南半球からの視点
1989年1月1日より『実業の日本』誌に22回連載
1.「いや、日本人はやってこない」
1988年というと、日本はバブル経済の真っ最中。『昇竜』日本は世界を買い占めていた。当時オーストラリアのシドニー郊外に住んで日本企業に勤めていた筆者は、唖然としてそれらの変化を眺めていた。そのころ書いたコラムをお届けする。まさに「驕れるもの久しからず」であり、感慨深い。
爆発した反日感情
「日本人にオーストラリアを売り渡すな!」
「戦争でやっつけた日本人に、平和なときに侵略されている。戦争中、多くの同胞が日本人に虐殺されたことを忘れるな」
「パールハーバー、マレー半島を忘れるな。日本人は信用できない。いつ約束を破ってオーストラリアを侵略するか分からない」
1988年、地元の新聞に連日のように、このような「反日」の投書が寄せられた。
事の発端は、ブルーマウンテンズ市の市役所が、年々増加する日本人観光客のため、観光の要所に日本語の掲示板を置こう、と提案したことにあった。
その提案を機に、一気に反日感情が爆発したのである。
ブルーマウンテンズ市は、シドニー市近郊の、日本の箱根を思わせる風光明媚な別荘地帯で、多くのお年寄りが送っている。そしてこれらのお年寄りの中には、日本軍と戦った人々、シンガポールのチェンジ捕虜収容所(日本軍運営)で、餓死すれすれの目にあって、生き延びてきた人々がいる。
これら、辛酸を嘗めてきたお年寄りの多くは、あまり過去を語りたがらない。だが、その親族たちは、いまだに彼らの代わりに激怒しているように思われる この士地に住んでいると、お年寄りの中には日本人と見ると憎悪の目でにらみ、そばに近づいて来ない人がいることに、気づかざるを得ない。
そんな時期に「シルバーコロンビア」なる通産省の計画が大々的に報道された。
日本のお年寄りの老後を海外で過させようという企画である。そして、望ましい候補地としてオーストラリアが挙げられていた。
オーストラリアのお年寄りたちが不愉快に感じたであろうことは、誰にでも想像がつくと思う。
白豪主義は捨てたが…
「シルバーコロンビア」の計画に対して、オーストラリアの代表的な新聞である「シドニー・モーニングヘラルド」は、「いや、日本人はやって来ない」という社説を掲載した。
その社説のポイントは以下の通りである。
一、シルバーコロンビアの提案そのものよりも、日本の極端な白民族中心主義が、こうもあからさまにされたこと、そして通産省が、このような提案を公式に認めたことが興味深い。
二、老人を海外に送り込んでも、日本国内の老人問題は解決しない。
三、通産省のオーストラリアの移民政策に対する無知にも驚く。わが国が日本人村の建設などを許すわけがないではないか。
オーストラリアは白豪主義を確かに捨てた。だからといって、「お金持ち日本」の老人が大挙して押し寄せて行って大歓迎されると思ったら大間違いである。
オーストラリアが本格的に白豪主義を捨てたのは、ほんの少し前の一九七五年からである。それ以来、ベトナム、ラオスの難民を始めとして、多くのアジア・アフリカ系の移民を受け入れてきた。
シドニーやメルボルンの街を歩くと、アラブ人はいるし、中国人、.インド人、ギリシャ人などが多く、まさに人種のるつぼと化しておりカラフルである。街には世界中の料理店が、それぞれ民族色豊かに店を開き、魅力的なコスモポリタン都市を形成している。
しかし、それは大都会だけである。大都市を一歩離れると、そこは、昔ながらのモノトーンの世界である。筆者の往むブルーマウンテンズ市も、その住民のほとんどは、イギリス系、アイルランド系オーストラリア人で「白豪モノトーン」そのものである。
そして、意識もいまだに「白豪主義」的である。
日本人の多くはオーストラリアを親日国だと思っているようだ。確かに日本語を学ぶ子供たちは多いし、親日家もたくさんいる。しかしもろ手を挙げての親日国では全くない。日本とインドネシアの区別のつかないオーストラリア人がまだたくさんいるし、戦争の傷跡もまだ痛々しく残っている。
「日本に買収されてしまう」
「我々はまず牧場を目本人たちに売った。そして今度は動物たちだ」
「この裏切り行為に対して、墓地に眠る戦士たちは何と言うだろうか?」
これは、今年の初め、ある日本企業がブリスベーン市のローンパインというコアラパークを買収したことに対する、地元の人々の反発である。
