萬亀眼鏡の東京散歩
「東京ダークサイド」
飯森好絵 1月14日 大学時代の先輩の文化人類学者から、外国から学者が来るといつも連れて行く、というコースを一昨年の2月に教えてもらった。このネタを秘密兵器として温めていて、いつかはそのコースを歩こうと思っていたのだが、ついにこの年末に「忘年散歩」と称して歩いてきた。 目玉は山谷と吉原である。日雇い労働者が集まる町と風俗の町。ちょっと観光気分で歩くにはディープである。けれど、これもまた東京の一面であり、それを知ってもらうのも悪くない。 常磐線三河島駅に午前10時30分集合。晴れてはいるが、空気が非常に冷たい。ピーンと張っている。真冬の散歩は着膨れるに限る。歩いてきてぽかぽかしてくれば脱げばすむことだし、たいていは底冷えするので、着すぎるということはないのだ。 三河島駅の周辺はコリアン・タウンだ。駅を降りれば、ハングルの看板が目に付く。朝鮮第一初・中級学校が近くにあり、朝鮮半島の食材を扱う店がちらほらとある。焼肉レストランも多い。 このあたりの商店街は下町風情たっぷり。いつから飾っているのだろうと思わせる日に焼けたマネキンが並ぶ洋品店、学校指定の運動靴が並ぶ履物屋にはいつもながら目を奪われる。軒先で揚げ物をしている肉屋や、豆腐の水を切って、容器に入れてくれる昔ながらの豆腐屋。練り物だって並んでいる。ついつい、買い食いをしたくなるが、ここはこらえる。お昼はてんぷらの予定なのだから。細い商店街を抜けると、今度は廃品回収業者が目立つ。こちらは廃紙、こちらは古タイヤ、こちらは鉄くず。道の脇が鉄板になっていたら、ご用心。それは車の中の重さを図るためのもの。下手をすると下に落ちる。 商店街・廃品回収倉庫が入り混じる住宅街を抜け、明治通りに出る。横断歩道を渡り、常磐線の高架沿いを行く。美しいレンガである。高架の上はすぐ線路。電車が通ると、電車の腹が見えるのかしら。つたを絡ませた小さな一軒家の喫茶店があり、素敵な町だとうなる。人々は新たな年を迎える準備で忙しく、自転車のかごに買い物袋を膨らませて通り抜けていく。 大通りに出て、浄閑寺に入るために道を渡り、後ろを振り向くと、なんと木造の洋館が! こんな大きい道沿いにこのような家が残されているとは感激である。再度、来た道を渡り、家をじっくりみせていただくことにした。何かに引き寄せられるように振り向いて見つけた宝物。きょろきょろしてみるものだ。 吉原遊女に関して、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」といわれたように、江戸時代、吉原で死んだ女たちはここに投げ込まれ、浄閑寺は投込寺と呼ばれていた。永井荷風もよくここを訪れ、遊女たちの死を悼んだらしいが、吉原で合流する人のための集合時間まであまり時間はなく、荷風の詩碑を見つけることは次回のお楽しみとした。掃除をしているおじいさんが、やわらかい声で行きは「こんにちは」帰りは「ごくろうさま」と声をかけてくれて、こちらもつい顔がほころび、優しい声が出てくる。ちょっとした一言でなごめるのだから、声をかけて損をすることはない。 寺から北へ向かい、何やらモダンなビルを発見。梅沢写真会館と書いてある。中央が高く塔のようにそびえ立つ。ここですかさず、地図を開くと、旧王子電軌鉄道本社ということがわかった。合点がいく。駅も含めて、鉄道会社の建物はなぜかおしゃれなのだ。昔からの建物をずっと使い続けているからかもしれない。 三ノ輪橋跡で右に曲がり、回向院へ。小塚原で刑死した罪人の解剖をし、『解体新書』を出版したのを記念する観臓記念碑がある。墓地のほうへ行くと、ねずみ小僧次郎吉などの墓もある。墓の周りをワイヤーでかこまれていて、なんとも窮屈そうだが、いたずらをする心無い人が多いのだろう。残念なことである。 回向院の隣は延命寺。大きなお地蔵さんが座っている。通称、首切地蔵。ちょっとした大仏様のようだ。下にいる私をじっと眺めているように見える。何人の首切りを見てきたことだろう。 歩道橋を渡って、左手に貨物駅、右手に都バス車庫。ここを通り過ぎれば、泪橋だ。目指す山谷はすぐそこだ。 戦後の奇跡の復活・発展を遂げたニッポン。ここを支えているのはきれいなオフィスで事務を取るエリートや海外で活躍するビジネスマンだけではない。実際に作業現場で道を作り、建物を建てる人たちがいる。なかでも1つの企業に属せず、日雇いという不安定な雇用形態で働く人たちがいる。その人たちが寝泊りする木賃宿が密集するのが、山谷といわれる地域だ。現在のこの不況の中で仕事がめっきり減っているそうだ。寒空の中、職も宿もないとしたら、どんな気持ちになるだろうか。 泪橋を越えたところで、我々は手にしていたカメラや地図をしまいこむ。こんなところを物見遊山で歩いていて、ろくなことはない。カメラなんぞ回していたら、警察に職務質問をされたり、住人に何をやっているんだと囲まれてしまったりすることだってないとはいえない。 カップ酒を飲んで、ゆらゆらと歩くおじさん、電信柱の元でうずくまるようにして寝ているおじさん、道端で話しこんでいる2人組み。年を重ねた人ばかりだ。 木賃宿はニューホテルなどというように名称を変えていることも多い。イメージを払拭したいのか、けれど、建物を見れば、それはすぐにその種のものだとばれてしまうものばかりだ。 大通りからちょいと横道をのぞくと、炊き出しをしている。機動服を着た警察がその入り口で長い警棒を持って仁王立ちをしている。何も知らないように、あら、火をたいているよ、暖かそうだね、ととぼけて遠目で覗く。中にはさすがに入らない。我々はあくまでもよそものなのだ。時計を気にしながら、交番の前を通り越し、商店街に入る。いろは会商店街。脇に入ると有名な廿世紀浴場がある。アールデコの銭湯だ。ふらっとタオルひとつで入ってみたいところである。これも次回。商店街のお店をひやかしながら、土手通りへ向かう。ようやく、吉原に近づいた。見返り柳のところで待ち合わせである。遊んだ男が吉原から帰るときに振り返った場所というわけだ。 ここはいつものごとく、である。昼間だというのに、店の前には男が立って客を見定めている。なぜか高級そうな車が停まっている。男の人2人で行くと、声をかけられること必至だそうだ。昭和33年(1958年)売春防止法が施行され、公娼は廃止されたが、こういう場所は消えることはない。新手の風俗店もできているようで、流行り廃りはありつつも生き延びていくのだろう。 ここまできたら、吉原神社と吉原弁財天にもお参りをしていこう。遊女に思いを馳せながら…。 「今日は帝劇 明日は三越」 1月21日 大正3、4年ころ、三越百貨店の宣伝部長・浜田四郎が帝劇とタイアップして作り出したキャッチコピーである。山の手の上流・中流家庭の奥様に向け、ゴージャスで夢のような生活の提案。観劇にショッピング。百貨店が劇場と同じく、社交場として機能していた時代のことだ。かいわいの、昭和初期までに建てられた建物を中心に巡ることにした。 東京はいつでも工事中。立派な建物だろうと、バラックだろうと差別なく壊されていく。だから、散歩をしていても目玉はフル回転だ。目の前に立っている建物がいつまで存在するかもわからない。幌がかけられたらもう手遅れ。次に言ったときには違う風景が広がるはずだ。 