日本人(1)国際人はどこにいる
2001年6月4日
日本の国際人というと、まず頭に浮かぶのが奈良時代のお坊さん、空海だろう。西暦八百三年に唐の時代の中国に渡って、仏教の勉強をしたが、日本にいるときから中国語に造詣が深く、入唐して、すぐに優れた詩人として、優遇されたという。
この辺の話は「空海の風景」(司馬遼太郎著)に詳しいが、ともかく、空海は日本にいるときから「普遍的な存在」だったようだ。つまり、日本でも中国でも、どこの世界に行っても通用する人間だったのだ。
そこで国際人の定義は「世界中どこでも通用する人間」だとしたい。つまり、色濃く日本人なのだけれども、世界中どこでも通用する普遍性を持った人間のことだ。
その視点から見ると、海外生活の長い日本人に意外と国際人が少ないのに驚かされる。私たちは、海外生活が長い人を国際人だと勘違いする。あるいは語学に達者な人が国際人だと思い込む。どちらも間違いなのだ。
わたくしの海外生活10年の経験でわかったことは、海外生活が長い日本人は二種類に分かれることだ。一方は、日本を向いて仕事し、生活している人たち。 彼らの多くは、国際人になって普遍的価値観を身に付けるどころか、その正反対で、ますます日本・国粋主義になる。こういうタイプが、日本人海外駐在員の主 流派だ。
ほとんどの海外駐在員は、日本にある本社に顔を向け、日本人社会、日本文化にべったりで生き、日本の価値観にしがみつく。したがって現地人の親しい友人も少なく、現地社会や文化をばかにすることが多い。
もう一方のタイプは、現地社会に溶け込もうとし、現地に友人をたくさんつくり、現地社会でも一目置かれる人々だ。こういう人は、日本の会社社会からは疎 まれる傾向が強い。「なんだこいつ、日本人か?」と言われるのだ。つまり変な日本人だと言われるようになる。こういう人が日本に帰ると、いろいろ適応に苦 労する。日本の中で外国人ならず、「日本人外人」として変人扱いされる。この人たちも国粋主義の日本人よりは、普遍的価値観を備える可能性を秘めている が、国際人だとは限らない。
海外で生活した家族の帰国子女の多くもこの段階にあるといってもいいだろう。帰国子女も国際人だと誤解されるが、それも間違いなのだ。帰国したばかりで、日本の社会で通用しないなら「世界中どこでも通用する人間」とは言いかねるからだ。
では「世界中どこでも通用する人間」とはいったいどのような人間か? 国際人はどこにいるのか? 語学に達者でなければいけないのか? 空海は語学の天才であり例外だが、実は語学は必須ではない。
ではなにが必須なのか?
それは「人を見る力だ」。
皮膚の色が真っ黒でも、真っ黄色でも、真っ赤でも、まず、一目見て、どんな人間か、察しがつくことが必要だ。その人間の本質を見ることができれば、その人は国際人なのだ。語学は必須ではない。人間同士、手まねでだいたいの意志の疎通ができるのだ。
正しく「人を見抜ける力」のあるひとは、偏見がない人なのだ。偏見があると人を見抜けない。たとえばアジア人を蔑視する日本人は、最初から色眼鏡をつけて人を見る。白人を崇拝する日本人も同じだ。相手が白人だからというだけでちやほやする。これも偏見だ。
あなたは「インドネシア人」「タイ人」「フィリピン人」と間違えられると、内心穏やかな気持ちでいられるだろうか? 喜べるだろうか? あるいは、ポル トガル人やスペイン人と間違えられたら、それほど悪い気がしないのではないか? これはリトマス試験紙の役目を果たす。「インドネシア人」と間違えられ て、嫌だと思うようなら、残念ながら、あなたには偏見がある。したがって国際人ではない。
人種や宗教や皮膚の色や国籍に関係なく、素直に、人間の本質を見抜ける人は、海外に行ったことが無くとも、語学に無縁でも、国際人なのだ。
日本に帰ってきて12年になるが、海外に住んだこともなく、語学が達者でもないが優れた国際人が、日本に結構いることにうれしくなった。一方、自称国際人という、単なる語学使いが、日本と海外の両方で大きな顔をしている現実にもがっかりした。
日本人(2)調和主義
2001年6月11日
外国の人々に日本人の習性・文化を説明するのに、「調和主義」の解説は欠かせない。
「調和主義」は日本の文化の根底にあり、その奥義は芸術の域に達している。では「調和主義」とは何か?
一言で言うと、「調和」を保つことを、すべてに優先させるという信念だ。
聖徳太子が言ったとされる「和をもって尊しとなす」という言葉も、この精神をよく表している。
私は米国に2年、オーストラリアに5年、インドネシアに2年、クエートに6カ月、住んでいたことがあり、文化交流の仕事で、タイ王国やフィリピンにも数えきれないほど、訪れている。どこへ行っても強く感じるのは、日本の「調和主義」の精神が独特なことだ。
日本の「調和主義」的な思想は、どこの文化にも当然存在する。だが日本のそれは芸術的な域にまで達しているのだ。
インドネシアも結構、調和を大切にする国だ。「多様性の中の統一」を国是として、イスラム教、ヒンズー教、キリスト教を混在させている。インドネシアの文化の根底には、日本と共通するものがいろいろあると思うが、調和の精神もそのひとつだ。
だが、それ以外の国では、「調和主義」をそれほど強く感じたことはない。
欧米の社会は「契約」中心の世界だ。
中国人は「家族」中心の世界。
タイ人も「家族」中心だが、中国人とは一味違うと思う。
そういう細かい話は、だんだんとしていくが、今回は日本の「調和主義」に焦点を当てよう。
まず第一に、理解してもらいたいのは、日本が調和を大切にしている理由は、争いが多くて、問題だらけだからだ。つまり日本は「調和」が実現されている国ではないのだ。縄文時代に騎馬民族の弥生人が日本列島に入ってきたと言われているが、このときにも争いはあっただろう。
仏教も日本に入ってきたとき、神道と争ったに違いない。だから「和」の精神で、神仏混合が行われたのだ。戦国時代も戦いに明け暮れていた時代だった。徳 川政権になってからも、必ずしも平和ではなかった。もちろん、戦国時代ほどの喧騒は無かったにしろ、百姓一揆の数なども多い。
つまり「調和」を大事にすることを国是とすることで、国や社会の争いに平和をもたらそうと、努力してきたわけだ。どこの国や社会においても、このような社会を運営していくための規範が必要だ。欧米だとそれが「契約」をすべてとする精神なのだ。
「調和主義」の良いところは、異文化を受け入れやすいことだ。日本は昔から海外の文化を取り入れて、日本の伝統文化と調和させていくのが上手だった。ま た、理屈抜きに妥協するため、仲間第一、グループ第一の精神が育った。仲間の利益のために、個性を抑えて妥協する。そうなるとグループを保つことが生き甲 斐になる。これは、欠点でもあるが、良いところでもある。
あきらかな欠点は、「調和」を一番大事にすると、「絶対」性が無くなることだ。黒白がはっきりせず、すべてが灰色で、「正義」もその時の都合で決められることになる。
もう一つの大きな欠点は、なかなか意見がまとまらないことだろう。「調和」を保つために、日本人は理屈抜きに妥協する。だから、波は立たなくて結構だが、調整に時間はかかるし、せっぱ詰まらないと、何も決断されないことになる。つまり自ら変革する力が弱いのだ。
現代の日本はその典型だ。バブルの時代に政府が大きくなってしまった。不要な天下り先をたくさんつくり、外務省などの金の使い方も、バブル時代のままで変わっていない。
明治維新の時もそうだったが、日本は極端にまで追い込まれないと、変貌できないところがある。それも調和主義の欠点だ。
だが、調和主義にも未来がある気がする。これからの世界の運営を考えると、欧米式の「契約」主義、中国の「家族」主義でも、難しい。日本の「調和主義」にも大切な役割があると思う。
日本人(3)戦国主義
2001年6月18日
日本の調和主義(Harmonism)というと、読者の方も聖徳太子の「和の精神」のことか、と話が早い。では戦国主義(Civil-Warism)はどうか?
戦国主義が花盛りだったのは、一六世紀の日本の戦国時代だった。この時代は実力がすべてで、容赦の無い戦いが続いた。ルールなしの自由競争で、勝つことがすべてだった。「勝てば官軍」という言葉は、明治維新の頃の言葉だが、戦国時代も同じだった。
一〇〇年以上続いた過酷な戦乱の後、徳川政権ができて日本にも秩序ができた。それから三〇〇年ぐらい、日本は試行錯誤を続けながら、調和主義を芸術にまで高めたのではないだろうか?
戦国主義は現在も存在する。あるいは人間の本性の一部なのだろう。また、日本に限らず、世界中至る所、あらゆる民族によって行われてきた。
ヨーロッパ人のアメリカ南北大陸侵略、欧米諸国の帝国主義による植民地支配、ヒトラーによるユダヤ人大虐殺、日本の帝国主義による朝鮮支配、中国侵略なども、戦国主義の現れだろう。
さらには現代ビジネスの中にも戦国主義は見られる。国際ビジネスのルールの背後に見えるのは、戦国主義だ。小さな国は、国をうまく守らないと、あっとい う間に二一世紀型の植民地支配の下に置かれる。その結果、富める国はますます豊かになり、貧しい国はいつまでも貧しいままとなる。
自由経済の資本主義社会は、基本的に戦国主義に基づいているのだ。だが、現代では、いろいろルールが引かれ、大きくなりすぎた会社は分割されるなど、過剰な権力の独占は禁止されている。
グローバルな世界におけるビジネスのルールなどは、欧米式の「契約」の精神を元に作られている。中国の「家」の精神でもなければ、日本的な「調和」の精神でもない。
この欧米式の契約の精神は、誰にでも分かりやすく、優れた面も多いが、もちろん抜け道もたくさんあり、やはり最後は、個人の良識に頼らざるを得ないのだが、このことは別のときに触れよう。
一方、日本人はいまでもこの「契約」の世界に慣れていない。日本人は現代でも基本的に「調和」の精神で、物事を運んでおり、契約は二の次だ。ビジネスの 世界でも、自由競争の行き過ぎをとがめるのは「契約」よりも「調和」の精神だ。日本では「調和」をもたらす仕事を官庁が行っている。
財務省や経済産業省が日本の大企業、中小企業の手綱をとり、過剰な競争を排してきた。だが、このやり方は国際的には異質だ。そこで欧米から、日本は国全体が「日本株式会社」などと揶揄されることになる。
でも私に言わせると、もっと困ったことは、日本人である我々が、自分たちの異質性に気づいていないことだ。
「日本の常識、世界の非常識」と言う言葉もよく聞かれる。つまり、日本人はどうも自分たちは異質らしいことを知っている。だが、なにが異質なのかを本当にわかっているだろうか? いないと思う。
海外に一〇年住んだ私はいつも行った先の現地社会にどっぷり浸かった。
クゥエートでもたくさん友人をつくった。パレスチナ人やインド人の出稼ぎの人々とも親しくなった。クゥエート人のエリートたちと親しくなると、あの国で は不可能がなかった。まともにやっていたら一カ月かかる電話工事も、エリートのクゥエート人に頼むと、賄賂なしで三日あれば設置できた。クゥエート人エ リートと私の間に必要なのは友情だけだった。
まあ、いろいろ経験したわけだ。
海外では日本人とは付き合わずに現地の人々と付き合った。その結果、現地社会からは受け入れられたが、日本に戻るたびに、日本の社会に溶け込むのに一苦 労した。どうしても現地社会の価値観や行動様式に影響されてしまい、日本社会では違和感を持たれるのだ。一九歳の頃から、そんなことの繰り返しだった。
海外における私の仕事は、日本人と外国人の間に立って問題を処理することが多かった。そして今でも、日本と外国の間の掛け橋的な仕事をしている。
「外国のスパイじゃないですか?」などと言われることすらある。日本と外国の両方に脚を置いており、からだも心も分裂しているのか? まあ、そうでないことを願っている。
そこで学んだこと、悩んだこと、どうすればいいかについて、これからも書いていきたいと思う。
日本人(4)戦国主義2
2001年6月25日
これまで半年以上住んだ国が日本以外で四カ国ある。
半年住むと、ある程度、その国のこともわかる。
調和主義の国「日本」を詳しく見る前に、簡単に各国がどのように自由競争による争い(戦国主義)を管理しているかを見てみたい。人間の本性である競争心、征服欲などを管理できないと、国はうまく機能しないからだ。
まずはアメリカ合衆国。
この国は極端に自由を容認している。異常なほど自由が与えられている国だ。そこで日本の調和主義の監視社会、気配り社会から移り住むと、解放感で心が弾 み、目も眩む。そう、抑圧が何もなく、好きなことができ、若者天国なのだ。だが、厳しい競争社会で、若者がもてはやされるのも、潜在能力を買われてだ。一 方、成功しなかった、貧乏人には冷たい社会だ。彼らは、人々に公平なチャンスを与えたから、それで成功しないのは、本人の責任だと厳しく見る。
アメリカ合衆国は契約主義の国で、すべては契約で縛られる。自由も契約で保証される。一方、自由な資本主義が徹底しており、民主主義国家だが、貧富の差は激しい。
クゥエートは、宗教がすべての中心にある国だった。宗教で自由競争の争いも管理していた。クゥエート人は全員が豊かだった。何も働かなくても三〇年前の 貨幣価値で、毎月三〇万円ほどの手当てをすべてのクゥエート人家庭が受け取っていた。部族の長が国王であり、王権政治の元、石油からのばく大な利益を基礎 に共産社会を形成しているかのようだった。
一方、経済を動かしているのは、インド人、パレスチナ人などの出稼ぎ人だった。彼らは、純粋な資本主義の原理の下、四苦八苦して働いていた。生活はできるし、故郷に送金もできる。だが、成功の機会を均等に与えられているとはいえなかった。
インドネシアは複雑な国だ。私が住んでいたころは、民主主義を偽装した独裁政権の国で、スハルト王国と呼ぶのがふさわしかった。貧富の差は激しく、教育 のない農民は人間扱いされていなかった。私の家で働いていた一七歳のメイド、デゥイは賢くて、ちゃんと小学校教育を与えれば、大学まで進めると思った。と ころがそんな話をインドネシア人のインテリ達に話すと、唖然とするばかりだった。
この国は庶民レベルで助け合いをする共同社会だが、自由経済主義の搾取が徹底して行われている国だった。
オーストラリアは契約をすべてとする国で、契約を破るとひどい目に遭う。たとえば家を借りていて、家賃を滞納すると、警察が来て、不法に滞在している者を逮捕する。空港で禁輸品の生シャケを持ち込もうとしたある日本人は、罰金として三〇万円も取られた。
オーストラリアは社会主義の思想が強く、自由経済だが社会福祉も進んでおり、一部に巨富をもつ資本家がいるが、貧富の差は比較的に少なかった。民主主義 議会も機能していた。問題はあまりにも豊かな国で、人々がのんびりしすぎていることぐらいだろうか? 経済的にはアメリカの植民地にされそうな勢いだ。ま た、生活の苦労がないので、若者が生きる目的を見つけるのが大変なようだった。
さて、一番ながく住んでいる国はもちろん日本だが、この国は自由経済を信奉しており、民主主義でありながら、全体主義国家で、社会主義の国のように思える。その原因は「調和主義」にあるのだ。
オーストラリアの資本家が日本に来たとき、案内したことがある。かれの印象は「オイ、日本が共産主義国家だったとはしらなかったよ」だった。貧富の差は少ないし、日本中、津々浦々まで豊かだからだ。
だが、日本は全体主義国家でもある。「調和主義」の絶対的優位が確立されているのだ。
全体主義とは広辞苑によると「個人に対する全体(国家・民族)の絶対的優位の主張によって諸集団を全体のもとに一元的に組み替え、諸個人を全体の目標に総動員する思想および体制」だそうだ。
まさに、日本はこの定義に当てはまっている。まあ、「ゆるやかな全体主義国家」と呼べばよいのだろうか。
諸個人を全体の目標に総動員する思想は至る所に見られる。
たとえば電車に乗ると「携帯電話をつかわないでください」とアナウンスがある。そんなことは、個人が良識で判断すべきことで、全体で統一するようなことではない。
電車の席には一人用の幅で仕切りがある。電車には優先席がある。これらも個人の良識にゆだねるべきことだ。
笑ってしまったのは、水不足の夏に、水道局のお役人が「朝シャンは自粛してください」と、述べたことが新聞に報道されたことだ。これこそ個人の良識に任せる問題だろう。
このように、日本では、何でも全体的に管理しようとする傾向が強い。だから大衆も自主性がなくなり、お上の言うことを待つような人々が多くなってしまう。つまり日本の大衆は「個の確立」ができていないと官僚や指導者達から見なされ、一人前に扱われていないのだ。
このような社会が機能する根源には「調和主義」がある。そこで次回からは、もう少し、詳しく調和主義のルールを見ていこう。
日本人(5) 米国魂
2001年7月2日
調和主義のルールを解説する前に、もう少し、日本と諸外国の国民性の違いを見てみよう。まずは米国だ。
米国人と日本人の違いを強烈に感じたのは、「決してあきらめない精神」だった。日本人は諦観をもっており、諦めるのが早い。だが、多くの米国人は決して諦めないし、それが彼らの誇りでもある。
日本人がすぐ諦めて妥協に走るのは「風土」の影響だとは、哲学者の和辻哲郎氏などが言っており、その通りだろうと思う。つまり、台風来襲や、火山の爆発 などの圧倒的な自然の力を見せつけられてきた日本人は、諦めることを覚えたという考えだ。だから、日本人は災害に遭っても、すぐに終わったことは諦めて、 再建に黙々と努力する。
だが米国人、それも特にヨーロッパ系白人の意識には、大自然の脅威に対しても諦めというものがない。戦おうとする。よく言われるが欧米人は自然を征服し ようとする。「風土」という本によると、それもヨーロッパの風土の影響だろうという。米国では、日常生活でも、「諦めない」ことが美徳となる。
私は二二~二三歳の頃、米国に渡り若者向けの写真雑誌「PACE」の編集部で働いた。ロサンゼルスにあったペース社には一〇〇名ぐらいの従業員がいたが、日本人は私ひとりだけだった。
編集部員やデザイナーには若者が多く、毎週水曜日の午後と、土曜日にはビーチでボディーサーフや、砂浜でのバレーボールを楽しんだ。
私は、ボディーサーフが気に入ってだいぶ腕も上がった。サーフボードなしに、身体をボードにして波に乗るのだ。これをすると、三〇メートルもの距離を、波があっというまに運んでくれる。
私はあるとき眼鏡をかけたまま、ボディーサーフをした。二~三回は問題が起きなかったが、最後に大波に巻かれて、眼鏡を波にさらわれてしまった。
悄然として砂浜に座り込んでいると、マルコムが「どうしたんだ?」と声をかけてきた。
「いやー、馬鹿なことをして、眼鏡をかけたままボディーサーフやって、眼鏡を海に落としたんだ。部屋に帰ればスペアがあるから、まあ、いいや」と言った。
「よし、わかった眼鏡を見つけるぞ!」
そういうとマルコムは大声を出した。
「おーい、みんな集まれ、シュンが眼鏡を海に落とした。みんなで見つけるんだ!」
これには驚いた。私も日本人、大海に落ちた眼鏡のことはすでに諦めていた。
「いいよマルコム。みんなに迷惑かけたくないし、無駄だよ。海は広いんだ・・・」
「いやー、絶対見つかるさ」
たちまち八人ほど集まった。
ジュディにロビンにスーザンにジョナサン、ヘルガもヘンリーもいる。
実は、この連中とは、いまでもいろいろつきあいがある。
八人は手を取りあって、浜辺から海の中に進んでいった。一列に並んで、だいぶ歩いた。海水は濁って透明度が悪く、海底は見えないので、前を向いてゆっくりとすり足で進んだ。海面は胸の高さに近づく。
私は心の中で冷笑していた。「まったく、あきれた連中だ。大海原の中、見つかるわけがない・・・まあいいや、遊びのつもりなのだろう・・・」
「もう諦めよう」と提案しようと思ったとき、
突然、ジュディが「あ! 何か足に触った!」と言って手を放して、身体を海に沈めた。
「これシュンの?」と言って手にあるものを見せたが、それは私の眼鏡だった。
米国人は「ネバーギブアップ」の精神を持っている。逆にいうと「桜の花が散る」ような、「いさぎよさ」の美感覚はない。だから彼らはテニスやゴルフなどの個人競技に優れた能力を発揮するのではないかとも思える。
この米国魂は、その後、何度も見たし、経験もした。
彼らから見ると、日本人の諦めの良さや、すぐに妥協する精神は異質なものだ。そう、私たち日本人は、明らかに異質なのだ。その異質性はとくに調和主義が支配する社会によく現れている。
日本人(6)契約社会
2001年7月9日
欧米諸国が契約社会であることは、オーストラリアに5年間住んで、イヤというほどわかった。
ある日本企業で5年間働いていたのだが、主な仕事は経理と契約書の管理だった。契約書は膨大な量があった。客先の電力庁とは厚さ15センチぐらいの大判 の本が8冊ぐらいになったと思う。もっともこれは技術契約書も兼ねており、事務・経理・保険など私の責任範囲は1冊だけだった。
下請け企業数社との間にも分厚い契約書が有り、支払い条件などがきめ細かく記されている。
契約社会の原理とは、何なのかについては、契約書とにらめっこしているうちに嫌でも考える。
分かりやすく結論からいこう。
まず第一に、契約する両者の立場は対等であることだ。
客先、客先と、日本の会社はたてまつるが、欧米では客先が下請けの上に立っているという意識はない。日本人も日本の企業も、とかく客先は神様で「仕事をいただいているのだから大切にしなければ・・・」的に考えるが、これは欧米社会では異質だ。
したがって私の働いていた日本企業の下請けはすべてオーストラリアの企業だったが、彼らにも日本企業の下で「働かせてもらっている」あるいは「仕事をもらってありがたい」という意識はない。
なぜ対等なのかというと、客先は多くの会社に入札させ、その中から実力と価格の面から妥当な会社を一つ選び、そこに仕事を任せるからだ。任された会社 は、正直に競争して入札に勝ち残った会社なのだ。したがって誇り高く、客先にたいしても、仕事をしてやっているのだという気概がある。
ところが日本の社会では、下請けをする会社が元請け会社の幹部との人間関係で決まったり、仕事をもらうのに「賄賂を贈ったり、接待」をする。企業の実力 よりも人間関係が重視されるのが日本だ。また日本の社会では談合も日常茶飯事的に行われている。下請け企業が話し合って、入札の価格を決めて、かわりばん こに仕事をもらうのは当たり前のことになっている。それが日本的調和主義のやり方だ。
日本にも欧米社会と同じように公正取引委員会なるものがあって、カルテルを禁止し、公正な競争をすることになっているが、ほとんど機能していないのが実情だ。
公正な競争が機能している契約社会では、元請けと下請けの関係も対等になるのだ。
第二の契約社会の原理は、契約は公平(フェア)であるという信念だ。
誰かと誰かが契約を結ぶのは、当事者双方が、締結される契約が公平であると認めたから実現する。したがってフェアでないと思ったら、フェアになるまで戦う必要がある。
欧米人だから最初からフェアな要求をしてくるだろうと思うのは、間違いの元だ。オーストラリアで家を購入するときなどは、リップオフされないように特に 気をつけなければいけない。よそ者に高値をふっかけて、儲けをむさぼる(リップオフ)のは契約社会でも当然のこととされている。無知なのがいけないという 考え方をするのだ。そこで、契約を結ぶ場合には、十分な調査が絶対的に必要な社会なのだ。
また、両者の立場が対等でなければフェアな契約が結ばれるわけもない。したがって、下請けだろうとなんだろうと、どんな立場にあっても日本的思考法を捨て、契約するときは対等だとして臨まなければならない。
第三の原理は、契約違反者は厳格に罰せられることだ。
フェアだと確認して結んだ契約に違反したら、その人は犯罪者と見なされる。なぜなら公平な契約を破って、不公平が実現してしまうからだ。
オーストラリアでは、契約違反者に対して厳罰が下されし、厳罰に処すべきだという意識は、生活の隅々まで浸透している。アパートを借りていて、家賃を滞納したら、警察が来て、不法滞在者が排除される。
インドネシアに遊びに行ってオーストラリアに帰国したとき、税関で捕まった。インドネシアの友人達が乾燥肉だの、果物など、たくさんお土産をくれた。それを申告しないで通ろうと思ったら、袋を開けられたのだ。
そのときのオーストラリア女性通関担当者の激怒ぶりは、今でも目に焼き付いている。美しい顔が、見るまに紅潮し、眼が釣りあがり、震えて、爆発を抑えるのがやっとだった。
彼らにとっては、軽いことでも平気でルールを破る人間が、信じられないのだ。それも一見、良識がありそうな家族連れだ。このときは果物や乾燥肉類を没収 されただけですんだが、鮭一匹持ち込もうとして、30万円の罰金を取られた日本人もいた。欧米社会ではルールを守らない人間は、犯罪人だ。だから欧米の監 獄は、犯罪者でひしめいているのだ。
さてそれでは、契約社会では、何に気をつけるべきか?
第一に契約を守り、ルール違反をしないことは大切だ。なぜなら契約だけでなくあらゆる規則や法律は、それがフェアであると人々が認めているから存在しているからだ。一方的に破れば、厳罰に処される覚悟が必要だ。
第二に、契約がすべての社会にも悪人が多いことだ。
契約は公平に結ばれるのが原則だが、不平等条約を結ぼうと虎視眈々と狙う人々もいる。また、契約社会ではばれないかぎり、好き放題をやるという考えにな りやすい。ルール違反がばれなければ、おとがめはない。ばれるような違反はしないのが、普通のオーストラリア人だった。だが、まったくばれないという自信 があれば、何でもやりかねないと用心しておくのが賢明だろう。まあ、人物を見る必要があるのはもちろんだ。
第三に、契約社会でも、理想は契約のない社会なことだ。
オーストラリアは契約社会であり、契約担当の仕事が独立職として存在する。半分、弁護士のような仕事だが、彼らは技術者としての知識も豊富だった。何人かの優秀な契約技術者と知りあいになったが、その中でも、マイケル・ファーンズという男は優秀だった。
彼と契約社会の話をしていて印象的だったのは、「シュン、契約社会でも理想は契約がなくても仕事ができることなんだよ」と言われたことだった。「信頼で きる人間関係ができ上がっていたら、電話一つで、契約書なしに品物が届くだろう。そんな社会の方がいいに決まっている。契約なんて本当はくだらないんだ」
日本の調和社会は契約に頼らない。だから契約社会の理想かというと、それはそれでまた別の問題がたくさんでてくる。それはたぶん次回から・・・。
日本人(7)インドネシア華僑
2001年7月16日
インドネシアには二年間住んだので、それなりに国のあり方については理解できたと思う。
インドネシアは巨大な国で、一つにまとめるのが大変な所のようだった。宗教もイスラム教、ヒンズー教、キリスト教とそれぞれが勢力を持ち、人種も多彩だった。
キリスト教徒のほとんどは中国からの華僑、ヒンズー教はバリ島など、限られた場所にしか、存在せず、中心はイスラム教だった。
私が住んでいたころはスハルトが大統領だった。スハルトは大統領というよりはスハルト王国の王様だった。形だけは民主主義議会の形態を取っていたが、国会議員の半数以上を大統領が指名できる制度であり、全くのインチキ民主主義だった。
スハルト大統領の夫人はミセス・テンパーセントというあだ名が有り、国家プロジェクトの外注費の一〇%は、彼女の懐に入っていた。このことを暴いたオーストラリアの記者はすぐに国外追放された。
私はスラバヤというジャワ島第二の大都市に住んでいたが、あるとき中華排斥暴動が勃発した。ジャカルタその他の多くの都市で、華僑経営の商店が暴徒に襲 われたのだ。インドネシアの経済の実権は華僑が握っており、華僑の人々はインドネシア人との混血を好まない。そこで、常に摩擦があった。
私たち家族は、中国系インドネシア人が住む高級住宅街に住んでいた。各家庭にはメイドやボーイや運転手が雇われていたが、華僑系インドネシア人のジャワ人の扱い方はひどかった。
まるでジャワ人が、猿であるかのように扱うのだ。中には「教育のないジャワ人は猿と一緒よ」と公言する奥さんもいた。そこで、どうしても華僑系インドネシア人とジャワ系インドネシア人との間には葛藤が生まれる。
私たちはインドネシア人のメイドを人間扱いした。日本人にとっては当然のことだが、近所の中国系インドネシア人から見ると、甘いと映ったようだ。
だがローカルのインドネシア人であるメイド、ボーイなどを可愛がっていると、家に泥棒は入らないし、華僑排斥暴動が起きたときも、不安がなかった。メイドやボーイ達のネットワークが有り、暴徒から守ってくれるのだ。
暴動の真っ最中に、いつも行っているテニスコートに出掛けた。ここには中国系インドネシア人しか来ない。だがこの日は、誰も来ていないだろうと思った。 何しろスラバヤ市の繁華街を暴徒から守るため、軍隊が出動しており、華僑系の人々は家のよろい戸を下ろして、ひそかにしているのが当たり前だからだ。
だがテニスコートには数名の華僑系インドネシア人がテニスをしていた。
「ええ、大丈夫なの?」と聞いたら。
「ああ、スラバヤは大丈夫さ、軍部のトップから心配するなと連絡があったよ」
この人は若いが、結構おおきな会社の社長だった。インドネシア軍の幹部と滑らかに話が通じているのだ。これでインドネシアの社会構造の一つが読み取れる。
華僑系インドネシア人は金を持っている。スハルトは軍事力を握っている。スハルトは時々、華僑排斥の暴動を裏で操れば、華僑を脅かすことができ、いくらでも献金を集められる構造になっているのだ。
余談だが、隣国ミャンマーを取材したとき、ミャンマーで一番尊敬されているといわれている年配のジャーナリストに会った。彼は言った。「ミャンマーの理想はスハルト的な政治体制をつくることですな」
これには、スハルト支配の下に住んだ経験のある私はトサカに来た。「冗談じゃない。あんなに搾取のひどい国にミャンマーをしたいと、あなたは本当に考えているのですか?」といって、おもわず、まじまじとこのジャーナリストの顔を見た。
まあ、それはともかく、インドネシアも一筋縄ではいかない国だ。国は巨大で、統一性がない。まさに「多様性の中の統一」を探らなければならない国なのだ。
そこで調和の国・日本とは大きな違いが出くる。日本という国のスハルト王国とのつきあい方も興味深かった。日本は、インドネシアと和が保てれば、インド ネシアが、王国であろうと、独裁政権であろうと気にしない。その関係から経済的な利益が得られれば、他のすべてには目をつぶるのが日本という国だ。
一方、米国は世界に自由と民主主義をもたらすことが国是になっている。ところが、長いこと、ミャンマーの軍事独裁を非難しても、スハルト王国のインチキ民主主義の独裁には、目をつぶってきた。まあ、どこに国も自分勝手でいい加減であると思った方が良いようだ。
インドネシアでできた友達の多くは華僑系インドネシア人だった。マレー系インドネシア人にも友人はいるが、なぜか華僑系インドネシア人の方が深く付き合ってしまう。
なぜだろうか? たぶん、日本人と華僑には、儒教など共通する思想基盤があるからだろう。
インドネシアの華僑は、前世紀の意識を残した中国人だと言われる。現代中国の本土に住む中国人とは意識が違うようだ。
あるとき顔見知りの、道路を清掃していた華僑系インドネシア人が、突然店をもち、靴屋を経営していた。聞いてみたら、同郷の華僑から、品物を無料で預けられたという。売れた分だけ入金すればよいとのことで、ほとんど、元手なしでも商売が始められるわけだ。
親しくなった華僑系のテニスコーチは、知人に何千万円と投資して、すべて持ち逃げされたと嘆いていた。華僑は人を見て無担保で金を貸す傾向があるのだ。 インドネシア華僑の世界は、家族が一番、二番は同郷のもの、三番目は、私のように他人だが、家族の一員と見なされたもののようだ。
中国人の華僑世界も、インドネシア人の主流であるイスラム主義の世界も、日本の調和主義の世界とは大きく違うのだ。
日本人(8)異質な国・米国
2001年7月23日
日本は誇りをもっていいほど、異質の国だ。だがアメリカ合衆国も異質だと思う。この国はあまりにも自由すぎるという面で異質なのだ。
若いときアメリカの友人数名と一緒のアパートを借りて暮らした。アパートの真ん中にはプールがあった。仲間の一人は、早朝だろうが、夜中だろうがプールに飛び込んで水音を立てる。
「おい、そんなに音を立てたら、近所迷惑だよ。苦情が来て、アパートから放り出されるんじゃない?」と私は言った。
「ここはアメリカだ。シュン。アメリカは広い。気にくわないやつは別の土地を探して、アパートからでていけばいいんだ。それがアメリカ流さ」とロッドはいう。
そんな馬鹿な、と思った。そのうち苦情が来るだろう、と覚悟して待っていたが、どこからも来なかった。
ロッドが言うことは本当だったのだろうか? 米国では誰もが勝手気ままに生きており、嫌なら別の土地に移り住むのだろうか?
この話を東部に住む友人に話したら、「そんなのは単に、マナーが悪いだけね。ワシントンDCあたりで、そんなことをしたら、たたき出されると思うわ」という。
まあ、米国は広い。だから土地によって事情は違うし、力関係もあるのだろう。ロッドは大男だし、カメラマンでスポーツカーを乗り回し、羽振りが良いの で、アパートの住人たちは、恐れをなしていたのかもしれない。だが、ロッドが言うように、広大で豊かなアメリカでは、結構、自由に好きなことができるのも 確かだ、と感じた。
たとえば、職業だ。ロッドはプロ野球の選手になろうとしていたが挫折して、それからプロのカメラマンになった。その仲間にはシェフとして成功している者も居る。米国はトライ&エラーができる世界なのだ。
若いとき、米国でもう一つ気がついたことがある。それはアホでもちょんでも、「俺は天才だ」と思い込んでいることだった。これには感心した。これがアメ リカの活力を生んでいると思った。アホでもちょんでも「俺は天才だ」と思い込んで、努力していれば、その夢が実現するかもしれないからだ。そう、アメリカ は若者天国で能天気たちの天国なのだ。
私がいまだにノーテンキーなのは、若いときにアメリカ文化に洗脳されたためだろう。
さて、米国の社会運営の基本はヨーロッパ、オーストラリアと同じで契約だ。だが、米国は英国と戦争をして独立を勝ち取っている。そこで英国の影響を脱して、独自の世界を築いている面がある。
米国の支配階級はWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)だと言われている。今では、国務長官が黒人系だし古い考えだといわれかねないが、それでもやはり、今でも彼らが支配階級だと見ていいと思う。
先住民族のインディアンは征服され、黒人は奴隷として米国に連れてこられた。中国人や日本人など、アジア系は少数民族だ。ユダヤ系も社会的影響力は強いがやはり少数民族だ。
米国が建国されてから二〇〇年足らず、まだまだWASPの支配が続いていて当然だろう。米国の黒人たちが社会的・経済的に奴隷状態から開放されたのは、ここ二〇年~三〇年のことなのだ。
私が米国に滞在していた一九六〇年代後半は、黒人たちが名実ともに人種差別を廃止させようと立ち上がった激動の時代だった。私が勤めていた「PACE」 マガジン社は進歩的な会社で、黒人のデザイナーなども雇っていた。だが当時の黒人の多くはぴりぴりしており、なかなか友人になるのが難しかった。
米国では黒人のように社会的に差別されたり搾取されたり、圧迫されていたら、示威行動を起こし、戦うことが必要な社会だ。その優れた見本は独立戦争に見 いだすことができる。何も文句を言わないということは、その地位に満足している証拠と思われる。だから、日米地位協定などで、我々がとらなければならない 行動は明らかなのだ。
さて、米国に住むとすぐに気がつくのは、中国人街、ユダヤ人街、日本人街など、民族ごとにすむ地域が分かれていることだ。その地区に行くと、看板などが すべてユダヤ語だったりするのだ。これは三〇年前のロサンゼルスの話だが、今でも基本的には変わっていないと思う。異なった文化というものは、そう簡単に 混合・変化するものではないからだ。
それは一国内の文化についても言える。米国の主流文化というとカウボーイの世界だろう。そこで二〇〇年たった現在でも、白人系米国人のメンタリティーにはカウボーイ精神が強いと思って間違いない。
彼らは英国の搾取に抵抗し戦い独立を勝ち取った。一方、異なった文化を持つ原住民を壊滅させ、土地を奪った。そこに流れる精神は、「力がすべて」ではないだろうか?
国が広大で、人種も多彩で、文化も混合している米国は、新しい世界をつくる実験をしているみたいに思える。そういう米国人の生き方は、豊かになり自由が増してきた「ゆるやかな全体主義国家・日本」でも参考になるようになってきたと思う。
たとえば経営学者のピーター・F・ドラッカーは、仕事の選び方について、次のように勧めていた。三〇年前だ。
「仕事を選ぶときに一番大切なのは、楽しめるか。二番目は何か学べることがあるか。三番目は、いい仕事をしたらその先、何かチャンスがあるか。この三点を頭に入れて仕事を探せ。仕事は会社のためでなく、自分のためにあるのだ」
今の日本の若者にぴったりな助言ではないだろうか?
日本人(9)ルール1:神様
2001年7月30日
日本人の神様は何だろうか?
