デウィとの五〇〇日
The 500 days with Dewi.
インドネシアの農民の娘デウィは、日本人の家でメイドとして働くことになった。場所はインドネシア第二の大都会スラバヤ。
一七歳といっても、もうすでに四年間、社会の荒波にもまれてきている。
そして、「人を信じることはできない」ことを知っている。
一方、日本人の奥様は大学を出てから三年目。インドネシアに来て三ヶ月。
まだ言葉も分からず、メイドを使った経験もない。
この二人は一九××年八月×日に初めて顔を会わせ、そしてその日から、同じ屋根の下での生活が始まった。
第一章 デウィお金はどこ?
不安そうな眼
「スタマット・パギ、ニョニャ」
と、私は初めての挨拶をした。
日本人の奥様は、チラッと不安そうな目でわたしを見て、
「スラマット・パギ・・・」
と言った。
奥様は童顔で色が白い。
サリーさんから奥様の年齢を聞いていなかったら、自分と同じ年と思っただろう。
そしてあの「不安そうな目」にはわたしもとまどった。
奥様は一見、中国人のように見えるけど、でもあの不安そうな目は中国人とは違う。
「デウィこの子がエニーよ。二人で仕事の分担を決めなさい」
と、大学生のサリーさんに言われた。
「デウィ、部屋に行こうか」
「ええ、いいわ」
エニーに連れられてメイド部屋に行った。
「エニーはいつからここで働いているの?」
「八月はじめよ。それからずーと一人ぼっち。デウィが来てくれて良かった。仲良くしようね」
「うん、ここのご主人様ってどんな人? それに家族は何人?」
「ご主人様は背が高くて口ヒゲはやしてる。家族は、えーと、奥様、ご主人様、それに大学生のサリーさん、ティアナさんの四人よ。あっ、それに子犬が一匹いる」
「乱暴なことされない? 例えば殴るとか?」
「そんな心配、全然ないよ」
「フーン・・・」
「エニー、お茶を出してちょうだい」
奥様がメイド部屋まで来て言った。
「はい!」
エニーが部屋を飛び出し、残ったわたしは奥様と顔を見合わせた。奥様の瞳に軽く不安の影が走ったが、でも、すぐ柔らかく微笑んだ。その時、奥様の両頬に大きなエクボができたので、思わずわたしも、ニコッと笑ってしまった。
これが、わたしと奥様との、初めての出会いだった。
この時のことは、今でもわすれられない。そして、あの日に感じたような「とまどい」は、この家で働いた一七ヶ月間に、いろいろな形で味わった。
それというのも、日本人の「わたしの奥様」の物の見方、行動が、インドネシアの常識からは、かけ離れていたからだ。わたしがこれまで見てきた世界と、この家の世界は、大きく異なっていた。
今になって思うと、一三歳から一七歳になるまでの四年間は、苦しいことばかりだった。
胃が痛くなることはあっても、心の安らぐ楽しいひとときは、は少なかった。そしてわたしは人間不信におち入り、疲れ果て、最後は病気になってしまった。
だが、奥様との一七ヶ月は夢のように楽しく、あっという間に過ぎ去ってしまったのだ。わたしは自分に自信を持つようになり、少し賢くなったと思う。その上、健康になった。
この違いは何なのだろう?
その理由を理解するためにも、わたしはまず、自分自身の過去を振り返ってみる必要があった。
そして、わたしの過去を振り返るとき、すべては、父の死から始まるように思える。
突然の死
白い布にグルグル巻きにされた父の遺体は、棺の中にあった。
「デウィ、最後のお別れよ。行きなさい」
涙声の母に言われて、わたしは棺のそばに行った。
父の顔にも白い布は巻かれていた。黙礼をして引き下がると、妹と弟が、次々とわたしの真似をし、棺の前に進み黙礼をした。
この時わたしは一〇歳だった。
父は硫酸を頭から浴び、大火傷をして死んだ。近くの化学工場に出稼ぎに出て三日目のことだった。突然、硫酸の入っているドラムカンが爆発したのだ。
化学工場からは人が来てお金を置いて行った。三千ルピア入っていた。だが、母は受け取らなかった。お金なんかいらなかった。父を返して欲しかったのだ。
棺は村の若者たちにかつがれて家を出た。村の大通りを抜け、緑のイネが波打つ水田の間を墓地へ行く。わたしたちは村のはずれまで棺を見送った。
母は二人の女性に抱えられ、泣き崩れていた。腕には生まれて間もない赤んぼうを抱いていた。わたしは泣いていなかった。父の死はあまりにも突然で、実感が湧かなかったのだ。呼べば、どこからか、すぐに元気なお父さんが姿を現すような気がした。
棺はユラユラ揺れながら、やがて緑の海の中に埋もれてしまった。
「お父さーん!」
わたしは必死で叫んで、後を追って水田の入り口まで来た。返事は無かった。涙がたまり、前がかすんできた。
母にはすぐに再婚の話があった。幼い子、七人を抱えての生活は、誰から見ても無理だった。だが、母はその話を断った。母はその男が嫌いだったのだ。お金持ちのその男には、すでに三人も妻がおり、母は四人目だった。母は「わたしが持っている土地が目当てよ」と言っていた。それも一つの理由かもしれない。だけど、わたしと姉のティは話し合った。
「マーンマは美人だからね」
「そうよ。そうよ」
引き締まった顔に、きれいな大きな瞳を持つ母は「美人」と言われていた。とくにわたしたちは、美しい母を誇りに思い、大好きだった。
父の居ない生活が始まった。
一〇歳のわたしの下には、八歳から三ヶ月までの、四人の妹と弟がいた。上には一一歳のティと、一四歳の兄がいた。
「ねー。マーンマ、わたし明日から学校行くのやめるよ。そして子守をするよ」
「わたしもやめてマーンマの仕事を手伝う」
とティも言う。
「二人とも学校にお行き。学校が好きだって言ってたじゃないか」
「いいのマーンマ、学校に行かなくたって勉強はできるし。それより働きたい」
「・・・」
本当は学校に行きたかった。わたしもティも成績がよく、いつもクラスの級長をしていた。父が生きていたら、二人とも当然中学校までは行けただろう。もしかしたら、高校にだって行けたかもしれない。
だが、このあたりの農村では、小学校三年ぐらいで学校に来なくなる子が多かった。インドネシアの農村の子は、一〇歳になったら、もう一人前に働くのが普通だ。だから、父のいないわたしやティが学校をやめるのは、誰から見ても当然のことだった。
ティは洗濯と畑仕事を手伝い、わたしは子守をした。兄は中学を終えたら高校に行きたいと言う。
三年の歳月が流れた。
わたしたちの生活は相変わらず苦しかった。土地を少しずつ売って、兄の高校に行くお金にした。
わたしたちの住むドーバー村は、歌で有名なブンガワンソロ河の西岸にある。村の中央には黄色い水の小川が流れ、木々がうっそうと茂り、子供たちが素裸で水遊びしている。やせたニワトリがあちことと忙しく地面を突っつき、山羊もせわしげに草を食べている。
一見、平和でのどかなこの村も、本当は貧しく、農民はボロをまとい、借金で苦しんでいる者がほとんどだった。
貧農の娘は一二~三歳になると、都会に出稼ぎに行かされた。それが当たり前だった。
「デウィ、わたし、小学校やめて姉さんの手伝いをするよ!」
一一歳に成長した妹だった。
「なんで? いいよ。せめて小学校ぐらいでたら・・・」
「イヤ! 姉さんだって小学校卒業してないじゃない・・・わたしだって卒業するわけにはいかないよ」 甘えん坊だった妹がこんなに変わるとは・・・いろいろ話してみたけれど、結局、言うことを聞かなかった。
「それじゃ・・・ティとわたしは都会に出稼ぎに行くのがよいみたいね」
ドーバー村に居てもなんとか食べることはできた。だけど、新しい服を買うことはできない。こういう場合、都会に出てメイドをするか、工場で女工をする他なかった。だが、小学校を卒業してない私達は、女工の仕事もなかなか見つからない。
ティはスラバヤという、人口三百万人の大都会に出て、クスリ屋さんで働くことになった。兄が探した仕事だった。ティが村を去って三ヶ月ほどしたら、兄はわたしにも仕事を見つけてくれた。
一三歳になって、わたしは生まれて初めて村を離れた。不安で胸が締めつけられた。村から一時間ほど歩き、バスに三時間半ほど揺られて、大きな都会に着いた。兄が連れていってくれたのは、小さな中華料理店だった。ここでウエートレスの見習いをすることになった。
この店の主人は女性で、太った赤ら顔にメガネをかけていた。怒ると迫力に満ちていて怖かったけれど、笑うとエクボのできる気のやさしい人だった。四人座れるテーブルが一〇ほどあるこの店にメイド兼ウエートレスは六人もいた。コックとボーイも四人おり、計一一名でこの小さなお店を動かしていた。
お店は小さくても繁盛しており、息つく暇の無い忙しさだった。わたしは、初めての仕事で見るもの聞くもの珍しく、夢中で働いた。昼間は忙しく気が紛れたが、夜になると母が恋しく、いつも一人で泣いていた。
「デウィ、スーシーと一緒に買い物に行っておいで」
と、女主人に言われて、初めて市場に行ったのは三週間ほどたってからだった。お店の買い物は、毎朝女主人がコックを連れて行ってしていた。だから、今日の買い物は、何かを追加で買うらしかった。
市場は人でごった返していた。あちこちに野菜や果物が並び、なんでも売っていた。広くて迷い子になりそうで、わたしは必死でスーシーの後ろを追っかけていた。
「デウィ、これおつりよ。ポケットに入れておき!」
スーシーに言われて、わたしはその小銭をポケットに入れた。スーシーは当時一八歳だったと思う。色が黒く痩身で、目がギョロギョロしており、気のきついお姉さんだった。
買い物カゴを一杯にしてお店に帰り、女主人に報告をしたときだった。
「おつりは?」
と、スーシーに聞かれて、ポケットから預かったお金をジャラジャラと取り出しテーブルの上に置いた。
「足りないじゃないの。どこへやったの?」
スーシーは目をギョロギョロさせた。
「そんな・・・知りません」
「しょうのない子ね」
「でも・・・」
「デウィがお金を落としてしまって・・・」
と、言いながら、スーシーは女主人におつりを渡した。
「ダメねー。デウィは子供なんだからお金を持たせないでちょうだい」
女主人は渋い顔をした。
あるべきお金が三百ルピアほど足りなかったのだ。三日分の給料と時同じ金額だし、大金だった。でもわたしは絶対になくしてなんかいない。スーシーがわたしに渡したとき、すでに足りなかったのだ。わたしはそう叫びたかった。でもその時は声にならず、ただ泣いていただけだった。
この小さな事件は、わたしにとっては大事件であった。わたしは生まれて初めて人に対して不信の念を持ったのだ。
わたしはサルじゃない
つぎの仕事を見つけてくれたのは、やはり兄だった。場所はスラバヤ市。わたしはある中国系の家にメイドとして住み込むことになった。
「スラマット・パギ・ニョニャ」
「この子をメイド部屋に連れて行きなさい」
上品な顔をした奥様は、わたしの挨拶は無視し、笑いもせず他のメイドに指示をしていた。やさしそうな顔なのに、厳しい目が怖かった。
「このベッドに三人寝るのよ。狭いし暑くてかなわないけど、二階のメイド部屋よりましよ。あそこはカンカン日が当たっていられないわ」
「このベッドに三人も?」
「そうよ」
「もう一人は?」
「あー、今買い物に行っているわ。トワンさんという、四〇歳のおばさんよ。料理専門なのよ」
先輩のメイド、ティーウィーはもうこの家で働いて二年になり、年は一六歳だという。目はパッチリ、鼻の高い可愛い子だ。
「わたし、メイドは初めてで何にも分からないだけど・・・」
「えー分かってるわ。やることは山ほどあるからね。明日から教えてあげる。朝は五時起きよ」
朝五時に起きた。外はまだ真っ暗だ。ふろ場に入り水浴びをして、ようやく目が覚めた。
「デウィ、まず洗濯よ。日の昇る前に全部干し終えるのよ」
ティーウィーはたらいに水を入れ、ゴシゴシ洗い始めた。わたしはもスカートをまくりあげ隣にしゃがんで洗い始めた。
洗濯物を物干場で干し終えた時、空はもう明るかった。
「次は掃除よ。デウィは居間の床を拭いてね。わたしは庭掃除よ。みんなが起きてくる前に終わらすのよ!」
「はい」
台所の方を見たら、トワンおばさんが忙しく家族の朝食を作っている。トリのスープのいい臭いがしてきて、思わずグウーンとお腹が鳴った。
家族の人々が起きてきたが、水浴びをすませ、食事をし、あっという間に外出してしまった。どうやらこの家には娘が二人、息子が二人いるようだ。
「デウィ、食堂に行くのよ。余っているものは何でも食べていいからね。でも台所で食べるのよ」
「えっ? 食べ残しを?」
「えーそうよ。メイドは食べ残しを食べるのよ。当たり前じゃない」
「・・・・・・」
トリのスープは冷たくて、中身も無かった。結局、三人とも冷たいご飯にスープと唐辛子をかけて食べた。
「さあ、今度は食堂とベッドルームの掃除よ。デウィは食堂と一階の寝室、わたしは二階の寝室ね。宝の品物には触っちゃダメよ」
「はい」
掃除が終わったのは一一時過ぎだった。寝室は七部屋もあり、それにベランダ、ガレージ、ゲーム室も掃除した。
「休もうか」
「わたし、もうクタクタ」
「そのうち慣れるわよ。わたしはトワンさんと昼食を作らなくちゃ。デウィも来る?」
わたしはティーウィーの後ろについて台所に行った。お昼の用意は奥様の分だけで簡単だった。そしてメイド用の昼食の用意は台所の外で始まった。
「どうして台所のプロパンガスを使わないの?」
「禁止されているのよ。メイドはメイド用の灯油コンロと食器を使うの。ナベ、カマも一緒にすると怒られるわよ。ほら。みんなブリキ製でしょ。安物だから焦がしたらすぐに穴が開いちゃうわよ」
昼食が終わったら、午後からはアイロンがけだった。今朝干した洗濯物はカラカラに乾いている。
そして待望の昼寝の時間!
どのくらい時間がたったのだろう。ウトウト、と、したと思ったら、アッという間にティーウィーに起こされた。
「もう夕方よ。前庭と中庭、それと寝室に殺虫剤をまくの。手伝って」
わたしは寝起きの悪い方ではないけど、でも今日は疲れて頭がボーとした。なんとか殺虫剤をまき、トワンさんの夕食準備を手助けしていたら、頭もスッキリしてきた。
夕食はにぎやかだった。家族全員が一緒に食事をしている。わたしが料理を食堂に運んで行ったら、突然、家族の人たちの会話が中国語に変わった。内容はまったく理解できない。口の大きな、切れ長の目をした娘がわたしを指差し、何か言った。旦那様をはじめ全員がドッと笑ったので、わたしは慌てて逃げ出した。
食事が終わると家族はみんな居間に入り、テレビを見ていた。そしてわたしたちは、やっと残飯にありつけた。
「ティーウィー、わたしもテレビみたいなー。色のついたテレビなんてまだ見たことないの」
「ダメよ! 居間に入ったら怒られるからね。そうね・・・。中庭からのぞき見する他ないな」
わたしは中庭をグルッと廻ってメイド部屋に戻った。覗き見は嫌いだったので我慢することにした。
わたしにこの家の仕事がつとまるだろうか? でも、まだとても田舎には帰れない。母は悲しむだろうし、弟や妹もがっかりするだろう。まだ今日は初日なのだ。わたしは役に立たないから「帰れ!」と言われるだろうか? ティーウィーの隣に横たわり、わたしはなかなか眠れなかった。
朝方、ドーバー村へ帰った夢を見た。わたしは一文無しでお土産も無く、母と弟、妹の前に立っていた。寝汗をビッショリかいて目を覚ました。心臓が止まりそうだった。
三週間がたった。
わたしはどうにか勤まっていた。そしてこの家のこともいろいろ分かり始めた。
旦那様は小さいながらもヤシ油製造会社の社長で、毎朝、長男坊を連れて会社に行く。切れ長の目をした娘は長女でどこかの会社の秘書。もう一人の娘は高校生で、もうすぐシンガポールの大学に留学するという。一番の年下は高校生の男の子で、いつも静かで目立たない。
この家で一番怖いのは、切れ長の目をした娘イメルダだ。よく病気になるイメルダは細い体だけれど気が強く、頭の回転も早い。怒るとただでさえ大きな口を、顔が裂けるほど大きく開け、目を三角にして怒鳴る。本当に恐い。笑えば可愛い顔なのに、どうしてこんなに恐ろしい顔ができるのだろう?
「あのー、兄が来て妹が病気だというんです・・・。二~三日お暇をください」
ある日、ティーウィーは恐る恐るイメルダに尋ねた。
「だめよ! この間休んだばかりじゃないの。それよりこの頃洗濯物がきれいになってないよ。もっとしっかり洗いなさい」
数日たって、またティーウィーのお兄さんが訪ねてきた。
「田舎じゃみんな待ってたぞ。妹の病気はもう峠を越したからいいが、お前に縁談があって、早く帰って来いと言ってたぞ」
「兄さん、とても暇を貰えそうもないの。もう二度も頼んで駄目だと言われたし・・・」
「ふん、そうか。じゃ親父にはそう連絡しといてやるよ」
「ありがとう。兄さん」
一ヶ月ほどたったら、ティーウィーのお父さんが迎えに来た。ティーウィーを連れて帰り、結婚させたい、との事だった。ティーウィーは美人だから、話はすぐにまとまるだろう。
「ティーウィーはまだ辞めさせません。ようやく料理を覚えたのに、今辞められては困ります。絶対辞めさせませんからお帰りください」
イメルダの母親は、そう言ってティーウィーのお父さんを帰そうとした。
「そう言われますが奥さん、ティーウィーはもう年頃だし、今回の縁談はまたとない良い話だし、是非ともお暇を貰わなきゃなりません」
お父さんの物腰は低かったけど、負けてはいなかった。そしてこの押し問答は玄関の外のベランダで、三日間も続いた。
「娘を帰してくれるまで、わたしはここから一歩も動きませんよ」
お父さんはとうとう怒りだし、玄関の前に座り込んでしまった。
奥様もイメルダもとうとうあきらめ、渋々ティーウィーを辞めさせることにした。
わたしやトワンさんの見たところ、奥様にもイメルダにも、特にティーウィーを引き止めておく必要は何もなかった。ただ、新しいメイドを探すのが面倒だったのだ。それと、メイドを探すときにかかる五千ルピアの手数料が惜しかったのだ。
ティーウィーが去り、新しくスリが仲間に加わり、同じような毎日が続いた。
その日、奥様も外出してしまい、家にはわたしとスリしか居なかった。スリはイメルダの部屋に入り、何かゴソゴソやっている。やがてスリはテープレコーダーを片手に部屋から出てきた。
「デウィ、このテープ聞いてみようよ」
「駄目よスリー!レコーダーに触ったら怒られるわよ!」」
「大丈夫、わかりゃしないよ」
スリーは一六歳になったばかりだが、世慣れしている。丸顔で、小太りで、動きは鈍いが真面目に働く。
スリはテープをレコーダーに入れ、スイッチを入れた。だがなんの反応もない。
「ネー、デウィ、やり方知らない?」
「知らないわ。それより早く部屋に返さないと・・・」
「アッそうだ。多分この赤いスイッチを押すんだよ」
スリはいろいろ操作してみて、やっと音楽が流れだした。わたしたちは音楽を聞きながらその日の午後を楽しんだ。
二日後の日曜日だった。お昼に、イメルダが血相を変えてメイド部屋に来た。
「スリ! テープレコーダーに触ったわね! わたしの大切なテープレコーダーにお前の声が録音されていたよ。このドロボー猫! だいたい読み書きもできないくせにテープレコーダーに触るなんて生意気だよ! 人間じゃないんだよ!」
イメルダはそう怒鳴るとテープをスリめがけて放り投げた。イメルダは居間に戻って、奥様に何かわめいていた。この日から、スリは寝室の中に入ることも、外出も禁止された。
この事件のあと、スリはイメルダに目の敵にされた。
「スリ、この洗濯物はなんだい? 汚れが落ちてないよ」
バシャとタライの中に洗濯物が放り込まれ、スリは顔まで水を浴びた。
「スリ、油が全然とれてないよ。もっと力を入れてお拭き!」
スリはガレージの床を拭いていた。
「ちゃんとやってます。お嬢様」
スリはふくれっ面をした。
イメルダは外からバケツに水を入れてきて、床に流すかと思ったら、いきなりスリに浴びせた。
「遊んでないでしっかり拭くのよ!」
午後の三時で、スリとわたしはメイド部屋で寝ていた。
いきなりドアが開いた。イメルダだった。
「スリ、デウィ、今日は窓ガラスを拭けと言っておいたじゃないの!」
「拭きましたけど・・・」
「肝心な居間のガラスが拭けてないじゃないの、このバカ! 今すぐ終わらせなさい!」
イメルダの瞳に憎しみの炎がチラチラしていた。
居間の高窓のことだと、すぐ察しがついた。高い所で恐ろしかったので手を抜いたのだ。でもせっかく昼寝の時間なのに・・・。スリもわたしもブツブツ言いながら居間に行った。イメルダは腕を組んで、仕事が終わるまで見張っていた。
数日後のことだった。
「今夜のスープは飲んじゃだめよ」
とスリが言う。
「なんで?」
「クーラン。まずいのよ」
「でも・・・」
アッと言う間もなく、スープは捨てられていた。次の日も同じで、わたしに聞きもせず残飯を捨ててしまう。
「わたし食べたかったのに・・・」
「他のがまだあるじゃない。捨てたのはまずいやつなの」
スリは料理をトワンさんと作っているから味も知ってるし、それにわたしは、お腹さえ膨れれば、不満はない。
こんなことが続いて四日目の朝だった。
救急車のサイレンの音で目が覚めた。まだ外は暗い。居間の方が騒がしい。
「スリ、起きて、何かあったようよ」
スリを叩き起こすと、わたしは居間に走った。
居間には家族が集まっており、救急車に運ばれていた。旦那様も奥様もお腹を抱え、激痛に顔をゆがめていた。わたしは奥様の歩く手助けをした。
食中毒に間違いない。料理を作ったトワンおばさんも病院に運ばれた。まったく中毒にかかってないのは、スリとわたし、そして昨夜体具合の悪かったイメルダだけだった。
「スリ、中毒の原因は何かしら。心当たりはない?」
薄暗いメイド部屋の中でも、スリの顔が青ざめているのが判った。
「ねー、この間から残飯をすぐに捨てていたけど・・・何か・・・料理の中に何か入れたんじゃないの?」
「・・・ウーン。ちょっとね」
「何を入れたの?」
「ゴキブリ」
「えっ?」
「最初はゴキブリを刻んでスープに入れたの。でも誰も気づかないし反応が無いの。だから次は犬のフンを入れたり、ハエを入れたの。それでも反応がないから、昨夜は別のものを試したの」
「何を入れたの?」
「腐ったカニ」
「それだけ?」
「・・・それと・・・台所に無色・無臭の殺虫剤があるじゃない・・・あれを入れてみたの」
「馬鹿ね! 奥様や旦那様が死んだらどうするの? わたしたちも殺されるわよ!」
「そうかー」
「逃げるのよ! 今すぐ!」
二人は急いで荷物をまとめ始めた。そこへイメルダの声がした。もう病院から戻って来たのだ。
「スリ、デウィ、台所へおいで!」
イメルダの声が部屋の外でした。もう逃げることはできない。
台所は、朝食の準備中のまま放り出されていた。小さな鍋にはお湯がたぎり、野菜はきざまれたままだった。
「スリ、デウィ、おまえたちだね! 食べ物の中に何を入れたのよ?」
「・・・・・・」
イメルダは、ふと、部屋の隅にある殺虫剤に目をやった。
スリの顔色が変わった。
「スリ、お前だね!」
イメルダはお鍋の把っ手を両手でつかむと、スリめがけて投げつけた。
「ギャー!」
煮えたぎる熱湯はスリの顔と腕、それにわたしの左腕にかかった。
「熱い!」
つんざくような悲鳴をあげたスリは、その場にしゃがみ込み、顔を押さえ、体を震わせている。
「目が目が・・・」
「スリ・・・・・」
「目が、目が見えない・・・」
「冷やすのよ!」
わたしはバケツに水を入れ、スリに浴びせた。また、浴びせた。
「痛い!痛い!」
スリを抱えてメイド部屋に寝かせた。イメルダが薬を持ってきた。無言で軟膏を置くと出ていった。
急いで軟膏を顔と腕につけた。顔も腕も真っ赤だ。やがてスリは意識もうすくなり、熱が出て来た。わたしはなにしろ冷やそうと思って、バケツに水をくんで部屋に置き、顔と腕に冷たいタオルを置いた。
二日間スリは苦しそうにうなり続けた。
「お嬢様、医者を呼ばないと・・・」
イメルダは横を向いて、わたしを無視し、自分の部屋に入ってしまった。
三日後に家族が退院してきた。もうすっかり元気になっていた。
スリは左目を失明していた。
そして、人間も変わってしまった。残された右目が鋭くなり、態度もふてぶてしくなった。
「目はどうしてくれるんです?」
スリは奥様に詰め寄った。
「運が悪かったわね。もう暇をやるから出ていきなさい」
「目はどうなるの!」
「いくら欲しいの?」
「・・・・・」
「ほら一〇万ルピアよ。これでいいだろう。それとこの書類にサインしておくれ。示談書だよ」
スリは憎々しげに奥様とイメルダをにらむと、一〇万ルピアを引ったくり、サインをした。そして荷物をまとめ、肩をそびやかして出ていった。わたしは無言のうちに門まで見送った。顔の左半分は火傷で引きつっていた。痛々しくて、なんと言っていいのか分からない。
「わたしも辞めます!」
「おまえは居なさい。今は辞めさせないよ」
わたしの願いは聞いてもらえなかった。この事件の一部始終はすぐ近所に知れ渡る。そうすると当分新しいメイドは雇えない。だからわたしが必要なのだ。
わたしは監禁されたも同然だった。外に出る鍵は取りあげられ、家族が外出するときは家の中に閉じ込められた。裏庭から屋根ずたいに逃げたくても、鉄条網が張り巡らされており、無理だった。
ある日偶然、イメルダと弟さんの会話を聞いてしまった。
「姉さん、メイドは”サル”じゃないよ」
「なに言ってるのよ、教育の無い人間は“サル”なのよ。話したって無駄だし、やっちゃいけないことは体で判らす必要があるの!」
「熱湯でかい?」
「そうね。それも悪くないわね。だいたい読み書きできないメイドなんて、サルと一緒と思わない?」
「ぼくは思わないな」
「フン、あなたは博愛主義者なのね。ロマンチックで結構だけど、現実も見てちょうだい。わたしたちは少数民族なのよ。色の黒い連中に馬鹿にされたら、今に立場が逆転してしまわ。だから徹底的に押さえつける必要があるのよ」
「そうかなー? ぼくは中国系とジャワ系は仲良くしていけると思うなー。もっと混血すべきなんだよ」
「あー嫌だ。鳥肌が立ったわ。あなた気は確か? ジャワ人だってマドラ人だって性格は不可解だし、能力だってわたしたちより劣るのよ」
わたしは二人の会話を聞いて、この家を出る決心をした。イメルダと同じ屋根の下に住みたくなかった。わたしは“人間はみな同じ”と、子供の頃から教わってきた。まして“サル”でなんか、絶対にない。
二週間がたった。ある日わたしはお昼頃フラッと門の外に出た。後ろを振り返ると、二階のベランダから弟さんが見ていたので“ギクッ”とした。でもそのまま歩き続け、二度とイメルダの住む家には戻らなかった。メイド部屋には荷物をすべて置いてきた。こうしなければとても脱出ができなかったのだ。
真昼の脱走
スラバヤ第一の繁華街をテュンジュガン通りという。南北に走るこの通りの両側には、デパート、本屋、メガネ屋、スポーツ用品店などが並び、世界中の品物を売っている。
ティの働いているお店は、このテュンジュガン通りの横道の、そのまた裏通りにあった。お店といっても小さな所で、ガラスのショーケースに雑貨品を並べ、タバコや薬を売っている。ティの仕事は“ジャム”と呼ばれる薬の調合と販売だ。
”ジャム”はインドネシア独特の薬だと思っていたが、ティによると、数百年前に中国から来たものだという。そして、使っている薬草の種類も多く、調合方法は秘密だそうだ。
「ジャムは何にでも効くのよ。胃腸薬、痩せ薬、精力剤、産後の肥立ちをよくする薬など、いろいろあるしね」
ティは得意気に言う。
夕方になるとティは屋台を押して”ジャム”を売りに行く。ウイスキーの空きビンに”ジャム”を詰め、屋台の上に並べて、ゴロゴロと押して行く。テュンジュガン通りで店を開くのは違法なので、脇道の木陰に屋台を停めて客を待つ。
陽の沈む頃になるとこの道には、どこからともなく屋台が現れ、道の片側を埋めてしまう。そしてランプに灯が入ると、ますます賑やいだ雰囲気になる。豆腐揚げ屋、焼き鳥屋など、食べ物の屋台が多い。
一年中暑いスラバヤは、日中は蒸し暑く、午後は昼寝をする人も多い。そのかわり日も沈んで夜になると、人々は動き出す。ティも毎晩九時過ぎまでお店を出している。
イメルダの家から逃げ出したわたしは、ティと兄の所を行ったり来たりしながら仕事を探していた。
わたしは裁縫が好きだった。そこで大きな布屋さんを当たってみることにした。
テュンジュガン通りの近くにインド人の大きなお店があった。窓の外から針子の仕事ぶりを見ていたら、お店の人が出てきた。
「針子をやったことがあるのかい?」
目の鋭い、まゆ毛の太いインド人の男だった。
「いいえ。家でやった程度です・・・」
「ミシンを使ったことは?」
「ありません」
「じゃーちょっと中に入って試してごらん。上手になりそうだったら雇ってあげよう」
ミシンの扱い方は知らなかったが、手で縫う分には自信があった。
「才能があるようだし、見習いとして雇ってあげよう。今日から来れるかい?」
「はい。あの・・・住む所は?」
「あー、裏にあるよ。荷物を持っておいで」
このお店で三ヶ月ほど働き、すっかりミシン縫いも上手になった。そんなある日、例の鋭い目つきのインド人がやって来た。
「デウィ、お前はもう一人前の腕になったから、うちと正式に契約しよう。期間は三年、月給は三万ルピアだすよ」
「三万ルピアも!」
給料が一挙に三倍になるので、心臓がドキドキした。
「あのー、休みなんかも貰えるわけですね?」
インド人は太い眉を上下してうなずき、契約書を差し出した。わたしは急いで契約書にサインした。
「じゃ、今すぐ荷物をまとめなさい。今日から熟練工ばかり集まっている工場で働いてもらうから」
その日連れていかれたのは、スラバヤ市のはずれの倉庫が沢山ある所だった。工場のそばにはゆったりとした流れの河があり、近くには有名なビール工場があるはずだ。
工場は高い塀で囲まれていた。正面のガードをくぐるとすぐ工場の入り口がある。塀と建物の間の芝生には大きな真っ黒な犬がおり、わたしを見ると突進してきて金網ごしに「ウオー」と牙をむいた。
工場は倉庫を改造したものらしく、天井が高く窓がない。入り口の右側には番人のための小さな部屋があり、左側は布地置き場となっていた。中央では二〇人ぐらいの針子が仕事をしている。奥の方は住居になっているようだ。
針子たちはわたしが入っていっても誰も顔をあげない。インドサリーをまとった太った女性が手招きをし、無言で空いているイスに座れと言う。
テーブルもミシンも立派だった。
わたしはウキウキした気分だった。なにしろ三倍もお給料がもらえるんだもん。でも、何か職場の雰囲気は湿っぽかった。なんでかしら? みんな高給取りのはずなのに・・・。
湿っぽい雰囲気の理由は夜になって分かった。
同室の女の子はイボンヌという、二一歳の色の白い、背の高い子だ。オランダ人の血も入っていそうなかわいい美女だ。
「デウィ、契約書は読んだの?」
「読んでないけど、でも期間は三年で給料は三万ルピアよ」
イボンヌは深いため息をついた。
「あなたも騙されたのね。期間三年なんてウソよ。雇い主が必要な間居ることになっているわ。それに休みもないし、一生この倉庫から出られないのよ」
「ウソー?」
自分の耳を疑った。何の話か分からなかった。
「何を言ってるの? どういう事?」
「そうねー、多分仕事が上手になると、すぐ別の店に移ったり、自分で仕事を始める人が多いでしょ。だから、それを予防してるんでしょうね」
「でも休みはくれるといったわ」
「本当に? はっきりそう言ったの?」
「イヤ、ただ聞いたとき、うなずいていた」
「それじゃー駄目ね。なにしろ契約書がすべてなのよ。この世の中は」
「契約書が?」
「そうよ、自分のサインした契約書をよく読んでみたら? わたしたちはみんなここで一生働く他ないのよ」
契約書は三ページあり、ビッシリとタイプしてある。月給のところは手書きで三万ルピアとあり、よく目立ち、わたしもサインする前に見た。でも、他の所は読む必要を感じず、すぐにサインをしてしまったのだ。そして、契約書の内容はイボンヌの言う通りだった。わたしは一生ここで奴隷のように働くことに同意していたのだ。
「この契約書を破ったらどうかしら?」
「駄目よ。それはコピーじゃない。オリジナルを手に入れなきゃ」
「逃げた人はいないの?」
「逃げようとして犬にかみ殺された人はいるけど・・・。それと病気で死んだ人もいるわ。でも逃げた人はいないわね。わたしは半年ここに居るけど、チャンスは無かったわ」
「本当に・・・。でもわたしは必ずここを出るわ」
わたしたちの部屋はまあまあ奇麗で、テレビもあった。食事の方も十分で監禁されていることを除けば、優雅な生活だ。給与の支払いも契約書通りだという。
一週間がたち、二週間が過ぎた。わたしは脱出のチャンスをうかがった。ありとあらゆる方法を考えたがいい案はなかった。
建物の周囲にはどう猛な犬がいるし、塀も高い。正面の入り口には鉄のシャッターが降りており、目つきの悪い番人がいる。
週二回、中型トラックが工場に来て、でき上がった商品を外に運び出す。運転手は工場のオーナーの一族で次男坊だ。
一ヶ月ほどたったある日、わたしはトラックのそばに寄ってみた。次男坊は後ろ姿で太ったインド女性と話をしている。番人はイスに座り、ボンヤリと外を見ている。
チャンスだった。そーっとトラックの後ろにまわり荷台をのぞいた。中は布地でいっぱいだ。
肩に手が触れた。振り向くと次男坊の大きな顔が目の前にあった。目つきは長男坊ほど鋭くない。
「後ろは荷物で一杯だぜ」
顔は笑っていたが目が笑っていない。わたしは急いで逃げた。
イボンヌには笑われた。
「そんな手は古いわよ。もうありとあらゆる事はやってみたのよ。仮病も使ったし、火事を起こしてみたし、番人を買収しようとしたけど、みんな無駄だったわ」
「本当・・・」
「でもねデウィ、唯一、残されている手があるのよ。危険だけどやってみる? 一人じゃできないの。二人だったら成功するかもしれないわ」
「やるわ! 絶対やる!」
イボンヌは美しい服を着て仕事をするようになった。見違えるほど美しい。胸のボタンも上から三っ目まではずし、うつ向くとふっくらしたふくらみが見える。
思った通り、次男坊がイボンヌに目をつけた。用事も無いのにイボンヌのそばに来てモジモジしている。何か言いたそうだ。イボンヌは花が咲いたような笑顔でわたしに話しかけ、時々チラッと次男坊の方を見る。
長男坊もそれとなくやって来て、ため息をついてイボンヌを見ている。
二週間ほどたったある日、次男坊は突然、予定日でもないのに工場にやって来た。
イボンヌの所に来て、後ろの住居の方に来いと目配せをする。他の針子たちは何事かと思って二人を盗み見している。イボンヌはわたしの手を引っ張って住居に向かった。
わたしたちの部屋に入るとイボンヌは、次男坊に抱きついた。その瞬間、わたしは男のズボンのポケットに入っていたトラックの鍵を引っこ抜いた。
次男坊はあわててイボンヌを振りほどこうとした。イボンヌは、思いきり、男の股間を蹴り上げた。
「ウゲー!」
男は顔をしかめて横転した。
「いそげ!」
二人はドアを閉め、鍵をかけ、嵐のように仕事場を走り抜け
「みんな、逃げるのよ!」と叫びつつ、トラックに突進した。
わたしはシャッターのスイッチに走っていって、グリーンのボタンを押し、ふたを閉め、鍵をかけた。
イボンヌはエンジンをかけていた。わたしは助手席に飛び乗った。
シャッターは大分上がってきた。外で見張り番をしていた番人が異常に気づき、トラックの方に走ってくる。次男坊も住居の方からすごい顔で走ってくる。針子たちも、ようやっと自由の世界に向かって走り出した。
イボンヌはアクセルを踏んだ。トラックは猛スピードで正面の鉄柵の門をぶち破った。しかしその勢いで、道路の反対側のコンクリート塀に激突した。エンジンが止まった。
「逃げるのよ!」
イボンヌの声と共に、二人は左右別方向に駆け出した。
針子たちは「ワーッ」と歓声をあげて正面の門に向かっている。
「犬だ! 犬を出せ!」
誰かが叫んだ。
わたしは夢中で駆けた。後ろを振り向いたら犬が追ってくる。急いで川岸のコンクリートの土手に飛び上がった。土手を駆け出そうとしたら、犬が体当たりしてきた。よけそこなったわたしは土手下の草むらに転げ落ちたが、犬は勢い余って河の中まで落ちた。
橋に向かったら、橋の上には長男坊の後ろ姿があった。長男坊が振り向いた瞬間、わたしはふくらんだお腹めがけて頭突きをした。
「グエッ!」
長男坊はうめき、二~三歩後へよろけた。
わたしは橋の上を走った。追手も橋を駆けてくる。橋の先は倉庫ばかりでかくれるところは無い。
「ドロボーだ。ドロボーだ」
「捕まえてくれー!」
すぐ後ろに長男坊の荒い息使いが聞こえてくる。
<もうダメだ!>
左手にお店があった。肩をつかまれた。
その手を振り切ってお店の中に飛び込んだ。長男坊は勢い余って“ガシャーン”と、お店のショーウインドウに激突した。
店の奥に走った。突然、上から肩をグイとつかまれた。これで終わりだ!
