謎の地下神殿ハイポジウムの全貌(1)
地中海のマルタ島には二〇〇二年に三回訪問した。ここには奇妙な古代遺跡が残されている。詳しくは、本文を読んでいただきたいが、古代エジプト文明や古代インダス文明、古代シュメール文明の前に、すでに忘れ去れた高度な文明が存在していたのは、ほぼ間違いないのでは?
そうでないとしたら、古代遺跡にしるされた多くの謎に対して、別の解釈が必要になる。それもまた困難。まだ誰も謎を説明できた人がいないのだ。考古学者たちも無言。
科学の進歩とともに。失われた文明の全貌もだんだんと明らかにされて行くのではないだろうか?
***
朝の9時、太陽が海面から一定の高さに昇ると、マルタ島の謎の地下神殿ハイポジウムの入り口から中央の広間に光線が差し込む。(写真:ハイポジウム入り口)時は紀元前3600年。
まだ古代シュメール文明も古代エジプト文明も生まれていない。
その頃、このマルタ島の謎の地下神殿ハイポジウムでは、神官たちが中央の広間(写真:中央広間)に集まり、朝の祈りを捧げていたという。
何か奇妙ではないだろうか?
写真を見ていただきたい。
地下神殿ハイポジウムの部屋は見事な造形美を見せている(天井:写真)。地下岩盤の中にある洞窟を彫刻して建造されたこの神殿は、地上にある多くの巨石神殿と(写真:ハジヤーイム)そっくりなのだ。
ちなみに地上の巨石神殿が建造されたのも、紀元前3600年から紀元前3200年頃と言われている。
このような見事な造形美を持つ神殿が、古代シュメールのジグラット神殿や、古代エジプトの大ピラミッドが建設される遥か前から存在していたのだ。これを歴史学者たちはどのように説明するのか?
さらに地下3階建ての複雑な構造を持つ地下神殿ハイポジウムは一万年以上前に作られたのではないかという著名な考古学者もいる。地下神殿ハイポジウムは誰が、なんのためにいつごろ作ったのだろうか?
***
「地下神殿ハイポジウムの中では撮影禁止です。カメラはフロントに置いてください」
私は、同行してくれたマルタ考古学会の重鎮アントン・ミフスッド博士に目配せした。<何とかならない?>と聞いたのだ。だが、アントン氏は首をすくめるだけ。
しかたなく、私はカメラをハイポジウム入口のフロント係に預けたが、<悔しい!>という思いでいっぱいだった。当時も今も、普通の見学者は写真もビデオも撮れないのだ。
それから9カ月後。再び、地下神殿ハイポジウムを訪れた。今回はTBSビジョンというTV製作会社と一緒。TBS系列のデジタル衛星放送BSiが『神々の世界・アンダーワールド』というテレビ番組の制作を行い、その監修を頼まれたのだ。
「今回でTV撮影もカメラ撮影も最後になります」とマルタ観光局の担当者。世界中のTV局から地下神殿ハイポジウムの撮影の申し込みがあるが、これからはTBSビジョンの製作したフィルムを手渡すだけで、一切の撮影に応じないことにしたという。それには静止画のカメラ撮影も含まれる。
つまり遺跡の保存のために、今後はTV局や出版社の依頼があっても撮影できなくなるのだ。したがって、私は地下神殿ハイポジウムの最後の撮影に立ち会うことになった。
最後だというので、地下神殿ハイポジウムの管理者が、神殿の隅々を案内し、観光客には見ることもできない場所に案内してくれた。今回、紹介する地下神殿ハイポジウムの写真を所有しているのは日本では私だけ。全世界でも2~3名にすぎないはずだ。
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そうでないとしたら、古代遺跡にしるされた多くの謎に対して、別の解釈が必要になる。それもまた困難。まだ誰も謎を説明できた人がいないのだ。考古学者たちも無言。
科学の進歩とともに。失われた文明の全貌もだんだんと明らかにされて行くのではないだろうか?
