海の人類史
プロローグ
最近古人類学の分野で発見が相次いでいる。去年、700万年前と思われる世界最古の猿人の発見が報告されたばかりだが、つい先日も、世界最古の解剖学的現 代人ホモ・サピエンスの化石が、アフリカで発見された。この発見によって、現代人の祖先はアフリカに誕生した一人の女性ミトコンドリア・イブだったとする 「アフリカ単一起源説」が、あたかも真実のように報道されている。
確かに多くの研究者の報告を見るとアフリカにミトコンドリア・イブが存在した事は、事実と考えられる。しかし、ここで注意しなくてはいけないことは、 「アフリカ単一起源説」は、当時世界中に広がっていたヒト科の生物をすべて滅ぼし入れ替わったとされている点である。アフリカにミトコンドリア・イブが誕 生したとされる15~20万年前、ヨーロッパにはネアンデルタール人、アジアには北京原人やジャワ原人から進化した前人類が住んでいた。これらの前人類と まったく交配を行うことなく、すべて滅ぼしてしまい、現代人だけが生き残る事など可能だったのだろうか。
そもそも、人類は何故、類人猿と共通の祖先を持ちながら、まったく違う方向に進化を始めたのだろうか。現在、人類学者の大半が認める有力な仮説は「サバンナ・モザイク」である。だが、客観的に、これらの仮説を見てみると数多くの矛盾点が存在する。
人類学者が間違っているとは言わないが、自分の発見や研究に力を注ぎすぎて全体を見渡す事が出来なくなっているのではないだろうか。そこで、世界中の人類学者の研究成果を総動員して、新しい進化モデルを考えてみる事にした。
もちろんこの進化モデルが、正しいかどうかはわからない。しかし、古人類学、分子生物学、動物学、行動学、歴史事実等、もてる知識を総動員して、ヒト科の誕生から現代人の拡散に至るまでモデルを組み立てたので、それなりに確信に迫っているのではと考えている。
この人類進化モデルの中では、人間、人、ヒト、人類、前人類、ホモ属、ヒト科等多くの表現が、人間を指す言葉として用いられている。人間、人は一般的にヒ トをさす意味で用いられ深い意味は無い。カタカナで、ヒトと書いた時は、解剖学的に体の特徴を意識した時の表現として用いている。人類は、多くの生物種の 中でヒトと言う種の位置付けを意識した時に用いている。
ホモ属は、学名の属のレベルでヒトに分類されている物を示す。前人類とは、現代人以前の絶滅したすべてのホモ属を指す。残念ながら、これらの表現すべてが適切に用いられているわけでは無いが、出来るだけ意識して用いる様にしている。
ヒト科は、類人猿と共通の祖先から別れた最初のヒトの祖先から、現代人までのすべてを含む。現在ヒト科の動物としては、ホモ・サピエンス・サピエンスつ まり解剖学的現代人ただ一種が存在するのみである。ヒト科の一つ上の分類には、ヒト上科が設けられているが、この中には、ヒト科、オランウータン科(チン パンジーや、ゴリラも含まれる)、テナガザル科の三種類が属している。
一般的に学名は、科の下の分類である属名と種名を表記する。亜種が存在する時は、より正確に表現する場合に、亜種名まで含めて表記する事もある。現代人 がホモ・サピエンス・サピエンスと表現される時は、ホモ族、サピエンス種、サピエンス亜種と表記されている事になる。ちなみにかの有名なネアンデルタール 人は、ホモ族、サピエンス種のネアンデルターレンシス亜種である。
難しい話は、これぐらいにして、まったく新しい人類史の旅に出る事にしよう。
確かに多くの研究者の報告を見るとアフリカにミトコンドリア・イブが存在した事は、事実と考えられる。しかし、ここで注意しなくてはいけないことは、 「アフリカ単一起源説」は、当時世界中に広がっていたヒト科の生物をすべて滅ぼし入れ替わったとされている点である。アフリカにミトコンドリア・イブが誕 生したとされる15~20万年前、ヨーロッパにはネアンデルタール人、アジアには北京原人やジャワ原人から進化した前人類が住んでいた。これらの前人類と まったく交配を行うことなく、すべて滅ぼしてしまい、現代人だけが生き残る事など可能だったのだろうか。
そもそも、人類は何故、類人猿と共通の祖先を持ちながら、まったく違う方向に進化を始めたのだろうか。現在、人類学者の大半が認める有力な仮説は「サバンナ・モザイク」である。だが、客観的に、これらの仮説を見てみると数多くの矛盾点が存在する。
人類学者が間違っているとは言わないが、自分の発見や研究に力を注ぎすぎて全体を見渡す事が出来なくなっているのではないだろうか。そこで、世界中の人類学者の研究成果を総動員して、新しい進化モデルを考えてみる事にした。
もちろんこの進化モデルが、正しいかどうかはわからない。しかし、古人類学、分子生物学、動物学、行動学、歴史事実等、もてる知識を総動員して、ヒト科の誕生から現代人の拡散に至るまでモデルを組み立てたので、それなりに確信に迫っているのではと考えている。
この人類進化モデルの中では、人間、人、ヒト、人類、前人類、ホモ属、ヒト科等多くの表現が、人間を指す言葉として用いられている。人間、人は一般的にヒ トをさす意味で用いられ深い意味は無い。カタカナで、ヒトと書いた時は、解剖学的に体の特徴を意識した時の表現として用いている。人類は、多くの生物種の 中でヒトと言う種の位置付けを意識した時に用いている。
ホモ属は、学名の属のレベルでヒトに分類されている物を示す。前人類とは、現代人以前の絶滅したすべてのホモ属を指す。残念ながら、これらの表現すべてが適切に用いられているわけでは無いが、出来るだけ意識して用いる様にしている。
ヒト科は、類人猿と共通の祖先から別れた最初のヒトの祖先から、現代人までのすべてを含む。現在ヒト科の動物としては、ホモ・サピエンス・サピエンスつ まり解剖学的現代人ただ一種が存在するのみである。ヒト科の一つ上の分類には、ヒト上科が設けられているが、この中には、ヒト科、オランウータン科(チン パンジーや、ゴリラも含まれる)、テナガザル科の三種類が属している。
一般的に学名は、科の下の分類である属名と種名を表記する。亜種が存在する時は、より正確に表現する場合に、亜種名まで含めて表記する事もある。現代人 がホモ・サピエンス・サピエンスと表現される時は、ホモ族、サピエンス種、サピエンス亜種と表記されている事になる。ちなみにかの有名なネアンデルタール 人は、ホモ族、サピエンス種のネアンデルターレンシス亜種である。
難しい話は、これぐらいにして、まったく新しい人類史の旅に出る事にしよう。
サバンナ・モザイク説
人類は、どのように進化してきたのか?あまり興味を持ってはいなくとも、猿人、原人、旧人、新人と進化してきた事は、日本人のほとんどが知る事だろう。現在では古人類学上の発見が相次ぎ、この分類が使用される事は少なくなってきたが、この進化の流れが崩れたわけではない。
続々と発見される新しいヒト科生物が、この分類方法の何処に属するかと言う事は、研究者によっても多少の見解の相違があるが、大雑把に考えると、ホモ族 以前のヒト科を猿人、ホモ・ハビリス、ホモ・ルドルフェンシス、ホモ・エルガストル、ホモ・エレクトスを原人、ネアンデルタール人やハイデルベルク人等の 古代型ホモ・サピエンスを旧人、現代人を含む現代型ホモ・サピエンスを新人と考えてよいだろう。
古人類学者の地道な努力のおかげで、かつてミッシングリンクとされていた多くの部分が、埋められてきている。しかし、どういう理由で類人猿と袂を分かち人類が進化してきたか?と言う事になると現在でも、ほとんど解明されていないのが事実だろう。
まずは、現在一般的に広く認められているシナリオを見てみる事にしよう。
太古のアフリカ、現在のエチオピアからタンザニア付近には大森林が広がっていた。この大森林には、人類と類人猿の共通の祖先が住んでいた。ところが、巨大 な断層・大地溝帯の拡大に伴い大地溝帯の東側は次第に乾燥化が進んでいった。この乾燥化に伴い、人類と類人猿の共通の祖先は、森林に住む類人猿の祖先と乾 燥化が進んだサバンナに取り残された人類の祖先に分かれていったと考えられている。
具体的には600万年前頃から乾燥化に伴い、身を隠す為の大きな木のある森は次第に少なくなり、サバンナの中にモザイク状に点在する島のようになっていった。ヒトの祖先たちは、食料が尽きれば、身を隠す場所が無いサバンナを横断せざるを得なくなったのだ。
このような状況の中、ヒトの祖先は、次第に木を降りて地面で生活をするようになっていった。やがて、見晴らしの良いサバンナで、少しでも早く敵を発見す る為に、視線を高めようと二本足で立ち上がった。二足歩行はサバンナの照り返し熱から身を守る事にも役立ったとされる。次に、二足歩行のために自由になっ た手を使い、道具を使うようになった。やがてヒトの祖先は、道具を使うばかりで無く、製作するようになり、知能が発達していった。こうして、人類は類人猿 と分かれ進化して来たのだ。
一方、類人猿の祖先は安全な森林地帯で暮らしていた為、生活様式を変える必要も無く、現在のチンパンジーにいたっていると言う事なのだ。
一見、もっともらしい仮説である。しかし、このシナリオは最新の研究の結果、矛盾だらけであることが明らかになってきた。そもそも、この仮説「サバン ナ・モザイク説」の基になった「サバンナ説」は、人類が現れたのは、大地溝帯の乾燥化が進んだ200~300万年ぐらい前とされていた時代に提唱された仮 説だ。この頃には、大地溝帯東側は広大なサバンナとなり、森林はほとんどなくなっていたため、確かにヒトの祖先は余儀なく木を降りなければいけなかったで あろう。
ところが、人類の祖先は発掘が進むに従い、どんどん古くなり、現在では600万年以上前のものまで発見されている。さすがに、人類の起源がここまで遡る と、まだ大地溝帯の乾燥化は始まったばかりでサバンナ化も進んでいなかった。おまけに、立派に二足歩行を行っていたアウストラロピテクス・アファレンシ ス・通称ルーシーはサバンナではなく、かつて森林だった場所に埋まっていたのだ。
ルーシーより更に古いアウストラロピテクス・アナメンシスや約600万年前のアルディピテクス・ラミダス・カダバ、最古のヒト科祖先として名乗りを上げ ているチャド湖湖畔に棲息したサヘラントロプス・チャデンシス等、古い猿人はいずれも湿潤な森林地帯に棲息していた事は、明らかなのだ。
この状況に無理やり「サバンナ説」を当てはめる為に、サバンナにモザイク状に取り残された森林から森林へと渡り歩くうちに、木を降り二足歩行が始まったとする「サバンナ・モザイク説」が出てきた。かなり苦しいこじ付けだとは、思わないだろうか。
取り残された森から森へ移動するだけのサバンナ横断ならば、ゴリラやチンパンジーが行っている手の甲を使用した四足歩行・ナックルウォークで素早く横断した方が、二本足で立ち上がり、周囲に目を配りながらゆっくり横断するより遥かに安全ではないだろうか。
又、このシナリオの大前提になっている、チンパンジーは森林で進化したと言うこと自体にも疑問を抱かざるをえない。事実、タンザニアのウガラ地域などに は、サバンナ性のチンパンジーが生息している事がわかっている。彼等は、何故、サバンナに住むにもかかわらず、チンパンジーのままなのだろうか。
確かにヒトの祖先は、類人猿と分かれて以来、その大半をアフリカのサバンナ地帯ですごし、適応してきた事に異論は無い。しかし、ヒトの祖先が600万年 以上前まで遡れるようになった現在では、サバンナ化が、人類と類人猿の進化の方向を決定付けたと考える事には無理がある。
勿論この矛盾点は、一部の人類学者も十分認識していて、現在新しいシナリオを模索中なのは、言うまでもない。
更に、人類進化のもう一つの重要な項目、「知能の発達は、自由になった手による道具の使用開始で始まった」と言うシナリオにも重大な疑問がある。次に知能の発達について考えてみよう。
続々と発見される新しいヒト科生物が、この分類方法の何処に属するかと言う事は、研究者によっても多少の見解の相違があるが、大雑把に考えると、ホモ族 以前のヒト科を猿人、ホモ・ハビリス、ホモ・ルドルフェンシス、ホモ・エルガストル、ホモ・エレクトスを原人、ネアンデルタール人やハイデルベルク人等の 古代型ホモ・サピエンスを旧人、現代人を含む現代型ホモ・サピエンスを新人と考えてよいだろう。
古人類学者の地道な努力のおかげで、かつてミッシングリンクとされていた多くの部分が、埋められてきている。しかし、どういう理由で類人猿と袂を分かち人類が進化してきたか?と言う事になると現在でも、ほとんど解明されていないのが事実だろう。
まずは、現在一般的に広く認められているシナリオを見てみる事にしよう。
太古のアフリカ、現在のエチオピアからタンザニア付近には大森林が広がっていた。この大森林には、人類と類人猿の共通の祖先が住んでいた。ところが、巨大 な断層・大地溝帯の拡大に伴い大地溝帯の東側は次第に乾燥化が進んでいった。この乾燥化に伴い、人類と類人猿の共通の祖先は、森林に住む類人猿の祖先と乾 燥化が進んだサバンナに取り残された人類の祖先に分かれていったと考えられている。
具体的には600万年前頃から乾燥化に伴い、身を隠す為の大きな木のある森は次第に少なくなり、サバンナの中にモザイク状に点在する島のようになっていった。ヒトの祖先たちは、食料が尽きれば、身を隠す場所が無いサバンナを横断せざるを得なくなったのだ。
このような状況の中、ヒトの祖先は、次第に木を降りて地面で生活をするようになっていった。やがて、見晴らしの良いサバンナで、少しでも早く敵を発見す る為に、視線を高めようと二本足で立ち上がった。二足歩行はサバンナの照り返し熱から身を守る事にも役立ったとされる。次に、二足歩行のために自由になっ た手を使い、道具を使うようになった。やがてヒトの祖先は、道具を使うばかりで無く、製作するようになり、知能が発達していった。こうして、人類は類人猿 と分かれ進化して来たのだ。
一方、類人猿の祖先は安全な森林地帯で暮らしていた為、生活様式を変える必要も無く、現在のチンパンジーにいたっていると言う事なのだ。
一見、もっともらしい仮説である。しかし、このシナリオは最新の研究の結果、矛盾だらけであることが明らかになってきた。そもそも、この仮説「サバン ナ・モザイク説」の基になった「サバンナ説」は、人類が現れたのは、大地溝帯の乾燥化が進んだ200~300万年ぐらい前とされていた時代に提唱された仮 説だ。この頃には、大地溝帯東側は広大なサバンナとなり、森林はほとんどなくなっていたため、確かにヒトの祖先は余儀なく木を降りなければいけなかったで あろう。
ところが、人類の祖先は発掘が進むに従い、どんどん古くなり、現在では600万年以上前のものまで発見されている。さすがに、人類の起源がここまで遡る と、まだ大地溝帯の乾燥化は始まったばかりでサバンナ化も進んでいなかった。おまけに、立派に二足歩行を行っていたアウストラロピテクス・アファレンシ ス・通称ルーシーはサバンナではなく、かつて森林だった場所に埋まっていたのだ。
ルーシーより更に古いアウストラロピテクス・アナメンシスや約600万年前のアルディピテクス・ラミダス・カダバ、最古のヒト科祖先として名乗りを上げ ているチャド湖湖畔に棲息したサヘラントロプス・チャデンシス等、古い猿人はいずれも湿潤な森林地帯に棲息していた事は、明らかなのだ。
この状況に無理やり「サバンナ説」を当てはめる為に、サバンナにモザイク状に取り残された森林から森林へと渡り歩くうちに、木を降り二足歩行が始まったとする「サバンナ・モザイク説」が出てきた。かなり苦しいこじ付けだとは、思わないだろうか。
取り残された森から森へ移動するだけのサバンナ横断ならば、ゴリラやチンパンジーが行っている手の甲を使用した四足歩行・ナックルウォークで素早く横断した方が、二本足で立ち上がり、周囲に目を配りながらゆっくり横断するより遥かに安全ではないだろうか。
又、このシナリオの大前提になっている、チンパンジーは森林で進化したと言うこと自体にも疑問を抱かざるをえない。事実、タンザニアのウガラ地域などに は、サバンナ性のチンパンジーが生息している事がわかっている。彼等は、何故、サバンナに住むにもかかわらず、チンパンジーのままなのだろうか。
確かにヒトの祖先は、類人猿と分かれて以来、その大半をアフリカのサバンナ地帯ですごし、適応してきた事に異論は無い。しかし、ヒトの祖先が600万年 以上前まで遡れるようになった現在では、サバンナ化が、人類と類人猿の進化の方向を決定付けたと考える事には無理がある。
勿論この矛盾点は、一部の人類学者も十分認識していて、現在新しいシナリオを模索中なのは、言うまでもない。
更に、人類進化のもう一つの重要な項目、「知能の発達は、自由になった手による道具の使用開始で始まった」と言うシナリオにも重大な疑問がある。次に知能の発達について考えてみよう。
知の起源
「サバンナ・モザイク説」によると、ヒトの知能の発達は、二足歩行で自由になった手を使うことによって、促されたとされている。つまり手の使用こそが、知 能の発達、延いては人間性の発達の原動力になったと言う事だ。しかし、なにも手を器用に使いこなしているのは、人間だけではない。チンパンジーも立派に手 を使いこなしている。
