2003
鏡餅(前編/餅)
縄文時代の大規模集落跡で知られる三内丸山遺跡に、このほど、本格的な資料館「時遊館」が完成した。出土物はもちろん、土器製作の体験コーナー、それに映像館など、充実した施設となっているという。
噂に聞きし、時遊館。さて、実際はどのようなものか。今回、帰省をかねて、この時遊館を訪れてみた。確かに、それまでのプレハブのような展示室とは比べ物にならないくらい立派な作りになっており、満足度は大である。
だが、筆者の心をもっとも動かしたのは、縄文土器でもなければ、ヒスイの玉でもない。ましてや、立派なビデオでもない。
鏡餅である。訪れたのが1月2日だったこともあって、館内には注連縄や鏡餅が飾られていたのだが、売店の側にあった鏡餅は、実に驚くべきものだったのだ。
なんと、リンゴが載っているのだ。2段に重ねられた鏡餅の上に、本来ならあるはずのミカンがなく、代わりに真っ赤なリンゴが鎮座ましまていたのだ。
思わず、なんだこりゃ、である。地元、青森の特産であるリンゴをアピールしたジョークなのか。聞けば、なんでも青森県が先頭となって、鏡餅の上にリンゴを置こうというキャンペーンを張っているのだとか。
いやはや、なんとも。いったい、青森県人は鏡餅の上のミカンを何だと思っているのだろうか。餅の上に載っている、たんなる果物としか認識していないので はないか。同じ果物なら、地元の特産品であるリンゴを置かない手はないと思ったのだろうか。だとすれば、やりきれない思いを抱かずにはおられない。
そもそも、鏡餅とは「鏡の餅」という名の通り、神社に奉納されている鏡になぞられている。神社のご神体ともいうべき鏡は、光を反射することから日輪を示し、ひいては太陽そのものの象徴となっている。
では、なぜ餅なのか。民俗学的には、餅を食べることによって、体内の魔物を出さないようにするだとか、粘り強く生きる、すなわち長寿を願うものだとかいわれる。
が、どうして正月なのかという明確な答えは、意外に出ていない。
その一方で、日ユ同祖論では、かねてから餅は「マツォ」であると指摘されていた。マツォとは、種を入れないパンのこと。種、すなわちイースト菌を入れな いから、膨らまない。インドのナンのようなものだ。麦で作ればパンだが、米で作れば、餅である。マツォの実際の発音は、「モチ」と聞こえる。
ユダヤ人はユダヤ暦でいう年越しと新年にかけて「過ぎ越しの祭り」を行う。このとき、彼らはマツォを食べるのだ。これは正月に餅を食べる日本の風習と まったく同じものである。しかも、ユダヤ人はマツォを食べるとき、必ず3つに割って食べるのだ。ヴァンミーター美子氏は著書『幻の橋』の中で、3つに割ら れたマツォは、御父と御子と聖霊、すなわちキリスト教の三位一体を表現しているともいう。
日本の餅のルーツがユダヤのマツォならば、鏡餅が三段である理由も、3つに割るマツォの儀式に由来しているのかもしれない。つまり、鏡餅そのものが三位一体の神を表現している可能性がある。
正確にいうと、2枚の鏡餅と、その上にある1個のミカンが御父と御子と聖霊の象徴となっているのだ。
となると、改めてミカンの存在意義が大きくクローズアップされてくる。どうして鏡餅の上にはミカンが載っているのだろうか。
次回は、この謎について迫っていきたいと思う。
噂に聞きし、時遊館。さて、実際はどのようなものか。今回、帰省をかねて、この時遊館を訪れてみた。確かに、それまでのプレハブのような展示室とは比べ物にならないくらい立派な作りになっており、満足度は大である。
だが、筆者の心をもっとも動かしたのは、縄文土器でもなければ、ヒスイの玉でもない。ましてや、立派なビデオでもない。
鏡餅である。訪れたのが1月2日だったこともあって、館内には注連縄や鏡餅が飾られていたのだが、売店の側にあった鏡餅は、実に驚くべきものだったのだ。
なんと、リンゴが載っているのだ。2段に重ねられた鏡餅の上に、本来ならあるはずのミカンがなく、代わりに真っ赤なリンゴが鎮座ましまていたのだ。
思わず、なんだこりゃ、である。地元、青森の特産であるリンゴをアピールしたジョークなのか。聞けば、なんでも青森県が先頭となって、鏡餅の上にリンゴを置こうというキャンペーンを張っているのだとか。
いやはや、なんとも。いったい、青森県人は鏡餅の上のミカンを何だと思っているのだろうか。餅の上に載っている、たんなる果物としか認識していないので はないか。同じ果物なら、地元の特産品であるリンゴを置かない手はないと思ったのだろうか。だとすれば、やりきれない思いを抱かずにはおられない。
そもそも、鏡餅とは「鏡の餅」という名の通り、神社に奉納されている鏡になぞられている。神社のご神体ともいうべき鏡は、光を反射することから日輪を示し、ひいては太陽そのものの象徴となっている。
では、なぜ餅なのか。民俗学的には、餅を食べることによって、体内の魔物を出さないようにするだとか、粘り強く生きる、すなわち長寿を願うものだとかいわれる。
が、どうして正月なのかという明確な答えは、意外に出ていない。
その一方で、日ユ同祖論では、かねてから餅は「マツォ」であると指摘されていた。マツォとは、種を入れないパンのこと。種、すなわちイースト菌を入れな いから、膨らまない。インドのナンのようなものだ。麦で作ればパンだが、米で作れば、餅である。マツォの実際の発音は、「モチ」と聞こえる。
ユダヤ人はユダヤ暦でいう年越しと新年にかけて「過ぎ越しの祭り」を行う。このとき、彼らはマツォを食べるのだ。これは正月に餅を食べる日本の風習と まったく同じものである。しかも、ユダヤ人はマツォを食べるとき、必ず3つに割って食べるのだ。ヴァンミーター美子氏は著書『幻の橋』の中で、3つに割ら れたマツォは、御父と御子と聖霊、すなわちキリスト教の三位一体を表現しているともいう。
日本の餅のルーツがユダヤのマツォならば、鏡餅が三段である理由も、3つに割るマツォの儀式に由来しているのかもしれない。つまり、鏡餅そのものが三位一体の神を表現している可能性がある。
正確にいうと、2枚の鏡餅と、その上にある1個のミカンが御父と御子と聖霊の象徴となっているのだ。
となると、改めてミカンの存在意義が大きくクローズアップされてくる。どうして鏡餅の上にはミカンが載っているのだろうか。
次回は、この謎について迫っていきたいと思う。
鏡餅(後編/ミカン)
鏡餅は、丸い餅が2枚重なり、その上にミカンが載っている構造になっている。まず、丸い餅は神社の鏡、すなわち太陽を意味している。よって、2枚の丸い餅は、そのままふたつの太陽を象徴することになる。
では、その上に載っているミカンは何を象徴しているのか。
前回は、餅のルーツがユダヤのマツォにあることを述べた。マツォを食べるとき3つに割るのは、御父と御子と聖霊の三位一体の神を象徴しているという。これをそのまま鏡餅に当てはめると、ミカンもまた神の象徴だということになる。
さて、ここで日ユ同祖論から、カッバーラ=迦波羅という視点から考えてみよう。鏡餅をカッバーラの奥義「生命の樹」と見立てる。すると、鏡餅の上下三段 構造は、そのまま「生命の樹」の三栄光に対応する。すなわち、下から下層世界=星の栄光、中高世界=月の栄光、そして至高世界=太陽の栄光だ。つまり、一 番上のミカンは、太陽の栄光を象徴していることになる。
オレンジ色のミカンは、そのまま太陽の色。丸い形は、そのまま太陽の球体を表現しているとは考えられないだろうか。
もし、そうなら2枚の丸い餅と1個のミカンは、全部で3つの太陽を示しているともいえる。太陽は光であり、光の神、すなわち絶対神の象徴だ。よって、鏡餅は太陽三神、すなわち御父と御子と聖霊を示唆していたのである。
そもそも、ミカンという名前には「三カン」、つまり「三神」という意味が込められているのである。
こういうと、でき過ぎのような感もあるかもしれない。
しかし、日本における「ミカンの祖」がだれかを知れば、納得していただけるはずだ。日本にミカンを持ち込んだ人物。それはタジマモリという人物である。
彼は三宅氏の祖先で、ルーツを辿ると古代朝鮮の新羅の王子、天之日矛に遡る。天之日矛とくれば、ご存知の方も多いだろう。歴史学者の喜田貞吉氏は、天之 日矛伝承と渡来人「秦氏」の分布が一致することから、天之日矛を秦氏集団の象徴だと主張した。つまり、タジマモリは秦氏であり、ユダヤ人原始キリスト教徒 の末裔なのだ。彼がカッバーラを知っていた可能性は高い。
『古事記』によると、彼は第11代・垂仁天皇のために、常世からトキジクの木の実を取ってきた人物である。常世とは楽園であり、仙界であり、不老不死の 世界である。そこに生えているトキジクの木の実とは、不老不死をもたらす木の実なのだ。残念ながら、タジマモリが常世から帰ってきたとき、すでに垂仁天皇 は亡くなっていた。これを嘆き、タジマモリもまた、悲しみのあまり死んでしまったと伝えられる。
『古事記』には、トキジクの木の実を「今の橘なり」と記しているが、橘は日本固有の果物で、実際は違う種類の柑橘類ではないかといわれる。つまりは、広い意味でのミカンである。
といっても、トキジクの木の実を実際の果物と考えると、本質を見失う。トキジクの木の実は、あくまでも不老不死をもたらす木の実のこと。カッバーラでいう「生命の樹」の実のことなのだ。『聖書』には、この実を口にすれば、永遠の生命を得られると記されている。
かつてエデンの園にいたとき、アダムとイヴは「生命の樹」の実を食べていた。ところが、禁断の木の実、すなわち「知識の樹」の実を食べてしまったために、「生命の樹」の実は隠されてしまった。
思えば、「知識の樹」の実は、俗にリンゴだったといわれる。リンゴを鏡餅の上に置いているというのは、禁断の木の実を飾っていることにはなりはしないか。
では、その上に載っているミカンは何を象徴しているのか。
前回は、餅のルーツがユダヤのマツォにあることを述べた。マツォを食べるとき3つに割るのは、御父と御子と聖霊の三位一体の神を象徴しているという。これをそのまま鏡餅に当てはめると、ミカンもまた神の象徴だということになる。
さて、ここで日ユ同祖論から、カッバーラ=迦波羅という視点から考えてみよう。鏡餅をカッバーラの奥義「生命の樹」と見立てる。すると、鏡餅の上下三段 構造は、そのまま「生命の樹」の三栄光に対応する。すなわち、下から下層世界=星の栄光、中高世界=月の栄光、そして至高世界=太陽の栄光だ。つまり、一 番上のミカンは、太陽の栄光を象徴していることになる。
オレンジ色のミカンは、そのまま太陽の色。丸い形は、そのまま太陽の球体を表現しているとは考えられないだろうか。
もし、そうなら2枚の丸い餅と1個のミカンは、全部で3つの太陽を示しているともいえる。太陽は光であり、光の神、すなわち絶対神の象徴だ。よって、鏡餅は太陽三神、すなわち御父と御子と聖霊を示唆していたのである。
そもそも、ミカンという名前には「三カン」、つまり「三神」という意味が込められているのである。
こういうと、でき過ぎのような感もあるかもしれない。
しかし、日本における「ミカンの祖」がだれかを知れば、納得していただけるはずだ。日本にミカンを持ち込んだ人物。それはタジマモリという人物である。
彼は三宅氏の祖先で、ルーツを辿ると古代朝鮮の新羅の王子、天之日矛に遡る。天之日矛とくれば、ご存知の方も多いだろう。歴史学者の喜田貞吉氏は、天之 日矛伝承と渡来人「秦氏」の分布が一致することから、天之日矛を秦氏集団の象徴だと主張した。つまり、タジマモリは秦氏であり、ユダヤ人原始キリスト教徒 の末裔なのだ。彼がカッバーラを知っていた可能性は高い。
『古事記』によると、彼は第11代・垂仁天皇のために、常世からトキジクの木の実を取ってきた人物である。常世とは楽園であり、仙界であり、不老不死の 世界である。そこに生えているトキジクの木の実とは、不老不死をもたらす木の実なのだ。残念ながら、タジマモリが常世から帰ってきたとき、すでに垂仁天皇 は亡くなっていた。これを嘆き、タジマモリもまた、悲しみのあまり死んでしまったと伝えられる。
『古事記』には、トキジクの木の実を「今の橘なり」と記しているが、橘は日本固有の果物で、実際は違う種類の柑橘類ではないかといわれる。つまりは、広い意味でのミカンである。
といっても、トキジクの木の実を実際の果物と考えると、本質を見失う。トキジクの木の実は、あくまでも不老不死をもたらす木の実のこと。カッバーラでいう「生命の樹」の実のことなのだ。『聖書』には、この実を口にすれば、永遠の生命を得られると記されている。
かつてエデンの園にいたとき、アダムとイヴは「生命の樹」の実を食べていた。ところが、禁断の木の実、すなわち「知識の樹」の実を食べてしまったために、「生命の樹」の実は隠されてしまった。
思えば、「知識の樹」の実は、俗にリンゴだったといわれる。リンゴを鏡餅の上に置いているというのは、禁断の木の実を飾っていることにはなりはしないか。
大河ドラマ「武蔵」
隠し子発覚!!
