雅楽
昨年暮れのある夜のこと。東京は五反田の坂道をひとり歩いていると、冷たくなっ た耳に、えもいわれぬメロディが響いてきた。優雅にして、繊細。それでいて力強い。 間違いない。雅楽だ。まさか、五反田の駅前で雅楽を聞くとは思わなかった。
時間はある。ちょっと寄っていくか。普段は雅楽を鑑賞する趣味などないのだが、 この日ばかりは、どうしたわけだろう。仕事が一段落したという余裕が、そうさせた のか。いや客観的に分析するなら、実際は酒に酔っていただけなのかもしれない。と にかく、突如耳にした雅楽に、思わず音楽評論家ぶりたくなった。
音のするほうへ近づくと、そこは黒山の人だかり。聞けば、なんでも雉子神社が主 催した特別公演だとか。東京都神社庁が協賛し、東京楽所が出演している。きれいな パンフレットを分けてもらうと、しばし雅びの響きに酔いしれた。
雅楽??それは、もっとも日本的な音楽でいながら、その実、もっとも国際的な音楽 といっていい。古代、お隣の中国から伝来したが、そのルーツは、はるか西。シルク ロードの彼方、インドや中央アジア、イラン、さらには西アジアにまで遡る。まさに ユーラシア大陸に響きわたる伝統音楽である。
後で知ったのだが、最近、巷では雅楽が静かなブームだという。先日も、民放のテ レビで雅楽を特集していたところを見ると、それは嘘ではないらしい。とりわけ雅楽 人気を高めているのが、ひとりの男の存在だ。
彼の名は東儀秀樹。宮内庁の式部職楽部で雅楽を学び、宮中儀式で雅楽の演奏を手 掛ける。宮内庁を退職した後は、フリーの雅楽師として多彩な音楽を披露。その甘い マスクから、雅楽界の貴公子として知られる。雑誌のモデルはもちろん、写真集まで 出たというから、彼の活躍は半端じゃない。そのへんの事情は、オヤジ連中よりも、 女性のほうがよく知っているのである。
しかし、そんな東儀秀樹ファンにも知らないことが、ひとつある。それはルーツで ある。雅楽同様、彼の先祖もまた、シルクロードを通って、はるばる日本にやってき た。彼の体を流れる血は、はるか遠い異国の民族につながっているのである。
雅楽界の名家「東儀氏」の始祖の名は「秦河勝」。6~7世紀、かの聖徳太子の側 近として仕えた人物である。秦河勝が建立した寺社は数多く、京都の太秦・広隆寺は 国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名である。
秦河勝には数多くの子供がおり、そのうちの4男と6男が秦東儀氏を名乗り、やが てたんに東儀氏と称すようになる。彼らは雅楽と舞踏に秀でており、聖徳太子が建立 した四天王寺で楽人として大成し、これが今日の東儀家へとつながっている。
このように、東儀氏は秦東儀氏であり、もとは秦氏であった。秦氏とは、古代日本 における殖産豪族であり、平安京を誘地及び建設までしたという驚異の集団である。 河内にある巨大古墳のほとんどは秦氏が造り上げたのである。
まさに、スーパー・テクノロジー集団であるが、その技術のルーツは朝鮮半島にあ る。4~5世紀、『古事記』や『日本書紀』によれば、第15代・応神天皇の時代、古 代朝鮮の百済から渡来してきたという。もっとも、正確にいうと、百済ではなく、新 羅及び伽耶という国からやってきた。さらに、その前は中国、西域、西アジア、はて は中東からやってきた遊牧民らしいのである。
しかして、その正体はというと、なんとユダヤ人なのだ。中東問題で揺れているイ スラエル、パレスチナ地方が秦氏の故郷なのである。しかも、彼らはたんなるユダヤ 人ではない。なんと、その祖先はイエス・キリストを信じた原始キリスト教徒だった のである。
キリスト教の教会ではオルガンや賛美歌を歌うが、雅楽もまた、やはり神社におい て演奏、奉納される。つまり、そうした神殿で音楽を奏でる風習はすべてユダヤから 来たのかもしれない。
古代イスラエルのメシアとして知られるダビデ王は竪琴の名手で、今でもユダヤ教 でハープといえば、ダビデの代名詞となっている。ダビデは中国では「大闢(ダビィ) 」と表記するのだが、これとそっくりなのが日本の「大辟(オオサケ)」である。漢 字というのは、偏を省略する場合が多く、これは大闢=ダビデのことに違いないとい うのが研究家の意見だ。
そんでもって、このダビデを祀っている大辟神社(現在は大酒神社)ってのが、京 都は太秦にある。建立したのは秦河勝であり、かつ自らが祭神になっている。そう、 東儀氏の祖先である。どうも日本にやってきたユダヤ人は、祖先からの風習をよほど 頑に守ってきたのだろう。彼らは長い長い旅の末、西アジアの音楽を日本へともって きた。それが今日の雅楽を生んだに違いない。
東儀秀樹氏は著書『雅楽』(集英社新書)の中で、こう書いている。
「僕はよくシルクロードを旅する。今、日本の雅楽で使っている楽器とまったく同じ ものはないが、どこにも同じような理屈の音楽があったり、形状の似た兄弟のような 楽器があったりする。これはしごく当然のことのように僕には思える」
中東のユダヤ人と日本人の顔は、まったく同じではないが、どこか似た兄弟のよう なものがある。東儀氏の祖先がシルクロードを旅してきたことを考えると、それは確 かに、しごく当然のことである??
時間はある。ちょっと寄っていくか。普段は雅楽を鑑賞する趣味などないのだが、 この日ばかりは、どうしたわけだろう。仕事が一段落したという余裕が、そうさせた のか。いや客観的に分析するなら、実際は酒に酔っていただけなのかもしれない。と にかく、突如耳にした雅楽に、思わず音楽評論家ぶりたくなった。
音のするほうへ近づくと、そこは黒山の人だかり。聞けば、なんでも雉子神社が主 催した特別公演だとか。東京都神社庁が協賛し、東京楽所が出演している。きれいな パンフレットを分けてもらうと、しばし雅びの響きに酔いしれた。
雅楽??それは、もっとも日本的な音楽でいながら、その実、もっとも国際的な音楽 といっていい。古代、お隣の中国から伝来したが、そのルーツは、はるか西。シルク ロードの彼方、インドや中央アジア、イラン、さらには西アジアにまで遡る。まさに ユーラシア大陸に響きわたる伝統音楽である。
後で知ったのだが、最近、巷では雅楽が静かなブームだという。先日も、民放のテ レビで雅楽を特集していたところを見ると、それは嘘ではないらしい。とりわけ雅楽 人気を高めているのが、ひとりの男の存在だ。
彼の名は東儀秀樹。宮内庁の式部職楽部で雅楽を学び、宮中儀式で雅楽の演奏を手 掛ける。宮内庁を退職した後は、フリーの雅楽師として多彩な音楽を披露。その甘い マスクから、雅楽界の貴公子として知られる。雑誌のモデルはもちろん、写真集まで 出たというから、彼の活躍は半端じゃない。そのへんの事情は、オヤジ連中よりも、 女性のほうがよく知っているのである。
しかし、そんな東儀秀樹ファンにも知らないことが、ひとつある。それはルーツで ある。雅楽同様、彼の先祖もまた、シルクロードを通って、はるばる日本にやってき た。彼の体を流れる血は、はるか遠い異国の民族につながっているのである。
雅楽界の名家「東儀氏」の始祖の名は「秦河勝」。6~7世紀、かの聖徳太子の側 近として仕えた人物である。秦河勝が建立した寺社は数多く、京都の太秦・広隆寺は 国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名である。
秦河勝には数多くの子供がおり、そのうちの4男と6男が秦東儀氏を名乗り、やが てたんに東儀氏と称すようになる。彼らは雅楽と舞踏に秀でており、聖徳太子が建立 した四天王寺で楽人として大成し、これが今日の東儀家へとつながっている。
このように、東儀氏は秦東儀氏であり、もとは秦氏であった。秦氏とは、古代日本 における殖産豪族であり、平安京を誘地及び建設までしたという驚異の集団である。 河内にある巨大古墳のほとんどは秦氏が造り上げたのである。
まさに、スーパー・テクノロジー集団であるが、その技術のルーツは朝鮮半島にあ る。4~5世紀、『古事記』や『日本書紀』によれば、第15代・応神天皇の時代、古 代朝鮮の百済から渡来してきたという。もっとも、正確にいうと、百済ではなく、新 羅及び伽耶という国からやってきた。さらに、その前は中国、西域、西アジア、はて は中東からやってきた遊牧民らしいのである。
しかして、その正体はというと、なんとユダヤ人なのだ。中東問題で揺れているイ スラエル、パレスチナ地方が秦氏の故郷なのである。しかも、彼らはたんなるユダヤ 人ではない。なんと、その祖先はイエス・キリストを信じた原始キリスト教徒だった のである。
キリスト教の教会ではオルガンや賛美歌を歌うが、雅楽もまた、やはり神社におい て演奏、奉納される。つまり、そうした神殿で音楽を奏でる風習はすべてユダヤから 来たのかもしれない。
古代イスラエルのメシアとして知られるダビデ王は竪琴の名手で、今でもユダヤ教 でハープといえば、ダビデの代名詞となっている。ダビデは中国では「大闢(ダビィ) 」と表記するのだが、これとそっくりなのが日本の「大辟(オオサケ)」である。漢 字というのは、偏を省略する場合が多く、これは大闢=ダビデのことに違いないとい うのが研究家の意見だ。
そんでもって、このダビデを祀っている大辟神社(現在は大酒神社)ってのが、京 都は太秦にある。建立したのは秦河勝であり、かつ自らが祭神になっている。そう、 東儀氏の祖先である。どうも日本にやってきたユダヤ人は、祖先からの風習をよほど 頑に守ってきたのだろう。彼らは長い長い旅の末、西アジアの音楽を日本へともって きた。それが今日の雅楽を生んだに違いない。
東儀秀樹氏は著書『雅楽』(集英社新書)の中で、こう書いている。
「僕はよくシルクロードを旅する。今、日本の雅楽で使っている楽器とまったく同じ ものはないが、どこにも同じような理屈の音楽があったり、形状の似た兄弟のような 楽器があったりする。これはしごく当然のことのように僕には思える」
中東のユダヤ人と日本人の顔は、まったく同じではないが、どこか似た兄弟のよう なものがある。東儀氏の祖先がシルクロードを旅してきたことを考えると、それは確 かに、しごく当然のことである??
忍者
先ごろ、ショーン・コネリーがイギリス王室からサーの称号を頂戴した。これで彼も、王侯貴族の一員である。日本人にとっては、あまりピンとこないかもしれ ないが、欧米社会における王侯貴族といえば、中世の騎士物語さながらの存在である。どこかの国の政治家のステイタスとは次元が違う。
だが、ショーン・コネリーといえば、だれもが思い浮かべるのは映画『007』シリーズに違いない。いうまでもなく、「007」とは、主人公のコードネー ム。えり抜きのイギリスの国際スパイという設定だ。もちろん、最高権力者はイギリス王室の長、エリザベス2世。彼は女王陛下のスパイである。
諜報活動は国際政治の必須条件であるが、イギリスの場合、国内はMI5、国外はMI6の担当となっている。これがアメリカになると、FBIとCIAである。ことCIAはスパイの代名詞といった感がある。
しかし、正直なところ、どこの国にもスパイはいる。旧ロシアのKGB、韓国のKCIA、日本の内閣調査室……と、国際政治の舞台裏では、幾多のエージェントが自らの任務を遂行すべく日夜、諜報活動に励んでいる。
なかでも、特筆すべきはモサドである。モサドとは、イスラエルの諜報機関で、その仕事は世界最高レベルというのが、国際評価である。混迷する中東情勢の なか、四国ほどの大きさしかないイスラエルが存続できるのも、モサドあってのこと。国際ジャーナリストとして有名な落合信彦氏の情報源がモサドであること は、よく知られている。
もっとも、身近なところでは、道端でアクセサリーなどを売っている外国人のなかに、モサドがいるのは、知る人ぞ知る事実である。日本人は、白人系の外人 はみなアメリカ人だと思いこむ傾向があるが、実際、彼らのほとんどはイスラエルのユダヤ人である。嘘だと思うなら、試しに「シャローム」と声をかけてみれ ばいい。機嫌がよければ、「シャローム」と返してくれるはずだ。
不思議なことに、彼らユダヤ人は、どういうわけか日本人に興味を抱いている。以前、山本七平ことイザヤ・ベン・ダサンが書いた『日本人とユダヤ人』とい う本が話題になったが、そこに記されているように、世界的に見ると、まったく違うタイプなのに、日本人とユダヤ人は似ている。とりわけ、その意識はユダヤ 人に強い。もちろん、すべてではないが、彼らは日本人の中に、はるか大昔に生き別れとなった兄弟たちがいると信じているのは事実である。
思えば、諜報活動は日本のお家芸である。代表格は、なんといっても、忍者。外国人の日本人に対するイメージのひとつが忍者であることは承知の通り。忍者は、まさに日本を代表する文化だと主張したいくらいだ。
忍者には伊賀流、甲賀流、戸隠流などいくつかあるが、忘れてはならないのは、なんといっても、服部半蔵だ。徳川家康に仕え、300年の江戸幕府の礎を築いた影の功労者である。現在でも、地下鉄の名前に残る半蔵門とは、彼の名前に由来する。
服部半蔵の出身は伊賀上野。そう、伊賀流の忍者である。実際、ご当地を訪れると、町の至るところに服部の名前を冠した店が目につく。伊賀の名家、服部氏 は古くから忍者を輩出した一族。伝説的な忍者である服部三蔵保長と百地三太夫、そして藤林長門、いわゆる「忍者三上忍」は、みな服部一族なのである。
服部氏は、その文字からして服飾に携わった連中である。記紀によれば、服部氏の祖先は、ふたつの系統がある。呉服氏と漢服氏である。いずれも、大陸から 服飾の技術を持ち込んだ渡来人である。呉と漢という文字から、中国系渡来人とされてきたが、最近では呉=クレは高句麗の略称である句麗、漢=アヤは伽耶諸 国のひとつ安耶だといわれる。早い話が、朝鮮系の渡来人だというわけだ。
そんでもって、具体的に、どこの何という渡来人かといえば、これがおもしろい。昔の服は機織りで作ったものである。古代において、機織りを専売特許としていた豪族は、ひとつ。一説に、機織りという名称「機」にあやかったともいわれるハタ氏、すなわち秦氏である。
服部半蔵ら、伊賀の服部氏が残した『伊乱記』には「服部氏の祖先は酒ノ君」と記されている。「酒ノ君」とは、記紀にも登場する秦氏の有名人「秦酒公」のこと。つまり、服部氏は秦氏。伊賀流忍者は、みな秦氏だったのである。
秦氏のハタは、ユダヤを意味するヘブライ語(アラム語)の「イエフダー」に由来し、これが訛化して「イヤハダ」となり、たんに「ハダ」「ハタ」と呼ばれるようになったと考えられている。つまり、秦氏とはユダヤ氏なのである。
となると、だ。忍者の服部氏が秦氏であったということは、同時にユダヤ人だったことを意味する。そう、忍者とはユダヤ人スパイなのだ。
一方、伊賀忍者と並び称される甲賀忍者だが、ここには直接、秦氏と結びつくような人物は今のところ見当たらない。が、甲賀という名称は、関東でこそ「コ ウガ」と濁るが、関西では「コウカ」と読む。もともと甲賀は鹿深氏に由来し、鹿深は「カフカ」と呼ばれていたらしい。カフカというと、現代実存主義文学 『変身』で有名なプラハの小説家フランツ・カフカを思い出すが、彼はユダヤ人だった。ひょっとすると、鹿深氏もまた、ユダヤ人だったのかもしれない。
このように、現代のイスラエルよろしく、日本では古代より、ユダヤ人がスパイ活動を行っていた。いうなれば、忍者とは日本版モサドだったのだ。
だが、ショーン・コネリーといえば、だれもが思い浮かべるのは映画『007』シリーズに違いない。いうまでもなく、「007」とは、主人公のコードネー ム。えり抜きのイギリスの国際スパイという設定だ。もちろん、最高権力者はイギリス王室の長、エリザベス2世。彼は女王陛下のスパイである。
諜報活動は国際政治の必須条件であるが、イギリスの場合、国内はMI5、国外はMI6の担当となっている。これがアメリカになると、FBIとCIAである。ことCIAはスパイの代名詞といった感がある。
しかし、正直なところ、どこの国にもスパイはいる。旧ロシアのKGB、韓国のKCIA、日本の内閣調査室……と、国際政治の舞台裏では、幾多のエージェントが自らの任務を遂行すべく日夜、諜報活動に励んでいる。
なかでも、特筆すべきはモサドである。モサドとは、イスラエルの諜報機関で、その仕事は世界最高レベルというのが、国際評価である。混迷する中東情勢の なか、四国ほどの大きさしかないイスラエルが存続できるのも、モサドあってのこと。国際ジャーナリストとして有名な落合信彦氏の情報源がモサドであること は、よく知られている。
もっとも、身近なところでは、道端でアクセサリーなどを売っている外国人のなかに、モサドがいるのは、知る人ぞ知る事実である。日本人は、白人系の外人 はみなアメリカ人だと思いこむ傾向があるが、実際、彼らのほとんどはイスラエルのユダヤ人である。嘘だと思うなら、試しに「シャローム」と声をかけてみれ ばいい。機嫌がよければ、「シャローム」と返してくれるはずだ。
不思議なことに、彼らユダヤ人は、どういうわけか日本人に興味を抱いている。以前、山本七平ことイザヤ・ベン・ダサンが書いた『日本人とユダヤ人』とい う本が話題になったが、そこに記されているように、世界的に見ると、まったく違うタイプなのに、日本人とユダヤ人は似ている。とりわけ、その意識はユダヤ 人に強い。もちろん、すべてではないが、彼らは日本人の中に、はるか大昔に生き別れとなった兄弟たちがいると信じているのは事実である。
思えば、諜報活動は日本のお家芸である。代表格は、なんといっても、忍者。外国人の日本人に対するイメージのひとつが忍者であることは承知の通り。忍者は、まさに日本を代表する文化だと主張したいくらいだ。
忍者には伊賀流、甲賀流、戸隠流などいくつかあるが、忘れてはならないのは、なんといっても、服部半蔵だ。徳川家康に仕え、300年の江戸幕府の礎を築いた影の功労者である。現在でも、地下鉄の名前に残る半蔵門とは、彼の名前に由来する。
服部半蔵の出身は伊賀上野。そう、伊賀流の忍者である。実際、ご当地を訪れると、町の至るところに服部の名前を冠した店が目につく。伊賀の名家、服部氏 は古くから忍者を輩出した一族。伝説的な忍者である服部三蔵保長と百地三太夫、そして藤林長門、いわゆる「忍者三上忍」は、みな服部一族なのである。
服部氏は、その文字からして服飾に携わった連中である。記紀によれば、服部氏の祖先は、ふたつの系統がある。呉服氏と漢服氏である。いずれも、大陸から 服飾の技術を持ち込んだ渡来人である。呉と漢という文字から、中国系渡来人とされてきたが、最近では呉=クレは高句麗の略称である句麗、漢=アヤは伽耶諸 国のひとつ安耶だといわれる。早い話が、朝鮮系の渡来人だというわけだ。
そんでもって、具体的に、どこの何という渡来人かといえば、これがおもしろい。昔の服は機織りで作ったものである。古代において、機織りを専売特許としていた豪族は、ひとつ。一説に、機織りという名称「機」にあやかったともいわれるハタ氏、すなわち秦氏である。
服部半蔵ら、伊賀の服部氏が残した『伊乱記』には「服部氏の祖先は酒ノ君」と記されている。「酒ノ君」とは、記紀にも登場する秦氏の有名人「秦酒公」のこと。つまり、服部氏は秦氏。伊賀流忍者は、みな秦氏だったのである。
秦氏のハタは、ユダヤを意味するヘブライ語(アラム語)の「イエフダー」に由来し、これが訛化して「イヤハダ」となり、たんに「ハダ」「ハタ」と呼ばれるようになったと考えられている。つまり、秦氏とはユダヤ氏なのである。
となると、だ。忍者の服部氏が秦氏であったということは、同時にユダヤ人だったことを意味する。そう、忍者とはユダヤ人スパイなのだ。
一方、伊賀忍者と並び称される甲賀忍者だが、ここには直接、秦氏と結びつくような人物は今のところ見当たらない。が、甲賀という名称は、関東でこそ「コ ウガ」と濁るが、関西では「コウカ」と読む。もともと甲賀は鹿深氏に由来し、鹿深は「カフカ」と呼ばれていたらしい。カフカというと、現代実存主義文学 『変身』で有名なプラハの小説家フランツ・カフカを思い出すが、彼はユダヤ人だった。ひょっとすると、鹿深氏もまた、ユダヤ人だったのかもしれない。
このように、現代のイスラエルよろしく、日本では古代より、ユダヤ人がスパイ活動を行っていた。いうなれば、忍者とは日本版モサドだったのだ。
鬼
子供が悪いことをしたとき、親は「こらっ!!」といって叱る。でも、この「こら」とは、いったい何だろう。「これはなんとまぁひどいことをしでかしたの か」の「これは」が「こりゃ」になり、さらに「こら」と訛化したのか。それとも「懲らしめるぞ」の「懲ら」なのか。実のところ、よくわからない。
でも、漫画で表現するとき、往々にして叱る親の頭には2本の角が描かれる。カラーの場合、角は決まって黄色というのが相場だ。いうまでもなく、これは子 供を威嚇する姿を鬼の角として表現したものである。角を描くことは、そのまま鬼を意味した。洒落っ気のある人なら、怒っている人を表現するのに、両手の人 指し指を立て、それを頭の上に掲げたりかもしれない。
はたして、これは偶然なか。ユダヤ人の言語であるヘブライ語で「コラ」というと、なんと「角」を意味するのである。アルファベット表記では「KRN」に なる。ちなみに、ヨーロッパでは、これが「ケルン」「ホルン」という言葉になる。鋭く尖った山として有名なスイスの「マッター・ホルン」は「角のような 山」という意味だ。
実をいうと、ヘブライ語の「KRN」に関してはおもしろい話があって、光を発するという意味の言葉も「KRN」なのだ。中世ヨーロッパの人々は、往々に して両者を混同。シナイ山から神の十戒石板を手にして降りてきた預言者モーセの頭が光っていたという部分を、なんとこともあろうか、頭に角があったと解釈 してしまった。そのため、ミケランジェロの作品をはじめとして、ヨーロッパのモーセ像には、しばしばふたつの角があるものが見受けられるというわけだ。
預言者が角のある鬼になってしまったとは、なんともお笑い種だが、よくよく考えてみると、これはただならない問題を抱えている。光を色で表現すれば、何 色だろう。蛍光灯は白、太陽は赤だが、サーチライトを例に出すまでもなく、多くは黄色ではないだろうか。まばゆい光を黄金で表現するのも、そこに黄色の要 素が見て取れるからにほかならない。先ほど、鬼の角が黄色だと述べたが、あるいはひょっとすると、そこには「光」という意味が込められているのではない か。つまり、古代の日本語においても、ヘブライ語同様、「角」と「光」は同じ言葉だった可能性が出てくるのだ。
そうなると、改めて問わずにはいらない。いったい「鬼」って何だ?