日本企業は円高に乗って、オーストラリアの土地や建物をどんどん買収している。そして、多くのオーストラリア人が、「オーストラリアは日本に買収されてしまう」と恐れている。
オーストラリアは移民の国であり、多くの大企業もまた外国資本である。したがって、基本的に外国企業の進出には、寛容な風土を持っている。しかし、それも主として言葉や習慣を同じくする欧米企業に対してであって、日本やマレーシア、香港などからの進出に対しては警戒心を持っている。
それも当然だろう、初めてに近い経験だし、急激な増加だ。から・・・。
南半球から見た日本の経済力は、日本人が意識しているより巨大であり、空恐ろしい存在である。
「いつまでも日本人を毛嫌いするのは止めたらどうだ。嫌いだ嫌いだと言って、乗ってる車はトヨタやホンダじゃないか」
そういって、ある友人は自分の両親を筆者の家で開いたパーティに連れてきた。オーストラリア人の多くにとって、日本人はまだ得体の知れない人々であり、昔の敵であり、有能なことが分かるだけ、より一層不気味な存在なのである。
豊かであるという生活実感のない日本人でも、一億人集まると巨大な経済勢力となり、南半球の諸国まで不安に陥れるのである。
多くの抵抗を乗り越えて、白豪主義から脱皮し、新しい国づくりに励んでいるオーストラリアは、日本にとって、得難い友人となりうる国である。
それには、我々が、彼らの複雑な気持ちを理解する必要があるし、シルバーコロンビアのような、この国の人々の神経を逆なでするような企画を、政府が後押しするようでは、困るのである。
爆発した反日感情
「日本人にオーストラリアを売り渡すな!」
「戦争でやっつけた日本人に、平和なときに侵略されている。戦争中、多くの同胞が日本人に虐殺されたことを忘れるな」
「パールハーバー、マレー半島を忘れるな。日本人は信用できない。いつ約束を破ってオーストラリアを侵略するか分からない」
1988年、地元の新聞に連日のように、このような「反日」の投書が寄せられた。
事の発端は、ブルーマウンテンズ市の市役所が、年々増加する日本人観光客のため、観光の要所に日本語の掲示板を置こう、と提案したことにあった。
その提案を機に、一気に反日感情が爆発したのである。
ブルーマウンテンズ市は、シドニー市近郊の、日本の箱根を思わせる風光明媚な別荘地帯で、多くのお年寄りが送っている。そしてこれらのお年寄りの中には、日本軍と戦った人々、シンガポールのチェンジ捕虜収容所(日本軍運営)で、餓死すれすれの目にあって、生き延びてきた人々がいる。
これら、辛酸を嘗めてきたお年寄りの多くは、あまり過去を語りたがらない。だが、その親族たちは、いまだに彼らの代わりに激怒しているように思われる この士地に住んでいると、お年寄りの中には日本人と見ると憎悪の目でにらみ、そばに近づいて来ない人がいることに、気づかざるを得ない。
そんな時期に「シルバーコロンビア」なる通産省の計画が大々的に報道された。
日本のお年寄りの老後を海外で過させようという企画である。そして、望ましい候補地としてオーストラリアが挙げられていた。
オーストラリアのお年寄りたちが不愉快に感じたであろうことは、誰にでも想像がつくと思う。
白豪主義は捨てたが…
「シルバーコロンビア」の計画に対して、オーストラリアの代表的な新聞である「シドニー・モーニングヘラルド」は、「いや、日本人はやって来ない」という社説を掲載した。
その社説のポイントは以下の通りである。
一、シルバーコロンビアの提案そのものよりも、日本の極端な白民族中心主義が、こうもあからさまにされたこと、そして通産省が、このような提案を公式に認めたことが興味深い。
二、老人を海外に送り込んでも、日本国内の老人問題は解決しない。
三、通産省のオーストラリアの移民政策に対する無知にも驚く。わが国が日本人村の建設などを許すわけがないではないか。
オーストラリアは白豪主義を確かに捨てた。だからといって、「お金持ち日本」の老人が大挙して押し寄せて行って大歓迎されると思ったら大間違いである。
オーストラリアが本格的に白豪主義を捨てたのは、ほんの少し前の一九七五年からである。それ以来、ベトナム、ラオスの難民を始めとして、多くのアジア・アフリカ系の移民を受け入れてきた。
シドニーやメルボルンの街を歩くと、アラブ人はいるし、中国人、.インド人、ギリシャ人などが多く、まさに人種のるつぼと化しておりカラフルである。街には世界中の料理店が、それぞれ民族色豊かに店を開き、魅力的なコスモポリタン都市を形成している。