第11回東京散歩の会では、銀座、日比谷、丸の内、日本橋、京橋、そして銀座へ帰ってくるというコースを巡った。タイトルは「今日は帝劇 明日は三越」。こちらは一日で両方とも訪ねる。 今回も見所満載。東京の中心。日本の中心。さまざまなことがらが展開された舞台である。銀行、オフィスビル、クラブハウス、百貨店、劇場、なんだってあるのだ。古い建物を大事に使っているものもあれば、ぴかぴかの新しい建物に出会うこともある。どちらにも良いところがある。しかし、今回は古いほうに注目だ。(どちらかというと、いつも古いものに目がいきがちではあるのだが…)できるかぎり、古い建物、解体されていく建物を目に焼き付けておこうというのが目的である。取り壊しや改築の計画がどんどんと出されているのだ。 建物の保存に関していえば、様々な人が様々な形で関わっている。建築史の専門家で地方行政に関わる人に話を聞いてみると、保存すると決めたその瞬間に壊されていることもあり、徒労感が強いと感じているらしい。まずは、その建物の価値を伝えていくこと、そういう建物が存在することを知らしめることに心を砕いているそうだ。そういう意味では、この散歩もその役割を果たしているとは言いすぎであろうか。町中にこんなものがありますよ、ほら、面白いね、ステキだねと言い合って、町の形を記憶する。新しければ新しい方がよいというわけではないことくらいは伝わるかもしれない。 わたくしはこの日のツアーを待ちに待っていた。明治・大正・昭和初期、と自らの興味の範囲の時代だし、お気に入りの町であるからだ。いつもは専門家に資料作りをお願いしてしまうのだが、今回のテーマの提案を受け、お正月休みが入っていたこともあり、本を抱えて、いくばくかの文章を抜き出してみた。銀座に関して言えば、安藤更正の『銀座細見』、松崎天民の『銀座』など名著が数々あり、ぱらぱらとページをめくるだけで、銀ブラの言葉が実際に生きていた時代がポップアップ絵本のように飛び出してくる。建築の本を紐解けば、いつ誰がどういうスタイルで立てたものなのかが写真つきで、明確な言葉で説明される。 頭に知識を補給して、期待に胸を膨らませて、散歩の始まりである。 休日のオフィス街は時に不便である。店が閉まっていることなどざらなのだ。最近では、休日に客を呼び込もうと丸の内あたりでは、ブティックやカフェなどをオープンさせているが、古くからのビルに入っているショッピングモールは閉鎖されていることもある。 そのひとつが三信ビルである。昭和5年に建てられたオフィスビル。ここの2階まで吹き抜けのアーケードはなかなかしゃれている。しかし、閉鎖。残念。エレベーターは動いていたので、2階部分を見て見ましょうか、と上がってみたが、守衛さんにストップされる。無理はしない。階段を使って下りさせてもらう。次の機会のお楽しみ。 わたくしたちのモットーとして、公共に公開されている以外のところには入らない、無理をしないというものがあるのだが、雑居ビルの場合は微妙である。そんなビルの中を拝見したいときにはどうすればよいか。ビル入り口の会社名を覚えておく。「おい、ここで何をしているんだ」ということになれば、「●●会社の先輩を訪ねに」と言えばよい。なるほど。そんなシチュエーションになることはほとんどないだろう。中を見せていただきたいのですが、とひとことお願いして、だめならあきらめればよい話だ。無理はしない。先の取り壊しの文と矛盾するようだが、機会は巡ってくる。 今回の散歩のもうひとつのテーマに3つの座を訪ねるというものがあった。金座・銀座・秤座である。現在の日本銀行本店が金座。銀座は地名にも残っている。そして秤座とは? 江戸幕府の公認を受け、はかりの製造・販売・検査を独占していたそうだ。江戸秤座は守随家が管轄していたそうで、現在でも京橋に守随製作所株式会社として存在している。これは初耳。金座・銀座のことは知っていても、なかなか秤座についてまで知っている人は少ないのでは、と教えていただく。 大正期の夢のような生活を追想するだけでなく、江戸まで飛んでしまった。 今回の行程は非常にお勧めなので、記しておくことにする。ぜひ、歩いてみてほしい。最後はモザイクが美しいビヤホールでビールでもどうぞ。 第11回東京散歩の会 コース 東京銀座資生堂ビル→交詢社ビル→瀧山町ビル→電通ビル→ダイエーOMCビル(リッカー会館)→東京宝塚ビル→帝国ホテル→日生劇場(日本生命日比谷ビル)→三信ビル→喫茶日比谷→泰明小学校→東芝銀座ビル(数寄屋橋阪急)→数寄屋橋交差点→有楽町マリオン(有楽町センタービルディング)→有楽町旧都庁ガード下→東京国際フォーラム→読売会館(ビックカメラ)→DNタワー21(第一生命館)→帝国劇場→東京會舘→明治生命館(明治生命保険相互会社本館)→八重洲ビル→東京ビルディング→東京中央郵便局→東京駅→丸ビル→新丸ビル→日本工業倶楽部ビル→東京銀行協会ビル→読売新聞社→常磐橋(旧常盤橋)→日本銀行→三井本店→日本橋三越(三越本店)→日本橋→野村ビル→白木屋・日本橋東急跡→日本橋高島屋→秤座跡→守随ビル→明治屋→京橋→銀座発祥の碑→銀座東邦生命ビル→銀座三越→和光(旧服部時計店)→銀座ライオン七丁目点(大日本麦酒ビヤホール) |
木造の洋館。いつまでここに残っているだろうか(三ノ輪駅付近)
やっぱり銘酒ホールです。(泪橋付近)
バス停がいっぱい(南千住駅付近)
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「お屋敷にお呼ばれ」
1月28日 渋谷から井の頭線で2駅。駒場東大前駅で降りる。駒場は落ち着いた住宅地である。文教地区といってもよいだろう。東大教養学部、博物館、美術館、公園…と訪れるのに楽しい場所がいっぱいだ。 そのなかでも、今日は駒場公園に立ち寄ってみることにした。午後一番に渋谷で待ち合わせ。それまでの時間を過ごそうと思ったのだ。駒場公園は「加賀百万石」の旧前田家邸宅跡で、園内には、東京都近代文学博物館(洋館)、日本近代文学館、和館がある。 芝生公園では複数の家族が子供に何かのゲームを教えていた。大声も出さずによく遊べるものだ。静かにきゃっきゃっと言っている。若い夫婦がベビーカーを押しながら、これまた静かに歩いている。もっと若いカップルがブランケットを敷いておしゃべり。芝生に面した洋館のバルコニーに置かれた椅子には老婦人が座り、目を閉じている。落ち着いた雰囲気の人ばかり。日曜日の午前中を公園で過ごそうなんて気を起こす人々はこういう性質をもっているものなのだろうか。わたくしはひとりで散歩なので、大騒ぎをするはずもなく、猫背を気にして、かえってそり気味になる姿勢をちょっとゆがめて静々と歩く。本当はスキップでもしたくなるほどのよい天気なのに、なんだかそんなことをしては世界を壊すような気がしたのだ。 洋館のバルコニーから中をのぞく。暗くて中の様子はわからない。ここからは入れないので、正面に回る。東京でお屋敷の雰囲気を味わいたいと思ったら、いろいろなところで体験ができる。例えば、目黒の庭園美術館しかり、池之端の旧岩崎邸しかり。そして、この洋館、日本近代文学博物館もそうだ。 今日のメインはこの洋館だ。日本近代文学博物館は東京都の管轄なのだが、都の財政縮小の方針により、今年の3月で閉館の予定だ。閉館前に、もう一度、来ようと思っていたのだ。 