先日、NHKの大河ドラマ「武蔵」の主役、市川新之助に隠し子のいることが暴露され、ワイドショーが大いに盛り上がった。すべては芸のこやしといいますか、お手つきも甲斐性のうちといいますか、何かと梨園は大変ですわな。
とまぁ、プライベートなことは置いといて、なかなかどうして、今年の大河ドラマ、調子はよさそうである。なんといっても、秦氏が深く関わっているからなぁと思ってしまうのは、うがった見方だろうか。
まず、宮本武蔵役の市川新之助だが、彼は秦氏である。
市川新之助の父は、第12代目市川団十郎で、祖父は第11代目市川団十郎だ。ここまでは歌舞伎通ならずとも、よく知られた事実。が、問題は、ここから だ。第11代目市川団十郎は第10代目市川団十郎の子供であるが、実は養子で、実の子ではない。彼は第7代目松本幸四郎の長男である。
ちなみに、第7代目松本幸四郎は、現在の第9代目松本幸四郎の曽祖父に当たる。第9代松本幸四郎からすると、第12代目市川団十郎は叔父にあたり、市川 新之助は従兄弟に相当する。よって、松たか子やこれまた隠し子騒動を起こした第7代目市川染五郎からすると、親父の従兄弟ということになる。
さて、以前、このコラムの「歌舞伎」で紹介したが、市川新之助の曽祖父に当たる第7代松本幸四郎の本名は、藤間金太郎という。が、実は、彼も藤間家に入った養子で、生まれたときの名前は秦金太郎というのだ。よって、市川新之助には秦氏の血が流れていることになるのだ。もちろん、その隠し子も、である。
そして、もうひとつは宮本武蔵、本人である。彼が秦氏であったという直接的な証拠はない。が、その故郷を調べてみると、どこか秦氏の影がちらつくのである。
一般にいわれるように、宮本武蔵の故郷は岡山県の美作である。ここは秦氏が密集している地域で知られる。このほか、彼には、もうひとつ出身地の候補があ り、それが兵庫県の加古川である。ここには、宮本武蔵の養子で、彼の甥に当たる宮本伊織が宮本家の氏神を祀った泊神社がある。
伝説によると、泊神社が創建されたのは、神代のころ。三種の神器のひとつ八咫鏡と同じ鋳型から作られた鏡を祀ったことに始まる。興味深いことに、和歌山 の国懸神宮にも、同様の鏡がご神体とされている。しかも、飛鳥時代、ここを訪れた聖徳太子のブレーン、秦河勝が自らの氏神を祀った国懸神宮から祭神の御霊 を勧請したというのだ。
もちろん、これは史実ではないが、加古川一帯にも秦氏が密集していたことから、秦氏一族がもちこんだ伝説であろう。そう考えると、宮本武蔵も、秦氏と深い関係にあったことが推測されるというわけだ。
こうして、宮本武蔵と市川新之助、両者が秦氏ゆかりの人物だったとなると、これでまた大河ドラマの見方が変わってくるのではないだろうか。
先日、NHKの大河ドラマ「武蔵」の主役、市川新之助に隠し子のいることが暴露され、ワイドショーが大いに盛り上がった。すべては芸のこやしといいますか、お手つきも甲斐性のうちといいますか、何かと梨園は大変ですわな。
とまぁ、プライベートなことは置いといて、なかなかどうして、今年の大河ドラマ、調子はよさそうである。なんといっても、秦氏が深く関わっているからなぁと思ってしまうのは、うがった見方だろうか。
まず、宮本武蔵役の市川新之助だが、彼は秦氏である。
市川新之助の父は、第12代目市川団十郎で、祖父は第11代目市川団十郎だ。ここまでは歌舞伎通ならずとも、よく知られた事実。が、問題は、ここから だ。第11代目市川団十郎は第10代目市川団十郎の子供であるが、実は養子で、実の子ではない。彼は第7代目松本幸四郎の長男である。
ちなみに、第7代目松本幸四郎は、現在の第9代目松本幸四郎の曽祖父に当たる。第9代松本幸四郎からすると、第12代目市川団十郎は叔父にあたり、市川 新之助は従兄弟に相当する。よって、松たか子やこれまた隠し子騒動を起こした第7代目市川染五郎からすると、親父の従兄弟ということになる。
さて、以前、このコラムの「歌舞伎」で紹介したが、市川新之助の曽祖父に当たる第7代松本幸四郎の本名は、藤間金太郎という。が、実は、彼も藤間家に入った養子で、生まれたときの名前は秦金太郎というのだ。よって、市川新之助には秦氏の血が流れていることになるのだ。もちろん、その隠し子も、である。
そして、もうひとつは宮本武蔵、本人である。彼が秦氏であったという直接的な証拠はない。が、その故郷を調べてみると、どこか秦氏の影がちらつくのである。
一般にいわれるように、宮本武蔵の故郷は岡山県の美作である。ここは秦氏が密集している地域で知られる。このほか、彼には、もうひとつ出身地の候補があ り、それが兵庫県の加古川である。ここには、宮本武蔵の養子で、彼の甥に当たる宮本伊織が宮本家の氏神を祀った泊神社がある。
伝説によると、泊神社が創建されたのは、神代のころ。三種の神器のひとつ八咫鏡と同じ鋳型から作られた鏡を祀ったことに始まる。興味深いことに、和歌山 の国懸神宮にも、同様の鏡がご神体とされている。しかも、飛鳥時代、ここを訪れた聖徳太子のブレーン、秦河勝が自らの氏神を祀った国懸神宮から祭神の御霊 を勧請したというのだ。
もちろん、これは史実ではないが、加古川一帯にも秦氏が密集していたことから、秦氏一族がもちこんだ伝説であろう。そう考えると、宮本武蔵も、秦氏と深い関係にあったことが推測されるというわけだ。
こうして、宮本武蔵と市川新之助、両者が秦氏ゆかりの人物だったとなると、これでまた大河ドラマの見方が変わってくるのではないだろうか。
羊
1年の始まりは、正月か、それとも節分か、はては春分の日か。いろいろ、定義はありますが、今年の干支は、ご存知の通り、羊である。
羊というと、どうも日本人にはなじみが薄い。お隣、干支の本家である中国では、東北部やチベットなど、それはもう羊がたくさんいる。それに比べると、日 本の気候風土が合わないのか、昔話には、あまり羊が出てこない。そのため、日本には羊など、昔からいなかったのだと、ついつい思ってしまう。
ところが、だ。日本の都道府県の名前をよく見ると、ひとつだけ羊にまつわる県がある。わかるだろうか。
答えは、群馬県である。群馬とは、馬の群れと書くが、この群れという文字をよく見ると、そこには羊という文字が入っている。群馬は羊ゆかりの国なのだ。
もっとも、こういうと、それは駄洒落にもならない強引なこじ付けだといわれそうだ。が、しかし。群馬に、羊がいたことは間違いない事実なのだ。その証拠に、奈良時代には、この辺りで羊毛が朝廷に納められている。羊毛を紡ぐ紡績器具も、ここから数多く出土しているのだ。
どうして、ここ群馬には、大陸の動物である羊がいたのか。その理由は、簡単である。群馬には、かつて大陸からやってきた渡来人が数多く住んでいたのだ。 奈良時代、朝廷が渡来人を関東に入植させたことは知られるが、群馬は、とくに多かった。ほとんどは朝鮮半島からやってきた渡来人であったが、その中には、 ユーラシア大陸の西に起源をもつ民族も存在したらしい。というのも、群馬には多胡という地名がある。これは胡人が多かったことからつけられた名称であるこ とがわかっている。胡人とは、中国において、西域の人々を指した言葉である。胡瓜や胡桃、胡麻など、胡がつく作物は、みなシルクロードの西、胡国からもた らされたものである。つまり、群馬には、西域からやってきた渡来人が住んでおり、彼らが羊を連れてきたらしいのだ。
しかも、日本三石碑に数えられる多胡碑には、「羊」という名前の人物が記されている。地元では、羊は有名で、もっぱら羊太夫という名称で呼ばれている。
そこで、注目したいのは、この羊太夫の正体である。伝承により、羊太夫の子孫だと称する人々がいる。羊太夫を祀る小波多神社を守る小幡氏も、そのひとつ。見ておわかりのように、波多、幡という名称がある。ハタは、これ秦氏である。
また、羊太夫にゆかりのある神保氏や惟宗氏は、まぎれもない秦氏であることが歴史学的に証明されている。
もっといえば、太夫という名称は、もともと陰陽師などの呪術師に多く見られるもので、その多くは秦氏であった。
つまり、羊太夫は秦氏だったのだ。
秦氏のルーツは遠く西アジア。パレスチナ地方に住んでいた人々である。当然ながら、彼らの祖先は遊牧を生業とし、羊を飼っていた。
しかも、秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒であった。ユダヤ人にとって、羊は大事な家畜である。祭りのときに、羊をほふり、神に捧げたことは有名だ。ユダ ヤ人のメシア、ダビデは羊飼いである。そして、ユダヤ人であったイエス・キリストは、自らを子羊になぞらえた。秦氏にとって、羊はイエス・キリストのシン ボルでもあったのだ。
羊というと、どうも日本人にはなじみが薄い。お隣、干支の本家である中国では、東北部やチベットなど、それはもう羊がたくさんいる。それに比べると、日 本の気候風土が合わないのか、昔話には、あまり羊が出てこない。そのため、日本には羊など、昔からいなかったのだと、ついつい思ってしまう。
ところが、だ。日本の都道府県の名前をよく見ると、ひとつだけ羊にまつわる県がある。わかるだろうか。
答えは、群馬県である。群馬とは、馬の群れと書くが、この群れという文字をよく見ると、そこには羊という文字が入っている。群馬は羊ゆかりの国なのだ。
もっとも、こういうと、それは駄洒落にもならない強引なこじ付けだといわれそうだ。が、しかし。群馬に、羊がいたことは間違いない事実なのだ。その証拠に、奈良時代には、この辺りで羊毛が朝廷に納められている。羊毛を紡ぐ紡績器具も、ここから数多く出土しているのだ。
どうして、ここ群馬には、大陸の動物である羊がいたのか。その理由は、簡単である。群馬には、かつて大陸からやってきた渡来人が数多く住んでいたのだ。 奈良時代、朝廷が渡来人を関東に入植させたことは知られるが、群馬は、とくに多かった。ほとんどは朝鮮半島からやってきた渡来人であったが、その中には、 ユーラシア大陸の西に起源をもつ民族も存在したらしい。というのも、群馬には多胡という地名がある。これは胡人が多かったことからつけられた名称であるこ とがわかっている。胡人とは、中国において、西域の人々を指した言葉である。胡瓜や胡桃、胡麻など、胡がつく作物は、みなシルクロードの西、胡国からもた らされたものである。つまり、群馬には、西域からやってきた渡来人が住んでおり、彼らが羊を連れてきたらしいのだ。
しかも、日本三石碑に数えられる多胡碑には、「羊」という名前の人物が記されている。地元では、羊は有名で、もっぱら羊太夫という名称で呼ばれている。
そこで、注目したいのは、この羊太夫の正体である。伝承により、羊太夫の子孫だと称する人々がいる。羊太夫を祀る小波多神社を守る小幡氏も、そのひとつ。見ておわかりのように、波多、幡という名称がある。ハタは、これ秦氏である。
また、羊太夫にゆかりのある神保氏や惟宗氏は、まぎれもない秦氏であることが歴史学的に証明されている。
もっといえば、太夫という名称は、もともと陰陽師などの呪術師に多く見られるもので、その多くは秦氏であった。
つまり、羊太夫は秦氏だったのだ。
秦氏のルーツは遠く西アジア。パレスチナ地方に住んでいた人々である。当然ながら、彼らの祖先は遊牧を生業とし、羊を飼っていた。
しかも、秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒であった。ユダヤ人にとって、羊は大事な家畜である。祭りのときに、羊をほふり、神に捧げたことは有名だ。ユダ ヤ人のメシア、ダビデは羊飼いである。そして、ユダヤ人であったイエス・キリストは、自らを子羊になぞらえた。秦氏にとって、羊はイエス・キリストのシン ボルでもあったのだ。
マジックナンバー「八」
日本の神社を巡礼していて、いつも思うことがある。それは、数字である。一郎、三郎なんて人名には、しばしば数字が出てくる。地名もしかり。四日市、五所 川原、十津川なんてのも、ある。神社の場合、多くが地名を冠するのだが、なかには祭神の名称と同じ場合もある。そうした状況を踏まえて眺めてみると、神社 の名称に使われる数字は、なんといっても「八」がダントツである。
思いつくだけでも、八幡神社、八坂神社、八雲神社、八重垣神社、八王子神社、八柱神社、八街神社……など、非常に多い。神様の名称としても、八矛大神、八束大神、八大竜王……があり、そもそも日本の神々は八百万の神々ともいう。
これは、他の一桁の数字に比べて、明らかに多い。いったい、どうして「八」という数字が、かくも多く使われるようになったのだろうか。
陰陽道的な発想からすれば、奇数は陽数で、偶数は陰数である。どちらかといえば、七五三などに代表されるように、奇数のほうがめでたいとされる。なかで も、9は一桁奇数で一番大きく、太陽と呼ばれる。これに対して、8は一桁偶数のなかで一番大きい、太陰とされる。太陰とは、いうなれば陰の極まったもので ある。積極的に、8を掲げる意味は薄いように思われる。
一方、易学的にいえば、八卦といって、陰陽の組み合わせは8通り。これをふたつ組み合わせることによって、8×8=64卦となる。確かに、この意味からすれば、8とは神秘的な数字ともいえそうだ。
しかし、そんなことよりも、日本の場合、「八」という数字が末広がりで、縁起がいいということで、多くの人は納得しているのではないだろうか。
さて、それでは「秦氏」という視点からすれば、何が見えてくるだろうか。神道の基本は秦氏がコーディネートした。名前も、当然ながら秦氏の意向が反映されているとみていい。しかも、文字や語呂合わせなど、縁起を担ぐことは、秦氏の得意技だ。
秦氏のルーツはユダヤ人原始キリスト教徒であり、その思想の根幹にはユダヤ教神秘主義カッバーラがある。カッバーラにおいて、数字を扱う神秘思想をゲマトリアという。
ゲマトリアにおいて、8とはいかなる数字か。基本は、絶対三神の3である。ゲマトリアで3を秘数とする場合、いくつか方法があるのだが、そのひとつに乗数がある。つまり、同じ数字を3回かけるのだ。
そこで、絶対三神、すなわち御父と御子と聖霊の順位をそれぞれ1、2、3とし、これを3乗する。すると、1、8、27という数字が現れる。おわかりのように、1は御父、8は御子、27は聖霊の秘数となる。
つまり、8は御子イエス・キリストの数字であることがわかる。このあたりの詳しいことについては、牧師であられる久保有政氏の最新刊『ゲマトリア数秘術』を参照してほしい。
さて、8はイエス・キリストの秘数だったということは、だ。当然ながら、神社や神名にある「八」もまた、イエス・キリストの秘数を示していることになる。
さらに、「八」は「ヤ」「ヤー」とも読む。ヤーとは、ヘブライ語で神を意味する。正確にいえば、ヤハウェの短縮形だ。カッバーラにおいて、ヤハウェはイ エス・キリストと同一神である。よって、「八」の読み方においても、イエス・キリストの意味が込められていることがわかるだろう。
そして、もうひとつ。「八」という漢字はカタカナの「ハ」のもとになったといわれる。が、このカタカナの「ハ」という文字は、興味深いことにヘブライ語 の「ヘー(H)」という文字に似ている。とくに、筆記体の形に、そっくりである。イスラエルへ行って、カタカナの「ハ」を書けば、そのままヘブライ語の 「ヘー」として立派に通用する。
「ヘー」は主に、名詞の頭について定冠詞、英語でいえば「the」のように使われる。そのときの発音は、なんと「ハ」である。
しかして、『ヘブライ語辞典』を開いてみると、この「ヘー」なる文字、用法のひとつに神の略称がある。ヤハウェはヘブライ語で「ヨッド・ヘー・ヴァヴ・ ヘー」となるのだが、このうちの「ヨッド」だけでヤハウェの略称になるように、「ヘー」でもヤハウェの略称として使われるのだ。つまり、「ヘー」はヤハ ウェであり、そしてイエス・キリストの意味でもあったのだ。
と、このように、秦氏はゲマトリア的手法によって、8を多くの神社名や神名につけていったのではないだろうか。
ちなみに、秦氏のなかには、ハタが訛ってハラになった者もいる。今や、プロ野球の巨人軍の監督になった、原辰徳氏も、思えば背番号8、エイトマンと呼ばれた時代もあった。ゲマトリア的にいえば、彼もまた神の数字を背負っていた男といえるかもしれない。
思いつくだけでも、八幡神社、八坂神社、八雲神社、八重垣神社、八王子神社、八柱神社、八街神社……など、非常に多い。神様の名称としても、八矛大神、八束大神、八大竜王……があり、そもそも日本の神々は八百万の神々ともいう。
これは、他の一桁の数字に比べて、明らかに多い。いったい、どうして「八」という数字が、かくも多く使われるようになったのだろうか。
陰陽道的な発想からすれば、奇数は陽数で、偶数は陰数である。どちらかといえば、七五三などに代表されるように、奇数のほうがめでたいとされる。なかで も、9は一桁奇数で一番大きく、太陽と呼ばれる。これに対して、8は一桁偶数のなかで一番大きい、太陰とされる。太陰とは、いうなれば陰の極まったもので ある。積極的に、8を掲げる意味は薄いように思われる。
