機織の娘たち
2002
機織の娘たち
「あー、お母さんがでかけたー、チャンス」とコントンとビエンカムは織機にすわりました。お母さんがやっていたことはああだったかしら、こうかしらと思い出しながら、布織りに取り組むことは何とも楽しいこと。それまでは、地面に4本の棒を立て、そこに太い糸を張って織物遊びをしていたけれど、やっぱり本物はわくわくする。お母さんが帰ってきたら、しかられるのはわかっているけれど、やっぱりやめられない。
そんなことが続き、ペンお母さんは二人に織物をきちんと教えることにしました。コントンは8才、ビエンカムは6才。二人の織物人生が1台の織機に向き合って座った時からここにはじまりました。 私が通う織物工房はコントン/ビエンカム姉妹が経営するペンマイ・ギャラリー。そこでは蚕を育て、糸をつむぎ、天然の染料で染色をし、そして女の子たちが織りあげるというラオス伝統の織り作業が行われています。60歳くらいのおばあちゃんから15歳ほどの若い男の子まで老若男女が40人ほど働いているでしょうか? 私は織物のことは全く知りませんでした。織り機を目にしたこともありません。主人の仕事の関係でラオスに来ることが決まって、どうやって毎日の時間をすごすか? ということが、私の火急でかつ重大な問題でした。掃除・洗濯、買い物・料理と、今までの私の時間を占めていたものが、お手伝いさんという人が現れて、すぱっと空白になったのです。何かしなくちゃ。ゴルフはお安く出来るらしいけれど、暑いし、それに私は運動、特にボールを使うものはからきし駄目。お料理やケーキを作ることは大好きだけれど、教えてくれるところは・・、と考えあぐねていて、はたっと思いついたのが、織物でした。手先を動かすことは厭わないし、それに指先の運動にもなって、ボケの防止にはもってこいじゃない。そこで、ビエンチャン市内のいくつかの織物工房の見学に出掛けました。工房を覗いてみますと、若い女の子たちが細長い舟形のものを右にやり左にやり、いとも簡単そうにすいすいと織っているではありませんか。何か私にも出来そう。うん、これだわ。 そこで、英語の上手な二人の姉妹が経営する工房、ペンマイ・ギャラリーでの授業を始めました。 先生のトイちゃんは、ビエンチャンから北へ180キロのバンビエン出身の25歳の女性。ペンマイでは一番の古手です。英語は全然話せません。私のラオ語でがんばるしかないな。ビエンチャンでの生活を始めて6月ほどが過ぎ、ラオ語のレッスンも数十回こなしているので、まあどうにかなるでしょう、と簡単に思ってはじめたのですが、大きな間違いでした。ちっとも通じないんです。ラオ語の文法は、英語やイタリア語に比べてもそんなに難しくないのですが、私を悩ませていたのは、発音。「橋/はし」や「隅/済み」なんてもんじゃなくて、「にわとり/卵/遠い/近い」みんな「カイ」なんです。普段の生活では「元気!」とか、「このお花は幾ら? えっ、高いわ。まけてよ」などなど適当に言って、相手も理解したのか、それとも適当にそんなもんでしょう、と想像したのか、そう不便もなくやっていたのです。私はトイちゃんのやることを一生懸命見て、見よう見まねでやる羽目になったのです。「何でそれはそうするの?」という場面がいくつも登場し、「何のためにそれをやったの?」と聞くと、ああだ、こうだと説明してくれるのですが、全然分からないのです。それでも、助かることには、ここペンマイでは日本やカナダからの織物を習いたい方たちを受け入れており、外国人に対して教え慣れていることでした。絵を描いてくれたり、ゆっくりな動作で織り機を動かしてくれたり。 まずは模様なしの平織りで30センチ幅のスカーフをやってみることにしました。横糸が収まっている舟形のようなものは杼(ひ)といい、これを縦糸に通して織っていくのですが、杼の縦糸間を渡す力加減が第一の難題でした。そっと送ると、途中で止まってしまうし、力を入れてボーンとやると、手でつかみ取る前に外に飛び出して、バチャンと大きな音を立てて床を転がって、皆の視線を浴びちゃいます。なんだか恥ずかしくて、首を縮めてそっと拾って、今度はゆっくり力をあまり入れないようにそーっと動かし始めます。杼を落としちゃう人なんて誰もいないんです、私以外には。あーあ。なんだか昔テニスをやっていた頃、練習のための壁打ちを思い出しちゃいました。そう腕の力の入れ具合。織物は工芸だと思っていたんだけれど、運動だったのかしら? |
機織の娘たち2

杼を動かす要領は、時間がたつにつれて体がちゃんと覚え始めたようですが、これは私には絶対出来ないぞ!ということがすぐに目の前に立ちはだかりました。それはいとも簡単なことなのです、恥ずかしいくらい。何だと思います? 杼というのは横糸を左右に動かすためのケースで、直径5ミリほどの細長い糸巻きに巻いた横糸を細い竹串に通し、杼の中の小さな溝に入れます。横糸を使い終わると、竹串を上手に折らないように取り出して、横糸を入れ替えます。この時に、そーっとやさしくやらないと、竹串が折れちゃうのです。そして、私がどんなに、どんなに用心深く竹串ちゃんを扱っても、折っちゃうんですね、時々。そうすると、自分の仕事をしているトイちゃんのところに「問題があるの」と言いに行きます。トイちゃんは、「あら、まあ」という顔をして、私の織り機を覗き、「あら、折っちゃったの? 問題というほどのことはないわ!」という顔つきで私にとったら大問題をチラッと見て、「ちょっと待っていて」といって台所の方に消えるかと思うと、包丁を持ってきます。それから彼女は、庭に出て竹を折って割って、鉛筆を削るように細くしていくのです。両端を細く尖らせて終わり。その間5分くらい。私は鉛筆も削ったことがないから、あんな作業は絶対に出来ない。指を血だらけにするのがオチだなあ、きっと。
で、私が出来ないことは、というより、がんばってやっても出来そうにないことは、トイちゃんにお願いして、少しずつ織り進んでいきました。10センチほどまで織ったのをトイちゃんが見て、「ちょっと、どいて」と言い、私の織り機に座り、メジャーテープで長さを計り始めました。「スカーフを作りたいんで、10センチのテーブルセンターじゃないんだけど」と独り言をぶつぶつ言う私は、トイちゃんの仕事を見ていて、「ハハーン」と彼女の作業の意味が分かりました。右端は11センチ織ったのに、左端は10センチ。そうなのです。まっすぐに織れてないのです。彼女は斜めに織れ曲がった布の修正をしてくれているのです。端から端まで横糸を渡さないで、1部分のみに糸を渡して、調整しています。「あー、こういうウラ技があったのね」と、なんだか嬉しくなってしまいました。もちろん、これはどうにかしなくちゃいけない問題です。布はまっすぐに織られなければいけないし、かといって修正の多い布はやっぱり美しくないもの。トイちゃんの完璧な修正技術も、見る人が見れば、すぐに分かっちゃうことでしょう。そこで、なぜ、まっすぐに織れないかと考えをめぐらせると、これはすぐに答えが見つかりました。布を織る時に、縦糸に横糸を渡してたたきつける四角の部品を、筬(おさ)といいます。左手で杼を飛ばすと、左手で筬をたたき、右手で渡した時は、右手でたたきます。私のたたき具合が右手と左手では、同じ力ではないのですね。左端が織り詰まっているのは、右手が強いからなのです。えっ、また運動能力の問題? テニスボールの壁打ちのこと? あー、 完成までの道がどんどん遠くにかすんでいく感じ。
で、私が出来ないことは、というより、がんばってやっても出来そうにないことは、トイちゃんにお願いして、少しずつ織り進んでいきました。10センチほどまで織ったのをトイちゃんが見て、「ちょっと、どいて」と言い、私の織り機に座り、メジャーテープで長さを計り始めました。「スカーフを作りたいんで、10センチのテーブルセンターじゃないんだけど」と独り言をぶつぶつ言う私は、トイちゃんの仕事を見ていて、「ハハーン」と彼女の作業の意味が分かりました。右端は11センチ織ったのに、左端は10センチ。そうなのです。まっすぐに織れてないのです。彼女は斜めに織れ曲がった布の修正をしてくれているのです。端から端まで横糸を渡さないで、1部分のみに糸を渡して、調整しています。「あー、こういうウラ技があったのね」と、なんだか嬉しくなってしまいました。もちろん、これはどうにかしなくちゃいけない問題です。布はまっすぐに織られなければいけないし、かといって修正の多い布はやっぱり美しくないもの。トイちゃんの完璧な修正技術も、見る人が見れば、すぐに分かっちゃうことでしょう。そこで、なぜ、まっすぐに織れないかと考えをめぐらせると、これはすぐに答えが見つかりました。布を織る時に、縦糸に横糸を渡してたたきつける四角の部品を、筬(おさ)といいます。左手で杼を飛ばすと、左手で筬をたたき、右手で渡した時は、右手でたたきます。私のたたき具合が右手と左手では、同じ力ではないのですね。左端が織り詰まっているのは、右手が強いからなのです。えっ、また運動能力の問題? テニスボールの壁打ちのこと? あー、 完成までの道がどんどん遠くにかすんでいく感じ。
女性は機織くらいは出来ないと・・・
ペン・マイの中心は何といっても、ペンという名のお母さん。「ペン」とは{愛する}という言う意味。そして「マイ」は{絹}というラオ語。ペンお母さんの生まれ故郷はビエンチャンからはいくつも山を越えた、遠く離れたベトナムの北部に近いサムヌア市。ベトナム戦争時には、ラオ王国軍(内実はアメリカから資金援助され訓練されたモン族兵が主体)とラオ人民革命党(ベトコン兵が、ラオ人兵士を統率)が激烈な戦いを行ったところです。1964年、兵隊だったペンお母さんのご主人が亡くなり、お母さんは保険の請求のためにサムヌアからヘリコプターに乗りビエンチャンに出てきました。子供3人(スントーン、ケン、コントン)は親戚が預かってくれると言ってくれましたけれど、一緒に連れてきました。ペンおかあさんのおなかの中にはビエンカム。用事を終え、サムヌアへ帰ろうとしましたけれど、戦争がはげしくなり彼女の村も爆撃を受けたようだといううわさ。とてもサムヌアには戻れそうにありません。子供を連れてきたのは不幸中の幸いだったということでしょうか。でも、これからどうやって子供を育てていったらいいのでしょうか? 保険もすぐに底をつきそうだし・・・。
そこで、お母さんは子供4人を育てるため、織物を織り、ビエンチャンで一番大きなモーニングマーケットで売る決心をしたのでした。