パンフレットによれば、外国の貴賓をもてなすために、昭和4年に建てられたイギリス・チューダー様式の洋館だ。当時流行のスクラッチタイル。これを見ると、わたくしはうれしくなる。ただ単にフォーク状のもので模様を作っているだけなのだが、長い年月を経て、色が微妙に変わったり、苔がうっすら生えていたりするのが好ましいのだ。 中に入る。入館は無料。一番のお気に入りは、ホール入ってすぐ左にあるくぼみ。マントルピースの向かい、重厚なつくりの階段の下にソファーが備え付けられている。奥まっていて、人の目が気にならないので、考えごとをするのにちょうど良い。サロンほど開放感がないため、お屋敷の一部を自分のものにしたような気持ちにもなれる。展示を見るより、お屋敷にいることで満足してしまう。しかし、今回の展示は「東京文学散歩」ということで、そそられる内容であるから見逃すわけにはいかない。すくっと立ち上がり、展示室を見ることにする。 天井が高く、窓が大きいので、カーテンを開いたらさぞかし気持ちよいことだろう。しかし、手書きの原稿、挿絵などの紙ものの展示が多いので、作品保護のため、カーテンはしっかりと閉じられていて、照明も落としている。 東京を題材にする作品は数多い。町を歩き、書を読み、また町を歩き…そうすることで、東京をより楽しむことができる。町ごとに展示がまとめられていて、当時の文学派閥もわかるようになっている。過去に館が企画した文学散歩のコースが紹介されていて、本当に締めくくりのような感じだ。1階、2階の展示室をぐるりと回り、東京を一周した。頭のなかであちらこちらを移動したせいか、休憩を取ろうという気になり、隣の和館に行くことにした。 和館の1階は誰でも自由に入ることができる。日の差し込む縁側に座れば、お庭を目前に何時間だってまどろむことができそうだ。私のほかには誰もいなかったので、広間を独り占め。障子、ふすまが開け放たれ、外光が入り開放的な雰囲気だ。知り合いのお宅へお邪魔しているような気さえしてくる。と、いつも捨て切れないでいる張り詰めた気持ちがなくなってきた頃、タイムオーバー。そろそろ出発の時間だ。 こんなに緊張感を緩めてしまったら、果たして渋谷の人ごみをまっすぐ歩くことができるだろうか。そう思いながら、革靴の紐を結わえた。 「香りたつ」 3月4日 工場見学は面白い。物を作る工程を見たり、説明を聞いたり、質問したり、日頃の疑問を晴らすことができる。わたくしたちの生活では、加工されたものを手に取るだけのことが多いから、どうやって素材からつくられていくのかを知ることはあまりない。そこで機会があれば見学をさせてもらうのを趣味のひとつにしている。一般に公開している工場の場合、コースが整備され、説明もつぼをつくので、興味深い時間が過ごせる。コースの最後には試飲や試食ができることもあり、なかなかお得でもある。 2月のとある金曜日、京都に向け、新幹線に飛び乗った。狙いはサントリー山崎蒸溜所。京都駅から各駅停車で14分。駅前で食事でもしてから工場に向かおうと山崎駅を降りる。駅前には何もない。左手には国宝の茶室があるが、往復はがきで事前に申し込みをしなければ拝観できない。油の神様として知られているという離宮八幡宮へお参りしたが、とりたてて、時間をつぶす場所もない。山崎でもうひとつ興味があるアサヒビール大山崎山荘美術館に行くには時間が足りない。と、ないないづくしで、熱を持ち、思考力がなくなっているわたくしは、工場に行くだけ行ってしまえと思い、歩き出した。ついた時間は14時ちょっとすぎ。15時スタートの見学会に予約をしていたのだが、資料館だけでも先に見せてもらおうと思っていた。ところが、受付嬢が親切に、前の回がちょうど始まったばかりだから、そちらに合流したらどうかと提案してくれて、案内人に連絡をとってくれる。入り口まで迎えに来てくれて、ショートカットで発酵工程に入る。ここが、実質的な見学のスタートらしい。 ガラス瓶に入ったモルトを嗅ぐ。スモーキーな香り。甘い香り。これがウイスキーの素である。いろいろな種類があり、工場ごとに特色が出るという。日本人はあまりきつい香りを好まないそうで、嗜好に合わせて、調節しているという。このモルトを細かく砕き、麦汁を作る。このとき使われる水で麦汁の質が左右されるため、名水の地、山崎を蒸溜所に選んだそうだ。確かに、山崎の水はきれいだ。工場の裏に、竹林に囲まれたこんこんとわきでる泉があり、その水は透明で、竹の薄緑色が表面に反射していた。味のほうは、一口含んでみると、少し甘かった。 発酵の様子を見ることはできない。桶の中で発酵しています、と説明され、ガラスの向こうの桶の様子をうかがう。何年後かにウイスキーとして会おう、と声をかけたくなる。次は蒸溜だ。銅製のポットスチル(=蒸溜器)で2度、蒸溜する。このポットスチルの形で風味が変わってくる。ここで得られたアルコール度数70%の無色透明な液体を樽につめ、貯蔵する。わたくしがウイスキーをつくる、要だと信じてきた工程だ。 貯蔵庫に入った瞬間、甘い香りが鼻をくすぐる。空気にウイスキーが含まれているようで、なんとも気分が良い。樽の列の中に入ってみたり、樽に鼻を近づけてみたり。場所によって、少しずつ香りが変わってくる気がする。年月によるもの、もしくは中身の違いもあるかもしれない。自分の生まれた年に詰められた樽を発見する。そのうち、出合ったあかつきには、ぜひとも五感をもって味わいたいものだといとおしくなる。なぜか優しい気持ちになる。アロマテラピーなど、香りが精神に与える力があることを知ってはいたが、ウイスキー貯蔵庫の香りがいつもいらついているわたくしの感情を落ち着かせるとは! いつまでもそこにいて、そのにおいをかいでいたいと思った。もしかしたら、香りだけでも酔っ払ってしまうかもしれない。 樽の大きさや使用回数によっても味が変わる。何が変わっても味が変わる微妙な飲み物。それを一定の品質にするために存在するのがブレンダーと呼ばれる人たちが存在する。口に含んでは味を確かめ、そしてもっともふさわしい組み合わせで出荷する商品を仕上げる。香りだけでも酔ってしまいそうなのに、一日中、口の中にウイスキーがあるとしたら、ふらふらになってしまうではないか! もちろん、ブレンダーはウイスキーを飲むわけではなく、香りをかぎ分けたり、口の中に入れたウイスキーは味や風合いを確かめたりした後は、出してしまうのだろうが、なかなか大変な仕事だ。嗅覚、味覚にすぐれた人しかなれない仕事だと思う。 ブレンダーにより、保障された商品を味わう時間がやってきた。まずは水割りで香りと味を確かめてください、と案内される。おいしくできる水割りの作り方も教わる。なるほど。確かに冴えている。自分で作るより濃い華やかな香りがする。よくよく嗅いでみると、バニラのような香りが湧いてくる。ストレートにしてもらい、グラスを回して顔に近づける。水割りのときよりも渋みを感じる。口に入れるとふわっと蒸発し、さらっとのどに落ちる。 いや、おいしいのだ。ただそれだけ。そこで、お土産に原酒を買う。ふたをあけると同じように香りが広がる。原酒というだけあって、少し、個性がある香りがするような気がするのは、買ってきた身びいきによるものだろう。 工場を出て、嗅覚が敏感になってきたような気がして、これは他でも使うべし、とその足で北野天満宮へ向かう。