上を見上げたら、色の黒い、大きな中国人らしい男だった。
「助けて!」
わたしの声は、音にならなかったようだ。
長男坊は血相変えて息も荒く「うちの使用人なんです。品物を盗んで逃げたんで、連れて帰りますよ」と言う。
大きな男は無言でインド人の長男坊をにらんでいる。そこへ、この店のおかみさんらしい女性が出てきた。
「どうしてくれるの! ショーウインドウを壊してしまって! 弁償してくれるんでしょうねー!」
「も、もちろんしますよ」
急に長男坊は愛想笑いをして、すまなそうに言った。
「あんたの使用人だという証拠はあるのかね?」
大きな中国人らしい男は太い声で聞いた。
「あ、ありますよ。雇用契約書が・・・。すぐ取ってきますからこの子を返してください」
「明日でいい! それまでこの子は預かる。さー、もう出ていってくれ」
わたしは体の震えが止まらず、腰が抜けてしまったように座り込んでいた。
「この子を逃がさないでくださいよ」
長男坊は疑い深そうにそう言って、それから女の人とショーウインドウの件で交渉を始めた。
「おい! この子を奥へ連れていけ!」
わたしはジャワ人の女の子に引っ張られて奥の階段を二階に昇った。そして、その日の午後も、日が暮れても、放って置かれた。食べ物だけは届けてくれた。部屋のドアは開いているし、逃げようと思えば、いつでもできた。
わたしは夜を待った。このお店の出入り口はインド人に見張られているに違いない。夜中になった。わたしは部屋を抜けると屋根づたいに逃げた。足の裏の傷が痛んだ。やがて民家の物干し場があった。そこの物陰に身をひそめ、夜明けを待った。
空が白くなってきた。わたしは道路に降り、ビッコを引き引き、遠回りをしてティのところまで歩いた。二時間以上かかった。
三日後にドーバー村に帰った。母にすべてを話したら、目を大きく見開き、そして強く抱きしめてくれた。何もいわなかった。でも母の顔をのぞいたら、目には涙があふれていた。
わたしは強くなりたい、と、つくづく思った。そしてお金が欲しかった。たとえ人を騙したって、結局お金持ちになれば勝ちなんだ、と考えていた。そんなわたしの心が分かったのかもしれない。母の言った言葉が、胸にしみた。
「わたしの大切なデウィ、たとえ人に騙されても、お前は人を騙しちゃいけないよ。人は人、お前はお前なんだからね」
二〇日ほどたったらティがドーバー村に姿を現した。「安全な場所があるよ」とのことだ。年老いた夫婦の家がメイドを探しているという。
デウィ、お金はどこ?
今度の家は、スラバヤの古い高級住宅地の中にあった。昔、このあたりにはオランダ人が住んでいたそうだ。その頃を思い出させるような建物や家もそのまま残っている。家は石造りで天井が高く、古めかしい家具も立派だ。
この家の旦那様は六〇歳くらいで、痩せて背が高く、青白い細長い顔にブチのメガネをかけていた。心臓が悪いそうだ。だからかな、七〇歳くらいの老人に見える。
奥さんの方は丸々と太っており、こちらも度の強そうなメガネをかけている。メガネの奥の目は冷たい。奥さんは友達と外出することが多く、わたしは旦那様と二人だけの時が多かった。
住み込みのメイドはわたし一人だ。通いのメイドはスミアティおばさんといい、料理を担当している。おばさんは昼間この家で働いて、夜は焼きソバの屋台を出して商売をしている。日に焼けた丸顔も、丸々と太った体も頼もしい、そして、いかにも人がよさそうだ。
ご主人とは離婚しており、一人で四人の子供を育てている。スミアティおばさんはわたしに色々な料理を教えてくれた。おかげでわたしはすっかり料理が好きになったし上手にもなった。おばさんのおかげ。
「旦那様、また千ルピアがポケットに入ってましたよ」
「あー、ありがとう」
これで何度目だろう。旦那様の服を洗うと必ずお金が出てくる。最初の頃は気づかずに洗ってしまい、ビショビショのお札を乾かして旦那様に渡していた。二週間たった今では、洗う前にポケットを調べている。
「この家の旦那様は本当に忘れっぽいんですね。おばさん」
「ポケットに入っているお金のことかい?」
「エー、いつも入ってて・・・」
「それはね、デウィ、お前さんは試されているんだよ。前に居たメイドは時々そのお金を返さなくてね。それで辞めさせられたのさ。デウィも気をつけなよ」
「えー。そんな・・・」
わたしは不愉快だった。死んでもそんなことするわけないのに・・・。
数日後、旦那様に雑貨品を買ってくるよう頼まれた。
この家の門を出ると、そこはヤシの並木道で、ヤシの葉が緑の天井を作っており、昼間でも涼しい。わたしの好きな散歩道だ。でもこの並木通りも大雨が降るとバンジール(洪水)に浸ってしまう。そうなると水がヒザまでにもなり、車も通れなくなるし不便だ。
雑貨屋は家から五分の所にあり、そこからは近くの高い高いホテルが見える。そして、スラバヤ動物園もすぐ近いはずだ。
タバコやカミソリの刃を買って帰ると、旦那様は居間のソファに座っていた。
「旦那様、買ってきました。これはおつりです」
「あー、ありがとう」
旦那様は品物と値段のチェックをするだろうと思っていたのに、おつりを数えただけだった。
「おばさん、わたしも大分信用されてきたみたいよ。だって全然品物の値段を調べもしなかったわ」
「アハハ、デウィ、よかったね。でもね、さっき旦那様が電話をしてたろう。あれは雑貨屋にかけてたのさ。おつりをいくら渡したか確認してたよ」
「えー、ひどい」
「メイドを信用する家主なんていないんだよ、デウィ。わたしたちゃー貧乏だからね。でもここの旦那様の疑い深さは病気だからね。気をつけないと・・・」
この家の居間にはきれいな飾り棚があった。そしてその中には、いつも指輪やペンダント、お金などが放ってあった。もしもこれが無くなったら疑われる。だからいつもお客が帰った後は数を数えていた。
可愛い指輪や金のペンダントは、目の毒だ。あんなものを一つでもいいから持てたらな、といつも思っていた。
でも、どうしてご夫妻は高価な品物をあのように置きっぱなしにしておくのだろう?
置いてある物はよく変わった。ルビーの指輪やダイヤモンドのイヤリングが置いてある時は、胸をドキドキさせて見入った。品物はよく変わるけど、数はいつも七個だ。
二ヶ月ほど過ぎたが、わたしはやっぱり信用されてないようだった。回数は減ったけどまだ時々、ポケットの中にお金が入っている。そして旦那様は時々雑貨屋へ電話しては値段の確認をしている。
いつまでも疑われるのは、嫌だ。でも耐えるほかない。
ある日、一つの考えが心をよぎった。
<昼間の宝石はなんで置きっぱなしなのだろう? もしかすると、わたしを試しているのじゃないだろうか?>
そうに違いなかった。
心の中でムラムラと怒りの炎が燃えた。
旦那様も奥様も、わたしが宝石を盗むのを待っている。そして「やっぱりジャワ人は信用できない。中国人とは違う」とでも言うのだろう。
くやしかった。そして、悲しかった。いくら誠意を尽くしても、旦那様の疑い病を変えることはできない。だったら、いっそ旦那様の期待に沿った方がましだ。
翌日から考えを変えた。洗濯のときポケットに入っているお金も、ときどき返さなかった。ペンダントも一つ失敬した。
わたしの居ない時に、メイド部屋に誰かが入ったようだ。なくなった宝石を探しに入ったのだろう。きれいにたたんであった服や寝間着まで、いつもの位置からずれていた。でも、やがて飾り棚の宝石の数も七個に戻った。
数日後、もう一度指輪を失敬した。今度は旦那様に呼ばれた。
「どうも指輪が無くなっているようなんだが、デウィは知らないかい? まさか昨夜の客が持っていった訳ではないだろうし・・・」
「今朝、部屋の掃除をしましたけど、どこにも落ちていませんでしたよ」
「・・・・」
わたしは別に怒られることもなく、やがて宝石類は七個に戻った。メイド部屋の私の服はもちろん、また位置が変わっていた。
洗濯のことでも呼ばれた。
「デウィ、今朝の洗濯物の中にお金が入っていなかったかね?」
「気がつきませんでしたけど」
旦那様の青白い顔がだんだん赤くなってきた。
「わかった。あっちへお行き!」
犯人はわたしに決まっていた。他には誰もいる訳が無い。それなのにご夫妻は、何も言わず、陰でゴソゴソわたしの部屋を探索していた。
一度もわたしのことを信用したことがないくせに、表面だけは信用したふりをする。わたしはそういうご夫妻の態度に我慢ができなかった。
それからまた二週間ほどたって、又、指輪を一つ失敬した。お客様が来ている居間でのことで、誰も気づかなかった。
翌朝、旦那様に呼ばれた。
「今日限りで暇をやるから、午前中に出ていきなさい」
「・・・・」
「お前にはガッカリしたよ。期待していたんだが・・・」
わたしはすぐに荷物をまとめた。ご夫妻はメイド部屋に来て、手荷物のトランクやハンドバッグの中を綿密に点検した。その間にわたしは台所に行き、スミアティおばさんにお別れを言い、小箱を受け取った。
メイド部屋に戻ると、旦那様はソワソワと落ち着きがなく、奥様も太った体を揺さぶって何か言いたそうだった。
「ではこれで失礼します」
「・・・・」
二人の目はわたしの小箱に集中している。
「あっ、これはお二人への贈り物です」
努めて平静を保とうとしたけど無理だった。頬は引きつり、足がふるえる。
「宝石とお金が入っています。サヨナラ」
やっとこそう言うと、わたしは“プイ”と後ろを振り向き、門にむかった。目の片隅にご夫妻の「アッ」と驚く顔が映った。
裏門まで来たら、スミアティおばさんが追いついて来た。
「デウィ、よかったらうちに来ないかい? 次の仕事が見つかるまで居ていいよ」
「ありがとう。あばさん。でもいいよ」
何も思い残すことは無かった。後悔もしていなかった。でもなぜか、涙があふれてきた。上を向いたら、青い大空が広がっていた。
「あー、わたしって短気だな・・・」
青い深い空のように広い心を持ちたかった。でもしようがない。我慢できないものはできないし。これはわたしの性分だから。
このあとわたしは、仕事を二度ほどかわった。だが家主との緊張した関係は、いつも同じだ。ジャワ人の家でも働いてみたが、やはり心の休まる場所ではなかった。
わたしは疲れていた。他人を信じることができなくなり、いつも人の言葉の裏を考えて生きていた。なんと疲れる生き方だろう。そして精神的な疲れは、いつか肉体的にも影響がでた。
わたしはとうとう体調を崩し、休養するため田舎に帰った。
日本人って殴るの?
わたしの兄はスラバヤ市郊外の小さな工場で働いている。この工場では石造りの流し台、便器、風呂桶、床などを製造している。兄夫婦はこの工場内に住み、守衛兼職人をしていた。わたしは兄を訪ねて何度もこの工場に来ており、自然と工場主の家族とも親しくなっていた。
工場主は三〇歳くらいの中国系インドネシア人だった。高校卒業後すぐに父親の仕事を引き継いで、家族みんなを養っている。中国系といっても純粋(アスリ)ではなく、ジャワ人の血も入っている。
父親は遊んで暮らしている。工場は息子にまかせ、家でブラブラし、ときどき、闘鶏の賭事に熱中し、また思い出したように、息子の仕事を手伝う。
母親は気の優しい働き者で、これまで工場がやってこれたのも、この母親の力が大きかったに違いない。人の面倒見もよく、貧しい親戚がよく頼ってきていた。
この家には娘が三人いて、長女はドイツに留学中、次女は国立アイルランガ大学の学生、三女は高校に通っていた。
わたしは特に次女のサリーさんに可愛がってもらった。
兄の使いで初めてサリーさんの家に行ったとき、「お使いご苦労さん。これお食べ」と言ってくれた、イチゴ型のキャンディーのおいしかったこと、今でも覚えている。それ以来、わたしはサリーさんが大好きだ。
サリーさんは子供の頃の病気のせいで、左足が少し細い。サリーさんが人一倍優しい心を持っているのは、この病気で苦労したからかなあ、といつも思う。
サリーさんからの短い手紙が届いたのは、ドーバーに戻って三ヶ月ほどになり、大分元気を取り戻した時だった。
この三ヶ月の間、わたしはほとんど寝て暮らしていた。医者にかかった訳ではないから、何の病気かよく分からない。母は、肝臓が悪いのだろう・・と言う。ただ体がだるく、何をしてもすぐ疲れてしまうのだ。
「親愛なるデウィ、体の具合はどう?わたしはヒョンな事から、ある日本人の家に下宿しています。この家では今、よいメイドを探しているので働きにこない? 日本人というと乱暴者、という印象があるけど、ここの夫婦は大丈夫。もし勤める気があるなら、至急わたしの家に来て。サンパイ・ジュンパ・ラギ。サリー」
「マーンマ、サリーさんの手紙どう思う?」
「そうだねー。わたしは止めておいた方がよいと思うよ。日本人は短気で怒るとすぐ殴るというし・・。それに昔、日本の軍隊が国道を行進するのを見たけど、気が荒そうで恐ろしかったよ」
「ヘー。すぐ殴るの? でもサリーさんが一緒に住むし、乱暴はしないと書いてあるよ」
「あー、サリーさんが住んでいるなら、心配はないねー。でもね、デウィ、お前はもうそろそろ結婚も考えないとね。お前を欲しいと言っている人がいるんだよ」
「えー、ほんと? でも、わたしはまだ、そんな気になれない。男は恐いわ」
「でもね、デウィ、女は男に可愛がってもらうのが一番幸せなんだよ」
「嫌だマーンマ・・・わたし、結婚なんてまだしたくない。外国人の家でも働いてみたい」
「そうかい? じゃーしようがないね。でも嫌になったらすぐ戻ってくるんだよ」
「そうする、マーンマ」
わたしはもっともっと自分を試してみたかった。そして人に騙されない強い人間になりたかった。それには、母のところに居ては駄目なのだ。
三週間ほどたって、体調が良いことを確認してドーバーを出た。今度で六度目のお勤めであり、わたしは一七歳になっていた。妹や弟が別れを惜しんで村はずれまで送ってくれた。この妹や弟のためにも、わたしは強くならなければ・・・。
サリーさんの家は、オランダ人街のはずれにあった。隣はキリスト教会だ。この辺りは大通りの横道で、朝早くから市場が立つ。昼前に市場は終わるが、その後も人通りは絶えない。
サリーさんの家は通りに面した所で流し台などの製品を売っている。家族が住んでいるのは、ずーと奥のほうだ。
サリーさん一家はお金持ちのはずなのに、とてもそうとは見えない。家は大きいけど庭がない。立派な家具も置いてない。白壁の建物は石造りだけど相当古い。ただ居間の白いピアノだけが、お金持ちの家にふさわしい。
サリーさんは不在だった。
「アミーおばさん、サリー姉さんはいつ頃帰ってきますか?」
「金曜日には帰ってくるよ。それまで家に居なさい。日本人の家には電話がまだなくてねー。連絡がとれないんだよ」
アミーおばさんもこの家の一員だ。もう四〇歳を越えているが独身で、会社勤めをしている。その給料の一部で貧しい親戚の男の子を一人預かり、高校に行かせている。
「デウィ、お母さんは今度のお勤めに賛成してくれたかい?」
「反対でした。でも、サリーさんが一緒に住むというんで安心したようです」
「そうだろうね。先日メイドのなり手が二人ほどあったのよ。でも勤めが日本人の家と分かるとね、その足で帰ってしまったよ。日本人はすぐ殴るから嫌いだと言ってね・・・」
「今、誰かメイドが居るんですか?」
「ウン、一人居るそうよ」
夕方になったら家族がみんな帰ってきた。夕食は家族が食べ終わってから、この家にもう二〇年住み込んでいるメイドと一緒に食べた。夜もこのおばさんの部屋で寝た。
サリーさんは土曜日に帰ってきた。
「デウィ、待ってたのよ。明日行くけどいいわね?」
「はい」
日曜日の朝、サリーさんが教会から戻ってから、いよいよ日本人の家に向かった。
サリーさんのお兄さん、つまり工場主がトラックを運転し、連れて行ってくれた。
街の中心から車が東に行くと、やがてずっと昔にオランダ人が築いたという橋があり、その下を鉄道が走っている。橋を渡ると左手にオランダ風の白い建物が目に入る。国立アイルランガ大学医学部の建物だ。道路の右手には、やはり白い大きな大学病院があった。サリーさんの通っている法学部も、この近くにあるそうだ。道の両側にはワルン(屋台)がひしめきあっており、賑わっている。
日本人の家はここからまだだいぶあった。五分ほど走って住宅地の入り口を右に入っていくと、左側は野原で右側に高級住宅が並んでいる。道の途中から左側にも家が並んでいたが、その最初の茶色い壁の家が目指す家だった。二階建ての大きな家だ。
車を降りるとサリーさんはどんどん家の中に入っていく。工場主の後ろについて家の中に入っていくと、サリーさんはキャキャと笑いながら日本人の奥様と話している。ご主人様はテニスに出かけているらしい。
「ギラ(キチガイ)もいいとこね。こんなに暑いのにテニスするなんて。ところでヨシエ、新しいメイド連れてきたわよ。デウィというの。デウィ、奥様よ」
「スラマット・パギ・ニョニャ」
「スラマット・パギ・デウィ」
奥様はチラッと不安そうな目でわたしを見た。
サリーさんと話している奥様の顔は、笑顔が柔らかいので少し安心した。
メイド部屋はガレージの脇、台所の隣にあった。小さな部屋にベッドが二つ並んでいる。部屋の壁はクリーム色で明るい。
先輩のメイド、エニーは、サリーさん、工場主にお茶を入れてメイド部屋に戻ってきた。笑うとエクボの可愛い、人なつっこい子だ。会ってからずーと上機嫌でニコニコしている。着ている服も上等で顔立ちもメイドらしくない。読み書きもできるようだし、一見お嬢様風だ。
「エニー、わたしは何をしたらいいの?」
「じゃ、洗濯やってくれる? 掃除は二人でやればいいし・・・料理はわたしがやれるし・・。あっそうそう、犬の面倒見てくれる? まだ子犬なんだけど、わたし恐ろしくて・・」
「えーいいわ。犬の名前は何ていうの?」
「名前は日本語で、クロっていうの。ヒタム(黒い)という意味だって。すごく気が強くていたずらなの。気をつけないと咬まれるよ」
「今どこにいるの?」
「今頃はいつも表のベランダで昼寝しているわ」
わたしは動物が大好きだ。ネコでも犬でもすぐ仲良くなってしまう。
この日の午後はずーとエニーのあとに付いて歩き、二階の物干場に上がったり、隣の家のメイドに会ったり、犬の世話をした。
夕方テイアナさんが友達の女子大生を二人連れてきた。テイアナさんもサリーさんと一緒に下宿している。色が白くて利口そうな目をしたテイアナさんは、やはり中国系のようだ。
客間の方からは笑い声が絶えない。わたしの事も話題になっている。そしていつの間にやら、ご主人様も帰宅していた。
その夜、エニーの身の上話を聞いた。お兄さんは、スラバヤ近郊に小さな飲食店を開いているという。
一〇時になって寝ることになったが、なかなか寝付かれなかった。この家の事、奥様の事、チラッと見かけた気難しそうなご主人様の事、そして外国人の家に居るんだ・・・という不安で、胸が一杯だった。
夜の特訓
翌朝は四時半に起き、マンディ(水浴)を済ませ、洗濯を始めた。外はまだ暗く涼しい。エニーは台所に立って朝食を作っている。五時になったら目覚まし時計が鳴り、サリーさんとテイアナさんが起きて来て、寝ぼけまなこをこすりこすり、マンディルームに入っていった。二人は朝食をさっさと済ませ、六時にはアイルランガ大学に出かけていく。
六時一五分になったらご主人様と奥様が起きてきた。マンディはせず、顔だけ洗うと食卓についた。朝食はサリーさんと同じインドネシア料理だ。
七時近くになると運転手がやって来て、車をガレージの外に出す。ご主人様が出発したのは七時を過ぎてからだ。
今朝はしっかりとご主人様の観察をした。サングラスに立派な口ヒゲがよく似合い、背も高い。
わたしは洗濯物を干し終わり、客間の床掃除を始めた。客間には奥様がいた。マホガニーの事務デスクの上に本を広げ、書き物をしている。
わたしは掃除をしながら、チラッと本を見てみた。インドネシア語と外国語で書かれた本だ。
「デウィ、インドネシア語は難しいわね、頭がいたいわ」
「・・・・」
一瞬、耳を疑った。奥様のインドネシア語にはなまりが無く、自然だった。
「奥様はお上手ですよ。わたしと変わりません」
「あら、とんでもない。まだ分からない言葉がたくさんあるのよ。単語は覚えてもすぐ忘れてしまうし・・・」
「奥様はスラバヤに何年お住みですか?」
「あら、わたしは今年の五月に日本から来たばかりよ。だから今月で三ヶ月ね」
「えー、本当ですか? そんな・・・信じられません」
わたしは奥様の顔をもう一度見直した。丸顔でごく普通の人に見える。ジャワの影絵の物語の中に、ロロ・イルンという聡明な女性が出てくる。でも奥様とはイメージが合わない。
「奥様はこちらに来る前からインドネシア語習っていらしたんですね?」
「いいえ、五月に来た時は一言もしゃべれなかったのよ。だから毎日この本を片手に会話してたのよ。あの頃は大変だったわ。メイドに用事を頼みたくても、何と言っていいのか分からないし、だいたいお風呂に入るのがマンディだという事も知らなくて・・・」
「本当ですか?」
奥様はニコニコと無邪気そうだ。うそをついているとも思えない。わたしは客間の掃除を終えて台所に戻り、エニーに聞いてみた。
「ねー、エニー、奥様は本当にインドネシアに来て三ヶ月しかたってないの? うそでしょ?三ヶ月であんなにしゃべれるわけないじゃない」
「でも本当みたいよ。五月に来た頃は一言もしゃべれなかったって、隣のリーが言ってたもの。でもね、秘密があるの。今晩になれば分かるわよ」
昼になった。
「エニー、デウィ、ちょっと来て!」
「ハーイ」
「肉ダンゴのスープ、三皿買ってきて」
「ハーイ」
二人で慌てて台所に戻り、スープ皿を三つかかえ、道路に飛び出した。
「スープ屋さーん!」
屋台のスープ屋さんは笛をピーと鳴らし、去って行くところだった。
熱いスープを両手に持って客間に戻った。
「一皿だけ置いていって、あとはあなたたちのよ」
「テレマカシバニャック(ありがとうございます)」
二人でお皿を台所に運び、そこで食べた。わたしは奥様のやることが信じられなかった。給料から差っ引かれるのかしら?