元日には神社にお参りし、キリスト教会で結婚式を挙げ、仏式で葬式をあげる日本人たちのほとんどにとっては、たくさんの信仰の対象があるようだ。「さんまの頭も信心から」というから、さんまの頭も信仰しているのかもしれない。
キリスト教徒ならキリストを信じ、イスラム教徒はコーランに書いてあることを信じている。仏教徒はお釈迦様の教えを信じているのだろう。
では日本人は何を信じているのだろう。
実は、「調和」なのだ。
日本人の神様は「調和」なのだ。
最近の日本人のもう一つの神様は「お金」のようだ。だが、「お金」信仰は「悪魔」信仰にちかい。なぜなら「お金」を信仰しても欲求不満は募るばかりで、人は幸福にはなれないからだ。
さて、「調和」を神様にすると、キリスト教徒などと何が違ってくるのだろうか? 一番の違いは「調和」は絶対神ではないことだろう。つまり、すべては相対的になる。「相対神」などという言葉があるかどうかは知らないが、「調和」は「相対神」なのだ。
キリスト教徒やユダヤ教徒は聖書の言葉や、モーゼの十戒などを絶対としている。キリストを神だと絶対的に信じない人はキリスト教徒ではないのだ。イスラム教徒もコーランを絶対として、他民族を征服して教化していった。
キリスト教徒もキリストを絶対として、他の宗教や文化を否定し破壊してきた。
宗教というのは人間の存在そのものと同じで、矛盾の塊だ。キリスト教も愛を説いて戦争を起こし、アメリカ原住民を殺し、インカ帝国を滅ぼし、現在でも経済的な搾取を続けている。
「相対神・調和」の国は、「絶対神」の国々ほど、戦闘的ではない。なぜなら「絶対」がないからだ。「調和」の国では、善悪の判断が「調和」を基準に下される。調和を乱すものはすべて悪で、調和をもたらすものはすべて善だ。
日本では調和がもたされるなら「自殺」も善だ。姦淫をしても「調和」が乱されなければ悪ではない。絶対的なものは「相対的な調和」しかないのだ。
さて、それでは、「相対神・調和」の聖書はどこにあるのか?
それは古来から存在する日本の「神道」にあると言いたいのだが、神道には教典がない。だが、神道は明らかに自然との調和を重大事としている。
現代における「神道」は、日陰者の立場に置かれている。明治の時代に政治に利用され「国家神道」となり、忌まわしい記憶が強く残っているからだ。
「神道」には二五〇〇年ぐらいの歴史が有り、お米と関連していることは間違いない。神殿などはお米の倉庫の建物そのものだからだ。また、そっくりな建物 はインドネシアの農村地帯に存在し、関連がありそうだ。また、学習院大学の大野晋名誉教授によると、お米や神に関連する日本語には南インドのタミル語の影 響が強いという。だから、南インドと「神道」にもなにか関連があるかもしれない。
だが、神道の精神は一万二〇〇〇年継続された縄文文化に根があるようだ。縄文人の「調和の精神」が、縄文人を征服した弥生人に引き継がれ、それが神道として結実したのではないだろうか?
「相対神・調和」が支配する国・日本は、世界的には異質な国だ。そして、社会に存在するルールは、簡単には理解できない。そこで、来週からは、「相対神・調和」のルールを一つ一つ見ていこう。
これは「相対神・調和」の聖書を作成する、ささやかな試みだ。
日本人(10)教典2 討論
2001年8月6日
「シュン、なんで日本語には悪い言葉が少ないの?」と、聞かれたのは大昔のこと。東大で言語学を専攻していたオーストラリア人の大学院生は、日本語を研究していたが、日本語は英語に比べて、人を非難する言葉が圧倒的に少ないという。
日本語で思いつく罵詈雑言といったら「馬鹿野郎」「間抜け」「アホ」「のろま」ぐらいしかない。ところが、英語の世界における罵詈雑言は大量でカラフルだ。
「馬鹿野郎」など日本語ではもっともきつい表現であっても「馬」「鹿」「野郎」という程度で、英語の表現と比べたらおとなしいものだ。
三〇年前は、私も「なぜなんだろうね?」と首をかしげるだけだった。だが、今なら答えをはっきりと伝えることができる。
「相対神・調和の神様は喧嘩を嫌うからさ」と。
罵詈雑言は喧嘩の道具だ。だから少なければ少ないほど、「和」を保つのに役立つ。
喧嘩は「和」が乱れている証拠だから、調和の神様が好まないのも当然だろう。だがこの神様は「討論」も好まない。
討論は、欧米社会では教養の基礎だ。
ギリシャの哲学者ソクラテスは、対話方式で論争を進め、真実を追究した。それ以来だと思うが、欧米社会では「討論」の重要性を強調し、子どもの時から「ディベート」と呼ばれる討論会を開催し、論争させる。
一方、日本人の社会は基本的に論争を好まない。
なぜなら論争することは喧嘩の始まりであり、意見の衝突は「和」を乱すので「悪」と見なされるからだ。
日本は大昔から外国文化を取り入れるのが上手かった。日本列島は世界の吹きだまりともいわれ、この島国には、世界から文化が押し寄せて、吸収され、混合されている。
古くは中国の文化を朝鮮半島経由や海上交通を使って吸収し、ここ一〇〇年は欧米の帝国主義、民主主義、資本主義、音楽、法律、軍隊組織、宗教、人権意識 などを吸収している。そして第二次世界大戦後は、米国文化の受け入れが激しい。それはテレビ、音楽、映画、野球、アメリカンフットボールなどの娯楽に特に 見られる。だが日本という国は、いつも外国文化を選別して吸収している。
日本に合わないと思われる習慣や文化は、意識的に排除されてきた。第二世界大戦後の米国進駐軍を除けば、紀元前二五〇〇年ごろの弥生人の到来以来、外国からの侵略を受けたことがなかった日本が、外来文化を取捨選択したのは当然のことだろう。
たとえば、日本は中国の唐の文化を大いに受け入れたが、宦官(宮廷に仕えた去勢された男の小吏)制度などは受け入れなかった。
明治の時代も、西欧に「追いつけ追い越せ」と、法律制度を導入し、高等教育を力を入れ、書物の翻訳にも力を入れた。だが、「ディベート」は受け入れなかった。
「ディベート」は「相対神・調和」の国にとっては、マイナスになると見なされたからだ。
なぜか?
絶対的な悪も善もない「相対神・調和」の国では「調和」が正義だ。そこで議論で勝っても、論理的に正しくても、「和」を乱したら、「悪」となる。そうなると、そもそも論争をして勝っても意味がないことになる。
論争をするよりも沈黙を保つほうが、「和」に貢献できる。したがって日本の格言では「沈黙は金なり」という。自己主張して「和」を乱すのは、許されない行為であり、論理的に正しいなどという主張は愚の骨頂であり、否定される。
「相対神・調和」の国の理想は、何も語らずに意志を通じさせることであり、論争せずに平和の中で物事を遂行することにある。
欧米社会では「まず言葉があり」世界が生まれたが、日本では「沈黙」から世界が生まれたのだ。
欧米人の女性は「あなたは美しい」と常に言われていないと、「美しい」と思われていないと思うらしい。夫婦の間でも、一日に何回も「アイラブユー」と言わないと、不安に駆られるらしいことを見聞してきた。
日本では、何も言わずに以心伝心で心が通じるのが理想とされる。従っていちいち言葉で表現をしないで、感覚的に理解してもらおうとする。言葉を使って一日三回も「アイラブユー」などっと言ったら、よほど不安で自信がないのだろうと思われる。
理屈を言うことも論争の原因になるので嫌われる。ただひたすら沈黙を守るのが賢者であり、「和」を保つ達人であり、尊敬の対象となる。
こういう「相対神・調和」の国の掟はユニークらしく、世界的にはなかなか理解されないようだ。自己主張しないことが美徳になるのが日本という国なのだ。
日本人(11)教典3 ノーと言わない
2001年8月13日
「相対神・調和」の国では「和」を保つのが一番の重大事だ。善も悪も、「和」を保っているかどうかで判断される。「和」を保つには論争を避けることが望ましい。そこで論争の技術である「ディベート」は日本では排斥されてきた。
では論争を避けるベストの方法は何か?それは「ノー」と言わないことだ。「イエス」とも言わないが「ノー」とも言わなければ、論争にはならない。従って日本の社会では、本当は「ノー」と言うべきときでも「ノー」と言わず、その場を濁すことが多い。
「ノー」と言わなければ、「イエス」なのだろうと欧米社会の人々は考える。だが、日本人にとっては「イエス」と言わないでごまかしているかぎり、そのあい まいな態度は「イエス」ではなく「ノー」に近いのだ。だが、「ノー」とはっきり言わないかぎり、まだ本当には「ノー」でない。つまり、相手の出方を見て 「イエス」に変わる可能性のある「ノー」なのだ。
その実例には、日本人と接していれば、たびたび遭遇する。
オーストラリアに住んでいたとき、ブルーマウンテン市が兵庫の三田市と姉妹都市関係を結んだ。そのとき、三田市から代表団が訪れてパーティが開かれ、我々夫婦も招かれた。
パーティーもたけなわになった頃、ビールを飲んで赤ら顔のオーストラリア人市会議員が、「市長! 三田市の歌があったじゃないか。歌ってくれ!」と大きな声で言った。パーティー参加者達は「そうだそうだ」「歌ってくれ」と拍手した。
三田市の市長はニコニコしていたが、英語がわからないふりしてとぼけている。だが、要求を説明されたら、手を振って「いや、僕は歌が下手だから・・・」 とちゅうちょした。だが、赤ら顔の市会議員は三田市を前の年に訪問しており、市長が酔って三田市の歌を歌ったのを覚えていたのだ。
赤ら顔の市会議員は「さあ、三田市の市長が歌を歌うので拍手!」と、さらに場を盛り上げる。部屋にいた五〇名ぐらいの参加者の注目が、市長に集まる。
市長はニコニコして「まあ、もうすこし経ってから・・・」と言って、トイレに行ってしまい。その後、別の部屋に隠れてしまい広間には戻ってこなかった。市長は最後まで「ノー」とは言わなかったが、歌も歌わなかった。
日本の社会では「ノー」ということを徹底して避ける。そのほうが人間関係に摩擦が少なくなるからだ。たとえば、知人にパーティーに誘われたとしよう。他 に先約があれば当然断る。なければ「イエス」というか、その場をごまかすか、うそをつくかになる。だが決してあからさまに「ノー」とは言わない。
相対神・調和の国では、しらじらしいうそをつくほうが「ノー」と言うよりも、尊ばれるのだ。
ソニーの創始者のひとりである盛田昭夫氏は、国際人として有名だが「日本では、意見が異なると、友情関係も終わってしまうことが多い」と嘆いていた。
欧米流のビジネス経験の長い盛田氏は「イエス」と「ノー」をはっきりという人のようだ。ところが日本では意見が違うときに、はっきりと「ノー」というと、友情関係が終わってしまうことに気づいたのだ。
そう、その通りなのだ。日本では「ノー」という言葉に注意が必要だ。意見が違うことも、あまり明りょうにしないほうが良いのだ。喧嘩がしたかったら「ノー」といえばよい。友情を保ちたかったら、議論せず、「イエス」というか、沈黙を通せばよいのだ。
漫画家の小林よしのり氏などは、ゴーマニズム宣言という連載で「ノー」と言いまくっている。だがこれができるのは一匹狼の漫画家だからだ。彼の場合は「ノー」ということで注目が集まり、それなりに社会的存在意義も高まるのだ。
だが一般の人は「ノー」と、めったに言わない。「ノー」と言わずに「ノー」を実現するのが、日本の芸術なのだ。
相対神・調和の国の人々はめったに「ノー」とは言わない。そこでハッキリと「ノー」と言われると、精神的に大きなショックを受ける。だから盛田さんにはっきりと「ノー」と言われた人々はだんだんと去っていったのだ。
日本の政治家には、太古の縄文人のように「調和」を尊ぶ方が多い。こういうう方々が国際舞台で、政治的な交渉をするときにも、「ノー」と言わない精神を発揮する。そこで、これまでの外国との政治交渉などで多くの誤解が生まれてきているのだ。
日本人(12)教典4 謙遜と遠慮
2001年8月20日
先週、「相対神・調和」を信じる日本人は「ノー」と言わないように努力していることを述べた。「ノー」と言わないことは、つまり本音を言わないことだ。
人間の社会であれば程度の差が異なるが、どこの国でも常に「建前」と「本音」が存在するものだ。
だが「相対神・調和」の君臨する日本には、極端な形で「建前」と「本音」が存在している。
ご存知のように、日本ではお土産を渡すときには「つまらないものですが・・」と言って渡す。あるいはギターを弾く立場になったら「下手で申し訳ないけど・・」と謙遜してから始める。
ある英語学校のアメリカ人の先生が嘆いていた。
「生徒の高校生達を昼に家に呼んでサンドイッチをご馳走したんだが、誰も食べてくれなかったよ。彼らのために午前中かかってつくったのに、頭に来たよ」
別のときに生徒たちに聞いてみた。「サンドイッチ、なんで食べなかったの?」
「食べたかったんだけど、テーブルに載っていたサンドイッチを先生がすぐに台所に引きさげちゃうんだもの・・・」
「ロジャー先生、生徒達はおなかが空いていて食べたかったらしいよ。だけど、手を出す前に下げられてしまった、と残念がっていたよ」 このような行き違いは欧米人との間で良く起こる。日本人は遠慮をして、時間を稼ぎ、相手の本音を読もうとする。だが、本音に近いところで生きている欧米人にはそれがわからず、短気になって対応してしまう。
つまり「相対神・調和」の国では謙遜と遠慮が尊ばれるのだ。
なぜか?
なぜなら自己を低く評価する謙遜は、他の人々に受け入れられやすい。一方威張って尊大な人は嫌われる。「和」を乱すトラブルメーカーだと敬遠されるのだ。
また、遠慮も、相手の本音を知るうえで便利だ。遠慮するのは「石橋をたたいてから渡る」ようなものだ。
人々の間の調和を乱すことが「悪」と見なされる日本では、謙遜や遠慮は大切なマナーなのだ。
このあたりの事情は、アメリカではまったく逆となる。
7月にコロラド州デンバーでワイフの同窓会に出席した。参加者は家族合わせて60名ぐらい居たと思う。会場でワイフを含む数名が指名され、20年間、何 をしてきたかをスピーチした。それから会場を食堂に移し、そこでスピーチが続いた。次は会費を集めている間、スライド放映の時間だという。
私たちは3日間かけてスライド作りに精を出した。古い写真を引っ張り出し撮影したが。暗すぎてやり直し。スライド・ショーが完成したのは、出発前日の真夜中だった。スライドをかさばる円形のコダック製カローセルに入れ、わざわざアメリカまで運んだのだ。
スライド映写係りの人に、カローセルを渡してセットして最初の画面が出てきたが、そこでストップしている。私は、見ている人がいなかろうが、スライドを さっさと映したかった。なにしろ、3日間も時間と労力をつぎ込んでいるからだ。だが、でしゃばるのは遠慮した。ワイフの方は、「私もうスピーチしたから、 他に人のスライドをさきにやったら?」と言って、遠慮した。
結果は、10分後にスピーチのみ再開で、スライドショーは行われなかった。
アメリカ社会ではイニシャティブを取ることが尊重される。
私たちのように遠慮したり謙遜するのは、喜ばれない。私もワイフも遠慮せずにやりたいことをすればよかったのだ。そうすれば積極的に貢献したことになり、会合にはプラスとなる。だが、遠慮して貢献をしなければ、会合にはマイナスとなる。
日本では「でしゃばり」と思われることが、アメリカでは「積極性がある」と高く評価される。
アメリカという国は、創造性の発揮やトライ&エラーを尊ぶ。まだまだ開拓精神があふれている新世界の気概がある国だ。
一方、日本は「調和」を尊ぶ、伝統ある社会で、控えめに謙虚に、遠慮して、おとなくしていることが尊ばれる。
今回のアメリカ旅行では、アメリカの流儀がわかっていても、すぐには行動に現せないことに不満が残った。「相対神・調和」の世界に戻って12年も経つ。 この世界にどっぷり浸かっていると、島の外に出たときに外国の流儀に変身するのには時間がかかるのだ。私もすっかり「相対神・調和」の世界に洗脳されたよ うだ。
日本人(13)教典5 個人主義の否定
2001年8月27日
日本人は「何を考えているかがわからない」と、欧米人に良く言われる。あるいは個性的でない思われることが多い。フィリピン人にも「日本人は殻に閉じこもっていて社交性に欠ける」と言われることがある。
確かにフィリピン人の多くは陽気で社交的だし、欧米人の方が着ている服もカラフルだし個性的に見える。
だが日本人は、仮面をかぶっているだけにすぎない。仮面を外した日本人は、陽気で、社交的だし、強烈に個性的だ。そのことは、夜の酒の席で、無礼講になると良くわかる。
「ノー」と言わないように気をつけ、「本音」を言えない日本人は、どうしても仮面をかぶることになる。服装も周りとの調和を考えて、地味なものになる。 サラリーマンの服装も、いまだにドブネズミ色が多いが、これは社会のしきたりがあるので、しかたがないのだ。個性を表だって発揮できるのは、芸能人・芸術 家しかいない。
芸能人・芸術家というのは、古代から社会の豊かさにおんぶに抱っこされる存在だ。つまり農民や職人や商人など、生産と流通にかかわる人々ではない。本 来、社会に芸能人・芸術家が存在しなくとも、人々は十分に生きていける。彼らはアウトローであり、好きなことを言っても許される存在なのだ。
さて、日本人が仮面を脱ぐのは、ごく親しい人々との間だけだ。日本人同士の間でも、仮面を脱いで素顔で付き合えるようになるには時間がかかる。だから、外国人と打ち解けるには、もっともっと時間がかかる。
「相対神・調和」の君臨する国は、個人主義を否定しているので、仮面をかぶって個性が見えにくいのはますます都合が良い。
個人主義は「調和」を乱しやすい。だがグループで行動すれば、「調和」が保たれやすい。「個」を否定し「グループ・集団」を尊ぶのは、「相対神・調和」の知恵だ。
日本の戦国時代や江戸時代には「五人組」という制度があった。5家族で構成される「五人組」は連帯責任を負わされた。つまり年貢を納めたり、犯罪が起こ らないように相互に検察するシステムだ。つまり誰かが「和」を乱す行為を取ると、全5家族が罰せられる仕組みだ。これでは個人行動が束縛されるのは明らか だ。したがって個人主義も発達せず、集団主義が発達した。
このような制度こそ、今はないが、日本人の精神構造には連帯責任の意識が強く残っている。日本人は子どもが罪を犯せば、家族全体が罰せられるのが当然だと感じる。子どもが罪を犯すと、親が責任を感じて自殺する・・・などという話もよく聞いたものだ。
私は19歳で大学を中退し、21歳で経済雑誌の編集者になり、23歳でアメリカの雑誌社に勤め、25歳の時に帰国し、大学に入り直し、アメリカの会社に勤めた。こういうパターンは日本の社会ではアウトロー(無法者)の生き方だ。
当時、次男坊の兄からいわれた(私は3男坊)「おい、外資系の会社に入ったり、大学中退のままなのは問題だな。妹が就職するときの内申書や、見合いで結婚相手を探すときの釣り書にも、弟に大学中退者や、外資系に勤めているのが居ると不利になるんだぞ」
幸いなことに、大学も曲がりなりに出て、外資系の会社を辞めて、日本の会社に入ったので、兄弟から文句を言われることもなくなった。
つまり日本では個人の資質より、どこのグループに属しているかが、重要とされる。一流大学、一流企業に属していれば、社会的信用度も高いのは当然だ。名もない外資系会社に勤めていたり、大学を中退していると、肩身の狭い思いをする。
組織の中でも個人の資質や力よりもグループが尊重されることが多い。日本の大企業の多くは、グループによる集団責任体制を取っている。そういう組織では「下から上への提言」が推奨される。「トップダウン」で意思決定される大企業は極めて珍しい。
また、グループのトップが優秀でなくとも役目は勤まる。グループ構成員に優れた人物がいれば、結果が出せるからだ。日本の企業の多くはこのようなグルー プ主体の組織となっている。こういう組織では年功序列式人事を採用し、個人の能力た実力は長期的にしか判断されない。個人のイニシャチブよりも、集団の 「和」が第一とされるからだ。
こういう組織の欠点は、無責任体制になりやすいことだ。グループで責任を取るので、個人の責任がはっきりせず、責任の所在が明確にならないのだ。
こういう日本の「調和」を重んじ、グループ主義で、個人の能力を高く買わない傾向は、自民党政権を見ると良くわかる。自民党が政権にあるかぎり大臣は、年功序列式で選出回数の多い古手議員から順番に大臣になっていく仕組みなのだ。
小泉現首相は、こういう伝統社会の掟を破って、独自のリーダーシップは発揮しようと努力している。これは素晴らしいことで大賛成だが、実は、革命を起こ すほどの剛腕を振るわなければ、改革などできないのが「相対神・調和」の支配する社会だ。個人主義を否定する「調和の国」において小泉首相は、まさに革命児だが、改革の成功の確率は低いと言って良いだろう。
日本人(14)教典6 自由の否定
2001年9月3日
仮面をかぶって個人の独自性を押し殺す日本の社会では、自由がひどく制限されている。世界中でもっとも自由が謳歌されているのはアメリカ合衆国だろう。不自由な日本の社会から、米国に一歩踏み入れると、その自由な空気に酔いしれて、胸いっぱい解放感を感じるのは私だけか?
8月初めにインドという国に行ってきたが、ここも自由を極端に制限する国だった。ニューデリーのホテルで、ビールを飲もうと思ったら、真夜中過ぎは酒類の販売をできないとバーテンダーが言う。「飲酒は25歳を過ぎてから」と語る看板も立っていた。
個人の独創性を尊ばないグループ中心主義の国・日本では自由が制限されている。個人主義が認められない社会に自由があるわけもない。比較的に自由なのは 芸能人と芸術家だけ。その結果、独創性を発揮したい数学者、科学者、デザイナーなどは自由な国に行ってしまうことが多い。もっとも、その弊害については多 くが語られ、最近ではどうやって不自由な国・日本で、独創性を発揮させる組織を作ろうかと、努力する組織もたくさんある。
「相対神・調和」の神が支配する日本の社会が国民に自由を与えないのには理由がある。自由は不安を呼ぶからだ。
自由を与えられた人々は強くなければ生きていけない。だが、普通の人はそれほど強い存在ではない。強くないと不安を感じる。不安を感じると不安定の原因 となり調和が乱れる可能迂生が増大する。だが、自由を制限されてもグループならば安定感がある。個人よりもグループの方が力強いし安心できることは間違い ない。
「寄らば大樹の陰」ということわざもあるし、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とも言う。
日本は自由な民主主義国家ではなく、「ゆるやかな全体主義国家」なのだ。この体制においては、国民は子ども扱いされる。大人だと思われているのは政府の官僚や、大企業のトップ、実権を握る政治家だけらしい。
もと外務官僚でタイ王国への大使を勤めたこともある岡崎氏は講演の中で「日本では大衆にすべてを知らせることはせずに、お上に任せなさい、という方針をとっている」と語っていたが、その通りであり、政府は機密情報を抱えていても、公開しない。
たとえば「非核三原則」なる自民党の公約がある。核兵器を(1)つくらず、(2)持たず、(3)持ち込ませず、というものだ、だが、米国軍が、日本の各地の核兵器を持ち込んでいるのは、誰の目にも明らかだ。
たとえば、米国の戦艦や航空母艦が佐世保などの港に入港したら、とうぜん、核兵器を搭載しているに違いない。だから(3)の公約に違反している。
だが、その事実を政府も自民党も米国のご機嫌を損ねるわけにはいかないので公表できず、隠し通す。利口な国民は事実を知っていても、知らないふりをして、目をつぶる。それが大人の態度とされる。
もっと卑近な例では、東京では夜中の1時を過ぎると、タクシーで帰るか、朝までお店にいて、朝一番の電車に乗るしか方法が無くなる。電車は、夜中の1時 を過ぎると、朝の5時半頃まで動かないのだ。その上、一二時ごろになると、電車の便数がヘって、まるでラッシュアワーのような混雑となる。だが鉄道会社は 便数を増やそうともせず、営業時間を延ばそうともしない。
営業時間を延ばせないのは、たぶん運輸省のご通達があるからだろう。これは運輸省の親心なのだ。つまり、酒好きで夜遊びが好きな日本人を早く帰宅させて、翌日の仕事に備えさせるための親心というわけだ。
このような親心というか、「余計な規制」はたくさんある。
たとえば日本では、経口避妊薬ピルは医師の処方せんがないと購入できない。つい最近までは輸入すら禁止されていた。本音の理由は、フリーセックスがしや すくなり、風俗が乱れる可能性が増大するからだという。だが、これもずいぶん余計なお世話ではないだろうか? エッチをするのにも、官僚の許可がいるのが 日本のスタイルだといいたくなる。
このようなことをいちいち指図したりコントロールするのは、統治者、管理者に国民を子ども扱いするメンタリティーがあるからだ。
国民大衆が子ども扱いに甘んじてくれれれば、統治者が社会の「調和」を保つには便利かもしれない。「甘やかせてあげるから、言うことを聞きなさい」というわけだ。
このように日本という国は、自由が制限されている「ゆるやかな全体主義」の社会だ。だが、住めば都で、外国に長く住んで帰国すると、ほっとするところも ある。なぜなら、日本という国は大樹で、個人がその枝の下に包まれると、なにかと面倒も見てくれるし、食いっぱぐれも、なさそうだ・・・という安心感を何 となく感じるからだ。そう、ぬるま湯のような、親心がなんとなく感じられるのが「相対神・調和」の国なのだ。
日本人 (15) 教典7 ルールは伸縮自在
2001年9月10日
日本の法律は伸縮自在なことをご存知だろうか?
日本に住んでいると、特別意識しないかもしれない。だが外国に長く住んで日本に戻ると、日本の法律が伸び縮むことに驚かされる。
たとえば、道路の制限速度表示を見ると、日本と欧米の違いが良くわかる。東京の道路など、「速度違反をしてください」とでも言いたいのかとおもえるほど、非現実的な速度が書かれている。
だいぶ前の話だが、朝早く時速80キロで車を運転していて、白バイに捕まった。
「80キロ出ていましたよ」
「えー知ってます。ちょっと速度オーバーですか?」
「ここの制限時速は40キロですよ」
「えー? まさか・・・」と私は言って、幅の広い高速道路のような道を眺めた。
「今後は、時速表示に気をつけて運転してくださいよ」
「わかりました」
結局、速度違反のチケットは切られず、注意だけで終わったが、日本の制限速度表示は法が破られることを前提にして、表示されているのだ。一方、米国などの制限速度は、そのまま守ることが当然の速度が表示されている。
「YOU GOT HAVE WA」を書いた、ロバート・ホワイティンング氏も、日本のルールが伸縮自在であることに気がついている。「YOU GOT HAVE WA」は、日米野球の違いについて述べているが、アメリカ人と日本人では、バッターのストライクゾーンが異なるという。
バッターのストライクゾーンは、ひざからわきの下の高さ、それにホームベースに置かれたマットの幅で決まる。ところが、米国人プレーヤーのストライクゾーンは、それよりも広くされる。理由は、欧米人は身体も大きく、手足も長いからだという。
日本では、新幹線だって、お願いすれば、臨時停車してもらえる。
ある衆議院の立候補者は、東京駅から新幹線に飛び乗った。横浜で講演会があり、支持者5000人が集まっていた。ところが乗った列車は、横浜駅には停車せず、2時間かけて名古屋まで直行してしまう。
困った候補者は、車掌と掛け合い、「横浜駅で臨時停車してくれ」と頼み込んだ。車掌は、列車の管制センターに電話を入れて相談したところ、臨時停車しても良いという。そこで、この候補者は、無事に後援者が集まる講演会で演説をすることができた。
この事実を新聞社が問題にし始めた。「公共の機関を、個人の都合で停止させるのは、法治国家で行うことではない」というわけだ。この候補者の属していた政党は、会議を開き、候補者を党から除名した。一方、候補者は、平身低頭して謝罪した。
選挙の結果はどうだったか? 政党除名や新聞の大騒ぎは反映されずに、見事、この候補者は国会議員に当選している。
これは何を意味するのか? まずいえることは、新幹線を個人的理由で臨時停車させることに、一般の人はそれほど抵抗を感じなかったことだ。強く反発され ていたら、この候補者は当選しなかったはずだ。この程度のことは、笑って丸く収めるのが「相対神・調和」の支配する国のやり方なのだ。
また、日本では法を犯しても、平身低頭して謝れば許されることが多いことも見て取れる。つまり「法」は「絶対的」な存在ではなく、「相対的」な存在なのだ。
日本人の意識では、なにか誤りを犯したら、まずそのことを認めることが大切だ。
ハワイ沖でアメリカの潜水艦が日本の練習船を沈没させるという事件があった。このときの日米の人々の態度に、両国の意識の違いが、よくでていた。
日本人は、米国の艦長にまず「すみません」と謝って欲しかった。日本人は、他人が誤りに犯すこと自体には寛容だ。だれでも過ちは犯すものだからだ。だがそこに反省の念が見られないと思ったら、大変なことになる。相手が「非」を認めるまで戦うし、時には復讐を考える。
だが相手が素直に非を認めたら、「調和」が第一だと考えて、罪を許す。
一方、契約社会に住むアメリカ人は、裁判のことがまず頭に浮かぶ。「下手に謝ったら、非を認めることになる。そうなると裁判で不利だ」となる。だから、心ではわびていても、なかなか、口には出さない。
こういう態度は、日本人から見ると、「人間失格」に見えてしまう。
幸いなことに、アメリカの艦長は、この辺の日本人の心情について、誰かから適切なアドバイスを受けたのだろう、率直に謝った。
素直に謝った艦長を見て、一般の日本人は、艦長の過失を心の中で許してしまった。もちろん肉親を失った当事者達は、そうわいかない。だが、社会全体から見ると、一件落着なのだ。
権利を主張する米国社会には、弁護士の数が多い。裁判沙汰はなるべく避ける日本には弁護士が少ないことは、よく知られている。これが物語るのは、日本では「調和」が最優先され、法律は伸縮自在で、二義的な存在であることだ。
日本人 (16) ルールは伸縮自在(後編)2001年9月17日
日本では「調和」が最優先され、法律は伸縮自在で、二義的な存在である、と述べた。
つまり欧米では「法で秩序を保つ」が日本では「調和の精神で秩序を保つ」のだ。
考えてみると、日本に欧米的な法律ができたのは明治の時代だ。それまでは、大六法などは存在しなかった。裁判なども簡単なもので、裁判官の個人的判断で判決が下されていたようだ。
明治の時代に一〇年間で制定された大六法は、ドイツとフランスの法体系をまねたものだという。その目的は政治的なもので、当時存在した「治外法権」を打 破するためだった。明治の初期に開国した日本は、外国人が日本国内で罪を犯しても、処罰できなかったのだ。なぜなら、欧米のように詳しく書かれた法体系が 存在しなかったからだ。
この状態を変えるために法体系が急きょ取り入れられたが、輸入品に過ぎなかった。つまり、一般大衆の意識からはほど遠いところに存在していたのだ。形だけは法治国家の体制になっても、実際は「調和」が治める国家だったわけだ。
その状態は、大きく変化してきたとはいえ根本的には変わっていない。だから日本には弁護士の数が、欧米諸国に比べ少ないのだ。
江戸時代には「権利」という言葉も意識も存在していなかったようだ。家父長制の世界では、すべてが家の筆頭の権利であり、その他に権利はなかった。奥さ んや、二男坊や三男坊や娘に権利は存在しなかった。平等が存在しない社会に権利の意識は芽生えないのだろう。だから、権利という言葉が使われるようになっ たのは「法の下に万人は平等である」と宣言された、明治の大法典ができてからなのだ。
権利という言葉を聞くと契約書や裁判所が頭に浮かぶ。欧米の会社が仕事のよりどころとする分厚い契約書は、日本人にとっては頭痛の種だ。日本的仕事のや り方では、金額など、だいたいのことを決めておいて、あとは何でも話し合って解決していけばいいじゃないかと考える。だが、欧米企業がつくる契約書には、 何でもかんでも記載されている。
契約書に書いてないことがあったら会議をもち話し合い、その議事録が契約書に追加され、法的な規制力をもつようになる。それが欧米式のやり方で権利と義務が明確にされる。だが、日本やアジア諸国では、信頼関係を大切にして、細かい契約は今でもしない。
日本人と欧米人の法意識の違いは「公私混同」の面にも端的に表れている。
オーストラリアで働いていたとき、ある日本人マネージャーが「オーストラリア人は立派だね。彼らは会社のペンやノートなど、決して、家に持ち帰ったりしない。だが日本人はすぐに公私混同して、会社の支給品を私物化する」と言っていた。
これは事実だ。契約観念の薄い日本人は、とかく公私混同に抵抗感を持っていない。ペンやノートなど会社の品物を私物化する一方、滅私奉公で、残業代をもらわなくとも会社のために働いたりもする。
一方、欧米人は契約で認められてないかぎり、会社の品物を私物化しないが、一方、残業代も払ってくれないというのに夜中まで働くこともしないだろう。このように、日本人と欧米人のメンタリティーは大きく違う。
最近、日本の外務省の職員が公私混同し、3億円とか4億円のお金を使い込んで、詐欺事件に発展している。これも日本的な契約に対するあいまいな感覚が基礎にある。
日本の外務省の職員として海外の大使館に10年も勤めれば、物価の高い東京に家が二軒も購入できるという。なぜなら、給料はすべて貯金し、生活費のすべてを公費でまかなえるからだという。これも公私混同の典型で、なんの罪の意識もなく行われている。
これなどは、欧米的な契約感覚では犯罪そのものだが、日本では実態が明らかになるのにすら、大変に時間がかかる。犯罪だという意識がないからだ。
一方、公私混同をしない欧米人が善人かというと、必ずしもそうではない。ただ法によって罰せられるのが怖いから公私混同しないだけだ。それが証拠に、欧米の監獄は犯罪者で、いつも満杯だ。
法意識が希薄で、法は伸縮自在と考える「相対神・調和」の国では、まず人間関係を円満に保つことが最優先されるのだ。
日本人(17) 番外編
テロと日本の選択(1)
2001年9月24日
今回は番外編(1)として「テロと日本の選択」をとりあげよう。なにしろ、世の中これだけ大激変が起こっているので、「相対神・調和」の教典という基本的な話をしているわけにもいかない。
まずは、米国のテロ行為の歴史にも目を向けておくほうがよいだろう。米国のテロ行為と言っても二〇〇年前のインディアン虐殺などは含まない。一九六〇年代から七〇年代ぐらいのことだ。
米国にはアメリカ中央情報局(CIA)がある。一九四七年に生まれ、一九七〇年代までは外国政府転覆などの秘密活動に従事し、「見えない政府」と言われて恐れられてきた。
CIAの行ってきたことを振り返っておくのも意味があるだろう。なぜなら、現ブッシュ政権は、昔のCIAの活動を復帰させる意向だと報道されているからだ。
CIAの活動で大失敗は一九六一年のキューバ侵攻作戦だったといわれている。だが私が思うには、CIAの最大の失敗はベトナム戦争を始めたことだったと 思う。一九五〇年代にベトナム南部の親米政権だったゴ・ディン・ジェム大統領が暗殺された。その背後にはCIAがいた。そのことが、泥沼戦争の始まりだっ たのだ。それから一五年間、米国はベトナム戦争の一方の主役となり、敗北した。
次には一九七〇年代にオイルショックという事件が起きた。中東諸国がサウジアラビアのサウド国王の指導の元、石油価格をつり上げたのだ。このときの国王も暗殺されている。これもまずCIAの仕業に違いない。
日本の田中首相がロッキード事件で起訴されたが、この背後でもCIAが暗躍していたのは間違いない。当時の田中首相は、中国との国交を樹立するなど独自 の外交を推し進め、米国での評判が悪かった。当時は権威があったタイム誌の取り上げ方を見て、「あーもうすぐ田中首相は足を引っ張られるな」と予測ができ たものだ。
この事件以降、中曽根首相、大平首相など、日本の歴代の首相は米国の顔色を窺いながら、政権を担当するようになった。米国の怖さを知ったのだ。
当時、同じく評判が悪かったのがパキスタンのハク大統領だった。八八年にハク大統領は航空機事故でなぞの死を遂げている。これをCIAの陰謀だとするのは証拠不十分で誰かに怒られそうだが、きな臭いのは事実だ。
このようなCIAの「外交要人の暗殺行為」は一九七六年にフォード大統領の命令で、禁止されたという。だから、表向きはだいぶCIAもおとなしくなったわけだ。だが。今回のテロ事件で、この方針が変わったとなると、日本の政治家もCIAの動向には要注意となる。
日本でCIAに当たるのは、一九五七年に設立された内閣情報調査室だとよく言われる。初代室長の村井順氏(故人)が述べておられていたように、この組織 は「日本は戦争ができない国。だからウサギのように大きな耳をもって、情報収集に努めなければならない」というもの。つまり情報を集めるだけの機関で CIAとは大違いだ。
米国は契約社会だが、同時に西部劇の精神が生きている社会でもある。今回のブッシュの声明で「Wanted Dead or Alive」(捕まえろ。生死を問わない)というのがあったが、まったく西部劇の時代と変わっていない。まあ、これは共和党の武闘派ブッシュだから言える 言葉なのかもしれない。
さて、米国民は「報復」の意気に燃えている。その気持ちはよくわかる。不意打ちを食らって、戦闘員でもない人々が犠牲になったのだ。一方、テロを実行した人々の怨念もまた深いものがあるようだ。米国に住む人なら「無差別に殺したい」というのだから・・・。
国際イスラム戦線(オサマ・ビン・ラディンが中心になって結成)が、実行したとしたら、世界六〇カ国の人々を虐殺したわけで、まさに世界全体を敵に回す、大胆な戦争開始宣言だったと言える。
山内東大教授は「テロとの戦いは、あくまでも法と正義の下の人道的な対決であって、報復ではない」(読売新聞)と書いているが、本当だろうか? 「テロ との戦いは、政治的なものであり、戦争であり、報復行為だ」というのが正解だと思う。「法と正義の下の人道的な対決」などという格好良いものは、現実社会 にはなかなか存在しない。
「テロは文明や人道に対する挑戦である」とも山内教授は言うが、そうだとすると、国家がテロを企画する北朝鮮やリビア、イラクだけでなくCIAも文明や人道に挑戦していることになる。
さて日本では「話し合いで平和解決を求める」という声も強いようだが、話し合いができるなら、国際テロは起こっていない。日本もすでに戦争に巻き込まれ ているという覚悟が必要と思う。だが、同時に「相互神・調和」が支配する国・日本は、確かに独自の解決策を提言できると思う。
日本人(18) 番外編テロと日本の選択(2)
2001年10月1日
ソ連に「イワンの馬鹿」という民話がある。子どもの頃に読んだので全部は覚えていないが、いろいろと印象に残っている。
あるときイワンのすんでいる村に、隣国の軍隊が押し寄せてきた。もちろん敵軍だ。ところがイワンの村の人たちは、馬鹿なので、門を開き、「まあまあ一緒 に宴会でもしましょう」と大歓迎した。拍子抜けした敵軍は、居心地が良いのでそこにとどまり、結局、村の人と結婚したりして、楽しく過ごしてしまいまし た・・・というような内容だった。
「イワンの馬鹿」たちは現世的な利害の観念が無いお人よしで、何でも善意に解釈してしまうのだが、意外にも幸せな人生を送るという話だった。ある意味で、「イワンの馬鹿」の生き方は、理想だと子どもの頃思ったものだ。
物騒な世界で、日本もこんな生き方はできないものか・・・と、ちらっと思った。
さて、現実に戻ろう。
今回のテロの首謀者といわれるオサマ・ビン・ラディンはアフガニスタンに隠れていると言われる。もっともレーダーでも見えない米国製ステルス戦闘機でイラクに逃げたという情報も飛んでいる。
現在、アフガニスタンを支配しているのは、バーミャンにあった巨大石仏を破壊したことで悪名高いタリバンだ。最近は国内のヒンズー教徒に目印をつけるよう強制するなど、ヒトラーのユダヤ差別を思わせるような行為をしている。
タリバンの方針で、アフガニスタンでは女性に教育を与えることを禁じ、コーラン以外の本を読むこと、ビデオ、映画の観賞も禁止されている。
このような極端なイスラム原理主義は、現代の日本人の感覚にはまったくなじまないものだし、もちろん欧米式民主主義や自由主義とは別世界だ。
そこでこの際、欧米諸国は、タリバン打倒の軍事行動を取ることに躊躇はしないだろう。
アフガニスタンといえば世界でももっとも貧しい国の一つだ。一人当たりのGNPが二万円という、下から数えて何番目・・・という貧しさだし、米国との戦 争なんてできるわけがないと、誰でも考える。ところがこの国は、一九七九年のソ連による侵攻によく耐え、一〇年後にはソ連軍を撤退させている。
その背後にはもちろんCIAが存在しており、合計で四〇〇〇億円を投じて、反ソ連のゲリラ部隊を育て、武器を供給した。そこで訓練を受けたアラブ人のゲリラ戦士達は一万人。今回の対米テロの指導者たちも当時の戦士達だというから米国の胸中にも複雑なものがあるだろう。
さて、日本は今回のような国際テロにたいして、どのように対処すべきだろうか? 米国と共同歩調を取り、自衛隊を派遣し武器弾薬を運んだり、後方支援を すべきだろうか? 湾岸戦争の時は、日本が金だけ出して、人を派遣しなかったため、国際的に評価が低く、今回はそのようであってはならないという論調が、 多いようだが、それは間違いだ。
フランスやイギリスの元首はテロ事件後すぐにアメリカに飛んで、軍事行動を含む、すべての面で行動を共にすると約束した。日本の一部の論調では、日本の小泉首相も似たような行動を取るべきだったというが、それも間違いだ。
そんな必要はないと私は思う。湾岸戦争の時、金だけ出して手を汚さなかった日本は、それで良かったのだ。確かに欧米諸国からは奇異の目で見られたかもし れない。だが、今回は二度目であり、欧米諸国の日本という特異な国に対する理解も進んでいるのだから、ショックが少ないはずだ。
日本は戦争を放棄している珍しい国の一つだ。そのユニークさを保つことには価値がある。少々理解されがたくても、その奇異なところを押し通したほうが、国際社会では高く評価されるときがくると思う。
そこで日本のできることは、ドイツとあまり変わらない。後方支援と衛生兵の派遣が限度だろう。沖縄の基地を提供するだけでも、相当な後方支援になってい るはずだ。もちろん、国際テロ行為は断固として非難すべきだし、国際テロ組織の壊滅に向けて、情報を集め、資金源を封じる策をとるべきだ。だが、戦争に直 接手を出すのは止めておいたほうが良い。
相対神・調和の国・日本のユニークさは、世界中どこにも敵がいないことなのだ。ユダヤに対する偏見も、アラブに対する偏見も少ない。日本人を拉致した り、頭上にミサイルを飛ばす北朝鮮にすら笑顔を振りまくのが日本という国。これは弱さでもあるが強さでも有り、弱肉強食の欧米主導の世界にあっては珍奇な 存在だし、いつか、欧米諸国も、こんな柔弱な日本を必要とするときが来るような気がしてならない。
日本人(19) 番外編
テロと日本の選択(3)
2001年10月1日
日本の選択を短期的に見ると、前回述べたようなことになる。
だが、誰でも「その程度の役割を果たすだけで良いのだろうか?」「もっと、積極的に世界の平和に尽力すべきではないか?」と思うことだろう。
世界第二の経済大国は、確かに世界平和に関して、もっと大きな役割を果たすべきだろう。
そこで長期的に見た日本の選択肢の一つを提案しておこう。
相対神・調和の国・日本は憲法上、専守防衛しかできない国なので、どうしても日米安保条約に頼らざるを得なくなる。
だが、日米安保条約の役目は早く終わらしたいものだと誰でも思うだろう。なぜなら、いつまでたっても米国の属国で、独立国でないように思えるからだ。
そう述べたら、欧米人なら「では、日本は核兵器を装備するのだね?」と反応すると思う。それが世界政治の常識だからだ。
だが、日本人は核アレルギーを持っているだけでなく、二一世紀に核兵器など所有しても、価値がないと認識している人がほとんどだと思う。今は核拡散を禁止すべき時代なのだ。
ではどうするか? 理想主義的だと言われるのは覚悟の上だが、日本は、「地球防衛軍」の創設を提案すべきなのだ。同じような提案「国連常備軍創設構想」 は、すでに宮沢前首相によって行われているが、時代はますます「地球防衛軍」あるいは「国連常備軍」を必要としてきている。
夢のようだと言う人もいるだろう。なぜなら超大国・米国や西欧諸国は、国連に振り回されることを嫌うからだ。国連加盟国は一八〇カ国を越えるが、その半 数は国連の運営費となる分担金を払っていない。だが、一票の投票権を持っている。国連は多数決制度を採用しているので、欧米諸国の言い分が通らないことも 多いのだ。
さて、「地球防衛軍」の内容は以下のようになる。
このような地球防衛軍という組織を作ったら、基幹となる精神はなんだろうか?
