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「誰が国宝・高松塚古墳壁画を殺したのか?
高松塚古墳石室解体にみる文化庁の体質」 
Takamatsu-zuka Ruins


By Shun Daichi  大地舜
 掲載:文芸春秋 


成功した文化庁の自爆テロ

 河合隼雄文化庁長官は逃げ腰だった。
 高松塚古墳に関するインタビューを申し込んでも、応じてくれない。理由は、行政業務はすべて次長以下がしきっているからだという(注1)。
 河合長官のこの逃げ腰は、見事なまでに文化庁の体質を象徴している。そう、大義(国宝を守る)よりも小義(身を守る)を優先するのだ。
 二〇〇四年に出版された『国宝 高松塚古墳壁画』の序文で、河合長官は「幸い、三〇年を経ても壁画は大きな損傷あるいは褪色もなく保存されております」と書いている。だが二〇〇五年六月に、損傷と褪色の激しい壁画は石室(墓室)を解体して修理されることに決定された。
 これはいったいどういうことだ?
 一年~二年で、壁画が褪色したのか? あるいは損傷を受けたのか?
 調べてみると高松塚壁画発見二五周年の一九九七年年三月に、文化庁の林温文化財主任調査官(当時)は「これまでのところ異常はない。現在の保存方法でいいと思う」と新聞記者に語っている(注2)。
 三〇周年の時にも、文化庁は「異常なし」と報告している。
 さらに調べてみると、文化庁は過去三〇年以上に渡って「壁画に褪色や損傷がみられる」とは一度も国民に報告をしていない。
 ところが、二〇〇四年に出版された『国宝 高松塚古墳壁画』には、壁画の損傷・褪色が鮮明に現れている。
 網干善教関西大学名誉教授は、高松塚古墳壁画を発見した当事者だが、二〇〇四年六月に朝日新聞の記者にこの写真集を見せられて「こりゃ、なんちゅうことや!」と驚いたという。
 網干名誉教授のところには、発掘してから三三年間、文化庁から一言の相談も無ければ報告も無かったという。「僕らが発掘したんです。安否を気づかっていました。それが突然、劣化していた、と言われたら、そりゃ、何をしていたんだ! と言いたくなりますよ」
 「二〇年前から劣化が進んでいたのに違いないのです。もっと早く情報を公開しておれば、科学が進んだ日本だから、何か手だてがあった筈です」と、網干名誉教授は憤懣やる方なしだ。
 だが疑問なのは、なぜ褪色していることが一目瞭然な写真集を、文化庁が発刊に踏み切ったかだ。この写真集を発刊すれば、壁画の褪色・損傷の実情が明るみに出ることは、子供でも気づくだろう。
 二〇〇二年に「異常なし」と記者発表し、同じ年に撮影した壁画写真を発刊し、褪色・損傷の実態を暴露したのは何のためなのか? 
 毎年のように現場で壁画を見ている文化財調査官が、壁画の褪色に気づかなかったとは思えない。
 そこで当時の美術学芸課(注3)の文化財主任調査官であった林温慶応大学教授にその辺りの事情を聞いてみた。

―――当然、褪色には気づいていたと思いますが、いつから気づいていたのですか?
林:二五周年の時です。NHKと新聞社の取材があって、ガラス戸越しにTVカメラで撮影したのですが、そのとき「問題ありませんか?」と記者の方に聞かれたんです。私自身はどうも見えにくいな、と感じ、同僚の小林君(考古担当)と「なんか暗くなっている感じだね」と話していました。でも、記者の質問に対しては「問題ありません」と答えました。個人的には問題無いと言い切れないものがあり、当然、そのことを課長にも言いました。その頃から、現状を公表する方法を考えていたんです。
―――それで写真集の出版を企画されたのですね?
林:そうです。壁画が一般公開できないなら、何らかの形で公開しないといけないことは、当時の課長も理解していました。
―――記者たちに「問題があるとは」言えなかったのですか?
林:私も組織の人間ですから個人の意見は言えません。うっかり言うと、文化庁の公式見解だと受け取られます。公務員になるときに言われたのは、「君が学問をやるのは構わない。しかし仕事でやっている部分は、個人の意見を出してはいけない」ということでした。それに一九八七年に文化庁から『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』という本がでています。この本の写真と比べると、二五周年の頃の壁画の絵もそれほど変わっていません。白地が黒ずんでいるかな・・・という程度の認識です。
―――三〇周年だった二〇〇二年にも「問題はありません」と記者に答えていますよね。
林:あれはつらかった・・・。読売新聞の記者が訪ねてきて「本も出るそうですが、大きな問題はないですか?」と聞かれたんです。これは二〇〇一年に大発生していたカビについての質問ではなく、明らかに壁画についての質問でした。当時、カビのことはすでに報道されていたのです。そこで「大きな問題はないと思います」と答えたのですが、気持ちとは別でした。記者が帰った後、当時の課長に泣き言を言ったのですが、「しょうがないよ」と言われてしまいました。
―――写真集を出すのはまずい、という話は出ませんでしたか?
林:出ましたよ。でも当時の湯山賢一課長も、東京文化財研究所の渡辺明義所長も出すことに「うん」と言ってくれました。彼らだって苦しかったんだと思います。現状を知らせなければ、というみんなの思いがあったと思います。
―――文化庁長官の序文を作文されたそうですが、絵が消えているという認識はなかったのですか?
林:それは考えかたです。多くの重要文化財の保存にかかわってきましたが、ほとんどの文化財は人で言うと八〇歳とか九〇歳の老齢です。保護するということは老化を遅らせるだけで、若返らすわけではありません。高松塚の場合は、発見当初から崩壊寸前でした。それを修理保存関係者の努力で必死に何とか食い止めたのです。私の前任者たちには壁画が消滅するのを防いだ、という達成感と自負があります。たしかに線は薄れていますが他は残っています。マイナスの面だけを見ないで、客観的に見て欲
しいと思います。 ―――しかし解体にまで話が進んでいますね。劣化が突然進んだのですか?
林:解体しなくてはならないのはカビの問題が大きいのです。絵の方は残してきたと思います。
―――カビの大発生には、前例がありましたよね?
林:実は、前例があることを全く知りませんでした。私が文化庁に入ったのは平成二年(一九九〇年)ですが、当時、高松塚は安定期で、年に一回点検するだけでした。当時の点検は実に簡単で、問題は無い、という認識でした。引き継ぎ事項もなく、それまでどんな問題があったかも、まったく聞いていません。そこで二〇〇一年にカビの大発生があったときに驚いて、過去の資料を調べてみたのです。そしたら一九八〇年頃にカビが大発生していることがわかりました。この情報は同僚の小林も原田も知りませんでした。情報が継承されていなかったのですね。一九八七年に出された『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』の本を読んでおいてくれと言われていましたが、読んでもカビのことには気づきませんでした。修理保存を担当していた東京文化財研究所の技師が処理してくれていると思っていましたから・・・。


