萬亀眼鏡の東京散歩
「季節に1度の東京散歩の会」 飯森好絵 8月6日 今回のテーマは「新宿辺境」。新宿というと現在では、都心というイメージがあるだろう。そこにあえて、逆の意味を持つ言葉をぶつけてみた。しかし、テーマの意味するところは極めて単純で、新宿区境を歩くというものだ。なので、多くの人がイメージする新宿駅周辺の繁華街を指して、新宿と言っているわけではない。飯田橋から四谷は見附や濠など、「江戸」を感じる要素が多く、御料地から新宿御苑までは都心にして静けさがあり緑豊か。新宿区といっても一口にくくれない魅力がある。そこで、飯田橋駅から市ヶ谷、四谷にかけて外濠沿いを歩き、赤坂御料地、神宮外苑、新宿御苑、都庁へと向かうコースを組んでみた。 当日は、青空に猛暑。夏の散歩に欠かせないものは水と帽子。せっかくの楽しい散歩で熱中症などになってはいけない。参加者はそれぞれ水分補給のための水筒やらペットボトルやらを手にしている。午前10時30分、飯田橋駅前、牛込橋を望みつつ集合した面々は散歩の達人ぞろい。今回は、夏休み最初の三連休であるし、距離もかなりあるので、散歩を心から愛する人のみでこぢんまりという回になるだろう、という予想通り、8人でのスタートになった。 牛込見附を眺めつつ、外濠沿いの遊歩道の日陰を選ぶ。中央線の窓からこの水辺の桜を眺めたことのある人も多いと思うが、ここから法政大学にかけて、実際に歩いてみたことはあるだろうか? 外濠を挟んで、新宿区側の外堀通りは交通量の多い大きな道なのだが、こちら側は静かで気持ちがよい。テーマに沿って言えば、外堀通りを歩くべきなのだが、散歩の楽しさを追及するために千代田区側を歩いた。市ヶ谷で外堀通りに再び出て、そこからさらに四谷へ公園を抜けていく。途中、テニスコートでは、炎天下、多くの人が黄色いボールを追っていた。その先に児童遊園があり、らせん階段をのぼるかなりの高さがある滑り台を発見。これは上らずにはいられまい、と子どもの後についていく。成長しきってしまった体にはちょっと窮屈な作りだったが、てっぺんの見晴らしはかなりよい。くるくると回りながら滑っていくのもなつかしい感触。これは身を曲げて上ったかいがあったというものだ。サイズに合わないことをしてみるのも異世界を感じるという意味でたまにはよいかもしれない。 11時半、四ツ谷駅に到着。地名は四谷だが、駅名は四ツ谷だ。駅前には上智大学があり、キリスト教用品や書籍を売る店あり、歴史ある薬屋あり、飲み屋街あり、のちょっとごった煮気味のオフィス街である。 迎賓館の門の前にははとバス。東京観光に迎賓館を訪れるものなのか、と感心する。門から遠く離れて建つ迎賓館は明治42年、日本人初の建築家4人組の1人である片山東熊によって東宮御所としてつくられた。村山藤吾によって改装され迎賓館として機能し始めるのは昭和49年のことだ。外見も華やかだが、手元にある本の写真を見ると、内部のきらびやかさには目を見張らせるものがある。時期を限って一般公開されているので、ぜひ見物してみようと思う。 御用地の緑深さを横目に坂をのぼり、明治記念館に入る。明治期の車寄せがあるこの建物で大日本帝国憲法草案が審議され、ここに移築されたという。こんなに素晴らしい近代和風建築が世間に知られていないほうがおかしい、というブレインの1人の声にじっと車寄せの天井をみつめていると、ライトをセロハンテープで補強してあるのを発見。いやはや、このアバウトさに私は魅力を感じてしまう。 明治に思いを馳せるのなら、隣の絵画館も忘れてはならない。明治天皇の「偉業」を称えた絵画を並べた聖徳(せいとく)記念絵画館は、まさに歴史の教科書だ。実際、教科書に掲載されている絵も数多い。ただ、現在の視点で見ると差別的であったり、問題になる表現も散見される。韓国併合もここでは「業績」として韓国各道に金を出させて絵をかかせている。さて、これをどう子どもたちに伝えていくか、が問題になるわけだが、まずはこの絵画館を訪れて実際の表現をみてほしいと思う。 神宮外苑から千駄ヶ谷に抜ける途中、廃墟となりかかっている1軒の家を見つけた。本来ならすでに取り壊してビルを建てる予定だったようだが、着工予定時期をすぎてなお、放っておかれている。人造洗い出しの壁で裏を覗くと木造になっている。アパートとして使われていたのだろうか、と勝手に想像してみたり、高速の入り口にこんな建物が取り残されているのかしらと不思議がってみたり、遅かれ早かれ取り壊されることになるのだろう建物をじっと目に焼き付けた。 新宿御苑でしばし休憩をとる。短く刈られた芝生の上に座り足を伸ばす。大きな木の日陰はさすがにほっとする。一日中、新宿御苑でのんびりしてみたいものだ、と忙しく飛び回っている自分の生活ぶりを反省しつつ、横になる。あぁ、いつか御苑で寝転がりながら、文庫本を読む休日を持とう、と心に誓った。フランス庭園、イギリス庭園、日本庭園とさまざまな趣向をこらし、きれいに整備された苑内はかなり快適である。ただし、開かない正門はうらめしい。ここには案内板すらないのだ。この立派な正門は、政府や皇室の行事以外では使用されないという。新宿御苑で昭和天皇の大葬の礼が行われたときはもちろん開けられたそうだ。やはり「御苑」だ、ということを感じさせられる話である。 最後の目的地は東京都庁。ここの展望台で歩けなかった新宿区界を眺めることにする。もやってはいるものの、視界は思ったほど悪くない。東京を一望する勢いだ。そして、行程を目で追ってみる。あそこから歩いたの!と改めて驚く一同。いくら歩きなれている散歩人とはいえ、暑さと距離の再認識でばて気味。我慢できず、展望台において、ビールでのどを潤し、会をしめた。 「あの建物の過去」 8月13日 最近、廃墟が好きな人に会うことが多い。使われていないが、壊されることもなく放っておかれる建物がそれだけ多いのだろうと思う。 人に打ち捨てられた建物を見るのは興味深い。解体直前の建物を覗くと、住んでいた人の好みや日常をうかがううことができるし、放置された建物には傷んだ家具が転がっていてりして不思議な印象を受ける。小説を読むのと同じで、自分で経験しない何かを経験した気になるのだろうか? それとも過去に対する憧れであろうか? 何かひきつけるものがあるのだ。 ただし、廃墟を訪ねる趣味を持つとなかなかやっかいなようである。たいてい、そういうものは誰かの所有で、塀やら金網やらで囲われていることが多い。けれど、中を見るのに許可を得られたり、所有者といっしょに行くのはほとんどないので、どうしたって不法侵入になる。そうすると周囲の目を気にしつつ、警察に通報されないかとひやひやしつつ歩いたり、夜中に肝試しのように懐中電灯片手に見に行くこともあるという。怪談話や幽霊話が夏にはよく合うように、ひんやりとした廃墟を訪れるときも「こっそり」がぴったりなのかもしれない。 現在使用されていない建物を訪れることがあるが、関係者とともに、使われていた当時の様子やなぜ放置してあるのか、これからどうするのかなどの話をしながら歩くことが多い。なので、ヒヤヒヤ感を味わうことはないし、本当の意味での廃墟を巡っているとはいえないと思う。けれど私は土地や建物に貼りつくできごとを知るのが好きなので、事情に詳しい人と歩くほうが性にあう。 建築計画の看板が掲げられたっきりそのまま放置された家や、誰にも手入れされず朽ちていく建物がきっと身の回りにあるだろう。