楽園を求めた縄文人
1 原始人から文明人へ
縄文時代、縄文人として一般的に思い浮かぶ姿は、歴史時代以前の日本の森林に住んでいた狩猟採集民というイメージでは無いだろうか。実は、何を隠そう私自 体がつい最近まで、そのようなイメージしか持ち合わせていなかった。それと言うのも学校で習った縄文時代と言うのは、日本の文明が目覚める前の原始人の時 代で、人々は狩の獲物を追って原野をさまよう生活を送っていたと言う物だったからだ。歴史の始まる以前、原始人の生活には、はっきり言ってあまり興味は無 かった。
しかし近年三内丸山遺跡の発見により、縄文時代の生活様式が盛んに議論されるようになってきた。それに伴い私の縄文時代に関する意識も変わってきた。最近では縄文時代こそ古代史を塗り替える鍵を握っているのではないかと考え始めている。
そもそも縄文時代の名前の由来となったのは、言うまでも無く縄文土器に代表される独特の土器文化からである。アメリカの学者モースが大森貝塚を発見した折、縄文のついた土器にCode Marked Potteryと名づけた事から、縄文土器と呼ばれるようになった。
ほんの最近まで、縄文人は狩猟採集民族で集落などに定住する事は無く、家族単位の集団で狩の獲物を求めて移動を行っていたと考えられていた。実際、この 記事を読んでいる、ほとんどの読者は、そのように学校で習った事を覚えているだろう。学校で教わった縄文時代の知識は実際本当に貧弱な物である。わずかな 土器や土偶の知識と縄文人に関する間違った認識、すぐにテキストに出てくる時代は弥生に移ってしまう。弥生時代も縄文と似たようなもので、あっという間に 終了し古墳時代に移る。本格的に歴史らしい歴史の知識を学ぶのは古墳時代以降である。人々があまり興味を抱かないのはもっともな事だ。
しかし、縄文時代に関する貧弱な認識は急速に変化しつつある。特に三内丸山遺跡の発見は縄文時代に関する常識を根本的に変えてしまった。
三内丸山遺跡の発掘が進むにつれて、この遺跡が縄文の常識を覆す規模で広がっていた事が明らかになった。縄文前期から中期にわたりなんと1500年間も の間、維持された大集落である事が判明した。最盛期には500人を越す人々が生活したと見られ、縄文人が定住をしていた事がはっきり証明された。
三内丸山遺跡からは膨大な出土物が出ているが、その中でも目を引くのが巨大なヒスイの珠だ。ヒスイは非常に硬い鉱物で、その加工には高い技術をようす る。そのヒスイの珠に穴をあけた物が多数出土している。従来、これらのヒスイの珠は身を飾るアクセサリーに使用されてきたと思われていたが、首からぶら下 げるにはあまりに重すぎる為、楽器の一種ではないかとも考えられている。実際、笛の名人が吹いてみると澄んだ綺麗な音色が出るらしい。
ヒスイは青森では産出されずおよそ500・も離れた新潟県の糸魚川周辺からはるばる運ばれてきた物だ。黒曜石を原料とした石器類も多数出土しているが、 黒曜石もはるばる北海道から運ばれてきた。更には岩手県からは、琥珀が運ばれてきており、縄文人の盛んな交易の様子がうかがえる。おそらく、交易は船で行 われていたと考えられている。
縄文人が船で沖へ乗り出し、漁を行っていた証拠も三内丸山から見つかっている。なんと1メートルもある真鯛の骨で、縄文人が沿岸ばかりでなく遥か沖合まで出向いて漁を行っていた事の証だ。
縄文人の食文化を考える上での、最大の発見もここ三内丸山で行われた。ここから発見された栗のDNAの研究より、栗が人工的に栽培されていた事がはっき りしたのだ。これだけの規模の集落が長い間、安定して存在しつづけた事や猪などの大型哺乳類の骨があまり発見されない事などから、農耕が行われていた可能 性は以前より推測されていたが、始めて科学的に裏付ける事が出来たのである。
更に近年、縄文人が栽培農耕を知らない単なる狩猟採集民ではなかった証拠に、各地の縄文遺跡から稲の栽培を示す籾殻やプラントオパールなどが見つかりだ した。稲作は弥生時代に始まったのではなく、縄文時代から行われていたのだ。最近まで大規模な水田の跡が縄文時代からは発見されていない事から、稲作が本 格的に始まったのは弥生時代以降と思われてきた。しかし、やはりDNAの研究などから、縄文時代に栽培されていた稲は水田を必要としない種類の物である事 が明らかになってきた。水田イコール稲作と言う概念は間違いだったのだ。この様に縄文人が原始人であるイメージは徐々に改善され、一気に人々の縄文時代へ の関心が高まってきている。
だが、縄文時代が先進的な文化を備えた、縄文文明と呼べるほどの物だったと言ったら信じられるだろうか。縄文は単なる古代日本の一時代ではなく、縄文文明と呼べる立派な独立した文明だったのだ。
たとえば、意外と知られていない事実だが世界で最初に土器を発明したのは縄文人である。世界最古の縄文土器は、青森県の大平山元I遺跡から出土した物 で、最新の年代測定法による分析の結果、なんと1万6500年前の物である事がわかっている。1万6500年前と言う事は、ダントツに世界最古にあたる。 世界最古の文明が発達したとされるメソポタミアでさえ土器の歴史は1万年前ぐらいにしか遡る事は出来ない。
では、いったい何故日本において土器が発明されたのだろう。それは、おそらく日本列島の置かれた地理的な条件が作用したと考えられる。ご存知のように、 日本列島は環太平洋火山帯の真上に位置し、世界で最も火山活動が活発な地域に含まれる。そして、土器の発明された2万年近く前の日本列島では、活発な火山 活動が相次いでいた。当時、日本列島に暮らしていた人々も相次ぐ火山噴火に苦しめられたに違いない。
当時の人々は、たまたま灼熱の溶岩が流れた後に、溶岩に接していた粘土層が熱変性して石の様に固くなっているのを発見したのではないだろうか。この様子 を見て、粘土を人工的に加熱して土器を作り出すアイデアを思いついたと考えられる。つまり、火山活動が活発で常に火山噴火の恐怖に怯えていたからこそ、日 本において土器の発明と言うエポックメーキングな出来事が起こったと考えられる。
しかし近年三内丸山遺跡の発見により、縄文時代の生活様式が盛んに議論されるようになってきた。それに伴い私の縄文時代に関する意識も変わってきた。最近では縄文時代こそ古代史を塗り替える鍵を握っているのではないかと考え始めている。
そもそも縄文時代の名前の由来となったのは、言うまでも無く縄文土器に代表される独特の土器文化からである。アメリカの学者モースが大森貝塚を発見した折、縄文のついた土器にCode Marked Potteryと名づけた事から、縄文土器と呼ばれるようになった。
ほんの最近まで、縄文人は狩猟採集民族で集落などに定住する事は無く、家族単位の集団で狩の獲物を求めて移動を行っていたと考えられていた。実際、この 記事を読んでいる、ほとんどの読者は、そのように学校で習った事を覚えているだろう。学校で教わった縄文時代の知識は実際本当に貧弱な物である。わずかな 土器や土偶の知識と縄文人に関する間違った認識、すぐにテキストに出てくる時代は弥生に移ってしまう。弥生時代も縄文と似たようなもので、あっという間に 終了し古墳時代に移る。本格的に歴史らしい歴史の知識を学ぶのは古墳時代以降である。人々があまり興味を抱かないのはもっともな事だ。
しかし、縄文時代に関する貧弱な認識は急速に変化しつつある。特に三内丸山遺跡の発見は縄文時代に関する常識を根本的に変えてしまった。
三内丸山遺跡の発掘が進むにつれて、この遺跡が縄文の常識を覆す規模で広がっていた事が明らかになった。縄文前期から中期にわたりなんと1500年間も の間、維持された大集落である事が判明した。最盛期には500人を越す人々が生活したと見られ、縄文人が定住をしていた事がはっきり証明された。
三内丸山遺跡からは膨大な出土物が出ているが、その中でも目を引くのが巨大なヒスイの珠だ。ヒスイは非常に硬い鉱物で、その加工には高い技術をようす る。そのヒスイの珠に穴をあけた物が多数出土している。従来、これらのヒスイの珠は身を飾るアクセサリーに使用されてきたと思われていたが、首からぶら下 げるにはあまりに重すぎる為、楽器の一種ではないかとも考えられている。実際、笛の名人が吹いてみると澄んだ綺麗な音色が出るらしい。
ヒスイは青森では産出されずおよそ500・も離れた新潟県の糸魚川周辺からはるばる運ばれてきた物だ。黒曜石を原料とした石器類も多数出土しているが、 黒曜石もはるばる北海道から運ばれてきた。更には岩手県からは、琥珀が運ばれてきており、縄文人の盛んな交易の様子がうかがえる。おそらく、交易は船で行 われていたと考えられている。
縄文人が船で沖へ乗り出し、漁を行っていた証拠も三内丸山から見つかっている。なんと1メートルもある真鯛の骨で、縄文人が沿岸ばかりでなく遥か沖合まで出向いて漁を行っていた事の証だ。
縄文人の食文化を考える上での、最大の発見もここ三内丸山で行われた。ここから発見された栗のDNAの研究より、栗が人工的に栽培されていた事がはっき りしたのだ。これだけの規模の集落が長い間、安定して存在しつづけた事や猪などの大型哺乳類の骨があまり発見されない事などから、農耕が行われていた可能 性は以前より推測されていたが、始めて科学的に裏付ける事が出来たのである。
更に近年、縄文人が栽培農耕を知らない単なる狩猟採集民ではなかった証拠に、各地の縄文遺跡から稲の栽培を示す籾殻やプラントオパールなどが見つかりだ した。稲作は弥生時代に始まったのではなく、縄文時代から行われていたのだ。最近まで大規模な水田の跡が縄文時代からは発見されていない事から、稲作が本 格的に始まったのは弥生時代以降と思われてきた。しかし、やはりDNAの研究などから、縄文時代に栽培されていた稲は水田を必要としない種類の物である事 が明らかになってきた。水田イコール稲作と言う概念は間違いだったのだ。この様に縄文人が原始人であるイメージは徐々に改善され、一気に人々の縄文時代へ の関心が高まってきている。
だが、縄文時代が先進的な文化を備えた、縄文文明と呼べるほどの物だったと言ったら信じられるだろうか。縄文は単なる古代日本の一時代ではなく、縄文文明と呼べる立派な独立した文明だったのだ。
たとえば、意外と知られていない事実だが世界で最初に土器を発明したのは縄文人である。世界最古の縄文土器は、青森県の大平山元I遺跡から出土した物 で、最新の年代測定法による分析の結果、なんと1万6500年前の物である事がわかっている。1万6500年前と言う事は、ダントツに世界最古にあたる。 世界最古の文明が発達したとされるメソポタミアでさえ土器の歴史は1万年前ぐらいにしか遡る事は出来ない。
では、いったい何故日本において土器が発明されたのだろう。それは、おそらく日本列島の置かれた地理的な条件が作用したと考えられる。ご存知のように、 日本列島は環太平洋火山帯の真上に位置し、世界で最も火山活動が活発な地域に含まれる。そして、土器の発明された2万年近く前の日本列島では、活発な火山 活動が相次いでいた。当時、日本列島に暮らしていた人々も相次ぐ火山噴火に苦しめられたに違いない。
当時の人々は、たまたま灼熱の溶岩が流れた後に、溶岩に接していた粘土層が熱変性して石の様に固くなっているのを発見したのではないだろうか。この様子 を見て、粘土を人工的に加熱して土器を作り出すアイデアを思いついたと考えられる。つまり、火山活動が活発で常に火山噴火の恐怖に怯えていたからこそ、日 本において土器の発明と言うエポックメーキングな出来事が起こったと考えられる。
知られざる縄文文化
