大地舜・ミャンマー旅行記
(1)取材
「ミャンマーに取材に行っていただけないですか?」とK出版のIさんから聞かれたのは、一九九六年の二月。
『躍り出るアジア四都市』という本を出すので、ミャンマーの首都ヤンゴンを担当して欲しいというのだ。
当時は『苦悩の散歩道』というゴルフの本を翻訳しており、ロンドンで開かれる会議と『創世の守護神』という本の出版記念パーティーへの出席も決まっていた。だから暇ではなかった。
「五月末には原稿が欲しいんですが・・・」
私は、いつものように後先をあまり考えず「分かりました。やります」と答えた。
「人生、やりたいことをすべてやる」というのが、昔からの信条。だから「やりたい」と思うと、すぐに「イエス」と返事して、あとで、約束を守るため四苦八苦する・・・ことが多い。
このときもそうだった。
四月のロンドンでは「創世の守護神」の出版記念パーティーに出席し、グラハム・ハンコックさんを中心とする講演会に出席した。このときの往復の飛行機の中でも、ホテルの夜でも、暇があったら『苦悩の散歩道』を苦悩しながら仕上げていた。
過酷なスケジュールで死ぬ思いで『苦悩の散歩道』を完成して、ミャンマーに旅立ったのは五月の始め。一週間、ミャンマーの首都ヤンゴンに滞在して、取材に明け暮れた。ミャンマーの経済企画庁長官にインタビューし、日本人やミャンマー人のビジネスマンを取材した。 ***
ミャンマーという国は、昔はビルマと呼ばれていた。日本では「ビルマの竪琴」という本で有名だが、最近では、読んでいる人も少ないだろう。
第二次世界大戦で、日本軍はビルマに侵攻した。当時のビルマは英国の植民地。植民地解放が日本軍のうたい文句だったが、現実に、英国を追い払うと、日本軍はそこに駐留し、軍政を布いた。日本は約束を破り、独立を与えなかったのだ。
ミャンマー独立の英雄アウン・サンとその同志三〇名は、日本軍の南機関と呼ばれる諜報機関に軍事訓練され、ミャンマーに送り込まれている。なかなか日本 が約束を守ってくれないので、アウン・サンは表面的には日本が樹立していた傀儡政権の陸軍大臣だったが、裏では抗日戦線の指導者となった。
日本軍の敗戦の色が濃くなると、アウン・サン将軍はファシスト組織を結成し、社会主義者、共産主義者とも手を組み、抗日戦線を指導した。一九四五年三月には独立のための抗日戦を開始し、六月には連合軍と共に、戦勝パレードを行っている。
ミャンマーはアジアの親日国として知られている。確かに、日本人や、日本という国には親しみを感じており、子供たちと話すと、あこがれすら持っている感 じがする。でも、その思いは単純ではないだろう。それは、日本政府・軍部はビルマ独立をなかなか認めなかったこともあり、大人の世代には複雑な思いがある はずだからだ。だが、それでもミャンマーの人は日本びいきだと感じるし、ミャンマーを訪れる日本人は、たちまちミャンマーびいきになる。
ミャンマーの人は何で日本びいきなのだろう? 一つは、アウン・サンと同志三〇名が日本で訓練されたことがあるだろう。そして南機関の人々は、ビルマを独 立させるために、個人的に、日本の敗戦後もミャンマーのために尽力したようだ。そして何よりも、日本が日露戦争でロシアを破り、第二次世界大戦で欧米諸国 と戦う姿は、新鮮であり、アジアの人々にとっては驚きだったこともある。
「第二次世界大戦で、日本はアジアに侵攻した。そのおかげでインドネシアも、その他のアジアの国々も植民地支配から逃れ、独立できた。私たちは、日本に感 謝している」と、インドネシアの学生運動の指導者にいわれてびっくりしたことがある。こういう見方は、インドネシア、ミャンマー、インドなどではよく聞 く。まあ、たまたまの偶然に過ぎないが、日本も世界の帝国主義・植民地主義に終焉をもたらすという歴史上で重要な役割を果たしてきたことも間違いない。 (つづく)
『躍り出るアジア四都市』という本を出すので、ミャンマーの首都ヤンゴンを担当して欲しいというのだ。
当時は『苦悩の散歩道』というゴルフの本を翻訳しており、ロンドンで開かれる会議と『創世の守護神』という本の出版記念パーティーへの出席も決まっていた。だから暇ではなかった。
「五月末には原稿が欲しいんですが・・・」