いうまでもなく「鬼」は日本語ではない。中国語である。「鬼」という漢字は、本来、死体の象形文字で、そこから死霊のような物の怪を指すようになった。ただし、日本でいう赤鬼・青鬼といったイメージは中国にはない。
日本の鬼のイメージは、だいたい次のような感じだ。まず上半身裸で、虎の腰巻き一丁。身体中の毛は濃く、癖のある頭髪はアフロ・ヘア、ボリュームたっぷ りのもみあげはお約束通りだ。髭はもとより、胸毛、脛毛にいたるまで、もう全身毛むくじゃら。そんでもあって、頭のてっぺんには1本ないしは2本の角が生 えている。
これは、もともと十二支を方位に当てはめたことに由来する。具体的に、北を「午」にして、方位を12分割すると、東北の方角は「丑」と「寅」に相当す る。ご存じ通り、最近流行りの風水でもよくいうように、東北は物の怪が出入りする方角で、これを「鬼門」と呼ぶ。そこで、鬼の図像的イメージとして、その まま「丑」と「寅」の特徴が割り当てられた。すなわち、鬼の体の上は丑=牛で、下は寅=虎。具体的に、頭には牛の角があり、腰には虎柄のパンツというスタ イルができあがったのだ。
日本の昔話では、とかく鬼が出てくる。なかでも有名なのが大江山の「酒呑童子」だ。その姿は巨大で、髪が赤い。子供のようなざんぎり頭のくせに、大酒を 呑むところから酒呑童子という名がある。ただし、童子といっても、性格は極めて残虐。人肉を食らい、生き血をすする、まさに鬼である。
酒呑童子に関しては、これまでいろいろな考察がされてきた。大和朝廷の支配に抵抗する、いわゆる「まつろわぬ人々」が妖怪変化として扱われてきたことか ら、鬼=先住民=縄文人という等式を立てる人もいる。確かに、毛むくじゃらで目が大きく、彫りが深い形質は縄文人のそれに近い。近年、縄文人が独特な山岳 信仰をもっていることが秋からになり、日本各地で人工的に整形されたピラミッドと呼ばれる遺跡の発見が相次いでいる。酒呑童子が住んでいた大江山はきれい な三角形の稜線を見せることでも有名で、地元の元伊勢皇太神宮の御神体となっている。事実、ここの宮司は、大江山を日本ピラミッドであると公言してはばか らない。
しかし、酒呑童子に関しては、そのまま鬼=先住民=縄文人という等式をそのまま当てはめることは適当ではない。
なぜなら、酒呑童子の描写は、あまりにも異人的すぎるからだ。鬼が先住民=縄文人ならば、もっと全国に酒呑童子がいても不思議ではない。縄文文化が色濃く残っている東北地方にこそ、酒呑童子の拠点があっていいはずだ。なのに、どうして丹波なのか。
丹波といっても、古代の丹波は現在の丹後と但馬を合わせた広大な地域を指した。ここは丹後半島の東西に極めて良好な湾があり、大陸との玄関口として大い に栄えた。今でこそ、日本海側を裏日本と呼ぶが、歴史的にいっても、こちらのほうが表日本なのだ。丹波には古来、大陸からの渡来人が多数やってきたのは事 実である。
さて、そうしたことを念頭に置くと、この酒呑童子、何やら外国人のような気がしないではないか。昭和初期、小川寿一氏は「大江山伝説考」の中で、酒呑童 子の描写が極めて西洋人に近いことに気づいた。西洋人は日本人よりも背が大きく、肉食をする。さらに、赤ワインを飲んでいる姿は、昔の日本人には生き血を 飲んでいるようにも見えたかも知れない。すなわち、酒呑童子の正体は、丹後に漂着した西洋人だったのではないかというのである。
これを受けて、戦後すぐ村上元三氏は酒呑童子とは、フランドルの貴公子で、宋から日本にやってくる際、船が難破して、丹後に漂着した西洋人。その名もシュタイン・ドッチという大仮説をぶちまけた。
謎学研究者として、これほどおもしろい話はない。なるほど、西洋人は肌が白いが、酒を飲むと赤ら顔になる。赤い毛にしても、ざんぎり頭にしても、さらには肉食、赤ワインと、何から何までぴったりだ。酒呑童子は、漂着して山賊になったドイツ系の西洋人に違いない。
??と、思ったのだが、しかし。おいおい、時代が合わないぞ。酒呑童子の説話が今日のようにできあがったのが、およそ南北朝時代。ざっと14世紀のことだ。が、その原型は古く、平安時代に遡ることは間違いない。
ヨーロッパが大航海時代を迎えるのは15世紀だから、本国から直接、日本に来た可能性は低い。しかも、当時はポルトガルとスペインが主体であって、ドイツ系の人間が極東までやってきたとは考えられない。
もっとも、だからといって可能性はゼロではない。人間のパワーとは凄いものである。三蔵法師を例に出すまでもなく、信念があれば、人間はどこまで行く。 少数でも、地球の果てまでやってきた連中はいるはずだ。なんといっても、アジアにはシルクロードという道がある。それを通って、はるばるやってきた連中が いた。酒呑童子とは、そうした人々の末裔ではなかったか。
酒呑童子の本名がシュタイン・ドッチだったかはわからない。が、興味が引かれるのは、「シュタイン」という言葉である。これはドイツ語で「石」を意味す る。石を名前にするのは変だなと思うかも知れないが、ユダヤ教やキリスト教問わず、『聖書』において「石」はメシアの象徴である。相対性理論で有名なアル ベルト・アインシュタインはユダヤ人であり、かつユダヤ教徒だったが、その「アインシュタイン」とは「1個の石」という意味。また、イエス・キリストの 12使徒のひとりペトロもまたユダヤ人であり、その名前は「岩」という意味である。欧米で「シュタイン」という言葉を名前にもつ人の多くは、ユダヤ人であ ることが多い。
その意味で、この酒呑童子。ひょっとしたら、ユダヤ人だったのかも知れない……。
でも、漫画で表現するとき、往々にして叱る親の頭には2本の角が描かれる。カラーの場合、角は決まって黄色というのが相場だ。いうまでもなく、これは子 供を威嚇する姿を鬼の角として表現したものである。角を描くことは、そのまま鬼を意味した。洒落っ気のある人なら、怒っている人を表現するのに、両手の人 指し指を立て、それを頭の上に掲げたりかもしれない。
はたして、これは偶然なか。ユダヤ人の言語であるヘブライ語で「コラ」というと、なんと「角」を意味するのである。アルファベット表記では「KRN」に なる。ちなみに、ヨーロッパでは、これが「ケルン」「ホルン」という言葉になる。鋭く尖った山として有名なスイスの「マッター・ホルン」は「角のような 山」という意味だ。
実をいうと、ヘブライ語の「KRN」に関してはおもしろい話があって、光を発するという意味の言葉も「KRN」なのだ。中世ヨーロッパの人々は、往々に して両者を混同。シナイ山から神の十戒石板を手にして降りてきた預言者モーセの頭が光っていたという部分を、なんとこともあろうか、頭に角があったと解釈 してしまった。そのため、ミケランジェロの作品をはじめとして、ヨーロッパのモーセ像には、しばしばふたつの角があるものが見受けられるというわけだ。
預言者が角のある鬼になってしまったとは、なんともお笑い種だが、よくよく考えてみると、これはただならない問題を抱えている。光を色で表現すれば、何 色だろう。蛍光灯は白、太陽は赤だが、サーチライトを例に出すまでもなく、多くは黄色ではないだろうか。まばゆい光を黄金で表現するのも、そこに黄色の要 素が見て取れるからにほかならない。先ほど、鬼の角が黄色だと述べたが、あるいはひょっとすると、そこには「光」という意味が込められているのではない か。つまり、古代の日本語においても、ヘブライ語同様、「角」と「光」は同じ言葉だった可能性が出てくるのだ。
そうなると、改めて問わずにはいらない。いったい「鬼」って何だ?
いうまでもなく「鬼」は日本語ではない。中国語である。「鬼」という漢字は、本来、死体の象形文字で、そこから死霊のような物の怪を指すようになった。ただし、日本でいう赤鬼・青鬼といったイメージは中国にはない。
日本の鬼のイメージは、だいたい次のような感じだ。まず上半身裸で、虎の腰巻き一丁。身体中の毛は濃く、癖のある頭髪はアフロ・ヘア、ボリュームたっぷ りのもみあげはお約束通りだ。髭はもとより、胸毛、脛毛にいたるまで、もう全身毛むくじゃら。そんでもあって、頭のてっぺんには1本ないしは2本の角が生 えている。
これは、もともと十二支を方位に当てはめたことに由来する。具体的に、北を「午」にして、方位を12分割すると、東北の方角は「丑」と「寅」に相当す る。ご存じ通り、最近流行りの風水でもよくいうように、東北は物の怪が出入りする方角で、これを「鬼門」と呼ぶ。そこで、鬼の図像的イメージとして、その まま「丑」と「寅」の特徴が割り当てられた。すなわち、鬼の体の上は丑=牛で、下は寅=虎。具体的に、頭には牛の角があり、腰には虎柄のパンツというスタ イルができあがったのだ。
日本の昔話では、とかく鬼が出てくる。なかでも有名なのが大江山の「酒呑童子」だ。その姿は巨大で、髪が赤い。子供のようなざんぎり頭のくせに、大酒を 呑むところから酒呑童子という名がある。ただし、童子といっても、性格は極めて残虐。人肉を食らい、生き血をすする、まさに鬼である。
酒呑童子に関しては、これまでいろいろな考察がされてきた。大和朝廷の支配に抵抗する、いわゆる「まつろわぬ人々」が妖怪変化として扱われてきたことか ら、鬼=先住民=縄文人という等式を立てる人もいる。確かに、毛むくじゃらで目が大きく、彫りが深い形質は縄文人のそれに近い。近年、縄文人が独特な山岳 信仰をもっていることが秋からになり、日本各地で人工的に整形されたピラミッドと呼ばれる遺跡の発見が相次いでいる。酒呑童子が住んでいた大江山はきれい な三角形の稜線を見せることでも有名で、地元の元伊勢皇太神宮の御神体となっている。事実、ここの宮司は、大江山を日本ピラミッドであると公言してはばか らない。
しかし、酒呑童子に関しては、そのまま鬼=先住民=縄文人という等式をそのまま当てはめることは適当ではない。
なぜなら、酒呑童子の描写は、あまりにも異人的すぎるからだ。鬼が先住民=縄文人ならば、もっと全国に酒呑童子がいても不思議ではない。縄文文化が色濃く残っている東北地方にこそ、酒呑童子の拠点があっていいはずだ。なのに、どうして丹波なのか。
丹波といっても、古代の丹波は現在の丹後と但馬を合わせた広大な地域を指した。ここは丹後半島の東西に極めて良好な湾があり、大陸との玄関口として大い に栄えた。今でこそ、日本海側を裏日本と呼ぶが、歴史的にいっても、こちらのほうが表日本なのだ。丹波には古来、大陸からの渡来人が多数やってきたのは事 実である。
さて、そうしたことを念頭に置くと、この酒呑童子、何やら外国人のような気がしないではないか。昭和初期、小川寿一氏は「大江山伝説考」の中で、酒呑童 子の描写が極めて西洋人に近いことに気づいた。西洋人は日本人よりも背が大きく、肉食をする。さらに、赤ワインを飲んでいる姿は、昔の日本人には生き血を 飲んでいるようにも見えたかも知れない。すなわち、酒呑童子の正体は、丹後に漂着した西洋人だったのではないかというのである。
これを受けて、戦後すぐ村上元三氏は酒呑童子とは、フランドルの貴公子で、宋から日本にやってくる際、船が難破して、丹後に漂着した西洋人。その名もシュタイン・ドッチという大仮説をぶちまけた。
謎学研究者として、これほどおもしろい話はない。なるほど、西洋人は肌が白いが、酒を飲むと赤ら顔になる。赤い毛にしても、ざんぎり頭にしても、さらには肉食、赤ワインと、何から何までぴったりだ。酒呑童子は、漂着して山賊になったドイツ系の西洋人に違いない。
??と、思ったのだが、しかし。おいおい、時代が合わないぞ。酒呑童子の説話が今日のようにできあがったのが、およそ南北朝時代。ざっと14世紀のことだ。が、その原型は古く、平安時代に遡ることは間違いない。
ヨーロッパが大航海時代を迎えるのは15世紀だから、本国から直接、日本に来た可能性は低い。しかも、当時はポルトガルとスペインが主体であって、ドイツ系の人間が極東までやってきたとは考えられない。
もっとも、だからといって可能性はゼロではない。人間のパワーとは凄いものである。三蔵法師を例に出すまでもなく、信念があれば、人間はどこまで行く。 少数でも、地球の果てまでやってきた連中はいるはずだ。なんといっても、アジアにはシルクロードという道がある。それを通って、はるばるやってきた連中が いた。酒呑童子とは、そうした人々の末裔ではなかったか。
酒呑童子の本名がシュタイン・ドッチだったかはわからない。が、興味が引かれるのは、「シュタイン」という言葉である。これはドイツ語で「石」を意味す る。石を名前にするのは変だなと思うかも知れないが、ユダヤ教やキリスト教問わず、『聖書』において「石」はメシアの象徴である。相対性理論で有名なアル ベルト・アインシュタインはユダヤ人であり、かつユダヤ教徒だったが、その「アインシュタイン」とは「1個の石」という意味。また、イエス・キリストの 12使徒のひとりペトロもまたユダヤ人であり、その名前は「岩」という意味である。欧米で「シュタイン」という言葉を名前にもつ人の多くは、ユダヤ人であ ることが多い。
その意味で、この酒呑童子。ひょっとしたら、ユダヤ人だったのかも知れない……。
鬼(後編)
酒呑童子の正体を解く鍵は、丹波という土地にある。ご当地を訪れるとわかるが、ここは日本における大陸の玄関口。とくに朝鮮半島からの行路としては、海流 からいって、非常に理想的な場所にある。例えば、朝鮮半島の東側から筏のような推進力のない船で出発すると、対馬海流に乗って、あっという間に北へ流され る。それが地形の関係で、日本列島に漂着するのは、きまって若狭湾一帯なのだ。反対に、ここから船出すると、今度は海流が能登半島にぶつかり、大きく円を 描きながら、今度は朝鮮半島の東海岸へと漂着する。すなわち、朝鮮半島と能登半島を両極に、ここはほぼ円形に潮が流れているのだ。
現代のようなディーゼルエンジンのなかった時代、船は潮流を最大限に利用するのが鉄則である。朝鮮半島からやってきた人々の多くは、ここ若狭湾にたどり 着いたに違いない。冬場、荒れる日本海でも、若狭湾に入ると、途端に波は静かになる。船乗りにとって、これほど理想的な湾はないのだ。
いつの日だったか、この若狭湾を中心に、丹後から能登半島一帯にある沿岸の神社を訪ね歩いたことがある。掲げられた神社の名前も聞き慣れないものなら、 その祭神もなじみがない。ススとか、コマ、アラなど、朝鮮語の響きに非常に近い。しかも、わけのわからない名前のくせに、その素性は決まって海幸・山幸彦 だという。早い話が、みな海神だといいたいのだ。海神を崇拝するからには、氏子たちは海人である。いうなれば、船乗りだ。彼らの祖先は、ほぼ間違いなく朝 鮮半島をはじめとする大陸からの渡来人とみて間違いない。
では、故郷は具体的にどこか。能登半島などには高句麗系がいくつかあるが、なんといっても多いのが新羅・伽耶系だ。朝鮮半島の南東部に位置するという地 理的な理由が大きいのだろう。若狭の原発銀座あたりにも、白城神社がある。もちろん、これは白城=シラギ=新羅である。察するに、かなりの新羅系の渡来人 がやってきていたに違いない。
酒呑童子の関係でいえば、重要なのが「気比神社」である。京都から若狭へ抜ける途中にあるのだが、ここの祭神の名は「ツヌガアラシト」。『日本書紀』に よると、第11代・垂仁天皇の時代、日本に渡来してきた大加羅の王子だという。大加羅とは伽耶のことである。伽耶の王子がツヌガアラシトである。ちなみ に、この「ツヌガ」が訛って、現在の「敦賀」という地名ができた。
さて、問題は王子の名前である。ツヌガアラシトというのは、どこか日本語くさい。で、その意味はというと、なんとこれが「角のある人」。額に角が2本あったのが、理由だという。想像するに、その容貌は、まさに鬼である。
となると、だ。丹波の酒呑童子のモデルってのも、ひょっとしたらツヌガアラシトにあるのではないだろうか。彼こそ、日本の鬼のモデルだったとすれば、これはなかなかおもしろい。というのも、ツヌガアラシトの別名として、天之日矛があるからだ。
『古事記』と『日本書紀』の記述を総合すると、その状況や行動から考えて、どうもツヌガアラシトなる人物と天之日矛が同一人物らしい。もっとも、天之日矛 のほうは、新羅からの渡来となっているが、伽耶が新羅に征服された歴史をかんがみるに、これは同じとみていい。学界では、ツヌガアラシト=天之日矛は、す でに定説となっている。
さて、問題はここからだ。天之日矛に関しては、古代史の世界でも注目されており、かねてからいろいろな学説が提出されている。そのなかで、注目したいの が、天之日矛とは、ひとりの人物の名前ではないという説である。どうも渡来人の集団を総称した名称だったらしい。このへんは、古代史の世界では名を知らぬ 者はいない喜田貞吉氏が細かく分析している。それによると、全国に散らばる天之日矛伝承のある地を調べていくと、それらはことごとく秦氏の拠点と一致する という。この事実をもって、喜田博士は、天之日矛の正体を「秦氏一族の総称」であると断言している。
ご存じの通り、秦氏はユダヤ人キリスト教徒である。彼らの総称が天之日矛であり、かつ酒呑童子のモデルだったとすれば、だ。ユダヤ人キリスト教徒と鬼との間に、いったいどんな関係があるというのだろうか。
鬼を西洋流に翻訳すれば、悪魔である。デビル、デーモンであり、魔王サタンのことである。それがユダヤ人キリスト教徒の名称と結びつくのは、いったい、 いかなる理由なのだろうか。正直、この問題については、いろいろ悩んだ。なかなか、解決の糸口が見えてこない。が、あるとき気づいたのだ。
秦氏、すなわちユダヤ人キリスト教徒たちの聖典である『新約聖書』には、こんな一節がある。ちょっと読んでほしい。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。
『取って食べなさい。これはわたしの体である』
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
『皆、この杯から飲みなさい。こへあ、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(「マタイによる福音書」第26章26~28節)
これはイエス・キリストが十字架に磔になる前夜、12使徒たちと食事をした場面である。ちょうど、この日はユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」に当たっており、彼らもまた、この祭りの食事をしていた。いわゆる「最後の晩餐」である。
おわかりのように、このなかでイエス・キリストはパンを自らの肉、杯に注がれた葡萄酒=ワインを自らの血だと述べている。これは神学的に深い意味があ る。ユダヤ教の伝統では、過ぎ越しの祭りのときは、子羊を殺し、その肉と血を食す。子羊は人間の罪の身代わりとなって死ぬのである。つまり、イエスはユダ ヤ教の伝統に沿って、自らが贖罪の子羊となり、十字架上で殺されたのである。
それゆえ、以後、キリスト教会では、ミサを行うとき、イエス・キリストの言葉通り、パンとワインを食して、十字架で磔になったことに心を止めるのだ。このあたりのことは、おそらくクリスチャンの方なら、常識であろう。
しかし、この意味を知らずに、ただミサだけ見たら、これほど不可解なものはない。パンは肉といい、ワインを血という。傍目には、人肉食である。悪意のあ る人なら、こうした状況を曲解し、キリスト教徒は人肉を食らう連中だといいふらすに違いない。実際、過去の歴史には、幾度となく、クリスチャンはカニバリ ストとして断罪されてきた。
酒呑童子伝説の根源に秦氏=ユダヤ人キリスト教徒が関与しているというなら、まさにミサの状況を曲解したのが伝説の始まりではなかったとは考えられない だろうか。つまり、こういうことだ。丹後にいた秦氏=ユダヤ人キリスト教徒たちは、伝統を守り、ミサを行っていた。ミサは儀式であり、キリスト教徒ではな い者を排除した形で行われる。それは、ある意味、秘密結社的な側面がある。
こうした状況を、まったくの部外者が見たら、その意味を理解できずに、恐怖するだろう。それも、ひとりふたりではない。まわりの異教徒たちからすれば、 ある意味、今のオウム真理教みたいなものだ。秦氏がミサにおけるパンがイエスの肉の象徴であり、ワインはイエスの象徴だといってみたところで、もとより、 彼らに理解できるはずがない。逆に、それが誤解されて、秦氏たちは人肉を食らい、生き血をすするという噂を生んだとしても、けっして不自然ではない。彼ら はいったはずだ。連中は「鬼」だ、と。
集団化した恐怖は暴力を生む。いつの日か、鬼退治という大儀名文のもと、酒呑童子=天之日矛=秦氏集団は、虐殺の憂き目にあったのではないだろうか。あたかも、西洋における魔女狩りのように……。
もし、この推理が正しいとしたら、酒呑童子の背景は想像以上に根が深いのかも知れない??。
現代のようなディーゼルエンジンのなかった時代、船は潮流を最大限に利用するのが鉄則である。朝鮮半島からやってきた人々の多くは、ここ若狭湾にたどり 着いたに違いない。冬場、荒れる日本海でも、若狭湾に入ると、途端に波は静かになる。船乗りにとって、これほど理想的な湾はないのだ。
いつの日だったか、この若狭湾を中心に、丹後から能登半島一帯にある沿岸の神社を訪ね歩いたことがある。掲げられた神社の名前も聞き慣れないものなら、 その祭神もなじみがない。ススとか、コマ、アラなど、朝鮮語の響きに非常に近い。しかも、わけのわからない名前のくせに、その素性は決まって海幸・山幸彦 だという。早い話が、みな海神だといいたいのだ。海神を崇拝するからには、氏子たちは海人である。いうなれば、船乗りだ。彼らの祖先は、ほぼ間違いなく朝 鮮半島をはじめとする大陸からの渡来人とみて間違いない。
では、故郷は具体的にどこか。能登半島などには高句麗系がいくつかあるが、なんといっても多いのが新羅・伽耶系だ。朝鮮半島の南東部に位置するという地 理的な理由が大きいのだろう。若狭の原発銀座あたりにも、白城神社がある。もちろん、これは白城=シラギ=新羅である。察するに、かなりの新羅系の渡来人 がやってきていたに違いない。
酒呑童子の関係でいえば、重要なのが「気比神社」である。京都から若狭へ抜ける途中にあるのだが、ここの祭神の名は「ツヌガアラシト」。『日本書紀』に よると、第11代・垂仁天皇の時代、日本に渡来してきた大加羅の王子だという。大加羅とは伽耶のことである。伽耶の王子がツヌガアラシトである。ちなみ に、この「ツヌガ」が訛って、現在の「敦賀」という地名ができた。
さて、問題は王子の名前である。ツヌガアラシトというのは、どこか日本語くさい。で、その意味はというと、なんとこれが「角のある人」。額に角が2本あったのが、理由だという。想像するに、その容貌は、まさに鬼である。
となると、だ。丹波の酒呑童子のモデルってのも、ひょっとしたらツヌガアラシトにあるのではないだろうか。彼こそ、日本の鬼のモデルだったとすれば、これはなかなかおもしろい。というのも、ツヌガアラシトの別名として、天之日矛があるからだ。
『古事記』と『日本書紀』の記述を総合すると、その状況や行動から考えて、どうもツヌガアラシトなる人物と天之日矛が同一人物らしい。もっとも、天之日矛 のほうは、新羅からの渡来となっているが、伽耶が新羅に征服された歴史をかんがみるに、これは同じとみていい。学界では、ツヌガアラシト=天之日矛は、す でに定説となっている。
さて、問題はここからだ。天之日矛に関しては、古代史の世界でも注目されており、かねてからいろいろな学説が提出されている。そのなかで、注目したいの が、天之日矛とは、ひとりの人物の名前ではないという説である。どうも渡来人の集団を総称した名称だったらしい。このへんは、古代史の世界では名を知らぬ 者はいない喜田貞吉氏が細かく分析している。それによると、全国に散らばる天之日矛伝承のある地を調べていくと、それらはことごとく秦氏の拠点と一致する という。この事実をもって、喜田博士は、天之日矛の正体を「秦氏一族の総称」であると断言している。
ご存じの通り、秦氏はユダヤ人キリスト教徒である。彼らの総称が天之日矛であり、かつ酒呑童子のモデルだったとすれば、だ。ユダヤ人キリスト教徒と鬼との間に、いったいどんな関係があるというのだろうか。
鬼を西洋流に翻訳すれば、悪魔である。デビル、デーモンであり、魔王サタンのことである。それがユダヤ人キリスト教徒の名称と結びつくのは、いったい、 いかなる理由なのだろうか。正直、この問題については、いろいろ悩んだ。なかなか、解決の糸口が見えてこない。が、あるとき気づいたのだ。
秦氏、すなわちユダヤ人キリスト教徒たちの聖典である『新約聖書』には、こんな一節がある。ちょっと読んでほしい。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。
『取って食べなさい。これはわたしの体である』
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
『皆、この杯から飲みなさい。こへあ、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(「マタイによる福音書」第26章26~28節)
これはイエス・キリストが十字架に磔になる前夜、12使徒たちと食事をした場面である。ちょうど、この日はユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」に当たっており、彼らもまた、この祭りの食事をしていた。いわゆる「最後の晩餐」である。
おわかりのように、このなかでイエス・キリストはパンを自らの肉、杯に注がれた葡萄酒=ワインを自らの血だと述べている。これは神学的に深い意味があ る。ユダヤ教の伝統では、過ぎ越しの祭りのときは、子羊を殺し、その肉と血を食す。子羊は人間の罪の身代わりとなって死ぬのである。つまり、イエスはユダ ヤ教の伝統に沿って、自らが贖罪の子羊となり、十字架上で殺されたのである。