このような、宗教も、人種も異なる集合体組織では、「和をもって尊しとなす」の精神が欠かせないと思う。そう、日本としては「和を保つことをすべての根幹に置く」教育を施すことを狙うことになる。
日本の社会は、いろいろ欠点もある。だが、世界で一番安全な国であることに間違いはない。インターネットや貿易で世界が狭くなると、結局、「相対神・調和」のもとにおける世界造りしか、安全に平和を保つ方法が無くなることだろう。
地球防衛軍の軍事力は五〇年も経たないと使い物にはならないかもしれない、が、その間に「地球人」の意識と語学能力を持つ若者が一〇万人となる。それだけでも、今の世界の姿は変わってくるだろう。
日本の選択を短期的に見ると、前回述べたようなことになる。
だが、誰でも「その程度の役割を果たすだけで良いのだろうか?」「もっと、積極的に世界の平和に尽力すべきではないか?」と思うことだろう。
世界第二の経済大国は、確かに世界平和に関して、もっと大きな役割を果たすべきだろう。
そこで長期的に見た日本の選択肢の一つを提案しておこう。
相対神・調和の国・日本は憲法上、専守防衛しかできない国なので、どうしても日米安保条約に頼らざるを得なくなる。
だが、日米安保条約の役目は早く終わらしたいものだと誰でも思うだろう。なぜなら、いつまでたっても米国の属国で、独立国でないように思えるからだ。
そう述べたら、欧米人なら「では、日本は核兵器を装備するのだね?」と反応すると思う。それが世界政治の常識だからだ。
だが、日本人は核アレルギーを持っているだけでなく、二一世紀に核兵器など所有しても、価値がないと認識している人がほとんどだと思う。今は核拡散を禁止すべき時代なのだ。
ではどうするか? 理想主義的だと言われるのは覚悟の上だが、日本は、「地球防衛軍」の創設を提案すべきなのだ。同じような提案「国連常備軍創設構想」 は、すでに宮沢前首相によって行われているが、時代はますます「地球防衛軍」あるいは「国連常備軍」を必要としてきている。
夢のようだと言う人もいるだろう。なぜなら超大国・米国や西欧諸国は、国連に振り回されることを嫌うからだ。国連加盟国は一八〇カ国を越えるが、その半 数は国連の運営費となる分担金を払っていない。だが、一票の投票権を持っている。国連は多数決制度を採用しているので、欧米諸国の言い分が通らないことも 多いのだ。
さて、「地球防衛軍」の内容は以下のようになる。
- 地球防衛軍は国連の管轄下に置かれる。
- 指揮権は国連総長にあたえられる。
- 実際の軍事行動には、国連の常任安全保障理事国がアドバイザーとなる。
- 資金は国連が負担する。
- 地球防衛軍の兵士は世界中から集められる。年齢は一八歳で入隊し一〇年間勤務。
- 一学年に二〇〇〇人の兵士となる。
- 兵士は、高等教育と大学教育を受け、同時に兵士としての訓練も行なわれる。
- 一〇年経つと、最初の予備役兵が誕生する。
- 教師も、教授も、軍事指導教官も世界各国から集める。
- これまでの兵士を選ぶ基準と異なり、蛮勇よりも人柄円満な人々を選ぶ。
- 男女は半々。
- 三カ国語を話せるよう教育する。
- 地球人教育を施す。
- 宗教、人種、性別による差別をなくす。
- 国籍は二重国籍となり「地球防衛軍」のパスポートを持つ。
- このパスポートがあれば、国連加盟国ならどこにでも入国できるし、働くこともできる。
- 兵士は志願制で、教育費は無料。
- 世界でも最高レベルの教育を与える。
- 地球防衛軍大学を卒業し二八歳まで勤務したら、予備兵となるが、それぞれの国に帰るのが基本。
- 世界各国の米軍基地は徐々に地球防衛軍の基地に変更していく。
- たとえば沖縄の米軍基地は、地球防衛軍の基地になる。
- 有事の際は、地球防衛軍が戦争地帯に派遣される。
- これまでの平和維持軍(PKF)の役割も果たす。
- 地球防衛軍だから当然、兵器を持つが、情報戦にも力を入れる。
- 地球防衛軍の本拠地は、できたら若い国オーストラリアに置く。
- 一〇年後には現役兵士の数は二万人となる。
このような地球防衛軍という組織を作ったら、基幹となる精神はなんだろうか?
- 自由と民主主義の拡大
- 人権の尊重
- 地球に平和を作る
- 信教の自由
- 人種差別、性差別をなくす
- 貧富の差をなくす
このような、宗教も、人種も異なる集合体組織では、「和をもって尊しとなす」の精神が欠かせないと思う。そう、日本としては「和を保つことをすべての根幹に置く」教育を施すことを狙うことになる。
日本の社会は、いろいろ欠点もある。だが、世界で一番安全な国であることに間違いはない。インターネットや貿易で世界が狭くなると、結局、「相対神・調和」のもとにおける世界造りしか、安全に平和を保つ方法が無くなることだろう。
地球防衛軍の軍事力は五〇年も経たないと使い物にはならないかもしれない、が、その間に「地球人」の意識と語学能力を持つ若者が一〇万人となる。それだけでも、今の世界の姿は変わってくるだろう。
日本人(20)教典8 長いつきあい
どんな国でも、民族でも、人々の間に信頼関係が無いと、社会が機能せず、大きな仕事もできない。だが、その信頼の形成のしかたは、国や民族によって大きく異なっている。
たとえば私が住んだことのある、オーストラリアや米国では、基本的に契約を信頼の基礎においている。契約は法律に基づいている。だから、契約を破ることは法律を破ることであり、牢獄に入ることも覚悟しなければならない。
移民が多く、宗教も異なる多様な人種が住む国家にとっては、法治国家は便利な方法だ。法律を厳しく適用すれば、まず安心して、人々に家も貸せるし、雇用もまずは安心。だが、法を破る人も多く、牢獄が満杯になるのが欠点だ。
中国には住んだことが無いが、かれらは家族を中心とした血縁を信頼する。親兄弟、親戚を第一に信頼するというわけだ。インドネシアに住んでいたときに知りあった華僑の人たちは、家族だけでなく、同郷の人々も信頼していたように見受けられた。
近所で道路掃除していた若者が、先祖が同郷だというので、援助を受けたことを知っている。同じ名字を持つ人が靴を大量に渡して、店を開かせてくれたのだ。お金は靴が売れたときに渡せばよいという条件だった。
インドネシアの華僑の人たちは、契約などは信じないところがある。親しくなったテニス・コーチは、金の延べ棒を先祖が同郷の友人に預けて事業を援助したら、相手は延べ棒をもって遁走してしまった・・・と頭を掻いていた。もちろん、契約などは何もしていない。
では、「相互神・調和」が支配する日本ではどうだろうか?
欧米が基本的に「契約」を信頼の礎にし、中国人が「血縁」を信頼の礎にしているとすると、日本人は昔の家族制度を基本にする「人間関係」を礎にしている。だが、人間関係といってもあいまいで範囲は広い。それがどうやったら信頼の礎になるのか?
日本人の場合は、すべての関係を長期化することで、信頼の礎としていると思う。たとえば会社が人を雇うのも、基本的には長期採用を考えている。一昔前までは、終身雇用が当たり前だったが、今でも基本は変わらない。
会社と会社のビジネス関係でも同じ。長期な関係を築くことによって、信頼関係を高めている。
長期の関係を築くには、「和」の精神が肝心だ。長いつきあいだと、時には喧嘩もするかもしれない。だが、「まあまあ」と収めて、双方に妥協を求めるのが「相互神・調和」のやりかただ。長期につきあうことができたということは、「和」が保てたということだ。
日本人は中国人のように「血縁」、つまり家族も大切にする。昔の家族制度のなごりだろうか? 結婚だって個人と個人の問題だけでなく、家族と家族の問題 と考える傾向が今も強い。だが中国人や華僑よりは長期にわたる関係で気付かれた人間関係を信頼する。日本では「契約」といったら、あってもないのとほとん ど変わらない。
日本では疑似血縁の関係もうまく機能している。
それは親企業と下請け企業、孫請け企業の関係に顕著だ。親会社と下請け会社はまるで家族のように密接な関係にあることが多い。それも長年のつきあいで培われた人間関係の賜物だ。
会社の中の人間関係も疑似血縁的であり、家族の一員として扱われる。
日本的な信頼関係の作り方には、もちろん弊害もある。中国人や華僑ほど閉鎖的ではないにしても、欧米社会に比べると閉鎖的なのだ。人間関係という、契約書ではかけないものを礎としているから、どうしても信頼を築くのには時間がかかるからだ。
日本の伝統的な企業は、人を雇うときは慎重だ。家族的背景を調べるだけでなく、雇うときめた人の実家を見に行ったりもする。家族の一員としようと考える場合、どうしても結婚相手を見つけるくらいの慎重さが要求されるのだ。
さて日本のビジネス社会はグローバルスタンダードに合わせていかなければならず、首切りもどんどんすべきだという人もいる。また、長期的な関係を保てそうな人の良さより、有能で仕事のできる人間を優先する社会になっていくだろうと言われている。
だが、そういくことにはならないのだ。なぜなら日本の社会の根底が覆ってしまうからだ。長いつきあいを信頼の基礎にするという日本の伝統は、「相互神・ 調和」の国の基本ルールの一つだ。したがって、長期的な採用、長期的なビジネス関係という、日本的経営方法は、いつまでも残ると見て間違いない。
長期で安定した人間関係は「調和」を保つのには最適だ。これは「相互神・調和」の支配する国の知恵なのだ。
たとえば私が住んだことのある、オーストラリアや米国では、基本的に契約を信頼の基礎においている。契約は法律に基づいている。だから、契約を破ることは法律を破ることであり、牢獄に入ることも覚悟しなければならない。
移民が多く、宗教も異なる多様な人種が住む国家にとっては、法治国家は便利な方法だ。法律を厳しく適用すれば、まず安心して、人々に家も貸せるし、雇用もまずは安心。だが、法を破る人も多く、牢獄が満杯になるのが欠点だ。
中国には住んだことが無いが、かれらは家族を中心とした血縁を信頼する。親兄弟、親戚を第一に信頼するというわけだ。インドネシアに住んでいたときに知りあった華僑の人たちは、家族だけでなく、同郷の人々も信頼していたように見受けられた。
近所で道路掃除していた若者が、先祖が同郷だというので、援助を受けたことを知っている。同じ名字を持つ人が靴を大量に渡して、店を開かせてくれたのだ。お金は靴が売れたときに渡せばよいという条件だった。
インドネシアの華僑の人たちは、契約などは信じないところがある。親しくなったテニス・コーチは、金の延べ棒を先祖が同郷の友人に預けて事業を援助したら、相手は延べ棒をもって遁走してしまった・・・と頭を掻いていた。もちろん、契約などは何もしていない。
では、「相互神・調和」が支配する日本ではどうだろうか?
欧米が基本的に「契約」を信頼の礎にし、中国人が「血縁」を信頼の礎にしているとすると、日本人は昔の家族制度を基本にする「人間関係」を礎にしている。だが、人間関係といってもあいまいで範囲は広い。それがどうやったら信頼の礎になるのか?
日本人の場合は、すべての関係を長期化することで、信頼の礎としていると思う。たとえば会社が人を雇うのも、基本的には長期採用を考えている。一昔前までは、終身雇用が当たり前だったが、今でも基本は変わらない。
会社と会社のビジネス関係でも同じ。長期な関係を築くことによって、信頼関係を高めている。
長期の関係を築くには、「和」の精神が肝心だ。長いつきあいだと、時には喧嘩もするかもしれない。だが、「まあまあ」と収めて、双方に妥協を求めるのが「相互神・調和」のやりかただ。長期につきあうことができたということは、「和」が保てたということだ。
日本人は中国人のように「血縁」、つまり家族も大切にする。昔の家族制度のなごりだろうか? 結婚だって個人と個人の問題だけでなく、家族と家族の問題 と考える傾向が今も強い。だが中国人や華僑よりは長期にわたる関係で気付かれた人間関係を信頼する。日本では「契約」といったら、あってもないのとほとん ど変わらない。
日本では疑似血縁の関係もうまく機能している。
それは親企業と下請け企業、孫請け企業の関係に顕著だ。親会社と下請け会社はまるで家族のように密接な関係にあることが多い。それも長年のつきあいで培われた人間関係の賜物だ。
会社の中の人間関係も疑似血縁的であり、家族の一員として扱われる。
日本的な信頼関係の作り方には、もちろん弊害もある。中国人や華僑ほど閉鎖的ではないにしても、欧米社会に比べると閉鎖的なのだ。人間関係という、契約書ではかけないものを礎としているから、どうしても信頼を築くのには時間がかかるからだ。
日本の伝統的な企業は、人を雇うときは慎重だ。家族的背景を調べるだけでなく、雇うときめた人の実家を見に行ったりもする。家族の一員としようと考える場合、どうしても結婚相手を見つけるくらいの慎重さが要求されるのだ。
さて日本のビジネス社会はグローバルスタンダードに合わせていかなければならず、首切りもどんどんすべきだという人もいる。また、長期的な関係を保てそうな人の良さより、有能で仕事のできる人間を優先する社会になっていくだろうと言われている。
だが、そういくことにはならないのだ。なぜなら日本の社会の根底が覆ってしまうからだ。長いつきあいを信頼の基礎にするという日本の伝統は、「相互神・ 調和」の国の基本ルールの一つだ。したがって、長期的な採用、長期的なビジネス関係という、日本的経営方法は、いつまでも残ると見て間違いない。
長期で安定した人間関係は「調和」を保つのには最適だ。これは「相互神・調和」の支配する国の知恵なのだ。
日本人(21)教典9 ゆるやかな全体主義
米国がアフガニスタンを爆撃して、戦争が起こっている。世界一の大国と、世界で下から三番目に貧しい国との戦いだ。
戦争になると、一番無視されるのが、子どもであり、女性であり、老人であり、病人などの弱者だ。彼らの存在は二の次、三の次になってしまう。
だから戦争が終わって平和になることは好ましい。
だが、誰でもが食べられるような経済発展があると、さらに良い。
衣食立って礼節を知るではないが、女性の立場の改善、病人などの弱者に手を差し伸べることなどは、ある程度国が豊かにならないと、できないことだと思う。
つまり欧米が強調する人権の確保などは、もちろん大切なことだ。しかし、人権の確立をするには、戦争が無くなって平和になることや、経済発展も必要なのだ。戦争が始まったら、人権問題などは無視されてしまうことが多いだろう。
欧米諸国、特に英米は「二重基準」の国だ。彼らは殺し合いもルールに基づいてやろうとする。「二重基準」は便利だ。いろいろと自分に都合よく解釈できる からだ。だが、アジアにはルールに基づいて殺し合いをやるというような感覚はない。何でも有りの混沌とした社会が、アジアであり、「二重基準」は欧米から 学んだことだ。最近のアラブによるテロを見ると、中東諸国も、感覚的にはアジアなのだな・・・と思う。この「二重基準」についてはそのうちもっと詳しく説 明しなければならない。
さて、日本の「調和主義」がどのくらいの歴史を持つのかは、はっきりしないが、明らかに平和である程度の調和が実現したのは、徳川政府の鎖国時代の三〇 〇年間だろう。もちろん農民は搾取され、数千回の農民一揆が起こっているから、戦国時代に比べて比較的に平和だったに過ぎない。
徳川政権は、人質をとったり、参勤交代をさせたり、隠密を放って、秘密を探ったり、いろいろと厳しい監視体制を敷いて、どうやら秩序を保った。
では現代の「相互神・調和」の国では、どのようにして秩序が保たれているか? それは「おだやかな全体主義」だと言って良いだろう。おだやかな全体主義は、いろいろなテクニックを使って、社会に調和に近い状態を作ろうとする。
そのまず第一の方法は、若者をいつまでも子どもにしておくことだ。
若者は爆発的なエネルギーを持っている。社会に変革を起こせるのは若者しかいない。だが、この若者のエネルギーが暴走すると、社会に平和も調和も無くなってしまう。
したがって調和主義の国・日本では、若者たちになるべくいつまでも自立しないで、「赤ちゃん」でいて欲しいと、権力者、老人たちは願っている。
日本の若者たちは子どもっぽいか? 一般的に言えば、欧米人よりも子供っぽいといえるだろう。大学生でも自己の確立ができ、大人になっている若者は少数派で、ほとんどが高校生のような幼い意識で生きていると思う。
社会の調和を保つには、エネルギーが最大の若者が子供っぽく、大人の言うことを聞いてくれれば、権力者たちにとっては、極めて好都合なのだ。
女性も家庭におとなしくしていて、旦那の言うことを素直に聞いてくれる方が、社会に波が立たなくて良い・・・というのがこれまでの調和主義だった。だが、日本の国が豊かになるにつれ、その状態は、急速に変わりつつある。
日本が豊かになったのは戦後の五〇年だ。明治の時代も、豊かだったのは一部の人だけだ。世界第二の経済大国になって、ようやく日本も、女性、弱者などの 人権が認められるようになってきたのだ。最近の新聞に、離婚した女性にも厚生年金が与えられることになったと書いてあったが、これにはびっくりした。これ までは、離婚すると男にしか、年金が払われてこなかったのだ。これにも古い調和主義の知恵が出ている。つまり、男尊女卑は、貧しい国の調和主義を保つに は、便利だったのだ。弱者を無視するのも、貧しい国の調和主義では当たり前だった。
最初に述べたように、国の状態には、四段階があり、これが複雑に織りなしている
「ゆるやかな全体主義」は「相互神・調和」の国で、調和を保っていくのに、今のところ、どうしても必要な統治スタイルのようだ。この方法だと、ハッキリ とコントロールしていると悟られずに統治ができる。このスタイルでは民主主義というよりも、官僚や政治家など一部のエリートが、国民にすべてを知らせず に、子ども扱いして国をリードしていく。「依らしむべし、知らしむべからず」の世界なのだ。
戦争になると、一番無視されるのが、子どもであり、女性であり、老人であり、病人などの弱者だ。彼らの存在は二の次、三の次になってしまう。
だから戦争が終わって平和になることは好ましい。
だが、誰でもが食べられるような経済発展があると、さらに良い。
衣食立って礼節を知るではないが、女性の立場の改善、病人などの弱者に手を差し伸べることなどは、ある程度国が豊かにならないと、できないことだと思う。
つまり欧米が強調する人権の確保などは、もちろん大切なことだ。しかし、人権の確立をするには、戦争が無くなって平和になることや、経済発展も必要なのだ。戦争が始まったら、人権問題などは無視されてしまうことが多いだろう。
欧米諸国、特に英米は「二重基準」の国だ。彼らは殺し合いもルールに基づいてやろうとする。「二重基準」は便利だ。いろいろと自分に都合よく解釈できる からだ。だが、アジアにはルールに基づいて殺し合いをやるというような感覚はない。何でも有りの混沌とした社会が、アジアであり、「二重基準」は欧米から 学んだことだ。最近のアラブによるテロを見ると、中東諸国も、感覚的にはアジアなのだな・・・と思う。この「二重基準」についてはそのうちもっと詳しく説 明しなければならない。
さて、日本の「調和主義」がどのくらいの歴史を持つのかは、はっきりしないが、明らかに平和である程度の調和が実現したのは、徳川政府の鎖国時代の三〇 〇年間だろう。もちろん農民は搾取され、数千回の農民一揆が起こっているから、戦国時代に比べて比較的に平和だったに過ぎない。
徳川政権は、人質をとったり、参勤交代をさせたり、隠密を放って、秘密を探ったり、いろいろと厳しい監視体制を敷いて、どうやら秩序を保った。
では現代の「相互神・調和」の国では、どのようにして秩序が保たれているか? それは「おだやかな全体主義」だと言って良いだろう。おだやかな全体主義は、いろいろなテクニックを使って、社会に調和に近い状態を作ろうとする。
そのまず第一の方法は、若者をいつまでも子どもにしておくことだ。
若者は爆発的なエネルギーを持っている。社会に変革を起こせるのは若者しかいない。だが、この若者のエネルギーが暴走すると、社会に平和も調和も無くなってしまう。
したがって調和主義の国・日本では、若者たちになるべくいつまでも自立しないで、「赤ちゃん」でいて欲しいと、権力者、老人たちは願っている。
日本の若者たちは子どもっぽいか? 一般的に言えば、欧米人よりも子供っぽいといえるだろう。大学生でも自己の確立ができ、大人になっている若者は少数派で、ほとんどが高校生のような幼い意識で生きていると思う。
社会の調和を保つには、エネルギーが最大の若者が子供っぽく、大人の言うことを聞いてくれれば、権力者たちにとっては、極めて好都合なのだ。
女性も家庭におとなしくしていて、旦那の言うことを素直に聞いてくれる方が、社会に波が立たなくて良い・・・というのがこれまでの調和主義だった。だが、日本の国が豊かになるにつれ、その状態は、急速に変わりつつある。
日本が豊かになったのは戦後の五〇年だ。明治の時代も、豊かだったのは一部の人だけだ。世界第二の経済大国になって、ようやく日本も、女性、弱者などの 人権が認められるようになってきたのだ。最近の新聞に、離婚した女性にも厚生年金が与えられることになったと書いてあったが、これにはびっくりした。これ までは、離婚すると男にしか、年金が払われてこなかったのだ。これにも古い調和主義の知恵が出ている。つまり、男尊女卑は、貧しい国の調和主義を保つに は、便利だったのだ。弱者を無視するのも、貧しい国の調和主義では当たり前だった。
最初に述べたように、国の状態には、四段階があり、これが複雑に織りなしている
- 戦争状態にある。
- 平和がかろうじて保たれている
- 経済が発展して人々が豊かになる
- 人権などが確保されるようになる
「ゆるやかな全体主義」は「相互神・調和」の国で、調和を保っていくのに、今のところ、どうしても必要な統治スタイルのようだ。この方法だと、ハッキリ とコントロールしていると悟られずに統治ができる。このスタイルでは民主主義というよりも、官僚や政治家など一部のエリートが、国民にすべてを知らせず に、子ども扱いして国をリードしていく。「依らしむべし、知らしむべからず」の世界なのだ。
日本人(22)
「相対神・調和」の社会(1)
チーズフォンドユというスイスの料理がある。肉や野菜を串に刺し、チーズの中に入れて煮て食べる料理だ。このとき串から肉や野菜をチーズの中に落としてしまう人がいる。
スイス人のルールでは、落とした人が、その日のテーブルに座っている人の食事代をすべて払うという。
ところがフランスに行くと、落とした人は、同じテーブルの異性全員にキスをしなければならない。男が落としたら女性にキス。女性は男にキスするのだ。
場所が変わって、米国のサンフランシスコだと、チーズの中に肉や野菜を落とした人は、同じテーブルの同性にキスをするという。男は男にキスして、女は女にキスする。
では、日本でのルールは何か?
日本人はどうするのか?
答えは最後にしよう。
さて、「相対神・調和」が支配する国には、教典を信奉する結果、良い面と悪い面がいろいろ生まれている。今回は、まずその良い面を見てみよう。
まず、外国人が一番驚くのは、日本という国の安全性の高さだ。もっとも最近は、「安全な国・日本」の神話も崩れてきてはいる。だが、それでも、世界の他の国々に比べれば夜中に出歩いても安全だ。
安全な社会が生まれた理由はいろいろあるが、基本的には、人間関係をよりどころにしている社会だからだろう。人間関係の基本は信頼だ。この信頼をはぐく んできた社会が日本なのだ。もう一つは、日本が「ゆるやかな全体主義」の国家だからだろう。全体主義だから、けっこう監視の目が行き届いているのだ。そこ で公共心も発達しており、ごみなどをやたらに捨てる人も少ない。
さらに、いまや日本人は基本的に戦争嫌いだ。調和を求める国として平和第一主義なのは当然だろう。これも良いことだ。
家族関係を見ても、核家族になったとはいえ、まだまだ家族主義が残っており、欧米などに比べれば、お年寄りの面倒も日本人はよくみている。東京に住む六 〇歳以上の人々の四六%が息子や娘家族と暮らしているという統計も見たことがある。欧米では、年寄り夫婦は老人ホームに送られることが多い。
日本は労使の関係も良好だ。労使だけでなく、そもそも社会に紛争も少なめで、裁判沙汰が少なく、弁護士の数も少ない。もめ事があっても話し合いで解決しようというのが「相対神・調和」の国のやり方だが、まあ、成功している。
さらに「ゆるやかな全体主義」のおかげで、国がまとまっており、国民の八〇%が似た考えを持っている。
あるインド人の新聞記者に聞かれたことがある。「なんで自民党の一党独裁が長く続くのだろう?」
「それはね、日本人の八〇%が同じ考え方をしているからさ。日本では欧米的な民主主義は機能しないんだ。なぜなら、反対勢力が共産党以外にないからね。 日本人の九〇%が中流意識を持っている。そうなると、価値観の違いは少ない。そこで自由民主党でも民主党でも自由党でも、実際、同じようなもんだし、二大 政党は生まれないんだ。基本的に、日本は一党独裁の国なんだよ」
一党独裁制は、経済成長の時には便利だった。また国の安定には役立つが、今の時代のように、改革が必要なときには大きな抵抗勢力となって、革命でしか倒せないという欠点がある。
だが、一党独裁制は調和主義の国にふさわしい。調和が取れている証拠のようなものだ。
最後になるが、「相対神・調和」が支配する日本の良いところは、国民の生真面目さにあるだろう。
なぜ日本人は生真面目なのか? 実はそれが「相対神・調和」の社会では、非常に重要だからだ。
「絶対神」のような絶対が無い日本では、「人々にどう思われるか」が、大きな判断要素になる。欧米人は「絶対神」にどう思われるかが大事で、人々にどう 思われるかは、それほど気にしない。つまり「神」と直接対話し、進退を決める。ところが日本ではすべてが相対的だ。相対とは、すなわち他の人々に相対的に 「どう思われるか?」だ。つまり「人にどう思われるか」で進退も決める。たとえば息子や娘が人を殺めたりして世間様を騒がせたら、両親が責任を感じて自殺 したりするのが日本だ。
つまり日本における「絶対」は「人々の目」なのだ。そこで、「人にどう思われるか」を常に気にする日本人は、生真面目になる。生真面目ならば、まず人々 から後ろ指を指されることはない。人々に好かれ、支援され、後ろ指を指されないこと、が日本の社会では極めて重要だ。人に迷惑をかけることは重大な過ち だ。人々の行動も、この観点から規制されている。
当然、日本人は責任感が強い。特に「人々の目」にたいして責任を取る。だから日本人は人間関係において特に几帳面なのだ。今でもお歳暮や、お中元は、人間関係を保つ大切な習慣だ。
一方、欧米人の責任感の強い人は、「神の目」「法律の目」に対して責任を取る。「神の目」「法律の目」に対して几帳面に対応するのだ。
そこで最初の笑い話の答えがおわかりだろうか?
チーズフォンドユで串から肉や野菜を落としたら、日本のルールでは「ハラキリ(切腹)」をするのだ!
スイス人のルールでは、落とした人が、その日のテーブルに座っている人の食事代をすべて払うという。
ところがフランスに行くと、落とした人は、同じテーブルの異性全員にキスをしなければならない。男が落としたら女性にキス。女性は男にキスするのだ。
場所が変わって、米国のサンフランシスコだと、チーズの中に肉や野菜を落とした人は、同じテーブルの同性にキスをするという。男は男にキスして、女は女にキスする。
では、日本でのルールは何か?
日本人はどうするのか?
答えは最後にしよう。
さて、「相対神・調和」が支配する国には、教典を信奉する結果、良い面と悪い面がいろいろ生まれている。今回は、まずその良い面を見てみよう。
まず、外国人が一番驚くのは、日本という国の安全性の高さだ。もっとも最近は、「安全な国・日本」の神話も崩れてきてはいる。だが、それでも、世界の他の国々に比べれば夜中に出歩いても安全だ。
安全な社会が生まれた理由はいろいろあるが、基本的には、人間関係をよりどころにしている社会だからだろう。人間関係の基本は信頼だ。この信頼をはぐく んできた社会が日本なのだ。もう一つは、日本が「ゆるやかな全体主義」の国家だからだろう。全体主義だから、けっこう監視の目が行き届いているのだ。そこ で公共心も発達しており、ごみなどをやたらに捨てる人も少ない。
さらに、いまや日本人は基本的に戦争嫌いだ。調和を求める国として平和第一主義なのは当然だろう。これも良いことだ。
家族関係を見ても、核家族になったとはいえ、まだまだ家族主義が残っており、欧米などに比べれば、お年寄りの面倒も日本人はよくみている。東京に住む六 〇歳以上の人々の四六%が息子や娘家族と暮らしているという統計も見たことがある。欧米では、年寄り夫婦は老人ホームに送られることが多い。
日本は労使の関係も良好だ。労使だけでなく、そもそも社会に紛争も少なめで、裁判沙汰が少なく、弁護士の数も少ない。もめ事があっても話し合いで解決しようというのが「相対神・調和」の国のやり方だが、まあ、成功している。
さらに「ゆるやかな全体主義」のおかげで、国がまとまっており、国民の八〇%が似た考えを持っている。
あるインド人の新聞記者に聞かれたことがある。「なんで自民党の一党独裁が長く続くのだろう?」
「それはね、日本人の八〇%が同じ考え方をしているからさ。日本では欧米的な民主主義は機能しないんだ。なぜなら、反対勢力が共産党以外にないからね。 日本人の九〇%が中流意識を持っている。そうなると、価値観の違いは少ない。そこで自由民主党でも民主党でも自由党でも、実際、同じようなもんだし、二大 政党は生まれないんだ。基本的に、日本は一党独裁の国なんだよ」
一党独裁制は、経済成長の時には便利だった。また国の安定には役立つが、今の時代のように、改革が必要なときには大きな抵抗勢力となって、革命でしか倒せないという欠点がある。
だが、一党独裁制は調和主義の国にふさわしい。調和が取れている証拠のようなものだ。
最後になるが、「相対神・調和」が支配する日本の良いところは、国民の生真面目さにあるだろう。
なぜ日本人は生真面目なのか? 実はそれが「相対神・調和」の社会では、非常に重要だからだ。
「絶対神」のような絶対が無い日本では、「人々にどう思われるか」が、大きな判断要素になる。欧米人は「絶対神」にどう思われるかが大事で、人々にどう 思われるかは、それほど気にしない。つまり「神」と直接対話し、進退を決める。ところが日本ではすべてが相対的だ。相対とは、すなわち他の人々に相対的に 「どう思われるか?」だ。つまり「人にどう思われるか」で進退も決める。たとえば息子や娘が人を殺めたりして世間様を騒がせたら、両親が責任を感じて自殺 したりするのが日本だ。
つまり日本における「絶対」は「人々の目」なのだ。そこで、「人にどう思われるか」を常に気にする日本人は、生真面目になる。生真面目ならば、まず人々 から後ろ指を指されることはない。人々に好かれ、支援され、後ろ指を指されないこと、が日本の社会では極めて重要だ。人に迷惑をかけることは重大な過ち だ。人々の行動も、この観点から規制されている。
当然、日本人は責任感が強い。特に「人々の目」にたいして責任を取る。だから日本人は人間関係において特に几帳面なのだ。今でもお歳暮や、お中元は、人間関係を保つ大切な習慣だ。
一方、欧米人の責任感の強い人は、「神の目」「法律の目」に対して責任を取る。「神の目」「法律の目」に対して几帳面に対応するのだ。
そこで最初の笑い話の答えがおわかりだろうか?