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朝の9時、太陽が海面から一定の高さに昇ると、マルタ島の謎の地下神殿ハイポジウムの入り口から中央の広間に光線が差し込む。(写真:ハイポジウム入り口)時は紀元前3600年。
まだ古代シュメール文明も古代エジプト文明も生まれていない。
その頃、このマルタ島の謎の地下神殿ハイポジウムでは、神官たちが中央の広間(写真:中央広間)に集まり、朝の祈りを捧げていたという。
何か奇妙ではないだろうか?
写真を見ていただきたい。
地下神殿ハイポジウムの部屋は見事な造形美を見せている(天井:写真)。地下岩盤の中にある洞窟を彫刻して建造されたこの神殿は、地上にある多くの巨石神殿と(写真:ハジヤーイム)そっくりなのだ。
ちなみに地上の巨石神殿が建造されたのも、紀元前3600年から紀元前3200年頃と言われている。
このような見事な造形美を持つ神殿が、古代シュメールのジグラット神殿や、古代エジプトの大ピラミッドが建設される遥か前から存在していたのだ。これを歴史学者たちはどのように説明するのか?
さらに地下3階建ての複雑な構造を持つ地下神殿ハイポジウムは一万年以上前に作られたのではないかという著名な考古学者もいる。地下神殿ハイポジウムは誰が、なんのためにいつごろ作ったのだろうか?
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「地下神殿ハイポジウムの中では撮影禁止です。カメラはフロントに置いてください」
私は、同行してくれたマルタ考古学会の重鎮アントン・ミフスッド博士に目配せした。<何とかならない?>と聞いたのだ。だが、アントン氏は首をすくめるだけ。
しかたなく、私はカメラをハイポジウム入口のフロント係に預けたが、<悔しい!>という思いでいっぱいだった。当時も今も、普通の見学者は写真もビデオも撮れないのだ。
それから9カ月後。再び、地下神殿ハイポジウムを訪れた。今回はTBSビジョンというTV製作会社と一緒。TBS系列のデジタル衛星放送BSiが『神々の世界・アンダーワールド』というテレビ番組の制作を行い、その監修を頼まれたのだ。
「今回でTV撮影もカメラ撮影も最後になります」とマルタ観光局の担当者。世界中のTV局から地下神殿ハイポジウムの撮影の申し込みがあるが、これからはTBSビジョンの製作したフィルムを手渡すだけで、一切の撮影に応じないことにしたという。それには静止画のカメラ撮影も含まれる。
つまり遺跡の保存のために、今後はTV局や出版社の依頼があっても撮影できなくなるのだ。したがって、私は地下神殿ハイポジウムの最後の撮影に立ち会うことになった。
最後だというので、地下神殿ハイポジウムの管理者が、神殿の隅々を案内し、観光客には見ることもできない場所に案内してくれた。今回、紹介する地下神殿ハイポジウムの写真を所有しているのは日本では私だけ。全世界でも2~3名にすぎないはずだ。
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マルタ島がどこにあるかご存知だろうか? そう、地中海にある。私はマルタ島に取材に出掛けると決めたとき、すぐにイタリアとギリシャの最新の旅行ガイドブックを購入した。家に帰って、つぶさに調べたが、マルタの紹介記事がない。マルタは独立した共和国だったのだ(インターネットで中央地中海通信が参考になる)。
日本からドイツのフランクフルトに飛び、そこでマルタ航空に乗り換えアルプスを越え2時間も飛ぶと、青い海に囲まれた茶色の小島マルタが見えてくる。
