遠そうで近い国・近そうで遠い国
2001
万の象の土地という名を持つ国」
万の象の土地という名を持つ国。イギリスほどの大きさの領土に500万人、その半数はラオ人、残りは少数山岳民族。隣のベトナムの7,700万人に比べるととっても少ない。国連によると、世界で10番目に貧しい国、でもおなかをすかせている人はいない。識字率は約55%。平均寿命は52才くらい。民族、言語的にはタイ人に近いけれど、歴史的にタイには領土に侵入され略奪され続けてきたので、友好的な感情は少ない。とはいっても、これからの発展には、タイの経済援助が不可欠。上手につきあって行かなくちゃならないけれど、でもアメリカかぶれしたタイ風俗を持ち込まれるのは注意しなければ。
これが、明日ボストンを12時に出発し、気の遠くなるような飛行時間を経て私が向かう国、ラオス。新しい国へ向かう前の期待と不安、それに慣れ親しんだ街、人々に別れを言う寂しさ、後ろ髪を引かれる思いの相対する不思議な気分の中にいます。でも今回はいつもとちょっと違う。ラオスに関する本を読んだからかもしれない。あら、あなたの国も、私の国と同じようにお年寄りを敬ったり、人前で人の恥をかかせないように気遣うんですね。”私の国と同じ”と言うのは間違っているかも知れませんね。だって、私の国では、そんな社会観念が無くなってきているもの。
そんなラオス社会に、懐かしいのんびりした気分になって、とっても居心地が良くなるのか、それともなんて古くさいんだろう、これじゃあ、国は豊かにならないわよ・・とうんざりしちゃうのか、自分がどんな目、心でラオスの人々を見つめるのか、楽しみだし、怖くもあります。貧しい国だけれど、インターネットはあるようだから大いに利用して、私の日々の心境を書き留めて送ることにします。
それでは、行って来ます。
これが、明日ボストンを12時に出発し、気の遠くなるような飛行時間を経て私が向かう国、ラオス。新しい国へ向かう前の期待と不安、それに慣れ親しんだ街、人々に別れを言う寂しさ、後ろ髪を引かれる思いの相対する不思議な気分の中にいます。でも今回はいつもとちょっと違う。ラオスに関する本を読んだからかもしれない。あら、あなたの国も、私の国と同じようにお年寄りを敬ったり、人前で人の恥をかかせないように気遣うんですね。”私の国と同じ”と言うのは間違っているかも知れませんね。だって、私の国では、そんな社会観念が無くなってきているもの。
そんなラオス社会に、懐かしいのんびりした気分になって、とっても居心地が良くなるのか、それともなんて古くさいんだろう、これじゃあ、国は豊かにならないわよ・・とうんざりしちゃうのか、自分がどんな目、心でラオスの人々を見つめるのか、楽しみだし、怖くもあります。貧しい国だけれど、インターネットはあるようだから大いに利用して、私の日々の心境を書き留めて送ることにします。
それでは、行って来ます。
ビエンチャン、ワッタイ国際空港到着
ビエンチャン、ワッタイ国際空港到着。
水田と椰子に囲まれ折た一本の滑走路。私がバンコクより乗ってきたタイ航空の飛行機の他は、ちいさなプロペラ機が一機あるだけ。
外を歩いて、ターミナルビルに行くのかと思ったのに、便利なことにターミナルに飛行機が横付けされていた。意外なことにも。入国手続きを待つ間外を眺めていたら、空港職員のようなおじさん達が滑走路を自転車に乗って移動していた。私が今まで降りた空港の中では、北海道の女満別が一番小規模だったけれど、このワッタイ空港の小ささは、一日に1,2本しか通過しない日本の辺鄙な駅といいとこ勝負のような気がする。
ターミナル自体は、日本の援助で完成したもので、新しく、気持ちが良い。入国手続きを終え、外に出て驚いた。人が数えるほどしかいないのよ。荷物を運びますよ、と厚かましく言ってくるやつもいないし、タクシーの客引きもいない。確か私はアジアの一都市に来たはずなのに、と思い描いていた風景とはあまりにも違うので、心底びっくりしました。
空港から家まで6kmあまり。高いビルがない。路は舗装されてない道が多く、雨の後で赤色でどろどろ。道の大きな水たまりをよけるために、車はあっちによろよろ、こっちによろよろしながら進みます。道にはオートバイがゆるゆるとたくさん走っている。そして、たくさんのいろいろな樹木がゆったりと枝を広げている。
我が家は、ワット・ナック(ナック寺)村地区にありますが、ラオスには番地というものがないので、住所もありません。寺を中心に村があり、それが集まって市(ここではビエンチャン)は出来ています。三輪オートバイのツクツクに乗り、ワッットナックへお願い、というと家の付近まで来るので、その後はあっちだ、こっちだ、と言いながら家まで辿り着くのです。ですから郵便配達もありません。街の中心に大きな郵便局があり、ラオ人はそこに私書箱を設け手紙を受け取っています。
朝は、僧侶の托鉢を窓から眺めることで始まります。私の家の前に2組のグループが6:30から7:00の間に通ります。1組はかなり年を召した方が率いる中年グループで、その後ろから小学生のような少年2人がついていきます。彼らは髪は剃っているのですが、普通の服を着ています。みんな裸足。全員が施し物を受けると短かなお経を唱え、そして次の家に行きます。もう一つのグループは、ずっと若く、そのためか、お経の声に力があり、また長めで熱意があります。
施し物を差しだし、頭をたれてそのお経を聞くうちの隣のおじいさんの姿を見ると、私もやってみたい、という気持ちがおこるの反面、いやいや仏様を信じてもいないのにやってはいけないという気もおきてきます。先日は雨だったので、どうするのだろう、びしょ濡れで回るのかな、それとも合羽でも着るのかな、と思っていたら、何とみんな傘をさしていました。お坊さん達は、この托鉢時は裸足ですが、そのほかの時はサンダルを履いていますよ。
(雷が鳴り響き、ばしゃばしゃと音を立てて猛烈な勢いで雨が降り始めました。こうなると停電が起こりそうなので、もう寝ることにします。この雨音はものすごくて、とってもテレビなんか見ていられなくなります)
朝食が終わる頃、お手伝いのシモンおばさんがオートバイに乗ってやってきます。37才の2人の子持ち。主人が前任者から引き継いだ人です。まず彼女は、主人の靴を磨きます。それを見て主人は、こんな奥さんが欲しかったなあ・・・、と大きな声でつぶやいて出かけていきます。彼女は家のことは全部やってくれます。掃除、洗濯、アイロンかけ、買い物、そして料理。先日日本の料理の本を見せたら、これとこの野菜はラオスにもあると言い、同じものを食べるのね、となるほど、なるほど言うようにうなずいていました。
ラオ女性は髪を長くし、ラオサロンというスカートにブラウスを着ています。ラオサロンは円周120センチの筒型でウエストの位置をボタンで留めて、あとの余った部分を重ねて前に持ってきて留めています。ですから、前の部分は4枚重ねになっています。フリーサイズで便利そうですよ。ただ、髪を短く切り、ジーンズ姿でオートバイにまたがった女性も増えてきているんですって。タイの影響だとか。
それから、私はインターネットでしばし遊びます。まずアメリカの子ども達に近況を知らせます。英語で書かなければいけないので、一苦労です。それからこんな風にEMIALを友達に書きます。今、私はすごく面白い経験をしています。ひとつのメールを複数の国の、複数の友人に送っているのですが、それを読んでみんながアドバイスや感想を下さるんだけれど、もう、その内容が千差万別。その方々の個性や興味が反映されるんですね。それを読みながら、ああ、あれにも注意を払って見なければとか、これはどうなっているのだろう・・?なんて、探検心に似たものが出てきます。私は滅茶苦茶にいろいろな方に送っていますが、会社へ送ってしまっている場合もあるので、こんな私の戯れ語でご迷惑をかけているかも知れません。送らないようにしますので、お教え下さい。
昨日からの雨が降り止まず、今日日曜日は、一日NHK国際放送を見て過ごしそうです。衆院選を前に、選挙演説が多いのが少々憂鬱です。昨日の雨で、主人が庭に種を蒔き、5センチほどに育った野菜(唐辛子・オクラ・きゅうり)が雨に流され全滅しました。5月から10月までここは雨期で、雨に対する予防対策をとっていないので、野菜が出来ず、その間野菜はタイから輸入しています。雨が降っても野菜が収穫出来ることを、国連の農業・食糧機関のラオ所長である主人は証明しようと試験農場(?)を庭に作ったのですが、予防対策を立てる前に、雨の前に敗北してしまいました。笑ったら悪いと思うものの、ちょっとおかしいです。だって彼は1年間ほど家庭菜園をやったことがあるだけなんだもの。
昨日の雨でメコン川も水嵩も増したことでしょう。そして、街の道もどろどろだと思うわ。私はボストンで使っていた短い長靴を持ってきたんだけれど、そんなの履いている人はあなたがはじめて、とここに長いアメリカ人に言われました。ちょっと自慢に思ったけれど、本当の話は、そんなごつい長靴は暑くて履いていられないの。ゴムのサンダルでざぶざぶ歩く方が正解みたい。
水田と椰子に囲まれ折た一本の滑走路。私がバンコクより乗ってきたタイ航空の飛行機の他は、ちいさなプロペラ機が一機あるだけ。
外を歩いて、ターミナルビルに行くのかと思ったのに、便利なことにターミナルに飛行機が横付けされていた。意外なことにも。入国手続きを待つ間外を眺めていたら、空港職員のようなおじさん達が滑走路を自転車に乗って移動していた。私が今まで降りた空港の中では、北海道の女満別が一番小規模だったけれど、このワッタイ空港の小ささは、一日に1,2本しか通過しない日本の辺鄙な駅といいとこ勝負のような気がする。
ターミナル自体は、日本の援助で完成したもので、新しく、気持ちが良い。入国手続きを終え、外に出て驚いた。人が数えるほどしかいないのよ。荷物を運びますよ、と厚かましく言ってくるやつもいないし、タクシーの客引きもいない。確か私はアジアの一都市に来たはずなのに、と思い描いていた風景とはあまりにも違うので、心底びっくりしました。
空港から家まで6kmあまり。高いビルがない。路は舗装されてない道が多く、雨の後で赤色でどろどろ。道の大きな水たまりをよけるために、車はあっちによろよろ、こっちによろよろしながら進みます。道にはオートバイがゆるゆるとたくさん走っている。そして、たくさんのいろいろな樹木がゆったりと枝を広げている。
我が家は、ワット・ナック(ナック寺)村地区にありますが、ラオスには番地というものがないので、住所もありません。寺を中心に村があり、それが集まって市(ここではビエンチャン)は出来ています。三輪オートバイのツクツクに乗り、ワッットナックへお願い、というと家の付近まで来るので、その後はあっちだ、こっちだ、と言いながら家まで辿り着くのです。ですから郵便配達もありません。街の中心に大きな郵便局があり、ラオ人はそこに私書箱を設け手紙を受け取っています。
朝は、僧侶の托鉢を窓から眺めることで始まります。私の家の前に2組のグループが6:30から7:00の間に通ります。1組はかなり年を召した方が率いる中年グループで、その後ろから小学生のような少年2人がついていきます。彼らは髪は剃っているのですが、普通の服を着ています。みんな裸足。全員が施し物を受けると短かなお経を唱え、そして次の家に行きます。もう一つのグループは、ずっと若く、そのためか、お経の声に力があり、また長めで熱意があります。
施し物を差しだし、頭をたれてそのお経を聞くうちの隣のおじいさんの姿を見ると、私もやってみたい、という気持ちがおこるの反面、いやいや仏様を信じてもいないのにやってはいけないという気もおきてきます。先日は雨だったので、どうするのだろう、びしょ濡れで回るのかな、それとも合羽でも着るのかな、と思っていたら、何とみんな傘をさしていました。お坊さん達は、この托鉢時は裸足ですが、そのほかの時はサンダルを履いていますよ。
(雷が鳴り響き、ばしゃばしゃと音を立てて猛烈な勢いで雨が降り始めました。こうなると停電が起こりそうなので、もう寝ることにします。この雨音はものすごくて、とってもテレビなんか見ていられなくなります)
朝食が終わる頃、お手伝いのシモンおばさんがオートバイに乗ってやってきます。37才の2人の子持ち。主人が前任者から引き継いだ人です。まず彼女は、主人の靴を磨きます。それを見て主人は、こんな奥さんが欲しかったなあ・・・、と大きな声でつぶやいて出かけていきます。彼女は家のことは全部やってくれます。掃除、洗濯、アイロンかけ、買い物、そして料理。先日日本の料理の本を見せたら、これとこの野菜はラオスにもあると言い、同じものを食べるのね、となるほど、なるほど言うようにうなずいていました。
ラオ女性は髪を長くし、ラオサロンというスカートにブラウスを着ています。ラオサロンは円周120センチの筒型でウエストの位置をボタンで留めて、あとの余った部分を重ねて前に持ってきて留めています。ですから、前の部分は4枚重ねになっています。フリーサイズで便利そうですよ。ただ、髪を短く切り、ジーンズ姿でオートバイにまたがった女性も増えてきているんですって。タイの影響だとか。
それから、私はインターネットでしばし遊びます。まずアメリカの子ども達に近況を知らせます。英語で書かなければいけないので、一苦労です。それからこんな風にEMIALを友達に書きます。今、私はすごく面白い経験をしています。ひとつのメールを複数の国の、複数の友人に送っているのですが、それを読んでみんながアドバイスや感想を下さるんだけれど、もう、その内容が千差万別。その方々の個性や興味が反映されるんですね。それを読みながら、ああ、あれにも注意を払って見なければとか、これはどうなっているのだろう・・?なんて、探検心に似たものが出てきます。私は滅茶苦茶にいろいろな方に送っていますが、会社へ送ってしまっている場合もあるので、こんな私の戯れ語でご迷惑をかけているかも知れません。送らないようにしますので、お教え下さい。
昨日からの雨が降り止まず、今日日曜日は、一日NHK国際放送を見て過ごしそうです。衆院選を前に、選挙演説が多いのが少々憂鬱です。昨日の雨で、主人が庭に種を蒔き、5センチほどに育った野菜(唐辛子・オクラ・きゅうり)が雨に流され全滅しました。5月から10月までここは雨期で、雨に対する予防対策をとっていないので、野菜が出来ず、その間野菜はタイから輸入しています。雨が降っても野菜が収穫出来ることを、国連の農業・食糧機関のラオ所長である主人は証明しようと試験農場(?)を庭に作ったのですが、予防対策を立てる前に、雨の前に敗北してしまいました。笑ったら悪いと思うものの、ちょっとおかしいです。だって彼は1年間ほど家庭菜園をやったことがあるだけなんだもの。
昨日の雨でメコン川も水嵩も増したことでしょう。そして、街の道もどろどろだと思うわ。私はボストンで使っていた短い長靴を持ってきたんだけれど、そんなの履いている人はあなたがはじめて、とここに長いアメリカ人に言われました。ちょっと自慢に思ったけれど、本当の話は、そんなごつい長靴は暑くて履いていられないの。ゴムのサンダルでざぶざぶ歩く方が正解みたい。
ラオ語の授業
昨日は、6回目のラオ語の授業がありました。 先生の発音が聞き取れないのと、言葉を覚える先から忘れている能率の良さに大変な思いをしています。
先生は、ワントン氏で、英語、仏語、日本語が出来る、大学の先生です。日本では静岡大学で教育管理を勉強したそうです。年は45才位でしょうか? まだ、あなたは何歳ですか、というラオ文を習ってないので、聞くことが出来ないでいます。
彼には、左手の肘から下がありません。はじめての日にそれを見て、私は本当にびっくりし、当惑しました。体の不自由な方と接したことがなかったからです。 彼は左腕と右手を使って、何の不自由もなさそうに、本を開き、ものをつかんだりします。そして、驚くことに我が家にご自分で車を運転していらっしゃいます。 第一日目の最後に、我が主人が、’先生、その腕、どうしたんですか?’といとも簡単に、日常会話のように聞いたんですね。そしたら、’戦争です’とおっしゃいました。そして、主人の返事は、’ああ、そうですか’です。 私は、いつ、どこで、どのように、と続けて聞きたかったのですが、これで終わり。’でも、運転はお上手ですね’と聞きましたら、’しょうがない’でした。
ベトナム戦争中にラオスのベトナム国境沿いにアメリカ軍により大量の爆弾が落とされました。 ベトナム戦争開始時から、1973年までに、何と 2,093,100トン。これは、1戦闘機分の弾薬を、8分毎に24時間落下する事を9年間続けたことに当たるそうです。爆発せずに、落下したまま、弾薬がまだたくさん転がっているそうです。ラオス政府には回収の能力も技術もないそうです。アメリカの支援で少しずつ行っているようですが。このラオス爆弾投下を題材にした AIR AMERICA と言うメル・ギブソン主演の映画があります。
ラオ語のあなたという言葉には2種類有り、目下の人、と尊敬の場合と分けて使います。私には3種類有り、一般的、くだけた場合、それに改まった場合とあります。 他の人称も同じ用です。それに物の数え方も日本語に似ています。犬は、一匹。鉛筆は、2本と言うように。卵の一個は、ボールの一個と同じ、丸いから。お願いと言う言葉は、相手に自分のためにやって貰う場合と、相手の行動をお願いする場合とでは、言葉が違います。言葉というのはその社会を映しているものだと思うので、ラオ語を勉強することは、その観点から見ても悪くないぞ、と思っています。 ワントン先生によると、欧米人に比べ、日本人の方がラオ語習得が早いそうです。尊敬、謙譲という言葉概念が日本語に似ているからかもしれません。
先生は、ワントン氏で、英語、仏語、日本語が出来る、大学の先生です。日本では静岡大学で教育管理を勉強したそうです。年は45才位でしょうか? まだ、あなたは何歳ですか、というラオ文を習ってないので、聞くことが出来ないでいます。
彼には、左手の肘から下がありません。はじめての日にそれを見て、私は本当にびっくりし、当惑しました。体の不自由な方と接したことがなかったからです。 彼は左腕と右手を使って、何の不自由もなさそうに、本を開き、ものをつかんだりします。そして、驚くことに我が家にご自分で車を運転していらっしゃいます。 第一日目の最後に、我が主人が、’先生、その腕、どうしたんですか?’といとも簡単に、日常会話のように聞いたんですね。そしたら、’戦争です’とおっしゃいました。そして、主人の返事は、’ああ、そうですか’です。 私は、いつ、どこで、どのように、と続けて聞きたかったのですが、これで終わり。’でも、運転はお上手ですね’と聞きましたら、’しょうがない’でした。