今の時期、梅がまっさかり。これほど、香りを愛でる花は他にはないだろうというくらい、梅林を歩くと、香気が迫ってくる。夕闇の中、境内を歩くと、すっぱいような甘いような香りがここそこに漂う。体全体が香りを察知する。貯蔵庫で鍛えた感覚はそのまま夜まで維持できた。 東京で暮らすと、排気ガスなどで鼻がばかになる。というよりも、几帳面に鼻をきかせていたら、あまりの悪臭に倒れてしまうに違いない。こうやって、時には、人間の感覚を取り戻す努力が必要なのだろう。東京は大好きな町だけど、不具合もあるのだ。 「平戸の町で」 3月11日 2月のある日、長崎県平戸の友人を訪ねた。教会や松浦家など訪れたいところがあり、和蘭商館の復元計画について聞きたい。そんな散歩気分で平戸大橋を渡ったわたくしを待っていたのは3B体操。 「終わったら、平戸の海の幸が待っているから。その前に体操ね」友人はなにやらストレス解消に週に1~2回、その体操をしているそうだ。普段、体を動かすことといったら、散歩以外のことは何もしないわたくしは、好奇心いっぱい。何をするのか、そもそも名前が変わっているではないか。 ストレッチ中心で、音楽とともにダンスをするリクリエーション的な要素が多い。3つの道具、ボール、ベル、ベルターという3つの道具を使うために、その頭文字をとって、3B体操と名づけられた福岡発祥の体操である。 畳敷きの公民館。地元の高校の先生など若い女性ばかりが集まり、7人。いつもは3人ほどの教室だそうだ。和やかな雰囲気で始まる。先生も気さくで明るく、「無理をしないで、自分の気持ちいいところで止めてください」とにこやかに声をかける。 最初は体を伸ばしていく。筋の一本いっぽんをじっくりと伸ばすようだ。体を右に左に前に後ろに曲げたり回したり。座り込んで前方の何かをつかむように両手を突き出したり。単純でゆっくりとした動きを繰り返す。勝つためだとか競争だとかとは無縁のゆるやかな時間。人と比べず、自分のできる範囲の動きをすることが大切、と力説する。 前屈をしても指先すら床に付かず、開脚をしてもようやく鈍角になろうというところで止まってしまうという非常に硬い体をもつわたくしは、普通に足を伸ばして座ってもひざすらまっすぐにならないのだ。それでも負けず嫌いの性格がより先に、より前にと駆り立てられ、終わった頃には、腰が痛くなり始めていた。ストレス解消の体操で体を痛めてどうするのだろうか。競争して勝ち抜くことが大事、という価値観を休日も持ち続けていることが露呈する。 音楽にあわせて組まれたプログラムを2回も3回も繰り返し、体がほぐれた頃にダンスの要素を強めた体操に入る。そして、3Bのうちのひとつ、ベルターを使う。ぐるぐる回したり、伸びに利用したり、新しい動きが入って楽しい。しかし、これがまた複雑。手は右、足は左、体の各所でまったく違う動きをするような振り付けになっている。先生の真似をすることすらもう不可能。やっているつもり、で体を動かす。案外、あきらめもいいのだ。 後ろで颯爽と動いていた友人はぎこちない動きを見ながら、いつ体がばらばらになるのではないかと心配していたそうだ。体と脳みそが連結していないことを実感した夜だった。 体操が終わって、平戸の海の幸に舌鼓を打っていても、なんだか、腰が重い。このまま腰痛のまま、もしくは筋肉痛になって翌朝を迎えるのではないかと心配していたが、不思議とすっきりしていた。ストレッチの威力に改めて驚いたのが本音である。(もしかしたら、新鮮でうまい魚が体中の血液が掃除された可能性もあり??) 指圧の先生に、腰痛を治すためには、ストレッチが重要、と言われていている。続けたいと思っても、なかなか続かない。こうした教室に通うことで強制力を発生させるのはなかなかよいことかもしれない。 東京に帰ってからこの3B体操のことをしらべてみると、日本3B体操協会というものがあり、東京にも関東本部が設置されていて、各地の公民館、学校などで教室が開かれているそうだ。また、協会のホームページを覗くと、「ついつい指導者の動きばかりを追い、余裕を無くして無理をしがちですが、自分のからだと対話する気持ちでして無理をしてはいけません。頑張りすぎは禁物です。のんびりマイペースであせらないことです。そして自分のからだの働きに敏感になることも大切な事なのです。」とわたくしの欠点を突くような表現。からだのメッセージを聞き取る努力をしなければ。不健康業界のみなさま、少しからだに気を遣いましょう。 |
和館からの眺め
日本近代文学博物館(旧前田邸)
駒場公園・梅
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「地面をなめる火」
3月18日 真冬の真っ青な空のもと、平戸の中心地を抜け、緑豊かな道を行く。緑の道をくねくねドライブ。ガラス窓からそそぐ日の光で、車の中はぽかぽかだ。しかし、だまされてはいけない。真冬の2月。吹きさらしの野原に出かけようというのだ。着られるだけの服を着て備える。 着いてみると、すでに数台の車が駐車されている。車の中で待っている人もいれば、外に出て、寒さを和らげるため、腕を組んで足踏みをしている人もいる。消防団員のはっぴを着たおじさんたちが、水をたっぷりいれたポリバケツを持って大声で何かを話したり、笑ったりしながら歩いている。警察官はのんきに立ち話。今日は楽しい日なのだろう。 地元の新聞記者夫婦は、友人の車に目をとめると、「こっちこっち」と手招きをした。外は寒そう。私たちと同様に着膨れている。さすがに記者らしく、カメラを手に、肩に提げているバッグからメモや筆記具が飛び出している。 ここ数年で一番の野焼き日和だという。いつぞやは雨が降り、順延つづきで、もう焼かないとしかたがない、という日にまたも雨が降り、それでも決行しただの、からから天気が続いた年には、野焼きをする前に山火事が起こっただの、過去の出来事を教えてくれた。 そして、丘のほうを見上げると、遠くのほうから火が回ってきた。火がうまい具合に止まるように風の方向を確かめ、前もって草木を刈り込んである。火がついた、と思うまもなく、白い煙、黒い煙がもくもくと上がり、地面が黒くなっていく。立ち木が時々、残っているさまがなんとも物悲しい。火がちりちりと音を立てて、一面を覆いかぶさるように、生地をなにかでのばすかのように広がる。本当に火は速い。あっというまに一山焼けた。目の前の丘に火がつけられる。遠くで見ると赤くてきれいな光が見えるだけだが、近くで見ると、炎を上げているのがわかる。怖さ半分、好奇心半分、火にほんの少し、近づいてみる。風上にいれば平気、と地元の人に声をかけられ、いっしょに駆け寄る。さすがに暖かくなる。あっという間に目の前の山もしゅん、と音をたてるようにして真っ黒になる。 しばらくしてこの黒焦げの丘を歩くと、さくさくと音を立てて非常に気持ちがよいという。今回は初めての野焼きを見るだけでおしまい。今度行くときには、野焼きが終わった頃に、ピクニックに行こう。もちろん、黒い靴に黒い服の汚れが目立たない格好をして! 「さくらのドーム」 3月25日 桜を見るのは年中行事である。なぜ桜か、と疑うこともなく、花が開けば町を歩く。宴を催す。とはいえ、どの桜を見ようとか、絶対にあの場所が良い、とかそういうこだわりがまったくない。