萬亀眼鏡の東京散歩
「富士を見たがるスワンちゃん」 飯森好絵 8月12日 早朝4時に新宿発。河口湖についたのは朝7時すぎ。空は暑くなりそうな一日を予感させる青さだ。風はすずしい。いったんは外に出たものの、今まで快調に飛ばしてきたドライバーは実は徹夜明け。目的地に着くや否や、「もう、だめ」と眠りに落ちた。 その日の予定は、河口湖から御殿場、箱根を抜け、真鶴に出る、というもの。彼が回復しなければ、この先は動けない。というわけで、もう1人の同乗者と私はふらふらと湖の周りを歩いていた。 その日の本当の目的は廃墟めぐり。「若い人の間で廃墟がブームである」と新聞にすら書かれる昨今。関連ウェブサイトは大賑わいだし、書籍もたくさん出ている。昔から廃墟が好きで廃墟の本の制作にも関わっている本日の案内人は、最近の廃墟ブームに違和感を覚え、異なる切り口で廃墟を語りたい、と新たな書籍の出版を目論んでいる。そして、廃墟の面白さを「散歩人」に伝えたいとわたくしを誘い出してくれたのだ。 廃墟の話は別に書くことにして、話題は河口湖だ。 湖の縁には釣り人が糸を垂れている。それを眺めていると、すでに朝からお酒を飲んで気持ちよくなっているおじさんが声をかけてくる。 「つれているかい」 わたくしたちのことを釣り人の後方部隊だと思ったようだ。ただ単に時間をつぶすために、ここにいるのと、釣りをするのとたいしてかわらないが、何もないと手持ち無沙汰である。そんな2人の目に飛び込んだのは白鳥を模したボート、スワンが1羽。 「あれに乗ろうよ」 近いと思って歩いたが、ボート乗り場は案外遠い。しかも、ボート管理事務所がどこにいるのかもわからない。あたりをうろうろしていると、よく日に焼けたおじさんがわたくしたちを発見する。 「ボートに乗りたいの? モーター?」 「いえ、あのスワンの・・・」 「あ、あれね。風の強い日は出さないんだけど、今日は静かだしねぇ。いいよ。本当は30分なんだけど、女の人だから、1時間にしてあげるよ。」 あまり乗り手がいなそうな雰囲気のスワンちゃんに、おじさんが渡してくれた日傘を片手にさっそく乗り込んだ。足こぎで前に漕げば前進、後ろにこげば後退する。ぐいぐいと2人でペダルを踏む。湖岸が遠くなる。後ろを振り向くと、おじさんがまだこちらを見ていて、手を振ってくれる。 そして、ボート乗り場のおじさんの言を信じるのであれば、「いつもは雲に隠れてしまい、なかなか見えない」という富士山と対面する。こぎ手2人のバランスが悪いのか、なぜか、スワンは富士山のほうを向いてしまう。雲ひとつなく、富士山がきれいに見える。緑の富士だ。今思うと、写真を撮っておけばよかったと思うほどの姿であった。 方向転換し、湖の奥へと進む。湖に散らばるボート上では、位置を定め、一心不乱に水面をにらみつける釣り人がいる。その脇で、図体の大きい、わたくしたちのかわいいスワンはゆらゆらと揺れながら、進んでいく。モーターボートに近づかなくても、横波に襲われれば、首をふらふらしながら、転覆しそうに揺れる。風の強い日には出さないはずだ。とにかく、ちょっとした刺激に反応するのだ。 そして、奥に進んだつもりで足を止めると、すぐに流され、富士山の正面に連れ戻され、なぜか富士山のほうを向いてしまう。まるで磁石にすいつけられる釘のようである。全速力でこいで、ももの筋肉に多少疲れを感じ、ぐんぐん進むことをあきらめた2人は富士山を眺めることにする。 日が高くなってきて、じりじりと肌を焼き始める。約束の1時間もそろそろ来る。ドライバーも目が覚めたのではないか、という気になってくる。