カッパドキアで謎の地下都市が新発見
大地舜
(雑誌「ムー」掲載・2016年二月号)
世界最大の地下都市 トルコの世界遺産カッパドキアといえば、妖精の煙突と呼ばれる奇岩や謎の地下都市で有名だ。奇岩は自然の産物で謎はない。だが地下都市は謎だらけだ。誰が何の目的で、いつごろ造ったのかが不明なのだ。そこで二〇一三年に、公開されている五つの地下都市を探訪した。 カッパドキア地方の地下の巨大な住居跡は二五〇ほどあるが、ほとんどは二〜三家族用だ。だが、地下三階以上の地下都市といえる規模の大構造物も四〇ほどある。その中で最大の地下都市はデリンクユだ。広さは四平方キロに広がり、八階建ての地下都市の深さは八五メートルある。地下都市の発掘において中心的役割をはたしてきた考古学者で詩人のウメル・デミル氏の著書『地下のカッパドキア』(二〇〇九年刊)によると地下都市デリンクユに住めるのは二〇〇〇家族、一万人だという。 ところが二〇一四年の終わりに、さらに大きな地下都市が発見された。この地下都市に名前はついていないが、デリンクユの北二九キロにあるカッパドキアの県庁所在地ネブシェヒル市にある。ネブシェヒル大学の物理探査(地震波トモグラフィーなど)調査によると深さは推定で一一三メートルあり、地下都市デリンクユよりも三〇%は大きいと見られている。つまり世界最大の地下都市だ。 トルコという国 トルコ行きはタイ王国首都バンコクから、まずはイスタンブールに飛んだ。トルコ航空のビジネスクラスを利用したが、トルコ色が強かった。日本航空のビジネスクラスが日本の茶室風だったら、外国人もビックリするだろうが、それのトルコ版だ。 イスタンブールで一泊して、夜は一番混んでいる庶民的なレストランで食事をした。周りは男ばかりだ。女性は夜には外出をしないのか? 男たちは独身なのか? トルコは異国だな・・・という思いを強くしたが、翌日はさらに衝撃を受けた。 イスタンブールから今度は首都アンカラに飛んだ。これまたビジネスクラスだが、一時間の空の旅だ。離陸してから三〇分ほどしてランチが出た。食事を始めたら機内アナウンスがあった。着陸態勢に入るから席に戻ってシートベルトを着用とのことだ。「エー、無理だよ。まだ食事終ってない・・・」といいたかったが、スチュワーデスもカーテンの後ろに消えて席に座っている。 食事用テーブルも出しっ放し、食事もワインの小瓶もテーブルに載ったまま。仕方ないので着陸するまで食事してワインを飲んでいた。着陸は見事で、ワインの小瓶も倒れなかった。だが、食事をしながら着陸したのは人生始めての経験だ。 これから分かることがたくさんある。まずトルコという国は、独自のルールを持っており、欧米的なルールを守る気はさらさらない。この国は男っぽくて戦士の国だ。大英帝国の前にはオスマントルコ大帝国が存在した。今でも大国意識は強いようだ。 確かに親日国ではあるけれど、女性の一人旅や二人旅はお勧めできないな・・・と思ったが、私が帰国して二ヶ月後には日本の若い女性の二人組が、カッパドキアを旅行中に誘拐されて殺害された。 首都アンカラからはバスでカッパドキアの県庁所在地ネブシェヒル市に入った。トルコを旅するには大型バスのネットワークを利用するのが便利だ。道路も立派で、大型バスの内装も立派で快適だ。 地下都市デリンクユ さて本題に戻ろう。地下都市五つを探索したが、やはり最大の地下都市デリンクユが、もっとも印象に残った。写真のような地下室が八階に渡って作られており、観光客は途中で一休みが必要だ。 入り口から地下に入ると、薄暗い世界が待っている。地下一階と二階には礼拝堂、台所、洗礼を行う場所、食料庫、寝室、食堂、ワイン倉庫、動物を飼う場所までがある。地下三階や四階は避難場所のようで、武器倉庫もある。 地下都市は様々な民族によって避難場所として使われきた事が知られている。地下三階に行く通路には丸い扉がある。この扉は内側からしか開けられない。大きさは直径一五〇センチから一八〇センチ、厚みも四〜五〇センチ、重さは五〇〇キログラムほどある。 この丸い扉は外部から運び込まれているという。石の性質が異なり、硬いのだ。つまり地上で作られ、秘密の通路から運び込まれている。 このような大規模な地下都市を建造するのは大事業だったと思うが、岩を削る仕事はそれほど大変ではなかったという。このあたりの岩盤は火山灰が積もってできた擬灰岩で、掘るときは柔らかいが、空気に触れてだんだんと硬くなるのだ。 それでも一万人の住居を地下に作る作業は、思いつきでできる仕事ではない。強い動機が必要だ。短期間でできる仕事でもないだろう。図のように複雑でアリの巣のような建造物なのだ。 この地下都市はいつごろ造られたのだろうか? カッパドキアの地下都市についての最初の記録は、紀元前四〇〇年にさかのぼる。キリストが生まれる前だ。