ここで、縄文文明の文化の高さをうかがい知る事の出来る、いくつかの出土物を紹介してみよう。
写真2は、三内丸山遺跡から程近い、八戸市の縄文学習館に展示されている是川中居遺跡出土の縄文土器である。縄文土器といえば、文様をつけた植木鉢程度のイメージしか抱いていない読者も多いのではないだろうか。
しかし、この赤漆と黒漆を見事に施された光沢を放つ縄文土器を見てほしい。
これが原始人の産物であるはずが無い、一流工芸家作の骨董品として売られていても誰も疑問には思わないはずだ。
土器同様、漆も又、日本で独自に発明されたものである。漆器と言えば、欧米でJapanと呼ばれていることからもわかるように、現在でも日本を代表する 工芸技術の一つである。しかし、その起源に関しては、中国・長江下流域の河姆渡遺跡出土の約7000年前の物が世界最古とされてきた。ところが、北海道南 茅部町の垣ノ島B遺跡から、約9000年前の漆製品が発見された事により、漆の起源も縄文人にある可能性が高くなっている。
国立歴史民俗博物館の永島正春氏や慶応大学の鈴木公雄氏らは同時代の中国と比べると日本の漆技術が非常に高い事を指摘している。更に、三内丸山から発見さ れた漆は、DNA検査の結果、中国とは別系統であることも明らかになっている。これらの事より、少なくとも日本の漆技術は、中国とは別系統に発達してきた と考える事が出来そうだ。あるいは漆技術自体が日本から中国に伝えられた可能性も十分に考えられる。
次の写真3は、ご存知遮光器土偶の断片である。黒光りする現代のセラミックのような土器の断片が素焼きの植木鉢とは如何に異なるか見て取れるだろう。実 際、この土偶の復元を試みた中田宝篤氏によると、遮光器土偶の表面には、「炭化珪素による焼き戻し法」と言う現在のセラミック加工技術にも通じる特殊な処 理が施されていると言う。
写真4は、縄文時代の遺跡から出土した漆塗りの弓を復元した物である。見事に赤漆と黒漆で装飾されたこの弓に関しては、もはや何も説明を加える必要などないだろう。
最後に縄文人の典型的な家である竪穴式住居「写真5」と最後の狩猟採集民であるオーストラリアのアボリジニのブッシュキャンプ「写真6」を比較してみよ う。縄文人の竪穴式住居が、立派な家であり狩猟民の移動小屋とはまったく違う事がわかるだろう。このように、縄文人は決して狩猟採集民ではなく文明人だっ たと言えるのだ。
写真2は、三内丸山遺跡から程近い、八戸市の縄文学習館に展示されている是川中居遺跡出土の縄文土器である。縄文土器といえば、文様をつけた植木鉢程度のイメージしか抱いていない読者も多いのではないだろうか。
しかし、この赤漆と黒漆を見事に施された光沢を放つ縄文土器を見てほしい。
これが原始人の産物であるはずが無い、一流工芸家作の骨董品として売られていても誰も疑問には思わないはずだ。
土器同様、漆も又、日本で独自に発明されたものである。漆器と言えば、欧米でJapanと呼ばれていることからもわかるように、現在でも日本を代表する 工芸技術の一つである。しかし、その起源に関しては、中国・長江下流域の河姆渡遺跡出土の約7000年前の物が世界最古とされてきた。ところが、北海道南 茅部町の垣ノ島B遺跡から、約9000年前の漆製品が発見された事により、漆の起源も縄文人にある可能性が高くなっている。
国立歴史民俗博物館の永島正春氏や慶応大学の鈴木公雄氏らは同時代の中国と比べると日本の漆技術が非常に高い事を指摘している。更に、三内丸山から発見さ れた漆は、DNA検査の結果、中国とは別系統であることも明らかになっている。これらの事より、少なくとも日本の漆技術は、中国とは別系統に発達してきた と考える事が出来そうだ。あるいは漆技術自体が日本から中国に伝えられた可能性も十分に考えられる。
次の写真3は、ご存知遮光器土偶の断片である。黒光りする現代のセラミックのような土器の断片が素焼きの植木鉢とは如何に異なるか見て取れるだろう。実 際、この土偶の復元を試みた中田宝篤氏によると、遮光器土偶の表面には、「炭化珪素による焼き戻し法」と言う現在のセラミック加工技術にも通じる特殊な処 理が施されていると言う。
写真4は、縄文時代の遺跡から出土した漆塗りの弓を復元した物である。見事に赤漆と黒漆で装飾されたこの弓に関しては、もはや何も説明を加える必要などないだろう。
最後に縄文人の典型的な家である竪穴式住居「写真5」と最後の狩猟採集民であるオーストラリアのアボリジニのブッシュキャンプ「写真6」を比較してみよ う。縄文人の竪穴式住居が、立派な家であり狩猟民の移動小屋とはまったく違う事がわかるだろう。このように、縄文人は決して狩猟採集民ではなく文明人だっ たと言えるのだ。
海洋民族縄文
縄文人と言うと山の民で、狩の獲物を追っかけていたと言うイメージが強いが、縄文人を「海の民」か「山の民」か、定義付けしなくてはならないとしたら、 むしろ「海の民」、海洋民族と言う方が正しいかもしれない。無論、大きな文化集団を単純に「海の民」、「山の民」と分ける事はできない。しかし、これまで 「山の民」としての縄文人の側面のみが強調されてきたが、実際の縄文人は「海の民」つまり海洋民族と呼んでも差し支えないほど、海洋との関わり合いが深い 文化を備えていた。
この事は邪馬台国の記述で有名な「魏志倭人伝」に代表される中国の史書の、倭人に関する記述からも読み取れる。中国の史書は、古墳時代の日本の様子を記 した物なので直接には縄文時代について述べているのではない。しかし、ここに記述されている倭人の記録から十分に縄文時代から伝わる倭人の生活をうかがい 知る事が出来る。
以下に抜粋してみるので参照してほしい。
又、これら史書の記録によると倭人は入墨をしていて、最初は鮫よけ等の呪い的な意味合いだったが、後に所属や身分を現すようになったとある。これら入墨 の風習は、現代でもポリネシアなどの太平洋の島々で見られる風習である。更に縄文の直系に近いと言われるアイヌや沖縄でもほんのつい最近まで行われていた 風習でもある。
もちろん縄文人も入墨の風習は持っていた。その証拠に、縄文時代の土偶には、全身に入墨をした物が見つかっている。(Pic.7)
現代の日本を見渡しても、海洋民族としてのさまざまな特徴が見える。もちろん日本は四方を海に囲まれているのだから当たり前と言えばそれまでだが、よく考察すると単なる島国以上の特殊性が見えてくる。
まず生活の基本である食生活を見てみよう。日本人がシーフードを好む事は世界中によく知られた事だが、その中でも特に生魚を食べる習慣がある。生魚を食 べる習慣は非常に珍しく、世界中を見渡しても沿岸部や猟師の間で多少見られるだけだ。痛みやすい魚を生で食べる為には新鮮でなければいけない、流通の発達 した現代ならまだしも、古代においては必然的に新鮮な魚が手に入る猟師以外は食べる事が不可能なのである。
では何故日本において、魚を生で食べる習慣が全国に広がったのだろう。それは日本人の祖先は海洋民族に他ならぬからである。日本人に強く刻まれた海洋民 族としての記憶が、山間部にすむ人々にまで魚の生食と言う習慣を伝えたのだ。更に、あらゆる日本料理の基礎であるダシは、昆布か鰹節、煮干でまさに日本人 の食は、海産物を中心に成り立っている。
では、同じ島国であるイギリスやニュージーランドはどうだろう?たしかに、海の無い国々と比べシーフードは豊富だが、やはりシーフードは食事の中心ではなく、たまに食べるご馳走程度の物である。
又、伝統行事の中にも、海との繋がりが色濃く残されている。お正月に欠かせないお鏡餅の下には昆布やスルメを敷くし、めでたい席では「お頭付きの鯛」は欠かせない。お正月に限らず結納などの行事でもほぼ同じだ。
この様に、日本人の本質には縄文時代から綿々と続く海洋民族としての気質が刻まれているのだ。この様な認識に基づき、縄文人を海洋民族と言う観点から見 つめなおし、古代の縄文人が残した痕跡をたどっていく事にしよう。ただし、森の民としての縄文人の側面を否定するわけではない事は付け加えておきたい。
この事は邪馬台国の記述で有名な「魏志倭人伝」に代表される中国の史書の、倭人に関する記述からも読み取れる。中国の史書は、古墳時代の日本の様子を記 した物なので直接には縄文時代について述べているのではない。しかし、ここに記述されている倭人の記録から十分に縄文時代から伝わる倭人の生活をうかがい 知る事が出来る。
以下に抜粋してみるので参照してほしい。
- 魏志倭人伝:「好んで魚やあわびを捕え、水は深くても浅くても皆潜ってとる」
- 魏志倭人伝:「倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕え、体に入墨して大魚や水鳥の危害を払う」 ここで倭の水人(倭水人)と書かれている事に注目してほしい、当時の中国では明らかに倭人の事を海洋民族としてとらえている事がうかがい知れる。
- 魏志倭人伝:「埋葬が終わると、一家を挙げて水中に詣り体を洗い、練沐(ねりぎぬを着て水浴する)のようにする」
- 随書倭国伝:「男子は多くうでに入墨し、かおにもからだにも入墨し、水に潜って魚を捕える」
- 随書倭国伝:「葬るときは、屍を船の上におき、陸地でこれを引くのに、あるいは小さいくるまをもちいる」
又、これら史書の記録によると倭人は入墨をしていて、最初は鮫よけ等の呪い的な意味合いだったが、後に所属や身分を現すようになったとある。これら入墨 の風習は、現代でもポリネシアなどの太平洋の島々で見られる風習である。更に縄文の直系に近いと言われるアイヌや沖縄でもほんのつい最近まで行われていた 風習でもある。
もちろん縄文人も入墨の風習は持っていた。その証拠に、縄文時代の土偶には、全身に入墨をした物が見つかっている。(Pic.7)
現代の日本を見渡しても、海洋民族としてのさまざまな特徴が見える。もちろん日本は四方を海に囲まれているのだから当たり前と言えばそれまでだが、よく考察すると単なる島国以上の特殊性が見えてくる。
まず生活の基本である食生活を見てみよう。日本人がシーフードを好む事は世界中によく知られた事だが、その中でも特に生魚を食べる習慣がある。生魚を食 べる習慣は非常に珍しく、世界中を見渡しても沿岸部や猟師の間で多少見られるだけだ。痛みやすい魚を生で食べる為には新鮮でなければいけない、流通の発達 した現代ならまだしも、古代においては必然的に新鮮な魚が手に入る猟師以外は食べる事が不可能なのである。
では何故日本において、魚を生で食べる習慣が全国に広がったのだろう。それは日本人の祖先は海洋民族に他ならぬからである。日本人に強く刻まれた海洋民 族としての記憶が、山間部にすむ人々にまで魚の生食と言う習慣を伝えたのだ。更に、あらゆる日本料理の基礎であるダシは、昆布か鰹節、煮干でまさに日本人 の食は、海産物を中心に成り立っている。
では、同じ島国であるイギリスやニュージーランドはどうだろう?たしかに、海の無い国々と比べシーフードは豊富だが、やはりシーフードは食事の中心ではなく、たまに食べるご馳走程度の物である。
又、伝統行事の中にも、海との繋がりが色濃く残されている。お正月に欠かせないお鏡餅の下には昆布やスルメを敷くし、めでたい席では「お頭付きの鯛」は欠かせない。お正月に限らず結納などの行事でもほぼ同じだ。
この様に、日本人の本質には縄文時代から綿々と続く海洋民族としての気質が刻まれているのだ。この様な認識に基づき、縄文人を海洋民族と言う観点から見 つめなおし、古代の縄文人が残した痕跡をたどっていく事にしよう。ただし、森の民としての縄文人の側面を否定するわけではない事は付け加えておきたい。
縄文人はポリネシア人の祖先か?