***

 これで、なぜ二〇〇四年に『国宝 高松塚古墳壁画』が出版されたかが理解できる。
 文化庁は三〇年にわたって壁画の損傷・褪色を国民に報告せずに来ている。そこで写真集という形で情報公開をしたのに違いない。よく考えてみると、この方法ならば、たとえ壁画の遜色・損傷が露呈しても、誰も責任をとらなくすみそうだ。歴代の課長はすでに栄転しているし、文化庁長官は単なる飾りであり、行政上の責任は取らなくてよい決まりだからだ。そうなるとこれは、文化庁への被害が比較的に少なくてすむ、一種の自爆テロだったのではないだろうか?
 文化庁の報告書を読むと、一九七九年から壁画の褪色が始まっている。この頃からカビが発生しており、その影響で壁画の損傷・褪色が起こったようだ。一億円もかけて建設した保存施設は機能していなかったのだろうか(この件は後で検証する)。
 この頃、損傷・褪色の情報はいっさい国民に流されていない。むしろ、異常ありませんという情報が流されている。
 文化庁は一九八七年に発行した『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』で情報公開をしたという立場をとる。だが、この本は三〇〇部しか印刷されておらず(注4)、この本の存在を知っているのはごく一部の人々に限られていた。
 林温教授は「外部の人々がこの本の存在を知らないので驚きました。この本がもっと知られていれば事態も違ったのに・・・」と嘆いていた。
 文化庁は三〇年間にわたり、国民に壁画の損傷・褪色の実態を伝えてこなかった。それはなぜか? これについては、「ミスター高松塚」とも呼ばれる、渡辺明義文化審議会文化財分科会会長がインタビューで詳しく答えてくれている。
 だがその前に二〇〇二年当時に林主任調査官の上司であった課長の考えを聞いておく必要があるだろう。
 読売新聞の取材に対して心ならずもウソをついてしまった林主任調査官に、「しょうがないよ」と言った当時の課長は、今では奈良国立博物館の館長をしている。そこで湯山賢一館長に当時の事情を聞いてみた。

―――二〇〇四年の写真集ですが、なぜ出したのでしょう?
湯山:最後に出した写真は便利堂(京都の写真工房)のものですし、長いこと報告をしていなかったので、現状を報告しなければいけないという皆さんの想いがあったと思います。二〇〇一年にカビが大発生して緊急対策検討会をつくって壁画の実情をオープンにしたのですから、現状を出さなければなりません。だれも火の粉はかぶりたくないですから、しょうがないですよ。
―――誰も火の粉をかぶりたくないから自爆テロをしたわけですか?
湯山:それで保存への議論が出きるようになったし、予算もつきました。
―――なんで現状の報告をしてこなかったのでしょう?
湯山:長い安定期がありましたし、格別、報告する機会が無かったのでしょう。それに一九八七年の『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』という本で、すでに現状を説明しているという認識もありました。隠す気はありませんでしたが、公開するタイミングを失していた、とは言えるかもしれません。
―――二〇〇二年の三〇周年の時に、情報公開すれば良かったのでは?
湯山:私は直接取材を受けていませんし、当時の認識は、一九八七年の『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』に掲載されている写真から、変化はないというものでした。



