人類最古・新石器時代の聖地
トルコ ギョベックリ・テペ遺跡の謎
大地舜 ギョベックリ・テペ遺跡は、暴虐で世界を震撼させる「イスラム国(ISIS)」に隣接するトルコ国境の町シャンルウルフの北14キロにある。 古代都市シャンルウルフ(ウルフ)は旧約聖書にでてくる預言者アブラハム(注1)が生まれた町で、歴史上ではエデッサという名前でたびたび登場する。現在は63万人のクルド人が住んでいる。 タクシーに乗り、町の中心から荒涼とした高原を30分ほど行くと、ギョベックリ・テペ遺跡が見えてくる。トルコ語の意味は「太鼓腹」遺跡。ギョベックリ・テペ遺跡は、丘陵の上に人工的に作られた丘だが、高原の中で太鼓腹のように膨らみひときわ目立つ。 入り口には、小さな看板が立ち、遺跡の説明をしている(写真1)。丘に登って行くと、まず遺構Eがある。巨石が建てられていた土台しか残っていないが、その手前に大きな穴が二つ開いている(写真2)。一瞬、ドキッとした。沖繩・与那国島の海底遺跡の上にある二つの穴と、雰囲気がそっくりだからだ(写真3)。 現在までにAからFまでの遺構が発掘されているが、それ以外にも地下探査レーダーで16基の遺構のあることが判明している。 遺構の写真をしっかり眺めて欲しい。さらに代表的な石柱も紹介しておく。残念ながら獰猛な動物が高浮き彫りされている石柱は、私が現地を訪問したとき木箱で保護されていた。 C遺構の中央部は古代に破損させられている。もっとも古いのは1万2000年前に建造されたD遺構だが保存状態は一番良い。 これまでの発掘調査で分かったことは、以下のことだ。 ・ 1万2000年前に建造され、1000年後には埋められ、人口の丘となった。 ・ その後も1万年前まで新たな神殿の建造が続いたが、それらは品質も規模も劣化している。 ・ 鳥や蛇や狐などの浮き彫りが多い。その多くは人間に危害を与えかねない動物たちだ。人間を示す16トンの巨柱もある。シンボル的な図柄も浮き彫りにされている。 ・ 中央に5〜6メートルの巨大な石柱が二本建てられ、その廻りをすこし小ぶりの石柱が囲んでいる。 ・ 遺構を上からみると円形・楕円形・渦巻き状の3種類がある。 ・ 人が住んでいた様子はなく、住居跡もない。近くに水場もない。 ・ 氷河時代の祭祀場で、採集狩猟民が集まり儀式を行っていたと思われる。だがなぜ20基以上も1ヶ所にあるのだろう。 ・ 遺構の床が防水のためコンクリート状になっている。水を使う儀式が行われたのだろうか? ・ 石器時代の遺跡には必ず見られる地母神もなければ、女性を示すシンボルも雌らしき動物も存在しない。 ・ 埋め戻しに使われた土砂は1万2000年から1万年前のもの。その中には火打ち石や動物の骨もたくさんあった。だが植物も動物も野生種で、家畜や農業の存在前の出来事であったことが分かる。 ・ 重さ60トンの硬い石灰岩に浮き彫りや高浮き彫りを施したと思われ、2キロも離れた採石場から、もともとの丘陵まで何百という巨石を運んでいる。当時は車輪も無く家畜もいなかった。 これらの事実から何が言えるだろう。 発掘責任者でドイツ考古学研究所のクラウス・シュミット教授(2014年7月に他界)はこの新石器時代の聖地は「祭祀の場で死者のための儀式が行われたのではないだろうか?鳥葬の(鳥に死体を食べさせる)場所であったかもしれません」という。理由は、この遺跡には屋根がなく、地母神もなければ、女性を示すシンボルも雌らしき動物も見当たらないからだ。また住居跡もたき火の跡も、水場もないので「祭祀場だったのに違いない」という。 当時は狩猟採集民の世界であり、90人程度で集団を作って移動していたと、現代の教科書は語る。