「エニー、これはどういうこと?」
「何が?」
「だって、お金はどうするの?」
「いいのよ。これは奥様がおごってくれたんだから」
「エー!」
「よくあることなのよ。お留守番してると、必ずお土産買ってきてくれるし、流しの屋台から買う時は、いつもわたしの分も買ってくれるわ」
「ほんと・・・?」
この家はどうなっているんだろう。こんな家主とメイドの関係なんて聞いた事がない。
午後、昼寝をしていたら、サリーさんテイアナさんが帰宅した。二人は奥様と一緒に客間の赤いソファに座り、何か熱心に話している。
わたしは冷たい紅茶を入れて、三人のところに持って行き、そのまま大理石の床に座り、話しを聞いた。
「ヨシエ、わたしたちの同級生が行方不明なのよ。駆け落ちしたみたい。親が心配して家に電話をかけてきたの。なんでもわたしの家に来ると言って家を出たままなんですって。ねーヨシエ、どうしよう?もしもこの家に来たらかくまってくれる?」
「もちろんよ。でもなんでまた駆け落ちなんて・・・」
「そりゃー、もちろん親が結婚ゆるさないからよ。女の子はアスリ(純粋の中国人)だし、男の子はジャワ人なの。そのうえ、女の子は大金持ちのお嬢さん。男の子はその家のドライバーなの」
「エー、二人が恋に落ちたの?」
「イヤ、初めは男の子が惚れて、親の所に行って“お嬢さんと結婚させてくれ。駄目だと言うなら、皆殺しにして俺も死ぬ!”と、ナイフを片手に迫ったの」
「すごいわね・・・」
「親は“本人の考えも聞かなくては・・・”とか言って、その場を巧く逃げ、女の子、ロミーというんだけど、を親戚の家に隠したの。ところが、ロミーがロマンチストなのね。話しを聞いて感激しちゃって、その男の子を連れて結婚させてくれと親に頼みにいったの」
「それで駄目と言われて駆け落ちしたわけね」
「そういうこと」
夢中で話を聞いていたら、いつの間にか夕方になった。
「スラマット・ツオーレ(こんにちわ)」
ご主人様のお帰りだ。
わたしは慌てて台所に戻り、エニーを助けて夕食の準備を始めた。
今夜の料理はダギン・バリ(バリ風牛肉煮)にソト・アヤム(トリスープ)そしてイカン・アシン(塩魚)とテンペイ(揚げ納豆)だ。わたしの好物ばかしで後が楽しみだ。
ダイニングルームには八人が楽に座れるテーブルがあり、天井にはシャンデリアが輝いている。
「ジロー、アパカ・スカ・マサカン・インドネシア?(インドネシアの料理は好き?)」
「スカ、スカ」
ご主人は何か奥様に尋ねている。
「ブトュールよ」
「サヤ・スカ・ブトュール(もちろん好きだよ)」
「タタピ・ジロー・ティダ・マカン・バニャック・バゲマナ?(それにしちゃー、あんまり食べないじゃない。どうして?)」とサリーさん。
「サヤ・スカラン・オン・ダイエット(今減量中でね)」
「バゲマナ! ジロー・スダ・トラル・ランピング(ジローはすでに痩せすぎじゃない!)」
「ブトュール・ムンキン・ティダ・スカ・マサカン・インドネシア(ほんとね。多分インドネシア料理嫌いなのよ)」とティアナさん。
ご主人様は困った様な顔をして、奥様に何か頼み込んでいる。
「ジロー・ティダ・マカン・バニャック・カロウ・イトュ・マサカン・ジパング(ジローは日本料理でもあまり食べないほうなのよ)」
「サヤ・イステリ・テレマカシ(私は妻。ありがとう)」
わたしもエニーも吹き出した。サリーさんテイアナさんも、笑いすぎて椅子から落ちそうだ。ご主人様はキョトンとしている。
「アダ・アパ?(どうしたの)」
「ジロー・イステリ・ヤ?(ジローは妻なの)」
「ノー、ノー」
「ジロー・ハルス・ビチャラ・イステリ・アク・ブカン・サヤ・イステリ(ジローは、わたしは妻、じゃなくて、わたしの妻と言わなきゃ駄目よ)」
「アイ・シー(なるほど)」
楽しい夕食を終えて四人は客間に戻った。わたしは大好物のダギン・バリを大皿に二杯も食べて満足した。台所で食器洗いをしていたら、客間が賑やかだ。
「ねー、エニー、客間では何が始まったの?」
「見て来たらいいじゃん」
「でも客間に入ったら叱られるでしょ? ご主人様も居るようだし・・・」
「大丈夫よ。わたしいつも客間でテレビ見てるもの」
「エッ! ほんと? 客間に入っていいの? ご主人や奥様もいるんでしょ」
「そうよ。でもテレビを見るのはティアナさんだけ。他の人は嫌いなんですって」
「ふーん。じゃーあとで連れてって」
「うん。八時になったらアメリカ映画があるし、テレビ見ようか」
八時になった。わたしは恐る恐るエニーの後について居間に入った。
四人はソファセットのテーブルを囲み、床に座っていた。テーブルの上には本やらノートが置いてある。よく見たら、本は小学校の国語の教科書だ。その本ならわたしも家に持っている。
エニーとわたしは、四人から二メートルほど離れて床に座った。テレビの音を小さくして、アメリカの映画を観た。
ご主人様は教科書を広げ、声をあげて読み始めた。ときどき突っかえては、サリーさんに助けてもらっている。次は奥様の番だ。スラスラと上手だ。
「ジロー、今度は書き取りのテストよ。ちゃんと宿題はやってあるでしょうね」
サリーさんの口調は、えらく厳しい。
「まあね。どうやらなんとかね」
ご主人様は首をすくめて、フーとため息をついた。
「今日は忙しかったの? でも昨夜、暗記してたじゃない。今日は大丈夫よ」と、奥様。
そしてサリーさんが二言、三言、英語をしゃべると、二人はノートに長い文章を書いている。
「ウーン」「ウーン」とうなり、ぶつぶつ独り言を言いながら書いているのはご主人様。奥様の方はとっくに書き終わり、ご主人様を心配そうに見ている。
「ジロー! 書けた? じゃー次はヒズ・ドッグ・イートよ。あとは全部言わなくても書けるでしょ。はい。次は・・・」
サリーさんはどんどん続けていく。
わたしはいつの間にか、すっかりテレビのことを忘れてしまい、四人の方に神経を集中させていた。
「ヨシエ、ノートを見せて。うーん、このスペリングが違うわねー。最後にGがつくのよ。でも他はいいわね。よくできてるわ。ジローのは・・・、と・・・。ここも違う、ここも違う。間違いだらけねー。この単語はなによ。“お祈り”はスンバハヤンよ。ジュンバタン(橋)と書いているじゃない。はいここにスンバハヤンと書いてみて、ちゃんと書ける?」
ご主人様は小さくなっている。立派な口髭までちぢんでしまったようだ。わたしはかわいそうで、助けたくなってジリジリした。でもジーとがまんした
次は歌の練習だった。インドネシアは七千の島で形成されており、端から端まで五千キロある広大な国、という歌だ。
「テレビより、こっちの方が面白いわね」
エニーもいつの間にかテレビそっちのけで四人の歌を聞いている。二人とも思わず歌を口ずさんだ。奥様がエクボを見せて、もっと大きな声で一緒に歌え、と合図している。とうとうわたしもエニーも四人の輪の中に入って、一緒に歌ってしまった。
一〇時になってご夫妻は寝室に入り、サリーさんも部屋に戻り勉強を始めた。ティアナさんとわたしたちは一一時過ぎまでテレビを見た。
今日は楽しい一日だった。でも思ってもいなかった事ばかりだった。家主と一緒に歌を歌うなんて信じられなかった。ヒゲのご主人様は恐ろしい感じがするが、でもだいぶ不安は解消された。ここは、やはり外国人の家だなーと思う。
夜、寝る前にお祈りを済ませ、そして母に報告をした。<安心してください>と言うわたしのつぶやきは、母に届いただろうか?
奥様の冒険
奥様とサリーさんたちの午後の雑談は毎日のように続いた。
わたしはお茶やお菓子を持っていって、そのまま床に座ってみんなの話を聞くのが好きだ。こうしていると、時間は“あっ”という間に過ぎてしまう。
この午後の雑談を通じて、わたしは、奥様やご主人様がこの数ヶ月、どうやって暮らしてきたかを、詳しく知ることができた。
五月からスラバヤに住み始めた奥様は、毎日のように街を自転車で走ったという。
ご主人様の会社のスラバヤ支店やテュンジュガン通り、それに魚でも野菜でも何でも売っている大市場パサール・グンテンにまで、一人で行ったそうだ。
距離もそうとうあるし、一年中暑いスラバヤでカンカン照りの下を走ったら、さぞ暑かったことだろう。そういえば奥様の顔は白いのに、手足は真っ黒に日焼けしていて、わたしとかわらない。
だいたいわたしの国では、お金持ちのご婦人や子供は決して自転車で走ったりなんかしない。自転車は貧乏人とメイドの乗り物だ。ちょっとお金のある人なら、オートバイに乗っている。お金持ちも自転車くらい持っているが、それはあくまでも痩せるための運動用だ。
奥様が自転車に乗ってどこまでも行くのには、サリーさんやティアナさんも呆れていて「止めた方がいいんじゃない?」「危険よ」と忠告したそうである。
だが、奥様は妊娠して乗れなくなるまで、毎日のように乗り廻っていたという。
「全然、嫌な目に会いませんでしたか?」
わたしも奥様に聞いてみた。
「別に会わなかったわよ。ただ時々、ベチャの運転手やオートバイに乗った学生たちが声を掛けてきて、何かからかわれているような気がしたけど。でも何を言っているか判らないし、平気だったわ。でも広い道路を横切る時は命がけね。何度も衝突しかかったし・・・」
サリーさんが言うには「そりゃ、声も掛かるわよ。ヨシエはどう見たってメイドには見えないし、それに一方通行の道に入ったり、自転車が入ってはいけないテュンジュガン大通りを平気な顔して走っているんだものね」とのことだ。
この冒険好きの奥様も、ベチャに乗ったときは恐ろしい目にあったという。
奥様は妊娠がはっきりしてから自転車に乗るのを止めた。そのかわりベチャとヘリチャを使って出かけるようになった。
ヘリチャというのは三輪自動車のタクシーだ。音はうるさいけどスピードは速いし、値段もベチャと変わらない。
ベチャは自転車の前部が座席になっており、大人二人がゆうゆうと座れる。運転手は後部のサドルに座ってペダルを踏む。夕方や夜に乗ると風が冷たく心地良い。昼間は暑いが、座席の上に日よけが付くし、風があるのでまあ我慢できる。
この高級住宅地の入り口には、いつも一〇台ぐらいのベチャが待機している。奥様はここでベチャを拾い買い物に行く。買い物する場所に着いたらベチャを待たせておき、帰る時も同じベチャに乗る。
ある時、奥様はベチャを帰らせてしまい、流しのベチャを拾って帰ろうとした。ベチャに乗る時は、まず料金の交渉をしなければならない。
「ダルマウサダ・スラタンまで五百ルピアでどう?」
ベチャの運転手は無言でうなずいた。インド人の様に色の黒いマドラ人で、背が高く、筋骨たくましかった。
ベチャは走り出した。だが途中で狭い路地に入って行き、クネクネと曲がる道を走り、やがて奥様が見たこともない大通りに出た。そしてまた狭い路地に入っていく。完全に方向が違っていた。
陽も落ちてあたりは薄暗くなり、奥様は急に恐怖を覚えたという。
「方向が違うわよ! 止めてちょうだい!」
奥様は叫んだが、ベチャはさらにスピードを上げて走っていく。
曲がり角でベチャのスピードが落ちた。奥様はベチャから飛び降りた。ベチャの運転手はヒョウのような素早さでサドルから飛び降り、奥様の手首をつかむ。薄暗くて、色の黒い運転手の表情は読めない。ただ、目だけが青く光っている。そして無言で“ベチャに乗れ”と手を引っ張る。
さいわいこの路地には結構人通りがあった。奥様は勇気を振り絞り
「あなたはいくら欲しいの? ダルマウサダまで行きなさい。そしたら欲しいだけあげるから・・・」
と言った。男はニイッと白い歯を見せた。
「千五百ルピア」
奥様は黙ってまたベチャに乗った。ベチャは路地を抜け大通りを走り、やがて奥様の知っている道に出た。高級住宅地の入り口で、奥様は千五百ルピアという、通常の三倍の料金を払い、家に戻った。
それ以来、冒険好きの奥様も少し注意深くなったそうだ。八月中旬の今では奥様専用のようなベチャの運転手もいるし、それに“ベモ”という乗り合いミニバスを利用している。
サリーさんティアナさんによると、スラバヤに住む外国人の奥様方は、みんな乗用車で買い物に行くそうだ。そして行く所も異臭の立ちこめる市場ではなくて、外国人向けのスーパーマーケットだそうだ。
それから考えると、うちの奥様は“変人”だ。もっともそのかわり、この近辺の屋台や駄菓子屋での奥様の評判は良い。気楽に店に入って話しこみ、バナナの油揚げやら、氷フルーツやら、ミゴレン(焼きそば)などを食べていくからだ。
八月の終わり頃だった。奥様はわたしを連れてパサール・グンテンに行った。二人でベチャに乗るのは初めてだ。
ダルマウサダ通りを過ぎて右に曲がると、やがてスラバヤ市庁の前に出る。そこには大きな銅像がそびえ立っている。インドネシア独立の英雄、スディルマン将軍の像だ。
「奥様、言葉が通じなくてどうやって買い物してたんですか?」
「例のごとく、本を片手に持ってカタコトで話したのよ。みんな親切でね。ずいぶんおまけしてくれたわ。でも最近は駄目ね。言葉が通じるようになったら、かえって交渉が難しくなったみたい」
「そうですか」
話しているうちに右手に三階建ての建物が見えてきた。ここの一階がパサール(市場)になっている。
奥様はここに三ヶ月も通っているし、慣れたものだ。何処に何があるかよく知っていて、サッサと歩いて行く。わたしも買い物カゴをさげて付いて行くが、ここにくるのは今日で二度目。
市場の通路は狭く、濁った臭いが立ち込め、野菜の切れ端、魚の頭が転がっている。奥様は野菜、果物と買っていく。わたしは後ろで見ていてイライラしてきた。
「奥様、あと何を買うんですか? よかったらわたしに買わせてください」
「あらそう? じゃあー、あそこでニワトリを二羽買ってくれる?」
わたしは奥様から離れて、よく太ったニワトリを買い、奥様に渡した。
「あら、安く買えたわね。やっぱりわたしはまだ下手なのね」
「奥様は多分金持ちの中国人だと思われているのです。奥様はもっと喧嘩して交渉しないと・・・。粘りもしないし・・・。わたしみたいに一目でメイドと分かれば、売る方もあんまりふっかけてきませんけど・・・。後ろで聞いていて腹が立ってしまって・・・」
買い物を終えて、ベチャに食料を山ほど積み込み、カンカン照りの中、家のそばについた。
「暑いわねー。エス・チャンポールでも食べましょうか」
奥様はベチャをある屋台の前で止めた。
「ここはわたしの行きつけの店なのよ」
なるほど、屋台の後ろにいた落ち着いた感じの女性が、ベチャの所に来て奥様に挨拶している。ここのエス・チャンポール(氷あづき)はおいしかった。
こんなことがあってから、時々奥様はわたしを市場に連れていってくれる。
奥様の冒険好きな証拠はもう一つある。奥様はこのスラバヤに着いて間もない頃、街中をオートバイで走り廻ったのだ。まだ言葉もできないというのに!
ある日奥様は、アイルランガ国立大学の見物にでかけた。校内をブラブラ歩いていたら学生たちがもの珍しそうに集まってきたそうだ。
「実は、下宿希望の女子大生を探したいの。どこかに掲示板でもないかしら・・・」
奥様は例の本を片手に聞いた。
「それじゃ。大学の事務局に相談するといいよ」
「きっと大学の方で探してくれるよ」
「男じゃだめなの?」
学生たちは色々考えてくれた。結局、男の学生たちが奥様をオートバイの後部座席に乗せ、大学事務局に行く事になった。なんと一〇台のオートバイが一緒に事務局まで行ったそうだ。
事務局での仕事が終わったら
「街を案内してあげるよ!」
ということになり、一〇台が音をブンブンけたたましく発し、街中あちこち走ったという。
奥様はお礼に、異臭のプンプンする河っぷちの汚い屋台で、ガドガド(野菜サラダ)をご馳走して、すっかりみんなに気に入られたらしい。
「いつでも、何処でも乗せていくよ」
「女子学生はボクらで見つけるから心配すんなよ」
「インドネシア語だって教えてあげるよ!」
などど、大変親切だったそうだ。
この男の子たちは二週間の間、毎日のように家に遊びに来ていたが、サリーさんとティアナさんがこの家に下宿することに決まったら、ピタッと姿を見せなくなってしまった。
理由は、この男の子たちはジャワ人系で、サリーさんティアナさんは中国人系だったからだ。
当時、奥様はジャワ人系と中国人系の微妙な関係について知らなかったので、両方を友達にしようと一生懸命骨折ってみたが巧くいかなかった。
男の学生たち達は、奥様が中国人系の学生を下宿させたので、怒っているようだったという。
奥様いじめ
わたしは、この家で五人目のメイドだそうだ。最初のメイドは二週間という約束で、何処からか借りて来たという。そして、その後すぐに雇ったのが、ムチナというメイドだった。
ムチナは痩せていて背が高く、髪の毛を長く伸ばしていた。顔はキツネのように細く、鼻も口もそっくり返っていたそうだ。
料理が上手だったので、奥様は有りがたかったそうだけど、それ以外はどうにも手のつけられないメイドだったという。
ある時、台所が異様な臭いに包まれていた。奥様が調べてみたら、ガス台の下の戸棚の中に、余った肉、野菜などが捨ててあって腐っていた。
「掃除しなさい!」
奥様はムチナに強く言った。
「フン」
ムチナはそっぽを向いて何もしない。しかたなく、奥様は自分で掃除したそうだ。
またある時、下水道が詰まってしまった。下水道屋さんを呼んで調べたら、下水管にムチナの長い黒髪が一杯詰まっていたという。
「隣の家の奥さんはメイドにやさしくて、よく金の鎖や指輪をあげてますけど、奥様はわたしには何もくれないんですか?」
ムチナはにこやかに奥様に聞いた。
「あら本当? じゃー、隣の奥さんに何をメイドにあげたかのか聞いてから考えるわ」
「いまのところはまだいいんですけど・・・」
ムチナは慌てて、逃げるようにメイド部屋に戻ったそうだ。
サリーさんやティアナさんが下宿するようになってからも、大変だったという。
「わたしは奥様とご主人さまに雇われているんです。サリーやティアナからは一銭も貰っていませんから、二人の部屋の掃除はしません」
給料を上げてくれるなら掃除しましょう、というのだ。サリーさんティアナさんはしかたなく、ムチナが辞めてエリーが入るまで、ずーと自分たちで部屋の掃除をし、ベッドメーキングをしていた。
やがてムチナは里帰りしたいと言いだした。勤め始めてまだ二週間である。普通、メイドは年に一回しか里帰りができない。ただ今回ムチナは、田舎の村からもう一人メイドを連れてくると言う。それで奥様も許可した。
ムチナの連れてきたのは、エンダンという色の黒い、一三歳の女の子。エンダンは素直で正直で一生懸命働いた。奥様もこの子が気に入って可愛がっていた。ところがこのエンダンを、ムチナは事あるごとにいじめるのだった。
ある朝、奥様がエンダンに服を買って与えた。なにしろエンダンは持っている服が少なく、ボロばかりだっのだ。サリーさん、ティアナさんも、子供の頃のお古を持ってきてエンダンにあげた。
エンダンは生まれて初めてこんなに美しい服をもらった、と言って大喜びだった。ところが数日たったらエンダンが泣いている。
「どうしたのエンダン?」
「服がなくなったんです」
「どうして?ドロボーでも入ったの?」
「いいえ、ムチナが外に持っていって焼いてしまったんです」
「え! そんなひどい」
奥様はムチナを呼んで問いただした。
「ムチナ、エンダンの服を返しなさい! 何処へやったの?」
「あの子が生意気だから焼きましたよ」
「ウソでしょ! あの服はサリーやティアナがエンダンにプレゼントしたのよ! あなたが勝手に焼く権利は無いのよ。それに何処で焼いたの? この辺に焼くような場所はないでしょ!」
ムチナはキツネのような口をとんがらかした。
「あの服はもう売り飛ばしましたよ。だいたいあんな子に、立派な服なんていらないのよ。わたしにいつもたて突いて生意気だし」
これには奥様もあきれ果てて、言うべき言葉が見つからなかったそうだ。
「ヨシエ、今メイドを探しているからもう少し待ってね」
サリーさんもティアナさんもこの件に関しては別に怒らず、ただそう言って奥様を慰めたという。
七月上旬に、ご主人様の上司にあたるご夫妻がスラバヤに来られた。そこで夕食会をすることになった。
夕食会の二日前になった。
「昨夜、母が死ぬ夢を見たんです。たぶん村で何かあったんです。すぐ帰らせてください」
突然、ムチナはそう言い出した。
「あら、あなたに腕をふるってもらって夕食会しようと思っていたのに、」
「でも、どうしても家に帰らないと母が心配です。何かあったに違いありません」
ムチナはオイオイ泣いて頼んでくる。奥様はサリーさんと相談したが、ムチナがあれほど信じ込んでいるなら、許可する他ない、という結論に達した。
結局、夕食会の料理は二日がかりで、サリーさんとティアナさん、それにエンダンと奥様の四人が力を合わせて作った。サリーさんは当日の午前中、大学の授業を欠席して料理作りをした。
三日ほどしてムチナが帰ってきた。
「母は無事でした」
それだけだった。
だが、それからしばらくして、ムチナがエンダンや近所のメイドにした話では、ムチナは村に帰らず、スラバヤの友達の所で遊んでいたという。料理はもちろん、忙しいのが嫌いだったからだ。
ムチナは二〇歳でエンダンは一三歳だというのに、この二人はよく喧嘩した。ムチナがエンダンを殴り、髪の毛をつかんで引っ張り廻すと、エンダンも負けずにムチナの腕を咬んだり、足で蹴ったりしてひと暴れする。
奥様はこの二人の喧嘩が大嫌いで、いつもやめなさいと、注意していた。
とくに七月の一ヶ月間は回教のラマダンにあたり、断食を行い、悪い言葉すら口にしてはいけない時だった。だがムチナは断食をしないだけでなく、エンダンと喧嘩ばかりしている。エンダンの方は幼いながらに断食をしており、喧嘩もなるべく避けるようにしていた。
このラマダンが終わると回教の新年となり、メイドは年に一度の休暇が貰え、里帰りができる。
この時には家主から服も貰えるし、家によっては一ヶ月分のボーナスを渡したりする。だから新年を前にして仕事を辞めるメイドは少ないし、この時期に新しくメイドを雇うのも難しい。仕事を探しているメイドも、早々と田舎に帰ってしまうからだ。
ラマダン明けの休暇が始まる三日前の事だった。この日もまた、二人は大喧嘩をしたという。何でもエンダンがアイロンをかけていて、ムチナの服にコゲを作ってしまったらしい。
奥様は二人の喧嘩に本当に我慢ができなくなっていた。
「二人とも喧嘩は止めなさい! うちで働く気があるなら二度と喧嘩をしないでちょうだい! ムチナは大人なのに、こんな子供と喧嘩して恥ずかしいと思わないの? ともかく今度喧嘩したら、二人ともこの家から出ていきなさい!」
二人は奥様のけんまくに驚いて、スゴスゴそれぞれの仕事に戻ったそうだ。
翌朝のことである。
ムチナは客間の床にひざまづいていた。
「わたし辞めたいと思います。今すぐお暇をください」
エンダンも隣で下を向いて座っている。朝の六時半で、ご主人様も出勤前だ。奥様もご主人様も突然のことで、あっけにとられていた。
「辞めていいですね」
ムチナはいじわるそうに聞く・
「今辞めてもらったら困るわ。お正月休みが終わるまで待ちなさい」
最初の予定では、ムチナもエンダンもお正月休み中働くことになっていた。二人とも働き始めてから日が浅いし、ムチナはもう二度も休暇を貰っていたからだ。
ムチナは小鼻にシワを寄らせて言う。
「でも奥様は昨日、この家から出ていけと言ったじゃないですか。本当に居てもいいんですか?」
「喧嘩をしたら出ていって貰うわ」
「じゃ、今辞めます」
奥様はご主人様に「どうしよう」と聞いたそうだ。
「どうしようもないね。辞めたけりゃ、辞めさせればいいよ。だいたい気に入ってなかったんだし・・・」
「でも、今辞められたらお正月が終わるまでどうするの? 洗濯も掃除も困るわ」
この頃、奥様は妊娠三ヶ月の身重で、気分の優れない日も多く、吐いたり、貧血を起こしていた。
「まあ、かわりのメイドはボクがなんとかするよ。でもエンダンだけでも残らないかな?」
とご主人様。
奥様もとうとう諦めた。
「ムチナ、あなたは辞めてもいいわ。でもエンダンは辞める気ないんでしょ? 残ってね」
ムチナは冷たい薄笑いを浮かべて客間を出ていった。昨夜の内に荷物はまとめてあったらしく、すぐ出て行く様子だ。
エンダンは泣いていた。しばらく客間の床に正座して座っていたが、「わたしも辞めます」
と言って、ムチナの後を追った。
エンダンはまだ一人では田舎にも帰れなかったし、ましてこのスラバヤでは、右も左も分からなかったのだ。
ムチナはそれから二~三時間、近所のメイドたちと、キャキャと笑い、雑談にふけっていた。
やがて話のつきたムチナは、肩を落として沈み込んでいるエンダンを引っ張って去って行った。
奥様は大きな家に一人ぽっちで残された。
「これからどうしよう・・・」とガックリ肩を落とし考え込んでしまったそうだ。ご主人様はとっくに仕事に行ってしまっている。
昼にサリーさんが大学から戻り、すべてを知った。
「困ったわね。今はメイドを見つけるのが一番難しいし、もう少したつといいメイドが世話できるんだけどね」
「やっぱり、わたしが全部やる他無いわね」
「それはダメよ。流産しちゃうわよ。それより何とかメイドを探さないとね。今日、家に帰って母やオバと相談してみるわ」
「でも、もうメイドなんていらないわ。きっと、居ない方が楽よ」
「何言ってるのよヨシエ、無理しちゃ駄目よ。いいメイドを探せば、それで済むことじゃない!」
そこへ突然、ご主人様の車がガレージの中に入ってきた。
サリーさんも奥様も考え込んでおり、客間のソファに沈み込んだままだった。
ご主人様が客間に現れた。メイドを一人連れていた。それがエニーである。
「この子良さそうだろ、ヨシエ」と、得意気に奥様に会わせたそうだ。
「ジロー、いったいどこでこの子を見つけてきたの? メイド紹介所にはメイドなんてもう居なかったでしょ?」
「もちろん居なかったよ。一〇軒ほど紹介所を訪ねたけど、全然いなくてね。ところが最後に行った紹介所が郊外まで行けばいいメイドが一人居るし、居場所もわかると言うのさ。それでちょっと車を飛ばして行ってきたわけ。この子がエニー、隣が兄貴、その隣が紹介所のダンナ」
「でもよく見つかったわね」
「そりゃ、僕にまかせときゃ、不可能は無いよ」
奥様はこれから少なくとも一〇日間、自分一人でつわりの体で、すべてをしなければ、と思いつめていた。
だからご主人様の得意そうなセリフを聞いても、笑う気にはなれなかったそうだ。
黒い口ヒゲをたくわえた人のよさそうな紹介所のダンナには五〇〇〇ルピア支払い、エニーの兄貴にはベチャ代を渡した。二人は安心して帰っていった。
エニーは料理もうまく、性格も温和で明るく、奥様のいいつけをよく守った。ムチナとは大違いで奥様もホッとしたという。
だけど奥様の心には深い傷が残っていて、悲しそうにしていたそうだ。それは、わたしが奥様と初めて会った時の“不安そうな目”にも現れていた。
それから二週間後、ムチナはまたこの家に来た。といっても、この家の中には入らず、近所のメイドに家の様子をいろいろ聞いていたという。
そして、ムチナの出て行ったその日に、すぐ別のメイドが来たと知って、気の抜けた顔をして帰ったそうだ。
サリーさんからその話を聞いたご主人様は
「ざまーみろ!」
と、大喜びしたという。
求む・女子大生
サリーさんティアナさんが、どういう事情でこの家に下宿しているのか、それが前から不思議でしょうがなかった。だがその疑問も、午後の雑談を聞いていて解かれた。
サリーさんたちは、奥様がスラバヤ・ポスト紙に出した、新聞求人広告を見て、それに応募したのだった。
「本当言うとね。ヨシエ、ここに下宿するまで大変だったんだから・・・。周りの人はみんな大反対したのよ」
「なんで・・・?」
「何しろ日本人というと、短気ですぐ人を殴るとか、“コラッ”と怒鳴るとか、そういうイメージしかないのよね。うちのコンコン(父親)にとっては、日本人イコール軍人なの。昔“キオツケ!”“バカヤロー!”なんて怒鳴られたんですって。だからすごく心配してね。最初は下宿なんて物好きな事はするな、て言ってたのよ」
「ホント。なんだ、日本人ってもっと評判がいいかと思ってた」
「まあ、特別憎まれてはいないけど・・・でも決して好かれてはいないわね」
「どうして・・・?」
「やっぱり戦争の時の軍隊のイメージが残っているのね。それに最近はエコノミック・アニマルでしょ。異様な人々、といった感じよ。ヨシエやジローがごく普通の人間なのでびっくりしたわ」
「ふーん」
「ところでヨシエ、まさかジローはスパイじゃないでしょうね?」
「え、何のこと?」
「ウン、コンコンの話では昔スラバヤに来た日本人の多くがスパイだったんですって」
「でも、ジローでは無理ね」
「そうね、さっぱり言葉は上達しないし、あれじゃ、スパイ失格ね」
「そうよ」
「ヨシエ、新聞広告には日本人の若い夫婦とあったでしょ。あれもわたしたち信用してなかったの。どうせ五〇歳過ぎのおじさんだろう、と思ってたし、あるいはいやらしい中年男で、女子大生をお妾さんにしようとしているんじゃないか、と思っていたのよ。家族も友達も、みんなそうに違いない、と言ってたし・・・」
「それはないわね・・・」
「でも、日本人はその方面では有名なのよ。うちの近所にも二号さんが住んでいるもの。秘書をしていた中国系の女性だけど、ボスの日本人とでき上がってしまって、そのボスが帰国するというんで大騒ぎしたのよ。結局、土地つきの家を買ってもらって、それで和解したらしいけど」
「本当の話?」
「もちろんよ。だから中国系の家では娘を日系の会社には勤めさせない事が多いのよ。欧米人と違って日本人は、単身で働きに来る人が多いんでしょ? そして本国に奥さんが居ても、すぐ現地妻を探すんですって。だから新聞広告もすぐには信用しなかったの」
「いやーねー、そんな風に思われるなんて。こっちは真面目にインドネシア語の先生を探していたのに」
「それでジローとヨシエの身元調査をしたの」
「エッ、どうやって?」
「簡単よ、リニーがすぐそこに住んでいるでしょ。だからリニーに頼んで近所の評判を聞いて、ジローの勤務先を調べ、そこに電話してみたの」
「本当! よくやるわねー」
「評判は悪くなかったわよ」
「ありがとう。でもね、こちらにも面白い話があるの。“アイルランガ大学の女子学生求む”とはっきり広告に書いてあったでしょ。ところが来た手紙二四通の半分が男からなの。ビックリしたわ。そしてアイルランガの女子学生からは四通だけ。その中でサリーとティアナだけが学生証のコピーを添付してきたの。気が利いてるじゃない。それで二人にすぐ来てもらったの」
「それはいいけどヨシエ、わたしたち三食メイド付きで、無料で泊まっているでしょ。これで本当にいいの?ティアナも心配しているの。インドネシア語教えてるといったって週二回だけだし・・・」
「いいのよもちろん。居てくれて大助かりなの、本当に。インドネシア語は上達したし、メイドの使い方もおそわったし、話相手はできたし、風俗習慣も解説してもらっているし、おかげで、大分、アット・ホームな気分になってきたわ。二人とも遠慮しないで、ずーと居てね!」
「それなら安心したわ。でもジローはどう?」
「ジローも同じよ。わたしのよいボディガードができたって、喜んでいるわ。それに日曜日には大手を振ってテニスに行けるでしょ。わたしを放っておいても、サリーたちが相手をしてくれるから、心おきなくプレーできるんですって」
「本当! じゃあ、夜の特訓、もっとビシビシやろうか。ジローが怠けないように絞らなきゃ」
「ところでサリー、明日連れてくるのはどんな人たち?」
「法学部の女の子二人と、高校生の子よ。高校行っている子は来年アイルランガに入学するんですって。それで、わたしたちの後に下宿したい希望があるようよ」
「それは分からないわね。来年の話は早いし、サリーたちにはずーと居て欲しいし・・・」
「それにしても、連日、友達連れてきてるけど、いいの。まだまだ遊びに来たい、と言っている子がたくさんいるの」
「もちろん大歓迎よ。お茶とお菓子を用意しとくから、いつでも連れてきて」
「そういえばヨシエ、女子学生を下宿させるというのは誰のアイディアなの? 急に思いついたの?」
「ううん、日本に居る時から決めていたのよ。偶然、二人とも同じことを考えていたのね。この家だってアイルランガ大学に近いでしょ。だから借りたのよ」
「ふーん、変わってるわね。もう一つ知りたいんだけど、インタビューの時、わたしたちでいいって、どうやって決めたの? 何か合格の基準でもあったの?」
「何もないわよ。ただの直感よ。でもあの時サリーったら、ジローに“どうすんの? わたしたちでいいの?”と、返答を迫ってたじゃない。会って五分ぐらいで恐ろしい顔して迫られて、ジローも“イエス”としか言えなかったんじゃない?」
「アハハ、そうか・・・あの時ジローったら無言で何を考えているか判らなかったから、ちょっと揺さぶってみたのよ」
「でもあとでジローが言っていたわよ、“二人とも良い人のようだけど、学生証の写真はまたえらく美人に写ってたな”だって」
「アハハ、ジローは実物を見てがっかりしたのね。あの写真の頃はまだ痩せてたからね」
サリーさんはいかにも勉強家らしく眼鏡をかけている。だけど素顔は美人だ。丸っこい眼鏡をはずすと、すごく上品な美しい顔をしている。
第二章
クロを殺したのは誰?
