Shun Daichi
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りんちゃんがいなくなった日
 朝の6時半、枕元の目覚まし時計がピピッと鳴る。かわいいディズニーの時計だ。元気よく「おはよう」とりんちゃんは飛び起きる。部屋の中はシーンと静まり 返っている。でもこれはいつものこと。小学校三年生のりんちゃんはお父さんと二人暮らし。名前は小林鈴子。小さい頃から「りんちゃん」と呼ばれてきた。
 お父さんの仕事は中華料理のコックさん。お店はとても忙しく、朝は6時に家を出て行き、帰ってくるのはりんちゃんが眠った頃だ。お父さんになかなか会え ないのは寂しいけれど、夜中にお父さんの足音が聞こえると安心して眠れる。それに休みの日は一日中遊んでくれるから、りんちゃんはお父さんが大好きだ。朝 起きてりんちゃんが最初にすることは、洗濯物を干すこと。夜にお父さんが洗濯をして、朝にはりんちゃんがベランダに干す。これが二人の決め事になってい る。
 お父さんの大きなシャツを干すのは一苦労だ。夏の暑い日なんかは、それだけで汗が出てきてしまう。「あーあ、お父さん、またこんなに汚してる」。そんな ふうにお母さんの口癖を真似しながら干す。お布団を畳んでから、朝ごはんの準備にとりかかる。と言っても、パンをトーストにして牛乳をコップに注ぐだけ だ。おかずは昨日の晩ごはんの残り。
 晩ごはんはいつも近くのコンビニの弁当だ。全部食べてしまわないで、次の日の朝に少し残しておくのだ。そういうことが小学校三年になって、やっとできるようになった。
 学校へ行く準備も、もちろん一人で全部やる。一、二年生の頃はずいぶんと忘れ物をしたけど、今は先生から忘れ物ゼロの判子をもらえるようになった。なん でも自分でできるようになったりんちゃんは、ちょっぴり自慢気に学校に行く。りんちゃんは学校が大好きだ。学校に行けば友達もいる。少しだけ甘えられる保 健の先生もいる。そして手作りのおいしい給食も食べられるからだ。学校にいる間だけは、りんちゃんは一人ぼっちじゃない。

*  りんちゃんが小学校一年の夏、お母さんは家を出ていった。三つ下の妹の手を引いて、大きなボストンバッグを抱えていたのを覚えている。お父さんはまだ布団で眠っていた。りんちゃんは玄関で二人を見送った。
 「お母さん、どこへ行くの」
 「ちょっと、まいちゃんとお出かけしてくるからね」
 「りんちゃんも一緒に行く」
 「だって、りんちゃんは学校があるでしょ。大丈夫よ、すぐに帰ってくるから」
 いつもの買い物ではないことが、りんちゃんには何となくわかった。お母さんと妹のまいちゃんが、どこか遠くへ行ってしまうような気がした。りんちゃんの 目からは、涙がどんどん溢れてきた。お母さんはスカートからハンカチを取り出し、涙を拭ってくれた。そして自分の涙も拭い、ハンカチをりんちゃんの手に しっかりと握らせてくれた。そのとき以来、そのハンカチは一度も洗濯していない。寝るときにはいつも、りんちゃんはハンカチを握りしめている。かすかに残 るお母さんの匂いを感じると、とても安らいだ気持ちになれるからだ。
 不安な気持ちで二人を見送ったあと、りんちゃんはずっとお父さんの枕元に座っていた。相変わらず涙が溢れてきた。長い長い時間が経って、ようやくお父さんが目を覚ました。
「お父さん。お母さんとまいちゃんが、どこかへ行っちゃったよ。大きなバッグを持っていたよ」。りんちゃんは一生懸命に訴えた。でもお父さんは「そうか」と一言つぶやいただけだった。
 その日の夕方、お父さんはりんちゃんをレストランに連れていってくれた。子どもたちの誕生日には、必ず四人で行くレストランだ。一年に二回、その日がとても楽しみだった。
大好きなハンバーグステーキを食べて、帰りには小さなオモチャを二人に買ってもらえる。どのオモチャを買ってもらうか。まいちゃんはすぐに決まるのに、りんちゃんはいつも迷ってしまう。それが頭に残る、お決まりの風景だった。
 このレストランに、お父さんと二人で来たのは始めてだ。もちろん誕生日でもないのに来るのも始めてだ。今日はきっと特別なのかもしれない。いつもの特別 は楽しいのに、今日の特別はとても悲しい気がする。大好きなハンバーグステーキも、なぜかいつもより大きく見える。「どうだ。おいしいかい」と聞く、お父 さんの声も変だ。「おいしいでしょ」と聞くのはお母さんの役目。いつものお父さんは黙ってビールを飲んでるだけなのに。そんな悲しい特別がいっぱいあっ た。
 帰りにオモチャを買ってくれると言うので、りんちゃんは「まいちゃんの分も買って」とねだった。小さなぬいぐるみが付いたキーホルダー。一つは犬で、もう一つには猫が付いいる。まいちゃんには犬のほうを上げようと思った。
 「お母さんとまいちゃん、もうおうちに帰っているかな。二人だけでレストランに行ったなんて言うと、きっと怒るだろうね。でも今日はお泊まりかもしれないね」
 りんちゃんがそう言うと、お父さんは何も言わずに、いきなりおんぶをしてくれた。お父さんの大きな背中にしがみついて、りんちゃんはまたいっぱい泣いた。

*  りんちゃんが通う海岸小学校は、その名前の通り海のすぐ近くに立っている。家からは歩いても5分とかからない。教室の窓からはキラキラと輝く海が見え る。海風を身体に浴びながら校庭を駆け回っていると、とても楽しい気分になれる。ずっと学校にいれたらいいのにな。いつもそんな風に思っている。
 ゆりちゃんとめぐみちゃんは大の仲良しだ。一年のときからずっと同じクラスで、家も近い。りんちゃんが学校へ行ってまずすることは、二人に「今日は遊べ る?」と聞くこと。学校が終わってから一緒に遊べるかどうかを確かめるのだ。どちらかが「うん、遊べるよ」と言ってくれると、その日一日が楽しくなる。も し二人ともダメだったら、他に遊ぶ友達を探しておかなくてはならない。りんちゃんは家に帰っても一人ぼっちだ。それが寂しいから、誰かと一緒にいたいか ら、いつもみんなに声を掛けるようになった。
 でも本当は、みんなと遊んだ日のほうが寂しくなることを、りんちゃんはよく知っている。いくら楽しく遊んでいても、夕方5時のチャイムが鳴ればみんなは 帰ってしまう。夏の日はまだまだ明るいのに、それでもみんなは帰ってしまう。「私んち、今日はカレーなんだよ」「ええー、いいなー」。そんな友達の会話を 聞きながら、りんちゃんは笑顔で「じゃあ、また明日ネ」と元気よく手を振る。
 ある日の夕方、ゆりちゃんとめぐみちゃんと一緒に校庭で遊んでいた。4時をちょっと過ぎたときに、急に雨が降りだした。三人は走って体育館のひさしに非 難した。空を見上げながら、りんちゃんは朝に干した洗濯物のことを思い出した。「私、洗濯物を取り込んでくるから、ちょっと待ってて。すぐに帰っくるか ら、ここにいてね」。二人にそう言い残して、雨の中を走って家に帰った。急いで洗濯物を取り込み、また走って学校に戻った。
 でもそこには、ゆりちゃんとめぐみちゃんの姿はなかった。学校のまわりをグルリと回ってみたけれど、やっぱり二人の姿は見つからなかった。「二人とも雨 が降ってきたから帰っちゃったのかな。まだ5時までいっぱい遊べるのにな」。もしかしたら戻ってくるかもしれない。そう思いなおして、体育館の前に座っ た。びしょぬれの髪の毛から、水滴がポタポタと顔におちてきた。
 「あら、りんちゃん。どうしたの? びしょぬれじゃない」。顔を上げると、大好きな保健の先生が立っている。先生はスカートのポケットからハンカチを取 り出し、濡れた髪の毛と顔をやさしく拭ってくれた。忘れられない記憶がふと蘇った。りんちゃんは先生のスカートにしがみついて泣いた。後から後から涙が溢 れてきた。先生は何も言わないで、ずっと頭を撫で続けてくれた。りんちゃんが学校で涙を見せたのは、このときが始めてだった。