この時期、どこを歩いても桜にぶつかるのだから、足の向くまま歩けばよいと思っているのだ。 そんな、こだわりのない私に、洗足池の桜にえらく感動した友人が、死ぬまで毎年この桜を見に行くという宣言メイルを送ってきた。それほどまでにきれいなのか、これは見に行かねばなるまい。野次馬根性がむくむくと湧いてきた。 満開になってから、このところ雨が降って温度が下がり、そろそろ散り始めている。今週がリミット、と予定表をにらみ、朝一に行くのがよかろうと、まだ日も明けない頃に家を出た。 五反田より3両編成の東急池上線に乗る。のんびりした路線だという印象を受ける。空が明るくなってくるのを眺めていると洗足池駅に到着。駅の前の歩道橋を渡れば目の前が池だ。日蓮が常陸の温泉に行く途中にこの池で足を洗ったという伝説により、洗足池と名づけられたそうだ。池の周辺は風致地域に指定され、なかなかよい雰囲気の住宅が多く、公園もよく整備されている。 池の端から眺めると薄桃色と柔らかい若芽の緑が混じった山が見える。それを目指して、池の周りを歩き始める。屋台がずらっと並び、前日にも多くの花見客が集った様子がうかがえる。店は閉まっているが、ソースの匂いが残っている。ごみが残され、カラスが喜ぶ。清掃業者が大量に出たごみをバンに押し込め、掃除をする。桜の名所ならどこでも見られる風景だ。午後には足の踏み場のないほど花見客で混雑するだろう。 早朝ということもあり、ウォーキング、ラジオ体操、太極拳などに集まってきているお年寄りが多い。おはようございます、とすれ違いながら、丘に近づいていく。下から上を眺める。桜の枝が張って見える。 期待に胸を躍らせながら、階段を上る。どんな桜が待っているのか。そして目に入ってきたのは桜の林。ずいぶんと背の高い桜が並んでいる。上を見上げる。桜の花の天井になっている。右の木から伸びた枝と左の木から伸びた枝がクロスする。まるで吹き抜けの下に立ったような印象である。ドームのように、すっぽりと桜で覆われ、上を見ながら一回転すると万華鏡を回したようだ。日が完全に昇り、光を受けて、花びらの白い色がいっそう強くなる。風に吹かれて、色を変える。 これは人のいない朝に見てよかったと思う。ライトアップされた夜桜なら、ドームのなかにいる印象がより強くなるかもしれないが、この景を独り占めにした方がぐっと迫ってくるように思える。 江戸時代より景勝地として知られる洗足池だから当然かもしれないが、行楽気分が味わうことができた。そして、わたくしの頭の中の東京地図に桜マークが一つ増えた。毎日、いろいろなリストが増えていくのが東京の楽しさ、である。決まりきった道を少し外れるだけで発見がある。いつもは行かないエリアに行くだけで発見リストは膨大になる。今朝は大旅行をした気分である。 |
「かめと藤」
4月15日 大学の中庭を歩いていると、藤の花が見えた。淡い紫色、いや、藤色の房が風にゆらめき、日の光に花弁が輝く。これだけたわわに咲いているのを見ていたら、亀戸天神の藤も、もうきれいなのではないかしら、と期待が膨らんだ。 亀戸天神は菅原公を祭神とするお宮だけあって梅も有名である。『明治のおもかげ』で鶯亭金升が明治を思い、梅めぐりをした思い出をつづっている。その頃、亀戸など、田圃を越してやっと行くところ。そこでは梅の花漬けを入れたお湯を出してくれて、お弁当やらお酒やらを広げて遊んだ人が多かったそうだ。「一日をうかうかと暮らす」楽しさが伝わってくる。この感覚をぜひ身に着けたいものだ、と思い、藤の時期ではあるが、うかうかと歩いてやってきた。 人は同じことを考えるようで、少なからずの人が境内を散歩していた。門前には、船橋屋が名物の葛餅を売る臨時販売所を出している。打ち出の小槌などの出店も出始めている。すっかり、お祭り気分である。正面の太鼓橋を渡る。最近、きれいに架けなおされたらしく、朱色がぬらぬらと光っている。水のゆらぎが反射しててらてらとしている。橋のてっぺんで境内をぐるりと見回す。5分咲きといったところだ。藤祭りは4月25日からとか。(境内の一部のポスターには4月20日からという記述もあったが・・・)例年4月下旬から5月上旬が見ごろというから、いくら暖かい今年でもまだ早かったのかもしれない。 八つ橋の手すりにもたれていると、境内でばったり出会った知り合いらしいおばあさんが2人、話を始めだした。 「ここにあった藤棚はどうしてしまったのかしら?」 「やっぱり、きれいにしちゃったからね。きっと抜いてしまったんじゃないの」 「そうね。この辺りは木が若いね。ほら、あの辺りはもう咲いているよ」 その通り、一部の棚はきれいに咲いている。とすると、橋の架け替え、心字池の工事で植えなおされた株のみ、まだ花をつけないだけなのかもしれない。定点観測をしている人の言葉を信じることにしよう。 すっかり満開となった棚の下に入る。さわやかな香りが肺まで入り込む。深呼吸すると胸が痛むのに、おかまいなしに、すうすう吸い込む。気持ちが穏やかになる。もしかしたら、明治の時代は藤の花の下でも瓢を空け、弁当を平らげていたのかもしれないが、今は、桜の花見とは違って、それほど大騒ぎをする人もいないから、静かにいつまでも見ていられる。白い花、薄い紅色が混じった花、青みが強い花。ひとつひとつに個性があって、見飽きない。 橋をくだり、お宮に近づくと、手水が亀の口から吐き出されているのを見つけた。亀戸だから、亀。単純だけど、面白い。そういえば、池にもたくさんの亀がいた。そして、近所のパン屋さんでみつけたのは、亀パン。親亀・子亀・孫亀と3段になったもの、子亀・孫亀の2段になったもの、孫亀のみのものとある。 かめと藤。今日はこれで満足だ。 「毎日がピクニック」 4月29日 いつも6時に目覚ましがなる。目覚めると、障子にすけて朝日が差す。もう明るい。日が長くなっていることを感じる一瞬だ。そうなるともったいなくて、朝散歩がしたくなる。さて、出かけるか、と思うものの、ごろごろと春眠をむさぼっている。空気のきれいなところに出かける前に、排気ガスの町を歩くことはないな、と思うのだ。 実はわたくしは東京の郊外まで勤めに出ているのだ。山手線の外に出て、住宅地を抜け、川を渡り、畑を見渡し、山を越え(正確にはいくつかのトンネルを通り)、そしてまた出現する町で働いている。この時期、通勤に使う郊外電車から眺める景色はとてもよく、町の変化を楽しめる。 マンションのベランダには鉢植えの花が咲き、戸建の多い町では、庭に植えた木々の芽が吹いている。花の時期は過ぎ、そろそろ緑が濃くなってきている。住宅地の合間に畑がある。何を作っているのかはわからないが、脇には菜の花が咲いて黄色がまぶしい。 世田谷や練馬など都内でも畑が見られるところは少なくない。自転車などで通ると、土のにおいがして、なんともわくわくするものだ。子供の頃に行った芋ほりやうどを栽培するうろの見学など楽しい思い出がよみがえるのだろう。 いくつか小さい支流を越え、そしていよいよ多摩川を渡る。川べりでスポーツをしているのを見たり、イベントで人が集まっていたりする。夏には花火大会も催される。晴れた朝など、水面にきらきらと日の光が反射する。 このころになると、うつらうつらと眠くなるのだが、しばらくすると田舎の様相を帯びてきて非常に美しいので、少し我慢。竹林、風にさらさらと揺れる。切り通しの上は林か。