最近では、野生のチンパンジーが様々な道具を使用していることが知られるようになってきた。たとえばアフリカ・ギニア共和国ボッソウの森のチンパンジー は、一組の石を使って硬いアブラヤシの種を叩き割って食べる事が知られている。この木の実割り行動は、ボッソウの森だけに見られるもので、チンパンジーの 世界にも文化的地域差があることになる。
その他、小枝を使用してのアリ釣り行動や杵突き行動、木の葉をスポンジ代わりに使い水を飲む行動など、チンパンジーの道具の使用は数多く確認されている。
しかし、これだけで驚いてはいけない。何と、西アフリカ・コートジボアールの象牙海岸内の国立公園で、チンパンジーが使用した石器が数多く発掘されたの だ。発掘の状況から、ここのチンパンジーの祖先は、500万年も前から先の尖った石のハンマーを使用して、木の実を打ち砕いて食べていたらしいのだ。
この発見は、2002年 アメリカ・ジョージワシントン大学とドイツのマックスプランク研究所の人類学者等が共同で、ジャーナル・サイエンス紙に発表し た。彼等は、チンパンジーが意識的に石器を作ったのではなく、固い木の実を持ちやすい大きさの花崗岩などの石で繰り返し割っているうちに、先端が欠けてき て石器らしく見えるようになったと考えている。
問題は、これらの明らかにチンパンジーの祖先が使用した石器が、アフリカ東部で見つかっている人類による最古の石器・オルドワン型石器とそっくりであるという事実である。
つまり、石器の作成こそ人間の知性の現れだと考えられてきた事が、実はチンパンジーと同じようにただ石の欠けらで木の実を割っていただけだったかもしれ ないのだ。しかも、オルドワン型石器は、約260万年前から使用された物であるのに対し、チンパンジーの祖先は500万年も前からオルドワン型にそっくり な石器を使っていた事になる。
初期人類が残したとされる幼稚な石器類の中には、チンパンジーが残したものが含まれる可能性も否定できない事になる。チンパンジーは石器を使えるだけでなく、発明者だったかもしれないのだ。
このように、チンパンジーに代表される大型の類人猿は、想像以上に手を器用に使いこなしている。手話を器用に使いこなすチンパンジーの姿をテレビで見た事がないだろうか、まさに人間並みの手のコントロール能力を持っている事は明らかな事実なのだ。
もちろんチンパンジーは二足歩行動物ではない。だが、この事は手の使用に関して何も問題とはなっていないのである。なぜなら、移動しながら同時に手を使用する事など、ほとんど無いからだ。
もちろんチンパンジーが、歩きながらメールを打つのなら、移動と同時に手を使用する必要があるだろう。しかし、アリを釣り上げたり、木の実を打ち割る程 度の手の使用なら、ゆっくり腰を落ちつけて行えばよいのである。かくして、チンパンジーは四足歩行と手の使用を立派に両立させているのだ。
だが、所詮チンパンジーはチンパンジー、人間とは根本的に違う。たとえ、手の使用が知能の発達に一役買っているとしても、決して知能の発達の原動力には なりえない事になる。つまり、ヒトが何故、「知能を発達させる」という類人猿と違った形に進化を始めたのか、「サバンナ・モザイク説」では、何一つ解明さ れていないのだ。
最近では、野生のチンパンジーが様々な道具を使用していることが知られるようになってきた。たとえばアフリカ・ギニア共和国ボッソウの森のチンパンジー は、一組の石を使って硬いアブラヤシの種を叩き割って食べる事が知られている。この木の実割り行動は、ボッソウの森だけに見られるもので、チンパンジーの 世界にも文化的地域差があることになる。
その他、小枝を使用してのアリ釣り行動や杵突き行動、木の葉をスポンジ代わりに使い水を飲む行動など、チンパンジーの道具の使用は数多く確認されている。
しかし、これだけで驚いてはいけない。何と、西アフリカ・コートジボアールの象牙海岸内の国立公園で、チンパンジーが使用した石器が数多く発掘されたの だ。発掘の状況から、ここのチンパンジーの祖先は、500万年も前から先の尖った石のハンマーを使用して、木の実を打ち砕いて食べていたらしいのだ。
この発見は、2002年 アメリカ・ジョージワシントン大学とドイツのマックスプランク研究所の人類学者等が共同で、ジャーナル・サイエンス紙に発表し た。彼等は、チンパンジーが意識的に石器を作ったのではなく、固い木の実を持ちやすい大きさの花崗岩などの石で繰り返し割っているうちに、先端が欠けてき て石器らしく見えるようになったと考えている。
問題は、これらの明らかにチンパンジーの祖先が使用した石器が、アフリカ東部で見つかっている人類による最古の石器・オルドワン型石器とそっくりであるという事実である。
つまり、石器の作成こそ人間の知性の現れだと考えられてきた事が、実はチンパンジーと同じようにただ石の欠けらで木の実を割っていただけだったかもしれ ないのだ。しかも、オルドワン型石器は、約260万年前から使用された物であるのに対し、チンパンジーの祖先は500万年も前からオルドワン型にそっくり な石器を使っていた事になる。
初期人類が残したとされる幼稚な石器類の中には、チンパンジーが残したものが含まれる可能性も否定できない事になる。チンパンジーは石器を使えるだけでなく、発明者だったかもしれないのだ。
このように、チンパンジーに代表される大型の類人猿は、想像以上に手を器用に使いこなしている。手話を器用に使いこなすチンパンジーの姿をテレビで見た事がないだろうか、まさに人間並みの手のコントロール能力を持っている事は明らかな事実なのだ。
もちろんチンパンジーは二足歩行動物ではない。だが、この事は手の使用に関して何も問題とはなっていないのである。なぜなら、移動しながら同時に手を使用する事など、ほとんど無いからだ。
もちろんチンパンジーが、歩きながらメールを打つのなら、移動と同時に手を使用する必要があるだろう。しかし、アリを釣り上げたり、木の実を打ち割る程 度の手の使用なら、ゆっくり腰を落ちつけて行えばよいのである。かくして、チンパンジーは四足歩行と手の使用を立派に両立させているのだ。
だが、所詮チンパンジーはチンパンジー、人間とは根本的に違う。たとえ、手の使用が知能の発達に一役買っているとしても、決して知能の発達の原動力には なりえない事になる。つまり、ヒトが何故、「知能を発達させる」という類人猿と違った形に進化を始めたのか、「サバンナ・モザイク説」では、何一つ解明さ れていないのだ。
サムシング・グレート
それでは、人類進化の原動力となった原因を、うまく説明できる仮説は存在しないのだろうか。そうではない。原因をうまく説明できる仮説は、いくつか存在する。しかし、そのほとんどが、突拍子も無い仮説の為。学問上は無視されてきた。
たとえば、最も人類進化を明確に説明できる仮説としては、ヒトは意図的に現在の形に進化させられたということだ。これにも幾つかのバリエーションがあ る。その代表が、神の存在である。ヒトは神の意思によって、現在の形で存在するというものだ。これならば、ヒトがチンパンジーと異なるのは、当たり前で何 一つ矛盾は起きない。
実際、アメリカではキリスト教原理主義者による創造説が、現在も堅く信じられている地域が存在する。このような州では「ダーウィンの進化論を学校で教えるべきでは無いとする原理主義者」と「教えるべきだとする人々」の間で訴訟が繰り返されている。
確かに生物の進化には、不可解な点が多く、何らかの意思の存在を感じている学者も少なからずいる事は間違いない。学者の中には、このような意思の存在を神と区別して、「サムシング・グレート」と呼んでいる者もいる。
科学万能の現在においても、この様に考えている者が意外と多いのには訳がある。現在常識として通用している進化論に大きな疑問があるのだ。獲得形質の遺伝 を完全否定し、突然変異のみを受け入れる現在の進化論だけでは、とうてい生物進化を明確に説明する事は不可能なのだ。進化論のことを述べると複雑になり、 本筋から外れてしまうので省略するが、生物が進化をするという進化論的考え方自体は、正しいという前提で話をすすめよう。
さて、もう少し科学的?な仮説では、ヒトは宇宙人によって遺伝子操作をされ進化したというものがある。最近ではゼカリア・シッチンによるシュメールの古文献の解読に基づく、宇宙人飛来説が有名だろう。
ゼカリア・シッチンは、シュメール文字を解読できる数少ない学者の一人で、長年解読作業を進めてきた。シッチンが読み解いたシュメールの古文書による と、太陽系には、ニビルと呼ばれる謎の惑星が存在し、太古その惑星から、アヌンナキと呼ばれる神々(宇宙人)が地球を訪れたという。
アヌンナキ達は、地球の豊富な鉱物資源を採掘していた。当初、アヌンナキ達は自分たち自身で鉱山労働を行っていたが、労働者の反乱を機に、過酷な労働力 を補うために奴隷を作り出すことにしたらしい。こうして、当時地球上に存在した猿人に遺伝子操作を施し、自分達に似せた人間を作り出したというのだ。シッ チンによると、聖書に出てくるアダムとイブの物語も、まさにアヌンナキ達による人類の創造を意味しているという。
宇宙人に関してのみ意見を述べるとすると、その存在自体は確実だと考えている。しかし、私の知る限り宇宙人がヒトを進化させたという状況証拠は、何一つ ないと断言できる。解釈の仕方によっては、いかようにも取れる曖昧な古文献を現代風に解釈し古代の遺物を現代の機械に置き換えて、想像力を限りなく働かせ た空想のみが根拠となっている。こうした古文書の記録は、文字通り古代人のたくましい想像力による伝説、あるいは神話として読み解く方が、より妥当な解釈 である。
よって、宇宙人説は無視する事にしよう。そもそも、ゼカリア・シッチンの説にしても猿人を元にして、ヒトを作り出しているわけだから、類人猿とは明らか に異なる知的な霊長類がすでに存在していた事になる。このこと自体がすでに謎である。神やその他の意思の存在についても、科学的とはいえないので、この際 無視をしよう。
ところで、ヒトに進化を始めた原動力については、何も説明できないが、進化の形態については、実に上手く説明できるか説が存在する。いわゆる、幼形進化説(テオネニー説)といわれる物だ。この説によると、ヒトは胎児のまま大人になった類人猿と言う事になる。
確かに、進化の方向として幼形を保ったまま大人になる幼形進化は、比較的一般的なもので、いろいろな動物に見られる。たとえば、一時期有名になったウー パー・ルーパーと言う両生類が幼形進化の代表格だ。ウーパー・ルーパーの名前で有名になったアホロートルは、通常なら大人になれば、なくなってしまうエラ を付けたまま大人になったサンショウウオの仲間である。
類人猿の胎児は、親の類人猿より、遥かに人間に似ているという事から、人の幼形進化説が提唱されたのだ。確かに、人間は繊細な無毛の肌を持ち、頭でっか ちの平たい顔のまま大人になるなど、ある意味では幼形進化をしていると言えるだろう。しかし、幼形進化をするにいたるためには、何らかの外的環境変化が必 要である。それは、いったい何だったのだろうか。
次の章で、一般的には認知されていないが、人類進化をその要因も含め、科学的に説明できる面白い仮説があるので紹介しよう
たとえば、最も人類進化を明確に説明できる仮説としては、ヒトは意図的に現在の形に進化させられたということだ。これにも幾つかのバリエーションがあ る。その代表が、神の存在である。ヒトは神の意思によって、現在の形で存在するというものだ。これならば、ヒトがチンパンジーと異なるのは、当たり前で何 一つ矛盾は起きない。
実際、アメリカではキリスト教原理主義者による創造説が、現在も堅く信じられている地域が存在する。このような州では「ダーウィンの進化論を学校で教えるべきでは無いとする原理主義者」と「教えるべきだとする人々」の間で訴訟が繰り返されている。
確かに生物の進化には、不可解な点が多く、何らかの意思の存在を感じている学者も少なからずいる事は間違いない。学者の中には、このような意思の存在を神と区別して、「サムシング・グレート」と呼んでいる者もいる。
科学万能の現在においても、この様に考えている者が意外と多いのには訳がある。現在常識として通用している進化論に大きな疑問があるのだ。獲得形質の遺伝 を完全否定し、突然変異のみを受け入れる現在の進化論だけでは、とうてい生物進化を明確に説明する事は不可能なのだ。進化論のことを述べると複雑になり、 本筋から外れてしまうので省略するが、生物が進化をするという進化論的考え方自体は、正しいという前提で話をすすめよう。
さて、もう少し科学的?な仮説では、ヒトは宇宙人によって遺伝子操作をされ進化したというものがある。最近ではゼカリア・シッチンによるシュメールの古文献の解読に基づく、宇宙人飛来説が有名だろう。
ゼカリア・シッチンは、シュメール文字を解読できる数少ない学者の一人で、長年解読作業を進めてきた。シッチンが読み解いたシュメールの古文書による と、太陽系には、ニビルと呼ばれる謎の惑星が存在し、太古その惑星から、アヌンナキと呼ばれる神々(宇宙人)が地球を訪れたという。
アヌンナキ達は、地球の豊富な鉱物資源を採掘していた。当初、アヌンナキ達は自分たち自身で鉱山労働を行っていたが、労働者の反乱を機に、過酷な労働力 を補うために奴隷を作り出すことにしたらしい。こうして、当時地球上に存在した猿人に遺伝子操作を施し、自分達に似せた人間を作り出したというのだ。シッ チンによると、聖書に出てくるアダムとイブの物語も、まさにアヌンナキ達による人類の創造を意味しているという。
宇宙人に関してのみ意見を述べるとすると、その存在自体は確実だと考えている。しかし、私の知る限り宇宙人がヒトを進化させたという状況証拠は、何一つ ないと断言できる。解釈の仕方によっては、いかようにも取れる曖昧な古文献を現代風に解釈し古代の遺物を現代の機械に置き換えて、想像力を限りなく働かせ た空想のみが根拠となっている。こうした古文書の記録は、文字通り古代人のたくましい想像力による伝説、あるいは神話として読み解く方が、より妥当な解釈 である。
よって、宇宙人説は無視する事にしよう。そもそも、ゼカリア・シッチンの説にしても猿人を元にして、ヒトを作り出しているわけだから、類人猿とは明らか に異なる知的な霊長類がすでに存在していた事になる。このこと自体がすでに謎である。神やその他の意思の存在についても、科学的とはいえないので、この際 無視をしよう。
ところで、ヒトに進化を始めた原動力については、何も説明できないが、進化の形態については、実に上手く説明できるか説が存在する。いわゆる、幼形進化説(テオネニー説)といわれる物だ。この説によると、ヒトは胎児のまま大人になった類人猿と言う事になる。
確かに、進化の方向として幼形を保ったまま大人になる幼形進化は、比較的一般的なもので、いろいろな動物に見られる。たとえば、一時期有名になったウー パー・ルーパーと言う両生類が幼形進化の代表格だ。ウーパー・ルーパーの名前で有名になったアホロートルは、通常なら大人になれば、なくなってしまうエラ を付けたまま大人になったサンショウウオの仲間である。
類人猿の胎児は、親の類人猿より、遥かに人間に似ているという事から、人の幼形進化説が提唱されたのだ。確かに、人間は繊細な無毛の肌を持ち、頭でっか ちの平たい顔のまま大人になるなど、ある意味では幼形進化をしていると言えるだろう。しかし、幼形進化をするにいたるためには、何らかの外的環境変化が必 要である。それは、いったい何だったのだろうか。
次の章で、一般的には認知されていないが、人類進化をその要因も含め、科学的に説明できる面白い仮説があるので紹介しよう
アクア理論
アクア理論と言う人類進化の仮説を聞いたことがあるだろうか?ヒトは水辺(海辺)で進化したというものだ。あまり広くは知られていない異端の仮説だが、この説に従うとヒトへの進化の原動力が実にうまく説明できるのだ。
アクア理論は、実はかなり古くからある仮説で1960年にイギリスの学者アリスター・ハーディによって提唱されている。しかし、この理論を広く世の中に紹介したのは、イギリスの作家エレイン・モーガンである。それでは、この理論の中身を簡単に見ていく事にしよう。
この理論を、一言で言うならば、人類進化は「木を降りたサル」から始まったのではなく「海に潜ったサル」から始まったと言う事である。意外に思われるかもしれないが、ヒトは、ことごとく水生哺乳類の特徴を備えているという。
その際たるものが、体毛の消失と全身の皮下脂肪層である。陸上では、無毛で厚い皮下脂肪を備えた哺乳類は、ほとんど存在しないが、水中では当たり前の存 在だ。たとえば、完全に水中に適応したイルカや鯨には体毛は無い。水辺を好むカバや水牛などにもほとんど体毛は無い。その反面、イルカや鯨、ひれ足類、海 牛類など水中生活をする哺乳類は、分厚い皮下脂肪組織を供えているものが珍しくない。皮下脂肪は、体温を保持する為に水生哺乳類にとっては大変有効なの だ。
つまり、ヒトの特徴である体毛の消失と厚い皮下脂肪は、ヒトの祖先が一時期、水中生活に適応していたと考えると容易に説明可能なのだ。そして、水中生活こそがヒトが類人猿と決定的に異なる方向へ進化し始めた原動力と考えられるのだ。