*  夏休みまであと一週間という日、お父さんがケガをした。夕方、いつものように洗濯物を片づけていると、突然お父さんが帰ってきた。こんなに早く帰ってき たことは一度もない。「ただいま」という声にびっくりして玄関まで駈けていくと、左手を包帯でぐるぐる巻きにしたお父さんが立っていた。「どうしたの。お 父さん!」と、りんちゃんは思わず大きな声を出した。
 お店でお父さんが調理をしていたとき、急に火が強く燃え上がり、左手の袖に燃え移ってしまった。すぐに周りの人が服を脱がしてくれたけど、左手に大火傷 を負ってしまった。救急車で病院に運ばれ、応急処置をしてもらった。お医者さんは何日か入院しなさいと言ったけれど、お父さんは頑としてそれを拒んだ。夜 中までもりんちゃんを一人ぼっちにさせるのは、あまりにもかわいそうだと思ったからだ。全身がしびれるような痛さに耐えながら、お父さんは電車に乗って家 まで帰ってきた。
 りんちゃんが布団を敷いてあげると、お父さんはすぐに横になり、そのまま眠ってしまった。お父さんは全身汗だくで、おでこに手を当てると燃えるように熱 かった。りんちゃんは洗面器に氷水をつくり、タオルを絞ってお父さんのおでこに当てた。絞る力が弱いので、タオルから雫が耳のほうへと流れてしまう。それ をまた乾いたタオルでそっと拭った。「お父さん」と呼びかけても全く返事をしない。ただ荒い息をしながらひたすら眠っている。りんちゃんは心配で心配で、 ご飯を食べることも忘れていた。何度溶けた氷を取り替えたことだろう。その夜りんちゃんはパジャマに着替えることもせず、お父さんの枕元で身体を丸めて 眠った。
 次の日の朝、少し寒くなってりんちゃんは目を覚ました。時計を見るともう7時を過ぎていた。お父さんはまだ眠っているけど、だいぶ息が静かになってい た。とりあえず何かを食べさせてあげなければいけない。りんちゃんは財布を握りしめて、いつものコンビニへと走った。食べやすそうなお弁当と牛乳、そして お父さんの好きなイチゴを買った。
 コンビニの袋を持ったまま、りんちゃんは学校へと走った。今日は学校を休んで看病をしなくちゃいけない。それを先生に伝えようと思ったからだ。担任の先 生がまだ来てなかったので、5年生の先生に伝えておいた。「困ったことがあったら、すぐに学校に言いにくるんだぞ」。大きな身体の男の先生がそう言ってく れた。「はい」と返事をし、また家に向かって駈けだした。学校を休むのは寂しい。お父さんのケガも心配だ。でも、家に帰るとお父さんがいる。りんちゃんは ちょっぴり嬉しくなっていた。
 その日一日、りんちゃんはずっとお父さんのそばにいた。昼過ぎに熱は下がったものの、火傷の手はとっても痛そうだった。分厚い包帯の上にそっと手を置い て、はやく治りますようにとお祈りをしていた。その甲斐があってか、夕方になると少し元気を取り戻した。「りんちゃん。おかゆをつくってくれないか」と、 お父さんは言った。家族の誰かが病気になると、必ずお母さんがつくってくれたおかゆ。一口食べると、不思議と元気が出てきたのを覚えている。でも、もちろ んりんちゃんは自分でつくったことなどない。
 「お父さんが言ったとうりにやってごらん。さあ、まずはお鍋でお湯を沸かして」
 うまくできるかどうか心配だったけど、りんちゃんはお父さんに言われたとうりにやってみた。一つの作業が終われば「終わったよ。次は何をするの?」と聞 く。お塩や醤油の分量もお父さんの言われるとうりにつくった。そうして出来上がったおかゆの味をみて、りんちゃんはびっくりした。おかあさんのつくるおか ゆと、まったく同じ味だったのだ。
 「お父さん。すごいよ。お母さんのおかゆと同じ味がするよ」
 「そりゃあそうだよ。だって、お母さんにおかゆの味付けを教えたのは、お父さんなんだから」
 おいしそうにおかゆを食べながら、お父さんが静かに言った。
 「りんちゃん。お母さんやまいちゃんと一緒に暮らしたいか」
 その聞き方がなぜか寂しそうだったので、
 「うん。でも、りんちゃんにはお父さんが一緒にいるから、いいよ」
 と答えた。お父さんは何も言わずに、おかゆを食べつづけていた。
 それから一週間、りんちゃんはお父さんの看病をして過ごした。終業式の日には、担任の先生が通知表をもって訪ねてきてくれた。少しだけお父さんと玄関で 立ち話をして帰っていった。「また二学期には元気な顔を見せてね」という先生の言葉に、はやく夏休みが終わってくれればいいのにと思った。
 夏休みが始まって三日目、お父さんは朝早くに出掛けていった。たぶんお店だと思うけど、それはりんちゃんには分からない。そして夕方には家に帰ってき た。まだ手が痛くてお仕事ができないのだろう。お父さんが早く帰ってくるのは嬉しいけど、お仕事ができないのはかわいそうだ。早くけがが治るように、りん ちゃんは一生懸命に夕御飯をつくった。お父さんに教えてもらったおかゆを毎日つくった。おかずは商店街でコロッケを買ってくる。たったこれだけの夕飯だけ ど、りんちゃんにとってはたいへんな作業だった。
 そんな日が一週間ほど続いたある晩。お父さんが急にこう言った。
 「りんちゃん。明日からしばらく旅行に行くよ。りんちゃんが大切にしてるものを全部持って行きなさい。大好きなぬいぐるみとか、ともだちからもらった宝物とか、みんな持って行っていいからね」
 「どこへ行くの? どうしてみんな持っていかなくちゃいけないの?」
 りんちゃんがそう聞いても、お父さんはただニコニコ笑っているだけだった。
 次の日の夕方、お父さんは車にいっぱい荷物を積み込んでいた。ダンボール箱が四つもあった。いったい何を持っていくんだろう。でもりんちゃんは、箱の中 身のことを聞くことができなかった。車がゆっくりと発車した。二人とも口を開こうとしなかった。ただ、車が学校の近くを通ったとき、お父さんは車のスピー ドを緩めた。三年一組の教室がハッキリと見えた。もちろん夏休みで誰もいない。でも教室の窓からみんなが手を振っている。そんな気がふとした。「もうみん なに会えないのかな」。りんちゃんはぼんやりと学校を眺めていた。