それゆえ、以後、キリスト教会では、ミサを行うとき、イエス・キリストの言葉通り、パンとワインを食して、十字架で磔になったことに心を止めるのだ。このあたりのことは、おそらくクリスチャンの方なら、常識であろう。
しかし、この意味を知らずに、ただミサだけ見たら、これほど不可解なものはない。パンは肉といい、ワインを血という。傍目には、人肉食である。悪意のあ る人なら、こうした状況を曲解し、キリスト教徒は人肉を食らう連中だといいふらすに違いない。実際、過去の歴史には、幾度となく、クリスチャンはカニバリ ストとして断罪されてきた。
酒呑童子伝説の根源に秦氏=ユダヤ人キリスト教徒が関与しているというなら、まさにミサの状況を曲解したのが伝説の始まりではなかったとは考えられない だろうか。つまり、こういうことだ。丹後にいた秦氏=ユダヤ人キリスト教徒たちは、伝統を守り、ミサを行っていた。ミサは儀式であり、キリスト教徒ではな い者を排除した形で行われる。それは、ある意味、秘密結社的な側面がある。
こうした状況を、まったくの部外者が見たら、その意味を理解できずに、恐怖するだろう。それも、ひとりふたりではない。まわりの異教徒たちからすれば、 ある意味、今のオウム真理教みたいなものだ。秦氏がミサにおけるパンがイエスの肉の象徴であり、ワインはイエスの象徴だといってみたところで、もとより、 彼らに理解できるはずがない。逆に、それが誤解されて、秦氏たちは人肉を食らい、生き血をすするという噂を生んだとしても、けっして不自然ではない。彼ら はいったはずだ。連中は「鬼」だ、と。
集団化した恐怖は暴力を生む。いつの日か、鬼退治という大儀名文のもと、酒呑童子=天之日矛=秦氏集団は、虐殺の憂き目にあったのではないだろうか。あたかも、西洋における魔女狩りのように……。
もし、この推理が正しいとしたら、酒呑童子の背景は想像以上に根が深いのかも知れない??。
月
中秋の名月という言葉がある。いわゆる「十五夜」だ。月齢15の月は満月である。月が地球を一周するのが約30日であるから、1か月に一度は、満月を見ている計算になるのだが、本当のフルムーンというのは、年に1、2度しかない。
古来、日本人はまん丸お月さまを愛でてきた。意外なことに、お月見という風習は、日本以外の国では、ほとんど存在しないという。満月に合わせて祭りをすることはすれ、月そのものを鑑賞し、愛でるという発想はない。
日本人は、月に対して、どうしてこれほどシンパシーを抱くのだろうか。よく昔話では、月に兎さんがいて、餅をついているという話が出てくる。これは月面 の暗い色の部分、専門的に月の海と呼ばれる部分が餅をついている兎に見えることから来ている。もっとも、これは中国における道教に由来するもので、月の兎 を特別に「玉兎」という。
もちろん、月に対して、太陽に住んでいる動物もいる。烏である。ただし、三本足という変わった烏で、「金烏」と呼んでいる。日本神話においては、熊野で迷った初代・神武天皇を導いた烏が金烏だとされている。
興味深いことに、この金烏、京都の賀茂神社の祭神でもある。『古事記』や『日本書紀』では、神武天皇を導いた金烏のことを「八咫烏」と記す。八咫の 「咫」は「尺」と同じ長さの単位で、「八」は「八百万」というように、非常に多いという意味。つまり、それだけ大きい烏であることを示している。
もっとも、それもそのはず、賀茂神社の伝承によると、この八咫烏の正体は人間。その名も「賀茂健角身命」という。
さて、今回、注目してほしいのは、烏ではなく、それを祀る神社のほうである。賀茂神社には、上賀茂神社と下鴨神社から成り、それぞれ賀茂川の上流に位置 する。平安京から見れば、東の方である。推測するに、太陽が昇る方角ゆえに、太陽の化身である八咫烏を祀る神社が置かれたのではないか。
というのは、太陽とペアをなす月に関する地名が、平安京の西、ちょうど嵐山・嵯峨野あたりに集中しているのである。
例えば、嵐山にある葛野の大堰の近くに「渡月橋」がある。文字通り、地上と月を結ぶ橋という意味だ。したがって、橋の向こうは月世界。玉兎が餅つきをしている幻想世界だということになる。
ならば、渡月橋の下を流れる川は何だろう。これがわかれば、なかなかの京都通とお見受けする。答えは渡月橋の上流が大堰川、下流を桂川という。大堰川は葛野の大堰に由来するとして、桂川の名前は、いったいどういう意味だろうか。問題は「桂」である。
「桂」といえば、京都では「桂離宮」が有名だが、それがあるのは、やはり渡月橋の向こう。桂川の西岸である。まさに、地上を離れ、月世界にある宮、それが桂離宮なのだ。だとすれば、桂の意味も、おぼろげながら見えてくるはずだ。もちろん、月と無関係ではない。
桂という字は木偏があることからわかるように、これは樹木の名前である。檜や杉、松といった樹木名である。では、これを読んでいる方で、桂の樹を見たこ とのある人はいるだろうか。桂で作った箪笥、椅子、柱といったものを目にした方がいるなら、ぜひ会って、話を聞いて見たいものだ。もし、見たことがあると いう人がいるなら、その人は嘘をいっているか、もしくは勘違いしているかのどちらかである。なぜなら、桂はこの地球上に存在しない樹だからだ。桂が生えて いるのは、まさしく月世界。玉兎が餅つきをしている月面にあると信じられていた、想像上の樹木のことなのだ。
このことかわかるように、桂川の東は月世界なのだ。事実、ここには全国でも珍しい月の神様「月読命」を祀った、その名も「月読神社」がある。おそらく平 安時代の人々は、中秋の名月を眺めながら、はるかな月世界に思いをはせ、そのイメージを桂川の東に再現したのではないだろうか。
さすれば、当然、それをコーディネートしたのは、いったいだれかというのが気になる。明らかに、これだけの月世界を再現したのだから、それは平安京全体のトータル・デザインとして設計されていたはずだ。謎と解く鍵は、やはり月世界にある。
月世界の中心は、やはり月の神が坐す月読神社だろう。では、この神社を創建したのは、いったいだれか。現地を訪れてみると、社殿はけっして大きくない。 常時、そこに管理人がいるわけではない。が、古記録を調べてみると、そこに出てきたのは「秦」の文字。そう、秦氏が創建し、秦氏が守ってきた神社であった ことがわかったのだ。
月読神社のすぐそばには、酒の神様として有名な松尾大社があるが、こちらを創建したのは秦都理なる人物。おわかりのように、秦氏だ。ちなみに、この松尾 大社と上賀茂神社と下鴨神社を合わせて、「秦氏三所明神」と呼ぶ。月のみならず、太陽の神社まで、秦氏は手掛けていたのだ。
さらに、渡月橋の上流にある葛野の大堰を建設したのは、まぎれもなく秦氏である。秦氏は、何を隠そう、平安京そのものを一族を挙げて造り上げた人々である。平安京を設計する際、すでに月世界もまた、折り込み済だったに違いない。
では、秦氏にとっての月とは、いったい何なのだろう。
秦氏と月の関係で、まず思い浮かぶのは、弓月君である。秦氏は第15代・応神天皇の時代に、朝鮮半島から渡来してきた。そのとき、秦氏一族を率いていた首長の名を「弓月君(弓月王)」という。弓月とは、弓張月、すなわち三日月を意味する。
秦氏はシルクロードの民であり、かつては西アジアに住んでいた民族である。地図を広げてみると、かつて天山山脈の近くに「弓月王国」があり、ここに秦氏が存在していた可能性がある。弓月君=弓月王という名前も、弓月王国に由来するのではないかともいわれている。
しかし、はたして、それだけだろうか。秦氏が月読命を祀っている事実に、もっと注目したい。というのは、『日本書紀』の一書では、月読命のことを「月弓尊」と表記しているからだ。「月弓尊」と「弓月君」、弓と月が引っ繰り返っているが、両者は無関係ではあるまい。
さらに、注目は月読命が3つの相をもっていることだ。月というのは、姿の見えない新月を別にして、上弦の月、満月、下弦の月がある。ひとつだが、3つの 顔を持つ。つまり、月読命は3つのペルソナを持っている。それは、ある意味、ひとりでいながら、3人の神であることを意味する。改めていうまでもなく、キ リスト教における絶対神「御父と御子と聖霊」が本質的に一体であるという三位一体説を想起させずにはおられない。
そもそも、アタナシウスが三位一体という発想を得たヒントは、エジプトの太陽神が3人いたことにある。エジプトの太陽神は日の出アトゥム、天空ラー、日 没ケプリという3つの顔をもっていた。アタナシウスは、ここに唯一絶対神が御父と御子と聖霊という独立したペルソナをもつ学説を見いだしたのである。 太陽に3つの顔があるなら、月にも3つの顔がある。ユダヤ人キリスト教徒であった秦氏は、太陽については、三本足の烏をもって絶対三神の象徴とし、月に ついては月読命の3つの相をもって絶対三神の象徴としたのではないだろうか。
思うに、古代の秦氏たちは、絶対三神への祈りを捧げながら、中秋の名月を眺めていたのかもしれない。
古来、日本人はまん丸お月さまを愛でてきた。意外なことに、お月見という風習は、日本以外の国では、ほとんど存在しないという。満月に合わせて祭りをすることはすれ、月そのものを鑑賞し、愛でるという発想はない。
日本人は、月に対して、どうしてこれほどシンパシーを抱くのだろうか。よく昔話では、月に兎さんがいて、餅をついているという話が出てくる。これは月面 の暗い色の部分、専門的に月の海と呼ばれる部分が餅をついている兎に見えることから来ている。もっとも、これは中国における道教に由来するもので、月の兎 を特別に「玉兎」という。
もちろん、月に対して、太陽に住んでいる動物もいる。烏である。ただし、三本足という変わった烏で、「金烏」と呼んでいる。日本神話においては、熊野で迷った初代・神武天皇を導いた烏が金烏だとされている。
興味深いことに、この金烏、京都の賀茂神社の祭神でもある。『古事記』や『日本書紀』では、神武天皇を導いた金烏のことを「八咫烏」と記す。八咫の 「咫」は「尺」と同じ長さの単位で、「八」は「八百万」というように、非常に多いという意味。つまり、それだけ大きい烏であることを示している。
もっとも、それもそのはず、賀茂神社の伝承によると、この八咫烏の正体は人間。その名も「賀茂健角身命」という。
さて、今回、注目してほしいのは、烏ではなく、それを祀る神社のほうである。賀茂神社には、上賀茂神社と下鴨神社から成り、それぞれ賀茂川の上流に位置 する。平安京から見れば、東の方である。推測するに、太陽が昇る方角ゆえに、太陽の化身である八咫烏を祀る神社が置かれたのではないか。
というのは、太陽とペアをなす月に関する地名が、平安京の西、ちょうど嵐山・嵯峨野あたりに集中しているのである。
例えば、嵐山にある葛野の大堰の近くに「渡月橋」がある。文字通り、地上と月を結ぶ橋という意味だ。したがって、橋の向こうは月世界。玉兎が餅つきをしている幻想世界だということになる。
ならば、渡月橋の下を流れる川は何だろう。これがわかれば、なかなかの京都通とお見受けする。答えは渡月橋の上流が大堰川、下流を桂川という。大堰川は葛野の大堰に由来するとして、桂川の名前は、いったいどういう意味だろうか。問題は「桂」である。
「桂」といえば、京都では「桂離宮」が有名だが、それがあるのは、やはり渡月橋の向こう。桂川の西岸である。まさに、地上を離れ、月世界にある宮、それが桂離宮なのだ。だとすれば、桂の意味も、おぼろげながら見えてくるはずだ。もちろん、月と無関係ではない。
桂という字は木偏があることからわかるように、これは樹木の名前である。檜や杉、松といった樹木名である。では、これを読んでいる方で、桂の樹を見たこ とのある人はいるだろうか。桂で作った箪笥、椅子、柱といったものを目にした方がいるなら、ぜひ会って、話を聞いて見たいものだ。もし、見たことがあると いう人がいるなら、その人は嘘をいっているか、もしくは勘違いしているかのどちらかである。なぜなら、桂はこの地球上に存在しない樹だからだ。桂が生えて いるのは、まさしく月世界。玉兎が餅つきをしている月面にあると信じられていた、想像上の樹木のことなのだ。
このことかわかるように、桂川の東は月世界なのだ。事実、ここには全国でも珍しい月の神様「月読命」を祀った、その名も「月読神社」がある。おそらく平 安時代の人々は、中秋の名月を眺めながら、はるかな月世界に思いをはせ、そのイメージを桂川の東に再現したのではないだろうか。
さすれば、当然、それをコーディネートしたのは、いったいだれかというのが気になる。明らかに、これだけの月世界を再現したのだから、それは平安京全体のトータル・デザインとして設計されていたはずだ。謎と解く鍵は、やはり月世界にある。
月世界の中心は、やはり月の神が坐す月読神社だろう。では、この神社を創建したのは、いったいだれか。現地を訪れてみると、社殿はけっして大きくない。 常時、そこに管理人がいるわけではない。が、古記録を調べてみると、そこに出てきたのは「秦」の文字。そう、秦氏が創建し、秦氏が守ってきた神社であった ことがわかったのだ。
月読神社のすぐそばには、酒の神様として有名な松尾大社があるが、こちらを創建したのは秦都理なる人物。おわかりのように、秦氏だ。ちなみに、この松尾 大社と上賀茂神社と下鴨神社を合わせて、「秦氏三所明神」と呼ぶ。月のみならず、太陽の神社まで、秦氏は手掛けていたのだ。
さらに、渡月橋の上流にある葛野の大堰を建設したのは、まぎれもなく秦氏である。秦氏は、何を隠そう、平安京そのものを一族を挙げて造り上げた人々である。平安京を設計する際、すでに月世界もまた、折り込み済だったに違いない。
では、秦氏にとっての月とは、いったい何なのだろう。
秦氏と月の関係で、まず思い浮かぶのは、弓月君である。秦氏は第15代・応神天皇の時代に、朝鮮半島から渡来してきた。そのとき、秦氏一族を率いていた首長の名を「弓月君(弓月王)」という。弓月とは、弓張月、すなわち三日月を意味する。
秦氏はシルクロードの民であり、かつては西アジアに住んでいた民族である。地図を広げてみると、かつて天山山脈の近くに「弓月王国」があり、ここに秦氏が存在していた可能性がある。弓月君=弓月王という名前も、弓月王国に由来するのではないかともいわれている。
しかし、はたして、それだけだろうか。秦氏が月読命を祀っている事実に、もっと注目したい。というのは、『日本書紀』の一書では、月読命のことを「月弓尊」と表記しているからだ。「月弓尊」と「弓月君」、弓と月が引っ繰り返っているが、両者は無関係ではあるまい。
さらに、注目は月読命が3つの相をもっていることだ。月というのは、姿の見えない新月を別にして、上弦の月、満月、下弦の月がある。ひとつだが、3つの 顔を持つ。つまり、月読命は3つのペルソナを持っている。それは、ある意味、ひとりでいながら、3人の神であることを意味する。改めていうまでもなく、キ リスト教における絶対神「御父と御子と聖霊」が本質的に一体であるという三位一体説を想起させずにはおられない。
そもそも、アタナシウスが三位一体という発想を得たヒントは、エジプトの太陽神が3人いたことにある。エジプトの太陽神は日の出アトゥム、天空ラー、日 没ケプリという3つの顔をもっていた。アタナシウスは、ここに唯一絶対神が御父と御子と聖霊という独立したペルソナをもつ学説を見いだしたのである。 太陽に3つの顔があるなら、月にも3つの顔がある。ユダヤ人キリスト教徒であった秦氏は、太陽については、三本足の烏をもって絶対三神の象徴とし、月に ついては月読命の3つの相をもって絶対三神の象徴としたのではないだろうか。
思うに、古代の秦氏たちは、絶対三神への祈りを捧げながら、中秋の名月を眺めていたのかもしれない。
大蔵省
不景気である。どこもかしこも、不景気だ。経済新聞の見出しには、毎日のごとく不景気の文字が並ぶ。悪いのは、だれか。目に見えない景気ってもんを考えて も、その元凶わからない。わからないから、人は往々にして、それを政府のせいにする。まったく、もって悪いのは政府だ。経済対策を緊急に行え。
大蔵大臣は何をやっているんだ??!!
おっと、思わず興奮してしまった。いかんいかん。そういえば、もう「大蔵省」ってのは、なくなったんだ。21世紀を迎え、政府は省庁再編を強行。律令時代から続く大蔵省という名称は消滅。代わって「財務省」というお役所が誕生した。
だが、この「財務省」という名称は、どうも気に食わない。なんだか、軽い感じがする。やはり、一国の金庫番には「大蔵」という名称のほうが、どっしりとして、ふさわしいと思うのだが、いかがだろう。
祭祀一族である忌部(斎部)氏が記した『古語拾遺』によると、「大蔵」という役所が最初に設置されたのは、第21代・雄略天皇の時代というから、ざっと5世紀である。このころ、大和朝廷の中央集権化が進み、国家の体制が整えられたとされる。
大蔵を仕切ったのは、蘇我満智。飛鳥を舞台に大和朝廷の黄金時代を築く蘇我氏の英雄である。彼の子孫から、有名な蘇我馬子や聖徳太子が輩出する。蘇我氏 がかくも政治の表舞台で活躍できたのは、配下に大勢の渡来人を従えていたからだというのは、古代史の常識。なかでも、秦氏と漢氏は大蔵を実質的に動かして いた。
秦氏というのは、漢氏と対照的に、政治にはあまり関心を示さない。歴史を俯瞰しても、そこに直接、秦氏と名乗る人物は極めて少ない。そんな秦氏が珍しく政治的な活動を行っているのが、大蔵なのだ。これは非常に注目していい事実である。
恐らく、よほど大蔵という仕事に熱心だったのだろう。秦氏の中には、大蔵秦氏と名乗る者が少なからずいる。今日の大蔵氏は、まず間違いなく秦氏と見ていい。
大蔵という名前からして、イメージは、お金持ち。かなり裕福な一族だったに違いない。事実、平安京を建設するに当たって、秦氏は一族を挙げて誘致から土 地提供、建設、人夫、食料に至るまで拠出している。とりわけ、近江地方の秦氏は熱心だった。ここには大蔵秦氏がかなりいた。平安京建設には、かれらの財源 が大きな役割をしたと思われる。
そもそも、秦氏は政治に興味がなかった一方で、産業には、ことのほかこだわった。秦氏のハタが機織りのハタだという説まであるように、彼らは養蚕業を一 手に担っていた。そこから取れた絹で、多くの服飾を製造。服部氏と名乗る者まで現れた。それゆえ、歴史家は秦氏を指して、殖産豪族と呼ぶ。まさに、富豪 だ。秦氏以外に、殖産豪族と呼ばれた一族はいない。
かくも繁栄を享受した理由とは、いったい何だろう。秦氏がユダヤ人であることを考えれば、いがおうにも思い浮かぶのは、世界的な大富豪ロスチャイルドで ある。この地球上で、ロスチャイルドに並ぶ金持ちはいない。一族の祖であるマイヤー・ロスチャイルドは、かつて「一国の政治権力よりも、一国の貨幣造営権 をくれ」と述べたことは、あまりにも有名だ。ロスチャイルド一族の者で政治家になる者はおらず、彼らはみな実業家として成功。莫大な富を手に入れた。
が、その一方で、彼らはユダヤ教徒である。『旧約聖書』を聖典として、絶対神ヤハウェの預言を信じている。戦後、それまで流浪の民であったユダヤ人たち が『旧約聖書』に預言された約束の地パレスチナに、国家を建設しようとした際、その莫大な資金を提供したのは、何を隠そう、ロスチャイルドだった。いい意 味でも、悪い意味でも、ロスチャイルドはイスラエル共和国樹立の功労者である。ロスチャイルドなくば、イスラエルという国家も存在しえなかったといっても 過言ではない。
政治的な議論は別にして、日本の秦氏とユダヤのロスチャイルドを比較すると、非常に似ている。
両者はともに『旧約聖書』を信じていた。政治家になろうとしない。金融財政を一手に握っていた。巨大な産業をもっていた。
ロスチャイルドが莫大な資金を提供して建設されたイスラエル共和国は、エルサレムを聖都と考えている。一方の秦氏が建設した平安京をヘブライ語に翻訳すれば、エル・シャローム(平和の都)、すなわちエルサレムとなる。ともに、両者はイスラエルの聖地建設に関わっている。
このように考えると、秦氏一族は古代日本におけるロスチャイルドだったのかもしれない。
大蔵大臣は何をやっているんだ??!!
おっと、思わず興奮してしまった。いかんいかん。そういえば、もう「大蔵省」ってのは、なくなったんだ。21世紀を迎え、政府は省庁再編を強行。律令時代から続く大蔵省という名称は消滅。代わって「財務省」というお役所が誕生した。
だが、この「財務省」という名称は、どうも気に食わない。なんだか、軽い感じがする。やはり、一国の金庫番には「大蔵」という名称のほうが、どっしりとして、ふさわしいと思うのだが、いかがだろう。
祭祀一族である忌部(斎部)氏が記した『古語拾遺』によると、「大蔵」という役所が最初に設置されたのは、第21代・雄略天皇の時代というから、ざっと5世紀である。このころ、大和朝廷の中央集権化が進み、国家の体制が整えられたとされる。
大蔵を仕切ったのは、蘇我満智。飛鳥を舞台に大和朝廷の黄金時代を築く蘇我氏の英雄である。彼の子孫から、有名な蘇我馬子や聖徳太子が輩出する。蘇我氏 がかくも政治の表舞台で活躍できたのは、配下に大勢の渡来人を従えていたからだというのは、古代史の常識。なかでも、秦氏と漢氏は大蔵を実質的に動かして いた。
秦氏というのは、漢氏と対照的に、政治にはあまり関心を示さない。歴史を俯瞰しても、そこに直接、秦氏と名乗る人物は極めて少ない。そんな秦氏が珍しく政治的な活動を行っているのが、大蔵なのだ。これは非常に注目していい事実である。
恐らく、よほど大蔵という仕事に熱心だったのだろう。秦氏の中には、大蔵秦氏と名乗る者が少なからずいる。今日の大蔵氏は、まず間違いなく秦氏と見ていい。
大蔵という名前からして、イメージは、お金持ち。かなり裕福な一族だったに違いない。事実、平安京を建設するに当たって、秦氏は一族を挙げて誘致から土 地提供、建設、人夫、食料に至るまで拠出している。とりわけ、近江地方の秦氏は熱心だった。ここには大蔵秦氏がかなりいた。平安京建設には、かれらの財源 が大きな役割をしたと思われる。
そもそも、秦氏は政治に興味がなかった一方で、産業には、ことのほかこだわった。秦氏のハタが機織りのハタだという説まであるように、彼らは養蚕業を一 手に担っていた。そこから取れた絹で、多くの服飾を製造。服部氏と名乗る者まで現れた。それゆえ、歴史家は秦氏を指して、殖産豪族と呼ぶ。まさに、富豪 だ。秦氏以外に、殖産豪族と呼ばれた一族はいない。
かくも繁栄を享受した理由とは、いったい何だろう。秦氏がユダヤ人であることを考えれば、いがおうにも思い浮かぶのは、世界的な大富豪ロスチャイルドで ある。この地球上で、ロスチャイルドに並ぶ金持ちはいない。一族の祖であるマイヤー・ロスチャイルドは、かつて「一国の政治権力よりも、一国の貨幣造営権 をくれ」と述べたことは、あまりにも有名だ。ロスチャイルド一族の者で政治家になる者はおらず、彼らはみな実業家として成功。莫大な富を手に入れた。
が、その一方で、彼らはユダヤ教徒である。『旧約聖書』を聖典として、絶対神ヤハウェの預言を信じている。戦後、それまで流浪の民であったユダヤ人たち が『旧約聖書』に預言された約束の地パレスチナに、国家を建設しようとした際、その莫大な資金を提供したのは、何を隠そう、ロスチャイルドだった。いい意 味でも、悪い意味でも、ロスチャイルドはイスラエル共和国樹立の功労者である。ロスチャイルドなくば、イスラエルという国家も存在しえなかったといっても 過言ではない。
政治的な議論は別にして、日本の秦氏とユダヤのロスチャイルドを比較すると、非常に似ている。
両者はともに『旧約聖書』を信じていた。政治家になろうとしない。金融財政を一手に握っていた。巨大な産業をもっていた。
ロスチャイルドが莫大な資金を提供して建設されたイスラエル共和国は、エルサレムを聖都と考えている。一方の秦氏が建設した平安京をヘブライ語に翻訳すれば、エル・シャローム(平和の都)、すなわちエルサレムとなる。ともに、両者はイスラエルの聖地建設に関わっている。
このように考えると、秦氏一族は古代日本におけるロスチャイルドだったのかもしれない。
魚
先日、英和辞典で調べ物をしていると、おもしろい単語に出会った。「jewfish 」。
「jew」はユダヤ人で、「fish」は魚。よって、直訳すれば、「ユダヤ人の魚」という意味である。
へぇ、そんな魚があるのかと思ったが、驚いたのは、その日本における呼び名である。
なんと、その魚の名は、ずばり「ハタ(羽太)」!!
小魚を餌にする貪欲な魚で、でかいものだと、優に1メートルは超える大型の魚である。
どうして、ハタが「ユダヤ人の魚」と呼ばれるのか、詳しいことはわからないが、何より驚くのは、ハタという名前そのものである。
古代史に興味のある人が「ハタ」と聞いて思い出すことは、ひとつ。「秦」である。
いうまでもなく、秦氏は大陸からやってきた渡来人集団であり、その正体は西アジアはパレスチナ地方からやってきたユダヤ人キリスト教徒だ。
「秦」=「ハタ」という名称も、もとを正せば、ユダヤを意味するヘブライ語(アラム語)「イエフダー」が訛化したもの。 具体的に、イエフダーがエフダとなり、これがイヤハダとなった。
イヤハダとは弥秦で、後に八幡となる。つまり、ヤハタである。
八幡神は秦氏が祀った神として知られ、八幡の「幡」は秦氏の「秦」である。さらに、ヤハタの接頭語である「ヤ」が省略されて、たんに「ハタ」となった。したがって、ハタとは、すなわちユダヤのことなのだ。
西洋で、「ユダヤ人の魚」と呼ばれるハタは、日本語から見ても、「ユダヤ」という意味があるとは、これはいかに。もちろん、偶然だと思うが、それにしても、なんだか出来すぎのような感がぬぐえない。
ひょっとしたら、この裏には、とんでもない秘密が隠されているのかもしれない。
「jew」はユダヤ人で、「fish」は魚。よって、直訳すれば、「ユダヤ人の魚」という意味である。
へぇ、そんな魚があるのかと思ったが、驚いたのは、その日本における呼び名である。
なんと、その魚の名は、ずばり「ハタ(羽太)」!!