一方、易学的にいえば、八卦といって、陰陽の組み合わせは8通り。これをふたつ組み合わせることによって、8×8=64卦となる。確かに、この意味からすれば、8とは神秘的な数字ともいえそうだ。
しかし、そんなことよりも、日本の場合、「八」という数字が末広がりで、縁起がいいということで、多くの人は納得しているのではないだろうか。
さて、それでは「秦氏」という視点からすれば、何が見えてくるだろうか。神道の基本は秦氏がコーディネートした。名前も、当然ながら秦氏の意向が反映されているとみていい。しかも、文字や語呂合わせなど、縁起を担ぐことは、秦氏の得意技だ。
秦氏のルーツはユダヤ人原始キリスト教徒であり、その思想の根幹にはユダヤ教神秘主義カッバーラがある。カッバーラにおいて、数字を扱う神秘思想をゲマトリアという。
ゲマトリアにおいて、8とはいかなる数字か。基本は、絶対三神の3である。ゲマトリアで3を秘数とする場合、いくつか方法があるのだが、そのひとつに乗数がある。つまり、同じ数字を3回かけるのだ。
そこで、絶対三神、すなわち御父と御子と聖霊の順位をそれぞれ1、2、3とし、これを3乗する。すると、1、8、27という数字が現れる。おわかりのように、1は御父、8は御子、27は聖霊の秘数となる。
つまり、8は御子イエス・キリストの数字であることがわかる。このあたりの詳しいことについては、牧師であられる久保有政氏の最新刊『ゲマトリア数秘術』を参照してほしい。
さて、8はイエス・キリストの秘数だったということは、だ。当然ながら、神社や神名にある「八」もまた、イエス・キリストの秘数を示していることになる。
さらに、「八」は「ヤ」「ヤー」とも読む。ヤーとは、ヘブライ語で神を意味する。正確にいえば、ヤハウェの短縮形だ。カッバーラにおいて、ヤハウェはイ エス・キリストと同一神である。よって、「八」の読み方においても、イエス・キリストの意味が込められていることがわかるだろう。
そして、もうひとつ。「八」という漢字はカタカナの「ハ」のもとになったといわれる。が、このカタカナの「ハ」という文字は、興味深いことにヘブライ語 の「ヘー(H)」という文字に似ている。とくに、筆記体の形に、そっくりである。イスラエルへ行って、カタカナの「ハ」を書けば、そのままヘブライ語の 「ヘー」として立派に通用する。
「ヘー」は主に、名詞の頭について定冠詞、英語でいえば「the」のように使われる。そのときの発音は、なんと「ハ」である。
しかして、『ヘブライ語辞典』を開いてみると、この「ヘー」なる文字、用法のひとつに神の略称がある。ヤハウェはヘブライ語で「ヨッド・ヘー・ヴァヴ・ ヘー」となるのだが、このうちの「ヨッド」だけでヤハウェの略称になるように、「ヘー」でもヤハウェの略称として使われるのだ。つまり、「ヘー」はヤハ ウェであり、そしてイエス・キリストの意味でもあったのだ。
と、このように、秦氏はゲマトリア的手法によって、8を多くの神社名や神名につけていったのではないだろうか。
ちなみに、秦氏のなかには、ハタが訛ってハラになった者もいる。今や、プロ野球の巨人軍の監督になった、原辰徳氏も、思えば背番号8、エイトマンと呼ばれた時代もあった。ゲマトリア的にいえば、彼もまた神の数字を背負っていた男といえるかもしれない。
こけし
東北を旅すると、しばしばお土産品店で「こけし」に出会う。細長い胴体に、リンゴのような頭。面相筆で描かれた繊細な顔と、赤と黒を主とした柄が独特な伝統美をかもし出している。
その色使いや形状は、どことなく東北、というより縄文っぽいイメージだ。こけしが木 製であることから、山の民を連想する人もいる。こけしとは、たんなる人形ではなく、縄 文文化の伝統を今に受け継ぐ工芸品なのかもしれない。
しかし、こけしの発祥を調べていくと、実は、意外な事実が浮かび上がってくる。東北 のなかでも、こけし作りの中心といえば、福島県の会津地方が有名だ。今でも、会津には こけし職人の方が多数存在する。
彼らは、いったいいつから、こけしを作るようになったのだろうか。歴史を紐解くと、 なんと、これが安土桃山時代、つまりは400年そこそこ前のこと。武将、蒲生氏郷が所 領を得て、近江から会津にやってきたとき、いっしょに連れてきた木地師と呼ばれる人々 がこけしを作り始めたという。
木地師とは、木を加工して、お椀やお盆などの器具を作る人々である。いわゆる回転す る轆轤を使って、同心円の木工品を作ることを得意とする。
当然のことだが、木工には木材が要る。木材は木を伐採しなければならないが、これに は限りがある。ひとつの場所に多くの木地師が長い間、定住していると、良質の木材が手 に入らなくなり、移動を余儀なくされる。
かつて、日本は幕藩体制であり、お伊勢参り以外は、基本的に藩を出ることはできなか った。が、彼ら木地師は自由に日本全国を往来できたばかりか、どこの山の木でも自由に 伐採することが、天皇から特別に許可されていたのである。
なぜ木地師は、そこまで特別な存在だったのか。その確かな理由は定かではないが、彼 ら木地師たちは平安時代の惟喬親王を祖と仰いでいるからだと主張する。本来なら、天皇 に即位するはずだった惟喬親王は、藤原氏の陰謀によって、失脚。天皇になれなかったば かりか、京都を追われ、近江の山奥に隠遁生活を余儀なくされた。そこで、惟喬親王は経 典の巻物からヒントを得て、轆轤を考案。従者に、轆轤を使った木工品を作らせ、彼らが 木地師となった。これがもとで、後に天皇家が木地師たちに特別の待遇を与えるようにな ったのだという。
もっとも、これはあくまでも伝説である。アカデミズムは史実とはみなしていない。が 、ではいったい木地師の正体は何なのだろうか。
現在、木地師には、大きくふたつの家がある。小椋家と大蔵家である。いずれも、惟喬 親王の従者で、それぞれ藤原実秀と藤原惟仲を祖とする。もちろん、惟喬親王伝説が虚構 だとすれば、これらふたりの人物も、はたして実在したかは怪しい。
そこで、注目は木地師の里である。木地師の里は、近江の東の山奥、現在の永源寺町に ある蛭谷と君ヶ畑として知られる。この辺一帯は、かつて小椋谷と呼ばれ、村は六畑のひ とつであった。少し行くと、大君ヶ畑や榑ヶ畑、治田峠などという地名が並ぶ。いずれも 木地師の村があったとされる場所だ。
お気づきのように、この辺りは「畑」と名のつく地名が多い。畑とくれば、連想するの が、そう秦氏である。ここは秦氏の開拓した村ではなかったのか。
木地師の里は愛知川沿いにあるのだが、愛知川一帯の愛知郡は、日本でも有数の秦氏の 王国があった地域で有名だ。かつて、ここには愛知を冠した朴智秦氏、依智秦氏が多数住 んでいた。
木地師の里から尾根伝いに来ると、山のふもとに百済寺がある。百済寺は聖徳太子にゆ かりのある寺で、名前からわかるように渡来人の寺。檀家には、多数の秦氏が存在したこ とが記録に残っている。
さらに、そのすぐ北には秦川山があり、麓には金剛輪寺がある。金剛輪寺は、もともと 松尾寺といい、秦氏が建立した寺である。
と、このように地域的に、ここは渡来人、しかも秦氏が開拓したといっても、けっして 過言ではない。となれば、当然ながら、木地師も渡来人、ずばり秦氏だったのではないだ ろうか。
木地師二大姓のひとつ「大蔵氏」だが、秦氏の支族にも大蔵氏がいる。しかも、近江の 琵琶湖東岸にも、大蔵秦氏が存在したことが記録に見える。状況から考えて、木地師の大 蔵氏が大蔵秦氏である可能性は非常に高い。
そして、もうひとつの「小椋氏」だが、こちらは地名に由来する姓だと考えて間違いな い。が、問題は「小椋」という地名である。実は、秦氏が住んでいた場所には、なぜか小 椋という地名が多いのだ。京都の太秦の西、嵯峨野には小椋山(小倉山)がある。小椋山 の下には、秦氏が築いた葛野大堰がある。また、秦氏が開拓した京都の南には、小椋池が ある。はては、九州の秦氏が建立した宇佐八幡宮があるのは、これまた小椋山である。
これらの小椋を木地師との関連で言及する人もいるが、むしろ、これは秦氏に関わる地 名であると理解したほうがいいのではないか。
最後にダメ押し。京都の雲ヶ畑に住む秦氏の方には、惟喬親王に関する伝承が残ってお り、彼らの祖先は惟喬親王の従者であったというのだ。
以上のことから、筆者は木地師のルーツは秦氏であると断言する。
木地師が秦氏であるならば、こけしもまた、別の見方ができる。こけしは、すべて木製 である。木製の人形とは、人体に表現された「生命の樹」、すなわちアダム・カドモンが 原形なのではないだろうか。
一説に、こけしとは「子消し」であるといい、貧しい東北地方の農民が口減らしのため に、やむなく赤子を間引いたとき、死んだ子供を偲んで作った人形でもあるという。間引 かれた子供は、他の家族の犠牲となった。そう思うと、イエス・キリストが自ら犠牲とな り十字架という「生命の樹」に掛かって死んだことと、どこか相通じるような気がするの は、考えすぎだろうか。
その色使いや形状は、どことなく東北、というより縄文っぽいイメージだ。こけしが木 製であることから、山の民を連想する人もいる。こけしとは、たんなる人形ではなく、縄 文文化の伝統を今に受け継ぐ工芸品なのかもしれない。
しかし、こけしの発祥を調べていくと、実は、意外な事実が浮かび上がってくる。東北 のなかでも、こけし作りの中心といえば、福島県の会津地方が有名だ。今でも、会津には こけし職人の方が多数存在する。
彼らは、いったいいつから、こけしを作るようになったのだろうか。歴史を紐解くと、 なんと、これが安土桃山時代、つまりは400年そこそこ前のこと。武将、蒲生氏郷が所 領を得て、近江から会津にやってきたとき、いっしょに連れてきた木地師と呼ばれる人々 がこけしを作り始めたという。
木地師とは、木を加工して、お椀やお盆などの器具を作る人々である。いわゆる回転す る轆轤を使って、同心円の木工品を作ることを得意とする。
当然のことだが、木工には木材が要る。木材は木を伐採しなければならないが、これに は限りがある。ひとつの場所に多くの木地師が長い間、定住していると、良質の木材が手 に入らなくなり、移動を余儀なくされる。
かつて、日本は幕藩体制であり、お伊勢参り以外は、基本的に藩を出ることはできなか った。が、彼ら木地師は自由に日本全国を往来できたばかりか、どこの山の木でも自由に 伐採することが、天皇から特別に許可されていたのである。
なぜ木地師は、そこまで特別な存在だったのか。その確かな理由は定かではないが、彼 ら木地師たちは平安時代の惟喬親王を祖と仰いでいるからだと主張する。本来なら、天皇 に即位するはずだった惟喬親王は、藤原氏の陰謀によって、失脚。天皇になれなかったば かりか、京都を追われ、近江の山奥に隠遁生活を余儀なくされた。そこで、惟喬親王は経 典の巻物からヒントを得て、轆轤を考案。従者に、轆轤を使った木工品を作らせ、彼らが 木地師となった。これがもとで、後に天皇家が木地師たちに特別の待遇を与えるようにな ったのだという。
もっとも、これはあくまでも伝説である。アカデミズムは史実とはみなしていない。が 、ではいったい木地師の正体は何なのだろうか。
現在、木地師には、大きくふたつの家がある。小椋家と大蔵家である。いずれも、惟喬 親王の従者で、それぞれ藤原実秀と藤原惟仲を祖とする。もちろん、惟喬親王伝説が虚構 だとすれば、これらふたりの人物も、はたして実在したかは怪しい。
そこで、注目は木地師の里である。木地師の里は、近江の東の山奥、現在の永源寺町に ある蛭谷と君ヶ畑として知られる。この辺一帯は、かつて小椋谷と呼ばれ、村は六畑のひ とつであった。少し行くと、大君ヶ畑や榑ヶ畑、治田峠などという地名が並ぶ。いずれも 木地師の村があったとされる場所だ。
お気づきのように、この辺りは「畑」と名のつく地名が多い。畑とくれば、連想するの が、そう秦氏である。ここは秦氏の開拓した村ではなかったのか。
木地師の里は愛知川沿いにあるのだが、愛知川一帯の愛知郡は、日本でも有数の秦氏の 王国があった地域で有名だ。かつて、ここには愛知を冠した朴智秦氏、依智秦氏が多数住 んでいた。
木地師の里から尾根伝いに来ると、山のふもとに百済寺がある。百済寺は聖徳太子にゆ かりのある寺で、名前からわかるように渡来人の寺。檀家には、多数の秦氏が存在したこ とが記録に残っている。
さらに、そのすぐ北には秦川山があり、麓には金剛輪寺がある。金剛輪寺は、もともと 松尾寺といい、秦氏が建立した寺である。
と、このように地域的に、ここは渡来人、しかも秦氏が開拓したといっても、けっして 過言ではない。となれば、当然ながら、木地師も渡来人、ずばり秦氏だったのではないだ ろうか。
木地師二大姓のひとつ「大蔵氏」だが、秦氏の支族にも大蔵氏がいる。しかも、近江の 琵琶湖東岸にも、大蔵秦氏が存在したことが記録に見える。状況から考えて、木地師の大 蔵氏が大蔵秦氏である可能性は非常に高い。
そして、もうひとつの「小椋氏」だが、こちらは地名に由来する姓だと考えて間違いな い。が、問題は「小椋」という地名である。実は、秦氏が住んでいた場所には、なぜか小 椋という地名が多いのだ。京都の太秦の西、嵯峨野には小椋山(小倉山)がある。小椋山 の下には、秦氏が築いた葛野大堰がある。また、秦氏が開拓した京都の南には、小椋池が ある。はては、九州の秦氏が建立した宇佐八幡宮があるのは、これまた小椋山である。
これらの小椋を木地師との関連で言及する人もいるが、むしろ、これは秦氏に関わる地 名であると理解したほうがいいのではないか。
最後にダメ押し。京都の雲ヶ畑に住む秦氏の方には、惟喬親王に関する伝承が残ってお り、彼らの祖先は惟喬親王の従者であったというのだ。
以上のことから、筆者は木地師のルーツは秦氏であると断言する。
木地師が秦氏であるならば、こけしもまた、別の見方ができる。こけしは、すべて木製 である。木製の人形とは、人体に表現された「生命の樹」、すなわちアダム・カドモンが 原形なのではないだろうか。
一説に、こけしとは「子消し」であるといい、貧しい東北地方の農民が口減らしのため に、やむなく赤子を間引いたとき、死んだ子供を偲んで作った人形でもあるという。間引 かれた子供は、他の家族の犠牲となった。そう思うと、イエス・キリストが自ら犠牲とな り十字架という「生命の樹」に掛かって死んだことと、どこか相通じるような気がするの は、考えすぎだろうか。
呪術の里
これもまた、呪術の成果か。いまだ衰えぬ陰陽道ブーム。今年も映画『陰陽師2』で、安倍晴明が大いに盛り上がりそうである。
だが、数年前のブームと比べると、少し雰囲気が違う。恐らく、ファンの方々の目が肥えてきたのだろう。インターネットの世界でも、学者顔負けの議論が交 わされている。おかげで、陰陽道がより深く理解されてきているといっても過言ではない。一時の安倍晴明さまブームにはなかった厚みが出てきたように思われ る。
そうしたなか、多くの人に注目されているのが四国は高知県、物部村に伝わる「いざなぎ流」である。いざなぎ流とは、陰陽道祭祀のひとつ。民俗学者の小松 和彦氏によって紹介されて以来、呪いのイメージが強くなったが、実際は、数珠占いや米占いなどといった占術も含む陰陽道呪術の一群といったほうが近い。紙 を使った独特な人形や神懸り神事、それに祈祷などの形態は、陰陽道本来の姿を残していると指摘する研究家もいる。
だが、筆者が注目したいのは、村と村人である。村の名前が物部村とは、いかにも意味深である。近くの物部川から名前を取っただけで、古代豪族の物部氏と は直接関係がないとされるが、はたして、そうだろうか。四国には物部氏が多数勢力を伸ばしており、物部神社もあるくらいである。名前の由来が川名だからと いって、この村に物部氏が無関係というのは早計ではないだろうか。もちろん、これといった確証があるわけではない。ただ、村人の多くが「小松」姓を名乗っ ているのが、非常に気になる。
小松和彦氏も物部村を訪れたとき、自分と同じ小松姓の人が多いことに驚いたという。村人の半分くらいは小松姓ともいう。当然ながら、陰陽道祭祀いざなぎ 流を保持してきたのもまた、小松氏であった。ということは、もっと小松氏が注目されていいと思うのだが、いかがだろうか。
さて、ではいったい小松氏とは、何者なのか。伝承によると、小松氏の祖先は中国系渡来人で、その祖先は秦始皇帝であるという。村の氏神である小松神社の祭神は不祥とはいうものの、どうやら秦始皇帝らしい。
祖先が秦始皇帝となると、気になるのは、やはり秦氏である。小松氏は秦氏なのではないだろうか。小松氏の「小松」とは、一説に「高麗津」ともいう。高麗 というあたり、朝鮮系渡来人を連想させる。が、というよりも、秦始皇帝の末裔で、応神朝に秦氏を率いてきた弓月君以前に、垂仁朝に渡来してきた功満王にち なむ「功満津」の可能性もある。もし、そうならば、小松氏は秦氏と同族であると考えていい。