その建物は何のために建てられ、どういう事情で使われなくなったのだろうか? 不法侵入しないまでもそんな建物を外から眺めてものを思うだけでもなかなか楽しいものだ。 「1930年代デザインに触れる2001年」 8月27日 わたくしの友人が「昭和7年(1932年)と上野」という、つながりがありそうな、なさそうなよく分からないテーマを掲げたイベントを催すという。そのための準備をしている勉強会にほんのちょっと顔をつっこんでいて、そのテーマに関係することはないかとセンサーを張っている。表面上は自由な都市生活を満喫しているように見えて、実は戦争へ向けて国民総動員の準備をしていたといわれるこの時期について、知れば知るほど興味深いことがいっぱいだそうだ。演劇・歴史・フランス文学の専門家がそれぞれ自分の興味に従って調べたことを論文にまとめるそうで、わたくしは脇で議論を聞いているだけで面白い。散歩人はそういう耳学問で地域を散歩するコースを設定しようと思っている。 とはいえ、話を聞いているだけでは面白くないので、その会へ持ち込むネタはないかと探していたところ、京橋にある東京国立近美術館フィルムセンターで催されている「1930年代日本の印刷デザイン」という企画展を知った。印刷デザインといえば、広告やポスター、チラシなど、世相を如実に表すものに関係している。何かあるに違いない。 展示室に入ってみると、ポスターの貼られていた状況が目に浮かんでくる。劇場の前に貼られたか、職場の廊下か…。プロパガンダ的なものが強く、レタリングや標語に現れてくる強い主張は見る者に直接的に届くように考えられている。「化粧より清潔」「明るい出勤.明るい家庭.」などおせっかいな標語を掲げたポスターなど、個人の生活に国が介入していく様が見え、ちょっとうんざりしたり、ブラジルでの夢の生活を誘う移民募集のポスターにうまい話はないぞ、とつぶやいてみたりする。バウハウス的な幾何学的構成の写真雑誌はかっこいいと改めて感じる。デコラティブな1920年代のデザインは好ましいものだが、1930年代の新しい感覚のグラフィックは刺激的だ。 と、見ながら感想だけしか出てこないことに気付き、「いやはや、学者にはなれないのだ」と確信し、ミーハー散歩人を貫こうと展覧会を出た。銀座線に乗り、このまま上野に行くこともありだが、近所の銀座を歩くほうがふわふわと楽しいような気がした。自由な都市生活者が平和に生きていける世がずっと続きますように! 戦争へ近づく1930年代の再来がないことを願いつつ、華やかな繁華街のデザインを見つめた。 |
「昼の顔と夜の顔」
9月3日 横浜の繁華街のひとつ、伊勢崎町。何となくこわいイメージを持っていて行ったことがなかったのだが、「ディープな横浜を巡る/「おしゃれな街横浜」でない横浜を見る」、という面白いお誘いがあり、横浜トリエンナーレの開催前日の9月1日、8人グループの後ろにくっついて行くことにした。 JR関内駅北口から地下道マリナードを通る。この道は馬車道と伊勢崎町を結ぶ便利な道なのに、それほど人が集まらないという。JRの構内を出ると、伊勢崎町のゲートが目に見えるので、気がはやり、信号を待ったり、広い道路を渡らなくて済んだり、というメリット豊富な地下街に目が行かないのだそうだ。伊勢崎町の商店街は買い物客で賑わっているのに、この地下街に下りてみようと思う人はまれなのか、人がまばら。不思議なものだ。 まずはメインストリート伊勢崎町。大きいゲートが我々を迎える。この辺り、どこの横丁やモールもゲートをあしらい、商店街の存在をアピールしている。まるで鳥居のような感じで、何となく結界のようでもある。その高いゲートをくぐると、「道路」と「店が土地を道として提供した部分」とで構成された広々としたレンガ敷きのペイブメントが続く長い商店街がある。かつてゆずが店頭で歌ったという横浜松坂屋など老舗も多く、華やかな通りで、まだまだ、おしゃれな町横浜のイメージを裏切らない街並みになっている。(警備員がそこら中にいることはこの際、無視しよう。) そこから脇にそれ、吉田町に出る。1階は商店になっていて、2階以上は住居になっている長いビルが注目ポイントだ。古くからの商店が共同で建てたものだそうで、染め物屋や履物屋など時代がかった店も入っている。その近所の福富町の小路を覗くと、格子状のデザインが施された公団住宅が見えた。何かがある!と直感し、すたすた歩こうとしたら、そこは後からのお楽しみと言われて、夕方になってから訪れたのだが、これまたびっくりの代物。1階は韓国人の経営であろうと思われるいろいろな店が入り込んでいて、一帯には雑然感が漂っている。看板にはハングル文字。よく耳を澄ますと日本語以外の言葉が耳に入る。この建物自体は典型的な公団住宅で、中庭をつくり、ぐるりとアパートでそれを囲っている。そこにはフェンスで囲ってある小さい公園が残っているのも不思議な感じだ。もちろん、上には人は住んでいるわけで、なぜこんな形態で商売が始まったのか、住み心地はどうなのか、など興味は尽きない。 吉田町から大岡川、都橋の袂にたどり着く。目に飛び込んできたのは川にへばりつくように建てられている長屋のようなもの。2階はすべて飲食店。スナックやパブなどが大半を占めるという。階段には抱きつきすりにご用心などと物騒な掲示。蹴り上げが狭く、急な階段は酔っ払いにはかなりつらいのではないかとも思われ、足元ご注意というような張り紙もあった。川の裏側から見ると川に沿って建物がカーブしているのがよく分かる。川沿いにびっしりと生えているという感覚だ。昼間は閑散として、空いている店はほとんどない。共同トイレも女性用は鍵がかけられており、店の人に鍵を借りないと入れないようなシステムになっていることが推測できる。これが夜になるとすべての店がこうこうと明かりをつけ客をひきつけるのかと思うといかにも愉快だ。日本では、橋の袂に市が開かれたり、歓楽街ができたり、という歴史があり、この地域は歴史どおりの使われ方をしていると言っても過言ではないだろう。 この大岡川沿いにはさらにすごいものがある。お姉さんが小屋の中から男の人へ「ちょっと寄って来なさいよ」と声をかけるという世界で最古の職業を営む場があるのだ。その小屋は2階建て。その気になれば、金を払い、2階へそろって上がって行く、というシステム。ここでは、集団行動はご法度。参加メンバーそれぞれ距離をとり、じろじろと眺めず、普通に歩くフリをしろとの指令が飛ぶ。あっけらかんとした女の人たちが、日本人のアクセントとは思えない日本語で前方を歩くメンバーに暇そうに声をかけるが、こちらは無視してすたすた通り過ぎる。閑散とした昼間だったし、あっというまに終わってしまったので、少々拍子抜けしたが、この街がどんな街なのかがよくわかる例だ。付近は夜の9時をすぎると、街頭にも女性が立ち始め、街行く男性の袖を引っ張るのだという。 川を再度渡り、野毛へ入る。大道芸で有名になったこの辺りは、正真正銘の飲食店街だ。立ち飲みの店が出ていたり、屋台風の店があったりと庶民派の店も多いようだ。店の奥深い路地に、お稲荷さんが奉ってあるのを見つけたときは、精神覚醒、少々興奮してしまった。こういうポケットのような場所が存在するなんて、とてもステキだ。こんな路地には大勢で行っては絶対にダメ。散歩人を筆頭に、興味津々の3人が、間隔をあけてお参りして満足を得る。野毛は、関内で働く人が夜毎、集まってくる飲食店街だそうで、古くからの店が多いという。