お母さんはサムヌアの赤タイ族の小さい村の出身。どんな村だったかは、手書きの地図をご覧になって想像してみましょうか。現在でもサムヌアは素晴らしい織り手による複雑な手の込んだ織物が生み出される地方です。その村の小さな小学校へ通ったのは8才から10才までの3年間。もっと勉強が出来たらどんなにいいかしら・・と思いましたけれど、それには遠くの村まで行かないと学校がないのであきらめるしかありませんでした。それに彼女には、料理、織物、そしてお客様を迎え、歓待する作法を習得するという女性としての大切なつとめがありました。勉学の道が極めて狭く、社会的に活躍できるチャンスが少なかった時代、料理の腕とお客様をもてなすこと、それに家族や自分用の衣服の為に複雑な織物をすることが女性に与えられた唯一社会的に認められる機会でした。{布を織る}ということは、料理をしたり掃除をしたりするのと同じような日常茶飯事の仕事でした。娘たちは、それらのことを小さい頃から母親に教え込まれるのです。特に、赤タイ族・黒タイ族などの山岳タイ族の女性にとって、まわりに商店がないことも衣服を自給しなければならない理由のひとつでした。そして娘たちが{織物}の技術を習得したということは、その家族は娘に日長一日畑に出て水遣りをしたり草を抜いたりさせなくても良い経済的に余裕がある家なのですよ、ということを伝えるだけでなく、まわりに織物の技術を伝達できる人(たいていの場合が母親や祖母)がいることや見本に出来る手織りの品々が身近にあるという証拠でした。自然の染料で染めた深い色合いの糸で細かく複雑な模様を織り込む娘たちほど、好きなだけ織り機に向かえる時間的余裕があり、家庭が裕福であるということを物語っているのです。ペンのお母さんもペンが8才になったときから、織物、インディゴ(藍染)の熟成の仕方、お酒の作り方を教え始めました。ペンは母の言うことを注意深く聞き、真剣な気持ちでそれらの仕事に取り組みました。インディゴを甕に入れた後に、素晴らしい藍色に発色するのを妨げる悪霊が来ないようにと、赤唐辛子と炭を入れるときなどは、ちょっと厳かな気持ちになったそうです。
そこで、お母さんは子供4人を育てるため、織物を織り、ビエンチャンで一番大きなモーニングマーケットで売る決心をしたのでした。
お母さんはサムヌアの赤タイ族の小さい村の出身。どんな村だったかは、手書きの地図をご覧になって想像してみましょうか。現在でもサムヌアは素晴らしい織り手による複雑な手の込んだ織物が生み出される地方です。その村の小さな小学校へ通ったのは8才から10才までの3年間。もっと勉強が出来たらどんなにいいかしら・・と思いましたけれど、それには遠くの村まで行かないと学校がないのであきらめるしかありませんでした。それに彼女には、料理、織物、そしてお客様を迎え、歓待する作法を習得するという女性としての大切なつとめがありました。勉学の道が極めて狭く、社会的に活躍できるチャンスが少なかった時代、料理の腕とお客様をもてなすこと、それに家族や自分用の衣服の為に複雑な織物をすることが女性に与えられた唯一社会的に認められる機会でした。{布を織る}ということは、料理をしたり掃除をしたりするのと同じような日常茶飯事の仕事でした。娘たちは、それらのことを小さい頃から母親に教え込まれるのです。特に、赤タイ族・黒タイ族などの山岳タイ族の女性にとって、まわりに商店がないことも衣服を自給しなければならない理由のひとつでした。そして娘たちが{織物}の技術を習得したということは、その家族は娘に日長一日畑に出て水遣りをしたり草を抜いたりさせなくても良い経済的に余裕がある家なのですよ、ということを伝えるだけでなく、まわりに織物の技術を伝達できる人(たいていの場合が母親や祖母)がいることや見本に出来る手織りの品々が身近にあるという証拠でした。自然の染料で染めた深い色合いの糸で細かく複雑な模様を織り込む娘たちほど、好きなだけ織り機に向かえる時間的余裕があり、家庭が裕福であるということを物語っているのです。ペンのお母さんもペンが8才になったときから、織物、インディゴ(藍染)の熟成の仕方、お酒の作り方を教え始めました。ペンは母の言うことを注意深く聞き、真剣な気持ちでそれらの仕事に取り組みました。インディゴを甕に入れた後に、素晴らしい藍色に発色するのを妨げる悪霊が来ないようにと、赤唐辛子と炭を入れるときなどは、ちょっと厳かな気持ちになったそうです。
糸巻き巻き・・・
欠かせない人です。私が工房に行くと、いつもの場所で、いつものように糸車から糸を巻き取っています。そう、インドのガンジーみたい。ペンお母さんの周りには、60歳近いおばあちゃんたち3,4人がいつもいるのですが、おしゃべりをしているのを見かけたのは数回です。でも、いつも一緒です。彼女たちは往年の織りの名人です。目が悪くなったのと、織り機に座ると腰が痛くなるので、糸巻きの仕事に専念していると言うことです。目が悪くなったら、老眼鏡を使えば済むのに、なぜ買わないのかしら・・・と最初は疑問に思ったのですが、ビエンチャンには眼鏡屋さんは1軒しか無く、それに何よりもおばあちゃんたちにとっては高価な代物のようです。ペンお母さんは老眼鏡を持っていますけれど。
おばあちゃんたちも若い子も、まるで地べたに座っているように低い椅子に腰掛け、作業をします。今年はじめ、ILOの調査員が作業状況を見学に来て、「あんな姿勢で働かせるのはよくない。テーブルと椅子を用意して、労働条件の改良が必要ですね」と言ったそうですが、「そんなことを言っても、みんなはあの座り方がやりやすい、って言っているのよね」とコントンがつぶやいていました。 糸巻きは、単純作業です。若者たちはおばあちゃん達とは違い、ラジオを鳴り響かせて歌を一緒に口ずさんだり、おしゃべりをしていたと思うとキャッキャッと大声をあげて笑ったりといつもにぎやかです。楽しそうに仕事をしています。嫌そうな素振りを見かけたことはありません。不思議です。と言うのは、あの単純な仕事を日長一日、毎日のようにあの明るさで取り込めるということに、私は驚いてしまうのです。どんな気持ちで糸巻きをしているんだろう・・?と疑問がわきあがってきてしまいます。作業の熟練といっても、それほどのこともないでしょうし、先を考えると不安になることはないのかしら? お嬢さんたちは、少しずつ織り作業を覚えていくのでしょうが、男の子達は、何を求めているんでしょう。 とはいっても、この単純な糸巻きもきちんとやらないと、あとで困ることになります。横糸用に細い竹に真ん中がこんもりするように巻きますが、きちんと密に巻かないと、織っている最中にぐずぐずとほぐれてくるので、油断のならない作業です。私はこれでも苦労しました。きちんと巻きつけたつもりでも、やっぱりどこか違うんですね。杼に入れて右にやり左に飛ばし、とやっているうちに絡まってしまって、ほどくのにどんなに時間を費やしたことでしょう。どうしてもほどけなくて、これしかないわ、と糸を切ったこともずいぶんありますね。美しい草木染の絹糸をずいぶん無駄にしちゃいました。 |
ラオスは他民族国家
ラオ人が西洋人と最初に接触したのは、17世紀にラオ貿易商人がオランダの統治下のインドネシアのバタビアでのことと記録に残っています。そのときにラオ商人がもたらした産物は、ベンジオン(安息香)と赤い染料として使われる、かいがら虫が木につける液のラッカーでした。これらの産物に興味を覚えたオランダ商人は、早速ラオスへ視察団を派遣しました。1641年にビエンチャンを訪れたオランダ人は、絹糸を贈られ、その品質の良さに驚いたそうです。その後、どういう訳か西洋人との接触は200年ほどなく、1886年になりルアンパバーンにフランス植民地政府が開設され、60年余りにわたるフランス植民地としての時代が始まりました。ルアンパバーンは現在ユネスコの世界遺産に登録されています。何もこれといった古い建物があるわけでもないし、世界に誇れるような美術品が残されている訳でもありません。でも、あの街は、何十年、いやもしかしたら何百年もずっと同じ色合い、同じ香りの空気を醸し出していて、遠い時間を旅させてくれる稀有な街に思えます。
ルアンパバーン王宮
ラオスには68の民族が居住するといわれ、居住地の高さにより3つのグループに分けられています。メコン川周辺の低地に居住するのは、ラオ族、プー・タイ族、ルー族、赤タイ族、黒タイ族や白タイ族などです。このグループは全人口の60%をしめます。高度300mから900mに居住するグループにはロベン族、カム族、アラック族などです。アラック族は、ラオス南部のカンボジアに隣接する地域に住み、織物の盛んなところです。彼らは主に木綿糸を使用し、織り機も、地面に座って織る土機(じばた)を使っています。ラオスの北部の海抜1,000m以上の高地を居住地域には、アカ族、ハニ族などがいます。モン族やランテン族の人々もこの地域に居住しています。ランテン族は、同じ高地居住のモン族やアカ族とは異なり、アヘンを換金作物として栽培していません。彼らは紙を漉く技術を持ち、中国語を主言語としていましたが、現在は国語のラオ語の教育が広まり、若い世代は中国語を理解しなくなっているそうです。ルアン・ナムターへ行った時、竹篭を背負い歩いていたランテン族の女性たちを見かけました。藍染の長めシャツに藍染の脚半を巻いていました。裸足でした。眉毛がなくつるっとした感じの顔でした。女性は15才になると眉をそらなければいけない風習があるそうです。中国の雲南省を目前に控えたルアンナムターには40ほどの少数山岳民族が民族の独自性をかたくなに守りながら生活しており、ラオスが多民族国家であることが証明されるような街です。
ルアンパバーン僧侶
ペンお母さんの出身の赤タイ族は、今から200年ほど前にベトナムのレッド・リバー付近やディエン・ビエン・フー周辺から現在のサムヌアやシェンクワン付近に移住しました。赤タイ族、黒タイ族、白タイ族というのは、女性たちが主に着用した衣服によりこう区別されていて、民族間の特徴的差はそうないようです。これらのタイ山岳民族は山間の険しい地域に、数百家族で小さな村を作り、定住型農耕の自活自給の生活を送り、他の人々との交流が少なく、それは独自の文化を維持する助けとなりました。その独自の文化は、はっきりと織物の模様や染料などに表れているといわれています。
ルアンパバーン王宮
ラオスには68の民族が居住するといわれ、居住地の高さにより3つのグループに分けられています。メコン川周辺の低地に居住するのは、ラオ族、プー・タイ族、ルー族、赤タイ族、黒タイ族や白タイ族などです。このグループは全人口の60%をしめます。高度300mから900mに居住するグループにはロベン族、カム族、アラック族などです。アラック族は、ラオス南部のカンボジアに隣接する地域に住み、織物の盛んなところです。彼らは主に木綿糸を使用し、織り機も、地面に座って織る土機(じばた)を使っています。ラオスの北部の海抜1,000m以上の高地を居住地域には、アカ族、ハニ族などがいます。モン族やランテン族の人々もこの地域に居住しています。ランテン族は、同じ高地居住のモン族やアカ族とは異なり、アヘンを換金作物として栽培していません。彼らは紙を漉く技術を持ち、中国語を主言語としていましたが、現在は国語のラオ語の教育が広まり、若い世代は中国語を理解しなくなっているそうです。ルアン・ナムターへ行った時、竹篭を背負い歩いていたランテン族の女性たちを見かけました。藍染の長めシャツに藍染の脚半を巻いていました。裸足でした。眉毛がなくつるっとした感じの顔でした。女性は15才になると眉をそらなければいけない風習があるそうです。中国の雲南省を目前に控えたルアンナムターには40ほどの少数山岳民族が民族の独自性をかたくなに守りながら生活しており、ラオスが多民族国家であることが証明されるような街です。
ルアンパバーン僧侶
ペンお母さんの出身の赤タイ族は、今から200年ほど前にベトナムのレッド・リバー付近やディエン・ビエン・フー周辺から現在のサムヌアやシェンクワン付近に移住しました。赤タイ族、黒タイ族、白タイ族というのは、女性たちが主に着用した衣服によりこう区別されていて、民族間の特徴的差はそうないようです。これらのタイ山岳民族は山間の険しい地域に、数百家族で小さな村を作り、定住型農耕の自活自給の生活を送り、他の人々との交流が少なく、それは独自の文化を維持する助けとなりました。その独自の文化は、はっきりと織物の模様や染料などに表れているといわれています。
一作目ができました!