しかし、それは大都会だけである。大都市を一歩離れると、そこは、昔ながらのモノトーンの世界である。筆者の往むブルーマウンテンズ市も、その住民のほとんどは、イギリス系、アイルランド系オーストラリア人で「白豪モノトーン」そのものである。
そして、意識もいまだに「白豪主義」的である。
日本人の多くはオーストラリアを親日国だと思っているようだ。確かに日本語を学ぶ子供たちは多いし、親日家もたくさんいる。しかしもろ手を挙げての親日国では全くない。日本とインドネシアの区別のつかないオーストラリア人がまだたくさんいるし、戦争の傷跡もまだ痛々しく残っている。
「日本に買収されてしまう」
「我々はまず牧場を目本人たちに売った。そして今度は動物たちだ」
「この裏切り行為に対して、墓地に眠る戦士たちは何と言うだろうか?」
これは、今年の初め、ある日本企業がブリスベーン市のローンパインというコアラパークを買収したことに対する、地元の人々の反発である。
日本企業は円高に乗って、オーストラリアの土地や建物をどんどん買収している。そして、多くのオーストラリア人が、「オーストラリアは日本に買収されてしまう」と恐れている。
オーストラリアは移民の国であり、多くの大企業もまた外国資本である。したがって、基本的に外国企業の進出には、寛容な風土を持っている。しかし、それも主として言葉や習慣を同じくする欧米企業に対してであって、日本やマレーシア、香港などからの進出に対しては警戒心を持っている。
それも当然だろう、初めてに近い経験だし、急激な増加だ。から・・・。
南半球から見た日本の経済力は、日本人が意識しているより巨大であり、空恐ろしい存在である。
「いつまでも日本人を毛嫌いするのは止めたらどうだ。嫌いだ嫌いだと言って、乗ってる車はトヨタやホンダじゃないか」
そういって、ある友人は自分の両親を筆者の家で開いたパーティに連れてきた。オーストラリア人の多くにとって、日本人はまだ得体の知れない人々であり、昔の敵であり、有能なことが分かるだけ、より一層不気味な存在なのである。
豊かであるという生活実感のない日本人でも、一億人集まると巨大な経済勢力となり、南半球の諸国まで不安に陥れるのである。
多くの抵抗を乗り越えて、白豪主義から脱皮し、新しい国づくりに励んでいるオーストラリアは、日本にとって、得難い友人となりうる国である。
それには、我々が、彼らの複雑な気持ちを理解する必要があるし、シルバーコロンビアのような、この国の人々の神経を逆なでするような企画を、政府が後押しするようでは、困るのである。
2.ゴルフをするならダウンアンダー
オーストラリアでは毎週のようにゴルフを楽しんだ。日本と異なり、ゴルフは子どもから老人までが気楽に楽しめるスポーツだった。オーストラリアの生活水準は、質から見るとはるかに日本より高い。日本で給与を貰って、オーストラリアで生活できたら理想的だ。漫画家や作家で、豪州に生活の場を置く人が多いのも当然なのだ。
『仕事が趣味』というが
「パパまだなの?」
7歳になる息子は、グリーン上に寝そべって、私を待ち切れない。この子は3歳からゴルフを始めて、年に5-6回はコースに出ている。暖かい日曜日の夕方は、私のような子連れゴルファーで、コースは賑やかである。
ゴルフを特別教えたわけではないが、この子の方が、ボールをストレートに打つのは上手になってしまった。今では、私がボールを林の中に打ち込んでノロノロしていると、先にグリーンに着いて待っていることが多い。
オーストラリアでは、ゴルフは子供から老人までのスポーツである。子供のための無料レッスンはあるし、老人たちは毎日のようにゴルフをして健康的である。
この国の人々は50歳から60歳で引退し、老後はゴルフ、ローン・ボウリング(ジュータンのような芝生の上でボールを転がす競技)、セイリングなどをして楽しむのが当たり前である。
"仕事が趣味"という人は別として、60歳を超えて働く人は、この国にはあまりいないようだ。
お金持ちだと、40歳前後で引退して、後は世界中の山に登ったり、海に潜ったりして趣味を満喫した生活を送っている。
日本人の場合、ほとんどの人は生活に追われ、仕事に追われ、"仕事を人生の趣味"にするほか、方法がないのが普通ではないだろうか? 50歳で引退して悠々自適の生活が出来る人が何パーセントぐらいいるのだろうか?