だからこそ、路地に奉られたお稲荷さんなぞもあるのだろう。確かにチェーン店などは少なく、個人経営の小ぢんまりとした店が目立つような気がした。 そして夜。都橋のそばの公園では仲良し3家族ぐらいでまとまって大きな花火を楽しんでいた。すぐ脇には様々な風俗店がある。飲食店街がある。そして、幸せ家族が住んでいる。街はすべてを飲み込むのだ。汚い部分、欲望を満たす部分もあって、人間が生活していける「健全な」街になるのだから、この街の風景はごく自然なものなのかもしれない。 「早稲田通りの迷図」 9月10日 東京を歩くことを日々楽しんでいても、この都市は歩くようにできていないと思うことが少なくない。かなり大きな道でも歩道が整備されていないことがあるし、裏道を抜け道としてかなりのスピードで走り抜ける車もある。とはいえ、車自体が入って来れないような細い道が東京のここそこに存在するのも確かだ。 高田馬場駅から山手線の外側に出て、神田川の手前。この辺り、実はラビリンスだ。早稲田通りから奥に入ると、まっすぐ伸びる道はまずなく、2メートルほどの路地がくねくねとまわっている。見晴らしがよくないから、その先に何があるのかが分からない。ちょっと曲がった先には小さな公園があったり、昔からずっと変わらないだろうと思われるよろず屋風の食料品店や八百屋、銭湯などぽつんぽつんと並んでいたりする。ここだけに限らず、高田馬場から、早稲田、神楽坂に至るまで、早稲田通り沿いには、直角に交わらない道が多くある。早稲の田んぼが広がっていた昔のままの道なのだろうと想像している。 こういう路地は、大勢で歩かない方がよい。騒がしくしていないつもりでも、大人数というだけで、目立つし、何事かと思われる。一人で静かに通り抜ける方が町のサイズに合っている。緊急車両も通れないのではと思われるような細い道を歩くときはとても気を遣うものだ。まるで庭を歩いているような気分になるのだから。窓を開け放している家や、玄関先に丹精こめた鉢植えを並べている家など、道が家と一体化しているように見える。「軒先で老人が将棋など指す」という世界に近しいものがあるだろう。いわゆる下町的な雰囲気がある、と言う人もいるだろうし、無計画な町作りの典型だと言う人もいるだろう。どちらにしても、東京にはこういう細街路が存在するわけだ。路地の雰囲気を味わいたくて、谷中などに繰り出す人は多い。しかし、そこに人が住んでいるということに注意を払い、さりげなく、通り過ぎるようなそぶりをしてほしいと思う。繁華街でなく、生活の場なのである。それを覗かれたいと思う人は誰もいないだろう。 実は、私にしてもここを歩こうと意図したわけではなく、新宿区中央図書館へ行ってみたところ、休館していて、なんとなく来た道を戻るのはつまらないと思い、路地に入り込んでしまったのだ。いつもと違う道を歩くというだけでもワクワクする。そんな心持ちになれる散歩人は得な人生を歩んでいるな、と思うこの頃である。 「お気に入りのバス」 9月17日 いつもは自転車で通うのに雨が降るとバスで学校に行っていた高校時代はバスに乗るのが嫌いだった。渋滞などで、朝の一分一秒が惜しいときにときに10分以上も待つことがざらにあったし、時には満員で何台か見送らなければ乗れないことも少なからずあった。また、私が通う高校の手前にあった女子校の生徒のおしゃべりがうるさくて読書すらできなかったことも嫌いだった原因だろう。自転車なら自由に風を切れるのに、思うままならない時間がいやでしかたなかったのだ。そんなわけで、バスに乗るといつも、雨に曇った窓から水ににじんだ風景を眺めつつ、ため息をついていたことを覚えている。けれど、そんな時間にバスに乗らなくなってから、バスに乗るのが楽しくてしかたがなくなった。次に予定が入っていなければ、バスに乗って移動しようかな、と思う。窓から人の動きが見られるし、地元の商店街の真ん中を通ることができるからだ。毛細血管より太く、動脈よりも細い血管を通るイメージとでも言えばよいだろうか。とはいえ、いくら好きといっても、そうちょくちょくと乗れないのが現実だ。渋滞などの道路事情で時間に正確でないため、時間に追われる生活をしているとバスに乗る余裕がないのだ。そこで、出先から家に直接帰るときくらいはバスに乗ろうと努めたりバス路線図と地図を眺めながらの空想のバス旅行を楽しんだりする。 学生の頃は時間だけはたっぷりあったので、原宿や渋谷へ行くのにもバスに乗ったものだが、あまりにも遠回りで時間がかかるので最近はとんと利用しなくなった。けれど、なんとなく疲れた昼下がり、バスの揺れに身を任せながら昼寝をしているといつのまにか原宿駅前にいるのを気付いたときなどなんとなく得した気分になったものだと楽しい心持ちで思い返す。子どもの頃は、今の家の前から池袋へ行く路線もあったのだが、小学校に上がる頃にはなくなっていた。現在、毎週、池袋に行く用事があるので、これがあるとすごく便利だったはずなのに、と恨めしく思う。山の手の起伏に飛んだ地形を体で感じながら道を進むような路線だったに違いない。廃止といえば、大江戸線ができてから、都バスの路線がいくつか減らされてしまい、なんだか寂しいものだと使いもしない路線にも思いを馳せたりもした。これから予算削減で廃止されるバス路線は増えるような気がするが、逆に武蔵野市のように行政が主導でつくったミニバスなど注目すべきものもある。 地下鉄も嫌いではないが、風景が見えないのが珠にきず。先頭車両に乗れば、運転席の窓を眺めながらカーブを体感して、地上はこのあたりだろうと想像したりもするが、その場所も子どもが見たそうにしていたら、譲らざるをえない。銀座線ならいざ知らず、新しく作られた地下鉄駅は地下深く、エスカレータを乗り換えたりしてぐんぐんと下っていかなければならないため、何か起こっても逃げられないという漠然とした不安がいつもある。その点、バスなら何かあったら窓を蹴破って飛び降りようとも覚悟が決まるのに。 さて、私がよく乗るバス路線は今のところ次の3本だ。上野から、新橋から、新宿から。なかでもよく使うのが、上野からの帰り道である。夜なら渋滞がないので20分くらいで我が家に最寄の停留所に着く。バスが通る商店街は東京といえどもある意味で「村」なので、夜が早い。とても静かだ。バスの中も2、3人でまばら。たいてい、途中でみんな降りてしまうので、私が下りる頃には乗客はひとりになることが多い。王様気分である。これで200円しかかからないのだから本当に合理的なゼイタクだ。 車が欲しいとは思うのだが、交通網の発達した東京のような場所では、環境のことを考えるとひとりで車に乗るのは後ろめたい。けれど、バスに乗れば、車に乗るという欲望も満たされるし、私の単純な脳みそを持ってすれば、公共輸送というだけで、社会に対する正義感も汚されない。 いつか時間をみつけて乗りたいと思う路線はごまんとある。目についたバス停でバスに乗る。気になるものを見つけたら、降車ボタンを押す。そんなきままな旅ができる時間をもつことこそ最大の豊かさだろう。今度の休みはバスに乗ってどこかへ行ってみよう。行き当たりばったりでどこにつくのか…ちょっとした冒険ができるはずだ。 |
「荷風散人と深川」