*  二学期が始まった。三年一組の教室にりんちゃんの姿はなかった。一週間が経っても、りんちゃんは学校に来なかった。「誰かりんちゃんのことを知らな い?」と先生がみんなに聞いた。家に訪ねて行っても返事がないのだという。転校の手続きも出されていない。とにかくクラスのみんなは心配した。特に仲良し だったゆりちゃんとめぐみちゃんは、三回もりんちゃんの家を訪ねた。チャイムを押しても、家の中は静まり返っている。「りんちゃん、いなくなっちゃった ね」。二人は、黙って帰ってしまったあの夏の日を思い出していた。
 アパートの裏へ回って、りんちゃんの部屋のベランダを見上げた。そこには取り込み忘れたのか、ハンカチが一枚、風になびいていた。


りんちゃんの夏休み


 車に乗ってから、どれくらいの時間が経つのだろう。陽はすっかり傾き、車の窓から見える景色が変わっていた。
 荷物をいっぱい積んで、海の近くのアパートを出発してから、りんちゃんとお父さんが乗った車はしばらく高速道路を走った。高速道路をドライブするなんて 何年ぶりだろう。まるで飛んでいるような車の速さに、目が回りそうだった。正午を少し過ぎたころに、高速道路の中にあるレストランに入った。こんな所にレ ストランがあるんだと、りんちゃんはとても不思議な気分になった。お父さんはトンカツ、りんちゃんはカレーライスを食べた。カレーライスを食べ終えると、 お父さんはチョコレートパフェを注文してくれた。何だか、とってもぜいたくな気がした。
 お昼を食べてから少し走ると、やがて車は高速道路を降りた。くねくねと曲がった道を山のほうに向かって走った。その揺れがとても気持ち良く、りんちゃんはうつらうつらと眠ってしまった。目を覚ますと、車の外はすっかり山に囲まれていた。
 「目が覚めたのかい」
 お父さんは相変わらずハンドルを握りしめていた。
 「うん。気持ち良かった」
 「もうそろそろ着くから、起きてたほうがいいぞ」
 「もうすぐ、お母さんとまいちゃんに会えるんだね。待っててくれているかな」
 お父さんはニッコリと微笑んだ。
 それから小一時間も走っただろうか。車はどんどん山奥に入っていった。土と石ころの道路はだんだんと細くなり、辺りも薄暗くなってきた。りんちゃんは何だか心細くなった。
 「お父さん。ほんとうにこの道でいいの?こんなところにお家があるの?」
 「うん。実はお父さんもおじいちゃんの家に行くのは今日で二度目なんだ。一度目の時は迎えにきてもらったから、自分で行くのは初めてなんだよ。でも大丈夫」
 向かっているところは、お母さんの実家。つまりはりんちゃんのおじいちゃんとおばあちゃんの家だ。一度目というのはまいちゃんが生まれた時だ。そのころ りんちゃんはまだ四歳にもなっていない。話には聞いたことがあるけど、実際には覚えていない。電話や手紙のやり取りはするけれど、おじいちゃんやおばあ ちゃんの顔はよく知らないのだ。とても不便なところなので、なかなか行けないのだとお父さんは言っていた。
 もうすぐで陽が暮れてしまうという時に、急に目の前の視界が開けた。そして突然、一軒の大きな家が現れた、それはまるで、りんちゃんの大好きなアニメ「となりのトトロ」に出てくるような家だった。庭にそびえる大きな木もそっくりだった。
 「すごいよ、お父さん。トトロのお家にそっくりだよ」
 思わずりんちゃんはそう叫んだ。その大きな声が聞こえたのか、車の音が聞こえたのか。庭の向こうの玄関の扉が開いた。誰かが手を振った。夕陽の影になっ て顔はよく見えないけれど、それがお母さんであることはすぐに分かった。その横にいた小さい女の子がこちらに向かって走り出した。それはまるでスローモー ションの映画を見ているようだった。
 「りんちゃーん」
 「おねえちゃーん」
 その声に、りんちゃんはなぜか返事ができなかった。お父さんのハンドルを持つ手を、しっかりと握りしめていた。たった十メートルほどの距離が、とても長く感じられた。
 車が止まると、お父さんがドアを開けてくれた。りんちゃんが車から降りると、待ちかねていたかのようにお母さんが抱きしめてくれた。毎晩抱きしめて寝 る、あのハンカチと同じ匂いがした。「お母さん」と、りんちゃんは遠慮がちにつぶやいた。お母さんの胸から顔をあげると、おじいちゃんとおばあちゃんがニ コニコした顔で見ていた。
 「りんちゃん、よく来たなあ。大きくなったなあ。ゆっくりと遊んでいけばいい。ずっとここにいればいいからな」
 小さなおばあちゃんは、顔をしわくちゃにしながらそう言った。「ずっとここにいればいい」という意味が分からなかった。夏休みの間中ここにいるのかな。 そうなったら、毎年小学校で開かれる夏祭りに行けなくなる。りんちゃんはそれまでには帰りたいと心の中で思っていた。そのことを訴えようとお父さんのほう を振り返った。お父さんはたくさんの荷物を家の中に運んでいるところだった。
 「さあ、お家の中にお入り」
 「おねえちゃん、はやく、はやく」
 おばあちゃんとまいちゃんにせかされながら、りんちゃんは家の中に入った。玄関の扉を開けると、広々とした畳の部屋が広がっていた。たったひと部屋だけ で、りんちゃんのアパートの部屋が全部入りそうだ。部屋の真ん中には大きな囲炉裏があった。どうしてそれが囲炉裏だと分かったかと言えば、学校の生活科の 勉強で習ったばかりだからだ。りんちゃんは囲炉裏のところへ行き、鉄の棒で中の灰をかきまわしてみた。
 「すごいでしょ、おねえちゃん。寒いときになるとね、ここでおなべを食べるんだよ」
 まいちゃんが自慢げに、そしてとてもしっかりした口調でそう言った。りんちゃんが覚えている甘えん坊のまいちゃんではなく、まるで別の女の子のような感 じがした。たった二年会ってないだけなのに、どうしてこんなにも違うのだろう。もしかして私も、お母さんやまいちゃんから見れば変わっているんだろうか。 そんなことをぼんやりと考えていた。
 部屋の中からは庭がよく見えた。もうすっかり陽は落ちていた。部屋の明かりが庭の様子をうっすらと映している。車の横でお父さんとお母さんが立ち話をし ていた。家の中に入って話せばいいのに。りんちゃんは二人を呼びに外へ出ようとした。そのとき、お父さんが車の中に乗り込むのが見えた。エンジンをかけ、 お父さんは運転席の窓を開けた。
 「おとうさん!」
 りんちゃんは驚いて車のほうに駆けていった。
 「おとうさん! どこへ行くの? どうして一緒に泊まらないの?」
 お父さんは車の窓から腕を伸ばし、りんちゃんのほっぺに手を当てた。
 「お父さんはね、あした仕事があるんだ。仕事がお休みになったら、また来るからね。元気で待ってるんだぞ」
 お父さんは嘘をついていると思った。
 「いや! お父さんが帰るんだったら、私も帰る。だって、りんちゃんがいなかったらお洗濯は誰がするの。病気になったら、誰がおでこを冷やすの。お父さん一人じゃできないでしょ」
 りんちゃんは車のドアを開けようとした。その腕をお母さんの手がしっかりと握った。とても強い力だった。車がゆっくりと走り出した。赤いランプが見えなくなるまで、りんちゃんは立ち尽くしていた。
 「お父さん、また高速道路を走るのかな。ちゃんとご飯を食べるかな。ねえ、お母さん。お父さん、また迎えにきてくれるよね」
 お母さんは返事をすることなく、りんちゃんを強く抱きしめた。
 「さあ、お風呂に入って、ご飯を食べよ。今日はりんちゃんの大好きなハンバーグを作ってあるんだから」
 まわりの山々が、とても暗く感じた。