小魚を餌にする貪欲な魚で、でかいものだと、優に1メートルは超える大型の魚である。
どうして、ハタが「ユダヤ人の魚」と呼ばれるのか、詳しいことはわからないが、何より驚くのは、ハタという名前そのものである。
古代史に興味のある人が「ハタ」と聞いて思い出すことは、ひとつ。「秦」である。
いうまでもなく、秦氏は大陸からやってきた渡来人集団であり、その正体は西アジアはパレスチナ地方からやってきたユダヤ人キリスト教徒だ。
「秦」=「ハタ」という名称も、もとを正せば、ユダヤを意味するヘブライ語(アラム語)「イエフダー」が訛化したもの。 具体的に、イエフダーがエフダとなり、これがイヤハダとなった。
イヤハダとは弥秦で、後に八幡となる。つまり、ヤハタである。
八幡神は秦氏が祀った神として知られ、八幡の「幡」は秦氏の「秦」である。さらに、ヤハタの接頭語である「ヤ」が省略されて、たんに「ハタ」となった。したがって、ハタとは、すなわちユダヤのことなのだ。
西洋で、「ユダヤ人の魚」と呼ばれるハタは、日本語から見ても、「ユダヤ」という意味があるとは、これはいかに。もちろん、偶然だと思うが、それにしても、なんだか出来すぎのような感がぬぐえない。
ひょっとしたら、この裏には、とんでもない秘密が隠されているのかもしれない。
映画
いつもは隅々まで読むことない新聞の夕刊でも、金曜日はちょっと違う。第一面から最後のテレビ欄まで、じっくりと目を通す。本文よりも小さな字をひとつひとつチェックしていく。恐らく、このときの表情は実に神妙な顔つきになっているのだろう。
「何を読んでいるって。それは、あんた、映画ですよ。土曜日に封切られる映画と上映する映画館を調べているのです。いやあ、なんですね。日本がアメリカに 絶対に勝てないもの。それはエンターティンメント。やっぱり映画。こればっかりは、スケールが違います。映画はハリウッドに限りますな」
みなさんはハリウッド映画の監督というと、だれを思い出すだろうか。ヒッチコック、ジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグ……。俳優だと、 ポール・ニューマン、ダスティン・ホフマン、マイケル・ダグラス、ジャン・レノ……などは、よくご存じのはず。まさに銀幕のスターだ。
ところで、今ここに挙げた人々には、民族的に、ある共通点が存在する。それは、いったい何か。そう、彼らはユダヤ人だ。ユダヤ人ぽくない顔付きもあるが、そこは個人差。みな、ユダヤ人なのである。
ハリウッドでは、監督から脚本、俳優、映画会社の社長に至るまで、そのほとんどがユダヤ人である。ふつうに映画を見ている分には、だれがラテン系で、だ れそれがスコットランド系か、よくわからない。こと日本人は、みな同じ白人に見えてしまう。が、当のアメリカでは、これは常識中の常識。よく見ると、『シ ンドラーのリスト』や『ソフィーの選択』のように、ユダヤ人の民族問題を扱った映画が少なくない。最高の映画を決めるアカデミー賞は、ユダヤ人コネクショ ンで決まってしまうという陰口が叩かれるほどだ。
どうして、かくもユダヤ人が多いのか。理由はいろいろあるが、ユダヤ人がもつ民族的な特性が大きい。長い間、彼らは国をもたなかった。ヨーロッパにおい てはる流民、放浪の民とされ、定住して農業を営む者は少なかった。ために、ユダヤ人は商業や金融業、学者、そして芸能を生業とするようになる。アメリカに 移住してきから後も、その傾向は続き、現在に至るというわけだ。
一方、古代日本にやってきたユダヤ人、すなわち秦氏は、どうか。
調べてみると、これが状況は、まったく同じ。芸能とは、芸と能だが、いずれも秦氏のお家芸だといっていい。古代から現代に至るまで、芸能の世界は、秦氏 の世界。古代においては、猿楽や田楽といった遊行の担い手は秦氏だった。こうした伝統芸能の世界では、その祖として秦河勝の名が必ず出てくる。
その秦河勝は京都出身である。彼の邸宅のあった場所は、平安京の内裏、すなわち天皇の住まう場所だとされる。が、彼の一族の拠点は右京区、葛野あたり。 聖徳太子の命で創建されたという「広隆寺」が氏寺だ。一説に、寺の名前にある広隆とは、秦河勝の本名だともいう。まさに、このあたりは秦氏一族が支配して いたといっても過言ではない。地名も秦氏の秦を冠した「太秦」である。
しかし、一般の人にとって、太秦といえば、映画村である。修学旅行で京都へ行った際には、多くの学生がここを訪れる。かくいう筆者も、高校生のころ、ご たぶんに漏れず、太秦映画村を訪れた。凝りに凝った時代劇のセットや建物、そこを歩く芸人さんの衣装に、田舎者丸出しで、感心したものである。
今でも、時代劇の映画やテレビ・ドラマのほとんどは、ここで撮影されているというのだから、やはり太秦映画村は、時代劇の中心地だといっても、過言では ない。秦氏の拠点であり、秦氏が愛した芸能の中心地、太秦。秦氏がユダヤ人キリスト教徒であることを考えるとき、太秦は日本におけるハリウッドなのかもし れない。
しかし、なんだな。世界のユダヤ人と日本の秦氏を比較すると、いやぁ実に似ている。国は違えども、ユダヤ人というのは、同じ行動をするものなのか。ユダヤ人のさがなのか。はては、運命なのか。なんとも、不思議である。
「何を読んでいるって。それは、あんた、映画ですよ。土曜日に封切られる映画と上映する映画館を調べているのです。いやあ、なんですね。日本がアメリカに 絶対に勝てないもの。それはエンターティンメント。やっぱり映画。こればっかりは、スケールが違います。映画はハリウッドに限りますな」
みなさんはハリウッド映画の監督というと、だれを思い出すだろうか。ヒッチコック、ジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグ……。俳優だと、 ポール・ニューマン、ダスティン・ホフマン、マイケル・ダグラス、ジャン・レノ……などは、よくご存じのはず。まさに銀幕のスターだ。
ところで、今ここに挙げた人々には、民族的に、ある共通点が存在する。それは、いったい何か。そう、彼らはユダヤ人だ。ユダヤ人ぽくない顔付きもあるが、そこは個人差。みな、ユダヤ人なのである。
ハリウッドでは、監督から脚本、俳優、映画会社の社長に至るまで、そのほとんどがユダヤ人である。ふつうに映画を見ている分には、だれがラテン系で、だ れそれがスコットランド系か、よくわからない。こと日本人は、みな同じ白人に見えてしまう。が、当のアメリカでは、これは常識中の常識。よく見ると、『シ ンドラーのリスト』や『ソフィーの選択』のように、ユダヤ人の民族問題を扱った映画が少なくない。最高の映画を決めるアカデミー賞は、ユダヤ人コネクショ ンで決まってしまうという陰口が叩かれるほどだ。
どうして、かくもユダヤ人が多いのか。理由はいろいろあるが、ユダヤ人がもつ民族的な特性が大きい。長い間、彼らは国をもたなかった。ヨーロッパにおい てはる流民、放浪の民とされ、定住して農業を営む者は少なかった。ために、ユダヤ人は商業や金融業、学者、そして芸能を生業とするようになる。アメリカに 移住してきから後も、その傾向は続き、現在に至るというわけだ。
一方、古代日本にやってきたユダヤ人、すなわち秦氏は、どうか。
調べてみると、これが状況は、まったく同じ。芸能とは、芸と能だが、いずれも秦氏のお家芸だといっていい。古代から現代に至るまで、芸能の世界は、秦氏 の世界。古代においては、猿楽や田楽といった遊行の担い手は秦氏だった。こうした伝統芸能の世界では、その祖として秦河勝の名が必ず出てくる。
その秦河勝は京都出身である。彼の邸宅のあった場所は、平安京の内裏、すなわち天皇の住まう場所だとされる。が、彼の一族の拠点は右京区、葛野あたり。 聖徳太子の命で創建されたという「広隆寺」が氏寺だ。一説に、寺の名前にある広隆とは、秦河勝の本名だともいう。まさに、このあたりは秦氏一族が支配して いたといっても過言ではない。地名も秦氏の秦を冠した「太秦」である。
しかし、一般の人にとって、太秦といえば、映画村である。修学旅行で京都へ行った際には、多くの学生がここを訪れる。かくいう筆者も、高校生のころ、ご たぶんに漏れず、太秦映画村を訪れた。凝りに凝った時代劇のセットや建物、そこを歩く芸人さんの衣装に、田舎者丸出しで、感心したものである。
今でも、時代劇の映画やテレビ・ドラマのほとんどは、ここで撮影されているというのだから、やはり太秦映画村は、時代劇の中心地だといっても、過言では ない。秦氏の拠点であり、秦氏が愛した芸能の中心地、太秦。秦氏がユダヤ人キリスト教徒であることを考えるとき、太秦は日本におけるハリウッドなのかもし れない。
しかし、なんだな。世界のユダヤ人と日本の秦氏を比較すると、いやぁ実に似ている。国は違えども、ユダヤ人というのは、同じ行動をするものなのか。ユダヤ人のさがなのか。はては、運命なのか。なんとも、不思議である。
鳩
国際的なスポーツの祭典、オリンピック。その開会式では、決まって何羽もの鳥が放たれる。鳥といっても、それは烏ではない。鳩である。オリンピックに限ら ず、国際的なイベントで、白い鳩を飛ばすことがしばしばある。だれしも、一度くらいは、テレビなどで、何羽もの鳩が競技場の大空に舞う光景を見たことがあ るだろう。
でも、どうして鳩なのだろうか。烏や燕、それに鴨でもなく、なぜ鳩を飛ばすのか。鳩でなければならない。その理由とは、いったい何なのか。
こういうと、恐らく十中八九、それは「平和のシンボルだから」という答えが返ってくるに違いない。スポーツの国際試合は、もともと世界の国々の親睦を深めるのが大きな理由。競技の式典には、平和の象徴である白い鳩がふさわしいというわけだ。
が、どうして鳩が平和のシンボルなのかというと、途端に答えに窮するのではないか。確かに、鳩は気性がおだやかである。鷹派と鳩派と対比させられるように、鳩にはおとなしいイメージがある。
しかし、だからといって、平和のシンボルとなるには、ちょっと弱い。日本人的な発想では、このあたりが限界だろう。実は、鳩が平和のシンボルとなった理 由は『聖書』にある。およそクリスチャンではない人でも、「創世記」に記された世界的な大天変地異「ノアの大洪水」というのを聞いたことがあるだろう。
絶対神が堕落した人類を滅ぼそうと、40日40夜、豪雨を降らせ、地上を水没させた。結果、生き残った人類は、わずかに8人。箱舟に乗った預言者ノアと 3人の息子、それに彼らの妻たちだけ。8人は約1年間、大洪水を漂い、やがてアララト山へたどりつく。あるとき、ノアは地上に乾いた陸地が現れたかどうか を調べるために、鳩を放した。すると、鳩はオリーブの若芽を嘴にくわえて戻ってきた。そう、陸地が現れたのである。ここにノアの大洪水は完全に収まり、新 しい時代がやってきた。
おわかりのように、天変地異が納まったことを知らせた鳩が、後に平和のシンボルと見なさせるようになったのである。 さて、面白いことに、日本における鳩は神様の使いでもある。平和の象徴である鳩が神に使いとは、なかなか意味深長である。しかも、鳩を使いとする神とい うのが、八幡神なのである。八幡神というと、歴史的に源氏の氏神、軍神として有名だ。日本全国の神社の中で、もっとも多いのが八幡神社であることからし て、その信仰の深さが察せられる。
有名な八幡神社というと、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮や京都の石清水八幡宮、福岡の筥崎八幡宮がある。こうした八幡宮の総本山が、九州は大分にある宇佐八幡宮である。
かくも人気の高い八幡神だが、どうしたわけか、『古事記』や『日本書紀』には登場しない。最初にその名を現す歴史書は『続日本紀』なる書物。奈良の東大寺の大仏を建立したときに、わざわざ九州から神輿に乗ってやってきたのが初めてだ。
八幡神は、こうしてなかなかミステリアスな神なのだが、学者によると、もともと九州の地方で祀られていた神で、いわば非常にマイナーな存在だったとい う。宇佐八幡宮には、もともと宇佐氏、大神氏、辛嶋氏という3つの氏族が祭祀を行っていた。このうち、もっとも古くから仕えてきたのが、辛嶋氏である。つ まり、八幡神とは辛嶋氏の氏神的存在だったといっても、過言ではない。
では、いったい辛嶋氏とは何者なのか。この地方には、○○勝氏という複姓を名乗る者が少なくない。辛嶋氏も、同様。辛嶋勝氏と名乗っていた。実は、この 「勝」という文字を複姓に持つ者は、みな秦氏の支族なのだ。ごく簡単にいってしまえば、辛嶋氏は秦氏。八幡神は秦氏の神なのである。
ということは、だ。八幡神の使いである鳩もまた、当然ながら秦氏と関係が深いことが予想される。
秦=ハタと鳩=ハト。どこか似た響きがある。これは偶然かも知れないが、近江の琵琶湖沿岸では、かつて秦氏の人たちのことを「ハトさん」と呼んでいたという。鳩という名前も、ひょっとすると秦氏に因むのかもしれない。
しかし、ここで注目したいのは、鳩の種類である。鳩は一般に、駅や公園にいる。が、もっともポピュラーなのは、神社や寺の境内ではないだろうか。八幡神社に限らず、神社に鳩はつきものである。
日本の鳩ハ、ふつう山鳩と宮鳩に大別される。神社にいるのは、いうまでもなく宮鳩である。元陸軍中尉で、伝書鳩隊の隊長であった日下部照氏は任務がら、 日本の鳩について研究。その結果、興味深いことを発見した。山鳩は日本古来の在来種であるが、宮鳩は渡来種だというのだ。つまり、宮鳩は大陸からやってき たというのである。
渡来種である宮鳩、すなわち神社の鳩は、もともと八幡宮の鳩。その八幡宮を創建した秦氏が渡来人。となれば、宮鳩を日本に持ち込んだのは、秦氏以外には考えられない。
そうなると、どうして秦氏は鳩を持ってきたかという謎が生まれる。まさか、伝書鳩にでも使おうと考えていたわけではあるまい。ましてや、家畜にして、その肉を食べようとしていたというのも、神の使いとしているあたりから、考えにくい。 しかして、これを解く鍵が「秦氏=ユダヤ人原始キリスト教徒説」である。
まず、第一に秦氏はユダヤ人だった。ユダヤ人にとって、鳩はどんな動物なのか。これを考えればいい。『旧約聖書』には、しばしば罪の許しを得るために、 動物を焼いて神に捧げたことが記されている。いわゆる燔祭である。捧げられる動物は牛や羊が一般的だが、貧しい人たちは鳩を捧げていた。つまり、ユダヤ人 にとって、鳩は神に捧げる犠牲の動物だった。秦氏も、同様なことを考えていた可能性がある。
第二に、秦氏は原始キリスト教徒だった。キリスト教徒は燔祭を行わない。なぜなら、最大の犠牲は神の子羊、イエス・キリスト本人だからだ。イエスが十字 架に磔になったこと自体が燔祭の意味をもっており、それ以後は、罪の許しを請う燔祭をする必要がない。よって、秦氏が鳩を燔祭として使うことはありえな い。
第三に、キリスト教徒にとって、鳩は平和のシンボル以上に、「聖霊」の象徴である。聖霊とは、神の御霊のこと。「御父と御子と聖霊」という3人の神のう ちのひとり。イエス・キリストが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたとき、天から聖霊が鳩のように降りてきた。ゆえに、鳩といえば、聖霊を意味するように なった。事実、西洋絵画において、イエス・キリストといっしょに描かれる鳩は必ず聖霊を意味している。
つまり、秦氏は鳩を聖霊の象徴と見なしていた。聖霊は御父なる神が送られた神である。いわば、神の使いの神でもある。鳩が八幡神の使いといわれるのも、こうしたことが背景にあるのではないだろうか。
でも、どうして鳩なのだろうか。烏や燕、それに鴨でもなく、なぜ鳩を飛ばすのか。鳩でなければならない。その理由とは、いったい何なのか。
こういうと、恐らく十中八九、それは「平和のシンボルだから」という答えが返ってくるに違いない。スポーツの国際試合は、もともと世界の国々の親睦を深めるのが大きな理由。競技の式典には、平和の象徴である白い鳩がふさわしいというわけだ。
が、どうして鳩が平和のシンボルなのかというと、途端に答えに窮するのではないか。確かに、鳩は気性がおだやかである。鷹派と鳩派と対比させられるように、鳩にはおとなしいイメージがある。
しかし、だからといって、平和のシンボルとなるには、ちょっと弱い。日本人的な発想では、このあたりが限界だろう。実は、鳩が平和のシンボルとなった理 由は『聖書』にある。およそクリスチャンではない人でも、「創世記」に記された世界的な大天変地異「ノアの大洪水」というのを聞いたことがあるだろう。
絶対神が堕落した人類を滅ぼそうと、40日40夜、豪雨を降らせ、地上を水没させた。結果、生き残った人類は、わずかに8人。箱舟に乗った預言者ノアと 3人の息子、それに彼らの妻たちだけ。8人は約1年間、大洪水を漂い、やがてアララト山へたどりつく。あるとき、ノアは地上に乾いた陸地が現れたかどうか を調べるために、鳩を放した。すると、鳩はオリーブの若芽を嘴にくわえて戻ってきた。そう、陸地が現れたのである。ここにノアの大洪水は完全に収まり、新 しい時代がやってきた。
おわかりのように、天変地異が納まったことを知らせた鳩が、後に平和のシンボルと見なさせるようになったのである。 さて、面白いことに、日本における鳩は神様の使いでもある。平和の象徴である鳩が神に使いとは、なかなか意味深長である。しかも、鳩を使いとする神とい うのが、八幡神なのである。八幡神というと、歴史的に源氏の氏神、軍神として有名だ。日本全国の神社の中で、もっとも多いのが八幡神社であることからし て、その信仰の深さが察せられる。
有名な八幡神社というと、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮や京都の石清水八幡宮、福岡の筥崎八幡宮がある。こうした八幡宮の総本山が、九州は大分にある宇佐八幡宮である。
かくも人気の高い八幡神だが、どうしたわけか、『古事記』や『日本書紀』には登場しない。最初にその名を現す歴史書は『続日本紀』なる書物。奈良の東大寺の大仏を建立したときに、わざわざ九州から神輿に乗ってやってきたのが初めてだ。
八幡神は、こうしてなかなかミステリアスな神なのだが、学者によると、もともと九州の地方で祀られていた神で、いわば非常にマイナーな存在だったとい う。宇佐八幡宮には、もともと宇佐氏、大神氏、辛嶋氏という3つの氏族が祭祀を行っていた。このうち、もっとも古くから仕えてきたのが、辛嶋氏である。つ まり、八幡神とは辛嶋氏の氏神的存在だったといっても、過言ではない。
では、いったい辛嶋氏とは何者なのか。この地方には、○○勝氏という複姓を名乗る者が少なくない。辛嶋氏も、同様。辛嶋勝氏と名乗っていた。実は、この 「勝」という文字を複姓に持つ者は、みな秦氏の支族なのだ。ごく簡単にいってしまえば、辛嶋氏は秦氏。八幡神は秦氏の神なのである。
ということは、だ。八幡神の使いである鳩もまた、当然ながら秦氏と関係が深いことが予想される。
秦=ハタと鳩=ハト。どこか似た響きがある。これは偶然かも知れないが、近江の琵琶湖沿岸では、かつて秦氏の人たちのことを「ハトさん」と呼んでいたという。鳩という名前も、ひょっとすると秦氏に因むのかもしれない。
しかし、ここで注目したいのは、鳩の種類である。鳩は一般に、駅や公園にいる。が、もっともポピュラーなのは、神社や寺の境内ではないだろうか。八幡神社に限らず、神社に鳩はつきものである。
日本の鳩ハ、ふつう山鳩と宮鳩に大別される。神社にいるのは、いうまでもなく宮鳩である。元陸軍中尉で、伝書鳩隊の隊長であった日下部照氏は任務がら、 日本の鳩について研究。その結果、興味深いことを発見した。山鳩は日本古来の在来種であるが、宮鳩は渡来種だというのだ。つまり、宮鳩は大陸からやってき たというのである。
渡来種である宮鳩、すなわち神社の鳩は、もともと八幡宮の鳩。その八幡宮を創建した秦氏が渡来人。となれば、宮鳩を日本に持ち込んだのは、秦氏以外には考えられない。
そうなると、どうして秦氏は鳩を持ってきたかという謎が生まれる。まさか、伝書鳩にでも使おうと考えていたわけではあるまい。ましてや、家畜にして、その肉を食べようとしていたというのも、神の使いとしているあたりから、考えにくい。 しかして、これを解く鍵が「秦氏=ユダヤ人原始キリスト教徒説」である。
まず、第一に秦氏はユダヤ人だった。ユダヤ人にとって、鳩はどんな動物なのか。これを考えればいい。『旧約聖書』には、しばしば罪の許しを得るために、 動物を焼いて神に捧げたことが記されている。いわゆる燔祭である。捧げられる動物は牛や羊が一般的だが、貧しい人たちは鳩を捧げていた。つまり、ユダヤ人 にとって、鳩は神に捧げる犠牲の動物だった。秦氏も、同様なことを考えていた可能性がある。
第二に、秦氏は原始キリスト教徒だった。キリスト教徒は燔祭を行わない。なぜなら、最大の犠牲は神の子羊、イエス・キリスト本人だからだ。イエスが十字 架に磔になったこと自体が燔祭の意味をもっており、それ以後は、罪の許しを請う燔祭をする必要がない。よって、秦氏が鳩を燔祭として使うことはありえな い。
第三に、キリスト教徒にとって、鳩は平和のシンボル以上に、「聖霊」の象徴である。聖霊とは、神の御霊のこと。「御父と御子と聖霊」という3人の神のう ちのひとり。イエス・キリストが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたとき、天から聖霊が鳩のように降りてきた。ゆえに、鳩といえば、聖霊を意味するように なった。事実、西洋絵画において、イエス・キリストといっしょに描かれる鳩は必ず聖霊を意味している。
つまり、秦氏は鳩を聖霊の象徴と見なしていた。聖霊は御父なる神が送られた神である。いわば、神の使いの神でもある。鳩が八幡神の使いといわれるのも、こうしたことが背景にあるのではないだろうか。
鞍馬天狗
もう、1年ほどなるだろうか。衛星放送に続いて、ケーブル・テレビを導入した。ディスカバリー・チャンネルにヒストリー・チャンネル、それにアニマル・プ ラネットあたりがお気に入りなのだが、意外にも、ぞっこんなのが時代劇チャンネル。昔のチャンバラから暴れん坊将軍、銭形平次なんてのも、なつかしくて、 ついつい見てしまう。やっぱり、時代劇はいいね。とくに、モノクロ版のころは、今見ると、なかなか味があっていいんだな、これが。
そういえば、先日は、鞍馬天狗をやってたっけ。白馬に乗った白頭巾のヒーローが颯爽と現れ、悪人どもをばったばったとやっつける。後の月光仮面や仮面ライダーの原型ともなったカタルシスが、いや、なんともいえない。あっぱれ、あっぱれ。 思えば、この鞍馬天狗、フィクションではあるが、モデルがないわけではない。鞍馬とは、ご存じのように、京都の北にある鞍馬山のこと。ここには京都北方の守護、鞍馬寺がある。現在は鞍馬弘教という独立した宗教だが、もともと天台宗の寺だった。
一般に、鞍馬といえば、思い出すのが源義経である。その名も、牛若丸と名乗っていた幼少時代、彼はここ鞍馬で修行。講談では、かの怪力男、弁慶と出会っ たとされる。しかも、このとき牛若丸に武術や兵法を教えたのが、鞍馬天狗だという。天狗といっても、ひとりではなく、かなりの集団だったというから、昔の 隠密集団、もしくは秘密結社のような存在だったのかも知れない。
しかし、鞍馬において、天狗といえば、意味することは、ひとつ。鞍馬寺の本尊である。寺というからには、その正体はありがたい仏様と思うのが人情だが、 これがどっこい。なんと、仏とは正反対の魔王なのである。秘仏とされる魔王尊の姿形は、まさに赤い顔に白い髭、背には翼、手には団扇をもった天狗なのであ る。
寺に由来によれば、鞍馬天狗、すなわち魔王尊の正式な名前をサナート・クマラという。今から約450万年前、金星から地上、すなわち鞍馬に降臨。地球の 霊王として君臨した。一説には、チベット密教の経典『カーラ・チャクラ・タントラ』に記された地底帝国シャンバラの王だともいわれている。鞍馬のクラマ も、サナート・クマラのクマラが訛化したものだという。
なんとも、スケールのでかい話である。金星から地上に降臨したというあたり、なんだかキリスト教の神学でいう堕天使ルシファーを思い起こさせる。堕天使 ルシファーは明けの明星とも呼ばれ、天界で反乱を起こしたが、絶対神の前に敗れ、地上に投げ落とされた。結果、ルシファーは魔王サタンとなった。まさに、 魔王尊そのものだ。鞍馬天狗の正体は、ひょっとして、大魔王サタン=堕天使ルシファーなのか。だとすれば、なかなか興味深い話である。鞍馬には地底に存在 する魔界への入口があるかもしれない・・・。(つづく)
そういえば、先日は、鞍馬天狗をやってたっけ。白馬に乗った白頭巾のヒーローが颯爽と現れ、悪人どもをばったばったとやっつける。後の月光仮面や仮面ライダーの原型ともなったカタルシスが、いや、なんともいえない。あっぱれ、あっぱれ。 思えば、この鞍馬天狗、フィクションではあるが、モデルがないわけではない。鞍馬とは、ご存じのように、京都の北にある鞍馬山のこと。ここには京都北方の守護、鞍馬寺がある。現在は鞍馬弘教という独立した宗教だが、もともと天台宗の寺だった。
一般に、鞍馬といえば、思い出すのが源義経である。その名も、牛若丸と名乗っていた幼少時代、彼はここ鞍馬で修行。講談では、かの怪力男、弁慶と出会っ たとされる。しかも、このとき牛若丸に武術や兵法を教えたのが、鞍馬天狗だという。天狗といっても、ひとりではなく、かなりの集団だったというから、昔の 隠密集団、もしくは秘密結社のような存在だったのかも知れない。