消えた貴重な写真原板
 実は、一九八七年に出版された『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』には、謎がある。当時の鈴木課長、湯山課長、林主任調査官は、この本に掲載されている写真を見て、一九九七年や二〇〇二年の壁画とそれほど変わらないと認識した。
 では『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』の最初の八ページに掲載されている写真はいつ誰により撮影されたのだろう?
 当時、この本の編集をしたのは渡辺明義調査官(文化審議会文化財分科会会長)と三輪嘉六調査官(九州国立博物館館長)の二人である。
 三輪館長によると「最初の南壁の写真は便利堂の撮った写真でしょう。あとは忘れました」という。つまり残りの七枚の写真のことは忘れたという。
 一方、渡辺明義会長は「たぶん便利堂の写真を使っている。あれしか写真が無かったからね」という。
 便利堂というのは、美術撮影で世界的に有名な京都の写真工房で、一九七二年に高松塚の壁画が発見されたとき、文化庁と明日香村のために壁画の写真撮影をしている。
 壁画発見当時から一三年間も文化庁の美術学芸課で働き課長まで務め、当時の事情に詳しい宮島新一・九州国立博物館副館長は「私は文化庁にいて高松塚を一度も見ていませんが、あの頃、写真を特別に撮ったという話は聞いていません。そんな予算は取ってなかったでしょう」という。
 ところが、美術学芸課の鬼原俊枝主任調査官は「記録によると、一〇周年と一五周年の時に便利堂が撮影をしています」という。
 そこで京都に本拠を構える便利堂に電話をしてみた。電話に出た方は「一〇周年の時に高松塚に呼ばれました。ところが撮影はしなくてよいというので、そのまま戻りました。一五周年の時は、まったく連絡がありませんでした。当社が撮影したのは発見当時の一九七二年だけです。明日香村のために撮った写真の原板は当社にあります。文化庁のために撮った写真の原板は文化庁が保管しています」という。
 ところで、一九八七年に発行された『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』に掲載されている写真は、明らかにプロの手によるものだ。
 高松塚古墳の石室は押し入れの下段ほどの広さ(奥行き二・六六、幅一・〇四、高さ一・一三)だが、このなかで優れた芸術写真を撮るのは極めて難しい。大きなプロ用のカメラで、ゆがみの出ない特殊広角レンズを使うだろう。さらに照明も困難だ。とても素人の手に負いかねることは、自称フォト・ジャーナリストの私にもよくわかる。
 これらのことが示唆するのは、一九八七年に出版された『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』に掲載されている写真は、渡辺氏や三輪氏や宮島氏が言うように、一九七二年に撮影された便利堂の写真であることだ。
 そうなると、この本で壁画を検討すると、白虎などが薄れて見えるのはなぜだろうか? それは多分、印刷した紙の質の問題ではないだろうか?
 このように推察したので、文化庁の美術学芸課を訪問し、一九七二年の便利堂が撮影した写真の原板と、『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』に掲載されている写真の原板を見せて頂くことにした。
 ここで奇妙なことが判明した。
 第一に一九七二年に便利堂が撮影した写真の原板が消えているのだ。
 第二に一九八七年一月一三日に撮影した写真の原板が存在しているのだ。これも便利堂の写真だと文化庁はいう。だが、便利堂は撮影をしていないと言う。この大判の写真原板は明らかにプロによって撮影されている。
 第三に、一九七二年の発見当初の写真を印刷したもの(原板が消えているので)と、一九八七年に撮影された写真の原板を比べてみたら、八七年の写真の壁画が驚くほど損傷され褪色をしていることだ。二組の写真集のあまりの違いに私はがく然とした。
 これは何を意味するのだろうか?
 ひとつは、林温氏や湯山賢一氏が主張する「一九八七年の写真から、壁画の状態があまり変わっていないという認識でした」という言葉が正しいことだ。
 つまり網干名誉教授が指摘するように、壁画の損傷と褪色は二五年前の一九八〇年代にすでにひどく進捗していたのだ。
 取材の最後になって写真を比べ、この事実に気づくとは、筆者もかなり迂闊(ルビ:うかつ)だったが、明らかに壁画の損傷・褪色は、一九八〇年代にすでに決定的だった。そしてそれ以降あまり進行していない。
 そうなると新たな疑問が出てくる。
 一九八七年に渡辺氏や三輪氏が編集した『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』もまた、自爆テロを狙っていたのではないのだろうか?