入会金と年会費で100ドル
「高い、高いと言われている会員権だが、200万円以下で買えるコースもある……が、高額コースでしかゴルフが楽しめないわけではない。ゴルフ発祥の地、イギリスのゴルフ場を思い浮かべながら、河川敷でカートを引っ張るのも一興ではある」
これは、いつか「実業の日本」誌に載っていた記事である。
私が会員になっているブルーマウンテンズ市のゴルフクラブの入会金と年会費は、含わせて100ドル-=7000円)である。これだけ払えば、一年間、毎日ゴルフをしていても、グリーンフィーは取られない。年金生活をしている老人でも、ゴルフを楽しめるわけだ。
このクラブはシドニー市から車で1時間半の山の上にあり、入会金も安いほうかも知れない。でも、シドニー市の名門コースでも、入会金は3000ドル(20万円)程度である。
私の所属しているクラブのコースは極めて美しく整備されている。フェアウヱーは刈り込んだ芝生で覆われているし、池や花壇のレイアウトも庭園のようである。散水用のパイプがティ・グラウンドからグリーンまでの間の隅々に張り巡らされており、夏のドライシーズンには、陽の沈む頃からコース全体に散水される。
たった100ドルの年会費で、何でこんなに行き届いた手入れが出来るかというと、それは、ゴルフクラブが営利団体でないことにあるようだ。
この国では、ゴルフクラブの所有権は会員にある。会員が会費で経営しているクラブであり、クラブが解散したら、財産は会員間で分割されることになる。
士地は50年前に市役所から安く有償提供されており、コースは会員の労働奉仕と寄付金で造成されてきた。クラブの役員は毎年選挙で選ばれ、無報酬の奉仕である。だから会費がこんなに安くてもやっていける。
他のスポーツクラブも同様である。
私がやはり会員になっているスプリングウッド・テニスクラブには、人工芝のコートが10面あり、そのうち七面には夜間照明の設備が付いている。年間会費は25ドル(2000円)で、いつでも自由にプレーが出来る。
このクラブの唯一の問題は、プレイヤーが少ないことである。土、日の午後の一番混んでいる時間帯でも、10面が全部埋まることは少ない。
スプリングウッド・テニスクラブはシドニー市から一時間の場所なので、プレイヤー不足だが、シドニー市内のコートは、週末は予約でいっばいらしい。しかし、少し郊外に出れば空きコートは幾らでもあるし、ちょっとした金持ちなら自宅の庭にコートを持っている。だからコート探しに苦労することはまずない。
生活大国への要求を
日本でゴルフに大金を払うくらいなら、いっそのこと、ダウン・アンダー(英語圏ではオーストラリアのことをこう呼ぶことが多い)に、1週間ぐらい休暇を取って来たらどうだろう。
こちらでプレーすると、まずグリーンフィーに一日9ドルかかる。5日間プレーするとして45ドル。宿泊料が40ドル(郊外のドライブイン)として、6日間で240ドル。航空券は日本で買うと8万円程度(2003年現在)。それ以外の経費としては、食費、飲み代、お土産代として700ドルもみておけば十分だ。
そうそう、それにシドニー。空港から私の所属している山のクラブまでタクシーを飛ばすと、片道160ドルかかる。
したがって、総合計は、1305ドル(x0.7=2003年現在)プラス航空券だ。日本円で、大体18万円もあれば十分ということだ。これなら100万円あれば、五年間連続して遊びに来ることができる勘定になる。このほうが、河川敷で、イギリスのコースを想像しながら歩くよりは、趣があるのではないだろうか。
筆者の住んでいる人口3500人の町、というか村には、テニスコート2面、ゴルフコース、サッカー場、クリケット場、大スイミングプール、ローン・ボウリング場2面がある。
人口が少ないので、当然どこの施設もガラ空きで、ほぼ使いたい時に使える。この程度の施設は、この国では、ごく当たり前である。
日本の市町村で、人口比で見て、これだけの施設を備えている所がどれだけあるだろうか?