ギリシャの歴史家クセノポンが『アナバシス』に以下のように記述している。 村の家は地下に作られている。家の入り口は非常に狭い。井戸の口のようだ。だが地下の部屋は広い。家畜も地下で飼われている。家畜は秘密のトンネルから出入りしている。トンネルの入り口は見ただけでは分からない。村人は梯子を使って家畜の部屋に入る。羊や山羊、ニワトリやアヒルやウシなどが飼われている。 つまり紀元前四〇〇年頃、すでに地下都市は存在していた。しかも避難場所ではなく、日常的に使っていた。さらにどのくらい古いかは不明だ。 だがもちろん、考古学者による一般的見解がある。 それによると、地下の構造物が造られたのは紀元前七〜八世紀となる。当時、カッパドキアに住んでいたフリギア人というインド=ヨーロッパ語族が地下都市を作ったという。この説では、すでにあった火山岩による天然の洞窟やトンネルを広げたり深くすることが始まりで、フリギア人はこの空間を貯蔵場所や襲撃者から身を隠す場所として利用したという。 ローマ時代にこの地域に住んでいたのはギリシャ語を話すキリスト教徒だった。彼らが地下の洞窟をさらに発展させ拡大させたことは明らかだ。いくつかの部屋を礼拝堂とし、ギリシャ語で文字を彫っている。八世紀から一二世紀のビザンチン時代、東ローマ帝国はイスラム化した新興のアラブ人と交戦状態にあった。そのため、地下都市は再び避難場所となった。一四世紀にモンゴル人に襲来されたときも、この機能は役立っている。後にはギリシャのキリスト教徒がこれらの地下都市を使って、イスラム教支配者からの迫害を逃れた。二〇世紀になっても同じように使われ続けたが、一九二三年にギリシャとトルコの停戦および住民交換があり、そのあとは使われていない。 トルコの考古学者ウメル・デミルは、デリンクユ建造は旧石器時代までさかのぼるのではないかと考えている。彼の主張は以下に基づく。一.上層階(古い)と下層階(新しい)の間にスタイルの違いがある。二.岩を切り出すのに用いられた道具の跡が、上層階では完全に消えているが、下層階ではまだはっきりと見える。 のみの跡が消えるには長い年月を要する。これが意味するのは、最初の階が建設された年代と最後の階が建設された年代の間には、かなりの時間差があることだ。(『地下のカッパドキア』ウメル・デミル著) 確かに、二〇〇〇家族が住める空間は、襲撃者から身を隠すという一時的な必要をはるかに超えている。もっと長期的な強い動機があっても不思議ではない。なにしろ巨大な地下都市が四〇もあるのだ。 英国の作家グラハム・ハンコックは二〇一五年九月に『神々の魔術』(Magicians of the Gods)を英国で発売してナンバーワンベストセラーになっている。米国では一一月に発売され、売れ行き好調だ。日本では二月末にKADOKAWAから発売される。この本の中では、カッパドキアの地下都市につて以下のように触れている。 地下都市を最初に造ったのはフリギア人たちだとされており、考古学者から特に理由もなく支持されている。だが、彼らも単にこれらを利用した多くの文化の一つだったのではないか。これらの異様な地下構造物がフリギア人より遥かに前に造られた可能性もある。もしかしたら、「破滅的な冬」の頃まで、さかのぼるかもしれない。一万二八〇〇年前頃に始まったヤンガードリアス期の頃だ。 ヤンガードリアス期については説明が必要だろう。最終氷河期で一番寒かったのは今から二万年前で極相期と呼ばれる。その頃から地球は暖かくなり、一万二八〇〇年前は、現代の地球よりも暖かかくなった。そこで世界中の氷冠も溶けはじめていた。そんなとき突然、寒冷期が訪れた。二万年前の氷河期極相期よりももっと寒くなった。原因は不明だが、最近は彗星落下説も唱えられている。この寒冷期は突然に始まり、一二〇〇年後に突然に終った。突然に終った原因も不明だが、厚さ三キロもあった氷冠が溶けて世界中の海面が二〇〇メートルも上昇した。 つまりグラハム・ハンコック氏は、「破滅的な冬」を逃れるために人々が地下に住居や、地下都市を造った可能性を考えている。確かに世界中の神話や伝承に、「破滅的な冬」があった事が伝えられているのだ。 『神々の魔術』は、ゾロアスター教の説話にも地下都市の話が出てくるという。そこで、インターネットを検索してみた。そこで見つけたのはイマという人物が神の助言で「バル」という地下構造物を作る話だ。その地下都市は「複数回の地下室で長さ三キロ、幅三キロ。道路があり建物があり二〇〇〇人が住める。人工的な照明もあり、イマは最後に金の指輪で閉じた」とある。まるでカッパドキアの地下都市だ。 イマが「バル」を造ったのは、「破滅的な冬」を避けるためだった・・・そうなると、カッパドキアの地下都市が、一万二〇〇〇年前の天変地異を避けるために造られた可能性も無視できないようだ。□ |