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2002~2003

織物のレッスン

今日は、織物のレッスンの6日目。がんばって3時間もやったせいか、肩と背中が少し痛いですね。
 この街に住み、土産物屋の店先で「手織のスカーフ」や、ビエンチャン郊外の高床式農家の下の部分に野ざらしになっている織機を見るたびに、ラオ語が少し使えるようになったら、ラオ人に習ってみよう・・・と思っていました。しかし、ラオ語の上達を待っていたら、いつになったら織機の前に座れるのか皆目見当がつかないので、織りなんて、見よう見まねで出来るでしょう・・・と気を大きく持って、やってみることにしました。スカーフやのれんを作り、日本へも輸出している織物工房での授業が始まりました。
 この工房では、天然染料で糸を染め、それで織っています。染色は男性がやっていますが、織るのは女性。若いお嬢さんが17人います。そのうちのほとんどが、工房内の寮で生活しています。一番若い子は16才。ビエンチャン出身だそうですが、寮で生活しています。まだ、一年目だということですが、手の込んだ織りをしていてびっくりしました。私の先生のトイちゃんは、24才。ここに来て5年になる一番の古株。ラオの歌謡曲を聞きながら、時には隣の子とおしゃべりをしながら、みんな楽しそうに仕事をしています。織り子さん達の賃金は出来高制で、食費は工房持ち。食事の支度はみんなで交代でやっているそうです。でも、食料の買い出しはトイちゃんの役目。夕方になると、オートバイに乗って市場に出かけます。
 この工房で訓練生を採用するときの条件が4つあるそうです。
  1. 視力が良いこと
  2. 根気があること
  3. 手先が器用で、注意深いこと
  4. 40才前であること
 工房は外にあり、4,5月などの暑い時期は、さぞ大変だろうなあ、と思います。まずは、好きな色の糸を選び、糸車に載せて巻き取ります。簡単そうに見えて、真ん中がこんもりと盛り上がるように巻き上げるのはなかなかむずかしいですね。それから、縦糸の準備。これが意外と大変。糸の張り具合や切れているところがないかを丁寧に見ています。私は「まあ、なんて器用にやるんだろう」と感心しながら見ているだけ。準備に1時間ちょっとかかりました。ただ、1時間で終わったのは、すでに縦糸を織り機の糸通しに設定しているためで、糸通しの設定には、1,2日かかるそうです。そして、やっと織りが始まります。横糸を交互の動かしていくだけの単純な作業だすが、均一にやっていくのは結構神経を集中させないといけません。隣のトイちゃんは、リズミカルに良い音を響かせながら織り進んでいます。私より4倍位も早い。何度もトイちゃんが縦糸を調節してくれます。そして、「うーん、とっても上手」とほめてくれます。しばらくすると、ボーちゃんが通りかかり、「綺麗に織れているねえ・・・」と言ってくれます。次から次へと女の子達が通りかかり、「上手よ。」などと声をかけてくれます。そんなに気を使ってくれなくてもいいのにと思ってしまいます。
 お昼間近になると、3人のお嬢さんが工房の片隅の台所で食事の支度を始めました。今日のメニューは、野菜と肉の煮物、野菜のお浸し風と餅米。いい匂いが漂ってきます。そこへ、大きな荷物を担いだ若い女性がやってきました。中国人の行商です。懐中電灯、腕時計、鋸、サングラス、シャツ、ズボンなどなど。買わない方がいいよね、中国製はすぐ壊れちゃうよ・・と内心思ったけれど、みんなわいわいがやがや楽しそうに品物を眺めています。
 今日、1枚目の平織りの柄なしのスカーフが織り上がりました。2枚目には、模様織りに挑戦することにしました。これが思いも寄らぬほど大変だということがわかりました。そして、「視力がいいこと」という条件がとても大事であることを、納得した次第です。

ビエンチャンの新年

新年を前にビエンチャンの市場は人々で賑わっています。といってもラオ正月は4月でこの時期にはラオ伝統のお祝いは何もないのですが。昨日は、おばあちゃんが上に羽織っていたセーターをがばっと持ち上げて、中から袋のようなものを取り出しているのを、何をしているんだろう・・・と見とれてしまいました。丁度信号待ちで、隣に止まったツクツクに乗っていたのでした。中から袋を出してその中のお金(かなり分厚かったですよ)を取り出して数え、また大事に袋にしまいこみセーターをおろし、そこでにっこりしていました。とてもかわいい笑顔でした。お買い物にでかけるのでしょうか?
 昨日の新聞には、こんな記事が出ていました。大晦日のパーティーは1:00まで終えること、と。実はクリスマス頃から私たち家族は寝不足気味です。隣近所のラオ人たちが毎晩のようにパーティーをしているのです。地酒のラオハイ(アルコール度は、3560度といろいろ)やラオビールを飲みながらの食事が終わると、歌と踊りが始まります。パーティーは屋外で行われ、大きなスピーカーを取り付けてカラオケ大会のような騒ぎが12時頃まで続きます。その頃になると歌う人たちのアルコール消費量はかなりのものでしょうし、それに疲れもあると思いますが、かなり音の外れた聞くに堪えない歌になっているのです。この騒ぎを取り締まる法律はないらしく、私たちはただ、じっと耐えるのみなのです。さて、大晦日はどうなるでしょう?政府の言いつけどおりにラオ人はするでしょうか? 
 先日テラスで本を読んでいましたら、ご覧のようなものを目のあたりにしました。彼はヤモリ君を食するのに忙しいところです。
 と、「ヘビ年」の最後を飾るにふさわしい情景を見、来年も楽しい年になることを願っています、皆様にとっても私にとっても。良い年をお迎え下さい。
Picture

ルアンプラバーン旅行

ボストンで勉強する娘が遊びに来ましたので、ルアンプラバーンとジャール高原に行って来ました。
 今回のルアンプラバーン旅行は、3回目ですけれど、9月に訪ねた雨季とは違う表情で迎えてくれました。水を満々とたたえて流れていたメコン川とカーン川の姿が全く異なっていて、びっくりしました。9月には水がおおっていた川の堤は、畑が耕され、いんげん、茄子、レタスなどが元気に育っています。川の流れもゆるやかで、水の色も赤茶けた茶色ではなく、緑に近く澄んだ色合いです。雨季時の水位より所によっては10メートル位は下がっていると思います。街路には花が咲き誇り、朝晩の風は冷たく、セーターがなくてはなりません。朝市のおばさん達は毛糸の帽子や厚いジャンパーを着て、野菜、果物、米などを売っています。写真の白い楕円形のものは、餅米を荒くつぶし、炭火で焼きお醤油で味付けしたものです。
 ジャール平原には、小高い丘の上に人3人くらいがすっぽりと入れる大きな壺がごろごろところがっています。2000年から3000年前のものということですが、それらの壺が何のために、どのように作られ、そして、どのようにこの地に運ばれてきたのか、謎に満ち決定的な答えはありません。現在最も有力な説は石棺論です。壺自体は、何の特徴もないのですが、その丘にたつと360度のパノラマが開け、刈り入れを終えた田の向こうには、緩やかに連なる丘が見え、それを囲むように遠くに山々が見えます。壮観な景色です。
 ビエンチャンは10月はじめに雨季が終わり、その後は一滴の雨も降っていません。それなのに、ラオス国花のプルメリアやブーゲンビリアがここビエンチャンでは真っ盛りです。気温も穏やかで、朝晩は長袖のシャツを羽織らないと風邪をひきそうです。暑い国での一時の清涼感を楽しんでいます。