この丘をぬけると梨畑と思われる地域に。春はいっせいに花を開き、一面まっ白だ。遠くに農家が見える。ここを通るたびに、遠くまで来たなという感じがする。毎日、町の外に働きに出ていることを感じて、なんだか楽しくなる。 そろそろ、村の風景もおしまい。開発中で丸裸にされた山が出てくる。最近、マンションがぞくぞくとたてられ、駅前も整備されているが、まだまださびしい。かつては帰りの電車からは真っ暗な地面と空しか見えなかったが、最近ではショッピングセンターのネオンなどが見える。このルートでの通勤をし始めてから、丸々3年以上たったが、急激に変わっている町だ。 そして、トンネルをぬけると、いきなり、立派なビル群の立つ町に出る。マンション、住宅街が混じる。丘の上には学校が。 さあ、ついた。会社のビルからは稜線がくっきり。はるかかなたには富士山がみえる。近所の高台で見るより、だいぶ大きい。見下ろせば、神社、大きい公園。あの公園の木の陰でお弁当を広げよう。毎日がピクニック。そうでなきゃ! 「美女と大蛇(市川ツアー<1>)」 5月13日 江戸川を挟んでこちら側が東京、江戸川区、向こうが千葉、市川市である。国府台と国分台に挟まれた市川北西部が今回の散歩のターゲット。 まず向かうは弘法寺(ぐぼうじ)。大門通を北上する。入り口は目立たず、見過ごしてしまいそうだ。建物が林立する前は、見晴らしがきいて、このような細い道でも弘法寺への参道として機能していたのだろう。市川出身者とツアーの案内人に導かれ、無事、千葉街道から大門通り商店街に右折する。これまた魅力的な個人商店が点在する。いかにもおいしそうな柏餅が並ぶお菓子屋。豆腐屋。日曜日なので、閉店している店が多いのも地元の商店街らしく好ましい。人間、日曜日くらい休んだほうがよい。 この道の塀には、万葉集の歌がところどころに張られ、短歌を募集するボックスがおかれている。この辺りの地名、真間は万葉集にいくつか出てくるからだろう。たとえば、余りにも美しすぎて、モテモテで、相手を一人に絞れない、多くの男を不幸にするといって井戸に身を投げたという伝説の美女、手児奈。そんなことで身投げされても困るし、身勝手だと思うのは美人でない者のひがみだが、ひがみながらも、手児奈霊堂にお参りする。水に関係あるお堂のためか、安産を願ってお参りする人が多いそうだ。霊堂脇の庭にはアイリスがきれいに咲いていた。 手児奈霊堂を出て右手には弘法寺に向かう石段がのぞいている。その石段を登っていくと、一つだけいやに磨り減り、小さくなっている石がある。それが、「真間の涙石」であろう。夜な夜な泣くというその石。ずいぶんと市川はロマンチックな町だ。 市川はロマンチックなばかりではない。おかしみのある像もいっぱいだ。地元民いわく、「兄貴とサブ」像、タイトル「感激」という銅像が市営球場の入り口に置いてある。車で松戸街道を北上すると、この像が目に入り、「あれは何だ」となるらしい。上半身裸の男二人が、腰に手をあて、何かを臨んでいる。何を見ているのだ? すっかり、「兄貴とサブ」のファンになったら、里見公園にある背を向け合って、踊っている二人の女性像にも心を奪われる。なぜ彼女たちは向き合っていないのだ? そして今にも飛ばんとしているのか? 散歩をすると、いろいろな銅像に出合うが、この2つは、なかなか他にない面白みを帯びた像である。 像ばかりではない。大蛇もいる。国府台では、1月17日、天満宮で4体の大蛇が作られ、集落の四隅に配置するのだ。これは、外からやってくる悪いものどもを払うために置かれている。一年にいっぺん取り替えられる。去年の大蛇を焼いた灰を大蛇の目の中に込めている、と大蛇作りを代々担う家のおばさんが話してくれた、と歴史研究家がうれしそうに話していた。去年の大蛇を焚いた物を詰めるということは、代々の灰が少しずつ少しずつ混ざって、大蛇の目の中に入っているということだ。考えるとすごいことだ。その灰はわたくしが生まれる前から国府台を守っているのだ。(つづく) 「林と丘<市川ツアー(2)>」 5月20日 市川市の広報紙によると、市川市の緑は減少の一途をたどっているそうだ。そこで、緑地を保全するための「みどりの基本計画」を策定しようとしている。都内に比べれば、まだまだ緑が豊富なようだが、樹木や芝生などで覆われた土地が占める割合を示す緑被率というもので比べると、千葉県内で市川市はワースト1なのだそうだ。 とはいえ、午後の散歩で自然が残る市川を満喫したのは確かである。景観などを考え、町の活性化に尽力している公務員の女性は、よく考えられて整備された公園が多い、とうなっていた。確かに、公園の中は雑木林、自然の地形がよくわかる山谷を生かして、なおかつ使いやすい遊歩道やベンチなどが配され、大変に過ごしやすい空間になっている。子どもだったら、ここの地で暮らすのはとても楽しいはず、と言うのは写真を専攻する大学院生。子どもの頃に住んでいた土地を思い出したそうだ。ときどき、誰の敷地かわからないような雑木林や空き地に出合い、そこが、空間的な余裕を感じさせ、子どもたちが自由に遊べるような感覚を得られるのだろう。しかし、それほど子どもの姿を見たわけではない。公園の角っこから、2人組の男の子が飛び出し、スケートボードから落ちていったのを見た記憶しかない。公園なぞ、あたりまえすぎて、彼らにとってありがたみのあるものではないのかもしれない。また、外で遊ぶより面白いことが彼らにはいっぱいあるのだろう。 じゅんさい池では、長年、国府台の自然を残すことを目的に活動している人が、水草を保存する池をフェンスの中で見ていってください、と声をかけてくれた。30年にもわたり、ボランティアで活動をしていて、現在は会員数500名の大所帯、「ジュンサイを残す会」を率いていらっしゃるそうだ。この池の成り立ち、池に育つ水草、そして活動について、詳しくお話してくださった。 池を覗くとゆらゆらと緑の水草が揺れる。その間を手のひらほどの丸くて黒いものが動く。ウシガエルのおたまじゃくしだという。そんな大きいおたまじゃくしがカエルになったら、どんな大きさになるのだろう。カエルが苦手なわたくしはゾゾッと背筋が凍った。池の脇のバケツのふたを開けて、捕獲したアメリカザリガニを見せてくれた。アメリカザリガニが水草を切ってしまうそうで、捕っては、近くの小学校などにあげているそうだ。しかし、捕れども、捕れども増えるという。外来種、強し。 散歩人一同、ボランティアの方の話に深く感銘を受けて感謝の言葉を述べたり、おたまじゃくしの大きさに度肝を抜かれたまま、大騒ぎしたりして次の目的地、小塚山公園へ向かった。 小塚山公園は名前の通り、山、という印象だ。木の葉が茂り、日の光が届かない。爽やかな季節に歩くのにふさわしい場所といえるだろう。木に囲まれる幸福感を味わいながらこの公園から出て、坂を下ると、フェンスに囲まれた土地が現れる。東京外かく環状道路の建設予定地だ。なんと、美しいこの公園の一部もえぐり取られてしまうことになっている。車社会の世の中、便利になることは歓迎されるべきだが、その裏にはこの自然が破壊されていくのかと深いため息をついた。緑を守るベクトルと緑を壊すベクトルとが正反対の向きにあり、絶対値はどうみても、後者のほうが大きそうだ。 最終目的地は、堀の内貝塚公園。歴史博物館と考古博物館がある。市川には多くの貝塚が残っているのだ。そして、この公園も貝塚があったところである。これまた、丘を上ったり、原っぱを歩いたりと楽しい公園だ。このころになると歩きなれないゲストたちに、疲れの色が見え始め、市川駅へはバスで帰ることにする。古くからのメンバーといえば、まだ遊び足らず、公園を走り回りそうな勢いだ。 ここで午後4時15分。今日の集合は午前10時。途中の休憩を除いて、約5時間の市川散歩。歴史あり、自然あり、暮らしあり、の町。なかなか楽しいツアーだった。 10年後、市川を訪れたとして、自然はどれだけ残っているだろう、これが最後に浮かんだこと。行政はどう動くのか、善意の活動はどう進展するのか。*第2回市川ツアー近日開催予定。 |