私は、いつものように後先をあまり考えず「分かりました。やります」と答えた。
「人生、やりたいことをすべてやる」というのが、昔からの信条。だから「やりたい」と思うと、すぐに「イエス」と返事して、あとで、約束を守るため四苦八苦する・・・ことが多い。
このときもそうだった。
四月のロンドンでは「創世の守護神」の出版記念パーティーに出席し、グラハム・ハンコックさんを中心とする講演会に出席した。このときの往復の飛行機の中でも、ホテルの夜でも、暇があったら『苦悩の散歩道』を苦悩しながら仕上げていた。
過酷なスケジュールで死ぬ思いで『苦悩の散歩道』を完成して、ミャンマーに旅立ったのは五月の始め。一週間、ミャンマーの首都ヤンゴンに滞在して、取材に明け暮れた。ミャンマーの経済企画庁長官にインタビューし、日本人やミャンマー人のビジネスマンを取材した。 ***
ミャンマーという国は、昔はビルマと呼ばれていた。日本では「ビルマの竪琴」という本で有名だが、最近では、読んでいる人も少ないだろう。
第二次世界大戦で、日本軍はビルマに侵攻した。当時のビルマは英国の植民地。植民地解放が日本軍のうたい文句だったが、現実に、英国を追い払うと、日本軍はそこに駐留し、軍政を布いた。日本は約束を破り、独立を与えなかったのだ。
ミャンマー独立の英雄アウン・サンとその同志三〇名は、日本軍の南機関と呼ばれる諜報機関に軍事訓練され、ミャンマーに送り込まれている。なかなか日本 が約束を守ってくれないので、アウン・サンは表面的には日本が樹立していた傀儡政権の陸軍大臣だったが、裏では抗日戦線の指導者となった。
日本軍の敗戦の色が濃くなると、アウン・サン将軍はファシスト組織を結成し、社会主義者、共産主義者とも手を組み、抗日戦線を指導した。一九四五年三月には独立のための抗日戦を開始し、六月には連合軍と共に、戦勝パレードを行っている。
ミャンマーはアジアの親日国として知られている。確かに、日本人や、日本という国には親しみを感じており、子供たちと話すと、あこがれすら持っている感 じがする。でも、その思いは単純ではないだろう。それは、日本政府・軍部はビルマ独立をなかなか認めなかったこともあり、大人の世代には複雑な思いがある はずだからだ。だが、それでもミャンマーの人は日本びいきだと感じるし、ミャンマーを訪れる日本人は、たちまちミャンマーびいきになる。
ミャンマーの人は何で日本びいきなのだろう? 一つは、アウン・サンと同志三〇名が日本で訓練されたことがあるだろう。そして南機関の人々は、ビルマを独 立させるために、個人的に、日本の敗戦後もミャンマーのために尽力したようだ。そして何よりも、日本が日露戦争でロシアを破り、第二次世界大戦で欧米諸国 と戦う姿は、新鮮であり、アジアの人々にとっては驚きだったこともある。
「第二次世界大戦で、日本はアジアに侵攻した。そのおかげでインドネシアも、その他のアジアの国々も植民地支配から逃れ、独立できた。私たちは、日本に感 謝している」と、インドネシアの学生運動の指導者にいわれてびっくりしたことがある。こういう見方は、インドネシア、ミャンマー、インドなどではよく聞 く。まあ、たまたまの偶然に過ぎないが、日本も世界の帝国主義・植民地主義に終焉をもたらすという歴史上で重要な役割を果たしてきたことも間違いない。 (つづく)
(2)SLORC
ミャンマーを始めて訪問したとき、経済企画庁の局長クラスの方と夕食に出掛けたことがある。彼と一緒にミャンマー人の事業家も一緒だった。ミャンマーで は基本的に政府の官僚は、外国人と接触することが許されていない。だが友人の紹介があったのでYさんは特別に禁を犯して、食事に誘ってくれた。
首都ヤンゴンには湖がある。その周りには多くの料理屋がある。そんなところでYさんと食事した。
Yさんは子ども二人で奥さんと共稼ぎ、国家公務員の給料ではとても暮らしていけないそうで、夜は学校で英語も教えている。政府の役人の給料は、月給五〇〇〇円と安いが、お米は政府が支給してくれるそうで、食べることは出来るとのこと。
ちなみにミャンマーの物価は、べらぼうに安い。たとえば、食べ放題のバイキングで、一人、一〇〇円ですむ。基本的に三毛作のできる土地柄で、食べ物は豊 富。石油も国内で生産しているので、日本みたいにアラブ諸国に依存することもない。だから世界の秘境として鎖国政策も続けることが出来るのだろう。