マルタ島は最終氷河期最盛期の時代(1万7000年前)から南の楽園だった。今でも夏には海のレジャーを求めて多くの観光客が訪れる。冬も避寒地として最適で、北欧・英国などからたくさん人々が訪れている。(港の写真)
この淡路島よりも小さな島マルタには「謎」がいっぱい存在する。
地下神殿ハイポジウムは町の繁華街から車で15分、住宅街の真ん中にある。場所的には高台だ。
マルタでは地下水が無いため、古代から水は雨に頼ってきた。人々は家を建てると、必ず地下に水を溜めるタンクを設置する。そのためには住宅の下を掘らなければならない。地下神殿ハイポジウムが見つかったのも、住宅建設の最中だった。
だが、住宅の地下に広大な地下神殿があることを知った建設業者は、政府機関に届け出ず、建材の廃棄場所として利用した。したがって、1900年に地下神殿ハイポジウムの上に住んでいた家主が、政府に奇妙な洞窟があると報告したとき、地下神殿ハイポジウムの中は、ごみと水で溢れていたという。
本格的に考古学的調査が行われたのは1901年で、イエズス会のマグリ神父によるものだった。このとき、地下神殿ハイポジウムは床から1メートルの高さまで、赤土で埋まっていた。さらに、その赤土の中からは人骨や動物の骨や、土器などが散乱して見つかっている。
1906年に地下神殿ハイポジウムを調査した考古学者ザミット博士は、人骨が7000体分はあると見積もっている。だが不思議なことに、見つかる土器は紀元前3600年頃のもので、それよりもあとのものは見つかっていない。つまり、それ以降は人が入っていないらしいのだ。
赤土の中の人骨は散乱しており、動物の骨や土器と混じりあっていた。つまり埋葬された遺体ではなかった。これも謎だった。
この謎が解けたのは1997年。マルタ考古学会の重鎮、アントン・ミスフッド博士が、「赤土は大洪水によって運ばれたもの。いろいろなものが混在しているのは近くの新石器時代の墓地が洪水で押し流されて、地下神殿ハイポジウムに貯まったに違いない」と看破したのだ。
これで謎のひとつは解けた。もっとも英国の考古学者デービッド・トランプの最新著書『マルタ・先史時代と神殿』(2002年発刊)にはこの見解が紹介されていない。ということは、まだ考古学界で正式に認知はされていないのだろう。学者の世界では、正式に認知されるまでに、とにかく時間がかかるのだ。
日本からドイツのフランクフルトに飛び、そこでマルタ航空に乗り換えアルプスを越え2時間も飛ぶと、青い海に囲まれた茶色の小島マルタが見えてくる。
マルタ島は最終氷河期最盛期の時代(1万7000年前)から南の楽園だった。今でも夏には海のレジャーを求めて多くの観光客が訪れる。冬も避寒地として最適で、北欧・英国などからたくさん人々が訪れている。(港の写真)
この淡路島よりも小さな島マルタには「謎」がいっぱい存在する。
- この島には巨石を使った神殿跡が20以上もある。こんな小さな島に、なぜこれほどたくさんの巨石神殿があるのか? この島は、もっと大きな文化圏の一部だったのではないだろうか?(写真はハジャーイム神殿)
- これまで巨石を使った最古の建造物はエジプトの大ピラミッドだと思われていた。ところがマルタの巨石神殿は、大ピラミッド群よりも1000年ほど前に作られている。この建造技術はどこから来たのか? 未知の文明が存在したのか?
- これらの巨石神殿は見事な造形美を持つ。このような洗練された造形美が生まれるには長い年月をかけた文化の成熟が必要だ。その文化はいつから存在していたのか? 少なくとも、古代エジプトや古代シュメールよりも古いことは間違いない。
- マルタ島には多くのカートラッツ(車輪の轍)があるが、これが周りの海の底にもある。これは何なのか?(写真)
- 巨石神殿・地下神殿ハイポジウムを造った文明はどこから来て、どこへ消えてしまったのか?
