2002
凧揚げ
今では、めっきり見なくなったが、正月の遊びのひとつに、凧揚げがある。
竹の細い棒を組んで、そこに思い思いの絵を描いた紙を張る。四角いデザインの場合、 四隅から糸を張り、一度、中心で束ねる。束ねたら、そこから一本の長い糸を伸ばしす。 これで、できあがり。
昔は、みな自分で作ったものだが、今では既製品がほとんど。筆者の子供のころには、 すでにゲイラカイトなんて、洋凧が流行していたのを覚えている。
でも、どうして凧揚げの凧は、タコというのだろう。蛸の唐揚げをつまんで、これが本 当の「蛸揚げ」なんて、おやじギャグのひとつもいおうものなら、白い目で見られそうだ が、これが意外。実は、凧揚げの凧とは、蛸のことなのだ。
海にいる蛸が、なんでまた空に舞っているのか。鯨がジャンボ機となって空を飛ぶ時代 、それほど不思議でもないかもしれないが、どっこい、これには深いわけがある。
凧揚げのタコは蛸といったが、もっといえば、烏賊=イカなのである。こういうと、バ カにするなと、お叱りを受けそうだが、ちょっと待った。考えてみてほしい。凧揚げの凧 の姿は、意外にイカに似ているではないか。足が10本もないが、長い紐のような足が2本 ついている凧も、少なくない。これをイカの10本の足のうち、長い2本に見立てのか。詳 細は不明だが、とにかく、もともと凧はイカと呼ばれていた。
凧揚げの文化は西日本から広まった。西日本で盛んになったイカ揚げ文化が、やがて東 日本に伝播することになるのだが、このとき、江戸の人たちは考えた。西がイカといって いるなら、こちらはタコでぇ。とまあ、こんな具合で、イカはタコと呼ばれ、今日に至っ たらしい。
と、ここまでなら、大した話ではないのだが、実は、凧揚げの凧をタコとも、イカとも 呼ばない地域がある。長崎である。長崎では、凧のことを「ハタ」という。長崎のハタ文 化は500年ほどの歴史があり、記録によると、出島に来ていたオランダ人の付き人であ ったインドネシア人がもちこんだものらしい。
長崎のハタは糸にガラスの粉を塗って、相手のハタの糸を切る、いわゆるケンカ凧であ る。今でも、春先にハタ合戦をするのが、長崎の名物になっている。
しかし、なんでまた、凧がハタなのか。ハタと聞いては、「御伽秦氏」を主催する人間 にとって聞き捨てならない。
さっそく、長崎へと出発。長崎凧資料館を訪れ調査した。すると、どうもはっきりした ことはわからないのだが、ハタ揚げが行われるようになった当初、人々はハタの絵柄を国 旗にした、もしくは国旗を凧として使ったのが、ハタと呼ばれる所以だという。実際、現 在のハタもまた、日の丸やオランダの国旗の模様の絵柄が数多く見られる。
だが、旗を揚げたから、ハタと呼ばれたというのは、少し安直すぎはしないだろうか。 旗は旗であり、凧ではない。旗以外の柄も当然ながら、凧として揚げていたに違いない。 ハタの語源は、ほかにあるのではないか。
そう思い、再び長崎凧資料館で、資料を調べていると、面白いことがわかった。長崎の 凧=ハタには、他の凧とは違う、ある特徴が存在するのだ。その特徴とは、構造である。 長崎のハタの骨組みは、すべて十字になっているのである。そのため、外見は菱形をして いるのだ。
長崎で十字といえば、十字架である。十字架はいうまでもなく、キリスト教の象徴。日 本で、長崎は、もっともキリスト教の教会が多いともいわれる。長崎の凧がハタと呼ばれ る理由は、この十字の骨組みにあるのではないか。
というのも、日本では十字架のことを十字架と呼ぶようになったのは最近のことである 。日本人は十字架のことを古来「機物」と呼んできた。機物とはハタ物である。十字の骨 組みをもって、当時の人々がキリシタンになぞらえて、機物と呼んだ可能性は否定できな い。機物揚げが、やがて機揚げになったとしたら、どうだろう。
今のところ、だれも、そんな説を口にしていないようだが、あえて筆者は「ハタ揚げ= 機物揚げ説」を提唱したい。
十字架刑そのものはキリシタン以前から、この国にあった。十字架を機物という理由は 、機織の木に模したものだという。が、それより筆者は、むしろ旗竿に由来するのではな いかと睨んでいる。
さらにいえば、この機物には、もうひとつ、秦物という意味が込められていたと推理す る。秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒である。よって、イエス・キリストが十字架に掛け られて死んだことを知っている。その十字架を何らかのシンボルとしており、それを見た 人々が秦氏のシンボルだという意味で、秦物と呼んだのではないだろうか。
長崎では、松尾さんという人が多いと聞く。長崎や佐賀の松尾氏は秦氏である。秦氏の 末裔の人が、今も長崎でハタ揚げをしているのも、これは何かの因果かもしれない。
竹の細い棒を組んで、そこに思い思いの絵を描いた紙を張る。四角いデザインの場合、 四隅から糸を張り、一度、中心で束ねる。束ねたら、そこから一本の長い糸を伸ばしす。 これで、できあがり。
昔は、みな自分で作ったものだが、今では既製品がほとんど。筆者の子供のころには、 すでにゲイラカイトなんて、洋凧が流行していたのを覚えている。
でも、どうして凧揚げの凧は、タコというのだろう。蛸の唐揚げをつまんで、これが本 当の「蛸揚げ」なんて、おやじギャグのひとつもいおうものなら、白い目で見られそうだ が、これが意外。実は、凧揚げの凧とは、蛸のことなのだ。
海にいる蛸が、なんでまた空に舞っているのか。鯨がジャンボ機となって空を飛ぶ時代 、それほど不思議でもないかもしれないが、どっこい、これには深いわけがある。
凧揚げのタコは蛸といったが、もっといえば、烏賊=イカなのである。こういうと、バ カにするなと、お叱りを受けそうだが、ちょっと待った。考えてみてほしい。凧揚げの凧 の姿は、意外にイカに似ているではないか。足が10本もないが、長い紐のような足が2本 ついている凧も、少なくない。これをイカの10本の足のうち、長い2本に見立てのか。詳 細は不明だが、とにかく、もともと凧はイカと呼ばれていた。
凧揚げの文化は西日本から広まった。西日本で盛んになったイカ揚げ文化が、やがて東 日本に伝播することになるのだが、このとき、江戸の人たちは考えた。西がイカといって いるなら、こちらはタコでぇ。とまあ、こんな具合で、イカはタコと呼ばれ、今日に至っ たらしい。
と、ここまでなら、大した話ではないのだが、実は、凧揚げの凧をタコとも、イカとも 呼ばない地域がある。長崎である。長崎では、凧のことを「ハタ」という。長崎のハタ文 化は500年ほどの歴史があり、記録によると、出島に来ていたオランダ人の付き人であ ったインドネシア人がもちこんだものらしい。
長崎のハタは糸にガラスの粉を塗って、相手のハタの糸を切る、いわゆるケンカ凧であ る。今でも、春先にハタ合戦をするのが、長崎の名物になっている。
しかし、なんでまた、凧がハタなのか。ハタと聞いては、「御伽秦氏」を主催する人間 にとって聞き捨てならない。
さっそく、長崎へと出発。長崎凧資料館を訪れ調査した。すると、どうもはっきりした ことはわからないのだが、ハタ揚げが行われるようになった当初、人々はハタの絵柄を国 旗にした、もしくは国旗を凧として使ったのが、ハタと呼ばれる所以だという。実際、現 在のハタもまた、日の丸やオランダの国旗の模様の絵柄が数多く見られる。
だが、旗を揚げたから、ハタと呼ばれたというのは、少し安直すぎはしないだろうか。 旗は旗であり、凧ではない。旗以外の柄も当然ながら、凧として揚げていたに違いない。 ハタの語源は、ほかにあるのではないか。
そう思い、再び長崎凧資料館で、資料を調べていると、面白いことがわかった。長崎の 凧=ハタには、他の凧とは違う、ある特徴が存在するのだ。その特徴とは、構造である。 長崎のハタの骨組みは、すべて十字になっているのである。そのため、外見は菱形をして いるのだ。
長崎で十字といえば、十字架である。十字架はいうまでもなく、キリスト教の象徴。日 本で、長崎は、もっともキリスト教の教会が多いともいわれる。長崎の凧がハタと呼ばれ る理由は、この十字の骨組みにあるのではないか。
というのも、日本では十字架のことを十字架と呼ぶようになったのは最近のことである 。日本人は十字架のことを古来「機物」と呼んできた。機物とはハタ物である。十字の骨 組みをもって、当時の人々がキリシタンになぞらえて、機物と呼んだ可能性は否定できな い。機物揚げが、やがて機揚げになったとしたら、どうだろう。
今のところ、だれも、そんな説を口にしていないようだが、あえて筆者は「ハタ揚げ= 機物揚げ説」を提唱したい。
十字架刑そのものはキリシタン以前から、この国にあった。十字架を機物という理由は 、機織の木に模したものだという。が、それより筆者は、むしろ旗竿に由来するのではな いかと睨んでいる。
さらにいえば、この機物には、もうひとつ、秦物という意味が込められていたと推理す る。秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒である。よって、イエス・キリストが十字架に掛け られて死んだことを知っている。その十字架を何らかのシンボルとしており、それを見た 人々が秦氏のシンボルだという意味で、秦物と呼んだのではないだろうか。
長崎では、松尾さんという人が多いと聞く。長崎や佐賀の松尾氏は秦氏である。秦氏の 末裔の人が、今も長崎でハタ揚げをしているのも、これは何かの因果かもしれない。
神輿
日本の祭りの特徴のひとつに、神輿がある。氏子たちが重い神輿を担ぎ、ワッショイワッショイと掛け声を上げて練り歩く。周りには、笛や太鼓、鐘を鳴らし、その光景は実に威勢がいい。祭りの真骨頂といっても、過言ではあるまい。
東京では、浅草の三社祭や日枝神社の巡幸祭、神田神社の神輿祭などが有名だ。不景気 なご時世だが、これらの祭だけは威勢がいい。なんていったって、神輿の豪華なこと。1 基造るのに、数千万から億単位の費用が掛かるっていうんだから、すごい。
今から2年ほど前、ひとりの外国人が神輿を見て、絶句した。豪華絢爛だから、日本の 伝統文化だから、そして、エキゾチックだったからでもない。彼は、そこに失われた自分 たちの祭りを見たのである。
彼はユダヤ人だった。しかも、世界でもっとも有名なユダヤ人。その名も、エドモンド ・ロスチャイルドという。いうまでもなく、世界最大の大富豪である。当然ながら、ロス チャイルドはユダヤ教徒である。
彼は日本の神輿に、失われたユダヤの祭りを見たのである。ロスチャイルドの来日をセ ッティングした人の話によれば、ロスチャイルドは何よりも神輿に大変興味をもったとい う。神輿は、あまりにも契約の聖櫃アークに似ていたのである。
契約の聖櫃アークとは、ユダヤ教にとって大切な3つの神器、モーセの十戒石板、アロ ンの杖、マナの壺を納めた箱で、下部には担ぐための棒がついていた。外も内も金で覆わ れており、上部には黄金製の翼を広げた天使ケルビムが2体、向かい合って据えられてい る。ユダヤ人は戦いに勝利したとき、契約の聖櫃アークを担ぎ、鐘を鳴らし笛を吹きなが ら行進して歩いたという。かの大王、ダビデは裸踊りまでしたことが『旧約聖書』に記さ れている。
これは、まさに日本の神輿とそっくりだ。神輿も全面、金ピカ。中には神社のご神体を 入れており、上部には翼を広げた鳳凰を据えつけている。祭りの日には、下の担ぎ棒をも って、盛大に騒ぐ。祭りで裸になるのは珍しくない。しかも、笛や鐘、太鼓を打ち鳴らし て騒ぐ様は、そのまま契約の聖櫃アークと同じである。
かねてから、日ユ同祖論者の間では、神輿のモデルは契約の聖櫃アークではないかと、 いわれつづけてきた。
しかし、神輿そのもののルーツの考察をした上での論考は、これまでなされてこなかっ たように思う。
神輿が歴史の記録として記されたのは『続日本紀』が初めて。奈良の東大寺に造営され た大仏の開眼のこと。遠く、九州の宇佐八幡宮から神輿がやってきて、大仏開眼を祝福し たという。
と、この程度なら、神道の本にでも書いている。重要なのは、だれが仕組んだのかとい う部分である。まず、祝福された側、すなわち東大寺の最高権力者、初代別当は良弁であ る。良弁は若狭の出身で、父親は白石神社の宮司で、名を秦常満という。つまり、良弁の 俗姓は秦氏なのである。
一方、神輿を送った側の宇佐八幡宮には、神職を司る3つの氏族がいた。宇佐氏と大神 氏と辛嶋氏である。このうち、もっとも古いのが辛嶋氏である。辛嶋氏は、もともと辛嶋 勝氏といった。勝とは、これ秦部の人間に共通する姓である。つまり、早い話が、辛嶋氏 もまた、秦氏なのである。
よって、神輿を出す側も、受ける側も、みな秦氏だったことがわかる。日本史上初の神 輿巡幸が秦氏によってなされているのは、けっして偶然ではあるまい。
秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒である。彼らは自らの文化、すなわち契約の聖櫃アー クをもとに神輿を作り上げたのである。今日、日本全国で神輿が担がれている光景を見る につけ、いかに秦氏の影響力が大きかったのか、改めて実感する。
だが、かのロスチャイルドも、まさか神輿がユダヤ人原始キリスト教徒によるものであ るとは、恐らく知らなかったに違いない。
東京では、浅草の三社祭や日枝神社の巡幸祭、神田神社の神輿祭などが有名だ。不景気 なご時世だが、これらの祭だけは威勢がいい。なんていったって、神輿の豪華なこと。1 基造るのに、数千万から億単位の費用が掛かるっていうんだから、すごい。
今から2年ほど前、ひとりの外国人が神輿を見て、絶句した。豪華絢爛だから、日本の 伝統文化だから、そして、エキゾチックだったからでもない。彼は、そこに失われた自分 たちの祭りを見たのである。
彼はユダヤ人だった。しかも、世界でもっとも有名なユダヤ人。その名も、エドモンド ・ロスチャイルドという。いうまでもなく、世界最大の大富豪である。当然ながら、ロス チャイルドはユダヤ教徒である。
彼は日本の神輿に、失われたユダヤの祭りを見たのである。ロスチャイルドの来日をセ ッティングした人の話によれば、ロスチャイルドは何よりも神輿に大変興味をもったとい う。神輿は、あまりにも契約の聖櫃アークに似ていたのである。
契約の聖櫃アークとは、ユダヤ教にとって大切な3つの神器、モーセの十戒石板、アロ ンの杖、マナの壺を納めた箱で、下部には担ぐための棒がついていた。外も内も金で覆わ れており、上部には黄金製の翼を広げた天使ケルビムが2体、向かい合って据えられてい る。ユダヤ人は戦いに勝利したとき、契約の聖櫃アークを担ぎ、鐘を鳴らし笛を吹きなが ら行進して歩いたという。かの大王、ダビデは裸踊りまでしたことが『旧約聖書』に記さ れている。
これは、まさに日本の神輿とそっくりだ。神輿も全面、金ピカ。中には神社のご神体を 入れており、上部には翼を広げた鳳凰を据えつけている。祭りの日には、下の担ぎ棒をも って、盛大に騒ぐ。祭りで裸になるのは珍しくない。しかも、笛や鐘、太鼓を打ち鳴らし て騒ぐ様は、そのまま契約の聖櫃アークと同じである。
かねてから、日ユ同祖論者の間では、神輿のモデルは契約の聖櫃アークではないかと、 いわれつづけてきた。
しかし、神輿そのもののルーツの考察をした上での論考は、これまでなされてこなかっ たように思う。
神輿が歴史の記録として記されたのは『続日本紀』が初めて。奈良の東大寺に造営され た大仏の開眼のこと。遠く、九州の宇佐八幡宮から神輿がやってきて、大仏開眼を祝福し たという。
と、この程度なら、神道の本にでも書いている。重要なのは、だれが仕組んだのかとい う部分である。まず、祝福された側、すなわち東大寺の最高権力者、初代別当は良弁であ る。良弁は若狭の出身で、父親は白石神社の宮司で、名を秦常満という。つまり、良弁の 俗姓は秦氏なのである。
一方、神輿を送った側の宇佐八幡宮には、神職を司る3つの氏族がいた。宇佐氏と大神 氏と辛嶋氏である。このうち、もっとも古いのが辛嶋氏である。辛嶋氏は、もともと辛嶋 勝氏といった。勝とは、これ秦部の人間に共通する姓である。つまり、早い話が、辛嶋氏 もまた、秦氏なのである。
よって、神輿を出す側も、受ける側も、みな秦氏だったことがわかる。日本史上初の神 輿巡幸が秦氏によってなされているのは、けっして偶然ではあるまい。
秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒である。彼らは自らの文化、すなわち契約の聖櫃アー クをもとに神輿を作り上げたのである。今日、日本全国で神輿が担がれている光景を見る につけ、いかに秦氏の影響力が大きかったのか、改めて実感する。
だが、かのロスチャイルドも、まさか神輿がユダヤ人原始キリスト教徒によるものであ るとは、恐らく知らなかったに違いない。
酒
漢字とは、実に奥が深い。「酒」という字は、みなさんも知っていると思う。この漢字を見て、恐らく10人いたら、9人。いや、ひょっとすると、10人が10人、これを「サンズイ偏」だと思っているのではないだろうか。
意外だが、「酒」はサンズイではなく、「酉偏」なのだ。もともと「酉」という文字が 酒樽の象形文字であったことから、この文字があるという。
偉そうなことをいっているが、筆者も、人から教えてもらうまで知らなかった。酒とい えば、液体。液体を意味する漢字は、みなサンズイというのが常識である。海、河、涙、 流、溜……と、サンズイは液体のサインのようなものである。
しかし、なぜ「酒」だけが例外なのか。酒は人間に身近なもの。筆者にとっては、とく に重要な液体である。
この事実を教えてくれた老賢者は、酒に水を加えるとだめになる。酒は酉=甕に入れる ものじゃ、といっていた。なんとも、含蓄のある例えだが、酒には純粋なエタノールでは なく、水が含まれて当然だと内心思った筆者は、どこかひねくれているのだろうか。
さて、古来、酒は神事には欠かせないもの。神前に酒が供えられるのはもちろん、結婚 式などにも、酒は重要だ。なんていっても、お神酒というくらいだ。
そのせいか、神道では、酒の神様は少なくない。有名どころでは、奈良の大神神社や京 都の松尾大社が酒神を祀っていることで知られる。境内には、見事な一升樽がいくつも並 べられており、酒造メーカーの信仰を集めている。
中でも面白いのは、京都の大酒神社である。その名にあるように、酒にゆかりのある神 社である。酒の寄贈も少なくない。
だが、ここに祀られている大酒大明神は、もともと酒とは直接的に関係がなかった。酒 は借字で、本来は大辟といった。歴史学者の佐伯好郎氏は、ここにユダヤの大王ダビデの 中国における表記「大闢」を見た。大辟は大避、大僻とも表記する。よって、偏の違う大 闢もまた、大辟と同一であった可能性は十分ある。
大酒神社を創建したのが秦氏であったことから、佐伯氏はユダヤ人であった秦氏が祖先 であるダビデを祀ったのだと推理する。ダビデはユダヤ人にとって、メシアであった。い わば、イエス・キリストの予型でもあった。だからこそ、ダビデを祀る神社を創建したの だという。
思えば、ダビデは実に人間臭い人物であった。英雄であり、ユダヤのメシアであるが、 その一方で祭り好き。戦いに勝って、はしゃぐあまり裸になって踊り狂い、女性から軽蔑 されたこともあった。もちろん、酒好きである。酒好きのダビデにあやかって、大辟を大 酒としたというのは、考えすぎだろうか。
だが、ダビデはイエス・キリストの予型である。イエス・キリストは自らをダビデのひ こばえと称すように、ユダヤ人のメシアだった。ダビデの名称を全面に出すことにより、 同時にイエス・キリストを祀っていた可能性は高い。
イエス・キリストの悪口のひとつに「大酒飲み」というものがある。『新約聖書』を開 くと、イエスが酒に酔っ払うシーンが出てくる。最後の晩餐でも、イエスは弟子たちとと もにぶどう酒を飲んでいる。
このぶどう酒はイエスの血であるとされ、キリスト教の聖餐式においては、重要なアイ テムのひとつとなった。つまり、キリスト教において、酒は神事にとって重要なものだっ たのである。