「あー、腰が痛い。目もすっごく疲れちゃった。」今日もよくがんばった。2時から5時まで織り機に座ってがんばったけれど、こう疲れちゃうと、なんで私は好き好んで、高いお金を払ってこんなことをしているんだろう・・と暗い気持ちになっちゃいます。
ビエンチャンで生活する我が友人たちは、ゴルフをしたり、マージャン・ポーカーを したりと、リッチに優雅にラオスの生活を楽しんでいるというのに。「私、織物をやっ ているんだけれど、一緒にやらなーい?」と友達を誘っても、{あんなに、難しそう なこと}と難色を示されちゃいます。私は、簡単そう?という第一印象を持ったから 始めたのに、他の人たちは、ちゃんと織物の大変さを見破っていたのね。私の簡単な 思い込みが、今、私を苦しめているんだわ。でも、始めちゃったんだから、がんばら なくちゃ。暑い時は行かないことにしよう、雨が降っている時は暗いからやめて、な んて気楽な気持ちではじめたけれど、それじゃあ、ちっとも進まないことがすぐにわ かってきました。毎日行って体に覚えこませないと。
それで、汗がだらだら流れて老眼鏡がずれ落ちて困るような暑い日も、雨模様の薄暗 い日も、毎日出かけました。トイちゃんはもちろんのこと、ブンちゃんやシーちゃん など、他の織り子が、時々覗きにきて、「わー、上手。きれいにできているわねー。」 とか、「うーん、あなたは織物の才能があるわ」なんて、上手くおだてられて、がん ばりがいがあるというものよね。あんまり言われると、嬉しいというより、照れくさ くて困っちゃうけれど。どんどん織って、はやく完成させたいと気はあせるものの、 私は、幾らがんばっても1日に3時間の作業が限度。体は痛くなってくるし、目も疲れ てきて、縦糸が切れたりしたのが、よく見えなくなってくるもの。織り子のお嬢さん たちは、朝起きて朝食の前に一仕事。おしゃべりをしたり、ラジオを聴いたりしなが らお昼まで。昼休みは1時間半。それから暗くなって、電気をつけてもうす暗いのに がんばっています。お休みは日曜日はだけ。
はじめて織り機の前に座ってから3週間ほどで、私の第1作目のスカーフが完成しまし た。細い糸を右に左に行き来している間の時間を経て、布という形あるものが目の前 に表れ、{時間が形になった}という、日常生活では感じたことがない不思議な感慨 が湧いてきました。私は、子供が小さい頃は彼らのために毎晩のように編み物をした のですが、それはテレビを見ながらの、いい加減な手抜きの仕事でした。ここでは、 力を均等にいれることや、縦糸が切れてないこと、端がきちんと揃うことなどに細心 の注意を払い、熱中して心を込めて織り機の前で時間を送りました。傍から眺めたら、 これほど単純な作業はないとも言えるものですが、その単純な繰り返しから、手触り の柔らかな布が出来上がったのでした。
この作品は出来上がってみると、びっくりするほどのお値段になってしまいました。 授業料は、絹糸を含めて、1時間2ドルです。ぜんぜんお高くないでしょう? でも、 私が織りに取り組んだ時間を合計すると、ペンマイ工房で売られている同じようなス カーフ(もちろん、出来に雲泥の差がありますけれど)の3倍になってしまったので す。ビエンチャンで最高値のスカーフです。織るなんて、野心を抱かずに、買ったほ うが良かったかしら?
ビエンチャンで生活する我が友人たちは、ゴルフをしたり、マージャン・ポーカーを したりと、リッチに優雅にラオスの生活を楽しんでいるというのに。「私、織物をやっ ているんだけれど、一緒にやらなーい?」と友達を誘っても、{あんなに、難しそう なこと}と難色を示されちゃいます。私は、簡単そう?という第一印象を持ったから 始めたのに、他の人たちは、ちゃんと織物の大変さを見破っていたのね。私の簡単な 思い込みが、今、私を苦しめているんだわ。でも、始めちゃったんだから、がんばら なくちゃ。暑い時は行かないことにしよう、雨が降っている時は暗いからやめて、な んて気楽な気持ちではじめたけれど、それじゃあ、ちっとも進まないことがすぐにわ かってきました。毎日行って体に覚えこませないと。
それで、汗がだらだら流れて老眼鏡がずれ落ちて困るような暑い日も、雨模様の薄暗 い日も、毎日出かけました。トイちゃんはもちろんのこと、ブンちゃんやシーちゃん など、他の織り子が、時々覗きにきて、「わー、上手。きれいにできているわねー。」 とか、「うーん、あなたは織物の才能があるわ」なんて、上手くおだてられて、がん ばりがいがあるというものよね。あんまり言われると、嬉しいというより、照れくさ くて困っちゃうけれど。どんどん織って、はやく完成させたいと気はあせるものの、 私は、幾らがんばっても1日に3時間の作業が限度。体は痛くなってくるし、目も疲れ てきて、縦糸が切れたりしたのが、よく見えなくなってくるもの。織り子のお嬢さん たちは、朝起きて朝食の前に一仕事。おしゃべりをしたり、ラジオを聴いたりしなが らお昼まで。昼休みは1時間半。それから暗くなって、電気をつけてもうす暗いのに がんばっています。お休みは日曜日はだけ。
はじめて織り機の前に座ってから3週間ほどで、私の第1作目のスカーフが完成しまし た。細い糸を右に左に行き来している間の時間を経て、布という形あるものが目の前 に表れ、{時間が形になった}という、日常生活では感じたことがない不思議な感慨 が湧いてきました。私は、子供が小さい頃は彼らのために毎晩のように編み物をした のですが、それはテレビを見ながらの、いい加減な手抜きの仕事でした。ここでは、 力を均等にいれることや、縦糸が切れてないこと、端がきちんと揃うことなどに細心 の注意を払い、熱中して心を込めて織り機の前で時間を送りました。傍から眺めたら、 これほど単純な作業はないとも言えるものですが、その単純な繰り返しから、手触り の柔らかな布が出来上がったのでした。
この作品は出来上がってみると、びっくりするほどのお値段になってしまいました。 授業料は、絹糸を含めて、1時間2ドルです。ぜんぜんお高くないでしょう? でも、 私が織りに取り組んだ時間を合計すると、ペンマイ工房で売られている同じようなス カーフ(もちろん、出来に雲泥の差がありますけれど)の3倍になってしまったので す。ビエンチャンで最高値のスカーフです。織るなんて、野心を抱かずに、買ったほ うが良かったかしら?
織子の条件は?

「さて、次はどんなのを作ろうかしら? もちろん模様入れに挑戦ね」と早速第2作目の構想を始めました。
第1作目で、もうこりごり・・・、と投げ出したいくらい大変な思いはしたものの、これは娘のプレゼントなので、息子にも何か作ってあげないと、という強い思い込みがありました。それにもう一つ、私のために張ってくれた経糸がまだまだ十何メートルも残っているので、それを使わないと工房に申し訳ない、という気持ちもありました。
{さあ、始めましょう!!}と私が織り機に座る前には、トイちゃんが数日かけて行う、忍耐が求められる単純でかつ細々としたいくつかの作業があります。まず、経糸用に張る糸を選んで、直径10センチほどの糸巻きに数十本巻き取り、それを畳2畳ほどのサイズの木枠においてきます。この糸の渡し方も{簡単単純、でも間違えると、修復に何倍もの時間かかかる}タイプの仕事です。機械でやったらいとも簡単、といえそうな作業です。木枠からは三編みで編むようにはずし、それから織り機に取り付けます。織るときに布を打ち付ける筬(おさ)の間に一本一本と通していきます。筬は薄い竹に等間隔に切れ目をいれ、その切れ目に経糸を通します。京都で織物の仕事をなさっていると言う方が工房の見学にいらした時、「日本でただ一人、竹の筬を作れるおじいさんが亡くなっちゃってねえ、日本では竹の筬は貴重品なんですよ」とおっしゃっていました。それならばと、工房内の織り機を調べてみますと、一つだけ日本で使用されているタイプのステンレス製の筬がありました。重たいですね。糸を打ちつけるときに出る、音ともいえないようなかすかな響きは、竹製の筬だから生まれるものかもしれません。設定する経糸の幅が広いほど時間がかかるわけですが、トイちゃんは、60センチ幅用を設定するのに、1日かかるそうです。とっても疲れる仕事で、あまり好きでない、と言っています。この作業を眺めていると、ビエンカム女史が言っていた、工房で訓練生を採用するときの4つの条件のことが思い起こされました。
1. 視力が良いこと
2. 根気があること
3. 手先が器用で、注意深いこと
4. 40才前であること
そのうち、1と4は完全に外れているので、私の普通採用は無かったわけですね。
手先の器用さ、というより指先の柔らかさには、びっくりし尊敬の念さえ抱きました。切れてしまった細い短い糸をさっと結び合わせてしまう技は魔法のように見えます。よく言われる{日本人は手先が器用}なんて、彼女たちの前に出るとしぼんでしまうように思います。私も手先の器用さにおいては、人後に落ちないつもりですが、彼らの前では脱帽です。{根気}もきっとあるんでしょね。単純、連続作業を楽しそうに、明るくやれるのはそれを物語っているようにも思います。彼らがいらいらしている様子を見たことはないですね。大きな声をだして言い合っていることも見かけませんでした。皆それぞれのペースで、好き勝手に作業させているのは、この工房の経営方針なのでしょうか? ラジオを聴いたり、テープの音楽にあわせて踊りだしたりする様子を見ていると、{これは本当に営利目的の会社なの?}と首をかしげたこともあります。スリランカで訪ねた韓国人経営の絹織物工場では、電灯の明かりが乏しい中、女性たちが暗い表情で黙々と織物をしていました。それらは、日本への輸出用の帯でした。明治時代の女工たちは、こんなだった?、と思い巡らしたものです
さて、「次は、何色で織るの?」と聞かれて、楽しい色選びが始まります。経糸は赤なので、どんな色を横糸に使ったら、落ち着いた色になるかしらと思いあぐね、濃いめのベージュでやってみることにしました。
第1作目で、もうこりごり・・・、と投げ出したいくらい大変な思いはしたものの、これは娘のプレゼントなので、息子にも何か作ってあげないと、という強い思い込みがありました。それにもう一つ、私のために張ってくれた経糸がまだまだ十何メートルも残っているので、それを使わないと工房に申し訳ない、という気持ちもありました。
{さあ、始めましょう!!}と私が織り機に座る前には、トイちゃんが数日かけて行う、忍耐が求められる単純でかつ細々としたいくつかの作業があります。まず、経糸用に張る糸を選んで、直径10センチほどの糸巻きに数十本巻き取り、それを畳2畳ほどのサイズの木枠においてきます。この糸の渡し方も{簡単単純、でも間違えると、修復に何倍もの時間かかかる}タイプの仕事です。機械でやったらいとも簡単、といえそうな作業です。木枠からは三編みで編むようにはずし、それから織り機に取り付けます。織るときに布を打ち付ける筬(おさ)の間に一本一本と通していきます。筬は薄い竹に等間隔に切れ目をいれ、その切れ目に経糸を通します。京都で織物の仕事をなさっていると言う方が工房の見学にいらした時、「日本でただ一人、竹の筬を作れるおじいさんが亡くなっちゃってねえ、日本では竹の筬は貴重品なんですよ」とおっしゃっていました。それならばと、工房内の織り機を調べてみますと、一つだけ日本で使用されているタイプのステンレス製の筬がありました。重たいですね。糸を打ちつけるときに出る、音ともいえないようなかすかな響きは、竹製の筬だから生まれるものかもしれません。設定する経糸の幅が広いほど時間がかかるわけですが、トイちゃんは、60センチ幅用を設定するのに、1日かかるそうです。とっても疲れる仕事で、あまり好きでない、と言っています。この作業を眺めていると、ビエンカム女史が言っていた、工房で訓練生を採用するときの4つの条件のことが思い起こされました。
1. 視力が良いこと
2. 根気があること
3. 手先が器用で、注意深いこと
4. 40才前であること
そのうち、1と4は完全に外れているので、私の普通採用は無かったわけですね。
手先の器用さ、というより指先の柔らかさには、びっくりし尊敬の念さえ抱きました。切れてしまった細い短い糸をさっと結び合わせてしまう技は魔法のように見えます。よく言われる{日本人は手先が器用}なんて、彼女たちの前に出るとしぼんでしまうように思います。私も手先の器用さにおいては、人後に落ちないつもりですが、彼らの前では脱帽です。{根気}もきっとあるんでしょね。単純、連続作業を楽しそうに、明るくやれるのはそれを物語っているようにも思います。彼らがいらいらしている様子を見たことはないですね。大きな声をだして言い合っていることも見かけませんでした。皆それぞれのペースで、好き勝手に作業させているのは、この工房の経営方針なのでしょうか? ラジオを聴いたり、テープの音楽にあわせて踊りだしたりする様子を見ていると、{これは本当に営利目的の会社なの?}と首をかしげたこともあります。スリランカで訪ねた韓国人経営の絹織物工場では、電灯の明かりが乏しい中、女性たちが暗い表情で黙々と織物をしていました。それらは、日本への輸出用の帯でした。明治時代の女工たちは、こんなだった?、と思い巡らしたものです
さて、「次は、何色で織るの?」と聞かれて、楽しい色選びが始まります。経糸は赤なので、どんな色を横糸に使ったら、落ち着いた色になるかしらと思いあぐね、濃いめのベージュでやってみることにしました。
虫から染料がとれるの?
