24 打ちくつろぐ心
心やからだを打ちくつろがせるのは、スピード・緊張・騒音・混雑のいまの時代には、最大の必要事です。くつろぎは心の在り方が、肉体に反映されたもので、私たちが恐れること、好まないことへの抵抗しないことです。やむをえないものを受けいれ、世界の姿をそのままに受けとることで、どんなふうに見えようとも、それでいいのだと知ることです。
くつろぎは、どうにもならない状況や体験には、仕方がないとし、肩をすくめて放置し、私たちの住む世界はいいのだから、なにもかも結局は、なんとか善いことに終わるだろうと、得心することです。
緊迫や緊張は健康の敵です。創造する心の円滑な調和作用をくつがえすものです。緊張しすぎると、簡単な仕事もむずかしくなります。逆上すると家族や友だちや仕事仲間までも混乱させます。つまり人間関係が愉快でなく、苦痛なものになります。
緊張は精力を浪費し、生命を縮めます。一部の人は、最高スピードで行くのが良いと心得ています。急ぎ、走り、あわてて車を駆り、食物はまる飲みして、肉体をおろそかにします。つねに回転木馬に乗ったように急旋回しています。
心の堅苦しさは筋肉組織にあらわれ、消化器官をめちゃくちゃにします。大生命力は創造する心にたよってあなたのからだを造りあげたので、なんの干渉も行なわれなければ、肉体を必要とする間じゅう、大生命力はあなたの肉体の円滑な操作を維持してくれます。
心の緊迫は、だいたい恐れか怒りのため発生します。未来になにが起こるだろうかという心配や恐怖、あるいは過去に起こったことへの怒りです。恐怖はしばしば怒りとして表現されます。自分を守ろうとして、早手回しに攻勢に出るのです。
あなたを害したあらゆる人を許して、あなたの心の緊張をほぐしなさい。あらゆる人、あらゆる事態、あらゆる状況で、あなたに苦痛や心配や怒りの原因となったものを、ことごとく許しなさい。過去の被害を心の外へと追いやり、過去のすべての過誤については、自分自身を許しなさい。だれでも、あやまちはするものです。あなたが他人を許すように、あなた自身をも許しなさい。過誤というのは、そんなに重大なことではありません。過誤をくりかえすことが有害なのです。あなた自身にこう言いなさい・・・
「そうだ。私は、過ちをした。これをくりかえさないように、よく注意しよう。私を過ちを犯す以前の状態に引きもどすことはできないのだから、せめてこのことからなにかよいことを引き出そう。過去を完全に手ばなそう。過去はいまや私になんの力も及ぼさない。私をめぐる大生命力の善さを認める。大生命力が私を創造したのだ。それは私を守ることができ、現に守ってくれている。私は大生命力を信頼する。大生命力は私を愛し、私は大生命力を愛する。私は大生命力に信念を置く。私は許す。怒りと恐怖感のすべてを解放する。愛と理解と信念の心を受けいれ、持ちつづける。緊張や緊迫のすべてを手ばなす。いまは打ちくつろいでいる。世界をみずから操縦しようなどとは思うまい。私の意思の力で世界をほどよくまとめようなどとは試みまい」
あなたは、ご自分にこう問うのがいいでしょう。
「いま私を苦しめるこれらのことに対して、なにか建設的なことをしようと実際に思っているのか? それとも、いらついて、やきもきを続けるつもりなのか?」と。
もし業務があなたを支配していたら、苦労が絶えません。もし、あなたが業務を支配していたら、打ちくつろいで、ゆったりできます。もし、からだに支配をゆるし、その指令下にあるなら、たえず混乱が続きます。あなたが支配を握れば平和です。賢人は、そのときの状況が彼を支配しないことを知っています。彼が環境を支配するのです。彼は状況の奴隷ではないのです。
私たちは、多忙と時間の少ないことを思って、緊迫を感じます。ある有名な医者は、「明日の心配と、昨日の失敗に加えて、今日の難題を背負うことには堪えられない」と言いました。
私たちは今しか生きることができません。だれでも現在の瞬間には対処できるのです。従って、未来の苦難を予見しないのが賢いことです。それよりもむしろ熱を入れて前途をながめ、善いことを期待し、毎日がさらによくなると心の底から信じなさい。
からだをくつろげるようにするには、愛をもってからだに話かけ、くつろいで、ゆったりするように頼みなさい。好きな椅子に楽にすわり、肩の荷をおろして、椅子の背にもたれ、足腰をのばして、静かにこう言いなさい・・・