黒魔術で大火傷
今日は日曜日だというのに、朝早くからやかましい。近所に住んでいるカリム夫人とそのご主人が、電話を借りに来ているのだ。
カリム夫人は中年のちょっと太った麗人で、キラキラ光る黒いリスのような目が、浅黒い整った顔によく似合っている。
朝の七時である。ご主人様はまだ寝ていた。だがカリム夫妻は、そんなのお構いなく大声で誰かと話している。電話は客間に置いてある。
カリム夫人のご主人に恋人ができて、それが、あるナイトクラブの女性だということを、この高級住宅地の中で知らない人はいない。
ご主人が三日間も外泊したとか、夫婦喧嘩してご主人が家を飛び出したとか、この家の大騒動の一部始終は、この高級住宅街では知れ渡っている。
このごろ、カリム夫人はよく電話を借りに来る。何処に電話しているかと思うと、親戚の家やらナイトクラブの女性の所だ。時には五ヶ所にも長々と電話している。しかも、その声の大きな事といったらない。二階で洗濯物を干していても話の内容が判るくらいだ。
わたしはこの夫人も、その子供たちも礼儀知らずなので、あまり好きではない。だから電話を借りにきても、時々「奥様が居ないからお貸しできません」とか、「今、寝てますので後にしてください」などと、適当な事を言って追い返してしまう。
しかし、今日はちょっと様子が違う。なにしろご主人が一緒だ。夫人は思い詰めた表情をしている。
ご主人は背が高く大柄で、黒い口ヒゲが四角い顔によく似合っている。スポーツマンタイプのたくましい人だ。
今日は風邪でも引いたのだろうか、鼻をグスン、グスンさせている。ところが電話の内容を聞いていると、どうやらそれは風邪ではないらしい。
「おまえ、何かドクン(呪術師)に頼んだのか? 俺も家内もこのところずーと体調が悪いし、交通事故は起こすし、毎晩うなされるし、おかしいんだ。家内はお前がブラック・マジック(黒魔術)を俺達にかけているって言んだ。ドクンに何か頼んだなら、もうそれは止めてくれ。こんど三人で話し合おうよ、ね、いいだろう?」
ご主人はどうやらナイトクラブの恋人に電話しているようだ。カリム夫人は怒りくるって電話機を取り上げた。
「あんた! うちの人にちょっかい出すのは止めて! 変なブラック・マジックもかけないでちょうだい! うちの人はそんなマジックかけたって、あんたなんか相手にしやしませんからね! 今度マジックかけてうちの人をたぶらかしたら警察呼ぶからね! 覚悟しとき!」
カリム夫人はすごい調子でそう叫ぶと、電話の受話器をガチャンと叩きつけるように置いた。<あーあ、いったい誰の電話機だと思っているんだろうー>と奥様とわたしは、思わず顔を見合わせた。
カリム夫人が来たとき、奥様は客間で手紙を書いていた。客間を占領されてからは、寝室、食堂と、ウロウロ歩き回り、落ち着ける場所を探している。
わたしは客間の掃除ができなくて、イライラしていた。
ご主人様は、カリム夫妻に会いたくないのだろう。七時半になっても部屋から出てこない。
ご主人はまた電話を掛け始めた。今度は親戚の家のようだ。しきりに、「自分はこの頃ブラック・マジックにかけられたせいか体調が悪く、おかしな行動もしたけど、もう良くなったから・・・」と言っている。
そんな電話を三~四ヶ所に掛けてから、ようやく二人は腰をあげた。八時だった。うちのご主人様もさすがに呆れたのだろう、部屋から出てきて、客間のソファに座り込み、電話の邪魔を始めたところだった。
カリム氏は鼻をグスン、グスンさせ、夫人はホッとした顔つきで、挨拶もそこそこに帰っていった。
「長い電話だったわねー、例の一件ね。でもブラック・マジックて何かしら?」
「ジャワ島に古くからある呪術です。ドクン(呪術師)に頼んで、憎い人を呪い殺してもらったり、悪霊を追い払ってもらうんです」
「恐いのねー」
「でもドクンにもいろいろいて、呪術師から仙人、町医者までいるんです。どこの町にもドクンが一人か二人います」
「じゃー、恐い人ばかりじゃないのね」
「えー、わたしの知っているドクンは医者の見放した病人を治療して、評判がいいんです」
「・・・・・・」
「ちょっと、シャワーを浴びてくる」
ボケーとソファに座り、考え事をしていたご主人様は、そう言うと寝室に戻っていった。
奥様は立ち話を止めソファに座り、わたしは大理石の床に座り、話を続けた。
「どんな病気を治すの?」
「なんでも治せると思いますけど・・・。わたしがここに来る前に勤めていた家のお嬢さんは一五歳で半身不随だったんです。でもそのドクンのくれた薬を飲み、マッサージをしてもらったら一ヶ月で背中の青アザが消え、しかも歩けるようになったんです」
「素晴らしいわね。マッサージが良かったのかしら?」
「マッサージといっても、お嬢さんの体には手を触れないんです。両手を背中に近づけるだけでお嬢さんは痛がって、体をクネクネ動かしていました」
「ホント?」
「わたしも体調が悪くてそのドクンに相談したんです。そしたらいろいろ質問したうえ、わたしの生年月日と名前を紙に書き、祭壇の上に置き「明朝、日の出に来なさい」と言うんです。翌朝行ったらドクンはその紙を燃やし、黙想を始めたんです。そして突然、ドクンの手が気の狂ったように動き出し、紙に何か描きました。それが処方せんなんです」
「あら、それで何と言われたの?」
「わたしの病気は今の家に勤めていると治らない。庭に大木があるだろう。その木の精霊と相性が悪い、だから田舎に帰って新鮮な空気を吸えば、すぐ良くなる。と言われたんです。それでともかく田舎に帰ることにしたんです」
「そういう時、お礼はどのくらい払うの?」
「わたしは何も払いませんでした」
「あら・・・」
「お金持ちは大金払うし、お金が無ければお米を持って行くとか、できるだけの事をすればいいんです」
「それじゃー。ドクンは生活が大変ね」
「でも、この先生の場合は、昼間はお役人で政府に勤めてて、生活の心配は無いんです」
「へーえ」
カリム氏の外泊は相変わらず続いた。このままではご主人をナイトクラブの女性に取られてしまう・・・と深く悩んだカリム夫人は、呪術師の所に足を運んだ。
夫人はもともと“呪術の島”として知られているマドラ島の出身である。知人に聞いて最も有名で、最も恐れられている呪術師の所に行った。
ナイトクラブの女性の名前と住所を教え、泣きながらドクンに訴えた。
「家族は崩壊寸前です。主人も職を無くすかもしれません。あんなひどい女は、頭から熱湯でも浴びて大火傷すればいいんです」
一ヶ月後に事件が起きた。
熱湯を浴びて大火傷したのは、なんと、カリム夫人だった。熱湯を下半身に浴びてしまったのだ。
わたしは奥様にくっついてお見舞いに行った。
「人を呪っても、結局、傷つくのは自分の方ね。相手ばっかり非難したバチが当たったわ」
カリム夫人は赤くむけた皮膚を見せながらしきりに反省していた。
この大火傷の結果、親戚中の同情が夫人に集まった。ご主人も夫人のことをかわいそうと思ったのだろう。そして本当にすまないと思ったのだろう。一生懸命に介抱した。
この火傷騒動が落ち着いて、カリム夫人が歩けるようになった頃には、ご主人のナイトクラブの女性に対する熱もさめ、外泊も止めてしまった。
わたしは、あらためてブラック・マジックの威力を再確認した。
失踪した母親
今日はこの家に、レニーという一四歳の女の子が遊びにきている。サリーさんの親戚の子だ。涼しい瞳に厚ぼったい口びるのレニーは、大人っぽく、おっとりした感じだ。
今日は日曜日なので、ご主人様も家でゆっくりしている。そして四人で目を輝かせてブラック・マジックの話をしている。
「あのね、わたしの町にもドクンが居るのよ。この間わたしの筆箱がなくなったの、だからドクンのおじさんの所に行って“筆箱はどこに行ったんでしょう?”と聞いたの。そしたらおじさんは“あーそれは男友達が借りて行ったんだよ、二、三日したら戻ってくるよ”と言うの。本当に二、三日したら筆箱が出てきたの。それでドクンのおじさんに五ルピアお礼したわ」
「ジロー、こういうのはブラック・マジックじゃないのよ、誤解しないでね。本当はもっと恐ろしいのよ。でも、ジローはまったく信じないと言うのね?」とサリーさん。
「ティダ・ビサ(信じられないね)」
ご主人様は冷ややかに言う。
以前にもご主人様は“インドネシアじゃサリーやティアナみたいなエリート大学生でもブラック・マジックなんて迷信を信じてるだね。これじゃー、この国の将来は危ういもんだ”と奥様に言ったそうだ。
だがわたしは、そんな考え方こそ“分かってないんだなあ”と思う。念力や霊感や呪術を認めないなんて、片目をつぶって世界を見ているようなものだ。
レニーが昼寝に行ってしまうと、サリーさんはまた話し始めた。
「ジロー、呪術には効果があるのよ! いまレニーが昼寝に行ってしまったから話すけど、二年前に大変な事件があったのよ」
レニーの家は雑貨屋で、不自由のない暮らしをしていた。ところがある日、突然、お店を高利貸屋に乗っ取られてしまった。レニーのお父さんは賭博に夢中になり、高利貸に多額の借金をしてしまっていたのだ。
中国系の人々の賭博好きは病的だ。わたしたち回教徒のジャワ人にはとても理解できない。そしてレニーのお父さんには、そんな中国系の血が濃く流れているのだ。
レニーのお母さんにとっては、まったく突然、店から追い出されることになってしまった。
お母さんは怒り、嘆き、悲しみ、キチガイのようになってしまった。二歳から一五歳まで、八人の子供がいたのだ。これからどうやって生きていったらよいのだろう?
レニーのお父さんは長距離トラックの運転手になった。土曜も日曜もなく、正月休みすら働いて、月に九万ルピアというお金を稼ぐようになった。
でもこの金額では食べるだけが精いっぱいである。お母さんはあまりの貧乏な生活に疲れ、悲しみ、病気がちになって、やがて姿をくらましてしまった。
突然に姿を消したので、何処に行ったのかは判らなかった。しかし、やがて、ジャカルタの親戚の家に行っていることが判った。
だが、その親戚というのは、ある金持ちの二号さんになっている女性で、しかも、夜の世界で商売をしているという。
レニーの母にとってジャカルタは、ふるさとだ。しかし夜の世界に足を踏み入れるのは初めての経験だ。
「エレーネ、よく来たね! わたしのアシスタントになる? でも、それよりホステスをした方がいいね。お前さんの器量ならたちまちナンバーワンになれるわ。そうすると収入も一〇倍にはなるしね。ドレスは持ってきた? あー、いいや、わたしの貸してあげる。それから泊まるところはあるからね」
細長い顔にすーと高い鼻を持つレニーのお母さんは、スタイルもよく、どことなく上品な雰囲気を匂わせていた。
胸元の大きく開いたドレスを着て、鏡の前に立ったレニーのお母さんは、これが、<本当にわたしなのかしら?>と思うほどの美しさだった。
大きなナイトクラブだった。夜の七時になると、ベンツなどの高級車が駐車場にあふれ、クラブの中では生バンドが演奏を始める。中華料理が運ばれる頃になると、ホステスもテーブルに呼ばれていく。
ホステスは階段教室の様な部屋で、指名を受けるのを待つ。レニーのお母さんも首から番号札をぶらさげ、明るい部屋に入っていた。そして、控え目に部屋の後ろの方に座った。
部屋の前壁は鏡になっており、右端にカラーテレビが置いてある。ホステスは百人ぐらい座っていた。
<こんなにホステスがいて、わたしなんか指名されるのかしら・・・?>と思う間もなく、すぐに番号をよばれた。
階段を降りて、テレビの脇のドアから外に出ると、外の部屋は真っ暗で男たちがひしめき合っており、ホステスの部屋の中を食い入るように見ている。こちらの部屋からは、ホステスの待合室が、特殊ガラスを通して丸見えなのだ。
お客はやさしそうな顔をしたお腹の出たジャワ人の紳士だった。ダンスが上手で会話も巧く、お酒もとうとう少し飲まされ、すっかり良い気分にされてしまった。
「また来ますからね」
紳士はそう言って五千ルピアをレニーのお母さんの手に握らせ、去って行った。
次の客は日本人商社マンのグループだった。五人の日本人たちは会話をせず、ただスローの曲がかかるとダンスをしたがった。
案内役の若い日本人から「ボク、今独身でね、ワイフガ来るまで三ヶ月あるんだけど寂しくて・・・。それで、おこずかい、月に三〇万ルピア出すから、三ヶ月間、恋人になってくれない?」と誘われた。
話がはっきりしており、ハンサムな若者で好感を持った。でも、もちろん断った。
三度目の客は白人だった。ダンスも上手で紳士的だったが、毛むくじゃらなのが気持ち悪かった。一万ルピアのチップを置いていった。
レニーのお母さんは別世界に居た。
男たちには大切にされ、お金は遊んでいるだけで入ってきた。そして何よりも、しばし、家の事を忘れることができたと言う。
失踪した母親(2)
一ヶ月がたった。
「いったい八人の子供たちは、どうやって生活しているのだろう?」
サリーさんのお母さんは心配になって、スラバヤからバスで四時間ほどの所にある、レニーの家を訪ねてみた。
昔は立派な大きな家に住んでいたレニーの一家だが、今は長屋を借りて住んでいる。小さな町の大通りを横に入った路地にその長屋はあった。
入り口のベランダにはすだれが掛かっていた。このベランダが玄関となっており、家に入るとすぐ小さな応接間がある。壁には子供たちの写真が掛かっている。さらに奥に入るとベッドルームが二部屋続き、その先が台所兼食堂だ。
サリーさんのお母さんが家に着いたのは、朝の一一時である。日曜日だったので子供たちは居た。だが、この日も父親は働きに出ており居なかった。
「レニー、元気かい? お父さんは働きに行ってるんだね。みんな病気はしてないかい?」
「ウン、元気。みんなも元気」
「でもレニーはちょっと痩せたね。お父さんはずーと居ないし、だれが食事を作っているんだね? メイドも居ないんだろう?」
「わたしが作っているんだけど・・・。ねー、サリーのお母さん、このお米まだ食べられる?」
「これかい? あーこれはもう腐り始めてるじゃないか、ダメダメ、もったいないけど捨てなさい。このお鍋のは・・・あら、これまだ芯が残ってるじゃない。水を早く捨てすぎたんだよ。レニー」
「あっ、そうか、早すぎたのかー。みんな、まずいまずいって言ってたけど・・・でも他に食べるものないし、我慢して食べてたの」
八人兄弟の長女のレニーはまだ一二歳なのに学校を休み、子供たちの面倒を見、食事を作っていた。男の子の仕事は水汲みと洗濯だった。
毎日の食事といっても、ご飯の上にロンボックという赤いトウガラシをつけて食べるだけだ。台所の流し台には食器がちらかっており、床にはナベ、カマがあちこちに置きっぱなしで、足の踏み場も無い。
一五歳の長男は学校に行っていた。前はガキ大将だったのに、母親が消えてから、人が変わったようにおとなしくなってしまった。
サリーのお母さんは涙をポロポロ落とし「かわいそうにねー。小さな子供が八人もいたらお母さんが必要だね。わたしが何とかして、お母さんを連れ戻してあげるから、もう少し辛抱するんだよ」と言って、レニーにお金を渡し、昼食の材料を買わせて、ナシゴレン(チャーハン)を作った。
子供たちは脇目もふらず、ただひたすらご馳走に飛びついた。その姿を見て、サリーさんのお母さんは“必ず母親を連れ戻そう!”と、固く決心したという。
その日のうちにスラバヤに戻ったサリーさんのお母さんは、さっそくドクンを探し始めた。
知人、友人に電話して
「どこかに優れたドクンは居ないかしら、知らない?」と聞いて廻った。そして三週間ほどたって、ジョク・ジャカルタ市近郊の山に住むドクンがいい、という情報を得た。
この三週間の間、サリーさんのお母さんはドクンを求めてマドラ島に渡り、スマラン市やマラン市に行き、百万ルピア近くのお金を使ったという。百万ルピアといったら普通の人の一年分の収入だ。
ジョク・ジャカルタ市の近くにトウマングンという避暑地がある。グヌン・スンビンという山の麓である。このドクンが住んでいたのは、グヌン・スンビンの裏側の山村近くの洞窟であった。
サリーさんのお母さんは街でタクシーを拾い、金の鎖やら布など、いろいろお礼の品を積み込み、ドクンを訪ねた。
山村への道は急斜面でクネクネと曲がっていた。といっても密林の中を走るというのではなく、水田があり、畑があり、人家も多く開けていた。しかし、山道を上り詰めると、さすがに人家も無くなり、木々がうっそうと茂っていた。
ドクンの棲み家は車の通れる道から横道に入り、一五分ほど歩いた所にあった。この洞窟は一千年の昔からあったといわれ、ジャワの影絵の話に出てくる神様の霊が住んでいると、村の人々は信じている。ドクンはその霊の力を授かっているのだという。
サリーさんのお母さんは、恐る恐る洞窟の中に入って行った。洞窟の中は広く、高い天井のすき間からは陽がこぼれており、思いのほか明るい。奥の方からは水の流れる音がしており、滝があるようだ。
苦労人のサリーさんのお母さんは、恐いもの知らずのところがある。太めの体をゆすりどんどん奥に進み、ドクンの座っている岩にあがり、その前に座った。ドクンは鶴のように痩せており、白髪を長く垂らしている。
サリーさんのお母さんが事情を説明して助けを求めると、ドクンは瞑想し、しばらくして二~三、質問し、そして長い瞑想の後、目を輝かせ言った。
「その家の台所には善の霊が棲んでいる。七日後の七時にその家の台所に立ち、ここの滝の水を振り撒きなさい。そして、その女性が戻るよう祈りなさい」
サリーさんのお母さんはお礼の品を渡し、滝の水を汲み、そしてスラバヤに戻った。
七日後にはレニーの家に行き、朝七時に台所に立ち、水を撒きつつ、心をこめて母親の帰宅を祈った。
一週間後、レニーの母親が突然戻ってきた。
「ごめんよ留守して、もう絶対家から離れないからね。生活が大変でも、わたしは精いっぱい頑張るから、みんなも今まで通り頑張っておくれ」
母親は涙と共に、子供たちとお父さんに謝った。レニーのお母さんはこの一週間、子供たちの夢ばかり見て心が痛み、耐えられず帰ってきたという。
サリーさんは言った。
「ヨシエ! これは本当の話よ! こんなことがあっても、まだブラック・マジックの力を信じないの?」
「ウーン、不思議ね。やっぱりそういう力って実在するのかしらね。でも、一つ不思議なのはレニーのお父さんが全然怒らなかったことね。一悶着なかったの?」
「それがねヨシエ、もう一つ秘密があるのよ。わたしと母しか知らないんだけど、実はレニーのお父さんにも、マジックをかけたのよ。ドクンに相談したら小さな丸薬を三つくれて、父親に飲ませろ、というの。何かいい匂いのする薬だったけど、それを父親の食事に混ぜて食べさせたの。そしたらレニーの母親が帰って来た時も、涙流して喜ぶだけで全然怒らなかったの。ねーヨシエ、もうドクンのこと信じるでしょ?」
「そうねー。ドクンの力ってすごいのね。ジローはどう思う?」
「まあ、偶然ということもあるし・・・簡単には信じられないな。でも、その丸薬っていうのは気に入ったな。手に入らないかな? “イザ”というときに使えそうだし・・・」
「え? なんで? “イザ”って、どんな時?」
「イヤ、イヤ、何でもないよ」
「わかったわ。ヨシエ! ジローは浮気でもして、二~三日外泊しようとしているのよ。それで帰ってきた時に、ヨシエに丸薬を飲ませようってわけよ」
「ハハ、ばれたか」
「だめよ! ヨシエが許したって、わたしやティアナが許さないからね! そんな事したら家に入れないよ!」
“ビシャ”とサリーさんはご主人様の肩をたたいた。
「イテテテ」
クロを殺したのは誰?
クロが死んでしまった。まだ生まれて六ヶ月だというのに・・・。
クロはわんぱくな犬だった。元気が良くて、体が二倍もある大きな犬にも立ち向かっていく。雨が降ると喜んで外へ飛び出し、泥んこになって帰ってくる。
でも猫だけは苦手。以前、顔を引っ掛かれて以来、遠くで吠えてもあまり側には寄らない。
スラバヤの猫は恐いのだ。木を駆け登り、屋根の上を走り、小鳥やウサギを襲い、ネズミを食べて生きている。だから人間に飼われている犬なんて、相手にしない。クロが“ワン”と吠えても、ジロッと見るだけだ。
クロは、わたしがこの家に来た時、すでに居た。ご主人様が友人から貰ってきたそうで、家族の一員だ。チャイナ・プードルという犬の血が混ざっていて、コロコロ太った体つきも顔も、いかにも“やんちゃ”そうで可愛い。
奥様は「この犬には手を焼いているのよ。すぐ噛みつくし、誰にもなつかないし、体を洗うのにも大騒ぎするの。まあ、居ると泥棒よけにはなるんだけど、“やんちゃ”すぎてね」と、おっしゃっていた。
わたしは動物が大好きだ。このクロはわんぱくだけど、でもやっぱり甘えん坊、とすぐに判った。
クロはわたしにはすぐなついた。わたしには喜んで抱かれるし、体を洗っても嫌がらずにジーッとしている。
わたしがクロを抱いて庭に出て行ったら、ご主人様がビックリして、奥様に何か言っていた。
たぶん“クロがデウィに抱かれているよ! 信じられない! あの犬が・・・”とでも言っていたのだろう。外国語を喋っているので、もちろん理解はできないけど、でも雰囲気で判る。クロがなついてくれたので、わたしの評判もだいぶ上がったようだ。
その日の夜、奥様が「主人が本当に驚いていたわよ。“クロがデウィに抱かれて嬉しそうな顔をしている・・・”って、本当によくなついたわね。助かったわ」と、言ってくれた。
やがてクロは、メイド部屋の中で寝るようになった。
子犬のクロは隣近所でも有名だ。チビなのに大きな犬と喧嘩はするし、子犬たちを追っかけて、泣かせてしまう。吠える声だってまだ子犬なのに、大人のメイドまで逃げ回っていた。
でも考えてみるとおかしなことだ。このジャワ島では昔から犬を食用にしている。わたしだって子供の頃、食べたことがある。スラバヤの北のスラウッシュ島では、犬をいつも食べている。西のスマトラ島のバタック族の犬料理だっておいしくて有名だ。
捕って食われるのは犬の方だし、それを考えたら恐ろしがることは無いと思う。
それに、わたしたち回教徒は犬を不浄の動物だとしている。だから犬に触れたがらない人が多い。でもわたしは犬が好きだから気にしてない。
クロが風邪を引いたのは、わたしが来てから三ヶ月ほどたった頃だった。
鼻の頭が乾き、様子がおかしいと奥様に報告したら、すぐにクロを見に来て「すぐ医者に連れて行きなさい」と言われた。
わたしはエニーとベチャに乗り、犬の専門医の所に行った。
「ああ。これは風邪だな。注射を打っておくか」
代金は七千ルピアだった。わたしの一ヶ月分の給料と同じ。
クロは二~三日元気そうにしていた。ところが四日目頃から、また様子がおかしくなってきた。食欲も元気もないのだ。奥様に相談したら
「じゃー、この抗生物質を飲ませてみましょうか」と言って、白いカプセルを渡してくれた。この薬も効いたようで、二~三日、クロは元気にしていた。
でも、クロは少し元気になると、丸々と太った体をゆすり、また雨の中に飛び出して行き、ドロンコの中で転げ回る。“これじゃ、いつまでたっても全快しないわね”と話し合っていた矢先に、クロの様態が急におかしくなった。
今回は今までとはちょっと違っていた。ゼーゼー、口で荒い息をし、歩くのもつらそうだ。
「今すぐ医者に連れて行ってちょうだい」と、奥様。
外はどしゃ降りの雨。スラバヤでは、雨期になると、一日一回大雨がある。普通は二~三時間、大粒の雨が降ると青空が顔を出す。
でも、今はそんなこと言ってられない。わたしとエニーはどしゃ降りの中、クロを抱いて医者の所に行った。
「あー、これはジステンバーに罹ってるね。四~五回注射を打てば助かるよ」
「費用はどのくらいかかりますか?」
「ウーン、五~六万ルピアは必要だな・・・」
エニーとわたしは顔を見合わせた。クロを助けるためには大金がかかるのだ。
「あの、ご主人様にどうするか聞いてきますので」
「ああ、いいですよ。今処方せん渡すからね。今度来る時は、薬局でこの薬を買ってくるんだよ」
「はい」
わたしたちは処方せんを受け取り、四〇〇〇ルピアを払い帰宅した。
「あら、注射は打ってこなかったの?」と、奥様。
「はい。クロはジステンバーという病気にかかっているそうです。薬局に行って、処方せんに書いてある薬を買って持ってこい、と、お医者様が言ってました」
「あら、ジステンバーなの? それじゃー大変ね。悪いけど、薬を買って、またすぐ医者に行ってくれる? お金はいくらぐらい渡せばいいのかしら?」
「この薬、五~六万ルピアもするそうです」
「エッ? 六万ルピアもするの? 高いわねー。でも、可愛いクロの命には替えられないし・・・」
「・・・・・・・」
「じゃ、悪いけど、もう一度行ってきてくれる?」
「・・・・・・・」
「ハイ、これがお金」
「・・・・・・・」
わたしもエニーもお金は受け取らなかった。
「奥様、犬にそんな大金を使うなんて・・・。そんな必要はありません」
「エッ? でも、かわいそうでしょ?」
「インドネシアでは、犬にそんな大金使わないんです。このまま放っておきましょう」
「そんなこと言ったって・・・あんなに可愛がっていたのに」
「いいんです、奥様。クロが病気になったのがいけないんです」
「・・・・・・・」
今度は奥様が沈黙していた。
しばらくして、
「わかったわデウィ、あなたの言う通りにするわ。でも、本当にいいのね?」
と奥様は聞く。わたしは心を鬼にして、
「はい」
と答えた。
午後七時にご主人様が帰宅した。奥様はなにやらご主人様に相談を始めた。また“医者に連れていけ!”と言われるのかもしれない。だが、何も言ってこなかった。
もし、“医者に連れて行け!”と言われても、わたしは断るつもりだった。
なぜって、わたしは、村でたくさんの赤ん坊が医者にかかれずに死んで行ったのを見ているからだ。
わたしの妹だって、七千ルピアのお金が無いため医者にかかれず、危うく死ぬ所だった。だからわたしは、<犬に大金をかけてはいけないのだ!>と思う。
月夜だった。
クロは熱のある体を、ベランダの冷たい大理石の上に横たえていた。ヒーヒーと鳴いている。
喉が乾いているのに違いないので、冷たい水をお皿に入れて持って行った。クロは夢中でペチャペチャ飲んだ。だが、わたしの方を見ようともしない。すぐうつ伏せになった。
一晩中、クロは苦しそうに、ヒーヒーと泣いていた。その悲鳴もだんだんと弱々しくなってくる。東の空が白くなってきた頃、クロは静かになった。
わたしは、一晩、まんじりともしないで起きていた。クロの事もいろいろ想ったけれども、それよりなぜか、村に居る妹や弟の事が、懐かしくてたまらなかった。
庭の片隅にエニーと二人で穴を掘り、クロのお墓を作った。クロの固くなった重い体を二人で持ち上げ、穴に入れ、土をかぶせた。ベランダには奥様が出て来ていた。やはり一晩ねむれなかったようだ。赤い目をしていた。
わたしは不思議なことに悲しくなかった。ただ、フツフツと心の中で怒りの炎が燃えていた。怒鳴りたかった。どうしてだか、自分でもよく判らない。ただ怒りが心の底から盛り上がってくるのだった。
この怒りはたぶん、ご主人様や奥様の無知にも、クロを死なせてしまったわたし自身にも、そして、どうにもならないこの世の中にも向けられているのだろう。
クロのお墓の上に小さな木を植えた。この木が成長すると、やがて、葉が、怒りの炎のように、赤く燃え上がる。
ノーブラがいいの
最近、エニーは夕方になると、裏の高い門柱の上に座ってボケッとしている。
「みっともないから止めたら?」と、わたしは言うのだけど、「いいのよ」と言って止めない。
エニーはエクボの可愛い、目元のクッキリしたかわいい子だ。石の門柱の上に座って目立つ必要がないくらい、よく男たちから声をかけられる。先日も、結婚を申し込まれた、と言って相談に来た。
「ねー、デウィ、わたし結婚しようかと思うの」
「え、ほんとう? 誰と?」
「この間から二~三回会いに来ていた運転手の人いるでしょう。あの人がどうしても結婚してくれ、と言うの。人は良さそうだし、しっかりした仕事を持ってるし、ハンサムだし、わたしも嫌いじゃないわ。ねー、どう思う?」
「ウーン、あの人ね。いい人だとは思うけど、でもちょっと年齢がね・・・。たしか三二歳とか言ってたでしょ。だとしたら、前に結婚したことがあるんじゃない? あるいは、今は別れてて子供がいるとか・・・。よく聞いてみたの?」
「もちろん聞いたけど、まだ結婚したことないって言ってたわ。でも、そう言えば、あの年でまだ結婚した事ないなんて、おかしいかー」
「そうよ! よく調べた方がいいわよ。あの人の家はどの辺りだったっけ? たしか、モジャパイト通りだったわね。じゃー、リーの妹があの辺りで働いているから調べてもらったら?」
「ウン、じゃー、念のため調べてもらうわ。でもあの人に限って、嘘を言う訳ないんだけどな」
エニーがこの結婚話に乗り気なのは当然だった。男はいかにも真面目そうだし、わたしから見ても、たくましくて、頼りがいのありそうな人だ。
調査の結果は予想外だった。
その男はすでに一〇年も結婚しており、子供も三人いた。エニーもわたしも耳を疑った。だが、その報告に間違いはない。リーの妹がその男の家まで行って、メイドから詳しく聞いて来たのだから。あんなに真面目そうな人が嘘をつくなんて・・・。
エニーに結婚を申し込んだ男は、何も気づかずにまたやって来た。エニーは待ち構えていた。
「このウソつき! バカヤロー! 出ていけ! もう二度と顔見たくない!」
エニーはそう怒鳴ると、ドアを“バシャン!”と閉めて、鍵を掛けてしまった。わたしは一瞬だけれども、男が薄笑いを浮かべたのを目にした。
「デウィ、今の音なーに?」と、奥様が居間からガレージまで出てきた。わたしはすべてを説明した。
「あら、早く調べがついて良かったわね。でも、あの運転手はすごく誠実そうだったけど、人は見かけによらないものね」
「でも奥様、こんな事はよくあるんです。妻子のある男が出稼ぎに行って、そこで独身と偽って結婚したり、そして子供ができると姿をくらましてしまったりするんです。だから、自分の身は自分で守らないといけないんです」
この事があってから、エニーはだいぶ男に対して用心深くなった。でも、あい変わらず男の人に声をかけられるのが嬉しいらしく、いちいち相手にしている。
わたしがこの家に来てから、すでに三ヶ月もたった。そして、いつの間にか、わたしとエニーの立場も変わっていた。今では、料理を作るのも、仕事の指揮もわたしがしている。
エニーが一人の時、庭には草が伸び放題だったけど、今は毎週芝刈りをし、雑草を抜いている。また、庭の隅々には花を植え、野菜畑も作り、ネギとトマトを栽培している。
「デウィが来てから、家の中も外も、見違えるほどきれいになったわ。ありがとう」と、奥様からは言われた。
大理石の床が汚れていると、わたしは無意識のうちに体が動いて、掃除してしまう。でもエニーは正反対で、床が汚れていようが、ゴミが落ちていようが、全然気にしない。わたしが頼むと、ノロノロと動いてきれいにしてくれる。
エニーは大理石の床を雑巾掛けする時も、丸く拭く。だから部屋の四隅には、いつもホコリが残っている。ガレージの床も、エニーが拭いてもさっぱりきれいにならない。真剣に力を入れたりは、なぜか決してしない。仕方がないので、わたしがいつもやり直している。
エニーはかわいい顔をしており男にもてる。だから怠けていても大目に見てもらえるのかしら? それとも、ご主人様がエニーに甘いのかしら? それとも、一生懸命働いてしまう、わたしの方がバカなのかしら・・・? と、いろいろ考える時もある。
でも、奥様はエニーの事もわたしの事も、はっきり見ていると思う。だから、やっぱりわたしは、不平を言わずに、一生懸命働いていれば、それでよいのだと、いつも自分に言い聞かせている。
エニーがパーマをかけてきた。今、スラバヤのメイドたちの間で流行している。鳥の巣のような、アフロ・ヘア・スタイルだ。どういう心境の変化かしら。この間の結婚騒動と関係があるのかな?