ベトナム戦争中にラオスのベトナム国境沿いにアメリカ軍により大量の爆弾が落とされました。 ベトナム戦争開始時から、1973年までに、何と 2,093,100トン。これは、1戦闘機分の弾薬を、8分毎に24時間落下する事を9年間続けたことに当たるそうです。爆発せずに、落下したまま、弾薬がまだたくさん転がっているそうです。ラオス政府には回収の能力も技術もないそうです。アメリカの支援で少しずつ行っているようですが。このラオス爆弾投下を題材にした AIR AMERICA と言うメル・ギブソン主演の映画があります。
ラオ語のあなたという言葉には2種類有り、目下の人、と尊敬の場合と分けて使います。私には3種類有り、一般的、くだけた場合、それに改まった場合とあります。 他の人称も同じ用です。それに物の数え方も日本語に似ています。犬は、一匹。鉛筆は、2本と言うように。卵の一個は、ボールの一個と同じ、丸いから。お願いと言う言葉は、相手に自分のためにやって貰う場合と、相手の行動をお願いする場合とでは、言葉が違います。言葉というのはその社会を映しているものだと思うので、ラオ語を勉強することは、その観点から見ても悪くないぞ、と思っています。 ワントン先生によると、欧米人に比べ、日本人の方がラオ語習得が早いそうです。尊敬、謙譲という言葉概念が日本語に似ているからかもしれません。
ドラッグ・コントロール
今日は、International Day against Drug and Illicit Traffic という日だそうです。私はそれに関する式典から、今帰ってきたところです。
国連のドラッグ・コントロールと言う機関がラオ政府と協力して行った行事です。過去一年間に押収した、アヘン、ヘロイン、大麻、それにメタンフェタミンを積み上げて、燃やしました。風下に立てば、薬物のにおいがかげるのではないかしら、とはじめての経験に好奇心満々で見に行ったのですが、積み上げた薬物は、昨夜の雨で濡れたせいか、びしゃびしゃとガソリンをかけて火をつけ、ガソリン臭いだけで、あてにしていたドラッグの体験は全く出来ませんでした。
でも、ヘロインの塊は見ました。なんとこの国ではドラッグが年間120トン作られ、そのうち70トンが国内で消費されるそうです。今日廃棄されたドラッグは、小型トラック一台分くらいだと思うけれど、ラオ価格で、5億円ぐらいになるそうです。北部の山岳地帯の少数民族は、アヘンの栽培が生計の主たる物だそうなので、この国での薬物撲滅は、並大抵の事ではないと思います。きっと、今日燃やした量など、大したことはないでしょうけれど、薬物使用が増えている青少年へメッセージが伝わればと思います。
国連のドラッグ・コントロールと言う機関がラオ政府と協力して行った行事です。過去一年間に押収した、アヘン、ヘロイン、大麻、それにメタンフェタミンを積み上げて、燃やしました。風下に立てば、薬物のにおいがかげるのではないかしら、とはじめての経験に好奇心満々で見に行ったのですが、積み上げた薬物は、昨夜の雨で濡れたせいか、びしゃびしゃとガソリンをかけて火をつけ、ガソリン臭いだけで、あてにしていたドラッグの体験は全く出来ませんでした。
でも、ヘロインの塊は見ました。なんとこの国ではドラッグが年間120トン作られ、そのうち70トンが国内で消費されるそうです。今日廃棄されたドラッグは、小型トラック一台分くらいだと思うけれど、ラオ価格で、5億円ぐらいになるそうです。北部の山岳地帯の少数民族は、アヘンの栽培が生計の主たる物だそうなので、この国での薬物撲滅は、並大抵の事ではないと思います。きっと、今日燃やした量など、大したことはないでしょうけれど、薬物使用が増えている青少年へメッセージが伝わればと思います。
マーク・ラムニャイは真っ盛り
我が家の庭には、マンゴーの木2本と竜眼(ラオ語でマーク・ラムニャイ)という茶色の実が、ぶどうのよう な房になる大きな木があります。マンゴーの季節は終わりましたが、このマーク・ラムニャイは真っ盛りです。皮をむくと、白いつるっとしたあまり甘くない実があります。中の種が大きくて、私はあまり好きではありません。でも、家の前を通る人、特に子ども達が、この木を見上げて、にこにこ何か話しながら過ぎていきます。
今日、アメリカ人の友達のところへ行こうと家を出たところ、8才くらいの女の子と6才くらいの男の子に呼び止められました。そして、あの果物がおいしそうなので、取らせて欲しい、と言われました。彼らの話すラオ語はちっともわからなかったけれど、身振り、手振りの一生懸命さも手伝って、彼らの切なる思いが伝わってきました。運良く庭師が来ていたので、彼に梯子に登って貰い取り、抱えきれないほど持たせました。
彼らは、私が出てくるチャンスをずっと待っていたよう。きっと、すごい勇気を奮い起こして、私に声をかけたんでしょう。2人の真剣なまなざしがきらきらと輝いていて素敵でした。実は、一昨日、この木の実を買い取りたいという人が来たのです。でも、断りました。他人が木に登り、家の中まで見られるのは困ると判断したからですが、断っておいて良かった。
昨日は、前のお宅(ラオス人です)で、椰子の実の収穫をしていました。 あのつるつるとした高い木にどんな風にして登るのかと見ていたら、スパイクの付いた鉄製の下駄のようなものを履き、そのスパイクを幹に突き刺しながら上り下りしていました。
果物は、ずいぶん色々食べています。シモンちゃんが私に試させようと、よりどりみどり買ってくるのです。今まで見たことも食べたこともない、名前も聞いたこともない果物がたくさんあり、首を傾げつつ味見しています。知られていないと言うことは、あまりおいしくないという結論に達しました。パイナップル、すいか、ランブータンがおいしいですね。主人の好みはドリアン。私は臭いをかいだだけでうんざりです。
ラオス料理を食べようと、2回、近所のレストランに行きました。試したのは、炭火焼きのバーベキュー、野菜炒め、炒飯。そう代わり映えのない料理。それしかオーダー出来なかったのです。他の料理がどんなものかわからなくて。ラオ人がおしゃべりしながら、おいしそうに生野菜をスープにのせたものを食べていたけれど、おいしそうだったな!!
先日、主人の仕事関係の政府役人と昼食をしました。ビエンチャンから50キロほど北にある人口湖に行った時です。これは、ラオさしみだ、と冗談気に言う料理は、白身の魚をニンニク、しょうが、唐辛子それにコリアンダーと一緒に細かくたたいたものでした。残念ながら、頂きませんでした。生ものは厳禁なのです、ここでは。長さ30センチ程の立派な焼魚も出たのですが、塩気が全くなく、おしょうゆでもあればなあ、とちょっと残念でした。ラオス料理には、メコン川でとれる魚が欠かせないようです。
この昼食会でびっくりしたのは、昼間なのにウイスキーの水割りをどんどん飲んでいることです。よく食べ、よく飲み・・・と言う感じ。そういえば、主人の歓迎パーティーを農林大臣が開いて下さったときは、いろいろな部門の局長クラスの方々が出席されていましたけれど、大臣や副大臣との同席なのに、天真爛漫としかいいようがないほど、闊達に食べ、そして飲んでいらっしゃいました。かしこまったりしていませんでした。
ラオスには、ビアー・ラオというビールがあります。ドイツの援助で出来た製品で、辛口のシャープな味です。街の酒屋には、ウイスキー、ワインと何でもあり、またそれがすごく安いのです。どうもラオス人は、お酒好きのようですが、街にはアルコール中毒らしい人は見あたらないし、本当のところはわかりません。もう少し、調査をしてご報告しますね。
先日、一般的ビエンチャン在外国人にならい、メコン川を越えてタイのウドン・タニという、ここから1時間半の街まで買い出しに出かけました。ビエンチャンでは値の張るジュース、バター、ジャムそれに洗剤などを買うのです。ウドンは、ベトナム戦争期に米軍の基地があった街です。 そのにぎやかさ、品物の種類の多さ、値段の安さにびっくりし、買わなければいけないものの半分も買えず、疲れ切って家に帰ってきました。ラオスに来て一ヶ月で、もう私は田舎者になってしまったよう。花王のビオレや、ナショナルの最新式電気釜が日本での半額で売っていました。
エビを買ったときはすごく感心したと主人が言っていました。重さを量るのに、頭を取ってはかったそうですし、ちょっと見栄えの悪いのは取り除いていたということ。また、この街には、オーストラリア人のドクター達もいる立派な病院があり、病気になったら、ビエンチャンから向かうところです。私はそこで日本脳炎の予防注射をしたのですが、病院の清潔さとその値段の安さに目を見張る思いをしました。アメリカで100ドルした注射が、ここではなんと8ドルでした。
野菜・果物・肉等は、市場で買います。私は散歩がてら市場を覗いたことはありますが、買い物はしたことがありません。買い物はシモンちゃんが取り仕切っているので、すべて任せています。そんなわけで女性が一番気にかかる食糧事情に疎く、反省しているところです。
今日、アメリカ人の友達のところへ行こうと家を出たところ、8才くらいの女の子と6才くらいの男の子に呼び止められました。そして、あの果物がおいしそうなので、取らせて欲しい、と言われました。彼らの話すラオ語はちっともわからなかったけれど、身振り、手振りの一生懸命さも手伝って、彼らの切なる思いが伝わってきました。運良く庭師が来ていたので、彼に梯子に登って貰い取り、抱えきれないほど持たせました。
彼らは、私が出てくるチャンスをずっと待っていたよう。きっと、すごい勇気を奮い起こして、私に声をかけたんでしょう。2人の真剣なまなざしがきらきらと輝いていて素敵でした。実は、一昨日、この木の実を買い取りたいという人が来たのです。でも、断りました。他人が木に登り、家の中まで見られるのは困ると判断したからですが、断っておいて良かった。
昨日は、前のお宅(ラオス人です)で、椰子の実の収穫をしていました。 あのつるつるとした高い木にどんな風にして登るのかと見ていたら、スパイクの付いた鉄製の下駄のようなものを履き、そのスパイクを幹に突き刺しながら上り下りしていました。
果物は、ずいぶん色々食べています。シモンちゃんが私に試させようと、よりどりみどり買ってくるのです。今まで見たことも食べたこともない、名前も聞いたこともない果物がたくさんあり、首を傾げつつ味見しています。知られていないと言うことは、あまりおいしくないという結論に達しました。パイナップル、すいか、ランブータンがおいしいですね。主人の好みはドリアン。私は臭いをかいだだけでうんざりです。
ラオス料理を食べようと、2回、近所のレストランに行きました。試したのは、炭火焼きのバーベキュー、野菜炒め、炒飯。そう代わり映えのない料理。それしかオーダー出来なかったのです。他の料理がどんなものかわからなくて。ラオ人がおしゃべりしながら、おいしそうに生野菜をスープにのせたものを食べていたけれど、おいしそうだったな!!
先日、主人の仕事関係の政府役人と昼食をしました。ビエンチャンから50キロほど北にある人口湖に行った時です。これは、ラオさしみだ、と冗談気に言う料理は、白身の魚をニンニク、しょうが、唐辛子それにコリアンダーと一緒に細かくたたいたものでした。残念ながら、頂きませんでした。生ものは厳禁なのです、ここでは。長さ30センチ程の立派な焼魚も出たのですが、塩気が全くなく、おしょうゆでもあればなあ、とちょっと残念でした。ラオス料理には、メコン川でとれる魚が欠かせないようです。
この昼食会でびっくりしたのは、昼間なのにウイスキーの水割りをどんどん飲んでいることです。よく食べ、よく飲み・・・と言う感じ。そういえば、主人の歓迎パーティーを農林大臣が開いて下さったときは、いろいろな部門の局長クラスの方々が出席されていましたけれど、大臣や副大臣との同席なのに、天真爛漫としかいいようがないほど、闊達に食べ、そして飲んでいらっしゃいました。かしこまったりしていませんでした。
ラオスには、ビアー・ラオというビールがあります。ドイツの援助で出来た製品で、辛口のシャープな味です。街の酒屋には、ウイスキー、ワインと何でもあり、またそれがすごく安いのです。どうもラオス人は、お酒好きのようですが、街にはアルコール中毒らしい人は見あたらないし、本当のところはわかりません。もう少し、調査をしてご報告しますね。
先日、一般的ビエンチャン在外国人にならい、メコン川を越えてタイのウドン・タニという、ここから1時間半の街まで買い出しに出かけました。ビエンチャンでは値の張るジュース、バター、ジャムそれに洗剤などを買うのです。ウドンは、ベトナム戦争期に米軍の基地があった街です。 そのにぎやかさ、品物の種類の多さ、値段の安さにびっくりし、買わなければいけないものの半分も買えず、疲れ切って家に帰ってきました。ラオスに来て一ヶ月で、もう私は田舎者になってしまったよう。花王のビオレや、ナショナルの最新式電気釜が日本での半額で売っていました。
エビを買ったときはすごく感心したと主人が言っていました。重さを量るのに、頭を取ってはかったそうですし、ちょっと見栄えの悪いのは取り除いていたということ。また、この街には、オーストラリア人のドクター達もいる立派な病院があり、病気になったら、ビエンチャンから向かうところです。私はそこで日本脳炎の予防注射をしたのですが、病院の清潔さとその値段の安さに目を見張る思いをしました。アメリカで100ドルした注射が、ここではなんと8ドルでした。
野菜・果物・肉等は、市場で買います。私は散歩がてら市場を覗いたことはありますが、買い物はしたことがありません。買い物はシモンちゃんが取り仕切っているので、すべて任せています。そんなわけで女性が一番気にかかる食糧事情に疎く、反省しているところです。
我が家の水道代は、5,000キップ
ラオスには1500人ほどの外国人がいるそうです。大使館、国連関係、各国政府の援助機関、それにNGOに関わる方達です。NGOの中でも、遠いノルウェーやスエーデンの機関が多いのがちょっと以外です。「ラオス日本人会」には、家族を含めて350人ほどの会員がおり、ラオス在住の外国人としては最大数ということです。JICAの職員の方々に加え、海外青年協力隊員が56名、シニアーボランティアーが12名と日本からの援助関係者が大半を占めています。
ラオス国内では、数え切れないほど日本政府出資の援助プロジェクトが行われています。国内の路線バスは日本のギフトだそうです。でもどういう訳か、バスは韓国HYUNDAI社製です。今新しい病院も建てられています。森林保護の援助に加え、紙作りの技術伝授も行われています。ビエンチャンにゴミが少ないのは、日本が送ったゴミ収集車のおかげ。先日行った電気のない漁村には、各戸に太陽熱発電機が取り付けられており、皆さんテレビを見ていましたっけ。これも日本からのギフトだそうです。
23ヶ国の大使館がビエンチャンにあります。ソ連はびっくりするほど大きく威圧的な大使館、及び館員宿舎を持っています。25年前のラオス革命後のソ連進出の名残です。フランスの大使館は、植民地時代のフランス風の広々としたおおらかな木造のお屋敷にあります。一つ不思議なことは、私たち日本人が思う裕福でなさそうな国々(カンボジアとかビルマ、フィリピン)の大使が、立派なベンツに乗っていること。アメリカ大使公用車は、頑丈な四輪駆動車で、とっさの非常事態に対処できるようにしているとか。日本大使の公用車はありきたりなトヨタです。
私が住んでいるこの家は、外国人賃貸用に建てられたもので、各部屋にエアコンが付き、テレビもバンコクの多チャンネル放送を受信できるアンテナが付いています。日本的水準から言うと広々とした家ですが、ラオス基準からすると庭も家も小さく、こじんまりとしています。家の問題は何と言っても、蟻。ちょっと油断をして台所に食べ物のかすを残しておくと、もうどこからか小さな、小さな蟻が襲来してきています。それに我が家にはヤモリが何匹も住みついています。大きいのは20cmもあります。カーテンの陰に隠れてじっとしている人畜無害のおとなしいやつですが、暗い部屋ではのびのびと動き回るらしく、急に電気をつけられてすっごくあわてて隠れるのを見ることがあります。あれは声を出して泣くんですね。クークーって。
5月の我が家の水道代は、5,000キップでした。7,000キップが100円くらいかしら。それが6月分は、何と245,000キップ。いえいえ、水道管漏れなんかではありません。これは水道局が、ここの住人が外人とわかり、外人料金に変更した結果です。電気代、電話代も外人料金に変わるのは時間の問題のようです。 ただ、どうやって、ここが外人住居だとわかったのかしらという疑問は解決されていません。 お隣にはオーストラリア人が住んでいますが、彼女と一緒に首をかしげています。メーターをはかりに来る作業員や集金人には、シモンが応対していて、彼女は私たちが日本人だと言うことは一言も言っていないのです。この外人から取ってやろう!というのは、発展途上国にはどこでもあるので、仕方がないと思っています。ちなみにリベリアでは、主人は一日たった4時間の電気代に1ヶ月8万円も払っていたそうです。これには、主人はものすごく腹をたてていました。
こんなことがありました。昼間シモンがいないときに、ゴミ収集料金の集金に来ました。私が出ていきラオス人でないとわかると、手に持っていた8,000キップと書いた領収書をさっと隠して、15,000と書き換えて私に差し出すのです。 とっても愛想よくにこにこしながら。「ふーん、こういうことをするのね」と思っても、私もにこにこしながら払いましたけれど。その差額は一体誰の懐に入るのでしょうね。
ラオス国内では、数え切れないほど日本政府出資の援助プロジェクトが行われています。国内の路線バスは日本のギフトだそうです。でもどういう訳か、バスは韓国HYUNDAI社製です。今新しい病院も建てられています。森林保護の援助に加え、紙作りの技術伝授も行われています。ビエンチャンにゴミが少ないのは、日本が送ったゴミ収集車のおかげ。先日行った電気のない漁村には、各戸に太陽熱発電機が取り付けられており、皆さんテレビを見ていましたっけ。これも日本からのギフトだそうです。
23ヶ国の大使館がビエンチャンにあります。ソ連はびっくりするほど大きく威圧的な大使館、及び館員宿舎を持っています。25年前のラオス革命後のソ連進出の名残です。フランスの大使館は、植民地時代のフランス風の広々としたおおらかな木造のお屋敷にあります。一つ不思議なことは、私たち日本人が思う裕福でなさそうな国々(カンボジアとかビルマ、フィリピン)の大使が、立派なベンツに乗っていること。アメリカ大使公用車は、頑丈な四輪駆動車で、とっさの非常事態に対処できるようにしているとか。日本大使の公用車はありきたりなトヨタです。