「私の顔の筋肉はくつろいでいる。肩も力が抜けている。両手もくつろいでいる。指もくつろいでいる。足や足指もつくろいでいる。からだのなかの一つ一つの神経や、筋肉もくつろいでいる。私の難問の一つ一つ、他の人びとの難問のすべても投げ捨ててしまった。私を苦しめるなんの心配もない」
深い息をゆるやかに吸い、ゆるやかにそれを吐き出しつつ、心にかかる難題をそれとともに追いやる。心もからだも投げ出してしまう。
打ちくつろいだあなた自身を、椅子の背にかけた湯上りのぬれ手拭いのように、ぐにゃぐにゃ、だらりとしたものとして想像しなさい。犬が二回か三回ぐるぐる回ってのちに、全身を投げ出して、だらりと横になることを思い起こしなさい。
静かに水の流れを考えてごらんなさい。小川が小山のすそを這いまわりながら草原へ降りてゆくありさまを。小川の水は、大洋の水に源があるのです。大洋の水は気流によって海から空へと運ばれ、そこで雲となり、濃縮して雨となります。水は小山の頂へ落ち、澄み輝くこの流れに集められて、目的の海への旅に乗り出します。流れは戦いもしなければ抵抗もしません。不変の速度で、忍耐づよく、前へ前へと流れていきます。流れの水は岩をまわり、樹をまわり、小山をまわります。なにものもそれを妨げず、絶望もさせません。水は障害に抵抗もしません。障害をよけて通るか、その上をゆくのです。根気よく辛抱します。忍耐強く、無抵抗な水は、前途のなにものをも磨滅してしまいます。その流れを思いなさい。あなたはその流れのようです。あなたの源もまた大生命力という大海です。
あなたの中に、目前に現れる、あらゆる事態を処理する偉大な力があります。あなたは、一度に一日、一度に一瞬だけを生き、一度に一歩だけあゆむのです。この瞬間に関して、あなたは常に対処できます。そして、その一瞬と立ち向かうときは、過去のあらゆる障害を投げすて、目前の難題をすべて処置する力があると自認すれば、ゆったりとくつろげ、自信がわき、つぎの瞬間にはさらに上手に対処できます。あなたは無限の大生命力の流れです。歩みを妨げるなにものもありません。あなたをとおして流れる大生命力の水流は、小川の水のように不変の流れで、大生命力の動く道に横たわる全てを運び去ってしまいます。
自分自身に、確言しましょう・・・
「心もからだもくつろいでいる。静かに自信を持って、善きものに出会うために前進する。大生命力の豊かな善きものが、毎日、もたらされることを知っている。あらゆる不安や、心を悩ます問題をすべて解放した。深い平和がからだのすべての神経、すべての筋肉、すべての器官にゆきわたったのを感じる。からだの各部はくつろいでいる。深く平静である。心はおだやかで静かである。なにもかも善いと知っている」
「完全な平和が想像力をよぎって動く。日は暖かで心地よく、おだやかで静かである。私はひとりで音なき森を歩いている。やわらかい微風が頭上の枝をゆるがす。日光が、ふるえる木の葉をとおして、ちらちら光り、足もとの冷たく青い苔に影を落とす。草むらのなかのすみれのかおりが鼻にただよう。夏の平和を感じる。ゆっくり進んでゆくと、森のまんなかの静かな池の岸辺にいる自分を見る。この美しい風景を黙って観賞していると、清純と平和に打たれる。心もからだも慰撫され、治療され、くつろぎにあることを感じる」
「この夏の良き日に、自然界すべての平和と清純さを感じる。湖の水面には、さざ波ひとつない。すべては穏やかで、平和と清純がある。私の想像のなかで、湖のそばに静かにすわっていると、柔かい微風が頬をなで、自然界の深く、心がなごむ平和を感じる。太陽はあたたかい。からだの全てが打ちくつろぎ、なごみ、いやされる。この沈黙の森、静かな湖、あたたかい日光のところにいて、大生命力の清純さを感じる。私のまわりの影のなかにも、頭上で静かに動く木の葉のなかにも、美しさのあることに気づく。私はくつろいで平和だ」
「明朝、十分な眠りから、爽快になり自信に満ちて、めざめるだろう。目のまえに現われるあらゆる問題を、いかにたやすく自信を持って解決するかを知るだろう。その日の一瞬・一瞬を楽しむ。毎日、善きものが来ることを期待できる。毎瞬は永劫のなかの一瞬で、毎瞬は永劫のなかのどの一瞬とも比べられる善さをもつ。私はくつろぎ・・・清く・・・平和である。自信を持って、さらに豊なな栄光の生涯へはいっていこう」