ペンマイでは、糸も工房で染めています。草木染です。これは男性の仕事。工房の片隅に、いくつか大きな釜がおかれたところがあり、ある日は、深く沈みそうな藍色、またある日は、情熱が深く凝縮したような黒っぽい赤と、とりどりの色合いの糸が生み出されています。
織り子のお嬢さんたちが、染めのエリアから一番離れた庭の片隅に移動をはじめました。私にも{そうしろ!}と言います。何が何だかわからないまま、私もみんなとかたまって、暑いなあ、と思いながら立っていると、みんなが口を手でふさぐのです。「臭くないの?」と言われた時には、もうすでに遅し。そのあたりは、強烈な鼻につくような匂いが充満しているのです。何色に染めているのでしょう?
数々の草木染の材料に恵まれているおかげで、昔の人々がやってきたのと同じ方法で自然の染料を作ることが出来るそうです。藍(インディゴ)からは、青や黒。緑もインディゴにジャックフルーツの木を砕いて加えて煮出したものから色を取り出すとか。グレイは黒檀の果物から。アーモンドの木の葉はオリーブ色をプレゼントしてくれます。赤や紫系の染料は、ラッカーというかいがら虫が樹木に着ける液から取り出されます。写真は丁度、染め液から出して乾かしているところ。ところどころに見られる葉は、色留めに使われたもの。本当に何から何まで工房の周りにある自然が生み出したものを使っているのですね。赤系統の色も、紫っぽいものから濃く深い臙脂まで同じ染料からこんなに多様な色が出来るのかと、驚いてしまいます。
この染め作業は、糸巻きをしばらくこなした後、染めに抜擢されたやる気満々の20代後半の男の子たちが3人で担当しています。染めはペンマイの重要な柱。彼らはいつも真剣な面持ちで作業に取り組んでいます。水の容量を計ったり、屑に見えそうな木片を細かく砕いたり、炭で起こす火種の調節をしたり。私はこの作業所にはあまり近寄りませんでした。染色には興味があったのですが、そのときは織りに手一杯だったこともありますが、それよりもその場の静粛な、重々しい雰囲気が、私に、「あそこに行って邪魔になったらいけないのよ」と言い聞かせていたのかと思います。
数年前にある事件がありました。染をやっている男の子に引き抜きの手が伸びてきたそうです。「あなたが、ペンマイで貰っている給料の倍にしますから、私のところにいらっしゃい」という勧誘があったとか。でも、その男の子は断ったそうです。試行錯誤のなかで、色の微妙な濃淡を生み出しものが外に放出されるなんて絶対に避けなければなりません。「彼がお金に釣られていたら、今のペンマイはどうなっていたかしら・・、その話を知った時は、本当にとっても嬉しかったのよ」とペンマイの女社長はにこやかなに話してくれました。
そうねえ、企業機密を守るということも会社としては大事なことですね。でも、だれでもぶらっと入ってこられる工房で、見る人が見れば織り模様のコピーなんて簡単なんじゃないかしら?
織り子のお嬢さんたちが、染めのエリアから一番離れた庭の片隅に移動をはじめました。私にも{そうしろ!}と言います。何が何だかわからないまま、私もみんなとかたまって、暑いなあ、と思いながら立っていると、みんなが口を手でふさぐのです。「臭くないの?」と言われた時には、もうすでに遅し。そのあたりは、強烈な鼻につくような匂いが充満しているのです。何色に染めているのでしょう?
数々の草木染の材料に恵まれているおかげで、昔の人々がやってきたのと同じ方法で自然の染料を作ることが出来るそうです。藍(インディゴ)からは、青や黒。緑もインディゴにジャックフルーツの木を砕いて加えて煮出したものから色を取り出すとか。グレイは黒檀の果物から。アーモンドの木の葉はオリーブ色をプレゼントしてくれます。赤や紫系の染料は、ラッカーというかいがら虫が樹木に着ける液から取り出されます。写真は丁度、染め液から出して乾かしているところ。ところどころに見られる葉は、色留めに使われたもの。本当に何から何まで工房の周りにある自然が生み出したものを使っているのですね。赤系統の色も、紫っぽいものから濃く深い臙脂まで同じ染料からこんなに多様な色が出来るのかと、驚いてしまいます。
この染め作業は、糸巻きをしばらくこなした後、染めに抜擢されたやる気満々の20代後半の男の子たちが3人で担当しています。染めはペンマイの重要な柱。彼らはいつも真剣な面持ちで作業に取り組んでいます。水の容量を計ったり、屑に見えそうな木片を細かく砕いたり、炭で起こす火種の調節をしたり。私はこの作業所にはあまり近寄りませんでした。染色には興味があったのですが、そのときは織りに手一杯だったこともありますが、それよりもその場の静粛な、重々しい雰囲気が、私に、「あそこに行って邪魔になったらいけないのよ」と言い聞かせていたのかと思います。
数年前にある事件がありました。染をやっている男の子に引き抜きの手が伸びてきたそうです。「あなたが、ペンマイで貰っている給料の倍にしますから、私のところにいらっしゃい」という勧誘があったとか。でも、その男の子は断ったそうです。試行錯誤のなかで、色の微妙な濃淡を生み出しものが外に放出されるなんて絶対に避けなければなりません。「彼がお金に釣られていたら、今のペンマイはどうなっていたかしら・・、その話を知った時は、本当にとっても嬉しかったのよ」とペンマイの女社長はにこやかなに話してくれました。
そうねえ、企業機密を守るということも会社としては大事なことですね。でも、だれでもぶらっと入ってこられる工房で、見る人が見れば織り模様のコピーなんて簡単なんじゃないかしら?
さあ、模様だぞ!!
(どんな模様にしようかしら? 最初なんだから簡単なのにしよう)と、工房内のお店にあるスカーフの中で気に入って、でも難易度の低そうな模様を使うことにしました。30段ほどの幾何学模様柄を選びました。模様はコンピューターに保存されていて、「はい、じゃあ今すぐに印刷しますね」といって、ビエンカムがくれるのかと思っていたら、とんでもないことでした。トイちゃんが方眼紙に写してくれたのでした。いまどき、こんなことはコンピューターでやるんだけれど・・・、なんて思いながらトイちゃんの仕事を見ていて、はたと気が付きました。コンピューターなんていらないことが。彼女は織り目を読むんですね。じっとスカーフをにらんでいたかと思うと、ハイ!!、と紙に書き取ります。そうやって1段1段やっていくのです。サンプルがあればそれを読み取ればよい訳なのです。彼女はいとも簡単そうにやっていましたけれど、私にとっては、それは神業に見えましたよ、もちろん。
ラオス特有の模様織りこみ方法は、経糸を織り込む柄にあわせて上糸と下糸に分けて拾っていきます。竹製の定規のような道具で1目を上に取って、次は3目下に落として、また、1目上に取ってと 方眼紙に書かれたように、経糸を拾っていきます。1目というのは2本で1目です。3目だと6本、4目だと8本取らなければいけないのですが、間違って5本拾ったり、9本取ってしまったりして、それに気がつかないで端から端までやって、「ハイ、出来ました」とトイちゃんに見てもらうと、「はい、ここが違うからやり直し」と言われて、定規をすっと抜かれちゃって。そこまでやるのに30分もかかっていたのに、抜くのはたったの1秒。すごいショック。でも、間違っているのは事実。あんなに注意してやったのにどうしてかしら・・・と自分でも不可解な気がしたのですがやっぱり老眼鏡年齢には大変な作業なのね、と自分を慰め、もう一度やり直しです。特に最初の1,2段は大変だった。3段目ぐらいになると、模様らしきものが形作られ始めるので、少し助けになりましたけれど。
しかし、この模様つくりの方法はなかなか賢くて、拾った模様をまた使えるように、糸を渡して、手織り機に覚えさせておくことが出来るのです。1段拾う度に、糸を渡し、その段の上糸と下糸のパターンを織り機の上部に置いておきます。その方法で、15段の模様を作ると、また、同じ15段が簡単に織れるのです。とはいっても、15段の模様が逆方向に出てくるのですが。
それを知った時のなんともいえない安堵感は、今も思い出します。30段ではなくて15でいいのね、と本当に嬉しく思ったものです。1段やるのに、1時間もかかっていたので{こんな落ちこぼれの気持ちを味わうなんて・・、この年で}と感じていたつらい気持ちが、ほんの少し救われたように思います。
進むにつれて、少しずつ模様が出来上がってきたのは嬉しいのですが、どうも私がやろうとしているのとは違うようなのです。「なんだか、これ違うみたい?」とトイちゃんに聞いてみると、彼女は、「ね、同じでしょ」とサンプルのスカーフをさっと裏返しして見せてくれました。そうだったのか。スカーフの裏を見ながら織っていたのか、とわかりました。やってみないとわからないことが色々あるものです。
ラオス特有の模様織りこみ方法は、経糸を織り込む柄にあわせて上糸と下糸に分けて拾っていきます。竹製の定規のような道具で1目を上に取って、次は3目下に落として、また、1目上に取ってと 方眼紙に書かれたように、経糸を拾っていきます。1目というのは2本で1目です。3目だと6本、4目だと8本取らなければいけないのですが、間違って5本拾ったり、9本取ってしまったりして、それに気がつかないで端から端までやって、「ハイ、出来ました」とトイちゃんに見てもらうと、「はい、ここが違うからやり直し」と言われて、定規をすっと抜かれちゃって。そこまでやるのに30分もかかっていたのに、抜くのはたったの1秒。すごいショック。でも、間違っているのは事実。あんなに注意してやったのにどうしてかしら・・・と自分でも不可解な気がしたのですがやっぱり老眼鏡年齢には大変な作業なのね、と自分を慰め、もう一度やり直しです。特に最初の1,2段は大変だった。3段目ぐらいになると、模様らしきものが形作られ始めるので、少し助けになりましたけれど。
しかし、この模様つくりの方法はなかなか賢くて、拾った模様をまた使えるように、糸を渡して、手織り機に覚えさせておくことが出来るのです。1段拾う度に、糸を渡し、その段の上糸と下糸のパターンを織り機の上部に置いておきます。その方法で、15段の模様を作ると、また、同じ15段が簡単に織れるのです。とはいっても、15段の模様が逆方向に出てくるのですが。
それを知った時のなんともいえない安堵感は、今も思い出します。30段ではなくて15でいいのね、と本当に嬉しく思ったものです。1段やるのに、1時間もかかっていたので{こんな落ちこぼれの気持ちを味わうなんて・・、この年で}と感じていたつらい気持ちが、ほんの少し救われたように思います。
進むにつれて、少しずつ模様が出来上がってきたのは嬉しいのですが、どうも私がやろうとしているのとは違うようなのです。「なんだか、これ違うみたい?」とトイちゃんに聞いてみると、彼女は、「ね、同じでしょ」とサンプルのスカーフをさっと裏返しして見せてくれました。そうだったのか。スカーフの裏を見ながら織っていたのか、とわかりました。やってみないとわからないことが色々あるものです。
模様にはメッセージが隠されてる?