私が住んでいるこの家は、外国人賃貸用に建てられたもので、各部屋にエアコンが付き、テレビもバンコクの多チャンネル放送を受信できるアンテナが付いています。日本的水準から言うと広々とした家ですが、ラオス基準からすると庭も家も小さく、こじんまりとしています。家の問題は何と言っても、蟻。ちょっと油断をして台所に食べ物のかすを残しておくと、もうどこからか小さな、小さな蟻が襲来してきています。それに我が家にはヤモリが何匹も住みついています。大きいのは20cmもあります。カーテンの陰に隠れてじっとしている人畜無害のおとなしいやつですが、暗い部屋ではのびのびと動き回るらしく、急に電気をつけられてすっごくあわてて隠れるのを見ることがあります。あれは声を出して泣くんですね。クークーって。
5月の我が家の水道代は、5,000キップでした。7,000キップが100円くらいかしら。それが6月分は、何と245,000キップ。いえいえ、水道管漏れなんかではありません。これは水道局が、ここの住人が外人とわかり、外人料金に変更した結果です。電気代、電話代も外人料金に変わるのは時間の問題のようです。 ただ、どうやって、ここが外人住居だとわかったのかしらという疑問は解決されていません。 お隣にはオーストラリア人が住んでいますが、彼女と一緒に首をかしげています。メーターをはかりに来る作業員や集金人には、シモンが応対していて、彼女は私たちが日本人だと言うことは一言も言っていないのです。この外人から取ってやろう!というのは、発展途上国にはどこでもあるので、仕方がないと思っています。ちなみにリベリアでは、主人は一日たった4時間の電気代に1ヶ月8万円も払っていたそうです。これには、主人はものすごく腹をたてていました。
こんなことがありました。昼間シモンがいないときに、ゴミ収集料金の集金に来ました。私が出ていきラオス人でないとわかると、手に持っていた8,000キップと書いた領収書をさっと隠して、15,000と書き換えて私に差し出すのです。 とっても愛想よくにこにこしながら。「ふーん、こういうことをするのね」と思っても、私もにこにこしながら払いましたけれど。その差額は一体誰の懐に入るのでしょうね。
バンコクで面白かったことがふたつ
主人のバンコク出張についてバンコクへ一週間行って来ました。都会の喧噪、便利さを味わった後のビエンチャンの緑が目に鮮やか。また、小鳥のさえずり、葉の風にざわめく音が耳に快く響きます。
バンコクで面白かったことがふたつ。
一つはカオサン通り地区。ここはバックパッカーのたまり場で、通りの両側はおみやげ屋、カフェ、旅行代理店が並び、その上階はゲスト・ハウス。日本人専用のゲスト・ハウスもあり、エアコンつき部屋は、一泊150バーツ、約400円。インターネット・カフェを見つけたので、メールを子ども達に送ることにしました。入ってびっくり。コンピューターが15台並んでいます。そして日本人やら、西洋人が必死にキーボードを打っているのです。私はキーボードのタイ語にびっくりして、指がうまく動きません。簡単な手紙を送り、インターネット・カフェ初体験終了。10分間で、10バーツ。その安さにまたまたびっくり。この地区にはこんなカフェがたくさんあり、どこも繁盛しているよう。また、そのカフェの一角には古本コーナーがあり、旅行者達が旅を終えた旅行案内書を売り、そしてまた、新しい本を手に入れ旅に出かける。世界的流行のバックパッカー事情を垣間見られ、ちょっと楽しくなりました。 アイロンのびしっとかかったズボンにシャツ、革靴を履き、皮のバッグ。 そんな服装は私1人でした。ここではみんな、ショートパンツにサンダル。
もう一つは、タイ有数のセントラルデパートでのこと。
1階の化粧品売場で(アメリカでも日本でも、そしてタイでもデパートの化粧品売場は、入り口近くと決まっているようですね) 新しいブランドのキャンペーンをしていました。3人いる売り子がなんと皆男性。それも皆髪を耳下まで伸ばし、綺麗に化粧をしたあのタイプ。服はシャツに細いズボン。そぶりも男の子っぽい。私はこの有名なデパートにこんなタイプの男の子が店員として楽しそうに働いていることにびっくり。ボストンのデパートやブティックにはホモの店員がたくさんいるけれど、化粧なんてしていません。そして、お客さん達、若い女の子も、私の年頃のおばさんも彼らから楽しそうに製品の説明を受けていました。道行く人も誰も立ち止まって、じろじろ眺めたりしていませんでした、そう、私以外には。
龍眼と子ども達に関しての追記:
木にはまだ果物がたわわに実っているので、毎日のように子ども達が来ます。そこで、主人がはしごを掛け、取ってやることにしました。子ども達が梯子をしっかりとおさえてくれ、主人がのぼります。もうちょっとというところで果物に届きません。子ども達は木に登ったほうが良いよ、と身振りで言います。主人は木に登る気は毛頭なく、「残念でしたー」と降りてきました。その時の子ども達の顔といったら、涙を流しそうなほど悲しそうでした。その日以来、子ども達は我が家に寄りつかなくなりました。「あのおじさんじゃあ、駄目なんだ」とあきらめたのでしょうね。ちょっと、かわいそうな気がしています。
バンコクで面白かったことがふたつ。
一つはカオサン通り地区。ここはバックパッカーのたまり場で、通りの両側はおみやげ屋、カフェ、旅行代理店が並び、その上階はゲスト・ハウス。日本人専用のゲスト・ハウスもあり、エアコンつき部屋は、一泊150バーツ、約400円。インターネット・カフェを見つけたので、メールを子ども達に送ることにしました。入ってびっくり。コンピューターが15台並んでいます。そして日本人やら、西洋人が必死にキーボードを打っているのです。私はキーボードのタイ語にびっくりして、指がうまく動きません。簡単な手紙を送り、インターネット・カフェ初体験終了。10分間で、10バーツ。その安さにまたまたびっくり。この地区にはこんなカフェがたくさんあり、どこも繁盛しているよう。また、そのカフェの一角には古本コーナーがあり、旅行者達が旅を終えた旅行案内書を売り、そしてまた、新しい本を手に入れ旅に出かける。世界的流行のバックパッカー事情を垣間見られ、ちょっと楽しくなりました。 アイロンのびしっとかかったズボンにシャツ、革靴を履き、皮のバッグ。 そんな服装は私1人でした。ここではみんな、ショートパンツにサンダル。
もう一つは、タイ有数のセントラルデパートでのこと。
1階の化粧品売場で(アメリカでも日本でも、そしてタイでもデパートの化粧品売場は、入り口近くと決まっているようですね) 新しいブランドのキャンペーンをしていました。3人いる売り子がなんと皆男性。それも皆髪を耳下まで伸ばし、綺麗に化粧をしたあのタイプ。服はシャツに細いズボン。そぶりも男の子っぽい。私はこの有名なデパートにこんなタイプの男の子が店員として楽しそうに働いていることにびっくり。ボストンのデパートやブティックにはホモの店員がたくさんいるけれど、化粧なんてしていません。そして、お客さん達、若い女の子も、私の年頃のおばさんも彼らから楽しそうに製品の説明を受けていました。道行く人も誰も立ち止まって、じろじろ眺めたりしていませんでした、そう、私以外には。
龍眼と子ども達に関しての追記:
木にはまだ果物がたわわに実っているので、毎日のように子ども達が来ます。そこで、主人がはしごを掛け、取ってやることにしました。子ども達が梯子をしっかりとおさえてくれ、主人がのぼります。もうちょっとというところで果物に届きません。子ども達は木に登ったほうが良いよ、と身振りで言います。主人は木に登る気は毛頭なく、「残念でしたー」と降りてきました。その時の子ども達の顔といったら、涙を流しそうなほど悲しそうでした。その日以来、子ども達は我が家に寄りつかなくなりました。「あのおじさんじゃあ、駄目なんだ」とあきらめたのでしょうね。ちょっと、かわいそうな気がしています。
ルアン・プラバン市。ビエンチャンより北に420km
ルアン・プラバン市。ビエンチャンより北に420km。1975年に共産革命政権が樹立するまでの王宮所在地。1995年には、UNESCOのワールド・ヘリテージ都市として登録される、東南アジアの面影をとどめている都市として。
主人のルアン・プラバン市への3泊4日の出張に同行。 その地域へ車で旅行をする場合は、事前にラオ政府へ安全確認を行い、許可を得なければいけないという国連の規則がなくなり、自由に旅行が許可されたので、車で行くことにする。日本政府関係者は、車での旅行は禁止されているとのこと。山間部の道の不備と山賊が出没する危険があったそうだが、最近はそのような事件が起こっていない。
ちょうど田植えの時期で、水田には長さ10センチくらいの稲が青々と見渡せる。大勢の人が一列に並び田植えをしている。映画の場面でも見ているよう。耕耘機は、小さなエンジンの付いた手押し式もあるが、水牛でひっぱているタイプもある。 豊かな穀倉地帯なのか、ケーブルテレビ用アンテナがそびえる大きな家が並んでいる。高床式の下の部分には、織機の置いてある家も多い。
ビエンチャンから180km過ぎると、行く手に山が見え始め、カーブに次カーブの山道に入る。鬱蒼とした熱帯雨林の茂みの間に焼き畑が広がる。木を削り取られた無惨な姿。目の前には斜面の角度が35度から45度もあるような焼き畑に陸稲が植えられているのが見える。あの急斜面でどんな風に作業をするのか見てみたいと思ったけれど、残念ながらかなわず。
道の両側にはぽつんぽつんと集落があり、裸になった子どもが走り回っている。竹を編んだ壁に茅葺き屋根の高床式家屋が多い。電気が通っている部落もあるが、ないところもある。清らかなわき水の出る箇所が少ないらしく、雨水も貯めて使っている。その日もぱらぱらと細かい雨が降っていたけれど、家は濡れて湿気っぽくならないのだろうか。
銃を肩にした男達は、猟に行くのだろう。女達はショルダーバッグのひもの部分をおでこに当て、荷物を入れた部分を背に、前屈みになって歩いている。野菜や水を運んでいるのかしら?男も女も小柄だ。ラオスの半数は山岳民族だそうだけれど、彼らが何族なのかわからない。私たちが生活と呼ぶものとは全く異質の生の営みがそこにはある。
霧で一瞬先も見えにくい山を越えると急に太陽が顔を出す。また、山を一つ越えると小雨が降っている。行けども行けども続くように感じた山も4時間ほどすぎると、カーブも緩やかになり目的地のルアン・プラバン到着。
車が数少なく、そぞろ歩く人も旅行者の方が多い。黄色の仏塔が街の真ん中の小高い丘にあり、目を引く。町中にいくつものお寺があるが、1800年後半に中国の黒旗党の侵略時に、略奪破壊され、1900年代になって再建されたものが多い。その中で破壊を免れたシエントン寺院は、1500年代に建立された古い寺で、年月を経て色あせた赤や黄色の壁がが渋い光を放っている。背を伸ばすような厳粛な雰囲気はなく、開放的な明るさが気持ちを和ませる。街の中心部は1kmほどの広い通りで、両側に古いラオ家屋やフランス植民地時代の建物が並んでいる。観光地の古くなった建物を見ているという感覚はおきず、昔の風景にタイムスリップしたような不思議な気持ちになる。知らない街だけれど、何か妙に懐かしいような。
雨季時は、若者の短期間の僧生活時期に当たっているせいか、寺院にも街にも黄色の僧衣をまとった若者が多い。地元の人たちは観光客を気に留めている様子がないけれど、何が良くてこの街に来るんだろうな、と内心思っているかも知れない。ラオ政府は、観光客が押し寄せると良からぬ風俗を持ち込むことを心配し、観光客誘致に消極的だ。それに、ラオ人は観光ビジネスセンスがないようで、観光客がお金を落とすような仕組みを作っていない。これもまたいい。
主人の仕事の農林省関係の50人ほどの夕食会に出席。この地の地方料理を食べる。水牛の皮と野菜の炒め物。初めて食べた水牛の皮はちょっと油っぽいけれど、こりこりと歯ごたえがいい。川エビの炒め物は、日本の佃煮のよう。メコン川の海藻を乾かして味を付けた物は、見かけも味もまるで海苔みたい。ラオスでは、食事中にまわりの人達と何度も乾杯をする。食事の後はバンド演奏の始まり。それぞれの地方によりリズムが違うそうだけれど、どれものんびりとした曲で、日本の民謡に似ている。
そして、人々が踊りだす。男女ペアーになり円を描いて踊る。阿波踊りみたいに足と手を音楽に合わせて動かす。女性が男性の前に来て両手を会わせお辞儀をし、「踊って下さい」という。そして円に加わり踊り、また両手を合わせお辞儀をし終わる。男性が女性を誘う事もある。ラオ政府高官やその秘書の人たちや運転手、それに主人の同僚のイギリス人やオランダ人、私たち日本人が輪になって仲良く楽しく踊る。
モン族が開く週末市に行った。モン族はタイ北部にもいる山岳民族で、女性達の刺繍で有名。モン族の生活を描いた絵のような刺繍と幾何学模様のクロスステッチがある。年寄りの女性は頭を黒の布で覆っているが、若い方はしていない。おばあちゃん達は、大きな老眼鏡をかけてせっせと針を動かしながら、店番をしている。12才くらいの女の子が店番をしているお店で壁掛けを見つける。30,000キップだが、手持ちが23,000キップしかなかったので、まけて貰う。それでも売り上げをあげた女の子はすごく嬉しそう。5才くらいの小さな女の子もお母さんに教えられながら、針をうごかしている。どの店も同じ色合いの同じ模様の刺繍。親から子へ、姉から妹へと伝えられているのでしょう。
帰り道は少し短く感じる。ビエンチャン市内に入ると車やオートバイの多さにびっくり。大都市に帰ってきた。
主人のルアン・プラバン市への3泊4日の出張に同行。 その地域へ車で旅行をする場合は、事前にラオ政府へ安全確認を行い、許可を得なければいけないという国連の規則がなくなり、自由に旅行が許可されたので、車で行くことにする。日本政府関係者は、車での旅行は禁止されているとのこと。山間部の道の不備と山賊が出没する危険があったそうだが、最近はそのような事件が起こっていない。
ちょうど田植えの時期で、水田には長さ10センチくらいの稲が青々と見渡せる。大勢の人が一列に並び田植えをしている。映画の場面でも見ているよう。耕耘機は、小さなエンジンの付いた手押し式もあるが、水牛でひっぱているタイプもある。 豊かな穀倉地帯なのか、ケーブルテレビ用アンテナがそびえる大きな家が並んでいる。高床式の下の部分には、織機の置いてある家も多い。
ビエンチャンから180km過ぎると、行く手に山が見え始め、カーブに次カーブの山道に入る。鬱蒼とした熱帯雨林の茂みの間に焼き畑が広がる。木を削り取られた無惨な姿。目の前には斜面の角度が35度から45度もあるような焼き畑に陸稲が植えられているのが見える。あの急斜面でどんな風に作業をするのか見てみたいと思ったけれど、残念ながらかなわず。
道の両側にはぽつんぽつんと集落があり、裸になった子どもが走り回っている。竹を編んだ壁に茅葺き屋根の高床式家屋が多い。電気が通っている部落もあるが、ないところもある。清らかなわき水の出る箇所が少ないらしく、雨水も貯めて使っている。その日もぱらぱらと細かい雨が降っていたけれど、家は濡れて湿気っぽくならないのだろうか。
銃を肩にした男達は、猟に行くのだろう。女達はショルダーバッグのひもの部分をおでこに当て、荷物を入れた部分を背に、前屈みになって歩いている。野菜や水を運んでいるのかしら?男も女も小柄だ。ラオスの半数は山岳民族だそうだけれど、彼らが何族なのかわからない。私たちが生活と呼ぶものとは全く異質の生の営みがそこにはある。
霧で一瞬先も見えにくい山を越えると急に太陽が顔を出す。また、山を一つ越えると小雨が降っている。行けども行けども続くように感じた山も4時間ほどすぎると、カーブも緩やかになり目的地のルアン・プラバン到着。
車が数少なく、そぞろ歩く人も旅行者の方が多い。黄色の仏塔が街の真ん中の小高い丘にあり、目を引く。町中にいくつものお寺があるが、1800年後半に中国の黒旗党の侵略時に、略奪破壊され、1900年代になって再建されたものが多い。その中で破壊を免れたシエントン寺院は、1500年代に建立された古い寺で、年月を経て色あせた赤や黄色の壁がが渋い光を放っている。背を伸ばすような厳粛な雰囲気はなく、開放的な明るさが気持ちを和ませる。街の中心部は1kmほどの広い通りで、両側に古いラオ家屋やフランス植民地時代の建物が並んでいる。観光地の古くなった建物を見ているという感覚はおきず、昔の風景にタイムスリップしたような不思議な気持ちになる。知らない街だけれど、何か妙に懐かしいような。
雨季時は、若者の短期間の僧生活時期に当たっているせいか、寺院にも街にも黄色の僧衣をまとった若者が多い。地元の人たちは観光客を気に留めている様子がないけれど、何が良くてこの街に来るんだろうな、と内心思っているかも知れない。ラオ政府は、観光客が押し寄せると良からぬ風俗を持ち込むことを心配し、観光客誘致に消極的だ。それに、ラオ人は観光ビジネスセンスがないようで、観光客がお金を落とすような仕組みを作っていない。これもまたいい。
主人の仕事の農林省関係の50人ほどの夕食会に出席。この地の地方料理を食べる。水牛の皮と野菜の炒め物。初めて食べた水牛の皮はちょっと油っぽいけれど、こりこりと歯ごたえがいい。川エビの炒め物は、日本の佃煮のよう。メコン川の海藻を乾かして味を付けた物は、見かけも味もまるで海苔みたい。ラオスでは、食事中にまわりの人達と何度も乾杯をする。食事の後はバンド演奏の始まり。それぞれの地方によりリズムが違うそうだけれど、どれものんびりとした曲で、日本の民謡に似ている。
そして、人々が踊りだす。男女ペアーになり円を描いて踊る。阿波踊りみたいに足と手を音楽に合わせて動かす。女性が男性の前に来て両手を会わせお辞儀をし、「踊って下さい」という。そして円に加わり踊り、また両手を合わせお辞儀をし終わる。男性が女性を誘う事もある。ラオ政府高官やその秘書の人たちや運転手、それに主人の同僚のイギリス人やオランダ人、私たち日本人が輪になって仲良く楽しく踊る。
モン族が開く週末市に行った。モン族はタイ北部にもいる山岳民族で、女性達の刺繍で有名。モン族の生活を描いた絵のような刺繍と幾何学模様のクロスステッチがある。年寄りの女性は頭を黒の布で覆っているが、若い方はしていない。おばあちゃん達は、大きな老眼鏡をかけてせっせと針を動かしながら、店番をしている。12才くらいの女の子が店番をしているお店で壁掛けを見つける。30,000キップだが、手持ちが23,000キップしかなかったので、まけて貰う。それでも売り上げをあげた女の子はすごく嬉しそう。5才くらいの小さな女の子もお母さんに教えられながら、針をうごかしている。どの店も同じ色合いの同じ模様の刺繍。親から子へ、姉から妹へと伝えられているのでしょう。
帰り道は少し短く感じる。ビエンチャン市内に入ると車やオートバイの多さにびっくり。大都市に帰ってきた。
おみやげを頂いたんですけれど、何だと思いますか?