Yさんが事業家と同伴だったのは、料理屋の食事代を払えるほどの余裕がなかったからだろう。事業家は宝石の原石を掘って加工し、輸出しているという。
「ところでアウンサン・スー・チーが政権をとったら、ミャンマーは今より豊かになりますかね? それとも民族間の闘争が激しくなり、国が分裂するのでしょうか?」
Yさんは周りを見渡して、誰にも聞かれていないことを確認した。だいたい官僚は、外国人と政治の話などは、してはいけないのだ。だが、ミャンマーの最大の問題は、今の軍事政権が、民意を代表する存在ではないことにある。
一九九〇年に民政移管の狙いもあり、総選挙を実施したが、スー・チー女史の率いるNLDが、軍部の支持する国民統一党(NUP)を圧倒した。当然、軍部は、約束通り、政権を手放すべきだったのだが、新政府の樹立を認めず政権に居座った。
これが国際的避難を浴びることになり、欧米諸国、日本からの公的援助が打ち切られた。また、世界銀行、アジア開発銀行などからの借入れも出来ない状態に置かれ、それが現在まで続いている。
軍事政権SLORCは一九八八年の三月から政権を掌握している。それまではネ・ウイン将軍が軍事独裁政権を維持し、社会主義的な政策を実施していた。ど こでも社会主義的な経済政策は破綻しているが、ミャンマーもそんな国の一つだった。経済が停滞し、闇市場が台頭し、当時の政府は、高額紙幣の突然の廃止と いう乱暴な政策を採り、一気に国民の支持を失った。
ミャンマーでは今でも銀行に口座を持つ人が少ない。簡単に高額紙幣が紙くずになるような国では、そもそも貨幣経済に信用が置けないのだ。したがって国だけでなく銀行も信用されていない。
こんな軍事独裁政権に愛想が尽きた大衆は、一九八八年三月に民主化を求めて大衆運動を起こした。血気盛んな学生たちが先頭に立ち、大衆運動は暴動と見な され軍隊によって鎮圧された。このときに学生がたくさん殺害されたが、軍の発表によると四一名、反政府側の発表では二八二名だった。
ネ・ウイン政権は戒厳令を発動したが、反政府運動は高まり、ヤンゴンでは連日一〇万人のデモが繰り広げられた。そこにミャンマーに独立をもたらした英雄 アウン・サンの娘スー・チーが反政府運動に加わり、反政府運動はピークに達した。事態を憂慮した軍部は九月一八日にクーデターを起こし、SLORC(議 長・ソウ・マウン大将)を設置して、全権を掌握し、反政府・民主化運動を徹底的に弾圧した。
ネ・ウインの社会主義政策から離れ、ミャンマーに市場経済を導入し、外国資本ヘの開放政策を採用したのも、このSLORCだった。
「私は官僚ですから、トップがだれになっても国のために一生懸命仕事をするだけです。スー・チー女史の実力は未知数です。ただ確かなのは、軍部の支持を得ないと、何も出来ないことです。ミャンマーはまだ民族間の争いがあり、軍事力なしには、国はまとまりませんから・・・」
食事が終わったら、ミャンマーの事業家が「大地さん、良いところにつれていきたいと思います」という。もっともYさんの英語の通訳を介しての会話だったが・・・。
曇り空で星もなく、月も出ていない夜だった。<エ? 二次会? ミャンマーにも夜九時過ぎまでやっている飲み屋があるの? それとも、ナイトクラブでもあるのかな?>と、好奇心が高まった。
車に乗って行ったところ、「よいところ」というのはダウンタウンにある有名なお寺だった。小さなお寺だが、こんな夜遅くでも、参拝者の数が多い。庶民の憩いの場なのに違いない。仏塔の内部にも入ることが出来た。ガラスのケースの中に貴重な品々が飾られている。
仏教の国ミャンマーの人々は、あくまでも信心深いようだ。「神や仏」と縁が薄くなってしまった身には、よい経験だった。
首都ヤンゴンには湖がある。その周りには多くの料理屋がある。そんなところでYさんと食事した。
Yさんは子ども二人で奥さんと共稼ぎ、国家公務員の給料ではとても暮らしていけないそうで、夜は学校で英語も教えている。政府の役人の給料は、月給五〇〇〇円と安いが、お米は政府が支給してくれるそうで、食べることは出来るとのこと。