スワンは相変わらず、未練がましく、富士山のほうに顔を向けているが、2人はハンドルを回し、湖岸にむけ、ペダルを再度踏み始めた。 ボート乗り場では、笑顔でおじさんが迎えてくれ、次に向かうべき観光地を指南してくれた。わたくしたちは、河口湖観光に来たわけではなく、つぶれた旅館やホテルなんぞに興味があるとはとても言えず、パンフレットを受け取った。 そして、車の中、ドライバーはまだ寝ていた。ガラスをノックすると、急に身を起こし、運転体制に入る。結局、彼は、河口湖に近づくことなく、次の目的地に向かった。 |
「土手の夏休み」
8月19日 朝のラッシュ時、いつもはすし詰めの山手線がなぜか、がら空き。寝ぼけ頭をもしゃもしゃとかきむしり一考え。そうだ!夏休みだ。お盆で東京に人がいないのだ。ゆうゆうと駅を歩く。いつもは押し倒されそうになったり、肩がぶつかったりする勢いなのに、今日は別だ。 なんて、ステキだ!と思ったのもつかの間。ということは、世間の人々はお休みで遊びに出かけているということではないか、と仕事へ向かう我が身をうらみたくなる。案の定、オフィスには人がいない。わたくしの机の上には、仕上げてしまいたいあれやこれやが山とある。早く済ませるぞと意気込み、お出かけの計画を立てる。 そして、迎えた土曜日。朝から涼しい風が吹き、真夏というのに、歩きやすい天候だ。向かう先は多摩川。先週来から、アザラシが現れたとかで、話題の丸子橋近辺ではなく、六郷土手だ。夏休みに川で遊ぶ雰囲気を持つのもよいかもしれないと今回の散歩の目的地に定めたのだが、六郷にしたのにはもう1つ、理由がある。 六郷には水門があるのだ。昭和6年に作られた煉瓦造りの水門。前から見に行こうと思っていたものだ。 京急線雑色駅を降りる。駅前はアーケード。そばやアイスクリーム、おやつにつまみたいもの色々が目に入る。アーケードを抜けると、水門通り商店街。両脇に味わいのある店が連なる。お盆なので、閉まっている店もあるが、なかなかのにぎわいである。 そして、見えてきたのが、公園。六郷水門のある場所は、六郷用水の排水口で、公園や水門通り商店街は、元々、用水であったが、現在は暗渠となている。この公園の入り口には、六郷水門をかたどった公衆トイレがあり、中の明かりは船仕様だ。煉瓦敷きに見せる公園を水の先に進むと東屋がある。水上にはボートが2隻、そして、目の前には水門。木に覆われ、本体はまだ、見えない。 土手に上がる階段を一段一段上っていると、全体がだんだん見えてくる。見えた!角が丸く、鬼の角のようなとんがりがついている。 この鬼の角のようなものは、ゲート扉の両端だという。水門の裏側には六郷町(かつてのこの地の名称)のマークがある。郷の字の周りに四角が並んでいる。六郷だから、6つか、と思って数えてみると9つ。帰ってから本をみるとロが9つでロク、郷と合わせて「ろくごう」だそうだ。 水門の下では父親と子供たちが楽しげに釣りをしている。覗いてみると案外、魚がいるものだ。ゴミが散乱し、きれいとはいえないものの、魚はまだ生きていられるようだ。雑草がぼうぼうに生える河川敷をのっしのっしと歩く。のび放題の草がむっしゃむっしゃと音を立てる。むっと草いきれがする。太陽が腕を焼くような気がする。ようやく、夏休みの感覚がやってきた。振り返ると、マンションに囲まれて、水門は身丈の小さい王様のように見えてきた。川の方に目をやると、雲が遠くにたなびき、夏の日差しを隠し始める。夕立が来るかしら、と思い、汗を流すために、天然温泉に出かけることにする。蒲田には温泉があるのだ。黒湯といって、コーヒーのような色をした鉱泉である。ひとっ風呂浴びて、呑川で缶ビールを傾ければ、風が秋の気配。もう、夏は終わりに近い。夏休みはもうじきおしまい。寂しさを感じながら、蒲田を去る。あと何回、夏休み気分を今年は味わえるだろう。宿題を済ませていない小学生のような気持ちになりながら、家路につく。まだ、夏は終わらない。 |