近所のお店ではラオ米が品切れで手に入らず、タイ米を買って食べていました。ラオ米は、日本のお米のようにしっとりとして粘りけがありますが、タイ米は、ぱさぱさとしていてカレーにはおいしいものの口に合いませんでした。そこで、お米類の多いタットルアング市場までシモンと一緒に買い出しに出かけました。 細長い透明感のあるお米から真っ白い円形に近いお米まで色々ありました。
そして、ラオスの餅米も買い求めました。ラオスでは、餅米を多く食し、餅米を食べなければ、ラオス人ではない、と言われるそうです。ただ、日本のお餅のようなものはないようです。餅米は蒸し器で蒸すのですが、日本の蒸し器とは姿が違います。ラオ式は、高さ20センチくらいの縦長で口の部分がすぼまっている鍋に、竹製の三角錐の形をした籠に米を入れてのせ、蒸すのです。出来上がりを円筒の籠に入れふたをし食卓に出し、一口大のお団子に手で丸めて食べます。全くべとべとしてなく、もちもちとして歯ごたえがあります。おいしいものです。この餅米は普通のお米の3分の1の値段です。近所の人達が托鉢のお坊さんに差し上げるのも餅米です。
おととい、その餅米を食べたのですが、少し残ってしまいました。翌朝来たシモンがそれを見て、「じゃあこうしましょう」と作り始めたものがあります。餅米を小さな平べったい円形に丸め、天日干しにします。その日はかんかんと太陽が照りつけ、天日干しには格好の日でした。夕方にはからからに乾き、シモンはそれを油で揚げました。そう、それは揚げ煎餅でした。熱々に塩を振りかけ食べました。「日本もこんなのを食べるのよ」と言って、2人で笑いました。
タットルアン市場では火鉢を見つけ、炭と一緒に買ってきました。その日早速、串焼きを作りました。じわじわと良い香りがただよい、良い焼き加減の串焼きができました。この炭火用火鉢は、プロパンガスがないところや、ガスを高くて利用できない人たちが使う物だそうです。私にとっては、炭火焼きなんて究極の贅沢なのに。
先日は、乾燥していない木耳を初めて見ました。シモンが時々料理に使っていましたが、まさかそれが乾物でないなんて思ってもみませんでした。猿の腰かけみたいな感じで根元の方に土がついていました。いかにも、今、木から取ってきたぞ!という風情でした。ラオスにはたくさんあって、安い食材だそうです。今はタケノコもシーズンでおいしいのが食べられます。ラオスは、中国、タイに次いで竹の種類が多いところです。
朝6時頃、夜が明けて明るくなりだす頃、「プープー」とラッパの音を響かせながら大きなアルミ製の箱をつけた自転車が通ります。「バゲット売り」です。フランス植民地時代の影響か、細長いフランスパンを朝食にするラオス人も多くいるようです。街角の屋台では、お客さんの要望に応じて、バゲットにバターやジャムをぬったり、野菜やソーセージを挟んで売ってくれます。10時頃になると、大きな日傘を荷台の上に広げた、アイスキャンデーやジュース売りの自転車がゆっくりと走ってきます。こちらは、「ちりん、ちりーん」と鈴を鳴らしながら来ます。
昨日は、主人の秘書の農場に招待されました。魚、鶏、あひるの飼育をしています。そこで、おみやげを頂いたんですけれど、何だと思いますか? 鶏1羽。 鳥類が苦手で、見るのも辛い私としては、「ありがとう、こんな貴重な物を」と、やっとの思いで言いました。 今は物置にいますが、まだ息をしていて、時々羽をバタバタさせています。「さぞおいしいだろうなあー」と想像する主人は、シモンに料理して欲しいようですが、私には食べる勇気がないので、シモンに持って帰って貰うつもりです。
そして、ラオスの餅米も買い求めました。ラオスでは、餅米を多く食し、餅米を食べなければ、ラオス人ではない、と言われるそうです。ただ、日本のお餅のようなものはないようです。餅米は蒸し器で蒸すのですが、日本の蒸し器とは姿が違います。ラオ式は、高さ20センチくらいの縦長で口の部分がすぼまっている鍋に、竹製の三角錐の形をした籠に米を入れてのせ、蒸すのです。出来上がりを円筒の籠に入れふたをし食卓に出し、一口大のお団子に手で丸めて食べます。全くべとべとしてなく、もちもちとして歯ごたえがあります。おいしいものです。この餅米は普通のお米の3分の1の値段です。近所の人達が托鉢のお坊さんに差し上げるのも餅米です。
おととい、その餅米を食べたのですが、少し残ってしまいました。翌朝来たシモンがそれを見て、「じゃあこうしましょう」と作り始めたものがあります。餅米を小さな平べったい円形に丸め、天日干しにします。その日はかんかんと太陽が照りつけ、天日干しには格好の日でした。夕方にはからからに乾き、シモンはそれを油で揚げました。そう、それは揚げ煎餅でした。熱々に塩を振りかけ食べました。「日本もこんなのを食べるのよ」と言って、2人で笑いました。
タットルアン市場では火鉢を見つけ、炭と一緒に買ってきました。その日早速、串焼きを作りました。じわじわと良い香りがただよい、良い焼き加減の串焼きができました。この炭火用火鉢は、プロパンガスがないところや、ガスを高くて利用できない人たちが使う物だそうです。私にとっては、炭火焼きなんて究極の贅沢なのに。
先日は、乾燥していない木耳を初めて見ました。シモンが時々料理に使っていましたが、まさかそれが乾物でないなんて思ってもみませんでした。猿の腰かけみたいな感じで根元の方に土がついていました。いかにも、今、木から取ってきたぞ!という風情でした。ラオスにはたくさんあって、安い食材だそうです。今はタケノコもシーズンでおいしいのが食べられます。ラオスは、中国、タイに次いで竹の種類が多いところです。
朝6時頃、夜が明けて明るくなりだす頃、「プープー」とラッパの音を響かせながら大きなアルミ製の箱をつけた自転車が通ります。「バゲット売り」です。フランス植民地時代の影響か、細長いフランスパンを朝食にするラオス人も多くいるようです。街角の屋台では、お客さんの要望に応じて、バゲットにバターやジャムをぬったり、野菜やソーセージを挟んで売ってくれます。10時頃になると、大きな日傘を荷台の上に広げた、アイスキャンデーやジュース売りの自転車がゆっくりと走ってきます。こちらは、「ちりん、ちりーん」と鈴を鳴らしながら来ます。
昨日は、主人の秘書の農場に招待されました。魚、鶏、あひるの飼育をしています。そこで、おみやげを頂いたんですけれど、何だと思いますか? 鶏1羽。 鳥類が苦手で、見るのも辛い私としては、「ありがとう、こんな貴重な物を」と、やっとの思いで言いました。 今は物置にいますが、まだ息をしていて、時々羽をバタバタさせています。「さぞおいしいだろうなあー」と想像する主人は、シモンに料理して欲しいようですが、私には食べる勇気がないので、シモンに持って帰って貰うつもりです。
ラオスの犬
ラオス外務省次官の方がお住まいの前の家は、大きい。その大きな家に、一体何人の人が住んでいて、何匹の犬がいるのかはっきりとは知らない。鶏やあひるもいるのかもしれない。前の家のご主人が外務省の偉い方だというのは、たまたま主人が一緒に仕事をしたので知った次第。会えば「こんにちわ」と声を交わすけれど、親密なつきあいはない。ただ、我が家の龍眼を差し上げたら、椰子の実とバナナをお返しに下さった。そう彼らのお庭に実ったもの。ラオス人は外国人と積極的につきあおうと思ってないようす。財政面では開放政策を取り入れているけれど、一党独裁の社会主義国では、外国人と親密につきあうことは避けたほうがよい、となっているらしい。
お金持ちもそうでない家も、ラオスの方はみんな犬を飼っていると思えるほど、犬が多い。前のお宅には、5匹(?)はいるが、そのうち3匹は、人や車が出入りし門が開くたびに外に飛び出し、近所を探索している。そのうちの2匹は、探検にくたびれると、門の前にだらーと寝そべって、門の開くのを待っている。「ワン」とも言わずに。でも他の1匹は、閉まっている門にがりがりと前足をかけ、ありったけの声を張り上げ、「開けてくれー」と吠える。そんなわけで、外をうろうろ歩き回っている犬君達が、自由気ままな野良犬なのか、飼い主がいるのかわからない。どの犬も首輪などつけて無く、おっとりとした顔つきでのろのろと歩いている。シモンおばさんの家にも一匹いるそう。
そんな犬達を見て、犬好きの我が旦那は犬を飼おうと言い出した。そこで、シモンちゃんに聞いてみた。
「どこで、犬が買えるの?」
「ラオスでは、犬は売ったり買ったりしないもの」
「でも、タイでは犬がお店で売っているよ?」
「タイはそうだけれど、でもラオスは違うんです!!」
シモンおばさん、腹立たしそうに言っていた。
犬の次に多いのが鶏とあひる。でも、大きな裕福そうな家にはいない。鳥類の大嫌いな私のこの土地での最初の挑戦が、道を歩き回る鶏達に慣れることだった。今でも鶏の横は眼をつぶって歩くけれど、心臓が飛び出るほどどきどきはしなくなった。でも鶏を胸に抱いている人なんかを見ると、卒倒しちゃいそうになる。
ラオスの人々はみんな、大きな家を持ちたいと思っている。それは、立派な家が成功のあかし、ということではなく、大勢の家族や親戚が集まり、楽しく食事をしたいからだそうだ。そして、大勢集まり、楽しく過ごすには、子どもは多い方がいい、というので子どもをたくさん作るんですって。ラオ語のワンタン先生は、何と兄弟が11人いる。シモンには3人。シモン宅には、彼女のご主人、彼女のお父様それに子ども2人を含めて10人が住んでいて、彼女は毎日3キロ餅米を炊くとか。いとこや妹が一緒に住んでいる。そんな大家族だと人口増加問題が起こりそうだが、人口は元々が少ないので、現在は大きな問題ではない。ラオスの平均寿命は、54才。山間部での1才前の乳児死亡率がとっても高い。これは、衛生面や栄養不良の問題ばかりでなく、母親の知識不足も原因だ。もちろん医療設備の不備の問題もある。ちょっとお金のある方は、お産や病気の際は、川向こうのタイまで出かける。
お金持ちもそうでない家も、ラオスの方はみんな犬を飼っていると思えるほど、犬が多い。前のお宅には、5匹(?)はいるが、そのうち3匹は、人や車が出入りし門が開くたびに外に飛び出し、近所を探索している。そのうちの2匹は、探検にくたびれると、門の前にだらーと寝そべって、門の開くのを待っている。「ワン」とも言わずに。でも他の1匹は、閉まっている門にがりがりと前足をかけ、ありったけの声を張り上げ、「開けてくれー」と吠える。そんなわけで、外をうろうろ歩き回っている犬君達が、自由気ままな野良犬なのか、飼い主がいるのかわからない。どの犬も首輪などつけて無く、おっとりとした顔つきでのろのろと歩いている。シモンおばさんの家にも一匹いるそう。
そんな犬達を見て、犬好きの我が旦那は犬を飼おうと言い出した。そこで、シモンちゃんに聞いてみた。
「どこで、犬が買えるの?」
「ラオスでは、犬は売ったり買ったりしないもの」
「でも、タイでは犬がお店で売っているよ?」
「タイはそうだけれど、でもラオスは違うんです!!」
シモンおばさん、腹立たしそうに言っていた。
犬の次に多いのが鶏とあひる。でも、大きな裕福そうな家にはいない。鳥類の大嫌いな私のこの土地での最初の挑戦が、道を歩き回る鶏達に慣れることだった。今でも鶏の横は眼をつぶって歩くけれど、心臓が飛び出るほどどきどきはしなくなった。でも鶏を胸に抱いている人なんかを見ると、卒倒しちゃいそうになる。
ラオスの人々はみんな、大きな家を持ちたいと思っている。それは、立派な家が成功のあかし、ということではなく、大勢の家族や親戚が集まり、楽しく食事をしたいからだそうだ。そして、大勢集まり、楽しく過ごすには、子どもは多い方がいい、というので子どもをたくさん作るんですって。ラオ語のワンタン先生は、何と兄弟が11人いる。シモンには3人。シモン宅には、彼女のご主人、彼女のお父様それに子ども2人を含めて10人が住んでいて、彼女は毎日3キロ餅米を炊くとか。いとこや妹が一緒に住んでいる。そんな大家族だと人口増加問題が起こりそうだが、人口は元々が少ないので、現在は大きな問題ではない。ラオスの平均寿命は、54才。山間部での1才前の乳児死亡率がとっても高い。これは、衛生面や栄養不良の問題ばかりでなく、母親の知識不足も原因だ。もちろん医療設備の不備の問題もある。ちょっとお金のある方は、お産や病気の際は、川向こうのタイまで出かける。
オーストラリア大使館クラブ
ビエンチャン唯一のクラブといえる、オーストラリア大使館クラブ。クラブといっても、あるのはプールとスカッシュコートだけ。当初は、オーストラリア大使館・オーストラリア援助機関職員専用だったが、当地のオーストラリア人が少なくなってきたため、今では国籍に関係なく、ビエンチャン在住者に解放されている。といってもラオ人メンバーはとっても少ない。 このクラブの素晴らしいのは何と言ってもその場所。メコン川に面しており、向こう岸は隣国タイ。
先日久しぶりにプールに出かけびっくりした。メコン川が、あふれるばかりに増水している。ついこの間まで目の前に見えていた小さな島の影かたちもない。雨季になると、水量が増すことは本などで知っていたが、目の前のそのメコンの様子は、想像以上。たっぷりとして流れ、速さも増している。
ラオスを語るには、メコン川は避けられない。メコンはゆったりと流れるどろどろの茶色い川。汚いとは、また違う茶色。粘土質赤土と水が混じりあい一体となっている。椰子の実、木片から人間生活のゴミまで、全て抱き込んで流れている。荼毘に付した遺骨も川に流してやる。世界で12番目の長さを持ち、水量では第10位になるこの川に最初の橋が架かったのは、何と今から7年前。ビエンチャンから10kmほど南東にある、ラオータイ友好橋。オーストラリアの援助により完成。先週には、日本の援助によりラオス南部に橋が完成。フランス植民地時代、フランスはラオスを内陸の後進国ととらえ、橋を架けることをせず、道路も整備しなかったし鉄道も引かなかった。輸送の主役はメコンを走る船だった。乾期で水量が少なくなると、船の運航は不可能なのに。だから、今でもラオスには鉄道がなく、建設の予定もない。
この水量豊かな川を利用した水力発電は、ラオス第一の外貨獲得品で、タイに輸出されている。そのせいか、貧しい国にありがちな、ろうそくをつけているような家が少ない。クリスマスの飾りのような街灯をこうこうと光らせている大きな家もある。といっても電力化されているのはラオス全土のうちたったの20%。今後の国家財政運営のためのダム建設はいくつも計画されているが、地域住民の移住、環境破壊等の問題があり、計画の見直しを迫られている。
この川は又、魚の宝庫。内陸地のラオスにラオ人の主蛋白源でもある魚料理が多くあるのは、メコンのおかげ。そしてカンボジア近くの下流には、希有な川イルカが生息している。残念なことに絶滅の危機に瀕しているらしいけれど。
でも、私にとって素晴らしいのは、メコンにゆっくりと、静かに静かに沈んでゆく夕陽。ビールを飲みながらの眺めは最高です。
先日久しぶりにプールに出かけびっくりした。メコン川が、あふれるばかりに増水している。ついこの間まで目の前に見えていた小さな島の影かたちもない。雨季になると、水量が増すことは本などで知っていたが、目の前のそのメコンの様子は、想像以上。たっぷりとして流れ、速さも増している。
ラオスを語るには、メコン川は避けられない。メコンはゆったりと流れるどろどろの茶色い川。汚いとは、また違う茶色。粘土質赤土と水が混じりあい一体となっている。椰子の実、木片から人間生活のゴミまで、全て抱き込んで流れている。荼毘に付した遺骨も川に流してやる。世界で12番目の長さを持ち、水量では第10位になるこの川に最初の橋が架かったのは、何と今から7年前。ビエンチャンから10kmほど南東にある、ラオータイ友好橋。オーストラリアの援助により完成。先週には、日本の援助によりラオス南部に橋が完成。フランス植民地時代、フランスはラオスを内陸の後進国ととらえ、橋を架けることをせず、道路も整備しなかったし鉄道も引かなかった。輸送の主役はメコンを走る船だった。乾期で水量が少なくなると、船の運航は不可能なのに。だから、今でもラオスには鉄道がなく、建設の予定もない。
この水量豊かな川を利用した水力発電は、ラオス第一の外貨獲得品で、タイに輸出されている。そのせいか、貧しい国にありがちな、ろうそくをつけているような家が少ない。クリスマスの飾りのような街灯をこうこうと光らせている大きな家もある。といっても電力化されているのはラオス全土のうちたったの20%。今後の国家財政運営のためのダム建設はいくつも計画されているが、地域住民の移住、環境破壊等の問題があり、計画の見直しを迫られている。
この川は又、魚の宝庫。内陸地のラオスにラオ人の主蛋白源でもある魚料理が多くあるのは、メコンのおかげ。そしてカンボジア近くの下流には、希有な川イルカが生息している。残念なことに絶滅の危機に瀕しているらしいけれど。