心やからだを打ちくつろがせるのは、スピード・緊張・騒音・混雑のいまの時代には、最大の必要事です。くつろぎは心の在り方が、肉体に反映されたもので、私たちが恐れること、好まないことへの抵抗しないことです。やむをえないものを受けいれ、世界の姿をそのままに受けとることで、どんなふうに見えようとも、それでいいのだと知ることです。
くつろぎは、どうにもならない状況や体験には、仕方がないとし、肩をすくめて放置し、私たちの住む世界はいいのだから、なにもかも結局は、なんとか善いことに終わるだろうと、得心することです。
緊迫や緊張は健康の敵です。創造する心の円滑な調和作用をくつがえすものです。緊張しすぎると、簡単な仕事もむずかしくなります。逆上すると家族や友だちや仕事仲間までも混乱させます。つまり人間関係が愉快でなく、苦痛なものになります。
緊張は精力を浪費し、生命を縮めます。一部の人は、最高スピードで行くのが良いと心得ています。急ぎ、走り、あわてて車を駆り、食物はまる飲みして、肉体をおろそかにします。つねに回転木馬に乗ったように急旋回しています。
心の堅苦しさは筋肉組織にあらわれ、消化器官をめちゃくちゃにします。大生命力は創造する心にたよってあなたのからだを造りあげたので、なんの干渉も行なわれなければ、肉体を必要とする間じゅう、大生命力はあなたの肉体の円滑な操作を維持してくれます。
心の緊迫は、だいたい恐れか怒りのため発生します。未来になにが起こるだろうかという心配や恐怖、あるいは過去に起こったことへの怒りです。恐怖はしばしば怒りとして表現されます。自分を守ろうとして、早手回しに攻勢に出るのです。
あなたを害したあらゆる人を許して、あなたの心の緊張をほぐしなさい。あらゆる人、あらゆる事態、あらゆる状況で、あなたに苦痛や心配や怒りの原因となったものを、ことごとく許しなさい。過去の被害を心の外へと追いやり、過去のすべての過誤については、自分自身を許しなさい。だれでも、あやまちはするものです。あなたが他人を許すように、あなた自身をも許しなさい。過誤というのは、そんなに重大なことではありません。過誤をくりかえすことが有害なのです。あなた自身にこう言いなさい・・・
「そうだ。私は、過ちをした。これをくりかえさないように、よく注意しよう。私を過ちを犯す以前の状態に引きもどすことはできないのだから、せめてこのことからなにかよいことを引き出そう。過去を完全に手ばなそう。過去はいまや私になんの力も及ぼさない。私をめぐる大生命力の善さを認める。大生命力が私を創造したのだ。それは私を守ることができ、現に守ってくれている。私は大生命力を信頼する。大生命力は私を愛し、私は大生命力を愛する。私は大生命力に信念を置く。私は許す。怒りと恐怖感のすべてを解放する。愛と理解と信念の心を受けいれ、持ちつづける。緊張や緊迫のすべてを手ばなす。いまは打ちくつろいでいる。世界をみずから操縦しようなどとは思うまい。私の意思の力で世界をほどよくまとめようなどとは試みまい」
あなたは、ご自分にこう問うのがいいでしょう。
「いま私を苦しめるこれらのことに対して、なにか建設的なことをしようと実際に思っているのか? それとも、いらついて、やきもきを続けるつもりなのか?」と。
もし業務があなたを支配していたら、苦労が絶えません。もし、あなたが業務を支配していたら、打ちくつろいで、ゆったりできます。もし、からだに支配をゆるし、その指令下にあるなら、たえず混乱が続きます。あなたが支配を握れば平和です。賢人は、そのときの状況が彼を支配しないことを知っています。彼が環境を支配するのです。彼は状況の奴隷ではないのです。
私たちは、多忙と時間の少ないことを思って、緊迫を感じます。ある有名な医者は、「明日の心配と、昨日の失敗に加えて、今日の難題を背負うことには堪えられない」と言いました。
私たちは今しか生きることができません。だれでも現在の瞬間には対処できるのです。従って、未来の苦難を予見しないのが賢いことです。それよりもむしろ熱を入れて前途をながめ、善いことを期待し、毎日がさらによくなると心の底から信じなさい。
からだをくつろげるようにするには、愛をもってからだに話かけ、くつろいで、ゆったりするように頼みなさい。好きな椅子に楽にすわり、肩の荷をおろして、椅子の背にもたれ、足腰をのばして、静かにこう言いなさい・・・