しかし、鞍馬において、天狗といえば、意味することは、ひとつ。鞍馬寺の本尊である。寺というからには、その正体はありがたい仏様と思うのが人情だが、 これがどっこい。なんと、仏とは正反対の魔王なのである。秘仏とされる魔王尊の姿形は、まさに赤い顔に白い髭、背には翼、手には団扇をもった天狗なのであ る。
寺に由来によれば、鞍馬天狗、すなわち魔王尊の正式な名前をサナート・クマラという。今から約450万年前、金星から地上、すなわち鞍馬に降臨。地球の 霊王として君臨した。一説には、チベット密教の経典『カーラ・チャクラ・タントラ』に記された地底帝国シャンバラの王だともいわれている。鞍馬のクラマ も、サナート・クマラのクマラが訛化したものだという。
なんとも、スケールのでかい話である。金星から地上に降臨したというあたり、なんだかキリスト教の神学でいう堕天使ルシファーを思い起こさせる。堕天使 ルシファーは明けの明星とも呼ばれ、天界で反乱を起こしたが、絶対神の前に敗れ、地上に投げ落とされた。結果、ルシファーは魔王サタンとなった。まさに、 魔王尊そのものだ。鞍馬天狗の正体は、ひょっとして、大魔王サタン=堕天使ルシファーなのか。だとすれば、なかなか興味深い話である。鞍馬には地底に存在 する魔界への入口があるかもしれない・・・。(つづく)
鞍馬天狗2
鞍馬天狗は、450万年前に金星から地球に降り立った霊王サナート・クマラだった。 その正体は金星からやってきた異星人か。はては、明けの明星で表現され、地上に投げ落 とされた堕天使ルシファー、すなわち魔王サタンなのか。
と、これなどは伝奇小説のネタになりそうなのだが、このコラムはあくまでもノン・フ ィクションという姿勢を貫きたい。たとえ、それがどれだけぶっとんだ仮説であったとし ても、だ。
実をいうと、鞍馬天狗がサナート・クマラになったのは、意外に新しい。先代の管長が 神智学にはまったのがきっかけらしく、それが天台宗ではなく、鞍馬弘教という独自の宗 教団体になっている原因でもあるという。
神智学とは、聞き慣れない言葉かもしれないが、一言でいってしまえば、現代のオカル ト神秘主義といったところか。ユダヤ教神秘主義カバラやヒンドゥー教、仏教などの密教 思想、さらにはニューエイジも巻き込んで、一大ムーブメントを巻き起こした思想である 。有名どころでは、教育学で有名なルドルフ・シュタイナーや魔術で有名なアニー・ベサ ント、心霊学のオルコット大佐、インドの聖者ジットー・クリシュナムルティ、それに霊 能者の巨人とうたわれたマダム・ブラバツキーがいる。
とくに、ブラバツキー夫人の一連の書物の影響は大きく、そのなかにサナート・クマラ が登場する。どうも、鞍馬寺の管長がこれにはまってしまい、ついに己の寺の教義に組み 込んでしまったというのが真相らしい。
いやはやなんともといった感があるが、だからといって鞍馬天狗や魔王尊までもが神智 学からの輸入というわけではないので、ご心配なきよう。気を取り直して、魔王の深淵を 覗いてみようではないか。
鞍馬寺の本尊は毘沙門天である。実は、この仏こそ、本来の鞍馬天狗であり、魔王尊な のだ。仏教における天部は、みなもともとヒンドゥー教の神々である。とくに毘沙門天は ヒンドゥー教のルーツ、バラモン教にまで遡る古い神様である。インドにおける名前はク ベラ。バビブベボのバ行は、容易にマミムメモのマ行に訛化する。馬という漢字をバとい ったり、マと発音したするのは、この好例。筆者の大学のときの後輩に台湾人の娘がいた が、彼女はよくゴキブリをゴキムリと書いていたものである。推理するに、クベラのベが メになって、クメラと化し、これがサナート・クマラのクマラと同一視されたのではない かと思うのだが、いかがだろう。
まあ、それはいいとして、クベラに話を戻そう。インドにおけるクベラはヒマラヤに住 む財宝神。毘沙門天が北方の守護神として、平安京の北にある鞍馬寺で祀られた理由や商 売繁盛の七福神のひとりに選ばれたのは、ここに理由がある。今でも、天台宗の密教呪術 において、毘沙門天は強力なパワーを持つと信じられている。
しかし、そのルーツを探ると、これが意外。毘沙門天はサンスクリット語でヴァイシュ ラヴァナに漢字を当てはめたもの。意味は多くの耳をもって聞く者、いわゆる四天王のひ とり「多聞天」である。
でもって、その正体はというと、古代アーリアの光明神ミトラであることがわかってい る。ミトラはインドと同じくアーリア人国家のペルシアの宗教、ゾロアスター教でミスラ と呼ばれる。ミスラには多くの目や耳があり、生物の生長や国家の守護をすることから、 この属性が広目天、多聞天、持国天、増長天という4人の天部に分けられたのである。
一方、インドにおけるミトラは、サンスクリット語でマイトレーヤと呼ばれる。友情と いう意味だそうだ。が、これがなんと仏教に取り込まれると、あの弥勒菩薩になってしま う。経典によれば、弥勒は未来仏。釈迦の入滅の後、56億7000万年後、人類を救済す るために、地上に降臨するという。
救済するとか、降臨するとか、なんだかイエス・キリストを思わせる仏だ。実際のとこ ろ、弥勒菩薩が登場するのは大乗仏教の経典である。ご存じのように、大乗仏教が成立す るのは紀元1世紀以降。このころインドにキリスト教が入ってきたことは歴史的な事実。 弥勒菩薩の正体はイエス・キリストだといい切る人もいる。
つまり、以上のことを整理すると、鞍馬天狗や魔王尊とも呼ばれる毘沙門天はインドに おいてはクベラ、ミトラ呼ばれ、一方でマイトレーヤ=弥勒菩薩、引いてはイエス・キリ ストにまでつながる仏、もしくは神なのである。
前編の堕天使ルシファーから一転、イエス・キリストとなってしまった鞍馬天狗である が、なんの因果か、ここにもまた性懲りもなく、秦氏が顔を出すのだ。
鞍馬寺のある鞍馬山の古い名前を「松尾山」という。
京都で松尾といえば、だれもが思い浮かべるのが嵐山のほうにある神社、松尾大社だろ う。酒の神様として知られ、境内にはところ狭しと酒樽が並んでいる。実は、この神社を 創建したのが秦都理なる人物なのだ。歴代の宮司も、秦さんだったという。
松尾という言葉の意味は不明だが、これがあるところ、必ず秦氏がいる。若狭に松尾寺 があるが、そのあたりは秦氏だらけ。秦氏が建立した寺社が少なくない。また、琵琶湖の 東岸にも松尾という地名があり、通称、松尾寺がある。正式には金剛寺輪寺というのだが 、これが秦氏の寺なのだ。また、九州の長崎や佐賀には、松尾という名前をよく見かける が、彼ら松尾一族は、ずばり秦氏。松尾=秦氏といっても過言ではないのである。
そうなると、松尾=マツオという言葉も、なんとか秦氏=ユダヤ人原始キリスト教徒説 から説明してみたくなるのも、人情である。ヘブライ語、もしくはアラム語でマツオとい えば、これ種を入れないパンのこと。日本でいうモチ=餅のことである。いやいや、日本 語のモチこそ、マツオが訛った言葉なのだ。事実、ロシア系ユダヤ人はマツオのことをモ チと発音する。
でも、餅を神社の名前にするのも、なんか変といえば変である。
そいでもって考えたのが、マタイである。イエスの12使徒のひとりマタイは、ヨーロッ パではマテオなんて発音する。有名なマテオ・リッチがいい例だ。マテオとマツオなら、 なんとか近いか。12使徒の名前なら、神社の名称にしてもおかしくない。アラム語のマタ イがどう間違って、マツオになったのかはわからないが、一応、その可能性だけを指摘し ておくだけにとどめておこう。
まぁ、いずれにしても、鞍馬天狗の背後に秦氏が存在したことだけは間違いない。連中 が毘沙門天を祀り、そこにミトラ=マイトレーヤ=イエス・キリストを見抜いていたとし たら、なかなかのものだと思うのだが、さて、いかがだろう。
と、これなどは伝奇小説のネタになりそうなのだが、このコラムはあくまでもノン・フ ィクションという姿勢を貫きたい。たとえ、それがどれだけぶっとんだ仮説であったとし ても、だ。
実をいうと、鞍馬天狗がサナート・クマラになったのは、意外に新しい。先代の管長が 神智学にはまったのがきっかけらしく、それが天台宗ではなく、鞍馬弘教という独自の宗 教団体になっている原因でもあるという。
神智学とは、聞き慣れない言葉かもしれないが、一言でいってしまえば、現代のオカル ト神秘主義といったところか。ユダヤ教神秘主義カバラやヒンドゥー教、仏教などの密教 思想、さらにはニューエイジも巻き込んで、一大ムーブメントを巻き起こした思想である 。有名どころでは、教育学で有名なルドルフ・シュタイナーや魔術で有名なアニー・ベサ ント、心霊学のオルコット大佐、インドの聖者ジットー・クリシュナムルティ、それに霊 能者の巨人とうたわれたマダム・ブラバツキーがいる。
とくに、ブラバツキー夫人の一連の書物の影響は大きく、そのなかにサナート・クマラ が登場する。どうも、鞍馬寺の管長がこれにはまってしまい、ついに己の寺の教義に組み 込んでしまったというのが真相らしい。
いやはやなんともといった感があるが、だからといって鞍馬天狗や魔王尊までもが神智 学からの輸入というわけではないので、ご心配なきよう。気を取り直して、魔王の深淵を 覗いてみようではないか。
鞍馬寺の本尊は毘沙門天である。実は、この仏こそ、本来の鞍馬天狗であり、魔王尊な のだ。仏教における天部は、みなもともとヒンドゥー教の神々である。とくに毘沙門天は ヒンドゥー教のルーツ、バラモン教にまで遡る古い神様である。インドにおける名前はク ベラ。バビブベボのバ行は、容易にマミムメモのマ行に訛化する。馬という漢字をバとい ったり、マと発音したするのは、この好例。筆者の大学のときの後輩に台湾人の娘がいた が、彼女はよくゴキブリをゴキムリと書いていたものである。推理するに、クベラのベが メになって、クメラと化し、これがサナート・クマラのクマラと同一視されたのではない かと思うのだが、いかがだろう。
まあ、それはいいとして、クベラに話を戻そう。インドにおけるクベラはヒマラヤに住 む財宝神。毘沙門天が北方の守護神として、平安京の北にある鞍馬寺で祀られた理由や商 売繁盛の七福神のひとりに選ばれたのは、ここに理由がある。今でも、天台宗の密教呪術 において、毘沙門天は強力なパワーを持つと信じられている。
しかし、そのルーツを探ると、これが意外。毘沙門天はサンスクリット語でヴァイシュ ラヴァナに漢字を当てはめたもの。意味は多くの耳をもって聞く者、いわゆる四天王のひ とり「多聞天」である。
でもって、その正体はというと、古代アーリアの光明神ミトラであることがわかってい る。ミトラはインドと同じくアーリア人国家のペルシアの宗教、ゾロアスター教でミスラ と呼ばれる。ミスラには多くの目や耳があり、生物の生長や国家の守護をすることから、 この属性が広目天、多聞天、持国天、増長天という4人の天部に分けられたのである。
一方、インドにおけるミトラは、サンスクリット語でマイトレーヤと呼ばれる。友情と いう意味だそうだ。が、これがなんと仏教に取り込まれると、あの弥勒菩薩になってしま う。経典によれば、弥勒は未来仏。釈迦の入滅の後、56億7000万年後、人類を救済す るために、地上に降臨するという。
救済するとか、降臨するとか、なんだかイエス・キリストを思わせる仏だ。実際のとこ ろ、弥勒菩薩が登場するのは大乗仏教の経典である。ご存じのように、大乗仏教が成立す るのは紀元1世紀以降。このころインドにキリスト教が入ってきたことは歴史的な事実。 弥勒菩薩の正体はイエス・キリストだといい切る人もいる。
つまり、以上のことを整理すると、鞍馬天狗や魔王尊とも呼ばれる毘沙門天はインドに おいてはクベラ、ミトラ呼ばれ、一方でマイトレーヤ=弥勒菩薩、引いてはイエス・キリ ストにまでつながる仏、もしくは神なのである。
前編の堕天使ルシファーから一転、イエス・キリストとなってしまった鞍馬天狗である が、なんの因果か、ここにもまた性懲りもなく、秦氏が顔を出すのだ。
鞍馬寺のある鞍馬山の古い名前を「松尾山」という。
京都で松尾といえば、だれもが思い浮かべるのが嵐山のほうにある神社、松尾大社だろ う。酒の神様として知られ、境内にはところ狭しと酒樽が並んでいる。実は、この神社を 創建したのが秦都理なる人物なのだ。歴代の宮司も、秦さんだったという。
松尾という言葉の意味は不明だが、これがあるところ、必ず秦氏がいる。若狭に松尾寺 があるが、そのあたりは秦氏だらけ。秦氏が建立した寺社が少なくない。また、琵琶湖の 東岸にも松尾という地名があり、通称、松尾寺がある。正式には金剛寺輪寺というのだが 、これが秦氏の寺なのだ。また、九州の長崎や佐賀には、松尾という名前をよく見かける が、彼ら松尾一族は、ずばり秦氏。松尾=秦氏といっても過言ではないのである。
そうなると、松尾=マツオという言葉も、なんとか秦氏=ユダヤ人原始キリスト教徒説 から説明してみたくなるのも、人情である。ヘブライ語、もしくはアラム語でマツオとい えば、これ種を入れないパンのこと。日本でいうモチ=餅のことである。いやいや、日本 語のモチこそ、マツオが訛った言葉なのだ。事実、ロシア系ユダヤ人はマツオのことをモ チと発音する。
でも、餅を神社の名前にするのも、なんか変といえば変である。
そいでもって考えたのが、マタイである。イエスの12使徒のひとりマタイは、ヨーロッ パではマテオなんて発音する。有名なマテオ・リッチがいい例だ。マテオとマツオなら、 なんとか近いか。12使徒の名前なら、神社の名称にしてもおかしくない。アラム語のマタ イがどう間違って、マツオになったのかはわからないが、一応、その可能性だけを指摘し ておくだけにとどめておこう。
まぁ、いずれにしても、鞍馬天狗の背後に秦氏が存在したことだけは間違いない。連中 が毘沙門天を祀り、そこにミトラ=マイトレーヤ=イエス・キリストを見抜いていたとし たら、なかなかのものだと思うのだが、さて、いかがだろう。
クリスチャン
古代豪族の秦氏がキリスト教徒だというと、歴史通の人は、しばしば景教という言葉を 口にする。秦氏が景教徒ではないかという説は江戸時代に始まる。中国に伝来したネスト リウス派のキリスト教についての文献が日本に持ち込まれ、多くの知識人が、そこに大秦 景教という文字を見た。大秦とは、これ古代ローマ帝国のことである。一方、京都におけ る秦氏の最大拠点は太秦である。太と大という字には、似たような意味がある。しかも、 太秦の場合、大秦と表記した記録も少なくない。
中国が唐の時代、都の長安には景教の教会として大秦寺があった。これに対して、秦氏 の氏寺である広隆寺は別名を太秦寺という。太秦は大秦とも表記するから、これは中国の 大秦寺と同じではないか。つまり、現代でこそ仏教の寺院になっているが、実は景教の教 会だったのではないかという説が生まれた。早くは太田錦城や松浦静山などが、この説に 言及している。
が、もっともこれを有名したのは、東京文理化大学の佐伯好郎だ。彼は別名、景教博士 と呼ばれるほどのネストリウス派キリスト教の権威。その彼が秦氏はユダヤ人景教徒だと 主張したのである。これは当時の学会としても、ちょっとした事件だった。後に、騎馬民 族征服王朝論で名を知られるようになる東大の江上波夫は、佐伯氏の弟子である。
日ユ同祖論の先駆けとして、秦氏=ユダヤ人景教徒説は非常に有名だが、これは明らか に間違いである。誤解されている方が多いので、ここではっきりと明言しておく。秦氏は ユダヤ人景教徒ではない。後に景教を知った者はいるが、もともと景教徒ではない。もう 一度いう。秦氏は景教徒ではない。
これは佐伯氏も、晩年認めている。というのは、ネストリウス派が東方へ伝道しはじめ た4~5世紀、すでに秦氏は朝鮮半島に住んでおり、しかも日本へ渡来してきているので ある。彼らが景教徒になったにしては、時代は合わない。
秦氏が信じたキリスト教は、景教、すなわちネストリウス派といった一異端ではない。 だからといって、今日のカトリックのアタナシウス派でも、またヨーロッパへ広まったア リウス派でもない。これらはみな、後に教会が政治的な問題などで、勝手に解釈し、作り 上げた宗教である。
しかし、秦氏のキリスト教は、もっと古い。原始キリスト教なのだ。まさに、イエス・ キリスト直系の弟子たちから成る組織「エルサレム教団」の末裔なのである。一般に、12 使徒たちの組織はカトリックになったとされるが、真っ赤な嘘である。ヴァチカン最大の アキレス腱が、ここにある。
もっとも古い原始キリスト教は、すべてユダヤ人からなっていた。彼らの組織は第1次 ユダヤ戦争以後、歴史上から忽然と消えている。エルサレムからヨルダン川の東側のペラ という町に移住した後は、まったく足跡が不明なのだ。
だが、そこにははるかなるシルクロードが走っている。間違いなく、彼らは東へ向かっ た。1~2世紀にかけて、中国に大量のユダヤ人難民がやってきたのは、歴史的な事実な のだ。この中にユダヤ人原始キリスト教がいて、後に秦氏になった。そう筆者はにらんで いる。佐伯氏も、最終的には、ここに行き着いた。すなわち、秦氏はユダヤ人原始キリス ト教徒だった、と。
よく秦氏=ユダヤ人キリスト教徒説の話をすると、どうも景教徒説が先入観としてある ために、わけのわからない批判をしてくる人がままある。いい例が、景教徒であったかも しれないが、ユダヤ人である必要はない、というもの。確かに、現在のキリスト教と同じ ように、ネストリウス派=景教は民族を問わず、だれでも信者になれる。景教が伝来する ことをザビエルのキリスト教伝来と同列で扱おうとすれば、自ずとユダヤ人である必要性 はなくなる。
それを説明するためには、ネストリウス派の教義は、ユダヤ教に近かったとか、ユダヤ 人の信者が多かったなどと、大した根拠も示さずに強弁しなくてはならなくなる。自らが ユダヤ教徒ユダヤ人であるマーヴィン・トケイヤー氏は秦氏=ユダヤ人景教徒説を支持し 、それを広めた意味で有名な方だ。が、彼の場合、秦氏がユダヤ人といっても、失われた イスラエル10支族の末裔だという説である。ユダヤ教から背教し、異教徒となった10支族 がいきなり景教徒になったというのは、あまりにも無理がある。
ユダヤ人でなくてはならないキリスト教は、ひとつ。原始キリスト教のエルサレム教団 以外にありえない。イエス・キリスト直系の弟子たちである彼らは、表のキリスト教はま ったく違う使命があったのである。だからこそ、エルサレム教団ははるかシルクロードを 踏破し、極東の日本列島にまでやってきたのである。
中国が唐の時代、都の長安には景教の教会として大秦寺があった。これに対して、秦氏 の氏寺である広隆寺は別名を太秦寺という。太秦は大秦とも表記するから、これは中国の 大秦寺と同じではないか。つまり、現代でこそ仏教の寺院になっているが、実は景教の教 会だったのではないかという説が生まれた。早くは太田錦城や松浦静山などが、この説に 言及している。
が、もっともこれを有名したのは、東京文理化大学の佐伯好郎だ。彼は別名、景教博士 と呼ばれるほどのネストリウス派キリスト教の権威。その彼が秦氏はユダヤ人景教徒だと 主張したのである。これは当時の学会としても、ちょっとした事件だった。後に、騎馬民 族征服王朝論で名を知られるようになる東大の江上波夫は、佐伯氏の弟子である。
日ユ同祖論の先駆けとして、秦氏=ユダヤ人景教徒説は非常に有名だが、これは明らか に間違いである。誤解されている方が多いので、ここではっきりと明言しておく。秦氏は ユダヤ人景教徒ではない。後に景教を知った者はいるが、もともと景教徒ではない。もう 一度いう。秦氏は景教徒ではない。
これは佐伯氏も、晩年認めている。というのは、ネストリウス派が東方へ伝道しはじめ た4~5世紀、すでに秦氏は朝鮮半島に住んでおり、しかも日本へ渡来してきているので ある。彼らが景教徒になったにしては、時代は合わない。
秦氏が信じたキリスト教は、景教、すなわちネストリウス派といった一異端ではない。 だからといって、今日のカトリックのアタナシウス派でも、またヨーロッパへ広まったア リウス派でもない。これらはみな、後に教会が政治的な問題などで、勝手に解釈し、作り 上げた宗教である。
しかし、秦氏のキリスト教は、もっと古い。原始キリスト教なのだ。まさに、イエス・ キリスト直系の弟子たちから成る組織「エルサレム教団」の末裔なのである。一般に、12 使徒たちの組織はカトリックになったとされるが、真っ赤な嘘である。ヴァチカン最大の アキレス腱が、ここにある。
もっとも古い原始キリスト教は、すべてユダヤ人からなっていた。彼らの組織は第1次 ユダヤ戦争以後、歴史上から忽然と消えている。エルサレムからヨルダン川の東側のペラ という町に移住した後は、まったく足跡が不明なのだ。
だが、そこにははるかなるシルクロードが走っている。間違いなく、彼らは東へ向かっ た。1~2世紀にかけて、中国に大量のユダヤ人難民がやってきたのは、歴史的な事実な のだ。この中にユダヤ人原始キリスト教がいて、後に秦氏になった。そう筆者はにらんで いる。佐伯氏も、最終的には、ここに行き着いた。すなわち、秦氏はユダヤ人原始キリス ト教徒だった、と。
よく秦氏=ユダヤ人キリスト教徒説の話をすると、どうも景教徒説が先入観としてある ために、わけのわからない批判をしてくる人がままある。いい例が、景教徒であったかも しれないが、ユダヤ人である必要はない、というもの。確かに、現在のキリスト教と同じ ように、ネストリウス派=景教は民族を問わず、だれでも信者になれる。景教が伝来する ことをザビエルのキリスト教伝来と同列で扱おうとすれば、自ずとユダヤ人である必要性 はなくなる。
それを説明するためには、ネストリウス派の教義は、ユダヤ教に近かったとか、ユダヤ 人の信者が多かったなどと、大した根拠も示さずに強弁しなくてはならなくなる。自らが ユダヤ教徒ユダヤ人であるマーヴィン・トケイヤー氏は秦氏=ユダヤ人景教徒説を支持し 、それを広めた意味で有名な方だ。が、彼の場合、秦氏がユダヤ人といっても、失われた イスラエル10支族の末裔だという説である。ユダヤ教から背教し、異教徒となった10支族 がいきなり景教徒になったというのは、あまりにも無理がある。
ユダヤ人でなくてはならないキリスト教は、ひとつ。原始キリスト教のエルサレム教団 以外にありえない。イエス・キリスト直系の弟子たちである彼らは、表のキリスト教はま ったく違う使命があったのである。だからこそ、エルサレム教団ははるかシルクロードを 踏破し、極東の日本列島にまでやってきたのである。
温泉
旅の楽しみのひとつは温泉である。温泉に入って、ゆっくりと日頃の疲れを癒す。これ 無上の快楽なり。温泉は日本が世界に誇る文化のひとつである。
温泉は、もともと天然にお湯が湧きだしていたものがもとになっていたことは想像に固 くないが、もっとも古い記録に聖徳太子の時代のものがある。四国は愛媛県松山市郊外に ある道後温泉だ。
『伊予風土記』によると、596年、聖徳太子が高麗の僧、恵慈と豪族、葛城臣とともに 道後を訪れ、温泉を楽しんだ。このとき、温泉の質があまりにいいのに感動し、その思い を漢文とし、これを碑文に刻んで湯岡に建てたという。碑文そのものは失われているが、 その内容は『伊予風土記』逸文として『釈日本紀』に記され、貴重な古代の資料として注 目されている。
古代における温泉といえば、紀伊の牟婁の湯や播磨の有間の湯が知られているが、それ はあくまでも、ただの温泉。湯の郡と記されているのは実は、道後だけ。まさに今日でい う温泉郷は道後に始まるともいえる。その意味で、聖徳太子は意外にも、温泉通であった のかもしれない。
しかし、考えてみると、聖徳太子が住んでいたのは奈良、斑鳩の地である。それに対し て、道後は愛媛である。戦のために遠征するなら話もわかるが、温泉のためだけに、わざ わざやってきたにしては、なかなかの距離である。もっとも、それだけ道後温泉の魅力は 知れ渡っていたといえなもくないのだが、本当に史実かとなると、批判がないわけではな い。聖徳太子という人物は存在しなかったと主張する大山誠一氏は、湯岡碑文など鎌倉時 代の偽造であると一刀両断。フィクションにすぎないと切り捨てる。
まぁ、史実かどうかは別にしても、道後温泉が古くから知られていたことは事実である 。しかも、そこに聖徳太子伝説と結びつく要素がもともとあった可能性は否定できない。 では、その聖徳太子と温泉を結ぶもの。それは、いったい何か。2000年5月、謎を解 明すべく、筆者は道後温泉へと向かった。
温泉街のせまい道の傍らには、湯岡碑文の内容を刻んだ石碑があり、その由来を刻んだ 案内板とともに建っていた。そこから有名な道後温泉までは、歩いて2、3分といったと ころか。残念ながら、スケジュールの都合で、温泉には入れなかったが、そこでひとつ面 白いことに気がついた。
道後温泉のある当たりは湯岡という。湯の出る岡という意味だろう。その名の通り、す ぐそばには小高い山がある。ちょうど松山市を見渡せる地形ゆえか、かつてはこの山の上 には城があった。現在は、公園となっているのだが、その城の名を「湯築城」という。字 面をもってすれば、いかにも温泉郷の城といったイメージだ。由来書によると、名前の由 来は山の名を「湯築岡」と呼んでいたことにあるらしい。
この名前を見たとき、筆者はとっさに近江や静岡にある「湯次神社」を思い出した。が 、名前に「湯」とあるが、こちらは温泉とは関係がない。祭神の名前から命名されたもの である。で、その祭神というのが、弓月君なのだ。
そう、弓月君といえばご存じのように、朝鮮半島から日本に渡来してくるとき、秦氏を 率いてきた人間である。いわば秦氏の首長といっていいだろう。弓月君のユヅキがユツギ となり、湯次という漢字が当てられたというわけだ。