「釣りと散歩」
9月30日 わたくしの旅仲間である建築家の「ボス」が運転する車は快調に走る。ボスの相棒、ボヘミアンのロックンローラー「詩人」は回転数のおかしなラジカセに60、70年代ポップスを詰め込んで満足そうに後部座席に座る。そして彼ら曰くワーカホリックのわたくしは回りの風景を見ながら時々居眠り。年齢層も異なり、傍目から見たらよくわからない関係の3人組みが向かうは山形県酒田市。北前船の拠点として栄えた港町だ。こういう町には、見所がいっぱいある。いつもなら、そのひとつひとつを見て歩くのだが、今回は調子が違う。目的は唯一つ、釣りなのだ。 「庄内日報、もう取ってないのか?」ロックンローラー詩人は、いつも聞くアクセントと少し異なる調子で、舞踊のお師匠である父君に聞く。強い庄内弁で話す人で、わたくしは、言っていることの半分もわからず、ただ笑顔でいるしかなく、差し出された新聞を見て、まだ取っているということを言ったのだなぁ、と理解した。庄内日報で何をするかといえば、満潮時刻を調べるのだ。「4時くらいが勝負か」そうつぶやくとロックンローラー詩人は、すっと立ち上がり、ギターを片手に作詞を始めた。 そして、待ちに待っての出発。夏の強い日差しを受けて、向かうは北港だ。灯台の下の影に入ると風が涼しく、案外過ごしやすい。日曜日ということもあり、結構な人出である。ベストスポットには先客がいたが、その隣に入れてもらうことにする。足元を覗くと水面は低く、足がすくむ。よく目を凝らすと銀色に光るものが動く。魚がいるのだ。 釣り人のボスと詩人はいそいそと準備をすませ、先端から離れ、テトラポットを飛び回り、釣り糸を垂れる。わたくしは、どうもにょろにょろとした虫を手づかみできず、一人黙々とこませを詰め込み、灯台の下で錘を遠くに投げることを繰り返す。灯台は小さい白いタイル張りで、かわいらしい形をしていた。そのまわりをぐるりとコンクリートで囲まれ、ちょこんと腰掛けられる階段がある。その下にこませを置く。高所恐怖症で普段なら立っていられないところを釣竿を持つと平気でいられるのが不思議だ。何度も「落ちるなよ、ここで落ちても助けられないぞ。気をつけろよ」と詩人から声をかけられたところを見ると、かなり、前のめりでいたに違いない。集中力だけは人並みにあるので、2時間ほど、詰めては投げ、詰めては投げ、という単調作業を繰り返す。釣れるのはサヨリとシマダイ。サヨリは長細く、とがった口先が特徴。腹を割くと中が黒く、腹黒い人のことを「サヨリのようだね」と言う人もいるとか。シマダイは頭を横にして縦じまが入る。これは食べないので、釣れてもすぐに放す。 辺りを見回すと、夕方になって家族連れが帰っていくようで人が減ってきた。すると何やらわたくしの手元が重たくなる。アジが大量にやってきたのだ。「今だ!」と詩人は言い、ボス、詩人、わたくしの3人は並んで釣る。こませを入れ替える時間がもったいないからとぎゅうぎゅうに詰め込み、投げ入れる。あっという間に手ごたえがある。引き上げると3尾のアジ。それからの30分はそんな調子で、面白いくらいに魚がかかる。釣る、というよりも、獲るという感じである。そうこうするうちに、クーラーボックスはいっぱいになる。 日が沈んできて、漁船が港に帰ってきた。波がしぶきを上げている。ふっとつき物が落ちるように、魚が反応しなくなった。