「部屋中がミント」
5月27日 荷物をほどき、文章を打とうとパソコンのモニターを眺めていると、ミントの香りが鼻をくすぐる。今しがた、いただいた花束をほどき、花瓶に生けたところだ。花瓶は部屋の反対側の隅に置いたのに、よく香る。 このお休みに、森の中にあるコッテージに住む友人を訪ねた。コッテージの前の庭で奥さんが選んでくれたデイジー、ペッパーミント、アップルミント、レモンバームなどの花束は、東京についてその威力を発揮している。森の中では空気そのものが緑の香りで、ハーブの香りを意識するのには、葉や花に顔を近づかなければならない。しかし、東京のど真ん中では、すぐに「異なるにおい」として感じることができるのだ。 我が家のコンクリートの庭でもハーブを植えている。しかし、排気ガスを吸って育っているためか、ミントの香りも強くない。強烈な香りを感じるのは、植物そのものの力も強いからかもしれない。 秩父の友人宅を訪れるのはほとんど年中行事だ。たいてい、連休の時期にお呼ばれされて、のんびりとした休日を過ごす。山道を散歩したり、ピアノを弾いたり、おしゃべりしたり、友人の奥さんにお料理を習ったり、とすっかり普段の生活ではしないようなことをしてリフレッシュ。血の巡りがよくなった気分になって帰宅する。 もしかしたら、わたくしの感覚が鋭くなって香りを感じるのだろうか。人間にはお休みが必要。ちゃんとお休みしていますか? 休暇の時期にあえて、問うてみたくなった。 |
「北海道で家を買う!?」
6月3日 ライラックの季節に札幌にやってきた。仕事が終わったら、何をしよう・・・。降っているのだかよくわからないほどの小雨を感じつつ、大通り公園のベンチに座り、たわわに咲いたライラックの香りに酔いながら考える。会議はあっという間に終わるだろう。日帰りで済ませようと思えば、帰京できる。しかし、こんなよい季節に北海道にいるのだ。散歩をしないわけにはいかない。 仕事を終え、乗り込んだタクシーの運転手に聞いてみた。明日はどこに行ったらいいかしら。 「開拓の村なんてどうだろうね」 というわけで、散歩人と同様に、初夏の北海道を楽しみたいと思っていた同僚を誘って、行ってみたのが「北海道開拓の村」。実は期待をしていなかったのだ。手持ちのガイドブックからは広さが感じられなく、開拓時代の建物の復元がいくつか建っているくらいだろう、と高をくくっていた。新札幌駅からのバスを降りて、まずびっくり。階段の上には旧札幌停車場がそびえたっている。管理棟になっていて、入場料を支払う。そして、駅をくぐると、目の前には並木道がまっすぐ伸びている。 ここが、北の大地、北海道であることを忘れていたようだ。広大な土地を使えるのだ。規模が違うのは当然だ。並木道には馬車鉄道が通っている。馬が車を引いて、ゆっくりと走っている。これは夢のような公園だ。安っぽいアミューズメントパークを想像していたところが、うれしい期待はずれだ。こんなに広くて、開拓時代の建物が移築、復元されている公園なら、1日楽しめるのは確実だ。 乗馬体験会やスタンプラリー、かつて小樽新聞社で使用していた手フート印刷機ではがきを刷ってくれたり、版画の実演があったり、とイベントも盛りだくさんで、子供づれでも飽きないようになっている。 園内は市街地群、漁村群、農村群、山村群と区分され、それぞれのエリアにふさわしい建物が並んでいる。そして市街地群で見つけたのがこの住宅。洋風と和風が組み合わされている。そして、隣を歩いていた同僚に、「この家、北海道の拠点にします」と宣言。次回、札幌に出張の際は、ここで仕事を待とう。 「あら、そろそろ出勤の時間だわ」 |
「世のちり洗う四万温泉」
6月17日 奈良の友人からメイルが入る。「伊香保温泉に行きたい」。そこで、渋川出身の友人に相談する。「よいお宿は?」わたくしの良き旅友達であるボス<彼女は建築設計事務所所長なのだ>がいきり立った。「なぜ伊香保? 群馬ならもっといい温泉いっぱいあるよ。顔も効くし」そして、3人で出かけたところが四万(しま)温泉である。 群馬県人はみな学校で暗記するという「上毛かるた」。群馬の地理・歴史について学ぶことができるお国自慢のかるたで、大人になってもたいていは覚えているそうだ。四万温泉は「世のちり洗う四万温泉」とうたわれている。ちなみに、伊香保温泉は「伊香保温泉 日本の名湯」で、草津温泉は「草津よいとこ薬の温泉(いでゆ)」だそうだ。群馬には温泉が山ほどあるのだ。うらやましい。 渋川、中之条町の古い町並みを眺めながら、山に入っていく。古い町で、渋川駅はかわいらしい洋館風。テレビドラマの撮影にも使われたことがあるそうだ。中之条の小学校はなかなかしゃれた外観をもっている。渋川も四万温泉も小学生のころに家族で遊びに来たことがあるはずなのに、まったく気づかなかったこれらの建物。人間の興味は成長とともに変わり、日々、発見があることの証明である。 道はぐるりと山に沿いめぐり、トンネルをくぐる。5月も末になると、緑の色がだいぶ落ち着いてくる。窓を全開にする。風はさわやか。前にも後ろにも車はいない。ドライブにうってつけだ。奈良から来た友人は杉の木が少ないことになぜかうれしそうだ。家の近くの山は杉が多く、広葉樹の緑の色は遠目から見ても印象がまったく違うという。 われわれの宿は川沿い。2方向に向かって壁全体に窓が開き、窓を閉めてもごーごーと水の流れる音が聞こえる。窓を開けると、澄んだブルーの水がしぶきを立てながら流れている。何度も来たことのあるボスはタバコをくゆらせながら言う。「ここの水の青さはみんなおどろくんだけどね、上のダムのほうに行くとコバルトブルーというか、エメラルドグリーンというか、もっとすごいのよ」 さすが、「理想の電化に電源群馬」<上毛かるた>である。とはいえ、この四万川ダムの主目的は治水と水道用水の安定供給で、発電はおまけだ。 ダムは次の日のお楽しみにとっておき、温泉街を歩くことにする。昔ながらの湯治宿はほとんどないが、こぢんまりとしてのんびりした雰囲気を感じる。歴史の深く、中には群馬県の重要文化財に指定されている宿もある。一時は、もう少しにぎやかで、芸者さんを上げるような文化もあったそうだが、今では常駐の芸者さんはいない、とボスはにやりと笑う。芸者を上げるような豪勢なことをしていたのだろうか。 温泉街らしいものといえば、温泉饅頭をふかす器械をガラス越しにのぞかせている土産屋、スマートボールと射的くらいか。色のはげたポスターに蛍光灯の青い光が光る射的屋の店内には客は誰もいない。時々すれちがう宿のゆかたに丹前姿の人たちも手持ち無沙汰か、周りを見るまでもなくおしゃべりに夢中かのどちらかだ。