でも、私にとって素晴らしいのは、メコンにゆっくりと、静かに静かに沈んでゆく夕陽。ビールを飲みながらの眺めは最高です。
モーニングマーケット
タラット・サオ:モーニングマーケット、これはビエンチャン最大の市場。生鮮食品は取り扱ってない。市場というから生活雑貨を取り扱うお店が並ぶところかと思ったのは大間違い。大型テレビ・冷蔵庫・洗濯機を売る電気屋さんもあれば、金・銀のネックレス、ブレスレットがまるで夜店のおもちゃやのように、雑然ときらびやかに所狭しと置いてある宝飾店もある。そして何といっても、目を引くのはきっちりと四角くたたまれ、店中に重ねおかれている布の店。
幅45センチほどの絹織物は、壁掛けにしたり、ふたつに折って肩に掛けたりする。すべて女性達による手仕事。メコン川に似た茶色、芥子のような色、秋の終わりの枯れ葉の渋い赤、柔らかくなりすぎたアボカドの緑色。天然染料だからできる控えめな沈んだ色合い。薄いパステル調は少ない。縞模様もあれば、幾何学模様もある。日本の龍村織物によく似た模様もある。白の矢絣が藍色に浮かんでいるのもある。どれもこれも、柔らかく、その布を纏うとほっとしてしまいそうな暖かな風合い。どれひとつも同じ色、織り模様がない。
私にとって、タラット・サオでの買い物の最大の難関は、値段の交渉。価格が提示されている品は一つもないので、電卓をたたいて値段を相談する。これが楽しいと言う友人もいるけれど、私はちょっと苦手。
幅45センチほどの絹織物は、壁掛けにしたり、ふたつに折って肩に掛けたりする。すべて女性達による手仕事。メコン川に似た茶色、芥子のような色、秋の終わりの枯れ葉の渋い赤、柔らかくなりすぎたアボカドの緑色。天然染料だからできる控えめな沈んだ色合い。薄いパステル調は少ない。縞模様もあれば、幾何学模様もある。日本の龍村織物によく似た模様もある。白の矢絣が藍色に浮かんでいるのもある。どれもこれも、柔らかく、その布を纏うとほっとしてしまいそうな暖かな風合い。どれひとつも同じ色、織り模様がない。
私にとって、タラット・サオでの買い物の最大の難関は、値段の交渉。価格が提示されている品は一つもないので、電卓をたたいて値段を相談する。これが楽しいと言う友人もいるけれど、私はちょっと苦手。
あーあ、家に帰ってきた
日本からビエンチャンに戻り、「あーあ、家に帰ってきた」とほっとしました。ここに住み始めて4ヶ月ほどになりますが、この街を「私の家」と感じている自分を発見し、ちょっぴりびっくりしています。人が新しい環境になじむには、いろいろな要因が複雑に絡み合っていると思います。私の場合、ここラオスでは現地の生活に慣れるのに長い時間を必要としなかったのは何故なのでしょうか。人々の生活を窮屈にする規則は少ないようだし、肩ぶつけ合い大声でかけ声をかけながら市場を歩くこともないので、いらいらしたり、やきもきすることもなく、ラオスの生活を受け入れやすかったことがあるでしょう。貧しい国なのに、町中に乞食がいないことにも救われました。言葉がわからないと言うのも、考えようによっては便利なことだわ、なんてことも長年の異国での生活で初めて思い当たりました。言葉を使ってラオスの事を知ろうとすることより、ラオス人の悲しそうな顔やら困った顔、それに笑顔を見ていれば、納得することがたくさんあります。ちょっと頭を下げてから話をはじめたり、わからないことがあると愛想笑いでごまかしたり、ちょっと目上の人には腰を低くするとか、そんな仕草が日本と似ていて、それになじみやすさをかんじたのかもしれません。世界の中で日本は経済大国として欧米と肩を並べていますが、感性や情緒の面では東南アジアの一員であるということをつくづくと感じました。
ビエンチャンに戻り一番にしたかったことは、サウナに行くこと。到着した日に早速出向きました。皮膚の奥から余分な物が流し出され、肌がつるつるになりいい気持ちになりました。この日は、ラオスの若いお嬢さん方がたくさん来ていて、サウナ室は、日本の満員電車並に込み、座る場所も無いほどでした。彼女たちは顔やら足、腕などにいろいろなものを塗りつけています。人によりそれぞれですが、牛乳を使う人、ライムやオレンジの汁をこすりつける人、高価そうなびんに入ったクリームをつける人。そこで、何のために塗るのか聞いてみました。
「もちろん、肌を綺麗にするためだけれど、それともう一つ白くしたいのよ」
「でも、あなたは日本人の私より白いじゃないの?」 (私はプール通いでずいぶん日焼けしています)
「うん、そうよね。でもね、あなたはここを出て、日本に帰ったら白くなるけれど、私はどこへ行ってもこの色なのよ」
「ああー、そうね。でもそのクリームは効果があるの?」 (彼女はびん入りのクリームを使っています。)
「ええ、これはビルマ製ですごくいいの。あなたも使ってみる?」
スリランカでもそうでしたけれど、この地でも「肌の色が白い」ことが美しさの条件のようです。黒いといっても、小麦色で健康そうで素敵だと私はうらやましく思うのに。
追1:5月末に主人が蒔き、でも水に流されたと思いこみ、何も世話をせずに、ほっておいたオクラが収穫されました。強いですね、オクラ。 ちっとも手をかけなかったのに、実ってくれて、ありがとう、です。
追2:我が家に果物を取りに来ていた子ども達が家の前を通りかかるのを見かけました。真っ白いシャツに紺の半ズボン。首には小さな赤いスカーフ。新学期が始まったようです。顔つきも緊張気味で、果物を見上げていた腕白坊主の表情とは大違いでした。
ビエンチャンに戻り一番にしたかったことは、サウナに行くこと。到着した日に早速出向きました。皮膚の奥から余分な物が流し出され、肌がつるつるになりいい気持ちになりました。この日は、ラオスの若いお嬢さん方がたくさん来ていて、サウナ室は、日本の満員電車並に込み、座る場所も無いほどでした。彼女たちは顔やら足、腕などにいろいろなものを塗りつけています。人によりそれぞれですが、牛乳を使う人、ライムやオレンジの汁をこすりつける人、高価そうなびんに入ったクリームをつける人。そこで、何のために塗るのか聞いてみました。
「もちろん、肌を綺麗にするためだけれど、それともう一つ白くしたいのよ」
「でも、あなたは日本人の私より白いじゃないの?」 (私はプール通いでずいぶん日焼けしています)
「うん、そうよね。でもね、あなたはここを出て、日本に帰ったら白くなるけれど、私はどこへ行ってもこの色なのよ」
「ああー、そうね。でもそのクリームは効果があるの?」 (彼女はびん入りのクリームを使っています。)
「ええ、これはビルマ製ですごくいいの。あなたも使ってみる?」
スリランカでもそうでしたけれど、この地でも「肌の色が白い」ことが美しさの条件のようです。黒いといっても、小麦色で健康そうで素敵だと私はうらやましく思うのに。
追1:5月末に主人が蒔き、でも水に流されたと思いこみ、何も世話をせずに、ほっておいたオクラが収穫されました。強いですね、オクラ。 ちっとも手をかけなかったのに、実ってくれて、ありがとう、です。
追2:我が家に果物を取りに来ていた子ども達が家の前を通りかかるのを見かけました。真っ白いシャツに紺の半ズボン。首には小さな赤いスカーフ。新学期が始まったようです。顔つきも緊張気味で、果物を見上げていた腕白坊主の表情とは大違いでした。
もう、雨季は終わったのね
空が青く晴れ渡り、涼やかな風がそよぐ気持ちの良い朝です。昨日の夜に嵐のように降った雨が、さわやかな空気を持ってきたのでしょうか。一日に一回は降っていた雨が10日ほど前からばったりと途絶え、「もう、雨季は終わったのね」と思っていたのですが、昨日の夜2時半頃に激しい雨音で目が覚めました。そう、バケツをひっくり返したような降りようで、我が家の前の道路は小川のようでした。そんな激しい雨も、人々が起き活動を始める5時頃にはぴたりと止み、なんて思いやりのあること・・・なんて感心してしまいます。舗装のされていない道や庭の樹木があのたくさんの雨を吸い込んでしまい、水たまりもちらほらとしか見あたりません。雨季にも、雨が毎日降り続くこともなく、降っても大概は夜中のことが多く、雨が人々の生活を惨めにすることは少ないようです。
9月の初めに日本よりビエンチャンに戻りオーストラリアクラブに行ったときには、少々驚きました。8月はじめにはクラブ敷地から川岸まで10メートルほどあり、そこには、サラダ菜やトウモロコシなどが植えられていたのですが、その畑は水に覆われ、メコンの流れはクラブの敷地に入り込む程までに接近していました。その翌日受け取った日本大使館からのお知らせによると、「今年は雨量が多く、メコン下流地域では洪水の被害がでている。ビエンチャンも川岸付近は注意が必要」とのこと。でもその翌々日の大使館のお知らせには、「ビエンチャン周辺の水害の心配なし」とあります。そんなに1日2日かで状況が変わるのかしらとクラブに出かけると、びっくりすることに、川岸が少し遠くに動いていました。そして日一日と川岸は遠のき、昨日は若い男の子達が鍬を手に畑を作っていました。川が運んできてくれた栄養を吸い込んだ土地で元気な野菜が出来るのでしょう。川が、自然が、人間の生活と深く結びついている、その単純なことを目の前にしてちょっと感無量でした。
ビエンチャン付近には水害の被害はなかったのですが、洪水などの被害はメコン下流では起きたようです。南部の幾つかの街では水に覆われたようです。この国には、気象庁がありません。天気予報もなければ、昨日の降水量などという報告もないのです。日本からの技術者が、ビエンチャンでの気温の記録は取っているようですけれど。暑い、寒いといっても、2度か3度の差だし、雨が降ったら傘を差してオートバイや自転車に乗っています。天気予報がいらない生活なんですね。シモンおばさんは雨の時は黒い合羽を着てやってきます。私が「雨で大変でしょう」と聞くと、「オートバイのスピードがだせないのがねえ・・」なんて言っています。あまり困った様子ではありません。
雨季の終わりももうすぐ。しばらくすると、市場にはいろいろな野菜が出回るそう。楽しみです。
9月の初めに日本よりビエンチャンに戻りオーストラリアクラブに行ったときには、少々驚きました。8月はじめにはクラブ敷地から川岸まで10メートルほどあり、そこには、サラダ菜やトウモロコシなどが植えられていたのですが、その畑は水に覆われ、メコンの流れはクラブの敷地に入り込む程までに接近していました。その翌日受け取った日本大使館からのお知らせによると、「今年は雨量が多く、メコン下流地域では洪水の被害がでている。ビエンチャンも川岸付近は注意が必要」とのこと。でもその翌々日の大使館のお知らせには、「ビエンチャン周辺の水害の心配なし」とあります。そんなに1日2日かで状況が変わるのかしらとクラブに出かけると、びっくりすることに、川岸が少し遠くに動いていました。そして日一日と川岸は遠のき、昨日は若い男の子達が鍬を手に畑を作っていました。川が運んできてくれた栄養を吸い込んだ土地で元気な野菜が出来るのでしょう。川が、自然が、人間の生活と深く結びついている、その単純なことを目の前にしてちょっと感無量でした。
ビエンチャン付近には水害の被害はなかったのですが、洪水などの被害はメコン下流では起きたようです。南部の幾つかの街では水に覆われたようです。この国には、気象庁がありません。天気予報もなければ、昨日の降水量などという報告もないのです。日本からの技術者が、ビエンチャンでの気温の記録は取っているようですけれど。暑い、寒いといっても、2度か3度の差だし、雨が降ったら傘を差してオートバイや自転車に乗っています。天気予報がいらない生活なんですね。シモンおばさんは雨の時は黒い合羽を着てやってきます。私が「雨で大変でしょう」と聞くと、「オートバイのスピードがだせないのがねえ・・」なんて言っています。あまり困った様子ではありません。
雨季の終わりももうすぐ。しばらくすると、市場にはいろいろな野菜が出回るそう。楽しみです。
バーシーという儀式
10月1日はバーシーという儀式に招待され、ラオスの社会を垣間見るチャンスがありました。
結婚や出産、旅の出立時や病気の回復祝いなどのために、親戚や友人、隣近所の人たちが集まりこのバーシーは行われます。昨日のバーシーは、友人の初孫のお祝いで、新しいママとパパ、それに男の赤ちゃんが親戚の人たちに囲まれ祝福を受けました。友人は、「きょうの集まりは近い親戚だけなんだ」と言っていましたけれど、大人だけでも60人ぐらいいたでしょうか?
儀式は床に座り行われます。バナナの葉とマリーゴールドの花で作った飾り物に、30センチくらいに切った白いしつけ糸の束を垂れ下げ、真ん中に置き、その周りにバナナ、ゆでた鳥、卵、それにお金をお供えします。それを前に祈祷師が、その反対側に祝福を受ける人が座ります。私たちのおみやげ(ウイスキーと香水、このお呼ばれが赤ちゃんのためとは知らなかったので、何とも頓狂な贈り物をしたものです)も飾り物の周りに置かれました。そして、その周りをゲストが囲みます。祝福を受ける3人は、中心の飾り物から流れている白い糸をつかんでいます。祈祷師のお祈りが始まりました。なんの代わり映えもしないシャツとズボンを着ています。ただ、肩にはラオス織物のスカーフがおかれています。バーシーや宗教儀式には、このスカーフは敬虔な気持ちを表す物として欠かせないようです。人々は手のひらを合わせ祈りの姿。言葉はラオ語とパーリ語のミックス。時々、祈祷師の祈りに和すように出席者の方が「あー」とか「ほー」とか言います。そして、最後に真ん中の飾りに手を伸ばすように前屈みになり、20分ほどのお祈りが終わりました。このとき、手を伸ばしても真ん中の飾り物に届かない人は、届いている人の肘に触れ、また、その後ろの人はその人の肘にと繋がれば、御利益がみんなに行き渡るそうです。
お祈りが終わると、飾りから白い糸を取り、手首に巻いていきます。赤ちゃんの大おばあちゃんやおばあちゃん、おじいちゃんが赤ちゃんやパパ、ママにぶつぶつ言いながら白い糸を巻いていきます。「健やかに成長するように」とか「これからも健康で活躍して下さい」なんて事を言っているようです。赤ちゃんの手首にはお金を一緒に巻き付けています。私も日本語を言いながら巻かせて貰いました。私にも、大おばあちゃんやパパが巻いてくれました。いま、私の手首には7本の糸が巻かれています。この糸は3日間はつけておくと幸運が逃げにくいとか。ずっとはずさないで、自然に落ちるにまかせる人もいるそうです。
そして、食事が始まりました。まずは、ラオスのそば料理。日本のそうめんに似た米粉製麺をお皿に取り、その上に千切りキャベツ、生のもやし、ネギのみじん切り、そして、バナナの花の千切りをのせ、スープをかけます。生野菜のしゃきしゃきさが麺のねっとりしたものと相性が良くないようで、私はあまりおいしいと思いませんでした。これはバーシーには欠かせない料理だそうです。それから、ラオの肉サラダ・野菜サラダ、魚のスープ煮、バーベキューなどなどが次から次へとテーブルに運び込まれて、「こんなにたくさん作っちゃって、余ったらどうするんだろう」と心配になるくらいの量にびっくりです。バーシーの料理は7皿か9皿が縁起が良いそうで、ここにも7種類の料理がありました。床に座って小さなテーブルを囲んで食べるのですが、女性は女性のみ、男性は男性だけで食べていました。
どうやって60人も座って食事ができるの・・?と思うでしょう。出来るのです。このお宅の大きさと言ったら、まるで体育館のよう。バーシーが行われた居間は、バレーボールのコートが入っても余るほど大きいのです。天井も5mぐらいあるんじゃないかしら。その他に寝室が8つ。一番大きい寝室は、この居間の半分くらいあるようです。ビエンチャンでも数少なくなってきた高床式のラオ家屋で、80年くらい経っているそうで、上手に手を入れながら維持していきたいと言っていました。
このバーシー儀式はタイにもあるそうです。タイといっても北東部ですが。先日シモンおばさんのお母さんがタイの人ということを知りました。若いときにラオスに働きに来て、ラオス人と結婚し、ここで一生を終えたそうです。シモンおばさんはタイ語も話せるし、読めるので、「すごいなあ・・」と思っていたのですが、お母さんがタイ人だったとは。でも彼女に言わせると、「タイもラオスも同じ」といって、国境が分かつ違う国という意識があまりないようなのです。同じ顔つきで似た言葉を話す人々にとって、川で隔てられているだけですからそんな風にかんがえられるのでしょうか?島国の日本で育った私にとって、ちょっと理解しがたいような、うらまやしいような感覚です。
結婚や出産、旅の出立時や病気の回復祝いなどのために、親戚や友人、隣近所の人たちが集まりこのバーシーは行われます。昨日のバーシーは、友人の初孫のお祝いで、新しいママとパパ、それに男の赤ちゃんが親戚の人たちに囲まれ祝福を受けました。友人は、「きょうの集まりは近い親戚だけなんだ」と言っていましたけれど、大人だけでも60人ぐらいいたでしょうか?