もともと秦氏は数多くの陰陽師を輩出してきた。賀茂氏や安倍晴明も、みな秦氏の血を引く者たちである。いざなぎ流を伝える小松氏が秦氏であっても、何の不思議もない。というよりも、きわめて自然なことである。
そうなると、だ。改めて問題となるのは、物部村という名前である。秦氏が住んでいるのに、物部村とは、これいかに。かつて日本の神社のほとんどは、物部 氏が仕切っていた。それを乗っ取ったのが秦氏である。現在、全国の有力な神社はすべて秦氏の支配化にあるといっても過言ではない。しかして、陰陽道呪術を 原初の形で伝える物部村も、実は、もともと物部氏の支配地で、ここに秦氏がやってきたのではないだろうか。これは、ひとつの仮説であるが、物部村とは物部 氏の呪術を伝える村であり、それを陰陽道をもって吸収してしまったのが秦氏だったとしたら、どうだろう。
恐らく、ここには秦氏によって封印された重大な何かがあるのではないだろうか。いざなぎ流の本当の目的。それは、外に向かってではなく、内に向かっている。大切な何かを封印するのが真の目的のように思われてならない。
だが、数年前のブームと比べると、少し雰囲気が違う。恐らく、ファンの方々の目が肥えてきたのだろう。インターネットの世界でも、学者顔負けの議論が交 わされている。おかげで、陰陽道がより深く理解されてきているといっても過言ではない。一時の安倍晴明さまブームにはなかった厚みが出てきたように思われ る。
そうしたなか、多くの人に注目されているのが四国は高知県、物部村に伝わる「いざなぎ流」である。いざなぎ流とは、陰陽道祭祀のひとつ。民俗学者の小松 和彦氏によって紹介されて以来、呪いのイメージが強くなったが、実際は、数珠占いや米占いなどといった占術も含む陰陽道呪術の一群といったほうが近い。紙 を使った独特な人形や神懸り神事、それに祈祷などの形態は、陰陽道本来の姿を残していると指摘する研究家もいる。
だが、筆者が注目したいのは、村と村人である。村の名前が物部村とは、いかにも意味深である。近くの物部川から名前を取っただけで、古代豪族の物部氏と は直接関係がないとされるが、はたして、そうだろうか。四国には物部氏が多数勢力を伸ばしており、物部神社もあるくらいである。名前の由来が川名だからと いって、この村に物部氏が無関係というのは早計ではないだろうか。もちろん、これといった確証があるわけではない。ただ、村人の多くが「小松」姓を名乗っ ているのが、非常に気になる。
小松和彦氏も物部村を訪れたとき、自分と同じ小松姓の人が多いことに驚いたという。村人の半分くらいは小松姓ともいう。当然ながら、陰陽道祭祀いざなぎ 流を保持してきたのもまた、小松氏であった。ということは、もっと小松氏が注目されていいと思うのだが、いかがだろうか。
さて、ではいったい小松氏とは、何者なのか。伝承によると、小松氏の祖先は中国系渡来人で、その祖先は秦始皇帝であるという。村の氏神である小松神社の祭神は不祥とはいうものの、どうやら秦始皇帝らしい。
祖先が秦始皇帝となると、気になるのは、やはり秦氏である。小松氏は秦氏なのではないだろうか。小松氏の「小松」とは、一説に「高麗津」ともいう。高麗 というあたり、朝鮮系渡来人を連想させる。が、というよりも、秦始皇帝の末裔で、応神朝に秦氏を率いてきた弓月君以前に、垂仁朝に渡来してきた功満王にち なむ「功満津」の可能性もある。もし、そうならば、小松氏は秦氏と同族であると考えていい。
もともと秦氏は数多くの陰陽師を輩出してきた。賀茂氏や安倍晴明も、みな秦氏の血を引く者たちである。いざなぎ流を伝える小松氏が秦氏であっても、何の不思議もない。というよりも、きわめて自然なことである。
そうなると、だ。改めて問題となるのは、物部村という名前である。秦氏が住んでいるのに、物部村とは、これいかに。かつて日本の神社のほとんどは、物部 氏が仕切っていた。それを乗っ取ったのが秦氏である。現在、全国の有力な神社はすべて秦氏の支配化にあるといっても過言ではない。しかして、陰陽道呪術を 原初の形で伝える物部村も、実は、もともと物部氏の支配地で、ここに秦氏がやってきたのではないだろうか。これは、ひとつの仮説であるが、物部村とは物部 氏の呪術を伝える村であり、それを陰陽道をもって吸収してしまったのが秦氏だったとしたら、どうだろう。
恐らく、ここには秦氏によって封印された重大な何かがあるのではないだろうか。いざなぎ流の本当の目的。それは、外に向かってではなく、内に向かっている。大切な何かを封印するのが真の目的のように思われてならない。
湘南
ああ、寒い。
すでに外は冬。木枯らしが街角を吹きぬける。早いところでは、ジングルベルの音色が聞こえてくるそうな。
ああ、寒い。
少しは暖かなところを求めて、先日、湘南へ行ってきた。夏は、あれほどにぎわい、花火がどんどこ打ち上げられた海岸も、今の季節、さすがに人気はまばらだ。気合の入ったサーファーもいるが、波間に頭だけ覗く姿は、どことなく間の抜けたタマちゃん軍団のようである。
ああ、寒い。
ひょっとして、これだけ寒いのだから、本物のアザラシだって、この湘南に現れるのではないか。なんともベタな発想のもと、湘南の大河、相模川に行ってみた。が、当然というべきか、タマちゃんどころか、サガちゃんの影すらない。
ああ、寒い。
そんな震える心をさらに振動させる神社が、実は、この相模川沿いにある。相模一宮、その名も「寒川神社」。うう、まさに寒い名前だ。
しかし、寒い寒いとはいうが、ここは湘南である。北国や日本海側に比べれば、雪が降っているわけでも、霜柱が立っているわけでもない。雪国の人間にしてみれば、湘南の冬など寒いうちに入らない。なのに、どうして「寒川」なのだろうか。
川というのだから、相模川を指すのだろうが、別に川が凍ってスケートができるわけではない。どうも妙である。関東には、氷川神社が多いが、これとて氷が張った川のそばにあるわけではない。このコールド・リバーのイメージは、いったいどこから来るのだろうか。謎である。
調べてみると、意外なことがわかった。寒川神社の寒川とは、相模川のことではない。相模川の相模のことだった。相模=サガミとは、本来「寒河」。つまり寒川神社は、そのまま相模神社という意味だったのだ。
しかも、このサガミという言葉、なんと古代朝鮮語らしい。そこに住んでいる人々の社、すなわち氏神様という意味なのだとか。
日本史の教科書では詳しく記していないが、関東を開拓したのは渡来人だった。奈良時代まで、神奈川県から埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県、そして東京都と、関東平野をぐるりと抑えていたのは、ここに入植した渡来人であることが判明している。
ここ湘南にも、高来神社があるが、これなどは高麗神社である。そこから西へ行けば、秦野市である。秦野とは、いうまでもなく秦氏にちなむ地名だ。とくに 秦氏は秦野から伊勢原市を中心に、丹沢地方に広く分布した。記録によれば、相模地方の酒造りの起源は秦氏にあるともいわれる。
相模四宮で、寒川神社と相模川を隔てて鎮座する前鳥神社も、そうした酒造に関わる神社で、専門家の間では、秦氏が建立したのではないかと指摘されている。
そう考えてくると、寒川神社もまた、秦氏が崇敬した神社であったことは、想像に難くない。というよりも、古代の湘南は秦氏によって開拓されたといっても、けっして過言ではないのである。
すでに外は冬。木枯らしが街角を吹きぬける。早いところでは、ジングルベルの音色が聞こえてくるそうな。
ああ、寒い。
少しは暖かなところを求めて、先日、湘南へ行ってきた。夏は、あれほどにぎわい、花火がどんどこ打ち上げられた海岸も、今の季節、さすがに人気はまばらだ。気合の入ったサーファーもいるが、波間に頭だけ覗く姿は、どことなく間の抜けたタマちゃん軍団のようである。
ああ、寒い。
ひょっとして、これだけ寒いのだから、本物のアザラシだって、この湘南に現れるのではないか。なんともベタな発想のもと、湘南の大河、相模川に行ってみた。が、当然というべきか、タマちゃんどころか、サガちゃんの影すらない。
ああ、寒い。
そんな震える心をさらに振動させる神社が、実は、この相模川沿いにある。相模一宮、その名も「寒川神社」。うう、まさに寒い名前だ。
しかし、寒い寒いとはいうが、ここは湘南である。北国や日本海側に比べれば、雪が降っているわけでも、霜柱が立っているわけでもない。雪国の人間にしてみれば、湘南の冬など寒いうちに入らない。なのに、どうして「寒川」なのだろうか。
川というのだから、相模川を指すのだろうが、別に川が凍ってスケートができるわけではない。どうも妙である。関東には、氷川神社が多いが、これとて氷が張った川のそばにあるわけではない。このコールド・リバーのイメージは、いったいどこから来るのだろうか。謎である。
調べてみると、意外なことがわかった。寒川神社の寒川とは、相模川のことではない。相模川の相模のことだった。相模=サガミとは、本来「寒河」。つまり寒川神社は、そのまま相模神社という意味だったのだ。
しかも、このサガミという言葉、なんと古代朝鮮語らしい。そこに住んでいる人々の社、すなわち氏神様という意味なのだとか。
日本史の教科書では詳しく記していないが、関東を開拓したのは渡来人だった。奈良時代まで、神奈川県から埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県、そして東京都と、関東平野をぐるりと抑えていたのは、ここに入植した渡来人であることが判明している。
ここ湘南にも、高来神社があるが、これなどは高麗神社である。そこから西へ行けば、秦野市である。秦野とは、いうまでもなく秦氏にちなむ地名だ。とくに 秦氏は秦野から伊勢原市を中心に、丹沢地方に広く分布した。記録によれば、相模地方の酒造りの起源は秦氏にあるともいわれる。
相模四宮で、寒川神社と相模川を隔てて鎮座する前鳥神社も、そうした酒造に関わる神社で、専門家の間では、秦氏が建立したのではないかと指摘されている。
そう考えてくると、寒川神社もまた、秦氏が崇敬した神社であったことは、想像に難くない。というよりも、古代の湘南は秦氏によって開拓されたといっても、けっして過言ではないのである。
天神様
旅をして思うのだが、日本は、じつに神社だらけだ。どこへ行っても、必ず神社がある。まるで、昨今のコンビニのようだ。いや、コンビニはアスファルトの道 沿いにしかないが、神社は山の中、海の中にでもある。まさに、日本列島は神社に埋め尽くされているといっても、過言ではない。日本列島を人体にたとえるな ら、全身にお札を貼られているようなものだろう。
そうした神社のなかで、もっとも多いのが八幡神社である。2位は稲荷神社だといわれている。が、稲荷神社は小さな祠も多く、登録されていない社を含めれば、首位に躍り出るともいわれている。3位は伊勢皇大神社だ。
ご存知のように、いずれもルーツは秦氏にある。八幡神社の総本山、宇佐八幡宮は秦氏系の辛嶋氏が創建。稲荷神社の総本山、伏見稲荷大社は秦鱗(伊呂具)が創建したことは、よく知られている。最初の伊勢神宮、笠縫神社が秦楽寺の境内にあり、やはり秦氏が関わっている。
と、ここまでは、いろいろな機会で述べてきたので、ご存知の方もいるだろう。では、4位は、どうだろうか。4位は、天満宮である。総本山は、いうまでもなく京都の北野天満宮である。学問の神様で有名な菅原道真公を祀っている。天神様といえば、普通、菅原道真公を指す。
菅原道真は土師氏出身。直接、秦氏との関係はない。学者によっては、土師、すなわち須恵器は朝鮮半島から伝来したゆえ、土師氏もまた渡来人に違いないと いう。かつて土師氏は葬祭に関わる祭祀集団だったらしい。その祭祀が神道的な呪術にちなむものであれば、確かに、秦氏と関わってくるかもしれない。
しかし、気になるのは「天神」という名前だ。もともと天神とは、天の神。記紀の冒頭に記された造化三神及び、イザナギ命・イザナミ命に至る神代七代を天神と呼ぶ。
また、天神は天気の神様という意味合いもある。天候を左右する神としての天神。風や雨、そして雷を支配する神を天神と呼んだ。菅原道真も、怨霊と化したとき、清涼殿に雷を落としたことがきっかけで、天神様と呼ばれるようになったのだ。
と、普通は説明される。はたして、それだけだろうか。かねてから、筆者は本当の天満宮の祭神は、菅原道真ではないような気がしてならない。
というのも、天満宮の発祥地が北野だというのがひっかかるのだ。伝承によれば、ある女性に菅原道真の霊が降りてきて、北野で祀れと託宣したのがきっかけであるという。ご神託だからといえば、それまでだが、どこか意図的なものを感じるのは、偏屈な性格のせいだろうか。
実は、ここ北野には、かつて広隆寺があった。現在は、北野廃寺の碑があるのみだが、こここそ、あの弥勒菩薩半跏思惟像を最初に安置した寺。秦河勝が聖徳 太子から贈られた仏像を祀った原・広隆寺があった場所なのだ。すぐ近くには、川勝町という地名も残っている。つまりは、秦氏の首長、秦河勝のお膝元だった のである。そこに、わざわざ大魔王、菅原道真を祀るのには、何か深い意味があるはずだ。
しかして、天神である。
北野天満宮を訪れると、その境内に地主神を祀った社がある。地主神とあるように、この社は北野天満宮ができる以前からある。しかも、もともと地元の人は、この神を「北野天神」と呼んできたのだ。いうなれば、本当の天神である。
調べてみると、地主神の正体は火雷神。秦都理が松尾大社に祀った神であり、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の父親である。早い話、秦氏が祀った神である。天神様も、その表層を一枚めくると、やはり、そこにあるのは秦氏であった。
ユダヤ人原始キリスト教徒の秦氏が祀った天神。その本来の素性をたどれば、きっと天にまします御父に行き着くのではないだろうか。
さて、次回は、この天神をもう少し掘り下げてみたい。天神という名前とは逆に、とっても小さな神の話である。
そうした神社のなかで、もっとも多いのが八幡神社である。2位は稲荷神社だといわれている。が、稲荷神社は小さな祠も多く、登録されていない社を含めれば、首位に躍り出るともいわれている。3位は伊勢皇大神社だ。
ご存知のように、いずれもルーツは秦氏にある。八幡神社の総本山、宇佐八幡宮は秦氏系の辛嶋氏が創建。稲荷神社の総本山、伏見稲荷大社は秦鱗(伊呂具)が創建したことは、よく知られている。最初の伊勢神宮、笠縫神社が秦楽寺の境内にあり、やはり秦氏が関わっている。
と、ここまでは、いろいろな機会で述べてきたので、ご存知の方もいるだろう。では、4位は、どうだろうか。4位は、天満宮である。総本山は、いうまでもなく京都の北野天満宮である。学問の神様で有名な菅原道真公を祀っている。天神様といえば、普通、菅原道真公を指す。
菅原道真は土師氏出身。直接、秦氏との関係はない。学者によっては、土師、すなわち須恵器は朝鮮半島から伝来したゆえ、土師氏もまた渡来人に違いないと いう。かつて土師氏は葬祭に関わる祭祀集団だったらしい。その祭祀が神道的な呪術にちなむものであれば、確かに、秦氏と関わってくるかもしれない。
しかし、気になるのは「天神」という名前だ。もともと天神とは、天の神。記紀の冒頭に記された造化三神及び、イザナギ命・イザナミ命に至る神代七代を天神と呼ぶ。
また、天神は天気の神様という意味合いもある。天候を左右する神としての天神。風や雨、そして雷を支配する神を天神と呼んだ。菅原道真も、怨霊と化したとき、清涼殿に雷を落としたことがきっかけで、天神様と呼ばれるようになったのだ。
と、普通は説明される。はたして、それだけだろうか。かねてから、筆者は本当の天満宮の祭神は、菅原道真ではないような気がしてならない。
というのも、天満宮の発祥地が北野だというのがひっかかるのだ。伝承によれば、ある女性に菅原道真の霊が降りてきて、北野で祀れと託宣したのがきっかけであるという。ご神託だからといえば、それまでだが、どこか意図的なものを感じるのは、偏屈な性格のせいだろうか。
実は、ここ北野には、かつて広隆寺があった。現在は、北野廃寺の碑があるのみだが、こここそ、あの弥勒菩薩半跏思惟像を最初に安置した寺。秦河勝が聖徳 太子から贈られた仏像を祀った原・広隆寺があった場所なのだ。すぐ近くには、川勝町という地名も残っている。つまりは、秦氏の首長、秦河勝のお膝元だった のである。そこに、わざわざ大魔王、菅原道真を祀るのには、何か深い意味があるはずだ。
しかして、天神である。
北野天満宮を訪れると、その境内に地主神を祀った社がある。地主神とあるように、この社は北野天満宮ができる以前からある。しかも、もともと地元の人は、この神を「北野天神」と呼んできたのだ。いうなれば、本当の天神である。
調べてみると、地主神の正体は火雷神。秦都理が松尾大社に祀った神であり、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の父親である。早い話、秦氏が祀った神である。天神様も、その表層を一枚めくると、やはり、そこにあるのは秦氏であった。