モン族

娘とハノイ、フエ、バンコクとまわり、一昨日ビエンチャンに帰ってきました。雀のさえずりとひんやりとした風が都会の騒音に疲れた体に気持ちがいです。
 ベトナムはすごい。インドシナ3国として一つに括られていて、この3国は似たような民族性の人々の集まりと当然のように思いこんでいたので、ラオスの人とは全く異なる人々の顔つき、話し方、態度に驚きました。閑散としたビエンチャンから出かけていった私は、あの人、自転車、オートバイ、そして車の洪水に背中が寒くなる思いをしました。
 さて、モン族の話です。中国では苗族と呼ばれていますが、モン族は戦闘的かつ反抗的なので、中国を追われ、タイ、ラオス、ベトナムの山間部で生活する山岳民族です。12月末に出かけたジャール高原付近にはモン族の村が点在し、丁度日曜日の朝市を覗くことが出来ました。市場は朝の6時から10時まで。衣料品や食料品が並んでいます。衣料品はビエンチャンでは見かけない中国製が主です。野菜や果物を売っている店がありますし、肉屋には豚の頭がのっていました。鶏は籠に入れられて並んでいます。ドーナツのような揚げ菓子があったので食べてみました。口に入れるとホワーとするものとばかり思いこんでいたのですが、期待に反してこれが固いのです。原料を聞いてみますと、お米の粉だそうです。米粉が原料のせいか、歯にねばりつくべたべたしたものでした。でもおいしかったです。
 その後、ポピーが栽培されている畑を覗きました。魔のアヘンが取れる花は濃い赤紫の不思議な色合いの美しい花でした。モン族の人たちは基本的には焼き畑農業を主に行い、現金収入源としてポピーを栽培しています。ポピーの栽培は食用、薬用として、少量ならばラオ政府により許可されているそうです。でも残念ながら、モン族にはアヘン中毒が多いのも事実です。
 村を訪ねました。高床式の土台の柱や庭の囲いにアメリカ軍が落下した爆弾の殻が使われています。ここはベトナム戦争時に200万トンとも300万トもいわれるアメリカの爆弾が落とされた地域です。家の中からは子ども達が次から次へと出てきます。みんなぼろぼろの服で、サンダルか裸足。貧しそうです。でもにこにこしています。学校の庭に突き当たりましたら、綺麗に着飾ったお嬢さん達がいます。モン族のお正月のお祝いだそうです。片側に若い男性が並び、5メートルほど離れた反対側にお嬢さん達が並びます。そして、テニスボールを投げ合っています。これはお見合いみたいなものだそうで、気に入った相手にボールを投げるようです。モン族は一夫多妻で、ご主人が亡くなった未亡人もこのボール投げに参加するとか。そういえば、若い女性のなかに、30才を何年も過ぎたような女性もいましたっけ。この日のためにお嬢さん達は衣装を何年もかけて用意するそうです。18才のお嬢さんが作ったスカートのプリーツを折っていた糸を抜くのを手伝いましたけれど、細かな綺麗な仕事の素晴らしいものでした。スカート用に刺繍やアップリケをした後に、1センチ幅に折り込み、糸できつく縛っておいておき、プリーツを作るのです。電気もない村ですから、もちろんアイロンも無い訳ですが、美しい仕事ぶりに感激しました。モン族の女性達は手先が器用で、母から娘へと刺繍やアップリケの模様が受け継がれています。
 彼らの家には窓がありません。窓から生霊が逃げるのという言い伝えがあるためだそうです。床は土間で、屋根の近くに10センチ四方の明かり取りがあります。庭には鶏やイノシシがのんびり歩いています。はねつきを見ました。板はざっと木を削った物ですが、羽は薬夾に鳥の羽を2本差したものでした。日本のはねつきと同じ様なものに出会うとは思いもよりませんでした。
 はねつきを見たり、子ども達の写真を撮ったりとその村落に30分ほどいましたが、子どもも大人も誰1人として、お金や物をねだりませんでした。不思議に思っていたのですが、後日その理由がわかりました。3年ほど前までは、彼らも観光客にねだっていたそうです。それを知ったラオ政府はそういう施しに慣れると働かなくなるからと、観光ガイドに禁止するように強く言ったそうです。その効果があったのでしょう。あんなに貧しそうで、恥ずかしそうににこにこしている子ども達を見ていると、つい飴のひとつくらいあげたくなるのは人情のように思いますが、観光客もそういう親切の押し売りを考えなければいけないな・・・とつくづく思いました。

ベトナム

1月のはじめには娘と一緒に1週間ほどベトナムを回ってきました。まず空港の入国管理で最初のびっくりを経験しました。即席に覚えたベトナムの「こんにちわ!」と言って、パスポートと入国書類を差し出しましたけれど、首を振るわけでもなく、もちろんにこりともせず、何か悪いことをして係員の前に立たされているような気になりました。パスポートを返されたときは、今度は「サンキュウ」と英語で言ってみましたけれど、これまた空振り、何の反応もありませんでした。若い子にはもう少し愛想がいいに違いないわ、と思いましたけれど、娘にも同じような対応でした。私が訪れた国の数は多くはないのですが、こんなに無愛想でそっけなかったのは初めてです。その後3回出入国検査を受けましたけれど、まったく同じような対応振りでした。 ベトナムはハノイ、フエと行きました。ハノイはフランス植民地時代のフランス風屋敷が立ち並ぶ大通りが枝ぶりのよい並木に彩られたどっしりとした雰囲気の街でした。ビエンチャンに比べ、その大きな立派な街に驚く以上に、人の多さ、自転車、オートバイそして車の数、そしてそれらが鳴りつづけるクラクション音の洪水に驚かされました。なぜ、あんなにクラクションを鳴らすのでしょう?ビエンチャンではクラクション音を聞くことなんて滅多にありません。もちろん危険な場合は鳴らしますが、その他の場合は相手に対して失礼にあたるということで鳴らしてはいけないという不文律があります。ベトナムの場合は必要上鳴らしているとは思えないので、もしかしたら「ストレス発散」用にやっているのかもしれないな・・などと想像しました。

 人口が多ければ車やオートバイが多いのは当たり前なのですが、この閑散としたビエンチャンで半年ほど浸かってしまうと、あの道の混雑振りは耐えがたいものです。人々の表情が厳しくにこりともしないのは、ベトナム戦争の傷もあるかもしれないけれど、こんな戦場のような環境で生活していれば当然のように思われてきました。天秤棒を担いで野菜、果物を売り歩くのは女性の仕事と決まっているのでしょうか。みんな若くて元気そうなお嬢さんたちでした。でも笑顔は見かけませんでした。男性もそうですけれど、きびきびと動くベトナム人はお愛想笑いなんていうのは無駄ときめつけているのかもしれません。ラオス人と外見は同じようなのに、表情や態度がまったく違うことが衝撃的でした。

 1月末には、アンコール遺跡を見に行きました。アンコール・ワットもアンコール・トムも想像を絶する大きさで、石の種類のせいか大きくても柔らかな感じが圧倒的な美しさでした。それよりも街の人々の貧しそうなたたずまいに心さびしい思いをしました。アンコールには大勢の観光客が押し寄せ、ビザや遺跡の入場料、ホテル利用で収入がかなりあると思うのですが、少しでも地元の人々に行き渡れば、あんなに悲惨な生活はおくらないだろう・・と思いました。バンテアイ・スレイという遺跡までは30キロほどの道のりですが、その遺跡を訪ねるときに通りかかった道をちょうど工事していました。石を道の上において並べ、その上をローラーをかけてコールタールを流すという安易で安価な方法をとっていました。これからもますますたくさん訪れる観光客を見込んで、もっと本格的なきちんとした道を作ればいいのに・・と思うのは私一人だけではないと思います。そこで小学生としか見えないような小さな子供達も石を運んでいました。学童年齢の子供たちの労働作業もラオスでは見かけません。農家の庭先で学校へいってもおかしくない子供たちが遊んでいるのもたくさん目にしました。小さい弟・妹の面倒を見たり、あるいは制服や学用品が買えなくて学校へいかれない子供達なのかもしれません。いくつか見かけた学校は立派なものだったので残念な気がします。赤茶色の土埃にまみれたはだしの子供達の姿は、ビエンチャン付近では目にしないので、胸に迫ってくるものがありました。これもポルポト時代の傷跡でしょうか?