近年、テレビや雑誌などで縄文人が南太平洋の島々に進出していたと言う説が話題を集めている。1996年、日本列島から6000・も離れた南太平洋のバヌ アツ共和国の小島エファテ島から驚くべき大発見のニュースが舞い込んできた。ハワイ・ビショップ博物館太平洋考古学の篠籐喜彦博士等により、本物の縄文土 器が確認されたのだ。成分分析の結果、この土器は間違いなく5000年前に青森県で焼かれた正真正銘の縄文土器・円筒下層式土器である事が証明された。
この発見により、少なくとも土器を携えた縄文人が南太平洋の真ん中までやってきた事が確実になったのである。つまり縄文人の航海能力は、想像以上に高かっ たのだ。このような認識に基づきあらためて考えてみてみると、意外とポリネシア人と縄文人の間には、共通する部分が多い事が見えてくる。先ほど述べた入墨 もその一つである。
ポリネシア人は、その歴史のある時点で土器文化を失っているが、古代においては土器文化を備えていた。土器文化が廃れた原因は、ウム料理として知られる調理方法の普及によるところが大きいとされている。
ウム料理とは、バナナの葉等で食材を包み、土中に焼け石と共に埋め蒸し焼きにする料理である。現在もポリネシア地方独特の料理方法として知られ、観光客 にも人気を集めている。ところが、縄文人もまったく同じ方法で料理を行っていた痕が東京・多摩地区の遺跡等から発掘されているのだ。
縄文人は煮炊きの出来る土器を持っていたにもかかわらず、調理方法の一部としてウム料理を行っていた。このことは、ポリネシアの土器文化とウム料理は、 縄文にルーツがあると考える事が可能では無いだろうか。ポリネシアでは、ウム料理に使用する大きなバナナの葉などを簡単に手に入れることが出来たため、 徐々に土器文化が衰退したのかもしれない。
ポリネシアに人類が進出したのは、今から三〇〇〇年以上前のことである。最初にポリネシアに進出した人類集団はラピタ人の名前で知られている。ラピタ人 は、ラピタ土器を携えて忽然と歴史の舞台に登場した。そしてわずか数百年でポリネシアのほとんどの地域に拡散していった。
ラピタ土器は、縄文土器同様その多くに美しい文様を備えていた。文様を描くのに縄文が使われる事は無かったが、その複雑なスタンプ文様は縄文土器との関 連が強く示唆される。つまりラピタ土器を備えた人々は、縄文人にルーツがあると考えられるのだ。たとえ縄文人直系の子孫ではないにしても、縄文人の血を濃 く受け継ぐ人々だった事は間違いない。
この事は、解剖学的にも裏付けられている。ポリネシア人と縄文人の頭骨の特徴は非常に酷似しており、いわゆる古モンゴロイド集団であるとされているのだ。縄文人が、ラピタ人として太平洋に乗り出したとすると、いったいどのような船を使ったのだろうか。
この発見により、少なくとも土器を携えた縄文人が南太平洋の真ん中までやってきた事が確実になったのである。つまり縄文人の航海能力は、想像以上に高かっ たのだ。このような認識に基づきあらためて考えてみてみると、意外とポリネシア人と縄文人の間には、共通する部分が多い事が見えてくる。先ほど述べた入墨 もその一つである。
ポリネシア人は、その歴史のある時点で土器文化を失っているが、古代においては土器文化を備えていた。土器文化が廃れた原因は、ウム料理として知られる調理方法の普及によるところが大きいとされている。
ウム料理とは、バナナの葉等で食材を包み、土中に焼け石と共に埋め蒸し焼きにする料理である。現在もポリネシア地方独特の料理方法として知られ、観光客 にも人気を集めている。ところが、縄文人もまったく同じ方法で料理を行っていた痕が東京・多摩地区の遺跡等から発掘されているのだ。
縄文人は煮炊きの出来る土器を持っていたにもかかわらず、調理方法の一部としてウム料理を行っていた。このことは、ポリネシアの土器文化とウム料理は、 縄文にルーツがあると考える事が可能では無いだろうか。ポリネシアでは、ウム料理に使用する大きなバナナの葉などを簡単に手に入れることが出来たため、 徐々に土器文化が衰退したのかもしれない。
ポリネシアに人類が進出したのは、今から三〇〇〇年以上前のことである。最初にポリネシアに進出した人類集団はラピタ人の名前で知られている。ラピタ人 は、ラピタ土器を携えて忽然と歴史の舞台に登場した。そしてわずか数百年でポリネシアのほとんどの地域に拡散していった。
ラピタ土器は、縄文土器同様その多くに美しい文様を備えていた。文様を描くのに縄文が使われる事は無かったが、その複雑なスタンプ文様は縄文土器との関 連が強く示唆される。つまりラピタ土器を備えた人々は、縄文人にルーツがあると考えられるのだ。たとえ縄文人直系の子孫ではないにしても、縄文人の血を濃 く受け継ぐ人々だった事は間違いない。
この事は、解剖学的にも裏付けられている。ポリネシア人と縄文人の頭骨の特徴は非常に酷似しており、いわゆる古モンゴロイド集団であるとされているのだ。縄文人が、ラピタ人として太平洋に乗り出したとすると、いったいどのような船を使ったのだろうか。
世界初の大航海時代
現在まで知られている縄文人の船はいわゆる丸木舟である。従来、縄文人の船が丸木舟と言う事から、とても太平洋の大海原に乗り出すすべなど持っていないと考えられてきた。
しかし、現在ではこのような丸木舟でも、アウトリガーと呼ばれるフロートを付けたり、双胴船にすることによって、十分に長期間の航海に耐える事が証明さ れている。図9は、ミクロネシア地方で使用されているシングルアウトリガーカヌーである。他にアウトリガーを左右につけたダブルアウトリガーもある。
ノルウェーの海洋学者
故トール・ヘイエルダール氏は、単なる筏でさえ太平洋の荒波を乗り越え、南米からポリネシアまで航海可能な事をコンチキ号で身をもって実証している。
更に、アジア・オセアニア地域には、長い長い航海の歴史があるのだ。世界で最初に船或いは筏による航海を行ったのは、オーストラリア先住民アボリジニで ある。海面の低下した氷河期の時代、オーストラリアとニューギニアは陸続きとなりサフルランドと呼ばれる広大な大陸となっていた。しかし、アジア側のもう ひとつの大陸スンダランドとは、深い海峡で隔たれていて一度もつながった事は無い。
つまりオーストラリアに人間が渡るためには、船を使用する以外に方法は無かったのである。オーストラリア先住民の最も古い人骨は一九七四年にレークマン ゴーで発見された5万6千年前から六万八〇〇〇年前のものである。現在ではオーストラリアに人間が移住してきたのは約7万年前の事と考えられている。7万 年前と言えばヨーロッパでは、まだネアンデルタール人全盛の時代だ。ヨーロッパに現代人が住み着くよりも早く、船を使ってオーストラリアに移住してきた 人々がいたわけだ。
アジア・オセアニア地域には、想像を是する航海の歴史があった事になる。航海術が発達しないわけがない。おそらく、従来考えられていたより、遥か以前か らアジア・オセアニア地域全体で船による活発な人々の往来があったことは間違いない。そこへ、水や食料を大量に長期間保存できる、最先端テクノロジーであ る土器をもった縄文人が進出してきた。
やがて縄文人と東南アジアの人々の文化が混合しラピタ人が誕生したのだろう。こうして、長年培った高度な航海術と長期航海を可能とする保存容器・土器を持ったラピタ人による世界最初の大航海時代がはじまった。
しかし、縄文人の痕跡が残されているのは、アジア・オセアニアに留まらず南北アメリカ大陸にまで及んでいるとしたら信じられるだろうか。荒唐無稽な話に 聞こえるかもしれないが、まぎれもない事実である。それどころか、縄文人がアメリカ大陸の発見者である可能性もあるのだ。
しかし、現在ではこのような丸木舟でも、アウトリガーと呼ばれるフロートを付けたり、双胴船にすることによって、十分に長期間の航海に耐える事が証明さ れている。図9は、ミクロネシア地方で使用されているシングルアウトリガーカヌーである。他にアウトリガーを左右につけたダブルアウトリガーもある。
ノルウェーの海洋学者
故トール・ヘイエルダール氏は、単なる筏でさえ太平洋の荒波を乗り越え、南米からポリネシアまで航海可能な事をコンチキ号で身をもって実証している。
更に、アジア・オセアニア地域には、長い長い航海の歴史があるのだ。世界で最初に船或いは筏による航海を行ったのは、オーストラリア先住民アボリジニで ある。海面の低下した氷河期の時代、オーストラリアとニューギニアは陸続きとなりサフルランドと呼ばれる広大な大陸となっていた。しかし、アジア側のもう ひとつの大陸スンダランドとは、深い海峡で隔たれていて一度もつながった事は無い。
つまりオーストラリアに人間が渡るためには、船を使用する以外に方法は無かったのである。オーストラリア先住民の最も古い人骨は一九七四年にレークマン ゴーで発見された5万6千年前から六万八〇〇〇年前のものである。現在ではオーストラリアに人間が移住してきたのは約7万年前の事と考えられている。7万 年前と言えばヨーロッパでは、まだネアンデルタール人全盛の時代だ。ヨーロッパに現代人が住み着くよりも早く、船を使ってオーストラリアに移住してきた 人々がいたわけだ。