地下神殿ハイポジウムは町の繁華街から車で15分、住宅街の真ん中にある。場所的には高台だ。
マルタでは地下水が無いため、古代から水は雨に頼ってきた。人々は家を建てると、必ず地下に水を溜めるタンクを設置する。そのためには住宅の下を掘らなければならない。地下神殿ハイポジウムが見つかったのも、住宅建設の最中だった。
だが、住宅の地下に広大な地下神殿があることを知った建設業者は、政府機関に届け出ず、建材の廃棄場所として利用した。したがって、1900年に地下神殿ハイポジウムの上に住んでいた家主が、政府に奇妙な洞窟があると報告したとき、地下神殿ハイポジウムの中は、ごみと水で溢れていたという。
本格的に考古学的調査が行われたのは1901年で、イエズス会のマグリ神父によるものだった。このとき、地下神殿ハイポジウムは床から1メートルの高さまで、赤土で埋まっていた。さらに、その赤土の中からは人骨や動物の骨や、土器などが散乱して見つかっている。
1906年に地下神殿ハイポジウムを調査した考古学者ザミット博士は、人骨が7000体分はあると見積もっている。だが不思議なことに、見つかる土器は紀元前3600年頃のもので、それよりもあとのものは見つかっていない。つまり、それ以降は人が入っていないらしいのだ。
赤土の中の人骨は散乱しており、動物の骨や土器と混じりあっていた。つまり埋葬された遺体ではなかった。これも謎だった。
この謎が解けたのは1997年。マルタ考古学会の重鎮、アントン・ミスフッド博士が、「赤土は大洪水によって運ばれたもの。いろいろなものが混在しているのは近くの新石器時代の墓地が洪水で押し流されて、地下神殿ハイポジウムに貯まったに違いない」と看破したのだ。
これで謎のひとつは解けた。もっとも英国の考古学者デービッド・トランプの最新著書『マルタ・先史時代と神殿』(2002年発刊)にはこの見解が紹介されていない。ということは、まだ考古学界で正式に認知はされていないのだろう。学者の世界では、正式に認知されるまでに、とにかく時間がかかるのだ。
巨大な井戸
それでは謎に満ちた地下神殿ハイポジウムにご案内しよう。
入り口を入るとすぐ三本の石でできた門がある。この左側の奥まった場所に巨大な井戸がある(写真)。この巨大な井戸も見事に岩盤を彫られて作られている。中を覗くと青い水が貯まっている。この井戸があるため、多くの考古学者たちが、太古にこの神殿を建造した神官たちは、この洞窟の中で生活していたのだと信じている。
巨大な石の井戸は観光ルートの歩道からはかなり離れており、観光客は見ることができない。地下神殿の他の部分は埋もれて存在が知られていなかったが、この大きな井戸だけは、土地の人々が最近まで使用していた形跡があるという。
三本の石でできた門に戻り、深く降りていくと中央広間にでる。この中央広間を取り巻いて、いくつかの部屋がある。
有名な「眠れる婦人像」は中央広間に降りていく通路の脇で見つかっている。
広間の手前の右側には赤土が残されている場所がある(写真)。この赤土には人骨やら動物の骨、土器、装飾品などが含まれている。後世の研究のために、ここだけ発掘されていないのだという。
さらに進むと、狭い広間があり、天井や壁には渦巻き模様の塗装がされている。赤く塗られたこの渦巻きに使われている塗料赤色オーカーは、有名なラスコーの洞窟(ウシの絵で有名・3万年前に描かれている)で使われているものと同じだ。
この部屋の左側奥には、広間からつづく部屋がある。そのさら奥にも部屋があり、そこが、神官たちが住んだ部屋ではないかと思われているが、人が住んでいた形跡も、火を使った形跡も残っていない。
広間からつづく部屋の壁には野牛の壁画があったと言われているが、現在は薄くてほとんど見えない。その壁画の反対側からはさらに地下へ行く入り口がある(写真)。3階建ての地下神殿ハイポジウムの最下部は、地上から10・6メートルの深さになる。
もっともこの入り口から一番深いところに行くと、途中で階段が切れており、知らない人が階段を下りたら、地下の床まで数メートル墜落する羽目に陥る。この機能がなんのために存在するのかは、明らかではない。侵入者を防ぐ迷路になっているとか、いろいろ言われているが真相は不明。