恐らく、古代の秦氏もまた、神事の一環として酒を飲んだことだろう。彼らもまた、聖 餐式を行い、酒を口にしたはずだ。それを裏付けるように、天皇から太秦という名をもら った秦氏の首長が「秦酒公」という名であったことが『日本書紀』に出てくる。
また、酒神を祀ることで有名な京都の松尾大社を創建したのは、秦氏である。その名も 「秦都理」といった。「都理」とはトリであり、鳥のことだといわれる。もっといえば、 酉を暗示していたのだろう。
先述したように、酉とは、もともと酒樽の象形文字。松尾大社の創建において、すでに 酒神として意識されていたのではないだろうか。
かくいう筆者は、酒を神からの賜物としていただき、焼き鳥片手に、夢うつつ。気がつ きゃ、今宵も千鳥足。財布の中身を知って、顔マッツオ……と、オヤジギャグが出たとこ ろで、今週のトリとさせていただきます--。
意外だが、「酒」はサンズイではなく、「酉偏」なのだ。もともと「酉」という文字が 酒樽の象形文字であったことから、この文字があるという。
偉そうなことをいっているが、筆者も、人から教えてもらうまで知らなかった。酒とい えば、液体。液体を意味する漢字は、みなサンズイというのが常識である。海、河、涙、 流、溜……と、サンズイは液体のサインのようなものである。
しかし、なぜ「酒」だけが例外なのか。酒は人間に身近なもの。筆者にとっては、とく に重要な液体である。
この事実を教えてくれた老賢者は、酒に水を加えるとだめになる。酒は酉=甕に入れる ものじゃ、といっていた。なんとも、含蓄のある例えだが、酒には純粋なエタノールでは なく、水が含まれて当然だと内心思った筆者は、どこかひねくれているのだろうか。
さて、古来、酒は神事には欠かせないもの。神前に酒が供えられるのはもちろん、結婚 式などにも、酒は重要だ。なんていっても、お神酒というくらいだ。
そのせいか、神道では、酒の神様は少なくない。有名どころでは、奈良の大神神社や京 都の松尾大社が酒神を祀っていることで知られる。境内には、見事な一升樽がいくつも並 べられており、酒造メーカーの信仰を集めている。
中でも面白いのは、京都の大酒神社である。その名にあるように、酒にゆかりのある神 社である。酒の寄贈も少なくない。
だが、ここに祀られている大酒大明神は、もともと酒とは直接的に関係がなかった。酒 は借字で、本来は大辟といった。歴史学者の佐伯好郎氏は、ここにユダヤの大王ダビデの 中国における表記「大闢」を見た。大辟は大避、大僻とも表記する。よって、偏の違う大 闢もまた、大辟と同一であった可能性は十分ある。
大酒神社を創建したのが秦氏であったことから、佐伯氏はユダヤ人であった秦氏が祖先 であるダビデを祀ったのだと推理する。ダビデはユダヤ人にとって、メシアであった。い わば、イエス・キリストの予型でもあった。だからこそ、ダビデを祀る神社を創建したの だという。
思えば、ダビデは実に人間臭い人物であった。英雄であり、ユダヤのメシアであるが、 その一方で祭り好き。戦いに勝って、はしゃぐあまり裸になって踊り狂い、女性から軽蔑 されたこともあった。もちろん、酒好きである。酒好きのダビデにあやかって、大辟を大 酒としたというのは、考えすぎだろうか。
だが、ダビデはイエス・キリストの予型である。イエス・キリストは自らをダビデのひ こばえと称すように、ユダヤ人のメシアだった。ダビデの名称を全面に出すことにより、 同時にイエス・キリストを祀っていた可能性は高い。
イエス・キリストの悪口のひとつに「大酒飲み」というものがある。『新約聖書』を開 くと、イエスが酒に酔っ払うシーンが出てくる。最後の晩餐でも、イエスは弟子たちとと もにぶどう酒を飲んでいる。
このぶどう酒はイエスの血であるとされ、キリスト教の聖餐式においては、重要なアイ テムのひとつとなった。つまり、キリスト教において、酒は神事にとって重要なものだっ たのである。
恐らく、古代の秦氏もまた、神事の一環として酒を飲んだことだろう。彼らもまた、聖 餐式を行い、酒を口にしたはずだ。それを裏付けるように、天皇から太秦という名をもら った秦氏の首長が「秦酒公」という名であったことが『日本書紀』に出てくる。
また、酒神を祀ることで有名な京都の松尾大社を創建したのは、秦氏である。その名も 「秦都理」といった。「都理」とはトリであり、鳥のことだといわれる。もっといえば、 酉を暗示していたのだろう。
先述したように、酉とは、もともと酒樽の象形文字。松尾大社の創建において、すでに 酒神として意識されていたのではないだろうか。
かくいう筆者は、酒を神からの賜物としていただき、焼き鳥片手に、夢うつつ。気がつ きゃ、今宵も千鳥足。財布の中身を知って、顔マッツオ……と、オヤジギャグが出たとこ ろで、今週のトリとさせていただきます--。
明けの明星
日本の神道の頂点といえば、いうまでもなく、それは伊勢神宮である。だが、それは表 の神道、すなわち顕教としての神道でのこと。裏の神道、つまり密教としての神道におけ る頂点は、京都の賀茂神社である。この事実は神社関係者であっても、ほとんど知る者は いない。だが、天皇の即位の儀式や大嘗祭を取り仕切るのが、賀茂神社であることを知れ ば、納得する人もいるだろう。
京都の賀茂神社には、ふたつある。上賀茂神社と知られる賀茂別雷神社と下鴨神社と知 られる賀茂御祖神社である。両社併せて、下上賀茂神社と称す。社格としては、下鴨神社 のほうが上。伊勢神宮における内宮に相当する。
下鴨神社の祭神は、賀茂建角身命とその娘、玉依姫。上賀茂神社の祭神は、玉依姫の子 供、賀茂別雷神である。
さらに、別雷神の父、すなわち玉依姫の夫である火雷神は、同じく京都の松尾大社に祀 られている。それゆえ、松尾大社では、賀茂神社の祭礼である葵祭を行っていた。創健し たのは、ご存知、秦氏。秦都理である。
下上賀茂神社と松尾大社は、3社まとめて「秦氏三所明神」とも称される。いわば、早 い話が、みな秦氏の神社である。
と、ここまでなら、知っている人も少なくない。だが、もうひとつ、葵祭を行う神社が ある。それは京都の鬼門に位置する比叡山に立つ日吉大社である。日吉大社の祭神は大山 咋命といい、松尾大社の祭神、火雷神と同一神。よって、日吉大社の創建にもまた、どう やら秦氏が関わっているらしい。
現在、比叡山には天台宗総本山、延暦寺が建つ。日本の名僧の多くは、ここ延暦寺出身 である。そこには、秦氏の血を引く者もいた。浄土宗の開祖として知られる法然の母が秦 氏であることは、つとに有名だ。そもそも、天台宗の開祖である最澄自身、渡来系で、秦 氏とは極めて近い関係にあった。
そう考えると、天台密教の教義には、秦氏の思想が反映しているのではないかと思いた くなるのは、筆者だけではあるまい。
天台密教を一言でいえば、呪術密教であるといっても、過言ではあるまい。神道から陰 陽道、道教、ヒンドゥー教など、東洋の呪術を集大成した感がある。そこには、最奥義の ひとつして「日月星」の呪術がある。
日月星とは、太陽と月と星のことである。この世の一切の生衆は、すべて日月星から生 まれ、そして日月星に帰るという。
『新約聖書』によると、神の世界には3つの栄光があり、それは太陽の栄光、月の栄光、 星の栄光といい、われわれ人類は、これら3つの世界へと至る宿命にあるという。天台密 教奥義もまた、どこか似た響きがある。
いや、これだけではない。天台密教の奥義「日月星」には、さらに先がある。日月星は 、太陽と月と星であると同時に、もうひとつの天体が隠されている。日と月を合わせて「 明」。つまり、日月星とは、これ「明星」の意味であると説く。そして、生衆を救う仏と して、明星天子を崇拝しているのだ。
クリスチャンの方なら、もうお気づきだろう。イエス・キリストは自らを指して、「わ たしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」と称した。全人類を救う メシア、イエス・キリストこそ、天台密教の奥義でいう明星天子ではなかったか。だから こそ、多くの秦氏が僧侶となって、比叡山にやってきたのではないか。筆者には、そう思 えてしかたがない。
京都の賀茂神社には、ふたつある。上賀茂神社と知られる賀茂別雷神社と下鴨神社と知 られる賀茂御祖神社である。両社併せて、下上賀茂神社と称す。社格としては、下鴨神社 のほうが上。伊勢神宮における内宮に相当する。
下鴨神社の祭神は、賀茂建角身命とその娘、玉依姫。上賀茂神社の祭神は、玉依姫の子 供、賀茂別雷神である。
さらに、別雷神の父、すなわち玉依姫の夫である火雷神は、同じく京都の松尾大社に祀 られている。それゆえ、松尾大社では、賀茂神社の祭礼である葵祭を行っていた。創健し たのは、ご存知、秦氏。秦都理である。
下上賀茂神社と松尾大社は、3社まとめて「秦氏三所明神」とも称される。いわば、早 い話が、みな秦氏の神社である。
と、ここまでなら、知っている人も少なくない。だが、もうひとつ、葵祭を行う神社が ある。それは京都の鬼門に位置する比叡山に立つ日吉大社である。日吉大社の祭神は大山 咋命といい、松尾大社の祭神、火雷神と同一神。よって、日吉大社の創建にもまた、どう やら秦氏が関わっているらしい。
現在、比叡山には天台宗総本山、延暦寺が建つ。日本の名僧の多くは、ここ延暦寺出身 である。そこには、秦氏の血を引く者もいた。浄土宗の開祖として知られる法然の母が秦 氏であることは、つとに有名だ。そもそも、天台宗の開祖である最澄自身、渡来系で、秦 氏とは極めて近い関係にあった。
そう考えると、天台密教の教義には、秦氏の思想が反映しているのではないかと思いた くなるのは、筆者だけではあるまい。
天台密教を一言でいえば、呪術密教であるといっても、過言ではあるまい。神道から陰 陽道、道教、ヒンドゥー教など、東洋の呪術を集大成した感がある。そこには、最奥義の ひとつして「日月星」の呪術がある。
日月星とは、太陽と月と星のことである。この世の一切の生衆は、すべて日月星から生 まれ、そして日月星に帰るという。
『新約聖書』によると、神の世界には3つの栄光があり、それは太陽の栄光、月の栄光、 星の栄光といい、われわれ人類は、これら3つの世界へと至る宿命にあるという。天台密 教奥義もまた、どこか似た響きがある。
いや、これだけではない。天台密教の奥義「日月星」には、さらに先がある。日月星は 、太陽と月と星であると同時に、もうひとつの天体が隠されている。日と月を合わせて「 明」。つまり、日月星とは、これ「明星」の意味であると説く。そして、生衆を救う仏と して、明星天子を崇拝しているのだ。
クリスチャンの方なら、もうお気づきだろう。イエス・キリストは自らを指して、「わ たしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」と称した。全人類を救う メシア、イエス・キリストこそ、天台密教の奥義でいう明星天子ではなかったか。だから こそ、多くの秦氏が僧侶となって、比叡山にやってきたのではないか。筆者には、そう思 えてしかたがない。
くわばら
恐ろしい天災に、落雷がある。遠くでも、雷が落ちると、すさまじい轟音がする。これ が近くだと、実に恐ろしい。ピカッと光った同時に、バーンと破裂するような爆音が響き 渡る。しかも、平地ではなく、山の中だったりすと、ホントに肝を冷やす。かつて、自宅 のすぐ近くに落雷があったときは、家全体が地震のように揺れたのを覚えている。
現代人にとっても恐ろしいのだから、昔の人なら、なおさらだ。世界中、雷は神様が引 き起こすものと相場が決まっている。例えば、ギリシア神話の主神ゼウスはイカヅチを放 つことで有名だ。
日本でも、雷を引き起こすのは雷神とされた。火雷神、別雷命、雷公、建御雷之男神な ど、雷を名にもつ神は多い。
だが、日本史を通じて、もっとも有名な雷神といえば、それは天神、すなわち怨霊とな った菅原道真だろう。策略に嵌められ、九州に左遷された後、激しい怨念を抱いたまま死 んだ菅原道真は、その激しい怒りを雷という形でぶつけた。930年、宮中の清涼殿に大 きな落雷があった。陰陽師が占った結果、怨霊・菅原道真の仕業とわかった。菅原道真を 陥れた人々は戦慄し、怨霊を祀ることで祟りを鎮めようとした。これが北野天満宮の始ま りである。
興味深いのは、このころ、人々が空でゴロゴロと音がすると、落雷を避けるために、「 くわばらくわばら」と唱えた。これは雷除けのまじないとして、『徒然草』などの平安時 代の文学にしばしば登場する。
でも、なぜ「くわばらくわばら」が落雷除けのまじないなのか。
菅原道真の姓である菅原を音読みすれば、カンバラ。カンバラが訛って、クワンバラと なり、やがてクワバラになった。と、いうのは、少し無理か。
実は、この「くわばら」、漢字を当てると「桑原」である。そう、桑畑のことなのだ。 よって、意味からするなら、「くわばた」でもかまわない。
由来は、中国神話にある。中国の民間信仰では、雷はけっして桑畑に落ちないという。 よって、くわばらくわばらと唱えれば、落雷はないと考えられたらしい。
では、なぜ桑畑には落雷しないのか。その理由は、桑が特別な樹であるからにほかなら ない。中国神話では、東の海の果てに巨大な桑が2本生えており、これを扶桑と呼んでい る。われわれが見る太陽は、この扶桑を伝って、天空に昇っていく。いわば扶桑は太陽の 象徴でもある。一方、雷は雷雨であり、晴天をもたらす太陽とは対極にある。いわば雷に とって、扶桑、すなわち桑は大敵なのである。ゆえに、桑畑だけには、落雷できないとい うことらしい。
だが、この神話、どこか『旧約聖書』の「創世記」に出てくるエデンの園に似ている。 エデンの園には、2本の樹が生えており、それぞれ「知識の樹」と「生命の樹」といった 。エデンの園は楽園であり、神の光に満ちていた。
中国神話の扶桑とは「知識の樹」と「生命の樹」のことではないのか。ユダヤ教神秘主 義カッバーラ(カバラ)では、奥義を「生命の樹」として表現する。象徴としての「生命 の樹」の図形は三本柱から成っているが、扶桑の「桑」という文字には、「又」が3つ含 まれている。そして、「生命の樹」の象徴図形では、ジグザグの雷光が描かれることもあ るのだ。
さらに、日本語で、桑原=クワバラとは、カバラ=カッバーラに通じる。中国の扶桑神 話とカッバーラが同根であることを知っていた人間が掛詞として、呪文「くわばらくわば ら」を広めたとは考えられないだろうか。
犯人は、秦氏である。
秦氏の秦は機織の機=ハタであるといわれるように、秦氏は古来、養蚕業を生業として きた殖産豪族である。養蚕は、ご存知のように蚕を飼う。蚕の食料は桑の葉である。つま り、古代の桑畑のほとんどは秦氏の管理下にあったと推測できる。
そして、もうひとつ。陰陽道である。古代の呪術は、ほとんど陰陽道から来ている。陰 陽道は大陸から伝来した呪術体系で、それらを担っていたのは渡来人、もっといえば秦氏 だったのだ。
菅原道真の怨霊を占ったのも、陰陽師である。陰陽師とは表の呼び名であって、裏の呼 び名は漢波羅という。漢波羅とはカンバラで、その語源はカッバーラにある。
先ほど、菅原道真の菅原をカンバラと音読みしたが、ひょっとすると、これは暗号で、 菅原道真自身、優秀な陰陽師、すなわち漢波羅だった可能性もある。
と、このように呪文「くわばら」を仕掛けたのは、秦氏だったとみて、ほぼ間違いない 。日本人は知らず知らず、秦氏の呪術を口にしていたというわけである。
現代人にとっても恐ろしいのだから、昔の人なら、なおさらだ。世界中、雷は神様が引 き起こすものと相場が決まっている。例えば、ギリシア神話の主神ゼウスはイカヅチを放 つことで有名だ。
日本でも、雷を引き起こすのは雷神とされた。火雷神、別雷命、雷公、建御雷之男神な ど、雷を名にもつ神は多い。
だが、日本史を通じて、もっとも有名な雷神といえば、それは天神、すなわち怨霊とな った菅原道真だろう。策略に嵌められ、九州に左遷された後、激しい怨念を抱いたまま死 んだ菅原道真は、その激しい怒りを雷という形でぶつけた。930年、宮中の清涼殿に大 きな落雷があった。陰陽師が占った結果、怨霊・菅原道真の仕業とわかった。菅原道真を 陥れた人々は戦慄し、怨霊を祀ることで祟りを鎮めようとした。これが北野天満宮の始ま りである。
興味深いのは、このころ、人々が空でゴロゴロと音がすると、落雷を避けるために、「 くわばらくわばら」と唱えた。これは雷除けのまじないとして、『徒然草』などの平安時 代の文学にしばしば登場する。
でも、なぜ「くわばらくわばら」が落雷除けのまじないなのか。
菅原道真の姓である菅原を音読みすれば、カンバラ。カンバラが訛って、クワンバラと なり、やがてクワバラになった。と、いうのは、少し無理か。
実は、この「くわばら」、漢字を当てると「桑原」である。そう、桑畑のことなのだ。 よって、意味からするなら、「くわばた」でもかまわない。
由来は、中国神話にある。中国の民間信仰では、雷はけっして桑畑に落ちないという。 よって、くわばらくわばらと唱えれば、落雷はないと考えられたらしい。
では、なぜ桑畑には落雷しないのか。その理由は、桑が特別な樹であるからにほかなら ない。中国神話では、東の海の果てに巨大な桑が2本生えており、これを扶桑と呼んでい る。われわれが見る太陽は、この扶桑を伝って、天空に昇っていく。いわば扶桑は太陽の 象徴でもある。一方、雷は雷雨であり、晴天をもたらす太陽とは対極にある。いわば雷に とって、扶桑、すなわち桑は大敵なのである。ゆえに、桑畑だけには、落雷できないとい うことらしい。
だが、この神話、どこか『旧約聖書』の「創世記」に出てくるエデンの園に似ている。 エデンの園には、2本の樹が生えており、それぞれ「知識の樹」と「生命の樹」といった 。エデンの園は楽園であり、神の光に満ちていた。
中国神話の扶桑とは「知識の樹」と「生命の樹」のことではないのか。ユダヤ教神秘主 義カッバーラ(カバラ)では、奥義を「生命の樹」として表現する。象徴としての「生命 の樹」の図形は三本柱から成っているが、扶桑の「桑」という文字には、「又」が3つ含 まれている。そして、「生命の樹」の象徴図形では、ジグザグの雷光が描かれることもあ るのだ。
さらに、日本語で、桑原=クワバラとは、カバラ=カッバーラに通じる。中国の扶桑神 話とカッバーラが同根であることを知っていた人間が掛詞として、呪文「くわばらくわば ら」を広めたとは考えられないだろうか。
犯人は、秦氏である。
秦氏の秦は機織の機=ハタであるといわれるように、秦氏は古来、養蚕業を生業として きた殖産豪族である。養蚕は、ご存知のように蚕を飼う。蚕の食料は桑の葉である。つま り、古代の桑畑のほとんどは秦氏の管理下にあったと推測できる。
そして、もうひとつ。陰陽道である。古代の呪術は、ほとんど陰陽道から来ている。陰 陽道は大陸から伝来した呪術体系で、それらを担っていたのは渡来人、もっといえば秦氏 だったのだ。
菅原道真の怨霊を占ったのも、陰陽師である。陰陽師とは表の呼び名であって、裏の呼 び名は漢波羅という。漢波羅とはカンバラで、その語源はカッバーラにある。
先ほど、菅原道真の菅原をカンバラと音読みしたが、ひょっとすると、これは暗号で、 菅原道真自身、優秀な陰陽師、すなわち漢波羅だった可能性もある。
と、このように呪文「くわばら」を仕掛けたのは、秦氏だったとみて、ほぼ間違いない 。日本人は知らず知らず、秦氏の呪術を口にしていたというわけである。
塩
世に、敵に塩を送るという言葉がある。敵同士であっても、困窮している者には援助を 与える。いくら戦といっても、相手を殲滅するのが目的ではない。ここに日本人の戦いに おける美学を見る。実に、いい言葉である。
今でこそ、塩はありふれたものであるが、かつては違った。つい最近まで、塩が専売公 社で売られていた。さらに、戦後すぐのころは、褒美や賞与として、現金の代わりに塩が 贈られていた。そもそも、サラリーマンのサラリーという語源は、英語でいうソルト、つ まり塩にある。かつて、古代ローマ帝国時代に、兵士の給与として塩が支給されたのが理 由らしい。
まあ、それだけ塩は、人間にとって欠かせないものなのだ。人間の体液は、基本的に食 塩水でできており、その成分が海水に近いことは、よく知られる。塩がなくては、うまく 細胞の内と外のエネルギーをやりとりできないのだ。