「私の顔の筋肉はくつろいでいる。肩も力が抜けている。両手もくつろいでいる。指もくつろいでいる。足や足指もつくろいでいる。からだのなかの一つ一つの神経や、筋肉もくつろいでいる。私の難問の一つ一つ、他の人びとの難問のすべても投げ捨ててしまった。私を苦しめるなんの心配もない」
深い息をゆるやかに吸い、ゆるやかにそれを吐き出しつつ、心にかかる難題をそれとともに追いやる。心もからだも投げ出してしまう。
打ちくつろいだあなた自身を、椅子の背にかけた湯上りのぬれ手拭いのように、ぐにゃぐにゃ、だらりとしたものとして想像しなさい。犬が二回か三回ぐるぐる回ってのちに、全身を投げ出して、だらりと横になることを思い起こしなさい。
静かに水の流れを考えてごらんなさい。小川が小山のすそを這いまわりながら草原へ降りてゆくありさまを。小川の水は、大洋の水に源があるのです。大洋の水は気流によって海から空へと運ばれ、そこで雲となり、濃縮して雨となります。水は小山の頂へ落ち、澄み輝くこの流れに集められて、目的の海への旅に乗り出します。流れは戦いもしなければ抵抗もしません。不変の速度で、忍耐づよく、前へ前へと流れていきます。流れの水は岩をまわり、樹をまわり、小山をまわります。なにものもそれを妨げず、絶望もさせません。水は障害に抵抗もしません。障害をよけて通るか、その上をゆくのです。根気よく辛抱します。忍耐強く、無抵抗な水は、前途のなにものをも磨滅してしまいます。その流れを思いなさい。あなたはその流れのようです。あなたの源もまた大生命力という大海です。
あなたの中に、目前に現れる、あらゆる事態を処理する偉大な力があります。あなたは、一度に一日、一度に一瞬だけを生き、一度に一歩だけあゆむのです。この瞬間に関して、あなたは常に対処できます。そして、その一瞬と立ち向かうときは、過去のあらゆる障害を投げすて、目前の難題をすべて処置する力があると自認すれば、ゆったりとくつろげ、自信がわき、つぎの瞬間にはさらに上手に対処できます。あなたは無限の大生命力の流れです。歩みを妨げるなにものもありません。あなたをとおして流れる大生命力の水流は、小川の水のように不変の流れで、大生命力の動く道に横たわる全てを運び去ってしまいます。
自分自身に、確言しましょう・・・
「心もからだもくつろいでいる。静かに自信を持って、善きものに出会うために前進する。大生命力の豊かな善きものが、毎日、もたらされることを知っている。あらゆる不安や、心を悩ます問題をすべて解放した。深い平和がからだのすべての神経、すべての筋肉、すべての器官にゆきわたったのを感じる。からだの各部はくつろいでいる。深く平静である。心はおだやかで静かである。なにもかも善いと知っている」
「完全な平和が想像力をよぎって動く。日は暖かで心地よく、おだやかで静かである。私はひとりで音なき森を歩いている。やわらかい微風が頭上の枝をゆるがす。日光が、ふるえる木の葉をとおして、ちらちら光り、足もとの冷たく青い苔に影を落とす。草むらのなかのすみれのかおりが鼻にただよう。夏の平和を感じる。ゆっくり進んでゆくと、森のまんなかの静かな池の岸辺にいる自分を見る。この美しい風景を黙って観賞していると、清純と平和に打たれる。心もからだも慰撫され、治療され、くつろぎにあることを感じる」
「この夏の良き日に、自然界すべての平和と清純さを感じる。湖の水面には、さざ波ひとつない。すべては穏やかで、平和と清純がある。私の想像のなかで、湖のそばに静かにすわっていると、柔かい微風が頬をなで、自然界の深く、心がなごむ平和を感じる。太陽はあたたかい。からだの全てが打ちくつろぎ、なごみ、いやされる。この沈黙の森、静かな湖、あたたかい日光のところにいて、大生命力の清純さを感じる。私のまわりの影のなかにも、頭上で静かに動く木の葉のなかにも、美しさのあることに気づく。私はくつろいで平和だ」
「明朝、十分な眠りから、爽快になり自信に満ちて、めざめるだろう。目のまえに現われるあらゆる問題を、いかにたやすく自信を持って解決するかを知るだろう。その日の一瞬・一瞬を楽しむ。毎日、善きものが来ることを期待できる。毎瞬は永劫のなかの一瞬で、毎瞬は永劫のなかのどの一瞬とも比べられる善さをもつ。私はくつろぎ・・・清く・・・平和である。自信を持って、さらに豊なな栄光の生涯へはいっていこう」