ひるがえって、道後温泉の湯築岡を見れば、なんと「ユヅキ岡」と読めるではないか。 本来は「弓月岡」だったとしたら、どうだろう。名前をつけたのは、間違いなく秦氏だっ たはずである。
しかも、湯岡碑文を刻んだ聖徳太子の側近は秦河勝である。彼は秦氏一族の長で、太秦 と呼ばれた男である。その秦河勝が支持する以上、聖徳太子のバックには秦氏一族が控え ていたとみて間違いない。
ということは、だ。道後温泉の聖徳太子伝説には、秦氏が関与していたとは考えられな いだろうか。もともと秦氏は大陸系の高度な土木技術をもっていた。それをもって、天然 の温泉を開発し、湯の郷にまでした。いい換えれば、道後温泉は秦氏が築いたのではない だろうか。
温泉は、もともと天然にお湯が湧きだしていたものがもとになっていたことは想像に固 くないが、もっとも古い記録に聖徳太子の時代のものがある。四国は愛媛県松山市郊外に ある道後温泉だ。
『伊予風土記』によると、596年、聖徳太子が高麗の僧、恵慈と豪族、葛城臣とともに 道後を訪れ、温泉を楽しんだ。このとき、温泉の質があまりにいいのに感動し、その思い を漢文とし、これを碑文に刻んで湯岡に建てたという。碑文そのものは失われているが、 その内容は『伊予風土記』逸文として『釈日本紀』に記され、貴重な古代の資料として注 目されている。
古代における温泉といえば、紀伊の牟婁の湯や播磨の有間の湯が知られているが、それ はあくまでも、ただの温泉。湯の郡と記されているのは実は、道後だけ。まさに今日でい う温泉郷は道後に始まるともいえる。その意味で、聖徳太子は意外にも、温泉通であった のかもしれない。
しかし、考えてみると、聖徳太子が住んでいたのは奈良、斑鳩の地である。それに対し て、道後は愛媛である。戦のために遠征するなら話もわかるが、温泉のためだけに、わざ わざやってきたにしては、なかなかの距離である。もっとも、それだけ道後温泉の魅力は 知れ渡っていたといえなもくないのだが、本当に史実かとなると、批判がないわけではな い。聖徳太子という人物は存在しなかったと主張する大山誠一氏は、湯岡碑文など鎌倉時 代の偽造であると一刀両断。フィクションにすぎないと切り捨てる。
まぁ、史実かどうかは別にしても、道後温泉が古くから知られていたことは事実である 。しかも、そこに聖徳太子伝説と結びつく要素がもともとあった可能性は否定できない。 では、その聖徳太子と温泉を結ぶもの。それは、いったい何か。2000年5月、謎を解 明すべく、筆者は道後温泉へと向かった。
温泉街のせまい道の傍らには、湯岡碑文の内容を刻んだ石碑があり、その由来を刻んだ 案内板とともに建っていた。そこから有名な道後温泉までは、歩いて2、3分といったと ころか。残念ながら、スケジュールの都合で、温泉には入れなかったが、そこでひとつ面 白いことに気がついた。
道後温泉のある当たりは湯岡という。湯の出る岡という意味だろう。その名の通り、す ぐそばには小高い山がある。ちょうど松山市を見渡せる地形ゆえか、かつてはこの山の上 には城があった。現在は、公園となっているのだが、その城の名を「湯築城」という。字 面をもってすれば、いかにも温泉郷の城といったイメージだ。由来書によると、名前の由 来は山の名を「湯築岡」と呼んでいたことにあるらしい。
この名前を見たとき、筆者はとっさに近江や静岡にある「湯次神社」を思い出した。が 、名前に「湯」とあるが、こちらは温泉とは関係がない。祭神の名前から命名されたもの である。で、その祭神というのが、弓月君なのだ。
そう、弓月君といえばご存じのように、朝鮮半島から日本に渡来してくるとき、秦氏を 率いてきた人間である。いわば秦氏の首長といっていいだろう。弓月君のユヅキがユツギ となり、湯次という漢字が当てられたというわけだ。
ひるがえって、道後温泉の湯築岡を見れば、なんと「ユヅキ岡」と読めるではないか。 本来は「弓月岡」だったとしたら、どうだろう。名前をつけたのは、間違いなく秦氏だっ たはずである。
しかも、湯岡碑文を刻んだ聖徳太子の側近は秦河勝である。彼は秦氏一族の長で、太秦 と呼ばれた男である。その秦河勝が支持する以上、聖徳太子のバックには秦氏一族が控え ていたとみて間違いない。
ということは、だ。道後温泉の聖徳太子伝説には、秦氏が関与していたとは考えられな いだろうか。もともと秦氏は大陸系の高度な土木技術をもっていた。それをもって、天然 の温泉を開発し、湯の郷にまでした。いい換えれば、道後温泉は秦氏が築いたのではない だろうか。
くだらない
世に「くだらない」という言葉がある。つまらない、取るに足らないという意味だが、 『広辞苑』を開くと、その語源は「『読み下らぬ』の略か」と出ている。断定的に記して いないことからみて、どうも定説にはなっていないらしい。
ところが、古代史研究家の間では、いわゆる俗説として、「くだらない」とは「百済な い」「百済ではない」のことだという説がよく知られている。百済とは、4~7世紀ごろ 、古代朝鮮半島にあった国で、大和朝廷と関係が深かった。仏教が百済から伝来したこと からもわかるように、それは尋常ではない。
また、663年の白村江の戦いでは、唐と新羅の連合軍に対して、日本は百済と連合し て戦った。残念ながら、日本と百済は戦いに敗れてしまうのだが、このとき百済の王子を 日本に亡命させている。おそらく、かなりの数の百済系渡来人が日本にやってきたことは 間違いない。
これらのことからわかるように、古代日本文化には、かなり百済の影響を受けている。 法隆寺の仏像に百済仏と呼ばれるものがあるように、飛鳥時代の芸術や建築は、百済系の ものがかなり多い。それこそ、百済からもたらされた品々は進んだ大陸文化の象徴であり 、ひとつのブランドだった。それゆえ、百済ではない物は、大した価値がないという風潮 が広まり、いつの間にか、これが転じて「くだらない」という言葉が生まれたというわけ である。
真偽のほどは定かではないが、そんな説が生まれてくるほどに、古代日本は百済贔屓だ った。江上波夫氏の騎馬民族征服王朝論によれば、天皇家のルーツは大陸の夫余系騎馬民 族で、百済の王家と同族だったことになる。
それが理由なのか、『古事記』や『日本書紀』に記された渡来人のほとんどは百済系で ある。百済王なる人物や王仁氏などは、そうした典型である。
だが、そうした百済系渡来人が本当に百済系なのかというと、これがそうでもない。百 済系とはいいながら、実は新羅系だったというケースがままある。人数では最大規模を誇 った秦氏は、まさしく、そうした偽称渡来人である。
ひと昔前の歴史の教科書には、秦氏は百済系渡来人と書かれている。なぜなら、記紀に 秦氏が百済から渡来してきたことが明記され、しかも、新羅が渡来を邪魔したとまである からだ。これを読めば、だれでも秦氏は百済系渡来人だと考えるだろう。
それを受けてか、古代史研究家の安本美典氏は、秦氏を率いてきた弓月君の「弓月」と は、その音韻から考えて、百済のことであると主張する。
ところが、だ。秦氏の文化というのは、どれもみな新羅系なのだ。国宝第1号で有名な 広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、まぎれもなく新羅仏。秦氏ゆかりの古寺の瓦もまた、新 羅様式。そもそも、新羅の前身ともいうべき国の名が「秦韓」というのだから、秦氏が新 羅系だったことは、だれの目にも明らかなのである。
どうして、秦氏は百済系と偽ったのだろうか。天皇家が百済の王家と同族だったことを 考慮して、少しでも気に入られるように百済系渡来人になりすましたとも考えられるが、 真相は不明のままだ。
しかし、新羅系渡来人なのに、百済系渡来人だと称した秦氏こそ、実は本当の意味で「 くだらない」渡来人なのかもしれない。いやいや、そもそも「くだらない」という言葉自 体が、秦氏が本当は百済系渡来人ではないという暗号だったのだろうか。
ところが、古代史研究家の間では、いわゆる俗説として、「くだらない」とは「百済な い」「百済ではない」のことだという説がよく知られている。百済とは、4~7世紀ごろ 、古代朝鮮半島にあった国で、大和朝廷と関係が深かった。仏教が百済から伝来したこと からもわかるように、それは尋常ではない。
また、663年の白村江の戦いでは、唐と新羅の連合軍に対して、日本は百済と連合し て戦った。残念ながら、日本と百済は戦いに敗れてしまうのだが、このとき百済の王子を 日本に亡命させている。おそらく、かなりの数の百済系渡来人が日本にやってきたことは 間違いない。
これらのことからわかるように、古代日本文化には、かなり百済の影響を受けている。 法隆寺の仏像に百済仏と呼ばれるものがあるように、飛鳥時代の芸術や建築は、百済系の ものがかなり多い。それこそ、百済からもたらされた品々は進んだ大陸文化の象徴であり 、ひとつのブランドだった。それゆえ、百済ではない物は、大した価値がないという風潮 が広まり、いつの間にか、これが転じて「くだらない」という言葉が生まれたというわけ である。
真偽のほどは定かではないが、そんな説が生まれてくるほどに、古代日本は百済贔屓だ った。江上波夫氏の騎馬民族征服王朝論によれば、天皇家のルーツは大陸の夫余系騎馬民 族で、百済の王家と同族だったことになる。
それが理由なのか、『古事記』や『日本書紀』に記された渡来人のほとんどは百済系で ある。百済王なる人物や王仁氏などは、そうした典型である。
だが、そうした百済系渡来人が本当に百済系なのかというと、これがそうでもない。百 済系とはいいながら、実は新羅系だったというケースがままある。人数では最大規模を誇 った秦氏は、まさしく、そうした偽称渡来人である。
ひと昔前の歴史の教科書には、秦氏は百済系渡来人と書かれている。なぜなら、記紀に 秦氏が百済から渡来してきたことが明記され、しかも、新羅が渡来を邪魔したとまである からだ。これを読めば、だれでも秦氏は百済系渡来人だと考えるだろう。
それを受けてか、古代史研究家の安本美典氏は、秦氏を率いてきた弓月君の「弓月」と は、その音韻から考えて、百済のことであると主張する。
ところが、だ。秦氏の文化というのは、どれもみな新羅系なのだ。国宝第1号で有名な 広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、まぎれもなく新羅仏。秦氏ゆかりの古寺の瓦もまた、新 羅様式。そもそも、新羅の前身ともいうべき国の名が「秦韓」というのだから、秦氏が新 羅系だったことは、だれの目にも明らかなのである。
どうして、秦氏は百済系と偽ったのだろうか。天皇家が百済の王家と同族だったことを 考慮して、少しでも気に入られるように百済系渡来人になりすましたとも考えられるが、 真相は不明のままだ。
しかし、新羅系渡来人なのに、百済系渡来人だと称した秦氏こそ、実は本当の意味で「 くだらない」渡来人なのかもしれない。いやいや、そもそも「くだらない」という言葉自 体が、秦氏が本当は百済系渡来人ではないという暗号だったのだろうか。
しらじらしい
前回「くだらない」とは「百済ではない」という俗説を紹介したが、今回は、それに関 連して「しらじらしい」という言葉について述べてみたい。意味は、しばっくれていると か、見え透いた嘘をいっている状態を指す。が、例によって、古代史の世界の俗説として 、これは「新羅新羅しい」のことだというものがある。
ただし、ここでいう「新羅」とは「シラギ」ではなく、元音に近い「シルラ」、もしく は「シラ」である。ちなみに、シラギとは新羅城の意味であるとされる。
おわかりのように、しらじらしいという言葉は、あまりいいイメージではない。むしろ 侮蔑したようなニュアンスが強い。というのも、古代日本は、とかく百済贔屓であった。 百済でない物は、くだらないという俗説が生まれるほど、とかく百済一辺倒。『古事記』 などは、新羅が敵国であることを全面に出している。そうしたなか、新羅から渡来してき た人々は、日本においても、いろいろと陰口を叩かれたのかもしれない。
しかし、考えてみると、そこまで新羅を敵視する態度もまた、どこか不自然といえなく もない。百済、百済とかいいながら、本当は新羅が好きなんじゃないのと、勘繰りたくな るのは、筆者だけであろうか。
ことに問題は秦氏である。渡来人の中で最大規模を誇り、平安京を建設するほど強大な 力をもち、神社を数多く建設し、天皇家の祭祀を取り仕切る彼らは『古事記』の編纂に関 わっていることは、古代史研究家の大和岩雄氏が指摘するとおり。新羅系渡来人の秦氏が 新羅をぼろくそに書く裏には、自らの出自を隠そうという思惑があったように思われてし かたがない。
事実、秦氏は出自をいつわって、百済からやってきたと主張している。だが、本当の百 済系渡来人から見れば、嘘は明白。そもそも百済系といいながら、自分たちが建設した寺 や神社の瓦の文様は、正真正銘の新羅ブランド。コテコテの新羅人であることがどっから 見ても明らかなのである。
なのに、それをあえて、百済系渡来人だといいつづける秦氏は、それこそ「新羅新羅し た」連中であり、「しらじらしい」渡来人だったとはいえないだろうか。
ただし、ここでいう「新羅」とは「シラギ」ではなく、元音に近い「シルラ」、もしく は「シラ」である。ちなみに、シラギとは新羅城の意味であるとされる。
おわかりのように、しらじらしいという言葉は、あまりいいイメージではない。むしろ 侮蔑したようなニュアンスが強い。というのも、古代日本は、とかく百済贔屓であった。 百済でない物は、くだらないという俗説が生まれるほど、とかく百済一辺倒。『古事記』 などは、新羅が敵国であることを全面に出している。そうしたなか、新羅から渡来してき た人々は、日本においても、いろいろと陰口を叩かれたのかもしれない。
しかし、考えてみると、そこまで新羅を敵視する態度もまた、どこか不自然といえなく もない。百済、百済とかいいながら、本当は新羅が好きなんじゃないのと、勘繰りたくな るのは、筆者だけであろうか。
ことに問題は秦氏である。渡来人の中で最大規模を誇り、平安京を建設するほど強大な 力をもち、神社を数多く建設し、天皇家の祭祀を取り仕切る彼らは『古事記』の編纂に関 わっていることは、古代史研究家の大和岩雄氏が指摘するとおり。新羅系渡来人の秦氏が 新羅をぼろくそに書く裏には、自らの出自を隠そうという思惑があったように思われてし かたがない。
事実、秦氏は出自をいつわって、百済からやってきたと主張している。だが、本当の百 済系渡来人から見れば、嘘は明白。そもそも百済系といいながら、自分たちが建設した寺 や神社の瓦の文様は、正真正銘の新羅ブランド。コテコテの新羅人であることがどっから 見ても明らかなのである。
なのに、それをあえて、百済系渡来人だといいつづける秦氏は、それこそ「新羅新羅し た」連中であり、「しらじらしい」渡来人だったとはいえないだろうか。
君が代
日本の国歌は「君が代」である。いろいろ議論はあるだろうが、国歌は国歌である。「君が代」を国歌と認めない人は「君」が「王」で、「大王」すなわち「天 皇」を指していることが気に食わないらしい。「君が代」とは「天皇の世」のことで、いわば天皇の御治世が千代に八千代に、すなわち永遠に続くことを祈念し た歌であり、天皇礼賛の歌にほかならなず、民主主義国家の歌にはふさわしくないというのだ。
別に、ここで国歌論議をするつもりはないが、妖しいことに、「君が代」制定には、秦氏の影があるのだ。
「君が代」の原典は『古今和歌集』に修められた賀歌にあることはよく知られている。現在の「君が代」と違うのは、最初が「わが君は」となっている部分のみ。あとは、全部同じ歌である。
これをもとに、国歌が作られていくのだが、最初に作曲したのは、実は日本人ではない。依頼されたのは、イギリスの軍楽長ジョン・W・フェントンだった。 が、できあがった曲にいろいろと問題が起こり、最終的に林広季と奥好義が作曲したものをドイツ人フランツ・エッケルトが編曲。さらに、宮内省雅楽課楽長の 林広守が最終的に仕上げを行って、できたものである。
さて、ここに登場した林広季は林広守の子供で、いわば親子2代で「君が代」を作り上げたといったいい。彼らは、ともに雅楽のエキスパート。先祖代々、雅楽の伝統を守りつづけた一族で、その世界では有名な楽家なのである。
楽家には、いくつかの流れがあるのだが、大きく多氏と秦氏がある。中世の資料を見ると、多氏の人間の中には、秦氏と名乗っている者がおり、多氏と秦氏は同族関係にあったことがわかる。
雅楽のルーツは、聖徳太子の命を受けた秦氏の首長、秦河勝が四天王寺において息子たちに音楽の演奏や舞をさせたことに始まる。これらの息子のうち、ひとりが後の雅楽の家元、林家となる。つまり、林広季と林広守は、ともに秦河勝の直系の子孫だということになる。
日本に渡来してきた秦氏が国歌「君が代」を作曲するというのは、これは偶然なのか。それとも、何か深い計画があってのことなのか。ひとつだけいえるの は、「君が代」の曲は雅楽のルーツ、すなわちシルクロード音楽だということである。「君が代」を口ずさむとき、はるかなる大陸への望郷を感じるのは秦氏だ けであるまい。
別に、ここで国歌論議をするつもりはないが、妖しいことに、「君が代」制定には、秦氏の影があるのだ。
「君が代」の原典は『古今和歌集』に修められた賀歌にあることはよく知られている。現在の「君が代」と違うのは、最初が「わが君は」となっている部分のみ。あとは、全部同じ歌である。
これをもとに、国歌が作られていくのだが、最初に作曲したのは、実は日本人ではない。依頼されたのは、イギリスの軍楽長ジョン・W・フェントンだった。 が、できあがった曲にいろいろと問題が起こり、最終的に林広季と奥好義が作曲したものをドイツ人フランツ・エッケルトが編曲。さらに、宮内省雅楽課楽長の 林広守が最終的に仕上げを行って、できたものである。
さて、ここに登場した林広季は林広守の子供で、いわば親子2代で「君が代」を作り上げたといったいい。彼らは、ともに雅楽のエキスパート。先祖代々、雅楽の伝統を守りつづけた一族で、その世界では有名な楽家なのである。
楽家には、いくつかの流れがあるのだが、大きく多氏と秦氏がある。中世の資料を見ると、多氏の人間の中には、秦氏と名乗っている者がおり、多氏と秦氏は同族関係にあったことがわかる。
雅楽のルーツは、聖徳太子の命を受けた秦氏の首長、秦河勝が四天王寺において息子たちに音楽の演奏や舞をさせたことに始まる。これらの息子のうち、ひとりが後の雅楽の家元、林家となる。つまり、林広季と林広守は、ともに秦河勝の直系の子孫だということになる。
日本に渡来してきた秦氏が国歌「君が代」を作曲するというのは、これは偶然なのか。それとも、何か深い計画があってのことなのか。ひとつだけいえるの は、「君が代」の曲は雅楽のルーツ、すなわちシルクロード音楽だということである。「君が代」を口ずさむとき、はるかなる大陸への望郷を感じるのは秦氏だ けであるまい。
宮本武蔵
宮本武蔵といえば、最近、漫画「バカボンド」で注目され、衛星放送などで昔の映画が流されて、ちょっとしたブームになっているという。剣豪で知られ、剣術秘伝書「五輪書」は剣の道を志す者、必読の書といわれる。
なんといっても、佐々木小次郎との巌流島の決戦は圧巻だが、その後の宮本武蔵については、あまり知られていない。彼は、何人か養子を抱えており、これがみな美男子であったことから、男色の毛があったのではないかという説もある。
その養子のひとりに、甥の宮本伊織がいる。彼が宮本家を継いでいくわけだが、これがなんとも秦氏的にミステリアス。あるとき、私財を投じて、加古川の泊神社の社殿を改築し、以後、ここを宮本家の氏神としてい祀るようになる。
天下の宮本家が崇敬した泊神社とは、いったい何か。
調べてみると、祭神は天照大神や少名彦などが掲げられているのだが、その由来が、これまたおもしろい。泊とは、ここがかつて海岸だったことに由来すると いい、神代のころ、巨大な鏡が流れてきた。その鏡は天照大神が天岩屋にこもったとき、作った2枚のうちのひとつだという。残るもう一枚の鏡は、三種の神器 のひとつ八咫鏡のこと。つまり、泊神社の鏡は八咫鏡と同じ鋳型から作られた鏡であるというのである。
なんとも、すごい話だが、まったく根拠のない話ではない。ある伝説によれば、八咫鏡は、もともと3枚作られ、ひとつは伊勢、ひとつは国縣、もうひとつは宮中へ祀られたという。恐らく、これがベースとなって、泊神社の由来伝説ができたと思われる。
事実、国縣神社の祭神のひとりは、国縣大明神となっている。
ただし、これを祀ったのは、飛鳥時代。聖徳太子の時代ブレーンだった秦河勝が加古川を訪れ、鶴林寺を創建する。このとき、秦河勝は泊神社を訪れ、氏神である国縣神社<国縣神宮>の祭神を勧請したのだという。
お待たせしました。秦氏の登場である。秦河勝が祀ったのは氏神である。氏神ということは、秦氏ゆかりの神である。すなわち、国縣大明神は秦氏の神だったと もいえる。その秦氏の神を宮本家が崇敬した。ひょっとすると、宮本家自体、何らかの形で秦氏と婚姻関係でも結んでいたのかもしれない。
ただ、興味深いのは、剣道の宗家が鏡を御神体とする神社を崇敬したという点である。剣と鏡。どこか三種の神器を思い起こさせなくもない。
これは私見だが、宮本家が国縣大明神を崇敬した理由は、国縣神社のほうの御神体もあるような気がする。というのは、御神体の名前を日矛鏡というのだ。鏡 とはいうが、矛という名を冠している。矛と剣、ともに武器である。宮本家は、矛を剣に見立てて、国縣大明神を崇敬したように思われてしかたがない。
さらに、この日矛という名前だが、これは秦氏集団の象徴ともいわれる新羅の王子、天日矛に通じる。秦河勝が国縣大明神を氏神と称しているのも、ここに理由があるのかもしれない。いずれにしても、天下の剣豪、宮本武蔵の家が秦氏の神を崇敬していたのは間違いない。
なんといっても、佐々木小次郎との巌流島の決戦は圧巻だが、その後の宮本武蔵については、あまり知られていない。彼は、何人か養子を抱えており、これがみな美男子であったことから、男色の毛があったのではないかという説もある。
その養子のひとりに、甥の宮本伊織がいる。彼が宮本家を継いでいくわけだが、これがなんとも秦氏的にミステリアス。あるとき、私財を投じて、加古川の泊神社の社殿を改築し、以後、ここを宮本家の氏神としてい祀るようになる。
天下の宮本家が崇敬した泊神社とは、いったい何か。
調べてみると、祭神は天照大神や少名彦などが掲げられているのだが、その由来が、これまたおもしろい。泊とは、ここがかつて海岸だったことに由来すると いい、神代のころ、巨大な鏡が流れてきた。その鏡は天照大神が天岩屋にこもったとき、作った2枚のうちのひとつだという。残るもう一枚の鏡は、三種の神器 のひとつ八咫鏡のこと。つまり、泊神社の鏡は八咫鏡と同じ鋳型から作られた鏡であるというのである。
なんとも、すごい話だが、まったく根拠のない話ではない。ある伝説によれば、八咫鏡は、もともと3枚作られ、ひとつは伊勢、ひとつは国縣、もうひとつは宮中へ祀られたという。恐らく、これがベースとなって、泊神社の由来伝説ができたと思われる。
事実、国縣神社の祭神のひとりは、国縣大明神となっている。
ただし、これを祀ったのは、飛鳥時代。聖徳太子の時代ブレーンだった秦河勝が加古川を訪れ、鶴林寺を創建する。このとき、秦河勝は泊神社を訪れ、氏神である国縣神社<国縣神宮>の祭神を勧請したのだという。
お待たせしました。秦氏の登場である。秦河勝が祀ったのは氏神である。氏神ということは、秦氏ゆかりの神である。すなわち、国縣大明神は秦氏の神だったと もいえる。その秦氏の神を宮本家が崇敬した。ひょっとすると、宮本家自体、何らかの形で秦氏と婚姻関係でも結んでいたのかもしれない。
ただ、興味深いのは、剣道の宗家が鏡を御神体とする神社を崇敬したという点である。剣と鏡。どこか三種の神器を思い起こさせなくもない。
これは私見だが、宮本家が国縣大明神を崇敬した理由は、国縣神社のほうの御神体もあるような気がする。というのは、御神体の名前を日矛鏡というのだ。鏡 とはいうが、矛という名を冠している。矛と剣、ともに武器である。宮本家は、矛を剣に見立てて、国縣大明神を崇敬したように思われてしかたがない。
さらに、この日矛という名前だが、これは秦氏集団の象徴ともいわれる新羅の王子、天日矛に通じる。秦河勝が国縣大明神を氏神と称しているのも、ここに理由があるのかもしれない。いずれにしても、天下の剣豪、宮本武蔵の家が秦氏の神を崇敬していたのは間違いない。
餅
京都に伏見稲荷大社という神社がある。ここは全国の稲荷神社の総本山である。創建し たのは、 秦伊呂具なる人物。おわかりのように、秦氏一族である。
もっとも、秦伊呂具という名前は誤記の可能性が高く、正確には秦伊呂巨というらしい 。伊呂巨とはイロコと読むのだが、これはウロコ可能性もある。というのも、別の資料に よれば、秦伊呂巨は秦鱗となっているからだ。鱗とは、なかなか不気味な気もするが、伏 見稲荷大社の神官は、なぜか魚に関する名前を持っている。これについては、いずれまた 述べることにしたいが、今回の注目はのが 秦伊呂具その人である。
秦氏は殖産豪族といわれるように、古代から養蚕を初めとする産業を行い、彼らは非常 に裕福であった。もちろん、秦伊呂具も、そうした富豪のひとり。『山城国風土記』によ ると、彼は、あるとき鏡餅を立てかけ、これを的に見立てて、矢を打とうとした。いわば 餅の射的である。
小さいころ、食べ物を粗末にしてはいけないと親から叱られた人も多いと思うが、秦伊 呂具は、まさに、これ。富豪ゆえ、食べ物など、腐るほどある。何か面白いことはないか と考え、餅を的に射的しようと思い立ったわけだ。