ユダヤ人原始キリスト教徒の秦氏が祀った天神。その本来の素性をたどれば、きっと天にまします御父に行き着くのではないだろうか。
さて、次回は、この天神をもう少し掘り下げてみたい。天神という名前とは逆に、とっても小さな神の話である。
2004
天神・少名彦命
大阪に「服部天神宮」という神社がある。天神とあるように、ここでは菅原道真を祀っている。神社の由来によると、かつては神社の傍らにあった祠に菅原道真 を祀っていたものを天神信仰の高まりとともに、合祀するようになったのだという。つまり、服部天神宮の天神とは、この菅原道真に由来するらしい。
しかし、実際にご当地に足を運ぶと、意外なことが見えてくる。服部天神宮の服部とは、もともと地名からとったもの。かつては、ここ一帯は機織部が数多く 住んでいた。機織部の中心は、いうまでもなく秦氏である。服部氏が秦氏であることは有名だ。服部天神宮も、古くは秦氏が創建したものであると社伝にはあ る。
面白いのは祭神である。服部天神宮は少名彦命を祀っているのだ。少名彦命は、名前の通り、体の小さな神。大きな体の大国主命とペアで、国土を開発したといわれている。
また、古くから少名彦命は医薬の神であるともいわれ、病を治す温泉の発見者として崇拝されることが多い。大陸の進んだ医療技術をもっていた秦氏は、医薬の神として少名彦命を祀ったのが服部天神宮のはじまりであろうというのだ。
さて、ここで先に掲げた天神の由来である。本当に、服部天神宮の天神は菅原道真のことだったのだろうか。もともと天神を祀っていたところへ、菅原道真への信仰が高まり、天神を抱き合わせで祀ったとは考えられないだろうか。
その理由は、少名彦命だ。あまり知られていないが、少名彦命は天神でもある。京都の五条天神の例に見るように、少名彦命を天神として祀る神社がある。一 般に、天神は天の神、天空の神。その性格を畏怖とともに象徴されるのが雷だ。天神は、イコール雷神でもある。北野天満宮の本当の由来が、実は火雷神を天神 と祀る信仰にあるのも、そのためである。
では、少名彦命が、どうして天神、すなわち雷神なのか。この理由は記紀神話を眺めても、答えは出ない。
鍵は秦氏が握っている。かつて、日本に大量にやってきた秦氏は、その高度な技術を見込まれて全国に入植させられた。結果、広まった分、勢力が弱くなった ときがある。雄略天皇の時代だ。これを憂いた秦氏の首長、秦酒公は同胞を集めてくれるように願い出た。膨大な貢物をしている秦氏の願いである。天皇も、快 く承諾。配下の者を遣わし、秦氏を中央に呼び集めた。
と、このとき秦氏を集めたのが小子部雷という人物だ。雷と書いてスガルと読む。彼は雷神にも見立てられるほど力をもった人物であった。が、その一方で小 子部という姓は、どこか小人を思わせる。つまり、小子部雷には小人の雷神というイメージがある。これは、そのまま天神・少名彦命のイメージだ。
これは、恐らく偶然ではあるまい。天神・少名彦命には、小子部雷の姿が投影されているのである。はたして、これが意図的なのか、それとも習合してしまったのかは不明だが、担い手が秦氏であることは間違いないだろう。
なぜなら、少名彦命を医薬の神として崇めたのが秦氏なら、小子部雷は秦氏一族の恩人であり、しかも彼自身、秦氏であったからだ。小子部氏は、多氏と同族。小子部雷を祀った神社は秦之庄にあり、近くに多神社もある。多氏は秦氏の支族であったのである。
そう考えるとき、筆者には、この小さい雷神が、どこか12使徒のひとりヨハネに思えてくる。ヨハネはイエス・キリストにもっとも愛された弟子のひとり で、福音書とともに黙示録を書いた人物である。彼は気性が荒く、兄弟のヤコブとともにイエス・キリストから雷の子「ボアネルゲ」と呼ばれていた。ヨハネは 12使徒のなかでも、もっとも若い人物であったらしく、最後の晩餐においては隣に座って、イエスの胸に寄りかかっていたともいう。
さらに、一説には、ヨハネはイエスが再臨するまで死ぬことはないともいわれた。
もし、雷の子と呼ばれたヨハネが古代の日本を訪れていたとしたら、どうだろう。ユダヤ人原始キリスト教徒であった秦氏は、全国各地から、こぞってヨハネのもとに集まったに違いない。そこで彼は、雷の子という称号から、日本名で小子部雷と名乗った可能性はないだろうか。
もちろん、これは仮説だ。壮大な空想といっていだろう。だが、そんな空想がリアルに思えてしまうほど、秦氏がつむぎだす伝説は奥が深いのだ。
しかし、実際にご当地に足を運ぶと、意外なことが見えてくる。服部天神宮の服部とは、もともと地名からとったもの。かつては、ここ一帯は機織部が数多く 住んでいた。機織部の中心は、いうまでもなく秦氏である。服部氏が秦氏であることは有名だ。服部天神宮も、古くは秦氏が創建したものであると社伝にはあ る。
面白いのは祭神である。服部天神宮は少名彦命を祀っているのだ。少名彦命は、名前の通り、体の小さな神。大きな体の大国主命とペアで、国土を開発したといわれている。
また、古くから少名彦命は医薬の神であるともいわれ、病を治す温泉の発見者として崇拝されることが多い。大陸の進んだ医療技術をもっていた秦氏は、医薬の神として少名彦命を祀ったのが服部天神宮のはじまりであろうというのだ。
さて、ここで先に掲げた天神の由来である。本当に、服部天神宮の天神は菅原道真のことだったのだろうか。もともと天神を祀っていたところへ、菅原道真への信仰が高まり、天神を抱き合わせで祀ったとは考えられないだろうか。
その理由は、少名彦命だ。あまり知られていないが、少名彦命は天神でもある。京都の五条天神の例に見るように、少名彦命を天神として祀る神社がある。一 般に、天神は天の神、天空の神。その性格を畏怖とともに象徴されるのが雷だ。天神は、イコール雷神でもある。北野天満宮の本当の由来が、実は火雷神を天神 と祀る信仰にあるのも、そのためである。
では、少名彦命が、どうして天神、すなわち雷神なのか。この理由は記紀神話を眺めても、答えは出ない。
鍵は秦氏が握っている。かつて、日本に大量にやってきた秦氏は、その高度な技術を見込まれて全国に入植させられた。結果、広まった分、勢力が弱くなった ときがある。雄略天皇の時代だ。これを憂いた秦氏の首長、秦酒公は同胞を集めてくれるように願い出た。膨大な貢物をしている秦氏の願いである。天皇も、快 く承諾。配下の者を遣わし、秦氏を中央に呼び集めた。
と、このとき秦氏を集めたのが小子部雷という人物だ。雷と書いてスガルと読む。彼は雷神にも見立てられるほど力をもった人物であった。が、その一方で小 子部という姓は、どこか小人を思わせる。つまり、小子部雷には小人の雷神というイメージがある。これは、そのまま天神・少名彦命のイメージだ。
これは、恐らく偶然ではあるまい。天神・少名彦命には、小子部雷の姿が投影されているのである。はたして、これが意図的なのか、それとも習合してしまったのかは不明だが、担い手が秦氏であることは間違いないだろう。
なぜなら、少名彦命を医薬の神として崇めたのが秦氏なら、小子部雷は秦氏一族の恩人であり、しかも彼自身、秦氏であったからだ。小子部氏は、多氏と同族。小子部雷を祀った神社は秦之庄にあり、近くに多神社もある。多氏は秦氏の支族であったのである。
そう考えるとき、筆者には、この小さい雷神が、どこか12使徒のひとりヨハネに思えてくる。ヨハネはイエス・キリストにもっとも愛された弟子のひとり で、福音書とともに黙示録を書いた人物である。彼は気性が荒く、兄弟のヤコブとともにイエス・キリストから雷の子「ボアネルゲ」と呼ばれていた。ヨハネは 12使徒のなかでも、もっとも若い人物であったらしく、最後の晩餐においては隣に座って、イエスの胸に寄りかかっていたともいう。
さらに、一説には、ヨハネはイエスが再臨するまで死ぬことはないともいわれた。
もし、雷の子と呼ばれたヨハネが古代の日本を訪れていたとしたら、どうだろう。ユダヤ人原始キリスト教徒であった秦氏は、全国各地から、こぞってヨハネのもとに集まったに違いない。そこで彼は、雷の子という称号から、日本名で小子部雷と名乗った可能性はないだろうか。
もちろん、これは仮説だ。壮大な空想といっていだろう。だが、そんな空想がリアルに思えてしまうほど、秦氏がつむぎだす伝説は奥が深いのだ。
静岡
先日、熱海に行ってきた。東京から新幹線で行くと、あっという間である。伊豆半島の東側、しかも付け根に近いせいか、どうも神奈川県のイメージがあるのだが、ここはもう静岡県である。
伊豆半島の西側、黒潮に洗われる駿河湾は一年中温暖である。そのため、静岡県はみかんやお茶の産地として有名だ。学生時代から静岡県出身の友人が多いため、しばしば当地は訪れるのだが、雄大なる富士山の姿を見て暮らす生活は、やはりうらやましい。
そんな静岡だが、県名の由来については、意外に知られていない。もともと、静岡という地名があったわけではないのだ。調べてみると、静岡県が誕生したの は、明治時代。廃藩置県が実施されたときのことである。駿河府中の名を「賤が丘」と考案。これに物言いがついて、最終的に「静が岡」、すなわち「静岡」と 命名されたという。
では、最初の「賤が丘」とは何なのか。実は、静岡市の北に「賤機山」があり、この麓に位置するところから、考え出されたものらしい。つまり、静岡とは、賤機山にちなんで付けられた名前なのである。
かつて静岡の友人に案内されて、賤機山に行ったことがある。そこには現在、浅間神社があり、境内には古代の古墳が存在する。その名も賤機山古墳というのだが、時代的には6世紀ごろと見られている。
興味深いことに、賤機山の周辺には麻機や服織なる地名がある。賤機山の賤ハタ山、麻機の麻ハタ、服織のハトリ。いずれも秦氏を連想させる。これについて、金達寿氏は、ずばり駿河一帯を開発したのは秦氏だったと主張する。
なかなかの卓見である。と、すれば、だ。静岡の由来となった賤機山、そのまた由来は秦氏ということになる。三段論法でいえば、静岡は秦氏にちなむ名前だったといえなくもない。
ひょっとすると、お茶やみかんを特産品に仕立てたのも、秦氏が関わっているのかもしれない。これから、しばらく静岡の秦氏を追ってみたいと思う。
伊豆半島の西側、黒潮に洗われる駿河湾は一年中温暖である。そのため、静岡県はみかんやお茶の産地として有名だ。学生時代から静岡県出身の友人が多いため、しばしば当地は訪れるのだが、雄大なる富士山の姿を見て暮らす生活は、やはりうらやましい。
そんな静岡だが、県名の由来については、意外に知られていない。もともと、静岡という地名があったわけではないのだ。調べてみると、静岡県が誕生したの は、明治時代。廃藩置県が実施されたときのことである。駿河府中の名を「賤が丘」と考案。これに物言いがついて、最終的に「静が岡」、すなわち「静岡」と 命名されたという。
では、最初の「賤が丘」とは何なのか。実は、静岡市の北に「賤機山」があり、この麓に位置するところから、考え出されたものらしい。つまり、静岡とは、賤機山にちなんで付けられた名前なのである。
かつて静岡の友人に案内されて、賤機山に行ったことがある。そこには現在、浅間神社があり、境内には古代の古墳が存在する。その名も賤機山古墳というのだが、時代的には6世紀ごろと見られている。
興味深いことに、賤機山の周辺には麻機や服織なる地名がある。賤機山の賤ハタ山、麻機の麻ハタ、服織のハトリ。いずれも秦氏を連想させる。これについて、金達寿氏は、ずばり駿河一帯を開発したのは秦氏だったと主張する。
なかなかの卓見である。と、すれば、だ。静岡の由来となった賤機山、そのまた由来は秦氏ということになる。三段論法でいえば、静岡は秦氏にちなむ名前だったといえなくもない。
ひょっとすると、お茶やみかんを特産品に仕立てたのも、秦氏が関わっているのかもしれない。これから、しばらく静岡の秦氏を追ってみたいと思う。
2006
牛糞
今年も、夏が暑かった。夏は暑いに決まっているが、今年の暑さは常軌を逸している。まさに地球温暖化を実感する一年であった。一説によると、地球温暖化の 原因は二酸化炭素よりも、メタンガスのほうが重大であるともいう。なかでも、研究者が真顔で警告するのは、なんと牛のゲップだ。巨大な胃腸で発酵した牧草 は、膨大な量のメタンガスを放出しているらしい。もちろん、そこから出た牛糞も、しかり。細菌によって、長期にわたってメタンガスを発生させているという から、恐ろしい。地球の未来は牛の胃袋にかかっているとは、なんとも笑えない話である。
牛糞は堆肥にすればいいのだが、そのためには十分に発酵させなくてはならない。発酵せずに、そのへんに牛糞を捨てると、日本の法律では処罰の対象になるので、要注意。北海道の酪農農家では、毎日、大量に発生する牛糞の処理に困っていると聞く。
そんな牛糞を名前にもつ人々がいたとしたら、どう思われるだろう。牛糞・牛クソ、すなわち牛屎氏という苗字が、実際にあるのだ。鹿児島県の牛屎院という土地を所領したことによるものだが、彼らの姓がなんと「太秦氏」なのである。
京都府葛野の太秦を本拠地とする秦氏の本流、まさに秦河勝の直系に当たる人々が11世紀ごろに鹿児島にやってきて、牛屎氏を名乗ったらしい。もっとも、 彼らは平家を自称したらしいが、もちろんウソである。太秦と書いて、ウズマサと読ませる一族は、秦氏以外にはありえない。 牛屎の太秦氏の痕跡は、今も鹿児島に残る「太秦神社」に見ることができる。世に太秦殿や太秦明神を名乗っても、そのまま太秦神社と称すのは、日本で唯 一、ここだけである。恐らく秦氏研究家の方でも、知っている人は少ないはずだ。
というのも、神社が小さい。鳥居もなければ、目立つ標識も看板もない。地元の役場に尋ねたときも、くれた資料には「太巻神社」と書いてある始末。要する に、忘れ去られた神社なのである。現地を訪ねたときも、境内の改修記念碑に刻まれた太秦神社の文字が唯一の手掛かりだった。
そんな小さな神社をお参りしていると、いやおうなく思いは牛屎なる文字へと飛翔する。地名とはいえ、牛屎という文字に抵抗はなかったのか。ウシクソとい う言葉に、別の文字を当てようとは思わなかったのか。モンゴル人は、今でも魔除けだと称して、子供たちに縁起のよくない名をあえてつけるようだが、大陸を 放浪してきた秦氏にも、そうした思想があったのか。
感慨にふけっていると、やはり考えてしまうのは、彼らのルーツだ。秦氏はユダヤ人である。古代イスラエル人の血を引く。約束の地に来る以前、祖先は古代 エジプトにいた。奴隷の身ではあったが、古代エジプト文明を築いた人々であることは事実だ。ヨセフの時代、イスラエル人はエジプトを事実上、支配していた といってもいいだろう。
ご存知の通り、古代エジプトは太陽の国。太陽神を崇めている。多神教ゆえ、太陽神も多い。ラー、アトン、ホルス、なかでもケプリは日没の太陽を象徴する とともに、フンコロガシの姿で描かれる。フンコロガシが転がす球形の糞が太陽をイメージさせるからだという。遠い祖先がフンコロガシに見た太陽神ケプリ。 そのはるかなる記憶が牛屎に甦ってきたというのは考えすぎだろうか。
一説に、地球温暖化の真の原因は、太陽の活動そのものが活発化してきているからだという。ならば、今こそ、ケプリの力が必要なのではないだろうか。日没のように、穏やかな日差しにしてくれるよう、フンコロガシに頼んでみよう。
牛糞は堆肥にすればいいのだが、そのためには十分に発酵させなくてはならない。発酵せずに、そのへんに牛糞を捨てると、日本の法律では処罰の対象になるので、要注意。北海道の酪農農家では、毎日、大量に発生する牛糞の処理に困っていると聞く。
そんな牛糞を名前にもつ人々がいたとしたら、どう思われるだろう。牛糞・牛クソ、すなわち牛屎氏という苗字が、実際にあるのだ。鹿児島県の牛屎院という土地を所領したことによるものだが、彼らの姓がなんと「太秦氏」なのである。
京都府葛野の太秦を本拠地とする秦氏の本流、まさに秦河勝の直系に当たる人々が11世紀ごろに鹿児島にやってきて、牛屎氏を名乗ったらしい。もっとも、 彼らは平家を自称したらしいが、もちろんウソである。太秦と書いて、ウズマサと読ませる一族は、秦氏以外にはありえない。 牛屎の太秦氏の痕跡は、今も鹿児島に残る「太秦神社」に見ることができる。世に太秦殿や太秦明神を名乗っても、そのまま太秦神社と称すのは、日本で唯 一、ここだけである。恐らく秦氏研究家の方でも、知っている人は少ないはずだ。
というのも、神社が小さい。鳥居もなければ、目立つ標識も看板もない。地元の役場に尋ねたときも、くれた資料には「太巻神社」と書いてある始末。要する に、忘れ去られた神社なのである。現地を訪ねたときも、境内の改修記念碑に刻まれた太秦神社の文字が唯一の手掛かりだった。
そんな小さな神社をお参りしていると、いやおうなく思いは牛屎なる文字へと飛翔する。地名とはいえ、牛屎という文字に抵抗はなかったのか。ウシクソとい う言葉に、別の文字を当てようとは思わなかったのか。モンゴル人は、今でも魔除けだと称して、子供たちに縁起のよくない名をあえてつけるようだが、大陸を 放浪してきた秦氏にも、そうした思想があったのか。