*  夕食はとても賑やかだった。畳の部屋に大きなテーブルが出され、それを取り囲むように五人が座った。テーブルの上には大好きなハンバーグの他に、たくさ んの料理が並んでいた。それはまるでレストランのようだった。今まではコンビニで買ったお弁当をひとりで食べていた。お父さんが休みの日には、二人で食卓 を囲んだ。そんな習慣が身についているせいか、大人数で食べる夕食にりんちゃんは少し戸惑いを覚えた。
 「りんちゃんはいつも何を食べていたの?」
 と、お母さんが聞く。
 「ともだちはいっぱいできたかい?」
 と、おばあちゃんが聞く。
 「りんちゃんは勉強が好きか?」
 と、おじいちゃんが聞く。
 「おねえちゃん、あした何して遊ぶ?」
 と、まいちゃんが話に割り込んでくる。
 次から次へといろんなことを聞かれる。りんちゃんは何だか疲れてしまった。せっかくのハンバーグなのに、おいしいのかどうかも分からなかった。それでもみんなの質問に、一生懸命返事をした。ニコニコと笑いながらハキハキと答えた。
 慌ただしい夕食が終わり、お母さんとまいちゃんと三人でお風呂に入った。ひさしぶりに見るお母さんの身体。なんだか不思議な気持ちがして、まじまじと見つめてしまった。
 「何をそんなに見ているの? いつもお風呂は一人ではいるの?」
 湯船につかりながらお母さんが聞いた。
 「うん。でもおとうさんがお休みの日は一緒に入るよ。お父さんが髪の毛を洗ってくれるの。お父さんったらね、髪の毛を荒いながら必ずくすぐるんだよ」
 お父さんの話を始めると、りんちゃんは急に元気が出てきた。それからずっと、りんちゃんはお父さんの話をした。洗濯の係を決めていること、休みの日に公 園に行くこと、そこでときどきアイスクリームを買ってもらうこと。いっきにいろんな話をした。お母さんは「そう。そうなの」と相槌を打ちながら、静かに聞 いていた。
 おじいちゃんの家は大きな平屋建てだ。みんなで食事を食べた広い座敷のとなりには、これもまた広い炊事場がある。冷蔵庫に入り切らない野菜が、山盛りに 置かれている。部屋はそのほかに二つ。一つはおじいちゃんとおばあちゃんの部屋。もう一つがりんちゃんたちが寝る部屋だ。部屋の真ん中に布団が三つ、寄り 添うように敷かれていた。
 「きょうは疲れたでしょ。ゆっくりと寝なさいね」
 お母さんが背中をトントンしてくれた。それがとっても気持ち良くて、りんちゃんはすぐにうとうとしてきた。「お父さん、ちゃんとご飯を食べたかな」。そんなことを考えながら、すっかりと眠ってしまった。

*  翌朝りんちゃんは、いつもより早く目を覚ました。コケコッコーと鳴くニワトリの声に起こされたのだ。そういえば庭の片隅にニワトリ小屋があったのを思い 出した。となりを見ると、お母さんの姿はもうなかった。まだ眠っているまいちゃんを起こさないように、そっと部屋を出た。炊事場を覗いてみると、お母さん が朝御飯の支度をしていた。炊きたてのご飯とおみそ汁の匂い。りんちゃんはとても幸せな気分になった。
 「おはよう、おかあさん」
 「あら、おはよう。ずいぶんと早起きなのね。いつもこんなに早く起きるの?」
 「ううん。ニワトリさんに起こされちゃったの」
 「そう。さあ、お顔を洗ってらっしゃい」
 はい、と元気良く返事をして洗面所に行った。真新しいコップとハブラシはおばあちゃんが買ってくれたものだ。水道から流れる水は驚くほど冷たかった。一 口飲んでみると、ほんのりと甘い味がした。顔を洗うと、りんちゃんは庭に出てみた。夏だというのに、空気がひんやりとしていた。草木が風にゆれてザワザワ と音をたてている。そこにはザザーッという波の音は聞こえない。まるで別の世界に来たみたいだ。「別の世界」。そう口に出してみると、寂しさがこみあげて きた。お父さんのことや、仲良しのともだちのことが思い出された。学校の校庭が目に浮かんだ。はやくお家に帰りたい。そう思うと涙が出そうになった。その とき「りんちゃん。ご飯ができたわよ」というお母さんの声が聞こえた。
 おじいちゃんの家は山に囲まれている。家の裏には畑があり、いろんな野菜が育っていた。朝御飯が終わると、おじいちゃんとおばあちゃんは畑仕事にでかける。その後をついて行くのがまいちゃんの日課らしい。
 「はやく。おねえちゃんも一緒に行こうよ」
 まいちゃんに手をひかれて、りんちゃんは裏山に登っていった。真っ赤なトマトがたくさんなっていた。おばあちゃんがそれを一つもいで、りんちゃんに手渡した。畑のそばの湧き水で荒い、トマトをほうばった。それはいままでに食べたことのないトマトだった。
 「これ、ほんとうにトマトなの?」
 「これがほんとうのトマトだよ。どうだ、おいしいだろう」
 おじいちゃんが自慢げに言った。
 トマトをほうばりながら目の前の木を見ると、大きなかぶと虫が一匹、太い幹にへばりついていた。りんちゃんは驚いて目をまるくした。立派な角をはやしたオスのかぶと虫だ。それはデパートで売られていたかぶと虫よりもずっと大きかった。
 「すっごい。こんな大きいのは初めて」
 「そんなのは、いっぱいいるよ。ほら、もっと上のほうを見て」
 まいちゃんが指さす木の上を見ると、何匹ものかぶと虫が群がっている。あまりの数の多さに、気分が悪くなるほどだった。かぶと虫の他にも、見たことのな いような虫がたくさんいた。その不思議な光景を見ていると、ここにはほんとうにトトロがいるのかもしれないと思えてきた。
 それから毎日、りんちゃんは網で虫を取るのに夢中になった。田舎の虫はのんびりしているのか、虫たちはいとも簡単に捕まってくれる。大きめの虫かごも あっと言う間にいっぱいになる。虫かごがいっぱいになると、取った虫をいっせいに逃がす。そしてまた、新らしい虫を捕まえる。一日に何回もそんなことを繰 り返した。朝のほうが捕まえやすい虫、昼になると鳴きだす虫、夕方に動きだす虫。いろんな虫たちがいることが分かってきた。
 りんちゃんは虫日記を付けはじめた。毎日捕まえた虫をスケッチし、感想を書き込む。夏休みの自由研究はこれでバッチリだ。夏休みの宿題に昆虫の観察をす る子は多い。でも、こんなにたくさんの虫を取ることはできないだろう。きっと先生もともだちもびっくりするに違いない。りんちゃんはそれを考えると、何だ かワクワクしてきた。まいちゃんもずい分と協力してくれた。りんちゃんが掴めない虫でも、まいちゃんは起用に捕まえる。二人で野山を駆け回り、のどが乾け ば冷たい井戸の水を飲む。お昼ごはんを食べたら少し昼寝をして、また外へと飛び出していく。コンビニご飯を買いに行かなくてもいい。洗濯物の心配もしなく ていい。思う存分りんちゃんは遊ぶことができた。そうして、あっと言う間に時間が過ぎていった。