ちなみにミャンマーの物価は、べらぼうに安い。たとえば、食べ放題のバイキングで、一人、一〇〇円ですむ。基本的に三毛作のできる土地柄で、食べ物は豊 富。石油も国内で生産しているので、日本みたいにアラブ諸国に依存することもない。だから世界の秘境として鎖国政策も続けることが出来るのだろう。
Yさんが事業家と同伴だったのは、料理屋の食事代を払えるほどの余裕がなかったからだろう。事業家は宝石の原石を掘って加工し、輸出しているという。
「ところでアウンサン・スー・チーが政権をとったら、ミャンマーは今より豊かになりますかね? それとも民族間の闘争が激しくなり、国が分裂するのでしょうか?」
Yさんは周りを見渡して、誰にも聞かれていないことを確認した。だいたい官僚は、外国人と政治の話などは、してはいけないのだ。だが、ミャンマーの最大の問題は、今の軍事政権が、民意を代表する存在ではないことにある。
一九九〇年に民政移管の狙いもあり、総選挙を実施したが、スー・チー女史の率いるNLDが、軍部の支持する国民統一党(NUP)を圧倒した。当然、軍部は、約束通り、政権を手放すべきだったのだが、新政府の樹立を認めず政権に居座った。
これが国際的避難を浴びることになり、欧米諸国、日本からの公的援助が打ち切られた。また、世界銀行、アジア開発銀行などからの借入れも出来ない状態に置かれ、それが現在まで続いている。
軍事政権SLORCは一九八八年の三月から政権を掌握している。それまではネ・ウイン将軍が軍事独裁政権を維持し、社会主義的な政策を実施していた。ど こでも社会主義的な経済政策は破綻しているが、ミャンマーもそんな国の一つだった。経済が停滞し、闇市場が台頭し、当時の政府は、高額紙幣の突然の廃止と いう乱暴な政策を採り、一気に国民の支持を失った。
ミャンマーでは今でも銀行に口座を持つ人が少ない。簡単に高額紙幣が紙くずになるような国では、そもそも貨幣経済に信用が置けないのだ。したがって国だけでなく銀行も信用されていない。
こんな軍事独裁政権に愛想が尽きた大衆は、一九八八年三月に民主化を求めて大衆運動を起こした。血気盛んな学生たちが先頭に立ち、大衆運動は暴動と見な され軍隊によって鎮圧された。このときに学生がたくさん殺害されたが、軍の発表によると四一名、反政府側の発表では二八二名だった。
ネ・ウイン政権は戒厳令を発動したが、反政府運動は高まり、ヤンゴンでは連日一〇万人のデモが繰り広げられた。そこにミャンマーに独立をもたらした英雄 アウン・サンの娘スー・チーが反政府運動に加わり、反政府運動はピークに達した。事態を憂慮した軍部は九月一八日にクーデターを起こし、SLORC(議 長・ソウ・マウン大将)を設置して、全権を掌握し、反政府・民主化運動を徹底的に弾圧した。
ネ・ウインの社会主義政策から離れ、ミャンマーに市場経済を導入し、外国資本ヘの開放政策を採用したのも、このSLORCだった。
「私は官僚ですから、トップがだれになっても国のために一生懸命仕事をするだけです。スー・チー女史の実力は未知数です。ただ確かなのは、軍部の支持を得ないと、何も出来ないことです。ミャンマーはまだ民族間の争いがあり、軍事力なしには、国はまとまりませんから・・・」
食事が終わったら、ミャンマーの事業家が「大地さん、良いところにつれていきたいと思います」という。もっともYさんの英語の通訳を介しての会話だったが・・・。
曇り空で星もなく、月も出ていない夜だった。<エ? 二次会? ミャンマーにも夜九時過ぎまでやっている飲み屋があるの? それとも、ナイトクラブでもあるのかな?>と、好奇心が高まった。
車に乗って行ったところ、「よいところ」というのはダウンタウンにある有名なお寺だった。小さなお寺だが、こんな夜遅くでも、参拝者の数が多い。庶民の憩いの場なのに違いない。仏塔の内部にも入ることが出来た。ガラスのケースの中に貴重な品々が飾られている。
仏教の国ミャンマーの人々は、あくまでも信心深いようだ。「神や仏」と縁が薄くなってしまった身には、よい経験だった。
(3)国造り
「軍事政権はなんでこんなに嫌われているんですかね?」
「国民を守るべき軍隊が学生を射殺したからです。きらわれるのも当然です」とY官僚。
軍事政権SLORCは何を考えているのだろう?