儀式は床に座り行われます。バナナの葉とマリーゴールドの花で作った飾り物に、30センチくらいに切った白いしつけ糸の束を垂れ下げ、真ん中に置き、その周りにバナナ、ゆでた鳥、卵、それにお金をお供えします。それを前に祈祷師が、その反対側に祝福を受ける人が座ります。私たちのおみやげ(ウイスキーと香水、このお呼ばれが赤ちゃんのためとは知らなかったので、何とも頓狂な贈り物をしたものです)も飾り物の周りに置かれました。そして、その周りをゲストが囲みます。祝福を受ける3人は、中心の飾り物から流れている白い糸をつかんでいます。祈祷師のお祈りが始まりました。なんの代わり映えもしないシャツとズボンを着ています。ただ、肩にはラオス織物のスカーフがおかれています。バーシーや宗教儀式には、このスカーフは敬虔な気持ちを表す物として欠かせないようです。人々は手のひらを合わせ祈りの姿。言葉はラオ語とパーリ語のミックス。時々、祈祷師の祈りに和すように出席者の方が「あー」とか「ほー」とか言います。そして、最後に真ん中の飾りに手を伸ばすように前屈みになり、20分ほどのお祈りが終わりました。このとき、手を伸ばしても真ん中の飾り物に届かない人は、届いている人の肘に触れ、また、その後ろの人はその人の肘にと繋がれば、御利益がみんなに行き渡るそうです。
お祈りが終わると、飾りから白い糸を取り、手首に巻いていきます。赤ちゃんの大おばあちゃんやおばあちゃん、おじいちゃんが赤ちゃんやパパ、ママにぶつぶつ言いながら白い糸を巻いていきます。「健やかに成長するように」とか「これからも健康で活躍して下さい」なんて事を言っているようです。赤ちゃんの手首にはお金を一緒に巻き付けています。私も日本語を言いながら巻かせて貰いました。私にも、大おばあちゃんやパパが巻いてくれました。いま、私の手首には7本の糸が巻かれています。この糸は3日間はつけておくと幸運が逃げにくいとか。ずっとはずさないで、自然に落ちるにまかせる人もいるそうです。
そして、食事が始まりました。まずは、ラオスのそば料理。日本のそうめんに似た米粉製麺をお皿に取り、その上に千切りキャベツ、生のもやし、ネギのみじん切り、そして、バナナの花の千切りをのせ、スープをかけます。生野菜のしゃきしゃきさが麺のねっとりしたものと相性が良くないようで、私はあまりおいしいと思いませんでした。これはバーシーには欠かせない料理だそうです。それから、ラオの肉サラダ・野菜サラダ、魚のスープ煮、バーベキューなどなどが次から次へとテーブルに運び込まれて、「こんなにたくさん作っちゃって、余ったらどうするんだろう」と心配になるくらいの量にびっくりです。バーシーの料理は7皿か9皿が縁起が良いそうで、ここにも7種類の料理がありました。床に座って小さなテーブルを囲んで食べるのですが、女性は女性のみ、男性は男性だけで食べていました。
どうやって60人も座って食事ができるの・・?と思うでしょう。出来るのです。このお宅の大きさと言ったら、まるで体育館のよう。バーシーが行われた居間は、バレーボールのコートが入っても余るほど大きいのです。天井も5mぐらいあるんじゃないかしら。その他に寝室が8つ。一番大きい寝室は、この居間の半分くらいあるようです。ビエンチャンでも数少なくなってきた高床式のラオ家屋で、80年くらい経っているそうで、上手に手を入れながら維持していきたいと言っていました。
このバーシー儀式はタイにもあるそうです。タイといっても北東部ですが。先日シモンおばさんのお母さんがタイの人ということを知りました。若いときにラオスに働きに来て、ラオス人と結婚し、ここで一生を終えたそうです。シモンおばさんはタイ語も話せるし、読めるので、「すごいなあ・・」と思っていたのですが、お母さんがタイ人だったとは。でも彼女に言わせると、「タイもラオスも同じ」といって、国境が分かつ違う国という意識があまりないようなのです。同じ顔つきで似た言葉を話す人々にとって、川で隔てられているだけですからそんな風にかんがえられるのでしょうか?島国の日本で育った私にとって、ちょっと理解しがたいような、うらまやしいような感覚です。
オークパンサーと言う日
10月の満月の日は、オークパンサーと言う日。日本語では出安居という。今年は13日でした。七月の満月日の入安居から始まった3ヶ月間の、僧侶達が自分の属する寺を離れることを禁じられた期間が終わった日。僧侶が雨季の時期に旅し、難儀をすることを危ぶんだ故の制度かもしれません。
私の新しいラオ語の先生がこの日にオークパンサーの儀式に行くので、「一緒に行きましょう」と誘ってくれました。ワンタン先生は、今日本へ研修旅行中ですので、だれか気軽におしゃべりできる人がいないかと思い、頼んだ25才の女性です。彼女、ターちゃんは私が通うサウナセンターに勤めるマッサージ師です。ラオス南部のパクセー市の出身で、高校を卒業して仕事を求めビエンチャンに出てきたそうです。そして2年間の勉強の後、マッサージ師の資格をとり働いています。英語も会話学校へ通ったそうで、日常会話なら何の問題もありません。でも彼女は現在、秘書養成学校に通う学生でもあるのです。自分はマッサージの仕事をずっと続けて行く気はないので、英語、コンピューター、簿記などを勉強することに決めたそうです。やる気のある若い人が男性ではなく女性に多いことが、ラオスも世界の潮流から乗り遅れていない部分でしょうか。マッサージの仕事で授業料をまかなうことが出来るのかどうか聞いてみたところ、ちょっと厳しいという返事でした。少しでも足しになればと思い、私のラオ語の先生をしないかと持ちかけたところ、大喜びで引き受けてくれました。
さて、お寺の儀式です。「タクバーツ」に行くと言いますが、これは日本語の托鉢と同じです。果物、クッキー、花、ろうそくを托鉢用ボールに入れたものと餅米をふかして籠にいれたものを用意します。それにお金。これはぴんぴんの新札。新札をお供えすると、生まれ変わったとき、美人になるそうです。このお札も托鉢ボールに綺麗にいれます。そして、女性の着るものもシンというスカートに上品なシャツ、そしてスカーフも肩に掛けます。
朝7時頃に始まる儀式にあわせて、ターちゃんと彼女の友達のニーちゃんが迎えに来てくれました。2人とも絹のきらびやかな刺繍があるシンに光沢のまぶしい絹のシャツを着ていてすごく綺麗。私はシンを持っていないので、長い巻きスカート。歩いて5分ほどの所にあるワット・シー・アンポンにはたくさんの人たちが大きなボールを抱きかかえて式が始まるのを待っていました。男性は2割くらいしかいず、なんといってもターちゃん位の若い女性が多く、みんな素敵なシンを着て、きらびやか。お年をお召しになった僧のお経で式が始まりました。日本のお経の音階のようなのもあれば、まったく聞いたこともないようなイントネーションのもあり、短い説話のようなのを間に挟み、20分ほどで托鉢になりました。あまり深く考えもせずに、一つ一つのボールに入れていったら、最後の所に着てもまだたくさんの品が残っており、困ってしまいました。ターちゃんに助けを求めると、「全部入れなさい」というので、その最後のボールは私からの差し上げ物であふれるばかりになりました。その後、僧侶がお経を唱えている間、小さな瓶に入れて持っていった水をすこーしずつ、たらたらと足下に流し、式が終わりました。これは身を清めるという意味があるのでしょうか。徳を積むとはいえ、ラオスの人たちのお供え物の量の多さにはびっくりしました。タクバーツに行くのはどこのお寺でも良いそうで、その時の時間的余裕や気分でお寺を選ぶようです。次回私がお寺に行くときは、それはたぶん11月11日の満月の日ですが、シンをはいていくようにします。巻きスカートだと足が見えてしまい、礼儀に反するようです。
その夜は、メコン川から火の玉があがる、というのでここから70km南に下がったところまで出かけました。10月の満月の日にメコン川のある地点で起こる現象で、「龍の火」と言います。そんなことはどの観光案内書にも書かれてなく、半信半疑でしたが、ラオス文化庁が勧めてくれた川岸には、大勢のラオ人が家族総出で見物に来ていました。対岸のタイにも大勢の人が詰めかけているようです。小さなオレンジ色の玉が音もなくふわふわと浮かび上がり、そしてすーっと消えていくのです。不発の花火のようですが、花火のような勢いのあるのぼりかたではないのです。1時間に10発ほど見たでしょうか? もっと見続けて、正体を突きつめたいとも思いましたが、おなかが空いてきたので、帰ることにしました。ラオス人達は、食事をし、ビールを飲みながら、のんびりと眺めていました。これに関してラオスには伝説があるそうです。オークパンサーは僧侶の修行が終わった日で、善行を積んだ僧侶が龍となって天に昇ると。アメリカ人や他の日本人の友人達に聞いたところ、「それはきっと僧侶がお遊びで花火を仕掛けているのよ」とか、「主人は技術者だから、目を凝らしてみたけれど、わからなくって、すごく悔しがっていたわ。でも素敵な現象ね」やらと反応はいろいろ。勿論ラオス人は不思議な現象として、人為的と思う人はいないようです。私はですね、自然現象としては説明が付かないけれど、人為的な行為だとしたら、人の手がかかっているように見えないのはどうしてかしら・・・と思っています。
もう一つラオスにはこのオークパンサーを祝う行事があります。ボートレースです。長さ20メールほどの丸太をくりぬいたボートに46人から50人の人が2列に並んで櫂をこぎ、メコン川で1km程の距離を競走します。それぞれのチームは村を代表しています。レースコース近くのメコン川岸には、たくさんの屋台が作られ、いつもは閑散としている街が人で溢れていました。深さが浅いボートらしく、終点を越すと、櫂を持っていた手を小さな柄杓に替え、大慌てで船の水を掻き出していました。スポンサーが付いたチームは上流の出発点までエンジン付きボートで引っ張られて行きましたけれど、ほとんどのボートがまた、こぎながら出発点に戻っていきました。男性も女性もラオス唯一のビール会社がスポンサーに付いたチームが優勝しました。外国人は女性チームが出場しましたが、一回戦で敗退してしまいました。今年は、スピードが出やすいように改良されたボートの出場が多く、古い伝統を守るボートのみの出場に限定すべきだとの声が高いそうです。
私の新しいラオ語の先生がこの日にオークパンサーの儀式に行くので、「一緒に行きましょう」と誘ってくれました。ワンタン先生は、今日本へ研修旅行中ですので、だれか気軽におしゃべりできる人がいないかと思い、頼んだ25才の女性です。彼女、ターちゃんは私が通うサウナセンターに勤めるマッサージ師です。ラオス南部のパクセー市の出身で、高校を卒業して仕事を求めビエンチャンに出てきたそうです。そして2年間の勉強の後、マッサージ師の資格をとり働いています。英語も会話学校へ通ったそうで、日常会話なら何の問題もありません。でも彼女は現在、秘書養成学校に通う学生でもあるのです。自分はマッサージの仕事をずっと続けて行く気はないので、英語、コンピューター、簿記などを勉強することに決めたそうです。やる気のある若い人が男性ではなく女性に多いことが、ラオスも世界の潮流から乗り遅れていない部分でしょうか。マッサージの仕事で授業料をまかなうことが出来るのかどうか聞いてみたところ、ちょっと厳しいという返事でした。少しでも足しになればと思い、私のラオ語の先生をしないかと持ちかけたところ、大喜びで引き受けてくれました。
さて、お寺の儀式です。「タクバーツ」に行くと言いますが、これは日本語の托鉢と同じです。果物、クッキー、花、ろうそくを托鉢用ボールに入れたものと餅米をふかして籠にいれたものを用意します。それにお金。これはぴんぴんの新札。新札をお供えすると、生まれ変わったとき、美人になるそうです。このお札も托鉢ボールに綺麗にいれます。そして、女性の着るものもシンというスカートに上品なシャツ、そしてスカーフも肩に掛けます。
朝7時頃に始まる儀式にあわせて、ターちゃんと彼女の友達のニーちゃんが迎えに来てくれました。2人とも絹のきらびやかな刺繍があるシンに光沢のまぶしい絹のシャツを着ていてすごく綺麗。私はシンを持っていないので、長い巻きスカート。歩いて5分ほどの所にあるワット・シー・アンポンにはたくさんの人たちが大きなボールを抱きかかえて式が始まるのを待っていました。男性は2割くらいしかいず、なんといってもターちゃん位の若い女性が多く、みんな素敵なシンを着て、きらびやか。お年をお召しになった僧のお経で式が始まりました。日本のお経の音階のようなのもあれば、まったく聞いたこともないようなイントネーションのもあり、短い説話のようなのを間に挟み、20分ほどで托鉢になりました。あまり深く考えもせずに、一つ一つのボールに入れていったら、最後の所に着てもまだたくさんの品が残っており、困ってしまいました。ターちゃんに助けを求めると、「全部入れなさい」というので、その最後のボールは私からの差し上げ物であふれるばかりになりました。その後、僧侶がお経を唱えている間、小さな瓶に入れて持っていった水をすこーしずつ、たらたらと足下に流し、式が終わりました。これは身を清めるという意味があるのでしょうか。徳を積むとはいえ、ラオスの人たちのお供え物の量の多さにはびっくりしました。タクバーツに行くのはどこのお寺でも良いそうで、その時の時間的余裕や気分でお寺を選ぶようです。次回私がお寺に行くときは、それはたぶん11月11日の満月の日ですが、シンをはいていくようにします。巻きスカートだと足が見えてしまい、礼儀に反するようです。
その夜は、メコン川から火の玉があがる、というのでここから70km南に下がったところまで出かけました。10月の満月の日にメコン川のある地点で起こる現象で、「龍の火」と言います。そんなことはどの観光案内書にも書かれてなく、半信半疑でしたが、ラオス文化庁が勧めてくれた川岸には、大勢のラオ人が家族総出で見物に来ていました。対岸のタイにも大勢の人が詰めかけているようです。小さなオレンジ色の玉が音もなくふわふわと浮かび上がり、そしてすーっと消えていくのです。不発の花火のようですが、花火のような勢いのあるのぼりかたではないのです。1時間に10発ほど見たでしょうか? もっと見続けて、正体を突きつめたいとも思いましたが、おなかが空いてきたので、帰ることにしました。ラオス人達は、食事をし、ビールを飲みながら、のんびりと眺めていました。これに関してラオスには伝説があるそうです。オークパンサーは僧侶の修行が終わった日で、善行を積んだ僧侶が龍となって天に昇ると。アメリカ人や他の日本人の友人達に聞いたところ、「それはきっと僧侶がお遊びで花火を仕掛けているのよ」とか、「主人は技術者だから、目を凝らしてみたけれど、わからなくって、すごく悔しがっていたわ。でも素敵な現象ね」やらと反応はいろいろ。勿論ラオス人は不思議な現象として、人為的と思う人はいないようです。私はですね、自然現象としては説明が付かないけれど、人為的な行為だとしたら、人の手がかかっているように見えないのはどうしてかしら・・・と思っています。
もう一つラオスにはこのオークパンサーを祝う行事があります。ボートレースです。長さ20メールほどの丸太をくりぬいたボートに46人から50人の人が2列に並んで櫂をこぎ、メコン川で1km程の距離を競走します。それぞれのチームは村を代表しています。レースコース近くのメコン川岸には、たくさんの屋台が作られ、いつもは閑散としている街が人で溢れていました。深さが浅いボートらしく、終点を越すと、櫂を持っていた手を小さな柄杓に替え、大慌てで船の水を掻き出していました。スポンサーが付いたチームは上流の出発点までエンジン付きボートで引っ張られて行きましたけれど、ほとんどのボートがまた、こぎながら出発点に戻っていきました。男性も女性もラオス唯一のビール会社がスポンサーに付いたチームが優勝しました。外国人は女性チームが出場しましたが、一回戦で敗退してしまいました。今年は、スピードが出やすいように改良されたボートの出場が多く、古い伝統を守るボートのみの出場に限定すべきだとの声が高いそうです。
ラオスでの宗教活動
ラオスよりNo.16では仏教の儀式のことを書きましたが、社会主義を掲げている国であるラオスでの宗教活動についての質問がありましたので、調べた範囲でお答えします。
フランスから独立し、その後ベトナム共産党支援のパテート・ラオとラオス王国との内戦期間中、ラオスでの主宗教である、小乗仏教が弾圧されることはなく、パテート・ラオは、むしろ民族統合の宣伝に利用しました。これに答えて、多くの僧侶が共産革命に共鳴を示しました。1975年に革命が成功し王制が廃止され、ラオス人民民主共和国として社会主義体制の国として出発し、新政府の宗教政策が打ち出されました。一つは小学校での仏教の授業がなくなったこと。もう一つは、徳を得るために、僧侶に食べ物を施すことを禁止したこと。この策は、僧侶達に、田畑を耕し、動物を飼育してはいけないという戒律を破らせることになりました。これに対しての民衆の反感は大きく、一年後には、お米だけなら施しても良い、と規則を和らげざる終えませんでした。しかし米だけの施しなら得られる徳が少ないという気持ちと、米の施しでは僧侶の田畑の労働からの解放にはならないという民衆の不満が消えず、まもなく従来の方法での施しが認められました。現在は、政府の宗教局が寺院・僧侶を統括、管理しています。 そして、人々の仏教への熱い思いは、日々の施しや満月の日のお寺へのお参りに見られます。