*  気がつけば、八月も下旬になろうとしていた。もうすぐに夏休みも終わり、二学期が始まってしまう。自由研究はバッチリだけど、算数と漢字のプリントには まだ手をつけていない。持ってきた荷物の中を探してみたけど、そこには入ってなかった。どうやらお家に置いてきたらしい。早く帰ってやらなければ、夏休み 中に終わりそうにない。
 「ねえ、お母さん。宿題のプリントを置いてきてしまったの。もうそろそろ帰らなくちゃ。お父さんに迎えにきてもらおうよ。お母さんもまいちゃんも一緒に帰ろうよ」
 りんちゃんは思い切って言ってみた。
 「あのね、りんちゃん。もうあそこのアパートには帰れないの」
 「どうして?」
 「あのアパートはもうすぐ引き払うの」
 「じゃあ、お父さんがこっちに来るの?」
 「それはまだ分からないわ」
 お母さんの言っている意味がよく分からなかった。アパートもなくなる。お父さんはいったいどこで暮らすんだろう。ずっとここにいることになるんだろう か。学校はどうするんだろう。どこかに転校するのかな。もう海岸小学校には戻れないのかな。頭の中でいろんなことがグルグルと回った。
 そうしているうちに、とうとう九月になってしまった。二学期が始まってしまった。「お父さんは、いつ迎えにくるの?」「いつになったら学校に行ける の?」。毎日のようにしつこくお母さんに聞いた。そのたびに「もうちょっと待ってね」と答えるばかり。りんちゃんにはもう聞く元気もなかった。
 山の秋は早い。まだ九月だというのに、夕方の風が涼しく感じられる。ぼんやりと庭に座っている日が多くなった。保健の先生は元気かな。友だちも心配して るだろうな。これからどうなってしまうのかな。どうして四人で暮らすことができないんだろう。いくら考えても、その答えは見つからなかった。
 「海が、見たいな」
 りんちゃんは、小さな声でつぶやいた。


りんちゃんのお正月


 とうとう冬がやって来た。
 二学期に入ってまもなく、りんちゃんは山の小学校に通うことになった。一年生から六年生まで合わせても百人しかいない、小さな学校だった。おじいちゃんの家からは歩いて四十分もかかる。最初のころは、学校へ行って帰ってくるだけでくたくたになった。
 でもやがて学校にも慣れて、ともだちもたくさんできた。りんちゃんはすぐに人気者になった。海の話をしてあげると、クラスのみんなはとても喜んだ。ちょっぴり自慢だったけど、そのたびに海岸小学校を思い出してしまう。それが悲しかった。
 十二月の半ばになると、山の小学校は冬休みに入る。雪がたくさん降るから、冬休みが他の学校より長いのだそうだ。その代わりに夏休みが短い。同じ日本なのに、何だか不思議な気がした。
 学校が休みになると、りんちゃんはすることがなくなった。仲良しのともだちの家まではとても遠い。それに、一人で雪道を歩いていくのはむりだった。家に は妹のまいちゃんがいるけれど、やっぱりすぐに飽きてしまう。たくさんのともだちと遊ぶことが、りんちゃんは大好きだった。
 おかあさんは仕事に出掛けていて、毎日夕方にならないと帰ってこない。おじいちゃんとおばあちゃんはとてもやさしいけど、家の中でじっとしていると、つ いついおとうさんのことを思い出してしまう。学校があるときはそうでもないけど、家にいるとたまらなくおとうさんに会いたくなる。
 夏休みに車で送ってきてもらった。それ以来おとうさんとは会っていない。何度か電話がかかってきたみたいだけど、おかあさんは電話を代わってくれなかった。自分から代わってとは言えなかった。言ってはいけないような気がしたからだ。
 「おとうさんは今、どこにいるの?」
 あるとき、りんちゃんは思い切っておかあさんに聞いてみた。
 「海のそばにいるって言ってたわよ」
 「海って、りんちゃんたちのお家のこと?」
 「りんちゃんの海じゃないわ」
 「じゃあ、どこの海?」
 「きっと、おとうさんだけの海よ」
 「おとうさんは元気なの?」
 その問いに、おかあさんは答えてくれなかった。りんちゃんもそれ以上は聞こうとはしなかった。聞いてはいけないような気がした。
 毎晩、眠るときはおとうさんのことを考えた。お布団の中でおかあさんのにおいを嗅ぎながら、おとうさんのにおいを思い出そうとした。せめて夢の中ででも会いたいと思ったからだ。

*  クリスマスが近づいたある日、おかあさんがりんちゃんを部屋に呼んだ。
 「りんちゃん」
 「なあに、おかあさん」
 「りんちゃんは、おとうさんに会いたい?」
 あまりにも突然だったので、どう答えていいのかわからなかった。おとうさんには、もちろん会いたい。でも、それでまたおかあさんと離れ離れになるのもいやだ。
 「おかあさんも、まいちゃんも一緒に会えるの?」
 「それはまだ分からないの。とにかく、りんちゃんがみんなの代表として、おとうさんの様子を見てきてほしいの」
 「また、おかあさんと離れちゃうの?」
 「そんなことはないわよ。おかあさんは絶対にりんちゃんを放さないから、心配しないで」
 でも、おかあさんとまいちゃんが出ていった日のことは忘れられない。ほんのちょっぴりだけ、りんちゃんはおかあさんを信じることができなかった。考えれば考えるほど、何も分からなくなってきた。自分で答えを出すのが怖かった。誰かに決めてほしかった。
 「りんちゃんの好きにしていいのよ」
 もう一度、おかあさんが聞いた。
 「行く」
 とだけ、りんちゃんは答えた。おとうさんが心配だった。おとうさんの手の怪我がとても気になった。そのことだけしか頭に浮かばなかった。
 「わかったわ」
 とおかあさんは言って、一枚の封筒を手渡した。中には電車の切符が入っていた。
 「明後日の電車に乗りなさい。三時間乗れば東京に着く電車よ。東京駅にはおとうさんが迎えにきてくれているから。大丈夫?
 一人で行ける?」
 「うん」
 切符を握りしめたりんちゃんの頭を、おかあさんはやさしくなでてくれた。なぜだか涙があふれてきた。