感慨にふけっていると、やはり考えてしまうのは、彼らのルーツだ。秦氏はユダヤ人である。古代イスラエル人の血を引く。約束の地に来る以前、祖先は古代 エジプトにいた。奴隷の身ではあったが、古代エジプト文明を築いた人々であることは事実だ。ヨセフの時代、イスラエル人はエジプトを事実上、支配していた といってもいいだろう。
ご存知の通り、古代エジプトは太陽の国。太陽神を崇めている。多神教ゆえ、太陽神も多い。ラー、アトン、ホルス、なかでもケプリは日没の太陽を象徴する とともに、フンコロガシの姿で描かれる。フンコロガシが転がす球形の糞が太陽をイメージさせるからだという。遠い祖先がフンコロガシに見た太陽神ケプリ。 そのはるかなる記憶が牛屎に甦ってきたというのは考えすぎだろうか。
一説に、地球温暖化の真の原因は、太陽の活動そのものが活発化してきているからだという。ならば、今こそ、ケプリの力が必要なのではないだろうか。日没のように、穏やかな日差しにしてくれるよう、フンコロガシに頼んでみよう。
狼
かつて日本にも、狼がいた。絶滅したとされるニホンオオカミだが、一説には、まだどこかで生き残っているともいう。紀州のある犬にはニホンオオカミの血が混じっているとか。いずれにせよ、古代の日本人が狼を目にしていたことは事実である。
正史『日本書紀』には、こんなエピソードが記されている。時代は、欽明天皇が天皇として即位する少し前のころである。皇子だった彼は不思議な夢を見た。見知らぬ男が出てきて、秦大津父なる人物を寵愛すれば、天下を取れると告げたのだ。
しかして、夢から覚め、実際に使いを出して捜させたところ、なんと実際に山背国深草に、秦大津父という男がいた。
これは何かあると思った皇子が何か変わったことはなかったかと、秦大津父に聞いたところ、彼は答えていった。そういえば、伊勢に商いに行く途中、山の中 で互いに血みどろになりながらケンカをする2匹の狼に出会った。このままでは狩人に殺されてしまうぞと思い、2匹をたしなめて介護した後、山に放してやっ た、と。
この夢に、どこか思い当たるところがあったのだろう。ピンと来た皇子は、秦大津父を大蔵省に登用。夢のお告げ通り、長じて、第29代・欽明天皇として即位することができたという。
このエピソードは極めて多くの示唆に富んでいる。古代史研究家の間では、その意味をめぐって、ちょっとした論争を呼んでいる箇所なのである。まず、おわ かりのように、話の位置付けは秦氏を寵愛したので、天皇になれたという部分。秦大津父が登用されたのが大蔵省であることからわかるように、秦氏一族の莫大 な経済力が天皇家を支えたことがわかる。伊勢に商いをしにいっているあたり、水銀との関係を推測する研究家もいる。
次に、注目は2匹の狼である。互いにケンカしているところを秦大津父は仲介に入って、これをやめさせている。狼を政治的な勢力の象徴と見れば、ふたつの派閥を調停した結果、新たに欽明王朝が成立したと読み替えることができる。
面白いのは、狼をふたつの王朝と解釈する説である。父である第26代・継体天皇と子である第29代・欽明天皇の間には、第27代・安閑天皇と第28代・宣化天皇というふたりの腹違いの兄弟が即位している。
が、史料『上宮聖徳法王帝説』によると、継体天皇が崩御した年に欽明天皇の即位している。つまり、安閑天皇と宣化天皇の治世が入る余地がないのである。 このことから、継体天皇の死後、皇位をめぐって兄弟間に争いがあり、一時期、ふたつの王朝が並立していたのではないかというのだ。
整理すると、2匹の狼とは安閑・宣化王朝と欽明王朝のことで、両者が争っていてたが、経済力をもった秦氏を味方につけた欽明天皇が最終的に勝利したことを秦大津父のエピソードは物語っているというわけだ。
二朝並立説の是非はさておき、本稿で注目したいのは狼である。なぜ狼なのか。秦大津父の出身である深草には現在、伏見稲荷大社がある。創建したのは秦伊呂具だ。ご存知のように、お稲荷さんといえば、狐である。狛犬に代わって、参道の両脇に鎮座するのは2匹の狐である。
狐と狼。どちらもイヌである。狐も狼も、日本では山犬と考えられてきた。このことから、秦氏は山犬をトーテムとする一族ではないかと、民俗学者は考える。つまり、狼は、もともと秦氏一族のシンボルでもあったのだ、と。
ぜは、なぜ秦氏は狼をトーテムと考えたのか。秦氏が渡来人であることを考えれば、その習俗は大陸に起源がある。東北アジアで狼をトーテムとするのは、そ うモンゴルである。かの覇者チンギス・ハーンは蒼き狼と呼ばれた。伝説では、彼の祖先が蒼き狼なのだという(もっとも系図をたどると血は引いていないこと にはなるのだが)。秦氏もまた、モンゴル系騎馬民族の流れを汲む可能性はある。
だが、忘れてならないのは、秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒だということである。彼らのルーツは、はるかシルクロードの向こう、西アジアのエルサレムにある。2000年前、ここにいたユダヤ人たちのトーテムを考える必要があろう。
こういうと、キリスト教徒が狼をシンボルにするわけがないだろうと考える人も少なからずいるだろう。映画『オーメン』で反キリストであるダミアンは山犬 の子供であった。また、英語で神はGODだが、これをひっくり返すとDOG、すなわちイヌになる。つまり、犬は神の対極にある悪魔だという俗信もある。
しかし、重要なのは、ユダヤ人だということである。彼らは西アジアの遊牧民、イスラエル人なのである。2000年前、エルサレムにいたユダヤ人はイスラエル12支族のうちのユダ族とベニヤミン族、それに祭司レビ族から成っていた。
注目したいのは、支族のシンボルである。彼らイスラエル12支族には、それぞれシンボルがあった。なかでも、ベニヤミン族のシンボルは、ずばり狼なのである。獰猛なる狼こそ、ベニヤミン族の象徴なのだ。
したがって、狼をトーテムとする秦氏は、恐らくベニヤミン族の流れを汲むユダヤ人ではなかったか。秦大津父や秦伊呂具は、伝道者パウロと同じベニヤミン族だった可能性が高い。今後、そうした視点から二朝並立説も考えていく必要があるのではないだろうか。
正史『日本書紀』には、こんなエピソードが記されている。時代は、欽明天皇が天皇として即位する少し前のころである。皇子だった彼は不思議な夢を見た。見知らぬ男が出てきて、秦大津父なる人物を寵愛すれば、天下を取れると告げたのだ。
しかして、夢から覚め、実際に使いを出して捜させたところ、なんと実際に山背国深草に、秦大津父という男がいた。
これは何かあると思った皇子が何か変わったことはなかったかと、秦大津父に聞いたところ、彼は答えていった。そういえば、伊勢に商いに行く途中、山の中 で互いに血みどろになりながらケンカをする2匹の狼に出会った。このままでは狩人に殺されてしまうぞと思い、2匹をたしなめて介護した後、山に放してやっ た、と。
この夢に、どこか思い当たるところがあったのだろう。ピンと来た皇子は、秦大津父を大蔵省に登用。夢のお告げ通り、長じて、第29代・欽明天皇として即位することができたという。
このエピソードは極めて多くの示唆に富んでいる。古代史研究家の間では、その意味をめぐって、ちょっとした論争を呼んでいる箇所なのである。まず、おわ かりのように、話の位置付けは秦氏を寵愛したので、天皇になれたという部分。秦大津父が登用されたのが大蔵省であることからわかるように、秦氏一族の莫大 な経済力が天皇家を支えたことがわかる。伊勢に商いをしにいっているあたり、水銀との関係を推測する研究家もいる。
次に、注目は2匹の狼である。互いにケンカしているところを秦大津父は仲介に入って、これをやめさせている。狼を政治的な勢力の象徴と見れば、ふたつの派閥を調停した結果、新たに欽明王朝が成立したと読み替えることができる。
面白いのは、狼をふたつの王朝と解釈する説である。父である第26代・継体天皇と子である第29代・欽明天皇の間には、第27代・安閑天皇と第28代・宣化天皇というふたりの腹違いの兄弟が即位している。
が、史料『上宮聖徳法王帝説』によると、継体天皇が崩御した年に欽明天皇の即位している。つまり、安閑天皇と宣化天皇の治世が入る余地がないのである。 このことから、継体天皇の死後、皇位をめぐって兄弟間に争いがあり、一時期、ふたつの王朝が並立していたのではないかというのだ。
整理すると、2匹の狼とは安閑・宣化王朝と欽明王朝のことで、両者が争っていてたが、経済力をもった秦氏を味方につけた欽明天皇が最終的に勝利したことを秦大津父のエピソードは物語っているというわけだ。
二朝並立説の是非はさておき、本稿で注目したいのは狼である。なぜ狼なのか。秦大津父の出身である深草には現在、伏見稲荷大社がある。創建したのは秦伊呂具だ。ご存知のように、お稲荷さんといえば、狐である。狛犬に代わって、参道の両脇に鎮座するのは2匹の狐である。
狐と狼。どちらもイヌである。狐も狼も、日本では山犬と考えられてきた。このことから、秦氏は山犬をトーテムとする一族ではないかと、民俗学者は考える。つまり、狼は、もともと秦氏一族のシンボルでもあったのだ、と。
ぜは、なぜ秦氏は狼をトーテムと考えたのか。秦氏が渡来人であることを考えれば、その習俗は大陸に起源がある。東北アジアで狼をトーテムとするのは、そ うモンゴルである。かの覇者チンギス・ハーンは蒼き狼と呼ばれた。伝説では、彼の祖先が蒼き狼なのだという(もっとも系図をたどると血は引いていないこと にはなるのだが)。秦氏もまた、モンゴル系騎馬民族の流れを汲む可能性はある。
だが、忘れてならないのは、秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒だということである。彼らのルーツは、はるかシルクロードの向こう、西アジアのエルサレムにある。2000年前、ここにいたユダヤ人たちのトーテムを考える必要があろう。
こういうと、キリスト教徒が狼をシンボルにするわけがないだろうと考える人も少なからずいるだろう。映画『オーメン』で反キリストであるダミアンは山犬 の子供であった。また、英語で神はGODだが、これをひっくり返すとDOG、すなわちイヌになる。つまり、犬は神の対極にある悪魔だという俗信もある。
しかし、重要なのは、ユダヤ人だということである。彼らは西アジアの遊牧民、イスラエル人なのである。2000年前、エルサレムにいたユダヤ人はイスラエル12支族のうちのユダ族とベニヤミン族、それに祭司レビ族から成っていた。
注目したいのは、支族のシンボルである。彼らイスラエル12支族には、それぞれシンボルがあった。なかでも、ベニヤミン族のシンボルは、ずばり狼なのである。獰猛なる狼こそ、ベニヤミン族の象徴なのだ。
したがって、狼をトーテムとする秦氏は、恐らくベニヤミン族の流れを汲むユダヤ人ではなかったか。秦大津父や秦伊呂具は、伝道者パウロと同じベニヤミン族だった可能性が高い。今後、そうした視点から二朝並立説も考えていく必要があるのではないだろうか。
2007
浅草
日本に外人がお客さんとして来たとき、東京在住の方ならば、案内先の候補として浅草を想定する人も少なくはないだろう。浅草には浅草寺を中心として、江戸 文化が色濃く今も残っている。西洋化された現代日本ではなく、歴史ある日本文化を紹介したいと思うならば、浅草は理想的である。近くには江戸東京博物館や 相撲博物館、さらには国宝級の史料が集められた国立博物館も近い。かくいう三神もまた、先日、外国のお客を案内したばかりである。
浅草は江戸、下町文化の香る江戸文化の中心地。そう、だれしもが思うだろう。が、しかし。世の中、意外なことは多い。浅草は東京、江戸ではなかったと いったら、どうだろう。白目をむく人もいるのではないだろうか。もちろん、浅草で育った江戸文化を否定するつもりは毛頭ない。
注目してほしいのは名前である。浅草という漢字にとらわれると見えなくなるが、アサクサという音に耳を傾けてほしい。浅い草では意味をなさないが、アサ 草とすれば、イメージは広がるだろう。そう、アサクサとは本来、麻草なのだ。関東平野にあって、江戸から房総にかけては湿地帯が広がり、そこには麻が繁茂 していた。現在は千葉県になっている上総、下総の総とは麻のことである。
しかして、浅草は本来、この上総国に属していたのである。江戸というよりは、千葉文化圏に属していたのである。
古代、千葉県を開拓したのは忌部氏である。四国から海を渡ってきた忌部氏が房総地方を支配してきた。その象徴は房総の安房神社であり、関東周辺に散在す る鳥に関係した神社である。鳥、鷹、鷲はもとより、酉、高などといった文字を含んだ神社は、ほとんど忌部氏が関わっているといっても過言ではない。一部は ヤマトタケル命に起源を結び付けているものの、本質が忌部氏にあることにはかわりはない。
忌部氏とは神道における祭司一族である。中臣氏や卜部氏と肩を並べる。いや、古代における天皇祭祀に直接関わるという意味では、それ以上の存在である。 彼ら忌部氏の中の忌部氏が、かの賀茂氏である。さらに、賀茂氏は秦氏と同族である。つまり、関東一帯を古代より支配してきたのは結局のところ、秦氏である といっても過言ではないのだ。
ならば、当然のごとく、浅草にも秦氏の痕跡があってもいいはず。江戸文化の中心地とされた浅草に、秦氏の痕跡はあるのか。
実はある。が、それは表の歴史には、なかなか出てこない。知る人ぞ知るといった問題であるといってもいいかもしれない。
浅草及び江戸を支配したのは徳川将軍家であるが、その実務、実際の経済活動や一般の民を仕切っていたのは、浅草に居を構えていた実力者、かの浅草弾左衛門であった。これは歴史家も認める史実である。
浅草弾左衛門は世襲名であったが、注目したいのは初代である。彼のことを『江戸官鑰秘鑑』は秦左衛門武虎と称し、秦氏一族であることを明記している。こ れに関して、弾左衛門研究家の第一人者である塩見鮮一郎氏は荒唐無稽のひと言で切って捨てているが、筆者には、どうしても気になる。
いったい『江戸官鑰秘鑑』の編纂者は、どこから、そんな情報を得たのか。初代浅草弾左衛門の成功話を脚色するにあたって、秦氏をもちだす必要性はあるま い。確信的な文章からして、それに続く時代劇のような話を差し置いても、そこには史実の一片があるように思えてならない。
一説に、弾左衛門とはヘブライ語のダン・シモンであり、ダン族のシモン、もしくはシメオンのことだというが、その素性が秦氏だとすれば、あながち語呂合 わせだけではないようにも思える。また、古代研究家の水上涼氏が指摘したように、浅草神社の神紋はガド族のシンボルと非常に似ている。現代のものではある が、蚕の社と同じ三柱鳥居が向島の三囲神社に設置されている……。
こ今後の研究課題ではあるが、秦氏という視点から江戸文化、とくに浅草を見直すとき、意外な発見がまだまだあるように思えるのだ。
浅草は江戸、下町文化の香る江戸文化の中心地。そう、だれしもが思うだろう。が、しかし。世の中、意外なことは多い。浅草は東京、江戸ではなかったと いったら、どうだろう。白目をむく人もいるのではないだろうか。もちろん、浅草で育った江戸文化を否定するつもりは毛頭ない。
注目してほしいのは名前である。浅草という漢字にとらわれると見えなくなるが、アサクサという音に耳を傾けてほしい。浅い草では意味をなさないが、アサ 草とすれば、イメージは広がるだろう。そう、アサクサとは本来、麻草なのだ。関東平野にあって、江戸から房総にかけては湿地帯が広がり、そこには麻が繁茂 していた。現在は千葉県になっている上総、下総の総とは麻のことである。
しかして、浅草は本来、この上総国に属していたのである。江戸というよりは、千葉文化圏に属していたのである。
古代、千葉県を開拓したのは忌部氏である。四国から海を渡ってきた忌部氏が房総地方を支配してきた。その象徴は房総の安房神社であり、関東周辺に散在す る鳥に関係した神社である。鳥、鷹、鷲はもとより、酉、高などといった文字を含んだ神社は、ほとんど忌部氏が関わっているといっても過言ではない。一部は ヤマトタケル命に起源を結び付けているものの、本質が忌部氏にあることにはかわりはない。
忌部氏とは神道における祭司一族である。中臣氏や卜部氏と肩を並べる。いや、古代における天皇祭祀に直接関わるという意味では、それ以上の存在である。 彼ら忌部氏の中の忌部氏が、かの賀茂氏である。さらに、賀茂氏は秦氏と同族である。つまり、関東一帯を古代より支配してきたのは結局のところ、秦氏である といっても過言ではないのだ。
ならば、当然のごとく、浅草にも秦氏の痕跡があってもいいはず。江戸文化の中心地とされた浅草に、秦氏の痕跡はあるのか。
実はある。が、それは表の歴史には、なかなか出てこない。知る人ぞ知るといった問題であるといってもいいかもしれない。
浅草及び江戸を支配したのは徳川将軍家であるが、その実務、実際の経済活動や一般の民を仕切っていたのは、浅草に居を構えていた実力者、かの浅草弾左衛門であった。これは歴史家も認める史実である。