チーズフォンドユで串から肉や野菜を落としたら、日本のルールでは「ハラキリ(切腹)」をするのだ!
日本人(23)社会(2)
酔っ払い
世界に名高い日本の名物の一つは、酔っ払いだ。
お花見シーズンともなると、私の棲み家のそばにある井の頭公園などでは、花見の宴がさかんに行われ、夜には酔っ払いであふれ、卒倒してる人、げろげろ吐いている人などがごろごろ居る。
日本の酔っ払いは、花見の時だけに見られる現象ではない。毎日のように、人々は泥酔しており、駅のホームで死んだ魚みたいに寝込み、げろげろ吐いているひとを見ない日はない。
そういう私も二〇歳代の独身時代は月曜から金曜まで毎日、飲み歩いた。それも一軒では終わらず、毎晩三軒も飲み屋をはしごするのが日常だった。統計的数字は持っていないが、日本ほど、飲み屋の数が多い国は世界に無いと思う。
日本人は、すごく酔っ払いに寛容だ。酔っぱらって道路に寝転がって、朝まで気付かなくとも、別に非難する人はいない。酔っぱらって、次の朝、何も覚えていなくとも、愛嬌で済む。非礼な振る舞いも暴言も、酒を呑んでいたからしかたがないと、許される。
日本の社会は呆れるほど酔っ払いに温かい目を注ぐ。
だが、外国ではこうはいかない。
だいたい欧米で見る酔っ払いというのは、人生の敗者のように見える人が多い。そう、やけ酒を飲んでいるのだ。もちろん日本でもやけ酒飲んで、虎になっている人は多いが、普通の人でも、成功しているビジネスマンでも酔っぱらって、千鳥足で歩いたりする。
欧米にもアル中は多いが、彼らは家で呑んでいるようだ。だいたい米国やオーストラリアのパブで酒を飲むのは、社交目的だと思う。知らない人同士でもすぐに会話に入れるし、一人でいるとすぐに「ハイ」とか「ハロー」と言って、話しかけてくる。
インドネシアはイスラム教の国だったので、だいたい酒飲みが少なかった。中国やタイ王国でも、米国でもオーストラリアでも、私の友人たちが度を過ぎて酔っぱらったのは見たことが無い。中国やタイで、ヘベレケに酔って醜態を見せたら、まず確実に軽蔑されると思う。
酔っ払いに寛容で温かい目を注ぐ日本人は、世界でも珍しい存在なのだ。
それにはもちろん理由がある。
「相対神・調和」の社会では、酒が欠かせないのだ。
「相対神・調和」の社会では、「本音」が言えない。いつでも「本音」が言えるのはコメディアンぐらいだ。いや、いつも本音を言っていると、コメディアンと間違えられる。
この社会では人々となるべく喧嘩しないように努力する。理屈は大事にされず、「和」のためにということで理にあわないことがまかり通る。個人の個性は押 しつぶされがちで、妥協することが大人だとされる。こんな社会で長く生きてきたら、少しは息抜きが必要だ。それが酒の席になるのだ。
「相対神・調和」の支配する日本ほど、フラストレーションが溜まる社会は世界にないのではないだろうか。酒は日本人のフラストレーションを解消する大事な薬なのだ。
日本人が酒を飲むのは、だいたい仲間とだ。知らない人とパブで知りあいになるという風習はあまりない。仕事仲間、学校仲間、遊び仲間と呑む。ここでは、 お互いに気も使うが、同時に、けっこう「本音」を言っても許される。「本音」をあまり言い過ぎると喧嘩になるが、それでも酒の上での喧嘩だから・・・と言 うことで、素面(しらふ)になったら仲直りができる。
日ごろまじめそうな仮面をかぶっている人も、ここでは脱ぐことができる。そう、「本音」を言えない日本人は、皆、仮面をかぶって生きている。だから酒の 場に参加すれば、人々の素顔を見ることもできるわけだ。お酒の宴は日本人に取っては、大変に便利であり、無くてはならない場なのだ。
さてこのように、「相対神・調和」が支配する国ではお酒による無礼講が、神話の時代から存在したようだが、一つだけ落とし穴がある。
それは、フラストレーションが解消されているうちはいいが、解消されないときの日本人の行動だ。
日本の社会はある意味でアリ地獄に似ている。誰もが成功者になろうとしてアリ地獄からはい出ようとする。だが、お互いに足を引っ張ってなかなか出られない。そういう社会で日本人は我慢に我慢を重ねる。その結果が、「忠臣蔵」のような刃傷沙汰になりやすいことにつながる。
日本人は調和のために妥協に妥協を重ねる。前にも言ったが、正しいか間違っているかよりも「和」を保つことが重要な社会が日本だ。したがって、時には理不尽な申し出であっても、「和」のために我慢して妥協する。
これを続けていて。フラストレーションを発散する場所が無いと、日本人は突然、糸の切れた凧みたいに飛んでいってしまう。
お花見シーズンともなると、私の棲み家のそばにある井の頭公園などでは、花見の宴がさかんに行われ、夜には酔っ払いであふれ、卒倒してる人、げろげろ吐いている人などがごろごろ居る。
日本の酔っ払いは、花見の時だけに見られる現象ではない。毎日のように、人々は泥酔しており、駅のホームで死んだ魚みたいに寝込み、げろげろ吐いているひとを見ない日はない。
そういう私も二〇歳代の独身時代は月曜から金曜まで毎日、飲み歩いた。それも一軒では終わらず、毎晩三軒も飲み屋をはしごするのが日常だった。統計的数字は持っていないが、日本ほど、飲み屋の数が多い国は世界に無いと思う。
日本人は、すごく酔っ払いに寛容だ。酔っぱらって道路に寝転がって、朝まで気付かなくとも、別に非難する人はいない。酔っぱらって、次の朝、何も覚えていなくとも、愛嬌で済む。非礼な振る舞いも暴言も、酒を呑んでいたからしかたがないと、許される。
日本の社会は呆れるほど酔っ払いに温かい目を注ぐ。
だが、外国ではこうはいかない。
だいたい欧米で見る酔っ払いというのは、人生の敗者のように見える人が多い。そう、やけ酒を飲んでいるのだ。もちろん日本でもやけ酒飲んで、虎になっている人は多いが、普通の人でも、成功しているビジネスマンでも酔っぱらって、千鳥足で歩いたりする。
欧米にもアル中は多いが、彼らは家で呑んでいるようだ。だいたい米国やオーストラリアのパブで酒を飲むのは、社交目的だと思う。知らない人同士でもすぐに会話に入れるし、一人でいるとすぐに「ハイ」とか「ハロー」と言って、話しかけてくる。
インドネシアはイスラム教の国だったので、だいたい酒飲みが少なかった。中国やタイ王国でも、米国でもオーストラリアでも、私の友人たちが度を過ぎて酔っぱらったのは見たことが無い。中国やタイで、ヘベレケに酔って醜態を見せたら、まず確実に軽蔑されると思う。
酔っ払いに寛容で温かい目を注ぐ日本人は、世界でも珍しい存在なのだ。
それにはもちろん理由がある。
「相対神・調和」の社会では、酒が欠かせないのだ。
「相対神・調和」の社会では、「本音」が言えない。いつでも「本音」が言えるのはコメディアンぐらいだ。いや、いつも本音を言っていると、コメディアンと間違えられる。
この社会では人々となるべく喧嘩しないように努力する。理屈は大事にされず、「和」のためにということで理にあわないことがまかり通る。個人の個性は押 しつぶされがちで、妥協することが大人だとされる。こんな社会で長く生きてきたら、少しは息抜きが必要だ。それが酒の席になるのだ。
「相対神・調和」の支配する日本ほど、フラストレーションが溜まる社会は世界にないのではないだろうか。酒は日本人のフラストレーションを解消する大事な薬なのだ。
日本人が酒を飲むのは、だいたい仲間とだ。知らない人とパブで知りあいになるという風習はあまりない。仕事仲間、学校仲間、遊び仲間と呑む。ここでは、 お互いに気も使うが、同時に、けっこう「本音」を言っても許される。「本音」をあまり言い過ぎると喧嘩になるが、それでも酒の上での喧嘩だから・・・と言 うことで、素面(しらふ)になったら仲直りができる。
日ごろまじめそうな仮面をかぶっている人も、ここでは脱ぐことができる。そう、「本音」を言えない日本人は、皆、仮面をかぶって生きている。だから酒の 場に参加すれば、人々の素顔を見ることもできるわけだ。お酒の宴は日本人に取っては、大変に便利であり、無くてはならない場なのだ。
さてこのように、「相対神・調和」が支配する国ではお酒による無礼講が、神話の時代から存在したようだが、一つだけ落とし穴がある。
それは、フラストレーションが解消されているうちはいいが、解消されないときの日本人の行動だ。
日本の社会はある意味でアリ地獄に似ている。誰もが成功者になろうとしてアリ地獄からはい出ようとする。だが、お互いに足を引っ張ってなかなか出られない。そういう社会で日本人は我慢に我慢を重ねる。その結果が、「忠臣蔵」のような刃傷沙汰になりやすいことにつながる。
日本人は調和のために妥協に妥協を重ねる。前にも言ったが、正しいか間違っているかよりも「和」を保つことが重要な社会が日本だ。したがって、時には理不尽な申し出であっても、「和」のために我慢して妥協する。
これを続けていて。フラストレーションを発散する場所が無いと、日本人は突然、糸の切れた凧みたいに飛んでいってしまう。
日本人(24)調和の社会(3) 天才
元巨人軍の長嶋監督といったら、日本では人気者だ。若いときから天才肌で活躍し、いまだに国民的ヒーローのようだ。
ある夏、五~六人の集まりで西瓜がテーブルに出された。周りに座っていた関係者たちが、手を出す前に、まず手を出したのが天才・長嶋だったという。彼は、三日月に切られている西瓜の上の部分、そうそう、一番、甘い部分をナイフでなめるようにカットし、食べてしまった。
周りの人は、呆れてあっけにとられていた。
長嶋は、別のお皿に乗っていた西瓜も、同じ要領で食べた。そして周りを見渡して「みんな、どうしたの、なんで西瓜食べないの?」と聞いたそうだ。
これは友人からのまた聞きだし、有名人はとかく揶揄されるから、まあ天才・長嶋なら「あってもおかしくない話」ぐらいに、受け取ったほうが良いだろう。
もう一人の野球の天才はイチローだ。同じ天才でも、個人的にはイチローの方が好きだ。なぜって、長嶋とは正反対で、周りの人の気持ちを大切にする「相対神・調和」の社会が生んだ典型的日本人のように思えるからだ。
だが、二人には共通点がある。それは何か?
マイペースを貫いていることだ。
いろいろと心づかいをするタイプのイチローでも、記者会見の数を制限するとか、なるべく雑念が入らないように工夫をしている。
日本が生んだ天才の一人には、映画監督の黒沢明もいる。この方は、「黒沢天皇」と言われるくらいマイペースを貫いたことで有名だ。
こういう天才もいるのだが、欧米人から見ると、日本人はみんな同じに見えるらしい。
ワシントンに住む米国人ジャーナリストから「日本人は働きアリのように見える」と言われたことがある。「良く働くし、集団生活しているが、一人ひとりの顔が良く見えない。みんな、同じに見えて不気味」という。
彼は日本に来たことがないので、日本人のサラリーマンや工場で働く人々の姿をテレビや新聞で見て、そう思ったのだろう。
たしかに「相対神・調和」の国の人々は、通常、仮面をかぶって生きている。サラリーマンの仮面や、主婦の仮面、学生、OLの仮面。だから、確かに「本音」が見えず、表情も乏しい。
だが、日本人の間で、日本人として生活していると、「日本人は、なんて個性が強いのだろう」と感じる。ながく日本人をやっていると、周りの人の仮面の下 の素顔を見抜くことが上手になるのだ。そこで、「あー、なんて日本人は強烈な個性の持ち主ばかりなのだろう」と、感心することになる。
フィリピンの若い女性から、「日本人というと恥ずかしがり屋で、侍のように生真面目で、ユーモアに欠ける人々という印象を持ってるわ。奥ゆかしいのも良いけど、もっと国際感覚や社交性が必要ね」と言われたこともある。
中国人の友人からは「日本人は異民族に慣れていない。中国人は、昔から、異民族と生活しているからね」と言われた。
確かに島国・日本の住人は、異国民とのつきあいが下手なようだ。それはみとめるが、日本人は「社交性にも富んでいるし、ユーモア感覚もすごくある」とい うのが、私たちの実感だと思う。それにフィリピン人のように社交的なのも素晴らしいが、日本人的な奥ゆかしさはもっとよいと思う。
「相対神・調和」の国では、みんな仮面をかぶっている。だから、一見、ユーモアを解さず、社交性も欠けると見られる。だが、それは外部から見た日本人の姿なのだ。
日本人は身内や、仲間内では、人が変わったようにユーモラスになり、社交的になる。そう、欧米人が見てるのは仮面なのだ。仮面の下の日本人が冗談好きで、社交的なのは、落語の人気や、飲み屋の多さでわかるではないか。
相対神・調和の国では、絶対神がないので、お互いの顔色を窺って、相対的に正しいと思われる行動をする。だから、感情を爆発させるわけにもいかない。顔色を読まれると「本音」がばれるので仮面をかぶる。
この社会は気苦労の多い社会なのだ。「調和」を保つためにものすごいエネルギーを使っている。
日本からは天才が出にくいと言われる。確かにノーベル賞をとる人の数も少ない。「出る釘は打たれる」。お互いの足を引っ張って、異分子を排除する。そ う、日本では他の人と異なっていることは「悪」とみなされる。天才は異分子だし、普通は変わり者だ。だから、日本では潰される傾向が強い。
天才であるにはマイペースを貫く必要があるが、その一つの方法は、天才・長嶋みたいに極楽トンボになることだ。ナルシストになることだ。「ノーテンキー」になることだ。
私も光栄なことに「ノーテンキー」だと言われたことがある。その時は、意味がわからず、一年間、語源を探した。広辞苑にも載っていなかった。「テン キー」が「ない」。つまり計算ができないことだと思っていた。そしたら「能天気」という字が使われているのを見たが、結局「脳天気」が正解らしい。
ようするに「クルクルパー」だ。日本で、天才として生きるには「クルクルパー」でなくてはならないとしたら、イチローは米国に渡って正解だったことになる。
ある夏、五~六人の集まりで西瓜がテーブルに出された。周りに座っていた関係者たちが、手を出す前に、まず手を出したのが天才・長嶋だったという。彼は、三日月に切られている西瓜の上の部分、そうそう、一番、甘い部分をナイフでなめるようにカットし、食べてしまった。
周りの人は、呆れてあっけにとられていた。
長嶋は、別のお皿に乗っていた西瓜も、同じ要領で食べた。そして周りを見渡して「みんな、どうしたの、なんで西瓜食べないの?」と聞いたそうだ。
これは友人からのまた聞きだし、有名人はとかく揶揄されるから、まあ天才・長嶋なら「あってもおかしくない話」ぐらいに、受け取ったほうが良いだろう。
もう一人の野球の天才はイチローだ。同じ天才でも、個人的にはイチローの方が好きだ。なぜって、長嶋とは正反対で、周りの人の気持ちを大切にする「相対神・調和」の社会が生んだ典型的日本人のように思えるからだ。
だが、二人には共通点がある。それは何か?
マイペースを貫いていることだ。
いろいろと心づかいをするタイプのイチローでも、記者会見の数を制限するとか、なるべく雑念が入らないように工夫をしている。
日本が生んだ天才の一人には、映画監督の黒沢明もいる。この方は、「黒沢天皇」と言われるくらいマイペースを貫いたことで有名だ。
こういう天才もいるのだが、欧米人から見ると、日本人はみんな同じに見えるらしい。
ワシントンに住む米国人ジャーナリストから「日本人は働きアリのように見える」と言われたことがある。「良く働くし、集団生活しているが、一人ひとりの顔が良く見えない。みんな、同じに見えて不気味」という。
彼は日本に来たことがないので、日本人のサラリーマンや工場で働く人々の姿をテレビや新聞で見て、そう思ったのだろう。
たしかに「相対神・調和」の国の人々は、通常、仮面をかぶって生きている。サラリーマンの仮面や、主婦の仮面、学生、OLの仮面。だから、確かに「本音」が見えず、表情も乏しい。
だが、日本人の間で、日本人として生活していると、「日本人は、なんて個性が強いのだろう」と感じる。ながく日本人をやっていると、周りの人の仮面の下 の素顔を見抜くことが上手になるのだ。そこで、「あー、なんて日本人は強烈な個性の持ち主ばかりなのだろう」と、感心することになる。
フィリピンの若い女性から、「日本人というと恥ずかしがり屋で、侍のように生真面目で、ユーモアに欠ける人々という印象を持ってるわ。奥ゆかしいのも良いけど、もっと国際感覚や社交性が必要ね」と言われたこともある。
中国人の友人からは「日本人は異民族に慣れていない。中国人は、昔から、異民族と生活しているからね」と言われた。
確かに島国・日本の住人は、異国民とのつきあいが下手なようだ。それはみとめるが、日本人は「社交性にも富んでいるし、ユーモア感覚もすごくある」とい うのが、私たちの実感だと思う。それにフィリピン人のように社交的なのも素晴らしいが、日本人的な奥ゆかしさはもっとよいと思う。
「相対神・調和」の国では、みんな仮面をかぶっている。だから、一見、ユーモアを解さず、社交性も欠けると見られる。だが、それは外部から見た日本人の姿なのだ。
日本人は身内や、仲間内では、人が変わったようにユーモラスになり、社交的になる。そう、欧米人が見てるのは仮面なのだ。仮面の下の日本人が冗談好きで、社交的なのは、落語の人気や、飲み屋の多さでわかるではないか。
相対神・調和の国では、絶対神がないので、お互いの顔色を窺って、相対的に正しいと思われる行動をする。だから、感情を爆発させるわけにもいかない。顔色を読まれると「本音」がばれるので仮面をかぶる。
この社会は気苦労の多い社会なのだ。「調和」を保つためにものすごいエネルギーを使っている。
日本からは天才が出にくいと言われる。確かにノーベル賞をとる人の数も少ない。「出る釘は打たれる」。お互いの足を引っ張って、異分子を排除する。そ う、日本では他の人と異なっていることは「悪」とみなされる。天才は異分子だし、普通は変わり者だ。だから、日本では潰される傾向が強い。
天才であるにはマイペースを貫く必要があるが、その一つの方法は、天才・長嶋みたいに極楽トンボになることだ。ナルシストになることだ。「ノーテンキー」になることだ。
私も光栄なことに「ノーテンキー」だと言われたことがある。その時は、意味がわからず、一年間、語源を探した。広辞苑にも載っていなかった。「テン キー」が「ない」。つまり計算ができないことだと思っていた。そしたら「能天気」という字が使われているのを見たが、結局「脳天気」が正解らしい。
ようするに「クルクルパー」だ。日本で、天才として生きるには「クルクルパー」でなくてはならないとしたら、イチローは米国に渡って正解だったことになる。
日本人(25)調和の社会(4)
人種偏見
ジュリアは二二歳の米国人女性。インドとイタリア系の混血で、肌の色はインド系で暗色。米国の有名大学院に学ぶジュリアは、米国社会にいろいろ不満がある。
米国は人種のるつぼであり、多くの民族が住んでいるが、それぞれ独自の世界を形成しており、人種偏見も強い。米国はモザイク社会で、多くの人種が住むが、棲み分けがすすんでおり、社会が一つに溶けてはいない。
たとえば、ジュリアの皮膚の色が黒いから・・・、というだけで、白人の男は最初からデートの相手と意識をしてくれないのだそうだ。ところが黒人学生は、彼女の皮膚が黒いというだけで、すぐにデートの相手と意識しているのが感じられる、という。
米国北東部の大学で学ぶ彼女が、大学の交響楽団の一員として南部に演奏旅行に行ったときは、南部の白人たちの目がすごく怖かったという。
「米国は怖いところ。それに肌の色で人間まで判断されるのはイヤ」と彼女。
そこまで聞いて私は言った。
「それじゃー日本においでよ」
「えー、行きたいと思っていて、なかなか実現しないの」
「でもね、実は日本人にも人種偏見があるんだ」
「・・・・」
「だけど、良いところもあるんだよ。日本人は、白人だろうと黒人だろうと、インド人だろうと中国人だろうと、みんな同じように差別するからね。少しはましだろう?」
この会話を聞いていたジュリアの両親は、大笑いしてお互いに目配せをした。何だろうと思ったら、実は、今回の旅行でも成田空港で人種偏見を感じたそうだ。
入国審査のところでブロンドの立派な体格の白人であるご主人と、インド人である肌の色の黒い妻が審査を待っていた。そこには合計で一〇名ぐらいの外国人が並んでいたという。
そこへ日本人の乗客が大挙して到着した。そうしたら外国人の審査をしていた女性の入国審査官は、外国人たちを置き去りにして、日本人の審査に行ってしまったという。結局、ジュリアのご両親は、入国審査を受けるまで、三〇分間も待たなければならなかったそうだ。
「シュン、日本人は呆れるほど自民族中心主義だね。確かに日本人の差別は、欧米人もインド人も関係なかったよ。日本人以外はすべて審査官に差別されたからね」
日本人は、世界に冠たる「自民族中心主義者」だ。
海外で仕事をする日本の企業は、現地の企業との合弁企業を作りたがらない。取引相手も日本企業を好む。何でもかんでも日本人だけで行おうとする。たとえば知人のバンコックの合弁企業の日本人常務は、タイ人のことをぼろくそに悪く言う。
「タイの華僑は金の亡者で、投資したらすぐ利益が出ると思う。工場にはお金をかけないし、机や事務用品はなんでも中古品を使う。これでは日本企業の人々に笑われる。事務所の体裁もお粗末だし、労働者の待遇も悪い。日本人はタイの法律など知らなくて良いという。交際費は認めてくれないし、車の修理や障害保険 も自分持ちにしろと言う」
この日本人常務の言いたいのは「一言」につきる。「合弁企業なんてやめて一〇〇%日本企業として仕事をしなさい」とうものだ。
そうなれば、タイで長く生活してきたこの常務が社長になれる可能性が高く、すべてはさらに万万歳という魂胆も見え見えだ。だが、この日本人常務の考えにしたがったら、この合弁企業はすぐに行き詰まってしまうだろう。
日本的経営を外国に持ち込むのは金がかかるからだ。現にこの常務が前に責任者として任されていた一〇〇%日本企業は、タイで六年も営業していながらいまだに利益が出ていない。
このような「日本人だけで仕事をしたい」という日本人は極めて多い。特に海外に駐在する商社マンに多いようだ。そして、日本に住む日本人は、やはり、海外からの日本人による情報を偏重して、合弁企業の現地の人々の考えを十分に聞かないところがある。
もちろん例外的な人はたくさんいる。タイでも現地人から尊敬されている日本人も多いし、合弁企業を立派に成功させている人もいるが、それはごくごく少数派だ。
日本人が、「すべてを日本人だけでやりたい」と思うのも、「相対神・調和」が支配する国に生きているからだ。この社会で生きていくには、腹芸ができなく てはならないし、以心伝心が欠かせない。仮面をかぶっては脱ぎ、脱いではかぶる。本音と建前も使い分ける。これを外国人にやれとは要求できない。そもそも 短時間でマスターするのは無理だ。そうなると「すべてを日本人だけでやったほうが、話が早くていいや」ということになる。
日本人の多くは欧米人だというと、ばかみたいに丁重に扱うし、アジア人だとアパートを借ることができなかったり、家具を買うにも現金先払いを要求された りする。相対神・調和が支配する国の日本人には宗教的偏見が少ないことが大いなる救いだ。だが人種的偏見は諸外国並にあるし、一番強い特徴は「自民族中心 主義」だと思う。
米国は人種のるつぼであり、多くの民族が住んでいるが、それぞれ独自の世界を形成しており、人種偏見も強い。米国はモザイク社会で、多くの人種が住むが、棲み分けがすすんでおり、社会が一つに溶けてはいない。
たとえば、ジュリアの皮膚の色が黒いから・・・、というだけで、白人の男は最初からデートの相手と意識をしてくれないのだそうだ。ところが黒人学生は、彼女の皮膚が黒いというだけで、すぐにデートの相手と意識しているのが感じられる、という。
米国北東部の大学で学ぶ彼女が、大学の交響楽団の一員として南部に演奏旅行に行ったときは、南部の白人たちの目がすごく怖かったという。
「米国は怖いところ。それに肌の色で人間まで判断されるのはイヤ」と彼女。
そこまで聞いて私は言った。
「それじゃー日本においでよ」
「えー、行きたいと思っていて、なかなか実現しないの」
「でもね、実は日本人にも人種偏見があるんだ」
「・・・・」
「だけど、良いところもあるんだよ。日本人は、白人だろうと黒人だろうと、インド人だろうと中国人だろうと、みんな同じように差別するからね。少しはましだろう?」
この会話を聞いていたジュリアの両親は、大笑いしてお互いに目配せをした。何だろうと思ったら、実は、今回の旅行でも成田空港で人種偏見を感じたそうだ。
入国審査のところでブロンドの立派な体格の白人であるご主人と、インド人である肌の色の黒い妻が審査を待っていた。そこには合計で一〇名ぐらいの外国人が並んでいたという。
そこへ日本人の乗客が大挙して到着した。そうしたら外国人の審査をしていた女性の入国審査官は、外国人たちを置き去りにして、日本人の審査に行ってしまったという。結局、ジュリアのご両親は、入国審査を受けるまで、三〇分間も待たなければならなかったそうだ。
「シュン、日本人は呆れるほど自民族中心主義だね。確かに日本人の差別は、欧米人もインド人も関係なかったよ。日本人以外はすべて審査官に差別されたからね」
日本人は、世界に冠たる「自民族中心主義者」だ。
海外で仕事をする日本の企業は、現地の企業との合弁企業を作りたがらない。取引相手も日本企業を好む。何でもかんでも日本人だけで行おうとする。たとえば知人のバンコックの合弁企業の日本人常務は、タイ人のことをぼろくそに悪く言う。
「タイの華僑は金の亡者で、投資したらすぐ利益が出ると思う。工場にはお金をかけないし、机や事務用品はなんでも中古品を使う。これでは日本企業の人々に笑われる。事務所の体裁もお粗末だし、労働者の待遇も悪い。日本人はタイの法律など知らなくて良いという。交際費は認めてくれないし、車の修理や障害保険 も自分持ちにしろと言う」
この日本人常務の言いたいのは「一言」につきる。「合弁企業なんてやめて一〇〇%日本企業として仕事をしなさい」とうものだ。
そうなれば、タイで長く生活してきたこの常務が社長になれる可能性が高く、すべてはさらに万万歳という魂胆も見え見えだ。だが、この日本人常務の考えにしたがったら、この合弁企業はすぐに行き詰まってしまうだろう。
日本的経営を外国に持ち込むのは金がかかるからだ。現にこの常務が前に責任者として任されていた一〇〇%日本企業は、タイで六年も営業していながらいまだに利益が出ていない。
このような「日本人だけで仕事をしたい」という日本人は極めて多い。特に海外に駐在する商社マンに多いようだ。そして、日本に住む日本人は、やはり、海外からの日本人による情報を偏重して、合弁企業の現地の人々の考えを十分に聞かないところがある。
もちろん例外的な人はたくさんいる。タイでも現地人から尊敬されている日本人も多いし、合弁企業を立派に成功させている人もいるが、それはごくごく少数派だ。
日本人が、「すべてを日本人だけでやりたい」と思うのも、「相対神・調和」が支配する国に生きているからだ。この社会で生きていくには、腹芸ができなく てはならないし、以心伝心が欠かせない。仮面をかぶっては脱ぎ、脱いではかぶる。本音と建前も使い分ける。これを外国人にやれとは要求できない。そもそも 短時間でマスターするのは無理だ。そうなると「すべてを日本人だけでやったほうが、話が早くていいや」ということになる。
日本人の多くは欧米人だというと、ばかみたいに丁重に扱うし、アジア人だとアパートを借ることができなかったり、家具を買うにも現金先払いを要求された りする。相対神・調和が支配する国の日本人には宗教的偏見が少ないことが大いなる救いだ。だが人種的偏見は諸外国並にあるし、一番強い特徴は「自民族中心 主義」だと思う。
日本人(26) ガイアツ(1)
「ガイアツ」はすでに英語になっているのではないだろうか? 日本の国が変化を起こすには「外圧」が必要なことを、少なくとも米国の政治指導者たちはよく心得ている。
「相互神・調和」が支配する日本では「他人の視線」が絶対であることはすでにのべた。また、これまでの日本人(1~26)までを読んでいてくれた方が、世 の中に一人でもいてくれたら・・・いや、ぜいたくは言わない、半分でも読んでいてくれている人がいたら、日本という国が、なぜ「ガイアツ」を必要とするの かの説明はいらないだろう。
簡単に言うと、日本はコンセンサスを求める国なので、なかなか意見がまとまらない。そこで外国からの「外圧」があると、国内の意見がまとまりやすいのだ。
日本の政治家も「外圧」を利用して、国内政治を思った方向に誘導しようとする。たとえば9月11日のテロ事件の後、「日本は旗を見せろ」と米国国防長官 に言われたとか、言われなかったとかが問題になった。「湾岸戦争の時は金だけ出して、行動を示さなかった。そのため今回はもっと戦争に貢献しよう」という 立場をとる人は、この国防長官が言ったことになっている言葉を利用して、「自衛隊の派遣はしょうがない」という世論をもり立てた。
「相互神・調和」が支配する日本では「他人の視線」が絶対だといったが、これが外国人の目となると、さらに日本人はぴりぴりする。その結果、小泉政権は相当踏込んで自衛隊の派遣をした。
最近話題になっているのは、インド洋に派遣されている日本の海上自衛隊の補給艦が安保条約を結んでいる米軍だけでなく、英国の補給艦に洋上補給したこと だ。安保条約を結んでいない英国には、燃料代を請求すべきだが、日本政府に、要求する意志と根性があるかどうかが注目されている。また、オーストラリアの 艦隊にも洋上補給を依頼されているが、これはなんとイラク封鎖のためだという。何を根拠にこれらの国々は日本の支援を求めているのか? ぜひうやむやには して欲しくない話だ。なお、米艦隊にはすでに22回で合計3万キロリットルの燃料を無償で提供している。約15億円だが、もちろん私たちの税金が使われて いる(エルネオス、3月号11ページ)。
日本的な調和の精神で、外交を行うと、欲求不満がたまるばかりになりかねない。グローバルな世界では私たちも契約精神で、物事を運ばないと、世界の笑いものとなり、あざけりの対象になるだけだ。
さて、「ガイアツ」で有名なのは「黒船」だ。一〇〇年以上たった今でも、東京湾に浮かんだ米国の「黒船」の衝撃は消えていない。
当時の日本は、二〇〇二年の日本と良く似ている。そのことについては「自民党はいつつぶれるか?」(4月30日)でかいているので繰り返さない。
ただ今回の「黒船」は「グローバル・スタンダード」という資本主義の方法論だというのが昔と違うところ。
江戸幕府の終わりに「開国」を迫られたときも、日本は植民地にされてしまうのだろうか? 近代兵器で武装した米英仏の軍隊に対応できるのか? と、悩み は多かった。だが、日本の国内から「昼あんどん」だった人々が、世が暗くなって頭角を現し、なんとか植民地にもならず、外国との戦争も避けることができ た。
だが、当時の日本と欧米の差は大きく、欧米に追いつくのに、結局一〇〇年はかかっている。
もちろん現代は、事情が違う。バブル経済で豊かさを経験した日本は、痩せても枯れてもまだ世界第二の経済大国。蓄積してきた技術力も高く、能率も良く、国民の勤勉さも変わっていない。「グローバル・スタンダード」にも十分対応できることも間違いない。
今の日本は未曾有の不況にあるが、これは徳川時代末期の幕府と同じで、身から出た錆だ。バブルの時にぜいたくをした習慣が、私企業はともかく、公共部門 や官僚の間で抜けきれていないのだ。つまり肥大化した政府を小さくし、外務省を見ればわかるような、ぜいたくな習慣をやめることが大切なのだ。
明治維新の時も「黒船」に象徴される「ガイアツ」を逆手にとって、幕府を倒し、国を活性化することに成功している。
二〇〇〇二年は「グローバル・スタンダード」の「ガイアツ」を利用して、自民党政権を転覆させ、官僚を謙虚にさせ、小さな政府を作らなくてはならない。だが、その前に、日本は明治維新の時のような大混乱と大騒動を経験しなければならないようだ。(つづく)
「相互神・調和」が支配する日本では「他人の視線」が絶対であることはすでにのべた。また、これまでの日本人(1~26)までを読んでいてくれた方が、世 の中に一人でもいてくれたら・・・いや、ぜいたくは言わない、半分でも読んでいてくれている人がいたら、日本という国が、なぜ「ガイアツ」を必要とするの かの説明はいらないだろう。
簡単に言うと、日本はコンセンサスを求める国なので、なかなか意見がまとまらない。そこで外国からの「外圧」があると、国内の意見がまとまりやすいのだ。
日本の政治家も「外圧」を利用して、国内政治を思った方向に誘導しようとする。たとえば9月11日のテロ事件の後、「日本は旗を見せろ」と米国国防長官 に言われたとか、言われなかったとかが問題になった。「湾岸戦争の時は金だけ出して、行動を示さなかった。そのため今回はもっと戦争に貢献しよう」という 立場をとる人は、この国防長官が言ったことになっている言葉を利用して、「自衛隊の派遣はしょうがない」という世論をもり立てた。
「相互神・調和」が支配する日本では「他人の視線」が絶対だといったが、これが外国人の目となると、さらに日本人はぴりぴりする。その結果、小泉政権は相当踏込んで自衛隊の派遣をした。
最近話題になっているのは、インド洋に派遣されている日本の海上自衛隊の補給艦が安保条約を結んでいる米軍だけでなく、英国の補給艦に洋上補給したこと だ。安保条約を結んでいない英国には、燃料代を請求すべきだが、日本政府に、要求する意志と根性があるかどうかが注目されている。また、オーストラリアの 艦隊にも洋上補給を依頼されているが、これはなんとイラク封鎖のためだという。何を根拠にこれらの国々は日本の支援を求めているのか? ぜひうやむやには して欲しくない話だ。なお、米艦隊にはすでに22回で合計3万キロリットルの燃料を無償で提供している。約15億円だが、もちろん私たちの税金が使われて いる(エルネオス、3月号11ページ)。
日本的な調和の精神で、外交を行うと、欲求不満がたまるばかりになりかねない。グローバルな世界では私たちも契約精神で、物事を運ばないと、世界の笑いものとなり、あざけりの対象になるだけだ。
さて、「ガイアツ」で有名なのは「黒船」だ。一〇〇年以上たった今でも、東京湾に浮かんだ米国の「黒船」の衝撃は消えていない。
当時の日本は、二〇〇二年の日本と良く似ている。そのことについては「自民党はいつつぶれるか?」(4月30日)でかいているので繰り返さない。
ただ今回の「黒船」は「グローバル・スタンダード」という資本主義の方法論だというのが昔と違うところ。
江戸幕府の終わりに「開国」を迫られたときも、日本は植民地にされてしまうのだろうか? 近代兵器で武装した米英仏の軍隊に対応できるのか? と、悩み は多かった。だが、日本の国内から「昼あんどん」だった人々が、世が暗くなって頭角を現し、なんとか植民地にもならず、外国との戦争も避けることができ た。
だが、当時の日本と欧米の差は大きく、欧米に追いつくのに、結局一〇〇年はかかっている。
もちろん現代は、事情が違う。バブル経済で豊かさを経験した日本は、痩せても枯れてもまだ世界第二の経済大国。蓄積してきた技術力も高く、能率も良く、国民の勤勉さも変わっていない。「グローバル・スタンダード」にも十分対応できることも間違いない。
今の日本は未曾有の不況にあるが、これは徳川時代末期の幕府と同じで、身から出た錆だ。バブルの時にぜいたくをした習慣が、私企業はともかく、公共部門 や官僚の間で抜けきれていないのだ。つまり肥大化した政府を小さくし、外務省を見ればわかるような、ぜいたくな習慣をやめることが大切なのだ。
明治維新の時も「黒船」に象徴される「ガイアツ」を逆手にとって、幕府を倒し、国を活性化することに成功している。
二〇〇〇二年は「グローバル・スタンダード」の「ガイアツ」を利用して、自民党政権を転覆させ、官僚を謙虚にさせ、小さな政府を作らなくてはならない。だが、その前に、日本は明治維新の時のような大混乱と大騒動を経験しなければならないようだ。(つづく)
日本人(27) ガイアツ(2)
日本の歴史をひも解くと、国の運命を左右するようなガイアツに三回遭遇している。現在の「グローバル・スタンダード」は四回目だ。
最初は、ご存知の「蒙古襲来」。
元の皇帝フビライが日本と通交を望んだが、それを無視した結果、襲来を受けたのだった。
来襲は二度あった。一度目の日本軍は完敗だったが、自主的に撤退した元の軍隊は、帰路、嵐に遭遇した。一二七四年のことだ。二度目も日本は苦戦したが、このときは運良く、「神風」に助けられた。一二八一年のこと。
二回目は、幕末の黒船だが、これについてはすでに述べた。
三回目は、第二次世界大戦前の欧米による、日本封じ込めだ。
このときの「ガイアツ」に対して、日本人がどのように反応したかは、極めて興味深い。
このときのガイアツも黒船同様、米国が相手だった。
当時は、帝国主義が真っ盛りの時代。英国はインドやマレーシアやビルマと中国の一部を植民地化した。フランスはベトナム、オランダはインドネシア、米国はハワイとフィリッピン、スペインやポルトガルは南米大陸を植民地化していた。
この帝国主義による植民地主義に出遅れていたのが、当時の発展途上国であるドイツやイタリアや日本。それでも日本はすでに満州、台湾、韓国、南太平洋の一部を植民地化していた。
ご存知のようにドイツのヒトラーがヨーロッパで戦争を始め、フランスやポーランドは、あっという間に敗戦し、英国も苦戦していた。当時でも大国だった米 国は昔も今も英国の盟友であり、米国の指導者たちは、ドイツとの戦いに参戦したくてしょうがなかった。だが、米国の大衆は、対岸の火事に駆けつけるより も、身の安全と平和を願っていた。そこで米国のルーズベルト大統領は、第二次世界大戦に参戦する方法として、日本に「ガイアツ」かけることにした。当時、 日本はイタリア、ドイツと日伊独三国同盟を結んでおり、日本と開戦できれば、米国は自然にドイツとも戦うことができたのだ。
日本への「ガイアツ」はいろいろな形で行われたが、その中でも効果的だったのは、英国・米国による対日石油禁輸だった。石油のでない日本は、戦艦・空 母、航空機を活動させるために石油を必要とした。石油が輸入できない日本は、両腕を縛られたのと同じになる。そこで、どのみち生きていけないのなら、玉砕 を好むということで一九四一年一一月に真珠湾攻撃に踏み切った。
同時にインドネシアやマレー半島にも兵を進めたが、その一つの狙いは、インドネシアで産出する石油の確保だった。
簡単に言うと、こんな経由で「ガイアツ」かけられたわけだが、日本の反応は最初から神風特攻隊的だった。
「相対神・調和」が支配する国・日本には、絶対という理念がない。すべては相対的だ。したがって、英米が「絶対」に妥協しないとなると、日本にできるこ とは「絶対」的な屈服か、「絶対」的な玉砕しかなくなる。「相対」がない世界における日本は、極端に走るほか選択の余地が無くなる。
この日本人の性向を知っていたのか知らなかったのかはともかく、ルーズベルト大統領は、見事に日本を挑発するのに成功した。
「相対神・調和」が支配する国では、意見が異なるとき、理屈は抜きにして、ともかく相対的に妥協しようと、飽きなく努力をする。このときもそうだった。だがルーズベルトの狙いは、日本との戦争を開始することだったので、日本にも選択の余地はなかった。
つまり、日本という国は「ガイアツ」があったときには、まず、妥協策を考える。それができないとなると、屈服よりも玉砕を好むことが分かる。つまり、我慢に我慢を重ねるが、最後には爆発してしまうのが日本人の国民性だと言えるだろう。
真珠湾攻撃は奇襲であり、それ以降、日本は宣戦布告もしないで戦争を始めた国としての汚名を着ることになった。今でも米国人は「リメンバー・パールハーバー」という言葉を、日本人を蔑視するときに使う。
一方、日本人は、「あれはルーズベルトの策略に日本が乗せられたのであり、ルーズベルトは真珠湾奇襲攻撃を知っていたが、米国民やハワイの軍部に連絡しなかったのだ」と反論する。そのためにたった二時間の攻撃で米国人が二四〇〇名も死んだというわけだ。
だが、国際政治の舞台では、米国民二四〇〇名の命を失っても、ルーズベルト大統領に取っては、第二次世界大戦に参戦することの方が、世界史の流れから見て重要だったのだ。
また、日本も言い訳をすることは止めたほうが良いだろう。なぜなら平和交渉の最中に奇襲の準備を進めていたのは間違いないし、もともと戦争をせめて形だ けでもフェアに戦うという奇妙な意識は、欧米社会以外には存在しないからだ。ここは、ルーズベルト大統領のしたたかさに兜を脱ぐしかないだろう。
さて、第四回目の「ガイアツ」だが、グローバル・スタンダードに対しては、これまでの三回の「ガイアツ」よりも、日本は上手に対応できるに違いない。 さっさと日本経済のシステムをグローバル・スタンダードにしてしまって、かまわないと思う。むしろ、自由貿易・自由主義経済は、日本という技術立国の国に は有利だからだ。まあ、このことについては、別の機会にもっと語ろう。
最初は、ご存知の「蒙古襲来」。
元の皇帝フビライが日本と通交を望んだが、それを無視した結果、襲来を受けたのだった。
来襲は二度あった。一度目の日本軍は完敗だったが、自主的に撤退した元の軍隊は、帰路、嵐に遭遇した。一二七四年のことだ。二度目も日本は苦戦したが、このときは運良く、「神風」に助けられた。一二八一年のこと。
二回目は、幕末の黒船だが、これについてはすでに述べた。
三回目は、第二次世界大戦前の欧米による、日本封じ込めだ。
このときの「ガイアツ」に対して、日本人がどのように反応したかは、極めて興味深い。
このときのガイアツも黒船同様、米国が相手だった。
当時は、帝国主義が真っ盛りの時代。英国はインドやマレーシアやビルマと中国の一部を植民地化した。フランスはベトナム、オランダはインドネシア、米国はハワイとフィリッピン、スペインやポルトガルは南米大陸を植民地化していた。
この帝国主義による植民地主義に出遅れていたのが、当時の発展途上国であるドイツやイタリアや日本。それでも日本はすでに満州、台湾、韓国、南太平洋の一部を植民地化していた。
ご存知のようにドイツのヒトラーがヨーロッパで戦争を始め、フランスやポーランドは、あっという間に敗戦し、英国も苦戦していた。当時でも大国だった米 国は昔も今も英国の盟友であり、米国の指導者たちは、ドイツとの戦いに参戦したくてしょうがなかった。だが、米国の大衆は、対岸の火事に駆けつけるより も、身の安全と平和を願っていた。そこで米国のルーズベルト大統領は、第二次世界大戦に参戦する方法として、日本に「ガイアツ」かけることにした。当時、 日本はイタリア、ドイツと日伊独三国同盟を結んでおり、日本と開戦できれば、米国は自然にドイツとも戦うことができたのだ。
日本への「ガイアツ」はいろいろな形で行われたが、その中でも効果的だったのは、英国・米国による対日石油禁輸だった。石油のでない日本は、戦艦・空 母、航空機を活動させるために石油を必要とした。石油が輸入できない日本は、両腕を縛られたのと同じになる。そこで、どのみち生きていけないのなら、玉砕 を好むということで一九四一年一一月に真珠湾攻撃に踏み切った。
同時にインドネシアやマレー半島にも兵を進めたが、その一つの狙いは、インドネシアで産出する石油の確保だった。
簡単に言うと、こんな経由で「ガイアツ」かけられたわけだが、日本の反応は最初から神風特攻隊的だった。
「相対神・調和」が支配する国・日本には、絶対という理念がない。すべては相対的だ。したがって、英米が「絶対」に妥協しないとなると、日本にできるこ とは「絶対」的な屈服か、「絶対」的な玉砕しかなくなる。「相対」がない世界における日本は、極端に走るほか選択の余地が無くなる。
この日本人の性向を知っていたのか知らなかったのかはともかく、ルーズベルト大統領は、見事に日本を挑発するのに成功した。
「相対神・調和」が支配する国では、意見が異なるとき、理屈は抜きにして、ともかく相対的に妥協しようと、飽きなく努力をする。このときもそうだった。だがルーズベルトの狙いは、日本との戦争を開始することだったので、日本にも選択の余地はなかった。
つまり、日本という国は「ガイアツ」があったときには、まず、妥協策を考える。それができないとなると、屈服よりも玉砕を好むことが分かる。つまり、我慢に我慢を重ねるが、最後には爆発してしまうのが日本人の国民性だと言えるだろう。
真珠湾攻撃は奇襲であり、それ以降、日本は宣戦布告もしないで戦争を始めた国としての汚名を着ることになった。今でも米国人は「リメンバー・パールハーバー」という言葉を、日本人を蔑視するときに使う。
一方、日本人は、「あれはルーズベルトの策略に日本が乗せられたのであり、ルーズベルトは真珠湾奇襲攻撃を知っていたが、米国民やハワイの軍部に連絡しなかったのだ」と反論する。そのためにたった二時間の攻撃で米国人が二四〇〇名も死んだというわけだ。
だが、国際政治の舞台では、米国民二四〇〇名の命を失っても、ルーズベルト大統領に取っては、第二次世界大戦に参戦することの方が、世界史の流れから見て重要だったのだ。
また、日本も言い訳をすることは止めたほうが良いだろう。なぜなら平和交渉の最中に奇襲の準備を進めていたのは間違いないし、もともと戦争をせめて形だ けでもフェアに戦うという奇妙な意識は、欧米社会以外には存在しないからだ。ここは、ルーズベルト大統領のしたたかさに兜を脱ぐしかないだろう。
さて、第四回目の「ガイアツ」だが、グローバル・スタンダードに対しては、これまでの三回の「ガイアツ」よりも、日本は上手に対応できるに違いない。 さっさと日本経済のシステムをグローバル・スタンダードにしてしまって、かまわないと思う。むしろ、自由貿易・自由主義経済は、日本という技術立国の国に は有利だからだ。まあ、このことについては、別の機会にもっと語ろう。
日本人(28) ガイアツ(3)
「ガイアツ」に付き物なのが「交渉」。
「相互神・調和」が支配する社会の「交渉」は、他の国々と同じだろうか?