一昨日、沖縄舞踊のラオス講演があり、初めて生の舞台を見ることができました。蛇味線演奏家が2人と、横笛1人、小太鼓1人の総勢4人の男性の伴奏が付き、なかなかすばらしい舞台でした。
沖縄舞踊の後にラオス舞踊も上演され、異なる踊りを比較して見られる幸運に恵まれました。踊りの質は沖縄の方が格段素晴らしかったけれど、踊りのテーマがすごくよく似ていたのが、驚きでした。たとえば、女の子達が、浜で漁をする男の子達と気を引き合うような、お見合いダンスは、ラオスでは木の実やキノコ、タケノコなどの収穫のお祭りや新年のお祭りに踊るダンスとそっくりです。手や足の動きも同じようなのが多く、重心を腰のほうにおとし、すり足で動く女性の踊りは、ラオスも沖縄も本当によく似ていました。
フランスから独立し、その後ベトナム共産党支援のパテート・ラオとラオス王国との内戦期間中、ラオスでの主宗教である、小乗仏教が弾圧されることはなく、パテート・ラオは、むしろ民族統合の宣伝に利用しました。これに答えて、多くの僧侶が共産革命に共鳴を示しました。1975年に革命が成功し王制が廃止され、ラオス人民民主共和国として社会主義体制の国として出発し、新政府の宗教政策が打ち出されました。一つは小学校での仏教の授業がなくなったこと。もう一つは、徳を得るために、僧侶に食べ物を施すことを禁止したこと。この策は、僧侶達に、田畑を耕し、動物を飼育してはいけないという戒律を破らせることになりました。これに対しての民衆の反感は大きく、一年後には、お米だけなら施しても良い、と規則を和らげざる終えませんでした。しかし米だけの施しなら得られる徳が少ないという気持ちと、米の施しでは僧侶の田畑の労働からの解放にはならないという民衆の不満が消えず、まもなく従来の方法での施しが認められました。現在は、政府の宗教局が寺院・僧侶を統括、管理しています。 そして、人々の仏教への熱い思いは、日々の施しや満月の日のお寺へのお参りに見られます。
一昨日、沖縄舞踊のラオス講演があり、初めて生の舞台を見ることができました。蛇味線演奏家が2人と、横笛1人、小太鼓1人の総勢4人の男性の伴奏が付き、なかなかすばらしい舞台でした。
沖縄舞踊の後にラオス舞踊も上演され、異なる踊りを比較して見られる幸運に恵まれました。踊りの質は沖縄の方が格段素晴らしかったけれど、踊りのテーマがすごくよく似ていたのが、驚きでした。たとえば、女の子達が、浜で漁をする男の子達と気を引き合うような、お見合いダンスは、ラオスでは木の実やキノコ、タケノコなどの収穫のお祭りや新年のお祭りに踊るダンスとそっくりです。手や足の動きも同じようなのが多く、重心を腰のほうにおとし、すり足で動く女性の踊りは、ラオスも沖縄も本当によく似ていました。
ラオス人との良好な仕事関係の築き方
先週末から、ビエンチャンの朝晩はぐっと気温が下がり、17,8度くらいです。亜熱帯性地域でこんなに温度が低くなるとは思っていなかった私はうれしく思っています。日だまりがぽかぽかと気持ちが良いほどです。
「ラオス人との良好な仕事関係の築き方」という、カナダ人が西欧人向けに書いた本を読みました。「日本人との」と置き換えても良い事柄が多いことを再確認しました。たとえば、「面目」をなくさせることは絶対にするな、年長者に対しては特に気をつけろ、と何度も言っています。相手に面目を失わせることをしたら、決して修復できない、と強調しています。ラオス政府、またはビジネスとの一回目の会合に、ビジネスの話が出来るとは思うな。その担当者の上司と会い挨拶をするだけだから。合理的とか効率とかはラオスでは価値がない。すべての書類は上司が目を通し、署名するので、案件が確認されるまで時間がかかる。仕事の流れが遅いのは当たり前のこと。などなど。ラオスでは週末にも仕事をするのは、人生を楽しんでない証拠。そういうタイプはここでは尊敬されない。そう言えば、そんなことを知人から聞いた主人は、土、日曜日も仕事に追われていた生活に別れを告げることにしたのです。長年の習慣を替えることは思ったより大変なようで、カルチャーショックだな、これは・・・なんて言っています。 これは日本とは全く逆ですね。日本も見習ったらどうでしょう。
この本に載っていたいくつかのラオ格言を。
「ラオス人」を言い表す言葉として、「ボー・ペン・ニャン」という語があります。「気にしない。気にしない」「あー、心配しないで。どうしようもない」とでも言い表せるかな。困ったこと、面倒なことが起こっても、「ボー・ペン・ニャン」と言って、やりすごしちゃうんですね。これは楽で良いだろう、と思うものの、「ここぞの時」の努力や奮発力は養われないだろうなあと思います。「ボー・ペン・ニャン」で済む社会だったのだろう、とは想像するのですが。庭にはバナナやパパイヤ、マンゴーが実り、メコン川には魚が泳いでいる。雨季の後の肥沃な大地には、想像を遙かに超えた早さで野菜が育っている。目を血走らせて、がつがつやらなくても、人々は食べていけるんですよね。 ただ経済発展をめざすこの国は、タイ、ベトナム、中国と近隣を大国に囲まれ、これからどんな道を歩むのでしょうか? 野次馬の私は、この農村社会的なのんびりさを維持しつつ、国の近代化;識字率の向上、乳幼児の死亡率低下、医療の充実、道路建設、などなど・・・とすすめてほしいと願いますが。
「ラオス人との良好な仕事関係の築き方」という、カナダ人が西欧人向けに書いた本を読みました。「日本人との」と置き換えても良い事柄が多いことを再確認しました。たとえば、「面目」をなくさせることは絶対にするな、年長者に対しては特に気をつけろ、と何度も言っています。相手に面目を失わせることをしたら、決して修復できない、と強調しています。ラオス政府、またはビジネスとの一回目の会合に、ビジネスの話が出来るとは思うな。その担当者の上司と会い挨拶をするだけだから。合理的とか効率とかはラオスでは価値がない。すべての書類は上司が目を通し、署名するので、案件が確認されるまで時間がかかる。仕事の流れが遅いのは当たり前のこと。などなど。ラオスでは週末にも仕事をするのは、人生を楽しんでない証拠。そういうタイプはここでは尊敬されない。そう言えば、そんなことを知人から聞いた主人は、土、日曜日も仕事に追われていた生活に別れを告げることにしたのです。長年の習慣を替えることは思ったより大変なようで、カルチャーショックだな、これは・・・なんて言っています。 これは日本とは全く逆ですね。日本も見習ったらどうでしょう。
この本に載っていたいくつかのラオ格言を。
- Victory likes submission
- One less responsibility is better than one more. Unnecessary efforts bring unnecessary problems.
- If you want to reach your goal gradually then run. If you want to reach it quickly then crawl.
- Leave the lotus untouched. Leave the pond unmuddied.
- Trouble is born out of the words you speak.
「ラオス人」を言い表す言葉として、「ボー・ペン・ニャン」という語があります。「気にしない。気にしない」「あー、心配しないで。どうしようもない」とでも言い表せるかな。困ったこと、面倒なことが起こっても、「ボー・ペン・ニャン」と言って、やりすごしちゃうんですね。これは楽で良いだろう、と思うものの、「ここぞの時」の努力や奮発力は養われないだろうなあと思います。「ボー・ペン・ニャン」で済む社会だったのだろう、とは想像するのですが。庭にはバナナやパパイヤ、マンゴーが実り、メコン川には魚が泳いでいる。雨季の後の肥沃な大地には、想像を遙かに超えた早さで野菜が育っている。目を血走らせて、がつがつやらなくても、人々は食べていけるんですよね。 ただ経済発展をめざすこの国は、タイ、ベトナム、中国と近隣を大国に囲まれ、これからどんな道を歩むのでしょうか? 野次馬の私は、この農村社会的なのんびりさを維持しつつ、国の近代化;識字率の向上、乳幼児の死亡率低下、医療の充実、道路建設、などなど・・・とすすめてほしいと願いますが。
PCが使えなくなりました
私のコンピューターは100Vの日本製ですが、ここラオスは200Vの電流です。先日トランスを通さないでプラグに差し込むという、初歩的な間違いをしてしまい、PCが使えなくなりました。アダプターを焼いてしまったのです。そこで、バンコクまで出かけて買い求めることにしたのですが、更新中のラオスのビザがなかなか出来ず、やっと27日にバンコクへ行くことが出来ました。今回は、ビエンチャンの橋向こうのタイのノンカイ市から夜行列車で行きました。
駅に早めに着いてしまい、椅子にかけて本を読んでいましたら、音楽がなり始め、それと同時に椅子に寝そべっていた人も、何かをむしゃむしゃ囓っていた人も、さっと立ち上がり、「きをつけ」の姿勢にピーンと背筋を伸ばして、音楽を聴いています。もちろん、私も何がなんだかわからないまま、起ちあがって、厳粛な顔をしました。儀式は3分間ほどで終わり、私は早速隣の人に、「あれは何なの・・・?」と聞きました。国王に敬意を表するため、国歌がながれたそうです。タイには何度も足を運びましたが、初めて目にした情景でした。
汽車は、エアコン付きの一等車にし、代金はバンコクまで2500円ほど。コンパートメントは2人掛けで、すみには小さな洗面台があります。その日は、コンパートメントには、私1人。汽車は何の音も発せずに、静かに出発。単線の線路は見渡す限りまっすぐにのびていて、その両側は水田が広がっているのか、真っ暗で小さな明かり一つ見えません。深い暗さの中を汽車はゴーゴーを音を響かせて進んでいきます。しばらくすると、中年のおじさんがベットを作りに来てくれました。ぱりぱりに糊がきいた真っ白いシーツとホワホワの白いタオルケットで、1mほどの幅のある座席がベットに。本を読んだり、うとうとしたりながら、12時間後にはバンコクに到着しました。ファランボーン駅は、乗車ホームが12ほどあり、大きなドームが開放的な立派な駅。初めて体験した寝台列車の旅の終わりにふさわしい駅と感慨ひとしおでした。
ホテルで一休みし、バンコクのコンピューター市場ともいうべき、「パンティップ・プラザ」へ。小さなお店が5階までびっしり。コンピューター自体を売っている店は少なく、モデム専門や、接続ケーブルだけを取り扱っていたり、ゲームソフト店に分かれていたりです。さて、私はどこのお店に当たればいいのかしら・・・とまず迷いました。そこで、FUJITSUの看板が掛かっている店を当たりました。 そこにはないので、「どこにあるかしら?」と聞くと、「どこにあるかわからないけれど、こんなにお店がいっぱいあるから、どこかにあるんじゃないですか?」という親切な答え(?)。今、このメールが書けていることは、無事にアダプターが買えたことを証明しているのですが、それにたどり着くまでに、私がどんな気分に陥ったかは、想像にお任せします。
バンコクでは、「Autumn in New York」という映画を見ました。ニューヨークに6年間住んだ私は、ニューヨークを舞台にした映画を素通りに出来ないのです。たとえ、どんなにそれが面白くなさそうな映画でも。映画はやっぱりたいしたことないラブストーリーで、また、残念ながらニューヨークもニューヨークらしくなかったのです。でも、ここでも国王の讃歌を目にしました。上映の前に国王の肖像が映され、歌が流れ、観客は全員起立し、敬意を表するのです。あのハリウッドの娯楽映画と国王の肖像は変なとりあわせだったなあ・・と今思い返されます。
帰りも汽車にしました。バンコクを朝早く出発し、タイの田園風景を眺めながら汽車に揺られるつもりでしたが、一等車は接続していず、一番いいのが2等のファン付き車両で、それに12時間揺られる勇気がおこらず、やはり夜行列車にしました。ノンカイに着くと、涼しい風が吹いています。ノンカイで出国手続きを済ませ、橋を渡りビエンチャンへ。ラオ人は、タイ人とは歩く姿が違うなあ、とまず感じます。バンコクのタイ人は暑さも気にしてないように、足早にきびきびと歩いています。そこへいくと、ラオ人は足を引きずるように、だらだらと歩きます。出入国の係官の態度もずいぶん違います。タイ側は、「私はプロです」という態度。こちらもきちっと応対しないと叱られそう。でも、ラオ側は、「やれっていわれたから、やっています」的。そんなでだいじょうぶなのかな・・・と心配気がおきます。フランス植民地時代に、植民地政府職員としてベトナム人が大量に連れてこられたという事実が、妙に納得できる瞬間でした。
駅に早めに着いてしまい、椅子にかけて本を読んでいましたら、音楽がなり始め、それと同時に椅子に寝そべっていた人も、何かをむしゃむしゃ囓っていた人も、さっと立ち上がり、「きをつけ」の姿勢にピーンと背筋を伸ばして、音楽を聴いています。もちろん、私も何がなんだかわからないまま、起ちあがって、厳粛な顔をしました。儀式は3分間ほどで終わり、私は早速隣の人に、「あれは何なの・・・?」と聞きました。国王に敬意を表するため、国歌がながれたそうです。タイには何度も足を運びましたが、初めて目にした情景でした。
汽車は、エアコン付きの一等車にし、代金はバンコクまで2500円ほど。コンパートメントは2人掛けで、すみには小さな洗面台があります。その日は、コンパートメントには、私1人。汽車は何の音も発せずに、静かに出発。単線の線路は見渡す限りまっすぐにのびていて、その両側は水田が広がっているのか、真っ暗で小さな明かり一つ見えません。深い暗さの中を汽車はゴーゴーを音を響かせて進んでいきます。しばらくすると、中年のおじさんがベットを作りに来てくれました。ぱりぱりに糊がきいた真っ白いシーツとホワホワの白いタオルケットで、1mほどの幅のある座席がベットに。本を読んだり、うとうとしたりながら、12時間後にはバンコクに到着しました。ファランボーン駅は、乗車ホームが12ほどあり、大きなドームが開放的な立派な駅。初めて体験した寝台列車の旅の終わりにふさわしい駅と感慨ひとしおでした。
ホテルで一休みし、バンコクのコンピューター市場ともいうべき、「パンティップ・プラザ」へ。小さなお店が5階までびっしり。コンピューター自体を売っている店は少なく、モデム専門や、接続ケーブルだけを取り扱っていたり、ゲームソフト店に分かれていたりです。さて、私はどこのお店に当たればいいのかしら・・・とまず迷いました。そこで、FUJITSUの看板が掛かっている店を当たりました。 そこにはないので、「どこにあるかしら?」と聞くと、「どこにあるかわからないけれど、こんなにお店がいっぱいあるから、どこかにあるんじゃないですか?」という親切な答え(?)。今、このメールが書けていることは、無事にアダプターが買えたことを証明しているのですが、それにたどり着くまでに、私がどんな気分に陥ったかは、想像にお任せします。
バンコクでは、「Autumn in New York」という映画を見ました。ニューヨークに6年間住んだ私は、ニューヨークを舞台にした映画を素通りに出来ないのです。たとえ、どんなにそれが面白くなさそうな映画でも。映画はやっぱりたいしたことないラブストーリーで、また、残念ながらニューヨークもニューヨークらしくなかったのです。でも、ここでも国王の讃歌を目にしました。上映の前に国王の肖像が映され、歌が流れ、観客は全員起立し、敬意を表するのです。あのハリウッドの娯楽映画と国王の肖像は変なとりあわせだったなあ・・と今思い返されます。
帰りも汽車にしました。バンコクを朝早く出発し、タイの田園風景を眺めながら汽車に揺られるつもりでしたが、一等車は接続していず、一番いいのが2等のファン付き車両で、それに12時間揺られる勇気がおこらず、やはり夜行列車にしました。ノンカイに着くと、涼しい風が吹いています。ノンカイで出国手続きを済ませ、橋を渡りビエンチャンへ。ラオ人は、タイ人とは歩く姿が違うなあ、とまず感じます。バンコクのタイ人は暑さも気にしてないように、足早にきびきびと歩いています。そこへいくと、ラオ人は足を引きずるように、だらだらと歩きます。出入国の係官の態度もずいぶん違います。タイ側は、「私はプロです」という態度。こちらもきちっと応対しないと叱られそう。でも、ラオ側は、「やれっていわれたから、やっています」的。そんなでだいじょうぶなのかな・・・と心配気がおきます。フランス植民地時代に、植民地政府職員としてベトナム人が大量に連れてこられたという事実が、妙に納得できる瞬間でした。
25周年
600年ほど続いた王制を倒し、ベトナム共産党から派生したラオス人民革命党が政権を握りラオス人民民主共和国が建国され、今年の12月2日は25周年でした。25周年とあって式典もラオスでは盛大なもので、いろいろ見物できました。