ふらふらと何をするわけでもなく、歩くということができるかできないかで、この町の楽しみ方が変わるかもしれない。 次の日、目が覚めると青空が広がっている。しかし、目抜き通りに出るまでの路地には日が差さない。どうもさびしい印象を抱かせる町である。しかし、宿泊客が散歩をしながら、土産物屋を覗いたり、タオルを肩にかけて公衆温泉に向かったりと、楽しさが見られる。四万温泉いちの規模を誇る旅館の前にはクラシックカーの一群が。会合でもあったのだろうか、この細い道ばかりの町に5、6台のクラシックカーが集合すると、かなりの壮観である。 われわれはボスの車に乗り込み、四万川ダムを目指す。そして見たものは青い湖。絵の具を溶かしたような色だ。水分に何が含まれているのだろう?ダムのコンクリートの白さと水の青のコントラストがまるで写真で見た地中海のイメージだ。高いダムの上から覗き込むと、すうと引き込まれそうになるほど。風景に圧倒され、頭をくらくらさせながら、温泉に再び浸る。水は透明。肌がぬるっと柔らかい感覚になる。体の芯までとけてくる。さすが、世のちり洗う温泉だ。わたくしのなかのちりもすべて洗い流してくれたようだ。 |
「青空と赤土<ラオス旅行記>」
7月22日 毎週楽しみにしているコラム「遠そうで近い国・近そうで遠い国」を書かれている木本博美さんを訪ねた。散歩人、どこへでも行くのだ。 バンコクからの飛行機は快適。ビエンチャンに近づくと、パッチワークのようにつながるたんぼが見える。血管のように走る赤い道と深い緑のジャングルが広がる。見えるものはただそれだけ。 そしてビエンチャンに降り立つ。空を見上げると真っ青で、太陽をさえぎる雲はなく、じりじりと焼け付くようだ。熱気と湿気がしっとりと体を包む。 空港を出ると、スリムで姿勢のよい美人の木本さんが笑顔で迎えてくれた。なんと素敵な休日を予感させる一瞬だろう! 町をぐるりと車で案内してもらう。バイクやトゥクトゥクがゆっくりと車の前を走る。車もそのスピードに合わせざるを得ない。人の歩き方もどことなく優雅。小走りだったり、大またで早歩きをしたりする人は見かけない。 町に出る。1日で見て回れる、という規模の大きさ。とはいえ、暑い午後、いつものペースで歩くのは難しく、ゆっくり、のんびり、町のスピードになる。 町の端っこにあるタートルアンに行く。遠くから見ても目立つ金色の塔。ぐるりと回廊がめぐり、その中に入るとまぶしいくらいの存在感。青い空によく映える。塔はコンクリート造、太陽ですっかり熱されている。塔自身の影で日が当たらない部分は若干冷たく、はだしになって息をつく。ぺたっと仏像の前に座り込み、何も考えない。 午後3時。お参りする人もなく、静か。お坊さんたちはいすにもたれながら、おしゃべりしたり、本を読んだり。そのペースに飲まれてしまい、こちらも時間の感覚がずれる。広場に出て、日本円にしたら10円、20円の違いを攻防し、トゥクトゥクの料金をのんびり値切って楽しんだりしていたら、あっという間に約束の4時半。いつもなら、あれもこれもしてあそこもここも行くのに、どうしたのかしら? ビエンチャンの魔法にかかったようだ。10分単位で予定が決まる東京での生活とはまるでかけはなれた時間感覚。それが休暇の楽しみなのだ! ラオスで覚えたもう一つの喜びはサウナである。薬草を入れた炊き、その蒸気を満たした部屋に入る。蓬を蒸したようなグリーンな香りのする、真っ黒な小部屋に入る。冷え性のわたくしはじっくりじっくり、時間をかけて芯まで暖める。すると、汗が流れる。東京の汚れがぼろぼろと落ちる。外に出て、ピンク色のハーブティーを飲み、夕方の涼しい風を受ける。そしてまた入る。また汗をかく。そしてびっくり。お肌がすべすべする。やわらかくなる。お茶を飲む。また入る。それを4度ほど繰り返し、体の大掃除をした気分になる。 そしてあっという間に日暮れ。ビールで閉めれば一日はおしまい。明日は古都ルアンバパーンへ! 期待に胸を躍らせながら、眠りに就いた。窓の外にはヤモリ。そして時々雨の音。 「大都会<ラオス旅行記・続>」 7月29日 「ルアンブラパーンは都会だ」とタイ・ラオス・ベトナムの少数民族の民俗文化を研究している学者である友人が言う。いつも山奥にいる彼にしてみたら、ルアンブラパーンは大都会だ。しかし、東京から訪れた散歩人の目にはどうみても「村」にしか見えないのであった。 町全体が世界遺産に指定されている。ふと目にした、とある高校数学の教科書にもルアンブラパーン様式の寺院の写真が載っている。(多分、屋根のカーブを見せて2次曲線あたりを示唆しているのだろう)そんな断片的な情報を得て、きっとすばらしい建築物があるに違いない、と思い込んで行ったのがまずかった。町について寺の装飾などを細かくみていると、なんとなく雑な気もするし、歴史を示す博物館の展示品もぶっきらぼうである。国内法で保護を受けていることが世界遺産として登録される前提となるのだが、建造物や物品自体を保護しようとしているようには見えない。町をどのように保護しているというのだろう?ラオス政府のルアンブラパーンに対する政策を知らないわたくしは、あくまで感想レベルのことしかいえないのだが、ちょっと拍子抜けしたのだ。 正確にわたくしの心情を言えば、建築物に期待を持ちすぎていただけなのだ。実際、町を歩いたり、辺りを見渡せる丘に上ったりして、ジャングルの中に小ぢんまりと整った町があることを感じると、なんとも言われぬ心持をしたことは確かなのだから、がっかりしたわけではない。 町自体はコンパクトで歩きやすく、人間のサイズにフィットしている。のんびりした雰囲気は保存に足るものだと思う。この雰囲気を求めてか、白い肌をした若い旅人も目立つ。2本の川に挟まれた細い土地が中心街。目抜き道路は2本半。さらっと歩くだけなら2時間もあれば、一周できる規模である。ぐるっと巡る間に、離しかけられること数回。金色とえんじ色が美しいお堂の前に座って、こちらを見て、ニコニコしている若い僧侶。英語や日本語の練習をしたいためか、何かと質問してくる。こちらも時間は有り余っているから、なんのかんのとおしゃべりする。 そしてこの小さい町をぐるぐると巡ると、何度も同じところを通ることになり、気に入ったコーヒーショップでコーヒーを幾度と飲むことにする。まるで東京にいるのと同じではないか! ふらっと裏道に入ると、舗装はされておらず、雨が降ったら、ぐちゃぐちゃになりそう。そのせいか、町を走るバイクのスピードはゆっくり。2人乗り、家族4人乗り、なんでもありだ。家は網代の壁でできた高床式のものからブロックで作られた近代的なものまで。衛星アンテナを持つ家も多い。 メコン川岸では明日のボート客を待つ男たちが客引きをしている。もちろん、わたくしたちも明日は川下りをしたいのだ。ゆるやかな流れを、風を感じたいと思う。 1日歩き、ビエンチャンで食べて気に入った麺を注文する。調味料と山に盛られた野草を自由に入れる。葉っぱに虫がいるのは片目をつぶり、むしゃむしゃと食べる。その足で薬草サウナに入ればもう最高。体調がよくなったような気がする。 スコールで温度が下がった夜の街は少し静か。水溜りをよけながら、ぺたぺたと音をさせながら、宿へ向かう頃には、この町が好きになっていた。魔法にかけられたようだ。 |