もちろん、ヒトが過去の一時期水中生活に適応していた証拠は、体毛と皮下脂肪だけではない。様々な面で、ヒトが水中生活に適応していた証拠があるのだ。以下に簡単にその証拠とされる事項を羅列してみよう。
アクア理論は、実はかなり古くからある仮説で1960年にイギリスの学者アリスター・ハーディによって提唱されている。しかし、この理論を広く世の中に紹介したのは、イギリスの作家エレイン・モーガンである。それでは、この理論の中身を簡単に見ていく事にしよう。
この理論を、一言で言うならば、人類進化は「木を降りたサル」から始まったのではなく「海に潜ったサル」から始まったと言う事である。意外に思われるかもしれないが、ヒトは、ことごとく水生哺乳類の特徴を備えているという。
その際たるものが、体毛の消失と全身の皮下脂肪層である。陸上では、無毛で厚い皮下脂肪を備えた哺乳類は、ほとんど存在しないが、水中では当たり前の存 在だ。たとえば、完全に水中に適応したイルカや鯨には体毛は無い。水辺を好むカバや水牛などにもほとんど体毛は無い。その反面、イルカや鯨、ひれ足類、海 牛類など水中生活をする哺乳類は、分厚い皮下脂肪組織を供えているものが珍しくない。皮下脂肪は、体温を保持する為に水生哺乳類にとっては大変有効なの だ。
つまり、ヒトの特徴である体毛の消失と厚い皮下脂肪は、ヒトの祖先が一時期、水中生活に適応していたと考えると容易に説明可能なのだ。そして、水中生活こそがヒトが類人猿と決定的に異なる方向へ進化し始めた原動力と考えられるのだ。
もちろん、ヒトが過去の一時期水中生活に適応していた証拠は、体毛と皮下脂肪だけではない。様々な面で、ヒトが水中生活に適応していた証拠があるのだ。以下に簡単にその証拠とされる事項を羅列してみよう。
- 体毛の消失と厚い皮下脂肪。
- ヒトが水に潜ったとき、心拍数の低下などの潜水適応を示す。
- 多くの霊長類が水を恐れるのに対して、ヒトは泳ぎが上手で長い間水中に潜る事も可能である。
- ヒトの新生児は、水を恐れない。
- 水中で生活する哺乳類の一部は知能が高く、音声によるコミュニケーション能力(イルカや鯨類)にも長けている。
- 陸上の哺乳類で、ヒトのように感情の高ぶりにあわせて大量の涙を流す物はほとんど存在しない。しかし水生動物では、珍しくない。
直立二足歩行
それでは、アクア理論にそって人類の進化のシナリオを検証していこう。現在、ヒトと最後に別れた類人猿はチンパンジーとボノボで、おおよそ、600万年前 のアフリカ東部での出来事と考えられている。しかし化石証拠では、600万年前或いは700万年前の、ヒト科だとされるものが発見されているため、ヒトと チンパンジーが別れたのは、もう少し前だと考えられる。
しかし、状況証拠は未だ乏しいので、とりあえず、分子生物学者と多くの古人類学者が主張する約600万年前を採用する事にする。
約600万年前に共通祖先が分かれて以降、大地溝帯を挟んで、西側の森林地帯でチンパンジー等の類人猿、東側のサバンナ地帯でヒトが進化してきた。しか し、先ほども述べたようにヒトとチンパンジーが別れた600万年前は、まだ、森林とサバンナの境界は明確にはなっていなかった。
しかし、大地溝帯の拡大が始まったのは、おおよそ5000万年前からと考えられていて、現在にいたるまで、その拡大は続いている。つまり、ヒトとチンパン ジーが別れた600万年前には、すでに広大な平地が広がっていた事になる。平地の一部には、現在と同じように水がたまり、湖が出来ていた。これらの地域 で、偶然に周囲を完全に水で囲まれた島に取り残された、ヒトと類人猿の共通の祖先がいたとしよう。
島は比較的大きな島一つだったかもしれないし、海面の上昇などで複数の島が出来ていたかもしれない。いずれにしろ、島では食料に限りがある。おそらく生き残る為に、食料を海に求めたのだろう。やがて島に取り残された類人猿は、次第に水辺で暮らすようになっていった。
こうして水辺での生活に親しんだ類人猿は、「サバンナ・モザイク説」同様に島から島へ泳いで渡り歩いたかもしれない。
水辺での生活で、最初に何が変化するだろうか。当然のことながら呼吸をしないと生きていけないので、頭は水面から出す必要がある。最初は、ごくごく浅い 所で貝や甲殻類等をあさって食料にしていたのだろう。やがて収穫を求めて深いところに入っていくに従い、自然と二本足で立ち上がるようになった。水中で は、浮力がある為、陸上より遥かに二本足で立ち上がる事は容易だったはずである。
それでは、何故カバは立ち上がらないのか!という疑問も出てくるだろう。これは類人猿と他の哺乳類のプロポーションの違いを見れば、明らかだろう。ほと んどの四足歩行動物は、胴体と水平に顔がついているが、樹上生活を行っていた類人猿の頭は、胴体よりも上にある。類人猿達の四足歩行は、ナックルウォーク と呼ばれ、手の甲を地面につけ、上半身を持ち上げた状態で行うのだ。
チンパンジーやゴリラを見れば明らかなように、すでに類人猿達は必要とあらば、2本足で立ち上がる事が出来る体の構造を備えていた。この点が、他の水中 生活に戻った哺乳類との大きな違いだった。類人猿以外の哺乳類にとっては、体の構造上、立ち上がるより、泳ぎを覚える方が早かったと考えられる。しかし類 人猿は、まず二本足で立ち上がり、出来るだけ深い場所まで行くようになり、次第に泳ぎも覚えていったと考えられる。
このような過程を得てヒトの祖先は、類人猿がナックルウォークの合間に行う不完全な二足歩行ではなく、完全に直立して二足歩行が出来るようになった。つ まりヒトの最大の特徴である直立二足歩行は、類人猿とわかれた時点で最初に獲得したヒトらしい形質だったと言える事になる。
又、この事は発掘された化石による研究からも裏付けられている。今でも、よく猿人、原人、旧人、新人と進化する過程を描いたイラスト画に、進化するに従 い徐々に腰が伸びてきて、新人で始めて完全な直立状態になるイラストを見かける事がある。しかし、化石からは、これは完全な間違いであった事が証明されて いる。ヒトの祖先は、類人猿の脳しか持たない頃から、すでに完全な直立二足歩行を行っていたのだ。
しかし、状況証拠は未だ乏しいので、とりあえず、分子生物学者と多くの古人類学者が主張する約600万年前を採用する事にする。
約600万年前に共通祖先が分かれて以降、大地溝帯を挟んで、西側の森林地帯でチンパンジー等の類人猿、東側のサバンナ地帯でヒトが進化してきた。しか し、先ほども述べたようにヒトとチンパンジーが別れた600万年前は、まだ、森林とサバンナの境界は明確にはなっていなかった。
しかし、大地溝帯の拡大が始まったのは、おおよそ5000万年前からと考えられていて、現在にいたるまで、その拡大は続いている。つまり、ヒトとチンパン ジーが別れた600万年前には、すでに広大な平地が広がっていた事になる。平地の一部には、現在と同じように水がたまり、湖が出来ていた。これらの地域 で、偶然に周囲を完全に水で囲まれた島に取り残された、ヒトと類人猿の共通の祖先がいたとしよう。
島は比較的大きな島一つだったかもしれないし、海面の上昇などで複数の島が出来ていたかもしれない。いずれにしろ、島では食料に限りがある。おそらく生き残る為に、食料を海に求めたのだろう。やがて島に取り残された類人猿は、次第に水辺で暮らすようになっていった。
こうして水辺での生活に親しんだ類人猿は、「サバンナ・モザイク説」同様に島から島へ泳いで渡り歩いたかもしれない。
水辺での生活で、最初に何が変化するだろうか。当然のことながら呼吸をしないと生きていけないので、頭は水面から出す必要がある。最初は、ごくごく浅い 所で貝や甲殻類等をあさって食料にしていたのだろう。やがて収穫を求めて深いところに入っていくに従い、自然と二本足で立ち上がるようになった。水中で は、浮力がある為、陸上より遥かに二本足で立ち上がる事は容易だったはずである。
それでは、何故カバは立ち上がらないのか!という疑問も出てくるだろう。これは類人猿と他の哺乳類のプロポーションの違いを見れば、明らかだろう。ほと んどの四足歩行動物は、胴体と水平に顔がついているが、樹上生活を行っていた類人猿の頭は、胴体よりも上にある。類人猿達の四足歩行は、ナックルウォーク と呼ばれ、手の甲を地面につけ、上半身を持ち上げた状態で行うのだ。
チンパンジーやゴリラを見れば明らかなように、すでに類人猿達は必要とあらば、2本足で立ち上がる事が出来る体の構造を備えていた。この点が、他の水中 生活に戻った哺乳類との大きな違いだった。類人猿以外の哺乳類にとっては、体の構造上、立ち上がるより、泳ぎを覚える方が早かったと考えられる。しかし類 人猿は、まず二本足で立ち上がり、出来るだけ深い場所まで行くようになり、次第に泳ぎも覚えていったと考えられる。
このような過程を得てヒトの祖先は、類人猿がナックルウォークの合間に行う不完全な二足歩行ではなく、完全に直立して二足歩行が出来るようになった。つ まりヒトの最大の特徴である直立二足歩行は、類人猿とわかれた時点で最初に獲得したヒトらしい形質だったと言える事になる。
又、この事は発掘された化石による研究からも裏付けられている。今でも、よく猿人、原人、旧人、新人と進化する過程を描いたイラスト画に、進化するに従 い徐々に腰が伸びてきて、新人で始めて完全な直立状態になるイラストを見かける事がある。しかし、化石からは、これは完全な間違いであった事が証明されて いる。ヒトの祖先は、類人猿の脳しか持たない頃から、すでに完全な直立二足歩行を行っていたのだ。
音声コミュニケーション能力
こうした、水辺での生活が何万年、何十万年と続くうちに水生類人猿は、徐々にヒトへの進化の道筋を歩き始めた。初期の水生類人猿に体毛が生えていたのは間違いない事だろう。
しかし、陸上で保温に役立っていた体毛は、水辺での生活では邪魔者以外の何者でもなかった。この時点で、水辺での生活を選んだ類人猿は、体毛に関して二 つの選択肢を迫られる事になる。一つは、ラッコやアザラシに見られるように、体毛の質を変え防水・体温保持に役立てる方向である。そして、もう一つの選択 肢は、カバや水牛のように体毛を無くしてしまう方向である。比較的暖かな環境に住んでいた、水生類人猿は、たまたま後者を選んだに過ぎないのだろう。こう して、体毛がなくなる一方、皮下脂肪を発達させて体温保持に役立てたのだ。
ところで、水生類人猿が始めて覚えた泳ぎは、何だっただろうか?おそらく平泳ぎであろう。なぜなら、シンクロナイズド・スイミングの達人でもない限り、 頭を安定して水面から突き出して泳げるのは、平泳ぎか犬掻きぐらいであろう。そして、犬掻きが非効率的な泳ぎである事は、容易に想像できるだろう。呼吸の 為、常に水面から頭を突き出していた水生類人猿は、当然そのままの姿勢で泳ぐ事を覚えたに違いない。
ここで、一つ疑問が出てくるかもしれない。水生に戻った哺乳類は、水中での生活が長くなるに従い後足が、徐々に短くなっている事実だ。アザラシやアシカ の短いひれ状の後足がそれである。この疑問も水生類人猿が、後足が退化するほど長い間、水辺に留まってはいなかったと考えると解決するだろう。しかし、長 い後足のまま、水辺での生活に適応できるものだろうか。
ご心配なく!哺乳類に前例は無いが、両生類には先輩が存在する。カエルである。カエルは人と同じく長い後足のまま、水棲動物として存在しているのだ。カ エルを引き伸ばした姿勢は、妙に人間的だとは思わないだろうか。そして、このプロポーションでは、別名カエル泳ぎと言われるように平泳ぎが最も適してい る。このように前例がある以上、長い後足の水棲動物が存在できない理由は無いと言えるだろう。
さて、カエルのように両手両足に水掻きを付け、一日の大半を水面から顔を突き出して生活するようになった水生類人猿は、もはや普通の類人猿のように「毛づ くろい」や「身振り手振り」で意思疎通を図る事が出来なくなった。そこで、水生類人猿は音声と顔の表情でお互いの意思を伝達する方法を発達させていった。 もちろん、チンパンジー以下の脳しか供えていない水生類人猿が、文法の定まった言葉を話せたわけではない。
それでも警戒や脅し、警告、自己顕示、その他もろもろ類人猿が身振り・手振り、音声、表情を駆使して行っているコミュニケーションの全てを、顔の表情と 音声のみで行う必要性が出てきた。たとえば、チンパンジーが自己顕示を表すディスプレーをする場合、鋭い牙を見せ、大きな叫び声を上げ、木をゆすり、枝を たたき折り、大騒ぎをして若いオスを震え上がらせる。しかし、水生類人猿では、この全てを顔の表情と音声のみで表さなければいけない。よほど怖い表情を作 り凄まじい声を上げないと若いオスを震え上がらせることなど出来ないであろう。こうして水生類人猿は豊かな表情と、多くの音を発声可能な声帯を、獲得して いったと考えられる。
エレイン・モーガンの著作の中では、イルカ等の人間同様に音声による高度なコミュニケーション能力を持つ水生哺乳類との比較から、ヒトの高度な音声コ ミュニケーション能力を、ヒトが一時期水生であった事の証拠として上げている。しかし、ヒトは大きな脳を獲得する遥か以前から身体的ヒトとしての特徴を獲 得していた事から考えると、水中生活で獲得したのは、言葉による高度なコミュニケーションを可能にする多彩な音域を持った声帯と考える方が妥当であろう。 もちろんこの形質の獲得がゆえに、ヒトのみが音声によるコミュニケーション能力を更に発達させ、ついに言葉を話せるようになったと考えられる。
しかし、陸上で保温に役立っていた体毛は、水辺での生活では邪魔者以外の何者でもなかった。この時点で、水辺での生活を選んだ類人猿は、体毛に関して二 つの選択肢を迫られる事になる。一つは、ラッコやアザラシに見られるように、体毛の質を変え防水・体温保持に役立てる方向である。そして、もう一つの選択 肢は、カバや水牛のように体毛を無くしてしまう方向である。比較的暖かな環境に住んでいた、水生類人猿は、たまたま後者を選んだに過ぎないのだろう。こう して、体毛がなくなる一方、皮下脂肪を発達させて体温保持に役立てたのだ。
ところで、水生類人猿が始めて覚えた泳ぎは、何だっただろうか?おそらく平泳ぎであろう。なぜなら、シンクロナイズド・スイミングの達人でもない限り、 頭を安定して水面から突き出して泳げるのは、平泳ぎか犬掻きぐらいであろう。そして、犬掻きが非効率的な泳ぎである事は、容易に想像できるだろう。呼吸の 為、常に水面から頭を突き出していた水生類人猿は、当然そのままの姿勢で泳ぐ事を覚えたに違いない。
ここで、一つ疑問が出てくるかもしれない。水生に戻った哺乳類は、水中での生活が長くなるに従い後足が、徐々に短くなっている事実だ。アザラシやアシカ の短いひれ状の後足がそれである。この疑問も水生類人猿が、後足が退化するほど長い間、水辺に留まってはいなかったと考えると解決するだろう。しかし、長 い後足のまま、水辺での生活に適応できるものだろうか。
ご心配なく!哺乳類に前例は無いが、両生類には先輩が存在する。カエルである。カエルは人と同じく長い後足のまま、水棲動物として存在しているのだ。カ エルを引き伸ばした姿勢は、妙に人間的だとは思わないだろうか。そして、このプロポーションでは、別名カエル泳ぎと言われるように平泳ぎが最も適してい る。このように前例がある以上、長い後足の水棲動物が存在できない理由は無いと言えるだろう。
さて、カエルのように両手両足に水掻きを付け、一日の大半を水面から顔を突き出して生活するようになった水生類人猿は、もはや普通の類人猿のように「毛づ くろい」や「身振り手振り」で意思疎通を図る事が出来なくなった。そこで、水生類人猿は音声と顔の表情でお互いの意思を伝達する方法を発達させていった。 もちろん、チンパンジー以下の脳しか供えていない水生類人猿が、文法の定まった言葉を話せたわけではない。
それでも警戒や脅し、警告、自己顕示、その他もろもろ類人猿が身振り・手振り、音声、表情を駆使して行っているコミュニケーションの全てを、顔の表情と 音声のみで行う必要性が出てきた。たとえば、チンパンジーが自己顕示を表すディスプレーをする場合、鋭い牙を見せ、大きな叫び声を上げ、木をゆすり、枝を たたき折り、大騒ぎをして若いオスを震え上がらせる。しかし、水生類人猿では、この全てを顔の表情と音声のみで表さなければいけない。よほど怖い表情を作 り凄まじい声を上げないと若いオスを震え上がらせることなど出来ないであろう。こうして水生類人猿は豊かな表情と、多くの音を発声可能な声帯を、獲得して いったと考えられる。
エレイン・モーガンの著作の中では、イルカ等の人間同様に音声による高度なコミュニケーション能力を持つ水生哺乳類との比較から、ヒトの高度な音声コ ミュニケーション能力を、ヒトが一時期水生であった事の証拠として上げている。しかし、ヒトは大きな脳を獲得する遥か以前から身体的ヒトとしての特徴を獲 得していた事から考えると、水中生活で獲得したのは、言葉による高度なコミュニケーションを可能にする多彩な音域を持った声帯と考える方が妥当であろう。 もちろんこの形質の獲得がゆえに、ヒトのみが音声によるコミュニケーション能力を更に発達させ、ついに言葉を話せるようになったと考えられる。
アウストラロピテクス
