サッカーはフェアなスポーツか?
サッカーは独裁者を崇拝するスポーツらしい。
民主主義を標榜する欧州諸国で、サッカーがこんなに人気があるのは、なにか不思議な気がする。
サッカーでは22名のプレーヤーが試合をしているのに、審判は3名しかいない。
野球のプレーヤーは半分の10名で、審判は4名。
相撲ならば2人の試合に5名の審判がつく。
テニスでも2人の試合に11名の審判がつく。
それでも審判ミスはたびたび起こる。
サッカーの主審は絶対者で、あらゆる判断ミスも許されて、試合の勝敗を決めてしまう。
もちろん主審に選ばれるかたは、それなりに人格者であり、フェアの審判を心がけているのだろう。
でも現状は、お粗末な限りで、結果的には極めてアンフェアなスポーツになっている。
これはサッカーのルールが間違っているのだろう。
せめて主審を2人置いて、線審を4名にして、責任範囲を現在の広さの半分にするべきだ。
もちろん選手にもフェアプレー精神が欠けている。今回のワールドカップを見ていると、体当たりをするなどラフプレーが多い。
日本対オーストラリア戦では、日本の最初のゴールに疑問がつけられた。高原がゴールキーパーに衝突したからだ。
私はマニラのホテルの大型テレビで試合を観ていたが、英国人のコメンテーターたちは、これをファールだとは見なしていなかった。高原は意図的に体当たりしてはいないし、一方、オーストラリアの選手たちは意識的にラフプレーをしていたからだ。
オーストラリアの選手たちのプレーはラフで、日本のゴールキーパーの川口選手は、なんども体当たりされて吹っ飛ばされていた。その場面が繰り返し、繰り返し、テレビ画面に映し出されていた。
一方、駒野に足を引っかけて倒したオーストラリア選手のラフプレーに、ペナルティーは与えられなかった。これも主審がアンフェアであることを如実に示している。
オーストラリアの選手たちに脅かされたアラブ人の審判は、オーストラリア側に有利な判定をしたことになる。
この駒野の対するラフプレーに関して、エジプト人の主審がミス判断をしたたことは、FIFAの大会運営当局も認めている。
試合がフェアに判定されなかったならば、日本対オーストラリアの試合は、本来は再試合とすべきもの。そのような例は過去にもあった(ワールドカップではなかったかもしれまないが・・・)。
サッカーの試合がフェアであることを望むならば、日本のサッカー関係者が、FIFAに再試合の申請をするべきだ。だが何も聞こえてこないが、奇妙な事だ。
サッカーではホームチームに有利な判定をするのが、当たり前と考えられている。たとえば明らかなオフサイド(ゴールが蹴られたときに、相手方よりもゴールの近くにいる反則)があっても、ホームチームが犯した場合は、大目にみられることが多い。2002年のワールドカップでもよく見られた判定だ。
サッカーの審判員にはフェアプレーの精神など、存在しないのか? そうではないだろう。やはりシステムが間違っているにちがい無い。主審を独裁者にするのではなく、主審を2人として、責任範囲を狭めるべきだ。さらには線審も4名にすべき。そうでなければ、正しい審判はとてもできない。
サッカーはフェアプレー重んじる美しいスポーツだと思っていた。でも今や、国と国の闘争心をまるだしにする、汚いスポーツになってしまった。せめて主審を2人に増やし、線審を4名にして、より正確な審判を実現すべきだ。
民主主義を標榜する欧州諸国で、サッカーがこんなに人気があるのは、なにか不思議な気がする。
サッカーでは22名のプレーヤーが試合をしているのに、審判は3名しかいない。
野球のプレーヤーは半分の10名で、審判は4名。
相撲ならば2人の試合に5名の審判がつく。
テニスでも2人の試合に11名の審判がつく。
それでも審判ミスはたびたび起こる。
サッカーの主審は絶対者で、あらゆる判断ミスも許されて、試合の勝敗を決めてしまう。