3時間くらい織りをして、腰も肩も痛くて、{あー、どうしよう。本当にやり終えることが出来るのかしら?}と暗く悲しい思いに落ち込んだ夕方。でも、翌朝になるとそんなことはすっかり忘れて、{さ、今日も織物が出来るんだわ}と、またいそいそと出かけた日々が懐かしく思い出されます。
ペンマイ工房の織り柄は、ペンお母さんの生家に残っていた古い布やビエンカムやコントンがラオス国内をまわって集めた古いシン(ラオ女性のスカート)から取り出したり、古い写真を元に再生したものが主に使われています。1353年にファーグム王によりラオ王国が始まって以来、ラオ女性たちは織物を織りついできました。現在残っているアンティック物では、古いものでは200年ほど前までさかのぼれるそうです。それらのアンティック織物の柄は、さまざまなものから取り入れられています。木々や花々は、そのままの姿を織り込まれることもありますが、木の枝が絡まる様子をジグザグ模様で表したり、花びらや種を幾何学模様に図案化しています。これらの図案化されたダイア柄やひし形、卍模様などは、一見単純な連続模様に見えますが、何色もの色を使うことで見た目も鮮やかな柄に織り出されています。雲や小川の流れ、水田などの自然の様子を写し取ったものもあります。ラオスの村には必ず見受けられる仏塔や小船も多く見られる柄です。自然界の動物では、象・馬・水牛などの大きな動物のほかにも、ニワトリ・蟹なども使われています。しかし、なんと言っても多く用いられたのは、ラオス民話に登場する伝説上の動物でしょうか。象の頭を持ちながらライオンの体の、象ライオン。頭部は蛙で、雨のシンボルである蛙男というのもあります。メコン河に住まうといわれるナガというヘビ。ラオスのお寺の入り口などに守り神のようにたたずむ、パーリ語でナガと呼ばれる水中に住まうヘビは、頭が3つあったり7つあったりと、さまざまに図案化され織り込まれています。ナガは、中国や日本、ベトナムでは、竜呼ばれているものと同じのようです。ただ、中国やベトナムの竜にあるひげや鱗は、ラオスのナガにはありませんけれど。
これらの模様にはいろいろなメッセージがこめられています。例えば、ダイアモンド柄は、目をあらわし、世界を見つめ、悪霊を寄せ付けないという思いが、込められています。象、ライオン、ナガなどの動物は、強さ・肥沃・守護を意味します。蛙男は、水田耕作にかかわる農民たちが、水をもたらす蛙男への感謝の気持ちをあらわしているものです。民話に登場する白鳥は自由・知恵・優美、花々は愛情を表現します。特に星型の花は、幸運や繁栄をもたらすモチーフとして、数多く使われています。織り手の女性たちは、さまざまな願いや希望、祈りを模様に託して、織り込んでいたのです。
それには、ラオ社会に根づくアニミズムの影響が大きいように思えます。ラオ社会では、全てのものに霊魂があるというアニミズムが今でも生活に根をおろしています。小乗仏教がスリランカ経由でもたらされて、14世紀に王様が国教と取り決めても、アニミズムは消滅せず仏教と共存しています。家を建てるときは、日本で行われる地鎮祭と同じようなことが行われます。すばらしい家が出来上がるように悪霊を鎮めておくのです。家々の入り口にはタレオといわれる竹を十字に編んだものを立て掛け、悪霊から家を守っています。そんな精神世界が女性たちの身につけるスカートや肩掛け、部屋の壁掛けにも繰り広げられているようです。
ペンマイ工房の織り柄は、ペンお母さんの生家に残っていた古い布やビエンカムやコントンがラオス国内をまわって集めた古いシン(ラオ女性のスカート)から取り出したり、古い写真を元に再生したものが主に使われています。1353年にファーグム王によりラオ王国が始まって以来、ラオ女性たちは織物を織りついできました。現在残っているアンティック物では、古いものでは200年ほど前までさかのぼれるそうです。それらのアンティック織物の柄は、さまざまなものから取り入れられています。木々や花々は、そのままの姿を織り込まれることもありますが、木の枝が絡まる様子をジグザグ模様で表したり、花びらや種を幾何学模様に図案化しています。これらの図案化されたダイア柄やひし形、卍模様などは、一見単純な連続模様に見えますが、何色もの色を使うことで見た目も鮮やかな柄に織り出されています。雲や小川の流れ、水田などの自然の様子を写し取ったものもあります。ラオスの村には必ず見受けられる仏塔や小船も多く見られる柄です。自然界の動物では、象・馬・水牛などの大きな動物のほかにも、ニワトリ・蟹なども使われています。しかし、なんと言っても多く用いられたのは、ラオス民話に登場する伝説上の動物でしょうか。象の頭を持ちながらライオンの体の、象ライオン。頭部は蛙で、雨のシンボルである蛙男というのもあります。メコン河に住まうといわれるナガというヘビ。ラオスのお寺の入り口などに守り神のようにたたずむ、パーリ語でナガと呼ばれる水中に住まうヘビは、頭が3つあったり7つあったりと、さまざまに図案化され織り込まれています。ナガは、中国や日本、ベトナムでは、竜呼ばれているものと同じのようです。ただ、中国やベトナムの竜にあるひげや鱗は、ラオスのナガにはありませんけれど。
これらの模様にはいろいろなメッセージがこめられています。例えば、ダイアモンド柄は、目をあらわし、世界を見つめ、悪霊を寄せ付けないという思いが、込められています。象、ライオン、ナガなどの動物は、強さ・肥沃・守護を意味します。蛙男は、水田耕作にかかわる農民たちが、水をもたらす蛙男への感謝の気持ちをあらわしているものです。民話に登場する白鳥は自由・知恵・優美、花々は愛情を表現します。特に星型の花は、幸運や繁栄をもたらすモチーフとして、数多く使われています。織り手の女性たちは、さまざまな願いや希望、祈りを模様に託して、織り込んでいたのです。
それには、ラオ社会に根づくアニミズムの影響が大きいように思えます。ラオ社会では、全てのものに霊魂があるというアニミズムが今でも生活に根をおろしています。小乗仏教がスリランカ経由でもたらされて、14世紀に王様が国教と取り決めても、アニミズムは消滅せず仏教と共存しています。家を建てるときは、日本で行われる地鎮祭と同じようなことが行われます。すばらしい家が出来上がるように悪霊を鎮めておくのです。家々の入り口にはタレオといわれる竹を十字に編んだものを立て掛け、悪霊から家を守っています。そんな精神世界が女性たちの身につけるスカートや肩掛け、部屋の壁掛けにも繰り広げられているようです。
ペンお母さん結婚
あーあ、おちこぼれの生徒の気持ちを味わいながら、よくも毎日通ってがんばったものです。どうにかマフラーが出来ました。とはいっても、息子には色合いがどうも良くなさそうです。「何これ?」なんてあきれられちゃいそうです。またもう一枚織らないといけないみたい。織り子のお嬢さんたちばかりでなく、ペンお母さんも、よくやった!!、とほめてくれましたけれど、{今度は何色にしようかしら・・・?}と織り機にかかっている色々な作品を眺めている私を、{まあ、何が面白くてそんなにがんばるんだろうねえ}と内心納得がいかないような顔つきで見ています。模様なしの単純な織りでも、トイちゃんは私の5倍の速さで織りすすんでいきます。それがせめて4倍に短縮できたら、と願う気持ちも勿論ありますけれど、私が暑さをものともせずにがんばれたのは、自分の手を使って物が形作られることがとても楽しかったからだと思えます。
ラオスの女性たちは、日常の色々な用途のために織物を織ってきました。日々の家族の生活に必要なものを織るだけでなく、結婚・葬式などの特別の機会の為の布を織ることも彼女らの務めでした。マーケットには、山ほど布地が積まれています。途方もない時間をかけて織ることをしなくても簡単に布が手に入る今日この頃でも、女性の80%は織る技術を習得しているそうです。ラオスの外務副大臣の奥様も織ることが大好きと、おっしゃっていました。今はもう、副大臣夫人としての仕事が忙しくて、「織りをする時間がないの」と残念そうでした。
ペンお母さんの料理と織物の腕前は近々の村にも広まっていたのでしょうか、14才の時に結婚の申し込みがありました。お相手のペンパンさんは15才。ペンお母さんのいとこです。近くの村に住むペンパンさんの両親が是非にということで整ったものです。二人の結婚はペンパンが19才、ペンが18才の時に行われ、ペンは、藍染の黒シャツに金銀の糸を織り込んだ太目の裾模様の黒地のシンの花嫁衣裳を着ました。
ペンの生活は幸せでした。自分用や義母様のシンやスカーフを織るだけでなく、時間が許す限り織り物をし、それらを竹のかごに入れておき ました。かごが一杯になると、お父さんは馬の背にのせ、モン族の村に売りに行ったものでした。その頃、モン族は自分たちの通貨を持っていました。今はビエンチャンのアンティークショップなどで見られる細長い銀の棒です。お父さんはまた、馬の背に揺られて中国まで売りに出かけたこともあります。ここでは、金や銀、または黒の絹地と物々交換しました。そうして手に入れた金銀は素焼きのつぼに入れられ、庭に深く埋めたのでした。どの家族もそうやって金銀を隠し保管しました。そのつぼもベトナム戦争の混乱の中、人々は掘り起こさずに逃げるしかなかったし、または埋めたところを忘れたりした人も多いので、あの地域には銀を内蔵するつぼが埋まっているかもしれなせん。また、ペンお母さんは色合いを工夫し、目をひきつけるような伝統模様を織り込んだ裾模様をその黒い絹地に縫いつけ、シンに仕立てました。その美しさは、人々の人気の的でした。
ラオスの女性たちは、日常の色々な用途のために織物を織ってきました。日々の家族の生活に必要なものを織るだけでなく、結婚・葬式などの特別の機会の為の布を織ることも彼女らの務めでした。マーケットには、山ほど布地が積まれています。途方もない時間をかけて織ることをしなくても簡単に布が手に入る今日この頃でも、女性の80%は織る技術を習得しているそうです。ラオスの外務副大臣の奥様も織ることが大好きと、おっしゃっていました。今はもう、副大臣夫人としての仕事が忙しくて、「織りをする時間がないの」と残念そうでした。
ペンお母さんの料理と織物の腕前は近々の村にも広まっていたのでしょうか、14才の時に結婚の申し込みがありました。お相手のペンパンさんは15才。ペンお母さんのいとこです。近くの村に住むペンパンさんの両親が是非にということで整ったものです。二人の結婚はペンパンが19才、ペンが18才の時に行われ、ペンは、藍染の黒シャツに金銀の糸を織り込んだ太目の裾模様の黒地のシンの花嫁衣裳を着ました。
ペンの生活は幸せでした。自分用や義母様のシンやスカーフを織るだけでなく、時間が許す限り織り物をし、それらを竹のかごに入れておき ました。かごが一杯になると、お父さんは馬の背にのせ、モン族の村に売りに行ったものでした。その頃、モン族は自分たちの通貨を持っていました。今はビエンチャンのアンティークショップなどで見られる細長い銀の棒です。お父さんはまた、馬の背に揺られて中国まで売りに出かけたこともあります。ここでは、金や銀、または黒の絹地と物々交換しました。そうして手に入れた金銀は素焼きのつぼに入れられ、庭に深く埋めたのでした。どの家族もそうやって金銀を隠し保管しました。そのつぼもベトナム戦争の混乱の中、人々は掘り起こさずに逃げるしかなかったし、または埋めたところを忘れたりした人も多いので、あの地域には銀を内蔵するつぼが埋まっているかもしれなせん。また、ペンお母さんは色合いを工夫し、目をひきつけるような伝統模様を織り込んだ裾模様をその黒い絹地に縫いつけ、シンに仕立てました。その美しさは、人々の人気の的でした。