ミャンマーで一番尊敬されているジャーナリストと言われるKさんに「今後の国造り」について聞いてみた。Kさんの家はヤンゴンの外れにあったが、洒落た雰囲気の家だった。私のインタビューのすぐ後には英国大使の訪問があるという。
「ミャンマー軍事政権は国際的には四面楚歌ですが、これからどうやって国造りをしていくのがよいと考えていますか?」
「私はスハルト方式の民主主義がベストだと思います」
これには、耳を疑った。
「え! 本気ですか? 私は二年間インドネシアに住みましたけど、スハルト政権は最悪ですよ。スハルト独裁王国になっており、スハルト一家は好き放題をして大金持ちになり、大衆は生活に苦しんでいます。なんでそれを模範にするんですか?」
Kさんは困った様子だった。
「いやー、国には安定政権が必要です。それにはスハルト安定政権が模範になると思います」
「冗談じゃないですよ。スハルト体制は最悪の選択ですね!」
と私はつい語気を荒めてしまった。
スハルト政権の統治方法は非常にユニークだった。形は民主主義体制のように見えるが、実は、スハルトの独裁政治だった。なぜ議会民主主義の体制をとりながら独裁が出来るかというと、そこには巧妙な仕組みがあった。
第一に、国会議員の半数以上をスハルト大統領が任命できる制度が作られていた。したがって議会では常に多数派を形成できた。
第二に恐怖政治を実行していた。スハルトが政権を掌握したのは一九六五年の「九月三〇日事件」のときだが、このときに邪魔者・共産党員を五〇万人から一〇〇万に殺害している。
第三に、「九月三〇日事件」では大学生が先頭に立って、当時のスカルノ政権に反対した。したがってスハルト体制になったら、学生の指導者たちを味方に付 ける必要があった。実は当時、そんな学生指導者と私はつきあいがあったのだが、スハルトはそういう愛国的学生指導者を国会議員に指名した。この学生指導者 と数年後に会ったところ、スリムで精悍だった男がでっぷり太っていた。完全にスハルトに懐柔されてしまったことが、一目で分かった。
第四は、資金集めだ。インドネシアでも、経済の実権は華僑が握っている。スハルトは非常に有能で、華僑に献金させるため、時々、大衆に反華僑の暴動を起 こさせていた。軍事力を持たない華僑は、どうしてもスハルトが支配する軍部に身の安全を図ってもらわなければならない。そこで、スハルト大統領は、金持ち の華僑から好きなだけ、献金を絞り取ることが出来た。こうして方法でスハルトは蓄財したが、四〇〇億ドル(四兆円)といわれている。
スハルト夫人は「ミセス一〇パーセント」というあだ名があった。つまり、日本の企業などがインドネシアで受注すると、受注金の一〇%を賄賂として請求していたからだ。
<ミャンマーをスハルト王国のようにしたいのか? これがミャンマーで一番尊敬されているジャーナリストの言葉なのか? これでは軍事政権への迎合も甚 だしいのではない? 著名なジャーナリストというのは、どこの国でもしょせんこの程度のものなのか? 自分の身が可愛くて、保身に走るものなのか?>
と、いろいろ想念が浮かび、心底、このジャーナリストには失望した。「スハルト体制がベストだなんて、とんでもない。私は二年間、インドネシアに住んで いて、こんなにひどい政治はないと痛感したんですよ」と、この痩せて洗練された雰囲気を持つ、六〇歳代のインテリ・ジャーナリストに話した。
実は、この取材旅行では密かに反体制派のジャーナリスト達とも会っていた。彼らは軍部を恐れた潜伏しており、アウンサン・スーチーの政権奪取を望んでい た。「ミャンマーでも民主主義は成り立つ」というのが彼らの主張だった。そう言えばミャンマーの識字率はアジアでは日本の次ぎに高いのだ。そのせいか町に は古本屋街もある。
さて、ミャンマーの町を歩くと、兵隊の姿も見えず、極めて平和に見える。これが軍事独裁の国? と疑いたくなるほどだ。だが、それは政治的活動をしない ことが条件だ。軍事政権SLORCは決して甘い存在ではない。反政府の政治活動をするものにたいしては、徹底した弾圧をしている印象だった。
だが軍事政権SLORCはこれからどんな国造りをしていきたいのだろう? スハルト体制のまねをするのだけは、辞めて欲しいものだ。なぜなら社会正義が 行われないからだ。ミャンマーの真の実力者であるNO.2のキエン将軍は質実剛健な生活をしているという。だが、一方、将軍達が利権漁りをしているのも事 実だ。
私は、ミャンマーの国造りに少しでも役に立ちたいと思い、ミャンマーの将来性ある若者を日本に招待して、世界の一部を見て視野を拡げてもらいたいと思っ ている。なんといっても、英雄アウンサンも日本でいろいろ学んでいるし、ミャンマーの人々は私たちの仲間だと感じているからだ。
「国民を守るべき軍隊が学生を射殺したからです。きらわれるのも当然です」とY官僚。
軍事政権SLORCは何を考えているのだろう?