やがて、水生類人猿と言う他の類人猿とは、まったく異なる環境に適応した新種の類人猿が住んでいた島は、環境の変化に伴い再びアフリカ大陸とつながる事に なった。それまで、島に取り残されていた水生類人猿は、水辺沿いにアフリカ大陸各地に分散していく事になる。おそらく一部は、海岸沿いに拡散していったか もしれない。そして、大地溝帯に点在する湖沿いに拡散していったグループがいた事も間違いない。
この大地溝帯の湖沿いに拡散していったグループこそ、後にアウストラロピテクスと呼ばれる人類の直系の祖先となったのだ。ところで、アウストラロピテク ス類は何種類もいた事が知られている。その全てに共通する特徴は、完全な直立二足歩行だ。何故、アウストラロピテクス類は何種類にも分化していったのだろ うか。
現在発見されている最も古いアウストラロピテクスは、約400万年前のアウストラロピテクス・アナメンシスである。それ以前のラミダス猿人もアウストラロ ピテクス類に分類される事もある。約600万年前のアルディピテクス・ラミダス・カダバやオローリン・トゥゲイネンシス、約700万年前とされるトゥーマ イ猿人もヒトの祖先とされているが、後のアウストラロピテクスとの関係は明確になっていない。
古いヒトの祖先の発見地から推測すると、水生類人猿を育んだ島は、現在のアフリカ東部エチオピア、ケニア付近にあったに違いない。
アフリカ東部を出発点としたアウストラロピテクスは、やがて大地溝帯に連なる湖沿いにアフリカ南部にまで広がっていった。しかし、それと同時に大地溝帯 沿いの湖周辺では、次第に乾燥化が進み広大なサバンナへと変っていった。水辺で生活していたアウストラロピテクスは、サバンナ化の進行に伴い南北に連なっ た湖の間の移動が、次第に困難になっていったのではないだろうか。こうして、湖ごとに違う種類のアウストラロピテクスに分化していったのだろう。
もし、「サバンナ説」の言うようにヒトが最初からサバンナに適応した生物として進化したとすれば、サバンナを自由に往来できたはずで、アウストラロピテ クスが幾種類にも分化するはずは、無いのである。とりわけアウストラロピテクス・アフリカヌス、アウストラロピテクス・ロブストス、アウストラロピテク ス・ボイセイの少なくとも三種類が、ほぼ同時期に存在していたことの理由は説明がつかない。
こうして、乾燥化に伴い幾種類にも分化していったアウストラロピテクス類は、次第に水辺からサバンナ奥地へも進出するようになり、水生生物から水辺を好む陸上生物へと姿を変えていったのだろう。
しかし、アウストラロピテクス類が複数に分化していった中で、今から約230万年前、新しい種が誕生していた。石器を使う最初のホモ族ホモ・ハビリスで ある。当初、ホモ・ハビリスはアウストラロピテクス・アフリカヌスから進化したと考えられていたが、現在では、もっと早い時期に分化した可能性が高くなっ ている。このことを裏付けるように、ホモ・ハビリスより若干時代が古い240万年前ぐらいのホモ・ルドルフェンシスが発見されている。更に、アフリカヌス より遥かに前の時代に存在したアウストラロピテクス・アファレンシス(通称アファール猿人のルーシー)と同時代のケニアントロプス・プラティオプスと名付 けられた、よりヒトに近いと考えられる化石も発見されている。
現在のところ、次々にもたらされる新しい化石の発見で、ヒトにつながるラインは、いくつもの仮説が存在している。しかし、いずれにしろ、ホモ・ハビリス は初めて石器を使いこなしたヒトの祖先で、脳容量も700cc前後と、アウストラロピテクス類の400cc前後から大きく増えているため、初めて知能の面 で類人猿の段階を抜け出したと言えるだろう。
この大地溝帯の湖沿いに拡散していったグループこそ、後にアウストラロピテクスと呼ばれる人類の直系の祖先となったのだ。ところで、アウストラロピテク ス類は何種類もいた事が知られている。その全てに共通する特徴は、完全な直立二足歩行だ。何故、アウストラロピテクス類は何種類にも分化していったのだろ うか。
現在発見されている最も古いアウストラロピテクスは、約400万年前のアウストラロピテクス・アナメンシスである。それ以前のラミダス猿人もアウストラロ ピテクス類に分類される事もある。約600万年前のアルディピテクス・ラミダス・カダバやオローリン・トゥゲイネンシス、約700万年前とされるトゥーマ イ猿人もヒトの祖先とされているが、後のアウストラロピテクスとの関係は明確になっていない。
古いヒトの祖先の発見地から推測すると、水生類人猿を育んだ島は、現在のアフリカ東部エチオピア、ケニア付近にあったに違いない。
アフリカ東部を出発点としたアウストラロピテクスは、やがて大地溝帯に連なる湖沿いにアフリカ南部にまで広がっていった。しかし、それと同時に大地溝帯 沿いの湖周辺では、次第に乾燥化が進み広大なサバンナへと変っていった。水辺で生活していたアウストラロピテクスは、サバンナ化の進行に伴い南北に連なっ た湖の間の移動が、次第に困難になっていったのではないだろうか。こうして、湖ごとに違う種類のアウストラロピテクスに分化していったのだろう。
もし、「サバンナ説」の言うようにヒトが最初からサバンナに適応した生物として進化したとすれば、サバンナを自由に往来できたはずで、アウストラロピテ クスが幾種類にも分化するはずは、無いのである。とりわけアウストラロピテクス・アフリカヌス、アウストラロピテクス・ロブストス、アウストラロピテク ス・ボイセイの少なくとも三種類が、ほぼ同時期に存在していたことの理由は説明がつかない。
こうして、乾燥化に伴い幾種類にも分化していったアウストラロピテクス類は、次第に水辺からサバンナ奥地へも進出するようになり、水生生物から水辺を好む陸上生物へと姿を変えていったのだろう。
しかし、アウストラロピテクス類が複数に分化していった中で、今から約230万年前、新しい種が誕生していた。石器を使う最初のホモ族ホモ・ハビリスで ある。当初、ホモ・ハビリスはアウストラロピテクス・アフリカヌスから進化したと考えられていたが、現在では、もっと早い時期に分化した可能性が高くなっ ている。このことを裏付けるように、ホモ・ハビリスより若干時代が古い240万年前ぐらいのホモ・ルドルフェンシスが発見されている。更に、アフリカヌス より遥かに前の時代に存在したアウストラロピテクス・アファレンシス(通称アファール猿人のルーシー)と同時代のケニアントロプス・プラティオプスと名付 けられた、よりヒトに近いと考えられる化石も発見されている。
現在のところ、次々にもたらされる新しい化石の発見で、ヒトにつながるラインは、いくつもの仮説が存在している。しかし、いずれにしろ、ホモ・ハビリス は初めて石器を使いこなしたヒトの祖先で、脳容量も700cc前後と、アウストラロピテクス類の400cc前後から大きく増えているため、初めて知能の面 で類人猿の段階を抜け出したと言えるだろう。
2003年 12/15 海の人類史9
今からおよそ170万年前、人類史上最初にアフリカの地から第一歩を踏み出したホモ・エルガスターが現れた。最近では、初期にアフリカに現れたものを、ホモ・エルガスター、アジアにまで進出したものをホモ・エレクトスとして区別する傾向にあるようだが、従来はホモ・エルガスターはアフリカのみの初期ホモ・エレクトスとする考え方が主流だった。
しかし2000年にグルジア共和国で約170万年前のホモ・エルガスターと思われる化石が発見された事から、予想以上に早い段階でホモ・エルガスターがアフリカを出ていた事が明らかになってきた。この為、現在ではアジアに進出した者のみを、ホモ・エレクトスと呼び、それ以外をホモ・エルガスターと呼ぶ事になっている。
この、初めてアフリカを出て、世界中に広まっていったホモ・エルガスターとホモ・エレクトスは原人段階にあたる。
アジアに最初にあらわれたホモ・エレクトスは、インドネシアのジャワ原人で、およそ120万年前の事である。おそらく海岸沿いを、東へ辿ったホモ・エルガスターの集団が、温暖で湿潤な気候のインドネシアに住みつきホモ・エレクトスになったのだろう。この頃までの人類化石は、いずれも比較的温暖な気候の場所で発見されている。これは、おそらく水辺を好む性質と深く関係していると思われる。逆に考えれば、元々熱帯で誕生した人類の祖先は水辺を好むがゆえに温かい熱帯地方でのみ繁栄したのだろう。
しかし、ホモ・エレクトスも後半になってくると、すこし事情が違ってくる。およそ50万年前に出現した北京原人は、ついに温帯地方にまで進出したのだ。これは、人類の祖先の一部は、この頃から完全に水辺を離れた生活を始めたと考えられるのでは無いだろうか。
水辺を離れ陸上に戻ったホモ・エレクトスは、再び体毛を発達させる代わりに、衣服を身に着けるようになったのだろう。おそらく、火の使用もこの頃にはじまったと考えられている。
東アジアで、ホモ・エレクトスが温帯地方にまで進出し、やがて大茘(ターリー)人などの旧人の段階に進化していく一方、ユーラシア大陸の西端でも温帯地方から氷河に覆われたヨーロッパにまで進出が始まっていた。ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)やホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)である。
これらのホモ・エレクトスの次の段階にあたる人類の祖先は、全て旧人段階にあたるのだが、すでに脳容量は現代人とほとんど変りが無いまでになっていた。ネアンデルタール人にいたっては、現代人より平均的に脳容量が大きかった事が知られている。
これらの旧人が全盛を極めていた15万年から20万年前、すでにアフリカでは解剖学的な現代人の祖先が現れていた。現在、最も信じられているアフリカ単一起源説では、旧人は現代人の祖先とは考えられていない。現代人の亜種あるいは別種とされていて、ひとまとめに古代型ホモ・サピエンスと言う名称で呼ばれている。これに対応して現代人と2003年に発見されたばかりの現代人の亜種 ホモ・サピエンス・イダルツは、現代型ホモ・サピエンスと呼ばれる。そして、古代型ホモ・サピエンスは、現代型ホモ・サピエンスの世界進出に伴い、すべて絶滅してしまったとする考えが主流になっている。
「本当に古代型ホモ・サピエンスの血は、現代人にまったく受け継がれていないのか」現在でも議論が続く、人類学上の最大の謎でもある。しかし、分子生物学の進歩によるミトコンドリアDNAの解析などからは、現代人のDNAが、アフリカ起源であり古代型ホモ・サピエンスのDNAが見つからない事だけは確かな事のようである。このことからも、古代型ホモ・サピエンスから現代人が進化した事はありえない。しかし、限定的とはいえ現代人と古代型ホモ・サピエンスが交配した可能性を完全否定する事も出来ないだろう。
それでは、15万年以上前アフリカに誕生し2度目の出アフリカを達成した解剖学的現代人の現代型ホモ・サピエンスは、どのようにして古代型ホモ・サピエンスと入れ替わっていったのだろうか。この問題にこそ、従来の仮説では説明不可能な数々の謎が潜んでいる。
しかし2000年にグルジア共和国で約170万年前のホモ・エルガスターと思われる化石が発見された事から、予想以上に早い段階でホモ・エルガスターがアフリカを出ていた事が明らかになってきた。この為、現在ではアジアに進出した者のみを、ホモ・エレクトスと呼び、それ以外をホモ・エルガスターと呼ぶ事になっている。
この、初めてアフリカを出て、世界中に広まっていったホモ・エルガスターとホモ・エレクトスは原人段階にあたる。
アジアに最初にあらわれたホモ・エレクトスは、インドネシアのジャワ原人で、およそ120万年前の事である。おそらく海岸沿いを、東へ辿ったホモ・エルガスターの集団が、温暖で湿潤な気候のインドネシアに住みつきホモ・エレクトスになったのだろう。この頃までの人類化石は、いずれも比較的温暖な気候の場所で発見されている。これは、おそらく水辺を好む性質と深く関係していると思われる。逆に考えれば、元々熱帯で誕生した人類の祖先は水辺を好むがゆえに温かい熱帯地方でのみ繁栄したのだろう。
しかし、ホモ・エレクトスも後半になってくると、すこし事情が違ってくる。およそ50万年前に出現した北京原人は、ついに温帯地方にまで進出したのだ。これは、人類の祖先の一部は、この頃から完全に水辺を離れた生活を始めたと考えられるのでは無いだろうか。
水辺を離れ陸上に戻ったホモ・エレクトスは、再び体毛を発達させる代わりに、衣服を身に着けるようになったのだろう。おそらく、火の使用もこの頃にはじまったと考えられている。
東アジアで、ホモ・エレクトスが温帯地方にまで進出し、やがて大茘(ターリー)人などの旧人の段階に進化していく一方、ユーラシア大陸の西端でも温帯地方から氷河に覆われたヨーロッパにまで進出が始まっていた。ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)やホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)である。
これらのホモ・エレクトスの次の段階にあたる人類の祖先は、全て旧人段階にあたるのだが、すでに脳容量は現代人とほとんど変りが無いまでになっていた。ネアンデルタール人にいたっては、現代人より平均的に脳容量が大きかった事が知られている。
これらの旧人が全盛を極めていた15万年から20万年前、すでにアフリカでは解剖学的な現代人の祖先が現れていた。現在、最も信じられているアフリカ単一起源説では、旧人は現代人の祖先とは考えられていない。現代人の亜種あるいは別種とされていて、ひとまとめに古代型ホモ・サピエンスと言う名称で呼ばれている。これに対応して現代人と2003年に発見されたばかりの現代人の亜種 ホモ・サピエンス・イダルツは、現代型ホモ・サピエンスと呼ばれる。そして、古代型ホモ・サピエンスは、現代型ホモ・サピエンスの世界進出に伴い、すべて絶滅してしまったとする考えが主流になっている。
「本当に古代型ホモ・サピエンスの血は、現代人にまったく受け継がれていないのか」現在でも議論が続く、人類学上の最大の謎でもある。しかし、分子生物学の進歩によるミトコンドリアDNAの解析などからは、現代人のDNAが、アフリカ起源であり古代型ホモ・サピエンスのDNAが見つからない事だけは確かな事のようである。このことからも、古代型ホモ・サピエンスから現代人が進化した事はありえない。しかし、限定的とはいえ現代人と古代型ホモ・サピエンスが交配した可能性を完全否定する事も出来ないだろう。
それでは、15万年以上前アフリカに誕生し2度目の出アフリカを達成した解剖学的現代人の現代型ホモ・サピエンスは、どのようにして古代型ホモ・サピエンスと入れ替わっていったのだろうか。この問題にこそ、従来の仮説では説明不可能な数々の謎が潜んでいる。
現代人の二大進化仮説
現代人誕生の謎に迫る前に、現在まで対立している現代人進化の2大化説について、もう少し詳しく見てみよう。古代型ホモ・サピエンスから解剖学的現代人で ある現代型ホモ・サピエンスへの進化は従来から大きく分けて2種類の説が考えられ互いに対立して来た。人類学者の多くは多地域進化説として知られる仮説を 支持して来たのだが、最近の研究では、この進化説が揺らぎ始めている。
多地域進化説では、世界各地でホモ・エレクトスや古代型ホモ・サピエンスから現代型ホモ・サピエンスに同時多発的に進化したというもので、ヨーロッパで はネアンデルタール人からアジアでは北京原人やジャワ原人の子孫の古代型ホモ・サピエンスから現代型ホモ・サピエンスに進化したとするものだ。
一方、この説に真っ向から対立しているのがアフリカ単一起源説である。
この説では、アフリカで進化した現代型ホモ・サピエンスが、世界中に散らばっていた古代型ホモ・サピエンスやホモ・エレクトスを完全に駆逐し入れ替わっ たとする説である。この説では「最初に現代型ホモ・サピエンスとしての進化がおこったアフリカ大陸」の北部に位置するレバント付近に現代型ホモ・サピエン スが古くから住み着いていた事を見事に説明可能である。
更に近年ミトコンドリアDNAの研究から現代人の共通の祖先はアフリカにたどり着くという、ミトコンドリアイブ理論が出てきてアフリカ単一起源説の有力な証拠となった。
近年、古代人のDNA研究が盛んになってきているが、一般的に研究に使われるDNAは、人間の遺伝にかかわる核DNAではなくミトコンドリアDNAであ る。動物の細胞の中には、エネルギーを作り出す微小器官ミトコンドリアが存在する。このミトコンドリアは、もともと単独で存在した生物が動物の細胞内に取 り込まれ、共生と言う形でエネルギー生産を行うようになったと考えられている。したがってミトコンドリアは独自のDNAを持っている。
このミトコンドリアDNAと核DNA違いは、核DNAは人間の遺伝情報を両親から受け継ぎ生殖のたびに複雑に変化するが、ミトコンドリアDNAは、母親のみから受け継がれ変化しない事にある。ミトコンドリアDNAが変化する時は、ただ一つ突然変異である。
したがって核DNAでは、両親が組み合わされた変化と突然変異があるの対し、ミトコンドリアDNAでは、突然変異のみになる。突然変異は発生する確率は一定と考えられ、長いスパンで見ると変化量を追っかける事により一種の分子時計としての働きがある。