そして、突然、エニーはブラジャーをしなくなった。
「エニー、なんでブラジャーしないの? 横から見るとボタンの間から、胸のふくらみが丸見えよ」
「ウン、でもしないと気持ちがいいの。それに奥様だってしてないし、いいじゃん」
エニーの胸のふくらみは、特別にジャンボじゃないけど、張り切っており、形がいい。わたしは病弱タイプなので、エニーのほど張り切ってなくて、いつも、うらやましく思っていた。
「ねーエニー、客間でテレビを見る時はご主人様も居るし、ブラジャーしてた方がいいんじゃない?」
「いいの、いいの、ご主人様には裸のところ、バッチリ見られてしまったし」
「エー、いつ?」
「この間、部屋の中で裸を鏡に写して見てたの。その時ちょうど、ご主人様が突然帰宅したのね。それで、ほんの一瞬だと思うけど、カーテンのすき間から、上半身裸のところ、バッチリ見られちゃったの。心臓が止まりそうだったわ。でも、もういいの。平気よ。裸を見られたって」
その夜はインドネシア語の特訓があった。わたしとエニーは音声を消して、客間でテレビを見ていた。エニーの胸のふくらみは、ほとんど丸見えだった。わたしは心配した。そのうえエニーったら、ショートパンツのチャックまで開けっ放しだ。
ご主人様はトイレに立った帰りに、エニーの横を通り、チャックのところを覗いていた。エニーは平気な顔をしてたけど、わたしの顔は赤くなった。
「エニー、チャックが閉まってないわよ!」
「ウン、知ってる。だって閉めるとキツイんだもん」
こんな事があってから、わたしは今に何かが起こるのではないかと、感じ始めていた。
そのうち、近所でエニーの評判がいろいろ立ち始めた。この高級住宅地の実力者である市会議員のパブリコ氏も、エニーに気がついていて「あの子がいると、この住宅街の風紀が乱れる」と、夫人に話していたと、その家のメイドから連絡があった。この事は、奥様に報告しておかなくてはいけない。
たしかに最近のエニーは度が過ぎている。門柱の上に座るのは、奥様に注意されて止めた。でも男たちとはよく付き合っている。
午後の昼寝の時間にも、エニーは時々姿を消すようになった。そして四時頃、帰ってきてシャワーを浴びる。どうやら近所の空き家に行って、ボーイや運転手たちと遊んでいるらしい。このまま放っておくと奥様やご主人様が、近所の家主に非難されてしまう。
「奥様、エニーのことが近所で評判になってますけど、どうしましょう?」
「そうねー。困ったわね。何度も注意したのに無断で外出するし、スワミ(主人)と相談するけど、もう辞めてもらう他ないわね」
「じゃー、ご主人様も了解したら辞めさせるんですね?」
「えー、そうするわ」
「それじゃ、エニーを辞めさせる時、わたしも一緒に辞めさせてください」
「エッ、どうして、あなたは居ていいのよ」
「でも一人だけ辞めさせたら、エニーがかわいそうです。わたしも一緒なら、エニーも傷つかないし」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ということは、デウィは後で戻ってくるわけね?」
「はい。もう一度、呼び戻されたことにして戻ります」
「・・・・・・」
ご主人様の可愛がっているエニーだから、ご主人様が辞めさすのに同意するかどうか、疑問だった。しかし、ご主人様は意外にあっさりと、「辞めさせる他ないな」と言ったそうだ。
メイドはいつも突然クビになる。インドネシアの家主たちは、突然辞めさせないと、家の品物を持ち出されると、固く信じているからだ。
数日後の朝、奥様に突然、
「辞めて、デサ(村)に帰りなさい」と言われた。
エニーはびっくりして、「どうして?どうして?」と泣き始めた。
エニーにとってこの家は、自由を与えてくれたし、とっても居心地が良かったのだ。それにご主人様も奥様も、わたしたちを怒る、ということが無かった。そしてエニーは、家族の一員として、可愛がられていた。
「どうして? どうして? なんで辞めさせられるの? それにデウィも一緒なの? なんで?」
エニーはなぜ辞めさせられるのか、まったく見当がつかないようだ。
「市会議員の家から、わたしたちのことで苦情があったらしいわよ。エニー」
このわたしの言葉にエニーは、ハッとし、そして泣くのを止めた。
それから半日、エニーとわたしは最後の掃除をし、メイド部屋を片づけた。二人とも旅行バッグ一つに、ダンボール箱一個しか荷物がなく、身軽だ。
奥様は堅い表情で、形式的にわたしたちの荷物の中味を調べ、そして、最後の給料を渡してくれた。
お昼になって、エニーとわたしはベチャに乗った。エニーはまだ泣き顔だ。近所のメイドたちが出てきて、別れを惜しんでくれた。
「なんで、デウィも辞めさせられたの?」と、みんなは驚いていた。
バスのターミナルでエニーと別れた。エニーはお兄さんの所に行くという。わたしは姉のティの所に行った。
来年になったら奥様は出産だし、どうしても、もう一人メイドが要る。もし出来たら、ティにジャムの店を辞めて、一緒に働いて欲しいと思った。
ティは「来年の一月からなら働いてもいいわ」と言う。これで一安心だ。
三日後にわたしは奥様のもとに戻った。近所のメイド仲間が集まってきて、
「やっぱり戻ってきたのね。当然よ。良かった」と言って、歓迎してくれた。
エニーは半月ほどたって訪ねてきた。この家から一五分ぐらいの所に、メイドとして住み込んでいるという。そして、その後すぐ、近所で運転手をしていた男の人と結婚して、マラン市へ行ってしまった。
メイドの世界
わたしたちメイドは、毎晩のように集会を持つ。と言っても、場所や時間を決めている訳ではない。夜の九時頃になると、みんななんとなく家の外に出て、なんとなく雑談を始める。そしていつの間にか、集まる場所が決まってくる。
集まるのにいい場所は、空き家だ。空き家の管理人はメイドかボーイがしている。だから遠慮はいらない。
ここでの雑談の内容といったら、恋いの話、スラバヤの街のニュース、田舎のこと、家主のことなどなんでもありだ。でもどちらかと言うと、家主関係のゴシップが多い。
この集会に出ていれば、この高級住宅街の内で何が起こっているかが、手に取るように判る。
あそこの家のご主人はメイドの尻を追っかけ廻しているとか、別の家ではシスター(看護婦)とご主人が恋仲だとか、ちょっとしたことは、みんなニュースとして耳に入ってくる。
ここで聞いた話は、ほとんど奥様にも伝えているから、わたしの奥様だって相当の情報通だ。
カムリ夫人が初めてこの家に来た時も、事前にそのことが耳に入った。
「二~三日中に、カムリ夫人が遊びに来ますよ。奥様と友達になりたいんですって。でもあの夫人はわがままで子供っぽく、近所ではあまり人気はありません。子供たちも評判が悪いし、付き合わない方がいいと思います・・・」
「ありがとうデウィ。でも・・・好意を持って訪ねて来る人を拒むわけにもいかないわね・・・」
「・・・・・・」
この住宅街で働くメイドのほとんどは、わたしと似た人生を歩んで来ている。貧農の娘で、一三・四歳から都会に出稼ぎに来ている。
でも中には変わり者もいる。
アユは一三歳の時に、年上の友達に誘われて都会に出てきた。貧しい家の家計を、少しでも助けられたら・・・という、やさしい気持ちからだった。
しかし、連れて行かれたのは、ドーリーという売春街だった。最初はウエートレスをしていたが、やがて店の主人に、客を取るように言われた。
体も小さくて痩せたアユは、どんな化粧をしたって子供だとすぐに分かる。でも人気があったらしい。明るい性格で無邪気なせいだろう。アユは、何が何だか分からないまま働いていたが、ある日突然、客が来なくなったという。重い性病に侵されてしまったのだ。ある日お客の中に五〇歳位の太ったおじさんがいた。そのおじさんはかわいそうなアユを見ると、だまって動物園に連れて行ってくれた。アユは初めて暖かい人と出会った気持ちになった。べつの日、おじさんはアユを映画に連れていってくれた。でも他の男の人みたいに体には触ってこなかった。だからアユはこのおじさんを大好きになった。
このおじさんがお金を出してくれて、医者にかかることが出来た。そして、お医者さんの家でメイドをさせてくれたので、それからは二度とドーリー街には足を踏み入れていないという。
アシンは詐欺の常習犯だった。
詐欺の手口は簡単だ。まず兄貴二人と組んでメイドを探している家に行く。兄たちは紹介料として家主から一万ルピアをまきあげる。アシンは二~三日たったら、家主と喧嘩するか、病気だと偽って家を飛び出るのだという。
アシンが詐欺を止めたのは、兄貴二人の姿が突然消えてしまったからだ。ジャカルタで仕事をしてくる・・・と言って出かけたまま、行方不明なのだ。アシンは、兄たちが政府の組織している暗殺団に殺された、というウワサを信じている。
家主にもいろんな人たちがいる。
ある家主は、メイドを家から一歩も外に出させない。そして、他の家のメイドと話しをすることも禁じている。
この厳しい家のメイド、ヌイが血を吐いた。ヌイは中国系の夫人に
「気分が悪いので、一日休ませてください・・・」と聞いたら、「本当? 病気には見えないわよ。元気そうじゃない」と言って、まったく取り合ってくれない。
数日後、ヌイはまた血を吐いた。今度はその血を見せて聞いた。
「気分が悪いんです。医者に行かせてください」
「あー、行っていいけど、医者の費用は自分持ちよ。それから休んだ分は日割りで給料から差し引くからね」
ヌイはハタと困ってしまった。二年間も休まず働いてきたので、医療費ぐらい見てもらえると思っていたのだ。それに少ない給料を減らされるのも嫌だった。ヌイは休まず働いた。
ある日、わたしは家主の外出を見届けて、門の外から声をかけて驚いた。ヌイは痩せ細り、青白く、別人のようだ。
「ヌイ、何とかしなきゃ駄目よ! お父さんに迎えに来てもらったら?」
「えー、そうしたいけど。デウィ、悪いけど妹に連絡してくれる? ダルモサテライトで働いているの。全然休みはくれないし、もうダメになってしまいそう」
わたしは急いで家に戻り、奥様に事情を話した。
「エッ、あの子がそんなに具合悪いの? じゃーわたしから夫人に巧く話してみましょうか・・・?」
しばらく考えていた奥様は、「やっぱり、わたしは口出しすべきじゃないわね・・・。デウィ、じゃーすぐ妹の所に行ってあげなさい」と言って、ベチャ代一二〇〇ルピアを渡してくれた。
ベチャに乗ってタップリ三〇分はかかったが、妹さんの居所はすぐにわかった。妹さんは、すぐに父親に連絡すると言う。数日後に父親が現れヌイを引き取って行った。
その後聞いた話では、ヌイは肺結核になっていたようで、半年後には未知の世界に旅立ってしまったという。
ご主人様の友人の一人に、ジャワ人の若い小説家がいて、よく遊びにくる。この人の奥様は中国人で、お金持ちの家の娘だそうだ。
「よく中国人と結婚したね。問題は無いの?」
とご主人様が聞いた。
「ウーン、二人の間には問題がないけど、ワイフの実家に遊びに行くと、いろいろ・・・」
「エッ? 何があるの」
「ウーン、ワイフの家にはジャワ人のメイドが七人も働いているんだけど、まったく人間扱いされてないんですよ。ボクもジャワ人でしょう・・・人種が違うからといって犬猫のように扱うのには・・・時々腹がたって・・・」
「そうだろうな。だけど、それじゃメイドが辞めていくでしょう?」
「それが、どんなにヒドイ扱いを受けても・・・例えば殴られたり、アイロンで火傷をさせられたり、物を盗んだと疑われて拷問されても、誰も辞めていかないんですよ」
「なんで!」
「ワイフの家の給料は他の家の二倍だからですよ」
「インドネシアには労働基準法がないのかなー?」
「もちろんありますよ。でも、それは家内労働者まではカバーしてないんです。日本でも同じでしょ?」
「ウン、多分同じだったな」
私は中国人の家のメイドもしたし、ジャワ人の家でも働いた。だから判るけど、中国系の家ではメイドを人間として扱わない。一方、ジャワ人の家では、メイドは家族の一員として扱われる。でも給料は安い。
私が今働いている日本人の家は、わたしたちを家族の一員として扱ってくれる。そして、給料は中国系の家のように高い。
しかし、この家で一番異なっているのは、わたしたちメイドを全面的に信頼し、何でも自由にやらせてくれることだ。
エニーが辞めて、わたしは姉のティをこの家に引っ張ってきた。ティとわたしは奥様から家の管理を任されている。
庭の手入れ、ドブ掃除、窓ガラス拭き、野菜畑づくりなど、なんでも二人で計画を立てて、どんどんやっている。すごく自由で、自分の家に居るような気分だ。
「奥様、こんど奥様が帰国される時は、別の日本人の家を紹介してください」と頼んでみた。なぜってわたしは、日本人ならみんな、メイドを同じ人間として扱ってくれるだろう、と思ったからだ。
「デウィ。わたしも同じことを考えていたのよ・・・。でもね、日本人の家でもメイドの扱い方にはいろいろあるようよ。中国系の家のやり方を真似している日本人も多いようだし・・・」
そう言われて初めて気がついた。先日この家に遊びに来ていた日本人の奥様方の一人は、とても恐そうだった。
隣の家のメイド、リーも、前から「今度働く時は日本人の家がいいわ・・・」と言っていたが、あの奥様を見て「でも、あの奥様の所は嫌ね」と言っていた。
わたしたちを見る目が、中国系家主と、まったく同じなのだ。わたしたちを見下しているのだ。
今夜リーに、奥様があまりよい返事をしてくれなかったことを話すけど、ガッカリするだろうな・・・。
シスター・アティの行方
一年中暑いスラバヤでも、朝夕は涼しい。とくに朝は、空気もヒンヤリしていて、一日で一番気持ちの良い時だ。
だいぶんお腹も大きくなってきた奥様は、この朝の空気が大好きで、今日も早起きし、ベランダの白い椅子に座り、景色を眺めている。
「デウィ、あの白い制服を着た人たちは看護婦さんかしら? それともただの保母さんなのかしら?」
道路を見るとシスターたちが赤ん坊を抱いたり、ヨチヨチ歩きの子供の手を引いて散歩している。
「看護婦さんですけど、実際には母親がわりに赤ん坊を育てているし・・・乳母になっているし。パートタイムの人もいるし、いろいろです」
「そお、赤ん坊のいる家には必ずシスターがいるようね」
「えー、とくに中国系の家では母親がすぐ仕事に出てしまって、子育てはシスターに任せてしまいます」
「そうみたいね。わたしもシスター雇ってみようかな」
「ヨシエ、それは当然よ。初めての赤ん坊でしょう。シスターがいたら安心よ」
サリーさんだった。サリーさんはいつも朝早く起きて、部屋の中で勉強している。今日はわたしたちの話し声を聞きつけて、出てきたようだ。
「でも、どのくらい任したらいいのかしらね?」
「そりゃ、なるべく何でも自分でやった方がいいわよ。あまりシスターに任せると、赤ん坊がヨシエを見て泣きだすようになるわよ」
「イヤーね。もちろん何でも自分でやるつもりよ。でも、やっぱり初めてでしょう。チョット不安な事もあるの。例えば・・・お風呂の入れ方とか・・・。だからせめて、最初の一ヶ月位、一日おきぐらいに来てくれたらいいな・・・」
「そうね。一人ぽっちだものね。ヨシエのママは日本から来ないの?」
「ウン、この間電話があったけど“来なくても大丈夫”と断ったの。母もノン気で『そのうちヒマができたら、赤ん坊を見に行くわ』と言ってたわ。でも・・・本当はね、わたし、サリーのお母さんがいるから安心しているの。何か困ったら電話するわ」
「そうね。うちのママが居るから大丈夫ね。じゃー、パートタイムのシスターを探せばいいのね」
「奥様、アティおばさんご存知ですか? 向かいの家のシスターですけど・・・」と私。
「えー、知ってるわ。やさしそうな顔をした人ね。あんなシスターだったら安心ね」
「すごく評判がいいんですよ。もうすぐ散歩から戻ってくるから、働いてもらえないか、聞いてみたらどうですか?」
「でも・・・、向かいの家から取り上げてしまうわけにもいかないし・・・」
「ヨシエ、こういうことは聞くだけ聞いてみるものよ。わたしが聞いてあげようか?」とサリーさん。
「じゃー、お願い」
サリーさんは道路に出て行き、散歩からの帰り道のアティさんをつかまえ、話し込んでいる。そして戻って来た。
「ヨシエ、アティさんは駄目だって。もう予約がいっぱいなんだって。でも親しい友達にいいシスターがいて、紹介してくれるそうよ」
「よかった。ありがとう。サリー。でも・・・随分長いこと話していたわね」
「ウン、いろいろ問題があってね。アティさんはあの家辞めたいらしいわ」
「また、なんで?」
「もう、三ヶ月も給料もらってないんですって」
「エー、どうして?」
「家主が、アティさんを引き止めておくために、わざと払わないのよ」
「そんな・・・ひどい・・・それでサリーに相談してたのね」
「まあね」
「それで、なんて助言したの?」
「ウン。『労働基準監督署に訴えてやる!』と、脅かしてみたら・・と言っといたわ。多分脅しだけで、三ヶ月の給料を払うと思うけどね・・・」
「でも、レーバーオフィスって頼りになるの?」
「そうね、五〇〇〇ルピアも払えば、すぐ警告の手紙ぐらい出してくれるわよ。でも、その前に解決すると思うわ。なにしろ中国系は、官庁とか警察を恐がっているから・・・」
「サリーって頭がいいのね」
「これでも大学で法律を勉強しているのよ!」
サリーさんの助言は効果てきめんだった。
家主は慌てて三ヶ月分の給料を払い『これからは毎月払うから辞めないでくれ・・』とアティさんに頼み込んだ。
家主の若夫婦は中国系で、お店を持っており、夜も昼なく働いている。一年に店を閉めるのは、中国暦の元旦、一日だけ。子供も三人おり、アティさんが母親代わりだ。
アティさん自身にも子供が二人いて、主人もいた。でも月一回しか休暇がもらえない。
「今度からは給料は前払いにしてください」というアティさんの申し出も認められた。
半月後、アティさんの姿が消えてしまった。前払いの給料を受け取った直後だった。
「アティさんもよほど怒っていたのね」
「そうですね。無理もないと思いますけど・・・」と私。
「これでまたシスター探しもやり直しね。ところでデウィ、よかったらシスターの学校に行って勉強してこない? お金は出してあげるわよ」
「エッ! でも・・・それは」
シスターになればメイドは辞められる。給料だって三~四倍になる。でもその代わり、責任は重いし、赤ん坊の面倒を見るのだから夜中に起きてミルクを飲ませたり、トイレに連れて行ったりしなくてはならない。二四時間勤務の重労働だ。
わたしにシスターの仕事が勤まるだろうか?
それより前に、わたしにはシスターになる資格がないのだ。小学校も卒業してないわたしが、シスターの学校に行ける訳がない。
「奥様、シスターの学校に行くには、中学校を出てなければいけないんです。でも・・・わたしは、子供の時から子守をしてるし、シスターの仕事には慣れてますから、できる限りのことはしますから・・・」
「ありがとうデウィ。でも残念ね。資格がないのは・・・」
「・・・・」
大学四人娘
サリーさんとティアナさんは、今年いっぱいで一時、自分たちの家に帰る。来年になると奥様も赤ん坊を産むことになるので、インドネシア語の勉強どころじゃ無くなるからだ。
「夜の特訓はいつまでやるの? ヨシエ」
「そうねー。出産の寸前までできるんじゃないかしら。ティアナも自宅から通って教えに来てくれるそうよ」
「フーン。でも、赤ん坊が生まれたら特訓のヒマは無いんじゃない?」
「そうね。そしたら当分中止ね」
「残念ですな・・・」、ご主人様はそう言って、ニィと笑った。内心は特訓が無くなるので喜んでいるに違いない。でも、まだ今晩は特訓がある。 今日はリアさんが来ている。
リアさんはスマトラ島のバタック族の出身で、クリスチャンだ。ジャワ人と同じように浅黒い肌をしているが、ジャワ語は通じない。
このリアさんと純中国系のリニーさん、そしてサリーさんティアナさんが、大学の仲良し四人組だ。
サリーさんとティアナさんにはジャワ人の血も流れている。だけど自分たちは中国系だと思っている。色が白く、クリスチャンなので、周りから中国人扱いされているから、自然とそう意識するのだろう。だけどわたしから見ると、二人の感覚には結構ジャワ人的なところがある。
リニーさんは中国系だ。それも純粋の。純粋の中国人はジャワ人のことを見下している。そんな訳でわたしも、リニーさんとは口をきいたことがない。
この家で見る丸顔のリニーさんは大人しく、優しそうだ。だが、自分の家でメイドやボーイに接する時は、きっと態度をガラッと変えて厳しいに違いない。
リニーさんの家には一〇歳のボーイがいる。この子は、リニーさんやその家族が外出すると、その車が帰ってくるまで門の外で待っていなければならない。帰ってきた時に、門がすぐ開かないと、この家の人々は不満らしい。この子は、道路で犬と遊んで待っているのが仕事だ。
この子は、言いつけられた事をすぐ忘れるから、家族みんなから『馬鹿だ。馬鹿だ』と言われているそうだ。でも、まだ一〇歳だったら母親も恋しいだろうし、故郷のことを考えてボーとしてしまうのも無理はない、とわたしは思う。
買物に行く途中、この子が犬と遊んでいるのを時々見るけど、利口そうな可愛い子だ。
リニーさんはふくよかな体に、上品な可愛らしい丸顔をのせている。着ている服、ハンドバック、靴などはすべて高級品だ。リニーさんは色の黒いインドネシア人とも付き合うが、彼女の両親や家族はそれを好まない。だから親友のリアさんですら、ほとんどリニーさんの家に呼ばれたことが無いという。
バタック族出身のリアさんは、毎月二~三回顔を出すだけだけど、もうすっかりこの家の一員になっている。サリーさんとティアナさんの都合で夜の特訓ができない時はリアさんが代役を勤めている。
リアさんは鋭い目をしているけど目鼻が整っている。そしてスタイルが抜群に良い。この四人娘の中では、一番の遊び好きかもしれない。そしていたずら好きだ。
「ジロー、もう一度『橋』をインドネシア語で言ってみて?」と、リアさん。サリーさんが通訳してくれたので、わたしとティはサリーさんと笑い転げている。
「何がそんなにおかしいの?『橋』はジュンブタンだろう。ジュンブタンだったよね、ヨシエ」
わたしたちは又、笑い転げた。リアさんは意地悪なのだ。インドネシア語で『橋』はジュンバタンと言う。ジュンブタンというとジャワ語で、女性の性器のことなのだ。それでさっきからご主人様に何度も言わせているのだ。
「ジュンブタンじゃなくてジュンバタンよ」
やっと奥様が助け船を出した。
ポルノのビデオテープを借りて来たのもリアさんだった。この家にはビデオの装置がないので、近所の家で、女子大生ばかり八人集まって観たそうだ。
テイアナさんとリアさんは、試験というとすぐにカンニングの方法を考える。一方サリーさんとリニーさんは真面目で、一生懸命に勉強している。
四人とも法学部の学生だが、ある日、仲間の一四~五人とグルになってカンニングを計画した。その第一歩として、この一四人が隣り合わせに座る必要がある。そこで、ご主人様の出番となった。
試験日当日の朝四時、外はまだ真っ暗だ。太陽はまだ地平線のはるか下方に沈んでいる。奥様はわたしとサリーさん、ティアナさんを乗せご主人様の運転で大学へ行く。道路に人影はなく夜の風が涼しい。
大学の校内に入ると、すぐ左手に大きな建物が黒々とそびえている。サリーさんとティアナさんは車を降り、暗やみの中、建物の廻りを歩き、窓を調べ、どこか入れる所はないか・・・と探している。試験場となる教室に入り込み、細工をしよう、というわけだ。
三〇分たっても入り口が見つからない。
だんだんあたりは明るくなってきた。
「正面から入ったら・・・?」
ご主人様は建物の正面の大きなドアを「ドン」「ドン」とたたいた。
「オー」
大きな寝ぼけ声がした。守衛さんがドアのすぐ裏側で寝ていたらしい。やがて『ギー』という重い音と共にドアが開いた。
わたしたちは守衛さんの脇を駆け抜け、大急ぎで二階に昇った。そこでみんな『ホッ』として小休止して、それから仕事に取り掛かった。
クラスルームの入り口の扉は閉まっていた。でも、この建物の天井は非常に高く、教室の壁は途中までしかなかった。だからこの壁を乗り越えれば教室に入れる訳だ。
「やっぱりデウィじゃ無理ね。ジローに来てもらってよかったわ。ねージロー、出番よ。この壁乗り越えて」
「エーッ・・・」
ご主人様はなにやらブツブツ言いながら、乗り越える場所を探していた。
やがて椅子を運んできて、その背を足場にし、壁に飛びつき、乗り越え、中に入った。どういうわけか着地の音がしない。
「あらジローはいい泥棒になれるわ」と、ティアナさん。
「ドアは内側からも開けられないよ。あとどうする?」
「ちょっと待って! 今、本を扉の下から渡すから。その本を大きな柱の左側の席に置いてくれる? ウン、そうそう。そのあたりが特等席なのよ」
ご主人様は本を一四脚の椅子の上に置き、また壁を乗り越えて出てきた。また着地の時に音一つさせない。ご主人様の本職はなんだろう?