少なくとも、欧米の政治・経済の指導者たちからは、同じだと思われていないと思う。
国際社会において、日本の「交渉」は粘り強いことで知られている。一方、弱腰だと思われることも多い。あるいは、プレッシャーに弱くて、最後は妥協するとも見られている。
これらの交渉における一つの特徴は、日本語の曖昧な表現から来る誤解だ。
たとえば「善処します」という言葉を、日本の首相が言ったことがある(確か、佐藤栄作首相?)。これを聞いたニクソン大統領は「実行してくれると約束し た」と解釈し「大変に満足」した。ところが日本側は、検討はしたが実行はしなかった。そこでニクソン大統領が、大変に「怒った」という事件があった。
これは通訳の問題だろう。当時と比べると、現在は通訳の技術も進歩しており、このような誤解はもう生まれないと思う。通訳の先駆者たちの苦労は大変だったのだ。
ところで「善処します」とは、今ではどう訳されているのだろうか? 私だったら「I will see what I can do」「I have to see what I can do」などというのだろうか? これも変な英語で、文法的に正しいのかどうかもわからない。たぶん、今では正しい訳語が開発され、プロなら誰でも知ってい るのだと思うけど、私は、なんでも自己流で通すので、さっぱり、時代の先端を行く翻訳・通訳の事情を知らない。
何でも自己流でやっていると、なかなか社会の主流には入っていけない。どうしてもアウトローになってしまう。やっぱり私は「ダメの人」。
さて、脱線してしまったが、交渉というのはある目的を達成するために行われるのだろう。
たとえば和平交渉なら、平和を達成することが目的だ。
軍縮交渉なら、軍備の削減が目的だ。
だが、「相互神・調和」が支配する日本の社会における「交渉」にはもう一つ別の目的がある。それは妥協して「調和」を保つことだ。
オーストラリアで働いていたころの私の仕事は「交渉」だった。火力発電所の建設現場の事務長をしていたのだ。
オーストラリアの下請け建設会社をいくつか抱え、彼らと毎週のように交渉し、客先の電力庁と契約の交渉をし、保険会社とは保険金請求の交渉をした。欧米 のような契約社会では、契約がすべてだから、契約が守られているかどうかを綿密にチェックするための作業が多くなる。またすべては理屈の世界で、論理に勝 つことが大切だ。さらに相手の「アンフェア」な所を指摘できれば、こちらの勝ちだ。
あるとき、工事現場に置いておいた、巨大なドラムに錆が発生して、保険請求することになった。詳しい話は省くが、ともかく理屈の戦争になった。私は、へ 理屈が得意。だから、この時も、へ理屈では負けなかった。というわけで、保険会社との交渉は座礁し、数千万円の請求だったので、保険会社の東京本社から人 が来た。
じつは、これで私は交渉に「勝ったも同然」と思わずニンマリし、交渉相手だった保険会社のオーストラリア担当者に予言をした。この、オーストラリア人は真面目で、それまで自説を一歩もゆずらなかったのだ。
「ニック、何が起こるか分かる?」
「なんのこと?」
「日本人が東京から来るだろう。これで実は、一件落着するんだよ」
「どういうふうに?」
「日本人は『和』を大切にすることを、知っているだろう? お宅の会社とうちの会社は、永いつきあいだ、だから『和』を保つために理屈なしに、妥協するのさ。本社から人が来るのは、そのためだよ。だから論理的な話し合いは、もうおしまいだ」
「そんな馬鹿な!」
ニックは絶句した。
結局、私の予想通り、日本人同士で話し合い、適当に妥協し、一件落着となった。そのときに論議されたのは、「何が正しいかではなく」、「そろそろ妥協しましょうよ」だけだった。つまり「どのくらい払えば、満足していただけますか? 本音を教えてください」というものだ。
実は、こちらの理屈にも無理があった。工事現場での管理不十分が錆の原因だったからだ。でも、結局、保険金を払って貰うことができた。
このように「理屈を抜きにして妥協をする」という精神が、「相互神・調和」の世界にはある。これを国際舞台で使うのは、「要注意」だ。歴史的に見て国際 的な「交渉」に日本人が慣れてきたのは、ここ二~三〇年ではないだろうか? それも欧米諸国にはもまれてきたが、他の国との交渉・・・たとえば中東諸国 や、ロシアや中国との「交渉」は、まだ苦労がたらず、未熟なのではないだろうか。
「相互神・調和」が支配する社会の「交渉」は、他の国々と同じだろうか?
少なくとも、欧米の政治・経済の指導者たちからは、同じだと思われていないと思う。
国際社会において、日本の「交渉」は粘り強いことで知られている。一方、弱腰だと思われることも多い。あるいは、プレッシャーに弱くて、最後は妥協するとも見られている。
これらの交渉における一つの特徴は、日本語の曖昧な表現から来る誤解だ。
たとえば「善処します」という言葉を、日本の首相が言ったことがある(確か、佐藤栄作首相?)。これを聞いたニクソン大統領は「実行してくれると約束し た」と解釈し「大変に満足」した。ところが日本側は、検討はしたが実行はしなかった。そこでニクソン大統領が、大変に「怒った」という事件があった。
これは通訳の問題だろう。当時と比べると、現在は通訳の技術も進歩しており、このような誤解はもう生まれないと思う。通訳の先駆者たちの苦労は大変だったのだ。
ところで「善処します」とは、今ではどう訳されているのだろうか? 私だったら「I will see what I can do」「I have to see what I can do」などというのだろうか? これも変な英語で、文法的に正しいのかどうかもわからない。たぶん、今では正しい訳語が開発され、プロなら誰でも知ってい るのだと思うけど、私は、なんでも自己流で通すので、さっぱり、時代の先端を行く翻訳・通訳の事情を知らない。
何でも自己流でやっていると、なかなか社会の主流には入っていけない。どうしてもアウトローになってしまう。やっぱり私は「ダメの人」。
さて、脱線してしまったが、交渉というのはある目的を達成するために行われるのだろう。
たとえば和平交渉なら、平和を達成することが目的だ。
軍縮交渉なら、軍備の削減が目的だ。
だが、「相互神・調和」が支配する日本の社会における「交渉」にはもう一つ別の目的がある。それは妥協して「調和」を保つことだ。
オーストラリアで働いていたころの私の仕事は「交渉」だった。火力発電所の建設現場の事務長をしていたのだ。
オーストラリアの下請け建設会社をいくつか抱え、彼らと毎週のように交渉し、客先の電力庁と契約の交渉をし、保険会社とは保険金請求の交渉をした。欧米 のような契約社会では、契約がすべてだから、契約が守られているかどうかを綿密にチェックするための作業が多くなる。またすべては理屈の世界で、論理に勝 つことが大切だ。さらに相手の「アンフェア」な所を指摘できれば、こちらの勝ちだ。
あるとき、工事現場に置いておいた、巨大なドラムに錆が発生して、保険請求することになった。詳しい話は省くが、ともかく理屈の戦争になった。私は、へ 理屈が得意。だから、この時も、へ理屈では負けなかった。というわけで、保険会社との交渉は座礁し、数千万円の請求だったので、保険会社の東京本社から人 が来た。
じつは、これで私は交渉に「勝ったも同然」と思わずニンマリし、交渉相手だった保険会社のオーストラリア担当者に予言をした。この、オーストラリア人は真面目で、それまで自説を一歩もゆずらなかったのだ。
「ニック、何が起こるか分かる?」
「なんのこと?」
「日本人が東京から来るだろう。これで実は、一件落着するんだよ」
「どういうふうに?」
「日本人は『和』を大切にすることを、知っているだろう? お宅の会社とうちの会社は、永いつきあいだ、だから『和』を保つために理屈なしに、妥協するのさ。本社から人が来るのは、そのためだよ。だから論理的な話し合いは、もうおしまいだ」
「そんな馬鹿な!」
ニックは絶句した。
結局、私の予想通り、日本人同士で話し合い、適当に妥協し、一件落着となった。そのときに論議されたのは、「何が正しいかではなく」、「そろそろ妥協しましょうよ」だけだった。つまり「どのくらい払えば、満足していただけますか? 本音を教えてください」というものだ。
実は、こちらの理屈にも無理があった。工事現場での管理不十分が錆の原因だったからだ。でも、結局、保険金を払って貰うことができた。
このように「理屈を抜きにして妥協をする」という精神が、「相互神・調和」の世界にはある。これを国際舞台で使うのは、「要注意」だ。歴史的に見て国際 的な「交渉」に日本人が慣れてきたのは、ここ二~三〇年ではないだろうか? それも欧米諸国にはもまれてきたが、他の国との交渉・・・たとえば中東諸国 や、ロシアや中国との「交渉」は、まだ苦労がたらず、未熟なのではないだろうか。
日本人(29)キスと抱擁
サンキュー、シュン・・・」
ブロンワンとバネッサは一四歳と一六歳のスリムなオーストラリアの美人姉妹。一年間、テニスチームのキャプテンとして二人の面倒を見てきた。チームは優 勝もした・・・そこでお世話になったお礼だとプレゼントをくれて、何かを待っている・・・。もちろんキスと抱擁だ! このときは何となく顔を近づけること が、できなかった。残念!
欧米人とつきあって、無意識のうちにキスと抱擁ができるようになると、欧米人とのつきあいには、そうとう慣れているとみてよい。
お辞儀の国・日本の住人にとっては、キスと抱擁は簡単ではない。しかもキスと抱擁には、欧米であっても、性的意味合いが含まれている。
友人のトリントに相談したことがある。
「どうもキスと抱擁が苦手なんだけど、トリントは無意識にやっているね。日本人のお辞儀と一緒で、キスや抱擁はたんなる挨拶で、性的意味合いはないんでしょ?」
「性的意味合い? あるに決まってるさ。男と女がだきあうんだぜ」
そう、トリントに言われてから、ますます、キスも抱擁もしにくくなった。キスや抱擁をすると、相手に対する思いを隠すことができないからだ。好意がないと、キスも抱擁もできないのだ。
ブロンワンとバネッサには、その後、キスや抱擁ができるようになったが、日本男児にとっては、好意があってもしにくいのが、キスと抱擁だ。
キスや抱擁に比べて、楽なのはお辞儀だ。まあ、握手も楽だ。
特にお辞儀は便利だ。腹の底で「嫌なやつ・・・」と思っても、お辞儀ぐらいできる。「相互神・調和」が支配する社会には、うってつけの方法だ。何しろ、感情を隠すことができ、表面的な調和が保てるのだから・・・。
「キースはどんなときに、どういう人にキスと抱擁をするの?」
カンタス航空の元マネージャーであるキースとも、何でも聞ける間柄だった。
「そりゃー、愛情を感じる親しい女性にだけさ。でも、妹なんかにはキスしないな」
「エー、この間、してたわよー」と、奥様。
「そうかなー、無意識でやっているから覚えていないよ。だいたい、キスとかハグ(抱擁)というのは、いちいち考えてやるもんじゃないよ。以心伝心で、無意識にしなければ・・・」
「それが、難しいんだな・・・」
私も、欧米人とつき合い始めて三〇年。今では、キスもハグにも抵抗感がなくなった。幸いなことに、キスやハグをしようとしたら、逃げられた・・・などという、大恥もかいていない。
さて、キスや抱擁をするタイミングには次の五種類があると思う。覚えていても悪くはないだろう。
1.歓迎の意を表すとき。
たとえば、家に食事に読んで、玄関で出迎えたときなど。
2.お別れをするとき。
「さよなら」あるいは「お休みなさい」というとき。
3.「ありがとう」とお礼を言うとき。
4.悲しんでいる友人を慰めるとき。
5.特別に愛情を感じたとき。
さらに、頬にキスするのは、社交的に気楽にできるが、抱擁も一緒となると、これはさらに深い心のつながりが必要。
唇にキスをするのは、もちろん特別に深い愛情があること示す。
もっとも、これにも例外があるようだ。特に若い子の間では・・・。
あるとき、アメリカ人のぴちぴちした女の子を羽田に見送りに行った。友人のガールフレンド。パーティーで二~三度会っただけだが、でるところがでてい て、なかなかセクシーな女の子。「さよなら」と握手しようとしたら、抱きついてきて、しかも唇にキスされた。さらにまださきがあった。フレンチキスだっ た。
可愛い子だったので悪い気はしなかったが、「そんなあ・・・帰りがけじゃなくて、もっと早く気持ちを表してくれたらいいのに・・・」という感情が残った。これは独身の頃の話・・・念のため。
ともかく、これは例外で、普通はキースが言うように、キスや抱擁には相手に対する好意と愛情が必要だ。つまり赤の他人にはしないということ。
世界が狭くなって、これからも、日本人はどんどん海外に進出するだろうし、欧米諸国の企業も日本に進出してくるだろう。そんななか「お辞儀」文化と「キ スと抱擁」文化の違いは、これからも残らざるを得ないようだ。なぜなら「相互神・調和」が支配する日本では、「お辞儀」が便利だし必需品であり、「キスと 抱擁」では、感情がもろに伝わり、調和が乱されてしまうからだ。感情を表に出さない「日本流・お辞儀」は、社会の調和を保つために、欠かせない要素なの だ。
ブロンワンとバネッサは一四歳と一六歳のスリムなオーストラリアの美人姉妹。一年間、テニスチームのキャプテンとして二人の面倒を見てきた。チームは優 勝もした・・・そこでお世話になったお礼だとプレゼントをくれて、何かを待っている・・・。もちろんキスと抱擁だ! このときは何となく顔を近づけること が、できなかった。残念!
欧米人とつきあって、無意識のうちにキスと抱擁ができるようになると、欧米人とのつきあいには、そうとう慣れているとみてよい。
お辞儀の国・日本の住人にとっては、キスと抱擁は簡単ではない。しかもキスと抱擁には、欧米であっても、性的意味合いが含まれている。
友人のトリントに相談したことがある。
「どうもキスと抱擁が苦手なんだけど、トリントは無意識にやっているね。日本人のお辞儀と一緒で、キスや抱擁はたんなる挨拶で、性的意味合いはないんでしょ?」
「性的意味合い? あるに決まってるさ。男と女がだきあうんだぜ」
そう、トリントに言われてから、ますます、キスも抱擁もしにくくなった。キスや抱擁をすると、相手に対する思いを隠すことができないからだ。好意がないと、キスも抱擁もできないのだ。
ブロンワンとバネッサには、その後、キスや抱擁ができるようになったが、日本男児にとっては、好意があってもしにくいのが、キスと抱擁だ。
キスや抱擁に比べて、楽なのはお辞儀だ。まあ、握手も楽だ。
特にお辞儀は便利だ。腹の底で「嫌なやつ・・・」と思っても、お辞儀ぐらいできる。「相互神・調和」が支配する社会には、うってつけの方法だ。何しろ、感情を隠すことができ、表面的な調和が保てるのだから・・・。
「キースはどんなときに、どういう人にキスと抱擁をするの?」
カンタス航空の元マネージャーであるキースとも、何でも聞ける間柄だった。
「そりゃー、愛情を感じる親しい女性にだけさ。でも、妹なんかにはキスしないな」
「エー、この間、してたわよー」と、奥様。
「そうかなー、無意識でやっているから覚えていないよ。だいたい、キスとかハグ(抱擁)というのは、いちいち考えてやるもんじゃないよ。以心伝心で、無意識にしなければ・・・」
「それが、難しいんだな・・・」
私も、欧米人とつき合い始めて三〇年。今では、キスもハグにも抵抗感がなくなった。幸いなことに、キスやハグをしようとしたら、逃げられた・・・などという、大恥もかいていない。
さて、キスや抱擁をするタイミングには次の五種類があると思う。覚えていても悪くはないだろう。
1.歓迎の意を表すとき。
たとえば、家に食事に読んで、玄関で出迎えたときなど。
2.お別れをするとき。
「さよなら」あるいは「お休みなさい」というとき。
3.「ありがとう」とお礼を言うとき。
4.悲しんでいる友人を慰めるとき。
5.特別に愛情を感じたとき。
さらに、頬にキスするのは、社交的に気楽にできるが、抱擁も一緒となると、これはさらに深い心のつながりが必要。
唇にキスをするのは、もちろん特別に深い愛情があること示す。
もっとも、これにも例外があるようだ。特に若い子の間では・・・。
あるとき、アメリカ人のぴちぴちした女の子を羽田に見送りに行った。友人のガールフレンド。パーティーで二~三度会っただけだが、でるところがでてい て、なかなかセクシーな女の子。「さよなら」と握手しようとしたら、抱きついてきて、しかも唇にキスされた。さらにまださきがあった。フレンチキスだっ た。
可愛い子だったので悪い気はしなかったが、「そんなあ・・・帰りがけじゃなくて、もっと早く気持ちを表してくれたらいいのに・・・」という感情が残った。これは独身の頃の話・・・念のため。
ともかく、これは例外で、普通はキースが言うように、キスや抱擁には相手に対する好意と愛情が必要だ。つまり赤の他人にはしないということ。
世界が狭くなって、これからも、日本人はどんどん海外に進出するだろうし、欧米諸国の企業も日本に進出してくるだろう。そんななか「お辞儀」文化と「キ スと抱擁」文化の違いは、これからも残らざるを得ないようだ。なぜなら「相互神・調和」が支配する日本では、「お辞儀」が便利だし必需品であり、「キスと 抱擁」では、感情がもろに伝わり、調和が乱されてしまうからだ。感情を表に出さない「日本流・お辞儀」は、社会の調和を保つために、欠かせない要素なの だ。
日本人(30)握手
キスや抱擁に比べると、握手は楽だ。
日本だけでなく、世界中で『握手』はあたりまえのように、使われるようになってきている。たとえば、タイ人や中国人と会議をするときも、握手をするのが普通になってきた。つまりアジア人仲間でも、お辞儀や合掌の代わりに握手が普及してきている。
さて、オーストラリアに五年間すんでいる間に、握手にはいろいろな意味が含まれていることに気がついた。結論から言ってしまおう。
1) 契約
2) 和解・敵対関係の解消
3) 信頼
4) 友情の確認
などの意味があるのだ。
オーストラリアで、私はロータリー・クラブの会員だった。そこで毎週のようにミーティングがあり、その会合で、友人がたくさんできた。パーティーでは数 名の会話の中に入り、正式に紹介されていない人とも親しく話すことがある。話している内に、その人たちの名前もわかり、気楽に「ジェフはどう思う?」など と話していた。 名前もわかり、顔見知りになったので、私は、この新顔の方と知りあいになったと思っていた。ところがジェフは、そう思っていなかった。
次の週の会合で、またジェフと会った。私は「ハイ、ジェフ」と手を振った。ジェフは真剣な顔をして近づいてきた。「シュンだったね。先週は失礼した。正式に挨拶しなくて・・・」
そして、固く握手した。これで、ようやく私たちは友人になったのだ・・・と、いう思いが、ジェフからはひしひしと伝わってきた。欧米人は、相手の目を見て固く握手しないと、相手に対する信頼感も湧かないし、友人だとも思えないところがある。
先日、バンコックで働く日本人ビジネスマンと握手したら、横を向いて目をそらして握手してきた。欧米生活が長かった私は、思わず「あれ、この人、何か腹 に一物を持っているのかな? 俺の何かが気にくわないのかな?」と勘ぐってしまった。その方と、一日、工場見学をしたり、親しく話してみると、別に私に対 する悪感情もないようだった。ただ、控えめで、感情を表すのが嫌いで、謙虚な人であることが分かった。となると、目をそらした握手は、意図的でも、本音を 表していたわけでもなく、ただ不慣れでぎこちなく感じただけのようだ。
だが、欧米人と握手するときに、相手の目を見ないでしたら、不信感を持たれることが確実だ。
私はテニス大好き人間だが、テニスの試合でも、試合が終わると握手するのが普通だ。テニスというのは意地悪なゲームで、相手の打ちにくいところ、嫌なと ころに球を打つ。したがって、ゲームのあとには握手が必要となる。つまり「これは唯のゲームですよ。ゲームが終われば意地悪はしません。友人です」という 意思表示を握手の形でするのだ。敵対関係を解消したわけだ。
テニスのあとの『握手』を意識的に行わないプロ選手を時々見かける。審判の判定に怒ってレフリーと握手しないこともあれば、相手選手と握手しないことすらある。
ノアというフランスの選手がいたが、相手プレーヤーに観客席にいたノアの恋人が侮辱されたといって、試合が終わっても、相手プレーヤーと握手をしなかっ たことがある。これは、友情関係が断絶されたことを意味する。ゲームで敵だった相手を、実世界でも敵と見なすよ、という意思表示なのだ。だからロッカー ルームでも、殴り合いはするかもしれないが、口もきかないはずだ。
もし欧米人と難しい誤解を招きそうな会議、交渉事に望むときは。真っ先に、相手に「握手」を求めに行くのが正解だ。相手の目を見て固く握手するのだ。こ れは、友人としてフェアに交渉する意思表示としてうけとられる。このようにしておけば、少なくとも敵扱いは受けない。むしろ、友人と思われ、誠意をもって 交渉にあたってくれるだろう。
相手と握手をしないで交渉に臨むと、相手はまず、あなたが敵なのか友人なのかを見分けようとし、それに時間をかける。そしてあなたへの不信感はなかなか解消されない。
「握手」には約束の意味がある。つまり契約だ。欧米社会では、何かを約束して固い握手を交し、それだけで約束が守られ、契約が実行され、友情が保たれる のが理想とされている。だが、現実はそうはいかず、約束を守らせるためには膨大な契約書と、たくさんの弁護士を必要とする社会になってしまった。
握手は日本の社会でも広まってきてはいるが、本格的に採用されることはないだろう。なぜなら、「相対神・調和」が支配する国では、人間関係がすべてであ り、その関係を上手に保つには非常に繊細なタッチが必要だからだ。握手ではどうしても思っていることが、相手に伝わる。何を考えているか相手に分からない ようにするには、お辞儀の方が便利だ。本音を隠して、臨機応変に妥協するのが日本的流儀であり、それには感情を隠せるお辞儀は便利だ。キスや抱擁や握手で は、やはり少々不便なのだ。
日本だけでなく、世界中で『握手』はあたりまえのように、使われるようになってきている。たとえば、タイ人や中国人と会議をするときも、握手をするのが普通になってきた。つまりアジア人仲間でも、お辞儀や合掌の代わりに握手が普及してきている。
さて、オーストラリアに五年間すんでいる間に、握手にはいろいろな意味が含まれていることに気がついた。結論から言ってしまおう。
1) 契約
2) 和解・敵対関係の解消
3) 信頼
4) 友情の確認
などの意味があるのだ。
オーストラリアで、私はロータリー・クラブの会員だった。そこで毎週のようにミーティングがあり、その会合で、友人がたくさんできた。パーティーでは数 名の会話の中に入り、正式に紹介されていない人とも親しく話すことがある。話している内に、その人たちの名前もわかり、気楽に「ジェフはどう思う?」など と話していた。 名前もわかり、顔見知りになったので、私は、この新顔の方と知りあいになったと思っていた。ところがジェフは、そう思っていなかった。
次の週の会合で、またジェフと会った。私は「ハイ、ジェフ」と手を振った。ジェフは真剣な顔をして近づいてきた。「シュンだったね。先週は失礼した。正式に挨拶しなくて・・・」
そして、固く握手した。これで、ようやく私たちは友人になったのだ・・・と、いう思いが、ジェフからはひしひしと伝わってきた。欧米人は、相手の目を見て固く握手しないと、相手に対する信頼感も湧かないし、友人だとも思えないところがある。
先日、バンコックで働く日本人ビジネスマンと握手したら、横を向いて目をそらして握手してきた。欧米生活が長かった私は、思わず「あれ、この人、何か腹 に一物を持っているのかな? 俺の何かが気にくわないのかな?」と勘ぐってしまった。その方と、一日、工場見学をしたり、親しく話してみると、別に私に対 する悪感情もないようだった。ただ、控えめで、感情を表すのが嫌いで、謙虚な人であることが分かった。となると、目をそらした握手は、意図的でも、本音を 表していたわけでもなく、ただ不慣れでぎこちなく感じただけのようだ。
だが、欧米人と握手するときに、相手の目を見ないでしたら、不信感を持たれることが確実だ。
私はテニス大好き人間だが、テニスの試合でも、試合が終わると握手するのが普通だ。テニスというのは意地悪なゲームで、相手の打ちにくいところ、嫌なと ころに球を打つ。したがって、ゲームのあとには握手が必要となる。つまり「これは唯のゲームですよ。ゲームが終われば意地悪はしません。友人です」という 意思表示を握手の形でするのだ。敵対関係を解消したわけだ。
テニスのあとの『握手』を意識的に行わないプロ選手を時々見かける。審判の判定に怒ってレフリーと握手しないこともあれば、相手選手と握手しないことすらある。
ノアというフランスの選手がいたが、相手プレーヤーに観客席にいたノアの恋人が侮辱されたといって、試合が終わっても、相手プレーヤーと握手をしなかっ たことがある。これは、友情関係が断絶されたことを意味する。ゲームで敵だった相手を、実世界でも敵と見なすよ、という意思表示なのだ。だからロッカー ルームでも、殴り合いはするかもしれないが、口もきかないはずだ。
もし欧米人と難しい誤解を招きそうな会議、交渉事に望むときは。真っ先に、相手に「握手」を求めに行くのが正解だ。相手の目を見て固く握手するのだ。こ れは、友人としてフェアに交渉する意思表示としてうけとられる。このようにしておけば、少なくとも敵扱いは受けない。むしろ、友人と思われ、誠意をもって 交渉にあたってくれるだろう。
相手と握手をしないで交渉に臨むと、相手はまず、あなたが敵なのか友人なのかを見分けようとし、それに時間をかける。そしてあなたへの不信感はなかなか解消されない。
「握手」には約束の意味がある。つまり契約だ。欧米社会では、何かを約束して固い握手を交し、それだけで約束が守られ、契約が実行され、友情が保たれる のが理想とされている。だが、現実はそうはいかず、約束を守らせるためには膨大な契約書と、たくさんの弁護士を必要とする社会になってしまった。
握手は日本の社会でも広まってきてはいるが、本格的に採用されることはないだろう。なぜなら、「相対神・調和」が支配する国では、人間関係がすべてであ り、その関係を上手に保つには非常に繊細なタッチが必要だからだ。握手ではどうしても思っていることが、相手に伝わる。何を考えているか相手に分からない ようにするには、お辞儀の方が便利だ。本音を隠して、臨機応変に妥協するのが日本的流儀であり、それには感情を隠せるお辞儀は便利だ。キスや抱擁や握手で は、やはり少々不便なのだ。
日本人(31) 反日感情
オーストラリアは親日国だとよく言われる。
そのとおり、確かに親日国だ。
だがオーストラリアに住んでいた五年間の間に、反日・大キャンペーンに遭遇した。
当時は、日本がバブル景気で潤っていた時代。日本の若い起業家が自家用ジェットに乗って、オーストラリアの一流ホテルを買いに来たので「日本はどうなっているのだろう?」と首をかしげたことを覚えている。その若い起業家は、今は破産して牢獄に身を置く立場。
当時、オーストラリアに住んでいた私は、唖然として日本の景気の過熱ぶりを見ていた。当時の日本は昇竜だった。海外に住んで見ていると、日本という昇竜 は、世界の各地に爪を伸ばし、押さえ込み、土地や企業や建物を呑み込んでいた。現地の人々は、国をすべて呑み込まれるのではないかと、恐れおののいてい た。オーストラリア人から見ると、日本は恐竜に見えたのだ。
そこで起こったのが、反日キャンペーン。これは当時、オーストラリア全土を席巻した。
「日本人にオーストラリアを売り渡すな!」
「戦争でやっつけた日本人に、平和なときに侵略されている。戦争中、多くの同胞が日本人に虐殺されたことを忘れるな」
「パールハーバー、マレー半島を忘れるな。日本人は信用できない。いつ約束を破って、オーストラリアを侵略するかわからない」
こんな調子の「反日」の投書が、私が住んでいたブルーマウンテンズの地元新聞にも、毎週のように載っていた。憎悪のキャンペーンだ。
ことの発端は、ブルーマウンテンズ市役所が、年々増加していた日本人観光客のために、観光の要所に日本語の掲示板を置こうと提案したことにあった。この提案を期に、反日感情が一気に爆発したのだ。
ブルーマウンテンズ市は、シドニー市郊外の日本の箱根を思わせる風光明媚な別荘地帯で、多くの年寄りが余生を送っている。これらのお年寄りの中には、日 本人と戦った人々、シンガポールのチェンジ捕虜収容所(日本軍運営)で、餓死すれすれの目にあって、生き延びてきた人々がいる。
これら辛酸をなめてきたお年寄りの多くは、あまり過去を語ろうとしない。だが、その親族達は、彼らの代わりに激怒しているように思われた。
この土地に住んでいると、お年寄りの中には日本人と見ると憎悪の目で睨み、そばに近づいてこない人がいることに、気付かざるを得ない。
オーストラリアは親日国だというけれど、心情は複雑なのだ。
あるときトリント夫妻をバーベキュー・パーティーに呼んだところ、奥さんキャッシーのご両親も来るという。そこで庭にレンガで作った鉄板焼き場で火を起こし、ワインをなめなめ、来訪を待った。
ところが珍しく三〇分経ってもやってこない。トリントは時間に厳しい男なのに・・・。やがて四人が姿を見せたが、何か、雰囲気がおかしい。
ビールを片手にステーキを焼きながらトリントが言うには、親子で大げんかしたそうだ。ブリスベンから訪問中のキャッシーの父親が、「日本人なんかと一緒 に酒を飲みたくない」と、言い張ったそうだ。なぜならおやじさんは日本人と戦った経験があるからだという。トリントたちは「いつまで日本人を毛嫌いするの は止めたらどうだ。嫌いだ嫌いだと言って、乗っている車はトヨタやホンダじゃないか。矛盾している」と説得したそうだ。
というわけで、当時、反日感情は高まる一方だった。平和愛好家の私は「トサカにきた」。そこで矛盾するかもしれないが「戦う」ことにした。地元新聞に投書したのだ。
「最近、日本を憎悪するお年寄りの投書が目に付く。この人たちの意見を読むと、父のことを思い出す。父は樺太に住んでいてロシア軍に占領され、三年間、占 領地での生活を送って辛酸をなめた。そのため、大のロシア嫌いになった。父はロシア人の多くが善良なことをよく知っていた。それでも、ロシアと聞いただけ で、身震いして嫌悪した。私は、若い世代の日本人として、憎悪の生まれない世界を作ることに献身したいと思う」
この投書をしたあとで、オーストラリア人と結婚して現地に長く住む日本人女性から「あの投書を読んで胸がスーとしたわ。ありがとう」といわれた。テニス コートでは「シュン、紙面を汚すなよな!」と中年のオーストラリア男から言われた。でも一緒に仲良くテニスしたところからみて、悪感情は持たれなかったよ うだ。あるオーストラリア人女性は「うちの両親も日本人嫌いなのよ。だからあなたの投書を切り抜いて実家に送ったわ」という。
だが、一番の変化は、それ以降、ブルーマウンテンズ市における反日キャンペーンが消滅したことだ。二度と反日の投書も見られなくなった。
私が得た教訓は、やっぱ、理不尽な扱いに対しては、戦わなくてはダメだということだ。でも、非暴力抵抗主義で・・・。
そのとおり、確かに親日国だ。
だがオーストラリアに住んでいた五年間の間に、反日・大キャンペーンに遭遇した。
当時は、日本がバブル景気で潤っていた時代。日本の若い起業家が自家用ジェットに乗って、オーストラリアの一流ホテルを買いに来たので「日本はどうなっているのだろう?」と首をかしげたことを覚えている。その若い起業家は、今は破産して牢獄に身を置く立場。
当時、オーストラリアに住んでいた私は、唖然として日本の景気の過熱ぶりを見ていた。当時の日本は昇竜だった。海外に住んで見ていると、日本という昇竜 は、世界の各地に爪を伸ばし、押さえ込み、土地や企業や建物を呑み込んでいた。現地の人々は、国をすべて呑み込まれるのではないかと、恐れおののいてい た。オーストラリア人から見ると、日本は恐竜に見えたのだ。
そこで起こったのが、反日キャンペーン。これは当時、オーストラリア全土を席巻した。
「日本人にオーストラリアを売り渡すな!」
「戦争でやっつけた日本人に、平和なときに侵略されている。戦争中、多くの同胞が日本人に虐殺されたことを忘れるな」