貧乏だった日本は、やっと経済大国になった。次の目標は、当然、生活大国になることだろう。
確かに日本の労働者の平均賃金はオーストラリアの二倍となった。しかし、生活水準は、未だにオーストラリアの半分以下というのが、実感である。
『仕事が趣味』というが
「パパまだなの?」
7歳になる息子は、グリーン上に寝そべって、私を待ち切れない。この子は3歳からゴルフを始めて、年に5-6回はコースに出ている。暖かい日曜日の夕方は、私のような子連れゴルファーで、コースは賑やかである。
ゴルフを特別教えたわけではないが、この子の方が、ボールをストレートに打つのは上手になってしまった。今では、私がボールを林の中に打ち込んでノロノロしていると、先にグリーンに着いて待っていることが多い。
オーストラリアでは、ゴルフは子供から老人までのスポーツである。子供のための無料レッスンはあるし、老人たちは毎日のようにゴルフをして健康的である。
この国の人々は50歳から60歳で引退し、老後はゴルフ、ローン・ボウリング(ジュータンのような芝生の上でボールを転がす競技)、セイリングなどをして楽しむのが当たり前である。
"仕事が趣味"という人は別として、60歳を超えて働く人は、この国にはあまりいないようだ。
お金持ちだと、40歳前後で引退して、後は世界中の山に登ったり、海に潜ったりして趣味を満喫した生活を送っている。
日本人の場合、ほとんどの人は生活に追われ、仕事に追われ、"仕事を人生の趣味"にするほか、方法がないのが普通ではないだろうか? 50歳で引退して悠々自適の生活が出来る人が何パーセントぐらいいるのだろうか?
入会金と年会費で100ドル
「高い、高いと言われている会員権だが、200万円以下で買えるコースもある……が、高額コースでしかゴルフが楽しめないわけではない。ゴルフ発祥の地、イギリスのゴルフ場を思い浮かべながら、河川敷でカートを引っ張るのも一興ではある」
これは、いつか「実業の日本」誌に載っていた記事である。
私が会員になっているブルーマウンテンズ市のゴルフクラブの入会金と年会費は、含わせて100ドル-=7000円)である。これだけ払えば、一年間、毎日ゴルフをしていても、グリーンフィーは取られない。年金生活をしている老人でも、ゴルフを楽しめるわけだ。
このクラブはシドニー市から車で1時間半の山の上にあり、入会金も安いほうかも知れない。でも、シドニー市の名門コースでも、入会金は3000ドル(20万円)程度である。
私の所属しているクラブのコースは極めて美しく整備されている。フェアウヱーは刈り込んだ芝生で覆われているし、池や花壇のレイアウトも庭園のようである。散水用のパイプがティ・グラウンドからグリーンまでの間の隅々に張り巡らされており、夏のドライシーズンには、陽の沈む頃からコース全体に散水される。
たった100ドルの年会費で、何でこんなに行き届いた手入れが出来るかというと、それは、ゴルフクラブが営利団体でないことにあるようだ。
この国では、ゴルフクラブの所有権は会員にある。会員が会費で経営しているクラブであり、クラブが解散したら、財産は会員間で分割されることになる。
士地は50年前に市役所から安く有償提供されており、コースは会員の労働奉仕と寄付金で造成されてきた。クラブの役員は毎年選挙で選ばれ、無報酬の奉仕である。だから会費がこんなに安くてもやっていける。
他のスポーツクラブも同様である。
私がやはり会員になっているスプリングウッド・テニスクラブには、人工芝のコートが10面あり、そのうち七面には夜間照明の設備が付いている。年間会費は25ドル(2000円)で、いつでも自由にプレーが出来る。
このクラブの唯一の問題は、プレイヤーが少ないことである。土、日の午後の一番混んでいる時間帯でも、10面が全部埋まることは少ない。
スプリングウッド・テニスクラブはシドニー市から一時間の場所なので、プレイヤー不足だが、シドニー市内のコートは、週末は予約でいっばいらしい。しかし、少し郊外に出れば空きコートは幾らでもあるし、ちょっとした金持ちなら自宅の庭にコートを持っている。だからコート探しに苦労することはまずない。