アジア・オセアニア地域には、想像を是する航海の歴史があった事になる。航海術が発達しないわけがない。おそらく、従来考えられていたより、遥か以前か らアジア・オセアニア地域全体で船による活発な人々の往来があったことは間違いない。そこへ、水や食料を大量に長期間保存できる、最先端テクノロジーであ る土器をもった縄文人が進出してきた。
やがて縄文人と東南アジアの人々の文化が混合しラピタ人が誕生したのだろう。こうして、長年培った高度な航海術と長期航海を可能とする保存容器・土器を持ったラピタ人による世界最初の大航海時代がはじまった。
しかし、縄文人の痕跡が残されているのは、アジア・オセアニアに留まらず南北アメリカ大陸にまで及んでいるとしたら信じられるだろうか。荒唐無稽な話に 聞こえるかもしれないが、まぎれもない事実である。それどころか、縄文人がアメリカ大陸の発見者である可能性もあるのだ。
ケネウィックマン
1996年 アメリカ・ワシントン州コロンビア川から一体の遺骨が発見された。いかにも古ぼけ白骨化した遺体は、当初古い時代のヨーロッパ人入植者の遺 骨として片付けられようとしていた。しかし、遺骨の臀部に古い矢尻が突き刺さっているのを発見し、不審に思った警察が地元の考古学者ジム・チャターズ博士 に年代測定を依頼したところ、何と遺骨は9300年前の物である事が判明した。これ以後、この遺骨は発見場所の地名を取りケネウィックマンと呼ばれるよう になった。
年代測定は炭素14法と呼ばれる炭素の放射性同位元素の半減期を利用する手法で行われた。この年代測定法は広く用いられており、信頼性も充分に高いが、 9300年前という年代測定が正しいとすると、ケネウィックマンはアメリカ最古級のもっとも保存状態の良い遺骨という事になる。
ところが、この遺骨の頭蓋骨の特徴は一見して現代のアメリカ先住民と異なり、白人的な要素を備えていた。年代測定結果に驚いたジム・チャターズ博士の 元、頭像の復元作業が行われた。その結果、俳優のパトリック・スチュアートそっくりの均整の取れた白人系の顔が浮かび上がって来たのだ。アメリカでは身元 不明の遺体の頭蓋骨を元に、頭像の復元作業が頻繁に行われているが、その復元の精度はかなり高く十分信頼のおける物である。
又、チャターズ博士によるとケネウィックマンは、40~55歳ぐらいで、身長約175センチの非常に均整の取れた筋肉を持つかっこいい人物だという。
アメリカ大陸は、約500年前新しいインド航路を確立するため大西洋に乗り出したクリストファー・コロンブスにより発見され、ヨーロッパ人に存在が知られるようになった。
ここまでは、学校で習う歴史であり誰でも知っている事である。しかし、現実にはコロンブスのはるか以前にバイキングたちはすでにアメリカ大陸に到達しており、小規模な植民地がいくつも作られていたのだ。
更に、最近ではフェニキア人もアメリカ大陸に到達していた事がほぼ確実になりつつある。フェニキア人は、紀元前の地中海で海洋貿易で栄えた民族で、フェ ニキア人の都市国家カルタゴは、紀元前146年第三次ポエニ戦争によってローマに滅ぼされるまで当時の地中海世界の中心であった。カルタゴ人の記録から は、バスコダガマが喜望峰を回りアフリカを一周する遥か以前にアフリカを一周していることがわかっている。
そしてアメリカ各地からは、このフェニキア人が残したと思われる文字が多数発見されている。このように、実際のアメリカ大陸には、コロンブスの遥か以前 から白人が到達していたのである。ケネウィックマンは、はたして古い時代にアメリカに到達していたヨーロッパあるいは地中海周辺の古代人なのだろうか?
ところがジム・チャターズ博士らの「遺骨が白人男性の物」だとする主張に地元のアメリカ先住民ウマティラ族から猛然と抗議の声が沸きあがった。彼らの主張 によると9300年前のアメリカに白人が存在するはずは無く、遺骨は彼らの祖先のものである。それを白人の物だとする事は祖先を冒涜する事にほかならな い。ウマティラ族は1990年に制定された北米原住民に遺骨の所有を認める権利に基づき直ちに遺骨を返還し、埋葬をするよう訴訟を起こした。
一方、この発見を重要視したスミソニアン協会のダグ・オーズリー博士は詳しい調査の為、軍に遺骨の移送を依頼した。ダグ・オーズリー博士は、ネヴァダ州 で発見されたスピリットケーブマンがやはり現代のアメリカ先住民と異なる特徴をもつとして、かねてから研究を行っていたのである。しかし、遺骨は先住民の 主張に賛同する軍により没収されオーズリー博士の元に届く事はなかった。それどころか陸軍工兵部隊は科学者に5日間だけの猶予を与えた後、遺骨の発見され た河原周辺を17万5000ドルもの巨費を投じて土砂で埋め尽くす作業に取りかかった。
アメリカ陸軍による一連の行動は科学者のみならず、一般の人々の間でも大きな波紋を呼び起こす結果となった。いったい、何の目的で軍が介入したのか?まったく不思議な事だが、軍の主張は、単なる護岸工事と略奪者から遺跡を保護するためだそうだ。
もちろん軍の不可解な行動を不服とする科学者たちに、納得がいくはずは無く即座に陸軍の行動を不服とする訴えを起こした。この訴えは一般の支持を受け、地元選出の下院議員ドック・ヘースティングスは陸軍の行動を規制する法案を提出し上下両院で可決された。
法案の内容は「国防長官は、ケネウィックマンの遺骨が発見された土地に対していかなる変更も加えては行けない。又、何人に対しても許可してはならない。」という実にシンプルでストレートな内容だ。
しかし陸軍はこの法案を完全に無視し、法案が施行される直前までに完璧に発掘現場を、2000トンもの土砂で埋め尽くしてしまった。科学者側はケネ ウィックマンの埋葬と共に遺物が埋められた可能性や他のケネウィックマンが埋められている可能性を検証するために周辺を本格的に発掘したい意向だったのだ が、陸軍のこの行動で完全に不可能になってしまった。
これ以後、結局8人の科学者、陸軍、5つの部族との間で所有権をめぐる泥沼の裁判が、延々と続く事になる。
ところが、当初白人の特徴を示すと考えられていたケネウィックマンだが、後の解剖学的な検証から、この事にも異論が唱えられるようになった。より詳細な 解剖学的研究から、ケネウィックマンは白人よりも、日本のアイヌ人やポリネシア人との類似性が高い事が明らかになったのだ。現在のアイヌ人は、日本の先住 民である縄文人とのつながりが強く指摘されている事からもわかるように、ケネウィックマンが縄文人である可能性が出てきたのである。
年代測定は炭素14法と呼ばれる炭素の放射性同位元素の半減期を利用する手法で行われた。この年代測定法は広く用いられており、信頼性も充分に高いが、 9300年前という年代測定が正しいとすると、ケネウィックマンはアメリカ最古級のもっとも保存状態の良い遺骨という事になる。
ところが、この遺骨の頭蓋骨の特徴は一見して現代のアメリカ先住民と異なり、白人的な要素を備えていた。年代測定結果に驚いたジム・チャターズ博士の 元、頭像の復元作業が行われた。その結果、俳優のパトリック・スチュアートそっくりの均整の取れた白人系の顔が浮かび上がって来たのだ。アメリカでは身元 不明の遺体の頭蓋骨を元に、頭像の復元作業が頻繁に行われているが、その復元の精度はかなり高く十分信頼のおける物である。
又、チャターズ博士によるとケネウィックマンは、40~55歳ぐらいで、身長約175センチの非常に均整の取れた筋肉を持つかっこいい人物だという。
アメリカ大陸は、約500年前新しいインド航路を確立するため大西洋に乗り出したクリストファー・コロンブスにより発見され、ヨーロッパ人に存在が知られるようになった。
ここまでは、学校で習う歴史であり誰でも知っている事である。しかし、現実にはコロンブスのはるか以前にバイキングたちはすでにアメリカ大陸に到達しており、小規模な植民地がいくつも作られていたのだ。
更に、最近ではフェニキア人もアメリカ大陸に到達していた事がほぼ確実になりつつある。フェニキア人は、紀元前の地中海で海洋貿易で栄えた民族で、フェ ニキア人の都市国家カルタゴは、紀元前146年第三次ポエニ戦争によってローマに滅ぼされるまで当時の地中海世界の中心であった。カルタゴ人の記録から は、バスコダガマが喜望峰を回りアフリカを一周する遥か以前にアフリカを一周していることがわかっている。
そしてアメリカ各地からは、このフェニキア人が残したと思われる文字が多数発見されている。このように、実際のアメリカ大陸には、コロンブスの遥か以前 から白人が到達していたのである。ケネウィックマンは、はたして古い時代にアメリカに到達していたヨーロッパあるいは地中海周辺の古代人なのだろうか?