「パールハーバー、マレー半島を忘れるな。日本人は信用できない。いつ約束を破って、オーストラリアを侵略するかわからない」
こんな調子の「反日」の投書が、私が住んでいたブルーマウンテンズの地元新聞にも、毎週のように載っていた。憎悪のキャンペーンだ。
ことの発端は、ブルーマウンテンズ市役所が、年々増加していた日本人観光客のために、観光の要所に日本語の掲示板を置こうと提案したことにあった。この提案を期に、反日感情が一気に爆発したのだ。
ブルーマウンテンズ市は、シドニー市郊外の日本の箱根を思わせる風光明媚な別荘地帯で、多くの年寄りが余生を送っている。これらのお年寄りの中には、日 本人と戦った人々、シンガポールのチェンジ捕虜収容所(日本軍運営)で、餓死すれすれの目にあって、生き延びてきた人々がいる。
これら辛酸をなめてきたお年寄りの多くは、あまり過去を語ろうとしない。だが、その親族達は、彼らの代わりに激怒しているように思われた。
この土地に住んでいると、お年寄りの中には日本人と見ると憎悪の目で睨み、そばに近づいてこない人がいることに、気付かざるを得ない。
オーストラリアは親日国だというけれど、心情は複雑なのだ。
あるときトリント夫妻をバーベキュー・パーティーに呼んだところ、奥さんキャッシーのご両親も来るという。そこで庭にレンガで作った鉄板焼き場で火を起こし、ワインをなめなめ、来訪を待った。
ところが珍しく三〇分経ってもやってこない。トリントは時間に厳しい男なのに・・・。やがて四人が姿を見せたが、何か、雰囲気がおかしい。
ビールを片手にステーキを焼きながらトリントが言うには、親子で大げんかしたそうだ。ブリスベンから訪問中のキャッシーの父親が、「日本人なんかと一緒 に酒を飲みたくない」と、言い張ったそうだ。なぜならおやじさんは日本人と戦った経験があるからだという。トリントたちは「いつまで日本人を毛嫌いするの は止めたらどうだ。嫌いだ嫌いだと言って、乗っている車はトヨタやホンダじゃないか。矛盾している」と説得したそうだ。
というわけで、当時、反日感情は高まる一方だった。平和愛好家の私は「トサカにきた」。そこで矛盾するかもしれないが「戦う」ことにした。地元新聞に投書したのだ。
「最近、日本を憎悪するお年寄りの投書が目に付く。この人たちの意見を読むと、父のことを思い出す。父は樺太に住んでいてロシア軍に占領され、三年間、占 領地での生活を送って辛酸をなめた。そのため、大のロシア嫌いになった。父はロシア人の多くが善良なことをよく知っていた。それでも、ロシアと聞いただけ で、身震いして嫌悪した。私は、若い世代の日本人として、憎悪の生まれない世界を作ることに献身したいと思う」
この投書をしたあとで、オーストラリア人と結婚して現地に長く住む日本人女性から「あの投書を読んで胸がスーとしたわ。ありがとう」といわれた。テニス コートでは「シュン、紙面を汚すなよな!」と中年のオーストラリア男から言われた。でも一緒に仲良くテニスしたところからみて、悪感情は持たれなかったよ うだ。あるオーストラリア人女性は「うちの両親も日本人嫌いなのよ。だからあなたの投書を切り抜いて実家に送ったわ」という。
だが、一番の変化は、それ以降、ブルーマウンテンズ市における反日キャンペーンが消滅したことだ。二度と反日の投書も見られなくなった。
私が得た教訓は、やっぱ、理不尽な扱いに対しては、戦わなくてはダメだということだ。でも、非暴力抵抗主義で・・・。
日本人(32)多重基準
「相対神・調和」が支配する国・日本には、絶対という理念がない。すべては相対的だ・・・「相対」がない世界における日本は、極端に走るほか、選択の余地が無くなる・・・と、「ガイアツ(2)」で書いた。
これと関連するのが、戦前の日本流植民地主義が第二次世界大戦における敗北で終わったこと、一九八〇年代のバブル経済(日本流資本主義)が、崩壊し、いまだに立ち直れないことだ。
明治維新の後、欧米諸国による植民地化を逃れた日本は、富国強兵に走り、ロシア、中国と戦争をして、植民地を拡大した。当時、欧米のまねをして富国強兵 に走り、植民地化政策をとらなければ、世界の時流に遅れることはあきらかだった。日本がアメリカ、フランス、英国の支配下に置かれる恐れもあった。このこ とは中学生でも日本の歴史で学んでいる。
日本による韓国併合、台湾支配、満州国独立の画策は、欧米に学んだ帝国主義そのものだった。だが、面白いことに、日本の植民地政策を見た欧米諸国は、恐れおののいた。なぜなら、日本の植民地政策には欧米に存在する「二重基準」が見られなかったからだ。
欧米の帝国主義に基づく植民地政策と、日本流帝国主義による植民地政策は、あきらかに違う。
欧米の植民地政策は「二重基準」に基づいている。たとえばインドの英国も、インドネシアのオランダも、現地の人々から富を収奪することだけで、満足し た。現地の人々は、いわば牛や馬や家畜であり、人間に奉仕して、富を生めばよい。彼らは牛や馬と同化する気なぞ全くなかった。したがって、現地の人々とは 交わらず、上層階級を作り、そこに君臨し、プランテーションなどを作り、本国のために植民地を収奪した。欧米人がインドネシア人やビルマ人、インド人を家 畜と思っていたかどうかは、定かではないが、まあ、人によって異なったことだろう。
二〇〇年前のアメリカ合衆国独立の父たちも、独立宣言の言葉などは敬服に値するが、黒人奴隷に対する意識は、当時の時代から一歩もでていなかったこと は、よく知られている。トーマス・ジェファーソンもジョージ・ワシントンも黒人奴隷は家畜であり、人間ではないと信じ込んでいた。黒人奴隷が人間と同じ知 性をもっているようだ・・・と、驚きの言葉を発している。
南米を植民地化したスペイン人やポルトガル人も、「二重基準」の信奉者たちだ。彼らはいまだに現地のインディオたちを搾取して当然と考えている。
一方、日本的帝国主義による植民地政策はまったく異なった。すべてを相対的に考える「相対神・調和」の民は、「二重基準」が持てない。「多重基準」の世 界であり、八百万の神が有り、そのすべてが大切だ。一方、欧米では「絶対神」があるから、それ以外の神は偶像であり、区別する。つまり「二重構造」だ。も ともと「絶対神」などというものは知覚できない抽象的概念だ。そこで「二重基準」が必要になる。ないものをあると見なすこと自体が「二重基準」を生む。だ が八百万の神々は、石であり木であり水だから、見ることが出来る。したがって「二重基準」はなじまない。日本は「多重基準」の国なのだ。
さて、日本流植民地主義は現地民の日本人化だった。つまり同化政策だ。これは日本が植民地化した国々では、どこでも行われた。
これを見た欧米人は恐怖した。なぜなら、彼らには理解できない、不愉快な政策だったからだ。彼らに言わせると「他国民の文化を根こそぎ奪うとは、許され ない行為だ」となる。たとえば、韓国でも中国でも独自な文化がある。独特な言語もあれば名前をもある。それをすべて日本化してしまうからだ。
欧米人は植民地化していた人々を家畜同様に扱い、搾取していたが、日本の植民地政策の違いに戦慄し、自分たちが行っていることを反省した面がある。もっ とも反省したのは、当時の米国だけだった。リンカーン大統領は一八六五年に内戦で勝利して、法律の上で奴隷制の廃止を行った。実際に黒人が解放されたのは 一九六〇年代だから、法律の上だけだったわけだが、それでも、思索をする人々にとっては大きな変化だった。また米国は英国の植民地から独立戦争をへて独立 した歴史を持つ。そこでハワイやフィリピンを植民地化したが、一部の人々はアメリカの理想と合わないと、矛盾を感じていたのだ。そんな、アメリカはいち早 く帝国主義、植民地主義から、距離を置く立場をとった。特に日本流植民地政策を見てからは、植民地主義を野蛮だと見なすようになった。そんな、時代の流れ にまったく気がつかなかった日本は、ヨーロッパの植民地帝国主義をまねして、日本独特の植民地主義で植民地を拡大していったのだ。
その結果が、「大東亜戦争」の敗北となったが、この構図は、一九八〇年代のバブル経済の時にも繰り返されている。
これと関連するのが、戦前の日本流植民地主義が第二次世界大戦における敗北で終わったこと、一九八〇年代のバブル経済(日本流資本主義)が、崩壊し、いまだに立ち直れないことだ。
明治維新の後、欧米諸国による植民地化を逃れた日本は、富国強兵に走り、ロシア、中国と戦争をして、植民地を拡大した。当時、欧米のまねをして富国強兵 に走り、植民地化政策をとらなければ、世界の時流に遅れることはあきらかだった。日本がアメリカ、フランス、英国の支配下に置かれる恐れもあった。このこ とは中学生でも日本の歴史で学んでいる。
日本による韓国併合、台湾支配、満州国独立の画策は、欧米に学んだ帝国主義そのものだった。だが、面白いことに、日本の植民地政策を見た欧米諸国は、恐れおののいた。なぜなら、日本の植民地政策には欧米に存在する「二重基準」が見られなかったからだ。
欧米の帝国主義に基づく植民地政策と、日本流帝国主義による植民地政策は、あきらかに違う。
欧米の植民地政策は「二重基準」に基づいている。たとえばインドの英国も、インドネシアのオランダも、現地の人々から富を収奪することだけで、満足し た。現地の人々は、いわば牛や馬や家畜であり、人間に奉仕して、富を生めばよい。彼らは牛や馬と同化する気なぞ全くなかった。したがって、現地の人々とは 交わらず、上層階級を作り、そこに君臨し、プランテーションなどを作り、本国のために植民地を収奪した。欧米人がインドネシア人やビルマ人、インド人を家 畜と思っていたかどうかは、定かではないが、まあ、人によって異なったことだろう。
二〇〇年前のアメリカ合衆国独立の父たちも、独立宣言の言葉などは敬服に値するが、黒人奴隷に対する意識は、当時の時代から一歩もでていなかったこと は、よく知られている。トーマス・ジェファーソンもジョージ・ワシントンも黒人奴隷は家畜であり、人間ではないと信じ込んでいた。黒人奴隷が人間と同じ知 性をもっているようだ・・・と、驚きの言葉を発している。
南米を植民地化したスペイン人やポルトガル人も、「二重基準」の信奉者たちだ。彼らはいまだに現地のインディオたちを搾取して当然と考えている。
一方、日本的帝国主義による植民地政策はまったく異なった。すべてを相対的に考える「相対神・調和」の民は、「二重基準」が持てない。「多重基準」の世 界であり、八百万の神が有り、そのすべてが大切だ。一方、欧米では「絶対神」があるから、それ以外の神は偶像であり、区別する。つまり「二重構造」だ。も ともと「絶対神」などというものは知覚できない抽象的概念だ。そこで「二重基準」が必要になる。ないものをあると見なすこと自体が「二重基準」を生む。だ が八百万の神々は、石であり木であり水だから、見ることが出来る。したがって「二重基準」はなじまない。日本は「多重基準」の国なのだ。
さて、日本流植民地主義は現地民の日本人化だった。つまり同化政策だ。これは日本が植民地化した国々では、どこでも行われた。
これを見た欧米人は恐怖した。なぜなら、彼らには理解できない、不愉快な政策だったからだ。彼らに言わせると「他国民の文化を根こそぎ奪うとは、許され ない行為だ」となる。たとえば、韓国でも中国でも独自な文化がある。独特な言語もあれば名前をもある。それをすべて日本化してしまうからだ。
欧米人は植民地化していた人々を家畜同様に扱い、搾取していたが、日本の植民地政策の違いに戦慄し、自分たちが行っていることを反省した面がある。もっ とも反省したのは、当時の米国だけだった。リンカーン大統領は一八六五年に内戦で勝利して、法律の上で奴隷制の廃止を行った。実際に黒人が解放されたのは 一九六〇年代だから、法律の上だけだったわけだが、それでも、思索をする人々にとっては大きな変化だった。また米国は英国の植民地から独立戦争をへて独立 した歴史を持つ。そこでハワイやフィリピンを植民地化したが、一部の人々はアメリカの理想と合わないと、矛盾を感じていたのだ。そんな、アメリカはいち早 く帝国主義、植民地主義から、距離を置く立場をとった。特に日本流植民地政策を見てからは、植民地主義を野蛮だと見なすようになった。そんな、時代の流れ にまったく気がつかなかった日本は、ヨーロッパの植民地帝国主義をまねして、日本独特の植民地主義で植民地を拡大していったのだ。
その結果が、「大東亜戦争」の敗北となったが、この構図は、一九八〇年代のバブル経済の時にも繰り返されている。
日本人(33)落とし穴
第二次世界大戦に敗北した日本は、五〇年後に経済大国となり、バブル経済の力で世界を席巻した。黄金の国「ジパング」は、マルコ・ポーロの時代から思われていたように、一種独特な要素を持った国のようだ。
バブル経済で日本が昇竜となり、世界中に爪を立てていたころ、私はオーストラリアに住んでいて、現地の人々が日本の経済力に恐れをなす姿を見てきた。一 九八九年夏に日本に帰国して、様相を変えた東京を見て驚いた。私は会社をやめて、フリーになり「さて、どうやって生きていこうか?」と考えたが、フリーの ライターとして経済雑誌に使って貰うぐらいしか能がなかった。それと英語力だ。というわけである一流ホテルの通訳の仕事をし、夜中にTV局に呼ばれて、 ニュース映像の翻訳などをした。
カナダの投資家の通訳をしたとき、彼はホテルの窓から日比谷公園を見ながら「いや、この辺りの土地の価値はすごいね。黄金の塊みたいなものだね」とい う。私は「どうかな、そのうち二足三文になるんじゃない」と思わず言ってしまった。「なんで?」といぶかしげにカナダの投資家が聞く。「いやー、よく分か らないけど、非現実的に思えてしょうがないんだ」と私。
ある経済雑誌のN編集長は「ダイチさん、日本はついに世界一になったな。二一世紀は日本の世紀だ」という。「どうかなそれは、これは一時的なものだと思うな。欧米諸国は日本なんていつでも潰せるよ。今は大不況のアメリカだって底力からはすごいと思うな」
「それじゃ、アメリカに行ったときに、そういう面を見てきてよ」と編集長。
それで私はアメリカに行って取材し『大不況アメリカにみる不気味な底力』という記事を、雑誌に掲載した。
それから一年ぐらいのうちに日本のバブルがはじけて、現在まで尾を引く不況が始まった。
第二次世界大戦に破れて焼土となった日本は、運良く復活し、軍事大国の道を取ることを断念し、経済大国への道を歩みはじめた。それから五〇年、日本は戦 前の日本が欧米の帝国主義をまねして、一流の帝国主義国家になったと同じように、欧米の資本主義を見事に取り入れて、一流の資本主義国家になった。帝国主 義による植民地制度は、一九六〇年の国連決議「植民地独立宣言」で正式に否定され、すべての植民地は独立する権利を持つようになった。
そこで台頭してきたのが経済植民地主義。これは武力でなく、経済力で他国を支配下に入れてしまうというもの。つまりバブル期の日本が行ったように、各国 のシンボル的な建物やホテルや企業の買収をして、支配下に置いてしまうことだ。日本のバブル経済が華やかなときには、オーストラリア全部が買い取られてし まうのではないかと、現地の人々は恐れた。これは軍事力による植民地化と異なり、実態がわかりにくい。また、昔の植民地時代と異なり、経済的に支配されて も、国の独立は保てるのだから、法律を変えたりなどしていろいろ抵抗できる。当時のオーストラリアでも外国人の土地購入を法律で禁止するなど、いろいろ対 策を立てた。
そこで第三の植民地政策が生まれつつある。金融植民地主義だ。これは、世界の金融を操作して、人々が汗を流してためた富を、一気に収奪する。たとえば、 数年前、タイ王国のバーツが暴落した。その背後には金融植民地主義者たちの姿が見え隠れした。そのうち国連で「金融植民地独立宣言」を採択するする必要が でてくるかもしれない。おっと、これでは、話が先に進みすぎてしまう。
私が感じたのは、戦前の日本流軍国主義による日本流植民地主義と、それによる敗戦と、戦後の日本流資本主義と日本流経済植民地主義とバブル崩壊という経済敗戦という構図が、よく似ていることだ。
日本の経済植民地主義には節度がないと、欧米人は感じたのではないだろうか? 戦前と同じで、日本は欧米の作ったルールにしたがっている。戦前の帝国主 義は欧米の帝国主義に見習っている。戦後の経済発展もまた、欧米の資本主義のやり方を見習っている。海外に押し掛けて現地の土地や建物、会社を支配下に入 れるのも、欧米に学んでいる。
ところが日本流はどこかで欧米人の神経を逆なでするところがある。それは秩序のなさであり、多重基準という「一重基準」であるようだ。日本流資本主義 は、ルールさえ守れば何でも有りだと思っている。そこで極端に走るし歯止めが効かないところがある。ところが、欧米のルールは二重基準に基づいている。そ のことに気づかないで日本流を押し通すと、日本は必ず落とし穴に落ちると思う。
バブル経済で日本が昇竜となり、世界中に爪を立てていたころ、私はオーストラリアに住んでいて、現地の人々が日本の経済力に恐れをなす姿を見てきた。一 九八九年夏に日本に帰国して、様相を変えた東京を見て驚いた。私は会社をやめて、フリーになり「さて、どうやって生きていこうか?」と考えたが、フリーの ライターとして経済雑誌に使って貰うぐらいしか能がなかった。それと英語力だ。というわけである一流ホテルの通訳の仕事をし、夜中にTV局に呼ばれて、 ニュース映像の翻訳などをした。
カナダの投資家の通訳をしたとき、彼はホテルの窓から日比谷公園を見ながら「いや、この辺りの土地の価値はすごいね。黄金の塊みたいなものだね」とい う。私は「どうかな、そのうち二足三文になるんじゃない」と思わず言ってしまった。「なんで?」といぶかしげにカナダの投資家が聞く。「いやー、よく分か らないけど、非現実的に思えてしょうがないんだ」と私。
ある経済雑誌のN編集長は「ダイチさん、日本はついに世界一になったな。二一世紀は日本の世紀だ」という。「どうかなそれは、これは一時的なものだと思うな。欧米諸国は日本なんていつでも潰せるよ。今は大不況のアメリカだって底力からはすごいと思うな」
「それじゃ、アメリカに行ったときに、そういう面を見てきてよ」と編集長。
それで私はアメリカに行って取材し『大不況アメリカにみる不気味な底力』という記事を、雑誌に掲載した。
それから一年ぐらいのうちに日本のバブルがはじけて、現在まで尾を引く不況が始まった。
第二次世界大戦に破れて焼土となった日本は、運良く復活し、軍事大国の道を取ることを断念し、経済大国への道を歩みはじめた。それから五〇年、日本は戦 前の日本が欧米の帝国主義をまねして、一流の帝国主義国家になったと同じように、欧米の資本主義を見事に取り入れて、一流の資本主義国家になった。帝国主 義による植民地制度は、一九六〇年の国連決議「植民地独立宣言」で正式に否定され、すべての植民地は独立する権利を持つようになった。
そこで台頭してきたのが経済植民地主義。これは武力でなく、経済力で他国を支配下に入れてしまうというもの。つまりバブル期の日本が行ったように、各国 のシンボル的な建物やホテルや企業の買収をして、支配下に置いてしまうことだ。日本のバブル経済が華やかなときには、オーストラリア全部が買い取られてし まうのではないかと、現地の人々は恐れた。これは軍事力による植民地化と異なり、実態がわかりにくい。また、昔の植民地時代と異なり、経済的に支配されて も、国の独立は保てるのだから、法律を変えたりなどしていろいろ抵抗できる。当時のオーストラリアでも外国人の土地購入を法律で禁止するなど、いろいろ対 策を立てた。
そこで第三の植民地政策が生まれつつある。金融植民地主義だ。これは、世界の金融を操作して、人々が汗を流してためた富を、一気に収奪する。たとえば、 数年前、タイ王国のバーツが暴落した。その背後には金融植民地主義者たちの姿が見え隠れした。そのうち国連で「金融植民地独立宣言」を採択するする必要が でてくるかもしれない。おっと、これでは、話が先に進みすぎてしまう。
私が感じたのは、戦前の日本流軍国主義による日本流植民地主義と、それによる敗戦と、戦後の日本流資本主義と日本流経済植民地主義とバブル崩壊という経済敗戦という構図が、よく似ていることだ。
日本の経済植民地主義には節度がないと、欧米人は感じたのではないだろうか? 戦前と同じで、日本は欧米の作ったルールにしたがっている。戦前の帝国主 義は欧米の帝国主義に見習っている。戦後の経済発展もまた、欧米の資本主義のやり方を見習っている。海外に押し掛けて現地の土地や建物、会社を支配下に入 れるのも、欧米に学んでいる。
ところが日本流はどこかで欧米人の神経を逆なでするところがある。それは秩序のなさであり、多重基準という「一重基準」であるようだ。日本流資本主義 は、ルールさえ守れば何でも有りだと思っている。そこで極端に走るし歯止めが効かないところがある。ところが、欧米のルールは二重基準に基づいている。そ のことに気づかないで日本流を押し通すと、日本は必ず落とし穴に落ちると思う。
日本人(34)海外での暮し方(1)
インドネシアのスラバヤで、家族共々二年間暮らしたことがある。私は、ある日本企業の海外駐在員だった。
このときはインドネシア人の四人娘と親しくなった。そのうちの二人が二年間、我が家に下宿したからだ。四人とも国立アイルランガ大学の学生。
そのうち三人は中国系インドネシア人でクリスチャン。一人はマレー系インドネシア人でクリスチャン。彼らとは、二〇年たった現在までつきあいがある。そ う、二年前になるが、その一人のサリーのご両親の金婚式には、「二人とも来るのよ!」と、サリーに命令されて、そのためだけにスラバヤに行った。
スラバヤに住むことになったとき、ほとんどの外国人はダルモウサダという町に住んでいた。だが、私たちは町の反対側の国立アイルランガ大学のそばに家を借りた。理由は、大学生を下宿に招待して、彼らを無料で泊める代わりに、インドネシア語を教わるのに便利だったからだ。
それに、外国で生活するときは、極力、現地化する方針を取っていた。そこで、二年間、日本食はほとんど食べず、家ではインドネシア料理で過ごした。最初の頃は、あまりおいしいとも思わず、栄養もイマイチなのか、すっかり痩せてしまった。
一方、オーストラリアには五年間住んだが、このときも現地化し、ステーキを食べ過ぎて、少し太くなった。オーストラリアでは、個人の時間の七〇%は現地の人々と過ごしていたと思う。
地元のロータリークラブに招待され会員となったが、外国人は私一人だった。だいたい、外国人がオーストラリアのロータリークラブ会員になれるとは、私に とっても驚きだった。土日はテニスとゴルフで過ごしたが、テニスの方は、毎週土曜日、七名のハイティーンの男の子、女の子を引き連れて、テニストーナメン トに参加することを四年間続けた。
若いときにアメリカで二年間過ごしたときも、英語を習得する必要があったことが主な理由だが、極力、ローカルの人々の中に入って生活した。
というわけで、私の海外での生活の仕方は、現地に溶け込む方式だ。
日本人仲間では、この方式をとる人は少数派のようだ。
慶応大学ビジネススクールの小林教授はハーバード大学を卒業しているが、「イヤー、日本に帰ってからは、英語屋として扱われて、他の実力を認めてもらうのに一〇年かかりましたよ」と言っていた。
そうなのだ。小林教授もそうとう現地化していたのだろう。そういう人が日本に帰ると、なかなか日本人として、まともに扱って貰えない。外国人ではないが変な日本人であり、いわば「国外人」だ。
こういう現地化した人の中には、日本に帰ってくるのが嫌になってしまう人もいる。いや、結構、多いようだ。私たち家族も、オーストラリアに永住しろと盛 んに誘われた。「永住権をとるのは俺に任せとけ」といろいろな人から言われた。でも、私たちは日本に帰ってきた。理由はいろいろあるが、一つは、一人息子 に選択権を与えたたかったことがある。親が日本人なのだから、子どもにも日本人になるチャンスを与えたかった。それには子どもの頃に日本語を学び、文化を 学ばないと、私以上に変な日本人になってしまう。そこで息子が八歳の時には、日本に帰ってきた。
第二に、私自身が、日本でも十分に生きていけることを証明したかった。
第三に、いまさら移民の時代でもあるまい・・・と思った。オーストラリアに住みたければ、いつでも住める時代になるに違いない。世界中に三つ四つ家をもって、三カ月か四カ月ごとに移動すればいいじゃないか・・・と思った。
外国で生活して、現地化することのメリットは多い。
言葉は覚えるし、現地の文化の理解も深まる。それに情報が豊かに入ってくる。スラバヤでは反中国人暴動があった。戒厳令がひかれ、スラバヤの繁華街にはタンクが出動し、中国人の店が暴徒によって破壊された。
私たちが住んでいたのは、中国系のお金持ちがたくさん住む地域だった。どの家も扉を固く閉ざしている。この辺りは高級住宅地だが、周りをスラムに囲まれている。暴動が本格化したら、襲われる恐れもあった。だが、我が家は、ドアを開け放って、いつも通りに生活した。
実は我が家では、二人居たメイドを可愛がっていた。そのメイドたちが「このうちは絶対だいじょうぶです。スラムの人たちも、ニョニャ(女主人)たちが日本人で、インドネシア人の味方だと知っていますから」というのだ。
実は、現地化にもいろいろある。中国系インドネシア人の家庭では、メイドには厳しい。家を出るときには品物を持ちだしていないか身体検査する家庭もあ る。近所のメイドなどは、ご主人が家にいないときは、外から鍵をかけられた。我が家は、中国人のまねはせず、メイドたちを対等の人間として扱った。現地化 と言っても、やはり日本人には文化的になじめない面もあるのだ。(続く)
このときはインドネシア人の四人娘と親しくなった。そのうちの二人が二年間、我が家に下宿したからだ。四人とも国立アイルランガ大学の学生。
そのうち三人は中国系インドネシア人でクリスチャン。一人はマレー系インドネシア人でクリスチャン。彼らとは、二〇年たった現在までつきあいがある。そ う、二年前になるが、その一人のサリーのご両親の金婚式には、「二人とも来るのよ!」と、サリーに命令されて、そのためだけにスラバヤに行った。
スラバヤに住むことになったとき、ほとんどの外国人はダルモウサダという町に住んでいた。だが、私たちは町の反対側の国立アイルランガ大学のそばに家を借りた。理由は、大学生を下宿に招待して、彼らを無料で泊める代わりに、インドネシア語を教わるのに便利だったからだ。
それに、外国で生活するときは、極力、現地化する方針を取っていた。そこで、二年間、日本食はほとんど食べず、家ではインドネシア料理で過ごした。最初の頃は、あまりおいしいとも思わず、栄養もイマイチなのか、すっかり痩せてしまった。
一方、オーストラリアには五年間住んだが、このときも現地化し、ステーキを食べ過ぎて、少し太くなった。オーストラリアでは、個人の時間の七〇%は現地の人々と過ごしていたと思う。
地元のロータリークラブに招待され会員となったが、外国人は私一人だった。だいたい、外国人がオーストラリアのロータリークラブ会員になれるとは、私に とっても驚きだった。土日はテニスとゴルフで過ごしたが、テニスの方は、毎週土曜日、七名のハイティーンの男の子、女の子を引き連れて、テニストーナメン トに参加することを四年間続けた。
若いときにアメリカで二年間過ごしたときも、英語を習得する必要があったことが主な理由だが、極力、ローカルの人々の中に入って生活した。
というわけで、私の海外での生活の仕方は、現地に溶け込む方式だ。
日本人仲間では、この方式をとる人は少数派のようだ。
慶応大学ビジネススクールの小林教授はハーバード大学を卒業しているが、「イヤー、日本に帰ってからは、英語屋として扱われて、他の実力を認めてもらうのに一〇年かかりましたよ」と言っていた。
そうなのだ。小林教授もそうとう現地化していたのだろう。そういう人が日本に帰ると、なかなか日本人として、まともに扱って貰えない。外国人ではないが変な日本人であり、いわば「国外人」だ。
こういう現地化した人の中には、日本に帰ってくるのが嫌になってしまう人もいる。いや、結構、多いようだ。私たち家族も、オーストラリアに永住しろと盛 んに誘われた。「永住権をとるのは俺に任せとけ」といろいろな人から言われた。でも、私たちは日本に帰ってきた。理由はいろいろあるが、一つは、一人息子 に選択権を与えたたかったことがある。親が日本人なのだから、子どもにも日本人になるチャンスを与えたかった。それには子どもの頃に日本語を学び、文化を 学ばないと、私以上に変な日本人になってしまう。そこで息子が八歳の時には、日本に帰ってきた。
第二に、私自身が、日本でも十分に生きていけることを証明したかった。
第三に、いまさら移民の時代でもあるまい・・・と思った。オーストラリアに住みたければ、いつでも住める時代になるに違いない。世界中に三つ四つ家をもって、三カ月か四カ月ごとに移動すればいいじゃないか・・・と思った。
外国で生活して、現地化することのメリットは多い。
言葉は覚えるし、現地の文化の理解も深まる。それに情報が豊かに入ってくる。スラバヤでは反中国人暴動があった。戒厳令がひかれ、スラバヤの繁華街にはタンクが出動し、中国人の店が暴徒によって破壊された。
私たちが住んでいたのは、中国系のお金持ちがたくさん住む地域だった。どの家も扉を固く閉ざしている。この辺りは高級住宅地だが、周りをスラムに囲まれている。暴動が本格化したら、襲われる恐れもあった。だが、我が家は、ドアを開け放って、いつも通りに生活した。
実は我が家では、二人居たメイドを可愛がっていた。そのメイドたちが「このうちは絶対だいじょうぶです。スラムの人たちも、ニョニャ(女主人)たちが日本人で、インドネシア人の味方だと知っていますから」というのだ。
実は、現地化にもいろいろある。中国系インドネシア人の家庭では、メイドには厳しい。家を出るときには品物を持ちだしていないか身体検査する家庭もあ る。近所のメイドなどは、ご主人が家にいないときは、外から鍵をかけられた。我が家は、中国人のまねはせず、メイドたちを対等の人間として扱った。現地化 と言っても、やはり日本人には文化的になじめない面もあるのだ。(続く)
日本人(35)海外での暮し方(2)
前回、現地化にもいろいろあると言ったが、簡単にインドネシア的考え方に従えないこともあった。たとえば、会社の秘書の中国系の女性からは「メイドはサルと一緒よ。そう思って扱わなくては。だって学問のない人はサルと同じよ」と言われて、私はショックを受けた。
我が家のメイド、デウイは当時一七歳で、利発な働き者だった。あるときマレー系インドネシア人の作家に「うちのメイドは一七歳だけど、ちゃんと教育すれ ば大学もでられると思うよ」と言った。この作家はあっけにとられ「まさか本気で言ってるんではないですよね?」と聞き返された。「いや、本当にそう思うけ ど・・・」と私。礼儀正しい作家は、目を丸くしたが、それ以上、議論しようとはしなかった。私はどうやら非常識なことを、言っているらしかった。
従って、私の現地化はあくまでも現地化への努力であって、真の現地化などほぼ不可能なことだろう。
さて、現地の人々と親しくしていると、情報面では絶対的に有利だ。反中国人暴動が起こってから二日目、土曜日だったので、近所のテニスコートに行ってみ た。中国人の高級住宅街の中にあるテニスコートで、私も、毎週ここでテニスをしていた。誰もいないだろうと思って出掛けたのだが、なんと五~六名がプレー している。
「のんきにテニスなんかできるの?」と、中国系インドネシア人の若社長に聞いた。「ああ。大丈夫だ。今朝、スラバヤ地区の軍司令官から連絡があって、スラバヤは暴徒を押さえ込んだし、治安に心配はいらない。他の都市が安定したら、タンクもいらなくなる、と言われたんだ」
というわけで、日本のスラバヤ領事館が情報麻痺状態でいるときに、私はすでに、スラバヤにおける暴動は終わっていることを知ることができた。
このように、現地化をしていると、いろいろ有利なことが多いのだが、日本の大企業から派遣されてくる駐在員などは、日本人同士で固まっていることが多 い。欧米人も固まって住み、自分たちだけの租界を作る傾向があるのは有名だ。だが、なぜか日本人も同じように租界を作る傾向がある。
欧米人は、基本的に二重基準を持っているから、租界を作りやすくなるのは理解できる。でも、日本人は多重基準だから、比較的現地に溶け込む傾向が強いはずだと思ったら、そうでもない。なぜなのか?