もちろん主審に選ばれるかたは、それなりに人格者であり、フェアの審判を心がけているのだろう。
でも現状は、お粗末な限りで、結果的には極めてアンフェアなスポーツになっている。
これはサッカーのルールが間違っているのだろう。
せめて主審を2人置いて、線審を4名にして、責任範囲を現在の広さの半分にするべきだ。
もちろん選手にもフェアプレー精神が欠けている。今回のワールドカップを見ていると、体当たりをするなどラフプレーが多い。
日本対オーストラリア戦では、日本の最初のゴールに疑問がつけられた。高原がゴールキーパーに衝突したからだ。
私はマニラのホテルの大型テレビで試合を観ていたが、英国人のコメンテーターたちは、これをファールだとは見なしていなかった。高原は意図的に体当たりしてはいないし、一方、オーストラリアの選手たちは意識的にラフプレーをしていたからだ。
オーストラリアの選手たちのプレーはラフで、日本のゴールキーパーの川口選手は、なんども体当たりされて吹っ飛ばされていた。その場面が繰り返し、繰り返し、テレビ画面に映し出されていた。
一方、駒野に足を引っかけて倒したオーストラリア選手のラフプレーに、ペナルティーは与えられなかった。これも主審がアンフェアであることを如実に示している。
オーストラリアの選手たちに脅かされたアラブ人の審判は、オーストラリア側に有利な判定をしたことになる。
この駒野の対するラフプレーに関して、エジプト人の主審がミス判断をしたたことは、FIFAの大会運営当局も認めている。
試合がフェアに判定されなかったならば、日本対オーストラリアの試合は、本来は再試合とすべきもの。そのような例は過去にもあった(ワールドカップではなかったかもしれまないが・・・)。
サッカーの試合がフェアであることを望むならば、日本のサッカー関係者が、FIFAに再試合の申請をするべきだ。だが何も聞こえてこないが、奇妙な事だ。
サッカーではホームチームに有利な判定をするのが、当たり前と考えられている。たとえば明らかなオフサイド(ゴールが蹴られたときに、相手方よりもゴールの近くにいる反則)があっても、ホームチームが犯した場合は、大目にみられることが多い。2002年のワールドカップでもよく見られた判定だ。
サッカーの審判員にはフェアプレーの精神など、存在しないのか? そうではないだろう。やはりシステムが間違っているにちがい無い。主審を独裁者にするのではなく、主審を2人として、責任範囲を狭めるべきだ。さらには線審も4名にすべき。そうでなければ、正しい審判はとてもできない。
サッカーはフェアプレー重んじる美しいスポーツだと思っていた。でも今や、国と国の闘争心をまるだしにする、汚いスポーツになってしまった。せめて主審を2人に増やし、線審を4名にして、より正確な審判を実現すべきだ。
サッカーはなぜ人気があるのか?
ワールドカップも終わり、イタリアが勝利を収めた。
勝敗よりも、衝撃的だったのはフランスの主将ジダンの頭突きだった。ジダンはレッドカードで退場となったが、後悔はしていないという。
選手はどんな汚いことをされても、怒って頭突きなどをしてはいけないというのがサッカーのルールだ。そしてサッカーは主審という独裁者には、絶対に服従することを教えている。
ということは、サッカーというスポーツは、独裁者・支配権力に都合の良い教訓を教えているのだろうか?
ジダンがレッドカードをもらったからフランスが負けたわけではないが、そうなってもおかしくないのがサッカーだ。もしフランスがジダンの退場で負けていたら、汚いことをやるチームが勝つことになるが、それはサッカーの世界では日常茶飯事だ。奇妙なことに、汚いことを行うチームを、主審も結果的に支援することが多い。さらに奇妙なのは、それがサッカーの魅力となっていることだ。
大衆は絶対者による理不尽な扱いが行われるサッカーが大好きだ。それはなぜだろう?