 街が暗かったのも印象的です。道には街路灯が立ち並んでいるのですが、どれひとつとして電灯がともっていないのです。街の中心の直径1キロほどは電気があるようですが、それを外れると、店先にはろうそくがともっています。ラオスでも電気の普及率は20%だそうですが、ビエンチャンなどの大きな街ではろうそくが必要なことは停電の時以外はありません。

 ビエンチャンの街はピンクや白のブーゲンビリアが真っ盛りです。9月半ばに雨季が終わり、その後雨は2回ほどほんの少し降っただけなのにたくましいものです。木々の葉は赤茶色の土埃におおわれて空気も乾燥しています。少しでもいいから雨が降らないかしら、と空を見あげることが多くなりました。

歯の治療

歯の治療には我が家から80kmのタイのウドンタニまで出かけます。ビエンチャンにも歯医者がいないわけではないのですが、技術や設備等ちょっと心配なのでタイまで行っています。 
 歯のつめものが取れてしまったので入れなおしてもらおうと行ったのですが、思いのほか私の歯の問題は深刻で、何度か通うことになりました。その日は一日目の治療だったのですが、手持ちのタイ通貨、バーツが足りなくなりドルで支払うことにしました。そこで会計係りの女性が「ドルの交換レートは35バーツです」と申し訳なさそうに小さな声で言いました。銀行では41バーツなのでかなり損なレートです。私が「どうしようかな、次に来るときに払うようにしてもらおうかな、それとも小額だからレートなんて気にしなくてもいいかしら」なんて考えていたら、こう言われました。「少し待っていて下さるなら、病院の運転手が銀行へ行ってお金を換えてきてあげますよ」と。それなら「お願いします」といい、ロビーで、これがホテルのロビー並にすばらしいのですが、新聞を読みながら20分近く待ちました。そしてバーツを手渡されました。「どうもすいません。病院が銀行と同じレートでやればいいんですけれど」と言いながら。すごいサービスと大感激してしまいました。 
 その次の時にはこんなことがありました。治療の途中でレントゲンを取るように言われ、レントゲン室に行きました。バッグは治療室に置いたままでした。5万円ほどのバーツを封筒にいれて持っていたので、ちょっと「あ!いけないな・・」とは思ったのですが、まあここは大病院、大丈夫と思ったのです。家に戻り、お金を数えてみると足りないのです、約一万円ほど。出かける前に主人が数えて私に渡してくれ、その場で私も数えたのでいくら持って出たかは間違いないのです。病院で支払った金額もお買い物をした額もはっきりしていますし、お札を間違えて払ったはずもないのです。どうしても足りないのです。そして、治療中にバッグを手放した以外は、私がしっかり持っていました。どこで何が起こったかはほぼ間違いのです、信じたくないのですが。自分が迂闊だったので誰をも非難するつもりはないのですが、でも悲しくてやりきれない思いをしています。

我が家の庭

我が家の庭にはマンゴーの木が2本あります。私がここに引っ越してきた5月末から6月にかけて、毎日のようにオレンジ色の甘いマンゴーの実を食べました。木からもぎ取るのではなく、落ちているのを拾ってくるのです。もうそろそろ花が咲き実をつけ始めている頃かと注意深く見ましたら、つややかな緑色の、でもまだまだ小さい実がいくつか見えました。どうも今年は不作のようです。ご近所のお宅はどうかしらと眺めてみましたら、もう色づくのを待つばかりの大きなものをたわわにならせている木もあれば、白い花が咲いている木もあります。 スリランカの家の庭にもマンゴーの木がありましたけれど、オレンジ色になる前にからすにやられてしまい、どんな味か試すことは出来ませんでした。スリランカのお手伝いさんは、小さく青い実をカレーにするとおいしいと言っていましたが、これも挑戦しませんでした。スリランカにはからすがたくさんいて気持ち悪いほどでしたが、ビエンチャンではからすを見たことがありません。そういえば、バンコクでも見かけてことがないですね。

 3日ほど前の夜中に半年振りに雨が降りました。さらさらと柔らかい雨が。とうとう雨季の始まりかと思ったのですが違いました。「雨が降ったわね。雨季の始まりね」と友人に言いましたら、「ああ昨日の雨ね。マンゴーレインね」という言葉が返ってきました。マンゴーの雨、なるほどなるほど。やさしい雨を浴びて、マンゴーの木はうれしかったでしょうね。

 今日、泳ぎに行ったプールでのこと。庭には8本ほどのユーカリの木があり、そこから蝉の鳴き声が響いてきました。プールには毎日のように行きますが、蝉の声を聞いたのは初めてです。日本の蝉に比べて低い声音でないていますけれど、何しろ数が多いのでしょう、盛大な合唱でした。

 ビエンチャンの街には黄、赤、青の旗が飾られ、その数が日に日に増しています。赤地に小さな鎌が描かれた共産党の旗もあります。ラオスの第7回党中央大会がまじかに迫っているのです。でもどうも明確な開催日程は未定のようです、新聞によりますと。

織物の授業

現在の私の生活は織物の授業を中心に進んでいます。母や友人達がラオスを訪ねてきていたので織物を中断していたのですが、2月半ばから再開したところです。 昨日は9時から作業を始めました。スカーフの模様を入れるちょっと面倒で、難しい作業で真剣にやっていたのですが、敷地内から山羊でしょうか、悲しそうなメヒーン、キャアーンという鳴き声が聞こえてきました。「どうしたんだろう、何があるんだろう?」と思わせずにはおかない声です。胸がどきどきしてきて織物に集中できなくなってきたのですが、どの女の子も、そんな山羊の悲壮な声にまったく頓着せずに、黙々と仕事をしています。そんな彼らの姿を見ていると、騒いだらいけない気がして、私も織物を続けました。内心はらはらしながらですが。

 そうしたら、男性職員達が頑丈そうな紐を片手に黒い山羊を追いかけているのが目に入りました。黒い山羊は逃げ回っていたものの男の子達につかまってしまい、足を縛られ逆さまにつるされました。その間中ずっと山羊は悲しくてたまらないという声を響かせ、そして、女の子達はそんな声なんかちっとも耳に入りませんという顔をして織物に精を出しています。そこまでくると、何が行われようとしているのか私にもわかりました。つるされた山羊の首に大きなナイフの刃を当て血を取り出したあと、地面に降ろし、熱湯をかけながら毛を削り取りました。思いもよらないほどの小さな肉の塊になりました。織り機の陰から垣間見た光景は、生まれて初めて目にするもので、びっくりすると同時に少々恐ろしく、そしてカメラを持っていない自分をののしり、でもあたりに漂っている厳粛な空気に恐れのような気持ちも抱きました。

 今日、織物ギャラリーを経営するビエンカム女史に会ったので昨日の様子のことを聞きました。

 ビエンカムのお母さん、64歳だそうですが、体調を崩していて、お医者様の処方の薬を1週間の飲みつづけているのですが、ちっとも回復の兆しがないそうです。そこで、やっぱりラオの伝統に則った儀式をしなければ駄目だわ、ということで、祈祷師のところに行きおまじないをしてもらいました。そこで病気退治の儀式をするように言われました。今これをしないとお母さんの生命は消えるでしょう、という言葉を添えられて。授かった宣託とは、山羊1匹、アヒル2羽、鶏1羽を殺め、1日お供えし、そしてみんなでいただきなさい、というものでした。この儀式をすれば、お母さんはあと7年間健康に日々を送ることが出来、そして7年経ったら水牛を生贄としてお供えしなさい、とも言われました。