9月24日 平成13年9月16日。第8回、末広がりの「東京散歩の会」例会である。昭和7年をテーマにしているグループから、永井荷風にまつわる散歩会を持つように声をかけられ、昭和7年近辺の作品を読んでみた。そして安直ではあるが、随筆「深川の散歩」に目を留めた。「甲戌11月記」とあるから、昭和9年、56歳の時の作品である。文庫本を読みながら、地図の上で橋を渡り、神社を訪れ、古址を覗く。本文には出てこないが、訪れたい清澄庭園を加えて散歩のイメージができあがった。 さて、荷風で忘れてはいけないのは『断腸亭日乗』という日記である。文庫になっている摘録をめくること昭和7年9月16日。「蛎殻町の叶家を訪」いている。蛎殻町の隣、中洲にかかりつけの病院があり、この辺りは『断腸亭日乗』にしょっちゅう出てくるのだ。そこで、スタートは蛎殻町にある水天宮にすることにした。荷風の歩いた道をトレースせんとする散歩同人の集合場所として、手ごろなところだろう。 水天宮から人形町に入り、甘酒横丁を浜町公園に向かって歩く。日曜日は店を閉めてしまうことが多いのか、それほど人通りはない。ちょっと裏を覗くと、下町情緒を感じられる路地。商店街のなかに、住宅がある。かつてはここでも商売を営んでいたのだろうか? そういう感じの家のことを「しもた屋」というそうだ。「仕舞うた屋」が語源だという。グリーンベルトや勧進帳の像、明治座などもあるが、まだまだそそられるものは見つけられない。そこで、ずんずんと浜町公園に入っていく。浜町公園には立派な体育施設もあり、なかなか好ましく手入れされている。 ここで、思いもかけない「トラップ」にかかってしまった。散歩の途中で何かに気を取られて動けなくなることを私たちはこう呼んでいる。公園の中に足つぼ健康法を実践できる小道が設置してあり、健康に敏感になっている散人、全員はだしになり、その小石の上を歩いてみる。慣れていないことをするものだから、みな痛がることこの上ない。ひとしきり遊んだところで、若いお母さんと幼い子どもの2人連れもやってきて仲間入り。町の人にある程度親しまれている施設のようだ。我が家の近所の公園にもひとつ欲しい! すっかり「健康」になり、初めて参加する人も「トラップ」にはまる心地よさを覚えてしまう。「お稲荷さんは日本で一番えらい神様だ」、と途中のお稲荷さんすべてにお参りする人がいたり、芭蕉が深川に住んでいたことから、「古池やかわず飛び込む水の音」からとったと思われるデザインが施されているペイブメントやマンホールの蓋の写真を取りまくる人もいたり、といつもの会のペースになる。ここでは、荷風がどうしたなんていうお題目はもうすっかり忘れられている。それでこそ散歩の真髄。誰かが歩いたから、なんてことを意識していてはいられない。自分が気になる町と一体になることだけが重要だ。 予定していた仕込みの「トラップ」の一つは隅田川にかかる清洲橋だ。ドイツのライン川にかけられたケルン橋を模してつくられた鉄橋で、「復興は橋より」を合言葉にした関東大震災の復興事業の一つとしてつくられた。清澄と中州を結ぶから、清洲橋だ。しばし足を止め、いろんなアングルから写真撮影。2000年に「選奨土木遺構」として土木学会が永代橋と並んで認定したことを伝える碑には、なんと、「帝都を飾るツインゲート」とタイトルがつけられていた。 今回の目玉は清澄庭園だ。三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎とその弟の弥之助があつらえた庭である。三菱商会の汽船で各地から運ばれてきた岩が配置され、隅田川の水を引き込む回遊式林泉庭園になっている。こんなに大きくて立派なお庭が個人のお屋敷だったことは驚きを越えて感動である。東京市による一般への公開は昭和7年からで、それだけで大喜びする人もいれば、鯉がえさを求めて大口を開ける姿に喜んだり気味悪がったりする人もいる。鯉と呼ぶには大きく育ちすぎていて、野趣あふれるとでも言えばよいだろうか、庭とのギャップを感じてしまう。日本的な庭園に付随する洋風な自由広場が美しい。日本庭園部から、かつては門があったであろう小道を抜けると、芝生というには野性味を帯びた草が見える原っぱに出る。木々に囲まれ、ロマンチックで、ベンチやテーブルがよい具合に配置されている。上を見上げると森の中の開いた場所に出たようにぽっかりと穴があいているようだ。夏の疲れを引きずったメンバーはしばし、のんびりと座り込む。 先はまだまだ長いのに、かなり時間を食ってしまった。暗くなる前にもう一つの目玉である回向院にたどり着くために直線的に北上するコースに変更。小名木川の萬年橋を渡り、柾木神社、芭蕉庵を訪れた後は、つつーとわき見せず歩いたつもりだったが、途中いろいろなところで立ち止まったことは言うまでもない。住宅の屋上庭園、かわいらしい器屋さん、「でんわでんぽう」の看板、トタンのバーバー、旧字で書かれたスーパーの支店名、あんこおかき、相撲部屋、またまたお稲荷さん…。それを逐一書いていると、何字あっても書ききれない。荷風だったらうまくまとめるだろうに。 散歩の方もなんとなく消化不良。近々もう一度訪れることにして、じっくりと「トラップ」されようと思う。こうして町を歩くことがやめられなくなるのだ。 |
「上野のドン」
10月8日 西郷どんも上野のドンかもしれない。丘の上から何かを見張っているような気がするし、西郷像のすぐ下の寿楽というレストランには西郷丼なるメニューすらあるのだ。しかし、今日のトピックは残念ながら西郷隆盛ではない。では、ドンとは…。 子どもの頃、上野のヒーローはパンダだった。小学生の入園は無料であることをいいことに、美術館や博物館に行った帰りに、「パンダだけ見に行っていい?」と大人を残してちょっと覗くこともあったし、雨の日には資料館のようなところで、パンダの毛をシートに挟んだ職員お手製らしきしおりをもらったこともある。もちろん、パンダせんべいだってあの大きさを誇らしく食べたものだ。そのヒーローは上野動物園のシンボルであり、上野駅にもパンダがあふれている。当たり前の光景として捉えているが、パンダという視点を持って上野駅を歩いたことがあるだろうか? 10月6日、上野・谷中で開催されているアートイベント「art-Link上野-谷中2001」の企画である「art-Linkカフェ」で「4」というイベントに参加した。会場内のいろいろなアトラクションを買う「働」という通貨をチケット代わりに入手し、ダンス、演奏、詩、アートなどを購入して楽しむ、という形をとったイベントだ。会場は上野東宝チェリー。上野の森美術館の隣にあるビアガーデンといえば分かりがいいだろうか。夜になるとピンクのちょうちんがかわいらしく光り、全体的に発せられるなんともいえない時代遅れな雰囲気がたまらない場所である。下には東京で唯一の宝塚劇場がある、というちょっと風変わりな場所だ。(といっても、映画館であって劇場ではない、念のため。) 今まで何度か出てきた「昭和7年会」はこのイベントのために活動していた。この不思議空間、東宝チェリーからイメージしていき、宝塚、フランス趣味、永井荷風…と来て、『ボク東綺譚』の「昭和二、三から七年までの空白、銀座の町がわずか三、四年見ない間にすっかり変わった」というフレーズから「昭和7年」をターゲットに決め、各々の興味の範囲から昭和7年に関することを調べていった。当日は、ビアガーデンのテーブルを「昭和7年会カンファレンス」に見立て、その面白さを勝手に語ることで、お客さんになんだろう、と思わせるような演出に決定。