サッカーの世界は現実社会そのものだ。汚いことをやるヤツが勝ち、ルールは守られず、理不尽な扱いをされても我慢しなければならない。一方、主審という権力者には、いやでも従わなくてはならない。これはホリエモンや村上ファンドの住む世界に良く似ているのではないだろうか。
サッカーは大衆に人気があるが、人々は、社会で経験する理不尽な取り扱い、不公平、権力の横暴、努力の虚しさ、偶然、幸運、不運、差別、偏見などを、サッカー・ゲームを通して再体験して、納得しているのではないだろうか。
不公平な現実を見て人々は我が身に思いをはせ、怒りを爆発させる。サッカーは大衆の不満のはけ口として、最高のようだ。
つまりサッカーの世界は弱肉強食で、ルールは破られるし、フェアプレーからはほど遠い現実社会に似たスポーツだから大衆に受けるのではないだろうか。
フェアプレーが尊ばれるテニスは紳士のスポーツだが、サッカーほど大衆に愛されてはいない。たくさんの審判に囲まれて厳密にルールが守られるテニスの世界は非現実的であり、理想社会であり、大衆に身近な存在ではないのだろう。
韓国も主審の誤審で負けた
日本のサッカーもオーストラリア戦で主審による誤審で負けたが、韓国も同じ憂き目に遭った。韓国の場合、相手チームに明らかなオフサイドがあったのに、主審が無視したのだ。
無視したのは明らかに誤審であり、主審によるルール違反だ。
スイスの選手がボールを蹴り、ゴールポストのそばにいたスイス選手にボールが渡った。線審はすぐにオフサイドの旗を揚げた。ところが主審が、その判定をくつがえした。なぜなら、最初のスイス選手が蹴ったボールが、韓国選手に当たり、それからゴール前のスイス選手に渡ったからだという。
これほどサッカーのルールというのはいい加減なのだ。というか独裁者・主審のレベルは低いのだ。しかし、このレベルの低さがサッカーの魅力になっているのだから不思議だ。
最初に、スイスの選手がボールをゴール前のスイス選手に向けて蹴ったとき、オフサイドが成立した。だから線審は旗を揚げた。だがそのボールはゴール前のスイス選手に直接渡らず、韓国の選手が触った。その後は、確かにオフサイドではなくなる。
だが、線審が旗を揚げたときに、すでにオフサイドは成立している。その時点で、ゴールの真ん前にスイス選手はいてはいけなかったのだ。これを許したら不公平になる。したがって、そこでゲームを止めるのが筋だろう。現に旗があがったのをみた韓国の選手たちは動きを止めてしまった。
ところが主審の独断と偏見でゲームが継続され、韓国は1点を失った。これが敗戦の決定的な1点となった。
このようにサッカーというのは、フェアな世界を求める人には、不向きだ。
先日、わが家にオーストラリアの男子高校生が遊びに来た。彼は高校のサッカー部で正選手をしている。
彼に私の意見をぶつけてみたら、まったく異論はないという。主審は独裁者だし、選手たちは独裁者の目の届かないところで、いんちき、汚ないプレーをすることに必死だという。まるで村上ファンドかホリエモンだ。見つかれば罰せられるが、見つからなければ問題ない。むしろ汚いことを行うと得をすることが多いのがサッカーだという。
フェアプレーや、紳士的な行動などは、サッカーにおいては建前に過ぎない。だからフランスのジダンの激高による頭突きという自己主張は、私には納得できる。そうでもしなければ、正義が貫けないのだ。
このようにアンフェアで汚い世界なので、大衆は我が身に想いを馳せて、さらに興奮する。サッカーが大衆に人気があるのは、実社会によく似た矛盾だらけの不公平・不合理な世界だからに違いない。
勝敗よりも、衝撃的だったのはフランスの主将ジダンの頭突きだった。ジダンはレッドカードで退場となったが、後悔はしていないという。
選手はどんな汚いことをされても、怒って頭突きなどをしてはいけないというのがサッカーのルールだ。そしてサッカーは主審という独裁者には、絶対に服従することを教えている。
ということは、サッカーというスポーツは、独裁者・支配権力に都合の良い教訓を教えているのだろうか?