*  出発の日。朝から雪が降っていた。
 りんちゃんは分厚いセーターとコートを着込んで、足には赤い長靴をはいた。冬になって買ってもらった、お気に入りの長靴だ。
 駅までは、隣りに住んでいるおじさんが、軽トラックで送ってくれた。座るところが二人分しかないから、りんちゃんはおかあさんの膝の上に座った。抱きしめてくれているおかあさんの手を、駅に着くまでずっと握っていた。
 駅に着くと、もう電車がホームに入っていた。改札口の前で、おかあさんはもう一度手を握って聞いた。
 「ほんとうに一人で平気?」
 「うん。だって、東京に着いたらおとうさんがいるもの」
 「ちゃんと、電車を降りたところでじっと待っているのよ。困ったことがあったら、何でも駅員さんに聞くのよ」
 「うん。だいじょうぶだよ。ちゃんと帰ってくるから、待っててね」
 「とにかく向こうに着いたら電話をしてね」
 「わかった。おとうさんの海がどんなところか、ちゃんと教えてあげるね」
 大きなリュックを背負って、りんちゃんは一人で電車に乗り込んだ。いちばん出口に近い、窓際の席に座った。すぐにトイレにいけるように、おかあさんがそうしなさいと言ったからだ。
 電車がゆっくりと走りだした。りんちゃんは窓におでこをぴったり付けて、おかあさんのほうを見た。雪の中でおかあさんが大きく手を降っていた。やがてその姿は小さくなって、とうとう駅までもが見えなくなった。
 急にりんちゃんは悲しくなってきた。はじめての一人旅の不安。おかあさんと会えなくなるような心配。どうして、一人で行かなくちゃいけないんだろう。どうしてまいちゃんも行かないんだろう。いくら考えてもわからなかった。
 コートを着たままで座席に座った。ひざの上にリュックを抱え、そこに顔をうずめて目をつぶった。夏の海が目にうかんだ。海岸小学校の運動場が浮かんだ。 山の小学校の教室も浮かんでは消えた。自分が今どこにいるのかもわからなくなってきた。そうしていつの間にか、ぐっすりと眠ってしまった。
 どれくらい眠ったのだろう。目を覚ましたときには、電車の中は人がたくさんになっていた。りんちゃんの隣の席には、ちょうどおかあさんくらいの女の人が座っていた。
 コートを着たままで寝ていたせいか、身体にはうっすらと汗をかいていた。「電車の中ではコートは脱ぐのよ。でないと降りたときにカゼをひくから」という おかあさんの言葉を思い出し、慌ててコートを脱ごうとした。でも、大きなリュックが邪魔をして、なかなかうまく脱げない。りんちゃんが悪戦苦闘している と、隣に座っていたおばさんが後ろからすっと脱がしてくれた。
 「ありがとうございます」
 りんちゃんは少し緊張気味にお礼を言った。
 「いいえ、どういたしまして」
 おばさんがニコッと笑ってくれたので、心がとても落ちついた。
 「一人で乗っているの?」
 おばさんがやさしく話しかけてきた。
 「はい」
 「どこまで行くの?」
 「東京です」
 「まあ、一人で東京までなんて、偉いわね」
 「でも、東京におとうさんがお迎えに来てくれているの」
 「そう。ならば安心ね」
 りんちゃんは何だかほめられたような気がして、とても嬉しくなった。おとうさんが来てくれているということが、とても自慢だった。そして、あと一時間で東京に着くとおばさんは教えてくれた。窓の外を見ると、雪はまったく降っていなかった。

*  間もなく東京に到着します、というアナウンスが聞こえた。りんちゃんははじかれたように立ち上がった。あわててコートを着ようとすると、隣のおばさんが「すぐには着かないから、もう少し座っていればいいのよ」と言ってくれた。
 でもりんちゃんは、ドアのところに立って一番に降りようと決めていた。たくさんの人にまぎれて、おとうさんが見つからなかったらたいへんだと思ったから だ。「ありがとうございました」とおばさんにぴょこんと頭を下げ、ドアの前まで行った。外を見ると、大きなビルがいっぱい見えた。
 何だか急に胸がドキドキしてきた。初めて来た東京のせいか、それともおとうさんにもうすぐ会えるからか。りんちゃんはのどがカラカラになった。リュックの中から飴玉を一つ取り出し、口に放り込んだ。それで少しだけ気持ちが楽になった。
 電車がスピードを落として、やがてホームに滑り込んだ。りんちゃんの後ろには、たくさんの大人が並んでいた。それがとても怖かった。「はやく止まってください」と神様にお願いした。
 やっと電車が止まり、扉が開いた。ホームの飛び下りた瞬間に、人込みの中におとうさんの姿が見えた。おとうさんだけが、浮き上がって見えたような気がした。
 「おとうさん!」
 りんちゃんはおとうさんに飛びついた。しがみついたおとうさんの体は温かかった。そして、懐かしい匂いがした。ちょっぴり寒くて、涙と鼻が一緒にでてきた。おとうさんは大きなハンカチで、やさしく顔を拭いてくれた。
 「りんちゃん。よく来てくれたね」
 「うん」
 「一人で大丈夫だったかい?」
 「うん」
 「おかあさんとまいちゃんも元気か?」
 「うん」
 話したいことがいっぱいあったのに、「うん」という言葉しか出てこなかった。
 おとうさんは、りんちゃんの手をしっかりと握って階段を下りはじめた。大きなリュックはおとうさんが持ってくれた。
 「りんちゃんはその長靴で来たの?」
 「うん。だって山の家は雪がたくさん降るから、長靴じゃなきゃ歩けないもん」
 「そうか。でもこっちはあまり雪は降らないんだよ。長靴じゃあ歩きにくいから、新しいクツを買ってあげよう」
 改札口を出ると、大きなデパートの中に入っていった。デパートなんて初めてだ。小さいころに連れていかれたらしいけど、もう忘れてしまっている。すべてがキラキラ輝いていて、目がくらみそうだった。
 お菓子売り場の前を通ると、見たこともないチョコレートが並んでいた。それはまるで宝石のようだった。
 「どうしたの?
 チョコレートが欲しいのかい?」
 「これ、ほんとうに食べられるの?」
 おとうさんはニッコリと笑って、一袋のチョコレートを買ってくれた。
 クツ売り場に行っても、りんちゃんはクツを選ぶことができなかった。あまりにもたくさんの種類で、何が何だかわからない。山のクツ屋さんではすぐに決まる。だって、五つくらいの中から選べばいいのだから。
 「おとうさんが選んで」
 「よし。そうしてあげよう」
 おとうさんは店員さんを呼び、一つのクツを指さした。それはとてもきれいな水色のクツだった。履いてみるとピッタリだった。その場で新しいクツに履き替え、長靴はお店の人が袋に入れてくれた。嬉しいけど、もったいないような気がした。
 「ありがとう、おとうさん。でも、どうして水色にしたの?」
 「それは、海の色だからだよ」
 「そうか。りんちゃんとおとうさんの海の色なんだね」
 おとうさんの手を強く握って、なるべくクツを汚さないように、りんちゃんはピョンピョンと歩いた。
 「さて、お昼ごはんは何を食べたい?」
 「何でもいいよ。あんまりお腹がすいてないの」
 「遠慮しなくてもいいんだよ。おとうさんが住んでるところにはあんまりいい店がないから、東京で御馳走を食べようよ」
 別に遠慮しているわけではないけど、りんちゃんはほんとうに、あまりお腹がすいてなかった。たぶん、いつもとは違う空気に触れて、緊張していたのだ。
 「じゃあ、温かいきつねうどんがいい」
 「そんなのでいいの?」
 二人は地下街にあるそば屋に入った。おとうさんはてんぷらそばを注文して、えびのてんぷらをりんちゃんの器に入れてくれた。それが嬉しくて、体も心もホカホカに温かくなった。どんな御馳走よりもおいしかった。