そして、何だろうと思った人に買ってもらうものとして企画されたもののひとつが、昭和7年に作られた上野駅を巡るツアーである。メンバーの鉄道博士によるレクチャーつきで、駅の構造や装飾、特急電車などを見学するという魅力的なもの。プラットフォームの柱がレールから作られている、など細部にわたっての説明はお客さんも大喜びだった。 そして、パンダである。このツアーの主役ではなかったが、私にとって一番の関心ごとになった。道案内から、待ち合わせの像までみんなパンダである。まず、誰でも知っているのが浅草口にある「ジャイアントパンダ像」。待ち合わせの場所として指定する人も多いだろう。毛並みがふさふさなのだが、あまりの重さに、尾がつぶれているのがご愛嬌。前から見ると丸顔だが、横から見ると顔はかなりとがっていて、実際のパンダらしくしているのだろう。写真に写っている人の身長と比べてもらえば分かるが、これはもう猛獣といってもおかしくない大きさだ。中央口から、ジャイアントパンダ像がある浅草口に誘導する床タイルにもパンダがデザインされている。本物のパンダがいる上野動物園に近い公園口を示す階段に貼ってあるシールにもパンダはいるので、どっちを見てもパンダだらけ、ということになる。 新幹線ホームに下りるエスカレーターの前にある日中友好の証として贈られた壁画にはパンダと鯉のようなものが散らされている。この絵はなかなかエキゾチックで、見方によってはキッチュ。一見の価値ありだ。 さて、上野にはもうひとつパンダ像があるのをご存知だろうか。それは大連絡橋通路、13番線へ行く階段の手前に置かれている。後ろからアプローチして目に入った後姿がなんとも哀愁を帯びている。前に向かえば、想像どおり、苦悩している。爪や鼻が妙にリアルなのに、耳が顔の中央線よりかなりずれているところは笑いを誘う。天真爛漫なジャイアントパンダ像と違って、孤独に耐えているようだ。周辺には公衆電話が設置されているので、待ち合わせの目印として設置されたのだろうと想像するが、ここにたどりつくのには上野駅を熟知していないと無理だと思う。パンダ像の前に集合と言われたら、十中八九、浅草口に行くだろう。けれど、同じパンダでも不遇の人生を送っているようにみえるこの像には不思議な存在感があるのだ。ぜひぜひここで待ち合わせをして、像を眺めてほしい。 このように、上野駅は表も裏もパンダづくし。パンダは上野のドンであるとはこのことだ。駅を出てもそれは同じ。上野では、パンダはラーメンも食べるのだ。 |
「本郷の居眠り猫」
10月15日 水道橋からお茶の水へ外堀通りを歩いていくと、こんもりとした「山」に出合う。レンガ作りの階段。うっそうと茂る木々。道路から見上げると、かなり高いところに地面があるようで、まるで鎮守の杜のようにも感じる。入り口はモダンなデザインで、中を見たいと思わせるつくりだ。最近取り付けられたと思われる2枚のプレートには、「文京区立 元町公園」「開園年月日 昭和五年一月二十五日」と浮き出されている。入り口正面には、かつては水が流れていただろう噴水の口があり、そこから左右に分かれる階段をさらに上り、踊り場で上を見上げると、直線と円柱で構成されたカスケードがある。その広い踊り場で外堀通り側を向くと、藤棚。道を見下ろす手すりの土台には十字の窓があいている。全体がコンクリートと洗い出しでできていて、なんとも言えぬ味わいがある。好みのデザインだ。カスケード脇の階段を上りきると、土の地面が見える広場に出る。そのまま突っ切って奥の東側の出入り口は階段がなく、道路平面。ぼーっとしていると何かのトリックにかかったように思えるかもしれない。武蔵野台地の突端にある本郷は坂の多い町だ。公園内の階段は地形に沿って、脇を通っている坂に平行して上がっているのだ。 園内、人はまばら。よく見るとこの公園を住居にしている人たちが、隅っこで寝ている。そのためか子どもが遊んでいる様子がない。広場には砂場も滑り台もあるが、閑散としている。目立つのは猫ばかり。しかも、みな昼寝をしている。1メートルくらいまで近づいてもすんとも動かない。「昼寝をしたり、東京を徘徊したり…。猫のような生活も悪くないな」と声に出してみる。電子音を発しつつ、シャッターを切ってみる。それでも動かない。誰も脅かすようなことをしないのだろう。無防備だ。うらやましい。 公園の隣は本郷小学校。コの字型の校舎の狭い中庭が高い塀から垣間見える。小学校の正門まで出て建物を観察すると、控えめな丸いコラムが印象に残る。裏側の窓の一部がサッシではなかったので、建物そのものは、まあまあ古いのかもしれない。 ここで、「昭和5年」「小学校に隣接」というキーワードで、あることが頭に浮かんだ。この元町公園は関東大震災からの復興、いわゆる「帝都復興事業」の一環でつくられた小公園の1つなのではないか、ということだ。関東大震災で東京が焦土と化したことは言うまでもないが、延焼を食い止めたものとして公園や広場、河川などが防火帯となり、多く被災者の避難地としても公園が使われた。そのことから、公園の重要性が認識され、公園建設がその計画に入っている。資料を繰ってみると、大正13年5月9日、東京市長より内務大臣に宛てて出された稟請の中の表に「元町公園 本郷区元町一丁目ノ内 九〇〇坪」とあった。ちなみに、国がつくった大公園は3つ(隅田公園、錦糸公園、浜町公園)。東京市がつくった小公園は52で、元町公園はそのうちの1つであることが確かめられた。 これら52の小公園は小学校と隣接し、「学校公園」と呼ばれたりもした。公園を校庭の延長として使ったり、学校の一部を公開して公園とともにコミュニティセンターの役割を果たしたり、といったことができるように、軽くまたげるような低いフェンスで区切られていたそうだ。なんと先進的な計画であったことかと驚いてしまう。このような建設当時のコンセプトが生きているならば、本来は、公園と小学校を区切る高い壁はないはずである。ところが、昭和30年頃から改造が始まり、公園と小学校が分離されていったそうだ。警備会社のシール付きの厳重な扉付きの高い塀、という発想は当初の考えと180°違う。最近、学校と地域社会のつながりを求めて活動している人々が増えている。地域と学校の関係の変化によっては、再びこの壁の高さが低くなる日が来ることもありえるだろう。確かなことは、この壁が高いままでも、猫だけは自由に出入り可能だということだ。猫になるのは、やっぱり悪くないかもしれない。 参考文献:『東京の都市計画』越沢明 岩波新書、 『東京公園史話』前島康彦 東京都公園協会 「不在通知」 11月5日 初めて会う人には「何をして暮らしているの?」と何気ない話としてよく聞き合う。そのときの雰囲気によって、「本業は散歩です。副業でちょっと会社に通っています。」と答えることにしている。秋は本業がピークを迎えるといってもよい。なんといっても晴れの日が多いし、暑からず寒からず歩きやすい気候なのだ。今年は散歩が大型し、旅になってしまった。京都・奈良・大阪・岡山・・・と気分の向くまま、亀に羽が生え、飛んでいく。(副業で、行けといわれているものもあるが)なので、少々さびしいが、東京を歩く時間があまりないのだ。 だからこそちょっとした用事がある際に、町を探検するやっかいな習慣が強化されつつあり、時間がたつのを忘れて商店街の構成をチェックしたり、古めかしい喫茶店の外観を観察したり、そこで大手チェーンコーヒーショップよりもお値段高めのコーヒーをすすったりしてしまう。