ペンお母さん奮闘
さて、ビエンチャンで織物をして生活をしていきましょう!と決心したペンお母さんですが、ビエンチャン模様を学ばなければ商品が売れないことにすぐに気づきました。 織物なら誰にも負けない、と思っていたペンですが、サムヌアで織っていたシンの裾柄はビエンチャン周辺の柄とは違うのです。ビエンチャンの人々は山の中のサムヌアの模様など、田舎臭くて着られやしない、と見向きもしないのです。
ペンお母さんは、市場に出かけると商品を眺めるだけでなく、買い物に来ている女性たちの服装にも注意を払い、ビエンチャンで人気の色や柄を研究したり、結婚式があると知ると、ちょっと遠くても覗きに出かけたりしました。そんな熱心な努力と丁寧な織りのシンのすそ模様は、ビエンチャンで最大の雑貨市場のモーニング・マーケットですぐに人気が出てきました。織物の基礎を知っている若い女性を二人雇い入れ、いろいろ技術を教えながら、モーニング・マーケットで売る商品を織る毎日でした。
その頃、モーニング・マーケットでアンティークの布地が出回りはじめました。1975年に共産革命がおこり、現政権の政治が始まりました。戦争のあとの生活の厳しさのためか、生活費にこと欠く女性たちが、おかあさん、いいえ、おばあさん、お姑さんから譲られた大事なシンを売らなければいけない状況に追いやられたのです。そのうちあっという間に古い織物がラオス国内ではお目にかかれなくなってしまいました。タイを中心にアジアの布に興味が湧いたのでしょうか、タイ商人やアメリカ・フランスのコレクターが買い占めてしまったのです。そこでペンお母さんは、自分の古いシンの柄や本などを見ながら、自然の染料で染めた糸で伝統的な柄を織ることに取り組み始めたのでした。 しかし皮肉なもので、モーニング・マーケットの商人たちはコピー商品など見向きもしないのです。お店に卸すことが出来なく、仕方なく市場の入り口の道端に広げて売り始めたのでした。タイ商人達がその良さを見抜くまで、そんなに時間はかかりませんでした。すぐに注文が入ってくるようになったのです。
コントンとビエンカムが学校を卒業して、すぐにペンマイギャラリーを始めたわけではありません。ビエンチャン市のはずれで、ラオス市場を念頭においた家内工業的な生産がまだまだ続きました。会社組織にもなっていませんでした。コントンは高校を卒業後、秘書養成学校に3年通い、厚生省に就職しました。その後留学試験に合格し2年間は、ソ連で英語教育法について勉強したそうです。ビエンカムは、高校卒業後、ハンガリーに行く留学試験に合格したのですが、ペンお母さんに、「他の子供がみんな外国に勉強に行っているから、あなただけはラオスにいてちょうだい」と言われ、ビエンチャンのドンドク大学へ進みました。卒業後は観光省での仕事をはじめました。仕事の傍らお母さんの織物を手伝ったのは言うまでもありません。1980年初頭になり、ラオ政府が少しずつ取り始めた経済開放政策も幸いし、海外市場への進出を探り始めました。1986年からはタイへ、1990年からは日本への輸出が始まりました。
そして、1991年には、ペンマイ・ギャラリーの大躍進となる画期的なことがおこりました。ユネスコ主催の東南アジア織物コンクールがあり、コントンの作品が2位に輝いたのです。
ペンお母さんは、市場に出かけると商品を眺めるだけでなく、買い物に来ている女性たちの服装にも注意を払い、ビエンチャンで人気の色や柄を研究したり、結婚式があると知ると、ちょっと遠くても覗きに出かけたりしました。そんな熱心な努力と丁寧な織りのシンのすそ模様は、ビエンチャンで最大の雑貨市場のモーニング・マーケットですぐに人気が出てきました。織物の基礎を知っている若い女性を二人雇い入れ、いろいろ技術を教えながら、モーニング・マーケットで売る商品を織る毎日でした。
その頃、モーニング・マーケットでアンティークの布地が出回りはじめました。1975年に共産革命がおこり、現政権の政治が始まりました。戦争のあとの生活の厳しさのためか、生活費にこと欠く女性たちが、おかあさん、いいえ、おばあさん、お姑さんから譲られた大事なシンを売らなければいけない状況に追いやられたのです。そのうちあっという間に古い織物がラオス国内ではお目にかかれなくなってしまいました。タイを中心にアジアの布に興味が湧いたのでしょうか、タイ商人やアメリカ・フランスのコレクターが買い占めてしまったのです。そこでペンお母さんは、自分の古いシンの柄や本などを見ながら、自然の染料で染めた糸で伝統的な柄を織ることに取り組み始めたのでした。 しかし皮肉なもので、モーニング・マーケットの商人たちはコピー商品など見向きもしないのです。お店に卸すことが出来なく、仕方なく市場の入り口の道端に広げて売り始めたのでした。タイ商人達がその良さを見抜くまで、そんなに時間はかかりませんでした。すぐに注文が入ってくるようになったのです。
コントンとビエンカムが学校を卒業して、すぐにペンマイギャラリーを始めたわけではありません。ビエンチャン市のはずれで、ラオス市場を念頭においた家内工業的な生産がまだまだ続きました。会社組織にもなっていませんでした。コントンは高校を卒業後、秘書養成学校に3年通い、厚生省に就職しました。その後留学試験に合格し2年間は、ソ連で英語教育法について勉強したそうです。ビエンカムは、高校卒業後、ハンガリーに行く留学試験に合格したのですが、ペンお母さんに、「他の子供がみんな外国に勉強に行っているから、あなただけはラオスにいてちょうだい」と言われ、ビエンチャンのドンドク大学へ進みました。卒業後は観光省での仕事をはじめました。仕事の傍らお母さんの織物を手伝ったのは言うまでもありません。1980年初頭になり、ラオ政府が少しずつ取り始めた経済開放政策も幸いし、海外市場への進出を探り始めました。1986年からはタイへ、1990年からは日本への輸出が始まりました。
そして、1991年には、ペンマイ・ギャラリーの大躍進となる画期的なことがおこりました。ユネスコ主催の東南アジア織物コンクールがあり、コントンの作品が2位に輝いたのです。
ペンマイ工房の新たな出発
女のコントンの名前は、黄金の糸車という意味。ビエンカムは、金の都市。コントンもビエンカムも小さいときから学用品やお小遣い、洋服は自分で働いて買っていました。仕事はもちろん織物。1977年~87年には、母が郊外の農場の管理に出かけてしまったので、子供4人だけでビエンチャンに住むことになりました。親戚が彼らの面倒を見てくれると言ってくれましたけれど、自分たちのことは自分たちでするという独立心旺盛の彼らは、そんな親切な言葉を断りました。そして、母親からの仕送りも断り、織り子の女の子二人を指導・監督しながら、学校へ行く前に織機と向かい、学校から帰り食事の用意をしながら織機の前に座り、土・日曜日は一日中織る、という生活を送りました。生活はビエンカムとコントンの織物によって成り立っていたのです。家に帰って勉強しなくて良いように、二人は学校で集中して勉強しました。成績はいつも優秀でした。織物の手が空いたときは、読書に熱中しました。タイ語に訳された心どきどきするような冒険物に熱くなり、自分がヒロインになったような気分にうっとりとしました。
コントンが賞に輝いたことは、ラオス国内の調査をし、織物資料を作成するユネスコのコンサルタントの仕事を得ることが出来たばかりでなく、バンコクや日本での見本市への出店の誘いが舞いこんでくることに繋がりました。また、他のラオス織物工房主催者や、ラオス民話や椰子の葉に書かれた仏教経典の研究する女性たちと協力し、更なるラオス織物の発掘研究と発掘された作品の展示会を催そう、という機運に高まりました。ソ連留学で得た知識を活用出来ずにいたコントンも、職場を離れ、ペンマイ工房での経営に本腰を入れることに決心したのです。同時に、ビエンカムも仕事を止めることにしました。コントンは市場の開発などを担当し、ビエンカムは職人・製品管理と仕事の分担も決まりました。
ペンマイ工房の2,000?ほどの敷地には、織りや染めの作業場、事務所、販売ブティック、3棟の従業員寮だけでなく、住居が隣接してあります。竹や桑の木の他には、野菜も少しですが育っています。母屋には、ペンお母さん、ビエンカム夫妻と彼らの3人の子供たち、まだ独身のケン、スントーン夫婦と彼らの子供1人の合計10人が一つ屋根の下で生活しています。母屋のドアーの上には、タレオと呼ばれる竹製の魔よけがおかれて、彼らの生活を守っています。コントンは建築家のご主人が設計した、車で10分ほど離れた家での生活です。ラオス社会では、一番下の娘が親と一緒に生活し面倒を見ることが一般的だとか。ビエンカムは、「一番下の子供として、母と一緒に生活しているの」と言います。「でも、どうして、兄たちは他に移らないで、ここにいたがるのかしら?」と、同敷地内に家を建てているスントーン家族のことを不思議がっています。
食事の支度は、住み込みの料理人のおばさんがやっています。小学生の女の子のお母さんです。離婚をしたとかで、子供と一緒に寮で生活しています。この6才のお嬢さんは、学校から帰ってくると、{あたしもやってみたいなあ}という顔つきで、織り機の回りをうろうろします。 遊ぶものといったらボール一個くらい。もちろんテレビもないので、他にやれることは何も無いんですね。こうやって、織り子予備軍が出来ていくんでしょう。このお嬢さんにじっと見られると、なんだか緊張したのが思い出されます。
コントンが賞に輝いたことは、ラオス国内の調査をし、織物資料を作成するユネスコのコンサルタントの仕事を得ることが出来たばかりでなく、バンコクや日本での見本市への出店の誘いが舞いこんでくることに繋がりました。また、他のラオス織物工房主催者や、ラオス民話や椰子の葉に書かれた仏教経典の研究する女性たちと協力し、更なるラオス織物の発掘研究と発掘された作品の展示会を催そう、という機運に高まりました。ソ連留学で得た知識を活用出来ずにいたコントンも、職場を離れ、ペンマイ工房での経営に本腰を入れることに決心したのです。同時に、ビエンカムも仕事を止めることにしました。コントンは市場の開発などを担当し、ビエンカムは職人・製品管理と仕事の分担も決まりました。
ペンマイ工房の2,000?ほどの敷地には、織りや染めの作業場、事務所、販売ブティック、3棟の従業員寮だけでなく、住居が隣接してあります。竹や桑の木の他には、野菜も少しですが育っています。母屋には、ペンお母さん、ビエンカム夫妻と彼らの3人の子供たち、まだ独身のケン、スントーン夫婦と彼らの子供1人の合計10人が一つ屋根の下で生活しています。母屋のドアーの上には、タレオと呼ばれる竹製の魔よけがおかれて、彼らの生活を守っています。コントンは建築家のご主人が設計した、車で10分ほど離れた家での生活です。ラオス社会では、一番下の娘が親と一緒に生活し面倒を見ることが一般的だとか。ビエンカムは、「一番下の子供として、母と一緒に生活しているの」と言います。「でも、どうして、兄たちは他に移らないで、ここにいたがるのかしら?」と、同敷地内に家を建てているスントーン家族のことを不思議がっています。