不発に終わった文化庁自爆テロ第一号
 表を見ていただければわかるが、一九八〇年から八一年にかけて、カビが広範囲に発生している。また、明らかに壁画も褪色している。なぜ、当時の文化庁の担当官は、この事実を公開しなかったのだろうか? あるいは壁画の褪色に気づいていなかったのだろうか? 以下のインタビューは、『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』が不発の自爆テロであった可能性に気づかないときのものだが、この会話からヒントが得られるかもしれない。
 三輪嘉六・九州国立博物館館長は「きみ、文化庁が何も問題がないなどと言うわけはないだろう。文化財が劣化していくのはあたりまえだろう」という。だが、事実、文化庁は記者発表で「壁画に異常はありません、発見当初から変わりません」と言い続けてきたのだから、これは矛盾する。

―――一九八〇年(昭和五五年)から八一年年にかけてのカビ大発生を、なぜ公表しなかったのでしょう?
三輪:当時は高度成長期で忙しすぎた。公表を世間に求められてもいなかったし、発表しても無視されたと思う。情報公開が叫ばれている時代ではなかったんだよ。
―――それは情報公開をしなかった理由にはなりませんね。
三輪:当時は日本中が考古学的新発見で沸いていたからね。
―――『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』はなぜ発行されたのですか?
三輪:一五周年目の節目であり、それまでの作業をまとめたものです。読めばすべて詳しく書かれていますよ。
―――市販はされていないようですが、どのくらいの部数を刷ったのでしょう?
三輪:三〇〇部だったと思うな。関係者に配布していますよ。文化庁に積んでおいても仕方ありませんからね。立派な布の装幀をしたのになぜか出版社は市販しませんでしたね。

 三輪館長は、文化庁記念物課に在籍し、高松塚古墳の管理に当たり、その後、美術学芸課に移動して壁画保存にも大いに関与している。専門は考古学だ。
 一方、美術学芸課の絵画の担当で、高松塚壁画の保存に人生の多くをかけてきた渡辺明義・文化審議会文化財分科会会長には、反省の弁が多かった。

―――文化庁長官の序文についてはどう思われますか?
渡辺:あれは大失敗だったね。すべて問題無しで来た文化庁の体質が出てしまったね。次の対策が出来ていなかったので、あれ以上書きようが無かったのですよ。
―――これまで文化庁は一度として壁画の劣化について国民に報告をしてきませんでしたが、なぜでしょう?
渡辺:私が美術学芸課の一番下っ端だったときは、問題ありという認識でした。当時、壁の上のほうの漆喰(ルビ:しっくい)はしょっちゅう剥落していましたからね。それを行政の人たちは「問題なし」としてきました。本質的な壁画が傷んでなければ大丈夫と報告してきたわけです。この最初の発表の仕方が、今まで続いてしまったことが問題なのでしょう。
―――行政というと課長ですね? 最初に問題がないと言っておいて、ある課長の時に問題があるとなると、その間に生じた問題と見られるのですか? 
渡辺:そういうんでもないだろうけどね。高松塚は初めての仕事で、あまりにも重大だったから、問題なく保存ができていればいいと思っていたんでしょう。問題があってもそれを発表するかどうかは上の判断です。
―――課長となって行政の枠の中に入ると人が変わってしまうようですね?
渡辺:事柄の大きさに対する恐れがあるでしょう。弱いんだね。高松塚の最初からの問題かもしれないね。
―――壁画の劣化を意識したのはいつですか?
渡辺:二〇〇一年に青木繁夫くん(東京文化財研究所国際文化財保存修復センター長)に指摘された時かな。昔のきれいさが薄れたかな・・・と思いました。それまではカビに関心を取られていたのです。一九八〇年にカビが発生したときは、心臓が止まるほどびっくりしましたよ。心配で仕事が手に付きませんでした。このときに全面的に情報を公開するチャンスがあったのかもしれませんね。でも転換が出来なかった。
―――課長であった時に情報を公開しようとは思われませんでしたか?
渡辺:課長時代はあまり高松塚に関与できませんでした。四年越しの大名展もありましたし、古代刀の問題が発生し、ピストル事件もあったのです。まったく大変でした。病気になってしまいましたよ。
―――恒久保存対策検討会の委員は、なにやら身内だけで固められているように感じます。これでは文化庁内部の調査会と変わりませんね。第三者を入れて、なぜ解体にまで至ったかを検証する必要があるのではないですか?
渡辺:緊急対策のときは緊急でしたから身内の専門家が多かったのです。現在は外部の人々を入れて二四名に膨らんでいます。イエスマンを選ぶわけではありませんけど、委員には知っている人を選ぶことが多いですね。
―――歴代の課長になぜ情報公開をしなかったのか、聞く予定にしています。
渡辺:それはちょっと気の毒だな。
―――カビの影響など、先を読みきれないのは仕方がないと思います。でもどんどん情報を公開していれば、責任追及はされていなかったのでは?
渡辺:人間の社会はそう単純ではありませんよ。でも公の仕事ですから当事者も透明でやったほうが楽なのは事実です。
―――問題がないと言ってきたのは、マイナスだったのでは?
渡辺:それはあなた方が指摘・評価することで、別に構いません。ただ役所の性格から言って、積極的に言えることではありません。