ミャンマーで一番尊敬されているジャーナリストと言われるKさんに「今後の国造り」について聞いてみた。Kさんの家はヤンゴンの外れにあったが、洒落た雰囲気の家だった。私のインタビューのすぐ後には英国大使の訪問があるという。
「ミャンマー軍事政権は国際的には四面楚歌ですが、これからどうやって国造りをしていくのがよいと考えていますか?」
「私はスハルト方式の民主主義がベストだと思います」
これには、耳を疑った。
「え! 本気ですか? 私は二年間インドネシアに住みましたけど、スハルト政権は最悪ですよ。スハルト独裁王国になっており、スハルト一家は好き放題をして大金持ちになり、大衆は生活に苦しんでいます。なんでそれを模範にするんですか?」
Kさんは困った様子だった。
「いやー、国には安定政権が必要です。それにはスハルト安定政権が模範になると思います」
「冗談じゃないですよ。スハルト体制は最悪の選択ですね!」
と私はつい語気を荒めてしまった。
スハルト政権の統治方法は非常にユニークだった。形は民主主義体制のように見えるが、実は、スハルトの独裁政治だった。なぜ議会民主主義の体制をとりながら独裁が出来るかというと、そこには巧妙な仕組みがあった。
第一に、国会議員の半数以上をスハルト大統領が任命できる制度が作られていた。したがって議会では常に多数派を形成できた。
第二に恐怖政治を実行していた。スハルトが政権を掌握したのは一九六五年の「九月三〇日事件」のときだが、このときに邪魔者・共産党員を五〇万人から一〇〇万に殺害している。
第三に、「九月三〇日事件」では大学生が先頭に立って、当時のスカルノ政権に反対した。したがってスハルト体制になったら、学生の指導者たちを味方に付 ける必要があった。実は当時、そんな学生指導者と私はつきあいがあったのだが、スハルトはそういう愛国的学生指導者を国会議員に指名した。この学生指導者 と数年後に会ったところ、スリムで精悍だった男がでっぷり太っていた。完全にスハルトに懐柔されてしまったことが、一目で分かった。
第四は、資金集めだ。インドネシアでも、経済の実権は華僑が握っている。スハルトは非常に有能で、華僑に献金させるため、時々、大衆に反華僑の暴動を起 こさせていた。軍事力を持たない華僑は、どうしてもスハルトが支配する軍部に身の安全を図ってもらわなければならない。そこで、スハルト大統領は、金持ち の華僑から好きなだけ、献金を絞り取ることが出来た。こうして方法でスハルトは蓄財したが、四〇〇億ドル(四兆円)といわれている。
スハルト夫人は「ミセス一〇パーセント」というあだ名があった。つまり、日本の企業などがインドネシアで受注すると、受注金の一〇%を賄賂として請求していたからだ。
<ミャンマーをスハルト王国のようにしたいのか? これがミャンマーで一番尊敬されているジャーナリストの言葉なのか? これでは軍事政権への迎合も甚 だしいのではない? 著名なジャーナリストというのは、どこの国でもしょせんこの程度のものなのか? 自分の身が可愛くて、保身に走るものなのか?>
と、いろいろ想念が浮かび、心底、このジャーナリストには失望した。「スハルト体制がベストだなんて、とんでもない。私は二年間、インドネシアに住んで いて、こんなにひどい政治はないと痛感したんですよ」と、この痩せて洗練された雰囲気を持つ、六〇歳代のインテリ・ジャーナリストに話した。
実は、この取材旅行では密かに反体制派のジャーナリスト達とも会っていた。彼らは軍部を恐れた潜伏しており、アウンサン・スーチーの政権奪取を望んでい た。「ミャンマーでも民主主義は成り立つ」というのが彼らの主張だった。そう言えばミャンマーの識字率はアジアでは日本の次ぎに高いのだ。そのせいか町に は古本屋街もある。
さて、ミャンマーの町を歩くと、兵隊の姿も見えず、極めて平和に見える。これが軍事独裁の国? と疑いたくなるほどだ。だが、それは政治的活動をしない ことが条件だ。軍事政権SLORCは決して甘い存在ではない。反政府の政治活動をするものにたいしては、徹底した弾圧をしている印象だった。
だが軍事政権SLORCはこれからどんな国造りをしていきたいのだろう? スハルト体制のまねをするのだけは、辞めて欲しいものだ。なぜなら社会正義が 行われないからだ。ミャンマーの真の実力者であるNO.2のキエン将軍は質実剛健な生活をしているという。だが、一方、将軍達が利権漁りをしているのも事 実だ。