そして気付くと、「あれっ、待ち合わせの時間だ!」と駆け出すはめになる。1日が飛ぶようにすぎていく。まるで早回しの映像を見ているようだ。東京には異空間がいっぱいあるので、時間の流れ方が場所によって速かったり遅かったりするので、それに対応するのがなかなか面白い。 そんな楽しい東京探検はしばしお休み。今月は東京に不義理することにして、全国の秋を楽しむ。どんなものに出合えるかしら。 「楽しい商店街」 11月12日 用事があって週に1度、池袋に行くのだが、池袋滞在時間は案外短い。用事が済んだらすぐに次の目的地に移動、というスケジュールが多く、町自体を歩くことがないのだ。思い立ったが吉日、ひとつ不義理をすることにして、足の向くまま歩いてみることにした。 西口の繁華街を抜け、トキワ通りに出る。すでに町の端っこという雰囲気を漂わせている。副都心・池袋という便利な地にあるのにもかかわらず、駅から10分も歩かないうちにのんびりした感じがする場所に出てしまうのが不思議だ。バーなどの隙間を縫って鶏屋などが商売しているところもその雰囲気をかもし出すのを手伝っている。引き込まれるように、狭いながら両脇に店の並ぶ地元の商店街といった風情のある道を選ぶ。仲通り商店街だ。 テーラー、眼鏡屋、履物屋がお気に入りの家業トップ3である。これらの店を見つけるとわくわくしてくる。店構えによっては、どきどきと動悸すらすることもある。店の前を何べんも行ったり来たりしながら、観察することもある。ウインドウを覗くのも気恥ずかしく感じるためだ。あいにくわたくしは服をテーラーで仕立てたことがまだないので、上品な店に出合うとお客と店主のやりとりなんぞを想像しつつ、通り過ぎる。ボディーがおかれたほの暗い店内、巻かれて置かれるメジャー、棚に積まれているウールの反物。すべてが時代がかっている。そこに客として入り、服を仕立てるのが夢だ。また、眼鏡のコレクションをしているので、眼鏡屋は自然と目に入ってくるのだが、こうした町の店で装飾品や時計などとともに扱う眼鏡は、言い方は悪いが、古臭い(それがまた好きなのだが…)デザインのものが多く、こころ惹かれる。履物屋のウインドーには近所履きのサンダルや革靴が並び、昔のブランド名がプリントされている棚のさび具合などに美意識を見出す。これらの店には決して繁華街では買えないものがいっぱいある。こうした店がある商店街がある町に住みたいと思う。 もちろん、この仲通り商店街にもこの3つはある。ただし、眼鏡屋はシャッターが下ろされ、もしかしたら、廃業しているのかもしれない。その隣にテーラー。こちらは現役だが、少々狭いようだ。通りにはいくつかの履物屋がある。山になったサンダルは健在。パン屋、八百屋、果物屋、鶏屋、肉屋、金物屋、クリーニング屋もある。スーパーはないが、生活に必要なものは一通り揃っている。なかなかステキな町だ。これなら住んでも不便はなさそうだ。イヤなら、駅前のデパートに行けば、なんでもある。ここに住むことを少し想像してみる。そして気付く。帰宅時には、商店街は真っ暗に違いない。仕事で夜は遅い。この商店街を楽しむ夕方はないだろう。残念。引越し計画はなしにしよう。 公園の前のパン屋に入る。パンの陳列棚の脇に2卓ほど飲食スペースがあり、店内の商品を食べることができる。コーヒー・紅茶180円。店先に置いてあるポット、ティーバック、茶碗、何を見ても常連さんにお茶を出すような感覚である。お年寄りが一人、店番をしていて、顔見知りと世間話をしているかと思うと、電話が入り、アンパン2個と食パン1斤、という注文が入り、今日はよく食パンがはけてね、などとおしゃべりをする。お茶を飲みつつ、サンドイッチにかぶりついていると、注文の主が現れた。こちらも年配の女性。そしてしばしおしゃべりが繰り広げられる。町のサロン的な店のようだ。その間に、子ども連れ、カップルが入ってきて菓子パンや調理パンを買っていく。なかなか繁昌している。味もなかなか良かったし、種類も豊富。値段も手ごろ。繁昌するわけだ。 腹ごなしを済ませ、店を出て道を下る。途中から池袋坂下通り商店街になる。こちらにも紙屋、練り物屋、お茶屋、金物屋などなど昔ながらの店がある。2つの商店街がつながっていて、長い蛇のような道だ。ふと気付くと時々、歩くべきこの商店街を時々猛スピードで通り過ぎる車がある。憤る。大通りへの抜け道として使われているのだろう。いや、ひどい。商店街は歩く道である。まして、こんなに細い道に入り込むなど、庭を走るのと同じようなものだ。車で通るようにできていない裏道を通るときはせめて速度を落として欲しいものだ。 そして私も大通りへ出る。このまま要町へ出て、ちょっと奥に入り、長崎富士塚を覗いてみよう。富士塚はこれまた面白いテーマ。別の機会にまた書くことにする。 |
外堀通り側公園入り口
藤棚
本郷小学校
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「生駒キッチュ」
11月26日 生駒の山頂へは犬や猫、ケーキの登山列車に乗っていくのだ。車内には音楽が流れ る。なんとメルヘンチックな!きちんと犬の車両と猫の車両は上りと下りですれ違う ように設計され、電子音のアナウンスで、「さあ、ブルがアイサツするよ」「ワンワ ン」「にゃーお」などという。驚きを通り越して、楽しくなる。これは高度な現代 アートだ。 実は、山頂には犬や猫と遊べる施設があるのだ。電車と遊園地のタイアップ。昔か ら変わらぬ構造ではある。けれど、べったりというのもすごい話だ。これは、下から すでに遊園地が始まっているということだろう。途中の生駒聖天さんの繁昌振りとい い、近辺の旅館街といい、観光地として最高だ。 山頂は夜景がきれいなデートスポットだという。その割りに古臭い演出が泣かせ る。これがわざとだったら、かなり、気の利いた演出だ。日曜の午前中だったので、 小さい子どもをつれた家族連れの姿が多いが、安心して遊べる場所のようにはみえ る。幸せな家族を演ずるにはふさわしい舞台だ。海の家のような食堂に、ありきたり なメニュー。いまどき、こんなものに出会えるほうが不思議でしかたない。 本当に、夜になるとカップルだらけになるのか? これは、今度は夜に行かなくては なるまい。そして、百万ドルの夜景を楽しまなきゃ!……京都・奈良へ飛んだ日。いわゆる古都らしい風景をお送りする予定だったが、や はりこの威力を示したくなった。お寺さんだって、テーマパークだ。西の力はすご い。包容力が関東とは違うような気がする。東京もんにはまぶしいくらいのものが いっぱいあるのだ。 |
「お寺」遊園地