更にミトコンドリアDNAは核DNAよりずっと高率に突然変異を起こす事から、各集団のミトコンドリアDNAの変異量を測定する事で集団が分かれた年代がわかるのだ。
この手法に基づき現代人の各集団を比較したところ、現代人は15~20万年ぐらい前のアフリカで一つの集団に収束すると言うのだ。
そして単一起源説を決定的に有力にしたのが、ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA抽出の成功である。複数のDNA研究から現代人、特にヨーロッパ人がネアンデルタール人と遺伝学的なつながりが無いとされたからだ。
更に2003年6月、アフリカ単一起源説を決定付けると考えられる重大な発表がなされた。分子生物学者達が、ミトコンドリアDNAの変異から予測した通 りの年代の、最古の現代型ホモ・サピエンスが、アフリカで発見されたのだ。エチオピアのミドルアワシュ近郊で発見された人骨が、約16万年前の現代型ホ モ・サピエンスのものと判明したのである。
これまで、アフリカ単一起源説を唱える学者は、15から20万年前のアフリカで、現代型ホモ・サピエンスが誕生し、古代型ホモ・サピエンスと入れ替わり に世界に広がっていったと主張してきた。しかし、アフリカのどこからも、それほど古い時代の現代型ホモ・サピエンスの人骨が発見されていない事が、難点 だった。
今回の発見が、少なくともアフリカ単一起源説を強力にサポートする事は、疑いの余地が無い。今回、16万年前と確認された人骨は、大人の頭骨2体と子供 の頭骨1体分で、骨自体は1997年に発見されていた。頭骨は、頭蓋が厚く、目の上の膨らみである眼窩上隆起が多少発達しているなど、幾分古い形質も残し ている事から現代人に直接つながる亜種として、ホモ・サピエンス・イダルツ(Homo sapiens idaltu)と命名された。
それでは、すべての現代人はやはりアフリカ起源なのだろうか。しかし、たとえ最初の現代人がアフリカに出現したとしても、世界中の古代型ホモ・サピエン ス全てを、滅ぼして入れ替わったとするアフリカ単一起源説を、決定付ける事にはならないのでは無いだろうか。アフリカ単一起源説に異議を唱え、「現代人は 世界中で並行して同時に進化したとする」平行進化説を唱える学者の、反発は避けられないだろう。
多地域進化説では、世界各地でホモ・エレクトスや古代型ホモ・サピエンスから現代型ホモ・サピエンスに同時多発的に進化したというもので、ヨーロッパで はネアンデルタール人からアジアでは北京原人やジャワ原人の子孫の古代型ホモ・サピエンスから現代型ホモ・サピエンスに進化したとするものだ。
一方、この説に真っ向から対立しているのがアフリカ単一起源説である。
この説では、アフリカで進化した現代型ホモ・サピエンスが、世界中に散らばっていた古代型ホモ・サピエンスやホモ・エレクトスを完全に駆逐し入れ替わっ たとする説である。この説では「最初に現代型ホモ・サピエンスとしての進化がおこったアフリカ大陸」の北部に位置するレバント付近に現代型ホモ・サピエン スが古くから住み着いていた事を見事に説明可能である。
更に近年ミトコンドリアDNAの研究から現代人の共通の祖先はアフリカにたどり着くという、ミトコンドリアイブ理論が出てきてアフリカ単一起源説の有力な証拠となった。
近年、古代人のDNA研究が盛んになってきているが、一般的に研究に使われるDNAは、人間の遺伝にかかわる核DNAではなくミトコンドリアDNAであ る。動物の細胞の中には、エネルギーを作り出す微小器官ミトコンドリアが存在する。このミトコンドリアは、もともと単独で存在した生物が動物の細胞内に取 り込まれ、共生と言う形でエネルギー生産を行うようになったと考えられている。したがってミトコンドリアは独自のDNAを持っている。
このミトコンドリアDNAと核DNA違いは、核DNAは人間の遺伝情報を両親から受け継ぎ生殖のたびに複雑に変化するが、ミトコンドリアDNAは、母親のみから受け継がれ変化しない事にある。ミトコンドリアDNAが変化する時は、ただ一つ突然変異である。
したがって核DNAでは、両親が組み合わされた変化と突然変異があるの対し、ミトコンドリアDNAでは、突然変異のみになる。突然変異は発生する確率は一定と考えられ、長いスパンで見ると変化量を追っかける事により一種の分子時計としての働きがある。
更にミトコンドリアDNAは核DNAよりずっと高率に突然変異を起こす事から、各集団のミトコンドリアDNAの変異量を測定する事で集団が分かれた年代がわかるのだ。
この手法に基づき現代人の各集団を比較したところ、現代人は15~20万年ぐらい前のアフリカで一つの集団に収束すると言うのだ。
そして単一起源説を決定的に有力にしたのが、ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA抽出の成功である。複数のDNA研究から現代人、特にヨーロッパ人がネアンデルタール人と遺伝学的なつながりが無いとされたからだ。
更に2003年6月、アフリカ単一起源説を決定付けると考えられる重大な発表がなされた。分子生物学者達が、ミトコンドリアDNAの変異から予測した通 りの年代の、最古の現代型ホモ・サピエンスが、アフリカで発見されたのだ。エチオピアのミドルアワシュ近郊で発見された人骨が、約16万年前の現代型ホ モ・サピエンスのものと判明したのである。
これまで、アフリカ単一起源説を唱える学者は、15から20万年前のアフリカで、現代型ホモ・サピエンスが誕生し、古代型ホモ・サピエンスと入れ替わり に世界に広がっていったと主張してきた。しかし、アフリカのどこからも、それほど古い時代の現代型ホモ・サピエンスの人骨が発見されていない事が、難点 だった。
今回の発見が、少なくともアフリカ単一起源説を強力にサポートする事は、疑いの余地が無い。今回、16万年前と確認された人骨は、大人の頭骨2体と子供 の頭骨1体分で、骨自体は1997年に発見されていた。頭骨は、頭蓋が厚く、目の上の膨らみである眼窩上隆起が多少発達しているなど、幾分古い形質も残し ている事から現代人に直接つながる亜種として、ホモ・サピエンス・イダルツ(Homo sapiens idaltu)と命名された。
それでは、すべての現代人はやはりアフリカ起源なのだろうか。しかし、たとえ最初の現代人がアフリカに出現したとしても、世界中の古代型ホモ・サピエン ス全てを、滅ぼして入れ替わったとするアフリカ単一起源説を、決定付ける事にはならないのでは無いだろうか。アフリカ単一起源説に異議を唱え、「現代人は 世界中で並行して同時に進化したとする」平行進化説を唱える学者の、反発は避けられないだろう。
解けない謎
さて、簡単に従来の仮説をおさらいした所で、もうお気づきだろうが、現在では平行進化説を支持する学者は、少数派になっている。すでに説明したとおり、分 子生物学の発達により、ミトコンドリアDNA(以後mtDNA)が調べられるようになってきたからだ。mtDNAの解析からは、調査をした全ての現代人集 団のmtDNAは非常に均一で、わずか15万年から20万年前のアフリカに起源をもつ事が明らかになってきている。
しかも、化石人骨であるネアンデルタール人からもmtDNAが取り出され、解析された結果、現代人のmtDNAとはつながりが薄いことも判明している。 もちろん、より古い時代のホモ・エレクトスからmtDNAが抽出された事は無く、世界の全ての現代人集団が調べられたわけでも無いので、絶対に現代人に古 代型ホモサピエンスの血が混ざっていないと断定する事は出来ない。又、少数派では有るがmtDNAの研究からも、混血が行われたという報告も行われてい る。しかし、少なくとも多地域で古代型ホモ・サピエンスから現代人に進化したとするシナリオの成立が難しくなってきているのは、明らかな様である。
やはり現代人の祖先は、アフリカ単一起源なのだろうか?実は、話はそう簡単ではない。
アフリカ単一起源説では、アフリカに誕生した現代人は、陸路中近東を通り西アジアに進出し、一方は東アジアへ一方はヨーロッパへ渡って行ったと考えられ ている。その根拠としてよく挙げられるのが、中近東レバント付近では、ネアンデルタール人よりも古い時代から、現代人が住み着いていた事実だ。
しかし、もう一箇所、かなり古くから現代人が住んでいた場所がある。それは、オーストラリアである。オーストラリアには、少なくとも6万年ぐらい前から、 現代人が住み着いていた。(一時期7万年以上前からと考えられていたが、最新の年代測定結果から1万年ほど新しくなった)
この事は、オーストラリアの地理的条件を考えると、驚異的な事なのだ。何しろオーストラリアは、人類の誕生以来一度も他の大陸とつながった事が無いので ある。最も寒冷化が進み海面が低下した最終氷河期の時代でさえ、80・以上もの海峡で隔てられていた。とても丸太にしがみついて、漂流できる距離ではな い。つまりオーストラリアに、ヒトが住み着くためには、船を用いる以外に方法が無い事になる。
アフリカから陸路容易に到達できるヨーロッパに、現代人が住み着き始めたのが約4万年前である事実を考えると、海で隔てられた地球の裏側にあるオーストラリアに6万年も前に現代人が現れたと言う事は、まさに異常な出来事と言わざるを得ないだろう。
更にオーストラリアには、アフリカ単一起源説では説明が難しい不可解な謎がある。オーストラリアの初期人類集団は、レークマンゴー人と呼ばれているが、 彼等の頭骨の形態は、非常に華奢で現代的なのだ。現在のオーストラリア先住民と比較してさえ、レークマンゴー人は遥かにモダンで現代的なのだ。それに比 べ、ずっと時代が新しいカウスワンプ人の頭骨は非常に頑丈で多くの古い形質を残していた。とりわけ、東南アジアのジャワ原人の特徴を多く備えていた。
何故、オーストラリアにおいて最も古い人類集団が、より現代的な特徴を持つという逆転現象がおきていたのだろうか。アフリカで現代人に進化を遂げた集団 が、古代型ホモ・サピエンスやホモ・エレクトスとまったく交配せずにアジア、オーストラリアと拡散していったとすれば、当然古い集団が最も原始的で、現在 のアボリジニが、より現代的な特徴を持っているはずである。
この逆転現象は、平行進化説においてさえ、説明は容易ではない。なぜならアジアにおける現代人への進化がオーストラリアに始まったと仮定しても、逆転現 象の説明は出来ないからだ。このことから考えて、少なくともオーストラリアへは、2回の大規模な現代人の移住が行われた事になる。1回目は、非常にモダン なレークマンゴー人、2回目は原始的な特徴を多く残したカウスワンプ人だ。
平行進化説においては、確かに進化レベルの異なる現代人集団が別々に移住した可能性は考えられる。しかし、アフリカ単一起源説で、現代人が旧人類とまったく混血しなかったとすると、最後の移住が最もモダンな集団によるものであるはずだ。逆転現象は起きるはずが無い。
しかも、化石人骨であるネアンデルタール人からもmtDNAが取り出され、解析された結果、現代人のmtDNAとはつながりが薄いことも判明している。 もちろん、より古い時代のホモ・エレクトスからmtDNAが抽出された事は無く、世界の全ての現代人集団が調べられたわけでも無いので、絶対に現代人に古 代型ホモサピエンスの血が混ざっていないと断定する事は出来ない。又、少数派では有るがmtDNAの研究からも、混血が行われたという報告も行われてい る。しかし、少なくとも多地域で古代型ホモ・サピエンスから現代人に進化したとするシナリオの成立が難しくなってきているのは、明らかな様である。
やはり現代人の祖先は、アフリカ単一起源なのだろうか?実は、話はそう簡単ではない。
アフリカ単一起源説では、アフリカに誕生した現代人は、陸路中近東を通り西アジアに進出し、一方は東アジアへ一方はヨーロッパへ渡って行ったと考えられ ている。その根拠としてよく挙げられるのが、中近東レバント付近では、ネアンデルタール人よりも古い時代から、現代人が住み着いていた事実だ。
しかし、もう一箇所、かなり古くから現代人が住んでいた場所がある。それは、オーストラリアである。オーストラリアには、少なくとも6万年ぐらい前から、 現代人が住み着いていた。(一時期7万年以上前からと考えられていたが、最新の年代測定結果から1万年ほど新しくなった)
この事は、オーストラリアの地理的条件を考えると、驚異的な事なのだ。何しろオーストラリアは、人類の誕生以来一度も他の大陸とつながった事が無いので ある。最も寒冷化が進み海面が低下した最終氷河期の時代でさえ、80・以上もの海峡で隔てられていた。とても丸太にしがみついて、漂流できる距離ではな い。つまりオーストラリアに、ヒトが住み着くためには、船を用いる以外に方法が無い事になる。
アフリカから陸路容易に到達できるヨーロッパに、現代人が住み着き始めたのが約4万年前である事実を考えると、海で隔てられた地球の裏側にあるオーストラリアに6万年も前に現代人が現れたと言う事は、まさに異常な出来事と言わざるを得ないだろう。
更にオーストラリアには、アフリカ単一起源説では説明が難しい不可解な謎がある。オーストラリアの初期人類集団は、レークマンゴー人と呼ばれているが、 彼等の頭骨の形態は、非常に華奢で現代的なのだ。現在のオーストラリア先住民と比較してさえ、レークマンゴー人は遥かにモダンで現代的なのだ。それに比 べ、ずっと時代が新しいカウスワンプ人の頭骨は非常に頑丈で多くの古い形質を残していた。とりわけ、東南アジアのジャワ原人の特徴を多く備えていた。
何故、オーストラリアにおいて最も古い人類集団が、より現代的な特徴を持つという逆転現象がおきていたのだろうか。アフリカで現代人に進化を遂げた集団 が、古代型ホモ・サピエンスやホモ・エレクトスとまったく交配せずにアジア、オーストラリアと拡散していったとすれば、当然古い集団が最も原始的で、現在 のアボリジニが、より現代的な特徴を持っているはずである。
この逆転現象は、平行進化説においてさえ、説明は容易ではない。なぜならアジアにおける現代人への進化がオーストラリアに始まったと仮定しても、逆転現 象の説明は出来ないからだ。このことから考えて、少なくともオーストラリアへは、2回の大規模な現代人の移住が行われた事になる。1回目は、非常にモダン なレークマンゴー人、2回目は原始的な特徴を多く残したカウスワンプ人だ。
平行進化説においては、確かに進化レベルの異なる現代人集団が別々に移住した可能性は考えられる。しかし、アフリカ単一起源説で、現代人が旧人類とまったく混血しなかったとすると、最後の移住が最もモダンな集団によるものであるはずだ。逆転現象は起きるはずが無い。
混迷するDNA研究
このように、様々な矛盾点が存在する事を考えると、現代人の拡散を単純に平行進化説かアフリカ単一起源説のみで説明するのは、不可能だ。実際は、もっと複雑であるに違いない。
最近、アフリカ単一起源説をベースに新しい拡散モデルが提唱され注目されている。この仮説でも、基本的には現代人はアフリカで誕生したとされる。しか し、世界中に拡散する過程で古代型ホモ・サピエンスやホモ・エレクトスを駆逐したのではなく、交配を繰り返しながら現代人の血を世界に広めたとするもの だ。
ワシントン大学のアラン・テンプルトン博士等が、2002年3月に発表した説によると、現代人のDNAには、明らかに古い先行人類のDNAの痕跡が残されていると言う。博士等は、世界の10地域に住む人々のDNAを集め、コンピュータによる解析を行った。
博士等は、GEODISと呼ばれるコンピュータープログラムを用い、mtDNA、Y染色体及び核DNA内の八つの領域から遺伝子ツリーを作成し解析を行っ た。その結果、2回の大きな出アフリカの流れが明らかになったという。1回目は、今から42万年前から84万年前の間で、おそらく古代型ホモ・サピエンス の時代である。そして2回目は、8万年から15万年前の間、現代型ホモ・サピエンスの時代である。
しかし、テンプルトン博士によると、この2回の出アフリカは、すでに拡散していた人類の祖先を滅ぼして、完全に入れ替わる形ではなく、混血する事によっ て新しい遺伝子をもたらす形で行われたという。特に最後の現代型ホモ・サピエンスの拡散では、この傾向がはっきり読みと取れるという。
今までのDNA研究とはまったく異なる結果であるが、確かに単なるアフリカ単一起源説よりは、遥かに自然で起こりえそうなシナリオである。更にこの仮説 なら、従来から古人類学者が指摘しているように、現在のアジア人種が、北京原人やジャワ原人から続く形態学的特長を残している事の説明も容易になってく る。
それでは、この仮説に基づくとオーストラリアの謎は、説明できるのだろうか。実はこの仮説でさえ、アフリカから遠く離れたオーストラリアに忽然とモダン な現代人が姿を現したことの説明は難しい。なぜなら、いずれの仮説も、アフリカを出た現代人は、中近東、中央アジア・インド、東アジア・東南アジアを経由 してオーストラリアに到達したと仮定しているからだ。はたして、このルートは、正しいのだろうか?