そろそろ潮が引いてきたのだそうだ。なんとも、不思議な時間だった。何にも考えない、ただ、水面をにらみながら、竿を動かすということが面白かった。それに大量のおまけがついてきた。刺身、煮付け、フライ、とその晩の食卓はにぎやかだったことは言うまでもない。 これから釣りを始めようと思う、と言ったら、数人から同じような言葉が返ってきた。 「『1時間幸せになりたかったら酒を飲みなさい。3日幸せになりたかったら豚をつぶして食べなさい。1週間幸せになりたかったら結婚しなさい。永遠に幸せになりたかったら釣りを覚えなさい』というのがあるよ。いいんじゃない。」人によって日数とすることが多少異なるが、釣りが一生楽しむのにふさわしい事柄であることは一致している。ひとつ楽しいことが増えた。 「鎌倉淑女」 10月7日 お散歩仲間から、いっしょに高校時代の先生を訪問しようと誘われた。着物を着て鎌倉を散歩しよう、というオプションつき。とても魅力的な話である。どこに断る理由があろうか。その友人と彼女のいとこ、そしてわたくしは鎌倉へでかけることにした。 先生のお宅は鎌倉駅からすぐ。ドアを開けると、笑顔で迎えてくれる。わたくしは初対面だったのだが、まるで旧知の友のように迎え入れてくださった。体育を教えていらしたそうで、背筋が伸び、笑顔がステキな方だ。 さっそく、先生が用意してくださった着物の中から、着るものを選び始める。色の白い友人はグレーを帯びた桃色に、紫や赤が散る着物を選び、顔立ちがはっきりしている友人は鮮やかな朱色の着物を着ることにした。わたくしは、家から持っていったもみじ柄の着物に、真っ赤な帯。母の箪笥のなかや、祖母の茶箱を覗き込み、名称もわからないまま、着物を着るのに必要だろうと思われる一式を大きなバッグに詰めてきたのだ。それら、着物の下に着るものどもの説明を受け、ふむふむ、と神妙にうなずく3人。 さっそく、着物を広げる。布を重ねる。紐を巻く、また重ねる。体を固める。腰痛もちのわたくしは、着物の帯で体を支えられ、非常に楽になる。着物を自分で着るのは初めてだ。もちろん、今回だって、完全に一人で着たわけではない。後ろのしわを直してもらったり、帯を締めるところをお任せしたりした。ただ、今までは、立っていると、ぐるぐる巻きにされて、ハイ出来上がり、であったのだから、自分で締め付けた分だけ、前進したわけだ。 外に出ると、とろんとした天気だ。暑からず、寒からず。曇った空は、葛餅のような色をしている。雨が降らないうちに、一回り回ってみましょう! おめかし済みの4人は、いそいそと寶戒寺へ向かう。萩の花が有名なお寺である。ちょうど満開で、クリーム色や薄いピンク色の花をつけた細い枝が垂れ込んでいる。ほそい枝をかき分け、かき分け中に進む。お寺は結構な賑わいだ。ちょうどお彼岸に近いこともあり、お墓参りも多そうである。時折、真っ赤な彼岸花が見え、白と赤のコントラストが美しい。 お寺をぐるりと回った後は、先生が散歩をしているときに見つけて、とても気に入っているお宅を見に行く。鎌倉は昔からの建物が多く、立派なお宅も多い。そのなかでも特にステキな和館だという。よそのおうちの前で騒ぐのはご法度。家を眺めているのを感じられないように、静かに何気なく通る。木造の2階建てで、2階部分の縁側には、ぐるりとしゃれたデザインの木枠に、まがりガラスの窓がはめられている。庭には松が植えられているようで、塀から頭がのぞく。確かにステキなお宅である。家の人に気づかれないように、先生は門の前で写真を撮ることを決行する。これで、憧れの家に住んだ気持ちになれただろうか。 その足で、先生がパートに出ているというトンカツ屋に出かけた。散歩の後の空いたお腹をかかえて、着物のままでビールを3本も開けながら、すっかり、フライを平らげる。着物を着て、しとやかな淑女になったつもりでも、中身はそうそう変わらない。 |