一般的に言われているのは、日本人は本社を向いて仕事している。いつ日本に帰れるか、帰ったら席はあるのか・・・、などが気になるらしい。本社にいないと忘れられる心配があるわけだ。それで、なるべく日本人社会で生活をする。
もう一つの理由は、日本文化というものが有り、その世界では何事も話が早い。腹芸も利く。多くを語らなくても理解できていると、錯覚もある。さらには言 葉の問題もある。というわけで、日本人同士が固まりやすいのだという。さらに、日本の食文化が独特なので、どうしても、現地化できないという。その気持ち は確かに良く分かる。お茶ずけさらさら、豆腐に納豆、寿司は海外に長く住むと、恋しくなる。
もう一つの理由は、欧米人の真似をしているのではないだろうか? 欧米人はすぐに租界を作る。それは長崎の出島から、江戸末期の横浜、戦後の米軍基地、現在の沖縄を見ても分かる。真似が好きな日本人は、欧米人を見習っているのではないだろうか?
縄文時代の昔から、日本は外来文化にも外国人にもオープンであったと言ってよいだろう。どんどん歓迎し、同化していった。弥生人も縄文人に同化された。 それ以外にも、日本人の血にはインドのタミル人、フィリピンの原住民の黒人系の血も含まれているらしい。それが何で、海外にでると排他的な租界など作るの だろうか? 二重基準を持つ欧米の真似などしないで、日本独特のあり方があっての良いのでは、と思う。
海外に住む日本人を見ると七〇%が日本を向いて暮し、現地化など考えもしない。二〇%は国際派を目指し、言葉を学び、現地のことも知ろうとする。そして残りの一〇%が私のような、現地化を目指す。
二〇%の国際派というのは、実は、七〇%の純日本人グループとあまり変わらない。彼らは国粋的国際派と呼べる人たちだ。外国語もできるし、現地語も学 び、現地文化も学ぶ。だが基本は日本の国益を第一に考える国士的な人々だ。日本の社会で主流派となれる国際人というのは、こういう人々だ。
最後の一〇%の現地同化派は、いわばノーテンキーの根無し草、と少なくとも、国粋的国際派からは思われる。そう、ノーテンキーで、世界人になろうと目指 すような人々だ。欧米諸国にも、こういうノーテンキーのコスモポリタン願望派がいる。だが、馬鹿にしてはいけない。こういうタイプの人々も増えている。
皆さんが、海外に住むときは、どのタイプになるのだろうか? 私はノーテンキーの世界人を目指したが、まあ、楽しかった。限界も分かったような気がす る。少なくとも、海外に住むなら、現地化して、コスモポリタンになる努力をするのが、一番、壁も高く、それだけ面白いと思うが、いかがだろう?
我が家のメイド、デウイは当時一七歳で、利発な働き者だった。あるときマレー系インドネシア人の作家に「うちのメイドは一七歳だけど、ちゃんと教育すれ ば大学もでられると思うよ」と言った。この作家はあっけにとられ「まさか本気で言ってるんではないですよね?」と聞き返された。「いや、本当にそう思うけ ど・・・」と私。礼儀正しい作家は、目を丸くしたが、それ以上、議論しようとはしなかった。私はどうやら非常識なことを、言っているらしかった。
従って、私の現地化はあくまでも現地化への努力であって、真の現地化などほぼ不可能なことだろう。
さて、現地の人々と親しくしていると、情報面では絶対的に有利だ。反中国人暴動が起こってから二日目、土曜日だったので、近所のテニスコートに行ってみ た。中国人の高級住宅街の中にあるテニスコートで、私も、毎週ここでテニスをしていた。誰もいないだろうと思って出掛けたのだが、なんと五~六名がプレー している。
「のんきにテニスなんかできるの?」と、中国系インドネシア人の若社長に聞いた。「ああ。大丈夫だ。今朝、スラバヤ地区の軍司令官から連絡があって、スラバヤは暴徒を押さえ込んだし、治安に心配はいらない。他の都市が安定したら、タンクもいらなくなる、と言われたんだ」
というわけで、日本のスラバヤ領事館が情報麻痺状態でいるときに、私はすでに、スラバヤにおける暴動は終わっていることを知ることができた。
このように、現地化をしていると、いろいろ有利なことが多いのだが、日本の大企業から派遣されてくる駐在員などは、日本人同士で固まっていることが多 い。欧米人も固まって住み、自分たちだけの租界を作る傾向があるのは有名だ。だが、なぜか日本人も同じように租界を作る傾向がある。
欧米人は、基本的に二重基準を持っているから、租界を作りやすくなるのは理解できる。でも、日本人は多重基準だから、比較的現地に溶け込む傾向が強いはずだと思ったら、そうでもない。なぜなのか?
一般的に言われているのは、日本人は本社を向いて仕事している。いつ日本に帰れるか、帰ったら席はあるのか・・・、などが気になるらしい。本社にいないと忘れられる心配があるわけだ。それで、なるべく日本人社会で生活をする。
もう一つの理由は、日本文化というものが有り、その世界では何事も話が早い。腹芸も利く。多くを語らなくても理解できていると、錯覚もある。さらには言 葉の問題もある。というわけで、日本人同士が固まりやすいのだという。さらに、日本の食文化が独特なので、どうしても、現地化できないという。その気持ち は確かに良く分かる。お茶ずけさらさら、豆腐に納豆、寿司は海外に長く住むと、恋しくなる。
もう一つの理由は、欧米人の真似をしているのではないだろうか? 欧米人はすぐに租界を作る。それは長崎の出島から、江戸末期の横浜、戦後の米軍基地、現在の沖縄を見ても分かる。真似が好きな日本人は、欧米人を見習っているのではないだろうか?
縄文時代の昔から、日本は外来文化にも外国人にもオープンであったと言ってよいだろう。どんどん歓迎し、同化していった。弥生人も縄文人に同化された。 それ以外にも、日本人の血にはインドのタミル人、フィリピンの原住民の黒人系の血も含まれているらしい。それが何で、海外にでると排他的な租界など作るの だろうか? 二重基準を持つ欧米の真似などしないで、日本独特のあり方があっての良いのでは、と思う。
海外に住む日本人を見ると七〇%が日本を向いて暮し、現地化など考えもしない。二〇%は国際派を目指し、言葉を学び、現地のことも知ろうとする。そして残りの一〇%が私のような、現地化を目指す。
二〇%の国際派というのは、実は、七〇%の純日本人グループとあまり変わらない。彼らは国粋的国際派と呼べる人たちだ。外国語もできるし、現地語も学 び、現地文化も学ぶ。だが基本は日本の国益を第一に考える国士的な人々だ。日本の社会で主流派となれる国際人というのは、こういう人々だ。
最後の一〇%の現地同化派は、いわばノーテンキーの根無し草、と少なくとも、国粋的国際派からは思われる。そう、ノーテンキーで、世界人になろうと目指 すような人々だ。欧米諸国にも、こういうノーテンキーのコスモポリタン願望派がいる。だが、馬鹿にしてはいけない。こういうタイプの人々も増えている。
皆さんが、海外に住むときは、どのタイプになるのだろうか? 私はノーテンキーの世界人を目指したが、まあ、楽しかった。限界も分かったような気がす る。少なくとも、海外に住むなら、現地化して、コスモポリタンになる努力をするのが、一番、壁も高く、それだけ面白いと思うが、いかがだろう?
日本人(36)海外での暮し方(3)
私は基本的に先生が嫌いだ。子どもの頃から学校での成績が悪かったせいか、先公というと、敵という意識しかない。だが例外の方も何人かいる。その一人は故 ローランド・ハーカー教授。この方は、日本に五〇年ぐらい住み、常陸宮の英語教師で日本語も堪能。オックスフォード大学などで神学と哲学で博士号を取った 秀才だが、人間味のある人だった。ハーカー先生には英語を教えて貰ったが、それだけではない。年齢はずいぶん違うが、先生であり、同志であり、友人だっ た。
あるとき思い掛けないことが起こった。日本に五〇年間住んで、誰とでも日本語を話していたハーカー先生が、突然、英語しかしゃべらなくなったのだ。
「なんで英語しか話さないのですか?」と、もちろん、聞いてみた。
「だって、日本人は一億人います。私が日本語を話して、もう一人日本人が増えても、この国ではあまり価値がないでしょう。英語を話せば、米国人として、日本に居る価値が高まるでしょう」
憤然としてそう言うハーカー先生は、服装も真っ赤なシャツと半ズボン、態度からなにもかも米国人に戻っていた。それまで武士的な雰囲気を漂わせていた人が、いきなりカーボーイに変身したようなもので、これには驚いた。
何で、ハーカー先生は米国人に戻ってしまったのか? そこには、表面的なこと以上のものがある。ある意味で、日本人社会の鏡なのに違いない。
日本に住んでいる外国人にもいろいろなタイプの人がいる。
アメリカ人の元ビジネスウイークの東京支局長ロバート・ネフさんは、日本語で取材ができる。奥様も日本人。日本の秘境温泉の権威だ。こういう外国人は日 本語に堪能で、現地化の努力をしており、いわばコスモポリタン派。日本のテレビ界で活躍したかったら、コスモポリタン派でないと無理のようだが、今どき、 日本語がぺらぺらの外国人は、少なくとも大都会ではまったく珍しくない。
一方、日本に二〇年、三〇年と住んでいながら、いまだに日本語の読み書きはもちろん、会話もできない人もいる。『日本権力構造の謎』を書いたオランダ 人、ウオルフレンさんなどは、その典型のようだ。どうやって日本で取材ができるのかは知らないが、この方をインタビューしたときは、「日本語は話せないの で、英語で頼む」と言われた。それでも日本で取材ができるのは、優秀な日本人アシスタントを抱えているためらしい。
中には日本に二〇年間住んで、日本人の女性二人と結婚し子どももいながら、いまだに日本語を解さない英国人もいる。こういう人々は、日本の社会では日本語が話せないほうが有利だと感じているのに違いない。
確かに、日本に住む欧米人は、日本語ができないほうが喜ばれる傾向がある。一昔前は、日本語が堪能な外国人がいると「変な外人」と言われたものだ。日本語がしゃべれない外国人、特に欧米人は、日本人にとって英会話の練習相手として便利だし、日本人の間でちやほやされる。
だが、そこには日本人の持っている欧米人ヘの劣等感が垣間見られる。日本に二〇年も三〇年も住んで、いまだに日本語を学ぶ意志のない外国人、特に欧米人は、日本人の心の奥深くに潜む欧米人への劣等感を敏感に察知して、それを利用している人々なのだ。
こういう人々が男だったら、平気でセクハラをする。たとえば、日本人の奥さんを二人もつ英国人は、平気でセクハラをする。初対面なのに抱いてキスしたり して、日本の若い女性たちを驚かす。外国人だからいきなり欧米式のキスと抱擁をして、日本式礼儀を守らなくても、許されると思っている。いや、無礼な行為 だと分かっていて、平気で行う。外国人だから仕方ない・・・と、日本人がすぐに諦めることを計算しているのだ。こういう人が女性だった、傲慢不遜で、嫌な 女だろうが、幸いにして、そういう女性とのおつきあいはない。
この英国人の男は、碁も上手でテニスもできるので、私にとってはよい遊び相手かもしれないが、我が家の出入りを固く禁止している。
だが、こういう欧米人がはびこるのは、日本人の責任でもある。欧米人にたいする劣等感から卒業できていない日本人が多いのだ。金髪だから、白人だからと いって、優遇する。欧米人を同じ人間として見ることができない人々が、まだ多い。こういう人々は、逆に東南アジアの人々と接すると、今度は、理由のない優 越感を感じて、冷遇する。あるいは無神経に失礼なことをする。つまり、これまた同じ人間として見ることができていないのだ。
残念なことに欧米崇拝はまだ根強く日本の社会に残っている。アジア蔑視も残っている。ハーカー先生の突然の変身は、そんな日本人・日本人社会に対する抗議だったに違いない、と私は思っている。
あるとき思い掛けないことが起こった。日本に五〇年間住んで、誰とでも日本語を話していたハーカー先生が、突然、英語しかしゃべらなくなったのだ。
「なんで英語しか話さないのですか?」と、もちろん、聞いてみた。
「だって、日本人は一億人います。私が日本語を話して、もう一人日本人が増えても、この国ではあまり価値がないでしょう。英語を話せば、米国人として、日本に居る価値が高まるでしょう」
憤然としてそう言うハーカー先生は、服装も真っ赤なシャツと半ズボン、態度からなにもかも米国人に戻っていた。それまで武士的な雰囲気を漂わせていた人が、いきなりカーボーイに変身したようなもので、これには驚いた。
何で、ハーカー先生は米国人に戻ってしまったのか? そこには、表面的なこと以上のものがある。ある意味で、日本人社会の鏡なのに違いない。
日本に住んでいる外国人にもいろいろなタイプの人がいる。
アメリカ人の元ビジネスウイークの東京支局長ロバート・ネフさんは、日本語で取材ができる。奥様も日本人。日本の秘境温泉の権威だ。こういう外国人は日 本語に堪能で、現地化の努力をしており、いわばコスモポリタン派。日本のテレビ界で活躍したかったら、コスモポリタン派でないと無理のようだが、今どき、 日本語がぺらぺらの外国人は、少なくとも大都会ではまったく珍しくない。
一方、日本に二〇年、三〇年と住んでいながら、いまだに日本語の読み書きはもちろん、会話もできない人もいる。『日本権力構造の謎』を書いたオランダ 人、ウオルフレンさんなどは、その典型のようだ。どうやって日本で取材ができるのかは知らないが、この方をインタビューしたときは、「日本語は話せないの で、英語で頼む」と言われた。それでも日本で取材ができるのは、優秀な日本人アシスタントを抱えているためらしい。
中には日本に二〇年間住んで、日本人の女性二人と結婚し子どももいながら、いまだに日本語を解さない英国人もいる。こういう人々は、日本の社会では日本語が話せないほうが有利だと感じているのに違いない。
確かに、日本に住む欧米人は、日本語ができないほうが喜ばれる傾向がある。一昔前は、日本語が堪能な外国人がいると「変な外人」と言われたものだ。日本語がしゃべれない外国人、特に欧米人は、日本人にとって英会話の練習相手として便利だし、日本人の間でちやほやされる。
だが、そこには日本人の持っている欧米人ヘの劣等感が垣間見られる。日本に二〇年も三〇年も住んで、いまだに日本語を学ぶ意志のない外国人、特に欧米人は、日本人の心の奥深くに潜む欧米人への劣等感を敏感に察知して、それを利用している人々なのだ。
こういう人々が男だったら、平気でセクハラをする。たとえば、日本人の奥さんを二人もつ英国人は、平気でセクハラをする。初対面なのに抱いてキスしたり して、日本の若い女性たちを驚かす。外国人だからいきなり欧米式のキスと抱擁をして、日本式礼儀を守らなくても、許されると思っている。いや、無礼な行為 だと分かっていて、平気で行う。外国人だから仕方ない・・・と、日本人がすぐに諦めることを計算しているのだ。こういう人が女性だった、傲慢不遜で、嫌な 女だろうが、幸いにして、そういう女性とのおつきあいはない。
この英国人の男は、碁も上手でテニスもできるので、私にとってはよい遊び相手かもしれないが、我が家の出入りを固く禁止している。
だが、こういう欧米人がはびこるのは、日本人の責任でもある。欧米人にたいする劣等感から卒業できていない日本人が多いのだ。金髪だから、白人だからと いって、優遇する。欧米人を同じ人間として見ることができない人々が、まだ多い。こういう人々は、逆に東南アジアの人々と接すると、今度は、理由のない優 越感を感じて、冷遇する。あるいは無神経に失礼なことをする。つまり、これまた同じ人間として見ることができていないのだ。
残念なことに欧米崇拝はまだ根強く日本の社会に残っている。アジア蔑視も残っている。ハーカー先生の突然の変身は、そんな日本人・日本人社会に対する抗議だったに違いない、と私は思っている。
日本人(37)日本はアジアだ
日本には欧米人だけでなく、アジアの人たちもたくさん住んでいる。
欧米崇拝とアジア人蔑視は、古くから言われ、誰でも知っている日本人の情けない根性だ。だが、今も変わっていない。日本人は、自分たちが「アジア人」で あることを、忘れているのだろうか? そういう人は、もう一度、鏡に映っている、自分の顔をよく見ると良い。どう見たって、その顔は韓国人や中国人、イン ドネシア人やタイ人などと良く似ている。日本はアジアなのだ!
友人のミャンマー人は日本で博士号を取って、日本語がぺらぺら。日本を拠点として海外にも良く出張する。彼はタイ航空に乗っても、日本航空に乗っても、必ず、日本語の新聞や雑誌を読むという。なぜか?
日本人スチュワーデスの態度が「がらり」と変わるからだそうだ。日本人だと思い込んでいると親切にしてくれるが、そうではないと分かると、突然、態度が冷たくなるという。
K大学の博士課程で学ぶ、タイ人のN君から電話があった。「通信販売でいろいろな家具を買おうとしたら、現金で払うというのに、売ってくれないんです。お店の人に身分保障をしてくれますか?」
早速、その会社に電話をしてみたが、電話口に出る女性は「規則ですから」といって、上司にもつないでくれない。「現金ではなくて、クレジットカードなら、お売りできます」という。N君は日本のクレジットカードを持っていなかったので、結局、通信販売家具の購入を諦めた。
T大学の博士課程を卒業したタイ人の女性は、日本政府の研究所に務めている。彼女は研究所の近くにアパートを借りた。不動産屋は、「外国人でもかまいま せんよ」と言ったので、入居した。そうしたら、家主が訪ねてきて「あんたタイ人か。うちは外国人お断りなんだけどね」という。「エー、でも、そのことは、 契約書を交すときに確認したんですけど・・・」と、彼女は驚いた。
「まあ、仕方がないけど、友達は呼ばないで欲しい。アパートでパーティーなどは厳禁ですからね」と家主。もちろん、それは無理な注文だ。彼女には日本人 の友人もたくさんいたし、友達が遊びに来て、何が悪いのだろう? とくに彼女は日本に7年も住んで博士になり、日本語も英語も上手で、日本の習慣もすべて 知っている。だから、問題を起こすことは考えられない。
まあ、信じ難いが、これがいまだに日本の現状だ。同じアジア人なのに差別をするのが、現代の多くの日本人だ。だがそれは大きな間違いだ。
* * *
朝8時、まぶしい朝日に照らされて、サラリーマンの大軍が、足早にオフィスに向かっている。
黒い髪に、浅黒い肌、小柄でやせた体格の持ち主が多いことから、ここは間違いなく、アジアの一都会であることが分かる。
広い自動車道路の両側は、活気のある商店街。小さな食堂はもう開いており、店の中は人であふれ、一部の人々は路上でヌードルをすすっている。他の商店もところせましと品物を並べ、品物棚を路上にまで出している。
「ここは一体、どこの国だったかなー?」。私は、一瞬戸惑った。
香港のようでもあるし、台北のようでもある。あるいはシンガポールだろうか?もちろん、バンコックでも不思議ではない。
私は努力して人々の話している言葉を聞き取ろうとした。
それは・・・日本語だった。
やがて私は、今、自分が、東京の築地を歩いていることに気がついた。
<日本ってこんな所だったっけ><台北やシンガポールと変わらないな><中国語が聞こえてきたら、ここは香港だと間違えちゃうな!>
私は、突然、目から鱗が落ちたような気分であった。自分の姿が、アジア人として、極めて鮮明に見えてきたからだ。
<そうだ、私はアジア人だったのだ。貧困と無秩序、混沌とした非合理な世界から来た東洋人だったのだ。いくら合理的な欧米社会になじみ、秩序ある生活を していても、自分の素地はやはり変わらない。私は、タイやベトナムの人々と同じようにアジア人だし、混沌とした精神構造をやはり持っているのだ。>
<そして、そういうアジア人としての自分をはっきり自覚しておくことは。日本人として、大切なことに違いない・・・>
* * *
このように、自分がアジア人だと強烈に認識させられたのが、オーストラリアに五年間住んで、日本に帰ってきた一二年前だ。
私たち日本人は、自分たちがアジアに住む「脱アジア人」で、「近代化の遅れた並のアジア民族と一緒にしてもらったら困る」とどこかで思っているようだ。だから、冒頭のような日本人の態度が生まれるのだろう。
だが、欧米人から見た日本人は、滑稽なくらいアジア人そのもので、ベトナム人やインドネシア人や中国人、韓国人と、全く区別がつかない人々なのだ。
日本人は、もっとアジア人に同胞意識をもって良いと思う。
欧米崇拝とアジア人蔑視は、古くから言われ、誰でも知っている日本人の情けない根性だ。だが、今も変わっていない。日本人は、自分たちが「アジア人」で あることを、忘れているのだろうか? そういう人は、もう一度、鏡に映っている、自分の顔をよく見ると良い。どう見たって、その顔は韓国人や中国人、イン ドネシア人やタイ人などと良く似ている。日本はアジアなのだ!
友人のミャンマー人は日本で博士号を取って、日本語がぺらぺら。日本を拠点として海外にも良く出張する。彼はタイ航空に乗っても、日本航空に乗っても、必ず、日本語の新聞や雑誌を読むという。なぜか?
日本人スチュワーデスの態度が「がらり」と変わるからだそうだ。日本人だと思い込んでいると親切にしてくれるが、そうではないと分かると、突然、態度が冷たくなるという。
K大学の博士課程で学ぶ、タイ人のN君から電話があった。「通信販売でいろいろな家具を買おうとしたら、現金で払うというのに、売ってくれないんです。お店の人に身分保障をしてくれますか?」
早速、その会社に電話をしてみたが、電話口に出る女性は「規則ですから」といって、上司にもつないでくれない。「現金ではなくて、クレジットカードなら、お売りできます」という。N君は日本のクレジットカードを持っていなかったので、結局、通信販売家具の購入を諦めた。
T大学の博士課程を卒業したタイ人の女性は、日本政府の研究所に務めている。彼女は研究所の近くにアパートを借りた。不動産屋は、「外国人でもかまいま せんよ」と言ったので、入居した。そうしたら、家主が訪ねてきて「あんたタイ人か。うちは外国人お断りなんだけどね」という。「エー、でも、そのことは、 契約書を交すときに確認したんですけど・・・」と、彼女は驚いた。
「まあ、仕方がないけど、友達は呼ばないで欲しい。アパートでパーティーなどは厳禁ですからね」と家主。もちろん、それは無理な注文だ。彼女には日本人 の友人もたくさんいたし、友達が遊びに来て、何が悪いのだろう? とくに彼女は日本に7年も住んで博士になり、日本語も英語も上手で、日本の習慣もすべて 知っている。だから、問題を起こすことは考えられない。
まあ、信じ難いが、これがいまだに日本の現状だ。同じアジア人なのに差別をするのが、現代の多くの日本人だ。だがそれは大きな間違いだ。
* * *
朝8時、まぶしい朝日に照らされて、サラリーマンの大軍が、足早にオフィスに向かっている。
黒い髪に、浅黒い肌、小柄でやせた体格の持ち主が多いことから、ここは間違いなく、アジアの一都会であることが分かる。
広い自動車道路の両側は、活気のある商店街。小さな食堂はもう開いており、店の中は人であふれ、一部の人々は路上でヌードルをすすっている。他の商店もところせましと品物を並べ、品物棚を路上にまで出している。
「ここは一体、どこの国だったかなー?」。私は、一瞬戸惑った。
香港のようでもあるし、台北のようでもある。あるいはシンガポールだろうか?もちろん、バンコックでも不思議ではない。
私は努力して人々の話している言葉を聞き取ろうとした。
それは・・・日本語だった。
やがて私は、今、自分が、東京の築地を歩いていることに気がついた。
<日本ってこんな所だったっけ><台北やシンガポールと変わらないな><中国語が聞こえてきたら、ここは香港だと間違えちゃうな!>
私は、突然、目から鱗が落ちたような気分であった。自分の姿が、アジア人として、極めて鮮明に見えてきたからだ。
<そうだ、私はアジア人だったのだ。貧困と無秩序、混沌とした非合理な世界から来た東洋人だったのだ。いくら合理的な欧米社会になじみ、秩序ある生活を していても、自分の素地はやはり変わらない。私は、タイやベトナムの人々と同じようにアジア人だし、混沌とした精神構造をやはり持っているのだ。>
<そして、そういうアジア人としての自分をはっきり自覚しておくことは。日本人として、大切なことに違いない・・・>
* * *
このように、自分がアジア人だと強烈に認識させられたのが、オーストラリアに五年間住んで、日本に帰ってきた一二年前だ。
私たち日本人は、自分たちがアジアに住む「脱アジア人」で、「近代化の遅れた並のアジア民族と一緒にしてもらったら困る」とどこかで思っているようだ。だから、冒頭のような日本人の態度が生まれるのだろう。
だが、欧米人から見た日本人は、滑稽なくらいアジア人そのもので、ベトナム人やインドネシア人や中国人、韓国人と、全く区別がつかない人々なのだ。
日本人は、もっとアジア人に同胞意識をもって良いと思う。
日本人(38)超民族性
もはや古い話となってしまったが、サッカーのワールドカップが韓国と日本で開かれた。
21歳になる大学4年生の息子マーナは、日本のジャージを着て、国立競技場で応援、すっかりワールドカップを楽しんだ。「もう1試合勝って欲しかったな、そうしたら、もっと楽しめたのに・・・」とマーナは言うが、どうやらこれはお祭りを楽しんでいるだけのようだ。
だが、日本という国を、みんなで応援するという雰囲気は、インドネシア生まれで、3歳から8歳までの5年間をオーストラリアで過ごし、英語と日本語のバ イリンガルに育ったマーナに、なにか深い影響を与えたのではないか・・・? と、関心を持ってみている。マーナはいわゆる帰国子女であり、国粋主義とは無 縁な存在に見えるからだ。
この若者たちの日本応援を見て、国家主義・民族主義の高まりを懸念する声もあったが、ことはそれほど単純ではないようだ。マーナのようにお祭り楽しんだだけの若者が多かったに違いない。
さて、国粋的な応援は、サッカーには付き物だ。むしろ世界的に話題になったのは、日本人の「超民族性」らしきものだった。このとき、日本の観衆が、いろいろな国のジャージを着て応援したことが、世界的な話題になったと報道されていた。
ヨーロッパでのサッカーは戦争の代わりに行われるスポーツだと言われている。イタリアのセリアAの応援を見ても、観衆は暴動寸前まで興奮する。地方都市という小国のチームが、戦争のように戦うわけだ。それが国家の戦いになるのがワールドカップ。
そこで「フリーガン」なる民族主義的、国家主義的な暴徒が跋扈し、ヨーロッパのサッカー場を混乱させることが多い。特にイングランド・サポーターはフ リーガンの元祖として、欧州各地の嫌われ者。ところが、日本や韓国で行われたワールドカップでは、「フリーガン」が活躍する場面はなかった。
その理由の一つとして挙げられているのが、日本人の「超民族性」だ。極東で行われたワールドカップなので、フリーガンも、遠すぎて来ることができなかっ たのかもしれない。だが、別の理由があるのだという。ヨーロッパ人を驚かせたのは、日本人が対戦国ベルギーや、準決勝で対戦する可能性のあったイングラン ドを熱心に応援したことだそうだ。
イギリスの経済紙『フィナンシャル・タイムズ』は「日本人は、憎しみなき熱狂で、W杯をより豊かにしてくれた」と最大級の賛辞を送った。つまり、狭い日本民族至上主義を離れ、大きな心で、サッカーというゲームを楽しんだという。
日本人は本当に「超民族性」をもっているのだろうか? あるいは、日本人の持つ『和』の精神の現れだろうか? 日本人は基本的に争いを避ける文化をもっ ている。それが「超民族性」と誤解されたのだろうか? 日本人は縄文時代から、外来人に親切だ。だから、その伝統的ホスピタリティーの現れか? それとも ただお祭りを楽しんでいただけかなのか?
「超民族性」を感じさせるのが日本のマンガだ。世界を制覇している日本のマンガには、「無国籍性」がある。私も全巻そろえて熱読した『ドラゴンボール』 の世界も、地球規模・宇宙規模の話で、荒唐無稽であり、素晴らしかった。子どもの好きなキティーちゃんの本名は「キティー・ホワイト」だという。『ポケモ ン』も世界的にヒットしているが、登場するヒーロー達の国籍は不明だ。日本のマンガの元祖「鉄腕アトム」も無国籍の雰囲気が強い。
日本のマンガ界は、海外市場を意識しており、そのために「無国籍性」を最初から狙っている節もある。「無国籍」ということは民族の伝統文化から、離れ て、世界的普遍性を持つことだが、この傾向は、ハリウッド映画の世界制覇とは、異なった現象に思える。ハリウッド映画は、アメリカ的文化観の押し売りの面 が強い。一方、日本のマンガは、たしかに「超民族的」のにおいがする作品が多い。
だが、奇妙なことに、周りを見渡しても、一般大衆の中に「無国籍的な日本人」など、見ることができない。「超民族性」を持った日本人などに、おめにか かったこともない。前にも言ったけれど、外国語の上手な国際人と言われる人々のほとんどは「国粋的国際派」なのだ。むしろ彫刻家・棟方志功のような純日本 人に、世界的普遍性を持った人が多い。一つの世界を極めると、そこには人類的な普遍性がでてくるのは、誰でも納得する。今回のワールドカップで判明したの は、相互神・調和が支配する日本の国が、その根本において世界的な普遍性を持つことだ。
つまり、「相互神・調和」の教えである「和」の精神は、その根本において世界的普遍性を持っている。ワールドカップでかいま見えた日本の「超民族性」は、伝統文化「和」の現れだったに違いない。
21歳になる大学4年生の息子マーナは、日本のジャージを着て、国立競技場で応援、すっかりワールドカップを楽しんだ。「もう1試合勝って欲しかったな、そうしたら、もっと楽しめたのに・・・」とマーナは言うが、どうやらこれはお祭りを楽しんでいるだけのようだ。
だが、日本という国を、みんなで応援するという雰囲気は、インドネシア生まれで、3歳から8歳までの5年間をオーストラリアで過ごし、英語と日本語のバ イリンガルに育ったマーナに、なにか深い影響を与えたのではないか・・・? と、関心を持ってみている。マーナはいわゆる帰国子女であり、国粋主義とは無 縁な存在に見えるからだ。
この若者たちの日本応援を見て、国家主義・民族主義の高まりを懸念する声もあったが、ことはそれほど単純ではないようだ。マーナのようにお祭り楽しんだだけの若者が多かったに違いない。
さて、国粋的な応援は、サッカーには付き物だ。むしろ世界的に話題になったのは、日本人の「超民族性」らしきものだった。このとき、日本の観衆が、いろいろな国のジャージを着て応援したことが、世界的な話題になったと報道されていた。
ヨーロッパでのサッカーは戦争の代わりに行われるスポーツだと言われている。イタリアのセリアAの応援を見ても、観衆は暴動寸前まで興奮する。地方都市という小国のチームが、戦争のように戦うわけだ。それが国家の戦いになるのがワールドカップ。
そこで「フリーガン」なる民族主義的、国家主義的な暴徒が跋扈し、ヨーロッパのサッカー場を混乱させることが多い。特にイングランド・サポーターはフ リーガンの元祖として、欧州各地の嫌われ者。ところが、日本や韓国で行われたワールドカップでは、「フリーガン」が活躍する場面はなかった。
その理由の一つとして挙げられているのが、日本人の「超民族性」だ。極東で行われたワールドカップなので、フリーガンも、遠すぎて来ることができなかっ たのかもしれない。だが、別の理由があるのだという。ヨーロッパ人を驚かせたのは、日本人が対戦国ベルギーや、準決勝で対戦する可能性のあったイングラン ドを熱心に応援したことだそうだ。
イギリスの経済紙『フィナンシャル・タイムズ』は「日本人は、憎しみなき熱狂で、W杯をより豊かにしてくれた」と最大級の賛辞を送った。つまり、狭い日本民族至上主義を離れ、大きな心で、サッカーというゲームを楽しんだという。
日本人は本当に「超民族性」をもっているのだろうか? あるいは、日本人の持つ『和』の精神の現れだろうか? 日本人は基本的に争いを避ける文化をもっ ている。それが「超民族性」と誤解されたのだろうか? 日本人は縄文時代から、外来人に親切だ。だから、その伝統的ホスピタリティーの現れか? それとも ただお祭りを楽しんでいただけかなのか?
「超民族性」を感じさせるのが日本のマンガだ。世界を制覇している日本のマンガには、「無国籍性」がある。私も全巻そろえて熱読した『ドラゴンボール』 の世界も、地球規模・宇宙規模の話で、荒唐無稽であり、素晴らしかった。子どもの好きなキティーちゃんの本名は「キティー・ホワイト」だという。『ポケモ ン』も世界的にヒットしているが、登場するヒーロー達の国籍は不明だ。日本のマンガの元祖「鉄腕アトム」も無国籍の雰囲気が強い。
日本のマンガ界は、海外市場を意識しており、そのために「無国籍性」を最初から狙っている節もある。「無国籍」ということは民族の伝統文化から、離れ て、世界的普遍性を持つことだが、この傾向は、ハリウッド映画の世界制覇とは、異なった現象に思える。ハリウッド映画は、アメリカ的文化観の押し売りの面 が強い。一方、日本のマンガは、たしかに「超民族的」のにおいがする作品が多い。
だが、奇妙なことに、周りを見渡しても、一般大衆の中に「無国籍的な日本人」など、見ることができない。「超民族性」を持った日本人などに、おめにか かったこともない。前にも言ったけれど、外国語の上手な国際人と言われる人々のほとんどは「国粋的国際派」なのだ。むしろ彫刻家・棟方志功のような純日本 人に、世界的普遍性を持った人が多い。一つの世界を極めると、そこには人類的な普遍性がでてくるのは、誰でも納得する。今回のワールドカップで判明したの は、相互神・調和が支配する日本の国が、その根本において世界的な普遍性を持つことだ。
つまり、「相互神・調和」の教えである「和」の精神は、その根本において世界的普遍性を持っている。ワールドカップでかいま見えた日本の「超民族性」は、伝統文化「和」の現れだったに違いない。
日本人(39)髪の毛の色
野球の中村選手が巨人軍の渡辺オーナーに嫌われた。髪の毛が黄金色で、モヒカン刈りで巨人軍に合わないという。
この話は、世代間の考え方・国際感覚の相違などを浮き彫りにしており面白い。
渡辺オーナーが古いタイプの日本人であることは間違いない。考え方は戦前スタイルの日本人。つまり形式主義者。
一方、中村さんの方は現代の若者の一人で、個性を強調しているつもりだ。実はこれも面白い。髪の毛を金色に染めると、なるほど、日本では個性的だ。私も 白く染めている・・・(これはシラガ!)、金色にそめたら誰でも日本では目立つ。ところが、欧米諸国に行ったら、この「しょんべんカラー」(失礼!)は、 まったく個性の無い色。
欧米諸国で日本の男女が現地の若者にもてたかったら、黒髪のままがいい。そう、金髪や茶色い髪の毛を持つ人々の国では、黒髪こそ垂涎の的なのだ。黒髪に 「ゾクゾク」と感じる白人男はたくさんいる。黒髪にほれ込む欧米女性もたくさんいる。だが黄色人種の「しょんべんカラー」に惚れる欧米人は奇人に属する。
サッカーの小野選手はオランダにいるが、もうそろそろ坊主頭も「しょんべんカラー」も卒業するのではないかと思う。
先日、あるテレビ・プロダクションのディレクターと一緒にインドに取材に行った。この若い方は「しょんべんカラー」に髪を染めていた。ところが。帰国して10日ぐらいたったら、髪を黒く染めている。
この心境の変化の理由は聞いていない。インドでは、髪の毛を染める男は見当たらない。染めても黒く染めるだけだろう。
どういう心境の変化か? と、ディレクターの心のなぞ解きをしながら地下鉄に乗って周りを見渡すと、びっくり。若い男の70%が黒髪だった。どうも、日 本の若者の髪の毛は染められているのが普通・・・という先入観を持っていたらしい。それとも黒く染めるのが新しい流行なのだろうか?
この辺りは流行に敏感な21歳の息子に聞いてみるほかなさそう。
それはともかく、人と違う個性を発揮しようとすることは良いことだ。若者の髪の毛の色ぐらい、ピンクでもグリーンでも本人がハッピーなら、好きにしたらいいと私は思う。何でも形にはめ込もうとするのは、独裁政権につながる・・・ちょっと大げさか・・・。
「若者の見本になるべき巨人軍の選手に、髪の毛を染めるやつはいらない」というのは戦前タイプの形式主義者の言葉に違いない。そういえば、ワールドサッ カーの時にも、サッカー選手の赤い髪やモヒカン刈りが問題視された。ということは、現在の日本にも、当然ながら戦前の形式主義が色濃く残っているのだろ う。
形式主義とは何か?