生活大国への要求を
日本でゴルフに大金を払うくらいなら、いっそのこと、ダウン・アンダー(英語圏ではオーストラリアのことをこう呼ぶことが多い)に、1週間ぐらい休暇を取って来たらどうだろう。
こちらでプレーすると、まずグリーンフィーに一日9ドルかかる。5日間プレーするとして45ドル。宿泊料が40ドル(郊外のドライブイン)として、6日間で240ドル。航空券は日本で買うと8万円程度(2003年現在)。それ以外の経費としては、食費、飲み代、お土産代として700ドルもみておけば十分だ。
そうそう、それにシドニー。空港から私の所属している山のクラブまでタクシーを飛ばすと、片道160ドルかかる。
したがって、総合計は、1305ドル(x0.7=2003年現在)プラス航空券だ。日本円で、大体18万円もあれば十分ということだ。これなら100万円あれば、五年間連続して遊びに来ることができる勘定になる。このほうが、河川敷で、イギリスのコースを想像しながら歩くよりは、趣があるのではないだろうか。
筆者の住んでいる人口3500人の町、というか村には、テニスコート2面、ゴルフコース、サッカー場、クリケット場、大スイミングプール、ローン・ボウリング場2面がある。
人口が少ないので、当然どこの施設もガラ空きで、ほぼ使いたい時に使える。この程度の施設は、この国では、ごく当たり前である。
日本の市町村で、人口比で見て、これだけの施設を備えている所がどれだけあるだろうか?
貧乏だった日本は、やっと経済大国になった。次の目標は、当然、生活大国になることだろう。
確かに日本の労働者の平均賃金はオーストラリアの二倍となった。しかし、生活水準は、未だにオーストラリアの半分以下というのが、実感である。
3.日本人は創られる
日本は『和』の社会。欧米は『契約』の社会。お互いに全く相いれない構造を持つ社会。この2つの世界を往来するのは骨が折れる。特に欧米に長期滞在すると、日本への再上陸が極めて難しくなる。一方、日本から欧米に再上陸するのは、それほど難しくない。ルールがはっきりしているからだ。
日本再上陸の困難は、海外経験の豊富な日本人にとって永遠の課題である。
担任教師のアドバイス
「日本語の勉強は、辞めたらどうでしようか」
「エツ!・・・」
「まだ7歳ですよ。家に帰ってから2時間も勉強させたら、それは無理だし、かわいそうですよ」
「でも・・・」
「マーナには遊ぶ時間が必要です。今は学校で遊んで、家で勉強しているようだけど……、逆にしたほうがよいと思います」
マーナという7歳の男の子の担任、エーブル先生の意見は、はっきりしていた。マーナは教室で遊んでばかりいて、さっぱり勉強に身が入らないのだ。そこで、親である筆者は学校に呼ばれたのである。
「そういわれてもマーナは日本人だし、日本語は大事だし、せっかく続けている通信教育を辞めるのは・・・」
「この国に来て、オーストラリアの学校に入っている以上、この国での勉強
を第一にするべきです。今のままでは、マーナがかわいそうですよ。利口な子なのに、学校ではいたずら小僧としか、思われていませんから・・・」
「そうですか・・・。おっしゃることはよく分かりました。家に帰って妻ともよく相談してみます。たぶん、毎晩の日本語の通信教育は辞めて、学校の勉強を第一にするようにします」
「そうですね、それがよいと思います。日本語の勉強は、本をたくさん読んであげて、それと会話を忘れなければ、それで十分だと思います・・・」
「ハイ……」
教育方針を変えてから、半年経つ。結果は上々である。見事に立派なオーストラリア人の男の子が出来上がってしまった。英語は親よりうまく、完壁なオーストラリア弁を話す。日本語はというと、話せるし平仮名は書ける。片仮名も読める。だが、日本に住む同年配の子から見たら、大分遅れている。
オーストラリアに永住するなら、この教育方針は大成功だったが、この子はいずれ日本に帰るのである。
日本人の条件とは・・・
日本に帰ったら、どうなるのだろう?