 それで納得できました。昨日の女の子や男の子達のちょっと近寄りがたいが真剣な態度が。

 「お母さんの調子はどう?」と聞きましたら、「少しよくなっているの」とビエンカムが明るくほっとしたように答えてくれました。

結婚式

私が織物の授業をしているペンマイ工房で染織を担当しているキム君という青年の結婚式に招待されました。彼のことはもちろん全く知りません。なんだか変だぞ、知らない人の結婚式に出席するなんて、という気もしたのですが、どんなものなのか実際に見てみたいという誘惑に負けて出かけました。このキム君はペンマイ工房の経営者の親戚で、工房のお膳立てでの結婚式です。お嫁さんはペンマイ工房の隣にある「織物村」のお嬢さんです。
 結婚式の前日まで5日ほど雨が降ったり止んだりし、その日のお天気が心配でした。でも、朝から晴れ渡り、爽快な天気に恵まれました。
 その日も私は2時から織物に出かけました。工房の庭にはテーブルが置かれ、周りにはたくさんの椅子が並んでいます。250人招待しているそうです。ラオスでは招待客が親戚、知人を連れてくるのが当たり前なので、総勢どのくらい人が来るのかわからないので、食事などは400人分くらいは用意しているようです。織り機の前に座っているお嬢さんは一人もいません。野菜を刻んだり、スープをかきまわしたり、すいかを切ったり、それにお皿やフォークを拭きあげている人もいます。幼稚園児ならすっぽり入ってしまうほどの大きなおなべや盥ほどのおおきさのボールがごろごろしています。近所のおばさん達に指揮されながらみんなにぎやかに楽しそうにやっています。
 まずは結婚式のバーシーがあります。祈祷師がグラスのお酒をかかげ、何かごちゃごちゃ言い、そしてお婿さん、それから花嫁さんが飲み干す儀式は日本の三々九度と似ています。それから糸を手に巻きつけるときに、誰もがお金を一緒に括り付けているのが印象的でした。そして、2つの枕にも祈りの言葉が述べられました。それから彼らの寝室に皆で向かい、そこに枕をおき、その前に二人を座らせました。彼らの親戚や友人達がきゃーきゃーと大騒ぎをして、花婿さんはともかく花嫁さんは真っ赤な顔をして恥ずかしそうに下を向いていました。この寝室での冷やかしもラオスの結婚式のバーシーの大事な一幕だそうです。
 このバーシーには親戚の方々が少人数(といっても20人ほど・・?)参加しただけですが、その間に工房の庭では、7時からの結婚式の為の準備がにぎやかに楽しそうに続いていました。日が落ち、あたりが少し薄暗くなり始めますと、準備に汗を流していた男の子達や女の子達が自分達の寮に入っていきました。そして出てきたときは皆、最高のおしゃれをしていました。女の子達は艶やかな絹のシンとブラウス。長い髪はさらさらと背中に流したり、束ねた髪にはリボンが飾られていました。そして、足にはいつものゴムぞうりではなくサンダル。男の子達は長袖のシャツに長ズボン、そして革靴。最高のよそ行きの顔つきをしています。
 会場の入り口に花婿、花嫁が立ち並び、2,3人とお客様がお見えになり始めました。ここで、花嫁がお客様にウイスキーを差し出します。私もやりました、いっき飲みを。そしてハート型をした箱にお祝いを入れました。お祝いは送られてきた招待状の封筒に現金を入れるのが、ラオス式。バンドと歌手も準備OK。テーブルには料理が並べられました。結婚式のはじまりです。
 と、そのときぽつぽつと天から水滴が落ちてきました。誰もが信じられない、と呆然としました。でもそれもほんの一瞬でした。花嫁をかばう人。料理を家に運び入れる人。スピーカーを屋根の下に入れる人。そして、着飾った男の子達がテントを組み立て始めました、びっしょりになりながら。幸運にも雨は30分ほどで止みパーティーが再開されました。私はここで家に帰りましたけれど、踊ったり歌ったりと、式は11時半までにぎやかに続いたそうです。
 この式を元気に取り仕切っていたのは、ビエンカムのお母さんです。

焼畑

ラオス北部のルアンナムター市へ3泊4日の旅をしてきました。第一日目はビエンチャンから陸路ルアンプラバーン市へ。所要時間8時間。車が山間地域にかかりはじめると、木々が切り倒されて茶色く悲惨な山の一部分がちらほらと見えるようになりました。雨季を前にモン族やアカ族が焼畑つくりを始めているのでしょう。「」を英語では 「Slash and Burn」 と言います。なるほどなるほど「切り倒した」わけですね。緑豊かな山々の中にぽつん、ぽつんと垣間見られる枯れた木々に覆われた山肌は無残としかいいようのない風景です。それに気を取られていたのですが、どうもあたりにうすぼんやりとはですが、煙ったいのです。木々が燃やされているところがあるのです。長さ3メートルから4メートルもありそうな木も燃やされています。きっと、山から下ろしてどこかに運ぶ手段がないのでしょう。もったいないことです。ラオスの農林省はこの焼畑耕作を止めさせたい意向ですが、それに代わる耕地もなく、また、これらの山岳民族は低地に下りることを拒否していますので、なかなか難しい問題です。
 ルアンプラバーンで1泊し、早朝ルアンナムターに向け出発しました。山々の間をカーブにまたカーブの道を進んでいきます。一応舗装はされていますが、所々舗装がはげていて大きな窪みが出来ています。それを上手によけながら車は進んでいきます。ラオス北部は山が多いということがよくわかります。道端では村人達がたけのこを売っています。細くて短いたけのこです。
 ルアンナムターはだだっ広い道が縦に2本走る小さな町。25年前の革命時に街が破壊されたので、ソ連によって新しい町作りがされたそう。自転車か歩きかで移動している人が多いので、この無味乾燥なだだっ広さが気の毒になってしまいます。この地域の半数ほどはモン族、アカ族、ランテン族などの少数山岳民族。それぞれ民族衣装を着て街を歩いています。アカ族は独特の髪飾りをつけています。ランテン族は藍染めのシャツとスカートを着、脚には白くて脚半にそっくりのものが巻かれていています。それに眉毛を剃った女性達がいます。結婚している女性だそうです。
 その晩は、モン族が作った陸稲米をいただきました。思いもよらずおいしくてびっくり。そしてたけのこの料理もありました。たけのこはとっても柔らかいのですが、でもその苦いこと。11月頃に取れるたけのこは苦味がないそうですが、この時期のたけのこはにがいそうです。苦味のあるたけのこをはじめていただきました。これらのたけのこは中国からの商人に安く買い叩かれてしまうそうです。
 ルアンナムターでは保護林地区の11キロコースのトレッキングをしました。ラオ人のガイドに従って歩いていきます。その彼の歩くの早いこと。足にはゴムぞうり。「せめて、スニーカーでもはかせたほうがいいと思うけれど・・?」とガイドの訓練をしている人に聞きましたら、ガイドが嫌がったそうです。子供の頃から慣れ親しんでいるゴムぞうりが一番ということでしょう。それに、蛭などが足についたらすぐにわかっていいとも言っていました。トレッキングコース内には浅瀬があり狭いのですが川を渡らなければなりませんでしたけれど、彼一人涼しい顔をしてゴムぞうりでばしゃばしゃと川を歩いて行きました。私達はというと、靴を脱いで靴下を取って、靴を肩にかけ、川を渡り、そしてまた靴下、靴・・・、と面倒なことをしなければなりませんでした。林の中には野生のラン、赤の染料になる木の根、籐家具用の籐、それに胃腸や切り傷に良い薬草など珍しいものがたくさんありました。
 帰りはルアンプラバーンから飛行機。ビエンチャンまでたったの35分でした。

水の儀式

ソンクラーンという水の儀式をお正月としてお祝いします。一日目は日本の大晦日に良く似ていて、家やきれいにします。翌日は休息の日です。労働をしてはいけないそうです。そして、仏像に水をかけて清めます。最後の二日は親戚や上司の元にあいさつに出向きます。そして、日長一日酒盛りをするようです。
 この仏像を清めることが一般風俗化し、人々は水をかけ合って楽しみます。子供達はバケツに水をため、道端で自転車やオートバイを待ち構えます。一年で一番暑いこの時期、そんなお遊びで暑さを忘れようとしているのかもしれません。 わんぱくな子供達はあさってまで待ちきれないのか、水鉄砲で水をかけあっていました。
 私の織物の先生のトイちゃんも明日から1週間の予定でバンビエンのお家に帰るそうです。お正月は家族で過ごすものと多くのラオス人も考えているようで、バスが混んで大変そうだと言っていました。  このラオスのお正月‘ピーマイ’を今年は見ることが出来ません。明日から10日間の予定で日本に出かけますので。

ロケット祭り

4月13,14,15,16とピーマイというラオスのお正月のお祝いが終わると、ブング・バン・ファイというロケット祭りがラオスの村々で始まります。先週の日曜日には我が家から25kmの村でロケット祭りがあると言うので出かけました。
 ロケット? そうなのです。長い竹の棒に火薬を詰めた円筒を加えつけ、空に放します。かなりたくさんの火薬を詰めてあるのか空高く盛大に飛ばされていました。村では親戚や友人達が集まって僧侶の指導のもとにロケット作ります。一番空高く、見事に飛んだロケットにご褒美が出るそうなので、皆真剣に作ったのでしょう。そして、当日はロケット掲げた人を中心に村人達が村を練り歩きます。みんな変な格好をするんですよ。男性がお化粧をして女装をしたり。女性が男性のものの大型模型を振り回したり・・・。太鼓やシンバルのようなものを耳が痛くなるほどたたいたり。
 どうして、と思いますよね。これは雨乞いの儀式なのです。男女が変な格好をして雨の精を怒らせて雨を降らせようという魂胆なのです。怒らせるだけでは十分でないと考えるのか、ロケットも打ち上げてびっくりさせようというのでしょう。そして、稲の植付けのために農民達が待ち望んでいる雨を降らせてもらおう、という伝統的な儀式なのです。
 その村の会場は、ジュースやビール、果物を売る屋台、ソーセージやラオ式焼き鳥を焼いている屋台が所狭しと並び、日本のお祭りの時とそっくりです。会場の片隅にはバンドもいて、ラオ民謡にあわせて、みんな楽しそうに踊っています。そして、広場には5mもありそうな竹製のロケット発火所があり、次々にロケットが打ち上げられています。打ち上げに失敗するロケットも多くて、ちょっと気の毒。そして、中年のおばさん達がビール瓶片手にお店を冷やかしています。あんな元気で豪快な小母さんたちを見かけたのは初めてです。小母さんたちだけでなく、おじさんたちもラオラオという地酒やラオビールをたらふく飲んでいるようです。
 私達は30分ほどしかそこにはいませんでした。翌日、主人の事務所のラオス人たちもこの村に行っていたことがわかりました。彼らは5時ごろに出かけ、何と家に帰ったのは、・・・朝の4時!! 村人と飲めや歌え、踊れの大騒ぎをしてきたそうです。主人は欠勤しなかったのは偉い・・・、なんて感心していました。それにしても、ラオ人はお酒が好きだし、そして騒ぐのが好きですね。女性も一緒のところがいいなあ、と思います。
 お祭りの3日後に雨が降りました。でも、今年は雨が来るのが遅いようです。