だが、こうした行為が許されるはずはない。いざ、矢を射ろうとしたところ、餅が白い 鳥に変身。そのまま飛んでいってしまった。 後を追いかけていくと、鳥は山の峰に止ま るのが見えた。そこで、秦伊呂具が行ってみると、鳥が止まった場所に稲が稔った。
秦伊呂具は、これは神様がしたことだと、自らの行いを反省。稲が稔った場所に社を構 え、神社を創建した。名は、稲が稔ったことにちなみ、稲荷神社と称した。また、秦家の 人々は以後、米を粗末に扱うことはなくなったという。
さて、民俗学者によると、稲と白い鳥というのは、密接な関係にあるという。稲に宿る 魂が鳥の姿をしていると信じられていることが、秦伊呂具の伝説に見られるという。白米 と白鳥という、白つながりも指摘されている。
しかし、秦氏=ユダヤ人原始キリスト教徒説から見れば、もうひとつ違った見方ができ る。まず、餅である。餅というと、米から作るので、アジア特有のもの、とかく稲作地方 だけのものであると思っている人が少なくない。だが、餅の原料は、何も米だけではない 。稗や粟でも、餅は作れる。また、麦でもいい。
麦で餅を作るというと、それはパンである。ただし、ふつうわれわれが店で買うパンは イースト菌を入れて膨らましたもの。種菌を入れずに、そのまま練っただけのパンは、れ っきとした餅である。
ユダヤ教では、毎年、過ぎ越しの祭りという重要な儀式を行う。ユダヤ暦で、年が改ま るとき、家族が集まり、夜通し眠らないで過ごす。これは、有名な出エジプトを記念した 行事なのだが、このとき、必ず種を入れないパン、すなわち餅を食べる。ヘブライ語で、 この餅をマツオという。モチとマツオ、どこか似た響きはないだろうか。実は、マツオと いう言葉は地方によって、いろいろ訛って発音され、とくに東方、ロシアでは、ずばりモ チと発音する。
しかも、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りとは年が改まる日に行われる。日本でいえば、それ は大晦日であり、翌日の正月である。日本人が正月に食べるものといえば、そう餅なのだ 。 さらに、過ぎ越しの祭りでは苦菜もいっしょに食べることになっているが、これは正 月の七草粥そのものである。
なぜ、日本で正月に餅を食べるのか。その文化を運んできたのは、秦氏=ユダヤ人原始 キリスト教徒ではないだろうか。過ぎ越しの祭りは原始キリスト教徒にとっても、非常に 重要な儀式であった。かのイエス・キリストは十字架に磔になる前夜、弟子たちと食事を した。いわゆる最後の晩餐であるが、これは実をいうと過ぎ越しの祭りなのだ。イエス・ キリストは大晦日、弟子たちといっしょに餅を食べていたのである。
もっとも、秦伊呂具という名前は誤記の可能性が高く、正確には秦伊呂巨というらしい 。伊呂巨とはイロコと読むのだが、これはウロコ可能性もある。というのも、別の資料に よれば、秦伊呂巨は秦鱗となっているからだ。鱗とは、なかなか不気味な気もするが、伏 見稲荷大社の神官は、なぜか魚に関する名前を持っている。これについては、いずれまた 述べることにしたいが、今回の注目はのが 秦伊呂具その人である。
秦氏は殖産豪族といわれるように、古代から養蚕を初めとする産業を行い、彼らは非常 に裕福であった。もちろん、秦伊呂具も、そうした富豪のひとり。『山城国風土記』によ ると、彼は、あるとき鏡餅を立てかけ、これを的に見立てて、矢を打とうとした。いわば 餅の射的である。
小さいころ、食べ物を粗末にしてはいけないと親から叱られた人も多いと思うが、秦伊 呂具は、まさに、これ。富豪ゆえ、食べ物など、腐るほどある。何か面白いことはないか と考え、餅を的に射的しようと思い立ったわけだ。
だが、こうした行為が許されるはずはない。いざ、矢を射ろうとしたところ、餅が白い 鳥に変身。そのまま飛んでいってしまった。 後を追いかけていくと、鳥は山の峰に止ま るのが見えた。そこで、秦伊呂具が行ってみると、鳥が止まった場所に稲が稔った。
秦伊呂具は、これは神様がしたことだと、自らの行いを反省。稲が稔った場所に社を構 え、神社を創建した。名は、稲が稔ったことにちなみ、稲荷神社と称した。また、秦家の 人々は以後、米を粗末に扱うことはなくなったという。
さて、民俗学者によると、稲と白い鳥というのは、密接な関係にあるという。稲に宿る 魂が鳥の姿をしていると信じられていることが、秦伊呂具の伝説に見られるという。白米 と白鳥という、白つながりも指摘されている。
しかし、秦氏=ユダヤ人原始キリスト教徒説から見れば、もうひとつ違った見方ができ る。まず、餅である。餅というと、米から作るので、アジア特有のもの、とかく稲作地方 だけのものであると思っている人が少なくない。だが、餅の原料は、何も米だけではない 。稗や粟でも、餅は作れる。また、麦でもいい。
麦で餅を作るというと、それはパンである。ただし、ふつうわれわれが店で買うパンは イースト菌を入れて膨らましたもの。種菌を入れずに、そのまま練っただけのパンは、れ っきとした餅である。
ユダヤ教では、毎年、過ぎ越しの祭りという重要な儀式を行う。ユダヤ暦で、年が改ま るとき、家族が集まり、夜通し眠らないで過ごす。これは、有名な出エジプトを記念した 行事なのだが、このとき、必ず種を入れないパン、すなわち餅を食べる。ヘブライ語で、 この餅をマツオという。モチとマツオ、どこか似た響きはないだろうか。実は、マツオと いう言葉は地方によって、いろいろ訛って発音され、とくに東方、ロシアでは、ずばりモ チと発音する。
しかも、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りとは年が改まる日に行われる。日本でいえば、それ は大晦日であり、翌日の正月である。日本人が正月に食べるものといえば、そう餅なのだ 。 さらに、過ぎ越しの祭りでは苦菜もいっしょに食べることになっているが、これは正 月の七草粥そのものである。
なぜ、日本で正月に餅を食べるのか。その文化を運んできたのは、秦氏=ユダヤ人原始 キリスト教徒ではないだろうか。過ぎ越しの祭りは原始キリスト教徒にとっても、非常に 重要な儀式であった。かのイエス・キリストは十字架に磔になる前夜、弟子たちと食事を した。いわゆる最後の晩餐であるが、これは実をいうと過ぎ越しの祭りなのだ。イエス・ キリストは大晦日、弟子たちといっしょに餅を食べていたのである。
十字
最近、陰陽道やら、安倍晴明が何かとブームである。本やドラマ、ビデオのほか、近々 、『陰陽師』なる映画が上映されるとか。恐らく、平安貴族の雅な姿と陰陽道というマジ カルなテーマが受けているのだろう。
陰陽道というと、安倍晴明の安倍氏=土御門氏や、安倍晴明の師匠である賀茂忠行の賀 茂氏が有名である。が、忘れてならないのが、秦氏である。もともと中国の道教が源流で ある陰陽道は、古代においては独占的に渡来人が担っていた。そのなかで、最大勢力を誇 ったのが、実は秦氏なのだ。
説話では、常に安倍晴明の敵として登場する芦屋道満は、本名を秦道満という。芦屋と いうのは、兵庫県の芦屋のことで、恐らくここの出身か、もしくはゆかりの者であったと 思われる。兵庫県の播磨地方は、かねてから陰陽道が盛んで、数多くの陰陽師を輩出して きた。かの安倍晴明も、かつてここに役人として赴任していたことがある。
ところで、陰陽道というと、必ずシンボルとして描かれるのはドーマン・セーマンとい う、ふたつのマークである。セーマンは五芒星、ドーマンは九字の格子紋である。これら のマークの名称が、それぞれセーマン=晴明、ドーマン=道満を意味していることは、い うまでもない。
今回、注目したいのは、ドーマンのほうである。これは縦横に直線が描かれた格子模様 で、陰陽道の呪術「九字」を表現している。すなわち、臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在 、前という9つの文字で表現された呪文を縦横、交互に切っていく。これを一般に九字を 切るとか、九字切りなどと呼んでいる。
しかし、ことは陰陽道である。表があれば、裏がある。陰陽の原理に基づく、裏のドー マンが存在することを知る人は少ない。陰陽道における数は、それぞれ奇数が陽、偶数が 陰と決められている。よって、九字は奇数であるから、陽の呪術。陰の呪術は、これに1 を足して、偶数にする。つまり、九字に一字足して、十字である。九字を切った後、その 格子紋の中心に、最後の封印をするように、一字を打ち込む。
しかし、これは形式的なもので、本来の裏の九字、すなわち十字とは、ずばり縦横1本 ずつの直線で、文字通り十字を切る。
お分かりだろう。これはキリスト教徒が祈る際に胸の前で切る十字とそっくり同じ。い や、まったく同じものであるといっていい。なぜならば、この呪術をもたらしたのが、ほ かでもない。ユダヤ人原始キリスト教徒の秦氏なのだ。彼らはユダヤ教神秘主義カッバー ラの使い手であり、陰陽道のルーツも、もとをただせば同根。カッバーラにあるのだ。
ただし、秦氏は十字を切る呪術を陰陽の原理から裏の呪術として、封印。彼らの密儀と して行っているのである。
陰陽道というと、安倍晴明の安倍氏=土御門氏や、安倍晴明の師匠である賀茂忠行の賀 茂氏が有名である。が、忘れてならないのが、秦氏である。もともと中国の道教が源流で ある陰陽道は、古代においては独占的に渡来人が担っていた。そのなかで、最大勢力を誇 ったのが、実は秦氏なのだ。
説話では、常に安倍晴明の敵として登場する芦屋道満は、本名を秦道満という。芦屋と いうのは、兵庫県の芦屋のことで、恐らくここの出身か、もしくはゆかりの者であったと 思われる。兵庫県の播磨地方は、かねてから陰陽道が盛んで、数多くの陰陽師を輩出して きた。かの安倍晴明も、かつてここに役人として赴任していたことがある。
ところで、陰陽道というと、必ずシンボルとして描かれるのはドーマン・セーマンとい う、ふたつのマークである。セーマンは五芒星、ドーマンは九字の格子紋である。これら のマークの名称が、それぞれセーマン=晴明、ドーマン=道満を意味していることは、い うまでもない。
今回、注目したいのは、ドーマンのほうである。これは縦横に直線が描かれた格子模様 で、陰陽道の呪術「九字」を表現している。すなわち、臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在 、前という9つの文字で表現された呪文を縦横、交互に切っていく。これを一般に九字を 切るとか、九字切りなどと呼んでいる。
しかし、ことは陰陽道である。表があれば、裏がある。陰陽の原理に基づく、裏のドー マンが存在することを知る人は少ない。陰陽道における数は、それぞれ奇数が陽、偶数が 陰と決められている。よって、九字は奇数であるから、陽の呪術。陰の呪術は、これに1 を足して、偶数にする。つまり、九字に一字足して、十字である。九字を切った後、その 格子紋の中心に、最後の封印をするように、一字を打ち込む。
しかし、これは形式的なもので、本来の裏の九字、すなわち十字とは、ずばり縦横1本 ずつの直線で、文字通り十字を切る。
お分かりだろう。これはキリスト教徒が祈る際に胸の前で切る十字とそっくり同じ。い や、まったく同じものであるといっていい。なぜならば、この呪術をもたらしたのが、ほ かでもない。ユダヤ人原始キリスト教徒の秦氏なのだ。彼らはユダヤ教神秘主義カッバー ラの使い手であり、陰陽道のルーツも、もとをただせば同根。カッバーラにあるのだ。
ただし、秦氏は十字を切る呪術を陰陽の原理から裏の呪術として、封印。彼らの密儀と して行っているのである。
おでん
めっきり涼しくなってきた今日このごろ。鍋物や煮物がおいしい季節となりました。で も、これからのシーズンの定番は、なんといってもおでんですね。煮込んだ大根やハンペ ン、がんもどきにチクワブ、それにさつま揚げ。あつあつのだし汁に辛子なんか付けたら 、もう最高です。
ところで、おでんを漢字で書くとどうなるでしょう。
答えは「御田」。字面を見ると、これは田んぼのことである。田んぼと料理のおでんの 間には、どんな関係があるのだろうか。調べてみると、これがなかなかおもしろい。おで んの御田の接頭語「御」を取ると、田になる。田とは、これ略語であって、本当は「田楽 」のこと。味噌田楽とかいう、あの田楽を意味する。
京料理などの田楽は、こんにゃくを串刺しにしたものに、辛みそや甘みそをつけて食べ る。こんにゃくのほかにも、ネギやハンペンなどを刺してもいい。要は、この田楽の具を 串に刺さずに、そのまま鍋料理としたものが、いわゆるおでんなのである。
しかし、おでんが田楽だとしても、それと田んぼがどう関係するのか、これではさっぱ りわからない。田楽とは、いったい何なのか。田はわかるにしても、楽は何か。楽が付く 言葉には、音楽や能楽があるが、これと関係があるのか。実は、大ありなのだ。
田楽とは、能楽や猿楽など、日本の伝統芸能のひとつ。曲芸や大道芸のようなもので、 主に庶民が田んぼで楽しんでいたことから、この名がある。いわば民間の遊びである。だ が、いつの時代も、芸達者な者はいるもので、田楽を専門とする人間がいた。なかでも有 名なのが、田楽法師である。彼は棒の上に乗ったりする曲芸を得意としていた。棒一本で 立つ姿は、田んぼの案山子のようであったという。
こんにゃくの串刺しの形が、一本足の田楽法師に似ていることから、いつしかそれを田 楽法師と呼び習わすようになり、やがてたんに田楽となり、いつしかおでんになったとい うわけである。
だが、ここで注目は田楽法師である。いったい、田楽法師とは何者なのか。残念ながら 、近世において田楽は衰退。ついに伝統は途絶え、それを継承する者がいなくなってしま ったのである。そのため、田楽法師が何者なのかということは、ほとんどわからない。
ただ、田楽を行っていた人たちが、いかなる人間なのかということは、かろうじてわか っている。中世において、田楽と双璧をなした芸能が猿楽である。猿楽は、やがて能楽と して大成されるのだが、どうも担い手は同じ人々であったらしい。というより、時代を遡 ると、田楽と猿楽の区別はあいまいとなり、かつては同じものであったらしいのだ。
ご存知の通り、能楽の祖である観阿弥と世阿弥は、ともに秦氏である。彼らの祖先は、 猿楽の祖とされる秦河勝だ。つまり、田楽を行っていた人々もまた、秦氏一族だったこと はほぼ間違いないのである。
このように、何気なく口にしているおでんという料理の裏にも、奇妙な渡来人「秦氏」 の影があるのだ。ひょっとしたら、おでんを発明したのは、彼ら秦氏だったのかもしれな い。
ところで、おでんを漢字で書くとどうなるでしょう。
答えは「御田」。字面を見ると、これは田んぼのことである。田んぼと料理のおでんの 間には、どんな関係があるのだろうか。調べてみると、これがなかなかおもしろい。おで んの御田の接頭語「御」を取ると、田になる。田とは、これ略語であって、本当は「田楽 」のこと。味噌田楽とかいう、あの田楽を意味する。
京料理などの田楽は、こんにゃくを串刺しにしたものに、辛みそや甘みそをつけて食べ る。こんにゃくのほかにも、ネギやハンペンなどを刺してもいい。要は、この田楽の具を 串に刺さずに、そのまま鍋料理としたものが、いわゆるおでんなのである。
しかし、おでんが田楽だとしても、それと田んぼがどう関係するのか、これではさっぱ りわからない。田楽とは、いったい何なのか。田はわかるにしても、楽は何か。楽が付く 言葉には、音楽や能楽があるが、これと関係があるのか。実は、大ありなのだ。
田楽とは、能楽や猿楽など、日本の伝統芸能のひとつ。曲芸や大道芸のようなもので、 主に庶民が田んぼで楽しんでいたことから、この名がある。いわば民間の遊びである。だ が、いつの時代も、芸達者な者はいるもので、田楽を専門とする人間がいた。なかでも有 名なのが、田楽法師である。彼は棒の上に乗ったりする曲芸を得意としていた。棒一本で 立つ姿は、田んぼの案山子のようであったという。
こんにゃくの串刺しの形が、一本足の田楽法師に似ていることから、いつしかそれを田 楽法師と呼び習わすようになり、やがてたんに田楽となり、いつしかおでんになったとい うわけである。
だが、ここで注目は田楽法師である。いったい、田楽法師とは何者なのか。残念ながら 、近世において田楽は衰退。ついに伝統は途絶え、それを継承する者がいなくなってしま ったのである。そのため、田楽法師が何者なのかということは、ほとんどわからない。
ただ、田楽を行っていた人たちが、いかなる人間なのかということは、かろうじてわか っている。中世において、田楽と双璧をなした芸能が猿楽である。猿楽は、やがて能楽と して大成されるのだが、どうも担い手は同じ人々であったらしい。というより、時代を遡 ると、田楽と猿楽の区別はあいまいとなり、かつては同じものであったらしいのだ。
ご存知の通り、能楽の祖である観阿弥と世阿弥は、ともに秦氏である。彼らの祖先は、 猿楽の祖とされる秦河勝だ。つまり、田楽を行っていた人々もまた、秦氏一族だったこと はほぼ間違いないのである。
このように、何気なく口にしているおでんという料理の裏にも、奇妙な渡来人「秦氏」 の影があるのだ。ひょっとしたら、おでんを発明したのは、彼ら秦氏だったのかもしれな い。
ガラス
貝を耳に当てると、潮騒が聞こえるという。幼いころ、海辺で拾った貝の数々。小生、 かつては貝マニアだった。近くの海辺に行っては、そこに落ちている貝殻を拾い集めたも のである。幼いころから、波打ち際を歩くのが、何より好きだった。波音を聞きながら、 何キロも続く白浜をてくてく。何か珍しい貝はないかなぁ、と。下ばっかり見て、歩いて いたものである。
遠くから眺めれば美しくあっても、地面を見れば、景色は一変。海草とゴミだらけ。ふ つうなら、ここで夢想も覚めようものの、貝っちゃんは違うね。ゴミが多ければ多いほど 、そこには普段見慣れない貝がいっしょに打ち上げられている。海草とゴミのコングロマ リットを流木片手に探検するのが、楽しいのさ。故郷の陸奥湾で、絶対に棲息するはずが ないタカラガイを見つけたとき、思わず「やった~!!」と叫んだことを思い出すな。
でも、そうした探索のなか、貝殻以外に目につくのが、ガラスである。ガラスといって も、瓶の状態は、まずない。荒い波にもまれて破壊されるのだろう。破片となり、磨耗さ れて、まるで駄菓子屋の飴玉のようになってるものがほとんど。表面は擦りガラスのよう で、それが鉱物なら、一級の原石になろう代物である。本来の目的である貝ではないもの の、思わず見とれて、持ってきたビニール袋に入れてしまったことも、しばしば。漂着物 としてのガラスに、どことなく異国情緒を感じるのは、筆者だけだろうか。
日本海の砂浜に立ったとき、水平線の向こうにあるのは中国、北朝鮮、ロシア(ソ連) を夢想した。事実、異国の漂着物は珍しくない。でも、ガラスは特別だ。破片になっては 、もはや国籍も何もない。
この思いは、恐らく古代においても、同様だったのではないだろうか。
先日、本屋で一冊の注目すべき本を手に取った。題名は『ローマ文化王国 新羅』。読 んでわかるように、古代朝鮮の新羅が実はローマ文化圏に属する国であるということを論 証した書物である。筆者は、由水常雄氏。ガラスの専門家で、シルクロードのガラス製品 に関する第一人者で、NHKの人間大学の講師を勤めたこともある。
由水氏は、長年の研究の結果、古代朝鮮における新羅は東アジアにおいて、非常に特異 な文化をもっていたことを物的証拠をもって証明した。しかも、興味深いのは、4~6世 紀、新羅は中国の文化よりは、シルクロードのはるか向こう、ローマ帝国の文化をダイレ クトに吸収していたという仮説である。
文献史学ではなく、ガラスという物的証拠をもって語る由水氏の仮説は、非常に説得力 ある。これまで新羅とローマ文化の共通性に触れた研究はあるが、ここまで徹底したもの は珍しい。今後、日韓の歴史学者の間で議論されることを期待したい。古代史に興味のあ る人は、ぜひ一読してほしい。その価値は十分ある。
さて、新羅といえば、そう秦氏の故郷である。秦氏は新羅の中核であったといったら、 い過ぎだろうか。秦氏の規模を考えれば、秦氏あっての新羅だといいたいところだ。しか も、秦氏の故郷は西アジア。そう、エルサレムである。エルサレムは古代ローマ帝国の版 図内である。住民はローマ文化を当たり前のように享受していたはずである。
秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒であるが、日常文化は、やはりローマ文化を受け入れ ていたはずである。事実、『新約聖書』を読めば、ユダヤ人がローマ貨幣を使い、ローマ の言葉を用い、ローマ人と接していたことがわかる。何よりも、キリスト教はローマ帝国 に広まり、国教となったことで、世界宗教へと発展した。ユダヤ人キリスト教徒とローマ 文化は密接不可分な関係にあったといっても過言ではない。
新羅がローマ文化圏であった最大の理由は、思うに秦氏にあるのではないか。西アジア からやってきたユダヤ人原始キリスト教徒がローマ文化を朝鮮半島にもたらしたとは考え られないだろうか。
いや、そうに違いない。
ローマングラスは新羅のみならず、日本からも出土している。新羅系渡来人がもたらし たものであると、由水氏はいう。が、もっといえば、秦氏がもたらした。ユダヤ人原始キ リスト教徒である秦氏が新羅から日本へローマ文化をもたらしたのである。
遠くから眺めれば美しくあっても、地面を見れば、景色は一変。海草とゴミだらけ。ふ つうなら、ここで夢想も覚めようものの、貝っちゃんは違うね。ゴミが多ければ多いほど 、そこには普段見慣れない貝がいっしょに打ち上げられている。海草とゴミのコングロマ リットを流木片手に探検するのが、楽しいのさ。故郷の陸奥湾で、絶対に棲息するはずが ないタカラガイを見つけたとき、思わず「やった~!!」と叫んだことを思い出すな。
でも、そうした探索のなか、貝殻以外に目につくのが、ガラスである。ガラスといって も、瓶の状態は、まずない。荒い波にもまれて破壊されるのだろう。破片となり、磨耗さ れて、まるで駄菓子屋の飴玉のようになってるものがほとんど。表面は擦りガラスのよう で、それが鉱物なら、一級の原石になろう代物である。本来の目的である貝ではないもの の、思わず見とれて、持ってきたビニール袋に入れてしまったことも、しばしば。漂着物 としてのガラスに、どことなく異国情緒を感じるのは、筆者だけだろうか。
日本海の砂浜に立ったとき、水平線の向こうにあるのは中国、北朝鮮、ロシア(ソ連) を夢想した。事実、異国の漂着物は珍しくない。でも、ガラスは特別だ。破片になっては 、もはや国籍も何もない。
この思いは、恐らく古代においても、同様だったのではないだろうか。
先日、本屋で一冊の注目すべき本を手に取った。題名は『ローマ文化王国 新羅』。読 んでわかるように、古代朝鮮の新羅が実はローマ文化圏に属する国であるということを論 証した書物である。筆者は、由水常雄氏。ガラスの専門家で、シルクロードのガラス製品 に関する第一人者で、NHKの人間大学の講師を勤めたこともある。
由水氏は、長年の研究の結果、古代朝鮮における新羅は東アジアにおいて、非常に特異 な文化をもっていたことを物的証拠をもって証明した。しかも、興味深いのは、4~6世 紀、新羅は中国の文化よりは、シルクロードのはるか向こう、ローマ帝国の文化をダイレ クトに吸収していたという仮説である。
文献史学ではなく、ガラスという物的証拠をもって語る由水氏の仮説は、非常に説得力 ある。これまで新羅とローマ文化の共通性に触れた研究はあるが、ここまで徹底したもの は珍しい。今後、日韓の歴史学者の間で議論されることを期待したい。古代史に興味のあ る人は、ぜひ一読してほしい。その価値は十分ある。
さて、新羅といえば、そう秦氏の故郷である。秦氏は新羅の中核であったといったら、 い過ぎだろうか。秦氏の規模を考えれば、秦氏あっての新羅だといいたいところだ。しか も、秦氏の故郷は西アジア。そう、エルサレムである。エルサレムは古代ローマ帝国の版 図内である。住民はローマ文化を当たり前のように享受していたはずである。
秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒であるが、日常文化は、やはりローマ文化を受け入れ ていたはずである。事実、『新約聖書』を読めば、ユダヤ人がローマ貨幣を使い、ローマ の言葉を用い、ローマ人と接していたことがわかる。何よりも、キリスト教はローマ帝国 に広まり、国教となったことで、世界宗教へと発展した。ユダヤ人キリスト教徒とローマ 文化は密接不可分な関係にあったといっても過言ではない。
新羅がローマ文化圏であった最大の理由は、思うに秦氏にあるのではないか。西アジア からやってきたユダヤ人原始キリスト教徒がローマ文化を朝鮮半島にもたらしたとは考え られないだろうか。
いや、そうに違いない。
ローマングラスは新羅のみならず、日本からも出土している。新羅系渡来人がもたらし たものであると、由水氏はいう。が、もっといえば、秦氏がもたらした。ユダヤ人原始キ リスト教徒である秦氏が新羅から日本へローマ文化をもたらしたのである。
オリオン
夜空に輝く星を見て、人は神に思いをはせた。古来、星は神の名で呼ばれた。ギリシア 神話やオリエント神話、ヒンドゥー神話、中国神話など、神は人間のようなドラマを展開 する一方で、天空の星座として描かれた。