これは人間に限ったことではない。生物、とくに動物に共通していえる。ジャングルの 中でおしっこをすれば、そこに無数の蝶が集まってくる。また、極寒の内陸で、雪におし っこをすれば、それを牛や馬が争って食べる。海に近ければいいが、内陸では、塩を手に 入れることが非常に難しい。ヨーロッパのように、岩塩が豊富にあればいいが、そうでな い地域では、塩は非常に貴重なものなのだ。
それは日本でも同じこと。内陸の地域は、常に海岸の町から塩を供給していた。そのた め、日本列島の各地には、塩の道と呼ばれる山道があちこちにある。海の人は山の人に塩 を売り、これに対して山の人は海の人に木材を売る。往々にして、塩の道は同時に、木材 の道であるのは、このためだ。
塩は、ただ人体に必要だという以外に、殺菌及び防腐作用がある。塩漬けにすれば、食 物が長持ちする。塩を撒けば、雑菌の繁殖を抑えられる。それゆえ、塩は呪術的な清めの アイテムとして、とくに日本は重視されてきた。
例えば、いやな客や葬式帰りの人に塩を振り掛けたり、汚れた場所に盛り塩をする。さ らに、相撲の土俵に塩を撒くのも、そのためである。
だが、これは仏教の習慣ではない。神道なのだ。神道では、塩には穢れを払う作用があ ると考える。穢れを徹底的に避ける神道にとって、塩はなくてはならない物質であるとい っても過言ではない。
ところが、面白いことに、神道と同じく、塩を清めのアイテムとして考える宗教が、世 界には、もうひとつある。ユダヤ教である。ユダヤ教徒は、塩を撒くことが清めであるこ とを知っている。ラビ・M・トケイヤー氏は著書『ユダヤと日本 謎の古代史』の中で、 ユダヤ人は相撲で塩を撒く行為をすぐに理解できると記している。事実、『旧約聖書』に は、町中が人間の遺体だらけになったとき、清めのために塩を撒いたと記されている。
トケイヤー氏によれば、塩を呪術的な清めとして使うのは、世界中で神道を奉じる日本 人とユダヤ教を奉じるユダヤ人だけであるという。だが、筆者はもうひとつ、これに加え たい。ユダヤ人原始キリスト教徒である。彼らの習慣がユダヤ教徒たちと同じであったこ とは、『新約聖書』にも記されている。イエス・キリストが昇天した後も、彼らがエルサ レムの神殿で祈っていたのに、ユダヤ教徒から迫害されなかったのは、ユダヤ教徒として の習慣を守っていたからにほかならない。
とすれば、ユダヤ人原始キリスト教徒の末裔である秦氏もまた、塩を清めのアイテムと して使っていたに違いない。というより、神道が塩に呪術的な清めの作用があるとしてい る理由は、その根幹に秦氏がもたらした原始キリスト教があるからではないだろうか。
工業的に製造されるようになる以前、塩は海岸の田、すなわち塩田で作られた。海水を 撒いて、天日で干す。これを繰り返して、塩を結晶化させていくのだ。
現在、天然の塩は、主に南の地方で作られる。沖縄や対馬、博多の塩が有名だ。が、長 い歴史のなかで、もっとも有名な塩の産地といえば、それは兵庫県の赤穂である。赤穂浪 士の赤穂といえば、恐らく知らない人はいないだろう。今でこそ、めっきり生産量は減っ たが、かつて赤穂の塩といえば、まさに第一級品、つまりブランド品だった。
しかし、赤穂が秦氏の一大拠点だったことを知る人は少ない。秦氏が創建した神社のひ とつに大辟神社がある。少し字は違うが、ここ赤穂には大避神社がたくさんある。恐らく 全国一だろう。筆者も、赤穂の大避神社をひとつひとつ歩いたことがあるが、いかに、こ こに秦氏が数多く住んでいたのかを実感した。
赤穂が秦氏の王国だということは、いい換えれば、赤穂の名産である塩を作っていたの は、秦氏なのだ。秦氏こそ、日本のブランド塩を作っていた人々なのである。
神道に重大な役割を果たした秦氏が塩を特別に精製していた事実を思うとき、改めて彼 らが神道と原始キリスト教を結ぶ存在であることを思わずにはいられない。
今でこそ、塩はありふれたものであるが、かつては違った。つい最近まで、塩が専売公 社で売られていた。さらに、戦後すぐのころは、褒美や賞与として、現金の代わりに塩が 贈られていた。そもそも、サラリーマンのサラリーという語源は、英語でいうソルト、つ まり塩にある。かつて、古代ローマ帝国時代に、兵士の給与として塩が支給されたのが理 由らしい。
まあ、それだけ塩は、人間にとって欠かせないものなのだ。人間の体液は、基本的に食 塩水でできており、その成分が海水に近いことは、よく知られる。塩がなくては、うまく 細胞の内と外のエネルギーをやりとりできないのだ。
これは人間に限ったことではない。生物、とくに動物に共通していえる。ジャングルの 中でおしっこをすれば、そこに無数の蝶が集まってくる。また、極寒の内陸で、雪におし っこをすれば、それを牛や馬が争って食べる。海に近ければいいが、内陸では、塩を手に 入れることが非常に難しい。ヨーロッパのように、岩塩が豊富にあればいいが、そうでな い地域では、塩は非常に貴重なものなのだ。
それは日本でも同じこと。内陸の地域は、常に海岸の町から塩を供給していた。そのた め、日本列島の各地には、塩の道と呼ばれる山道があちこちにある。海の人は山の人に塩 を売り、これに対して山の人は海の人に木材を売る。往々にして、塩の道は同時に、木材 の道であるのは、このためだ。
塩は、ただ人体に必要だという以外に、殺菌及び防腐作用がある。塩漬けにすれば、食 物が長持ちする。塩を撒けば、雑菌の繁殖を抑えられる。それゆえ、塩は呪術的な清めの アイテムとして、とくに日本は重視されてきた。
例えば、いやな客や葬式帰りの人に塩を振り掛けたり、汚れた場所に盛り塩をする。さ らに、相撲の土俵に塩を撒くのも、そのためである。
だが、これは仏教の習慣ではない。神道なのだ。神道では、塩には穢れを払う作用があ ると考える。穢れを徹底的に避ける神道にとって、塩はなくてはならない物質であるとい っても過言ではない。
ところが、面白いことに、神道と同じく、塩を清めのアイテムとして考える宗教が、世 界には、もうひとつある。ユダヤ教である。ユダヤ教徒は、塩を撒くことが清めであるこ とを知っている。ラビ・M・トケイヤー氏は著書『ユダヤと日本 謎の古代史』の中で、 ユダヤ人は相撲で塩を撒く行為をすぐに理解できると記している。事実、『旧約聖書』に は、町中が人間の遺体だらけになったとき、清めのために塩を撒いたと記されている。
トケイヤー氏によれば、塩を呪術的な清めとして使うのは、世界中で神道を奉じる日本 人とユダヤ教を奉じるユダヤ人だけであるという。だが、筆者はもうひとつ、これに加え たい。ユダヤ人原始キリスト教徒である。彼らの習慣がユダヤ教徒たちと同じであったこ とは、『新約聖書』にも記されている。イエス・キリストが昇天した後も、彼らがエルサ レムの神殿で祈っていたのに、ユダヤ教徒から迫害されなかったのは、ユダヤ教徒として の習慣を守っていたからにほかならない。
とすれば、ユダヤ人原始キリスト教徒の末裔である秦氏もまた、塩を清めのアイテムと して使っていたに違いない。というより、神道が塩に呪術的な清めの作用があるとしてい る理由は、その根幹に秦氏がもたらした原始キリスト教があるからではないだろうか。
工業的に製造されるようになる以前、塩は海岸の田、すなわち塩田で作られた。海水を 撒いて、天日で干す。これを繰り返して、塩を結晶化させていくのだ。
現在、天然の塩は、主に南の地方で作られる。沖縄や対馬、博多の塩が有名だ。が、長 い歴史のなかで、もっとも有名な塩の産地といえば、それは兵庫県の赤穂である。赤穂浪 士の赤穂といえば、恐らく知らない人はいないだろう。今でこそ、めっきり生産量は減っ たが、かつて赤穂の塩といえば、まさに第一級品、つまりブランド品だった。
しかし、赤穂が秦氏の一大拠点だったことを知る人は少ない。秦氏が創建した神社のひ とつに大辟神社がある。少し字は違うが、ここ赤穂には大避神社がたくさんある。恐らく 全国一だろう。筆者も、赤穂の大避神社をひとつひとつ歩いたことがあるが、いかに、こ こに秦氏が数多く住んでいたのかを実感した。
赤穂が秦氏の王国だということは、いい換えれば、赤穂の名産である塩を作っていたの は、秦氏なのだ。秦氏こそ、日本のブランド塩を作っていた人々なのである。
神道に重大な役割を果たした秦氏が塩を特別に精製していた事実を思うとき、改めて彼 らが神道と原始キリスト教を結ぶ存在であることを思わずにはいられない。
河童
日本を代表する妖怪、河童。その正体は謎に包まれている。が、大きく分けて、ふたつ考えられる。ひとつは幽霊のような現象としての河童、もうひとつは実態 のある河童である。このうち、実態のある河童については、さらにいくつか想定される。まずは、未知の動物。次に、人間である。いろいろな事情から、河童と 呼ばれた人々がいたことは、民俗学的にわかっている。
そこで、今回は河童と呼ばれた人々の正体に迫ってみたい。
河童には、いくつかの特徴がある。頭に皿があり、背中に甲羅。くちばしがあり、手に は4本の指と水かきがある。全身、ヌメヌメとしており、は虫類、もしくは両生類のイメ ージが強い。大好物はキュウリと牛の尻小玉で、沼などで家畜を襲うことがある。
身体的な特徴は、主に未知動物としての河童、それに秘教的な意味で付加された象徴で ある可能性が高い。
しかし、ここではキュウリについて、考えてみよう。九州には、河童を祭る神社が少な からずあって、そこではキュウリを食べない。なぜなら、キュウリは神様の紋所であるか らだという。キュウリを家紋とするのは、八坂神社に多い。
八坂神社の主祭神であるスサノオ命は、地上に降臨するとき、最初に新羅に降り立った 。そこから船に乗って、日本にやってきたとされる。このことからわかるように、スサノ オ命は新羅と関係が深い。というより、新羅からの渡来人が崇拝した神である。というこ とは、河童もまた、新羅に関係あるのではないか。
実は、九州の熊本八代には、河童が中国から大挙して渡来して、治水工事を行ったとい う伝説が残っている。河童が人間だとすれば、明らかに、これは渡来人を指している。伝 説からすると、中国系のようだが、どうも怪しい。
記紀を読むとわかるが、古代において、治水工事を専門に行ったのは、朝鮮系の渡来人 である。仁徳天皇の時代に、新羅人を大量に雇って、大阪の治水工事を行ったことが記さ れている。その堤は茨田の堤と呼ばれ、現在も残っている。
実は、ここで活躍した新羅人とは、まさしく秦氏なのである。秦氏は非常に高度な土木 技術をもっており、劣悪な湿地帯であった京都盆地を整地して、平安京を作り上げてしま ったという実績をもつ。
思うに、熊本に上陸した河童の正体は、秦氏だったのではないか。八代という地名も、 そのまま音読みすれば、ハッタイ、ハタと読めなくもない。古代豪族の中に、波多八代宿 弥なる人物がいた。系図上では、竹内宿弥の子供となっているが、竹内宿弥なる男は架空 の人物であるというのが、学会の定説。よって、その素性は不明である。が、ハタという 音からわかるように、秦氏だった可能性が高い。山梨県の八代郡は、この波多八代宿弥に 因む名称らしいが、実際、現地を訪れると、秦氏が数多くいた痕跡が見られる。恐らく、 熊本の八代もまた、彼ら秦氏に由来する地名ではないだろうか。
もし、そうなら河童の正体は秦氏である。秦氏は、古代において秦始皇帝の子孫である と称していた。これが中国からの渡来したという伝説となったのではないだろうか。河童 については、まだまだ奥が深いが、その正体のひとつとして、秦氏があったことは、間違 いないだろう。
そこで、今回は河童と呼ばれた人々の正体に迫ってみたい。
河童には、いくつかの特徴がある。頭に皿があり、背中に甲羅。くちばしがあり、手に は4本の指と水かきがある。全身、ヌメヌメとしており、は虫類、もしくは両生類のイメ ージが強い。大好物はキュウリと牛の尻小玉で、沼などで家畜を襲うことがある。
身体的な特徴は、主に未知動物としての河童、それに秘教的な意味で付加された象徴で ある可能性が高い。
しかし、ここではキュウリについて、考えてみよう。九州には、河童を祭る神社が少な からずあって、そこではキュウリを食べない。なぜなら、キュウリは神様の紋所であるか らだという。キュウリを家紋とするのは、八坂神社に多い。
八坂神社の主祭神であるスサノオ命は、地上に降臨するとき、最初に新羅に降り立った 。そこから船に乗って、日本にやってきたとされる。このことからわかるように、スサノ オ命は新羅と関係が深い。というより、新羅からの渡来人が崇拝した神である。というこ とは、河童もまた、新羅に関係あるのではないか。
実は、九州の熊本八代には、河童が中国から大挙して渡来して、治水工事を行ったとい う伝説が残っている。河童が人間だとすれば、明らかに、これは渡来人を指している。伝 説からすると、中国系のようだが、どうも怪しい。
記紀を読むとわかるが、古代において、治水工事を専門に行ったのは、朝鮮系の渡来人 である。仁徳天皇の時代に、新羅人を大量に雇って、大阪の治水工事を行ったことが記さ れている。その堤は茨田の堤と呼ばれ、現在も残っている。
実は、ここで活躍した新羅人とは、まさしく秦氏なのである。秦氏は非常に高度な土木 技術をもっており、劣悪な湿地帯であった京都盆地を整地して、平安京を作り上げてしま ったという実績をもつ。
思うに、熊本に上陸した河童の正体は、秦氏だったのではないか。八代という地名も、 そのまま音読みすれば、ハッタイ、ハタと読めなくもない。古代豪族の中に、波多八代宿 弥なる人物がいた。系図上では、竹内宿弥の子供となっているが、竹内宿弥なる男は架空 の人物であるというのが、学会の定説。よって、その素性は不明である。が、ハタという 音からわかるように、秦氏だった可能性が高い。山梨県の八代郡は、この波多八代宿弥に 因む名称らしいが、実際、現地を訪れると、秦氏が数多くいた痕跡が見られる。恐らく、 熊本の八代もまた、彼ら秦氏に由来する地名ではないだろうか。
もし、そうなら河童の正体は秦氏である。秦氏は、古代において秦始皇帝の子孫である と称していた。これが中国からの渡来したという伝説となったのではないだろうか。河童 については、まだまだ奥が深いが、その正体のひとつとして、秦氏があったことは、間違 いないだろう。
虎の巻
黄トンボも、早いもので1周年を迎えた。先日、関係者を集めた、一周年記念パーティーが都内の某所で開かれた。普段、コラムでしか知ることのない方々に、直接お会いできたことは、とてもうれしい限りである。会を主催していただいた方々には、心から感謝を述べたいと思う。
当日の黄トンボ一周年記念パーティーには、著名な学者の方がひとり、ゲストで招待さ れた。その方の名は、茂在寅男。知る人ぞ知る、日本海洋学及び航海術の権威で、科学の みならず、芸術や歴史学の分野においても、めざましい活躍をしている。その名声は遠く 海外にも聞こえ、イギリス王立航海研究所の唯一の日本人名誉会員として、世界的に知ら れている。
しかも、茂在氏は外国人、とくにユダヤ人から特別な好意を抱かれている。茂在氏の人 柄は、氏を知る人なら、だれでも知っている。気さくで飾らない人柄は、だれからも愛さ れる。茂在氏がいるだけで、その場が楽しく、愉快になる。しかも、側にいれば、宝くじ やゲームで大当たりが出るというほどのラッキーマンなのだ。
だが、ユダヤ人が注目するのは、そうした意味ではない。茂在氏は、かねてより古代人 は世界的な規模で、ダイナミックに交流していたと主張。パレスチナにいたユダヤ人もま た、船に乗って日本にやってきたはずだと断言している。実践的な航海術に裏づけされた 仮説は、近年、次々と証明されている。
ゆえに、世界各地に離散した兄弟を捜すユダヤ人が注目するのは、当たり前といえば当 たり前だが、それだけではない。ユダヤ人が、かくも親しみをもって集まってくる本当の 理由。それは名前である。
茂在寅男--モザイ・トラオ。ご出身である茨城の方言では、モーゼイ・トーラオと呼 ばれていたという。これを、そのままユダヤ人が聞けば、どうなるか。なんと、モーゼ・ トーラーになるというのだ。
モーゼとは、出エジプトで有名な大預言者モーセのこと。トーラーとは律法という意味 で、ユダヤ教の根本聖典である『旧約聖書』の冒頭5つの書を意味する。つまり、ユダヤ 人にとって、もっとも重要なふたつの名称をもった人物なのだ。
これをユダヤ関係者から初めて聞いたとき、思わず吹き出してしまった。が、今、考え てみると、なかなか含蓄がある駄洒落(失礼!?)かもしれない。
茂在がモーゼというのはいいとして、寅男とトーラーは、興味深い。寅男の寅は、動物 の虎、すなわちタイガーである。古来、中国では龍虎といい、龍とともに虎を最強の動物 とみなした。その伝統は日本にも生きている。
なぜ、茂在氏は寅男という名前なのか。聞けばなんでも、寅年寅月寅日生まれであった ため、親が寅男と名づけたらしい。日米開戦の暗号「トラ、トラ、トラ」を地で行くよう な名前だが、歴史を振り返ると、この日本には茂在氏と同じく寅年寅月寅日生まれの有名 人がいる。
京都の鞍馬寺で修行した牛若丸とくれば、もうおわかりだろう。そう、源義経である。 源平合戦の勝負を決めた英雄、源義経と茂在寅男氏は、同じ誕生年月日なのだ。
と、これだけなら、大したことではない。問題は、トラである。ご存知のように、源義 経は鞍馬寺の山奥で、天狗から様々な叡智と技術、それに格闘術を伝授されたといわれて いる。このとき、源義経は鬼一法師から兵法を伝授されている。その兵法を記した巻物の 名は「虎の巻」と呼ばれ、今日でも、奥義書やあんちょこの意味で使われる。
でも、なぜ「虎の巻」なのだろうか。「牛の巻」や「猫の巻」でもいい。強そうだとい うなら、「龍の巻」も悪くない。どうして「虎」でなくてはならないのか。ものの本によ れば、「虎の巻」は「六韜」という兵法の書物の中の「虎韜」のことで、源義経は、これ を伝授されたらしい。
しかし、はたして、それだけだろうか。
源義経と同じ誕生年月日である茂在寅男氏のように、虎はトーラーなのではないか。つ まり、「虎の巻」とは「トーラーの巻物」を意味しているのではないだろうか。かつて、 日本では書物を巻物にした。同様に、ユダヤ人もまた、書物を巻物にした。なかでも、ト ーラーは現在でも、巻物の形である。東京にあるユダヤ教のシナゴーグにも、立派なトー ラーの巻物が安置されている。
しかも、源義経のバックにいた天狗というのが怪しい。天狗は修験者の姿をしているが 、それは伝統的なユダヤ教徒の衣装そのまま。頭に兜巾を乗せているのは、日本人以外で は、ヒラクティリーという黒い小さな箱を額に乗せるユダヤ教徒だけ。天狗の鼻も、ユダ ヤ人特有の鷲鼻と見る人も少なくない。
天狗が住んでいたという鞍馬であるが、ここの山は松尾山と呼ばれてきた。京都で松尾 とくれば、松尾大社である。全国の松尾神社の総本山である松尾大社を創建したのは、秦 都理なる人物。つまり、秦氏だ。鞍馬天狗の正体は、ひょっとして秦氏=ユダヤ人原始キ リスト教徒だったのではないか。だとすれば、源義経に伝授された「虎の巻」とは、やは り「トーラーの巻物」ではなかったか。
次回は、茂在寅男氏と源義経、そしてトラ、トラ、トラの謎を追って、かのチンギス・ ハーンの正体に迫ってみたい。
当日の黄トンボ一周年記念パーティーには、著名な学者の方がひとり、ゲストで招待さ れた。その方の名は、茂在寅男。知る人ぞ知る、日本海洋学及び航海術の権威で、科学の みならず、芸術や歴史学の分野においても、めざましい活躍をしている。その名声は遠く 海外にも聞こえ、イギリス王立航海研究所の唯一の日本人名誉会員として、世界的に知ら れている。
しかも、茂在氏は外国人、とくにユダヤ人から特別な好意を抱かれている。茂在氏の人 柄は、氏を知る人なら、だれでも知っている。気さくで飾らない人柄は、だれからも愛さ れる。茂在氏がいるだけで、その場が楽しく、愉快になる。しかも、側にいれば、宝くじ やゲームで大当たりが出るというほどのラッキーマンなのだ。
だが、ユダヤ人が注目するのは、そうした意味ではない。茂在氏は、かねてより古代人 は世界的な規模で、ダイナミックに交流していたと主張。パレスチナにいたユダヤ人もま た、船に乗って日本にやってきたはずだと断言している。実践的な航海術に裏づけされた 仮説は、近年、次々と証明されている。