事故

4月の半ばに10日間ほど日本へ行きビエンチャンに戻ってからは織物工房に通う毎日でした。ある日のこと、5時頃でしょうか工房を出て家に向かって車を走らせていました。子供が3人、道で遊んでいるのが見えたので、気をつけて運転しなければと思い、ゆっくりと進んでいきましたら、「ぎゃー」という子供の泣き声が聞こえました。何かを踏んだ感触はないので、変だな、と思うものの、私は車を止めて飛び出しました。そこで私が見たのは、足を怪我して道に座り込んで泣いている子供でした。とっさに私が事故を起こしたと思い、その状況を唖然とした面持ちで眺めている人たちにつたないラオス語で「警察を呼んで欲しい」叫びました。「私の車がひいたのか」とも聞きましたけれど、でも、誰も何の反応もしてくれません。何か変だな、ちょっとおかしいなあ・・・と冷静な部分の私はささやいているのですが、病院には連れて行かないと、と思い、そこへやってきた少年のお父さんと二人を車に乗せ病院へと向かいました。
 私が連れて行った病院は外科の設備がないので、そこで傷口を洗い、痛み止めの注射をしてもらいました。そこで、彼の傷を見て、なんでこんなに乾いているんだろう、と疑問が生まれました。傷は右足のくるぶしの下の5センチほどの皮膚が甲の方向にむけていて、血も出ていません。そこから外科に専門病院に行き、そこで傷を縫い合わせました。ラオスの病院へははじめて行ったのですが、あまりの薄汚さにびっくりしました。器具も余りありません。受付もなければ、待合室もありません。手術の前にレントゲンを取るはずでしたが、技術者が見つからないので、手術後になりました。この頃には主人も彼のラオス人の秘書を連れて来てくれていて、治療費は保険でカバーされるとわかりました。レントゲンの結果では骨には異常がないこともわかり安心しましたが、2週間ほどの入院が必要だそうです。ここで、ひとつびっくりしたのは、この11歳の少年のお母さんが夕食をぱくついていたことです。
 翌日、買い物へ行くために主人が運転する車に乗っていて、はっと思うことがありました。私の車は4Wドライブ車でタイヤも太いのです。彼の足の傷はくるぶしから下5センチだけで、他の部分はかすり傷も無いのです。タイヤが彼の皮膚をえぐったのなら、なぜ、指先は無傷なのかしら。それに傷は右足で車の運転方向考えると私の車に面と向かっていたはずなのです。もし、私の車がひいたのなら、かれの足がどのようにぶつかったのかしら・・と疑問がわいてきました。自分の足をいろいろな角度に置いて事故のことを想像したのですが、どうしても変なのです。
 翌日保険会社に事故の報告に出かけました。係員は、骨に異常がないことに不可思議そうな顔をしていました。手術をしたお医者にいろいろ聞いてみましょう、ということでした。そして、保険会社が調べた結果は、「事故」。私がおこした事故でない、とすれば治療費は自分で負担するしかない訳ですから、当然かもしれません。子供もその親御さんもやせていて、とっても貧しそうなのです。お医者様が同情するのもうなずけます。同じラオス人ですから。真実の解明は不可能のようです。ただ、保険会社によるとこの手の事故、外国人相手に故意にやったとしか思えないもの、が最近多いそうで、それを聞いて、「このラオスで・・・」と驚きの気持ちと悲しい思いが私の心に広がっていきました。だた、今願うのは彼の早期の回復と、そして、これが大事なのですけれど、彼らが今後何も要求してこない事です。東洋人の私がなぜ外国人と見られたかと言う疑問がおこりますでしょう? ラオスでは外国人、ラオス人、政府関係、そして軍関係等とそれぞれナンバー・プレートの色が違うのです。 

泥棒

私がボストンに住む子供たちに会いに行っている間にちょっと事件らしきことがありました。それは外国人が泥棒の被害に多くあっていること。この平和なのんびりとした街ではちょっと信じられない出来事です。今まで泥棒の被害が無かったわけではないのですが、留守中に失敬するという空き巣がほとんどでした。しかし昨今の場合は、居住者がいる明け方に忍び込み、ナイフを突きつけられたりしたそうです。実際私の友人の若い日本人女性は、仕事(?)に疲れて洋服のままベッドに倒れこんでいたら、蚊に刺されて、「あー、痒いなあ。薬をつけなくちゃ」と思い、電気をつけたそうです。そこで彼女が目にしたのは、男。若いのか年を取っているのか、そこまではっきり見なかったようですが、言葉に表せないほどのショックを受けました、もちろん。賊は彼女が目を覚ましたのであわてたのでしょうか、そのまま退散したのは、本当に本当に幸いなことでした。我が家も盗難予防のためにアラームを取り付けたり、塀を高くしたりしました。 話は変わって。
 今年はじめにビエンチャンではじめての超高級マンションが完成し、居住者を募っていました。プール、テニスコートが完備した見た目もおしゃれなアパートなのですが、お値段もこのビエンチャンでは目が飛び出るほどお高いのです。私の家は、(もちろんプールもありませんけれど)3つの寝室があり、庭もかなり広く、1ヶ月500ドル。かのアパートは2寝室タイプが2,500ドル。ワンルームタイプでさえ1,000ドルとか。そこで経営者は家賃を30%近く下げたのですが、やっぱり入居者が集まらなかったそうです。
 しかし、現在は空室が10%ほどに減りました。泥棒多発を目の当たりにした外国人達が我先にと警備のしっかりしているアパートに殺到したのです。そこでビエンチャンの外国人の間ではこんな噂が飛び交います。「この泥棒騒動は経営者が仕組んだ?」 それというのも、この2,3ヶ月は、泥棒事件は起こっていないのですから。さて、真相のほどは・・・?

お参り

     もう、夜9時を過ぎたというのに、近くのお寺からは訓話らしきものが聞こえてきます。付近一帯にお説教をたれようと言うのか、大きなスピーカーを取り付けて迫力があります。何を話しているのかちんぷんかんぷんだけれど、のんびりと話す様は、まるで私の祖父が昔話を話してくれた情景を思い出させます。今日は満月で、小乗仏教では大事な宗教行事日。人々がお寺にお参りに行く日。
 私はお供え物のもち米や花、果物を用意をしていなかったので、お参りはあきらめたものの、お寺の様子を眺めに行くことにした。まず我が家から歩いて50mのお寺に。そうほとんど斜め前にあるお寺。境内にいるのは野良犬ばかりだけれど、庭には茣蓙が敷かれ、マイクの準備もされています。それから反対方向に100m行ったところにあるナック寺に。このお寺がこの地区の代表的お寺。お線香をあげたり、花をそなえたりしている年配の方が3人。お坊さんが手に本を持って出てきて、「一緒にご飯をたべませんか・・?」と誘ってくださる。何を食べさせられるか、ちょっと心配なので、「残念ながら・・・」とか言いながら歩き続け、それからまた500mほど離れたシーアンポンお寺に。ここにはきれいに着飾った若い女性がかなり集まっています。きらびやかなシンのスカートをまとっています。注意してみると、カメラを首から下げた若い男性が何人かいるのです。その1人が女性4人のグループとごそごそ話していたと思ったら、女性達を並ばせて写真を撮り始めました。彼らは写真屋なんですね。観光地や大事な仏教行事の日に記念写真を撮る職業。うろうろしていた訳です。今まで彼らの存在に気が付かなかったのは、彼らが私達旅行者に全く無関心だからですね。カメラを持ってない観光客などいませんものね。話しかけてこないわけです。ラオスではカメラを持っているのはお金持ちなので、もし記念写真が欲しければ、業者に頼むしかないんでしょうね。そういえばベトナムを旅行したときに、同じようなカメラマン達を見かけた気がします。
 小乗仏教では、女性は得度することは出来ません。離婚して住む場所が無くなり寺で生活する女性や、仏教の取得をめざし、僧侶から教えを受ける女性もいますが、男性のように厳密な戒律を守り修行することは認められていません。ですから、女性はこのような日にお寺にお参りし、僧侶に施すことにより徳を積みます。そのせいかお寺に来ているのは結婚前の若い女性からお年寄りまで10人中9人まで女性です。ラオスでは、女性達が仏教を支えていることがよくわかります。追:
 私のアメリカに行っていた間に、他の日本人友人宅にも泥棒が入ったことを知りました。彼女もご主人も寝室に鍵をかけて熟睡していました。彼女は何か木がバリバリと剥がされる音を、「何の音かしら・・・」と夢うつつに聞いた記憶があるそうです。そして、朝起きてびっくり。窓の鉄格子がはずされ(これはねじ回しを使ってはずしてありました)、泥棒に入られたことを発見。まずは書斎にある2台のコンピューターをチェック。「絶対にやられているぞ!」とあきらめながら見に行ったら、何と2台とも無事。カメラや電気製品も無事。