「昭和2年―平成14年」
12月2日 静かな日曜日の午後。永代通りを茅場町から歩く。証券会社が多いこのあたり、日曜日の午後に人通りはほとんどない。永代通りもただ、だだっ広く、車もそれは、それは、スムーズに走っている。永代橋でしばし休憩。川を背に佃の高層マンションを眺める。いつみても不思議な気持ちになる。 目指す食糧ビルはマンションに生まれ変わる。通りすがりに上を見上げ、きっ と不思議な気持ちになるのだろう。ここに前は何があったかしら?と。 食糧ビルは「佐賀町エギジビットスペース」としてギャラリーとして使われた り、映画やドラマのロケでよく使われているから、よく知っている人も多いだろ う。1927年に渡辺虎一という人の設計で米穀専門市場として作られたもの だ。わたくしの率直な印象としては洗練されていないような気がするのだが、 アーチが連なり、ずん胴なコラムが並んでいるレトロな感じがなかなかキュート である、とも言える。ビルの東側にある、屋上に上がる階段室の丸みが外から見 るとちょっとしたアクセントになっていて面白い。そんなことを見ながら私の横 を通り過ぎたのは、1人の老人と自転車に乗った主婦のみ。まったく静かなもの だ。 ビルの中に入っていた食堂はいすをテーブルの上に載せ、備品を外に搬出して いた。そして、手書きの張り紙には、ビルを取り壊しのために店を閉めることを 告げる文章が書かれていた。業務用の油の缶が転がっていた。 そして、その何週間か後、友人が行きたいと言うので、食糧ビルディング最後の イベント「エモーショナル・サイト」最終日に行ってみた。そして驚いたのは人 の数。イベント力というのはあるのだな、と口をあんぐりしながら中に入った。 人気アーティストの部屋には行列ができているくらいだ。友人は「一建物が壊さ れる、といってこれだけ人が集まるんだからすごいよ。これが、東京なんだよ ね。」と言った。彼女は仕事でイベントを開催することもあるそうだが、地方で はまず、これだけの若い人が集まらないそうだ。 壁がはがれているところあり、展示会場としてきれいに整備されているところあ り、つい最近まで執務室として使われていたところだろう、と思わせるところあ り、ビルの中を堪能できる仕掛けになっていた。屋上に上ると、暗くてよく分か らなかったが、お稲荷さんらしき社が。そして、視線をずらせば永代橋がライト アップされている。中庭を見下ろすベランダのカーブが微妙に崩れていて、面白 い。 とビルのことを書いてはいるが、人が多くて、ゆっくりもしていられず、さっさ と出てしまったのが本当のところ。けれど、多くの人に見納めをされて、食糧ビ ルは壊される。誰にも省みられず壊されていく建物が多い中、悪くない最期だっ たのかもしれない。 「19歳の奈良」 2003年2月24日 雲がどんよりと低く垂れ込め、冬を強く感じる。これは寒いなぁ、と手袋をはめ、奈良公園を横目に、会議を開催するホテルへ急ぐ。月に2度ほど、京都や大阪で編集会議を行なうのだが、今回はめずらしく奈良で開催することになった。久しぶりに奈良に行く、という興奮と、日程の関係上、奈良で散歩ができる予感がして、いつも感じる会議前の重苦しい気持ちが少し、軽くなったような気がしたのもつかのま、余りの寒さに背は丸まるばかりである。杞憂はいつも杞憂に終わる。