浅草弾左衛門は世襲名であったが、注目したいのは初代である。彼のことを『江戸官鑰秘鑑』は秦左衛門武虎と称し、秦氏一族であることを明記している。こ れに関して、弾左衛門研究家の第一人者である塩見鮮一郎氏は荒唐無稽のひと言で切って捨てているが、筆者には、どうしても気になる。
いったい『江戸官鑰秘鑑』の編纂者は、どこから、そんな情報を得たのか。初代浅草弾左衛門の成功話を脚色するにあたって、秦氏をもちだす必要性はあるま い。確信的な文章からして、それに続く時代劇のような話を差し置いても、そこには史実の一片があるように思えてならない。
一説に、弾左衛門とはヘブライ語のダン・シモンであり、ダン族のシモン、もしくはシメオンのことだというが、その素性が秦氏だとすれば、あながち語呂合 わせだけではないようにも思える。また、古代研究家の水上涼氏が指摘したように、浅草神社の神紋はガド族のシンボルと非常に似ている。現代のものではある が、蚕の社と同じ三柱鳥居が向島の三囲神社に設置されている……。
こ今後の研究課題ではあるが、秦氏という視点から江戸文化、とくに浅草を見直すとき、意外な発見がまだまだあるように思えるのだ。
ホの字
日本に多大な影響を与えた秦氏。謎の渡来人であり、その素性は謎に包まれている。筆者は、彼らがユダヤ人原始キリスト教徒であると考えて研究を行ってきた。今では、確信ともいうべき思いに至っている。
そんななか、先日、ふと思ったことがある。どうして秦氏は「秦」という文字を採用したのか。古代ローマ帝国の漢字表記「大秦」に由来し、かつ秦始皇帝の秦帝国にも少なからず関係していることは承知している。古代朝鮮の秦韓も、彼らの故地として多くの学者が指摘する。
気になるのは「秦」という文字だ。現在の漢字になるまでには、多くの異体字というものが存在した。が、結局、秦という文字に統一された。彼らがユダヤ人原始キリスト教徒であり、かつ預言者を頂く集団であれば、未来をも見据えていても不思議ではない。
中国や台湾、そして日本は漢字文化圏である。悲しいかな、お隣の韓国は事実上、もはや漢字文化圏ではない。漢字を日常的に使っている民族は、漢字に多くの象徴を読み込み、ある意味で暗号のような使い方をしている。
いい例が「漢字破字法」である。偏や旁などに分解して、そこに別の意味を込めるのだ。女の忍者を「くノ一」と呼ぶのは、女という文字を平仮名と片仮名、そして漢字に分解した日本独特の隠語である。
同様に秦という文字を分解すると、「三人ノ木」となる。片仮名が混入していることからわかるように、これは日本独自の隠語である。三人を絶対三神と解釈すれば、絶対三神の樹であり、これはまさに「生命の樹」を表現している。
では、片仮名を交えない分解は、どうだろう。すなわち「三人禾」である。 「禾」とは、稲穂の象形文字である。三人の稲穂とは、これは何だろう。
かつて、ある古い神社の宮司から、神の名の火=ホは、穂でもあるというお話を伺ったことがある。言霊学である。考えてみれば、ホのつく神は多い。物部氏 の祖である天火明命、天孫であるホノニニギ命、さらにはホオリ、ホスセリ、ホホデミと、やたらとホが目につく。まさに「ホの字」である。女官の隠語で惚れ たを意味する「ホの字」だが、ここには別のホの字がある。
ホの字を分解して、「十・ハ」と見れば、十字架に掛かった「ハ=八=ヤー=ヤハウェ=イエス・キリスト」が見えてくる。ここまで来ると、かなり考えすぎ のような気もするのだが、本来、言霊とは、このようなものなのである。言葉が神であるといった時点で、それは生き物であり、どんどん多くの世界を創造して いくのだ。
秦=ハタと読み、そこにハが含まれてるのも、偶然ではあるまい。いずれにせよ、秦氏は、そうした親父ギャグ=言霊を見据えて、いろいろな命名を行ったことだけは確かである……ホホホッ。
そんななか、先日、ふと思ったことがある。どうして秦氏は「秦」という文字を採用したのか。古代ローマ帝国の漢字表記「大秦」に由来し、かつ秦始皇帝の秦帝国にも少なからず関係していることは承知している。古代朝鮮の秦韓も、彼らの故地として多くの学者が指摘する。
気になるのは「秦」という文字だ。現在の漢字になるまでには、多くの異体字というものが存在した。が、結局、秦という文字に統一された。彼らがユダヤ人原始キリスト教徒であり、かつ預言者を頂く集団であれば、未来をも見据えていても不思議ではない。
中国や台湾、そして日本は漢字文化圏である。悲しいかな、お隣の韓国は事実上、もはや漢字文化圏ではない。漢字を日常的に使っている民族は、漢字に多くの象徴を読み込み、ある意味で暗号のような使い方をしている。
いい例が「漢字破字法」である。偏や旁などに分解して、そこに別の意味を込めるのだ。女の忍者を「くノ一」と呼ぶのは、女という文字を平仮名と片仮名、そして漢字に分解した日本独特の隠語である。
同様に秦という文字を分解すると、「三人ノ木」となる。片仮名が混入していることからわかるように、これは日本独自の隠語である。三人を絶対三神と解釈すれば、絶対三神の樹であり、これはまさに「生命の樹」を表現している。
では、片仮名を交えない分解は、どうだろう。すなわち「三人禾」である。 「禾」とは、稲穂の象形文字である。三人の稲穂とは、これは何だろう。
かつて、ある古い神社の宮司から、神の名の火=ホは、穂でもあるというお話を伺ったことがある。言霊学である。考えてみれば、ホのつく神は多い。物部氏 の祖である天火明命、天孫であるホノニニギ命、さらにはホオリ、ホスセリ、ホホデミと、やたらとホが目につく。まさに「ホの字」である。女官の隠語で惚れ たを意味する「ホの字」だが、ここには別のホの字がある。
ホの字を分解して、「十・ハ」と見れば、十字架に掛かった「ハ=八=ヤー=ヤハウェ=イエス・キリスト」が見えてくる。ここまで来ると、かなり考えすぎ のような気もするのだが、本来、言霊とは、このようなものなのである。言葉が神であるといった時点で、それは生き物であり、どんどん多くの世界を創造して いくのだ。
秦=ハタと読み、そこにハが含まれてるのも、偶然ではあるまい。いずれにせよ、秦氏は、そうした親父ギャグ=言霊を見据えて、いろいろな命名を行ったことだけは確かである……ホホホッ。
赤旗
その日は雨だった。島根到着からしばらくして、雲行きがあやしくなり、目的の神社に着いたときは、どしゃぶりだった。秋雨といえば聞こえはいいが、10月の雨は結構、身に染みる。これも歳のせいかと思いながら、笠片手に参道に立つ。
赤秦神社。これまで全国の秦氏系の神社をめぐってきたが、文字通り秦という文字を冠する神社は少ない。四国に長宗我部ゆかりの秦神社はあるが、戦国時代 から遡ることはでない。対して、この赤秦神社は「出雲風土記」にも登場するというから、その歴史及び由緒は正しき神社だといっていいだろう。
訪れたとき、すでに社殿は新築され、古代の香りは想像するしかなかったが、面白いのは、神社のある場所だ。出雲王朝があったかどうかは別にして、ここに 一大勢力があったことは学会では定説になったといいだろう。きっかけとなったのは、膨大な量の銅剣を出土した荒神谷遺跡と大量の銅鐸が出土した賀茂石倉遺 跡だろう。これらの遺跡は小高い丘、畝の結構、狭い範囲にあり、その周囲には数々の神社が集まり、いわゆる風土記の丘として知られるのだが、赤秦神社もま た、そこにある。
出雲勢力と秦氏。なかなか興味深いテーマである。両者はカモというキーワードでつながっていると推測しているのだが、個人的に気になるのは赤秦という名 だ。秦は秦氏の秦として、赤は何か。文字通り赤い色の秦というわけではあるまい。地名に関連するのか。仏教経典の水を意味する閼伽なのか。
アカハタという響きで、真っ先に頭に浮かんだのは「赤旗」である。いうまでもないが、共産党の機関紙の名称がアカハタなのだ。赤秦神社と赤旗。もちろん、たんなる偶然でしかないのだが、言霊という視点から見ると、結構おもしろい。
共産党の父といえば、いうまでもない。カール・マルクスだ。マルクスとは本名ではない。彼の本名はモルデカイ。『旧約聖書』に同名の預言者が登場するこ とからわかるように、マルクスはユダヤ人である。彼の共産主義という思想は、ユダヤ教から神という概念を抜き去ったもの。神なき『旧約聖書』である。共産 主義が目指す理想社会とは、まさに神々の世界であり、ユートピア、キリスト教でいう千年王国にほかならない。『聖書』をまともに読んだことがない人間が多 い日本において、戦後、共産主義は理想を掲げる左翼思想家たちとともにもてはやされた。
思想問題に首を突っ込むつもりは毛頭ないが、共産主義=無神論という概念には、ひとつ異を唱えてもいい。人類の歴史を俯瞰するとき、必ず登場する原始共 産主義という概念がある。原始共産主義の社会形態にあって、神なる概念は当然であった。神の名のもとの共産主義だった。原始キリスト教、ことエルサレム教 団は、財産を共有するという原始共産主義が見て取れる。それは有神論的共産主義、もしくは有神論的社会主義だった。
不思議なことに、21世紀の世にあって、無神的共産主義を目指した社会主義国家は、すべて失敗か、軌道修正を余儀なくされた。その一方で、日本は、どう か。世界中を見渡して、ここまで社会主義の理念を実現した国家はないだろう。福祉はもちろんだが、サラリーマン会社主義などと揶揄されながら、日本ほど社 会主義の理念を当人たちが認識しないまま、いや求めるつもりはかったにしろ、気がついたら実現していた。もちろん、完璧ではなく、問題は山積みでありが、 世界の国々の状況を見ると、そう思えて仕方がない。
なぜ、そうなったのか。理由のひとつとして、筆者は秦氏の存在を挙げたい。有神論的共産主義、もしくは有神論的社会主義を是とした原始キリスト教エルサレム教団の末裔たちがいたからこそ、日本の現在があるのではないだろうか。
無神論的共産主義の政党の機関紙名となったアカハタが、有神論的共産主義だったエルサレム教団の末裔たちが築いた神社の名前と同じ音だというのも、何か特別な因縁があるように思えてならないのだ。
赤秦神社。これまで全国の秦氏系の神社をめぐってきたが、文字通り秦という文字を冠する神社は少ない。四国に長宗我部ゆかりの秦神社はあるが、戦国時代 から遡ることはでない。対して、この赤秦神社は「出雲風土記」にも登場するというから、その歴史及び由緒は正しき神社だといっていいだろう。
訪れたとき、すでに社殿は新築され、古代の香りは想像するしかなかったが、面白いのは、神社のある場所だ。出雲王朝があったかどうかは別にして、ここに 一大勢力があったことは学会では定説になったといいだろう。きっかけとなったのは、膨大な量の銅剣を出土した荒神谷遺跡と大量の銅鐸が出土した賀茂石倉遺 跡だろう。これらの遺跡は小高い丘、畝の結構、狭い範囲にあり、その周囲には数々の神社が集まり、いわゆる風土記の丘として知られるのだが、赤秦神社もま た、そこにある。
出雲勢力と秦氏。なかなか興味深いテーマである。両者はカモというキーワードでつながっていると推測しているのだが、個人的に気になるのは赤秦という名 だ。秦は秦氏の秦として、赤は何か。文字通り赤い色の秦というわけではあるまい。地名に関連するのか。仏教経典の水を意味する閼伽なのか。
アカハタという響きで、真っ先に頭に浮かんだのは「赤旗」である。いうまでもないが、共産党の機関紙の名称がアカハタなのだ。赤秦神社と赤旗。もちろん、たんなる偶然でしかないのだが、言霊という視点から見ると、結構おもしろい。
共産党の父といえば、いうまでもない。カール・マルクスだ。マルクスとは本名ではない。彼の本名はモルデカイ。『旧約聖書』に同名の預言者が登場するこ とからわかるように、マルクスはユダヤ人である。彼の共産主義という思想は、ユダヤ教から神という概念を抜き去ったもの。神なき『旧約聖書』である。共産 主義が目指す理想社会とは、まさに神々の世界であり、ユートピア、キリスト教でいう千年王国にほかならない。『聖書』をまともに読んだことがない人間が多 い日本において、戦後、共産主義は理想を掲げる左翼思想家たちとともにもてはやされた。
思想問題に首を突っ込むつもりは毛頭ないが、共産主義=無神論という概念には、ひとつ異を唱えてもいい。人類の歴史を俯瞰するとき、必ず登場する原始共 産主義という概念がある。原始共産主義の社会形態にあって、神なる概念は当然であった。神の名のもとの共産主義だった。原始キリスト教、ことエルサレム教 団は、財産を共有するという原始共産主義が見て取れる。それは有神論的共産主義、もしくは有神論的社会主義だった。
不思議なことに、21世紀の世にあって、無神的共産主義を目指した社会主義国家は、すべて失敗か、軌道修正を余儀なくされた。その一方で、日本は、どう か。世界中を見渡して、ここまで社会主義の理念を実現した国家はないだろう。福祉はもちろんだが、サラリーマン会社主義などと揶揄されながら、日本ほど社 会主義の理念を当人たちが認識しないまま、いや求めるつもりはかったにしろ、気がついたら実現していた。もちろん、完璧ではなく、問題は山積みでありが、 世界の国々の状況を見ると、そう思えて仕方がない。
なぜ、そうなったのか。理由のひとつとして、筆者は秦氏の存在を挙げたい。有神論的共産主義、もしくは有神論的社会主義を是とした原始キリスト教エルサレム教団の末裔たちがいたからこそ、日本の現在があるのではないだろうか。
無神論的共産主義の政党の機関紙名となったアカハタが、有神論的共産主義だったエルサレム教団の末裔たちが築いた神社の名前と同じ音だというのも、何か特別な因縁があるように思えてならないのだ。
2008
琵琶湖
日本列島の中央に、ひときわ大きな湖がある。琵琶湖だ。ある中国人が日来日したとき、琵琶湖を見て、日本にも大きな川があるじゃないかといったとか。対岸がかすんで見えないという意味で、琵琶湖は日本一の川ではなく、湖である。
琵琶湖の名称は、形が琵琶に似ていたのが由来であるという。琵琶というと、果実のビワよろしく、水滴のような形を連想してしまいがちだが、楽器という意 味からすれば、これはハープである。弦楽器は世界中に多いが、琵琶はアジア的なハープといっていい。琵琶湖はハープ湖なのである。
ハープの湖などと表現すると、途端に幻想的なイメージが広がるが、まさに琵琶湖は神秘的な湖である。
琵琶湖の周辺は古代からひとつの王国を築いてきた。大和岩雄氏は、もうひとつの秦王国と称したほど、そこには渡来人が数多く居住した。もちろん、メイン は秦氏である。日本史上に名を残す近江商人とは、何を隠そう、彼らは秦氏なのだ。現代財閥はもちろん、かの西武グループも、そのルーツは近江にある。彼ら は秦氏の末裔なのである。
ご存知のように秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒である。ユダヤ人が経済界に厳然たる力をもっているように、秦氏の末裔もまた、日本の経済界の基盤を築いている。これはけっして偶然ではない。
とくに、秦氏が築いた都、平安京は極東エルサレムである。先日、世にでた共著『失われた極東エルサレム「平安京」の謎』で示したように、平安京=京都はある意味、今も日本の首都であり、極東エルサレムなのである。
パレスチナの聖地エルサレムの東北に、ガリラヤ湖がある。イエス・キリストが12使徒を任命し、最初に宣教を開始した地である。そのガリラヤ湖はヘブラ イ語で「ヤーム・キネレット」という。意味は「ハープの湖」である。まさに、琵琶湖とまったく同じ意味をもつ湖なのである。その琵琶湖もまた、極東エルサ レムから見れば東北にある。
平安京を築いたユダヤ人原始キリスト教徒の秦氏たちが琵琶湖を意識しなかったはずはない。恐らく平安京を建設する以前から、湖の名をハープの湖と呼んでいたのではないだろうか。
ユダヤ人にとって、ハープといえば、イコール、ダビデの象徴である。『旧約聖書』を読んでいただくとわかるが、ダビデはハープの名手。ハープを奏でるこ とはメシアの証でもあった。その旋律は平和のしらべなのだ。いい換えれば、ハープの湖と呼ばれたガリラヤ湖であったからこそ、イエス・キリストは、そこで 宣教を開始したのである。
琵琶湖にも、ひょっとしたら、そんな歴史があったのではないだろうか。琵琶湖の東側には、湯次神社と証する社がいくつかある。湯次とは弓月君のこと。秦氏を率いてきた首長、弓月君を祀った神社である。
はたして、彼らの伝道の拠点が琵琶湖が初めだったかはわからぬが、首長の名を冠した神社を建立したあたり、そこにはイエス・キリストの足跡に対するこだ わりがあったのではないだろうか。弓月君の読み方には「ユンズ」君がある。ユンズがユズ、イズ、イシュ、ヨシュアという転訛の流れがある。古代の秦氏は、 それを理解したうえで、意図的に湯次神社を建立したのではないだろうか。