そこで何が盗まれたのか調べてみると・・・
懐中電灯
帽子
ドライバー(彼らの持っている中での最上品)
軍手

さてさて、一体これはどういうことでしょうか?

メコン川沿い

ラオス南部のメコン川沿いの町々を訪ねてきました。
 ビエンチャンから車で5時間ほどの町はターケーク。フランス植民地時代の建物がメコン川沿いに立ち並んでいます。でも手を入れずに、朽ちるにまかせている様は残念です。川べりのレストランでタイ側の近代的コンクリートの建物を眺めながら食事。テレビではタイのお笑いショーが流れています。日本の番組とそっくり。ターケークではラオ・テレビは受信出来ないんですって。見られるのはタイ放送だけ。
 そこから途中信じられないくらいの悪道に時々天井に頭をぶつけながら6時間、ビエンチャンに次ぐラオスの人口第2の都市パクセーに到着。日本のODAで建設された橋を歩きました。私は初めて訪れた町を歩いてみるのが好きですけれど、ラオス人は街をぶらぶら歩いていないですね。自転車に乗るかオートバイ。この時も橋を歩いていたのは私と主人だけ。自転車で通り過ぎるラオの若者たちがあきれたように眺めていましたっけ。
 その翌日にはその橋をわたり40キロほど山間の道を進みタイとの国境に。ラオス人もタイ人も身分証明書なんて調べもせずに、竹製の簡単なフェンスを押したり引いたりして、国境を行ったり来たりしています。私たちはラオ政府の役人が一緒だったので、書類チェックなしでパス。ラオス側では、農家のおばさんらしき人が道にどかっと座り込んで、かごに入れてインコのような綺麗な鳥を売っています。道にござを広げ、山で取れたばかりの細いたけのこを売っている人もいます。タイ側は、テントで屋根をおおったこぎれいなお店が次から次へと並んでいます。お惣菜や野菜・果物屋、洋服屋の他におもちゃやもあるし、音楽テープを扱っているお店もあります。ラオ政府は、ラオス人がタイへ買い出しに行くことを抑制する為に、一回の買い物では約2000円までという規則を作ったそうだけれど、こんなに簡単に買い物にいけるし、タイの品質がよく、種類も豊富で、それに何と言ってもお値段も安いとなれば、買いに行くな、というほうが無理というものですね。タイからの果物・野菜の密輸入も国家財政収入の道をふさいでいると、密輸取り締まりを徹底させているらしいけれど、これもご苦労な話。ラオスとタイ国境を分かつメコンは長いし、小さなボートを音も無く漕ぎ出すのは訳もないことのように思えます。
 翌日はボロベン高原へ。フランス植民地時代に、コーヒー、ゴムの木、バナナなどが栽培されていたのですが、ラオス独立後は荒れたままに放置。でも最近コーヒーの栽培が再開されおいしいコーヒーが、フランスへ輸出されています。コーヒーのパッケージで見られるような広大なコーヒー園を想像していたのですが、そこではコーヒーの木は高床式のラオ家屋の周りに無造作に植えられているものでした。青い硬そうなコーヒー豆が木々にぶらさがっていました。赤く色づいたらきれいでしょうね。
 パクセーから2時間ほど南に下がりコーンの滝を見物に。この付近のメコン川はいくつにも分かれたたくさんの島が点在してるらしい。その4000はあるという島の間を大小の滝が落ちているそうです。コーンの滝はその中でも大きい。川はこんな下流なのに流れはとっても激しい。雨季で雨量が多く、水しぶきを上げながら流れ落ちています。その渦巻くような流れの下には大きな岩がごつごつしています。この滝群のために船の行く手を阻まれて、ラオスの人々は海に出て行けなかったんですね。
 近くのチャンパサックにはアンコールワットより古いという寺院ワット・プーがあります。そこへはフェリーでメコンを渡らなければなりません。フェリーの時刻表が無いのはわかるけれど、一日に何回往復するのかさえ渡し場の村の人々は知らないらしい。どうもフェリーに車と人、物を積めるだけ積むまで出発しないらしい。それにメコンの水量が増えている時期なので、フェリーの渡河自体少ないらしい。今回は悠長なことにお付き合いする時間的余裕が無いので、残念ながら訪問断念。また次のお楽しみ。
 最後はサバンナケートへ。これといった観光見物をするところも無いので街一番の市場へ。たくさんのベトナム製品がある。ベトナム人も多いそう。それに多いのがホモの男の子。きれいにお化粧をして髪も長めでポニーテールにしていたり。でもはっきりと男の子とわかるんです。なんでも街にはおかまちゃんだけでやっているレストランがあるとか。
 この市場では一つびっくりすることを見ました。丁度私がお蕎麦屋さんの屋台の前を通りかかった時です。お蕎麦屋のおばさんがびっくりするほど大きな声で怒鳴りながらテーブルの上のどんぶりの中身を店の前の通りに放り投げたのです。そして、それ以上の大声で、「ベトナム・・・・?」とわめきながらお金を道に投げつけました。若い女の子があわてて立ち去って行くのがちらっと見えました。おばさんは気がおさまらないのか、しばらくぶつぶつ言っていましたけれど、他のお店の人や買い物客は何も無かったようにしていました。誰もお金には見向きもしません。あのお金は、誰がどうするんだろう・・、と興味津々で、しばらくそこにいたのですが、お金は依然として道真ん中に。でも、私が他の場所を探索して戻った時には、お金が消えていました。ラオスでの生活をはじめて以来、あんなに感情を爆発している人を見たのは初めてで、びっくりしました。と同時に何だかほっとした気もしました。