大学四人娘(2)
こんなに苦労してカンニングして、一四人が同じ答案を出しても、ある人は試験に合格し、ある人は落ちた。とサリーさんは言う。
「ねー、おかしいのよヨシエ。同じ答案を出したのに、わたしとティアナは通っていて、リニーとリアは落ちているの。どうなっているのかしら?」
「日本でも事情は同じよ。多分、教授はろくに答案読んでないのよ。ただきれいに書いてあれば良い・・・とかね」
「うん・・・多分リニーは純粋の中国系でしょう。だから意地悪をされているのよ・・・。でもリアは通るはずなんだけど・・・」
「中国系だと意地悪されるの?」
「そりゃーそうよ、ヨシエ。わたしの弟だって、小学校、中学校と進学するのに先生方にお金を積まなきゃならないのよ」
「本当!」
「高校に入るのはもっと大変よ。どんなに成績が良くたって相当にお金を使わないと入学できないの」
「公立高校でしょ?」
「そうよ。もっと大変なのはわたしの行っているような国立大学なの。なにしろ政府が、中国系は数パーセントしか入学させない、と決めているでしょ。だから競争が激烈なの」
「あら! じゃー、あなたたちはすごく優秀なのね!」
「いやーねー、今ごろ気がついた? 大金を積んで入学させてもらっている中国系もいるらしいけど。うちは貧乏でしょう。だから入れたのが不思議なくらい」
「そうねー」
「それに進級するのも大変なのよ。この間リニーが教授に呼ばれて雑談してたら、教授が『実は家の塀が壊れてねー』と言うんですって。つまりそれはね、リニーにお金を出させようとしているわけ。塀を直すか、お金を出さないと、いくら立派な答案を出しても合格点をくれないのよ。だからリニーの家は大変よ。毎年お金を使わないと進級できなくて・・・」
「サリーやティアナはどうなの? お金は使わないの?」
「うちは貧乏だもの・・・。ティアナのうちも裕福とは言えないし・・・。その辺の調べはついているのよ」
「ひどいのねー」
わたしはただのメイド。だからこんな話は初めてで興味深かった。わたしの家族で高校まで行ったのは、お兄さんただ一人だ。あとはみんな小学校も途中までしか行ってない。だから大学の話は雲の上のことでピンとこない。だけど中国系の人も、いろいろと差別に苦しんでいることが分かった。
なんでこんなにジャワ系と中国系はいがみ合うのだろう? わたしは『同じ人間だ』と思うんだけど・・。
サリーさんによると、女子大生の中には大学教授の『いいなり』になって、それで合格させてもらう子もいるという。『いいなり』というのは、もちろん男女関係のことだろう。
こんな話は、わたしには信じられない。だって、いったい何のために大学に行くのかしら・・・と思う。
わたしは今まで、大学教授というと神様と同じような人だと思っていた。大学生だって偉い人々と信じていた。だけどサリーさんの話を聞くと、大学教授なんて、人間の仮面をかぶったサルのように思えてくる。そして、わたしの大学に対するイメージは、壊される一方だ。
ある日、リニーさんは友達と二人で中部ジャワに発った。サリーさんによると、リニーさんは二度、三度と再試験を受けたのに合格できないので、だれかに黒魔術をかけられたと疑っている。そこで中部ジャワに住む高名なドクン(祈とう師)に会って、呪いを解いてもらうのだという。
「それならいっその事、教授に呪いをかければいいじゃないか。合格させないと殺すぞ! と、おどかしゃいいのに・・・」とは、ご主人様の言葉。
ご主人様は冗談で言ったようだけど、わたしは冗談でなく本当にそうしたらいいと思う。きっとリニーさんは似たようなお願いをしてくるに違いない。教授もウワサを聞いて、慌ててリニーさんを合格させることだろう。
『リリーン、リリーン』
朝の五時だというのに電話が鳴った。
「ハロー、ヨシエ居る? ティアナだけど」
「ハイ、少々お待ち下さい」
奥様はまだ寝室に居たが、電話の音で起きた様子だ。
「ティアナ、どうしたの、こんなに早く?」
「ごめん。ごめん。緊急の用事があって・・・あの・・・もしかするとわたしあてに電話がかかってくるかもしれないから・・・悪いけど内容聞いといて。今。人捜してるの。じゃーね」
「変な電話ね。デウィ」
「そうですね。今、試験中で忙しいのに人捜しとはおかしいですね」
六時半になったら、ティアナさんが友達二人を連れて、ひょっこり姿を現した。
「どうしたの、ティアナ? 七時には試験が始まるんでしょう?」
「えー。でもねー、今、人捜しをしてるのよ。その人が教授から試験の問題用紙を買ったんですって。だから昨夜から必死で探しているの」
「なんだ、そういう人捜しなのね・・・。それで見つかりそうなの?」
「名前は判ったけど、まだ連絡がつかないの。電話が来たら、どこかで会えるか聞いといて」
「えーいいわ」
ティアナさんとその友達はあたふたと出ていった。
サリーさんもやって来た。
「ヨシエ、電話あった?」
「ないわよ」
「そうでしょうね・・・。せっかく買った問題用紙、そう簡単に見せてくれる訳ないし・・・」
「そんな人捜しする時間があったら勉強すればいいのに・・・」
「勉強しろったって大変なのよ、ヨシエ。なんせ試験の範囲はこのぶ厚い本五冊だし、英語で書かれているのよ。判らない所も多いの・・・。だからジローに解釈の仕方、教えてもらおうと思って来たんだけど、でも、今ごろ家に居る訳ないね」
「今晩でいいんでしょう? どうせ再試験があるんでしょ?」
その本は、国と国との間に関する法律について述べているという。わたしはサリーさんを見直した。やっぱり大学生はすごい。外国語の本を読んで勉強しているんだもの。
やっぱりわたしは、大学生のこと尊敬することにしよう・・。
暴動の余震
「いったい何の事かしらねー?」
奥様は不思議そうに首をかしげていた。
今朝、近所のジャワ人の若奥様が突然、うちの奥様に会いにきたのだ。初対面のその奥様は、散々中国人の悪口を言った後、「何かあったら、わたしの家にいらっしゃいね・・・」と言って、帰ったのだ。
昼になったら今度はカリム夫人がやって来た。そして、ひとしきり中国人の悪口を言って帰って行った。
「今日は変な日ね・・・」と、奥様はつぶやいた。
三時になったらご主人様が姿を現した。
「どうしたの、こんなに早く・・・?」
「大変、大変、暴動が起きて中国人が襲われているよ」
「エエー!」
「街の要所要所には戦車が出て、鎮圧しててね・・・」
「本当?」
「いや、それは他の街の話だけど、でもスラバヤでも暴動が起こらないよう、戦車が出動してたよ。ほら、日本の新聞にも大きく出ているだろう」
「わー、恐い」
日本の新聞には、車が燃えている写真が載っていた。
奥様の説明によると、暴動はジョク・ジャカルタという。中部ジャワの古い都市で発生し、それがジャカルタ市、スマラン市にも移って、そしてさらにスマトラ島のメダン市まで飛び火し、メラメラと火が燃え上がっているそうだ。
スマラン市では、ジャワ系の若者が中国人商店街を襲い、石を投げ、火を付け、トラックで大きな店に突っこんで、鉄の格子を壊し、中の品物を奪っているという。
反中国人暴動となると、この高級住宅街も安全な所といえない。この住宅街は、いわば貧しいジャワ人の海の中の小さな孤島だからだ。
その上、この住宅街の住人はほとんど中国系で、七十七軒の家のうちジャワ系は六軒だけだ。しかも、ジャワ系と中国系の家の間には、まったく行き来がない。子供たちも一緒に遊ばない。
うちの奥様のところにはジャワ人も中国人も訪ねてくる。奥様はいろいろ気を使って、ジャワ人と中国人を一緒に会わせしないようにしている。
ジャワ人のほとんどは回教徒だし、中国人の九十九%はクリスチャンだ。そのあたりにも問題がある。
よくスラバヤのキリスト教会では、礼拝中に石が投げ込まれたりするそうだ。回教徒の中にはクリスチャンは敵だと思っている人もいる。でもそういう人は一部で、ふつうの人はクリスチャンだからといって差別はしない。いったい何がちがうのだろう? わたしには回教徒の方が断食したりして、神の教えをちゃんと守っているような気がするだけだ。
翌日は土曜日だった。ご主人様は昼頃帰っていらした。あまり街の中に変化はないそうだ。
でも近所のメイドの話では、軍隊も出て小さな衝突がテュンジュガン通りであったという。
近所の中国系の家は、門の扉をピッシャと閉めて、誰も姿を見せない。襲われることを心配しているのだろう。
事実、一〇年ほど前、反中国人暴動が起こり、何十万という人が殺されたという。ブンガワン・ソロ河も、この時は河の水が人の血で、赤く染まったと言い伝えられている。
またこういう時は、日頃いじめられている家主への復讐のチャンスだ。暴れる人たちの手引きをして、閉めてある扉を開けたりするメイドも出てくる。
二時になったら、ご主人様はテニスに行く用意を始めた。奥様が一生懸命止めている。でもご主人様はニコニコ笑って出かけていった。
「まったくジローはテニス・ギラ(きちがい)ね。こんな時に外出するなんて・・・」
奥様はため息と共に、後ろ姿を見送っていた。
六時になって、ご主人様が無事に帰ってきた。
「どうだったの? 相手はいたの?」と、奥様。
「もちろん。三人もいたよ。例の洗剤会社の若社長によると、スラバヤは陸軍、海軍総出で、いち早く学生たちを押さえ込んだからもう安全だってさ」
「そうなの・・・良かった。でも、よくそんな詳しい情報が入るのね」
「そりゃ、中国系のお金持ちだもの、政府の高官や軍部の大物とは通々だよ。中国系が献金する見返りに、政府や軍隊が安全を保証しているのさ。でも、中流以下の中国系は大変だろうな」
「そうなのよ! さっきサリーから電話があってね。外出できないんですって。それに弟が学校の帰りにジャワ系の若者に取り囲まれて、さんざん殴られたんですって。『おまえ中国系だろう?』と言われてね。もう当分、高校に行けないそうよ」
この暴動騒ぎは、スラバヤでは一週間で収まった。スラバヤでは小さな衝突が二~三回あっただけだが、他の都市では大暴動に発展したらしい。
夜の集会やティアナさんたちの話によると、人もだいぶ死んだらしい。とくに店を焼かれて破産した商人などには、気が狂ってしまった者や、自殺者が相次いだという。
暴動についてのラジオ、テレビ、新聞の報道は一切なかった。しかし暴動が収まってから、テレビで政府による『事の起こり』の詳しい説明があった。
暴動を最初に起こした青年の話では、中国系の若者と喧嘩をして負けたので悔しくなり、仲間を連れてその若者の働いている店を襲ったという。その騒動の最中に『ジャワ人が中国人に殺された!』というデマを飛ばしたそうだ。
そのデマが大学に流れ、それを信じた学生たちは怒りだし、たちまちに別の都市にもデマが流れて、一気に中国人商店街の焼き打ちが始まったのだという。
暴動を起こした張本人は、「嘘をついて、事を大きくして、申し訳ないと思う。だが、中国系の人々も傲慢な態度は取らないで欲しい・・・」 と、恨めしそうな目つきをしてテレビに出ていた。
暴動の余震 2
「ジロー、昨夜のテレビの張本人の話どう思う?」
サリーさんは興奮気味に尋ねた。
「もっともらしい話だったと思うけど・・・」
「そうでしょ? ところがジャワ人の学生たちは、あのストーリーは怪しい、と言うのよ」
「エーッ、どういうこと?」
「張本人の若者は、あーいうストーリーにしろと命令されてたんじゃないか、というわけ。生放送じゃなくて、ビデオだったでしょ」
「それはそうだな」
「つまりね。ジャワ系の学生たちは『デマ』を飛ばしたのは、政府のスパイじゃないか、と言うの。つまり、学生は政府に巧く挑発されて暴動に走ったわけよ、判る?」
「ウーン、なんとなく判るけど・・・」
「スハルト政権というのは、軍部と中国人の金持ちの支持で成り立っているでしょ。だから時々今度のような暴動が起こって、中国系の肝を冷やした方が、献金も増えるし、支持も強固になっていいわけよ」
「なるほどね。ジャワ系の物の見方はおもしろいね。でも、その見方が正しい可能性があるとすると、インドネシアも恐ろしい文化を持っているわけだ」
二人の会話の内容をサリーさんから説明されて、わたしは信じられなかった。昨夜のテレビの内容について疑うなんて、信じられなかった。
この話がサリーさんの口から出てなければ、わたしはバカバカしいと、すぐ忘れてしまっていただろう。でも、大学の学生さんたちが言うのだから、本当かもしれない。
この反中国人暴動のあと、サリーさんは大変に悩んでしまった。
「ねー。わたし日本に移住できないかしらヨシエ? 兄や弟もインドネシアを脱出したいと言うの」
「日本は難しいところなのよサリー。閉鎖的で文化的偏見が強いの。それより、シンガポールやカナダ、アメリカはどう?」
「うん、シンガポールに船で密入国した人がいるのね。その人はすぐインドネシアに送還されてきたのよ。だからシンガポールは駄目ね」
「そりゃ、密入国はどこでも駄目よ。隣の家の子供は二人ともカナダの大学に行っているでしょう。ご両親は、どうやら子供を頼ってカナダに移住するようよ」
「うん。わたしの姉と妹がドイツに留学しているけど、妹の方がドイツ人と結婚するの。だから妹に頼って行けるのかな?」
「そうよ、そういう手がかりがあった方がいいでしょうね。お兄さんや弟さんは何て言っているの?」
「どうしても脱出したいって。そのうち、今のジャワ人の立場と、中国系の立場が強制的に逆転されるんじゃないかって恐れているのよ。工場はジャワ人に取られて、弟たちはベチャの運転手になる他ないとか・・・」
「それは無いと思うわ。だって中国系がビジネスのノウハウを握っているし、中国系なしでは、この国の経済が壊れちゃうでしょう? それに、中国系と言ったって、みんなここで生まれ育って帰る所は無いし、やっぱり、もう、自分はインドネシア人だと思っているんでしょう?」
「うん、わたしはね。でも、あんな恐ろしい暴動があると、ここにいるのは恐いわ。殺されるかもしれないのよ。コンコン(父親)も『何処でも好きな国に行っいいよ。お父さんは寂しいけど、我慢できる。帰って来なくても、お父さんは怒らないよ』と言ってくれるの。ねー、どうしよう。ヨシエ」
奥様は涙ぐんでいた。コンコンの気持ちを想ったのだろう。サリーさんも涙もろい。奥様の涙を見て泣きだした。
わたしはやり切れない気持ちになった。どうして同じ人間同志なのにいがみ合うのだろう。そりゃー、いばった中国人は多い。だけどジャワ人だって同じだ。よい人ばかりじゃない。
前にわたしがメイドをしていた家のイメルダ、あのイメルダだったら、わたしでも石を投げつけてやりたい。でもサリーさん一家は別だ。サリーさん一家まで恐怖に落とし入れるなんて、何かが間違っている。
二人の話を聞いていて、わたしの心は乱れた。そして、またまた怒りの炎がメラメラと赤く燃えてきた。わたしって、いつでも、どうしようもないことに直面すると、泣かないで怒るみたいだ。
「サリーは女の子だから外国に移住しやすいかもね。結婚すればいいんだから・・・。でもお兄さんや弟さんは大変ね」
「そうなの。兄の方は工場主を辞めて、料理人にでもなろうか・・と言っていたわ。料理人だったら世界中、どこに行ってもお店が開けるでしょう」
「うーん。でも、もったいないわねー。立派な工場主なのに・・」
「弟の方は、これから一生懸命勉強して、アメリカに留学すると言ってるわ。でも、もともと勉強嫌いだし。どうなることやら・・・」
わたしは、サリーさん一家にはスラバヤに居て欲しい、と心から思う。工場が無くなったら、生活できなくなるかもしれない。だけど、そんな理由じゃない。あの心の暖かい家族が居なくなったら、わたしの心の何処かが冷えきってしまうのだ。
わたしはサリーさんに言った。
「サリーさん、もし外国に移住するなら、わたしとティも連れていってください。お願い!」
サリーさんのお兄さんは、その後、料理人になる考えを捨てたという。そのかわり、今の仕事をもっと発展させ、妹や弟の脱出のためのお金を作り、ご両親の面倒を見ることにしたそうだ。
第三章
なぜ農民は貧しいの?
マーナ誕生
新しい年を迎えて四日目の朝、東の空に虹が出ていた。久しぶりの虹で、不気味なほど鮮やかな七色で不吉な予感がした。わたしの国では虹は不吉なことが起きる印しだとされている。
その日の夕方、兄が訪ねてきた。やっぱりよくないニュースだ。妹がまた病気だという。そしてベッドの上でうわ言を言い、しきりにわたしの名前を呼ぶという。意識が戻ると「デウィに会いたい」と母にせがむという。わたしはすぐドーバー村に帰らなければならない。
奥様に許可を求めたら
「帰っていいわよ。それと、このハンドバッグをお母さんへ持っていって。プレゼントよ。あと、これでお土産を買って行きなさい」
と三千ルピアもくれた。
翌朝、わたしは「三~四日後には戻ってきます」と言って家を出た。姉のティも帰りたかったらしい。でも黙ってわたしを行かせてくれた。
母へのお土産のハンドバッグは、奥様にお返しした。せっかく高価なハンドバッグを持って帰っても、家族やら親戚の人が来て、母のもとから持ち去ると思う。母はプレゼントを喜ぶだろう。だけど母は使えず、誰かに取られてしまう。そうしたら、奥様のせっかくの好意を無にすることになる。
わたしは一晩眠れず、いろいろ考えた。このバッグを売って、お金に換えて母にあげられないか・・・とも考えた。でも、結局、このバッグは奥様にお返しすることにした。
奥様は不思議そうな顔をして聞いた。
「でも、どうして他の人が持って行ってしまうの?」
「田舎の風習なんです。こういう素晴らしいハンドバッグはみんなのものになるんです。田舎では、個人の物は服ぐらいで、あとはみんな一緒に使うんです。でも、最後は、力のある人が持っていっちゃうんです」
奥様はなんとなく事情が飲み込めた様子だった。
昼にはドーバー村に着いた。妹は心配していたよりも元気そうだ。
「デウィ、来てくれたの。うれしい! 会いたかった・・・」
「わたしが来たんだから、もう大丈夫よ。早く元気になってね」
「うん。もう元気よ。治ったわ!」
妹は盲腸炎で、すぐ手術をしないと危険らしい。兄弟、親戚が集まっていた。みんなでお金を出し合い、医者を呼ぶことにした。この地方では、まず先にお金を払わないと、医者も来てくれない。わたしは帰りの旅費を残して、持っているお金を全部だした。
夜になったら医者が来てくれた。太ったお医者さんは、新しくて大きい車に乗って来た。医者は命に別状ないし、手術しなくても治りそうだという。みんなはホッとして、溜息をついた。手術をすることになったら、どうやってそのお金をつくろうか、と、みんな内心秘かに悩んでいたからだ。
三日ほどたった。薬が効いたのか、妹は大分元気になった。そこにティがひょっこり姿を現した。
「デウィ、交代して。奥様に『わたしも帰りたい!』と泣いて頼んだの。すぐ帰ってくれる? 妹はもう大丈夫なんでしょ?」
ティの気持ちはよく分かった。ティも本当はすごく妹思いなのを知っていたからだ。ただ、ティは気が強くて、頑固。だから、みんなから頼られる反面、恐れられてもいる。
わたしには『やさしさ』しかないから、人には好かれるけど、あまり頼もしい存在にはなれないみたい。
翌朝早く、わたしはドーバー村を出た。妹の悲しむ顔を見たくなかったので、わざと会わなかった。別れを惜しむのは、わたしは好きでない。
「奥様に渡しておくれ・・・」
と言って、母がバナナとバリ・ジュルク(ザボン)を渡してくれた。ちょっと重たくて運ぶのが大変だったけど、ありがたかった。
三日後にはティもスラバヤに戻ってきた。妹はもう外を歩けるようになったという。この里帰りは、よいタイミングだったと思う。二月に入ると、いよいよ奥様は出産だ。わたしたちも忙しくなるだろう。
奥様が出産されたのは、三月のはじめだった。三千二百グラムの男の子だ。
奥様から電話があり、病院に荷物を届けに行った。十階建ての大きな病院で、奥様の部屋は冷房の効いた個室だ。奥様はまだ寝たきり。わたしはそこに半日居て、お客様にお茶やお菓子を出し、身の回りの世話をした。
ご主人様も一緒だった。ジーパンに白いティーシャツ姿のご主人様は、非常にご機嫌良くお客様の接待をしていた。
来客は多かった。サリーさん一家も、ティアナさんの家族もみんな来て、賑やかだった。お腹の大きな、日本人の若奥様もお見舞いに来た。この方も、もうすぐこの病院で出産する予定だという。
わたしの奥様は、なにやら一生懸命にこの方に話をしていた。あとで聞いてみたら、日本式出産法とインドネシア式の違いを話したのだという。
「デウィ、この国の産み方だと、赤ん坊が体から出てくるところを自分で見られるでしょ。両足を自分の手で抱えるから。でも、日本では違うの。その話をしたのよ。彼女ビックリしてたでしょ。わたしも驚いたし、やっぱり知らないと、とまどうと思って・・・」
奥様が出産したとき、ご主人様は分娩室の外で、一晩中歩き回っていたそうだ。
ご主人様の解説では、奥様は最初、インドネシア語で「痛い!痛い!」と言っていた。それがやがて英語で「ヘルプ・ミー・プリーズ!」になり、そして最後は日本語で「助けて! 死にそう! どうにかして!」と叫んでいたという。
「ジロー、息子が生まれた感想は?」とサリーさん。
「ウーン、さっぱり実感がわかないな」
「でも、嬉しいでしょ」
「マアーね、でも、それより生まれて来た子と分娩室の外で初対面して、ビックリしたよ」
「なんで?」
「いやー、もっと猿に近い感じかと思ったら、とんでもない。もう立派に一人前のツラをしてたから・・・。それに赤子はすごく緊張しててね。回りで何が起こっているのか知ろうとしてたんだなー。赤ん坊というのは生まれた瞬間から一人前なんだね」
「でもまだ歩けないし、喋れないし、一人前とは言えないでしょう?」
「うん、ボクの一人前というのは、赤ん坊に、確固たる意志の存在を感じたんだな。強烈な自己主張もある。甘くは見れないと思ったよ」
「そうねー。お人形さんとはちょっと違うわね」
「それとヨシエの苦しむ様子を見てて、女性に対する尊敬の念が増したな。出産というのは大変な試練なんだね。あれじゃー女性は強くなって当たり前だし、男もウカウカしてられないね」
五日たって奥様は退院した。赤ん坊はカエルの様な顔をした可愛い子だった。名前はマーナという。
ご主人様は、毎日毎晩、大活躍の様子だ。夜中のミルクの調合がご主人様の仕事らしく、三時間ごとに起きてはミルクを作っている。そして朝になると、いつも通り仕事に行く。日本の男性は育児に協力的でいいな、と思った。インドネシアの男たちなんて、赤ん坊を産ませっ放しで、あとは何にもしようとしない。
マーナ誕生(2)
あっという間に一ヶ月が過ぎてしまった。最初の間は週二回シスターを呼んで、マーナをお風呂に入れてもらった。今はわたしと奥様の二人で入れている。最近はようやく奥様も、わたしのやり方や知識に信頼を置いてくれるようになった。
といっても、日本とインドネシアでは育児方法が異なるので、わたしも時々、とまどってしまう。
まず、奥様はオムツとオムツカバーを使う。わたしの国ではオムツのかわりに、薄い布を一枚まとうだけだ。そして赤ん坊の時からオシッコもウンチもトイレでやらせる。慣れてくると、赤ん坊がいつ頃『もようす』のか判ってくる。日本式だと『気』を使わなくてすむけど、汚れ物が多くなる。
奥様はマーナが泣いても、放って置くことがある。
先日もマーナが泣きやまないので部屋に入っていったら、奥様は呑気そうに本を読んでいる。
「奥様、マーナが・・・」
「いいのよ放っていて。ミルクは飲んでゲップも出たし、オムツは取り替えたし、異常はないし、ただ甘えているだけなのよ。そういう時は放って置くことにしているの」
わたしには信じられない扱い方だ。わたしの国では、赤ん坊を泣かせておくのは悪いことだとされている。だから泣いていればすぐ抱き上げられ、あやされる。
奥様のマーナの抱き方も変わっている。赤ん坊と胸を合わせて抱くのだ。わたしの国では赤ん坊の背中に母親の胸が合うように抱く。
「ねーデウィ、シスターをまた探そうと思うの」
「どうしてですか、奥様」
「こんど、主人の会社で大きな祝賀パーティーがあるの。マーナは連れて行けないし、夫婦で出席した方が良さそうだし、あなた一人に預けておいては悪いから、シスターに来てもらおうと思うの」
「・・・・・。じゃ、わたしはそのシスターの見張りをします」
「えー、そうして頂戴」
奥様の考えていることは判っている。わたしじゃ、まだ、心配なのだ。まだ十八歳になったばかりだし、ティだってまだ十九歳だ。年配の、子供がいるようなシスターに預けた方が安心なのだろう。それはそれで良いけど、でも、どんなシスターが来るか、それが問題だ。
痩せて、小柄な、四十歳のシスターが来ることになった。奥様が行っている病院の紹介である。
パーティーの当日がやって来た。わたしはシスターの仕事ぶりを観察しようと心に決めていた。マーナに睡眠薬など飲まされたら大変だからだ。
シスターの人柄は良さそうだった。
夜の八時になったら、「マーナは寝てるわ」と言って、メイド部屋にテレビを見に来た。わたしだったらマーナの側から一歩も離れないのに・・・と、思う。
やがてマーナが泣きだした。わたしもシスターに付いて行き、様子を見た。シスターはマーナを抱き上げて泣きやまないと、すぐミルクを飲ませた。マーナは泣きやんだけど、しばらくするとまた泣き始めた。
シスターはまた抱き上げ、ミルクを飲ませようとした。マーナは『いらない・・・』と、合図している。シスターはオムツを調べ始めた。大量のオシッコをしている。
<たいしたことないな、このシスターは>と思った。わたしだったら、まず泣いた原因を探す。ウンチかもしれないし、蚊に刺されたのかもしれない。なんでもすぐミルクを飲ませるなんて、良い方法とは思えない。
でも、こんな事、奥様に言うつもりはない。初めての日からシスターの悪口をいうのは良くないことだと思う。
また同じシスターが子守にやって来た。
今度は、ご夫妻がスラバヤの日本領事館に夕食に招かれ、マーナを置いて行かざるを得ない、という。
わたしはまだこのシスターのことを信頼していない。良い人だけど、何か頼りにならない感じがする。
案の定、奥様たちが出ていったら、『ゴホン、ゴホン』と咳をし始めた。風邪を引いているのだろう。このことは、奥様に報告せざるを得ない。
今夜はテレビを見に来ないし、静かだな・・・と思って、マーナの寝室を覗いて見た。マーナは眠っていた。そしてシスターもいびきをかいて寝ていた。こんなことで良いのだろうかと、わたしは思う。
奥様が帰って来て、シスターが入れ替わりに帰る時、シスターは軽く『ゴホン』と咳をしてしまった。奥様はハッとして、
「風邪を引いているのね。うちに来る時は気をつけてね」というと、シスターは、「えー、もうほとんど治っていますから」と言ってお金を受け取り帰って行った。
「シスターは疲れているようで、少し居眠りしてましたよ」とわたしは簡単な報告をした。
「あー。そうだったの・・・?」
奥様は、何か考え込んでいる様だった。
五月になって、奥様のご両親が日本からスラバヤまでマーナを見に来られた。奥様は料理などで忙しいので、またシスターを呼んだ。
奥様のお父様は外科のお医者様だ。このお医者様がシスターの仕事ぶりを見ていて、「このシスターのセンスはあんまり良くないな。マーナの扱い方はデウィの方が上手だぞ」と奥様に言ったという。
「それは判っているけど、でもデウィはまだ子供でしょう」
「いや、そんな事ないわよ、デウィの方がシスターより、よっぽど安心して見てられるわ」と今度はお母様が言って下さったそうだ。
それ以後、わたしが全面的にシスターの仕事をする事になった。
マーナが生まれてからというもの、どういう訳か、新しい来客がどんどん増えた。サリーさんとは別の大学の学生や、ジャワ系の女子大生も遊びに来るようになった。マーナは何故か人気者だ。
サリーさん、ティアナさん、リアさんなどのマーナへのラブコールは異常すぎる。
サリーさんなんか、「あら、可愛いオチンチン『チュッ』」と、大切なところにキスをしたりする。
奥様が、「あら、オシッコしたばかりよ。ショッパイでしょう?」
「ウーウン、おいしいわー」とサリーさん。
ネネ、カケ、街を行く
奥様のご両親は大酒飲みだ。一日にご主人様と三人で、なんと、ビールの大ビンを二〇本も空けてしまった。その上同じ日に、ウイスキーも二本空にした。
みんなが、あまりにもおいしそうにビールを飲むので、わたしとティは、秘かにビールを舐めてみた。でも苦くてまずく、がっかりした。
一週間の滞在中、ビールは百本、ウイスキーも一〇本以上空にした。酒屋の方でも、毎日のようにケースごとビールを注文するので驚いて、「何人のパーティーですか?」と電話をかけてきた。
奥様の弟さんも一緒に来ていた。二一歳だというけど、わたしより若く見える。メイド部屋に来ては、ギター片手にビートルズの歌を歌ってくれた。すごく上手だった。
ティもわたしも、言葉はまったく通じなかったけど、この三人のことをいっぺんで好きになってしまった。そしてこの三人のことを、何から何まで、近所のメイドたちに喋ってしまったので、この住宅街の家主たちも、みんな注目している。
ご両親はお互いに『ネネ』(おばあちゃん)『カケ』(おじいちゃん)と呼び合っている。
ネネ、カケと弟さんは、サリーさんティアナさんを連れてバリ島に遊びに行った。
サリーさんの話によると、プルタミナ・コテージという一流ホテルでも、ネネ、カケは大酒を飲み、レストランを占領し、歌い踊ったという。
サリーさんとティアナさんは、新しい経験をいろいろしたようだ。
「本当いうとね、ヨシエ、わたしもティアナも飛行機乗るの初めてだった。だから緊張しすぎで気分が悪くなって、空港で二度も吐いてしまって・・・。そして飛行機の座席に変なベルトがあるでしょ。あれの使い方が判らなくて、カケに留めてもらったのよ」
「あら、飛行機は初めてだったの?」
「うん。それからバリに着陸してからも大変よ。外に出ようと思って飛行機の降り口で後ろを振り向いたら、テイアナがいないの。どこに行ったのかと思って戻ったら、ティアナはベルトのはずし方が判らなくて、椅子から動けないでいるの。ティアナは必死で、大汗かいているし、わたしは見付かったら恥ずかしくて、冷や汗かいちゃった」
「だけど、ネネもカケも、何も言ってなかったけど・・・」
「気づかれないで済んだのよ。それからホテルに着いたらまた大変。お風呂の使い方も、トイレの使い方も判らないの」
「弟にでも聞いたの?」
「うーうん。恥ずかしいじゃん。だからホテルのカウンターに英語で問い合わせたの。インドネシア語使うと、『なんだこの田舎っぺ』と、馬鹿にされるでしょ・・・」
「それで無事、トイレも使えた訳ね?」
「うん。だけど欧米式って不潔ねー。紙を使うんでしょ? 紙を濡らして使うなんて、気持ちが悪かったー」
「え? 紙は乾いたまま使うのよ!」
「ええ? ほんとに? 信じられないわ!」
わたしも、乾いたままの紙を使うとは知らなかった。インドネシア式では、左手と水しか使わない。
サリーさん、ティアナさんでも欧米式ホテルに泊まるとこんな調子では、わたしやティではどうなるのだろう?