ゆえに、世界各地に離散した兄弟を捜すユダヤ人が注目するのは、当たり前といえば当 たり前だが、それだけではない。ユダヤ人が、かくも親しみをもって集まってくる本当の 理由。それは名前である。
茂在寅男--モザイ・トラオ。ご出身である茨城の方言では、モーゼイ・トーラオと呼 ばれていたという。これを、そのままユダヤ人が聞けば、どうなるか。なんと、モーゼ・ トーラーになるというのだ。
モーゼとは、出エジプトで有名な大預言者モーセのこと。トーラーとは律法という意味 で、ユダヤ教の根本聖典である『旧約聖書』の冒頭5つの書を意味する。つまり、ユダヤ 人にとって、もっとも重要なふたつの名称をもった人物なのだ。
これをユダヤ関係者から初めて聞いたとき、思わず吹き出してしまった。が、今、考え てみると、なかなか含蓄がある駄洒落(失礼!?)かもしれない。
茂在がモーゼというのはいいとして、寅男とトーラーは、興味深い。寅男の寅は、動物 の虎、すなわちタイガーである。古来、中国では龍虎といい、龍とともに虎を最強の動物 とみなした。その伝統は日本にも生きている。
なぜ、茂在氏は寅男という名前なのか。聞けばなんでも、寅年寅月寅日生まれであった ため、親が寅男と名づけたらしい。日米開戦の暗号「トラ、トラ、トラ」を地で行くよう な名前だが、歴史を振り返ると、この日本には茂在氏と同じく寅年寅月寅日生まれの有名 人がいる。
京都の鞍馬寺で修行した牛若丸とくれば、もうおわかりだろう。そう、源義経である。 源平合戦の勝負を決めた英雄、源義経と茂在寅男氏は、同じ誕生年月日なのだ。
と、これだけなら、大したことではない。問題は、トラである。ご存知のように、源義 経は鞍馬寺の山奥で、天狗から様々な叡智と技術、それに格闘術を伝授されたといわれて いる。このとき、源義経は鬼一法師から兵法を伝授されている。その兵法を記した巻物の 名は「虎の巻」と呼ばれ、今日でも、奥義書やあんちょこの意味で使われる。
でも、なぜ「虎の巻」なのだろうか。「牛の巻」や「猫の巻」でもいい。強そうだとい うなら、「龍の巻」も悪くない。どうして「虎」でなくてはならないのか。ものの本によ れば、「虎の巻」は「六韜」という兵法の書物の中の「虎韜」のことで、源義経は、これ を伝授されたらしい。
しかし、はたして、それだけだろうか。
源義経と同じ誕生年月日である茂在寅男氏のように、虎はトーラーなのではないか。つ まり、「虎の巻」とは「トーラーの巻物」を意味しているのではないだろうか。かつて、 日本では書物を巻物にした。同様に、ユダヤ人もまた、書物を巻物にした。なかでも、ト ーラーは現在でも、巻物の形である。東京にあるユダヤ教のシナゴーグにも、立派なトー ラーの巻物が安置されている。
しかも、源義経のバックにいた天狗というのが怪しい。天狗は修験者の姿をしているが 、それは伝統的なユダヤ教徒の衣装そのまま。頭に兜巾を乗せているのは、日本人以外で は、ヒラクティリーという黒い小さな箱を額に乗せるユダヤ教徒だけ。天狗の鼻も、ユダ ヤ人特有の鷲鼻と見る人も少なくない。
天狗が住んでいたという鞍馬であるが、ここの山は松尾山と呼ばれてきた。京都で松尾 とくれば、松尾大社である。全国の松尾神社の総本山である松尾大社を創建したのは、秦 都理なる人物。つまり、秦氏だ。鞍馬天狗の正体は、ひょっとして秦氏=ユダヤ人原始キ リスト教徒だったのではないか。だとすれば、源義経に伝授された「虎の巻」とは、やは り「トーラーの巻物」ではなかったか。
次回は、茂在寅男氏と源義経、そしてトラ、トラ、トラの謎を追って、かのチンギス・ ハーンの正体に迫ってみたい。
トラ・トラ・トラ
第2次世界大戦で、アメリカが参戦するきっかけとなったのが、日本軍の真珠湾攻撃である。このときの暗号名が「トラ・トラ・トラ」だったことは、映画にもなったほど、つとに有名だ。
しかし、なぜトラ・トラ・トラだったのだろうか。別に、寅年寅月寅日だったわけはな い。たんなる語呂がよかったのか。虎が強そうだったから、そうしたのか。明確な理由は わからない。トラの意味がわからないなら、どうして3回も連呼する必要があったのか。 トラ、トラだけでもよかったのではないか。
トラ・トラ・トラ。この理由を考えると、最後には、寅年寅月寅日に戻ってくる。前回 述べたように、この年月日で生まれた歴史上の有名人に、源義経がいる。彼は源平合戦に おいて、鵯越を行い、奇襲作戦で成功した。真珠湾もまた、奇襲作戦であった。旧日本軍 は、これを念頭において暗号を作ったのではないだろうか。
いや、もっと壮大なスケールがあった可能性がある。
というのは、当時の状況を考えると、相手は欧米列強であり、そして中国である。欧米 の人間に対するアジア人、とくに東洋人の歴史的な優越性のシンボルのひとつに、世界の 王チンギス・ハーンがいる。歴史上最大の版図を誇ったのは、モンゴル帝国である。モン ゴルはロシアはもちろん、ヨーロッパに攻め込み、後々までヨーロッパ人に黄禍論を叩き 込んだ。ロシア人がいうタタールの軛など、最たるものである。
そして、ここが重要である。チンギス・ハーンは中国人、すなわち漢民族ではない。第 2次世界大戦の中国の指導者は漢民族である。漢民族を征服したのがモンゴル人であり、 チンギス・ハーンだった。
さらに、日本には、チンギス・ハーンの正体が源義経だったという伝説が古くから存在 する。実は、そのチンギス・ハーンもまた、寅年寅月寅日生まれなのである。つい数年前 の寅年でも、モンゴルでは寅年寅月寅日生まれの子供がチンギス・ハーンの生まれ変わり として大切に育てられている。しかも、寅年寅月寅日生まれの我らが英雄、茂在寅男先生 もまた、源義経はチンギス・ハーンになったと力説しているのだ。
つまり、日本人の欧米人と漢民族に対する挑戦状と奇襲作戦という意味が、トラ・トラ ・トラには、込められてるのではないだろうか。我ながら、いい線を突いていると思って いるのだが、どうだろう。
しかし、この程度なら、別に黄トンボのコラム「お伽秦氏」で書くこともない。さらに 、この先を読むのが、今回のメイン・テーマである。
前回、述べたように、源義経のバックには秦氏がいた。もし仮に、源義経がチンギス・ ハーンになったとして、チンギス・ハーンのバックには、だれがいたのか。実は、どうも 数多くのユダヤ人がいたらしい。モンゴル帝国下には、実に多くのユダヤ人が存在したこ とがわかっている。ひょっとすると、チンギス・ハーンの孫であるフビライ・ハーンのフ ビライとは、ヘブライのことなのかもしれない。
源義経が修行した鞍馬寺では、魔王尊を祀っている。その魔王尊が出現したのが、これ また寅年寅月寅日だという。鞍馬寺に行くと、虎の置物が多数あり、狛犬の変わりに狛虎 が安置されている。その鞍馬寺がある山の名は、松尾山。松尾大社を創建したのが秦都理 であるように、鞍馬は秦氏の聖地であった可能性が高い。
こうなると、秦氏と寅年寅月寅日の関係が気になるのが人情だ。いったい、両者には接 点があるのか。調べてみると、これがなかなか面白い。なんと、鍵は鞍馬寺の祭神、毘沙 門天の正体にあった。
次回は、関西人が熱狂するタイガースの知られざる素顔に迫りたい。
しかし、なぜトラ・トラ・トラだったのだろうか。別に、寅年寅月寅日だったわけはな い。たんなる語呂がよかったのか。虎が強そうだったから、そうしたのか。明確な理由は わからない。トラの意味がわからないなら、どうして3回も連呼する必要があったのか。 トラ、トラだけでもよかったのではないか。
トラ・トラ・トラ。この理由を考えると、最後には、寅年寅月寅日に戻ってくる。前回 述べたように、この年月日で生まれた歴史上の有名人に、源義経がいる。彼は源平合戦に おいて、鵯越を行い、奇襲作戦で成功した。真珠湾もまた、奇襲作戦であった。旧日本軍 は、これを念頭において暗号を作ったのではないだろうか。
いや、もっと壮大なスケールがあった可能性がある。
というのは、当時の状況を考えると、相手は欧米列強であり、そして中国である。欧米 の人間に対するアジア人、とくに東洋人の歴史的な優越性のシンボルのひとつに、世界の 王チンギス・ハーンがいる。歴史上最大の版図を誇ったのは、モンゴル帝国である。モン ゴルはロシアはもちろん、ヨーロッパに攻め込み、後々までヨーロッパ人に黄禍論を叩き 込んだ。ロシア人がいうタタールの軛など、最たるものである。
そして、ここが重要である。チンギス・ハーンは中国人、すなわち漢民族ではない。第 2次世界大戦の中国の指導者は漢民族である。漢民族を征服したのがモンゴル人であり、 チンギス・ハーンだった。
さらに、日本には、チンギス・ハーンの正体が源義経だったという伝説が古くから存在 する。実は、そのチンギス・ハーンもまた、寅年寅月寅日生まれなのである。つい数年前 の寅年でも、モンゴルでは寅年寅月寅日生まれの子供がチンギス・ハーンの生まれ変わり として大切に育てられている。しかも、寅年寅月寅日生まれの我らが英雄、茂在寅男先生 もまた、源義経はチンギス・ハーンになったと力説しているのだ。
つまり、日本人の欧米人と漢民族に対する挑戦状と奇襲作戦という意味が、トラ・トラ ・トラには、込められてるのではないだろうか。我ながら、いい線を突いていると思って いるのだが、どうだろう。
しかし、この程度なら、別に黄トンボのコラム「お伽秦氏」で書くこともない。さらに 、この先を読むのが、今回のメイン・テーマである。
前回、述べたように、源義経のバックには秦氏がいた。もし仮に、源義経がチンギス・ ハーンになったとして、チンギス・ハーンのバックには、だれがいたのか。実は、どうも 数多くのユダヤ人がいたらしい。モンゴル帝国下には、実に多くのユダヤ人が存在したこ とがわかっている。ひょっとすると、チンギス・ハーンの孫であるフビライ・ハーンのフ ビライとは、ヘブライのことなのかもしれない。
源義経が修行した鞍馬寺では、魔王尊を祀っている。その魔王尊が出現したのが、これ また寅年寅月寅日だという。鞍馬寺に行くと、虎の置物が多数あり、狛犬の変わりに狛虎 が安置されている。その鞍馬寺がある山の名は、松尾山。松尾大社を創建したのが秦都理 であるように、鞍馬は秦氏の聖地であった可能性が高い。
こうなると、秦氏と寅年寅月寅日の関係が気になるのが人情だ。いったい、両者には接 点があるのか。調べてみると、これがなかなか面白い。なんと、鍵は鞍馬寺の祭神、毘沙 門天の正体にあった。
次回は、関西人が熱狂するタイガースの知られざる素顔に迫りたい。
阪神タイガース
中日の黄金時代を作った星野仙一監督がユニフォームを縦じまにして臨んだ、2002年のプロ野球。なんとも、記録的な連勝で、まさに乗りに乗っている。このままいけば、本当に阪神タイガースが優勝することも、まんざらでもなさそうだ。
竜から虎へ。ここに、筆者は何か神秘的な思想を垣間見た。この国の中心は、今でも京 都である。京都こそ、天皇が住まう日本の霊的首都である。かつては、奈良にも都があっ た。琵琶湖のほとり、大津にもあった。概ね、日本の都は京都と奈良を結ぶ南北線上に位 置している。
南北線が重視されるのは、北が天帝の住まいであり、天子は南面するからだ。多少のブ レを別にして、この京都・奈良ラインを天皇の南北軸とすれば、中日の本拠地である名古 屋は東、阪神の本拠地である大阪・神戸は西になる。道教の四神相応において、東の守護 神は青竜。中日ドラゴンズは青をイメージカラーにしている。一方、西の守護神は白虎。 いうまでもなく、阪神タイガースは白を基調としている。これは偶然ではあるまい。
中日ドラゴンズが龍をメインキャラクターにしたのは、オーナーが辰年生まれであった からだという。なんだか、後付のような理由だが、干支にゲンを担ぎたくのは、何もドラ ゴンズだけではない。阪神タイガースも、同様。毎年、初めの寅月には、関係者一同、お 寺にお参りに行くという。
しかも、そのお寺は、きちんと決まっている。奈良の信貴山にある朝護孫子寺である。 ここのご本尊は、毘沙門天という。戦いの守護天としても知られるが、面白いことに、毘 沙門天は信貴山に、寅年寅月寅日に出現したというのだ。トラ・トラ・トラである。阪神 タイガースの関係者がこれにあやかっていることは、いうまでもない。
なるほど、信貴山は寅にゆかりが深いのか。普通なら、これで納得してしまうのだが、 ちょっと待った。毘沙門天を調べていくと、寅年寅月寅日に出現したという例は、信貴山 のほかにもある。有名どころでいえば、京都の鞍馬寺である。ここのご本尊である毘沙門 天もまた、寅年寅月寅日に出現しているのだ。
どうも、寅年寅月寅日とは、毘沙門天そのものに由来する特殊な年月日であるらしい。 寅が3つ重なるゆえ、この日を「三寅」と呼びならわすこともあった。三寅の日に生まれ た子供は英雄になるともいわれた。源義経やチンギス・ハーン、それに茂在寅男。かくも ありなん。
しかし、不可解なのは、毘沙門天をいくら調べてみても、寅年寅月寅日に関する因縁は 、どこの経典にも出てこない。毘沙門天のインドでは、クベラと呼ばれる。財宝の神であ り、北方のヒマラヤ山脈に住むとされる。北方の守護神という意味では、確かに京都の北 方に位置する鞍馬寺のご本尊にあった理由は、わかる。ひょっとすると、クベラがクメラ となり、クマラ、クラマと転訛した可能性だってなくはない。
が、虎に限っては、まったくわからない。インドには、虎やライオンにまたがった神々 はいるが、クベラが虎にまたがっているという話は聞いたことがない。毘沙門天と虎が結 び付けられるのは、ここ日本だけなのだ。となると、毘沙門天は「トラ」という日本語の 響きに、何か重大な縁起をもっている可能性が出てくる。
毘沙門天は別名を多聞天という。仏法を守る四天王のひとりだ。四天王は、ほかに広目 天、持国天、増長天がいる。学説によると、これらはもともとひとりの神の属性を4つに 分けたものであるという。で、その神というが、古代アーリア人の太陽神「ミトラ」なの である。
ミトラと三寅。日本語では、同じ響きである。毘沙門天のルーツがミトラにあり、それ に三寅という漢字を当てた結果、寅年寅月寅日に出現したという縁起が誕生したとは考え られないだろうか。
いったい、だれが。鞍馬寺の創建には、秦氏の影がある。京都における秦氏の本拠地は 太秦にあった。太秦には、秦氏の氏寺である広隆寺がある。広隆寺の本尊は、国宝第1号 にもなった仏像で知られる弥勒菩薩である。弥勒のサンスクリット語はマイトレーヤとい うが、これはミトラのことなのだ。弥勒は毘沙門天と同じく、ミトラの分身なのだ。
しかも、かつて広隆寺の境内にあった大辟神社の祭りである牛祭りで登場するのが、マ タラ神という。マタラの正体は、ミトラである。さらに、マタラ神の周りには4人の鬼が おり、彼らは四天王と呼ばれている。この祭りを始めた人間は、ミトラと四天王の関係を 知っていたに違いない。
いうまでもなく、犯人は秦氏だろう。秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒の末裔である。 深遠なる神秘思想カッバーラを手にしていた。カッバーラにもとづいて、あらゆる宗教の 根幹にある根源的な思想を見抜いていた。彼らは、仏教に混入したイエス・キリストの影 を見逃さなかった。
いずれ詳しく述べるが、アーリア人の宗教におけるイエス・キリストとは、太陽神ミト ラである。ミトラは古代ローマ帝国で密儀宗教、ミトラス教となった。ミトラス教の教義 は、ほとんど原始キリスト教と共通する。そもそも、クリスマスの12月24日はミトラスの 祭日だったのである。
恐らく、西アジアにいたころ、秦氏は、それを知っていた。だからこそ、ミトラが仏教 において、弥勒菩薩となったことも、四天王となり、毘沙門天になったことも、見抜いて いたのだ。だからこそ、毘沙門天の正体を暗示するがごとく、寅年寅月寅日に出現したと いう伝説を作り上げたのではないだろうか。
そして、今日、寅の奥義は、阪神タイガースの関係者並びに多くのファンの人間にも受 け継がれているのである。
竜から虎へ。ここに、筆者は何か神秘的な思想を垣間見た。この国の中心は、今でも京 都である。京都こそ、天皇が住まう日本の霊的首都である。かつては、奈良にも都があっ た。琵琶湖のほとり、大津にもあった。概ね、日本の都は京都と奈良を結ぶ南北線上に位 置している。
南北線が重視されるのは、北が天帝の住まいであり、天子は南面するからだ。多少のブ レを別にして、この京都・奈良ラインを天皇の南北軸とすれば、中日の本拠地である名古 屋は東、阪神の本拠地である大阪・神戸は西になる。道教の四神相応において、東の守護 神は青竜。中日ドラゴンズは青をイメージカラーにしている。一方、西の守護神は白虎。 いうまでもなく、阪神タイガースは白を基調としている。これは偶然ではあるまい。
中日ドラゴンズが龍をメインキャラクターにしたのは、オーナーが辰年生まれであった からだという。なんだか、後付のような理由だが、干支にゲンを担ぎたくのは、何もドラ ゴンズだけではない。阪神タイガースも、同様。毎年、初めの寅月には、関係者一同、お 寺にお参りに行くという。
しかも、そのお寺は、きちんと決まっている。奈良の信貴山にある朝護孫子寺である。 ここのご本尊は、毘沙門天という。戦いの守護天としても知られるが、面白いことに、毘 沙門天は信貴山に、寅年寅月寅日に出現したというのだ。トラ・トラ・トラである。阪神 タイガースの関係者がこれにあやかっていることは、いうまでもない。
なるほど、信貴山は寅にゆかりが深いのか。普通なら、これで納得してしまうのだが、 ちょっと待った。毘沙門天を調べていくと、寅年寅月寅日に出現したという例は、信貴山 のほかにもある。有名どころでいえば、京都の鞍馬寺である。ここのご本尊である毘沙門 天もまた、寅年寅月寅日に出現しているのだ。
どうも、寅年寅月寅日とは、毘沙門天そのものに由来する特殊な年月日であるらしい。 寅が3つ重なるゆえ、この日を「三寅」と呼びならわすこともあった。三寅の日に生まれ た子供は英雄になるともいわれた。源義経やチンギス・ハーン、それに茂在寅男。かくも ありなん。
しかし、不可解なのは、毘沙門天をいくら調べてみても、寅年寅月寅日に関する因縁は 、どこの経典にも出てこない。毘沙門天のインドでは、クベラと呼ばれる。財宝の神であ り、北方のヒマラヤ山脈に住むとされる。北方の守護神という意味では、確かに京都の北 方に位置する鞍馬寺のご本尊にあった理由は、わかる。ひょっとすると、クベラがクメラ となり、クマラ、クラマと転訛した可能性だってなくはない。
が、虎に限っては、まったくわからない。インドには、虎やライオンにまたがった神々 はいるが、クベラが虎にまたがっているという話は聞いたことがない。毘沙門天と虎が結 び付けられるのは、ここ日本だけなのだ。となると、毘沙門天は「トラ」という日本語の 響きに、何か重大な縁起をもっている可能性が出てくる。
毘沙門天は別名を多聞天という。仏法を守る四天王のひとりだ。四天王は、ほかに広目 天、持国天、増長天がいる。学説によると、これらはもともとひとりの神の属性を4つに 分けたものであるという。で、その神というが、古代アーリア人の太陽神「ミトラ」なの である。
ミトラと三寅。日本語では、同じ響きである。毘沙門天のルーツがミトラにあり、それ に三寅という漢字を当てた結果、寅年寅月寅日に出現したという縁起が誕生したとは考え られないだろうか。
いったい、だれが。鞍馬寺の創建には、秦氏の影がある。京都における秦氏の本拠地は 太秦にあった。太秦には、秦氏の氏寺である広隆寺がある。広隆寺の本尊は、国宝第1号 にもなった仏像で知られる弥勒菩薩である。弥勒のサンスクリット語はマイトレーヤとい うが、これはミトラのことなのだ。弥勒は毘沙門天と同じく、ミトラの分身なのだ。
しかも、かつて広隆寺の境内にあった大辟神社の祭りである牛祭りで登場するのが、マ タラ神という。マタラの正体は、ミトラである。さらに、マタラ神の周りには4人の鬼が おり、彼らは四天王と呼ばれている。この祭りを始めた人間は、ミトラと四天王の関係を 知っていたに違いない。