道を戻って、渦巻きの装飾のある部屋から右側の通路を辿ると、オラクルルーム(神託の間)にでる。この穴から声を出すと、不思議なことに低音しか響かない(写真)。男の低音で声を出すと、神殿中に声が響く。ところが女性の高音で話すと、声が全く響かないのだ。
そうそう言い忘れたが、中央広間には黒と白のチェック模様が塗装されている壁もあった。
いつ誰が、なんのために地下神殿を建造したか
これでだいたい地下神殿ハイポジウムの全貌が分かったことと思う。分からないのは、いつ誰が、なんのためにこの神殿を建造したかだ。
実のところ、この神殿がいつ作られたかは不明だ。発見された土器などから紀元前3600年頃と推定されている。人骨などの炭素14法による年代測定では紀元前2400年頃という数字が出ている。
人骨はアントン・ミフスッド博士の見解にしたがって、大洪水で新石器時代の墓地が押し流され、この洞窟に溜まったとすれば、新しくて不思議はない。実際のところ、マルタ島とその隣のゴゾ島にある巨石神殿の多くは紀元前2400年頃から土砂に埋まっており、それが19世紀になって発掘されている。したがって、地下神殿ハイポジウム本体の古さも、ジュガンティア神殿など、地上の神殿の古さも本当のところは不明なのだ。
さらに、地下神殿ハイポジウムに見られる赤色オーカーで赤く塗られた渦巻き模様、黒いマンガン顔料と赤色オーカーを使って塗られた野牛、白と黒とチェック模様などは、どう見ても旧石器時代を思わせる。旧石器時代というと1万年から3万年も前だ。
さらに地下神殿で2つ見つかっている『眠れる夫人像』も新石器時代のものとは思えない。世界中に存在する、旧石器時代に多く見られる豊満な女性像・地母神に良く似ているのだ。まさに3万年前によく見られる地母神を横たえた姿だ。
つまり、地下神殿ハイポジウムも地上の巨石神殿も1万年以上前の建造物である可能性が高いのだ。なぜなら、私たちが知っている古代文明(古代エジプト・古代シュメール)よりも前に存在した未知なる文明の遺産であることだけが、確実だからだ。
これよりも前の文明と言ったら伝説のアトランティス文明が有名だ。マルタ島の巨石神殿・地下神殿ハイポジウムはアトランティス文明の残映なのだろうか? 科学が進歩して、その可能性も否定できない時代になってきている。
インドのカンベイ湾の海底の下からは1万年前の古代都市が発見されている。最終氷河期の終わりには巨大な洪水が発生したことが分かってきた。当時から、海面も一四〇メートルほど上昇している。1万年以上前に優れた文明があったとしたら、それらは現在、海底の下に埋もれているはずなのだ。マルタの海にも神殿が埋もれているという噂が絶えない。
人類文明の歴史のなぞ解きは、まだ始まったばかり。読者の方も次の夏には、アトランティス文明の残映を見に、マルタ島に出掛けてみたらいかがだろう。おっと、そのときは、早めに地下神殿ハイポジウム見学の申請をしておくべきだ。夏だと、2週間前から予約でいっぱいなのだ。
それでは謎に満ちた地下神殿ハイポジウムにご案内しよう。
入り口を入るとすぐ三本の石でできた門がある。この左側の奥まった場所に巨大な井戸がある(写真)。この巨大な井戸も見事に岩盤を彫られて作られている。中を覗くと青い水が貯まっている。この井戸があるため、多くの考古学者たちが、太古にこの神殿を建造した神官たちは、この洞窟の中で生活していたのだと信じている。
巨大な石の井戸は観光ルートの歩道からはかなり離れており、観光客は見ることができない。地下神殿の他の部分は埋もれて存在が知られていなかったが、この大きな井戸だけは、土地の人々が最近まで使用していた形跡があるという。
三本の石でできた門に戻り、深く降りていくと中央広間にでる。この中央広間を取り巻いて、いくつかの部屋がある。
有名な「眠れる婦人像」は中央広間に降りていく通路の脇で見つかっている。
広間の手前の右側には赤土が残されている場所がある(写真)。この赤土には人骨やら動物の骨、土器、装飾品などが含まれている。後世の研究のために、ここだけ発掘されていないのだという。