***

 渡辺明義・文化財分科会会長は「高松塚は俺の担当になるな。予算も不十分だし苦労は見えているが、逃れる方法はない。俺は高松塚で一生を終わるのかな・・・と、暗澹たる気持ちだった。俺の専門を研究する暇も無くなる」と悔やんだという。保存施設が出来て臨時小屋の必要もなくなったとき「涙が出た」という渡辺さん。それほど保存の仕事は厳しいのだという。だが、渡辺さんは無事に課長になり、文化庁の技官のトップである監査官になり、東京文化財研究所の所長にもなった。行政官としての才能も見事に花を咲かせたわけだ。
 高松塚古墳壁画の修復保存の功労者の一人である増田勝彦昭和女子大学教授も、もっと早く、情報を公開すべきだったと考えている。
 一九七三年に東京文化財研究所に入所し、三年目にはローマに派遣され、壁画の修復技術を学び、一九七六年から二〇〇一年まで修復にたずさわってきた増田教授は、高松塚古墳の石室内での滞在期間が一番長いだろう。また、恒久保存対策検討会の委員でもある。

―――暗いところでお仕事されたのですか?
増田:とんでもない。明るい照明がないと仕事が出来ませんよ。壁に注射針で漆喰を石に定着させる樹脂を注入する仕事です。どこに注射針を刺したかを克明に記録しておかないと、次の時に、どこに注射したらよいかわからなくなります。それに石室内をゲジゲジなどの昆虫類が自由に出入りしています。天井から落ちてきたら、すぐ殺虫剤で殺さないと、気持ち悪いし・・・。
―――当時からカビが出ていたのですか?
増田:多くなったのは一九八二年頃からだったかな・・・。カビを殺すためアルコールで拭いたり、糸状菌(ルビ:しじょうきん)が壁にくっついていると、ピンセットで取ったりしました。
―――注入した樹脂がカビの原因になっていることはありませんか?
増田:それは聞いていません。でも今回、解体決定に至る過程でショックだったのは、アルコールで拭いたり、殺菌剤の散布(パラフォルムアルデヒド薫蒸)でカビを殺してきたことが、二〇〇一年のカビの大発生につながったと指摘されたことです。カビを殺すと死体など残滓(ルビ:ざんし)が残ります。それが後から進入してくるカビの栄養源になるんだそうです。
―――増田さんの努力が逆効果になったわけですね。
増田:そうです。こんなことになるのなら一九八〇年から八二年にかけてカビが広範囲に広がったことを世間に公表して衆知を集め、対策を練るべきでしたね。本当にがっくりです。

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 文化庁は一九八〇年から八二年に起こった広範囲にわたるカビの発生を国民に知らせなかった。この壁画の褪色・損傷が激化した大事な時代に美術学芸課課長を務めていた西川杏太郎氏は「そういえばカビ発生の話を聞いた記憶がありますね」という。
―――一九八〇年頃にカビの大発生があったそうですね?
西川:そういうことがありましたかな。渡辺君、有賀君あたりが対処していますが抑えられた筈です。・・・そういえば思い出しました。あの頃に問題を発表しておくと良かったのかも知れませんね。
―――発表するお考えはありませんでしたか?
西川:私の専門は彫刻ですから、担当の専門家の意見を尊重してきました。当時は古いものと比較して、壁画が大きく違うという認識は無かったのだと思います。自然環境下に置かれている国宝の劣化を防ぐのは極めて難しいのです。私たちはできるだけ後世に残そうと努力してきています。前の写真と今の写真を比べても、問題は解決しません。文化庁の担当者は自然劣化と闘っているのです。

***

 これまでの取材からわかることは、課長であった西川氏の判断で、情報公開がされなかった可能性が高いことだ。だが西川氏には、あまり記憶が残っていないようだ。
 これだけの情報では、一五周年に発刊された『国宝 高松塚古墳壁画―修理と保存―』が自爆テロだったことは、分かりにくいだろう。
 ところが、これを「不発だった自爆テロだった」と見ると多くの謎が解けるのだ。つまり当初は、この本を出して情報公開をするつもりだった。ところが、公開すると事件が大きくなりすぎると考えて、市販を止めたのではないだろうか?
 渡辺明義氏が、「早くから壁画の損傷・褪色に気づいていました」とは、決して言わないのはなぜだろう? 
 一九八七年の写真を発見当初の写真と比べたら、損傷・褪色はあまりにも鮮明だ。目のある人ならだれでも気づく。この時期、渡辺氏は毎年のように現場を訪れている。優秀な渡辺氏のことだから、壁画の損傷・褪色のことはすべて知っていたと考えて間違いないだろう。
 ではなぜ、「褪色・損傷に気づいていました」と言えなかったのだろうか?
 損傷・褪色を知っていたと言ったら、「国民への報告の義務を怠った」と責められるからか? 当時、渡辺氏は文化財調査官だった。その時の上司であった西川杏太郎課長や、山本信吉課長の、課としての方針に従ったのだろうか?
 そうだったとしたら、山本信吉・元奈良国立博物館館長が、たびたびの取材申し込みに応じてくださらなかった理由もわかる。
 当時、国民の高松塚古墳壁画への関心は今よりもさらに高かったに違いない。そこで、一億円の保存施設を建造したのに、発見から一〇年ほどで決定的な褪色・損傷を起こしたとなると、現在とは比較にならないほどの批判を浴びたことだろう。そのような火の粉をかぶりたくなかったのか? 
 さらに過去三三年間、なぜ発掘関係者の網干名誉教授や、その他の著名な学者たちに何も知らさなかったのか、という謎も解ける。うっかり実情を見せたら、壁画の損傷が激しいことが露見してしまうからではないだろうか?
 そうなると、後ほど検証する一億円を投じて建設した保存施設にまつわる謎も解けてくる。
 日本の考古学界で尊敬されている森浩一・同志社大学名誉教授は以下のように言うが、正鵠を射ているのではないだろうか。
 「高松塚の発見から三〇年以上、文化庁は独占的に管理を続け、民間の立ち入りを頑に拒んできました。その結果として最悪の状態に陥らせることとなった。なぜそういう結果になったのか。要するに誰も責任を取らないという官特有の体質があるからです」