雨

     寒いなあ。肌がヒヤッとする。ラオスでの私の日常着、半そでシャツとバミューダ・パンツじゃ駄目だ。それに雨。おとといから降ったりやんだり。オートバイのラオ人たちはごっついジャンパーを着て、毛糸の帽子をかぶっています。オートバイ出勤のシモンちゃんは、今朝は「おおー、寒い」と言いながら、我が家に入ってきました。頬が赤くなっていました。我家の室内の温度計は20度でした。いつもはテラスで取る朝食を今朝は室内でしました。
 11月の半ばに雨が降るのはシモンおばさんが初めて経験するとか。9月末か10月はじめに雨季が終わりを告げると、翌年の3月ころにマンゴー・レインが降るまで、雨が一滴も降らないこの地では、今年の現象は異常中の異常。といっても、気象庁のないラオスのことですから、本当のところはわかりませんけれどね。おととしの冬はとっても寒く、日中の気温が15度ほどまでしか上がらず、セーターどころかスキージャケットでも着るようなことになるとは思いも寄らなかった外国人たちは、寒さに震えて一週間ほど過ごしたそうですが、今年もそのようになるかもしれませんね。そういう私も冬物はセーター1枚しか持ってきていないので、ちょっと心配です。
 この寒さのせいか風邪が大流行です。竹を割って板状にしたものを壁に、屋根をバナナの葉で編んだものを使った家に住んでいるラオ人も多いのですが、そんな人たちは私などよりもっと寒くて困っているかもしれません。毛布なども持っていないでしょうし。世界的異常気象もラオスにもちゃんとやってきているようです。
 このごろシモンちゃんがのんびりゆったりと仕事をしているようなので、どうしたのか、と聞いてみました。この9月からお嬢さんが大学1年生になり、家事を全て彼女に任せるようにしたので、自分は暇になった・・・、と言うのです。「彼女は勉強に忙しいんじゃないの?」と聞いたら、「まあ、そうだけれど、学校は午後に行くだけだから」という返事。掃除・洗濯に買物・料理。特に料理に関しては、彼女は全く手伝わないそうです。「自分も若いころは、兄弟の為に働いたから」と当然のことのように言います。花嫁修業をさせているのかもしれません。それでも、先日彼女にオートバイを買ってあげたそうです。
 オートバイといえば、今年前半期のヴィエンチャン市内の交通事故の記事を読みました。(英語ですよ)約2,500事故件数のうち、オートバイにまつわるものがそのうちの75%。そして、そのうちの80%が無免許の運転です。びっくりでしょう? 私も運転にはずいぶん慣れてきましたけれど、それでものろのろ行く自転車にため息をつき、道のど真ん中を我が物顔に走るオートバイにいらいらし、暴走族並のスピードで走り抜けるオートバイに冷っとし、小さくなって運転しています。最近は女性ドライバーが増え危険極まりない感じです。彼女たちは運転技術もお粗末だし、交通規則もきちんと体得してない、とはわがだんなの言。何十年前かの日本のようだ・・・などと言っています。 

バザー

朝は寝床から抜け出すのがちょっとつらいような寒さのビエンチャンです。先回お送りした気候状況は短期的なものではなかったようです。おととしはかなり寒くなり、山岳地に住まう人々の中には凍死した人もいたとか。この寒さでラオス人が一番困るのが、お風呂だそうです。普通のラオス人の家には湯沸かし器などありません。水でざぶざぶやるのですが、髪を洗うのは水だと大変ですよね、この気温では。風邪ひきが多くなるのがうなずけます。 
 UNDPという国連組織に働く男性がとんだ目にあいました。友人の送別会に行き、ワインをたくさん頂いて土曜日の朝の3時ごろ家に戻った時に携帯電話を落としたらしいことを、朝、目を覚まして気がつきました。そこで携帯に電話を入れてみますと、何と応答があるではありませんか。ご近所の方(大きな家に住んでいる方です)が見つけたそうです。「あー、よかった、よかった」とほっとしたのもつかの間、相手は{保管料}として、2500バーツ(約5,000円)を要求してきたそうです。2500バーツはこちらではちょっとやそっとの金額ではありません。彼はそこで怒りがこみ上げてきて「警察に行こう」とどなったそうです。もちろん相手は応じるわけがありませんよね。彼の借家の大家さんか警察をで月曜日に話をつけようと電話を切ったそうです。100、とか200バーツなら「どうもありがとう」で済ませたのに、あまりにも居丈高な要求に腹がたったそうです。2500バーツ払うなら、2万円の携帯電話を失っても惜しくない、と怒っていました。この話を聞いて、私も「かわいくなーい」と腹立たしく思いました。 
 昨日は、Woman's International Group 主催のバザーがありました。ラオス日本人会として初参加し、古着や雑貨・本を売る店とゲームコーナーの出店をしました。私たちグループは、9時ごろに到着し、10時開始に向けて準備をはじめました。物を並べ始めますと、ラオス人たちが寄ってきて、手にとって広げたりひっくり返したりし始めました。「触らないで、見るだけ」と最初はにこっとしながら言っていましたけれど、それでもちっとも効き目がないので、びっくり。「えっ、今日のラオス人は何だ・・・?」と違和感を感じました。人が集まっていると、また人が寄ってくるんですね。私たちのテーブルの周りは9時半には黒山の人だかりになってしまいました。そして、10時になると自分の目の前にある品物を両手にわっと抱え、10分後には全ての古着が消えました。1/3ほどの代金は回収できなかったと思います。 くやしーい、残念。 「微笑みの国;ラオス」の人々が、物と欲に目の色が変わった瞬間でした。 
 でも、いいこともありました。子供の雑誌などを売ったのですが、これらは日本語を勉強している若い男女が買っていきました。そして、それらを買った皆さんが、「これ下さい」「いくらですか」と日本語を話していました。一人の若い女性は、「この本には漢字が多い、フー」といいながら、東野圭吾作の本を手に取っていましたけれど、やっぱり買っていきました。 
 ゲーム・コーナーでは、輪投げとヨーヨー釣りをしました。輪投げは、おもちゃを並べて、輪に入れたらおもちゃがもらえるという方法にしました。ある一人の青年は何回もやりに来ました。それというのも彼は日本語を勉強していて、景品の日本のポップ音楽のテープが欲しいという熱い思いがあるのです。合計4回やって3本のテープをめでたく手に入れました。テープが輪に入れられた時は、みんなで拍手喝さいです。テープは不良品じゃなかったでしょうね、と今頃になって心配になってきました。

パーティー  5月27日

     新年を前にビエンチャンの市場は人々で賑わっています。といってもラオ正月は4月でこの時期にはラオ伝統のお祝いは何もないのですが。昨日は、おばあちゃんが上に羽織っていたセーターをがばっと持ち上げて、中から袋のようなものを取り出しているのを、何をしているんだろう・・・と見とれてしまいました。丁度信号待ちで、隣に止まったツクツクに乗っていたのでした。中から袋を出してその中のお金(かなり分厚かったですよ)を取り出して数え、また大事に袋にしまいこみセーターをおろし、そこでにっこりしていました。とてもかわいい笑顔でした。お買い物にでかけるのでしょうか?
 昨日の新聞には、こんな記事が出ていました。大晦日のパーティーは1:00まで終えること、と。実はクリスマス頃から私たち家族は寝不足気味です。隣近所のラオ人たちが毎晩のようにパーティーをしているのです。地酒のラオハイ(アルコール度は、35~60度といろいろ)やラオビールを飲みながらの食事が終わると、歌と踊りが始まります。パーティーは屋外で行われ、大きなスピーカーを取り付けてカラオケ大会のような騒ぎが12時頃まで続きます。その頃になると歌う人たちのアルコール消費量はかなりのものでしょうし、それに疲れもあると思いますが、かなり音の外れた、聞くに堪えない歌になっているのです。この騒ぎを取り締まる法律はないらしく、私たちはただ、じっと耐えるのみなのです。さて、大晦日はどうなるでしょう?政府の言いつけどおりにラオ人はするでしょうか?

マンゴー 6月3日

今朝は明け方のかみなりの音で目が覚めました。去年よりも早いマンゴー・レインの訪れです。
 私の家の庭には大きなマンゴーの木があり、1月末から溢れるばかりに花を咲かせはじめました。去年からの涼しい気候が幸いしたのか、どうも今年はマンゴーの実りがとてもよいようです。ヴィエンチャンの町を走り抜けると緑の実をたわわに実らせた、たくさんのマンゴーの木が垣間見られます。
 先週の日曜日には4年ぶりにラオ国会議員の選挙がありました。庭師のプービアンの出勤時間は7:30なのですが、ちょっと遅れると言います。投票に行かなければいけないと、言うのです。この話をシモンおばさんの英語の説明で聞いたのですが、シモンは投票という英語を知らず、一生懸命説明してくれました。「日本にもあると思うけれど、みんなが行ってやらなければいけないこと」と言います。そんなものは日本にはない・・と思うと、彼女が何を意味しているのかちんぷんかんぷんでした。あーだこーだ、といろいろ言い合って、やっと選挙ということが分かりました。彼女は投票は必ずしなければいけないこと、と信じているのです。
 我家の近くに投票所がありました。入口には銃を持った警官が見張っていました。銃を持っている警官を見たのは初めてでした。写真撮影はもちろん禁止。中を覗きたいのを我慢しました。ヴィエンチャン唯一の英字新聞の選挙の記事によると、なんと投票率は100%。109の議席に169人立候補し、そのうちのたった一人がラオ共産党以外の人だったそうです。今回の立候補者のうち20%が女性で、64%が大学教育を受けた人ということです。若い世代との交代を目指した選挙ということですが、実際には議員が若年層になったところで、今までとそうかわらないだろう、というのがBBCなどの予想です。この国が共産党支配の国だということは、毎日の生活では感じることもなく、今度の選挙で改めて思い出した感じです。
 昨日は満月の日でした。小乗仏教では満月の日はお寺にお参りに行きます。この日には御利益が多いと評判のお寺や、大きな市場には花屋さんの屋台が並びます。濃いオレンジ色のマリーゴールドや白、黄、赤などの菊などです。小鳥が2,3入った小さな虫かごも売られています。鳥がその人の苦労や悲しみを空に持ち去ってくれる、という思いから人々の間に広まったおまじないのようなもののようです。
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ラオニューイアー