「それにヨシエ、エレベーターって恐くない?」
「どうして?」
「だって、途中で停まっちゃったらどうするの? 密室だから出られないじゃん。それに墜落したら怖いわ」
「まさかエレベーターに乗ったの、今回が初めてじゃないでしょうね?」
「初めてよ! だってスラバヤには、ホテルにしかエレベーターがないでしょ。ホテルなんて学生には用がないし、行った事ないもの。だからバリ島のホテルで昇り降りの実験をしてみたの。怖かったわ!」
わたしもエレベーターに乗った事はない。でもエスカレーターは見た事がある。テンジュガン通りのデパートにあったけど、怖くて乗らなかった。
カケ、ネネと弟さんは、上機嫌でバリ島から帰ってきた。三人からはお土産を貰った。黄色いティーシャツと、花模様のシャツだった。
ネネ、カケ、弟さんはサリーさんに連れられて、ベチャ二台に乗って、パサール・グンテンに出かけた。この市場は、スラバヤの中でも、もっとも近代的で清潔なところ。だが、三人の感じた事は、まったく違っていたらしい。
カケは、ライ病患者の乞食にしつこく追いかけ廻され、太った体をゆすり、ギャー、ギャー、言って逃げ回ったそうだ。お金を渡したくても、一銭も持っていなかったのだ。お財布を持っていたネネは、パイナップルを値切るのに忙しくて、カケどころじゃなかった。
三人が帰って来て奥様に報告していたが、みんな悪臭と皮膚病持ちの乞食が多いのに、参っていた。
その夜、ご主人様はカケと一緒に夜の街に出て行った。なんでもカケが、スラバヤで一番人気のある飲み屋と、最高級のバーに行ってみたいと言ったらしい。
カケは、「売春街の飲み屋にも行ってみたけど、いやいや不潔でかなわんわ」と言ってご帰宅された。
二人はドーリーと呼ばれる売春街に行ったのだ。ここにはあちこちの農村から、若い娘が働きに来ている。貧しい農村の娘が簡単にまとまったお金を稼げるのは、こういう場所しかない。
でも、貧乏人は農村だけでなく、都会にも居る。農村ならば貧しくても何とか食べられる。だが都会では飢え死にする。だからスラバヤでも、赤ん坊の産み捨てが多い。こういう赤ん坊は病院で保護され、養子の欲しい人に売られていく。買った人は少し育ててみて、気に入らなければ別の子と取り換える事もできる。
ネネとカケは日本から、大きな魚を三匹も持ってきていた。
庭の正面、客間から一番良く見える場所にポールを立てた。そこに三匹の魚はスルスルと登っていく。なんでも、一番下の小さな青い魚がマーナだそうだ。
青空でキラキラ光り、ピチピチと泳ぐ青い魚。マーナもこんな風に、元気に育つといいな・・・。
「ねー、ティ、これから毎月、マーナの生まれた6の日に、このお魚泳がせようよ!」
「そうね、マーナが元気に育つようにね」
カケ、ネネ、弟さんは、大満足した様子でスラバヤを発った。わたしとティは弟さんが大好きだ。最後の夜に「ねー、わたしたちも日本に連れてって」と、おねだりした。でも、弟さんに言葉は通じない。なんとなく、くすぐったそうな顔をしてとまどっていた。
消えたジーンズ
「デウィ、ジーンズのズボン、どこかしら?」と、奥様に聞かれたのは、土曜日の朝七時のことだった。ご主人様がゴルフにはいていくのに違いない。
その時わたしは、楽しい気分で食堂のテーブルの上を拭いていた。だが突然、その青空の様な気分に、黒雲が張り出してきた。何か嫌な予感がした。
「ちょっと待って下さい。ティに聞いてみます」
わたしは急いで食堂の隅にあるらせん階段を昇り、二階の物干し場に行った。姉のティは鼻歌まじりのご機嫌でマーナのオムツを干していた。
「ティ、ジーンズのズボンどこにあるか知らない? ご主人様がゴルフにはいて行きたいらしいのよ」
「そうねえ・・・二日前にアイロンをかけたわね・・・そして、奥様の部屋の鏡台の脇に置いたわ」
「それが、奥様の部屋に見当たらないんですって」
「エー! そんなはずないわよ」
ティも一緒に食堂に戻り、奥様に報告した。
「おかしいわね・・・」
奥様は部屋に戻りゴソゴソ探している。ご主人様はイライラと客間を歩き回っている。そして日本語で、奥様に何か言っている。怒っているみたいだ。
わたしもティも、身の縮む思いだった。なにしろ、何か物が無くなると、まず第一番に疑われるのは、わたしたちメイドだからだ。
ご主人様はブツブツ言いながら、車に乗ってゴルフに行ってしまった。
さー、それからが大変だ。ティもわたしも必死になって、一階と二階の各部屋をくまなく探した。ベッドの下ものぞいたし、戸棚という戸棚は全部開けてみた。奥様も、もう三〇分以上もクロゼットを調べている。
でも、結局ジーンズは見つからなかった。
わたしとティは探し疲れて、客間の大理石の床に座り込んでしまった。どう考えても不思議だった。ジーンズは何処へ消えてしまったのだろう。奥様は客間に突っ立ったまま考えこんでいる。
そこに電話が来た。奥様が出て日本語で話している。
「いまゴルフ場のスワミ(主人)から電話があってね、今日から外部の人を家に入れるな、と言ってきたの。だから近所のメイドにも遠慮してもらう他、ないわね・・・」
「・・・・・・」
裏のメイド、リーも呼べないなんて、どうしよう。みんな、この家に来るのを楽しみにしているのに・・・。わたしは悲しくなった。ティを見たら、大理石の床を拭きながら、涙をポトポト落としている。
ご主人様も奥様も。わたしたちのことを疑うわけがない。でも、ティが本当に部屋に運んでいたなら、なくなるわけがないのだ。だいたい、ジーンズ一本だけ盗むなんて、メイドぐらいしかいない。
木曜日と金曜日は、外部の人が家に入った。
木曜日の朝には、大工さんが屋根の雨もりを直しに来た。
金曜日の朝にも、汲み取り屋さんがバキュームカーで来ていた。
それに、裏のリーやダイも二~三回来ている。
お昼近くになったら、ダイがやって来た。奥様やご主人様が嫌っているメイドで、わたしたちも好きじゃない。でも『くるな』なんて、とても言えない。
ダイと世間話していたら、奥様が現れた。
「ダイ、悪いけど今日から当分、家の中までは入ってこないでね。外部の人には家に入ってもらいたくないの」
「なんで? 何故いけないの?」
「この二~三日の間に、主人のジーンズがなくなったの。あなたを疑っているわけでは、もちろんないけど、でも外部の人が持ち出したと思うの。だから、当分、外部の人を内に入れるのを止めようと思うの。あなただって疑われるのは嫌でしょ?」
「ジーンズって、きのうの朝、このアイロン台の下にあったズボンのこと? わたし、『これだれの?』って、デウィに聞いたじゃない」
「そうよ、そのジーンズよ」
と答えながら、わたしも思い出した。金曜日の朝ダイが来て、アイロン台の下をのぞき、物欲しそうに『これだれのもの?』と聞いたので、『ご主人様のよ!』とはっきり言ったのだ。
「でも、木曜日にティがわたしの部屋に運んだんでしょう。それがなんでアイロン台の下にあったのかしら。変ねー」
「わたしは間違いなく、木曜日にアイロンをかけて、奥様の部屋に置きました」
ティはいったん『こう』と言い出すと、簡単には引き下がらないところがある。
「ねーティ。それ、もしかしたら、わたしのジーンズのスカートじゃなかった? いま思い出したけど、二~三日前に、ジーンズのスカートが鏡台の脇に置いてあった・・・」
ティはハッとして、考え込んでしまった。
やがて・・・「すみません、木曜日にアイロンかけたの、奥様のジーンズかもしれません。そう言えば、スカートだったような気がします」
「やっぱりそうね・・・。そうなると、誰かがこのアイロン台の下から持って行ったのね。今日、主人が帰ってから、またよく相談してみるわ。ともかく、ダイも家の中までは入ってこないでね。この近所の家でも、みんなそうしているでしょ」
奥様はそう言うと、車で買物に出て行ってしまった。残されたダイは、すごく不満そうだったけど、シブシブ帰っていった。ダイはマドラ出身だし、あまり怒らすと黒魔術を使うかもしれないし、気をつけないといけない。
奥様が買物から帰って来た時、裏のリーが血相変えて飛んできた。奥様に話があるという。奥様は電話中だった。リーは電話が終わるまで待って、どうしても奥様に会いたいという。
「奥様! なんでデウィやティに会いに来てはいけないのですか? いつもこの家に集まって、おしゃべりしたり、マーナに会うのを楽しみにしているのに・・・」
「それは・・・、本当はあなたには今まで通り遊びに来て欲しいのよ。でも、ジーンズがなくなってしまったでしょ。これは外の人のしわざだと思うの。それで外部の人の立ち入りを禁止した場合、あたなだけ例外・・・というわけにはいかないでしょ。ダイの手前もあるし・・・」
「じゃー奥様は、わたしが盗んだ可能性もあるって言うんですね!」
リーは泣きだした。
リーはマドラ島から働きに来ている太った、イカツイ顔をした、でもとても優しい心を持ったメイドだ。わたしの奥様だって、全面的に信頼している。年齢は三四歳で、子供もマドラに一人居る。わたしとティにとっては、姉のような存在。
「そうじゃないのよリー。あなたの事は疑ってないし、遊びに来て欲しいけど、でもはっきり言うと、ダイには来て欲しくないの。ねー、だから当分、我慢して頂戴」
奥様は困り果てた様子で、苦しげに説明していた。奥様がダイを嫌うのは当然だ。ダイが来ると、よく小さな品物が消えてしまうからだ。
「奥様! もう結構です。わたし、もう二度とこの家に足を踏み入れません! 盗んだなんて疑われるのは本当に心外です。二度と来ません!」
リーはクルッと向きを変え、駆け足で外に出ていった。目に涙を浮かべて・・・。
ティもわたしも、そして奥様も、何もいうべき言葉がなかった。
しばらくの沈黙のあと、
「もう一度、考えてみましょう・・・」と奥様は言い始めた。
「金曜日の朝までこのアイロン台の下にあったとなると、そのあとに来た人は・・・汲み取りの男の人が四人と、ダイだけでしょう?」
「はい。ダイはすぐ帰ったし、汲み取りの四人組は、テイとわたしで、ずーと見張ってました」
「そうよねー。わたしも意識して見張っていたし・・・」
奥様はまた考え込んだ。
「あの人たちだけになるチャンスは、まったく無かったかしら?」
「・・・・・・」
「あら、そういえば、汲み取りの終わる頃、日本人の若奥様が訪ねて来たわね。あのときティは庭の門を開けに行ったし」、わたしも客間に出迎えて、アイロン台の側を離れたわ。デウィはどうしてたのかしら?」
「わたしは・・・、お客様のため、台所に入ってお茶の用意をしたと思います」
「あら、それじゃー、ほんの一瞬だけど、そのとき三人とも、アイロン台の側にいなかったことになるわね」
「そういえば・・・」
「犯人は、どうやら汲み取り人夫の男たちのようね。ジーンズも男物だし・・・」
犯人は汲み取り人夫の一人だったようだ。
ジーンズはアイロン台の下のカゴに入っていて、しかもアイロン台には、布がかぶせてあった。その布を持ち上げてみないと、中に何があるのか判らない。だけどわたしを含めて貧しい人は、常に<何かないかな・・>と気を配っている。
あの人たちもたぶん、わたしたちの見ていないときに布を持ち上げ、中を見たのだろう。そして、帰りがけに持って行ったのに違いない。
ご主人様が帰ってきたら、何と言って叱られるだろう。あのジーンズは、ご主人様がシンガポールで買ってきたばかりの、お気に入りのものなのだ。
これが中国系の家だったら「お前たちもグルになっているんだろう!」と疑われるし、少なくとも「お前たちが盗んだのと同じ様なものだよ!」と、こっぴどく叱られるだろう。そして、給料だって今月は半分にされるかもしれない。
夕方になって、ご主人様は真っ赤に日焼けして帰って来た。わたしたちは会わないように、メイド部屋の中からのぞいていた。
ご主人様と奥様は、ジーンズの一件を客間のソファに座って話し合っている。冷たいお茶を恐る恐る持って行ってみたら、ご主人様はニコニコしており機嫌が良い。わたしはホッとした。
やがて奥様がメイド部屋に来た。
「主人は『しようがない』と諦めているわ。犯人は汲み取り人夫のようだし、どうしようもないわね。でも、これから、こんな事のないように、もっと気をつけてね。外部の人の立ち入り禁止も、犯人がはっきりしたので解除するわ。リーにもそう言っといて」
それだけだった。当然叱られると思って覚悟していたのに、気が抜けしてしまった。どうして、こんなに寛大なのだろう? 信じがたいことだ。
ピストル強盗
サリーさんの家にピストル強盗が入った。真っ昼間の事だ。中年の大男がノッソリ店先に現れ、家の中まで入ってきて、サリーさんのお父さん(コンコン)にピストルを突きつけた。
「百万ルピア出しな」
小さなコンコンはひっくり返るほど驚いて、
「ちょっと待ってくれ、そんな大金置いてないけど、ワイフに聞いてくる」と言った。
奥に入ったコンコンは、サリーさんのお母さんに
「オイ、どうしよう、百万ルピアあるか? ピストル強盗だ」
コンコンのヒザはガタガタふるえていた。
「百万ルピア? 高すぎるわよ! 五万ルピアにまけさせなさい!」
「エーッ! 五万ルピア? オイオイ、それしかお金ないのか・・・?」
「もちろん無いわよ! 強盗にやるお金なんかあるわけないじゃない。いいからすぐ戻って値切って頂戴!」
コンコンは恐る恐る、強盗の待っている居間に戻った。
「あーあー、あのー、五万ルピアしかないんだけど・・・いいかいそれで・・・?」
「少ねーなー、百万ルピアと言ったろう・・・。まあいいや、一〇万ルピアにしようか。あと五万ルピアぐらいなら、なんとかなるだろう?」
「わかった、わかった。なんとか探してみるよ」
コンコンはまたお母さんの所に戻った。
「あと五万ルピアでオーケーだ。あるだろう?」
「まあ、あなたったら! 七万五〇〇〇ルピアにまけさせなさいよ!」
「エーッ? もういいよ。相手は本当のピストルを持ってるんだぞ! 俺はもう居間に戻るの嫌だよ。それをお前、まだ値切るなんて・・・」
「いいわよ、じゃ。わたしが行くわよ」
「イヤイヤ、やめとけ、危険なことは、俺にまかしとけ」
コンコンは七万五〇〇〇ルピアを持って、足が地に着かず、ヨロヨロしながら居間に戻って行った。
「こ、こ、これしか無かったよ」
「そうか、あ、ありがとう」
大男はノッソリと出て行った。
スラバヤでは、泥棒、強盗事件は少しも珍しくない。でも、真昼の強盗というのは珍しい。それに、値切りに応ずる強盗というのも、あまりいない。
ピストルはたぶん、警官に五千ルピア払って借りて来たものだろう。それにしても大人しい強盗で良かった。
ふつう、強盗に入られたら、まず逆らえない。強盗は山刃を武器にして金持ちの家に押し入る。そして家族全員を縛り上げ、一室に押し込め、ゆうゆうと金品を持ち出す。
先日ジャカルタで、アメリカ人の家に強盗が入った。そこの家のご主人は、三人の強盗を相手に戦い、とうとう殺されてしまった。
わたしの国の強盗は、逆らう者がいると、まず手首から切り落とす。それでも逆らうと、片腕を切り落とす。そこまでされたら、誰だって逆らうどころじゃなくなる。だがこのアメリカ人は片腕を切り落とされて逆上し、なおさら暴れ回ったらしい。
スラバヤでも最近、やはり強盗に逆らおうとして、腕を切り落とされた娘がいる。幸いなことに、娘は気絶してしまったので、両親が止血して、一命はとりとめた。
もしもこういう強盗が捕まったら、たぶん警察に渡される前に、殺されてしまう。以前、わたしは、万引きした男が捕まったのを見たことがある。犯人はまだ少年だった。その子が店まで連れ戻されたとき、顔は血だらけで鼻はつぶれ、目玉は飛び出し、前歯は無くなっていた。捕まったときに、殴る蹴ると、徹底的に暴行されたのだ。
少し前になるけど、この高級住宅街でも続けて二件、強盗事件があった。
隣の中国人の家では、夜中の三時に強盗が押し入ろうとしたが入れず、結局、玄関のガラス戸を叩き割り、靴を三足持っていった。
その家の若奥様は、一足、三〇万ルピアもする物だ、と吹聴していたが、その家のメイドによると、せいぜい一足、三万ルピアの品物だそう。
もう一件は向かい側の家だ。やはり真昼中に強盗が入り、客間からビデオやステレオオセットを持ち出した。だが、家の人たちは、それを知っていて寝室のドアを堅く閉じ、息をひそめていたという。
事件が続いて起こったため、この住宅街でも自衛団を作ることにした。ちょうどお金持ちの警察官が住んでいるので、この人が音頭を取った。
だが、ここに住む中国系の多くは分担金を払わない。自分で自分の身は守るから、余計なお世話だという。だが、ともかく、自衛団ができてから、強盗事件は無くなった。
この二件にしてもサリーさんの件にしても、警察には被害届を出さない。
サリーさんによると
「警察なんかに頼ったって駄目よ。逆にワイロを要求されて、かえって高くつくわ。それに、中国系の家を襲う強盗は、警察とグルになっている、という話もあるくらいよ」
これでは強盗が、中国系ばかり狙っても当然だ。
強盗といえば、昨夜のメイドの集まりでも泥棒の話がでた。
マディウンという町で、ある宝石店から金の鎖を万引きした者がいた。真っ昼間の事で、店の人がその泥棒を追いかけ、他の店に逃げ込んだ泥棒を捕まえた。捕まえてみたら、なんとそれはサルだったという。
「ブラック・マジックを使って泥棒がサルに変身したのよ!」
と、あるメイドは目を輝かす。サルに変身すれば、『なんだサルか』ということになる。そして無罪放免になるというのだ。
「誰か、サル使いがいて泥棒させたんじゃない?」
「でも、盗んだときは人間だったのよ」
「じゃー、盗んだ人がサルに渡して逃げたのよ、きっと・・・」と、わたしは反論した。
結局、わたしの意見は少数派だった。メイド仲間のほとんどは、ブラック・マジックを使った説に賛成だった。
泥棒には要領の良い者もいる。
ある日本人夫妻は転勤が近づき、毎晩サヨナラパーティーで忙しかった。
忙しい中での荷造りだったので、引っ越し準備が終わったのは、出発前の朝、二時だった。そしてご夫妻が疲れ果てて寝込んだところに泥棒が入ったのである。
箱に入ったステレオやテレビ、ギターなどを、泥棒たちはトラックに積み込んで、アッという間に持ち去った。
庭の門にも、家の扉にも鍵が掛かってなかった。もちろん、メイドが閉め忘れたのである。ご夫妻はメイドが手引きしたに違いないと思い、メイドを脅かしてみたが、証拠はないし、あとの祭りだった。
コンコンは一ヶ月後に、ピストル強盗の大男と、道でバッタリ出くわした。
大男は親しげに寄ってきて
「先日はどうも・・・お世話になりまして」と、深々と頭を下げた。
コンコンは『友達づきあいされちゃーかなわん』と思って、一目散に逃げ帰ったそうだ。
わいろ・ワイロ・賄賂
「救急車を呼んで! 急いでね!」
ティアナさんの隣の家のご主人が階段を踏み外し、頭を打って意識不明。
スラバヤでは自分の家に車があったら救急車なんて呼ばない。呼んだって一時間、二時間と待たされ、手遅れになってしまう。
でもこの時は何故か、一五分ぐらいで救急車が到着した。みんな大喜びで病人を車に乗せたが、車が動かない。
「どうしたの? 急いで病院へ行ってよ!」
「ガソリンが無いんだ。二万ルピアある?」
「ガソリン代は五〇〇〇ルピアで十分でしょ! ハイ、五〇〇〇ルピア。急いで行って頂戴!」
運転手はニィッと笑うと、お金を受け取り走り出した。もちろん、ガソリンは十分入っていた。
赤ん坊のマーナは、インドネシアに不法滞在中だという。出生届を出さないといけないらしい。
普通、わたしたちは出産しても出生届は出さない。だが一七歳になったら届け出て、身分証明書を貰わなければならない。
サリーさんによると、わたしの国では、生まれて来た子供の半分が、五歳になるまでに死んでしまう。だからこんな制度になっているそうだ。
でもマーナは外国人だから、出生届を出しておいた方が良いらしい。
生まれて半年たって、ようやく裁判官が出生届に署名をしてくれた。署名にあたって裁判官は、何かお礼が欲しいという。そこでご主人様は、現金三万ルピアに高級万年筆セットを添えて、お礼とした。
病院の中でも事情は同じ。
奥様がマーナを産んだ直後はまだ身動きができず、看護婦の手助けが必要だった。そのためには、先にチップを出さねばならなかった。
ある看護婦など、突然、水とグラスを持って部屋に入ってきて、テーブルに置き、そしておもむろに引き出しの中を引っかき回し、『これ貰うわ・・』と言って、新しい下着を持っていってしまった。
リアさんは、いつもオートバイで大学に通っている。でも、免許証は持っていない。
「なんで免許を取らないの? もう経験は十分でしょ?」と、奥様が尋ねたことがある。
「試験は受かるけど、面倒で・・・」
「警察には捕まらないの?」
「一度捕まったけど平気よ。五〇〇〇ルピア渡しておしまい。いつでも五〇〇〇ルピアさえ用意してあれば、免許証はいらないの」
「そんなに簡単なの? でも、警官も表立ってはワイロを取れないんじゃない?」
「それはそう。捕まったら上手にお金を渡さないとね。警官も慣れたもんで、五〇〇〇ルピアをチラつかすと、すぐ人目につかないところに連れていって、真面目そうにお説教してから受け取るのよ」
「じゃ、やっぱりビクビクしながらやってるのね」
「ウン、少しオドオドしてるわ」
警官にはお金持ちが結構いる。この住宅地の中にも一人、裕福な警察官が住んでいる。国家公務員の給料は安いことで有名なのに、この人は大金持ちだ。なにか副収入があるに違いない。
サリーさんの母親が西ドイツに行くため、パスポートを取った。この時も、ワイロ、ワイロで大変だった。
「もう三週間も待ったのよ。もっと急いでよ」
と、サリーさんは旅行代理店のロビーさんに言う。ハンサムなロビーさんはサリーさんに気があるらしく、よくこの家に来る。
「あと三週間はかかるかもしれませんね。なにしろお役人はノンビリしてるし、休暇中の人もいる・・・」
「困ったわねー。妹の結婚式にギリギリだわ。なんとかならない?」
「そりゃー、ワイロを使えば二日もあれば取れますけど・・・」
「そうね。兄に相談してみるけど、それしか無いかしらね・・・」
結局、通常の三倍のお金を払って二日後にはパスポートを手に入れた。
「ロビー、ありがとう。でも随分お金がかかったわね」
「いやー大変でしたよ。机から机に書類を動かすたびに三〇〇〇ルピア払いましたから・・・」
「ホント、じゃ、お役人は相当な副収入があるのね」
「そうですよサリーさん。かれらの月収はどのくらいになると思います?」
「見当がつかないわ。でも、多くても三〇万ルピアぐらいでしょう?」
「とんでもない! 本給七万ルピアの下級役人だって月収は百万ルピアになるんですよ。上級役人はその二倍から三倍くらいかな・・・」
「ホント? 天文学的数字じゃない!」
「本当いうと、ワイロを払わないと一年待ったってパスポートは発行されないんですよ。旅行代理店の通常料金の中にはワイロ代も入れてあるんですけどね・・・。でも、今回のようなケースもあるし、ワイロの額がエスカレートして大変ですよ」
この家に電話が入った時も同じだった。家主のジャワ人は「すぐ電話は入りますから・・」と言って、半年たってしまった。
「本当にお恥ずかしい限りです。これではわたしの面子が立ちません・・・」
家主は電話局のお役人に四〇万ルピア払って電話を入れさせた。半年前にも三〇万ルピアのワイロを払っていたのだが、その役人が転勤になってしまい、ウヤムヤにされたとのことだ。
ところでわたしは、自分の国の悪口を言っている訳ではない。こういうワイロを受け取る人々は、少数なのだ。わたしの知っている人々・・・貧しい人々だ・・・は、こんな事には無縁だ。
わたしが不思議に思うのは、なんで、学問や教養のある高い地位の人々が、争って不当な利益を得ようとするのだろう、と、いうことだ。
学問も教養も無いわたしたち農民は、毎日必死で働き、正直に生きているというのに・・・
「ヨシエ、まだまだ色々あるのよ・・」とリアさんは言う。
「来年になったら、わたしたち仕事を探すことになるでしょ。これがまた大変なの。何かコネがあれば楽だけど・・・。たとえば叔父さんが会社の社長とか、政府の高官だとかなら、なんとか仕事は見つかるわ。でもコネが無かったら、自分で役所や会社にあたるわけでしょ。そしたらまず、人事担当者にお金を贈って、試験や面接のチャンスを作ってもらうのよ」
「じゃ、人事担当者もお金持ちになれるわね」
「うん、それでいざ採用となっても、今度は会社に五〇万ルピアぐらいお金を積むのが普通なの」
「エッ、そんな大金?」
「そうね、少なくとも三ヶ月分ぐらいのお金を会社に渡しといて、それで、毎月、また同じ会社から給料を貰うわけ」
「なんで?」
「会社としては見知らぬ人を雇うわけでしょ、品物を持ち出される心配もあるし、秘密を盗まれたり、すぐ辞められるかもしれない。一種の保険金なの」
「じゃー。渡したお金は辞めるときどうなるの?」
「普通は帰ってくるけど、でも正式に預けているわけじゃないから、取られてしまっても文句は言えないのよ」
「そんなー」
「でも、これが現実。だから貧乏だったら仕事も探せないのよ」
「信じられないわ。日本では人手不足もあり、ロボットまで使っているのに」
「ヨシエ、なんでお役人の給料が安いか知ってる?」
「知らないわ」
「結論からいうと、税収が足りないのよ。インドネシアじゃ、ほとんど誰も税金を払わない。商売人はもちろん、大きな企業も、税務署のお役人にワイロを払って、それでおしまい」
「じゃー、どうやってお役人の給料払ってるのかしら?」
「石油の収入があるのよ。それに軍隊の場合、陸軍、海軍がそれぞれ営利会社を経営していて、その収益で軍人を養っているの」
「フーン」
リアさんはさすがに大学生だ。こういう事には詳しい。だがまだよく判らない。いったい誰が得をしていて、誰が損をしているのだろう? ハッキリしているのは、わたしたち農民には、百万ルピアの月収なんて、夢の又夢だし、第一、税金を払えるほどの収入も無いという事だ。
「この国はワイロで腐ってるね。でも、まあ、金さえ払えば規則も法律も曲がるし、ある意味じゃーやりやすいな」 とは御主人様のセリフだ。
でもわたしは、<わたしの国は腐ってなんかいない!>と思う。腐っているのは、一部だけだ。それも権力者や、教育程度の高い人々が中心だ。
運転手ジャルミアスおじさん
「奥様、ジャルミアスおじさんの家ご存知ですか?」
「えー、住所は判ってるわ、『赤い橋』のそばでしょ?」
『赤い橋』というのは、独立戦争のとき、オランダ軍とインドネシア軍がこの橋をめぐって戦い、橋が血潮で赤く染まったので、そう呼ばれている。実際の色は、なんの変哲もないコンクリート色。
「ジャルミアスおじさんは、毎日あそこから、歩いて通ってるんですって」
「エッ、歩いて? ベモを利用してないの?」
「おじさんは歩くのが好きだって言ってますけど、本当はお金を使わないようにしてるんです。それに、夜の一〇時を過ぎるとベモもないし・・・」
「あら、それじゃー、毎晩遅かったから、それで病気になってしまったのね。二階の空き部屋に泊まってもらえば良かったわね」
「わたしもそう思って、『奥様にお願いしたら?』と言ったんですけど『いいよ、いいよ』と言って帰ってしまったんです」
「あの人らしいわね。デウィ、悪いけど今日これから、ジャルミアスのところにお見舞いに行ってくれる?」
「はい奥様」
ジャルミアスおじさんは、ご主人様の車の運転手をしている。おじさんは、毎朝一時間ほど歩いてこの家に来る。家に着くと車をガレージから出し洗車する。七時になると、ご主人様のご出勤だ。
ご主人様のご帰宅は、大体、夜の七時頃だ。でも、ときどきパーティーがあって遅くなる。朝の一時、二時になることもあるが、おじさんはそれから家に帰り、水浴びをして、また六時半にはこの家に来る。もう五〇歳だというのに無遅刻、無欠勤。
そのジャルミアスおじさんが、今日は熱を出して欠勤するという電話連絡が入ったのだ。
このところご主人様は、連日パーティーで朝の二時の帰宅が続いた。東京からお客様が来ているらしい。
おじさんも毎日付き合っており、大変だった。だから、その疲れが出てしまったのだろう。
ジャルミアスおじさんの家は、ベモのターミナルのそばだ。『赤い橋』は小さな橋で、車が渋滞している。その『赤い橋』を通り抜けると、そこはオランダ時代の建物が立ち並ぶ、ビジネス街だ。
右手にはスラバヤ市最大のバスターミナルがあり、大型バスがひしめいている。ベモのターミナルもその一部を成しており、わたしはここで下車し、あとは歩いておじさんの家に向かった。
バスターミナルの向かい側には、クリーム色のヨーロッパ風の建物が続き、銀行、船会社の看板が林立している。道幅も広い。
このメインストリートを西に歩き、右に曲がると、高いコンクリート塀があって、塀の上には監視人の小屋がある。スラバヤ刑務所だ。先日、ここから三人の脱走者が出たという。あまり気持ちの良い所ではない。
そこを左に曲がると、住宅街に入る。その中流住宅街を抜けた所に小さなな川があり、そのドブ川の向こう側が『カンポン』と呼ばれる集落になっていた。
おじさんの家は、『カンポン』の内側で、ドブ川に面しており、小さな庭もあった。庭では強い日差しの中、やせたニワトリたちが、せわしげに地面を突っつき、走り回っている。
「ごめんください」
「はい、はい」と、奥の方で声がして、奥さんが出てきた。
おじさんは痩せて小さくて、立派な口ヒゲを貯えているが、奥さんは対照的にコロコロ太っており、エネルギッシュに見える。
「部屋は汚れていますけど、どうぞ入って下さい」
奥さんは小さな居間に入れてくれて、甘くてぬるい紅茶を出してくれた。
「これ、うちの奥様からです・・・」
フルーツが盛り合わさったカゴである。
「エッ、本当にこれ頂いていいんですか? 申し訳ありません。本当に良いお方に使って頂いて、うちのパパも喜んでいますんですよ。今日は大事をとって休んでますけど、明日にはもう出て行くと思いますよ。あの人は痩せてるけど、それは頑丈でね。病気なんてした事、無いんですけど・・・」
奥さんは、おじさんと正反対でよくしゃべる。
家の中に小さな女の子が入ってきた。
「お子さんですか?」
「えー、ドナというんですよ。まだ五歳なんですよ。うちには八人も子供が居ましてね。メイドを雇うようなお金は無いし、大変ですよ。もっとも、一番上の男の子は会社に勤めてますし、子供たちも家事を手伝ってくれるから、大分、楽になってきましたけどね。でも、一ヶ月の収入は九万ルピアでしょ。少ない月は八万五千ルピアしかないし・・・。お金の無いときは、ご飯に赤い唐辛子だけです過ごすんですよ・・・。お米は毎朝、次男坊が買いに行ってくれますし、長女は洗濯を手伝ってくれるし、三男坊は手先が器用でねー、いろいろ彫刻を作っては売って、家計の足しにしてくれるんですよ」
奥さんは、話し始めると、とどまるところを知らない。
ジャルミアスおじさんは寝ていたので、会わずに帰って来た。
この一家の長男坊は国立大学を出たという。学費は親戚の人が出したそうだけど、それでもいろいろ出費があったことだろう。この貧しい生活の中で、どうやってやりくりしたのだろう?