いうまでもなく、犯人は秦氏だろう。秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒の末裔である。 深遠なる神秘思想カッバーラを手にしていた。カッバーラにもとづいて、あらゆる宗教の 根幹にある根源的な思想を見抜いていた。彼らは、仏教に混入したイエス・キリストの影 を見逃さなかった。
いずれ詳しく述べるが、アーリア人の宗教におけるイエス・キリストとは、太陽神ミト ラである。ミトラは古代ローマ帝国で密儀宗教、ミトラス教となった。ミトラス教の教義 は、ほとんど原始キリスト教と共通する。そもそも、クリスマスの12月24日はミトラスの 祭日だったのである。
恐らく、西アジアにいたころ、秦氏は、それを知っていた。だからこそ、ミトラが仏教 において、弥勒菩薩となったことも、四天王となり、毘沙門天になったことも、見抜いて いたのだ。だからこそ、毘沙門天の正体を暗示するがごとく、寅年寅月寅日に出現したと いう伝説を作り上げたのではないだろうか。
そして、今日、寅の奥義は、阪神タイガースの関係者並びに多くのファンの人間にも受 け継がれているのである。
朱
神社の鳥居の色で、思い出すのは何色か。石や木の材質はもちろんだが、多くの人は赤や朱色を思い出すのではないだろうか。
どうして、鳥居は朱色に塗られているのか。これには、実に多くの意味が込められてい る。まず、鳥居であるが、これは門である。神社の境内に至る参道に建てられた門だ。門 が赤いとは、実は古代イスラエルの故事に倣っている。出エジプトの際、イスラエル人が 家の門に子羊の血を塗って、殺戮の天使から逃れた。いわゆる「過ぎ越し」の故事が、そ のまま神社の門に塗った朱として、現在に伝わっている。日ユ同祖論を知っている人なら ば、どこかで聞いたことがあるだろう。
そして、鳥居のもうひとつの意味は、神である。神道では、鳥居そのものが神様の象徴 なのである。鳥居が神の象徴であるなら、赤い鳥居は赤い神を意味する。体が赤い色をし ている神様は、火の神といっていいだろう。そう、炎に包まれた神を表現しているのだ。 これもまた、古代イスラエルの故事に由来する。預言者モーセがシナイ山に登って、絶対 神ヤハウェにまみえたときのことだ。ヤハウェは燃える柴として顕現した。つまり、燃え 盛る炎が絶対神ヤハウェの姿だったのである。赤い鳥居は、これも表現している。
と、このように朱色の鳥居は、古代イスラエルの関係している。では、いったい、何者 が朱色を塗りはじめたのだろうか。
試しに、赤い鳥居を掲げる神社を思い出してほしい。まず、最初に出てくるのは、恐ら くお稲荷さんだろう。稲荷神社には、必ずといっていいほど、赤い鳥居がある。稲荷神社 の総本山である京都の伏見稲荷大社には、何万本という赤い鳥居がトンネルを形作ってい る。その伏見稲荷大社を創建したのは、秦伊呂具である。
お稲荷さんの次に、赤い鳥居の神社とくれば、八幡宮である。全部というわけではない が、八幡神社の鳥居は赤い。八幡宮の総本山である大分の宇佐八幡宮には、大きく立派な 赤い鳥居が立っている。宇佐八幡宮の創建に関わったのは、辛嶋氏。辛嶋氏は辛嶋勝氏と いい、勝部。勝部は、同時に秦部であり、辛嶋氏は秦氏の支族であることわかる。
京都の神社でいうと、ほかに赤い鳥居をもっているのは松尾大社、下上賀茂神社、日吉 大社などがある。いうまでもなく、これらはみな秦氏が関わった神社である。おわかりの ように、赤い鳥居と秦氏は密接につながっている。
しかも、秦氏の支族には、その名も「赤染氏」なる一族がいる。赤く染める呪術を持っ ていたといわれるが、これは秦氏が朱色を神聖視していた証拠である。
俗に、朱にまじわれば、赤くなるという。朱色の鳥居をくぐった人々は、いつしか神道 の心に共感する。これもまた、秦氏のなせる呪術かな。
どうして、鳥居は朱色に塗られているのか。これには、実に多くの意味が込められてい る。まず、鳥居であるが、これは門である。神社の境内に至る参道に建てられた門だ。門 が赤いとは、実は古代イスラエルの故事に倣っている。出エジプトの際、イスラエル人が 家の門に子羊の血を塗って、殺戮の天使から逃れた。いわゆる「過ぎ越し」の故事が、そ のまま神社の門に塗った朱として、現在に伝わっている。日ユ同祖論を知っている人なら ば、どこかで聞いたことがあるだろう。
そして、鳥居のもうひとつの意味は、神である。神道では、鳥居そのものが神様の象徴 なのである。鳥居が神の象徴であるなら、赤い鳥居は赤い神を意味する。体が赤い色をし ている神様は、火の神といっていいだろう。そう、炎に包まれた神を表現しているのだ。 これもまた、古代イスラエルの故事に由来する。預言者モーセがシナイ山に登って、絶対 神ヤハウェにまみえたときのことだ。ヤハウェは燃える柴として顕現した。つまり、燃え 盛る炎が絶対神ヤハウェの姿だったのである。赤い鳥居は、これも表現している。
と、このように朱色の鳥居は、古代イスラエルの関係している。では、いったい、何者 が朱色を塗りはじめたのだろうか。
試しに、赤い鳥居を掲げる神社を思い出してほしい。まず、最初に出てくるのは、恐ら くお稲荷さんだろう。稲荷神社には、必ずといっていいほど、赤い鳥居がある。稲荷神社 の総本山である京都の伏見稲荷大社には、何万本という赤い鳥居がトンネルを形作ってい る。その伏見稲荷大社を創建したのは、秦伊呂具である。
お稲荷さんの次に、赤い鳥居の神社とくれば、八幡宮である。全部というわけではない が、八幡神社の鳥居は赤い。八幡宮の総本山である大分の宇佐八幡宮には、大きく立派な 赤い鳥居が立っている。宇佐八幡宮の創建に関わったのは、辛嶋氏。辛嶋氏は辛嶋勝氏と いい、勝部。勝部は、同時に秦部であり、辛嶋氏は秦氏の支族であることわかる。
京都の神社でいうと、ほかに赤い鳥居をもっているのは松尾大社、下上賀茂神社、日吉 大社などがある。いうまでもなく、これらはみな秦氏が関わった神社である。おわかりの ように、赤い鳥居と秦氏は密接につながっている。
しかも、秦氏の支族には、その名も「赤染氏」なる一族がいる。赤く染める呪術を持っ ていたといわれるが、これは秦氏が朱色を神聖視していた証拠である。
俗に、朱にまじわれば、赤くなるという。朱色の鳥居をくぐった人々は、いつしか神道 の心に共感する。これもまた、秦氏のなせる呪術かな。
畑
奇妙な渡来人「秦氏」は、ハタという音を表すのに、いろいろな漢字を使った。例えば、羽田や波多、端、八田、半田、幡多、波田などがある。が、なかでも、 ハタ氏として筆頭に思いつく漢字は「畑」ではないだろうか。作物を植える土地、ハタケという意味では、「畠」も同様であろう。
しかし、これらの畑と畠は、いずれも国字。中国にはない。日本人が勝手に作った漢字 である。作った方法は、専門的に「会字」というもので、いわばふたつの漢字を組み合わ せて、新しい漢字としたもの。水田に対して、一般のハタケは焼畑をして開墾することか ら、火田とされ、これが畑という文字になった。同様に、焼畑した土地は灰が白くなるこ とから、白い田で畠となったという。
では、 秦氏が畑氏や畠氏を名乗った理由。それは、何だろう。単純に、ハタという音だ けで、畑や畠という文字を採用したのだろうか。もちろん、普通に考えれば、その通りで ある。農業に従事していた秦氏が畑や畠をもって、ハタ氏と名乗ったに違いない。
だが、相手は秦氏である。カッバーラを手にしたユダヤ人原始キリスト教徒の末裔であ る。名乗る以上、そこには必ず裏の意味が隠されているとみていい。畑氏と畠氏。ここに はハタケ以上の何かがある。
そこで、まず注目したいのは「田」という文字である。畑と畠、どちらも田が含まれて いる。いったい、田とは何だろう。日本なら、田といえば田圃である。稲や蓮を植えた水 田を指す。が、中国では、そうとは限らない。田の本来の意味は、園である。いろいろな 植物が生えた園をもって、田と表現したのが最初である。
とかく、日本の学校では「田」を田圃の象形文字だと教える。恐らく、小学校で多くの 人が、そう教わったはずだし、そう信じているだろう。田という漢字は、確かに水田をあ ぜ道で区切った光景を連想させる。四角く区切った田圃を表わした象形文字であると、だ れもが信じている。
ところが、これは完全に間違い。言葉は悪いが、みな嘘を教えられてきた。田という漢 字が成立したころ、中国には水田はなかった。その証拠に、田という文字は、もともと四 角ではなく、丸い形をしていた。丸い円に十文字を描いた島津氏の家紋のような形をして いたのである。
ちなみに、陰陽道では、○を陽、十を陰とする。○と十は、それだけで陰陽を表現して いる。よって、田という漢字には、陰陽道の迦波羅が隠されていることがわかる。ここに 隠された意味は、いずれ機会を改めて述べることにするが、今、重要なのは、○に十で、 園を意味していたという点である。
古代中国には、すでに『旧約聖書』はおろか、カッバーラが伝来していた。カッバーラ によって、漢字は作られた。カッバーラという視点から、園を意味する○に十の田を見る と、いったい何か。
エデンの園である!!
アダムとイヴが住んでいた楽園のことなのだ。エデンの園は四方を囲まれており、その 中央には生命の樹と知識の樹が生え、さらに泉が湧き出ていた。泉から湧き出た水は河と なり、それが四方へ流れていた。
ここでいう四方の囲いと中央の泉、それにそこから四方に流れる川を表現した園を意味 する漢字が田なのである。つまり、田という漢字は、本来、エデンの園を表現した漢字な のである。
さて、ご存知のように、アダムとイヴはエデンの園に住んでいたが、罪を犯したために 、楽園を追放される。失楽園である。このとき、ふたりはエデンの東の方角に追放された 。再び彼らが戻ってこないように、絶対神はエデンの園の東に、きらめく炎の剣とケルビ ムを配置した。
今でこそ、地図を描く場合、北を上にするが、かつては違った。古代中国では、南を上 にするのが普通。北は下であった。エデンの園を「田」として、その東とは、向かって左 になる。ここに炎の剣を意味する「火」を配置すると、どうなるだろう。そう、「畑」で ある。畑とは、すなわち失われたエデンの園を意味していることになる。こんなことは、 さすがの中国人でも、思いつかなかった。日本に来たユダヤ人原始キリスト教徒、秦氏が 考え出したに違いない。
一方、エデンの園は、いずれ回復されると預言されている。復活した人類が住むエデン の園には、もはや闇はない。絶対神の栄光が地上を照らしている。「皇」という漢字が光 の王を意味するように、「畠」は絶対神の白い光に照らされたエデンの園を意味している のである。
秦氏は、田に込められた原初の意味、すなわちエデンの園を知った上で、失われたエデ ンの園としての「畑」、やがて回復するエデンの園としての「畠」という漢字を作り上げ たのではないだろうか。
しかし、これらの畑と畠は、いずれも国字。中国にはない。日本人が勝手に作った漢字 である。作った方法は、専門的に「会字」というもので、いわばふたつの漢字を組み合わ せて、新しい漢字としたもの。水田に対して、一般のハタケは焼畑をして開墾することか ら、火田とされ、これが畑という文字になった。同様に、焼畑した土地は灰が白くなるこ とから、白い田で畠となったという。
では、 秦氏が畑氏や畠氏を名乗った理由。それは、何だろう。単純に、ハタという音だ けで、畑や畠という文字を採用したのだろうか。もちろん、普通に考えれば、その通りで ある。農業に従事していた秦氏が畑や畠をもって、ハタ氏と名乗ったに違いない。
だが、相手は秦氏である。カッバーラを手にしたユダヤ人原始キリスト教徒の末裔であ る。名乗る以上、そこには必ず裏の意味が隠されているとみていい。畑氏と畠氏。ここに はハタケ以上の何かがある。
そこで、まず注目したいのは「田」という文字である。畑と畠、どちらも田が含まれて いる。いったい、田とは何だろう。日本なら、田といえば田圃である。稲や蓮を植えた水 田を指す。が、中国では、そうとは限らない。田の本来の意味は、園である。いろいろな 植物が生えた園をもって、田と表現したのが最初である。
とかく、日本の学校では「田」を田圃の象形文字だと教える。恐らく、小学校で多くの 人が、そう教わったはずだし、そう信じているだろう。田という漢字は、確かに水田をあ ぜ道で区切った光景を連想させる。四角く区切った田圃を表わした象形文字であると、だ れもが信じている。
ところが、これは完全に間違い。言葉は悪いが、みな嘘を教えられてきた。田という漢 字が成立したころ、中国には水田はなかった。その証拠に、田という文字は、もともと四 角ではなく、丸い形をしていた。丸い円に十文字を描いた島津氏の家紋のような形をして いたのである。
ちなみに、陰陽道では、○を陽、十を陰とする。○と十は、それだけで陰陽を表現して いる。よって、田という漢字には、陰陽道の迦波羅が隠されていることがわかる。ここに 隠された意味は、いずれ機会を改めて述べることにするが、今、重要なのは、○に十で、 園を意味していたという点である。
古代中国には、すでに『旧約聖書』はおろか、カッバーラが伝来していた。カッバーラ によって、漢字は作られた。カッバーラという視点から、園を意味する○に十の田を見る と、いったい何か。
エデンの園である!!
アダムとイヴが住んでいた楽園のことなのだ。エデンの園は四方を囲まれており、その 中央には生命の樹と知識の樹が生え、さらに泉が湧き出ていた。泉から湧き出た水は河と なり、それが四方へ流れていた。
ここでいう四方の囲いと中央の泉、それにそこから四方に流れる川を表現した園を意味 する漢字が田なのである。つまり、田という漢字は、本来、エデンの園を表現した漢字な のである。
さて、ご存知のように、アダムとイヴはエデンの園に住んでいたが、罪を犯したために 、楽園を追放される。失楽園である。このとき、ふたりはエデンの東の方角に追放された 。再び彼らが戻ってこないように、絶対神はエデンの園の東に、きらめく炎の剣とケルビ ムを配置した。
今でこそ、地図を描く場合、北を上にするが、かつては違った。古代中国では、南を上 にするのが普通。北は下であった。エデンの園を「田」として、その東とは、向かって左 になる。ここに炎の剣を意味する「火」を配置すると、どうなるだろう。そう、「畑」で ある。畑とは、すなわち失われたエデンの園を意味していることになる。こんなことは、 さすがの中国人でも、思いつかなかった。日本に来たユダヤ人原始キリスト教徒、秦氏が 考え出したに違いない。
一方、エデンの園は、いずれ回復されると預言されている。復活した人類が住むエデン の園には、もはや闇はない。絶対神の栄光が地上を照らしている。「皇」という漢字が光 の王を意味するように、「畠」は絶対神の白い光に照らされたエデンの園を意味している のである。
秦氏は、田に込められた原初の意味、すなわちエデンの園を知った上で、失われたエデ ンの園としての「畑」、やがて回復するエデンの園としての「畠」という漢字を作り上げ たのではないだろうか。
猪
神社には、狛犬がつきものである。犬とは、あるが姿は獅子、ライオンである。が、例外もある。獅子のほかに、お稲荷さんの狐や三宅八幡宮の鳩、龍神を祀る ところでは、龍が狛犬となっている。京都の護国神社や吉備の和気神社では、猪である。2匹の猪が阿吽の狛犬となって、神社の入り口を守っている。
なぜ猪なのか。その理由は、祭神である和気清麻呂にまつわる故事にある。和気清麻呂 といえば、有名な道鏡事件で活躍したことで有名だ。
奈良時代末、宇佐の八幡神が託宣を下した。曰く、道鏡をもって、天皇とするべし。こ れに、朝廷は上から下まで大騒ぎとなった。時は、称徳天皇の御代。女帝は、かねてから 道鏡を寵愛していた。一説に、道鏡と男女の関係になっていたともいう。これに乗じて、 道鏡は天皇の座を狙ったのが、どうも真相らしい。
もちろん、道鏡は天皇家の人間ではない。天皇になることなど、絶対にありえないない 。ありえないことを八幡神が託宣したのだから、ただごとではない。託宣の真偽をめぐっ て、まさに大混乱となった。
道鏡を寵愛していた称徳天皇にとって、これは難しい問題であった。いくら寵愛してい る道鏡とはいえ、前例がない。とにかく、託宣が本物かどうか、確かめる必要がある。そ こで、今一度、八幡神の託宣を得るべく任命されたのが、和気清麻呂だった。彼は宇佐八 幡宮に赴き、神意を伺ったところ、なんと今度は正反対の託宣が下った。道鏡は逆賊であ って、すぐさま取り除けというのだ。
これを知って怒ったのは、ほかでもない。道鏡である。天皇の威光のもと、道鏡は和気 清麻呂をひっとらえると、そのまま大隈半島へ流してしまう。さらに途中、刺客を放ち、 暗殺しようとした。
すんでのところで、雷雨が襲い、勅使がやってきて九死に一生を得たが、不運は続く。 和気清麻呂の足は萎えてしまい、歩くこともできなくなってしまう。なんとか輿に乗って 宇佐に向かったときは、ほとんど衰弱していた。
しかし、宇佐郡 田村に入ると、不思議なことが起こった。突然、野生の猪が300頭 も現れ、輿を先導。10里も護衛し、八幡宮の手前で再び山中へ消えた。人々は不思議に思 ったが、これを境に、和気清麻呂は回復。宇佐八幡宮に着いたときには、ひとりで歩くこ とができるようになったという。
やがて、道鏡は没落し、和気清麻呂は復権。再び天皇の側近として活躍し、平安京遷都 に尽力することとなる。このことから、和気清麻呂を祀る神社では、猪は吉兆のシンボル であるとして、狛犬として配置するようになったという。
さて、なんとも不思議な話であるが、これは史実だろうか。もちろん、多くの学者は伝 説の類いであって、事実ではないという。が、伝説には、伝説が生まれてくるなりの背景 があったはずである。本物の猪が護衛することはなかったにしても、猪として描かれた人 々はいた可能性は十分ある。
歴史学者の平野邦雄氏は、宇佐郡 田村に注目した。 田村は当時、豊前国京都郡に属 していたが、ここの郡司の名を 田勢麻呂という。恵美押勝の乱で武功を得た男で、 田 勝麻呂ともいった。
どうも、 田村で現れた300頭の猪とは、 田勝麻呂配下の人間のことであった可能 性が高いという。
しかも、実は、この「勝」という姓は、秦氏、秦部の人間に特徴的な名称なのだ。豊前 には、秦氏が数多く分布しており、秦王国と呼ばれたこともある。つまり早い話、 田勝 麻呂は秦氏であり、猪は秦氏集団の象徴だったのだ。
後に、和気清麻呂は秦氏と協力し、秦氏の本拠地のひとつであった山背国に平安京を遷 都した。遷都を推進した藤原氏には、母親が秦氏であった者も少なくない。和気清麻呂は 秦氏をバックにのし上がったといっても過言はない。実際、和気清麻呂の出身地である吉 備の和気郡には、数多くの秦氏がいる。
これは推測であるが、清麻呂自身、秦氏だったのではないだろうか。和気清麻呂を祀る 神社の狛犬が猪であり、それは秦氏集団の象徴だった。いい換えれば、清麻呂は秦氏に守 られていることになる。秦氏は清麻呂が同胞であったからこそ、一族を上げてバックアッ プしたに違いない。
なぜ猪なのか。その理由は、祭神である和気清麻呂にまつわる故事にある。和気清麻呂 といえば、有名な道鏡事件で活躍したことで有名だ。
奈良時代末、宇佐の八幡神が託宣を下した。曰く、道鏡をもって、天皇とするべし。こ れに、朝廷は上から下まで大騒ぎとなった。時は、称徳天皇の御代。女帝は、かねてから 道鏡を寵愛していた。一説に、道鏡と男女の関係になっていたともいう。これに乗じて、 道鏡は天皇の座を狙ったのが、どうも真相らしい。
もちろん、道鏡は天皇家の人間ではない。天皇になることなど、絶対にありえないない 。ありえないことを八幡神が託宣したのだから、ただごとではない。託宣の真偽をめぐっ て、まさに大混乱となった。
道鏡を寵愛していた称徳天皇にとって、これは難しい問題であった。いくら寵愛してい る道鏡とはいえ、前例がない。とにかく、託宣が本物かどうか、確かめる必要がある。そ こで、今一度、八幡神の託宣を得るべく任命されたのが、和気清麻呂だった。彼は宇佐八 幡宮に赴き、神意を伺ったところ、なんと今度は正反対の託宣が下った。道鏡は逆賊であ って、すぐさま取り除けというのだ。