ところがジム・チャターズ博士らの「遺骨が白人男性の物」だとする主張に地元のアメリカ先住民ウマティラ族から猛然と抗議の声が沸きあがった。彼らの主張 によると9300年前のアメリカに白人が存在するはずは無く、遺骨は彼らの祖先のものである。それを白人の物だとする事は祖先を冒涜する事にほかならな い。ウマティラ族は1990年に制定された北米原住民に遺骨の所有を認める権利に基づき直ちに遺骨を返還し、埋葬をするよう訴訟を起こした。
一方、この発見を重要視したスミソニアン協会のダグ・オーズリー博士は詳しい調査の為、軍に遺骨の移送を依頼した。ダグ・オーズリー博士は、ネヴァダ州 で発見されたスピリットケーブマンがやはり現代のアメリカ先住民と異なる特徴をもつとして、かねてから研究を行っていたのである。しかし、遺骨は先住民の 主張に賛同する軍により没収されオーズリー博士の元に届く事はなかった。それどころか陸軍工兵部隊は科学者に5日間だけの猶予を与えた後、遺骨の発見され た河原周辺を17万5000ドルもの巨費を投じて土砂で埋め尽くす作業に取りかかった。
アメリカ陸軍による一連の行動は科学者のみならず、一般の人々の間でも大きな波紋を呼び起こす結果となった。いったい、何の目的で軍が介入したのか?まったく不思議な事だが、軍の主張は、単なる護岸工事と略奪者から遺跡を保護するためだそうだ。
もちろん軍の不可解な行動を不服とする科学者たちに、納得がいくはずは無く即座に陸軍の行動を不服とする訴えを起こした。この訴えは一般の支持を受け、地元選出の下院議員ドック・ヘースティングスは陸軍の行動を規制する法案を提出し上下両院で可決された。
法案の内容は「国防長官は、ケネウィックマンの遺骨が発見された土地に対していかなる変更も加えては行けない。又、何人に対しても許可してはならない。」という実にシンプルでストレートな内容だ。
しかし陸軍はこの法案を完全に無視し、法案が施行される直前までに完璧に発掘現場を、2000トンもの土砂で埋め尽くしてしまった。科学者側はケネ ウィックマンの埋葬と共に遺物が埋められた可能性や他のケネウィックマンが埋められている可能性を検証するために周辺を本格的に発掘したい意向だったのだ が、陸軍のこの行動で完全に不可能になってしまった。
これ以後、結局8人の科学者、陸軍、5つの部族との間で所有権をめぐる泥沼の裁判が、延々と続く事になる。
ところが、当初白人の特徴を示すと考えられていたケネウィックマンだが、後の解剖学的な検証から、この事にも異論が唱えられるようになった。より詳細な 解剖学的研究から、ケネウィックマンは白人よりも、日本のアイヌ人やポリネシア人との類似性が高い事が明らかになったのだ。現在のアイヌ人は、日本の先住 民である縄文人とのつながりが強く指摘されている事からもわかるように、ケネウィックマンが縄文人である可能性が出てきたのである。
アメリカ大陸に残された縄文人の痕跡
ケネウィックマンの起源を明らかにする最もよい方法は、DNAを調べる事であった。しかし、困難な裁判の末、科学者側にDNAテストが認められたにもかか わらずテストは失敗してしまった。残念な事だがケネウィックマンは、現在も所有権をめぐる裁判を係争中で、これ以上の研究は望めそうに無い。
しかし、2001年7月、ミシガン大学のローリング・ブレース博士の研究グループによりケネウィックマン縄文人説を裏付ける更なる証拠が出てきた。
ブレース博士等は、北米の西部地域及びアジア大陸に住む現在の住民、及び古代人の1000人分以上の頭蓋骨を21箇所の解剖学的基準に基づいて比較検討 した。それぞれの測定結果を、デンドログラムと呼ばれるツリー状のグラフにまとめた結果、古い時代のアメリカ先住民は、現在のアメリカ先住民や北方アジア 人とはまったく似ていない事がわかったのだ。
古代のアメリカ先住民に最も近いのは、縄文人と現在のアイヌ人、ポリネシア人という結果だった。いわゆる古モンゴロイドと呼ばれている集団である。ブレー ス博士等は、これらの研究結果に基づきアメリカ最初の移住者は、約1万5000年前の氷河期に日本から移住してきた縄文人であり、約5000年前に北方ア ジアから移住した人々が先住の縄文人と入れ替わり現在のアメリカ先住民になったと言う仮説をたてた。
はたして、ケネウィックマンや古代のアメリカ先住民は、縄文人だったのだろうか。アメリカ大陸で発見された古代人の骨が直接的に縄文人と結び付けられた のは、ケネウィックマンの発見以降の事である。しかし、縄文人がアメリカ大陸に到達していたのではないかと言う仮説は、実は以外に古くから唱えられてい た。
最初にこの仮説を唱えたのは、米国スミソニアン協会のエバンス博士夫妻である。1965年にエバンス博士夫妻は、中米エクアドルのバルディビア遺跡から発掘された土器が、縄文土器(Pic.12)そっくりであると言う研究報告を行った。
南北両アメリカ大陸を含め最古の土器文化の一つに数えられるバルディビアでは、5500年前頃から土器文化が始まり3500年前頃まで続いた。
一方縄文土器は、今から1万6500年前頃から作られ始めたと考えられる為、バルディビアに土器文化が始まった時には、すでに一万年以上の歴史があった わけだ。ところがバルディビアにおいては、縄文人が1万年以上もかけ発達させてきた洗練された土器文化が忽然と現れているのだ。
バルディビアの土器は含まれる成分の科学的検査の結果、明らかに現地の粘土を使用して焼かれた事が判明している。それにもかかわらず、その文様はエバンス博士夫妻の研究によると縄文土器そのもので、特に九州の縄文土器に酷似していると言う。
しかし、エバンス博士のこの仮説は長い間、無視されつづけてきた。なぜなら、日本列島とエクアドルでは、あまりにも距離が離れすぎているため、とても縄 文人が移動できる距離ではないと考えられたからだ。何しろ、当時の考古学者は、縄文人を狩猟採集しか行わない原始人だと決め付けていたのだ。
ところが、最近の縄文人に対する認識の変化から、再びエバンス博士の仮説が真剣に検討されるようになってきた。又、バルディビア遺跡からは、土器以外に も縄文人と直接的に結びつく幾つかの発掘品が発見されている。その一つはバルディビアのビーナス(Pic.14)と呼ばれる縄文土偶にそっくりの土偶であ る。
縄文土偶と言うと、遮光器土偶があまりにも有名なため、バルディビアのビーナス土偶とはあまり似ていない様にも思われる。しかし、遮光器土偶は土偶の中 でも非常に特殊な形状の土偶で、それが為に有名であるだけだ。縄文土偶のほとんどは、バルディビアのビーナス土偶同様に優美な曲線で女性をかたどった物で ある。その縄文土偶の中でも、日本最古の国宝に指定されている通称「縄文のビーナス」(Pic.13)と呼ばれる土偶などは、まさにバルディビアのビーナ スと瓜二つで、一目見ただけで同様の思想の基に作成された事が伺える。
更に、バルディビアからの興味深い発掘物に楕円形の石に線刻を描いたものがある。この線刻の刻まれた石が、愛媛県上黒岩遺跡の「石のビーナス」と呼ばれる 岩偶とまったくそっくりなのだ。岩遇にも線刻が刻まれていて、女性の腰みのを表現していると思われている。これらの岩偶は、おそらく現在のお守りのような 使われ方をしたと考えられている。
上黒岩遺跡の石のビーナスには、その名前の通り線刻が腰みのをまとった人型に明確に描かれている物もある。何の関連性もない2つの地域で腰みのをモチーフにした線刻を刻んだ石のお守りが見つかるとは、偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎているとは思わないだろうか。
更に、縄文人がアメリカ大陸に到達していた間接的な証拠に、南米と日本だけに存在するユニークな情報伝達手段の結縄文字、いわゆる縄文字 (Pic.15)の存在があげられるだろう。結縄文字とは、紐状の物を結んだときに出来る結び目の形で情報を伝達する手段の事で、インカ帝国で使用されて いたキープが良く知られている。しかし、このキープとまったく同じ働をもった藁算(Pic.16)と呼ばれる藁の結び目で情報を伝達する縄文字が沖縄地方 に現在でも残されている事は意外と知られていい。
左の写真はインカ帝国のキープで、右の写真は沖縄の藁算のものである、一見あまり似てはいない様にも見えるが、情報伝達手段のアイデアとしては紛れも無く 同一である。更に藁算の写真の左上2番目にかけられている物は、輪から結び目の付いた縄が垂れ下がっているスタイルがキープとそっくりである。
縄の結び目で情報を伝達するなどと言うアイデアが、太平洋を隔てた2つの地域で別々に発生するものだろうか。どちらかがオリジナルであると考えるほうがはるかに理にかなっている。
南米が原産で、現代文明に必要不可欠な工業品といえば、何が思い浮かぶだろうか。それは、天然ゴムである。ゴムは、ご存知の通りゴムの木の樹液から作ら れる。ゴムの弾性を飛躍的に高める加硫法の発見以来、工業品として欠かせない存在になっている。しかし、その起源は古く、6世紀頃のアステカ文明や11世 紀頃のマヤ文明などでも使用されていた事がわかっている。ゴムの樹液から利用できるゴムを作成する工程は以外に複雑で、ただ単に乾かせば利用できると言う 物ではない。しかし、ゴムの樹液の採集は、樹皮に斜めに刻み目を入れ、そこから染み出し垂れて来る樹液を採集するだけだ。
この光景に何かおもいあたる物が無いだろうか?そう!漆の採集風景そのものなのだ。
漆も同様の方法で採集した樹液を元に、複雑な工程で塗り重ねられた結果、漆器となるのだ。漆も伝統工芸分野だけでなく、シックハウス症候群を防ぐ塗料として工業分野での利用も期待されている。
木の幹から採集される樹液を複雑な工程を繰り返し、巧みに利用する技術。この様な技術が、太平洋を挟んだ日本と南米に伝統的に残されていた事実。偶然と言えるだろうか。
漆の利用法に精通した縄文人が、同じ様に樹液が染み出すゴムの木を発見し何か利用出来ると考えたとすれば、南米でゴムの利用が行われた事も納得がいくのでは無いだろうか。
しかし、2001年7月、ミシガン大学のローリング・ブレース博士の研究グループによりケネウィックマン縄文人説を裏付ける更なる証拠が出てきた。
ブレース博士等は、北米の西部地域及びアジア大陸に住む現在の住民、及び古代人の1000人分以上の頭蓋骨を21箇所の解剖学的基準に基づいて比較検討 した。それぞれの測定結果を、デンドログラムと呼ばれるツリー状のグラフにまとめた結果、古い時代のアメリカ先住民は、現在のアメリカ先住民や北方アジア 人とはまったく似ていない事がわかったのだ。