*  お昼ごはんを食べてから、再び電車に乗った。おとうさんの住んでいるお家に向かうためだ。一時間半くらいで着くと言われたけど、それが遠いのか近いの か、りんちゃんには分からなかった。たとえとても遠くても、もう安心だ。だって隣には知らないおばさんがいるんじゃなくて、おとうさんが座っているのだか ら。
 電車の中には、クリスマス・プレゼントを持った子がたくさんいた。そうか、今日はクリスマスなんだと思った。楽しいクリスマスを忘れてしまうくらい、おとうさんに会えることで頭がいっぱいだった。
 りんちゃんは電車の窓から、ずっと外を眺めていた。同じように見えたビルも、よく見るといろんな形をしている。まるで大きな鏡のようなビルもある。遊園地にあるようなきれいな色をしたものもある。いくら見ても飽きることはなかった。
 窓から見えるビルの数がだんだんと少なくなってきた。小さなお家ばかりが目立つようになった。そしてとうとう、海が見えた。久しぶりに見る海だった。
 「おとうさん、海だよ。海が見えたよ」
 「そうか、じゃあ、もうすぐだな」
 おとうさんは、いつの間にかコックリと眠っていたみたいだ。
 「さあ、やっと着いたぞ」
 りんちゃんはホームに飛び下りた。そこはとても小さな駅だった。もしかしたら、今朝電車に乗った山の駅よりも小さいかもしれない。駅で降りた人も少なかった。
 「小さな駅なんだね」
 「そうだよ、だからおとうさんは気に入ったんだ」
 「どうして小さな駅がいいの?」
 「人が少ないからさ」
 「どうして人が少ないほうがいいの?」
 「静かに暮らしたかったからだよ」
 りんちゃんには、それがどういう意味か分からなかった。ただ、おとうさんの顔が寂しそうにみえたので、それ以上は聞かなかった。
 小さな改札口を出ると、タクシーが二台止まっていた。バス乗り場には、おじいさんが一人座っていた。二人はゆっくりと駅前の細い道を歩きだした。
 細い道沿いには、普通のお家にはさまれて、いくつかのお店が並んでいた。お肉屋さん。八百屋さん。駄菓子屋さん。クリーニング屋さん。おもちゃ屋さんも あった。おとうさんがふいに一軒の店の前で足を止めた。看板には「来々軒」と書かれている。小さな中華料理屋さんだった。
 「おとうさんは、今このお店で働いているんだよ」
 おとうさんは昔、東京の大きなお店でコックさんをしていた。どうしてこんな小さなお店で働いているんだろう。
 「手を火傷してから、たくさんの料理を作れなくなったんだよ」
 「おとうさんの作る料理はとってもおいしいのに。もっとたくさんの人に食べてもらわなくちゃいけないのに」
 「でもね、人数が少なくても、おいしいって言ってくれる人がいれば、それでいいんだよ」
 大きなお店と小さなお店。どちらがいいのかは分からない。でも、今のおとうさんのほうが楽しそうにも見えた。
 細い道を歩いていると、海の匂いがした。懐かしいあの海の匂い。りんちゃんは坂道を駆け降りた。急に視界が広がった。広い広い砂浜。寄せてくる波。少し離れたところには漁港も見える。
 「これが、おとうさんの海なんだね」
 りんちゃんは後ろを振り返った。
 「お魚がいっぱい採れるんだよ。そのお魚を使って料理を作ることもあるんだよ」
 陽に焼けたおとうさんの顔が眩しく見えた。しばらく二人は、手をつないで海を見ていた。
 「おかあさんとまいちゃんにも、見せてあげたいな」
 りんちゃんはそっと呟いた。

*  海沿いをしばらく歩くと、小さな二階建てのアパートがあった。おとうさんは階段をトントンと上がっていった。そして一番端っこのドアのカギを差し込んだ。
 「さあ、あがって」
 ドアを開けると、すぐに台所があった。
 「おじゃまします」
 思わず、りんちゃんは口に出した。
 「遠慮なんかしなくていいんだよ。おとうさんの家はりんちゃんの家でもあるんだから」
 台所の中にあるドアを開けると、そこはお風呂場とトイレだった。そして台所の奥にはもう一つ畳の部屋があった。二つの部屋を合わせても、おじいちゃんの家の一つの部屋よりも小さいと思った。そんなりんちゃんの驚きがわかったのか、おとうさんが言った。
 「どうだ、狭いだろう。でも、一人で暮らすにはこれくらいで十分なんだよ」
 コートを部屋の壁に掛けてもらい、窓を開けてみた。そこにはおとうさんの海が広がっていた。
 「すごーい。こんなに大きく海が見えるんだね」
 りんちゃんは部屋の狭さなんか忘れて、ワクワクした気分になった。
 その日の夕食は、おとうさんがチャーハンを作ってくれた。久しぶりに食べるおとうさんのチャーハン。世界一おいしいと思った。二人でお風呂に入り、背中を流しっこした。
 お布団は二つ敷いてくれたけど、りんちゃんはおとうさんのお布団にもぐりこんだ。とてもあったかくて、おとうさんのにおいがした。そして、やっぱりおか あさんのにおいを思い出した。おかあさんといると、おとうさんに会いたくなる。おとうさんといると、おかあさんのにおいを思い出してしまう。どういて、い つも片一方だけなんだろう。そう考えているうちに、りんちゃんはウトウトとしてきた。