これを知って怒ったのは、ほかでもない。道鏡である。天皇の威光のもと、道鏡は和気 清麻呂をひっとらえると、そのまま大隈半島へ流してしまう。さらに途中、刺客を放ち、 暗殺しようとした。
すんでのところで、雷雨が襲い、勅使がやってきて九死に一生を得たが、不運は続く。 和気清麻呂の足は萎えてしまい、歩くこともできなくなってしまう。なんとか輿に乗って 宇佐に向かったときは、ほとんど衰弱していた。
しかし、宇佐郡 田村に入ると、不思議なことが起こった。突然、野生の猪が300頭 も現れ、輿を先導。10里も護衛し、八幡宮の手前で再び山中へ消えた。人々は不思議に思 ったが、これを境に、和気清麻呂は回復。宇佐八幡宮に着いたときには、ひとりで歩くこ とができるようになったという。
やがて、道鏡は没落し、和気清麻呂は復権。再び天皇の側近として活躍し、平安京遷都 に尽力することとなる。このことから、和気清麻呂を祀る神社では、猪は吉兆のシンボル であるとして、狛犬として配置するようになったという。
さて、なんとも不思議な話であるが、これは史実だろうか。もちろん、多くの学者は伝 説の類いであって、事実ではないという。が、伝説には、伝説が生まれてくるなりの背景 があったはずである。本物の猪が護衛することはなかったにしても、猪として描かれた人 々はいた可能性は十分ある。
歴史学者の平野邦雄氏は、宇佐郡 田村に注目した。 田村は当時、豊前国京都郡に属 していたが、ここの郡司の名を 田勢麻呂という。恵美押勝の乱で武功を得た男で、 田 勝麻呂ともいった。
どうも、 田村で現れた300頭の猪とは、 田勝麻呂配下の人間のことであった可能 性が高いという。
しかも、実は、この「勝」という姓は、秦氏、秦部の人間に特徴的な名称なのだ。豊前 には、秦氏が数多く分布しており、秦王国と呼ばれたこともある。つまり早い話、 田勝 麻呂は秦氏であり、猪は秦氏集団の象徴だったのだ。
後に、和気清麻呂は秦氏と協力し、秦氏の本拠地のひとつであった山背国に平安京を遷 都した。遷都を推進した藤原氏には、母親が秦氏であった者も少なくない。和気清麻呂は 秦氏をバックにのし上がったといっても過言はない。実際、和気清麻呂の出身地である吉 備の和気郡には、数多くの秦氏がいる。
これは推測であるが、清麻呂自身、秦氏だったのではないだろうか。和気清麻呂を祀る 神社の狛犬が猪であり、それは秦氏集団の象徴だった。いい換えれば、清麻呂は秦氏に守 られていることになる。秦氏は清麻呂が同胞であったからこそ、一族を上げてバックアッ プしたに違いない。
東北
古代、東北地方は蝦夷の国であった。大部分が渡来系であった近畿地方の人間からすれば、東国は異民族の地であるといっても、過言ではない。こと東北地方ともなれば、渡来人の子孫である坂上田村麻呂が蝦夷征討を行ったことでわかるように、ほとんど未知の土地であった。
しかし、今日、東北を歩くと、しばしば渡来人の形跡を地名に見出すことがある。東北 自動車道を北上し、岩手県の岩手山サービスエリアを過ぎてしばらく走ると、「畑」とい う名のパーキングエリアがあることに気づくはずだ。畑と書いて、ハタケではない。ハタ と読む。となれば、当然ながら連想するのは、渡来人「秦氏」である。
秦氏の痕跡はないか調べてみると、近くに松尾村がある。松尾とくれば、もはや、これ は秦氏以外に考えられない。松尾大社の例を出すまでもなく、全国、松尾という地名をつ けたのは、秦氏である。その名も松尾氏は、まず間違いなく、秦氏の血を引いている。
しかも、この松尾村は、松尾八幡平の名前にもなっていることでも知られている。八幡 平、そう八幡神社もまた、秦氏が創建に関わっている。どうも、北部岩手県には、秦氏の 集団が来ていた可能性が高い。
8世紀半ば、百済王の敬福が陸奥から黄金を献上したように、渡来人の勢力は奈良時代 には、すでに東北の奥地まで及んでいた。察するに、このころ秦氏もまた、岩手県や秋田 県、それに青森県までやってきたのではないだろうか。
青森県には、白旗野や白神山地など、新羅系渡来人に関係すると思われる地名がいくつ か存在する。また、下北半島の北部には、大畑なる地名まである。大畑は、大秦や大幡と 同様、秦氏の拠点に名づけられた名称であったに違いない。
これまで、東北地方と渡来人の関係は、あまり顧みられることはなかった。が、丹念に 調べてみると、意外に渡来人の足跡は多いのではないだろうか。青森県の新郷村にある有 名な「キリストの墓」なる伝説もまた、秦氏という視点から分析してみると、新しい発見 があるかもしれない。
しかし、今日、東北を歩くと、しばしば渡来人の形跡を地名に見出すことがある。東北 自動車道を北上し、岩手県の岩手山サービスエリアを過ぎてしばらく走ると、「畑」とい う名のパーキングエリアがあることに気づくはずだ。畑と書いて、ハタケではない。ハタ と読む。となれば、当然ながら連想するのは、渡来人「秦氏」である。
秦氏の痕跡はないか調べてみると、近くに松尾村がある。松尾とくれば、もはや、これ は秦氏以外に考えられない。松尾大社の例を出すまでもなく、全国、松尾という地名をつ けたのは、秦氏である。その名も松尾氏は、まず間違いなく、秦氏の血を引いている。
しかも、この松尾村は、松尾八幡平の名前にもなっていることでも知られている。八幡 平、そう八幡神社もまた、秦氏が創建に関わっている。どうも、北部岩手県には、秦氏の 集団が来ていた可能性が高い。
8世紀半ば、百済王の敬福が陸奥から黄金を献上したように、渡来人の勢力は奈良時代 には、すでに東北の奥地まで及んでいた。察するに、このころ秦氏もまた、岩手県や秋田 県、それに青森県までやってきたのではないだろうか。
青森県には、白旗野や白神山地など、新羅系渡来人に関係すると思われる地名がいくつ か存在する。また、下北半島の北部には、大畑なる地名まである。大畑は、大秦や大幡と 同様、秦氏の拠点に名づけられた名称であったに違いない。
これまで、東北地方と渡来人の関係は、あまり顧みられることはなかった。が、丹念に 調べてみると、意外に渡来人の足跡は多いのではないだろうか。青森県の新郷村にある有 名な「キリストの墓」なる伝説もまた、秦氏という視点から分析してみると、新しい発見 があるかもしれない。
あいうえお
イエス・キリストを表わす言葉は少なくない。『聖書』を開けば、インマヌエル、ダビデのひこばえ、明けの明星、命、永遠、光など、非常に多くの象徴を目にすることができる。そのなかのひとつに、「初めと終わり」というものがある。
初めであり、終わりであるとは、いったい何なのか。ただし、初めも終わりもないとい う意味ではない。初めであり、かつ終わりという意味である。ちょうど円を描いて、最初 と最後が同一点になるようなイメージである。
ここにはユダヤ人原始キリスト教徒が手にした神秘主義カッバーラの非常に奥深い叡智 が隠されており、そのすべてを今、記すことはできない。ただ、ひとつだけいうなら、そ れは光である。光の速さは宇宙における唯一の絶対的な基準である。たとえ光が宇宙の果 て(そんなものはないが)まで行こうとも、光自身は1秒たりとも時間を経過していない 。おわかりだろうか。
さて、今回は「初めと終わり」を表現した、もうひとつの言葉「アルファ(α)にして オメガ(ω)である」に注目してみたい。これはイエス・キリスト自身が自らを指してい った言葉である。アルファとオメガとは、いうまでもなくギリシア語。『新約聖書』がコ イネー・ギリシア語によって記されたために、このような表現になったのだが、おわかり のように、アルファはギリシア語のアルファベット最初の文字。同様に、オメガはギリシ ア語のアルファベット最後の文字である。
では、ここで同様のことを日本語に置き換えて考えみよう。日本語の基本、アルファベ ットは五十音である。具体的にいえば、あいうえおかきくけこ……わをん。これらのうち 、最初の文字は「あ」で、最後の文字は「ん」だ。よって、もしイエス・キリストが日本 語で自らを「初めであり終わり」と表現するならば、「あにして、んである」となるだろ う。
「あ」と「ん」 。これを日本では古来、「阿吽=あうん」といいならわしてきた。「ん 」という文字は語頭で発音されないため、強調する意味で「うん」としたが、基本的に「 あ」と「ん」のこと。事実、阿吽の呼吸という場合、阿は口を大きく開いて発音し、吽は 口を閉じて発音する。
阿吽は仏教や神道を問わず、日本の宗教、神秘思想の根幹である。阿吽の意味がわかれ ば、この世を理解できるとまでいわれる。なぜなら、森羅万象、すべては阿吽、すなわち 陰と陽によって成り立っているからだ。神社や寺では、狛犬や仁王像などによって象徴的 に表現してきた。
なぜ、ユーラシア大陸の端と端で、同じ「初めと終わり」の神秘思想が、これまたまっ たく同じ言葉の基本であるアルファベット=五十音の最初と最後の文字で表現されている のだろうか。
考えられるのは、日本にカッバーラを持ち込んだ人々が存在したということ。神秘思想 の流れはひとつではなく、また単純なルートではないが、その中の担い手のひとつとして 注目すべきは秦氏である。ユダヤ人原始キリスト教徒の末裔である秦氏は、はるか古代か ら神道や仏教、それに道教、陰陽道などの神秘思想に関わってきた。西アジアにおいて手 にしたカッバーラの奥義を秦氏は日本に持ち込んだ可能性は大きい。
これは今後の仮題であるが、日本語の五十音成立の背景には、少なからず秦氏が関わっ ていることは間違いないだろう。
初めであり、終わりであるとは、いったい何なのか。ただし、初めも終わりもないとい う意味ではない。初めであり、かつ終わりという意味である。ちょうど円を描いて、最初 と最後が同一点になるようなイメージである。
ここにはユダヤ人原始キリスト教徒が手にした神秘主義カッバーラの非常に奥深い叡智 が隠されており、そのすべてを今、記すことはできない。ただ、ひとつだけいうなら、そ れは光である。光の速さは宇宙における唯一の絶対的な基準である。たとえ光が宇宙の果 て(そんなものはないが)まで行こうとも、光自身は1秒たりとも時間を経過していない 。おわかりだろうか。
さて、今回は「初めと終わり」を表現した、もうひとつの言葉「アルファ(α)にして オメガ(ω)である」に注目してみたい。これはイエス・キリスト自身が自らを指してい った言葉である。アルファとオメガとは、いうまでもなくギリシア語。『新約聖書』がコ イネー・ギリシア語によって記されたために、このような表現になったのだが、おわかり のように、アルファはギリシア語のアルファベット最初の文字。同様に、オメガはギリシ ア語のアルファベット最後の文字である。
では、ここで同様のことを日本語に置き換えて考えみよう。日本語の基本、アルファベ ットは五十音である。具体的にいえば、あいうえおかきくけこ……わをん。これらのうち 、最初の文字は「あ」で、最後の文字は「ん」だ。よって、もしイエス・キリストが日本 語で自らを「初めであり終わり」と表現するならば、「あにして、んである」となるだろ う。
「あ」と「ん」 。これを日本では古来、「阿吽=あうん」といいならわしてきた。「ん 」という文字は語頭で発音されないため、強調する意味で「うん」としたが、基本的に「 あ」と「ん」のこと。事実、阿吽の呼吸という場合、阿は口を大きく開いて発音し、吽は 口を閉じて発音する。
阿吽は仏教や神道を問わず、日本の宗教、神秘思想の根幹である。阿吽の意味がわかれ ば、この世を理解できるとまでいわれる。なぜなら、森羅万象、すべては阿吽、すなわち 陰と陽によって成り立っているからだ。神社や寺では、狛犬や仁王像などによって象徴的 に表現してきた。
なぜ、ユーラシア大陸の端と端で、同じ「初めと終わり」の神秘思想が、これまたまっ たく同じ言葉の基本であるアルファベット=五十音の最初と最後の文字で表現されている のだろうか。
考えられるのは、日本にカッバーラを持ち込んだ人々が存在したということ。神秘思想 の流れはひとつではなく、また単純なルートではないが、その中の担い手のひとつとして 注目すべきは秦氏である。ユダヤ人原始キリスト教徒の末裔である秦氏は、はるか古代か ら神道や仏教、それに道教、陰陽道などの神秘思想に関わってきた。西アジアにおいて手 にしたカッバーラの奥義を秦氏は日本に持ち込んだ可能性は大きい。
これは今後の仮題であるが、日本語の五十音成立の背景には、少なからず秦氏が関わっ ていることは間違いないだろう。
蟹
京都の南に、蟹を祀る珍しい寺がある。その名を「蟹満寺」という。
寺伝によれば、なんでも、この村に、昔々、信心深い老夫婦が住んでいたという。あるとき、ガマガエルが蛇に噛み付かれているところに、ふたりは出会っ た。彼らはガマガエルをかわいそうに思い、蛇に向かって、もしガマガエルを助けてくれるなら、自分たちの娘を嫁にやると申し出た。蛇は喜んで、それを承諾 し、ガマガエルを放してやった。後日、蛇は老夫婦の家へやってきて、約束通り、娘をよこせと迫った。が、いくら約束したとはいえ、いざ娘を蛇にくれてやる わけにはいかない。困ったふたりは観音様に祈りを捧げると、どこからともなく蟹が数万匹も現れ、蛇をズタズタに切り裂いた。が、蟹のほうも犠牲は多く、娘 の身代わりとなって死んだ蟹たちのために墓を作り、そこに観音堂を立てた。これが蟹満寺のはじまりであるという。
ストーリーは、いたって簡単。仏教説話のひとつである。信心あらば、必ずや仏の助け があるという話である。似たような話は、全国の寺に数多くある。
しかし、考えてみると、一方的な悪者となって退治される蛇だが、別に悪いことをした わけではない。生きるためにガマガエルを食べるのは、いたしかたないこと。約束を申し 出たのは、老夫婦のほうで、しかも約束を守っていないのも、老夫婦である。現代の法的 な立場からすれば、悪いのは老夫婦であろう。
さらに、不可解なのは、蛇を退治するのが、助けられたガマガエルではなく、何の関係 もない蟹である。ひょっとしたら、オリジナルの説話は、蟹が蛇に助けられたという話だ ったのかもしれないが、どうも納得がいかない。どうも、無理矢理、寺の縁起に蟹を結び つけた印象をぬぐえない。そもそも、このあたりに蛇をズタズタにできるような蟹は生息 していない。
どうして蟹なのか。
実は、蟹満寺のある一帯の地名を「綺田」という。見慣れない漢字だが、これで「カバ タ」と読む。昔は「カムバタ」といい、「蟹幡」という文字を当てていたらしい。つまり 、蟹幡の幡を満と置き換えて、蟹満寺なる名称ができたのが真相なのだ。
さて、ここで注目してほしいのは「幡」という文字である。これは八幡や広幡、大幡な ど、秦氏に因む文字として知られる。そう考えると、蟹幡とは、もともと蟹秦だったので はないだろうか。
調べてみると、案の定。蟹満寺は京都の太秦にある広隆寺の末社のひとつ。秦河勝の弟 、秦阿津具によって創建された寺なのである。
蟹満の表記としては、ほかに神機があるという。神機が神秦だとすれば、蟹秦と比較し て、もともと蟹は神の借字だった可能性が高い。つまり、蟹は神だったのである。
しかし、それとは別に、どうも「蟹満」という名称には、もうひとつ裏がある。『新撰 姓氏録』によれば、弓月君に率いられて秦氏が日本にやってくる以前、単独で渡来してき た秦氏がいると記されている。彼の名前は「功満王」といい、第14代・仲哀天皇の時代に やってきている。
蟹満と功満。似ている。察するに、秦氏が南京都一帯に広がってきたとき、自らの一族 のひとり、功満王にちなんで、寺の名称としたのではないだろうか。
いや、もっと踏み込んで、反対に功満王の名称自体が、本来は功幡王であり、功秦王だ ったのかも知れない。八幡と同じく秦氏系の氏として有名な広幡氏との関係も気になると ころである。
しかし、功満王については、詳しいことがまだまだわからない。
「神秦=神機=蟹幡=蟹満=功満」
この等式が功満王の正体を解き明かす突破口になるのではないかと思うのだが、さて 、いかがだろうか。
寺伝によれば、なんでも、この村に、昔々、信心深い老夫婦が住んでいたという。あるとき、ガマガエルが蛇に噛み付かれているところに、ふたりは出会っ た。彼らはガマガエルをかわいそうに思い、蛇に向かって、もしガマガエルを助けてくれるなら、自分たちの娘を嫁にやると申し出た。蛇は喜んで、それを承諾 し、ガマガエルを放してやった。後日、蛇は老夫婦の家へやってきて、約束通り、娘をよこせと迫った。が、いくら約束したとはいえ、いざ娘を蛇にくれてやる わけにはいかない。困ったふたりは観音様に祈りを捧げると、どこからともなく蟹が数万匹も現れ、蛇をズタズタに切り裂いた。が、蟹のほうも犠牲は多く、娘 の身代わりとなって死んだ蟹たちのために墓を作り、そこに観音堂を立てた。これが蟹満寺のはじまりであるという。
ストーリーは、いたって簡単。仏教説話のひとつである。信心あらば、必ずや仏の助け があるという話である。似たような話は、全国の寺に数多くある。
しかし、考えてみると、一方的な悪者となって退治される蛇だが、別に悪いことをした わけではない。生きるためにガマガエルを食べるのは、いたしかたないこと。約束を申し 出たのは、老夫婦のほうで、しかも約束を守っていないのも、老夫婦である。現代の法的 な立場からすれば、悪いのは老夫婦であろう。
さらに、不可解なのは、蛇を退治するのが、助けられたガマガエルではなく、何の関係 もない蟹である。ひょっとしたら、オリジナルの説話は、蟹が蛇に助けられたという話だ ったのかもしれないが、どうも納得がいかない。どうも、無理矢理、寺の縁起に蟹を結び つけた印象をぬぐえない。そもそも、このあたりに蛇をズタズタにできるような蟹は生息 していない。
どうして蟹なのか。
実は、蟹満寺のある一帯の地名を「綺田」という。見慣れない漢字だが、これで「カバ タ」と読む。昔は「カムバタ」といい、「蟹幡」という文字を当てていたらしい。つまり 、蟹幡の幡を満と置き換えて、蟹満寺なる名称ができたのが真相なのだ。
さて、ここで注目してほしいのは「幡」という文字である。これは八幡や広幡、大幡な ど、秦氏に因む文字として知られる。そう考えると、蟹幡とは、もともと蟹秦だったので はないだろうか。
調べてみると、案の定。蟹満寺は京都の太秦にある広隆寺の末社のひとつ。秦河勝の弟 、秦阿津具によって創建された寺なのである。
蟹満の表記としては、ほかに神機があるという。神機が神秦だとすれば、蟹秦と比較し て、もともと蟹は神の借字だった可能性が高い。つまり、蟹は神だったのである。
しかし、それとは別に、どうも「蟹満」という名称には、もうひとつ裏がある。『新撰 姓氏録』によれば、弓月君に率いられて秦氏が日本にやってくる以前、単独で渡来してき た秦氏がいると記されている。彼の名前は「功満王」といい、第14代・仲哀天皇の時代に やってきている。
蟹満と功満。似ている。察するに、秦氏が南京都一帯に広がってきたとき、自らの一族 のひとり、功満王にちなんで、寺の名称としたのではないだろうか。
いや、もっと踏み込んで、反対に功満王の名称自体が、本来は功幡王であり、功秦王だ ったのかも知れない。八幡と同じく秦氏系の氏として有名な広幡氏との関係も気になると ころである。
しかし、功満王については、詳しいことがまだまだわからない。
「神秦=神機=蟹幡=蟹満=功満」
この等式が功満王の正体を解き明かす突破口になるのではないかと思うのだが、さて 、いかがだろうか。
猫
安倍晴明の出身地候補地のひとつに、茨城県真壁郡明野町がある。ちょうど筑波山を望む地にあり、古くから陰陽師たちがいたらしい。筑波山の双峰が女体山と 男体山という陰陽の関係になっているばかりか、筑波山と富士山の昔話の原形が蘇民将来伝承にある。かくいう筆者は、学生時代に、よく筑波山に登ったもので ある。
さて、問題の安倍晴明の邸宅があったという場所は、現在、猫島という地名となってい る。猫の島とは、なんとも興味深い。
伝説によると、唐から帰ってきた吉備真備が筑波にやってきたときのことである。突然 、数千匹の猫に囲まれてしまった。困惑していると、そこへひとりの童子が現れた。童子 を見た猫は、みな一目散に逃走してしまった。不思議に思いながら、吉備真備は童子に名 を聞いたところ、なんと彼こそは同志、阿倍仲麻呂の子供、安倍晴明だった。狂喜した吉 備真備は安倍晴明に陰陽道の奥義書を伝授。さらに、安倍晴明は鹿島神宮で婆伽羅龍王か ら鳥薬を授かるに及び、鳥たちの言葉がわかるようになり、陰陽師として成長していった という。