古代のアメリカ先住民に最も近いのは、縄文人と現在のアイヌ人、ポリネシア人という結果だった。いわゆる古モンゴロイドと呼ばれている集団である。ブレー ス博士等は、これらの研究結果に基づきアメリカ最初の移住者は、約1万5000年前の氷河期に日本から移住してきた縄文人であり、約5000年前に北方ア ジアから移住した人々が先住の縄文人と入れ替わり現在のアメリカ先住民になったと言う仮説をたてた。
はたして、ケネウィックマンや古代のアメリカ先住民は、縄文人だったのだろうか。アメリカ大陸で発見された古代人の骨が直接的に縄文人と結び付けられた のは、ケネウィックマンの発見以降の事である。しかし、縄文人がアメリカ大陸に到達していたのではないかと言う仮説は、実は以外に古くから唱えられてい た。
最初にこの仮説を唱えたのは、米国スミソニアン協会のエバンス博士夫妻である。1965年にエバンス博士夫妻は、中米エクアドルのバルディビア遺跡から発掘された土器が、縄文土器(Pic.12)そっくりであると言う研究報告を行った。
南北両アメリカ大陸を含め最古の土器文化の一つに数えられるバルディビアでは、5500年前頃から土器文化が始まり3500年前頃まで続いた。
一方縄文土器は、今から1万6500年前頃から作られ始めたと考えられる為、バルディビアに土器文化が始まった時には、すでに一万年以上の歴史があった わけだ。ところがバルディビアにおいては、縄文人が1万年以上もかけ発達させてきた洗練された土器文化が忽然と現れているのだ。
バルディビアの土器は含まれる成分の科学的検査の結果、明らかに現地の粘土を使用して焼かれた事が判明している。それにもかかわらず、その文様はエバンス博士夫妻の研究によると縄文土器そのもので、特に九州の縄文土器に酷似していると言う。
しかし、エバンス博士のこの仮説は長い間、無視されつづけてきた。なぜなら、日本列島とエクアドルでは、あまりにも距離が離れすぎているため、とても縄 文人が移動できる距離ではないと考えられたからだ。何しろ、当時の考古学者は、縄文人を狩猟採集しか行わない原始人だと決め付けていたのだ。
ところが、最近の縄文人に対する認識の変化から、再びエバンス博士の仮説が真剣に検討されるようになってきた。又、バルディビア遺跡からは、土器以外に も縄文人と直接的に結びつく幾つかの発掘品が発見されている。その一つはバルディビアのビーナス(Pic.14)と呼ばれる縄文土偶にそっくりの土偶であ る。
縄文土偶と言うと、遮光器土偶があまりにも有名なため、バルディビアのビーナス土偶とはあまり似ていない様にも思われる。しかし、遮光器土偶は土偶の中 でも非常に特殊な形状の土偶で、それが為に有名であるだけだ。縄文土偶のほとんどは、バルディビアのビーナス土偶同様に優美な曲線で女性をかたどった物で ある。その縄文土偶の中でも、日本最古の国宝に指定されている通称「縄文のビーナス」(Pic.13)と呼ばれる土偶などは、まさにバルディビアのビーナ スと瓜二つで、一目見ただけで同様の思想の基に作成された事が伺える。
更に、バルディビアからの興味深い発掘物に楕円形の石に線刻を描いたものがある。この線刻の刻まれた石が、愛媛県上黒岩遺跡の「石のビーナス」と呼ばれる 岩偶とまったくそっくりなのだ。岩遇にも線刻が刻まれていて、女性の腰みのを表現していると思われている。これらの岩偶は、おそらく現在のお守りのような 使われ方をしたと考えられている。
上黒岩遺跡の石のビーナスには、その名前の通り線刻が腰みのをまとった人型に明確に描かれている物もある。何の関連性もない2つの地域で腰みのをモチーフにした線刻を刻んだ石のお守りが見つかるとは、偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎているとは思わないだろうか。
更に、縄文人がアメリカ大陸に到達していた間接的な証拠に、南米と日本だけに存在するユニークな情報伝達手段の結縄文字、いわゆる縄文字 (Pic.15)の存在があげられるだろう。結縄文字とは、紐状の物を結んだときに出来る結び目の形で情報を伝達する手段の事で、インカ帝国で使用されて いたキープが良く知られている。しかし、このキープとまったく同じ働をもった藁算(Pic.16)と呼ばれる藁の結び目で情報を伝達する縄文字が沖縄地方 に現在でも残されている事は意外と知られていい。
左の写真はインカ帝国のキープで、右の写真は沖縄の藁算のものである、一見あまり似てはいない様にも見えるが、情報伝達手段のアイデアとしては紛れも無く 同一である。更に藁算の写真の左上2番目にかけられている物は、輪から結び目の付いた縄が垂れ下がっているスタイルがキープとそっくりである。
縄の結び目で情報を伝達するなどと言うアイデアが、太平洋を隔てた2つの地域で別々に発生するものだろうか。どちらかがオリジナルであると考えるほうがはるかに理にかなっている。
南米が原産で、現代文明に必要不可欠な工業品といえば、何が思い浮かぶだろうか。それは、天然ゴムである。ゴムは、ご存知の通りゴムの木の樹液から作ら れる。ゴムの弾性を飛躍的に高める加硫法の発見以来、工業品として欠かせない存在になっている。しかし、その起源は古く、6世紀頃のアステカ文明や11世 紀頃のマヤ文明などでも使用されていた事がわかっている。ゴムの樹液から利用できるゴムを作成する工程は以外に複雑で、ただ単に乾かせば利用できると言う 物ではない。しかし、ゴムの樹液の採集は、樹皮に斜めに刻み目を入れ、そこから染み出し垂れて来る樹液を採集するだけだ。
この光景に何かおもいあたる物が無いだろうか?そう!漆の採集風景そのものなのだ。
漆も同様の方法で採集した樹液を元に、複雑な工程で塗り重ねられた結果、漆器となるのだ。漆も伝統工芸分野だけでなく、シックハウス症候群を防ぐ塗料として工業分野での利用も期待されている。
木の幹から採集される樹液を複雑な工程を繰り返し、巧みに利用する技術。この様な技術が、太平洋を挟んだ日本と南米に伝統的に残されていた事実。偶然と言えるだろうか。
漆の利用法に精通した縄文人が、同じ様に樹液が染み出すゴムの木を発見し何か利用出来ると考えたとすれば、南米でゴムの利用が行われた事も納得がいくのでは無いだろうか。
ハイテクが解き明かす縄文人の移動
現在のハイテクを用いた研究からも縄文人がアメリカ大陸まで達していた事を裏付ける証拠が続々と発見されつつある。第一に愛知県癌センターの田島和雄博士 によるHTLVウイルスの感染者の分布を調べた研究がある。HTLVウイルスは、1981年に日本で発見された成人T細胞白血病の原因ウイルスである。
HTLVウイルスには、HTLV-I型とHTLV-II 型があるが、このうち日本で見つかるのはHTLV-Iのみである。このウイルスに感染していると必ず成人T細胞白血病になるわけではないが、感染者は主に 九州・沖縄地方と北海道のアイヌに集中していて、大きな地域差が見られるのが特徴的だった。
ところが、日本のすぐお隣の国、韓国や中国からは、HTLV-Iウイルスの感染者は発見できなかった。これらの国は、とりわけ南西日本とは関わりが深い と思われていただけに実に意外な結果であった。しかし、更なる研究の結果、思わぬところから感染者が多く見つかったのだ。田島博士による調査の結果、南米 アンデスの高地民族の人々(Pic.17)がHTLV-Iウイルスに高率で感染している事があきらかになった。HTLV-II ウイルスは、中南米の多くの地域で発見されているが、HTLV-Iウイルスに感染しているのは、アンデスの人々だけだった。更に縄文土器が発見された南太 平洋のバヌアツ諸島の人々も高率で感染している事も明らかになっている。
田島博士によるとHTLV-IウイルスはDNA配列の違いによって5種類に分類されるが、アンデスで発見されたウイルスは、日本と同じ太平洋型に分類さ れるらしい。この感染者の分布は、古い時代の日本人、つまり縄文人が太平洋ルートで南米にまで到達していた事を示唆する重要な証拠の一つといえる事は間違 いない。
しかしHTLV-Iウイルスの感染が、コロンブスのアメリカ大陸発見以後、現代人の移動により拡散したと言う可能性も、わずかながら残されていた。この 点についても、田島博士の研究グループは、1999年に約1500年前のミイラの骨髄からHTLV-Iウイルスを発見した事により、感染が古代の出来事 だった事を明らかにしている。
もう一つ、やはり最新のテクノロジーであるDNA研究の分野からも縄文人が南米に到達していたと思われる証拠が発見されつつある。最近聞き飽きた感のあ るDNA研究だが、一般的に人のルーツ探しの研究に使われるDNAは、人間の遺伝にかかわる核DNAではなくミトコンドリアDNAである。動物の細胞の中 には、エネルギーの生産を担っている微小器官ミトコンドリアが存在する。このミトコンドリアは、もともと単独で存在した生物が動物の細胞内に取り込まれ、 共生と言う形でエネルギー生産を行うようになったと考えられている。したがってミトコンドリアは独自のDNA(mtDNA)を持っている。
このmtDNAと核DNAの違いは、核DNAは人間の遺伝情報を両親から受け継ぎ生殖のたびに変化するが、mtDNAは、母親のみから受け継がれ変化しない事にある。mtDNAが変化する時、それは偶然のコピーエラー等で生じる突然変異のみである。
突然変異は長いスパンで見ると発生する確率は一定と考えられ、変化量を追っかける事により一種の分子時計としての働きもある。更にmtDNAは核DNA よりずっと高率に突然変異を起こす事から、各集団のmtDNAの変異量を測定する事で集団間の関係や、集団が分かれてどれぐらい経過したかなどがわかるの だ。分子時計としての働きには、最近異論も唱えられているが、mtDNAが人類集団の関係を探る上で重要な物である事には、依然間違いない。
このmtDNAの中でも、Dループと呼ばれる領域の変異が、人類学の研究にはよく使用される。Dループ領域は、mtDNAの中でも、重要な働きはしてい なく、一見存在が無意味な流域である。しかし、重要でない領域だからこそ、変異が起きた場合でもミトコンドリアが生きて変異を伝える事が出来る。もし、重 要な働きをする領域に、変異が起きてしまえばミトコンドリア自体が生きていけないので、変異を伝える事も出来ないわけだ。
約1100塩基が存在するDループの塩基配列は、すでに全世界でデータベース化が進んでいて、インターネット上でも参照可能である。塩基配列の比較は、 直接的に各集団間の塩基配列の比較をする方法以外にもケンブリッジ参照比較と呼ばれる、1981年にケンブリッジ大学により全配列が決定されたmtDNA との配列の違いを番号で表記する方法もある。