ジダンがレッドカードをもらったからフランスが負けたわけではないが、そうなってもおかしくないのがサッカーだ。もしフランスがジダンの退場で負けていたら、汚いことをやるチームが勝つことになるが、それはサッカーの世界では日常茶飯事だ。奇妙なことに、汚いことを行うチームを、主審も結果的に支援することが多い。さらに奇妙なのは、それがサッカーの魅力となっていることだ。
大衆は絶対者による理不尽な扱いが行われるサッカーが大好きだ。それはなぜだろう?
サッカーの世界は現実社会そのものだ。汚いことをやるヤツが勝ち、ルールは守られず、理不尽な扱いをされても我慢しなければならない。一方、主審という権力者には、いやでも従わなくてはならない。これはホリエモンや村上ファンドの住む世界に良く似ているのではないだろうか。
サッカーは大衆に人気があるが、人々は、社会で経験する理不尽な取り扱い、不公平、権力の横暴、努力の虚しさ、偶然、幸運、不運、差別、偏見などを、サッカー・ゲームを通して再体験して、納得しているのではないだろうか。
不公平な現実を見て人々は我が身に思いをはせ、怒りを爆発させる。サッカーは大衆の不満のはけ口として、最高のようだ。
つまりサッカーの世界は弱肉強食で、ルールは破られるし、フェアプレーからはほど遠い現実社会に似たスポーツだから大衆に受けるのではないだろうか。
フェアプレーが尊ばれるテニスは紳士のスポーツだが、サッカーほど大衆に愛されてはいない。たくさんの審判に囲まれて厳密にルールが守られるテニスの世界は非現実的であり、理想社会であり、大衆に身近な存在ではないのだろう。
韓国も主審の誤審で負けた
日本のサッカーもオーストラリア戦で主審による誤審で負けたが、韓国も同じ憂き目に遭った。韓国の場合、相手チームに明らかなオフサイドがあったのに、主審が無視したのだ。
無視したのは明らかに誤審であり、主審によるルール違反だ。
スイスの選手がボールを蹴り、ゴールポストのそばにいたスイス選手にボールが渡った。線審はすぐにオフサイドの旗を揚げた。ところが主審が、その判定をくつがえした。なぜなら、最初のスイス選手が蹴ったボールが、韓国選手に当たり、それからゴール前のスイス選手に渡ったからだという。
これほどサッカーのルールというのはいい加減なのだ。というか独裁者・主審のレベルは低いのだ。しかし、このレベルの低さがサッカーの魅力になっているのだから不思議だ。
最初に、スイスの選手がボールをゴール前のスイス選手に向けて蹴ったとき、オフサイドが成立した。だから線審は旗を揚げた。だがそのボールはゴール前のスイス選手に直接渡らず、韓国の選手が触った。その後は、確かにオフサイドではなくなる。
だが、線審が旗を揚げたときに、すでにオフサイドは成立している。その時点で、ゴールの真ん前にスイス選手はいてはいけなかったのだ。これを許したら不公平になる。したがって、そこでゲームを止めるのが筋だろう。現に旗があがったのをみた韓国の選手たちは動きを止めてしまった。
ところが主審の独断と偏見でゲームが継続され、韓国は1点を失った。これが敗戦の決定的な1点となった。
このようにサッカーというのは、フェアな世界を求める人には、不向きだ。
先日、わが家にオーストラリアの男子高校生が遊びに来た。彼は高校のサッカー部で正選手をしている。
彼に私の意見をぶつけてみたら、まったく異論はないという。主審は独裁者だし、選手たちは独裁者の目の届かないところで、いんちき、汚ないプレーをすることに必死だという。まるで村上ファンドかホリエモンだ。見つかれば罰せられるが、見つからなければ問題ない。むしろ汚いことを行うと得をすることが多いのがサッカーだという。
フェアプレーや、紳士的な行動などは、サッカーにおいては建前に過ぎない。だからフランスのジダンの激高による頭突きという自己主張は、私には納得できる。そうでもしなければ、正義が貫けないのだ。
このようにアンフェアで汚い世界なので、大衆は我が身に想いを馳せて、さらに興奮する。サッカーが大衆に人気があるのは、実社会によく似た矛盾だらけの不公平・不合理な世界だからに違いない。