食事の支度は、住み込みの料理人のおばさんがやっています。小学生の女の子のお母さんです。離婚をしたとかで、子供と一緒に寮で生活しています。この6才のお嬢さんは、学校から帰ってくると、{あたしもやってみたいなあ}という顔つきで、織り機の回りをうろうろします。 遊ぶものといったらボール一個くらい。もちろんテレビもないので、他にやれることは何も無いんですね。こうやって、織り子予備軍が出来ていくんでしょう。このお嬢さんにじっと見られると、なんだか緊張したのが思い出されます。
蚕も元気
私が織物に通い始めた頃は、このお料理のおばさんはまだいませんでした。11時ごろになると、織り子のお嬢さんが、(いつも3人くらいでしょうか)、工房の片隅の台所で食事の支度を始めます。台所といっても小さな小屋で、床も土むき出し。調理台なんてものもないですね。炭火のコンロが4つボーンと土間に置いてあって、みんなしゃがみこんで、野菜を切ったり、なべをかき回したりしています。「一緒に食べよう!!」といつも誘ってくれるので、ある日、今日こそ、と一緒に食事をしたのですけれど、大変な目に会いました。メニューは、野菜と肉の煮物、野菜のお浸し風と餅米。いい匂いが漂っています。あまり辛くないから・・・と言われて、がぶりとやった野菜と肉の煮物のその辛かったこと。ふんふん、赤い唐辛子は見当たらないわ大丈夫、と簡単に思ったのがいけなかったんですね。小粒の緑色の唐辛子を使っていたんです。野菜に隠れて見えませんでした。彼女たちは、その上に辛いソースを欠かさないんですね。彼女たちは私を困らせようなんていう魂胆は全く無く、ただただ、私が彼らの辛味についていけなかっただけなんです。涙がずいぶん流れました。
食料の買出しはトイちゃんの役目です。
「市場に買い物に行くから、今日は、もうさようなら」
「オートバイで行くの? 免許は持っているの?」
「そんなのないわ。」
「えっ?あ、そう。気をつけてね~」
夕方になると、その晩と翌日のお昼の野菜の買出しのためにオートバイに乗って颯爽と市場に出かけていました。
料理や買い物もするなら、給料はどううなっているのかしら・・・というのが自然と思い浮かぶことです。織り子の賃金は出来高制です。真剣に織物だけに没頭して稼ぐぞ!、と言うタイプはざっと見渡したところ一人も見当たりません。もちろん、急ぎで何日までに仕上げること、という仕事は別ですけれど、日が出て明るくなったらひと織りし、夕方暗くなったら、またあした・・・、という自由気ままな雰囲気でやっています。料理や買い物は、難しい織りが早くできる稼ぎのいい織り子さんたちが率先してやっているようです。ビエンカムが、私たちはみんな家族、と言っていたのがうなずけます。
織り子のお嬢さんたちにはもう一つ大事な仕事があります。それは、蚕の世話です。ペンマイでは、ほんの少しの数ですが、蚕も飼育しています。蚕の命はたったの28~30日。とっても短いのです。しかし、その間に体重はなんと10,000倍になるんですね。生まれたての蚕はゴマ粒ほどの大きさ。はじめの5日間で1cmのサイズに成長します。その間全く眠らないそうです。それからはひたすら桑の葉を食べ続け大きくなり、そして人の髪の毛の太さの糸を出し繭を作り始めます。糸を出すスピードは、1分間に30センチ。糸を取った残りは、たんぱく質が豊富で、魚の餌にしたり、実際人々が食べるそうです。女性用の長袖シャツを作るには、1,000の蚕の繭が必要で、その1,000の蚕が成長するまでには、約22Kgの桑の葉を消費するそうです。この食旺盛な蚕に食べさせる桑の葉を庭から取ってきて、細かく刻み、前日の残った硬い桑の葉を取り除き、取立ての新しい桑の葉をどの蚕にも行き渡るようにフワッと載せてあげるのが彼女たちの仕事です。黄色の繭はこの地域特有の山繭です。
食料の買出しはトイちゃんの役目です。
「市場に買い物に行くから、今日は、もうさようなら」
「オートバイで行くの? 免許は持っているの?」
「そんなのないわ。」
「えっ?あ、そう。気をつけてね~」
夕方になると、その晩と翌日のお昼の野菜の買出しのためにオートバイに乗って颯爽と市場に出かけていました。
料理や買い物もするなら、給料はどううなっているのかしら・・・というのが自然と思い浮かぶことです。織り子の賃金は出来高制です。真剣に織物だけに没頭して稼ぐぞ!、と言うタイプはざっと見渡したところ一人も見当たりません。もちろん、急ぎで何日までに仕上げること、という仕事は別ですけれど、日が出て明るくなったらひと織りし、夕方暗くなったら、またあした・・・、という自由気ままな雰囲気でやっています。料理や買い物は、難しい織りが早くできる稼ぎのいい織り子さんたちが率先してやっているようです。ビエンカムが、私たちはみんな家族、と言っていたのがうなずけます。
織り子のお嬢さんたちにはもう一つ大事な仕事があります。それは、蚕の世話です。ペンマイでは、ほんの少しの数ですが、蚕も飼育しています。蚕の命はたったの28~30日。とっても短いのです。しかし、その間に体重はなんと10,000倍になるんですね。生まれたての蚕はゴマ粒ほどの大きさ。はじめの5日間で1cmのサイズに成長します。その間全く眠らないそうです。それからはひたすら桑の葉を食べ続け大きくなり、そして人の髪の毛の太さの糸を出し繭を作り始めます。糸を出すスピードは、1分間に30センチ。糸を取った残りは、たんぱく質が豊富で、魚の餌にしたり、実際人々が食べるそうです。女性用の長袖シャツを作るには、1,000の蚕の繭が必要で、その1,000の蚕が成長するまでには、約22Kgの桑の葉を消費するそうです。この食旺盛な蚕に食べさせる桑の葉を庭から取ってきて、細かく刻み、前日の残った硬い桑の葉を取り除き、取立ての新しい桑の葉をどの蚕にも行き渡るようにフワッと載せてあげるのが彼女たちの仕事です。黄色の繭はこの地域特有の山繭です。
愛の告白は織物で?
ラオ織物は、織り込みにより模様を紡ぎだす方法のほかに、イカットやタペストリーという技法も用いています。イカットというのは、絣織りです。イカットはインドネシア語で括るとか縛るとかいう意味です。ラオスのは横糸を模様にあわせて染め付けるイカットです。織る布地の幅に糸を巻き取り、荷造りのビニールの紐のようなもので柄に合わせてぎゅっと縛り、染色します。縛ったところは染色前の色が残っています。柄は驚くほど日本の矢絣や十文字柄に似ています。タペストリーというのは模様の部分を手で横糸を刺繍するように渡し模様を作っていきます。
私もタペストリーをやってみました。お店でサンプルを見つけてトイちゃんに渡すと、彼女、いつものように、{うーん}と言って、じっと模様に見入っています。3色の模様にしたのですが、どうも糸を右に左に動かす順番を検討しているようです。私には何がなんだかさっぱりわからなくて、トイちゃんの言う通りにやるしかありません。手で糸の感触を感じつつ模様を作っていくのは、また織り込みとは違う楽しみがありました。時間はかなりかかりましたけれど。
トイちゃんは織物作業なら何でも好きだそうです。お母さんもおばあちゃんも、そのおばあちゃんも家族のために織物をしてきた血が彼女の中にも流れているのでしょう。彼女は赤タイ族の出身です。赤タイ族は、それなりの言葉、といってもラオ語の方言ですが、また独特の料理法などの独自の文化を持っています。ラオスでの彼らの主居住地であるフアパン・シェンクワン県は高地で冬の気温はかなり低くなるので、女性たちは頭にスカーフを巻き寒さをしのぎます。若い女性たちは、藍染の無地、お年寄りたちは模様入りの藍色か赤のスカーフをかぶることが多いそうです。といっても今日この頃、被り物をするのはお年寄りだけのようですが。
赤タイ族にはこんな話もあります。若い女の子は、心引かれる男の子に手織りのハンカチを送ります。それにより彼に好意を持っていることを打ち明けているのです。なかなか積極的ですね。また同じ山岳タイ族のプアンタイ族の若い女性は、赤いショルダーバッグを男の子に送ることで愛を告白します。もし、彼への思いがとても熱いものなら、そのバッグの中に丸々と太った茹鶏を入れます。そして、男の子はそれを親に見せるのです。もしバッグの織り模様が美しく見事であり、また鶏も肉づきが良いものなら、その娘を理想の嫁として迎えることにします。
また、こんな伝説もあります。赤タイ族の年老いた女性は、死後に着用するシンのウエスト・バンドを織り、魂の世界への旅立ちを準備するのです。フア・ブアンといわれる白と黒の模様を織り込んだものです。彼女の魂が天国の入り口に到着すると、「あなたは死の床でフア・ブアンをつけていましたか?」と番人にたずねられます。もし、着けていたなら、彼女は金色に輝くマンゴーがたわわになる天国の庭に行くことが許されます。そして、マンゴーを手にとるたびに、地上の彼女の家族たちに幸福の精が送られます。それにより彼女の家族は、より健康に、より豊かになることが出来るのです。
私もタペストリーをやってみました。お店でサンプルを見つけてトイちゃんに渡すと、彼女、いつものように、{うーん}と言って、じっと模様に見入っています。3色の模様にしたのですが、どうも糸を右に左に動かす順番を検討しているようです。私には何がなんだかさっぱりわからなくて、トイちゃんの言う通りにやるしかありません。手で糸の感触を感じつつ模様を作っていくのは、また織り込みとは違う楽しみがありました。時間はかなりかかりましたけれど。
トイちゃんは織物作業なら何でも好きだそうです。お母さんもおばあちゃんも、そのおばあちゃんも家族のために織物をしてきた血が彼女の中にも流れているのでしょう。彼女は赤タイ族の出身です。赤タイ族は、それなりの言葉、といってもラオ語の方言ですが、また独特の料理法などの独自の文化を持っています。ラオスでの彼らの主居住地であるフアパン・シェンクワン県は高地で冬の気温はかなり低くなるので、女性たちは頭にスカーフを巻き寒さをしのぎます。若い女性たちは、藍染の無地、お年寄りたちは模様入りの藍色か赤のスカーフをかぶることが多いそうです。といっても今日この頃、被り物をするのはお年寄りだけのようですが。
赤タイ族にはこんな話もあります。若い女の子は、心引かれる男の子に手織りのハンカチを送ります。それにより彼に好意を持っていることを打ち明けているのです。なかなか積極的ですね。また同じ山岳タイ族のプアンタイ族の若い女性は、赤いショルダーバッグを男の子に送ることで愛を告白します。もし、彼への思いがとても熱いものなら、そのバッグの中に丸々と太った茹鶏を入れます。そして、男の子はそれを親に見せるのです。もしバッグの織り模様が美しく見事であり、また鶏も肉づきが良いものなら、その娘を理想の嫁として迎えることにします。
また、こんな伝説もあります。赤タイ族の年老いた女性は、死後に着用するシンのウエスト・バンドを織り、魂の世界への旅立ちを準備するのです。フア・ブアンといわれる白と黒の模様を織り込んだものです。彼女の魂が天国の入り口に到着すると、「あなたは死の床でフア・ブアンをつけていましたか?」と番人にたずねられます。もし、着けていたなら、彼女は金色に輝くマンゴーがたわわになる天国の庭に行くことが許されます。そして、マンゴーを手にとるたびに、地上の彼女の家族たちに幸福の精が送られます。それにより彼女の家族は、より健康に、より豊かになることが出来るのです。