たとえば、20番目と150番目の塩基が、参照DNAと異なっていれば「20,150」のように簡易表記される。そして、このケンブリッジ参照比較で表 記される番号がまったく同じ民族が離れて存在する場合は、その民族は同じmtDNAタイプに属すると考えられ、比較的最近、共通の祖先から分かれたと言う 事が出来るのだ。この方法を用いて、最後のロシア王朝ロマノフ王家の一族の遺体が確認された事は、有名な話である。
現在ではPCR法と呼ばれる効率的なDNAの増幅方法が確立しているため、ほんの少量のサンプルさえあれば、DNAの配列が確定可能になっている。 1987年、カリフォルニア大学のアラン・ウィルソン博士らは、PCR法を利用してフロリダ州で発見された7000年前のミイラからmtDNAの抽出に成 功した。その結果、そのミイラは現代人では稀な、mtDNA配列を持っていた。
ところが、総合研究大学院大学の宝来聰博士らが分析済みの、現代日本人のデータの中に、同じ配列を持つものが見つかっている。少なくとも現代の日本人の中にも、古代のアメリカ先住民とつながるmtDNA配列を持つグループが存在することになる。
又、宝来博士はチリの北カトリック大学に保存されていた約6000年前のミイラからmtDNAを取り出す事にも成功している。これらのミイラから取り出 された4系統のmtDNAタイプを、インカ帝国を築いたケチュア族の末裔のmtDNAと比較したところ、間違いなくこの人物がミイラの4系統の一つに含ま れる事が確認された。更に、このmtDNAタイプを、宝来博士と共にNHKスペシャルの撮影を行っていた取材スタッフが、データベースで調べたところアイ ヌ人の一部の人たちと非常に近い配列である事も判明している。
そして更に驚くべき発見が、南米ペルーのシカン王国の遺跡を調査していた佐賀医科大学の篠田謙一博士等のシカン王国遺跡調査団により発表されている。シ カン王国はペルーで花開いたプレインカ文明の一つで1300年前頃から600年前頃に渡って栄えた文明として知られている。
このシカン文明の西の墓を発掘していた調査団は、墓の中からシカンの王族の物と思われる多数の人骨を発掘した。これらの人骨のmtDNAタイプを調べて 見たところ、10号、13号、14号墓の人骨のmtDNAタイプがこれまで、アメリカ大陸で知られていた4つのmtDNAタイプのどれにも相当しない事が 判明したのだ。
博士等は、このmtDNAタイプを世界各地の民族のmtDMAタイプと比較していった結果、何とアイヌ人に同じmtDNAタイプを持つ者がいる事が確認 された。mtDNAタイプが同じということは、シカンの墓に葬られていた人物はアイヌ人との血縁関係がもっとも深いと言う事である。更に、アイヌ人は縄文 人の直系の子孫に近いと言う事が、mtDNAからも確認されている。この様に、最新のテクノロジーを駆使した研究からも縄文人がアメリカ大陸に到達してい た証拠が、確実に得られつつあるのだ。
HTLVウイルスには、HTLV-I型とHTLV-II 型があるが、このうち日本で見つかるのはHTLV-Iのみである。このウイルスに感染していると必ず成人T細胞白血病になるわけではないが、感染者は主に 九州・沖縄地方と北海道のアイヌに集中していて、大きな地域差が見られるのが特徴的だった。
ところが、日本のすぐお隣の国、韓国や中国からは、HTLV-Iウイルスの感染者は発見できなかった。これらの国は、とりわけ南西日本とは関わりが深い と思われていただけに実に意外な結果であった。しかし、更なる研究の結果、思わぬところから感染者が多く見つかったのだ。田島博士による調査の結果、南米 アンデスの高地民族の人々(Pic.17)がHTLV-Iウイルスに高率で感染している事があきらかになった。HTLV-II ウイルスは、中南米の多くの地域で発見されているが、HTLV-Iウイルスに感染しているのは、アンデスの人々だけだった。更に縄文土器が発見された南太 平洋のバヌアツ諸島の人々も高率で感染している事も明らかになっている。
田島博士によるとHTLV-IウイルスはDNA配列の違いによって5種類に分類されるが、アンデスで発見されたウイルスは、日本と同じ太平洋型に分類さ れるらしい。この感染者の分布は、古い時代の日本人、つまり縄文人が太平洋ルートで南米にまで到達していた事を示唆する重要な証拠の一つといえる事は間違 いない。
しかしHTLV-Iウイルスの感染が、コロンブスのアメリカ大陸発見以後、現代人の移動により拡散したと言う可能性も、わずかながら残されていた。この 点についても、田島博士の研究グループは、1999年に約1500年前のミイラの骨髄からHTLV-Iウイルスを発見した事により、感染が古代の出来事 だった事を明らかにしている。
もう一つ、やはり最新のテクノロジーであるDNA研究の分野からも縄文人が南米に到達していたと思われる証拠が発見されつつある。最近聞き飽きた感のあ るDNA研究だが、一般的に人のルーツ探しの研究に使われるDNAは、人間の遺伝にかかわる核DNAではなくミトコンドリアDNAである。動物の細胞の中 には、エネルギーの生産を担っている微小器官ミトコンドリアが存在する。このミトコンドリアは、もともと単独で存在した生物が動物の細胞内に取り込まれ、 共生と言う形でエネルギー生産を行うようになったと考えられている。したがってミトコンドリアは独自のDNA(mtDNA)を持っている。
このmtDNAと核DNAの違いは、核DNAは人間の遺伝情報を両親から受け継ぎ生殖のたびに変化するが、mtDNAは、母親のみから受け継がれ変化しない事にある。mtDNAが変化する時、それは偶然のコピーエラー等で生じる突然変異のみである。
突然変異は長いスパンで見ると発生する確率は一定と考えられ、変化量を追っかける事により一種の分子時計としての働きもある。更にmtDNAは核DNA よりずっと高率に突然変異を起こす事から、各集団のmtDNAの変異量を測定する事で集団間の関係や、集団が分かれてどれぐらい経過したかなどがわかるの だ。分子時計としての働きには、最近異論も唱えられているが、mtDNAが人類集団の関係を探る上で重要な物である事には、依然間違いない。
このmtDNAの中でも、Dループと呼ばれる領域の変異が、人類学の研究にはよく使用される。Dループ領域は、mtDNAの中でも、重要な働きはしてい なく、一見存在が無意味な流域である。しかし、重要でない領域だからこそ、変異が起きた場合でもミトコンドリアが生きて変異を伝える事が出来る。もし、重 要な働きをする領域に、変異が起きてしまえばミトコンドリア自体が生きていけないので、変異を伝える事も出来ないわけだ。
約1100塩基が存在するDループの塩基配列は、すでに全世界でデータベース化が進んでいて、インターネット上でも参照可能である。塩基配列の比較は、 直接的に各集団間の塩基配列の比較をする方法以外にもケンブリッジ参照比較と呼ばれる、1981年にケンブリッジ大学により全配列が決定されたmtDNA との配列の違いを番号で表記する方法もある。
たとえば、20番目と150番目の塩基が、参照DNAと異なっていれば「20,150」のように簡易表記される。そして、このケンブリッジ参照比較で表 記される番号がまったく同じ民族が離れて存在する場合は、その民族は同じmtDNAタイプに属すると考えられ、比較的最近、共通の祖先から分かれたと言う 事が出来るのだ。この方法を用いて、最後のロシア王朝ロマノフ王家の一族の遺体が確認された事は、有名な話である。
現在ではPCR法と呼ばれる効率的なDNAの増幅方法が確立しているため、ほんの少量のサンプルさえあれば、DNAの配列が確定可能になっている。 1987年、カリフォルニア大学のアラン・ウィルソン博士らは、PCR法を利用してフロリダ州で発見された7000年前のミイラからmtDNAの抽出に成 功した。その結果、そのミイラは現代人では稀な、mtDNA配列を持っていた。
ところが、総合研究大学院大学の宝来聰博士らが分析済みの、現代日本人のデータの中に、同じ配列を持つものが見つかっている。少なくとも現代の日本人の中にも、古代のアメリカ先住民とつながるmtDNA配列を持つグループが存在することになる。
又、宝来博士はチリの北カトリック大学に保存されていた約6000年前のミイラからmtDNAを取り出す事にも成功している。これらのミイラから取り出 された4系統のmtDNAタイプを、インカ帝国を築いたケチュア族の末裔のmtDNAと比較したところ、間違いなくこの人物がミイラの4系統の一つに含ま れる事が確認された。更に、このmtDNAタイプを、宝来博士と共にNHKスペシャルの撮影を行っていた取材スタッフが、データベースで調べたところアイ ヌ人の一部の人たちと非常に近い配列である事も判明している。
そして更に驚くべき発見が、南米ペルーのシカン王国の遺跡を調査していた佐賀医科大学の篠田謙一博士等のシカン王国遺跡調査団により発表されている。シ カン王国はペルーで花開いたプレインカ文明の一つで1300年前頃から600年前頃に渡って栄えた文明として知られている。
このシカン文明の西の墓を発掘していた調査団は、墓の中からシカンの王族の物と思われる多数の人骨を発掘した。これらの人骨のmtDNAタイプを調べて 見たところ、10号、13号、14号墓の人骨のmtDNAタイプがこれまで、アメリカ大陸で知られていた4つのmtDNAタイプのどれにも相当しない事が 判明したのだ。
博士等は、このmtDNAタイプを世界各地の民族のmtDMAタイプと比較していった結果、何とアイヌ人に同じmtDNAタイプを持つ者がいる事が確認 された。mtDNAタイプが同じということは、シカンの墓に葬られていた人物はアイヌ人との血縁関係がもっとも深いと言う事である。更に、アイヌ人は縄文 人の直系の子孫に近いと言う事が、mtDNAからも確認されている。この様に、最新のテクノロジーを駆使した研究からも縄文人がアメリカ大陸に到達してい た証拠が、確実に得られつつあるのだ。
古代の情報スーパーハイウェイ
それでは縄文人がアメリカ大陸にまで到達していたとして、どのような手段を使い到達できたのであろうか。前述の「縄文人がアメリカ最初の移住者だ」と言う 仮説を立てたブレース博士の考えでは、縄文人は氷河期で陸続きになったベーリング海峡を陸路渡り、アメリカ大陸に到達したとしている。しかし、本当に陸路 だったのだろうか?