広辞苑には「一般に事物の形式を重んじる結果、内容そのものを軽視または無視する態度」とある。
別の言葉でいうと「形を整えれば内面も整えられる」と考え、何でも枠に押し込め、人々の自由を奪うこと。自由な発想、自発性、創造性を好まない、独裁者タイプの人々に見られる態度だ。
形式主義は殺人マシーンを作る軍隊に最適な考え方だ。兵士に自由な発想、自発性、創造性を発揮されたら、効率的な戦争などできないだろう。
こういう形式主義者タイプの人々が必ず言うのが、「最近の若者は髪の毛は染めるし、服装はだらしがない。愛国心も希薄で、日本の将来が心配だ」といった意見。これも実は、とんでもない誤解。
日本人の多くは、日本人がいかに愛国者かを知らないでいる。ただし、ここで言う愛国心とは、郷土や隣人を愛する自然な心のこと。いわゆる国や民族という 抽象的な概念を愛する愛国心ではない。もっと素朴な隣人愛、郷土愛でありつまり独得な文化を愛する心だ。相互神・調和に支配される日本という国は、世界で も独得の文化を持っている。この日本という風土に住む人々のユニークさは、海外で生活すると良く分かる。
日本国内でどんなに西洋かぶれしていた人でも、海外で生活すると、ほとんどの人が素朴な愛国心に目覚める。私たちが警戒すべきは強すぎる利己的な愛国心であり、「日本人は無条件に素晴らしい」などという、抽象的な錯覚した閉鎖的な愛国心。
形式主義者が求める愛国心とは、民族とか国という抽象的概念への忠誠心なのかもしれない。そうだとしたら、そんな愛国心は害毒をもたらすだけで不要だ。必要なのは独得な文化、郷土、隣人への愛だ。
国や民族は変遷し滅びても、文化や風土や隣人は残る。
そして日本人に郷土や隣人への愛の心が不足していると心配する必要は全くない。なぜなら、日本人ほど無自覚のうちに素朴な愛国心の強い人々も珍しいからだ。
この話は、世代間の考え方・国際感覚の相違などを浮き彫りにしており面白い。
渡辺オーナーが古いタイプの日本人であることは間違いない。考え方は戦前スタイルの日本人。つまり形式主義者。
一方、中村さんの方は現代の若者の一人で、個性を強調しているつもりだ。実はこれも面白い。髪の毛を金色に染めると、なるほど、日本では個性的だ。私も 白く染めている・・・(これはシラガ!)、金色にそめたら誰でも日本では目立つ。ところが、欧米諸国に行ったら、この「しょんべんカラー」(失礼!)は、 まったく個性の無い色。
欧米諸国で日本の男女が現地の若者にもてたかったら、黒髪のままがいい。そう、金髪や茶色い髪の毛を持つ人々の国では、黒髪こそ垂涎の的なのだ。黒髪に 「ゾクゾク」と感じる白人男はたくさんいる。黒髪にほれ込む欧米女性もたくさんいる。だが黄色人種の「しょんべんカラー」に惚れる欧米人は奇人に属する。
サッカーの小野選手はオランダにいるが、もうそろそろ坊主頭も「しょんべんカラー」も卒業するのではないかと思う。
先日、あるテレビ・プロダクションのディレクターと一緒にインドに取材に行った。この若い方は「しょんべんカラー」に髪を染めていた。ところが。帰国して10日ぐらいたったら、髪を黒く染めている。
この心境の変化の理由は聞いていない。インドでは、髪の毛を染める男は見当たらない。染めても黒く染めるだけだろう。
どういう心境の変化か? と、ディレクターの心のなぞ解きをしながら地下鉄に乗って周りを見渡すと、びっくり。若い男の70%が黒髪だった。どうも、日 本の若者の髪の毛は染められているのが普通・・・という先入観を持っていたらしい。それとも黒く染めるのが新しい流行なのだろうか?
この辺りは流行に敏感な21歳の息子に聞いてみるほかなさそう。
それはともかく、人と違う個性を発揮しようとすることは良いことだ。若者の髪の毛の色ぐらい、ピンクでもグリーンでも本人がハッピーなら、好きにしたらいいと私は思う。何でも形にはめ込もうとするのは、独裁政権につながる・・・ちょっと大げさか・・・。
「若者の見本になるべき巨人軍の選手に、髪の毛を染めるやつはいらない」というのは戦前タイプの形式主義者の言葉に違いない。そういえば、ワールドサッ カーの時にも、サッカー選手の赤い髪やモヒカン刈りが問題視された。ということは、現在の日本にも、当然ながら戦前の形式主義が色濃く残っているのだろ う。
形式主義とは何か?
広辞苑には「一般に事物の形式を重んじる結果、内容そのものを軽視または無視する態度」とある。
別の言葉でいうと「形を整えれば内面も整えられる」と考え、何でも枠に押し込め、人々の自由を奪うこと。自由な発想、自発性、創造性を好まない、独裁者タイプの人々に見られる態度だ。
形式主義は殺人マシーンを作る軍隊に最適な考え方だ。兵士に自由な発想、自発性、創造性を発揮されたら、効率的な戦争などできないだろう。
こういう形式主義者タイプの人々が必ず言うのが、「最近の若者は髪の毛は染めるし、服装はだらしがない。愛国心も希薄で、日本の将来が心配だ」といった意見。これも実は、とんでもない誤解。
日本人の多くは、日本人がいかに愛国者かを知らないでいる。ただし、ここで言う愛国心とは、郷土や隣人を愛する自然な心のこと。いわゆる国や民族という 抽象的な概念を愛する愛国心ではない。もっと素朴な隣人愛、郷土愛でありつまり独得な文化を愛する心だ。相互神・調和に支配される日本という国は、世界で も独得の文化を持っている。この日本という風土に住む人々のユニークさは、海外で生活すると良く分かる。
日本国内でどんなに西洋かぶれしていた人でも、海外で生活すると、ほとんどの人が素朴な愛国心に目覚める。私たちが警戒すべきは強すぎる利己的な愛国心であり、「日本人は無条件に素晴らしい」などという、抽象的な錯覚した閉鎖的な愛国心。
形式主義者が求める愛国心とは、民族とか国という抽象的概念への忠誠心なのかもしれない。そうだとしたら、そんな愛国心は害毒をもたらすだけで不要だ。必要なのは独得な文化、郷土、隣人への愛だ。
国や民族は変遷し滅びても、文化や風土や隣人は残る。
そして日本人に郷土や隣人への愛の心が不足していると心配する必要は全くない。なぜなら、日本人ほど無自覚のうちに素朴な愛国心の強い人々も珍しいからだ。
日本人(40)日本の経済クラッシュ
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日本人(41)暗黒日記を読んで(1)
『暗黒日記』3巻を読まれただろうか? 日本の自称インテリでもほんとのインテリでも必読の書だ。清沢洌(きよさわ・きよし)という外交評論家の日記だが、昭和18年1月1日から昭和20年5月に亡くなるまで書かれている。
清沢は若いときに渡米して苦学しており、欧米人の気質も国力も熟知しており、したがって太平洋戦争の開戦には大反対をした。しかし、力及ばず、真珠湾攻撃が行われた。
清沢は自由主義、民主主義を信奉していたが、同時に熱烈な愛国者だった。そこで、日本という国と命運を共にした。
戦中の日本は自由に意見が言えない専制国家だった。そこで清沢は講演の時は、外国事情を語るだけで、『非国民』扱いされないように言葉を慎んだ。だが、本音は、日本が無謀な戦争を始めてしまったことを悔やみ、早く戦争を終結したかった。
その本音を書きつづったのがこの『暗黒日記』だ。清沢は最初から日本が敗戦すると見通していた。そして彼の悲観的な予測は全て当たった。だが、当時の日本では、清沢は極端に異端だった。なぜなら、ほとんどの日本人が勝利を信じており、楽観的だったからだ。
『暗黒日記』は人に読ませるために書かれたものではないので、実名が語られ、生々しい。清沢による当時の人々の人物批評もなかなか面白い。
それにしても戦争中の陸軍・海軍の軍人たちと右翼結社群の無知蒙昧、専制政治、暴力主義などにはあきれ返る。日本がなぜこのような低級国家になり下がったのかについては、もっと研究吟味をする必要がある。
戦前・戦中の日本は一部の「頭の悪い」軍人・・・その典型が東条英機・・・利権を漁る右翼・・・典型は笹川良一・・・そしてグローバルな視点に欠けるマスコミや官僚に支配されていたのだ。
国を支配していたのは右翼と結びついた軍人、それに権力によりそる、長いものには巻かれる官僚達だった。インテリは何をしていたか? 無力だった。暴力の前に、ペンも無言になった。そしてマスコミは軍人、右翼、官僚の御用機関と成り下がった。
ある東大教授などは「東条英機などは中学生程度の頭脳レベルですね」と嘆くが、その男に国を支配され、インテリは無力をさらけ出した。インテリはおべんちゃらを言うか、無言でいることしかできなかったのだ。
当時の軍人達の暴力主義と、利権漁りと、無知蒙昧には吐き気がする。
1月11日に多磨墓地に行ったら、そこには東郷平八郎、山本五十六など、多くの軍人達が祀られていた。軍人の名簿があったので、ぱらぱらとめくってみ た。阿南陸相の辞世の句がでていた。「日本を敗北に追いやったのは軍人の責任だ。切腹して謝罪するほか無い。これで神州日本が滅亡しないことを信じて先に しなせてもらう」とあった。
これには納得した。責任感もあり、軍部が間違っていたことを認めているのだ。だが、腹立たしい辞世もあった。名前は忘れたがその軍人は言う。「日本は原 爆に負けたのでもない。まだ勝てた。ただ腰抜けの重臣が天皇陛下をそそのかして無条件降伏をうけいれたのがいけない。最後まで日本を焼土として戦えば、日 本は米国に勝てたのだ。今は無念の切腹をする」
このタイプの軍人こそ、当時の典型なのだ。彼らは竹槍でB29爆撃機や原子爆弾に勝つつもりだった。同じタイプの軍人達はサイパンで破れ、マニラで破 れ、沖縄で破れながらも、負けているとは認めなかった『おお馬鹿者』だ。だが、そういう『おお馬鹿者』に支配されていたのが、戦前・戦中の日本だった。
彼らは『おお馬鹿者』だけでなく、むしろ『狂気の人々』に近いといっていい。こういう人々に支配されていた当時の日本の様相を見ると、米国が原爆を投じて、終戦をはやめようとしたという言い分にも一理出てくる。
そう、こんな「おお馬鹿者」に支配されていた日本は、原爆でも落とされていなかったら、それこそ竹槍1本で機関銃、戦車、爆撃機、原子爆弾に対抗してい ただろう。それこそ日本民族の滅亡につながったに違いない。こういう軍人たちの無知は、無責任であり彼らこそ『日本人の敵』だと見なさないといけない。
だが日本のほとんどの人々が、この戦争を支持していたのも事実だ。いったに、日本人の心理に何が起こったのだろう。
清沢は最初から敗戦を予測していたが、それは異端で、小汀利得(評論家)鶴見祐輔など、ほとんどの人々が、日本の勝利を楽観していた。だが、時が経つに連れ、清沢の予測がことごとく当たったので、彼は預言者のように尊敬された。
だが、清沢はただ、『世界の常識』をわきまえていただけだった。世界の常識から見たら、日本の敗戦は当然であり、そもそも対米戦争を起こすこと自体が日本の思い上がりであり非常識だったのだ。
日本にはこの『世界の常識』を理解できる人が少なかった。理解していた人もいた。戦争を早く終結させようとした吉田茂などもその一人だった。
だが、現在の日本を見て『世界の常識』をわきまえている日本人は、戦前よりも多いのだろうか? あるいは、戦前のように暴力によって言論が押えられ、専制政治になったら、それに対抗できる人々は居るのだろうか? 大いに疑問になる。 (つづく)
清沢は若いときに渡米して苦学しており、欧米人の気質も国力も熟知しており、したがって太平洋戦争の開戦には大反対をした。しかし、力及ばず、真珠湾攻撃が行われた。
清沢は自由主義、民主主義を信奉していたが、同時に熱烈な愛国者だった。そこで、日本という国と命運を共にした。
戦中の日本は自由に意見が言えない専制国家だった。そこで清沢は講演の時は、外国事情を語るだけで、『非国民』扱いされないように言葉を慎んだ。だが、本音は、日本が無謀な戦争を始めてしまったことを悔やみ、早く戦争を終結したかった。
その本音を書きつづったのがこの『暗黒日記』だ。清沢は最初から日本が敗戦すると見通していた。そして彼の悲観的な予測は全て当たった。だが、当時の日本では、清沢は極端に異端だった。なぜなら、ほとんどの日本人が勝利を信じており、楽観的だったからだ。
『暗黒日記』は人に読ませるために書かれたものではないので、実名が語られ、生々しい。清沢による当時の人々の人物批評もなかなか面白い。
それにしても戦争中の陸軍・海軍の軍人たちと右翼結社群の無知蒙昧、専制政治、暴力主義などにはあきれ返る。日本がなぜこのような低級国家になり下がったのかについては、もっと研究吟味をする必要がある。
戦前・戦中の日本は一部の「頭の悪い」軍人・・・その典型が東条英機・・・利権を漁る右翼・・・典型は笹川良一・・・そしてグローバルな視点に欠けるマスコミや官僚に支配されていたのだ。
国を支配していたのは右翼と結びついた軍人、それに権力によりそる、長いものには巻かれる官僚達だった。インテリは何をしていたか? 無力だった。暴力の前に、ペンも無言になった。そしてマスコミは軍人、右翼、官僚の御用機関と成り下がった。
ある東大教授などは「東条英機などは中学生程度の頭脳レベルですね」と嘆くが、その男に国を支配され、インテリは無力をさらけ出した。インテリはおべんちゃらを言うか、無言でいることしかできなかったのだ。
当時の軍人達の暴力主義と、利権漁りと、無知蒙昧には吐き気がする。
1月11日に多磨墓地に行ったら、そこには東郷平八郎、山本五十六など、多くの軍人達が祀られていた。軍人の名簿があったので、ぱらぱらとめくってみ た。阿南陸相の辞世の句がでていた。「日本を敗北に追いやったのは軍人の責任だ。切腹して謝罪するほか無い。これで神州日本が滅亡しないことを信じて先に しなせてもらう」とあった。
これには納得した。責任感もあり、軍部が間違っていたことを認めているのだ。だが、腹立たしい辞世もあった。名前は忘れたがその軍人は言う。「日本は原 爆に負けたのでもない。まだ勝てた。ただ腰抜けの重臣が天皇陛下をそそのかして無条件降伏をうけいれたのがいけない。最後まで日本を焼土として戦えば、日 本は米国に勝てたのだ。今は無念の切腹をする」
このタイプの軍人こそ、当時の典型なのだ。彼らは竹槍でB29爆撃機や原子爆弾に勝つつもりだった。同じタイプの軍人達はサイパンで破れ、マニラで破 れ、沖縄で破れながらも、負けているとは認めなかった『おお馬鹿者』だ。だが、そういう『おお馬鹿者』に支配されていたのが、戦前・戦中の日本だった。
彼らは『おお馬鹿者』だけでなく、むしろ『狂気の人々』に近いといっていい。こういう人々に支配されていた当時の日本の様相を見ると、米国が原爆を投じて、終戦をはやめようとしたという言い分にも一理出てくる。
そう、こんな「おお馬鹿者」に支配されていた日本は、原爆でも落とされていなかったら、それこそ竹槍1本で機関銃、戦車、爆撃機、原子爆弾に対抗してい ただろう。それこそ日本民族の滅亡につながったに違いない。こういう軍人たちの無知は、無責任であり彼らこそ『日本人の敵』だと見なさないといけない。
だが日本のほとんどの人々が、この戦争を支持していたのも事実だ。いったに、日本人の心理に何が起こったのだろう。
清沢は最初から敗戦を予測していたが、それは異端で、小汀利得(評論家)鶴見祐輔など、ほとんどの人々が、日本の勝利を楽観していた。だが、時が経つに連れ、清沢の予測がことごとく当たったので、彼は預言者のように尊敬された。
だが、清沢はただ、『世界の常識』をわきまえていただけだった。世界の常識から見たら、日本の敗戦は当然であり、そもそも対米戦争を起こすこと自体が日本の思い上がりであり非常識だったのだ。
日本にはこの『世界の常識』を理解できる人が少なかった。理解していた人もいた。戦争を早く終結させようとした吉田茂などもその一人だった。
だが、現在の日本を見て『世界の常識』をわきまえている日本人は、戦前よりも多いのだろうか? あるいは、戦前のように暴力によって言論が押えられ、専制政治になったら、それに対抗できる人々は居るのだろうか? 大いに疑問になる。 (つづく)
日本人(42)暗黒日記を読んで(2)
太平洋戦争に踏み切った日本人は賢くなかった。今から見れば無謀な戦争であったことは明らかだった。だが、なぜ、国民のほとんどが大賛成だったのだろう?
この疑問は40年前に高校生だったときに感じ、いろいろと本を読んだ。日本が戦争に踏み切った理由をさがしたのだ。
そこで分かったことはたくさんあった。
第1に、当時は帝国主義時代で、欧米も植民地を持っていた。そこで日本やドイツやイタリアなどの帝国主義の後発部隊も、欧米の仲間入りをしようと頑張っ た。日本は朝鮮半島、満州、台湾、南太平洋を支配下にいれ、中国も支配下に入れようと欲張った。すでに利権を持つ欧米諸国は、新興国の帝国主義参加を好ま なかった。そこで、そこには対立が生じた。
第2に、ヒトラーがヨーロッパで独得な哲学に基づく戦争をはじめた。『わが闘争』を読むと、その思想がわかる。
英国は孤立し、危機が迫った。だが、米国は動けなかった。アメリカ国民が海外の事件に関与するのを嫌がったのだ。今の米国とはまるで正反対なわけだ。そこで、日本に圧力をかけ、戦争を起こさざるをえないように運んだ。石油の禁輸はもっとも強烈なパンチだったらしい。
このように、気に入らない国を強引に戦争に引きずり込む方法は、現在も行われている。いや原住民のインディアンを滅ぼすときにも使われている。いわばアングロサクソンの常とう手段だ。
アフガニスタンのタリバーン政権も滅ぼされた。イラクも無理難題を言われてフセイン政権は風前の灯火。北朝鮮も同じ目にあうだろう。
理不尽と見える行為に我慢できなくなった帝国日本は、真珠湾奇襲にでたわけだが、奇襲のことを当時のルーズベルト大統領は知っていたが、戦争を起こした かったルーズベルトは、無視した。日本は見事にワナに引っ掛かったわけだ。このあたりの推移も9・11事件とよく似ているが、それはこの原稿のテーマでは ない。
日本がルーズベルトのわなにかかったのは、今では常識だろう。日本が欧米の植民地主義をまねて、海外諸国を侵略したのも常識だろう。
だが、当時の日本人が「世界の常識」を知っている国際派の言うことを聞かずに、戦争に飛び込んでいったのは、謎だった。
死んだ親父に聞いたことがある。「なんで日本は、あんな無謀な太平洋戦争に飛び込んだのだろう。勝てると思っていたのだろうか? 親父が戦争を本気で支持していたなんて信じられない」
親父は神妙に答えた。「実は、心から日本の勝利を信じていたし、戦争には全面的に賛成だった。他に道はないと思っていた」
親父は医者だった父親に早く死なれ、苦学して今の一橋大学をでた。まあ、インテリの端くれだ。家では、子どもの頃から私も一緒になって常に天下国家を論じていた。その親父が無謀な「戦争に賛成」だったのには驚いた。
だが、『暗黒日記』を読んで、当時の日本人がなぜ太平洋戦争勃発を支持したかが分かった気がする。
これはどうやら明治維新の反動がでたのだ。ルーツは明治維新にあるのだ。
ペルー提督が黒船を引き連れて日本を訪れてからずいぶんたつが、当時の日本人は誰でも国粋主義者だった。というよりもそれ以外の立場は存在しなかった。実は、今でもそれは変わらない。島国日本の住民の99%は、私を含め国粋主義者だ。
明治維新で政権を掌握した国粋主義者達は、国粋主義では日本を守れないことを知った。そこで急きょ、国際主義者になった・・・国際人に変貌した。鹿鳴館 時代の到来だ。当時の日本と欧米の力の差は、大きく、日本が生き残るためには、急速な欧米化が必須だったのだ。そこで強烈な国粋主義者だった人々が、突 然、国際人のように振る舞った。法律も輸入、全ての面で欧米化を目指した。「欧米に追いつけ追い越せ」が合言葉になったのだ。
それから日清・日露戦争があり、日本は国際社会での地位を高めた。日露戦争までは戦争捕虜の扱い方も、欧米流に倣った。つまり欧米のルールにしたがって優遇した。
ところが、第二次世界大戦・太平洋戦争で日本は急変した。それまでの欧米の真似をやめたのだ。捕虜の扱い方も日本流にした。ということは戦国時代の捕虜とは言わないが、それに近い扱いにしたのだ。つまり日本国粋主義の復活だ。
どうしてこうなったのか?
明治維新の時の国粋主義者者たちは、急きょ、国際主義者になったが、それはストレスのたまる状態だった。国民も、分けの分からぬ法律や工場システムを押し付けられ狼狽した。だが、それらすべては「欧米に追いつき、追い越す」ために我慢されたが、ストレスは貯まった。
日清・日露の戦争は日本の勝利であり、近代化=欧米化の成果の賜物だった。これで自信をつけた日本人は、本性を出しはじめた。それが国粋主義への復帰だった。
欧米にほぼ追いついたと考えた当時の日本人は、明治維新前の国粋主義者に戻ったのだ。つまり八〇年間の欧米化の反動が、昭和の軍部と国粋主義結社による 日本の支配として現れたのだと思う。一般の大衆も、それには迎合した。当時の大衆の気分が、欧米への迎合主義から開放されたい、と思っていたのだろう。そ こで極端な国粋思想が無批判に受け入れられることになったに違いない。その結果が無残な敗戦だった。
こういう日本の性向は、戦後、どう変わったのだろう? (つづく)
この疑問は40年前に高校生だったときに感じ、いろいろと本を読んだ。日本が戦争に踏み切った理由をさがしたのだ。
そこで分かったことはたくさんあった。
第1に、当時は帝国主義時代で、欧米も植民地を持っていた。そこで日本やドイツやイタリアなどの帝国主義の後発部隊も、欧米の仲間入りをしようと頑張っ た。日本は朝鮮半島、満州、台湾、南太平洋を支配下にいれ、中国も支配下に入れようと欲張った。すでに利権を持つ欧米諸国は、新興国の帝国主義参加を好ま なかった。そこで、そこには対立が生じた。
第2に、ヒトラーがヨーロッパで独得な哲学に基づく戦争をはじめた。『わが闘争』を読むと、その思想がわかる。
英国は孤立し、危機が迫った。だが、米国は動けなかった。アメリカ国民が海外の事件に関与するのを嫌がったのだ。今の米国とはまるで正反対なわけだ。そこで、日本に圧力をかけ、戦争を起こさざるをえないように運んだ。石油の禁輸はもっとも強烈なパンチだったらしい。
このように、気に入らない国を強引に戦争に引きずり込む方法は、現在も行われている。いや原住民のインディアンを滅ぼすときにも使われている。いわばアングロサクソンの常とう手段だ。
アフガニスタンのタリバーン政権も滅ぼされた。イラクも無理難題を言われてフセイン政権は風前の灯火。北朝鮮も同じ目にあうだろう。
理不尽と見える行為に我慢できなくなった帝国日本は、真珠湾奇襲にでたわけだが、奇襲のことを当時のルーズベルト大統領は知っていたが、戦争を起こした かったルーズベルトは、無視した。日本は見事にワナに引っ掛かったわけだ。このあたりの推移も9・11事件とよく似ているが、それはこの原稿のテーマでは ない。
日本がルーズベルトのわなにかかったのは、今では常識だろう。日本が欧米の植民地主義をまねて、海外諸国を侵略したのも常識だろう。
だが、当時の日本人が「世界の常識」を知っている国際派の言うことを聞かずに、戦争に飛び込んでいったのは、謎だった。
死んだ親父に聞いたことがある。「なんで日本は、あんな無謀な太平洋戦争に飛び込んだのだろう。勝てると思っていたのだろうか? 親父が戦争を本気で支持していたなんて信じられない」
親父は神妙に答えた。「実は、心から日本の勝利を信じていたし、戦争には全面的に賛成だった。他に道はないと思っていた」
親父は医者だった父親に早く死なれ、苦学して今の一橋大学をでた。まあ、インテリの端くれだ。家では、子どもの頃から私も一緒になって常に天下国家を論じていた。その親父が無謀な「戦争に賛成」だったのには驚いた。
だが、『暗黒日記』を読んで、当時の日本人がなぜ太平洋戦争勃発を支持したかが分かった気がする。
これはどうやら明治維新の反動がでたのだ。ルーツは明治維新にあるのだ。
ペルー提督が黒船を引き連れて日本を訪れてからずいぶんたつが、当時の日本人は誰でも国粋主義者だった。というよりもそれ以外の立場は存在しなかった。実は、今でもそれは変わらない。島国日本の住民の99%は、私を含め国粋主義者だ。
明治維新で政権を掌握した国粋主義者達は、国粋主義では日本を守れないことを知った。そこで急きょ、国際主義者になった・・・国際人に変貌した。鹿鳴館 時代の到来だ。当時の日本と欧米の力の差は、大きく、日本が生き残るためには、急速な欧米化が必須だったのだ。そこで強烈な国粋主義者だった人々が、突 然、国際人のように振る舞った。法律も輸入、全ての面で欧米化を目指した。「欧米に追いつけ追い越せ」が合言葉になったのだ。
それから日清・日露戦争があり、日本は国際社会での地位を高めた。日露戦争までは戦争捕虜の扱い方も、欧米流に倣った。つまり欧米のルールにしたがって優遇した。
ところが、第二次世界大戦・太平洋戦争で日本は急変した。それまでの欧米の真似をやめたのだ。捕虜の扱い方も日本流にした。ということは戦国時代の捕虜とは言わないが、それに近い扱いにしたのだ。つまり日本国粋主義の復活だ。
どうしてこうなったのか?
明治維新の時の国粋主義者者たちは、急きょ、国際主義者になったが、それはストレスのたまる状態だった。国民も、分けの分からぬ法律や工場システムを押し付けられ狼狽した。だが、それらすべては「欧米に追いつき、追い越す」ために我慢されたが、ストレスは貯まった。
日清・日露の戦争は日本の勝利であり、近代化=欧米化の成果の賜物だった。これで自信をつけた日本人は、本性を出しはじめた。それが国粋主義への復帰だった。
欧米にほぼ追いついたと考えた当時の日本人は、明治維新前の国粋主義者に戻ったのだ。つまり八〇年間の欧米化の反動が、昭和の軍部と国粋主義結社による 日本の支配として現れたのだと思う。一般の大衆も、それには迎合した。当時の大衆の気分が、欧米への迎合主義から開放されたい、と思っていたのだろう。そ こで極端な国粋思想が無批判に受け入れられることになったに違いない。その結果が無残な敗戦だった。
こういう日本の性向は、戦後、どう変わったのだろう? (つづく)
日本人(43)暗黒日記を読んで(3)
明治維新で西欧と遭遇した日本の国際主義者達は、突如、国際主義者になった。そのありかたは極端で、和服をやめて燕尾服にし、鹿鳴館では奥方を伴ってダンスに興じた。
日本の指導者の多くは、欧米にたいして深い劣等感を感じていた。そのあたりの事情は現在『ベルツの日記』を読んでいるので、よくわかる。ベルツはドイツ人の医師で、明治維新の数年後に日本に来て、それから二六年間日本に滞在し、箱根や伊香保の温泉を開発した親日家。
さて本題は日本人の『国粋主義の狂気』だ。太平洋戦争前と戦争中の日本の軍人がいかに『気が狂い』、国民大衆も気の狂った軍部を支持し、天皇もそれを支持した件だ。
前回述べたように、それは明治維新以来の日本人が感じた欧米への劣等感のうっ積が爆発したからに違いない。日本にはもともと国粋主義者しかいない。それ が、欧米のルール、習慣、法律に合わせようと、八〇年間も無理をしてきた。そのストレスを発散させたのが、太平洋戦争の1面でもあったといえるだろう。
この日本人の極端な『国粋主義』はその後、変わったのだろうか? 本質的にはまったく変わっていないといってよいだろう。極端な国粋主義者=日本人なのだ。
戦後生まれの日本人として、欧米人にたいする劣等感は、第二次世界大戦で負けたことから生まれたと思っていたけれど、それは間違いだった。明治維新の時から、日本人は欧米への劣等感に悩まされてきたのだ。
欧米諸国に対する劣等感の克服が日本人の課題のひとつになっているが、敗戦国家・日本の現状では、まだ一〇〇年はかかるようだ。
二一世紀の日本人は、個人的な面では欧米人に劣等感を持たない人が増えてきている。だが、それは個人的な世界における感情にすぎない。国際政治や世界統治といった分野を見たら、まだまだ日本人は劣等感を感じるはずだ。
一九八〇年代終わりに日本はバブル景気に浮かれた。このとき、日本人の多くは太平洋戦争では負けたが、経済戦争では米国に勝ったと有頂天になった。だが、それもはかない夢だった。
国として、日本はまだ米国の属国という立場から抜けていない。真の独立国ではない。この状態にはメリットとデメリットがある。メリットは、地球が小さく 感じる世界で、経済大国日本が軍事力も備えた本格的独立国になると、地球がますます狭く感じ、摩擦の元になりかねないこと。
デメリットは、米国の軍事基地に国を守ってもらい、米国のいいなりになるお妾さん的存在で居ると、いつまで経っても、欧米にたいする劣等感をぬぐえないことだ。
まあ、当分、日本人は個々の力で、欧米人に尊敬されるようになり、個人的世界では劣等感を持たずにすむことが望ましい。日本が軍事国家にはなって欲しくないが、真の独立国家の道は模索するべきだと思う・・・が、その道は険しいようだ。
さて『暗黒日記』に登場した人物で、興味を覚えたのは武弁の人・鈴木貫太郎首相だった。鈴木貫太郎海軍大将は二・二六事件で銃撃され、九死に一生を得ている。山本五十六元帥がもっとも尊敬していた先輩でもある。
当時、侍従長だった鈴木貫太郎は、二二六事件で凶徒の襲撃にあい、用意の名刀を探したが見つからず、遁走するのは武士の恥と思い、徒手、凶徒の面前に立ち、彼らが『問答無用』と叫ぶや、『しからば撃て』と怒鳴りつけたそうだ。
当時の新聞の抜粋を読むと『私は政治が嫌いであります』『私の屍を越えていけ』と言っている。こういう政治が嫌いな人にこそ、政治をお願いしたいものだ。
また『家康は個々の戦闘には決して勝っていないが、三〇〇年の天下をとったではないか』(昭和二〇年四月一二日・朝日新聞)と、意味深長なことも言っている。
つまり、『日本が敗戦しても、長期的に見て天下を取ればいいではないか』と言っているとも言える。つまり、首相になったときから、敗戦を覚悟しており、その後の三〇〇年を考えていたのかもしれない。
そうだとすると、日本に鈴木貫太郎大将が残っていたことは幸運だったと言わざるを得ない。鈴木貫太郎がいたからこそ、はやめに終戦を迎えられたに違いない。
『暗黒日記』の著者、清沢洌(きよさわ・きよし)は、天皇制を崇拝する自由主義者だった。この本では昭和天皇の述べたことなどもでてくる。
昭和天皇が亡くなった時、私はオーストラリアにいた。そのとき、オーストラリアの新聞は昭和天皇の大特集をした。真珠湾攻撃で大戦果をあげて小躍りする昭和天皇が描かれ、マッカーサー元帥に『全ては私の責任です』と言ったことも書かれていた。
異国の地で昭和天皇の評価はまちまちだった。だが、涙もろい私は、驚いたことに、昭和天皇のご苦労を思って英字の新聞を読みながら涙が出た。私も、実は国粋主義者なのだ。だが、極端ではないだけだ。
だが、昭和天皇が真に優れた君主であったかどうかは、やはり疑問だ。『戦争に反対したら、軍部から暗殺される』と恐れていたそうだが、それは無理もな い。だが、もっと戦略力・胆力・気骨のある人物だったら、軍部と戦っていただろう。気が弱すぎたのは仕方ないのか? そういえば、似たような事態に直面し たタイ王国の国王は、軍部と対決し、タイ王国に民主主義をもたらしている。
日本の指導者の多くは、欧米にたいして深い劣等感を感じていた。そのあたりの事情は現在『ベルツの日記』を読んでいるので、よくわかる。ベルツはドイツ人の医師で、明治維新の数年後に日本に来て、それから二六年間日本に滞在し、箱根や伊香保の温泉を開発した親日家。
さて本題は日本人の『国粋主義の狂気』だ。太平洋戦争前と戦争中の日本の軍人がいかに『気が狂い』、国民大衆も気の狂った軍部を支持し、天皇もそれを支持した件だ。
前回述べたように、それは明治維新以来の日本人が感じた欧米への劣等感のうっ積が爆発したからに違いない。日本にはもともと国粋主義者しかいない。それ が、欧米のルール、習慣、法律に合わせようと、八〇年間も無理をしてきた。そのストレスを発散させたのが、太平洋戦争の1面でもあったといえるだろう。
この日本人の極端な『国粋主義』はその後、変わったのだろうか? 本質的にはまったく変わっていないといってよいだろう。極端な国粋主義者=日本人なのだ。
戦後生まれの日本人として、欧米人にたいする劣等感は、第二次世界大戦で負けたことから生まれたと思っていたけれど、それは間違いだった。明治維新の時から、日本人は欧米への劣等感に悩まされてきたのだ。
欧米諸国に対する劣等感の克服が日本人の課題のひとつになっているが、敗戦国家・日本の現状では、まだ一〇〇年はかかるようだ。
二一世紀の日本人は、個人的な面では欧米人に劣等感を持たない人が増えてきている。だが、それは個人的な世界における感情にすぎない。国際政治や世界統治といった分野を見たら、まだまだ日本人は劣等感を感じるはずだ。
一九八〇年代終わりに日本はバブル景気に浮かれた。このとき、日本人の多くは太平洋戦争では負けたが、経済戦争では米国に勝ったと有頂天になった。だが、それもはかない夢だった。
国として、日本はまだ米国の属国という立場から抜けていない。真の独立国ではない。この状態にはメリットとデメリットがある。メリットは、地球が小さく 感じる世界で、経済大国日本が軍事力も備えた本格的独立国になると、地球がますます狭く感じ、摩擦の元になりかねないこと。
デメリットは、米国の軍事基地に国を守ってもらい、米国のいいなりになるお妾さん的存在で居ると、いつまで経っても、欧米にたいする劣等感をぬぐえないことだ。
まあ、当分、日本人は個々の力で、欧米人に尊敬されるようになり、個人的世界では劣等感を持たずにすむことが望ましい。日本が軍事国家にはなって欲しくないが、真の独立国家の道は模索するべきだと思う・・・が、その道は険しいようだ。
さて『暗黒日記』に登場した人物で、興味を覚えたのは武弁の人・鈴木貫太郎首相だった。鈴木貫太郎海軍大将は二・二六事件で銃撃され、九死に一生を得ている。山本五十六元帥がもっとも尊敬していた先輩でもある。
当時、侍従長だった鈴木貫太郎は、二二六事件で凶徒の襲撃にあい、用意の名刀を探したが見つからず、遁走するのは武士の恥と思い、徒手、凶徒の面前に立ち、彼らが『問答無用』と叫ぶや、『しからば撃て』と怒鳴りつけたそうだ。
当時の新聞の抜粋を読むと『私は政治が嫌いであります』『私の屍を越えていけ』と言っている。こういう政治が嫌いな人にこそ、政治をお願いしたいものだ。
また『家康は個々の戦闘には決して勝っていないが、三〇〇年の天下をとったではないか』(昭和二〇年四月一二日・朝日新聞)と、意味深長なことも言っている。
つまり、『日本が敗戦しても、長期的に見て天下を取ればいいではないか』と言っているとも言える。つまり、首相になったときから、敗戦を覚悟しており、その後の三〇〇年を考えていたのかもしれない。
そうだとすると、日本に鈴木貫太郎大将が残っていたことは幸運だったと言わざるを得ない。鈴木貫太郎がいたからこそ、はやめに終戦を迎えられたに違いない。
『暗黒日記』の著者、清沢洌(きよさわ・きよし)は、天皇制を崇拝する自由主義者だった。この本では昭和天皇の述べたことなどもでてくる。
昭和天皇が亡くなった時、私はオーストラリアにいた。そのとき、オーストラリアの新聞は昭和天皇の大特集をした。真珠湾攻撃で大戦果をあげて小躍りする昭和天皇が描かれ、マッカーサー元帥に『全ては私の責任です』と言ったことも書かれていた。
異国の地で昭和天皇の評価はまちまちだった。だが、涙もろい私は、驚いたことに、昭和天皇のご苦労を思って英字の新聞を読みながら涙が出た。私も、実は国粋主義者なのだ。だが、極端ではないだけだ。
だが、昭和天皇が真に優れた君主であったかどうかは、やはり疑問だ。『戦争に反対したら、軍部から暗殺される』と恐れていたそうだが、それは無理もな い。だが、もっと戦略力・胆力・気骨のある人物だったら、軍部と戦っていただろう。気が弱すぎたのは仕方ないのか? そういえば、似たような事態に直面し たタイ王国の国王は、軍部と対決し、タイ王国に民主主義をもたらしている。