私は、ミャンマーの国造りに少しでも役に立ちたいと思い、ミャンマーの将来性ある若者を日本に招待して、世界の一部を見て視野を拡げてもらいたいと思っ ている。なんといっても、英雄アウンサンも日本でいろいろ学んでいるし、ミャンマーの人々は私たちの仲間だと感じているからだ。
(4) 文化交流
前回まで書いた旅行の取材記録は「躍り出るアジア四都市」(かんき出版)に収録されて出版された。
このときのミャンマーの印象はよかった。
人々は温和で礼儀正しく、親日的だし、間違いなくアジア的価値観を共有する国。だが、経済封鎖され、鎖国状態にあり、海外を見学できる若者の数も限られている。
ミャンマーがどんな国になっていくかは分からない。だが、少なくとも国を背負って立つことになる若い人たちにもっと海外見学の機会を与えることができな いだろうか? アジアの一国である日本は、ミャンマーにもっと関心を持っていいのではないか? ミャンマーの国造りに支援の手を差し伸べてもいいのではな いか? というわけで、個人レベル、ボランティアレベルで出来ることをすることにした。 ミャンマーとの若者交流だ。
小田原には財団法人MRAハウスが経営するアジアセンターがある。財団法人は同時にLIOJ(日本言語研究所)という英会話学校も経営している。実は、私はこのLIOJの第一回卒業生。ここの中山専務理事とは大学生時代からの友人。
「今度、ミャンマーと若者交流をしたいと考えているんだけど・・・」
「それは素晴らしい。実は、僕もなにかやりたかったんだ。ところで、ミャミャウインさんを知ってる?」
「知らないですね」
「民宿ビルマの経営者で、よくテレビでも紹介されているし、アジアセンターのセミナーなどではよく講演をお願いしてるんですよ。ミャンマーと文化交流するなら、この方と一緒にするといいと思うな」
そんな話があったあと、中山専務とヤンゴンで会い、ミャミャウインさんを紹介して頂くことになった。
ヤンゴン空港に着いた。それらしき人はいないかな、と、ちらちら空港ロビーを見渡すと、ふくよかな美人がいた。それがミャミャさんだった。若いときは女優だったとかで、五〇歳を過ぎても優雅で魅力的な身のこなしだ。これでますますミャンマーが気に入った。
「ダイチさん、始めまして」と、流ちょうな日本語で挨拶をする。着ている服は薄いピンクの民俗服。空港のロビーから外へ出ると、ヤンゴンの町は電灯が少 なく暗い。ミャミャさんのクルマでホテルまで送ってもらった。中山専務はインドからヤンゴンに向かっているが、飛行機の都合で到着が一日遅れるそうだ。
翌日には中山専務も到着。早速、ミャミャさんに若者交流計画の概要を話した。グループの名前だけは出来ていた。GLOBAL YOUTH UNITED(GYU)・・・つまり「世界の若者よ、団結しよう」だ。会規には、若者の定義がある。もちろん「YOUNG AT HEART」も若者に分 類される・・・そうでなくては、私はどうしたらいいんだ!
ミャミャさんに話したこと。
議論をする前に信頼関係が必要なのだ。まず友人にならないと、議論は水掛け論に終わってしまう。だから、私が主催したり、後援する若者交流の基本は「友情作り」にある。
「わたし、ミャンマーGYUの一員になりたいわ。今すぐでも」とミャミャさん。
「ミャミャさんにはミャンマーのGYUの代表になって欲しいな」と私。
数日後に、ミャンマーの文部大臣に会うことになった。ミャミャさんが手配してくださったのだ。
GYUの説明が終わると文部大臣が聞いた。
「それで私は何をしたらいいんだ?」
「一つはLIOJが夏に語学セミナーを日本の小田原で開くので、どなたか適切な方を派遣していただきたい」と中山専務。「ヤンゴン経済大学の学生や講師クラスを日本に呼びたいのだが、応援していただけるだろうか?」と私。
「では、学長二人に会って話しなさい」と大臣。その場ですぐに電話がかけられ、大学側は、私たちの到来を待っているという。
ヤンゴン経済大学の学長は「ミャンマーを背負っていく若者を派遣することを約束します。決して、コネで政府関係者の子弟を選ぶようなことはしません」と熱弁を振るった。ヤンゴン外国語大学の学長も、極めて友好的で、最高の人材をセミナーに派遣してくれるという。
語学セミナーの方には素晴らし教授クラスの方が来た。ヤンゴン経済大学との若者交流はまだ実現していない。軍事政権が学生運動を警戒し、大学キャンパスをヤンゴン市内から郊外に移動するなど、ごたごたは続いたためだ。だが、今年は、なんとかなりそう。
このときのミャンマーの印象はよかった。