ベーリング海峡ほどの高緯度になると、現在でも極寒の地である。氷河期最盛期の今から約1万5000年前、この地を陸伝いに移動する事は至難の技ではな いだろうか。陸伝いにアメリカ大陸にまで移動する場合、2,3ヵ月で移動できるわけではない。嵐が吹きすさび、食料の乏しい大地を、家族を引き連れて何年 もかけ移動する事になる。たとえ可能だったとしても、それほどまでして先の見えない移住を強行する動機が見つからない。むしろ、船を使用したと考えるほう が、自然ではないだろうか。
多くの現代人にとって、遠距離への移動手段は飛行機か客船である。目の前に、横たわる大海原を見た時、とても小船で渡れるとは思わないだろう。この感覚 が「現代人に無理な事が古代人に出来るわけがない」という、間違った認識を生む事になる。しかし、このような考えは、安全かつ楽に移動できる手段に慣れ きった現代人の幻想に過ぎない。
様々な状況証拠が示すように、古代人にとって海は障壁ではなく、移動の為の最も重要なルートだったのだ。太平洋の真ん中にまで進出するほどの、航海術を 持った縄文人にとって、極寒の地上を何年もかけアメリカ大陸に移住するより、海上を船で移動した方が遥かに安全で簡単だったのだ。
更に日本付近からは黒潮として知られる強い海流が、まるで海のハイウェイのようにアメリカ大陸に向かい流れている。水中考古学の第一人者で東京商船大学 名誉教授、茂在寅男博士によると、黒潮に乗った場合、もっとも上陸出来る可能性が高い場所が、カナダ南部からアメリカ西海岸であると言う。まさにケネ ウィックマンが発見され、縄文人と思われる古代人が分布していた場所とぴったり一致するのだ。
茂在博士によると北太平洋の海流は、大雑把に見て時計回りに流れていると言う。
つまり、黒潮は日本付近を北上後、北太平洋海流となり東進し、アメリカ西海岸に沿って南下するカリフォルニア海流となり、やがて赤道手前でアメリカ大陸 から離れていく北赤道海流になる。そうすると、海流に乗る限り一見、カリフォルニア以南にはたどり着けないように思われる。しかし、海流の本流が赤道手前 でアメリカ大陸から離れ西進するとき、そのすぐ南側北緯5度付近には北赤道海流とは反対側に東進する赤道反流が生ずるのだ。
つまり、カリフォルニア海流に乗って南下した場合、海流の本流が大陸より離反するところで、赤道反流に乗り移る事も可能である。首尾よく赤道反流に乗り移った場合、次に陸地にぶつかる所が、バルディビア土器の発見されたエクアドルあたりの海岸になる。
つまり、縄文人の痕跡が残された場所は、船による航海でたどり着きやすい場所とも言えるだろう。
もう一つ、縄文人との直接的な結び付きは無いが、古代人が船による航海でアメリカ大陸にまで達していた有力な証拠が存在する。それは、ズビニ鈎虫と呼ば れる小さな寄生虫の分布だ。ズビニ鈎虫は、人間を固有の宿主とするアフリカ起源の寄生虫で、人間の移動・拡散とともに世界中に広がったと考えられている。
ズビニ鈎中は中南米を中心とするアメリカ大陸にも広く分布しており、パラグアイの奥地に住む先住民の大半に寄生していると言う調査結果もある。しかし、ズビニ鈎虫が発育する為には22度の気温を必要とするため、北緯52度以北の地域には分布していない。
たとえ人間に寄生していても1年から2年以内には排泄されてしまうため、ベーリング海峡を徒歩で渡って、アメリカ大陸に人間が移住した場合、移動の最中 に絶滅してしまうと考えられる。当初、アメリカ大陸にズビニ鈎虫が広く分布しているという事は、コロンブスのアメリカ大陸発見以後の大航海で渡った人々に よりもたらされたと考えられていた。
しかし、1980年この鈎虫の拡散が現代人の移動による物ではない証拠が、ブラジルのアメリカ大陸人類研究所のアラウージョ博士等により発見された。ア ラウージョ博士等は、何千年も前の人間の糞化石や3000年以上前のミイラからズビニ鈎虫を発見したのだ。この発見により、ズビニ鈎虫の寄生は、コロンブ スのアメリカ大陸発見以前からあった事がはっきりした。
つまり、ズビニ鈎虫の分布は、明らかにモンゴロイドの一群が西洋人の大航海以前に、陸路によるベーリング海峡経由ではなく、暖かい海を船で横断しアメリカ大陸に達していた事を物語っている。
ベーリング海峡ほどの高緯度になると、現在でも極寒の地である。氷河期最盛期の今から約1万5000年前、この地を陸伝いに移動する事は至難の技ではな いだろうか。陸伝いにアメリカ大陸にまで移動する場合、2,3ヵ月で移動できるわけではない。嵐が吹きすさび、食料の乏しい大地を、家族を引き連れて何年 もかけ移動する事になる。たとえ可能だったとしても、それほどまでして先の見えない移住を強行する動機が見つからない。むしろ、船を使用したと考えるほう が、自然ではないだろうか。
多くの現代人にとって、遠距離への移動手段は飛行機か客船である。目の前に、横たわる大海原を見た時、とても小船で渡れるとは思わないだろう。この感覚 が「現代人に無理な事が古代人に出来るわけがない」という、間違った認識を生む事になる。しかし、このような考えは、安全かつ楽に移動できる手段に慣れ きった現代人の幻想に過ぎない。
様々な状況証拠が示すように、古代人にとって海は障壁ではなく、移動の為の最も重要なルートだったのだ。太平洋の真ん中にまで進出するほどの、航海術を 持った縄文人にとって、極寒の地上を何年もかけアメリカ大陸に移住するより、海上を船で移動した方が遥かに安全で簡単だったのだ。
更に日本付近からは黒潮として知られる強い海流が、まるで海のハイウェイのようにアメリカ大陸に向かい流れている。水中考古学の第一人者で東京商船大学 名誉教授、茂在寅男博士によると、黒潮に乗った場合、もっとも上陸出来る可能性が高い場所が、カナダ南部からアメリカ西海岸であると言う。まさにケネ ウィックマンが発見され、縄文人と思われる古代人が分布していた場所とぴったり一致するのだ。
茂在博士によると北太平洋の海流は、大雑把に見て時計回りに流れていると言う。
つまり、黒潮は日本付近を北上後、北太平洋海流となり東進し、アメリカ西海岸に沿って南下するカリフォルニア海流となり、やがて赤道手前でアメリカ大陸 から離れていく北赤道海流になる。そうすると、海流に乗る限り一見、カリフォルニア以南にはたどり着けないように思われる。しかし、海流の本流が赤道手前 でアメリカ大陸から離れ西進するとき、そのすぐ南側北緯5度付近には北赤道海流とは反対側に東進する赤道反流が生ずるのだ。
つまり、カリフォルニア海流に乗って南下した場合、海流の本流が大陸より離反するところで、赤道反流に乗り移る事も可能である。首尾よく赤道反流に乗り移った場合、次に陸地にぶつかる所が、バルディビア土器の発見されたエクアドルあたりの海岸になる。
つまり、縄文人の痕跡が残された場所は、船による航海でたどり着きやすい場所とも言えるだろう。
もう一つ、縄文人との直接的な結び付きは無いが、古代人が船による航海でアメリカ大陸にまで達していた有力な証拠が存在する。それは、ズビニ鈎虫と呼ば れる小さな寄生虫の分布だ。ズビニ鈎虫は、人間を固有の宿主とするアフリカ起源の寄生虫で、人間の移動・拡散とともに世界中に広がったと考えられている。
ズビニ鈎中は中南米を中心とするアメリカ大陸にも広く分布しており、パラグアイの奥地に住む先住民の大半に寄生していると言う調査結果もある。しかし、ズビニ鈎虫が発育する為には22度の気温を必要とするため、北緯52度以北の地域には分布していない。
たとえ人間に寄生していても1年から2年以内には排泄されてしまうため、ベーリング海峡を徒歩で渡って、アメリカ大陸に人間が移住した場合、移動の最中 に絶滅してしまうと考えられる。当初、アメリカ大陸にズビニ鈎虫が広く分布しているという事は、コロンブスのアメリカ大陸発見以後の大航海で渡った人々に よりもたらされたと考えられていた。
しかし、1980年この鈎虫の拡散が現代人の移動による物ではない証拠が、ブラジルのアメリカ大陸人類研究所のアラウージョ博士等により発見された。ア ラウージョ博士等は、何千年も前の人間の糞化石や3000年以上前のミイラからズビニ鈎虫を発見したのだ。この発見により、ズビニ鈎虫の寄生は、コロンブ スのアメリカ大陸発見以前からあった事がはっきりした。
つまり、ズビニ鈎虫の分布は、明らかにモンゴロイドの一群が西洋人の大航海以前に、陸路によるベーリング海峡経由ではなく、暖かい海を船で横断しアメリカ大陸に達していた事を物語っている。
縄文人は何故アメリカを目指したか?
ここまで証拠が出揃ったからには、もはや縄文人がアメリカ大陸に到達していた事は疑いようの無い事実である。しかも、その一部は大海原を大航海の末、アメリカ大陸に到達していたのだ。それでは何故、縄文人は危険を冒してまで大航海に挑んだのだろうか。
まず、アメリカ北西部の縄文人と中南米では、分けて考える必要があるのではないだろうか。と言うのもアメリカ北西部の縄文人は非常に時代が古く、その起 源は1万5000年以上前まで遡る事が出来ると考えられている。 1万5000年前と言えばちょうど最初の縄文土器が現れ始め縄文文化が、始まった時期に あたる。
さすがに、その時代に縄文人が組織だった大航海を行っていたと考えるには無理があるかも知れない。もちろん、大規模ではないにしても計画的な移住の可能性も考えられなくは無い。何しろ、水と食料さえ積み込めば、陸路より遥かに安全に到達可能なのだ。
しかし、前述の茂在博士は、おそらく潮に流され偶然に流れ着いたのだと考えている。
事実、近代においても、日本付近からアメリカ大陸に流された人々が何人も確認されている。さかんに、沖に乗り出し漁を行っていた縄文人が流されても何らおかしくない。それに縄文人は、水を蓄える事の出来る土器という最先端テクノロジーを持っていたのだ。
茂在博士によると日本付近から黒潮に乗った場合、約2ヶ月でアメリカ西海岸に到達すると言う。土器を持った縄文人にとっては、十分に生存可能な期間である。
アメリカ北西部への到達が偶然であった可能性が高い証拠に、縄文人らしい人骨が多数発見されているにもかかわらず、縄文土器や土偶などの縄文文化を示す 物が発見されていない事があげられるだろう。これは、個々の漂着が小規模で偶然の出来事だったため、文化が伝わるまでには至らなかったと考えられるのだ。 命からがら、アメリカ大陸に漂着した縄文人たちは小規模な家族集団として一から、出直しをしなくては、ならなかったのだ。ところがバルディビアや南米では、少し様子が違っていた。バルディビアには、バルディビア土器として知られる縄文土器を製造する技術が伝わっている。更 に土偶や岩偶など縄文文化自体が伝わって、忽然と新しい文化が花開いている。この事は、偶然による小規模な漂着では、説明するのは難しい。何らかの理由に より、意図的に移住したのだろう。
すでに幅広く航海を行い、アメリカ大陸にも到達していた縄文人の事だ、黒潮に乗れば新天地アメリカ大陸に到達できる事は知識としてもっていただろう。し かし太平洋の大海原に乗り出す事が、死を覚悟の大冒険である事も間違いない。何か理由があったはずである。そう考えると、縄文人が組織だって大海原に乗り 出した理由は、ただ一つ、難民として流出したのだ。
バルディビア土器文明が始まったのは、約5500年前である。この時期、大量の難民を生むほどの大事件とは何だったのだろうか。実はちょうどこの時代、南九州一帯で活発な火山活動を伴う大規模な地殻変動が起きていた。
まず約6300年前、九州の南の海底に横たわる鬼界カルデラが史上空前の大爆発を引き起こしていた。この大爆発の時に降り積もった火山灰は、アカホヤ火 山灰として知られ九州南部では、少ないところで60cm、多いところでは、なんと5mも降り積もった事が知られている。この大爆発により西日本一帯は壊滅 的な被害を受けた。成層圏にまで到達した火山灰により、日照は妨げられ長期間に及ぶ農作物の不作を招いた事だろう。
更に、約5500年前と4500年前にも南九州の指宿地方で、巨大な火山噴火が起こっている。こうした一連の巨大火山噴火が、縄文人を命の危険を冒して まで大航海に駆り立てたと考えられるのだ。事実、この出来事以降、南九州が発祥と思われる磨製石斧などが、関東などにも広がっている。
お守りである石のビーナスを握り締め、決死の思いで脱出した縄文人たち、その一部が黒潮に乗り大航海の末、たどり着いた新天地がエクアドルだったのだ。 大量の難民は、やがて新天地で土器作りを始めた。くしくも、バルディビア土器は、鬼界カルデラの噴火により壊滅したと思われる九州の土器にそっくりなのだ
土器の製作技術は、やがてバルディビアから中南米各地に広がり新しい独自の様式に発展していった。縄文人により、もたらされた様々な習慣や技術も土器と共に拡散したことだろう。
アイヌと同じ型のmtDNAタイプが見つかったシカン文明は、エクアドル方面から移住してきた人々が発展させた文明と考えられている。純血を保っている 確率が高いシカンの王族の墓から、アイヌ人と同じ型のDNAタイプが見つかったとしても決して不思議ではないだろう。やがて、シカンなどのプレインカ文明 は、その後の巨大帝国インカへと受け継がれていく事になる。
更に、南米には南太平洋ルートで、島伝いに到達したポリネシア人達がいた。この事も、南米原産のサツマイモがポリネシア地域で広く栽培されていた事で確認されている。ポリネシア人達もまた縄文の記憶を南米に伝えたのかもしれない。
こうして中南米各地には、現在も縄文人の痕跡が残される事となった。南米の奥地には、現在も未開の部族が暮らしている。外部と接触を持つ機会が少ない、未開部族のmtDNAの塩基配列を求める事が出来たなら、いずれ縄文人とのつながりがもっとはっきりしてくる事だろう。