別式も無事終わり、一部の親族だけが、叔父の家に泊まり寝ていたときである。真夜中、線香が香る真っ暗闇の部屋で突然「およげ!たいやきくん」の歌が 流れ始めた。音は調子はずれに、鳴り出したりとまったりと、何度となく、夜中じゅう繰り返していた。当然、その場にいた全員が気づいていたが、誰もそのこ とは口に出さなかった。いまでも、「およげ!たいやきくん」の歌を聴くとあの時の恐ろしさが込み上げてくる。
ところで、叔父の病気とインディアン人形の関連はもちろん不明だ。この事を覚えているのもおそらく私だけだろう。インディアン人形が、その後どうなったのかも分からない。
しかし、数年前にテレビで、全国から供養のための人形が集まってくるという、お寺を特集した恐怖場番組があった。その寺でも、「特にいわくつき」の人形 は地下の特別室に安置されているという。そして、その「特にいわくつき」の人形たちが、テレビに映し出されたとき、私は衝撃を受けた。その中に叔父に見せ られたインディアン人形と瓜二つのインディアン人形があったのだ! 思わず背筋が寒くなった……。
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