羊頭狗肉(ようとうくにく)の保存施設
 高松塚古墳には壁画の現地保存のため、一億円の費用をかけた立派な保存施設が建設されている。この保存施設は何をしてきたのか?
 網干関西大学名誉教授によると「昔はこの施設で石室内の温度・湿度を調節していますという看板が、現地に立っていました。ところがこの施設は石室の温度・湿度調整などしていなかったんだそうです。そのことは明日香村における猪熊兼勝・京都橘大教授(元奈良文化財研究所・学芸部長)のセミナーで知ったのですが。それを聞いて、明日香村の町民も私も、唖然としました。これまで三三年間、この施設が石室の温度・湿度調整をしていると信じていましたから」とのことだ。
 それでは一億円の保存施設は何をしているのか?
 保存施設には三つの部屋があり、石室に近づくにつれて部屋の温度と湿度が変化し、石室の真ん前の部屋では石室と同じになる。つまり石室の中で作業する技師たちが石室の扉を開けたときに、外の乾燥した空気が直接、石室に入り込まないようにしているのだ。
 つまり、技師たちが作業するとき以外は、この保存施設は眠っているだけなのだ。
 日本の国民の九九%が、この保存施設の役割を正確には知らなかっただろう。なぜなら、今でこそ看板は立っていないが、高松塚古墳の隣に設置されている飛鳥壁画館の資料にも、一〇周年を記念して発刊された『高松塚拾年』(発行元:奈良国立文化財研究所・飛鳥資料館)という冊子の三一ページにも「石室内の温・湿度を安定させるために施設を設置することになった」と書かれているからだ。
 この言葉を読めば誰でも、石室内の温度と湿度が保存施設によって一定に維持されていると誤解するだろう。
 だが、石室内部の温度・湿度は自然に任せ、人が入るときにだけ保存施設を使うというのが始めからの構想なのだ。
 当時の事情に詳しい西川杏太郎元課長は「確かに言葉が足りませんでしたね」と認める。
 だがこれは「言葉が足りなかった」程度の問題だろうか?
 三三年間も国民の誤解を解こうとせず、放置しておいた裏には何か特別な理由があるのではないだろうか?
 文化庁が立派な保存施設を建設して、石室内の温度・湿度を保っていると国民が誤解をしたら、壁画が一〇年程度で激変し、褪色・損傷が発生したことを隠しやすいのではないだろうか?
 石室の温度・湿度が一定に管理されているという考えには、人々を安心させる要素がある。
 そうではなく、「一億円かけた保存施設はほとんど眠っており、石室は自然に放置されています」と言われたら、聞いた人は何となく不安になり「壁画は大丈夫ですか?」と聞きたくなるだろう。
 実は、大丈夫ではなかったのだ・・・。
 「石室内の温・湿度を安定させるために施設を設置することになった」と書いた奈良国立文化財研究所の担当者が、意図的に「言葉足らず」にしたかどうかは不明だ。だが、「言葉足らず」を知っていた文化庁が(西川杏太郎氏は知っていた)、訂正しようとしてこなかったのはなぜだろう? 保身が目的だったのだろうか? それとも「下々(ルビ:しもじも)の無知などはほっておけ」というお役人意識だったのだろうか?
 人々の誤解を解くと、壁画の保存状態への不安が高まることが考えられる。それならば、誤解をそのままにして、人々を安心させておいたほうが得策だと考えたのだろうか?
 保存施設について、三三年間も国民を無知の状態にしておいたわけだが、これは、壁画の褪色・損傷について、国民を無知の状態に置いていたのと、考え方がまったく一緒だ。これが文化庁の体質なのだろうか?
 残念ながら、国民に肝心なことを知らせないという文化庁の体質は、二〇〇一年の高松塚におけるカビの大発生の時にも発揮されている。
 二〇〇一年のカビの大発生は人災であった面が大きいのだが、文化庁のインターネット・ホームページを見ても、さっぱり真相はつかめない。なぜなら、文化庁は国民に肝心なことを知らせないからだ。