だがそのような小集団が20基にも及ぶ、巨石祭祀場を造れるのだろうか? ギョベックリ・テペ遺跡の丘に祭祀場を作るために、どのくらいの規模の集団がいたのだろうか? クラウス・シュミット教授は、巨石群を人力だけで運ぶには500人ぐらいが必要だったと推測している。 イースター島のモアイ像を切り出してロープと木材を使って運搬するのに、12トンの像で180名が必要だったと、ノルウェーの著名な自然科学者トール・へイエルダールは計算しています。100トンの巨像には500名から700名の人力が必要だと計算していますが、ギョベックリ・テペ遺跡でも同じくらいの人力が必要だったと思います。 このような祭祀場を作るには、労力だけでなく企画力、組織力が必要だ。 イスタンブール大学の考古学者メハメットは言う。 D遺構の中央には人間を示す中央石柱があり、小ぶりの石柱12本が取り囲んでいます。これが示すのは、階級社会の存在です。すでに神官かシャーマンなどの指導者がいて共同体を運営していたはずです。優れた浮き彫りや高浮き彫りを見ると、明らかに専門職の工芸人がいました。狩猟採集民の世界には巨大な社会が存在したのです。 イスラム神秘主義の研究者であるトルコの作家ボラポロは言う。 D遺構の中央の二本の石柱は、高次元の意識を持った人間を示しているのでしょう。シャーマンや神官です。これらの遺構には、お供え物を置いていたように見える容器がありますが、幻覚を生むキノコを使っていたのかもしれません。周りの小型のT型の石柱は、意識レベルが低い、普通の人々ではないでしょうか。 このような祭祀場を作るには、何よりも情熱が必要だ。この祭祀場にはよほどの重要性があったに違いない。その重要性とは何か? 発掘責任者のクラウス・シュミット教授は、「この祭祀場は祖先を敬うところでもあり、狩猟採集民たちが集まって、交流する重要な場であったのではないでしょうか」 インドの考古天文学者ビージ・シトハはD遺構で二本の中央巨石の周りに立つ12本の石柱に注目している。 この12本の石柱は黄道帯の12の星座と関係があるのかもしれません。通常、黄道一二星座の考え方はシュメール時代に始まったとされますが、世界最古の文学リグ・ヴェーダを調べると、1万2000年前には黄道一二星座が認識されています。ヴェーダは古くから口承されてきたもので、3000年前にインドで編纂されていますが、その起源は1万年以上、遥か昔に遡ると思います。リグ・ヴェーダは神々への韻文賛歌ですが、特徴は天文学の知識が豊富にあることです。シヴァ神が鉄と銀と金の玉を、一本の矢で貫くというお話が出てきますが、鉄は地球で、銀は月、金は太陽です。つまり日蝕のことを語っているのです。 世界中の古代遺跡は宇宙に関する知識を埋め込んだ神殿であることは筆者もよく知っている。エジプトの大ピラミッドは、地球の模型であり、地球と宇宙の知識を豊富に示している。ボリビヤのティワナク遺跡カラササヤには太陽の門があるが、この遺跡で太陽の動きを観察していた。インドネシアの仏教遺跡ボロブドゥールなどは、宇宙神殿の典型だ。地球には「歳差」という現象があり、地球は独楽(こま)のように頭を振って回転している。「歳差の数字」(注:6)というものがあるのだが、それらは12,32,72、108, 540,4302、などだ。ボロブドゥールでは仏像の数や、仏塔の数が意識的に「歳差の数字」に合わされている。同じことはカンボジアのアンコールワット寺院にもいえる。 つまり、ギョベックリ・テペ遺跡が天体観測の場を兼ねていた可能性も高いのだ。 地球の「歳差」は2万5776年で一周する。春分の日の東の空を見て太陽の昇る直前の夜空に見える星座を観測すると、2160年ごとに星座が変わり、2万5776年の間に12の星座が観測できる。