もちろん、これは伝説であって、史実ではない。史実ではないがゆえに、そこにはある 種の暗号が散りばめられている。
たとえば、婆伽羅龍王の婆伽羅が迦波羅=カッバーラのアナグラムになっている。鳥の 言葉がわかるとは、魔術用語を理解できるようになったということ。つまり、鳥の象徴で 呼ばれる神道祭司たちと一脈通じるようになったことを示す。
では、猫島は、どうだろう。猫がたくさん出てきたから猫島というようになったという 話は、実は、どうでもいい。察しのいい方は、ここですでに鹿島と猫島が関係することを 見抜いているだろう。茨城には、動物名と島を合わせた地名が少なくない。近くには猿島 という地名もある。
こうした動物名は象徴であって、鳥が祭司の暗号になっているように、これらにはそれ ぞれ深い意味が込められている。
しかして、「猫」には、いったいどんな意味があるのか。
動物の猫をいくら想像しても、答えは見つからない。大事なのは音である。ネコとは、 いったい何か。
九州には化け猫伝説があるが、それに関連してネコ岳という山がある。ネコ岳のネコと は猫の意味なのだが、漢字表記は「根子岳」となっている。あたかも樹木の根っこのイメ ージで、どこか「生命の樹」を連想させるが、ここでは「根子」という言葉にこだわって みよう。
記紀には、「倭根子」という人物が出てくる。丹波の海部氏の祖先である。かつて籠神 社に取材に行ったとき、海部宮司は「根子」という言葉をひどく強調していたことを覚え ている。なぜ根子が大事なのか。その理由は、ひとつ。根子とは、ずばり天皇を意味する 言葉であるからだ。例えば、第9代・孝元天皇の名前は「大倭根子日子国玖琉命」という 。
猫=根子とは、天皇の隠語。となれば、猫島に生まれたという安倍晴明は、当然ながら 天皇家と深く結びついていることになる。
これに関連にして、もうひとつの安倍晴明の出身候補地である大阪の阿倍王子神社には 、王子という名称がついている。王子の名のつく神社はほかにもあり、伏見稲荷大社から 熊野大社まで、全部で99ある。それゆえ「九十九王子」と呼ぶ。
九十九は百に一たりない。ゆえに、「百」という漢字から「一」を取り去ると、「白」 という漢字になる。古来、白とは九十九の隠語である。つまり、九十九王子とは「白王子 」を意味する。さらに、「白王」とは縦書きにして縮めれば「皇」となる。おわかりだろ うか。
九十九王子=白王子=皇子。
ここでも安倍晴明は皇室と結びつくのである。
ということは、いったい安倍晴明とは何者なのか。
思い出していただきたい。安倍晴明は鳥の言葉を理解した。神道奥義における鳥とは、 忌部氏を初めとする祭司の象徴。忌部氏のトップは賀茂氏。安倍晴明は賀茂氏の血を引く 者であると同時に、秦氏でもあった。
しかも、賀茂氏は、たんにユダヤ人原始キリスト教徒としての秦氏ではない。祭司レビ 族の人間である。賀茂氏の中の賀茂氏は烏。すなわち八咫烏として知られる漢波羅秘密結 社である。八咫烏のトップは3人で形成されており、彼らは裏天皇を構成する。
ならば、安倍晴明は、いかに。
そう、裏天皇の皇子なのである--。
さて、問題の安倍晴明の邸宅があったという場所は、現在、猫島という地名となってい る。猫の島とは、なんとも興味深い。
伝説によると、唐から帰ってきた吉備真備が筑波にやってきたときのことである。突然 、数千匹の猫に囲まれてしまった。困惑していると、そこへひとりの童子が現れた。童子 を見た猫は、みな一目散に逃走してしまった。不思議に思いながら、吉備真備は童子に名 を聞いたところ、なんと彼こそは同志、阿倍仲麻呂の子供、安倍晴明だった。狂喜した吉 備真備は安倍晴明に陰陽道の奥義書を伝授。さらに、安倍晴明は鹿島神宮で婆伽羅龍王か ら鳥薬を授かるに及び、鳥たちの言葉がわかるようになり、陰陽師として成長していった という。
もちろん、これは伝説であって、史実ではない。史実ではないがゆえに、そこにはある 種の暗号が散りばめられている。
たとえば、婆伽羅龍王の婆伽羅が迦波羅=カッバーラのアナグラムになっている。鳥の 言葉がわかるとは、魔術用語を理解できるようになったということ。つまり、鳥の象徴で 呼ばれる神道祭司たちと一脈通じるようになったことを示す。
では、猫島は、どうだろう。猫がたくさん出てきたから猫島というようになったという 話は、実は、どうでもいい。察しのいい方は、ここですでに鹿島と猫島が関係することを 見抜いているだろう。茨城には、動物名と島を合わせた地名が少なくない。近くには猿島 という地名もある。
こうした動物名は象徴であって、鳥が祭司の暗号になっているように、これらにはそれ ぞれ深い意味が込められている。
しかして、「猫」には、いったいどんな意味があるのか。
動物の猫をいくら想像しても、答えは見つからない。大事なのは音である。ネコとは、 いったい何か。
九州には化け猫伝説があるが、それに関連してネコ岳という山がある。ネコ岳のネコと は猫の意味なのだが、漢字表記は「根子岳」となっている。あたかも樹木の根っこのイメ ージで、どこか「生命の樹」を連想させるが、ここでは「根子」という言葉にこだわって みよう。
記紀には、「倭根子」という人物が出てくる。丹波の海部氏の祖先である。かつて籠神 社に取材に行ったとき、海部宮司は「根子」という言葉をひどく強調していたことを覚え ている。なぜ根子が大事なのか。その理由は、ひとつ。根子とは、ずばり天皇を意味する 言葉であるからだ。例えば、第9代・孝元天皇の名前は「大倭根子日子国玖琉命」という 。
猫=根子とは、天皇の隠語。となれば、猫島に生まれたという安倍晴明は、当然ながら 天皇家と深く結びついていることになる。
これに関連にして、もうひとつの安倍晴明の出身候補地である大阪の阿倍王子神社には 、王子という名称がついている。王子の名のつく神社はほかにもあり、伏見稲荷大社から 熊野大社まで、全部で99ある。それゆえ「九十九王子」と呼ぶ。
九十九は百に一たりない。ゆえに、「百」という漢字から「一」を取り去ると、「白」 という漢字になる。古来、白とは九十九の隠語である。つまり、九十九王子とは「白王子 」を意味する。さらに、「白王」とは縦書きにして縮めれば「皇」となる。おわかりだろ うか。
九十九王子=白王子=皇子。
ここでも安倍晴明は皇室と結びつくのである。
ということは、いったい安倍晴明とは何者なのか。
思い出していただきたい。安倍晴明は鳥の言葉を理解した。神道奥義における鳥とは、 忌部氏を初めとする祭司の象徴。忌部氏のトップは賀茂氏。安倍晴明は賀茂氏の血を引く 者であると同時に、秦氏でもあった。
しかも、賀茂氏は、たんにユダヤ人原始キリスト教徒としての秦氏ではない。祭司レビ 族の人間である。賀茂氏の中の賀茂氏は烏。すなわち八咫烏として知られる漢波羅秘密結 社である。八咫烏のトップは3人で形成されており、彼らは裏天皇を構成する。
ならば、安倍晴明は、いかに。
そう、裏天皇の皇子なのである--。
伊豆
伊豆半島の突端に、石廊崎がある。断崖絶壁の上にあるジャングルパークを抜けると、灯台がある。さらに、その横を通り抜けると、小さな社が見えてくる。石室権現神社である。祭神は石廊権現という。
だが、この石廊権現とは、石廊崎にあるから、その名がある。本当の名前は何か。神社 が掲げた説明板には、秦宿弥とある。そう、秦氏だ。どうして、こんな伊豆の突端に、秦 氏が祀られているのか。
よく読むと、秦宿弥の27代前の弓月君もまた、この神社で祀られている。伊豆にやって きた秦氏が自らの祖先を祀ったものだろうか。
ここ伊豆の先端には、秦始皇帝にまつわる伝説が少なくない。どうも、徐福が記したと いう『宮下文書』がベースになっているらしい。秦氏は秦始皇帝の末裔と名乗っていたた め、伝説が付加したのか。
秦氏だけではない。石廊崎のあたりは、賀茂郡という。上賀、下賀茂、中賀茂という地 名も見える。伊豆の西側にも、賀茂の地名がある。どうも、この伊豆、賀茂だらけといっ た印象をうける。
賀茂氏といえば、秦氏の中の秦氏である。ユダヤ人原始キリスト教徒の中でも、祭司レ ビ人である。秦氏とともに、賀茂氏が伊豆へやってきたのは間違いない。
伊豆半島の付け根には、三島市がある。三島というと、すぐ愛媛の大三島にある大山祇 命神社が有名だが、もうひとつ大阪に古い三島神社がある。正式名は三島鴨神社という。 つまり、三島神社自体、賀茂氏とつながりが深いのだ。
さらに、三島大社の祭神は大山祇命、もしくは事代主命という。大阪の鴨都味波事代主 命神社は、いうまでもなく賀茂氏の神社だが、ここの祭神もまた、事代主命だ。賀茂氏あ るところ、事代主命ありき。その信仰は伊豆のみならず、伊豆諸島にまで広がっている。
一説に、賀茂氏の発祥は伊豆であり、ここから畿内へと広がっていったという。となる と、賀茂氏は東国出身になるのだが、これもまた出典は『宮下文書』らしい。
はたして、『宮下文書』は、どこまで信用できるのか。評価は難しいが、少なくとも鎌 倉時代にまで遡ることは間違いない。とすれば、鎌倉時代に東国へやってきた秦氏が手が けた可能性は否定できない。
もし、それが事実なら、面白いことがわかってくる。伊豆のみならず、秦氏は富士山周 辺の神社にも関わっているらしい。とくに、浅間信仰を考えるとき、驚くべき『聖書』と の接点を見出すことができるのだ。
だが、この石廊権現とは、石廊崎にあるから、その名がある。本当の名前は何か。神社 が掲げた説明板には、秦宿弥とある。そう、秦氏だ。どうして、こんな伊豆の突端に、秦 氏が祀られているのか。
よく読むと、秦宿弥の27代前の弓月君もまた、この神社で祀られている。伊豆にやって きた秦氏が自らの祖先を祀ったものだろうか。
ここ伊豆の先端には、秦始皇帝にまつわる伝説が少なくない。どうも、徐福が記したと いう『宮下文書』がベースになっているらしい。秦氏は秦始皇帝の末裔と名乗っていたた め、伝説が付加したのか。
秦氏だけではない。石廊崎のあたりは、賀茂郡という。上賀、下賀茂、中賀茂という地 名も見える。伊豆の西側にも、賀茂の地名がある。どうも、この伊豆、賀茂だらけといっ た印象をうける。
賀茂氏といえば、秦氏の中の秦氏である。ユダヤ人原始キリスト教徒の中でも、祭司レ ビ人である。秦氏とともに、賀茂氏が伊豆へやってきたのは間違いない。
伊豆半島の付け根には、三島市がある。三島というと、すぐ愛媛の大三島にある大山祇 命神社が有名だが、もうひとつ大阪に古い三島神社がある。正式名は三島鴨神社という。 つまり、三島神社自体、賀茂氏とつながりが深いのだ。
さらに、三島大社の祭神は大山祇命、もしくは事代主命という。大阪の鴨都味波事代主 命神社は、いうまでもなく賀茂氏の神社だが、ここの祭神もまた、事代主命だ。賀茂氏あ るところ、事代主命ありき。その信仰は伊豆のみならず、伊豆諸島にまで広がっている。
一説に、賀茂氏の発祥は伊豆であり、ここから畿内へと広がっていったという。となる と、賀茂氏は東国出身になるのだが、これもまた出典は『宮下文書』らしい。
はたして、『宮下文書』は、どこまで信用できるのか。評価は難しいが、少なくとも鎌 倉時代にまで遡ることは間違いない。とすれば、鎌倉時代に東国へやってきた秦氏が手が けた可能性は否定できない。
もし、それが事実なら、面白いことがわかってくる。伊豆のみならず、秦氏は富士山周 辺の神社にも関わっているらしい。とくに、浅間信仰を考えるとき、驚くべき『聖書』と の接点を見出すことができるのだ。
木花開咲耶姫命
秦氏が東国に勢力を拡大していたことは、承知のこと。神奈川県の秦野をはじめ、富士山周辺から伊豆にかけて、その痕跡は至るところにある。
このあたりの神社は、大山祇命を祀っているところが多い。三島大社の祭神も、大山祇 命である。大山祇命を祀る神社の総本山は、伊予の大三島にある大山祇神社だが、ここに は大山祇命は百済からやってきたという伝承が残る。つまり、渡来人が祀っていた神だと いうのである。
これを裏付けるように、三島大社と大山祇神社と並んで日本三大三島と呼ばれる大阪の 三島鴨神社は、その名にあるように、賀茂氏の神社。つまり、このことから、大山祇命を 祀っていたのは、賀茂氏であることがわかる。
三島大社の祭神は、事代主命だという説もあるが、これとても、もとは賀茂氏が祀って いたもの。鴨都津波八重事代主神社などは、その典型例である。東国においても、これは 顕著で、伊豆半島及び、伊豆諸島の神社は、みな事代主命を祀っている。地名にも、賀茂 郡が見られる。
さて、このあたりは、前回も触れたが、今回は大山祇命にこだわってみたい。大山祇命 とは、山の神である。似たような名称の神に大山咋神がいる。祀っているのは、京都の日 吉大社と松尾大社、いずれも秦氏系の神社だ。同じく京都において、大山祇命を祭ってい るのは、梅宮大社である。こちらは、松尾大社のすぐ向かいに鎮座する橘氏の神社である が、神職として数多くの秦氏がいたことが記録に残っている。察するに、大山祇命もまた 、本来は秦氏が祀っていた可能性がある。
賀茂氏と秦氏が同族であることからすると、大山祇命の背後には、ユダヤ的な背景があ るのではないか。そう思って調べていると、実に、興味深いことがわかった。大山祇命そ のものを見ていてはよくわからないが、注目は娘である。
大山祇命には、ふたりの娘がいた。姉を石長姫、妹を木花開咲耶姫命という。石長姫は 醜い顔をしていたが、木花開咲耶姫命は美しい容姿をしていた。記紀によると、天孫ニニ ギ命は木花開咲耶姫命と結婚したことになっている。が、本来、義父の大山祇命としては 、姉よりも先に妹が嫁にいくことを渋り、姉の石長姫をもらってくれるように頼んだとい う。が、結局、ニニギ命は、これを拒否し、木花開咲耶姫命だけを娶った。このため、ニ ニギ命の子孫は木の花のように命が短くなったという。
実は、これと非常に似た話が『旧約聖書』にある。この事実は、日ユ同祖論者の間では 、かなり古くから指摘されてきた。
イスラエルの祖ヤコブとラバンの物語である。「創世記」には、こうある。ヤコブを気 に入ったラバンは、娘を嫁がせることにした。ラバンには、娘がふたりいた。姉はレアと いい、妹をラケルといった。レアは目が弱く(優しいと翻訳している『聖書』もある)、 ラケルは容姿が美しかった。ヤコブは、妹のラケルを見初めた。が、義父ラバンは姉より も妹が先に嫁ぐことを嫌い、ヤコブにレアを嫁にするようにいった。結局、ヤコブはレア を嫁とした後に、ラケルをも嫁としてもらった。
ふたり姉妹の存在。姉よりも、妹の容姿が美しい。男は、ニニギ命にしても、ヤコブに しても、王家の祖となる人物。彼は、妹を望む。が、王家の外戚となる義父は、姉を勧め る。神話の構造としては、ほとんど同じである。
ここに秦氏が関わっていないと考えるほうがおかしい。木花開咲耶姫命を祀るのは、富 士浅間大社である。浅間大社の創建は、はっきりとしたことがわからない。祭神が本来、 石長姫だとか、もとは諏訪神社であったという説もある。しかし、この周辺に秦氏が散在 していたことを考えると、秦氏が創建に関わっていたことは十分、考えられる。
事実、富士山の北側にある川口浅間神社に秦氏が関わっていたことは判明している。こ のあたりは、もと秦屋敷と呼ばれ、神社も秦氏が管理していた。
これまで、日ユ同祖論において、ニニギ命とヤコブの関係は指摘されてきたが、その娘 である石長姫と木花開咲耶姫命が秦氏と関係があるのではないかという説はほとんど知ら れていない。富士山周辺の渡来文化を解明する上で、浅間神社は重要な鍵を握っていると 考えて間違いない。
このあたりの神社は、大山祇命を祀っているところが多い。三島大社の祭神も、大山祇 命である。大山祇命を祀る神社の総本山は、伊予の大三島にある大山祇神社だが、ここに は大山祇命は百済からやってきたという伝承が残る。つまり、渡来人が祀っていた神だと いうのである。
これを裏付けるように、三島大社と大山祇神社と並んで日本三大三島と呼ばれる大阪の 三島鴨神社は、その名にあるように、賀茂氏の神社。つまり、このことから、大山祇命を 祀っていたのは、賀茂氏であることがわかる。
三島大社の祭神は、事代主命だという説もあるが、これとても、もとは賀茂氏が祀って いたもの。鴨都津波八重事代主神社などは、その典型例である。東国においても、これは 顕著で、伊豆半島及び、伊豆諸島の神社は、みな事代主命を祀っている。地名にも、賀茂 郡が見られる。
さて、このあたりは、前回も触れたが、今回は大山祇命にこだわってみたい。大山祇命 とは、山の神である。似たような名称の神に大山咋神がいる。祀っているのは、京都の日 吉大社と松尾大社、いずれも秦氏系の神社だ。同じく京都において、大山祇命を祭ってい るのは、梅宮大社である。こちらは、松尾大社のすぐ向かいに鎮座する橘氏の神社である が、神職として数多くの秦氏がいたことが記録に残っている。察するに、大山祇命もまた 、本来は秦氏が祀っていた可能性がある。
賀茂氏と秦氏が同族であることからすると、大山祇命の背後には、ユダヤ的な背景があ るのではないか。そう思って調べていると、実に、興味深いことがわかった。大山祇命そ のものを見ていてはよくわからないが、注目は娘である。
大山祇命には、ふたりの娘がいた。姉を石長姫、妹を木花開咲耶姫命という。石長姫は 醜い顔をしていたが、木花開咲耶姫命は美しい容姿をしていた。記紀によると、天孫ニニ ギ命は木花開咲耶姫命と結婚したことになっている。が、本来、義父の大山祇命としては 、姉よりも先に妹が嫁にいくことを渋り、姉の石長姫をもらってくれるように頼んだとい う。が、結局、ニニギ命は、これを拒否し、木花開咲耶姫命だけを娶った。このため、ニ ニギ命の子孫は木の花のように命が短くなったという。
実は、これと非常に似た話が『旧約聖書』にある。この事実は、日ユ同祖論者の間では 、かなり古くから指摘されてきた。
イスラエルの祖ヤコブとラバンの物語である。「創世記」には、こうある。ヤコブを気 に入ったラバンは、娘を嫁がせることにした。ラバンには、娘がふたりいた。姉はレアと いい、妹をラケルといった。レアは目が弱く(優しいと翻訳している『聖書』もある)、 ラケルは容姿が美しかった。ヤコブは、妹のラケルを見初めた。が、義父ラバンは姉より も妹が先に嫁ぐことを嫌い、ヤコブにレアを嫁にするようにいった。結局、ヤコブはレア を嫁とした後に、ラケルをも嫁としてもらった。
ふたり姉妹の存在。姉よりも、妹の容姿が美しい。男は、ニニギ命にしても、ヤコブに しても、王家の祖となる人物。彼は、妹を望む。が、王家の外戚となる義父は、姉を勧め る。神話の構造としては、ほとんど同じである。
ここに秦氏が関わっていないと考えるほうがおかしい。木花開咲耶姫命を祀るのは、富 士浅間大社である。浅間大社の創建は、はっきりとしたことがわからない。祭神が本来、 石長姫だとか、もとは諏訪神社であったという説もある。しかし、この周辺に秦氏が散在 していたことを考えると、秦氏が創建に関わっていたことは十分、考えられる。
事実、富士山の北側にある川口浅間神社に秦氏が関わっていたことは判明している。こ のあたりは、もと秦屋敷と呼ばれ、神社も秦氏が管理していた。
これまで、日ユ同祖論において、ニニギ命とヤコブの関係は指摘されてきたが、その娘 である石長姫と木花開咲耶姫命が秦氏と関係があるのではないかという説はほとんど知ら れていない。富士山周辺の渡来文化を解明する上で、浅間神社は重要な鍵を握っていると 考えて間違いない。
埴輪
古墳からしばしば埴輪が出土する。埴輪の多くは人や家畜、家を象っている。一般に、これらは墓の主の家来や財産の代わりに埋葬されたといわれる。有名な秦始皇帝の兵馬俑と同じものである。
しかし、ひとつ違う点があるとすれば、材質である。日本の埴輪は、基本的に須恵器で あり、使用されるのは赤土と決まっている。埴輪の埴とは、そもそも赤土を意味する。ど うして、日本では、赤土を使用したのだろうか。もちろん、日本の国土では、赤土がごく ふつうに手に入るからというのが、大きな理由であろう。