わたしの家に比べたら、おじさんの家はまだ豊かな方だ。子供たちも高校まで行かせてもらえる。でも、かれらは質素な生活をしており、その収入も、みんな自らの労働で、正当に得たものだ。
ジャルミアスおじさんのことは、わたしの奥様も気に入ってる。
なにしろ礼儀正しいし、一生懸命働く。おかげで、ご主人様の車はいつもピカピカだし、奥様が買物に行っても、荷物はいつもおじさんが持つので、奥様も大助かりだ。
この家では、おじさんに待ち時間があると、椅子が与えられ、紅茶やケーキが出る。だが、向かいの家のドライバーの場合、待ち時間といったって、庭にも入れてもらえない。だから道路のふちに腰かけて時間を過ごす。もちろん飲み物なんて出ないから、水道の蛇口から直接水を飲む。
でも、これが、運転手の典型的な扱い方なのだ。
この家の、運転手の優遇ぶりは、この近辺では有名で、近所の奥様方も不思議がっていた。
「そりゃ、運転手のなり手はいくらでもいるけど、ジャルミアスみたいに立派な人は、めったにいないでしょうね。だから待遇を良くしても当然なのよ」と、奥様は言う。
たしかに、ジャルミアスおじさんの日焼けした顔には、誠実な生活態度がにじみ出ている。だけど、生活は楽にならない。
ワイロを取って豊かな生活をしている人たちからお金を奪って、おじさんに渡したくなる。百万ルピアと九万ルピアの収入差は、大きすぎると思う。これではあまりにも、不公平だ。
正直で誠実な人間は馬鹿を見るみたいだ。それとも、誠実な人は、いつか報われるのだろうか? おじさんの陽に焼けて、引き締まった顔はいつも明るい。この幸せそうな顔を見ると、少しは心が安まる。
悪いことをしてお金を沢山持ってても、幸せとは限らない。おじさんのように貧しくても、正直に精一杯生きていたら、みんなから愛され、信頼され、ささやかでも楽しい生活ができることだろう。
私の奥様(1)
ご主人様はある日、口ヒゲを剃ってしまった。口ヒゲのあるご主人様は、映画スターのヤスマン・リバイのように素敵だったのに・・・。
「どうして口ヒゲを剃ってしまったんですか? 奥様?」
「ヒゲを伸ばしても、さっぱり女の子にもてないんですって。会社の秘書からは、『みっともない』と言われるし、誰も誉めてくれないんで剃ったのよ。かわいそうに」
口ヒゲのあったご主人様はアラブ人のように見えた。ヒゲを落としたら、今度は大学生のように若く見える。目は相変わらず鋭くて恐いけど、あまり怒らない。そして何を考えているのかさっぱり分からない。
ご主人様のインドネシア語も独特だ。
「デウィ、マティ、マティ、ニャモックどこにあるの?」と、ご主人様。
『マティ、マティ、ニャモック』て何だろう?と、わたしもティも考えた。
「『死ね、死ね、蚊?』あっ! 殺虫剤のことか!」と、やっとこ判った。それからわたしたちも、殺虫剤のことを『マティ、マティ、ニャモック』と呼ぶことにした。
ご主人様に比べると、奥様のインドネシア語は格段に上だ。流暢な上、発音に『なまり』がまったく無い。
先日も半年間、毎日のように屋台を押して来ていたパン屋さんが
「実は、奥様が外国人とは知りませんでした・・・」と白状した。ここで生まれ育った中国系だと思っていたのだ。
奥様は寝間着のままで家の外に出て野菜やパンを買ったりする。でもこれは、スラバヤでは当たり前。わたしたちは普段着も寝間着も区別しない。
うちの奥様が寝間着姿で外に出るようになったのは、最近のことだ。それだけに社会に溶け込んで来たのだろう。
もっともご主人様は、奥様が薄地のロングドレスの寝間着で道路に出ると
「なんだ、ハダカで外にでるのか・・・」と、呆れている。
野菜屋さんは、自転車にいっぱい野菜を積んでやってくる。
「あら、このキャベツだいぶ汚れているわね。ただで頂戴よ。また明日、いろいろ買ってあげるから・・・」
奥様はただで大きなキャベツを手に入れてしまった。
本当のところ、最近では、わたしたちと同じくらい、値切るのが上手になっている。昔は高く買わされていたのに、今では、安く買いすぎるんじゃないか・・・と、相手が気の毒になる時すらある。
でも、この野菜屋さんのように、相手を信用して気に入ると、毎日特別注文し、良い物を高く買っているから、いいんだろう。
最近来るようになったパン屋さんも、奥様のお気に入りの一人だ。
あるとき、奥様がパン一斤買って二五〇ルピア渡した。二日後にまたそのパン屋さんが屋台を引いてきて、奥様がまた同じパンを買った。
「いくらでしたっけ、このパン?」
「二五五ルピアです」
「あら、それじゃ、この間、五ルピア足りなかったんじゃない? 何で言わなかったの?」
「いつも買って頂いているからいいんです。サービスしようと思って・・・」
「何言ってんのよ。あなたは正価販売しているんでしょ。ごめんなさいね」と、奥様は五ルピア余分に支払った。
奥様は、こういう人は珍しいという。
「みんな、少しでも余分にお金を取ろうとするでしょ・・・」
と、いうわけだ。それ以来、この四〇歳になるパン屋さんも、この家の仲間の一人となり、親しくなった。
ティが歯痛で一晩眠れなかった。翌日も一日中、働きながら顔をしかめていた。奥様も当然気がついた。
「どうしたのティ、歯が痛いの?」
「えー、昨晩、急に痛みだして・・・、とうとう一睡もできませんでした」
「じゃー、痛み止めの薬あげるわ。早く言えばいいのに・・・」
そこへご主人様が帰って来た。奥様はご主人様と、何かしきりと話し合っている。
奥様が心配そうな顔をして、メイド部屋にやって来た。
「主人が『このさい、ティの歯を徹底的に治したら?』と言ってるのよ。お金はうちで払いますから、今すぐ歯医者に行ってらっしゃい」
わたしもティもびっくりした。
「いーえ、奥様、そんなにしていただかなくてもいいんです。でも今からちょっと、医者に行かせてください」と、ティ。 奥様はティに一万ルピア手渡して、客間に戻ってしまった。
『徹底的に治せ』と、二人は言って下さっているのだ。ティの目はうるんでいた。
「どうしたの、ティ」
「なんでもない・・・。でもデウィ、奥様が払って下さるなら、なるべく安くあげるわ。高くなるようだったら抜いちゃうわ」
わたしにも、このティの気持ちはよく分かる。わたしたちはこの家で、一人前の社会人として、大切にされている。だからこそ、奥様に甘えすぎてはいけないのだ。
奥様はお金持ちだから、何にでもお金をかけられる。でも、わたしたちはメイドなのだ。メイドは、なるべく、何にでもお金をかけないようにしなければ、そのうち生活できなくなる。
医者に行ったら、すぐ歯を削ってセメントを埋めた。これで当分はもつだろう。医者は「まだ抜くのはもったいないよ。痛くなったらまたおいで」という。四〇〇〇ルピア支払った。
わたしもティも、子供の頃から母にやかましく言われ、毎日、口に塩を含み、手でゴシゴシ歯を擦ってきた。この頃は、ご主人様と奥様が捨てた歯ブラシを拾い、それで毎日歯を磨いている。だから二人とも虫歯はほとんど無い。
ティが六〇〇〇ルピアを奥様にお返ししたら、「あら、一回で済んだの? もう行かないの?」と、怪訝な顔をした。
「はい、もう歯は痛くありません。ほら、白いものが詰まっているでしょう」
ティは大きく口を開けた。奥様は中をのぞき込んで、「あらほんとだ、じゃー、また医者に行くときは言いなさいよ」
「はい!」
二人そろって元気よく答えた。でも、今度行くときは、奥様に内緒で、自分たちでお金を払おうと思っている。
私の奥様(2)
「デウィ、ティ、主人とも話したんだけど、わたしたち、来年の一月に日本に帰るのよ。だからその前に、一度、あなたたちをスラバヤで一番のインドネシア料理店に連れて行きたいの。いいでしょう?」
「レストランなんて・・・、もったいないです。奥様」
「それに、ご主人様と一緒に食事するなんて恥ずかしいわ」
「『ゴチャ』というお店、知ってる? スラバヤで一番おいしい店だそうだけど・・・」
「知りません。立派なレストランなんて、生まれてから一度も入ったことありませんから・・・」
わたしは小さな中国料理店で働いた事はあるけど、レストランというイメージからはほど遠い。だからわたしにとっても、レストランに行くのは初体験になる。
『ゴチャ』に連れていってもらったのは、一一月の終わりだった。マーナも一緒。
『ゴチャ』のあるテンジュガン通りには、七色のネオンが輝いており、活気がある。店内は冷房が効いており、清潔で、料理もとてもおいしかった。
「じゃ、次はデザートでも食べに行こうか?」と、ご主人様がおっしゃって『ゴチャ』を出た。
デザートを食べる所というのは、白亜の宮殿のようなホテルだった。大きなガラスドアを開けて中に入ると、そこには天井が吹き抜けになっていて、高い高い天井から、巨大な布が二枚吊り下がっていた。
布の下はロビーになっており、金色の厚いジュータンが敷き詰められ、真っ赤な大きなソファが並んでいる。そこでは金髪の外国人たちが新聞を読み、お酒を飲んで談笑していた。
わたしもティも、なるべく堂々とふるまった。
ご主人様のあとに着いて行くと、ロビーの奥に明るいレストランがあった。ここも青い目の人々で一杯だ。みんな横目でわたしたちのことを見ている。
レストランの右側には、バリ島の絵画、彫刻などを売っている店や、ケーキ店があり、左手には四角い食卓テーブルが並んでいる。その奥の壁際が一段高くなっており、ソファがある。わたしたちはそこに座ってお茶を飲んだ。
はじめて見るホテルの内部だ。ロビーに吊り下がっているシャンデリアは、家のより、百倍は大きい。家具調度品も、コーヒーカップも、気が遠くなるほど美しい。昔の王官でも、これほど立派だったろうか?
サリーさんに言われた。
「あなたたち、ジローやヨシエが優しいからといって甘えちゃ駄目よ! あの二人だって、いろいろあなたたちに不満はあるだろうし、随分我慢していると思うわよ!」
たしかに心当たりはいくつもある。
この間も、つい話に夢中になり、一〇時半過ぎてもメイドの集まりから戻らなかった。そしたら、奥様が探しに来た。
奥様の姿を見てわたしもティも飛び上がり、みんなの所を離れ、奥様のところに行った。奥様は心配そうな顔をしていた。
「一〇時前には家に入りなさいね・・・」
「ハイ、スミマセン・・・」
このときは、あー、奥様はわたしたちのこと、心配してくれてるんだなぁ、としか思わなかった。でも、今になって考えてみると、しっかりした家のメイドは、もうとっくに帰っていたし、わたしたちは、もっと怒られても不思議ではなかった。
ティもわたしも、よくテレビをつけっ放しで寝込んでしまう。朝まで気づかないこともよくあった。しかも、一回や二回ではない。こんなときも、奥様は決して怒らない。
「朝早くから働いて疲れているんだから、あまり遅くまでテレビを見ちゃ駄目よ。体に悪いわよ」としか言わない。
こんなときも、もしかすると、奥様は我慢しているのかもしれない・・・とサリーさんに言われてから考えるようになった。
ご夫妻は、一度もわたしたちを怒ったことがない。何か言いたそうにしても、我慢している。その間に、わたしもティも、その言いたい事を察して、解決してしまう。だから怒られないで済んでいる面もある。
それにしても、わたしはこの一年三ヶ月の奥様との付き合いを通じて、大きく変わったようだ。少なくとも、陽気になったことは間違いない。
人間不信に陥り、イライラ、ギスギスした昔の自分を思い出すと、ゾーとする。
この家で沢山の仕事を任され、自分の能力に自信を持てるようになったことも、大きい。そして、サリーさんたちの話を聞いていて、随分勉強になった。
わたしは、確かに、大きく強く成長したのだ。
なぜ農民は貧しいの?
今日も朝から快晴だ。もう雨季に入っているので、昨夜は大雨が降った。そのせいか、今朝はホコリがなく、青空は深く広くまぶしい。
今日はご主人様のお供をしてグレシック市までテニスをしに行く。
ジャルミアスおじさんが運転し、マーナも奥様も一緒。気分がウキウキしてくる。でもティはかわいそうに留守番だ。それを思うと、あんまりはしゃげない。
スラバヤの街並を通り過ぎると、急にあたりは広々とした塩田地帯となる。右手には青い海が広がり、黒々とマドラ島が横たわっている。
左手は見渡すかぎりの広大な塩田地帯で、地平線には、標高三〇〇〇メートルのアルジュナ山が聳えている。この山の麓には、トリテスという避暑地があり、ヨーロッパからの観光客で賑わっているそうだ。
今は季節はずれだが、九月頃には、この塩田地帯には、白いピラミッドが林立し、見渡すかぎり続く。
一本道のグレシック街道を三十分も走ると、やがて大きな河にぶつかる。ブンガワンソロ河の支流で、黄色い水をたたえ、ゆったりと流れている。
橋を渡ると、グレシック市だ。この街道ぞいの家並みは、石造り、竹を編んだ家ありといろいろだが、いずれも古びており、貧しい生活をしのばせる。
グレシック市は古くからの港町で、ジャワ島に回教が伝えられたのも、ここからだという。そのせいか、アラブ人も沢山住んでいる。この道は、わたしの故郷・ドーバへの道でもある。
車は橋を渡ると右に折れた。この脇道は舗装されておらず、大穴が道のど真ん中にあり、ドロンコ道。それでもノロノロ運転を一五分も続けたら、目的地に着いた。大きな工場だ。
入り口には守衛さんがおり、ご主人様は車を降り、話している。どうやら工場主は不在らしい。でも車は工場内に入り、やがて右折した。左手の崖下には、緑と赤に塗られた色鮮やかなテニスコートがあり、何人かプレーしている。右手の事務所の隣には室内テニスコートがあった。
そこでは女性ばかり、一二~三人でテニスをしていた。その中に、奥様の顔見知りの人がいたので、わたしもホッとした。
「あら、ヨシエさんも来てくださるなんて・・・、主人から聞いてなかったわ。本当によく来てくれたわね。どうぞ中に入って・・・」と、体の大きな夫人が、愛想よく迎えてくれた。
「これプディングなんですけど、皆さまで召し上がってください・・・」
「あら。気を使って下さらなくていいのに・・・」
ご夫人はケーキ箱を受け取ると、そばのメイドに家の中に持っていかせた。
奥様、マーナとわたしは、ご夫人方のテニスを見物した。小さな子供もテニスをしていた。
ご主人様は崖下のテニスコートに行った。
三〇分ほどしたら、工場主とテニスコーチと、他二~三名の、奥様のおなじみの人たちが現れた。ご主人様はこのテニスコーチに毎週、テニスを習っている。
このメンバーには、これまで何度か夕食会に呼ばれていたようだ。かれらの夕食会に招かれた夜は、奥様もご主人様も、そろって『ヨッパライ』になって帰ってくる。
なんでも、中国系の人々というのは、『乾杯』と叫んでは、ビールでもブランディーでも一気に飲み干し、コップの底を見せあうそうだ。そして、「人は酒に酔わず、友で酔う」
と、言っては『乾杯』を続け、友情を確かめあうらしい。
工場主たちが遅れて来たのは、昨夜、突然友人が亡くなり、そのお悔やみに、朝早く出向いたからだという。
工場主は上品な丸顔に、大きな目がパッチリ開き、太っているけどエネルギッシュだ。メイドのわたしや、ジャルミアスおじさんにも「スラマット・パギ(おはよう)」と、ていねいに挨拶してくれた。
テニスコーチは体格がよく、陽に焼けた顔は誠実そうだ。この人たちは、わたしの奥様と一時間も雑談し、それから崖下のテニスコートに降りて行った。
お昼少し前に、ご主人様が上がって来た。これから奥様も一緒に工場見学をするという。わたしとジャルミアスおじさんは台所に呼ばれ、昼食を出された。マーナは寝ている。
「この真ん丸なタマゴは、何のタマゴですか?」
と、台所で働くおばさんに聞いてみた。
「カメのタマゴだよ。食べてごらん。おいしいよ。こっちはツバメの巣、これはフカヒレのスープ。みんな高級中国料理で、めったに食べられないよ。いいからちょっと味見してごらん」
「ほんとだ、おいしい! でも、中国人って、変なもの食べるんですねー」
台所の窓からは青い海が見え、白い大きな船が停泊していた。その先には黒々と、マドラス島が横たわっている。
「ブルン、ブルン、ブルン」
突然頭上で大きな音がした。窓を横切って、大きな鳥のようなヘリコプターが、海の方に向かっていく。どうやらそのヘリコプターは、工場の敷地内に着陸したようだ。
「ワー、すごい! 工場にはヘリコプターもあるんですか?」
「そうだよ。ヘリコプターだけじゃなくて自家用のジェット機もあるよ。あすこに停泊している白い船だって、最近日本から買ったもので、一万五〇〇〇トンもあるんだよ」
「すごいですねー!」
「あんたはここの工場主の話、聞いたことないのかね? スラバヤじゃー有名な人なんだよ。なにしろ一代でここまで大金持ちになったんでね。工場主のお父さんはカリマンタン島で、ただのきこりだったそうだよ。今じゃ、カリマンタンには大工場があって、テニスコートはもちろん、一八ホールのゴルフコースもあるんだよ」
工場主やご主人様が工場見学から帰り、宴会が始まった。三〇人ぐらいの人が長いテーブルを囲んで座っている。一人が立ち上がって司会を始めた。ご主人様と奥様は真っ先に紹介された。
わたしは、宴会が賑やかに進行していくのを見ながら、ボンヤリと考えていた。
ここにいる人々は、みんな良い人のようだ。そして金持ちだ。子供たちは清潔な身なりで行儀がよい。農村の子供たちが味わうような、生活の苦労は知らないだろう。
こういう人々を眺めていると、わたしの昔からの疑問が、再び蘇ってくる。
わたしたち農民は、なぜ、こんなに貧しいのだろう? 日の出から日没まで働き続けても、一日、二五〇ルピア(八〇円)しかもらえない。そして、ほとんどの農民は借金で苦しんでいる。
一方、ここで宴会を楽しんでいる様な都会の人々は、豊かな生活をしている。
わたしたち農民の作る食べ物なしには、生きていけない、都会の人々ばかり、なんでこんなに、お金持ちなのだろう?
わたしは、このことが不思議でならない。
ティアナさんによると、パンのもとである小麦粉を作る製粉会社は、わたしの国に一社しかないという。この広い国に一社しかないのは不思議だと思ったら、「政府が他に会社を作ることを認めないのよ。だから、一社で市場を独占しているわけ・・・」とのことだ。
この製粉会社の社長は、グレシックで会った工場主の百倍以上お金持ちだそうだ。いったい、どのくらいお金持ちなのか、わたしには想像もつかない。
そして、そういう想像もできない大金持ちと、何一つ持っていないわたしたち農民。
どうしてこんなに差があるのだろう。
わたしは奥様に聞いてみた。
「日本はお金持ちの国だそうですけど、でも、やっぱりお金持ちは都会の人で、農民は貧しいんでしょう? 奥様」
「いいえ、日本の農民はお金持ちよ。農家の人ならだれでもテレビや車を持っているし、電話はあるし、外国旅行にだってよく行ってるのよ」
「どうして農民が、そんなにお金持ちなんですか?」
「それにはね、いろいろ理由があるのよ・・・」
奥様の話では、昔は日本でも農民は貧しかったそうだ。それがアメリカと戦争をした後に豊かになったという。そして、その理由としては、次の三点があげられるそうだ。
その第一は農地改革で、大地主が居なくなり、農民が自分の土地を持てるようになったこと。
第二には、都会に工場が沢山できて、農村の余った人たちが、都会に働きに出たこと。
第三には、政府が特別にお米を農民から高く買い上げていること、だそうだ。
サリーさんによると、わたしの国でも、第一の農地改革と、第三の政府による特別買い上げ処置はやっているそうだ。でも、両方とも巧くいってないという。農地を手放す農民は増える一方だし、特別買い上げ処置だって米商人を太らせているだけらしい。
わたしの国では、国民の八〇パーセントが農民で貧しいけれども、日本では人口の数パーセントしか農民が居ないという。
結局、もっとたくさん工場ができて、農村で余っている人たちがそこで働くようになれば、農村の生活も楽になるらしい。
そういえばこの頃、スラバヤの郊外にも、大きな工場がどんどん出来ている。そして、メイドを辞めて工場の女工になる者も多くなった。収入はあまり変わらない。でも、一日八時間しか働かなくてよいそうだ。
「あと一〇年たったら、インドネシアにはメイドをする人が居なくなりますよ。産児制限は順調だし、石油もありますからね」 と、あるアイルランガ大学の教授が、奥様に予言したそうだ。
本当にそんなことが実現するのだろうか? そしたらわたしも、工場で働くのだろう。
そして、農民の生活も楽になるのだ
別れの朝
もう一二月になってしまった。来月になったら、ご主人様も、奥様も、マーナも日本に帰ってしまう。
マーナは生後九ヶ月になり、もう伝い歩きしている。二~三歩なら、なんにも掴まらなくても歩く。近所の中国人たちの赤ん坊は、みんな頭を丸坊主にしているが、マーナは伸ばしたままなので可愛らしい。とくに天然パーマで、髪の毛が耳のところでカールしているのが可愛い。
マーナは三ヶ月児で離乳食を始め、八ヶ月になったら、ご主人様と同じ物を食べている。わたしの国では、八ヶ月児には、まだおかゆしか与えない。
マーナの食事は奥様が作り、ご主人様の食事はティが作っている。
サリーさんが住んでいた頃は毎日、インドネシア料理だったのに、今は日本料理が中心だ。おかげで、ティは奥様から日本料理の作り方、味付けを教わった。
奥様もひと頃、毎日のようにインドネシア料理を作っていたのに、この頃はまったく作らない。使う香辛料の種類が多くて面倒だという。インドネシア料理用の香料は、少なくとも二十三種類はある。そして、一つの料理に七~八種類の香料を使う。それに比べると、日本料理の味付けは簡単。
ティもわたしも、日本料理は片っ端から味見してみた。でも、生の魚肉だけは口に入れられなかった。せめて油で揚げてもらわないと、とても食べられたものではない。
他にとても食べられない、と思うのは、ソーメン、納豆、ヒヤヤッコだ。トウフはわたしの国でも最もありふれた食物で、値段も安い。でも、決してナマでは食べない。必ず油で揚げる。
「トンカチュ」「クロケット」「オムレチュ」もご主人様の大好物だ。
奥様はいつも、
「とんかつ、コロッケ、オムレツと発音するのよ、はい、もう一度言ってごらんなさい」
「トンカチュ」
「クロケット」
「オムレチュ」
と言わせる。
わたしたちはどうしても『ツ』という発音ができないので、奥様にコロコロと笑われてしまう。
「クロケット」いや「コロッケ」は、インドネシア料理の中にも、味は違うが、ある。だから、すぐ「クロケット」と呼んでしまう。
あるとき奥様が、「お留守番、ご苦労様」と言って、チョコレートという茶色いお菓子をお土産にくれた。
チョコレートは、ドーバ村近辺では見たことがないし、スラバヤでも買ったことがなかった。
でも、このおいしいこと!
奥様は、わたしたちが大好きなのを知ったらしく、それから、外出する度に買って来てくれた。ティの虫歯も、チョコレートの食べ過ぎが原因かな?
一月になった。
もうすぐマーナとお別れしなければならない。
ここを辞めたら、ティもわたしもドーバー村に帰ることにしている。
昨年、回教のお正月にドーバー村に帰ったとき、二人とも秘かにお見合いをしてきたのだ。このことは、長いこと、奥様にも内緒にしていた。
ティの相手は四〇歳ぐらいのおじさんで、すでに一回結婚しており、子供が一人いる。お母さんは「いい人だし、生活も安定してるから、結婚したら?」と言う。でもティはまだ決めてない。
わたしの方は、幼なじみのブディ君だった。ブディ君は小学校時代の一年先輩で、わたしたちの面倒をよく見てくれた。大きくなってからも、ときどき会ったことがある。
働き者のブディ君は、今では街道筋に小さな雑貨屋を持っている。そのブディ君がご両親とドーバー村に来て、母に「デウィさんと結婚させて下さい」と、言ったという。
ブディ君は体のガッチリした男の子で、中学校を卒業している。親は高校まで行かせようとしたが、ブディ君が断って、そのかわり雑貨屋をはじめるから援助してくれ、と頼んだそうだ。そして、今ではお店も順調で、そろそろ結婚したくなったという。
わたしも一八歳という適齢期だ。わたしの友達のほとんどは、もうすでに結婚している。一九歳のティなどは、もうすでに遅い方だ。
わたしはブディ君のこと、嫌いじゃない。だから、結婚してもいいかな・・・と思った。でも、わたしにはお勤めがある。わたしの奥様とマーナがスラバヤを発つまで、どうしても一緒に居たいと思う。だからブディ君に会ったとき、はっきり返事はしなかった。今度帰ったとき、まだブディ君が待っていてくれたら、そのときは結婚するかもしれない。
そのままスラバヤで働かないか、という誘いもあった。
給料は今と同じで、その家には洗濯機もあり、しかも、ティと二人で働けるという。その家に行ってみた。そしたら、その家にはメイドが三人もおり、人は探してないという。メイド仲間の情報も、あてにならないことも多い。
向かいの家からも「うちに来ないか?」という誘いがあった。でも、ここの奥方は、メイドを人間扱いしてこなかったのを知っている。だからもちろん断った。
ただ、この家のメイドの扱い方は、明らかに改善されている。わたしの奥様の影響もあるのだろう。その家の新しいメイドは前のメイドに比べて、大幅に自由が与えられており、よく買物にも出かけて行く。
ティは、「やっぱり、まだ結婚したくないわ」という。
「わたしは街道筋にお店を開きたいの。まだお金が足りないけど、もっとメイドを続けてお金を貯めて、そしてお母さんも引き取ろうと思うの・・・」
ティはいつもながらに、たくましい。体格も良いけど気も強いし、なにしろ実行力がある。欲しいものはたいてい手に入れてしまうから、商売を始めても、成功するかもしれない。
わたしは体も強くないし、商売も好きじゃない。なにか、人を騙しているような商売人が多く、嫌なのだ。才能も無いと思う。
だんだんと出発の日が近づいて来た。わたしたちは、着物や食器、その他いろいろな雑貨を奥様から頂いた。
今夜は、久しぶりにパーティーがあり、ご主人様が外出する。ご主人様のいない夜には、ティとわたしは必ず奥様の部屋に行き、マーナと遊ぶ。だから、早く、何かあって、ご主人様が外出しないかなぁ、と待っていたのだ。
今夜がマーナと遊ぶ最後の夜になるだろう。夜になって大雨が降った。ピシッ、ピシッと大粒の雨が屋根にあたり、室内の会話も声を大きくしないと聞こえない。雷も鳴り始めた。いつもなら、ティもわたしも奥様も、キャーキャー言って恐ろしがり、体を寄せ合うのに、今夜はそんな気分にもなれない。それよりも、少しでも長い時間、マーナのこと見つめていたい。
マーナは、わたしのこと覚えていてくれるかなー? まだ一〇ヶ月だから無理だろうな。今度会えるのはいつだろう?
マーナはわたしたちによくなついてくれた。わたしが部屋に入っていくと、マーナはキャッキャッ言って飛び上がり、ヨチヨチころびつつ歩き、笑いかけてくる。こんな風にされるとわたしはもう負けてしまって、抱き上げてしまう。
明日の朝四時にこの家を出ることにした。奥様、マーナ、ご主人様は、わたしたちを見送った後、この家を出るという。
今日は一日がかりで部屋の掃除をし、部屋を片づけた。マーナとのお別れも済んだ。明日の朝は、マーナの寝ているうちに発ちたい。マーナに甘えられたら、余分に涙がこぼれることだろう。
できたら、明日の朝は、泣かないで奥様と別れたいと思う。新しい人生の門出なのだ、と思いたい。今夜は一睡もできそうもない。
ご主人様はさっさと寝てしまった。奥様は一緒に起きて、台所をもう一度片づけたりしている。
「奥様、ひとつだけ心残りがあるんです・・・。一度でいいから、田舎の母に会って欲しかったんです・・・」
「ほんとにねー!わたしも是非会いたいと思っていたのよ。ドーバー村に行こう、と主人とも話していたのに・・・、残念ね、実現できなくて」
「きっと話が合うと思うんです」
「そうね・・・。今度スラバヤに来たら必ず行かせてもらうわ」
「いつですか?」
「それが、今のところ全然わからないの。なるべく早く、また来たいと思うけど」
「奥様、約束して下さい。わたしもティもマーナにまた会いたいんです。ねー、お願いします。また会わせて下さい」
「それは約束してもいいわ。必ずマーナを連れて来て、デウィとティに会わせるわ。なにしろ、あなたたちが育ててくれたんですものね」
「お願いします」
あっという間に夜が過ぎてしまった。
「そうだ! 隣の家で働いている、若い大工さんたちにも挨拶しなきゃ!」
ティの言葉にハッとし、わたしも慌ててティの後を追った。隣の家に行き、ドアを叩き、若者たちを起こすと、みんな寝ぼけまなこでゾロゾロ出てきた。この一週間ほど、毎晩のように楽しくお話ししていた男の子たちで、ティはその中の一人と、恋仲になりかけていたのだ。
朝の四時になった。いよいよお別れだ。
外はまだ真っ暗だ。
朝の空気はヒンヤリと冷たい。
ベチャは時間通りに迎えに来て、待っている。
親友のリーも来てくれた。
ご主人様も起きてきた。
マーナはもちろん寝ている。
夜空には、たくさんの星がキラキラと輝いている。
一年と半年間住んだ家が、夜空にクッキリ、黒いシルエットとなって浮かんでいる。
他の家からもメイドが出て来てくれた。
いよいよお別れだ。
サヨナラ、奥様、ご主人様、マーナ。
ベチャが走り出すとき、わたしは贈り物と手紙を、奥様に手渡した。
奥様の瞳にはキラッと光るものがあった。
奥様も封筒をくれた。
わたしとティは、つとめて快活に明るく振る舞った。
ベチャが動き出した。
後ろを振り向いてみた。
みんなが手を振っている。
わたしもティも手を振った。
ベチャがゆっくりと道を曲がった。
その一瞬、後ろを見たら、みんなは、まだ手を振っていた。
サヨナラ奥様、マーナ、ご主人様・・・。
ティを見た。
涙が、大きな瞳をおおっていた。
わたしも、突然、前の風景が二重に見えはじめた。
<奥様への手紙>
バティック布一枚
デウィとティより、奥様への贈り物。
わたしたちは、何もたいしたものを買って、贈ることはできません。
そして、奥様にはお礼のしようもありません。
ただ、ご主人様、奥様、マーナが無事に帰国されることを祈っています。
ここで働いている間、わたしもティも、至らぬ点が多かったと、お詫びします。
奥様も、いろいろ我慢されたことと思います。
ありがとうございました。
<奥様からの手紙>
デウィとティにはお礼のしようもありません。
ほんとうに良くしてくれてありがとう。
この五〇万ルピアは主人と私からの贈り物です。
屋台が買えるといいな、と思っています。
サンパイ・キタム・ラギ(また会いましょう)
あとがき
この物語の七〇%は、一九七九年五月から、一九八一年一月まで、インドネシア国スラバヤ市に在住していた、H家の周辺で、実際に起こったことを素材にしています。
残りの三割は、わたしのパートナー、一恵が、メイドのデウィやティから聞いた話であり、それに筆者の想像が加えられています。
この物語で、デウィの述べている言葉の多くは、実際に彼女が使った言葉です。
「中国人だってジャワ人だって同じ人間、だから仲良くしなければいけない」
「なぜ農民は貧しいの? 人間が生きている上で、一番大切な食物を作っているのに・・・」
「犬にお金をかけてはいけません。わたしの国では、犬に医療費は使わないんです」
これらの言葉は、反中国人暴動を目の前で見、農民の貧しさに心を痛めつつ、無力の存在であったわれわれ、そして、犬に多額の医療費を使ってきたわたしたちにとっては、ショッキングな言葉に聞こえました。
このショックが、この物語を書くきっかけとなりました。