そして、仕事は無事終わり、散歩も楽しくできる。これが心配性の日常だ。 そして、翌朝、念願の奈良散歩である。奈良はいつ行ってものんびりとした良い気持ちになる。けばけばしさがないところがそういう気持ちを引き出すのだろう。前日のどんより雲がどこかに行ってしまい、青空がみえ、気温も上がったようだ。見るところがいっぱいあって、どこにいっても満足するだろうが、名物の柿の葉寿司を購入していると、なんとなく、学生時代に歩いたコースを改めて回ろうという気になった。 まずは近鉄奈良駅の隣の新大宮駅で降りる。そこから、向かうは海龍王寺。門をくぐると見える土塀は相変わらず少々崩れ、小さい戸口には小さい受付があり、親切そうな若い男が座っている。こんにちは、と声をかけ、拝観料を渡して入る。人は誰もいない。開けっ放しにされた本堂に、いろいろなものが転がっている雰囲気も変わっていない。「重要文化財がごろん」とほったらかしにされているという感想をもった記憶がよみがえる。あのときも自分たちのほかには人がいなかった。絨毯の敷かれたお堂に上がり、なにやら、いろんなものを眺めた。そして、何かを持って帰っても分からないね、と笑ったものだ。と現在、回りを見回すと、警備会社のステッカーが貼ってある。無造作に並べているだけの無邪気さが許されないのは当然だろう。この寺には国宝があるのだ。西金堂の中に配置されている五重塔の模型で、これは、天平時代の建築技法をよく伝えるものとして国宝に指定されている。それだって、格子ははめてあるものの、開けっ放しの堂に置かれてあるのだから、ガラスケースに入れて過保護にされているものとはちょっと違う。 しばらくは格子に前のめりになって、塔を眺めていたのだが、塔の白壁が、がりがりと釘か何かで削られたようになっている表面を見るにつれ、昔は人が自由に触れるようにしていたのかもしれないなぁと思うと、この格子も邪魔に感じられ、興ざめしてその場を離れた。 次の目的地は法華寺である。ここはあくまでも、おまけ的な気持ちで訪れる。千人の垢を流し、膿を吸い取った光明皇后が始めた由緒ある国分尼寺なので、「おまけ」は失礼なのだが、由緒と好みは別物なのだ。 そして、平城宮跡をふらふらと歩く。日の光がやわらかく、暖かい。平城宮跡の向こうには、学生時代には気づかなかったのだが、昔ながらの民家を望むこともできる。ここも散歩道として通るだけ。さまざまな基壇をたどったり、資料館を見たりすることもできるので、ここだけでもかなり楽しめるのだが、ここも通り過ぎる。 なぜなら、わたくしの最大の目的は西大寺駅を越えた先にある秋篠寺にあるからだ。そこにつくまでの道はワープしないまでも、関心ごとから外れているのだから、さっさと通ることを許して欲しい。 目的の秋篠寺には、わたくしが最も美しい像の一つだと信じている伎芸天がある。ふくよかな顔にくらくらする。脇から暗い本堂に入る。一番左端にあるのが伎芸天だ。誰も入ってこない。まずは、遠くから、壁際に置かれている長椅子に座り、じっくりと拝む。重たい荷物を椅子に置き、像に近づく。右から左から眺めつくす。目が顔の線を追う。口の端、小鼻、まぶた、そして頬のふくらみ・・・。いくら見ていても飽きない。伎芸天は芸事を精進しようとする人の祈願を受ける。19歳のときは、美術関係の何かに通じようとお守りを買い、今回はリコーダーをマスターしようとお守りを買った。そして、今では美術とはちっとも関係ない分野で生きていることに改めて気づく。お寺や像は変わらない、ようにわたくしの目には見える。わたくしの本質も変わらない、はずだ。でも、何かが違う、と思った午後だった。 この旅の後、わたくしは、病院を訪ね、要自宅療養の診断書をもらった。自分を見つめなおす第一歩が実は奈良から始まっていたのだ。19歳の夏も憂鬱だった。 |