ところが、不思議なことに、わが国、日本の神話には、極端に星神が少ない。珍しく星 を冠する神がいるなと思えば、天津甕星は悪神である。どうも、日本では、星神は悪者の 要素がある。
しかし、直接、星の文字はないものの、星の神であると推測されているのが、住吉大神 である。この神は、イザナギ命が禊をしたとき、海の底と中と上で、それぞれ誕生した3 人の神の総称。具体的に、底筒之男命と中筒之男命と上筒之男命である。海で誕生したこ とからわかるように、海洋民に崇拝された神である。
古代史研究家の大和岩雄氏は、海洋民が航海において、もっとも重要視する星がオリオ ン座の三ツ星であることに注目。住吉三神とは、オリオン座の三ツ星のことではないかと 指摘した。航海学の権威、茂在寅男氏も、この説を支持している。とくに、オリオン座の 三ツ星は、真東から昇り、真西に沈み、南中したときの高度は、そのまま緯度と一致する のが重要であるという。確かに、太陽も真東から真西に至り、南中の高度は緯度と一致す るが、何せ太陽は大きい。点ではなく、円になってしまうゆえ、正確な測定には、あまり 向いていないのだ。
住吉大神は悪神ではない。というより、むしろ逆。天皇家の祖先だといったら、どうだ ろう。それも、天照大神という神代のことではなく、歴代の天皇の父親であるといったら 、信じられるだろうか。
問題の天皇とは、第15代・応神天皇である。応神天皇の父親は、第14代・仲哀天皇だと いうことであると、記紀はいう。ところが、だ。これには裏がある。母である神功皇后が 朝鮮半島へ出兵しようとしたとき、仲哀天皇は、これに反対した。海の向こうに、そんな 国などない、と。これが住吉大神の怒りに触れて、この直後に、仲哀天皇は死んでしまう のである。それから十月十日たって生まれたのが、応神天皇である。何か、できすぎの感 はしないだろうか。
これを裏付けるように、住吉大社の伝承によると、応神天皇の本当の父親は、なんと住 吉大神であるという。今どきのいい方をすれば、不倫である。伝承を信じれば、応神天皇 は不義の子なのだ。
ここから、世の古代史研究かは、色めき立つ。応神天皇の本当の父親は、だれか。もっ とも多い意見は、住吉大神は神功皇后の側近であった竹内宿弥ではないかという説である 。幼い応神天皇を抱いて、諸国をまわったのが竹内宿弥であるなどから、その可能性は高 いだろう。
しかし、筆者は、まったく別な見方をしている。
まず、住吉大神は、ひとりではない。3人いる。仮に、応神天皇の父が住吉大神だとす ると、3人いることになる。父親が3人いるというのは、なんとも不可解である。ここは 人間社会をそのまま当てはめてはいけない。相手は神である。神話として分析しなくては 、何も見えてこない。
そこで、一旦、目を母である神功皇后に向けてほしい。彼女は天皇の母君ゆえ、「聖母 」と呼ばれることがある。聖母は「しょうも」と読む。が、この字を見れば、だれもが聖 母マリアを思い浮かべるだろう。事実、歴代の皇后の中で、幼児である天皇を抱いた姿で 描かれるのは、この神功皇后だけである。九州の宇美八幡宮にある石像は、まさしく幼子 イエス・キリストを抱いた聖母マリアそのものである。
今、仮に応神天皇をイエス・キリスト、神功皇后を聖母マリアに置き換えれば、住吉大 神は、だれか。いうまでもなく、それは父なる神であろう。
また、いわゆるキリスト教の三位一体からすれば、3人の住吉大神は御父と御子と聖霊 の3人に対応するはずである。
しかも、聖母マリアは聖霊の力によって身ごもったとされる。イエス・キリストが洗礼 バプテスマを受けたとき、聖霊は鳩の姿をとって、降臨した。それゆえ、鳩は聖霊の象徴 である。実は、応神天皇と神功皇后を祀る全国の八幡宮では、応神天皇=八幡神の使いは 鳩であると決まっているのである。
なぜ、かくも応神天皇には、キリスト教の匂いがするのか。それは、神功皇后には天之 日矛の血が流れているからである。天之日矛は新羅の王子とされるが、学界では秦氏集団 の象徴であるというのが定説。すなわち、神功皇后は秦氏なのである。よって、ユダヤ人 原始キリスト教徒「秦氏」が自らの血を引く大王に、イエス・キリストの伝説を付加した というのが真相ではないだろうか。
ところが、不思議なことに、わが国、日本の神話には、極端に星神が少ない。珍しく星 を冠する神がいるなと思えば、天津甕星は悪神である。どうも、日本では、星神は悪者の 要素がある。
しかし、直接、星の文字はないものの、星の神であると推測されているのが、住吉大神 である。この神は、イザナギ命が禊をしたとき、海の底と中と上で、それぞれ誕生した3 人の神の総称。具体的に、底筒之男命と中筒之男命と上筒之男命である。海で誕生したこ とからわかるように、海洋民に崇拝された神である。
古代史研究家の大和岩雄氏は、海洋民が航海において、もっとも重要視する星がオリオ ン座の三ツ星であることに注目。住吉三神とは、オリオン座の三ツ星のことではないかと 指摘した。航海学の権威、茂在寅男氏も、この説を支持している。とくに、オリオン座の 三ツ星は、真東から昇り、真西に沈み、南中したときの高度は、そのまま緯度と一致する のが重要であるという。確かに、太陽も真東から真西に至り、南中の高度は緯度と一致す るが、何せ太陽は大きい。点ではなく、円になってしまうゆえ、正確な測定には、あまり 向いていないのだ。
住吉大神は悪神ではない。というより、むしろ逆。天皇家の祖先だといったら、どうだ ろう。それも、天照大神という神代のことではなく、歴代の天皇の父親であるといったら 、信じられるだろうか。
問題の天皇とは、第15代・応神天皇である。応神天皇の父親は、第14代・仲哀天皇だと いうことであると、記紀はいう。ところが、だ。これには裏がある。母である神功皇后が 朝鮮半島へ出兵しようとしたとき、仲哀天皇は、これに反対した。海の向こうに、そんな 国などない、と。これが住吉大神の怒りに触れて、この直後に、仲哀天皇は死んでしまう のである。それから十月十日たって生まれたのが、応神天皇である。何か、できすぎの感 はしないだろうか。
これを裏付けるように、住吉大社の伝承によると、応神天皇の本当の父親は、なんと住 吉大神であるという。今どきのいい方をすれば、不倫である。伝承を信じれば、応神天皇 は不義の子なのだ。
ここから、世の古代史研究かは、色めき立つ。応神天皇の本当の父親は、だれか。もっ とも多い意見は、住吉大神は神功皇后の側近であった竹内宿弥ではないかという説である 。幼い応神天皇を抱いて、諸国をまわったのが竹内宿弥であるなどから、その可能性は高 いだろう。
しかし、筆者は、まったく別な見方をしている。
まず、住吉大神は、ひとりではない。3人いる。仮に、応神天皇の父が住吉大神だとす ると、3人いることになる。父親が3人いるというのは、なんとも不可解である。ここは 人間社会をそのまま当てはめてはいけない。相手は神である。神話として分析しなくては 、何も見えてこない。
そこで、一旦、目を母である神功皇后に向けてほしい。彼女は天皇の母君ゆえ、「聖母 」と呼ばれることがある。聖母は「しょうも」と読む。が、この字を見れば、だれもが聖 母マリアを思い浮かべるだろう。事実、歴代の皇后の中で、幼児である天皇を抱いた姿で 描かれるのは、この神功皇后だけである。九州の宇美八幡宮にある石像は、まさしく幼子 イエス・キリストを抱いた聖母マリアそのものである。
今、仮に応神天皇をイエス・キリスト、神功皇后を聖母マリアに置き換えれば、住吉大 神は、だれか。いうまでもなく、それは父なる神であろう。
また、いわゆるキリスト教の三位一体からすれば、3人の住吉大神は御父と御子と聖霊 の3人に対応するはずである。
しかも、聖母マリアは聖霊の力によって身ごもったとされる。イエス・キリストが洗礼 バプテスマを受けたとき、聖霊は鳩の姿をとって、降臨した。それゆえ、鳩は聖霊の象徴 である。実は、応神天皇と神功皇后を祀る全国の八幡宮では、応神天皇=八幡神の使いは 鳩であると決まっているのである。
なぜ、かくも応神天皇には、キリスト教の匂いがするのか。それは、神功皇后には天之 日矛の血が流れているからである。天之日矛は新羅の王子とされるが、学界では秦氏集団 の象徴であるというのが定説。すなわち、神功皇后は秦氏なのである。よって、ユダヤ人 原始キリスト教徒「秦氏」が自らの血を引く大王に、イエス・キリストの伝説を付加した というのが真相ではないだろうか。
逆さ言葉
テレビ関係の人と話をしていると、しばしば業界言葉なるものに、思わず閉口してしま うことがある。ことに、芸能関係者に多い。あたかも、業界言葉を使うことで、自分がい かに特別な業界人間なのかをアピールするかごときである。
業界言葉で代表的なものが、逆さ言葉である。マネージャーのことをジャーマネ、素人 のことをトーシロ、ファンのことをワンフーと表現する。やたら逆さ言葉を連発されると 、バカにされたようで、なんとも腹が立ってくるときがある。
しかし、改めて考えてみると、なぜ言葉を逆さにするのだろうか。ひとつには、自分た ちの業界だけで通用するスラングに近いものだろう。特殊な言い方をすることによって、 仲間だけが理解できるようにする。きわどい話だったり、第三者には聞いてほしくない内 容を伝えようとすれば、自ずと言葉は特殊になる。
もうひとつは、純粋に言葉遊びである。逆さにいうこと自体が、ひとつの文学的な香り を漂わせるのかもしれない。
そして、最後にもうひとつ。呪術である。言葉に限らず、順序を逆にすることは、魔術 の基本である。ひところ、バックワード・マスキングなるものが流行った。レコードを逆 回転すると、まったく違うメッセージが聞こえてくるように録音したものである。ビート ルズの曲の中にも、逆回転させると「サタンは神だ」と聞こえるものがあるという。同様 に、オカルトの世界では、しばしば犬が悪魔の象徴とされる。これは犬=「DOG」が神 =「GOD」のアルファベットを逆に並べ替えになっているからにほからない。神の反対 だから、悪魔だというわけだ。
西洋魔術の場合、このように、文字を並べ替える手法のルーツはユダヤ教神秘主義カッ バーラ(カバラ)にある。カッバーラでは文字の綴り変えを「アナグラム」という。ユダ ヤ人預言者として知られるノストラダムスも、こうしたカッバーラに秀でた人物のひとり で、予言詩に数多くのアナグラムをちりばめた。例えば「ANOHの水平」という一節は 、NOAH=ノアの大洪水を暗示したもので、未来に未曾有の大洪水が発生することを予 言していると読み取れる。
思うに、日本のテレビ業界の人間が好んで使う逆さ言葉も、ひょっとしたらカッバーラ が関係しているのかもしれない。というのも、逆さ言葉を多用する業界は、歴史的に芸能 や遊行、宗教関係に多い。歴史的に、これらの文化を担ってきたのは、秦氏である。芸能 とは、すなわち秦氏の文化であるといっても過言ではない。
ご存知のように、秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒である。ということは、だ。こうし た逆さ言葉はカッバーラのゲマトリアという文化から誕生してきたのではないだろうか。 本来はカッバーリストの間だけで使われていた手法が、いつしか一般にも安易に使われる ようになった結果、逆さ言葉が業界言葉として流布するようになったように思われるのだ が、はたして真相はいかに。
業界言葉で代表的なものが、逆さ言葉である。マネージャーのことをジャーマネ、素人 のことをトーシロ、ファンのことをワンフーと表現する。やたら逆さ言葉を連発されると 、バカにされたようで、なんとも腹が立ってくるときがある。
しかし、改めて考えてみると、なぜ言葉を逆さにするのだろうか。ひとつには、自分た ちの業界だけで通用するスラングに近いものだろう。特殊な言い方をすることによって、 仲間だけが理解できるようにする。きわどい話だったり、第三者には聞いてほしくない内 容を伝えようとすれば、自ずと言葉は特殊になる。
もうひとつは、純粋に言葉遊びである。逆さにいうこと自体が、ひとつの文学的な香り を漂わせるのかもしれない。
そして、最後にもうひとつ。呪術である。言葉に限らず、順序を逆にすることは、魔術 の基本である。ひところ、バックワード・マスキングなるものが流行った。レコードを逆 回転すると、まったく違うメッセージが聞こえてくるように録音したものである。ビート ルズの曲の中にも、逆回転させると「サタンは神だ」と聞こえるものがあるという。同様 に、オカルトの世界では、しばしば犬が悪魔の象徴とされる。これは犬=「DOG」が神 =「GOD」のアルファベットを逆に並べ替えになっているからにほからない。神の反対 だから、悪魔だというわけだ。
西洋魔術の場合、このように、文字を並べ替える手法のルーツはユダヤ教神秘主義カッ バーラ(カバラ)にある。カッバーラでは文字の綴り変えを「アナグラム」という。ユダ ヤ人預言者として知られるノストラダムスも、こうしたカッバーラに秀でた人物のひとり で、予言詩に数多くのアナグラムをちりばめた。例えば「ANOHの水平」という一節は 、NOAH=ノアの大洪水を暗示したもので、未来に未曾有の大洪水が発生することを予 言していると読み取れる。
思うに、日本のテレビ業界の人間が好んで使う逆さ言葉も、ひょっとしたらカッバーラ が関係しているのかもしれない。というのも、逆さ言葉を多用する業界は、歴史的に芸能 や遊行、宗教関係に多い。歴史的に、これらの文化を担ってきたのは、秦氏である。芸能 とは、すなわち秦氏の文化であるといっても過言ではない。
ご存知のように、秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒である。ということは、だ。こうし た逆さ言葉はカッバーラのゲマトリアという文化から誕生してきたのではないだろうか。 本来はカッバーリストの間だけで使われていた手法が、いつしか一般にも安易に使われる ようになった結果、逆さ言葉が業界言葉として流布するようになったように思われるのだ が、はたして真相はいかに。
総理大臣
秦氏の最大の特徴は、殖産豪族にある。日本にやってきた渡来人の多くは、その進んだ 技術により、権力へと接近する者が多かった。同じ時期に渡来してきた漢氏などは、積極 的に蘇我氏に接近。政治的な力を伸張させていった。
ところが、秦氏とくれば、養蚕や金属精錬、土木技術など、産業に力を入れた。そのた め、経済的に裕福な者が多かったとされる。秦氏は政治的な権力には、あまり興味を示さ なかったというのが、歴史学の通説となっている。
しかし、一度、世が乱世になると、いきなり権力のトップに躍り出てくることがしばし ばある。四国の長宗我部氏、九州の島津氏、越後の神保氏などがいい例だ。彼らは表立っ て秦氏を名乗っているが、そうではない秦氏もいた。
思うに、秦氏は平和な時代には殖産豪族として繁栄し、乱世には戦場に立つという二面 性をもっていたようだ。
興味深いことに、これが現代の政治にも当てはまる。戦後、日本の政治は自民党が支配 してきた。与党第一党として、これまで君臨してきた。総理大臣は、常に自民党から選ば れてきた。
ところが、1990年代に入って、様相が一変する。人民党の政治腐敗が表面化し、そ れに代わって、小沢一郎の新生党や細川護煕の日本新党が躍進。両党が合流して、ついに 自民党を下野させるに至った。総理大臣には、細川氏が就任した。が、ほどなく、細川政 権は崩壊。続いて総理大臣に就任したのは、羽田孜だった。
羽田氏の出身は長野県。今でこそ、羽田という文字を使っているが、ご先祖は、もとも と秦氏を名乗っていた。
羽田氏の本家には、古代からの系図がきちんと残っており、それを見ると太祖は秦始皇 帝である。といっても、秦氏が秦始皇帝の末裔と称すのは、いつものこと。いうなれば、 オーソドックスな秦氏一族にも思える。
しかし、興味深いのは、羽田氏の祖先は、たんに秦始皇帝の末裔と名乗るのではなく、 そこから徐福を登場させている。徐福とは、ご存知のように、秦始皇帝の命を受けて東の 蓬莱山へ不老不死の薬を求めて旅立った道教の師、すなわち方士であった。一説に、徐福 の一団が向かった先は、この日本であるとされる。富士山を初めとする日本の山々が仙人 の住む蓬莱山であったというのだ。
なれば、日本の屋根、アルプスが聳える長野県あたりに、徐福の子孫が住んでいたとし ても、確かに、ありえない話ではない。
秦氏と徐福の関係については、いずれ述べることにするが、ここでは羽田氏が典型的な 秦氏であることを確認するに留めておこう。
さて、長野にやってきた秦氏から、秦武文なる人物が現れる。彼は後醍醐天皇に仕え、 名を上げた。彼の子孫は、戦国時代、大井修理大夫に仕えたが、武田信玄に打たれた。ど うも、この時代あたりに、姓を秦から羽田に変えたらしい。
だが、文字は変わっても、秦氏は秦氏である。羽田孜氏は、自らが秦氏であることを 誇りに思っており、今でも毎年、京都太秦の秦氏の氏寺、すなわち広隆寺の牛祭を見学し ているという。
残念ながら、羽田政権も短命に終わった。だが、現在、羽田孜氏は民主党の幹部として 、いろいろな方面で活躍している。別に、民主党支持者ではないが、羽田氏には、誇り高 き秦氏一族の人間として、これからも頑張ってほしいところである。
ところが、秦氏とくれば、養蚕や金属精錬、土木技術など、産業に力を入れた。そのた め、経済的に裕福な者が多かったとされる。秦氏は政治的な権力には、あまり興味を示さ なかったというのが、歴史学の通説となっている。
しかし、一度、世が乱世になると、いきなり権力のトップに躍り出てくることがしばし ばある。四国の長宗我部氏、九州の島津氏、越後の神保氏などがいい例だ。彼らは表立っ て秦氏を名乗っているが、そうではない秦氏もいた。
思うに、秦氏は平和な時代には殖産豪族として繁栄し、乱世には戦場に立つという二面 性をもっていたようだ。
興味深いことに、これが現代の政治にも当てはまる。戦後、日本の政治は自民党が支配 してきた。与党第一党として、これまで君臨してきた。総理大臣は、常に自民党から選ば れてきた。
ところが、1990年代に入って、様相が一変する。人民党の政治腐敗が表面化し、そ れに代わって、小沢一郎の新生党や細川護煕の日本新党が躍進。両党が合流して、ついに 自民党を下野させるに至った。総理大臣には、細川氏が就任した。が、ほどなく、細川政 権は崩壊。続いて総理大臣に就任したのは、羽田孜だった。
羽田氏の出身は長野県。今でこそ、羽田という文字を使っているが、ご先祖は、もとも と秦氏を名乗っていた。
羽田氏の本家には、古代からの系図がきちんと残っており、それを見ると太祖は秦始皇 帝である。といっても、秦氏が秦始皇帝の末裔と称すのは、いつものこと。いうなれば、 オーソドックスな秦氏一族にも思える。
しかし、興味深いのは、羽田氏の祖先は、たんに秦始皇帝の末裔と名乗るのではなく、 そこから徐福を登場させている。徐福とは、ご存知のように、秦始皇帝の命を受けて東の 蓬莱山へ不老不死の薬を求めて旅立った道教の師、すなわち方士であった。一説に、徐福 の一団が向かった先は、この日本であるとされる。富士山を初めとする日本の山々が仙人 の住む蓬莱山であったというのだ。
なれば、日本の屋根、アルプスが聳える長野県あたりに、徐福の子孫が住んでいたとし ても、確かに、ありえない話ではない。
秦氏と徐福の関係については、いずれ述べることにするが、ここでは羽田氏が典型的な 秦氏であることを確認するに留めておこう。
さて、長野にやってきた秦氏から、秦武文なる人物が現れる。彼は後醍醐天皇に仕え、 名を上げた。彼の子孫は、戦国時代、大井修理大夫に仕えたが、武田信玄に打たれた。ど うも、この時代あたりに、姓を秦から羽田に変えたらしい。
だが、文字は変わっても、秦氏は秦氏である。羽田孜氏は、自らが秦氏であることを 誇りに思っており、今でも毎年、京都太秦の秦氏の氏寺、すなわち広隆寺の牛祭を見学し ているという。
残念ながら、羽田政権も短命に終わった。だが、現在、羽田孜氏は民主党の幹部として 、いろいろな方面で活躍している。別に、民主党支持者ではないが、羽田氏には、誇り高 き秦氏一族の人間として、これからも頑張ってほしいところである。
茶道
日本には「道」という概念がある。剣道や柔道などの武道のみならず、ある意味で、芸 術ともいえる道がある。華道、香道、茶道などが、それだ。あまり知られていないが、こ れらの道の根底には、呪術がある。極端な話、神道儀礼であるといっても過言ではない。 神道の呪術、陰陽道によって、作法が決められているのだ。
ところが、興味深いのは茶道である。茶道の根幹も、確かに神道があるのだが、その一 方で、キリスト教の影響が強い。例えば、お茶を限られた人間だけで回して飲み、菓子を 食べる。これなどは、キリスト教の聖餐式と似ている。
似ているだけではない。茶道のおける一連の作法が、なんとカトリックの聖餐式とまっ たく同じなのである。そのため、かねてから茶道とキリシタンの関係が指摘されてきた。 狭い部屋で密かに行う飲茶の儀式は、隠れキリシタンが行っていた聖餐式がもとになって いるというのである。
しかも、茶道を大成させた千利休自身、実は隠れキリシタンだったという説があり、そ れがもとで自害させられたともいう。その説によれば、千利休という名前は、セント・ル カのことだというから、たまらない。
長崎の諏訪神社の宮司である上杉千郷氏は茶道の研究をした結果、そこには神道のみな らず仏教やキリシタンの影響が認められると主張。上杉氏と懇意である茶道の裏千家の宗 家の方も、それを認めていると語る。
これだけでも、なかなか衝撃的な話なのだが、さらに、もう一歩。実は、ここ長崎の諏 訪神社には、かつて井戸を囲んで三柱鳥居が建っていた。木製で老朽化していたので、残 念ながら三柱鳥居は撤去されてしまったが、いずれまた建立する予定であるという。
ご存知のように、三柱鳥居とくれば、秦氏である。三柱鳥居は非常に特殊な鳥居で、歴 史的に古い三柱鳥居は京都の太秦にある蚕の社に立つものだけとされる。蚕の社は秦氏が 建立した神社で、三柱鳥居は景教、すなわちネストリウス派キリスト教の影響で立てられ たといわれている。もっとも筆者は、秦氏をユダヤ人原始キリスト教徒であると見ている ため、三柱鳥居はカッバーラにもとづいた建造物であり、原始キリスト教の絶対三神「御 父と御子と聖霊」を表現していると考える。
それが、どうして長崎の諏訪神社にあるのか。聞いてみると、上杉宮司は茶道の蓋置か らヒントを得て、ここに立てたのだという。蓋置とは、文字通り蓋を置く台のようなもの で、その形はいろいろなものがあり、そのなかに三柱鳥居をあしらったものが伝統的に使 われている。なんでも、京都の裏千家が太秦の三柱鳥居をしゃれて作ったものであるとか 。
キリシタンの影響を受けてできた茶道に、原始キリスト教のカッバーラを表現した三柱 鳥居の蓋置が使われているのも、これは何かの因縁である。ひょっとしたら、茶道を大成 した千利休や裏千家の人々は、どこかで秦氏との接点があったのかもしれない。
ところが、興味深いのは茶道である。茶道の根幹も、確かに神道があるのだが、その一 方で、キリスト教の影響が強い。例えば、お茶を限られた人間だけで回して飲み、菓子を 食べる。これなどは、キリスト教の聖餐式と似ている。
似ているだけではない。茶道のおける一連の作法が、なんとカトリックの聖餐式とまっ たく同じなのである。そのため、かねてから茶道とキリシタンの関係が指摘されてきた。 狭い部屋で密かに行う飲茶の儀式は、隠れキリシタンが行っていた聖餐式がもとになって いるというのである。
しかも、茶道を大成させた千利休自身、実は隠れキリシタンだったという説があり、そ れがもとで自害させられたともいう。その説によれば、千利休という名前は、セント・ル カのことだというから、たまらない。
長崎の諏訪神社の宮司である上杉千郷氏は茶道の研究をした結果、そこには神道のみな らず仏教やキリシタンの影響が認められると主張。上杉氏と懇意である茶道の裏千家の宗 家の方も、それを認めていると語る。
これだけでも、なかなか衝撃的な話なのだが、さらに、もう一歩。実は、ここ長崎の諏 訪神社には、かつて井戸を囲んで三柱鳥居が建っていた。木製で老朽化していたので、残 念ながら三柱鳥居は撤去されてしまったが、いずれまた建立する予定であるという。
ご存知のように、三柱鳥居とくれば、秦氏である。三柱鳥居は非常に特殊な鳥居で、歴 史的に古い三柱鳥居は京都の太秦にある蚕の社に立つものだけとされる。蚕の社は秦氏が 建立した神社で、三柱鳥居は景教、すなわちネストリウス派キリスト教の影響で立てられ たといわれている。もっとも筆者は、秦氏をユダヤ人原始キリスト教徒であると見ている ため、三柱鳥居はカッバーラにもとづいた建造物であり、原始キリスト教の絶対三神「御 父と御子と聖霊」を表現していると考える。
それが、どうして長崎の諏訪神社にあるのか。聞いてみると、上杉宮司は茶道の蓋置か らヒントを得て、ここに立てたのだという。蓋置とは、文字通り蓋を置く台のようなもの で、その形はいろいろなものがあり、そのなかに三柱鳥居をあしらったものが伝統的に使 われている。なんでも、京都の裏千家が太秦の三柱鳥居をしゃれて作ったものであるとか 。
キリシタンの影響を受けてできた茶道に、原始キリスト教のカッバーラを表現した三柱 鳥居の蓋置が使われているのも、これは何かの因縁である。ひょっとしたら、茶道を大成 した千利休や裏千家の人々は、どこかで秦氏との接点があったのかもしれない。