12月10日 お寺や神社を訪れることは遊覧気分に満ちている。門前にはちょっとつまみたいお団子やじっくりすすりたい甘酒を出す店がある。漬物、七味などどこでも買えるけど、ここで買うとなんとなくありがたい気持ちがするみやげ物屋、きれいに掃除はされているが、商品構成は昔からそれほど変わらないだろうと思われる仏具屋が軒を連ねる。「まずはお参りしてから…」と誰に言うまでもなく足を進めるものの、目のやる先はそれぞれの店の棚だったり、鼻はせんべいを焼く醤油の香ばしい匂いにくんくんさせてしまったりするのだ。 寺内や境内に入れば、たっぷり彫り物が施されたり、きれいに彩色されたお堂があり、ついつい上をむいて歩くお上りさんになってしまう。これで梅・桜・藤など季節の花が咲いていようものなら、花見も加わり、上戸なら瓢を空にし、下戸なら菓子など頬張るだろう。 さらに中には拝むべき仏様がいる。ぴかぴか光らせたり、まっくらなお堂の奥深く、ほんのりと光をともして、見えるか見えないかという具合に演出は様々である。なかには、光をまったく通さない地下を、壁を伝って一周して、仏様の置かれている真下に錠を設置し、その錠を触りながらお祈りすると願いがかなう、ということを売り物にするところもある。 これは楽しい。 宗教心があるかないかは別として、お出かけの場所として、娯楽の少ない時代においては、非常にワクワクする場所だったに違いない。 そんな気持ちをこの現代に味わえるところはまだある。 第9回東京散歩の会は「深川NO.2」と題して門前仲町に遊んだ。昔ながらの雰囲気をもつ町である。もちろん、町の中心は深川不動と富岡八幡宮。不動尊の繁昌振りはなかなかのもので、七五三の親子連れがちらほら見え、若いカップルもデートだろうか、堂内を歩いている。建物の手前は木造で、いかにも寺である。けれど、中に入るとそれはとても近代的。「儲かってるなぁ」という印象である。4階建てのビルになっている。かつて成田山の出開帳であったなごりか、「成田山」と書いてある紙のたすきのようなものが入り口にかけてあり、これを首からぶらさげてお参りくださいとある。もちろん、バーチャルな世界を楽しむため、お借りする。 廊下を進むと、橋がある。ここに自分の願いを込めて署名をして石を入れると願いが叶うそうだ。そしてお石代、2000円なり。いい商売だ。石は買わず、橋だけ渡る。右手には仏像がそれぞれ壇に納められている。いちいち覗き込む。おばあちゃんたちがひとつひとつ大事そうに拝んでいる。エレベーターでさらに上にどうぞ、と矢印が誘う。 深川にいながら、四国巡礼ができる仕組みがあるのだ。マニ車のようなものが壁に巡らされていて、それを回転させながら部屋を一周するものだ。一つひとつの車のなかには、巡礼地の土が入っているようで、前にはそれぞれお賽銭箱がおいてある。車の奥の壁には仏様が描かれていて、ちゃんと拝めばある程度の時間がかかる。なんと部屋全体がブラックライトで照らされ、仏様の色は原色。全体がまるでゲームセンターか遊園地のお化け屋敷と大差ないイメージをかもし出す空間である。下品さと言われても仕方がない。さらに上に行くと、奉納仏を安置するお堂がある。壁面が金色タイルで、その一枚いちまいに仏様が浅彫りされている。これはオススメである。私が家を建てるときは、お風呂のタイルとして採用しようと思う。 散歩の会は他にも盛りだくさん。いつでも何か面白いものを発見できる。ぜひ、次回はみなさんも参加してください。 |
深川不動尊。奥に見える屋根が近代的4階建てのお堂
富岡八幡宮。ここでは鳩のデザインが愛らしいステッカーやお守りを授かることができる。
州崎神社
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「観光バスで巡る備前」
12月17日 バスガールといえば、モダンニッポン職業婦人のあこがれの花。時代転じてバスガイドもちょっとしたキレイどころが集まっている。どんなガイドさんに会えるのだろう、と期待に胸を膨らまし、今日は岡山への旅の人。 朝一番の「のぞみ1号」に乗り込む。岡山までは3時間半弱といったところ。新幹線に乗っている間に一仕事すませたり、本を読んだり、まどろんだり、と電車旅の楽しみを存分に味わうのに十分な時間だ。 わたくしは仕事で岡山に行くことが多いが、岡山の駅を下りるたびに、のどかな良い街だと思う。バスターミナルがある東口は広々としていて、噴水の周りには待ち合わせの人々が集まっている。よく目立つ位置に、「桃太郎」の銅像が立ち、岡山にいることがしみじみ感じられる。岡山といえば、「桃太郎」。駅周辺を歩く限り、このスーパーヒーローから離れることはできない。駅前から出ている市電の車体には、桃太郎のイラストがあしらわれているものがある。市電のポールのてっぺんには鉄の桃。ガードレール代わりのフェンスは鬼の金棒。観光センターに行って、パンフレットを手に取れば、もちろん桃太郎が岡山案内をしてくれる。岡山の人には申し訳ないが、それしかないのか、とも思う。それものどかさをかもし出すもののひとつかもしれない。 前から行ってみたかった閑谷学校への行き方を観光案内所で聞いた。地方ではよくありがちなことだが、車がないと不便な位置にあるという。閑谷学校を含む定期観光バスがあることは前から知っていたので、最寄の駅までJRで行き、そこからタクシーに乗っていくことと天秤にかけてみる。電車で行くには不便なところをいくつか巡るし、料金的にもお得だと判断し、観光バスに軍配が上がった。実は、岡山に着く前から、観光バスの方に多少、肩入れはしていた。何も考えなくても、目的地に連れて行ってくれる観光旅行をしてみたかったのだ。 透き通るまでの青空。ぽかぽかと暖かいバスの窓辺。発車までの間、ガイドブックを眺めたり、パンフレットを読んでみたり、すっかり心は遠足気分だ。 美人のバスガイドがにこにことコースについて説明をし始める。ここで、ちょっとがっかり。バスが動き始めてから、止まることのない無意味なおしゃべり。これぞバスガイド。けれど、変な日本語を駆使して、べたべたと話す。丁寧に話そうとしておかしな言い方になっていることに気付かないのだろうか? 耳に入ってくる言葉をいちいち頭の中で訂正してしまうので、どっと疲れる。わたくしは言葉に対して保守的なのである。 とはいっても、さすが何度も同じコースを案内しているだけあって、ちょうど観るべきものが現れる寸前にここには何がある、それはこういう歴史がある、とタイミングよくガイドする。耳を半分留守にして、聞きたいものだけピックアップしながら窓の外を眺める。駅からバスで20分もいくと、日本の愛らしいいなからしい光景が広がる。家のつくりが立派になる。 窓の外を眺めていると、「お饅頭いかが?」と後ろの中年の女性から声がかかった。団体旅行ならではの面白みは、他の参加者との交流だろう。どこから来たの?と会話が広がったり、お菓子が回覧されたりする。知らない人同士でも同じバスに乗っているだけで、旧来の仲良しのようにおしゃべりできる。不思議なものだ。私以外の参加者は、みな40歳を超えているようだ。なかには70歳をゆうに超えていると思われるおしゃれなおばあさんが一人で参加していた。総勢15人程度の人数だから、誰が来ないなどのトラブルもなく、自分たちの人数だけで小さな焼き物美術館などがいっぱいになることもなかった。ちょうど良い人数だったのだろう。 ただ、寂しいことに、ひとつの美術館につき20分くらいしかあてがわれておらず、備前ならではの焼き物をじっくり眺めることも、長船の刀を愛でることも叶わなかったことだ。こういうコースはそこに行ったという証拠づくりのための旅、と割り切り、バスから飛び降り、バスに飛び乗るテンポに身を任せる。いつもは、「あの団体さん、今来たばっかりなのに、もう帰るの?」といぶかしげに首をかしげる側だったのに、首を傾げられる側に立つ経験しただけでよしとしたのだ。名品の見学、史跡の訪問に加え、瀬戸内海の美しさ、山の紅葉など1日のうちに備前のよさをすべて見ようというのである。忙しくたって文句は言えない。 閑谷学校近辺はちょうど紅葉まっさかり。鮮やかな黄色・赤色をしている。有名な2本の櫂の木は薬を注入されながら立ち、さらさらした黄色い葉を揺らしている。もし、一人で来ていたら、散策するだけで1日かけても飽きないことは必至だ。けれど持ち時間は30分。後ろ髪を引かれる思いで門を出る。あんなステキなところを通り過ぎるだけで行ったとは決していえない。これはもう一度訪れたい。 今回のバス旅行で備前の旅の下見は十分。バスをチャーターし、ガイドに扮し、「ゆったりまわる備前の旅」というコースをご案内しましょう。もちろん、閑谷学校をメインにして。コース: 岡山駅前→備前長船(刀剣)博物館→藤原啓記念館→日生港・森下美術館→閑谷学校→備前焼窯元→備前陶芸美術館→ |