最近、アフリカ単一起源説をベースに新しい拡散モデルが提唱され注目されている。この仮説でも、基本的には現代人はアフリカで誕生したとされる。しか し、世界中に拡散する過程で古代型ホモ・サピエンスやホモ・エレクトスを駆逐したのではなく、交配を繰り返しながら現代人の血を世界に広めたとするもの だ。
ワシントン大学のアラン・テンプルトン博士等が、2002年3月に発表した説によると、現代人のDNAには、明らかに古い先行人類のDNAの痕跡が残されていると言う。博士等は、世界の10地域に住む人々のDNAを集め、コンピュータによる解析を行った。
博士等は、GEODISと呼ばれるコンピュータープログラムを用い、mtDNA、Y染色体及び核DNA内の八つの領域から遺伝子ツリーを作成し解析を行っ た。その結果、2回の大きな出アフリカの流れが明らかになったという。1回目は、今から42万年前から84万年前の間で、おそらく古代型ホモ・サピエンス の時代である。そして2回目は、8万年から15万年前の間、現代型ホモ・サピエンスの時代である。
しかし、テンプルトン博士によると、この2回の出アフリカは、すでに拡散していた人類の祖先を滅ぼして、完全に入れ替わる形ではなく、混血する事によっ て新しい遺伝子をもたらす形で行われたという。特に最後の現代型ホモ・サピエンスの拡散では、この傾向がはっきり読みと取れるという。
今までのDNA研究とはまったく異なる結果であるが、確かに単なるアフリカ単一起源説よりは、遥かに自然で起こりえそうなシナリオである。更にこの仮説 なら、従来から古人類学者が指摘しているように、現在のアジア人種が、北京原人やジャワ原人から続く形態学的特長を残している事の説明も容易になってく る。
それでは、この仮説に基づくとオーストラリアの謎は、説明できるのだろうか。実はこの仮説でさえ、アフリカから遠く離れたオーストラリアに忽然とモダン な現代人が姿を現したことの説明は難しい。なぜなら、いずれの仮説も、アフリカを出た現代人は、中近東、中央アジア・インド、東アジア・東南アジアを経由 してオーストラリアに到達したと仮定しているからだ。はたして、このルートは、正しいのだろうか?
海の道
忘れてはいけない。ヒトは海辺で進化したのだ。一般に海洋民族の登場は、人類が船を発明して航海技術を発達させ海に乗り出したことに始まると考えられてい る。しかし、これは人類が陸生動物だと言う、前提があるからに過ぎない。元々海辺で進化し、水を好んだ人類は、そもそも海洋民族として始まったのだ。逆に 技術が発達してきたがゆえに、海を離れて内陸部にまで進出したと捉える事が出来る。
こう考えると人類は、非常に早い段階で航海を行っていたに違いない。何しろ、筏やアシ舟でさえ大航海が可能な事は、実験で証明されているのだ。海辺で暮 らす現代人の集団が、6万年前に船或いはイカダでアフリカからオーストラリアに直接渡ったと仮定すると、どうだろう。忽然とモダンな現代人がオーストラリ アに出現した事の謎が見事に解ける。
これ以外のルートでは、アフリカに誕生した現代人が、オーストラリアに6万年も前から住んでいた事実を説明する事は、とうてい不可能である。そもそも、 先ほども述べたようにオーストラリアへ渡る為には、どのみち航海をする必要があったわけだし、「小さな航海か」「大航海か」と言う量だけの問題である。
もちろん、この事が陸路による出アフリカを否定するものでは無い。当然、中近東を通り世界各地に散らばっていった現代人集団もいた事は間違い無い。陸路 による移住は、当然それなりの時間を要するはずである。ヨーロッパに現代人が現れたのが4万年前なら、アジアへの進出には、更に時間を要した事は、容易に 想像がつく。
そして、アジアには北京原人やジャワ原人の子孫にあたる様々なタイプの古代型ホモ・サピエンスが既に住み着いていた。アフリカを出発した現代人は、アジ アの旧人類たちと、時には戦い、時には融和を繰り返しながら拡散していったに違いない。その過程で、アジアの現代人は、北京原人やジャワ原人が持っていた 古い形態的特徴を取り入れていったのだろう。やがて、陸路アジアに拡散していった現代人は、ついに2万年前オーストラリアに到達した。
既に解剖学的現代人レークマンゴー人の住むオーストラリアに、ジャワ原人などの古い形質を備えた現代人カウ・スワンプ人が現れたのだ。オーストラリアでの逆転現象を解き明かすカギはここに有ったのだ。
その後も幾度となく現代人の波は、オーストラリアに打ち寄せたはずだ。現代人への進化の大きなうねりは、徐々にオーストラリア先住民から古代型ホモ・サ ピエンスの特徴を消し去っていった。しかし、完全にではない。こうして、世界で最もユニークで独特な特徴を備えたオーストラリア先住民アボリジニが誕生し た。
こう考えると人類は、非常に早い段階で航海を行っていたに違いない。何しろ、筏やアシ舟でさえ大航海が可能な事は、実験で証明されているのだ。海辺で暮 らす現代人の集団が、6万年前に船或いはイカダでアフリカからオーストラリアに直接渡ったと仮定すると、どうだろう。忽然とモダンな現代人がオーストラリ アに出現した事の謎が見事に解ける。
これ以外のルートでは、アフリカに誕生した現代人が、オーストラリアに6万年も前から住んでいた事実を説明する事は、とうてい不可能である。そもそも、 先ほども述べたようにオーストラリアへ渡る為には、どのみち航海をする必要があったわけだし、「小さな航海か」「大航海か」と言う量だけの問題である。
もちろん、この事が陸路による出アフリカを否定するものでは無い。当然、中近東を通り世界各地に散らばっていった現代人集団もいた事は間違い無い。陸路 による移住は、当然それなりの時間を要するはずである。ヨーロッパに現代人が現れたのが4万年前なら、アジアへの進出には、更に時間を要した事は、容易に 想像がつく。
そして、アジアには北京原人やジャワ原人の子孫にあたる様々なタイプの古代型ホモ・サピエンスが既に住み着いていた。アフリカを出発した現代人は、アジ アの旧人類たちと、時には戦い、時には融和を繰り返しながら拡散していったに違いない。その過程で、アジアの現代人は、北京原人やジャワ原人が持っていた 古い形態的特徴を取り入れていったのだろう。やがて、陸路アジアに拡散していった現代人は、ついに2万年前オーストラリアに到達した。
既に解剖学的現代人レークマンゴー人の住むオーストラリアに、ジャワ原人などの古い形質を備えた現代人カウ・スワンプ人が現れたのだ。オーストラリアでの逆転現象を解き明かすカギはここに有ったのだ。
その後も幾度となく現代人の波は、オーストラリアに打ち寄せたはずだ。現代人への進化の大きなうねりは、徐々にオーストラリア先住民から古代型ホモ・サ ピエンスの特徴を消し去っていった。しかし、完全にではない。こうして、世界で最もユニークで独特な特徴を備えたオーストラリア先住民アボリジニが誕生し た。
新大陸の発見
遅くとも6万年前には、旧大陸の隅々に到達した現代人ホモ・サピエンス・サピエンスが次に向かった先は、新大陸つまり南北アメリカ大陸である。従来の説だ とアメリカ大陸に最初に人類が到達したのは、1万2000年前以降の事で、氷河期で陸続きだったベーリング海峡を渡った北東アジア人(北東モンゴロイド) により陸路行われたと考えられていた。つまり、それ以前は南北アメリカ大陸にヒトは住んでいなかった事になる。
現在のアメリカ先住民が、北東モンゴロイドの特徴を備えている事を考えれば、このような移住が行われた事は明らかで、確実な出来事と考えてよいだろう。しかし、従来の説の問題は、この移住以前の移住や別ルートの移住が無かったとされている事である。
なぜなら、それ以前は厚い氷河がカナダを覆っていたため、陸路アメリカ大陸を南下する事は不可能だったからだ。このような考えは、アメリカ大陸への移住 は、陸路以外に考えられないと言う前提に基づいている。勿論そのような前提は、間違っていたのだ。その事を証明する数々の新しい事実が明らかになりつつあ る。
最近、アメリカ大陸からも、かなり古い人骨が発見されだした。有名なものでは、約9300年前とされるケネウィックマン(写真)である。中には1万 2000年前より古いと考えられている物もある。そして、これら古い人骨の研究が進んだ結果、初期のアメリカ先住民は、北東モンゴロイド系とは、異なる特 徴を持っていたことが明らかになった。
まず、最も話題を集めているケネウィックマンから、話をすすめよう。この人骨は、アメリカ・ワシントン州で発見されたもので、発見当初、白人の特徴を備 えていると話題になった。しかし、後の研究からは、日本のアイヌ人やポリネシア人により近い事が判明し、古モンゴロイド系であると考えられるようになっ た。(詳しくは黄トンボコラム内ケネウィックマン及び楽園を求めた縄文人参照)
又、ケネウィックマン以外にも、似たような人骨が続々と発見されだした。2002年にも、メキシコでアメリカ最古級になる1万3000年前の人骨が確認 あされている。この人骨は、1959年以来メキシコシティーの博物館に飾られていたものだが、人骨の特徴が現在のアメリカ先住民に似ていない事に気づいた 研究員が、年代測定を行った結果、予想通り非常に古いものである事が確認されたのだ。
古モンゴロイドとは、北東モンゴロイド集団がアジア全体に広く拡散する前から、日本を含む東南アジアやオセアニアに広く分布していた人々をさす。日本の 縄文人も、この古モンゴロイド集団に分類される。オセアニアを除く、東南アジアや東アジアの現在の住民は、基本的には、古モンゴロイドと後に南下してきた 北東モンゴロイドの2重構造を持っているといえるだろう。
最近までは、このような二重構造がアメリカ大陸にも存在するとは、まったく考えられていなかったが、化石記録を見る限りアメリカ大陸にも二重構造があっ た事になる。つまり、北東モンゴロイドがベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に到達したとき、そこには、既に古モンゴロイドが住んでいたと考えるのが、最も 理にかなった解釈である。
では、古モンゴロイド集団は、どのようにしてアメリカ大陸まで到達したのだろうか。陸路渡れなかったとすると、自ずと手段は航海に限られてくる。今まで 見て来たとおり、水生類人猿としてスタートした人類にとって、航海はお手のものである。しかし、これまで、人類が行って来た航海と比べ、広大な太平洋を横 断する事は、桁違いの大航海であることも事実だ。
現在のアメリカ先住民が、北東モンゴロイドの特徴を備えている事を考えれば、このような移住が行われた事は明らかで、確実な出来事と考えてよいだろう。しかし、従来の説の問題は、この移住以前の移住や別ルートの移住が無かったとされている事である。
なぜなら、それ以前は厚い氷河がカナダを覆っていたため、陸路アメリカ大陸を南下する事は不可能だったからだ。このような考えは、アメリカ大陸への移住 は、陸路以外に考えられないと言う前提に基づいている。勿論そのような前提は、間違っていたのだ。その事を証明する数々の新しい事実が明らかになりつつあ る。
最近、アメリカ大陸からも、かなり古い人骨が発見されだした。有名なものでは、約9300年前とされるケネウィックマン(写真)である。中には1万 2000年前より古いと考えられている物もある。そして、これら古い人骨の研究が進んだ結果、初期のアメリカ先住民は、北東モンゴロイド系とは、異なる特 徴を持っていたことが明らかになった。
まず、最も話題を集めているケネウィックマンから、話をすすめよう。この人骨は、アメリカ・ワシントン州で発見されたもので、発見当初、白人の特徴を備 えていると話題になった。しかし、後の研究からは、日本のアイヌ人やポリネシア人により近い事が判明し、古モンゴロイド系であると考えられるようになっ た。(詳しくは黄トンボコラム内ケネウィックマン及び楽園を求めた縄文人参照)
又、ケネウィックマン以外にも、似たような人骨が続々と発見されだした。2002年にも、メキシコでアメリカ最古級になる1万3000年前の人骨が確認 あされている。この人骨は、1959年以来メキシコシティーの博物館に飾られていたものだが、人骨の特徴が現在のアメリカ先住民に似ていない事に気づいた 研究員が、年代測定を行った結果、予想通り非常に古いものである事が確認されたのだ。
古モンゴロイドとは、北東モンゴロイド集団がアジア全体に広く拡散する前から、日本を含む東南アジアやオセアニアに広く分布していた人々をさす。日本の 縄文人も、この古モンゴロイド集団に分類される。オセアニアを除く、東南アジアや東アジアの現在の住民は、基本的には、古モンゴロイドと後に南下してきた 北東モンゴロイドの2重構造を持っているといえるだろう。
最近までは、このような二重構造がアメリカ大陸にも存在するとは、まったく考えられていなかったが、化石記録を見る限りアメリカ大陸にも二重構造があっ た事になる。つまり、北東モンゴロイドがベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に到達したとき、そこには、既に古モンゴロイドが住んでいたと考えるのが、最も 理にかなった解釈である。
では、古モンゴロイド集団は、どのようにしてアメリカ大陸まで到達したのだろうか。陸路渡れなかったとすると、自ずと手段は航海に限られてくる。今まで 見て来たとおり、水生類人猿としてスタートした人類にとって、航海はお手のものである。しかし、これまで、人類が行って来た航海と比べ、広大な太平洋を横 断する事は、桁違いの大航海であることも事実だ。
縄文アメリカ人
最近の研究からは、明らかにアメリカ大陸に最初に移住したのは、北東アジア人ではなかった。氷河の回廊が開く前にアメリカ大陸に到達したとすると、経路は「海」意外にない。
つまり、アメリカ大陸の真の発見者も、海洋民族だったのだ。その中でも、有力候補として、挙げられているのが縄文人である。縄文人が、アメリカ大陸に 渡っていたとする仮説は、1970年代にスミソニアン協会のエバンス博士夫妻が、発表した。南米、エクアドルのバルディビア遺跡から出土した土器の文様 が、日本の縄文土器とそっくりと言う事から、縄文人太平洋横断説が導き出されたのだ。
あまり知られていないが、縄文人が黒潮に乗った場合、意外に速い速度で、太平洋を横断し、約3ヶ月前後でアメリカ大陸に行き着く事が出来る。更に首尾よく赤道反流に乗り移れば、エクアドル付近の海岸まで動力なしでも到達可能なのだ。 エバンス博士らが、バルディビア土器と最も似ていると比較に挙げた縄文土器は、阿高式と曾畑式で、何れも九州の日本海側「有明海沿岸」で発見された土器 である。エバンス博士らは、縄文人が太平洋を横断したとすると、宮崎などの太平洋沿岸にも似た土器があるはずだと探し回った。しかし、当時の宮崎では縄文 土器すら探す事が出来なかった。
太平洋側から似た土器が見つからないと言う事は、長い間「縄文人太平洋横断説」のネックとなってきたのだ。しかし、最近の調査で意外なことが判明してき た。宮崎県内各地で、曾畑式土器が発見されていたのだ。宮崎県では、体系だって縄文研究が行われていない上、展示などもされていないので、発見された縄文 土器は、ダンボールで倉庫に保管されているような状態で、誰の目にも触れてこなかっただけなのだ。
しかし、最近やっとこのような状態もNPOを中心に改善されつつある。その結果、宮崎から出土した曾畑式土器等が、目に触れる機会が出て来た。更に、バ ルディビア土器よりかなり古い年代になるが、縄文早期の跡江貝塚から出土した土器も、バルディビア土器と共通する文様が数多く見られる。