だが、それだけだろうか。
埴輪や須恵器を専門に作った人々のことを土師氏という。見ての通り、土をこねる職人 といったイメージだ。天神様で有名な菅原道真が出た菅原氏は、この土師氏の一族である 。
興味深いのは、大物主神を祀ったことで知られる大田田根子は、陶邑の出身だった。陶 邑とは、須恵器を作る村で、土師氏と関係が深い。その大田田根子は三輪氏と賀茂氏の祖 先といわれる。三輪氏と賀茂氏は、いずれも秦氏系の一族。また、大田田根子は大氏であ り、大氏=多氏は秦氏である。つまり、いってみれば、大田田根子は秦氏であった可能性 が高い。秦氏であった大田田根子が須恵器、つまり土師氏の村出身だったとは、いったい 何を意味しているのだろうか。
思うに、ここには知られざるヘブライ文化が潜んでいるのではないか。
注目したいのは、埴輪の埴、すなわち赤土である。埴輪の多くは、人形である。人形埴 輪は赤土で作った人なのだ。
そう考えたとき、ひらめくものがあった。
アダムである!! 人類の祖アダムは、土から作られた。しかも、その土は赤土であった 。赤土をヘブライ語でアダマという。アダマから作ったので、アダムという名前になった ことが「創世記」に記されている。
神は赤土から人間を作った。絵画で象徴的に表せば、神が赤土で人形を作っている光景 となるだろう。
これと同じことをユダヤ人原始キリスト教徒である秦氏は手がけたのではないか。埴輪 とは、赤土で作ったアダムを象徴しているのではないだろうか。微笑を称える人形を埴輪 を見ていると、そう思えてくるから不思議である。
しかし、ひとつ違う点があるとすれば、材質である。日本の埴輪は、基本的に須恵器で あり、使用されるのは赤土と決まっている。埴輪の埴とは、そもそも赤土を意味する。ど うして、日本では、赤土を使用したのだろうか。もちろん、日本の国土では、赤土がごく ふつうに手に入るからというのが、大きな理由であろう。
だが、それだけだろうか。
埴輪や須恵器を専門に作った人々のことを土師氏という。見ての通り、土をこねる職人 といったイメージだ。天神様で有名な菅原道真が出た菅原氏は、この土師氏の一族である 。
興味深いのは、大物主神を祀ったことで知られる大田田根子は、陶邑の出身だった。陶 邑とは、須恵器を作る村で、土師氏と関係が深い。その大田田根子は三輪氏と賀茂氏の祖 先といわれる。三輪氏と賀茂氏は、いずれも秦氏系の一族。また、大田田根子は大氏であ り、大氏=多氏は秦氏である。つまり、いってみれば、大田田根子は秦氏であった可能性 が高い。秦氏であった大田田根子が須恵器、つまり土師氏の村出身だったとは、いったい 何を意味しているのだろうか。
思うに、ここには知られざるヘブライ文化が潜んでいるのではないか。
注目したいのは、埴輪の埴、すなわち赤土である。埴輪の多くは、人形である。人形埴 輪は赤土で作った人なのだ。
そう考えたとき、ひらめくものがあった。
アダムである!! 人類の祖アダムは、土から作られた。しかも、その土は赤土であった 。赤土をヘブライ語でアダマという。アダマから作ったので、アダムという名前になった ことが「創世記」に記されている。
神は赤土から人間を作った。絵画で象徴的に表せば、神が赤土で人形を作っている光景 となるだろう。
これと同じことをユダヤ人原始キリスト教徒である秦氏は手がけたのではないか。埴輪 とは、赤土で作ったアダムを象徴しているのではないだろうか。微笑を称える人形を埴輪 を見ていると、そう思えてくるから不思議である。
地球儀
先日、『神々の指紋』で有名なグラハム・ハンコック氏が来日。新作『神々の世界~アンダーワールド』のキャンペーンと講演を行った。
この間、わずか2週間ほどであったが、ハンコック氏はいくつか日本の遺跡や史跡を取材している。そのなかに、実は「聖徳太子の地球儀」があった。
聖徳太子の地球儀とは、兵庫県の斑鳩寺に伝わる宝物で、文字通りの地球儀である。大きさは、ソフトボールほどで、表面には日本列島のほか、ユーラシア大 陸やアフリカ大陸、それに南北アメリカ大陸が浮き彫りにされている。驚くべきことに、なんと、そこには南極大陸までが描かれているのである。
これが聖徳太子の時代、すなわち7世紀に製作されたものならば、まさに世界最古の地球儀である。しかも、当時は未発見だった南極大陸が描かれていることから、オーパーツと呼ぶにふさわしい遺物である。
しかし、詳しい来歴は寺にも残っていない。江戸時代、1818年に記された宝物帳には「地利石」と記されていることから、少なくとも約190年は遡るこ とができる。いみじくも、1818年という年は、南極大陸が発見されたとされる年でもある。状況から行って、南極大陸の情報が日本に伝わって、地球儀が製 作されたとは考えられない。
その意味で、「ピリ・レイスの地図」や「オロンティウス・フィナウスの地図」と肩を並べるオーパーツ地図といっていい。いや、ひょっとすると、南蛮貿易によって、そうした地図の情報が伝来し、それをもとに製作された地球儀なのかもしれない。
ところで、聖徳太子の地球儀を所蔵する斑鳩寺は、その名の通り、聖徳太子の領地があった場所である。そのため、聖徳太子の配下にあった人々が数多く連れてこられ、今も、その子孫が住んでいる。なかでも、最大勢力は、いうまでもなく秦氏である。
斑鳩寺の近くにある鶴林寺を創建したのは、聖徳太子のブレーンだった秦河勝。少し行けば、赤穂があり、そこには秦河勝が祀られている大避神社がある。まさに、ここ一帯は秦氏のコロニーがあった場所といっていい。
はるか西アジアからやってきた秦氏が敷衍した土地に、不可解なオーパーツ「聖徳太子の地球儀」が存在するのも、何かの縁だろうか。ひょっとすると、この地球儀を造ったのは秦氏だったのかもしれない。
この間、わずか2週間ほどであったが、ハンコック氏はいくつか日本の遺跡や史跡を取材している。そのなかに、実は「聖徳太子の地球儀」があった。
聖徳太子の地球儀とは、兵庫県の斑鳩寺に伝わる宝物で、文字通りの地球儀である。大きさは、ソフトボールほどで、表面には日本列島のほか、ユーラシア大 陸やアフリカ大陸、それに南北アメリカ大陸が浮き彫りにされている。驚くべきことに、なんと、そこには南極大陸までが描かれているのである。
これが聖徳太子の時代、すなわち7世紀に製作されたものならば、まさに世界最古の地球儀である。しかも、当時は未発見だった南極大陸が描かれていることから、オーパーツと呼ぶにふさわしい遺物である。
しかし、詳しい来歴は寺にも残っていない。江戸時代、1818年に記された宝物帳には「地利石」と記されていることから、少なくとも約190年は遡るこ とができる。いみじくも、1818年という年は、南極大陸が発見されたとされる年でもある。状況から行って、南極大陸の情報が日本に伝わって、地球儀が製 作されたとは考えられない。
その意味で、「ピリ・レイスの地図」や「オロンティウス・フィナウスの地図」と肩を並べるオーパーツ地図といっていい。いや、ひょっとすると、南蛮貿易によって、そうした地図の情報が伝来し、それをもとに製作された地球儀なのかもしれない。
ところで、聖徳太子の地球儀を所蔵する斑鳩寺は、その名の通り、聖徳太子の領地があった場所である。そのため、聖徳太子の配下にあった人々が数多く連れてこられ、今も、その子孫が住んでいる。なかでも、最大勢力は、いうまでもなく秦氏である。
斑鳩寺の近くにある鶴林寺を創建したのは、聖徳太子のブレーンだった秦河勝。少し行けば、赤穂があり、そこには秦河勝が祀られている大避神社がある。まさに、ここ一帯は秦氏のコロニーがあった場所といっていい。
はるか西アジアからやってきた秦氏が敷衍した土地に、不可解なオーパーツ「聖徳太子の地球儀」が存在するのも、何かの縁だろうか。ひょっとすると、この地球儀を造ったのは秦氏だったのかもしれない。
庭師
いきなり、クイズです。伝説の漫画「天才バカボン」に登場するバカボンのパパの職業は何でしょう。
答えは、庭師。漫画の中では、ほとんど家でぐうたらしているように見えるバカボンのパパですが、庭師というれっきとした職人さんなのです。そういえば、アニメのなかで、パパが梯子かついで庭で樹の枝を切っているシーンを思い出す方もいるのではないでしょうか。
庭師ってのも、考えてみると、実に日本的な職業ですよね。
先日、新聞を読んでいると、夕刊の「横浜版」のコーナーに「パリに渡った天才庭師」 という記事を見つけた。今から113年ほど前、フランスのパリで当時の文化人を熱狂さ せた日本人庭師がいたというのだ。
慶応大学の鈴木順二教授によると、男は横浜出身。1889年に開かれたパリ万国博覧 会に、時の明治政府が日本庭園を出品することになり、その仕事を請け負ったらしい。単 身、パリに渡った男は、見事な腕前を披露し、当時のフランス人たちをうならせた。日本 の盆栽はエキゾチックな芸術として、彼らの目には映ったらしい。
だが、それにもまして、恐らく男は相当腕のいい庭師だったのだろう。文人貴族として 知られるロベール・ド・モンテスキウ伯爵は、日本からやってきた庭師にほれ込み、つい に自らの屋敷に招き、男を専任の庭師として雇ったという。
また、かの有名な作家マルセル・プルーストが書いた「失われた時を求めて」に登場す る日本人庭師のモデルは、彼だというのだ。しかも、その後、男は大富豪ロスチャイルド にも雇われたというから、すごい。
しかし、この新聞記事で、何よりも筆者の琴線に触れたのは、その庭師の名前である。 フランスの記録には「ハタワスケ」とある。鈴木教授の調査によると、ハタワスケとは日 本語で「畑和助」というらしい。
畑氏。うむ、きっと秦氏に違いない。古来、秦氏は高度な技術で知られた一族。ハタワ スケが秦氏なら、彼はユダヤ人原始キリスト教徒の末裔である。そのハタワスケが遠い異 国で、奇しくも、同じユダヤ人であるロスチャイルドに雇われたとは、なんとも不思議な 因縁を感じずにはおられない。
庭師という職業は、その家の庭に入って仕事をする。それゆえ、家人と親密になること はもちろん、お家事情に通じることになる。よく時代劇などで、密命を帯びた忍者が庭師 となって、大名の情報を収集する場面を見るが、それもそのはず。能と忍者が表裏一体の ように、庭師と忍者も表裏一体なのだ。
能や忍者が秦氏の専売特許であったように、庭師もまた、多くは秦氏だったのだ。庭を 作るとは、それ自体、宇宙を作ることと同じ。それは天地を創造した絶対神の御業に通じ る。京都のお寺の庭を見るとわかるが、庭石ひとつとっても、そこには計算しつくされた 美学がある。まさに、芸術だ。
フランスに渡った日本人庭師ハタワスケ、彼もまた、先祖伝来の芸術センスを受け継い だひとりであったからこそ、ロスチャイルドの目にも留まったのではないだろうか。
ところで、だとすると、ひょっとしてバカボンのパパもまた、実は秦氏の末裔だったのか……。
答えは、庭師。漫画の中では、ほとんど家でぐうたらしているように見えるバカボンのパパですが、庭師というれっきとした職人さんなのです。そういえば、アニメのなかで、パパが梯子かついで庭で樹の枝を切っているシーンを思い出す方もいるのではないでしょうか。
庭師ってのも、考えてみると、実に日本的な職業ですよね。
先日、新聞を読んでいると、夕刊の「横浜版」のコーナーに「パリに渡った天才庭師」 という記事を見つけた。今から113年ほど前、フランスのパリで当時の文化人を熱狂さ せた日本人庭師がいたというのだ。
慶応大学の鈴木順二教授によると、男は横浜出身。1889年に開かれたパリ万国博覧 会に、時の明治政府が日本庭園を出品することになり、その仕事を請け負ったらしい。単 身、パリに渡った男は、見事な腕前を披露し、当時のフランス人たちをうならせた。日本 の盆栽はエキゾチックな芸術として、彼らの目には映ったらしい。
だが、それにもまして、恐らく男は相当腕のいい庭師だったのだろう。文人貴族として 知られるロベール・ド・モンテスキウ伯爵は、日本からやってきた庭師にほれ込み、つい に自らの屋敷に招き、男を専任の庭師として雇ったという。
また、かの有名な作家マルセル・プルーストが書いた「失われた時を求めて」に登場す る日本人庭師のモデルは、彼だというのだ。しかも、その後、男は大富豪ロスチャイルド にも雇われたというから、すごい。
しかし、この新聞記事で、何よりも筆者の琴線に触れたのは、その庭師の名前である。 フランスの記録には「ハタワスケ」とある。鈴木教授の調査によると、ハタワスケとは日 本語で「畑和助」というらしい。
畑氏。うむ、きっと秦氏に違いない。古来、秦氏は高度な技術で知られた一族。ハタワ スケが秦氏なら、彼はユダヤ人原始キリスト教徒の末裔である。そのハタワスケが遠い異 国で、奇しくも、同じユダヤ人であるロスチャイルドに雇われたとは、なんとも不思議な 因縁を感じずにはおられない。
庭師という職業は、その家の庭に入って仕事をする。それゆえ、家人と親密になること はもちろん、お家事情に通じることになる。よく時代劇などで、密命を帯びた忍者が庭師 となって、大名の情報を収集する場面を見るが、それもそのはず。能と忍者が表裏一体の ように、庭師と忍者も表裏一体なのだ。
能や忍者が秦氏の専売特許であったように、庭師もまた、多くは秦氏だったのだ。庭を 作るとは、それ自体、宇宙を作ることと同じ。それは天地を創造した絶対神の御業に通じ る。京都のお寺の庭を見るとわかるが、庭石ひとつとっても、そこには計算しつくされた 美学がある。まさに、芸術だ。
フランスに渡った日本人庭師ハタワスケ、彼もまた、先祖伝来の芸術センスを受け継い だひとりであったからこそ、ロスチャイルドの目にも留まったのではないだろうか。
ところで、だとすると、ひょっとしてバカボンのパパもまた、実は秦氏の末裔だったのか……。
歌舞伎
早いもので、師走も、もう半ば。年の瀬である。あと2週間ほどたてば、年末。大晦日には、恒例の紅白歌合戦が待っている。司会者はNHKのアナウンサーというのが定番だが、今から数年前、紅組の司会者を松たか子が努めたことは記憶に新しい。
松たか子といえば、いわずと知れた若手女優。松嶋菜々子と並び称されたこともある。 男性のみならず、女性の好感度も高い。最近は歌手デビューするなど、芝居以外でも活躍 していることは、ファンならずとも、ご存知だろう。
実は彼女、秦氏なのである。
本名は、藤間隆子。父親は、いうまでもない。かの歌舞伎スター、松本幸四郎、その人 である。松本幸四郎は世襲名で、彼は9代目。本名を藤間昭暁という。子供には、松たか 子のほか、松本紀保、そして7代目、市川染五郎がいる。
一方、9代目、松本幸四郎の父親は、8代目、松本幸四郎こと、松本白鴎。さらに、そ の父親、すなわち祖父が7代目、松本幸四郎にあたる。彼は9代目市川団十郎に師事し、 市川金太郎と称した後、市川染五郎を襲名。さらに、市川高麗蔵となり、明治44年に7代 目松本幸四郎を襲名する。
彼の本名は、藤間金太郎という。歌舞伎の本を見れば、そう書いてある。が、彼には、 もうひとつ名前があった。というのも、藤間金太郎は藤間家に入った養子で、実家の姓は 「秦」なのだ。つまり、彼は、もともと秦金太郎だったのだ。
さて、ここで改めて秦金太郎こと、7代目松本幸四郎の系図を見てみると、これがなか なかすごい。彼の長男は市川家に養子に入り、11代目市川団十郎を襲名、その息子が12代 目市川団十郎。次男は8代目松本幸四郎で、三男は6代目菊五郎の門弟となり、息子が初 代辰之助。長女は中村雀右衛門の妻となり、息子に大谷友右衛門と中村芝雀がいる。
とまぁ、典型的な歌舞伎一族。歌舞伎界の中枢の一端を担っているといっても、過言で はあるまい。まさに、秦氏が歌舞伎を支えているのである。
秦金太郎のルーツを遡ると、三重県で栄えた秦氏らしい。一族には、三菱商事社長の槙 原稔氏のほか、演劇プロデューサーで知られる秦豊吉がいる。実に、秦氏の名門であると いっていいだろう。
思えば、日本の伝統芸能である能や狂言は、秦氏が担っていた。同じ伝統芸能である歌 舞伎の世界に秦氏がいるのも、その意味では、当然のことといえよう。
いや、もっといえば、カッバーラの伝統を保持した者ならば、必然的に演劇の世界に近 づくのである。古代において、演劇は神話をテーマとしていた。神話で演じるのは神々で ある。演劇を通じて、人は神と一体となり、ひいては神となったのだ。
事実、古代密儀では、例外なく神々の演劇が行われる。それは古代エジプトのイシス密 儀、ペルシアのミトラス密儀、ギリシアのデュオニソス密儀、そして近代でも、フリ-メ ーソンの密儀も、まったく同じだ。
恐らく原始キリスト教においても、同様の密儀はあったはずである。イエス・キリスト の生涯をなぞる儀式によって、イエス・キリストと一体となる教義が存在したに違いない 。現在のキリスト教のミサで行われる聖餐式も、そうした密儀のひとつと見なすこともで きる。
ユダヤ人原始キリスト教徒の末裔である秦氏が演劇による密儀を保持し、その伝統が能 や狂言、ひいては歌舞伎にまで流れていった。そう思って鑑賞すると、日本の伝統芸能も また、違った味わいがあるのではないだろうか。
松たか子といえば、いわずと知れた若手女優。松嶋菜々子と並び称されたこともある。 男性のみならず、女性の好感度も高い。最近は歌手デビューするなど、芝居以外でも活躍 していることは、ファンならずとも、ご存知だろう。
実は彼女、秦氏なのである。
本名は、藤間隆子。父親は、いうまでもない。かの歌舞伎スター、松本幸四郎、その人 である。松本幸四郎は世襲名で、彼は9代目。本名を藤間昭暁という。子供には、松たか 子のほか、松本紀保、そして7代目、市川染五郎がいる。
一方、9代目、松本幸四郎の父親は、8代目、松本幸四郎こと、松本白鴎。さらに、そ の父親、すなわち祖父が7代目、松本幸四郎にあたる。彼は9代目市川団十郎に師事し、 市川金太郎と称した後、市川染五郎を襲名。さらに、市川高麗蔵となり、明治44年に7代 目松本幸四郎を襲名する。
彼の本名は、藤間金太郎という。歌舞伎の本を見れば、そう書いてある。が、彼には、 もうひとつ名前があった。というのも、藤間金太郎は藤間家に入った養子で、実家の姓は 「秦」なのだ。つまり、彼は、もともと秦金太郎だったのだ。
さて、ここで改めて秦金太郎こと、7代目松本幸四郎の系図を見てみると、これがなか なかすごい。彼の長男は市川家に養子に入り、11代目市川団十郎を襲名、その息子が12代 目市川団十郎。次男は8代目松本幸四郎で、三男は6代目菊五郎の門弟となり、息子が初 代辰之助。長女は中村雀右衛門の妻となり、息子に大谷友右衛門と中村芝雀がいる。
とまぁ、典型的な歌舞伎一族。歌舞伎界の中枢の一端を担っているといっても、過言で はあるまい。まさに、秦氏が歌舞伎を支えているのである。
秦金太郎のルーツを遡ると、三重県で栄えた秦氏らしい。一族には、三菱商事社長の槙 原稔氏のほか、演劇プロデューサーで知られる秦豊吉がいる。実に、秦氏の名門であると いっていいだろう。
思えば、日本の伝統芸能である能や狂言は、秦氏が担っていた。同じ伝統芸能である歌 舞伎の世界に秦氏がいるのも、その意味では、当然のことといえよう。
いや、もっといえば、カッバーラの伝統を保持した者ならば、必然的に演劇の世界に近 づくのである。古代において、演劇は神話をテーマとしていた。神話で演じるのは神々で ある。演劇を通じて、人は神と一体となり、ひいては神となったのだ。
事実、古代密儀では、例外なく神々の演劇が行われる。それは古代エジプトのイシス密 儀、ペルシアのミトラス密儀、ギリシアのデュオニソス密儀、そして近代でも、フリ-メ ーソンの密儀も、まったく同じだ。
恐らく原始キリスト教においても、同様の密儀はあったはずである。イエス・キリスト の生涯をなぞる儀式によって、イエス・キリストと一体となる教義が存在したに違いない 。現在のキリスト教のミサで行われる聖餐式も、そうした密儀のひとつと見なすこともで きる。
ユダヤ人原始キリスト教徒の末裔である秦氏が演劇による密儀を保持し、その伝統が能 や狂言、ひいては歌舞伎にまで流れていった。そう思って鑑賞すると、日本の伝統芸能も また、違った味わいがあるのではないだろうか。