織物はメッセンジャー
織物は冠婚葬祭の儀礼にも大きな役割を担っています。結婚が決まった娘さんは義母様のために肩掛けを織り贈りました。そのショールは、義母さんの葬儀にはお棺を覆います。お棺には女性が生前着用していたラオススカートのシンや指輪、ネックレスなども入れられます。死後も魂は生き続けるので、服がないと困るでしょう・・・という思いからです。もし、娘たちが母の品を使いたいという気持ちが強い時は、母の遺品をお坊さんに清めてもらい、手元に残しました。古そうだけれど、古いがゆえに醸し出される艶やかでふわりと柔らかそうな風合いのシンを着ているラオスの人たちに会いましたけれど、それらのシンは、お母さんから、おばあちゃまから譲られたものなのでしょう。また、義母さんはシンを織り、嫁いでくるお嫁さんを待ちました。妊娠中に織機に座り赤ちゃんのために織ることは、悪い運を運んでくるという言い伝えもあります。赤ちゃんが織りたての新しい服を身に着けることは、悪霊を呼び込むというのです。赤ちゃんはお母さんの着古して柔らかくなったシンでくるむことが最良と思われていました。ビエンカムが一人目の子供を妊娠中には、赤タイ族特有のおぶい紐をペンお母さんが作ってくれたそうです。40センチ幅で2メートルほどの長さの長い手ぬぐいのような形で、四つ角を糸で丸く包んで藍で日本の絞り染めのように染めたものです。その白く染め残った4つの丸は{目}をあらわし、子供とお母さんを守って欲しい、という気持ちが込められています。このように、女性たちのさまざまな思いがラオスの布に込められていました。そんな風習もだんだんと廃れていっているのは残念なことです。
小乗仏教を信じるラオスの人々にとって、徳を積むことは大変大事なことです。女性たちは、毎朝僧侶たちに施しをすることや、お寺にお参りに行くことにより徳を積みます。男性たちにとり、短期間でも入門し、僧侶の生活をすることが最良の方法ですが、それが無理な場合は、お寺の建造や修理などを率先して行います。それにより、男性たちはお寺や僧侶たちと直接深くかかわることが出来、大きな徳を積むことが出来るのです。女性にはそのような労働を許されてないのですが、ここで、織物の出番が出てきます。直接入門できない女性たちにとって織物が大きな役目を果たすのです。椰子の葉に書かれた経典を包む布を織り、寺に寄進するのです。経典は直に空気に触れていると20年ほどで痛んでしまうそうですが、絹や木綿の布できちんと包み保管すれば、500年でも保存できるそうです。このカバーを織るという仕事は、女性たちにとってかけがいのない貴重なものです。色々な思いを模様に託して、繊細で細やかな経典包みを織り上げていきます。
私がはじめてタイのバンコクを訪れたのは今から30年近く前のことです。その頃はラオスのシンに似ているサローンを身につけている女性たちをかなり見かけましたけれど、今はもう誰一人普段の生活では着ていないようです。ビエンチャンからメコン川を越えたところにある小さなノンカイという街のお年寄りさえ身につけてはいませんでした。現在ラオスでは、学校の制服もお役所の女性職員もシンの着用を義務付けられています。ところが、会社や学校がお休みの土・日曜日の街は、一変します。若いお嬢さんたちは、おしとやかで優雅なシンを脱ぎ捨て、体にぴったりついたジーンズ姿に様変わりしてしまうのです。違う国にでもいるような錯覚を覚えるほどです。シンの運命はどうなるのでしょうか?
小乗仏教を信じるラオスの人々にとって、徳を積むことは大変大事なことです。女性たちは、毎朝僧侶たちに施しをすることや、お寺にお参りに行くことにより徳を積みます。男性たちにとり、短期間でも入門し、僧侶の生活をすることが最良の方法ですが、それが無理な場合は、お寺の建造や修理などを率先して行います。それにより、男性たちはお寺や僧侶たちと直接深くかかわることが出来、大きな徳を積むことが出来るのです。女性にはそのような労働を許されてないのですが、ここで、織物の出番が出てきます。直接入門できない女性たちにとって織物が大きな役目を果たすのです。椰子の葉に書かれた経典を包む布を織り、寺に寄進するのです。経典は直に空気に触れていると20年ほどで痛んでしまうそうですが、絹や木綿の布できちんと包み保管すれば、500年でも保存できるそうです。このカバーを織るという仕事は、女性たちにとってかけがいのない貴重なものです。色々な思いを模様に託して、繊細で細やかな経典包みを織り上げていきます。
私がはじめてタイのバンコクを訪れたのは今から30年近く前のことです。その頃はラオスのシンに似ているサローンを身につけている女性たちをかなり見かけましたけれど、今はもう誰一人普段の生活では着ていないようです。ビエンチャンからメコン川を越えたところにある小さなノンカイという街のお年寄りさえ身につけてはいませんでした。現在ラオスでは、学校の制服もお役所の女性職員もシンの着用を義務付けられています。ところが、会社や学校がお休みの土・日曜日の街は、一変します。若いお嬢さんたちは、おしとやかで優雅なシンを脱ぎ捨て、体にぴったりついたジーンズ姿に様変わりしてしまうのです。違う国にでもいるような錯覚を覚えるほどです。シンの運命はどうなるのでしょうか?
2003
ありがとうございました
ひょんなことから始めてみた織物ですが、主人の転勤が予想もしないほどはやく訪れて、ラオスとお別れしなければならなくなりました。こんなことなら、もっと違う段取りで習っておけば良かったなあ・・、と思うのはあとのまつり。経糸の張り方もやってみなかった。まっすぐ綺麗に織れるようになったら挑戦するぞ!!と思っていた絣織りのイカットも試せなかった。{もう少しここで基礎を習ったら、自分用の織り機を作って、家で気ままに織るようにしよう・・・}なんていう私の壮大な夢も、夢のまた夢でおわっちゃった。いつかこの日が来ることはわかっていたんだけれど、でも、ちょっと早すぎた。
「時間を作って、時々はビエンチャンに織物をやりに行ったら」という主人の言葉に、{そうだわ}と元気をとりもどしました。それに、次の赴任地のインドネシアでも、織物が習えるかもしれない。それよりも、今は私のために2週間前に張ってくれた経糸を終わらせないと。あと3週間しかない。雨季が始まってきてはいるものの、暑さはきびしい。
工房では、いろいろなことを目にしたことが思い出されます。ある日は、工房に、大きな荷物を担いだ若い女性がやってきました。中国人の行商です。懐中電灯、腕時計、鋸、サングラス、シャツ、ズボンなどなど。{買わない方がいいよね、中国製はすぐ壊れちゃうよ・・}と内心思いましたけれど、みんなわいわいがやがや楽しそうに品物を眺めていましたっけ。自転車に乗ったアイスクリーム屋のおじさんも良く見かけました。おじさんが来ると、みんな荷台に駆け寄って、コーンにアイスクリームを入れてもらっていました。どんな味なのかちょっと興味あったんですけれど、おなかのことを心配して、私はやめました。黄色い袈裟を着た若いお坊さんが、おみくじのようなものを売りに来たこともありました。これには、工房の若い人たちは興味を見せなかったですね。買ったのはお年寄りと私くらい。私のには、{いいことがある}と書かれていたそうですが、本当はどうなんでしょう・・?
私の織物修行も短いものでした。けれど、なんだか大事なことを得たような気がします。準備をきちんとしてこそ、良い作品が出来る。それぞれの工程をきっちりやっていかなければいけないのです。{急がば回れ}ということがどんなに大切かということを実感しました。手仕事を綺麗に仕上げたいならば、近道はありえない、とつくづく思いました。織り子のお嬢さんたちが若いのに、おっとりとしていて、感情的にならないのは、このへんにあるのかもしれませんね。そういえばラオスではこう言われているそうです。{いらいら怒りっぽい人は、織物をしなさい}と。私にも少しは役立ったでしょうか?
ペンマイの製品は日本でも売られているようですし、最近は絹の布地を日本の服飾メーカーに卸しています。ビエンカムもコントンも韓国や日本、東南アジアの都市などで催される産業見本市などに積極的に出かけています。ラオスの自然が作り出すいろいろな色で染め上げた糸を、一つ一つ妥協を許さない手作業で完成する絹の布が、世界の人々にもっと愛されることを願ってやみません。最後にコントンが言っていた一言が思い出されます。{この工房の若い女の子たちに仕事をあげ続けなければならないの。だって、彼女たちは、ここでの仕事がなくなったら、体を売るしかないんだから}
私のラオスでの織物体験記のご拝読、ありがとうございました。
「時間を作って、時々はビエンチャンに織物をやりに行ったら」という主人の言葉に、{そうだわ}と元気をとりもどしました。それに、次の赴任地のインドネシアでも、織物が習えるかもしれない。それよりも、今は私のために2週間前に張ってくれた経糸を終わらせないと。あと3週間しかない。雨季が始まってきてはいるものの、暑さはきびしい。
工房では、いろいろなことを目にしたことが思い出されます。ある日は、工房に、大きな荷物を担いだ若い女性がやってきました。中国人の行商です。懐中電灯、腕時計、鋸、サングラス、シャツ、ズボンなどなど。{買わない方がいいよね、中国製はすぐ壊れちゃうよ・・}と内心思いましたけれど、みんなわいわいがやがや楽しそうに品物を眺めていましたっけ。自転車に乗ったアイスクリーム屋のおじさんも良く見かけました。おじさんが来ると、みんな荷台に駆け寄って、コーンにアイスクリームを入れてもらっていました。どんな味なのかちょっと興味あったんですけれど、おなかのことを心配して、私はやめました。黄色い袈裟を着た若いお坊さんが、おみくじのようなものを売りに来たこともありました。これには、工房の若い人たちは興味を見せなかったですね。買ったのはお年寄りと私くらい。私のには、{いいことがある}と書かれていたそうですが、本当はどうなんでしょう・・?
私の織物修行も短いものでした。けれど、なんだか大事なことを得たような気がします。準備をきちんとしてこそ、良い作品が出来る。それぞれの工程をきっちりやっていかなければいけないのです。{急がば回れ}ということがどんなに大切かということを実感しました。手仕事を綺麗に仕上げたいならば、近道はありえない、とつくづく思いました。織り子のお嬢さんたちが若いのに、おっとりとしていて、感情的にならないのは、このへんにあるのかもしれませんね。そういえばラオスではこう言われているそうです。{いらいら怒りっぽい人は、織物をしなさい}と。私にも少しは役立ったでしょうか?
ペンマイの製品は日本でも売られているようですし、最近は絹の布地を日本の服飾メーカーに卸しています。ビエンカムもコントンも韓国や日本、東南アジアの都市などで催される産業見本市などに積極的に出かけています。ラオスの自然が作り出すいろいろな色で染め上げた糸を、一つ一つ妥協を許さない手作業で完成する絹の布が、世界の人々にもっと愛されることを願ってやみません。最後にコントンが言っていた一言が思い出されます。{この工房の若い女の子たちに仕事をあげ続けなければならないの。だって、彼女たちは、ここでの仕事がなくなったら、体を売るしかないんだから}
私のラオスでの織物体験記のご拝読、ありがとうございました。