さらに進むと、狭い広間があり、天井や壁には渦巻き模様の塗装がされている。赤く塗られたこの渦巻きに使われている塗料赤色オーカーは、有名なラスコーの洞窟(ウシの絵で有名・3万年前に描かれている)で使われているものと同じだ。
この部屋の左側奥には、広間からつづく部屋がある。そのさら奥にも部屋があり、そこが、神官たちが住んだ部屋ではないかと思われているが、人が住んでいた形跡も、火を使った形跡も残っていない。
広間からつづく部屋の壁には野牛の壁画があったと言われているが、現在は薄くてほとんど見えない。その壁画の反対側からはさらに地下へ行く入り口がある(写真)。3階建ての地下神殿ハイポジウムの最下部は、地上から10・6メートルの深さになる。
もっともこの入り口から一番深いところに行くと、途中で階段が切れており、知らない人が階段を下りたら、地下の床まで数メートル墜落する羽目に陥る。この機能がなんのために存在するのかは、明らかではない。侵入者を防ぐ迷路になっているとか、いろいろ言われているが真相は不明。
道を戻って、渦巻きの装飾のある部屋から右側の通路を辿ると、オラクルルーム(神託の間)にでる。この穴から声を出すと、不思議なことに低音しか響かない(写真)。男の低音で声を出すと、神殿中に声が響く。ところが女性の高音で話すと、声が全く響かないのだ。
そうそう言い忘れたが、中央広間には黒と白のチェック模様が塗装されている壁もあった。
いつ誰が、なんのために地下神殿を建造したか
これでだいたい地下神殿ハイポジウムの全貌が分かったことと思う。分からないのは、いつ誰が、なんのためにこの神殿を建造したかだ。
実のところ、この神殿がいつ作られたかは不明だ。発見された土器などから紀元前3600年頃と推定されている。人骨などの炭素14法による年代測定では紀元前2400年頃という数字が出ている。
人骨はアントン・ミフスッド博士の見解にしたがって、大洪水で新石器時代の墓地が押し流され、この洞窟に溜まったとすれば、新しくて不思議はない。実際のところ、マルタ島とその隣のゴゾ島にある巨石神殿の多くは紀元前2400年頃から土砂に埋まっており、それが19世紀になって発掘されている。したがって、地下神殿ハイポジウム本体の古さも、ジュガンティア神殿など、地上の神殿の古さも本当のところは不明なのだ。
さらに、地下神殿ハイポジウムに見られる赤色オーカーで赤く塗られた渦巻き模様、黒いマンガン顔料と赤色オーカーを使って塗られた野牛、白と黒とチェック模様などは、どう見ても旧石器時代を思わせる。旧石器時代というと1万年から3万年も前だ。
さらに地下神殿で2つ見つかっている『眠れる夫人像』も新石器時代のものとは思えない。世界中に存在する、旧石器時代に多く見られる豊満な女性像・地母神に良く似ているのだ。まさに3万年前によく見られる地母神を横たえた姿だ。
つまり、地下神殿ハイポジウムも地上の巨石神殿も1万年以上前の建造物である可能性が高いのだ。なぜなら、私たちが知っている古代文明(古代エジプト・古代シュメール)よりも前に存在した未知なる文明の遺産であることだけが、確実だからだ。
これよりも前の文明と言ったら伝説のアトランティス文明が有名だ。マルタ島の巨石神殿・地下神殿ハイポジウムはアトランティス文明の残映なのだろうか? 科学が進歩して、その可能性も否定できない時代になってきている。
インドのカンベイ湾の海底の下からは1万年前の古代都市が発見されている。最終氷河期の終わりには巨大な洪水が発生したことが分かってきた。当時から、海面も一四〇メートルほど上昇している。1万年以上前に優れた文明があったとしたら、それらは現在、海底の下に埋もれているはずなのだ。マルタの海にも神殿が埋もれているという噂が絶えない。
人類文明の歴史のなぞ解きは、まだ始まったばかり。読者の方も次の夏には、アトランティス文明の残映を見に、マルタ島に出掛けてみたらいかがだろう。おっと、そのときは、早めに地下神殿ハイポジウム見学の申請をしておくべきだ。夏だと、2週間前から予約でいっぱいなのだ。