跡江貝塚は、ちょうどエバンス博士夫妻が縄文土器を探して宮崎を訪れている頃に、地元の高校生により発見されている。跡江貝塚は大淀川を数キロ遡った、 まさに太平洋への玄関口に位置している。太平洋に乗り出すには、まさにうってつけの場所なのだ。宮崎の縄文土器とバルディビア土器の関連の研究は始まった ばかりだ。これからの、研究次第では、縄文人が太平洋を横断した有力な証拠になるかもしれない。
縄文人が太平洋を横断し、アメリカ大陸に到達していた事を示す証拠は、別の研究からも挙がってきている。南アメリカのインディオの一部の人々の持つ DNAタイプが、アイヌ人などと共通している事がわかってきた。更に、ズビニ鈎中と言う寄生虫の研究や病気の研究等からも、縄文人等の古モンゴロイド集団 が、船で太平洋を横断した事が、明らかになりつつある。
はたして、縄文人はアメリカ大陸の新の発見者だったのだろうか?実は、話はそう簡単ではないのだ。意外な、特徴をもった人々の骨が、最近ブラジルから大量に見つかったのだ。しかも、これらの人骨は、ケネウィックマン以上に古い物である可能性が出て来た。
つまり、アメリカ大陸の真の発見者も、海洋民族だったのだ。その中でも、有力候補として、挙げられているのが縄文人である。縄文人が、アメリカ大陸に 渡っていたとする仮説は、1970年代にスミソニアン協会のエバンス博士夫妻が、発表した。南米、エクアドルのバルディビア遺跡から出土した土器の文様 が、日本の縄文土器とそっくりと言う事から、縄文人太平洋横断説が導き出されたのだ。
あまり知られていないが、縄文人が黒潮に乗った場合、意外に速い速度で、太平洋を横断し、約3ヶ月前後でアメリカ大陸に行き着く事が出来る。更に首尾よく赤道反流に乗り移れば、エクアドル付近の海岸まで動力なしでも到達可能なのだ。 エバンス博士らが、バルディビア土器と最も似ていると比較に挙げた縄文土器は、阿高式と曾畑式で、何れも九州の日本海側「有明海沿岸」で発見された土器 である。エバンス博士らは、縄文人が太平洋を横断したとすると、宮崎などの太平洋沿岸にも似た土器があるはずだと探し回った。しかし、当時の宮崎では縄文 土器すら探す事が出来なかった。
太平洋側から似た土器が見つからないと言う事は、長い間「縄文人太平洋横断説」のネックとなってきたのだ。しかし、最近の調査で意外なことが判明してき た。宮崎県内各地で、曾畑式土器が発見されていたのだ。宮崎県では、体系だって縄文研究が行われていない上、展示などもされていないので、発見された縄文 土器は、ダンボールで倉庫に保管されているような状態で、誰の目にも触れてこなかっただけなのだ。
しかし、最近やっとこのような状態もNPOを中心に改善されつつある。その結果、宮崎から出土した曾畑式土器等が、目に触れる機会が出て来た。更に、バ ルディビア土器よりかなり古い年代になるが、縄文早期の跡江貝塚から出土した土器も、バルディビア土器と共通する文様が数多く見られる。
跡江貝塚は、ちょうどエバンス博士夫妻が縄文土器を探して宮崎を訪れている頃に、地元の高校生により発見されている。跡江貝塚は大淀川を数キロ遡った、 まさに太平洋への玄関口に位置している。太平洋に乗り出すには、まさにうってつけの場所なのだ。宮崎の縄文土器とバルディビア土器の関連の研究は始まった ばかりだ。これからの、研究次第では、縄文人が太平洋を横断した有力な証拠になるかもしれない。
縄文人が太平洋を横断し、アメリカ大陸に到達していた事を示す証拠は、別の研究からも挙がってきている。南アメリカのインディオの一部の人々の持つ DNAタイプが、アイヌ人などと共通している事がわかってきた。更に、ズビニ鈎中と言う寄生虫の研究や病気の研究等からも、縄文人等の古モンゴロイド集団 が、船で太平洋を横断した事が、明らかになりつつある。
はたして、縄文人はアメリカ大陸の新の発見者だったのだろうか?実は、話はそう簡単ではないのだ。意外な、特徴をもった人々の骨が、最近ブラジルから大量に見つかったのだ。しかも、これらの人骨は、ケネウィックマン以上に古い物である可能性が出て来た。
最初の大航海
南米、ブラジル北東部のセラダ・カピバラと呼ばれる断崖絶壁に囲まれた渓谷では、古くから先住民が残した洞窟壁画の存在が知られていた。これらの壁画は、 先住民の残した物で、かなり古い物だろうと考えられてきた。ところが最近、その壁画の中にとっくに絶滅したはずの、巨大アルマジロの狩の風景が発見された のだ。この為、壁画が想像以上に、遥かに古い物である可能性が出て来た。
更に、セラダ・カピバラの中でも最大の洞窟ペトラ・フラダを発掘したところ、4万年以上も前の地層から、石器らしきものや炉の痕が発見されたのだ。最大 5万年前まで遡る地層の中からは、多くの炭とともに動物の骨が大量に見つかった。明らかにこの地域には、従来考えられていたよりも、遥かに古い時代から人 間が住んでいたらしいのだ。
これら南米に古くから住んでいた先住民とは、いったいどのような人々だったのだろうか。この謎を解くカギとなる人骨がブラジル北東部と南東部の洞窟から 見つかっている。これらの人骨は、約9000年前から12000年前のアメリカ大陸最古級の人骨である。その中でも、最も古いルシアと名づけられた若い女 性の頭骨を用いて詳細な調査が行われた。この頭骨は、1975年に発見されいた物だが、最近の検査で11500年も前のものだということが判明していた。
詳細な、頭骨の形態の測定結果をバウテル・メデス博士がコンピューターで解析した結果、ルシアは北東アジア系のモンゴロイドとは、まったく似ていないことがはっきりしたのだ。
コンピューターのはじき出した答えは、実に意外なものだった。ルシアは、ニグロイド系つまりアフリカ人というものだった。更に、複顔の世界的権威である マンチェスター大学のリチャード・ニールにより顔の復元が行われた。その結果も、すべての比率で明らかにニグロイド系であることがはっきりした。ルシア以 外の人骨についても検討が行われたが、やはり、ニグロイド系アフリカ人やオーストラリア先住民アボリジニ、メラネシア人等のオーストラロイド系人種の特徴 が明らかに備わっていると言う。
アボリジニやメラネシア系の人々が属しているとされるオーストラロイド系人種は、その外見とは裏腹にアフリカ系ニグロイドとの関係は無いと、一般には考 えられている。しかし、大きな低い鼻や縮れた髪の毛、黒い肌など外見上は比較的共通する特徴を備えている。特にメラネシア地方や東南アジアの一部に住む、 ネグリトと呼ばれる人々は、ニグロイド系人種とほとんど変わらない外見を備えている。復元されたルシアは、それらの人々にそっくりの外見を備えていたの だ。
サンパウロ大学のウォルター・ネベス博士によると南アメリカの人骨にモンゴロイドの特徴が現れ始めるのは、約9000年前からで、それ以前の人骨には、 モンゴロイドの特徴はまったく見られないと言う。逆に約7000年前以降には、完全にモンゴロイドのみになってしまうらしい。つまり、おおよそ2000年 をかけて、ニグロイド系の先住民は、モンゴロイド系の先住民つまりベーリング海峡を渡り南下してきた北東アジア人と入れ替わった事になる。
結論として、少なくとも南米には、ニグロイド系かオーストラロイド系の先住民が現在のインディオが住み始めるよりも、遥かに古い時代から住んでいたこと になる。それでは、彼等は、どこからやって来たのだろうか。大きく2種類のルートが、考えられるだろう。一つは、アフリカ大陸から直接、南米に船で移住し てきたルートである。実際、つい最近、漁に出た5人のアフリカ人が嵐に遭遇し船が流された末、3週間後2人がブラジルに流れ着く事件がおきていると言う。 2人は、そのままブラジルへの移住を決意したらしい。それにしても、アフリカからブラジルまで、3週間で流れ着くとは、実に速い速度である。この程度な ら、漂流しても生存したまま、漂着する可能性は、かなり高いと考えられるだろう。
もう一つのルートとしては、オーストラリア或いは、メラネシア付近から、南米に移住したルートである。オーストラリアの先住民アボリジニは、一般的に内陸部に住んでいる狩猟採集民である。しかし、オーストラリアにもティウィーと言う立派な海洋民族が、存在するのだ。
更に、現在は砂漠化していて住む者もいない北部キンバリーの砂漠地帯には、おそらく世界最古の船の絵と考えられる壁画が見つかっている。しかも、壁画の 船の絵は、外洋航海に適した独特の舳先が高く突き出たタイプの物だった。この壁画には、付近に2~5万年前に住んでいた独特の髪型をした先住民が描かれて いるが、戦いの場面に槍投げ器が、まったく登場しない事から、5万年以上前に描かれた可能性が高い。
これらの事から、アフリカから船でやってきた現在のアボリジニの祖先が、更に新天地を求めて、南米まで到達していたと考えられなくもないのだ。アメリカ 大陸への移住は、アフリカから直接だったか、オーストラリア付近を経由して行われたか?はっきりした事は、今のところわからない。もしかしたら両方のケー スが入り混じっている可能性もあるだろう。いずれにしろ、アーストラリアやアメリカ最初の先住民こそ、世界最初の大航海を成し遂げた人々だったのだ。
更に、セラダ・カピバラの中でも最大の洞窟ペトラ・フラダを発掘したところ、4万年以上も前の地層から、石器らしきものや炉の痕が発見されたのだ。最大 5万年前まで遡る地層の中からは、多くの炭とともに動物の骨が大量に見つかった。明らかにこの地域には、従来考えられていたよりも、遥かに古い時代から人 間が住んでいたらしいのだ。
これら南米に古くから住んでいた先住民とは、いったいどのような人々だったのだろうか。この謎を解くカギとなる人骨がブラジル北東部と南東部の洞窟から 見つかっている。これらの人骨は、約9000年前から12000年前のアメリカ大陸最古級の人骨である。その中でも、最も古いルシアと名づけられた若い女 性の頭骨を用いて詳細な調査が行われた。この頭骨は、1975年に発見されいた物だが、最近の検査で11500年も前のものだということが判明していた。
詳細な、頭骨の形態の測定結果をバウテル・メデス博士がコンピューターで解析した結果、ルシアは北東アジア系のモンゴロイドとは、まったく似ていないことがはっきりしたのだ。
コンピューターのはじき出した答えは、実に意外なものだった。ルシアは、ニグロイド系つまりアフリカ人というものだった。更に、複顔の世界的権威である マンチェスター大学のリチャード・ニールにより顔の復元が行われた。その結果も、すべての比率で明らかにニグロイド系であることがはっきりした。ルシア以 外の人骨についても検討が行われたが、やはり、ニグロイド系アフリカ人やオーストラリア先住民アボリジニ、メラネシア人等のオーストラロイド系人種の特徴 が明らかに備わっていると言う。
アボリジニやメラネシア系の人々が属しているとされるオーストラロイド系人種は、その外見とは裏腹にアフリカ系ニグロイドとの関係は無いと、一般には考 えられている。しかし、大きな低い鼻や縮れた髪の毛、黒い肌など外見上は比較的共通する特徴を備えている。特にメラネシア地方や東南アジアの一部に住む、 ネグリトと呼ばれる人々は、ニグロイド系人種とほとんど変わらない外見を備えている。復元されたルシアは、それらの人々にそっくりの外見を備えていたの だ。
サンパウロ大学のウォルター・ネベス博士によると南アメリカの人骨にモンゴロイドの特徴が現れ始めるのは、約9000年前からで、それ以前の人骨には、 モンゴロイドの特徴はまったく見られないと言う。逆に約7000年前以降には、完全にモンゴロイドのみになってしまうらしい。つまり、おおよそ2000年 をかけて、ニグロイド系の先住民は、モンゴロイド系の先住民つまりベーリング海峡を渡り南下してきた北東アジア人と入れ替わった事になる。
結論として、少なくとも南米には、ニグロイド系かオーストラロイド系の先住民が現在のインディオが住み始めるよりも、遥かに古い時代から住んでいたこと になる。それでは、彼等は、どこからやって来たのだろうか。大きく2種類のルートが、考えられるだろう。一つは、アフリカ大陸から直接、南米に船で移住し てきたルートである。実際、つい最近、漁に出た5人のアフリカ人が嵐に遭遇し船が流された末、3週間後2人がブラジルに流れ着く事件がおきていると言う。 2人は、そのままブラジルへの移住を決意したらしい。それにしても、アフリカからブラジルまで、3週間で流れ着くとは、実に速い速度である。この程度な ら、漂流しても生存したまま、漂着する可能性は、かなり高いと考えられるだろう。
もう一つのルートとしては、オーストラリア或いは、メラネシア付近から、南米に移住したルートである。オーストラリアの先住民アボリジニは、一般的に内陸部に住んでいる狩猟採集民である。しかし、オーストラリアにもティウィーと言う立派な海洋民族が、存在するのだ。
更に、現在は砂漠化していて住む者もいない北部キンバリーの砂漠地帯には、おそらく世界最古の船の絵と考えられる壁画が見つかっている。しかも、壁画の 船の絵は、外洋航海に適した独特の舳先が高く突き出たタイプの物だった。この壁画には、付近に2~5万年前に住んでいた独特の髪型をした先住民が描かれて いるが、戦いの場面に槍投げ器が、まったく登場しない事から、5万年以上前に描かれた可能性が高い。
これらの事から、アフリカから船でやってきた現在のアボリジニの祖先が、更に新天地を求めて、南米まで到達していたと考えられなくもないのだ。アメリカ 大陸への移住は、アフリカから直接だったか、オーストラリア付近を経由して行われたか?はっきりした事は、今のところわからない。もしかしたら両方のケー スが入り混じっている可能性もあるだろう。いずれにしろ、アーストラリアやアメリカ最初の先住民こそ、世界最初の大航海を成し遂げた人々だったのだ。
オルメカの謎
それでは、アメリカ大陸最古の住民と思われるニグロイド系住民は、どこに行ってしまったのだろうか?この謎を解く手がかりも、南米各地の壁画に残されてい た。戦いの壁画である。南米各地に残された壁画には、モンゴロイドの進入以降、多くの戦いの場面が描かれるようになったという。
つまり、ニグロイド系の先住民は、新たな侵入者であるモンゴロイド系の北東アジア人と激しく、戦闘を繰り返した末、ついに姿を消してしまったと考えられ るのだ。それでは、彼らの痕跡は、骨以外には残されていないのだろうか?実は、つい最近まで、彼らニグロイド系の住民が、細々と生き延びていた可能性があ るのだ。
その証拠の一つは中南米で、最古級の文明のひとつオルメカ文明に残されていた。オルメカ文明といえば、少し古代文明に詳しい者なら、すぐに、巨大な石の 人頭像の事を思い浮かべるだろう。高さが数メートルもある巨大な人頭の彫刻である。これほど巨大な、石の彫刻を金属器を持たなかったオルメカ人が、どのよ うにして刻んだのか?今でも解けない謎である。
しかし、それ以上に謎だった事は、人頭像の顔つきである。誰が見ても、その顔つきはインディオのものではなく、明らかに黒人の顔なのだ。長い間、何故オ ルメカの人頭像が、黒人の顔をしているのか謎とされてきた。何故なら、当然のように南米に、ニグロイド系住民がすんでいたとは考えられていなかったからで ある。
だが、その考え自体が間違っていたのだ。オルメカの人頭像は、デフォルメされた人物の表現などではなく、見たままのニグロイド系の人物を石に刻んだ物だ と考えられるのだ。オルメカの人頭像は、支配者階級の姿を刻んだものとされている。支配者階級は、その血筋を守るため、一般大衆とは、婚姻関係を結ばず、 古くからの容姿を維持する事が、よく知られている。たとえば、日本の公家顔と呼ばれる皇室特有の顔つきなどが、その典型である。おそらく、オルメカでもニ グロイド系民族は、古からの支配者階級として、血筋を守ってきたために、その容姿を保っていたのだろう。