星座を認識するのに2万6000年の観察が必要だとすると、人類は太古から天体観測をして、その結果を口承していたに違いない。 天体観測をすれば四季の移り変わりが分かる。そこで農業が始まった時代にはカレンダーが必須となる。だが、それ以前から、天体のカレンダーは重要だったはずだ。古代の人々は天変地異を怖れていたのかもしれない。 ギョベックリ・テペ遺跡が埋められた1万2000年前、地球は天変地異の時代だった。最終氷河期が終わり温かくなったり、寒冷期に舞い戻ったりした。さらには彗星の衝突もあったと言われる。イスラムの聖書コーランやキリスト教の旧約聖書では大洪水が報告され、ギリシャの学者プラトンは、アトランティス文明の消滅を語る。ギョベックリ・テペ遺跡も埋められ、人々は去った。 ボストン大学の地質学者ロバート・ショック教授によると、1万2000年前に、太陽風(注:8)が吹き荒れ地上を焼き払い、場所によっては土が結晶化されているという。この災害を逃れるために、ギョベックリ・テペを建造した人々は祭祀場を捨て、移動したのではないかとショック教授は考える。 1万2000年前に、人類の歴史に大事件が起こったのは確かだ。 ギョベックリ・テペ遺跡が発掘される前、世界最古の巨石神殿と思われていたのは地中海・マルタ島に存在する神殿群だ(写真)。今から7000年前には建造されており、小さな島に20〜30の神殿跡がある。現存する主要な神殿は砂に埋められていた。地下神殿もあるが、マルタの神殿群が建造されたのは1万年以上前だとする学者もいる。 ギョベックリ・テペ遺跡が確実に物語るのは、私たちの過去に関する知識は不十分だということだ。未来は未知だが、過去も未知。狩猟採集民は豊かで、数千人規模で定住していたにちがいない。彼らは階級社会を作り、専門の職人がおり、複雑な社会を構成していた。農業や家畜が始まる前に、宗教を持ち、巨大な祭祀場を造っていた。1万2000年前に存在していた優れた文化が地上から消滅したことが、ギョベックリ・テペ遺跡によって明らかになったのだ。□ 注1:預言者アブラハム:ユダヤ教では全てのユダヤ人の、またイスラム教では、全てのアラブ人の祖とされる。 注2:A遺構:T型の石柱には人間の腕や手が掘られているものがある。中央の石柱1番と2番には、蛇の編みと、牡羊、雄牛、狐、鶴が彫られている。 注3:B遺構:B遺構の床はコンクリートのような防水になっている。柱9番の前には石の容器が置かれている。中央の柱には雄の狐が浮き彫りにされている。 注4:C遺構:渦巻き状に石柱が二重に配置されている。人工的な壁に取り囲まれ、床は岩盤を滑らかにしたもの。中央部分は太古に破壊されているが、柱27番の猛獣の高浮き彫りは破壊を免れている。 注5:D遺構:この遺構は最古なのに保存状態が大変によい。石柱には狐、猪、雄牛、羚羊、蛇、蜘蛛、サソリなどが浮き彫りにされている。柱43番には、ペニスを立てた頭のない男の描写がある。中央の柱18番と31番の高さは5.5メートルで人を示す。石柱の台座は岩盤。中央の柱18番の腕には狐が抱かれている。人を示す石柱には手と腕だけでなく、帯を巻き、動物の皮で出来た腰布を着ている。 注6:歳差の数字:72(2万5776年÷円周360度)、72の倍数(144,288、504など)、108(72+32)、2160(2万5776年÷12星座)、4320(2万5776年÷6星座) 注8:太陽風(たいようふう)は、太陽から吹き出す極めて高温なプラズマ。 |
与那国島の海底遺跡
新たに発掘中。
マルタ島の地下神殿
マルタ島の巨石神殿
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