縄張り根性の犠牲になった壁画
 二〇〇一年二月に文化庁の記念物課が二〇日にわたって、高松塚古墳の取り合い部と呼ばれる場所の天井を修理した。
 取り合い部というのは石室と保存施設の間に存在する空間のことだ。ここは、石室のすぐ外側であり、土で囲まれている。保存施設の部屋から石室に入るには、この取り合い部を通ることになる。
 ここの部分の土の天井が崩落してきたので、記念物課が奈良文化財研究所の助けを借りて工事した。
 記念物課は古墳などの遺跡の担当であり、奈良文化財研究所(通称:奈文研)も遺跡の発掘を得意としているので、つき合いは古い。
 一方、美術学芸課は絵画、建築物、彫刻、古文書などの保存修理・管理をしており、東京文化財研究所(通称:東文研)と親密な関係にある。
 取り合い部の工事をしたとき、記念物課はあまりつき合いのない東文研には相談しないで、奈文研と一緒に仕事をした。
 だが、この工事がカビ対策の面でずさんだった。
 三月になって美術学芸課と東文研の人々が、定期点検に高松塚を訪れたら、取り合い部の場所に大量のカビが発生していた。
 これでは、とても石室の扉を開けることは出来ないというので、東文研の技師たちはカビ退治に奮闘した。このときには民間の製薬会社の協力を仰いで、ありとあらゆる薬剤を試してみたが、カビ退治が出来なかった。そこで結局、東文研の技師たちのアイデアを採用して、翌年になって工事のやり直しをしている。
 六ヶ月後の九月の時点でもカビとの戦いは続いており、取り合い部のカビの状態は完璧ではなかった。だが、すでに一年半も石室内部の調査をしていない。そこで、当時の林主任調査官は不安になり、扉を開けてみたという。
 そうしたら、壁画が描かれている壁全面にこれまで見られなかったようなカビが大発生していた。黒カビ、緑カビ、白カビとなんでもありだったそうだ。
 二〇〇〇年三月までの高松塚古墳壁画は安定期にあり、年一回の点検しかしていなかった。ところが二〇〇一年三月に点検が出来なかったため、一年半も石室内の点検が出来なかった。ということは毎年行われていた殺菌剤の散布(パラフォルムアルデヒド薫蒸)も一年半にわたってできなかったことになる。
 この散布の効果が衰えたためカビが大量発生した可能性があるという。
 また、東京文化財研究所の佐野千恵生物室長は「胞子の状態のカビは空気と同じ動きをします。石室はトータルで見ると二~三センチ平方の穴が開いているのと同じ状態です。そこで取り合い部からカビが入った可能性もあるでしょう」という。つまり工事のミスも影響しているわけだ。
 取り合い部にカビが大量に発生した大きな理由は、記念物課が天井工事に使った樹脂が疎水性(水をはじく)であったことにあったという。翌年行われた美術学芸課主導の再工事では、親水性(水を取り込む)の樹脂を土に混ぜて、天井部に張っている。これでカビの発生が止まったのだ。
 疎水性の樹脂は水分をはじくため、水滴が出来やすい。一方、親水性の樹脂は水分を取り込んでしまい、カビが生存に必要とする水滴を生みにくいという。
 キトラ古墳の取り合い部でも同じようにカビの大発生が起こったが、使う樹脂を親水性に変更したら収まったという。
 記念物課がカビの専門家がいる東京文化財研究所と相談せずに工事を施工したのは、縄張り根性がからんだ人災だとは言えないだろうか?
 佐野千恵生物室長は「キトラ古墳のおかげで、奈文研と一緒に仕事をすることが多くなりましたが、良いことだと思います。これまで高松塚は美術的な視点で管理されてきた面が多かったと思います。でもこれからは古墳と一体化した視点で管理されていくことが必要でしょう」という。
 二〇〇一年のカビの大発生は翌年には収まったかのように見えた。それで二〇〇四年に発売された写真集の撮影が二〇〇二年一〇月に行われた。
 文化庁がインターネットに提供している資料を見ると、二〇〇一年のカビ大発生の影響で二〇〇二年から二〇〇四年まで毎年一〇回も石室を開けて内部点検をしてカビの処置などをしている。
 このようにたびたび人が入ることでカビが増えるのは必然であり、悪循環に陥ってしまっている。そこで恒久保存対策委員会作業会で、一気に石室解体の方向に話が決まっていったのは新聞などで報道されている通りだ。