しかし、オルメカの時代からは、もうニグロイド系の特徴をもつ人骨は、発見されていない。ほんの一握りの支配者階級にのみ、血筋が維持されていたのだろう。やがて、オルメカ文明の消滅とともに、その血筋も完全に途絶えたのだ。
もう一箇所、太古のニグロイド系住民の痕跡では無いかと思われる発見が、最近報告されている。カリフォルニア半島先端のバハ・カリフォルニアに、つい最 近まで、周辺のアメリカ先住民とまったく異なる容姿を、持った人々の村が存在していたのだ。残念ながら、この村の最後の住人は、約200年前に亡くなり、 村は消滅している。
しかし、この村の住民の頭骨33体分を研究した学者によると、彼らもまた、アボリジニやメラネシア系人種の特徴を備えていたという。村の存在した場所 は、陸続きとはいえ、完全な陸の孤島状態の場所で、周囲とはまったく隔絶された環境にあるという。おそらくこの様な隔絶された場所だったからこそ、周囲と の交流が無く、つい最近までニグロイド系の特徴を保ってきたのだろう。
つまり、ニグロイド系の先住民は、新たな侵入者であるモンゴロイド系の北東アジア人と激しく、戦闘を繰り返した末、ついに姿を消してしまったと考えられ るのだ。それでは、彼らの痕跡は、骨以外には残されていないのだろうか?実は、つい最近まで、彼らニグロイド系の住民が、細々と生き延びていた可能性があ るのだ。
その証拠の一つは中南米で、最古級の文明のひとつオルメカ文明に残されていた。オルメカ文明といえば、少し古代文明に詳しい者なら、すぐに、巨大な石の 人頭像の事を思い浮かべるだろう。高さが数メートルもある巨大な人頭の彫刻である。これほど巨大な、石の彫刻を金属器を持たなかったオルメカ人が、どのよ うにして刻んだのか?今でも解けない謎である。
しかし、それ以上に謎だった事は、人頭像の顔つきである。誰が見ても、その顔つきはインディオのものではなく、明らかに黒人の顔なのだ。長い間、何故オ ルメカの人頭像が、黒人の顔をしているのか謎とされてきた。何故なら、当然のように南米に、ニグロイド系住民がすんでいたとは考えられていなかったからで ある。
だが、その考え自体が間違っていたのだ。オルメカの人頭像は、デフォルメされた人物の表現などではなく、見たままのニグロイド系の人物を石に刻んだ物だ と考えられるのだ。オルメカの人頭像は、支配者階級の姿を刻んだものとされている。支配者階級は、その血筋を守るため、一般大衆とは、婚姻関係を結ばず、 古くからの容姿を維持する事が、よく知られている。たとえば、日本の公家顔と呼ばれる皇室特有の顔つきなどが、その典型である。おそらく、オルメカでもニ グロイド系民族は、古からの支配者階級として、血筋を守ってきたために、その容姿を保っていたのだろう。
しかし、オルメカの時代からは、もうニグロイド系の特徴をもつ人骨は、発見されていない。ほんの一握りの支配者階級にのみ、血筋が維持されていたのだろう。やがて、オルメカ文明の消滅とともに、その血筋も完全に途絶えたのだ。
もう一箇所、太古のニグロイド系住民の痕跡では無いかと思われる発見が、最近報告されている。カリフォルニア半島先端のバハ・カリフォルニアに、つい最 近まで、周辺のアメリカ先住民とまったく異なる容姿を、持った人々の村が存在していたのだ。残念ながら、この村の最後の住人は、約200年前に亡くなり、 村は消滅している。
しかし、この村の住民の頭骨33体分を研究した学者によると、彼らもまた、アボリジニやメラネシア系人種の特徴を備えていたという。村の存在した場所 は、陸続きとはいえ、完全な陸の孤島状態の場所で、周囲とはまったく隔絶された環境にあるという。おそらくこの様な隔絶された場所だったからこそ、周囲と の交流が無く、つい最近までニグロイド系の特徴を保ってきたのだろう。
南北進化説
ここで、現代人の世界への拡散のシナリオを、簡単にまとめてみよう。現代型ホモ・サピエンスは、15万年以上前(おそらく20万年)に、アフリカのどこか (おそらくエチオピアかタンザニア付近)で、誕生した。初期アフリカに誕生した現代型ホモ・サピエンスは、ホモ・サピエンス・イダルツとして、現代人ホ モ・サピエンス・サピエンスの亜種に区別されている。
アフリカに誕生した初期の現代型ホモ・サピエンスの風貌は、おそらく現在のアフリカ人に近いものだったと考えられる。何故なら、生活環境が劇的に変わら ない限り、大きく変化する必要性が無いからだ。一方、後にヨーロッパやアジアに進出していった現代型ホモ・サピエンスは、アフリカのサバンナ性の熱帯気候 と大きく異なる生活環境に合わせるように、大きく変化していったのだろう。
10万年前には、現代型ホモ・サピエンスは、アフリカ大陸のほとんどの地域に確実に進出していたと思われる。しかし、ヨーロッパへは、氷河に阻まれて進 出していなかった。すでに10万年前には、海伝いに現在のインド付近まで進出していた可能性も十分考えられるだろう。だが、アジアにもヨーロッパにも、す でに先住の古代型ホモ・サピエンスが住んでいたため、進出の速度は比較的ゆっくりしたものだったと考えられる。
やがて、5万年前ごろには、現代型ホモ・サピエンスはヨーロッパへの進出をはじめた。ヨーロッパには、ネアンデルタール人が住んでいたが、現代型ホモ・ サピエンスは彼らとほとんど交配することなく、徐々にヨーロッパでの優勢を占めていき、約2万5000年前に完全にネアンデルタール人と入れ替わったと考 えられる。彼らは、クロマニオン人と呼ばれ現在のヨーロッパ人の祖先になった。
一方、アフリカ南部に拡散した現代型ホモ・サピエンスは、遅くとも6万年前には、船を使った漁の技術を身に付けていた。彼らは、盛んに遠洋まで出かけ、 漁を行なっていたと考えられる。やがて彼らの中から、オーストラリア・メラネシア地方と南米に、海を渡り到達したものが現れたのだ。おそらく最初の移住 は、嵐により流された漁民により偶然に行われたのかもしれない。
オーストラリアには、6万年前にはすでに現代人が到達していた。彼らは、レークマンゴー人と呼ばれている。その風貌は、現在のアフリカ人やメラネシア人 同様、ニグロイド系の特徴を強く備えていたと考えられる。一般的には、現在のオーストラリア先住民アボリジニやメラネシア人は、古モンゴロイドの系統で、 アフリカ系人種との関係は、無いとされている。しかし、黒い肌や縮れた髪の毛、厚い唇など、ニグロイド系の特徴を備えている事は、明らかである。彼らの存 在自体が、アフリカから直接かつ短期間に移住が行なわれた事の何よりの証拠といえるだろう。
しかし、現在のオーストラリア先住民アボリジニに関しては、後にアジアから南下してきた集団カウスワンプ人と大きく混血した可能性が高い。カウスワンプ 人は、陸伝いに何万年もの年月をかけアジアに進出してきた現代型ホモ・サピエンスの子孫で、オーストラリアに到達した時点では、元のアフリカ系・ニグロイ ドの風貌とは、大きくかけ離れていた。この事が、アボリジニがニグロイドの特徴を残しつつも、メラネシア人や周辺の民族とは異なる独特の風貌を備えている 理由だろう。
逆に考えれば、アフリカから移住してきて南海に散らばったメラネシア諸島民などのほうが、後に進出してきたアジア系諸民族と混血する機会が少なく、より オリジナルのニグロイド系の人種に近いといえるのではないだろうか。実際、メラネシア人やネグリトと呼ばれる人々の肌の色や風貌は、アフリカ人と区別がつ かないほどそっくりである。
更に、南米への、現代型ホモ・サピエンスの進出も、遅くとも5万年前には、行なわれていた可能性が高い。南米への進出が、オーストラリア付近から行なわ れたかアフリカから直接だったかはわかっていない。しかし、地球儀を逆さまにして眺めてみると判る事だが、アフリカからオーストラリアとアフリカから南米 までは、ほぼ等距離であり、オーストラリアから南米よりも遥かに近い。オーストラリアから南米に船で到達するよりも、アフリカから直接、南米とオーストラ リアに移住した可能性の方が高いのではないだろうか。 いずれにしろ移住は船で短期間に行なわれ、彼らもまた、ニグロイド系の特徴を備えていた。
つまり、現代人は、初期の段階で大きく分けて、北周りと南回りの2つのルートで、世界に拡散し始めた事になる。南回りの移住ルートは、船で行われ、その 移住先も、アフリカの温暖な環境と大きく異なる事は無かった。そのため、容姿もアフリカ系ニグロイドに近い人々が、広く南半球に広がったのだ。
一方、北回りで、拡散を始めた人々には、様々な困難が立ちふさがっていた。まず、氷河期の寒冷な気候である。しかし、この困難にもかかわらず、現代人は 確実に拡散を進めていった。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人と入れ替わりクロマニオン人となった。アジアでは、おそらく土着の古代型ホモサピエンスと 多少の交配を行ったようだ。様々な環境に適応していった北回りルートの現代人は、色々な人種に分化していったと考えられる。
やがて、北回りに拡散した現代人は、約1万5000年前頃にはオーストラリアに到達し、南回りに拡散して住み着いていた現代人と遂に出会ったのだ。更 に、1万2000年前には、北回りルートの現代人は、ベーリング海峡を越えアメリカ大陸にも拡散を始めた。9000年前には、北回りルートの現代人は南米 にまで達し、そこで再び、南回りの現代人と遭遇する事になる。
こうして、現在の多様で複雑な現代人の分布が誕生したのだ。もちろん、このシナリオは、私個人が考えた物で、一般的に認められている学説とは完全に異な る。しかし、世界中の古代人、現代人の分布を大局的に見比べ辻褄を合わせるためには、このシナリオが最も適していると考える。今の、学説にかけていること は、人間の高い能力、特に航海に関する能力を、過小評価しすぎている点ではないだろうか。初期の現代人の拡散が、陸路のみ行われたと考えるのは、大きな間 違いだろう。〈おわり)
アフリカに誕生した初期の現代型ホモ・サピエンスの風貌は、おそらく現在のアフリカ人に近いものだったと考えられる。何故なら、生活環境が劇的に変わら ない限り、大きく変化する必要性が無いからだ。一方、後にヨーロッパやアジアに進出していった現代型ホモ・サピエンスは、アフリカのサバンナ性の熱帯気候 と大きく異なる生活環境に合わせるように、大きく変化していったのだろう。
10万年前には、現代型ホモ・サピエンスは、アフリカ大陸のほとんどの地域に確実に進出していたと思われる。しかし、ヨーロッパへは、氷河に阻まれて進 出していなかった。すでに10万年前には、海伝いに現在のインド付近まで進出していた可能性も十分考えられるだろう。だが、アジアにもヨーロッパにも、す でに先住の古代型ホモ・サピエンスが住んでいたため、進出の速度は比較的ゆっくりしたものだったと考えられる。
やがて、5万年前ごろには、現代型ホモ・サピエンスはヨーロッパへの進出をはじめた。ヨーロッパには、ネアンデルタール人が住んでいたが、現代型ホモ・ サピエンスは彼らとほとんど交配することなく、徐々にヨーロッパでの優勢を占めていき、約2万5000年前に完全にネアンデルタール人と入れ替わったと考 えられる。彼らは、クロマニオン人と呼ばれ現在のヨーロッパ人の祖先になった。
一方、アフリカ南部に拡散した現代型ホモ・サピエンスは、遅くとも6万年前には、船を使った漁の技術を身に付けていた。彼らは、盛んに遠洋まで出かけ、 漁を行なっていたと考えられる。やがて彼らの中から、オーストラリア・メラネシア地方と南米に、海を渡り到達したものが現れたのだ。おそらく最初の移住 は、嵐により流された漁民により偶然に行われたのかもしれない。
オーストラリアには、6万年前にはすでに現代人が到達していた。彼らは、レークマンゴー人と呼ばれている。その風貌は、現在のアフリカ人やメラネシア人 同様、ニグロイド系の特徴を強く備えていたと考えられる。一般的には、現在のオーストラリア先住民アボリジニやメラネシア人は、古モンゴロイドの系統で、 アフリカ系人種との関係は、無いとされている。しかし、黒い肌や縮れた髪の毛、厚い唇など、ニグロイド系の特徴を備えている事は、明らかである。彼らの存 在自体が、アフリカから直接かつ短期間に移住が行なわれた事の何よりの証拠といえるだろう。
しかし、現在のオーストラリア先住民アボリジニに関しては、後にアジアから南下してきた集団カウスワンプ人と大きく混血した可能性が高い。カウスワンプ 人は、陸伝いに何万年もの年月をかけアジアに進出してきた現代型ホモ・サピエンスの子孫で、オーストラリアに到達した時点では、元のアフリカ系・ニグロイ ドの風貌とは、大きくかけ離れていた。この事が、アボリジニがニグロイドの特徴を残しつつも、メラネシア人や周辺の民族とは異なる独特の風貌を備えている 理由だろう。
逆に考えれば、アフリカから移住してきて南海に散らばったメラネシア諸島民などのほうが、後に進出してきたアジア系諸民族と混血する機会が少なく、より オリジナルのニグロイド系の人種に近いといえるのではないだろうか。実際、メラネシア人やネグリトと呼ばれる人々の肌の色や風貌は、アフリカ人と区別がつ かないほどそっくりである。
更に、南米への、現代型ホモ・サピエンスの進出も、遅くとも5万年前には、行なわれていた可能性が高い。南米への進出が、オーストラリア付近から行なわ れたかアフリカから直接だったかはわかっていない。しかし、地球儀を逆さまにして眺めてみると判る事だが、アフリカからオーストラリアとアフリカから南米 までは、ほぼ等距離であり、オーストラリアから南米よりも遥かに近い。オーストラリアから南米に船で到達するよりも、アフリカから直接、南米とオーストラ リアに移住した可能性の方が高いのではないだろうか。 いずれにしろ移住は船で短期間に行なわれ、彼らもまた、ニグロイド系の特徴を備えていた。
つまり、現代人は、初期の段階で大きく分けて、北周りと南回りの2つのルートで、世界に拡散し始めた事になる。南回りの移住ルートは、船で行われ、その 移住先も、アフリカの温暖な環境と大きく異なる事は無かった。そのため、容姿もアフリカ系ニグロイドに近い人々が、広く南半球に広がったのだ。
一方、北回りで、拡散を始めた人々には、様々な困難が立ちふさがっていた。まず、氷河期の寒冷な気候である。しかし、この困難にもかかわらず、現代人は 確実に拡散を進めていった。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人と入れ替わりクロマニオン人となった。アジアでは、おそらく土着の古代型ホモサピエンスと 多少の交配を行ったようだ。様々な環境に適応していった北回りルートの現代人は、色々な人種に分化していったと考えられる。
やがて、北回りに拡散した現代人は、約1万5000年前頃にはオーストラリアに到達し、南回りに拡散して住み着いていた現代人と遂に出会ったのだ。更 に、1万2000年前には、北回りルートの現代人は、ベーリング海峡を越えアメリカ大陸にも拡散を始めた。9000年前には、北回りルートの現代人は南米 にまで達し、そこで再び、南回りの現代人と遭遇する事になる。
こうして、現在の多様で複雑な現代人の分布が誕生したのだ。もちろん、このシナリオは、私個人が考えた物で、一般的に認められている学説とは完全に異な る。しかし、世界中の古代人、現代人の分布を大局的に見比べ辻褄を合わせるためには、このシナリオが最も適していると考える。今の、学説にかけていること は、人間の高い能力、特に航海に関する能力を、過小評価しすぎている点ではないだろうか。初期の現代人の拡散が、陸路のみ行われたと考えるのは、大きな間 違いだろう。〈おわり)