1日には、大統領府兼迎賓館でもある宮殿でのレセプションに出席する機会があり、普段では入れない中を、ほんの一部ですが垣間見る機会がありました。国の最高権力府としては、すっきりとした清楚な感じのフランス風の内装です。2日は記念パレードがあり、朝6:30開始に、億劫で気の重い気持ちで出かけたのですが、陽が出て、暑くて大変になる前の9:30には、終わってほっとしました。早い内に終わった方が、やる方も見る方も楽でしょう、という心使いだったのでしょう、と後になって納得しました。北朝鮮や中国の式典を見ると、よく兵士達が足を40度くらいにあげて、背筋を伸ばして行進するでしょう? あの行進もあったのですけれど、足の上げ方がバラバラで揃ってなく、また、その行進をする距離も50mほどで、ラオスらしい、と友人達と笑いました。この国には、「がんばる」とか「努力」とか語は似合わないし、そんな状況もお目にしたことがありません。行進には兵士の他に、各役所が担うテーマに飾られた山車がでましたが、お金をかけないように工夫されているのが手に取るようにわかりました。夜は、政府の夕食会に招かれ「何料理・・・」を頂けるのか興味津々でしたけれど、ラオ料理でした。食事中に政府の偉い方が、「乾杯!!!」とテーブルをまわっていらっしゃり、その度に立ったり、座ったりで、ちょっとおしゃれをして、ロングのタイトスカートを着ていた私はそれだけでくたびれてしまいました。食事中に何度も「乾杯」をするのは、ラオスの楽しい習慣です。その後は、花火見物。何と発火点から200mほどしか離れてない場所で見物しました。花火はとっても、とっても豪華できれいでしたけれど、頭の上から降りかかるような花火に最初は怖いような気持ちで眺めました。花火見物も近ければいいと言うものではないんですね。それに、首がすごく疲れますよ。
今回の式典の運営を見て、私の、そして主人の、ラオスに対する点数が上がりました。主人は今までに、スリランカ、パキスタン、リベリアの国々で、建国・独立式典を経験しましたが、ラオスが一番良い、と言っています。大げさでなく、細かいところまで行き届いているそうです。大統領の演説も英訳されたものが前もってまわされ、何を言っているのか理解しながら聞けました。私がスリランカの式典に出たときは、何人もの偉い人がシンハラ語で長々と演説したのですが、出席した外人は、神妙に聞いた振りをしていました。また、大統領の演説自体も、過去25年を盛大に鼓吹することをせず、自分たちは世界でも最も貧しい国だから、これからももっとがんばらなければいけない・・・とか、お役所仕事の悪弊や官僚的な物事の処理の改善を目指そう・・・なんて言っていました。
1日には、大統領府兼迎賓館でもある宮殿でのレセプションに出席する機会があり、普段では入れない中を、ほんの一部ですが垣間見る機会がありました。国の最高権力府としては、すっきりとした清楚な感じのフランス風の内装です。2日は記念パレードがあり、朝6:30開始に、億劫で気の重い気持ちで出かけたのですが、陽が出て、暑くて大変になる前の9:30には、終わってほっとしました。早い内に終わった方が、やる方も見る方も楽でしょう、という心使いだったのでしょう、と後になって納得しました。北朝鮮や中国の式典を見ると、よく兵士達が足を40度くらいにあげて、背筋を伸ばして行進するでしょう? あの行進もあったのですけれど、足の上げ方がバラバラで揃ってなく、また、その行進をする距離も50mほどで、ラオスらしい、と友人達と笑いました。この国には、「がんばる」とか「努力」とか語は似合わないし、そんな状況もお目にしたことがありません。行進には兵士の他に、各役所が担うテーマに飾られた山車がでましたが、お金をかけないように工夫されているのが手に取るようにわかりました。夜は、政府の夕食会に招かれ「何料理・・・」を頂けるのか興味津々でしたけれど、ラオ料理でした。食事中に政府の偉い方が、「乾杯!!!」とテーブルをまわっていらっしゃり、その度に立ったり、座ったりで、ちょっとおしゃれをして、ロングのタイトスカートを着ていた私はそれだけでくたびれてしまいました。食事中に何度も「乾杯」をするのは、ラオスの楽しい習慣です。その後は、花火見物。何と発火点から200mほどしか離れてない場所で見物しました。花火はとっても、とっても豪華できれいでしたけれど、頭の上から降りかかるような花火に最初は怖いような気持ちで眺めました。花火見物も近ければいいと言うものではないんですね。それに、首がすごく疲れますよ。
今回の式典の運営を見て、私の、そして主人の、ラオスに対する点数が上がりました。主人は今までに、スリランカ、パキスタン、リベリアの国々で、建国・独立式典を経験しましたが、ラオスが一番良い、と言っています。大げさでなく、細かいところまで行き届いているそうです。大統領の演説も英訳されたものが前もってまわされ、何を言っているのか理解しながら聞けました。私がスリランカの式典に出たときは、何人もの偉い人がシンハラ語で長々と演説したのですが、出席した外人は、神妙に聞いた振りをしていました。また、大統領の演説自体も、過去25年を盛大に鼓吹することをせず、自分たちは世界でも最も貧しい国だから、これからももっとがんばらなければいけない・・・とか、お役所仕事の悪弊や官僚的な物事の処理の改善を目指そう・・・なんて言っていました。
Women's International Group
ラオス在住外国人女性の親睦グループ、WOMENS INTERNATIONAL GROUP (略称WIG)というのがあります。今年で創設10周年になります。先月末には、WIGの主活動である、「ラオス子ども達への福祉援助」の活動費計上のため、年間の最大行事である、INTERNATIONAL BAZZAR がありました。これには、WIGが集めた古着や本のお店や、各国大使館の自慢料理が並ぶ店、また、市内の土産物屋の出店もあり、7,000ドルほどの収益がありました。
この福祉活動では、ビエンチャン付近の学校建設を援助しています。私も福祉グループの一員として、幾つかの学校を見学する機会がありました。私が見た援助を求めている学校の一番貧弱なものは、床は土で屋根のみ。その建物に2つの教室が入っていますが、教室を分ける壁もありません。それよりもう少しましな学校は、床は土、地面から1m位までは煉瓦壁、その上は竹製の壁。隣の教室との境の壁も地面から1mほどは煉瓦壁がありますが、その上は何もなし。また、コンクリート製の学校にも見学に行きましたが、そこでは机や椅子を要望されました。三人掛けの机に4人かけていたり、一本の脚が短くなっていて斜めになっている椅子に3人も座ったりしていました。建物用にはお金が調達出来たものの、備品用に不足したのでしょう。
いくつかの学校を見て感じたことは、校舎を大事に手を入れながら使っていこう、という姿勢が見られないことです。生徒達はともかく、先生達が率先して、そのように指導していこう、と思ってないようです。ものを大事にする:校舎・校庭を清掃する・・・という行為が尊重されていないのですね。何事にもお金が必要なことはわかりますが、蜘蛛の巣をはらったり、椅子や机に当て木をしたり、鉋で削ったりして使用すれば、あそこまでにはならなかったでしょうに、と思ってしまうのです。先生の給料も低く、また、トレーニング等の不足もあり、高いことは望めないのでしょうか? 学校の貧困さを見ますと、先生の教育、校舎の建設、教材の充実、とやらなければならないことが山ほどあるのがわかりますが、一体、どれを最初にやったらよいのかと思うほどです。国がもっと教育に予算を付けるべきと思いますが、実際、ラオス人がどれだけ教育を重要視しているのかも疑問です。ベトナムの街の様子をテレビなどで見ますと、ちょっとの時間も惜しんで新聞や本を読んでいますが、ラオスではまずそのような人は見られません。友人達の運転手みんなが、我が家で友人がお昼を食べている間、外で待っているのですが、空をぼーっと眺めているだけなのです。
でも、それぞれの学校でみた子ども達の笑顔は真っ白い歯がきらきらと輝き素敵でした。暑かろうと、校舎が暗かろうボロかろう、なんて全く関係なく、体中に元気なエネルギーをみなぎらせていました。
この福祉活動では、ビエンチャン付近の学校建設を援助しています。私も福祉グループの一員として、幾つかの学校を見学する機会がありました。私が見た援助を求めている学校の一番貧弱なものは、床は土で屋根のみ。その建物に2つの教室が入っていますが、教室を分ける壁もありません。それよりもう少しましな学校は、床は土、地面から1m位までは煉瓦壁、その上は竹製の壁。隣の教室との境の壁も地面から1mほどは煉瓦壁がありますが、その上は何もなし。また、コンクリート製の学校にも見学に行きましたが、そこでは机や椅子を要望されました。三人掛けの机に4人かけていたり、一本の脚が短くなっていて斜めになっている椅子に3人も座ったりしていました。建物用にはお金が調達出来たものの、備品用に不足したのでしょう。
いくつかの学校を見て感じたことは、校舎を大事に手を入れながら使っていこう、という姿勢が見られないことです。生徒達はともかく、先生達が率先して、そのように指導していこう、と思ってないようです。ものを大事にする:校舎・校庭を清掃する・・・という行為が尊重されていないのですね。何事にもお金が必要なことはわかりますが、蜘蛛の巣をはらったり、椅子や机に当て木をしたり、鉋で削ったりして使用すれば、あそこまでにはならなかったでしょうに、と思ってしまうのです。先生の給料も低く、また、トレーニング等の不足もあり、高いことは望めないのでしょうか? 学校の貧困さを見ますと、先生の教育、校舎の建設、教材の充実、とやらなければならないことが山ほどあるのがわかりますが、一体、どれを最初にやったらよいのかと思うほどです。国がもっと教育に予算を付けるべきと思いますが、実際、ラオス人がどれだけ教育を重要視しているのかも疑問です。ベトナムの街の様子をテレビなどで見ますと、ちょっとの時間も惜しんで新聞や本を読んでいますが、ラオスではまずそのような人は見られません。友人達の運転手みんなが、我が家で友人がお昼を食べている間、外で待っているのですが、空をぼーっと眺めているだけなのです。
でも、それぞれの学校でみた子ども達の笑顔は真っ白い歯がきらきらと輝き素敵でした。暑かろうと、校舎が暗かろうボロかろう、なんて全く関係なく、体中に元気なエネルギーをみなぎらせていました。
車
私が友人を訪問したり、買い物に行くためのトヨタの四輪駆動が我が家に届いて、2ヶ月ほどになります。車に関しては、「運転手を使うか否か」で、主人と私は意見が異なりました。主人は必要。もし事故でも起こしたら、たとえ私に正当性があっても、外人であるということで、罪を着せられるから、という理由。彼は私の運転技術を頭から信用してないんですね。それに運転手は一ヶ月1万円ほどで雇えるので、心配するより安いし、またラオス人に仕事を提供するいい機会、といいます。私は、必要なし。こんなに車の少ない街で運転が大変なわけがないと思うし、我が家で、または行った先々で、運転手に待っていられることも気分のいいものではなく、私は好きではないのです。今回は主人が私の意見を尊重してくれ、運転手はつかわないことになりました。
ヴィエンチャンのここ2,3年の車、モーターバイクの数の増えようは目を見張るものがあるそうです。そうはいっても、まだまだ数は少ないし、また、スピードもあまり出さずに走っていますが、運転をしていて、何と言っても、一番注意を払わなければならないのが、モーターバイクです。大学生も政府の職員も皆、バイク通勤です。道の端を走ってくれたら何の問題もないのですが、道の真ん中を堂々と時速30kmほどのゆっくりさで走る人が多いのです。時々、ふたつ列べて話しながら走る女の子達も見かけます。危なっかしいし、その後をのろのろ行かなければ行けない私は、ため息をついてしまいます。そこで、シモンおばさんやターちゃんに聞いてみました。「免許を取るとき、どんな勉強をしたの?」と。返事は、免許はなく、そして免許を取る試験もないそうです。ですから、バイクの乗り方を友達に習っただけで、交通規則を学んだ訳ではないのです。もしかしたら、ラオスには交通規則など存在しないのかもしれません。バイクの登録証にシモンの名前が記入されてあり、それが免許証になるそうです。もう、フーンと開いた口がふさがらない感じです。そう言えば日曜日などに、13才くらいの子がバイクに乗っているのを見てどうなっているんだろう・・・?と不思議に思ったことが思い出されます。まさか、車の運転にも免許がないわけはないでしょう、と調べましたら、こちらはありました。教習所で3ヶ月くらい勉強するそうですが、内容となるとちょっとはっきりしません。そういえば、街には交通標識がほとんどありません。私が見たものでは、一方通行がふたつ。それと左折禁止も2つ見たような気がします。ただ、ここ1ヶ月ほどの間に、交通量の多い交差点に、警官の詰め所がいくつも出来ました。その前を通るときは、信号無視をしないように気をつけています。ここに住む外国人は車の保険に加入していますが、ラオス人達はきっと入っていないことと思います。
時々ガソリンを入れるステーションでも驚くことがあります。最新式の機械でガソリンを入れますが、その隣に木製の学校の机のようなものがあり、中にはごっそりとキップ札が詰まっているのです、鍵もない引き出しに。ガソリンは30リットルほど入れて10万キップで、これで千円札が20枚位の厚さになります。カードも使えるようですが、私も使いませんし、使っている人を見たこともありません。作業員が引き出しを開けっ放しで、うろうろ歩いていることもあります。盗難とか危険とかいう感覚が全くないようなのです。そういえば、ずいぶん前になりますが、近くの食料品店に買い物に行ったとき、お店の女主人が、店の真ん中の床にお金を積み上げて勘定していました。私が近くを通らないように気を使ったら、「ありがとう」なんて言われましたっけ。
「No,17」に社会主義国設立時に、僧侶への喜捨は禁止されたが、民衆の不満があり、まもなくして禁止が解かれたと書きました。民衆の暴動があったという記述もないし、どういう不満運動があったのか、と疑問に思っていたのですが、先日読んだ本に書いてありました。その策を打ち出した共産党幹部の奥方達が、その規則を全く無視し托鉢を行ったので、撤回せざるおえなかったそうです。
ヴィエンチャンのここ2,3年の車、モーターバイクの数の増えようは目を見張るものがあるそうです。そうはいっても、まだまだ数は少ないし、また、スピードもあまり出さずに走っていますが、運転をしていて、何と言っても、一番注意を払わなければならないのが、モーターバイクです。大学生も政府の職員も皆、バイク通勤です。道の端を走ってくれたら何の問題もないのですが、道の真ん中を堂々と時速30kmほどのゆっくりさで走る人が多いのです。時々、ふたつ列べて話しながら走る女の子達も見かけます。危なっかしいし、その後をのろのろ行かなければ行けない私は、ため息をついてしまいます。そこで、シモンおばさんやターちゃんに聞いてみました。「免許を取るとき、どんな勉強をしたの?」と。返事は、免許はなく、そして免許を取る試験もないそうです。ですから、バイクの乗り方を友達に習っただけで、交通規則を学んだ訳ではないのです。もしかしたら、ラオスには交通規則など存在しないのかもしれません。バイクの登録証にシモンの名前が記入されてあり、それが免許証になるそうです。もう、フーンと開いた口がふさがらない感じです。そう言えば日曜日などに、13才くらいの子がバイクに乗っているのを見てどうなっているんだろう・・・?と不思議に思ったことが思い出されます。まさか、車の運転にも免許がないわけはないでしょう、と調べましたら、こちらはありました。教習所で3ヶ月くらい勉強するそうですが、内容となるとちょっとはっきりしません。そういえば、街には交通標識がほとんどありません。私が見たものでは、一方通行がふたつ。それと左折禁止も2つ見たような気がします。ただ、ここ1ヶ月ほどの間に、交通量の多い交差点に、警官の詰め所がいくつも出来ました。その前を通るときは、信号無視をしないように気をつけています。ここに住む外国人は車の保険に加入していますが、ラオス人達はきっと入っていないことと思います。
時々ガソリンを入れるステーションでも驚くことがあります。最新式の機械でガソリンを入れますが、その隣に木製の学校の机のようなものがあり、中にはごっそりとキップ札が詰まっているのです、鍵もない引き出しに。ガソリンは30リットルほど入れて10万キップで、これで千円札が20枚位の厚さになります。カードも使えるようですが、私も使いませんし、使っている人を見たこともありません。作業員が引き出しを開けっ放しで、うろうろ歩いていることもあります。盗難とか危険とかいう感覚が全くないようなのです。そういえば、ずいぶん前になりますが、近くの食料品店に買い物に行ったとき、お店の女主人が、店の真ん中の床にお金を積み上げて勘定していました。私が近くを通らないように気を使ったら、「ありがとう」なんて言われましたっけ。
「No,17」に社会主義国設立時に、僧侶への喜捨は禁止されたが、民衆の不満があり、まもなくして禁止が解かれたと書きました。民衆の暴動があったという記述もないし、どういう不満運動があったのか、と疑問に思っていたのですが、先日読んだ本に書いてありました。その策を打ち出した共産党幹部の奥方達が、その規則を全く無視し托鉢を行ったので、撤回せざるおえなかったそうです。