河合長官は責任をとるべきか?
 私は、科学者でも考古学者でもなく、解体が正しい決定かどうかについての意見は言えない。だが、文化庁は「本当に解体できるのか?」という疑問を、文化庁が出している資料から指摘することは出来る。
 読者の方もご存知と思うが、キトラ古墳では壁画のはぎとり作業が行われている。なぜはぎ取りをするのか? それは解体が危険だからだという。その文章を読んでいただきたい。
 「石室ごと解体して保存処置する方法については、墳丘をほぼ完全に除去し、石室を解体する必要があることから、古墳自体の本来の形が失われることになり、史跡の保存上大きな問題がある。また実際の作業を想定しても、覆屋の撤去・石室解体時の衝撃、急激な環境の変化などがかえって壁画に悪影響を与える危険性が極めて高い」
 文化庁で高松塚を担当したこともある有賀祥隆東北大学名誉教授は「過去の検証も必要ですし、責任も取らなくてはなりませんが、私は、未来への責任が取れるかどうかが心配です。ご存知のように石室を包んでいる版築(はんちく)という土の固められたものは、コンクリートのように硬いのです。これを壊すときに振動が起こるでしょう。壁画を痛めるのではないかと不安です」という。
 日本の考古学界の重鎮で古墳の研究で名高い大塚初重明治大学名誉教授は「解体などすべきでない」と強く主張する。
 「国の管理になってから何も知らされていませんが、美術学芸課は墳丘全体が生き物であることがわかっていないのではないでしょうか。墳丘も石室も壁画も全体が呼吸をしているのです。丸裸にするような扱いで、墳丘が怒り狂っているのではないかと思います。保存科学の先生たちは、石室が古代人のお墓だという意識が低いのではないでしょうか」
 「高松塚古墳に関しては、残念ながらもう壁画は死に体だと思います。ならばこれ以上触らずに、もう一度もとのように埋めてしまうことです。古墳を元の形に戻して、それを二一世紀の失敗として残せばいい。文化庁や考古学者たちの反省として残せばいい。そして改めて遺跡というものの概念を問いなおすことです。もう私たちにはそれくらいしかできないでしょう」
 「解体などということは絶対にしてはいけません。それは古代の人たちを冒涜することに他ならないのです。現代人はあまりに傲慢になり過ぎました。遺跡とは何か。考古学とは何かを今一度考え直すことです」
 同志社大学の辰己和弘教授(古代学)は「なぜここまでの劣化に気づかなかったのか? 委員会の議論は結論ありきだったのではないか? 国宝を守るという理由のために特別史跡を破壊してもいいのか? そして、一連の責任は誰が取るのか? この四つの質問に文化庁は答える義務がある。その答さえも隠蔽しようとするならば、それは文化庁そのものの存在意義までもが問われることになる」と主張する。
 一方、文化財保護法の専門家である椎名慎太郎山梨学院大学教授は、「文化庁と担当者を告発せよ」という。
 「ここまで劣化させた文化庁とその担当者の責任を追求することです。文化財保護法で罰することは十分に可能です」
 「担当者は劣化に気づいていたにも係わらず、その事実を隠そうとした。ならば劣化を知っていた上で、文化庁長官には嘘の報告をしたことになる。また記者会見等においても、国民に向かって嘘の発表をしたことになる。これは明らかに犯罪行為と言えるのではないか。こうした行為を追求するためにも、告発することが必要だ」と椎名教授は考えている。
 森浩一・同志社大学名誉教授(考古学)は文化庁長官の責任を問えという。
 「例の写真集の巻頭に、河合隼雄長官が一文を寄せている。壁画の状態はとても良く、素晴らしい保存がなされてきたと。もちろん河合さん本人が書いたものではないかもしれない。しかしそれで許されるものではない。文化庁長官として公に発言をし、国民を騙していたという責任は余りにも大きい。早急に責任を取るのが筋だ。文化庁長官が責任を取ったからといって解決するという問題ではない。しかし、余りにも責任の所在をはっきりさせない行政の体質に、一石を投じることにはなるだろう」

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 真実はどこにあるのか?
 高松塚の古墳壁画の修復作業は、世界でも例のない初めての困難な事業だったことは間違いない。
 壁画の保存修理にたずさわった方々が、精魂を込めて全力を尽くしてきたことも間違いない。これからも努力を続けてくださるだろう。
 この壁画が国宝にふさわしいことも間違いない。高句麗や中国の壁画と比べると、盆栽の箱庭のように小さいが、繊細で洗練されており、いかにも日本的だ。一方、大陸の古墳や壁画は、いかにも大陸的で雄大だ。
 この壁画が損傷・褪色したのは、最初の一〇年間であったことも確実だ。
 二〇〇一年以降のカビの大発生で、再び昔のような壁画の損傷・褪色が起こるのではないかと恐れ、あわてて解体に決定されたのも事実だ。
 最後に心配の種となるのは、自爆テロに頼らなければ真相を語れない文化庁の体質だろう。
 下坂守・美術学芸課長は「情報公開を徹底して、ガラス張りにします」というが、その意気込みは本物だろうし、近年の文化庁が情報公開に力を入れているのも事実だ。
 だが、それでも不安は残る。
 高松塚古墳石室の解体が決まったが、これが三度目の自爆テロでないという保証があるだろうか?
 文化庁は再び肝心なことを国民に伝えていないのではないだろうか?
 日本に八五八ある国宝は、安全に守られているのか?
 これまで検証してきた文化庁の体質からみると、何でも起こりうるようだ。
 私としては、三回目の自爆テロが起こって、高松塚古墳壁画を本当に破壊することにならないよう祈るのみだ。

注1 文化庁長官は行政的な責任を取らなくてよい。したがって国会答弁なども次長が行う。だが形式的な人事権は所有している。(文化庁文化財課島田健治課長補佐)

注2 一九九七年年三月二七日。京都新聞

注3 美術工芸課から美術学芸課に名称が変更になっているが、本稿では美術学芸課に統一している。[戻る]

注4 三輪九州国立博物館館長の証言。