今朝は、6時ごろから勢いの良い雨が降り始めました。赤土のほこりにまみれていた木々がみずみずしさを取り戻していきます。どうも例年より早い雨季の始まりのようです。
 明日15日から3日間はソンクランといわれるピーマイ(ラオニューイアー)です。
 この新年のお祝いは、第一日目に、先祖の霊がその家から出て行くので、家中をきれいにします。2日目は、中休みの日。最後の日は、新しい霊をお迎えする日です。この日には仏像を清める為に水をかけたり、仏像のみならず、位の高いお坊さんの手にも水をかけ、そして、家庭では、家族の若い人たちが一番年上の人が合わせた両手に水を注ぎ、敬う気持ちを表します。ラオスのなかではルアン・プラバンが伝統に則った行事が行われ、ラオスの人々が大勢集まるそうです。私たちが1週間前に出かけようかと計画を立て始めた時は、ホテル、ゲストハウスは全てふさがっていました。
 ラオ新年は15日からというのですが、政府の発表では13日からラオ新年を祝う、と言うわけで、13日はラオス第一の祭日をラオスの人々はどのようにお祝いするのかと、さっそく街に見物に行きました。小さなプラスチックのバケツを持ちお寺に入っていく人々がいます。どうもお寺から僧侶により清められた水を貰ってくるようです。町には水浸しになった人たちがいる箇所がいくつも見られました。機関銃のような水鉄砲を構えている10歳くらいの子供たちグループのところ。農薬をまく機械と同じスタイルのプラスチックのタンクを背負い、細長いホースを上に下に動かしているティーンの男女がかたまっているところ。自転車・オートバイや車の荷台に載った人々めがけて、水を浴びせかけています。色水をかけてるいたずら好きもいます。竹のベンチで道を通せんぼして、水をかけまくろう、というお兄さんたちもいました。
 やれやれ。
 ソンクランというのは水の儀式。仏像を清める行事がいつの間にか、みんなで水をかけあう馬鹿騒ぎになっているようです。「水は豊かさをもたらす天の恵み。そんな水をかけられることは何より幸運なこと」とみんな我を忘れて水かけに興ずるのでしょう。ラオスでは4月が1年のうちでいちばん暑いとき。暑気払いには、水がいちばん。なんと上手く出来ていますねえ。
 私たちは車に乗り、窓をぴしゃりと締め切っていたので、水の被害はなし。窓を開けてくれまいかなあ、と言わんばかりの顔で、水軍団たちは私の車を見送ってくれました。
(写真を撮りたかったのですが、外に出ることさえかなり危険な感じでした)
 そして夕方からはどこからともなく歌声が聞こえてきました。またまたご近所のラオス家庭で、飲めや歌え、踊れのお祭りが始まったようです。ラオスの人たちは本当にパーティー好き。そして毎日のようにパーティーのはしごをするそうですよ。
 マンゴーの収穫が始まりました。毎日40から50くらい木から落ちているでしょうか? 甘くておいしいですよ。庭師のプービアンやガードマン達に上げたり、シモンちゃんがジュースにしてくれますが、とても食べ切れません。人に差し上げたくても、シモンの家にも大きな木があるというし、主人の事務所の人々の庭にもマンゴーが実っているとか。
 門の外に並べておいて、通行人に持っていってもらうようにでもしようかしら追記:
夕方からまた雨が降り始めました。「何でー。雨なんか降ってきて・・・!!」と悪態をついている子供たち   がきっとたくさんいるんだろうなあ。

交通事故

ラオ正月が終わりました。その間はラオス唯一の英字新聞もお休みでした。私は早く新聞が出ないものかと、待っていました。というのは、新年のお祭りの間の交通事故の様子の記事を読みたかったからです。
 ビエンチャン市内の人口は30万人ほど。12日から16日までの間に事故数が71件。けが人は99人。そのうち6人が死亡。原因? よっぱらい運転と若い青年たちのスピードの出しすぎ。死亡したのはみんなオートバイを運転した若い青年たち。去年の事故件数は40件。死亡は3人。死亡者はすべて若者でした。
 私が運転していてひやっとするのは、めちゃくちゃにスピードをだすオートバイ。シャツがパンパンに風で膨らんでいるのを見るだけで、恐ろしくなります。それにもう一つあります。私が、ウインカーを出して、左折しようとして前方からの対向車が途切れるのを伺っているのに、左側をものすごい勢いで走り抜けるオートバイ。これがすごく数多いんです。先日は金髪のお兄さんも私の横を走り去ったので、「郷に入れば郷に従え」かしら・・・、とちょっと唖然としました。そうそう、あともうひとつすごく腹が立つことがあります。私はお年寄りや子供たちが道を渡ろうとしているのを見ると、スピードを落として止まろうとします。そこで、待っていた子供が一歩踏み出そうとすると、私の後ろから来た車やオートバイがさーっと走り抜けるのです。そんなことが3回ほど続き、そんな親切はこの国ではやっていけないことと思い当たりました。私の車が止まったと思って、通行人が道に踏み出したら、後ろからきた車にはねられた、なんてことになりかねませんもの。親切が仇になる、の図ですよね。車もオートバイも増える勢いは目を見張るものがあります。早く交通規則をきちんとすれば良いのに。
 お手伝いのシモンおばさんには16歳の息子さんがいますが、彼も年末のクリスマスの頃に彼のお姉さんのオートバイに乗っていて、スピードの出しすぎで転倒。全身打撲の怪我だけですんでよかったのですが、彼はまた先日事故を起こしました。今度はおばさんのオートバイで転倒。やっぱりスピードの出しすぎ。今回も打撲だけで済んでよかったですよ、全く。
 ところで、タイも正月はラオスと同じ時期、同じようにお祝いするのですが、こちらの交通事故数がすごいです。タイ全土で11日から17日までに、死亡数はなんと564人。けが人は37,473人。事故の原因は酔っ払い運転ですね。11日早朝から14日までの間には、1時間に3人の割りで死亡者が出た勘定だそうです。

ジャカルタ

ビエンチャンは雨季の真っ盛りです。そして、雨季には泥棒も多くなるそうです。激しい雨の音が、泥棒の家屋への侵入を簡単にしているようです。
 ながらく皆様に読んでいただいていたこのラオス便りもここで一区切りです。ラオス勤務を始めて2年を過ぎ、やっとラオ風生活にも慣れてきたところなのに、主人の転勤命令が届きました。7月1日からジャカルタでの生活が始まりました。
 中学生の社会の時間に、ジャカルタは世界一人口密度の高い街、と習った記憶があって、これは大変なところへ行くことになったな、と思っています。人口30万のビエンチャンの街でのんびりゆったり、人と肩をぶつけて歩くこともない毎日で、きっと大都会での生活能力がすごく落ちているんではないかしら。日本に帰った時には、2週間もすると日本の混雑さに疲れて、早くビエンチャンに帰りたくなっていた自分を思うと、心新たにして新しい街での生活をはじめなければ、と思います。
 1万7千もの島からなるというインドネシアは、いくつもの種族に分かれるマレー系や中国系と、いろいろな民族が生活する魅力に満ちあふれている国。この際、「暑いのは嫌い」なんていってないで、新しい国を探検する気持ちで出かけることにしましょう。暑さには、ここビエンチャンでずいぶん鍛えられた気がするし。
 といっても、後ろ髪を引かれる思いは強く、そんな私のセンチメンタルな感傷を、織物工房での奮闘記に織り込んで、お届けしようかと考えています。
 木々を打つ柔らかくて、耳に心地よい雨の音。
 夜が明ける頃、ピュチュピュチュとさえずる小鳥たち。
 庭の花々の間を、色鮮やかな羽をひらひらさせて踊っている蝶。
 自然の暖かさ、美しさに囲まれた2年間のラオス生活でした。