「昭和」で止まった町
3月3日 日本の近代化を語るとき、必ず登場する人物である渋沢栄一の出身地である深谷に行った。 深谷には「東京駅」がある。東京駅を作るのに使用された構造用の煉瓦は8332000個、外装に使われる化粧煉瓦は934500個。そのうちのほとんどが、深谷にある日本煉瓦會社(現・日本煉瓦株式会社)によって製造された。それを記念して、深谷駅は東京駅を模しているのである。最近のわたくしが追っているテーマの一つに近代化遺産があり、「煉瓦」に関するものはその中でも特に興味を持って見て回っているものだ。 日本煉瓦會社は深沢栄一の誘致によって深谷に設立され、ドイツ人技師ナスチェンテス・チーゼの指導により、日本人が煉瓦を焼いた。現存するホフマン窯は重要文化財に指定されている。ホフマン窯は、当時のハイテク機器とも言え、ドイツ人技師ホフマンが考案したものだ。真ん中に高い煙突が立ち、その周りをぐるりと窯が囲み、連続して煉瓦を焼くことができた。 本当は、この会社の資料館や、窯を見学したかったのだが、あいにく、土日祝日はお休みなので、深谷の町を一日堪能する会を持った。 奇怪な「東京駅」に出迎えられ、1996年に施行された「深谷市レンガのまちづくり条例」によって奨励金を交付されて作られたと思われるレンガ調建築を目にし、第一印象は、テーマパーク的なものを感じたのだが、町中に入って行き、旧中山道沿いの昔ながらの煉瓦建築を眺めていくにつれ、その印象は急に磁場に近づいた磁石のように、急回転した。 この町はかつて繁栄したのかもしれないが、現在は、普通の地方のさびれた町のように見える。何しろ、休日の午前中、店は開いているのに、町を歩いている人がいない。車が時折通るだけ。商店街には、スピーカーから流行の音楽が誰も聞いていないのに流れている。「昭和で時が止まった」、というのが今回の散歩のコピーとしてしっくりくるような、そんな町だ。 ようやく、昼過ぎになり、人が出てきた。商店街の喫茶店に入ると地元のおじさんたちの溜まり場になっていて、テーブルをまたがって、おしゃべりしたり、スポーツ新聞を読んだりとくつろいでいる。向かいの「草もち」と看板に書かれた菓子屋は、たいそう流行っていて、自転車に乗ったおばさん連れや、家族連れが続々とやってくる。 のんびりとした時間の流れに慣れてきた頃、町の魅力がしみじみと体にしみこんできた。 現在も現役で使われている煉瓦建築は旧街道にありがちな、カーブ沿いにひょいと現れる。有名な商店や酒屋の建築物は、いまどき、うだつまでも煉瓦つくりで、さすがによく手入れされている。そして、あちらこちらに、垂直なところがまるでない、少し崩れかけた煉瓦の家屋がちょこんと鎮座している。通りの脇には、人ひとりしか、通れないような、まるで私道のような細い道があり、その街灯にも、町の銭湯や菓子屋の宣伝が古めかしく書かれている。通りを一本入ったところの、現在は、使われていないと思われる木造の蚕種工場が時代がかっている。 わたくしは、タイムスリップしたような錯覚に陥った。正確に言えば、煉瓦製造や養蚕が花形産業だった時代や、高度成長期以前の昭和を知っているわけではない。多分、本やテレビでみた何かに似ている、と思ったのかもしれない。とにかく、わたくしが住んでいる東京や観光都市にない、何かを感じたのだ。地域資産である煉瓦建築がきちんと活用されていて、観光化されていない素朴さがきっとわたくしの心を捉えたのであろう。 |