「文化住宅」
12月31日 横浜・根岸には、いわゆる「文化住宅」が比較的、多く残っているという。関東大震災で大被害を受けた横浜が復興するとき、ちょうど流行っていたこのスタイルの住宅がたくさん建てられたそうだ。そんな家を見学する機会に恵まれ、内装を見せていただくことにした。 「文化住宅」といわれる住宅が作られたのは大正時代から昭和の初期まで。『痴人の愛』に出てくる、あの西洋趣味の家である。和館の玄関の脇に洋間が1つ設置されたスタイルを持つ家のこと、と一般に言われているものである。外見は洋間の部分だけ洋館風で塔のように高く、残りは和館という風に2つのスタイルが混在しているものが多いらしい。これは、明治以来、お金持ちが和館と洋館を同時に構え、日常生活は和館で、お客をもてなすときは洋館で、という生活スタイルを真似たものだ。逆にいえば、洋間の部分は「ここに洋館があります」という主張がなければ、家主にとって、その家を建てた意味がないのかもしれない。洋間を持てるくらいの地位にあることを表明しているデザインなのだろう、と想像する。 さて、理想的な中流住宅をつくろう、という動きは明治末期から大正にかけて、様々な形で起こっていた。そこで住宅の洋風化が進んだともいえる。教育を受けた、いわゆるサラリーマンが増え、彼ら向けの住宅が必要とされたために郊外の住宅地化が進んだ。現在では高級住宅地とされている田園調布も電鉄会社が開発した住宅地の1つである。そこで小ぶりな洋風な建物が多く建てられたのである。また、住宅改良運動などがあり、普及のための雑誌が発刊されたりして、洋風な生活を推進する動きがあった。小規模住宅用の洋館を専門とする会社もあった。「家庭」をテーマにした博覧会が開催され、実物大の住宅が展示されたという。東京府による博覧会での実物大の住宅の展示群は「文化村」と命名され、そして、そこに建てられた住宅についても「文化住宅」と称されたそうだ。当初は、家族中心で、電化製品などによる効率的で便利な生活が営める住宅を指していたようだが、それがいつのまにやら、先ほどの外観の特徴のみを言い表す名称になったらしい。 おさらいはこれくらいにして、さっそく、散歩である。 まず、横浜市が修復、公開する予定の柳下邸である。大正8年竣工、増改築を繰り返されてきたらしい。豪邸である。「文化住宅」というイメージがあまり、ない。「文化住宅」という言葉だけが独り歩きし、薄っぺらい住宅のような感すらもたれているのだから、言葉は恐い。ここは現在、宮大工の棟梁が入り、工事中。工事用の駐車場には、石積みの塀があり、のっけから、「かなり価値があるそうですよ」と横浜を中心として都市計画・建築・造園を専門に活躍している会社にお勤めの方が案内してくれる。玄関とお勝手口へ上るの2つのアプローチがある。まずはお勝手口に上がる口を歩く。木がうっそうと生えている。無計画に植えられ、育ちきった大木が多いそうだ。 お勝手口の奥にお風呂がある。その窓から中を覗くと、天井がしゃれている。まるでお風呂屋さんの天井のようだ。ぐるりと外を回り、表玄関につく。屋根が重なり、大きな和館だ。玄関はかなり立派で、重要な客が来たときのみ使われたそうである。家の中は入ると、全体に廊下がめぐらされている。現在の視点で見て、本当に暮らしやすいかどうかは分からない。女中さんがなく、主婦一人の家族だけでは絶対に住みつづけられない広さである。 そして肝心の洋館は玄関の右脇にくっついている。洋間の外側は日本風、そして、中側は洋風である。現在のマンションでフローリングの部屋の隣にある畳の部屋がフローリング側は木の扉で、畳の部屋の方はふすまになっているのと似ている。もちろん、扉は引き戸。洋間なのに、入り口の背は高くない。この家自体、メートル法でなく尺貫法で作られているそうだ。壁や天井はしっくい。天井の一部に細工がされている。2階に上がると、縦長の窓から日が差し込む。当時のダイアモンドガラスが残っている部分はきらきらと輝いて美しい。裏の窓から外を見ると、そこには蔵が。洋館部分から日本風な蔵が見えるとはなかなか面白い。 蔵の中はもうすでにモノが出されていて、処分が決まっているいくつかの家具を別にして、今後館内で使用する家具(こちらもこの家にあったもの)が置かれていた。大工さんが抜いてしまった床に気をつけながら、中に入ると不思議な、蔵独特の安心感がある。ひんやり、けれどモノや人間を包み込むような空気。 もちろん、豪邸だから庭もある。庭には池もある。池にはなぜか石亀がある。なぜか亀の目は少し怒っているように見える。なぜかしら? 2軒目は個人のお宅。持ち主が奇特な方で、アーティストやボランティアが自由に使えるように開放している。これまたぐるりと廊下が家中をめぐらしている。女中部屋を通り抜けて階段を上ると、ぬくぬくと暖かい。南に面して、日当たりがとてもよいのだ。2回も縁側のような廊下がめぐらされている。一面、ガラスで、雨戸をはずしたら、冬など、ぽかぽかとやわらかい光が入ってくるに違いない。見学に参加した一人など大の字になって横になってみている。それほど居心地がよい部屋である。 ここにも洋間がある。玄関の脇に一間。天井が高く、板間。亀の剥製が飾ってあるところもステキだ。窓はもちろん縦長で、柳下邸にもあったダイアモンドガラスがはめられている。ここもやはり接客の場として使われていたそうだ。 現在、こうした住宅を保存していこうという運動が起こっている。現在の住宅が、20年から30年で建て替えられるのに対し、すでに70年、80年と住まわれ続けているのだ。それには、理由があり、現代の家作りにも参考になるところが多々あるというのだ。そのために、保存のための調査研究だけでなく、そこに住んでいる人へ「住み続けるための支援活動」もしているという。とても興味深い運動である。町で出会うとうれしくなる小ぶりな「文化住宅」。国や企業が威信をかけて作った建築物とは異なる、かわいらしさが魅力だ。個人の持ち物だから、どう処分するのも勝手だが、こうした建物がぞくぞくと消えていくのはさみしいことだ。それにストップをかけるこの運動に注目していこうと思う。できれば注目するだけでなく、参加していきたいものである。 参考文献:『日本の近代住宅』内田青蔵 1992年 鹿島出版会 「ナオミの家ができるまで。」内田青蔵 『東京人』1999年5月号 「横浜に残る洋館付き近代住宅」 兼弘彰 『住宅建築』2001年9月号 「よこはま洋館付き住宅を考える会」資料 |
お風呂の天井
洋間の天井
庭の亀
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