人々は温和で礼儀正しく、親日的だし、間違いなくアジア的価値観を共有する国。だが、経済封鎖され、鎖国状態にあり、海外を見学できる若者の数も限られている。
ミャンマーがどんな国になっていくかは分からない。だが、少なくとも国を背負って立つことになる若い人たちにもっと海外見学の機会を与えることができな いだろうか? アジアの一国である日本は、ミャンマーにもっと関心を持っていいのではないか? ミャンマーの国造りに支援の手を差し伸べてもいいのではな いか? というわけで、個人レベル、ボランティアレベルで出来ることをすることにした。 ミャンマーとの若者交流だ。
小田原には財団法人MRAハウスが経営するアジアセンターがある。財団法人は同時にLIOJ(日本言語研究所)という英会話学校も経営している。実は、私はこのLIOJの第一回卒業生。ここの中山専務理事とは大学生時代からの友人。
「今度、ミャンマーと若者交流をしたいと考えているんだけど・・・」
「それは素晴らしい。実は、僕もなにかやりたかったんだ。ところで、ミャミャウインさんを知ってる?」
「知らないですね」
「民宿ビルマの経営者で、よくテレビでも紹介されているし、アジアセンターのセミナーなどではよく講演をお願いしてるんですよ。ミャンマーと文化交流するなら、この方と一緒にするといいと思うな」
そんな話があったあと、中山専務とヤンゴンで会い、ミャミャウインさんを紹介して頂くことになった。
ヤンゴン空港に着いた。それらしき人はいないかな、と、ちらちら空港ロビーを見渡すと、ふくよかな美人がいた。それがミャミャさんだった。若いときは女優だったとかで、五〇歳を過ぎても優雅で魅力的な身のこなしだ。これでますますミャンマーが気に入った。
「ダイチさん、始めまして」と、流ちょうな日本語で挨拶をする。着ている服は薄いピンクの民俗服。空港のロビーから外へ出ると、ヤンゴンの町は電灯が少 なく暗い。ミャミャさんのクルマでホテルまで送ってもらった。中山専務はインドからヤンゴンに向かっているが、飛行機の都合で到着が一日遅れるそうだ。
翌日には中山専務も到着。早速、ミャミャさんに若者交流計画の概要を話した。グループの名前だけは出来ていた。GLOBAL YOUTH UNITED(GYU)・・・つまり「世界の若者よ、団結しよう」だ。会規には、若者の定義がある。もちろん「YOUNG AT HEART」も若者に分 類される・・・そうでなくては、私はどうしたらいいんだ!
ミャミャさんに話したこと。
- 若者の交流で、年一回、ミャンマーの将来有望な若者を三週間、日本に招待して、工場見学や会社見学をして、家庭に泊まり、京都・奈良なども観光する。
- 年一回、日本から若者をミャンマーに送り、ミャンマーの若者との友情を築き上げていく。
- 過去三〇年、タイ王国やフィリピンとの若者交流を行ってきた経験から、あまり深刻な議論をするような交流はしない。一緒にゲームや旅行をして遊ぶことが大切。
議論をする前に信頼関係が必要なのだ。まず友人にならないと、議論は水掛け論に終わってしまう。だから、私が主催したり、後援する若者交流の基本は「友情作り」にある。
「わたし、ミャンマーGYUの一員になりたいわ。今すぐでも」とミャミャさん。
「ミャミャさんにはミャンマーのGYUの代表になって欲しいな」と私。
数日後に、ミャンマーの文部大臣に会うことになった。ミャミャさんが手配してくださったのだ。
GYUの説明が終わると文部大臣が聞いた。
「それで私は何をしたらいいんだ?」
「一つはLIOJが夏に語学セミナーを日本の小田原で開くので、どなたか適切な方を派遣していただきたい」と中山専務。「ヤンゴン経済大学の学生や講師クラスを日本に呼びたいのだが、応援していただけるだろうか?」と私。
「では、学長二人に会って話しなさい」と大臣。その場ですぐに電話がかけられ、大学側は、私たちの到来を待っているという。
ヤンゴン経済大学の学長は「ミャンマーを背負っていく若者を派遣することを約束します。決して、コネで政府関係者の子弟を選ぶようなことはしません」と熱弁を振るった。ヤンゴン外国語大学の学長も、極めて友好的で、最高の人材をセミナーに派遣してくれるという。
語学セミナーの方には素晴らし教授クラスの方が来た。ヤンゴン経済大学との若者交流はまだ実現していない。軍事政権が学生運動を警戒し、大学キャンパスをヤンゴン市内から郊外に移動するなど、ごたごたは続いたためだ。だが、今年は、なんとかなりそう。