*  朝御飯はあったかいご飯と目玉焼きをおとうさんがつくってくれた。そしておにぎりを三つ、アルミホイルに包んでりんちゃんに手渡した。
 「おとうさんは仕事に行くから、お昼はこれでがまんしてね。夕方には帰ってくるから、それまで一人でいられるね。もし寂しくなったら、お店に来てもいいから」
 「へいきだよ。お絵描き帳も持ってきてるから、お留守番できるよ。それより、りんちゃんはいつまでいてもいいの?」
 「お正月までには山の家に帰す約束なんだ」
 「じゃあ、お正月はまた別々なの?」
 「そういうことかな」
 せっかくおとうさんに会えたのに、また別れなくちゃいけない。もう、そんな繰り返しはいやだとおもった。りんちゃんが黙っていると、「じゃあ、とにかく行ってくるね」とおとうさんはお仕事にでかけて行った。
 ふたりでいると狭いお部屋だと思ったのに、ひとりになると、とても広く感じた。寂しさを吹き消すように、勢い良く窓を開けた。真っ青な青空と海が広がっていた。十二月だというのに、陽射しがポカポカしていた。
 りんちゃんは大きなリュックから、手提げ袋をとりだした。水筒にお茶を注ぎ、おにぎりを三つ放り込んだ。台所にあったスーパーのビニール袋も畳んで入れた。ながぐつを履いて、ドアにカギを閉めて、海のほうに向かって歩いた。
 砂浜に手提げ袋を置いて、波打ち際まで駆けていった。ながぐつを通して伝わってくる海の感触。水はとても冷たいけど、何だか気持ちがスーッとする。「やっぱり海はいいな」りんちゃんはつぶやいた。
 海に行こうと思ったのには目的があった。それは、たくさんの貝殻を拾うためだった。冬になると、砂浜は貝殻でいっぱいになる。その理由は分からないけど、りんちゃんは冬になると貝殻拾いをした。そこはまるで自然がつくった宝石箱みたいだった。
 もってきたスーパーの袋に拾った貝殻をつめていった。できるだけ大きさが同じで、色のきれいな貝殻を探した。夢中になって探していると、いつの間にか遠くまで来てしまった。気がつくと、お日様がずいぶん高くなっていた。
 りんちゃんは手提げ袋を置いた場所まで引き返した。砂浜にぺたんと座り、おとうさんがつくってくれたおにぎりを取り出した。大きな口をあけてほおばっ た。中には大好きな梅干しが入っていた。あっと言う間におにぎりを二つ食べた。残りの一つは、おやつの時間に取っておこうと思った。水筒に入れてきたお茶 を飲んで、また貝殻拾いに熱中した。
 「よし、これくらいあれば大丈夫」
 スーパーの袋は、きれいな貝殻でいっぱいになっていた。貝殻がこわれないようにそっと手提げ袋に入れ、アパートに向かって歩きだした。一人でカギを開けて部屋に入るとき、ふと昔住んでいた海の団地を思い出した。海岸小学校が目に浮かんで、ちょっぴり涙が出そうになった。
 「さあ、頑張らなくちゃ。夕方にはおとうさんが帰ってくるんだから」
 自分を励ますように、りんちゃんはいきおいよくドアを開けた。長いあいだ海にいたせいか、身体が冷えきっていた。電気ストーブのスイッチを入れ、しばらくその前に座っていた。かじかんでいた手が、やっと温まってきた。
 コートを脱いで、部屋の壁についているフックにかけた。リュックの中から、お絵描き用の画用紙と色鉛筆、そしてノリを取り出した。コタツの上にティッシュペーパーを二枚しいて、そこに集めた貝殻を広げた。
 りんちゃんはさっそく作品づくりに取りかかった。まずは画用紙いっぱいに海の絵を描いた。いまは冬だけど、夏の海を描こうと思った。赤や黄色をつかっ て、ウィンドサーフィンも描いた。ピンク色の海の家も画面の中に入れた。そして砂浜の部分に貝殻をノリで張りつけていく。それは、りんちゃんの海だった。
 いつのまにか夕暮れになっていた。時計を見ると四時になろうとしていた。あまりにも熱中していたので、おやつの時間をすっかり忘れていた。りんちゃんは 残りのおにぎりを食べた。温かいお茶が飲みたかったけど、コンロの使い方がよく分からなかったから、水筒の冷たいお茶で我慢することにした。
 外はすっかり暗くなった。さすがに知らないところでの一人ぼっちは寂しい。部屋の電気をつけてみたけど、ガランとした様子がいっそう心細くなる。りんちゃんは部屋の隅でひざをかかえて座り込んだ。電気ストーブの暖かさだけが救いだった。
 「おとうさん、まだかな。おかあさんやまいちゃんは、今頃お風呂に入っているのかな」
 口に出せば、よけいに心細くなる。あと十分待って帰ってこなかったら、お店にまで行ってみようと思った。
 とそのとき、アパートの階段をトントンと駆け上がる音が聞こえた。
 「あっ、おとうさんだ」
 何度か足音は聞こえたけど、おとうさんの足音は違って聞こえた。ドアのカギを開ける音がして、おとうさんの姿が見えた。
 「ただいま、りんちゃん。おそくなってゴメンネ」
 「おかえりなさい!」
 りんちゃんはおとうさんにしがみついた。冷たくなったコートをぎゅっと握りしめた。やっと、こころが温かくなってきた。
 「お腹がすいたろ。何が食べたい?
 あんまりいい店はないけど、駅前にお寿司屋があるよ。どうだい、お寿司は?」
 「お寿司は食べたいけど、お家でおとうさんと二人で食べたい」
 りんちゃんは、できるだけ二人きりでいたかった。
 「分かった。じゃあ、お寿司を買ってきてここで食べよう」
 手をつないで、駅前のお寿司屋に行った。折り詰めを三人前買って、アパートに帰ってきた。お味噌汁はおとうさんがつくってくれた。海の近くのお寿司は、やっぱりおいしいと思った。
 夕食が終わると、りんちゃんは一日かけてつくった絵をもってきた。
 「おとうさん、ハイ、クリスマスプレゼントだよ」
 お絵描きの紙いっぱいに海が描かれている。砂浜のところにはきれいな貝殻が張りつけてある。「おとうさん大好き」と貝殻の文字が張りつけてあった。
 おとうさんは、じっとその絵を見つめていた。そしてりんちゃんをしっかりと抱きしめて「ありがとう」と言った。おとうさんが泣いていた。おとうさんが泣くのを、りんちゃんは生まれて初めて見た。
 りんちゃんは思い切って、言ってみた。
 「ここで、四人で暮らそうよ」
 「そうだな、でもここじゃ狭すぎるよ」
 おとうさんは涙を拭いながら笑った。りんちゃんはリュックのところまで走って行き、中から預金通帳を取り出した。これまでもらったお年玉やお小遣いを貯めていた。金額は二万円近くにもなっていた。その通帳をおとうさんに手渡しながら言った。
 「このお金で新しいアパートに引っ越せばいいよ。そしたらおかあさんもまいちゃんも住めるよ」
 おとうさんの顔が崩れ、再び強く抱きしめてくれた。
 「分かった。とにかく今年のお正月は四人で過ごそう。後でおかあさんに電話してみるよ」
 「ほんとう?
 約束だよ。来年も再来年もずっとだよ」
 りんちゃんは嬉しくて部屋の中をピョンピョンと走りまわった。
 その夜、おとうさんは長い長い電話をしていた。何を話しているのかは、よくわからなかった。どうなったかを知りたかったけど、がまんできずに眠ってしまった。
 朝、目がさめると、おとうさんはもう台所でおとうふを切っていた。
 「おはよう、おとうさん」
 「おはよう、まだ寝てればいいのに」
 「いつもは、もっと早起きなんだよ」
 「そうか。えらいな。じゃあ、お布団を畳んでくれるかな、もうすぐご飯ができるから」
 布団を畳んで、歯をみがいて、朝御飯を食べた。りんちゃんは、おかあさんのことを聞くのが何となくこわかった。かたづけをして、おちゃわんを洗いながらおとうさんが言った
 「今日の夕方に、おかあさんとまいちゃんがこっちにくるよ。駅まで迎えにいかなくちゃね」
 りんちゃんは言葉がでてこなかった。代わりに涙が出そうになった。りんちゃんはコートを着た。スーパーのビニール袋を手にとって、ながぐつをはいた。
 「こんな朝に、どこに行くんだい?」
 「海に行ってくる」
 「どうして、こんなに早くにいくの?」
 「だって、おかあさんが来るまでに、貝殻を集めなくちゃ、間に合わないんだもん」
 りんちゃんは階段を駆け降りて、海に向かって走った。アパートを振り返ると、おとうさんが手を振っているのが見えた。
 「すぐに帰るからね。ぜったいそこで待っててね」
 りんちゃんは大声で叫ぶと、再び走り出した。
 四人の海に向かって。

<了>