琵琶湖の名称は、形が琵琶に似ていたのが由来であるという。琵琶というと、果実のビワよろしく、水滴のような形を連想してしまいがちだが、楽器という意 味からすれば、これはハープである。弦楽器は世界中に多いが、琵琶はアジア的なハープといっていい。琵琶湖はハープ湖なのである。
ハープの湖などと表現すると、途端に幻想的なイメージが広がるが、まさに琵琶湖は神秘的な湖である。
琵琶湖の周辺は古代からひとつの王国を築いてきた。大和岩雄氏は、もうひとつの秦王国と称したほど、そこには渡来人が数多く居住した。もちろん、メイン は秦氏である。日本史上に名を残す近江商人とは、何を隠そう、彼らは秦氏なのだ。現代財閥はもちろん、かの西武グループも、そのルーツは近江にある。彼ら は秦氏の末裔なのである。
ご存知のように秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒である。ユダヤ人が経済界に厳然たる力をもっているように、秦氏の末裔もまた、日本の経済界の基盤を築いている。これはけっして偶然ではない。
とくに、秦氏が築いた都、平安京は極東エルサレムである。先日、世にでた共著『失われた極東エルサレム「平安京」の謎』で示したように、平安京=京都はある意味、今も日本の首都であり、極東エルサレムなのである。
パレスチナの聖地エルサレムの東北に、ガリラヤ湖がある。イエス・キリストが12使徒を任命し、最初に宣教を開始した地である。そのガリラヤ湖はヘブラ イ語で「ヤーム・キネレット」という。意味は「ハープの湖」である。まさに、琵琶湖とまったく同じ意味をもつ湖なのである。その琵琶湖もまた、極東エルサ レムから見れば東北にある。
平安京を築いたユダヤ人原始キリスト教徒の秦氏たちが琵琶湖を意識しなかったはずはない。恐らく平安京を建設する以前から、湖の名をハープの湖と呼んでいたのではないだろうか。
ユダヤ人にとって、ハープといえば、イコール、ダビデの象徴である。『旧約聖書』を読んでいただくとわかるが、ダビデはハープの名手。ハープを奏でるこ とはメシアの証でもあった。その旋律は平和のしらべなのだ。いい換えれば、ハープの湖と呼ばれたガリラヤ湖であったからこそ、イエス・キリストは、そこで 宣教を開始したのである。
琵琶湖にも、ひょっとしたら、そんな歴史があったのではないだろうか。琵琶湖の東側には、湯次神社と証する社がいくつかある。湯次とは弓月君のこと。秦氏を率いてきた首長、弓月君を祀った神社である。
はたして、彼らの伝道の拠点が琵琶湖が初めだったかはわからぬが、首長の名を冠した神社を建立したあたり、そこにはイエス・キリストの足跡に対するこだ わりがあったのではないだろうか。弓月君の読み方には「ユンズ」君がある。ユンズがユズ、イズ、イシュ、ヨシュアという転訛の流れがある。古代の秦氏は、 それを理解したうえで、意図的に湯次神社を建立したのではないだろうか。
蛇
京都における秦氏の本拠地のひとつに太秦がある。国宝第一号の弥勒菩薩像が安置されていることで知られる広隆寺があるところである。伝承によると、広隆寺 は聖徳太子の勅願寺で、ブレーンであった秦河勝が建立したといい、別名を秦公寺、蜂岡寺という。ちなみに、広隆寺の広隆とは、秦河勝の本名であったとも伝 えられる。
実は、この広隆寺の付近には、いくつか古い古墳が残っている。いずれも秦氏に関わる古墳であると推測されているのだが、なかでも最大級を誇るのが蛇塚古 墳である。広隆寺の西方、住宅地の真ん中に岩がむき出しになって鎮座する姿は、その異様さから飛鳥の石舞台とも比較される。築造年代と規模から考えて、蛇 塚古墳の被葬者は京都の秦氏を束ねた秦河勝ではないかとも推測されている。
しかし、考えてみると、岩だけの姿も異様だが、名前も特異である。蛇塚である。岩の隙間に蛇が多数棲息していたからだともいわれるが、古代豪族の墓の名称にしては、少々、気味が悪い。何かほかに理由があるのだろうか。
手足のない蛇は、見ていて、気持ちのいい動物ではない。とくに毒蛇は忌み嫌われる。蛇は警戒すべき動物であり、そこから魔物の象徴とされる。西洋において、蛇は魔王サタンの化身以外の何者でもない。
しかし、東洋では、少々、意味合いが違う。もちろん蛇は畏怖されるのだが、半面、知恵や権力の象徴ともされた。蛇は龍になり、龍神は皇帝の守護神として崇拝された。日本でも、白蛇は弁天様の使いであり、縁起のいい動物として珍重された。
実は、これキリスト教の根底に隠された神秘主義カッバーラ、すなわちカバラでも同様の意味がある。カッバーラの基本は二元論であり、日本の陰陽道と本質 的に同じ思想を共有している。象徴には、すべて表と裏があり、表が神であれば、裏は悪魔である。逆に表が悪魔ならば、裏は神である。蛇の象徴もしかり。魔 王サタンの象徴とするのは表であって、裏はイエス・キリストの象徴なのだ。サタンは害をなす毒蛇であるのに対して、イエス・キリストは救いの青銅の蛇なの である。
ユダヤ人原始キリスト教徒であった秦氏、なかでもイエス・キリスト=太秦の称号をもつ秦河勝は、同時に青銅の蛇として崇拝されたのではないだろうか。つまり、蛇神としての秦河勝である。これが死後、蛇塚古墳の名称に影響を与えたのではないだろうか。
思えば、日本神話におけるイエス・キリストは天照大神である。その天照大神は中世の説話世界では、蛇神として位置づけられていた。天照大神の象徴である 太陽は、そのまま者眼でもあったのだ。こうした象徴体系から秦氏をめぐる「蛇」の暗号を読み解けば、まだまだ興味深い事実が浮かび上がってくるかもしれな い。
実は、この広隆寺の付近には、いくつか古い古墳が残っている。いずれも秦氏に関わる古墳であると推測されているのだが、なかでも最大級を誇るのが蛇塚古 墳である。広隆寺の西方、住宅地の真ん中に岩がむき出しになって鎮座する姿は、その異様さから飛鳥の石舞台とも比較される。築造年代と規模から考えて、蛇 塚古墳の被葬者は京都の秦氏を束ねた秦河勝ではないかとも推測されている。
しかし、考えてみると、岩だけの姿も異様だが、名前も特異である。蛇塚である。岩の隙間に蛇が多数棲息していたからだともいわれるが、古代豪族の墓の名称にしては、少々、気味が悪い。何かほかに理由があるのだろうか。
手足のない蛇は、見ていて、気持ちのいい動物ではない。とくに毒蛇は忌み嫌われる。蛇は警戒すべき動物であり、そこから魔物の象徴とされる。西洋において、蛇は魔王サタンの化身以外の何者でもない。
しかし、東洋では、少々、意味合いが違う。もちろん蛇は畏怖されるのだが、半面、知恵や権力の象徴ともされた。蛇は龍になり、龍神は皇帝の守護神として崇拝された。日本でも、白蛇は弁天様の使いであり、縁起のいい動物として珍重された。
実は、これキリスト教の根底に隠された神秘主義カッバーラ、すなわちカバラでも同様の意味がある。カッバーラの基本は二元論であり、日本の陰陽道と本質 的に同じ思想を共有している。象徴には、すべて表と裏があり、表が神であれば、裏は悪魔である。逆に表が悪魔ならば、裏は神である。蛇の象徴もしかり。魔 王サタンの象徴とするのは表であって、裏はイエス・キリストの象徴なのだ。サタンは害をなす毒蛇であるのに対して、イエス・キリストは救いの青銅の蛇なの である。
ユダヤ人原始キリスト教徒であった秦氏、なかでもイエス・キリスト=太秦の称号をもつ秦河勝は、同時に青銅の蛇として崇拝されたのではないだろうか。つまり、蛇神としての秦河勝である。これが死後、蛇塚古墳の名称に影響を与えたのではないだろうか。
思えば、日本神話におけるイエス・キリストは天照大神である。その天照大神は中世の説話世界では、蛇神として位置づけられていた。天照大神の象徴である 太陽は、そのまま者眼でもあったのだ。こうした象徴体系から秦氏をめぐる「蛇」の暗号を読み解けば、まだまだ興味深い事実が浮かび上がってくるかもしれな い。
2009
菊の節句
2009年9月9日。今年の「菊の節句」は9が3つも並ぶ999の日であった。9は苦に通じるともいわれ、忌み嫌う人もいるが、そもそも9は一桁の数で もっとも大きく、かつ奇数=陽数なので、陰陽道では太陽数として縁起の非常にいい数とされる。それゆえ、9月9日は「重陽の節句」とも呼ばれる。
実は、この「菊」と「99」にゆかりの深い神様がいる。白山菊理姫である。加賀の白山の女神とされ、全国に広がる白山神社の祭神である。
だが、不思議なことに、神社の数の多さとは裏腹に、菊理姫の名前は『古事記』や『日本書紀』の本文には出てこない。わずかに『日本書紀』の一書に、しかも一度だけ登場するだけなのだ。古神道的ないい方をすれば、まさに埋没神なのである。
なぜ菊理姫は歴史の中に埋没したのか。その理由は、おそらく菊理姫の呪術性にあるというのが定説である。
まず白山の「白」とは「百」に「一」満たないことから、秘教的に、100-1=99を意味する。99は「クク」であり、これがククリ~キクリ姫に通じる。
また、ククリは「くくる」ことも意味する。くくるを縁結びと解釈するのが表なら、その裏は体を縛ること、いうなれば女神を縛りつけることを暗示する。古神道の研究家ならずとも、この縛りつけられた女神が生贄の巫女を示していることは容易に想像できるだろう。
呪術の世界において、生贄ほど強力な呪いはない。それゆえ菊理姫は畏怖され、闇の世界へと埋没していったのだ。
しかし、その白山信仰も、ルーツをたどれば、別の顔が見えてくる。鍵になるのは謎の渡来人、秦氏である。
白山神社の総本山、白山比羊神社の奥宮は白山の山頂にある。奈良時代、この白山を開いたのが泰澄という名の修験者であった。彼の俗姓は秦である。白山は秦氏によって開かれたのである。
秦氏は、いうまでもなく新羅系渡来人であり、菊理姫の呪術性も、しばしば朝鮮の巫女シャーマンに起源があると指摘される。実際、白山をシラヤマと読めば、シラ~シンラ~新羅に通じ、かつ菊理をククリと読めば、ククリ~コクリ~高句麗に音は近い。
加賀が日本海に面し、遠く朝鮮半島を望む地に位置するのも偶然ではない。日本海側に、その名も新羅神社が点在するのも、まさに新羅系渡来人である秦氏がやってきたからなのだ。
しかし、秦氏の文化を朝鮮シャーマニズムの枠内でとらえようとすると無理がある。なぜなら、彼らはユダヤの血を引く者であるからだ。菊理姫の呪術も、その源流はユダヤ教神秘主義カッバーラにあるのだ。
カッバーラにおいて、9は至高の神を示す数であり、999は「神の秘密」を意味する。さらに、菊理姫の底流にある生贄とされた女神とは、性別を鏡像反転させた男神、すなわち十字架に掛けられて殺された白い神、イエス・キリストにほかならないのである。
実は、この「菊」と「99」にゆかりの深い神様がいる。白山菊理姫である。加賀の白山の女神とされ、全国に広がる白山神社の祭神である。
だが、不思議なことに、神社の数の多さとは裏腹に、菊理姫の名前は『古事記』や『日本書紀』の本文には出てこない。わずかに『日本書紀』の一書に、しかも一度だけ登場するだけなのだ。古神道的ないい方をすれば、まさに埋没神なのである。
なぜ菊理姫は歴史の中に埋没したのか。その理由は、おそらく菊理姫の呪術性にあるというのが定説である。
まず白山の「白」とは「百」に「一」満たないことから、秘教的に、100-1=99を意味する。99は「クク」であり、これがククリ~キクリ姫に通じる。
また、ククリは「くくる」ことも意味する。くくるを縁結びと解釈するのが表なら、その裏は体を縛ること、いうなれば女神を縛りつけることを暗示する。古神道の研究家ならずとも、この縛りつけられた女神が生贄の巫女を示していることは容易に想像できるだろう。
呪術の世界において、生贄ほど強力な呪いはない。それゆえ菊理姫は畏怖され、闇の世界へと埋没していったのだ。
しかし、その白山信仰も、ルーツをたどれば、別の顔が見えてくる。鍵になるのは謎の渡来人、秦氏である。
白山神社の総本山、白山比羊神社の奥宮は白山の山頂にある。奈良時代、この白山を開いたのが泰澄という名の修験者であった。彼の俗姓は秦である。白山は秦氏によって開かれたのである。
秦氏は、いうまでもなく新羅系渡来人であり、菊理姫の呪術性も、しばしば朝鮮の巫女シャーマンに起源があると指摘される。実際、白山をシラヤマと読めば、シラ~シンラ~新羅に通じ、かつ菊理をククリと読めば、ククリ~コクリ~高句麗に音は近い。
加賀が日本海に面し、遠く朝鮮半島を望む地に位置するのも偶然ではない。日本海側に、その名も新羅神社が点在するのも、まさに新羅系渡来人である秦氏がやってきたからなのだ。
しかし、秦氏の文化を朝鮮シャーマニズムの枠内でとらえようとすると無理がある。なぜなら、彼らはユダヤの血を引く者であるからだ。菊理姫の呪術も、その源流はユダヤ教神秘主義カッバーラにあるのだ。
カッバーラにおいて、9は至高の神を示す数であり、999は「神の秘密」を意味する。さらに、菊理姫の底流にある生贄とされた女神とは、性別を鏡像反転させた男神、すなわち十字架に掛けられて殺された白い神、イエス・キリストにほかならないのである。
コンピラさん
四国の香川にコンピラさんの名前で親しまれている金刀比羅宮がある。全国の金刀比羅神社の総本社で、長い長い階段で有名である。
一方、意外に知られていないが、コンピラさんとはワニのことである。しかも、インドのガンジス河に棲むワニ神で、もとの名前をクンピーラといい、これがコンピラの語源となっている。
お寺でもないのに、インドの神様が神社の名前になっているのにはわけがある。今でこそ、神社と寺は別の施設だが、明治以前は、しばしば一体となり、神社 の神職をお寺の僧侶が兼任することも珍しくなかった。とくに中世においては、本地垂迹説といって、神様とは仏様の化身であるという神仏習合の思想が広ま り、その過程で神社の祭神が仏や天部になったケースが少なくない。
コンピラさんも、そうした本地垂迹説によって、仏教のクンピーラが神社の祭神となり、今では航海安全にご利益があると信仰されるに至っている。
では、仏教と習合する以前、金刀比羅宮は何だったのか。現在でも主祭神は大物主神であるが、神社の名前は旗宮といった。あるとき空中から旗竿が飛んできたのが由来だというが、それはあくまでも後世の付会である。
実際は違う。音に注目してほしい。ハタの宮である。そう、旗宮とは、秦の宮なのだ。讃岐地方にも、かなり秦氏おり、彼らの信仰の拠点が旗宮だったらし い。事実、金刀比羅宮のある琴平山(象頭山)には、松尾寺がある。松尾の名を冠する松尾大社は、秦氏の創建である。琵琶湖湖畔の松尾寺も秦氏ゆかりの寺で あることを考えると、旗宮=秦宮と考えて間違いないだろう。
そう考えると、コンピラさん名物の長い長い階段も、どこか深遠なカッバーラの思想の具現化にも思えてくる。長い階段や坂道は人生にたとえられるが、まさに、それは生命の樹を登ることであり、天へ至る階梯を一歩一歩上がっていくことにほかならない。
コンピラさんの長い長い階段も、ひょっとしたら、ユダヤ人秦氏が密かにカッバーラをもとに設計したのかもしれない。極論すれば、神社の階段とは、すべてカッバーラの象徴なのだろう。人生とは、神に近づくための長い旅なのである。
一方、意外に知られていないが、コンピラさんとはワニのことである。しかも、インドのガンジス河に棲むワニ神で、もとの名前をクンピーラといい、これがコンピラの語源となっている。
お寺でもないのに、インドの神様が神社の名前になっているのにはわけがある。今でこそ、神社と寺は別の施設だが、明治以前は、しばしば一体となり、神社 の神職をお寺の僧侶が兼任することも珍しくなかった。とくに中世においては、本地垂迹説といって、神様とは仏様の化身であるという神仏習合の思想が広ま り、その過程で神社の祭神が仏や天部になったケースが少なくない。
コンピラさんも、そうした本地垂迹説によって、仏教のクンピーラが神社の祭神となり、今では航海安全にご利益があると信仰されるに至っている。
では、仏教と習合する以前、金刀比羅宮は何だったのか。現在でも主祭神は大物主神であるが、神社の名前は旗宮といった。あるとき空中から旗竿が飛んできたのが由来だというが、それはあくまでも後世の付会である。
実際は違う。音に注目してほしい。ハタの宮である。そう、旗宮とは、秦の宮なのだ。讃岐地方にも、かなり秦氏おり、彼らの信仰の拠点が旗宮だったらし い。事実、金刀比羅宮のある琴平山(象頭山)には、松尾寺がある。松尾の名を冠する松尾大社は、秦氏の創建である。琵琶湖湖畔の松尾寺も秦氏ゆかりの寺で あることを考えると、旗宮=秦宮と考えて間違いないだろう。
そう考えると、コンピラさん名物の長い長い階段も、どこか深遠なカッバーラの思想の具現化にも思えてくる。長い階段や坂道は人生にたとえられるが、まさに、それは生命の樹を登ることであり、天へ至る階梯を一歩一歩上がっていくことにほかならない。
コンピラさんの長い長い階段も、ひょっとしたら、ユダヤ人秦氏が密かにカッバーラをもとに設計したのかもしれない。極論すれば、神社の階段とは、すべてカッバーラの象徴なのだろう。人生とは、神に近づくための長い旅なのである。