日本人という四角い箱に押し込まれ、はみ出た部分は削られるのだろうか?そうだとすると、親としては心が痛む。
生まれながらの日本人というのは、もともと存在しない。日本人として生まれても、日本の国の規範に合うように創られねば、日本人にはなれないのだ。
極端な言い方をすれば、日本人として認められるためには、他の日本人と同じように物事を見、考え、同じような服を着て、同じ行動をしなければならないのだ。日本の社会には、アメリカやオーストラリアで味わえるような、個人の自由はない。自由の風になじんだ人々にとって、日本の社会がとても窮屈でたまらなく感じられるのは、そのためなのだ。
この現実を前にして、マーナの将来を考えると、きわめて悲観的にならざるを得ない。なにしろ7歳にして、やたらと理屈っぽい、独立心の強い、親でもたじたじとなる一言居士に育ってしまっているからだ。典型的な海外子女となったマーナは、果たして日本の社会に適応できるだろうか?
そこで考えてみたのが、「日本人として認められるための条件-適応の条件」である。マーナを日本に連れて帰る前に、よく研究しておかなければならないのだ。
いろいろ考えたが、ほぼ下記の条件が満たされる必要がありそうだ。
いっそのこと、こんな条件は無視して、「大きく生きろ」と、励ましてやろうか? だが、大人の社会を見ても、この条件に従わないで生さ残っている人は、きわめて少ない。この「適応の条件」に従わないで、なお立派な日本人として社会的に認められている人々が、少数だが居るが、彼らはたぶん天才である。「国外人」にしない法
海外に長く住んだ日本人は、大人でも日本への再上陸には苦労する。特に、現地社会によく溶け込んでいた人ほど、その傾向が強い。
もっとも、ほとんどの日本人は、特に会社人間は、海外でも日本食を食べ、日本人同士とつき合い、日本を向いて生活しているから、日本再上陸の際も摩擦は少ないだろう。
一方、現地に溶け込んでいる一部の人間は、「国際人」だともてはやされるが、その実、日本の社会からは疎外されることを覚悟しなければならない。
日本の社会では、「国粋的国際派」(海外経験はあるが国際人ではない国粋主義者)であることは認められても、「国際人」(どこの国でも通用する人間)となると、異分子扱いで、実情は「国外人」(日本人なのに、外国人並みに扱われる人々)扱いである。
「国外人」とは「日本人の外人」である。マーナを「国外人」にはしたくないし、といって、今から「国粋的国際派」にするには、遅すぎる。何とかバランスの取れた「国際人」にしたいのだが、それは容易ではない。
さて、大分悲観的なことばかり書いてきたが、実は、マーナを日本に適応させる秘訣を、私は見つけたと思っている。
答えは簡単(?)である。マーナに日本社会が成り立つ、その「基本原理」を教えればよいのである。それが理解できれば、日本という国のほとんどの謎が解明される。そして、理屈で日本の社会が説明できるだろう。
「基本原理」とは、「和」である。
日本の社会では「和」を保つことを、善悪よりも、正義よりも、合理よりも、何よりも優先しているのである。
さて、この「和」を第一にして行動させれば、マーナはスムーズに日本の社会に溶け込めるはずである。だが、これからどのようにして、マーナに「和」の精神を教え込むか、それが大課題となって残っている。
日本再上陸の困難は、海外経験の豊富な日本人にとって永遠の課題である。
担任教師のアドバイス
「日本語の勉強は、辞めたらどうでしようか」
「エツ!・・・」
「まだ7歳ですよ。家に帰ってから2時間も勉強させたら、それは無理だし、かわいそうですよ」
「でも・・・」
「マーナには遊ぶ時間が必要です。今は学校で遊んで、家で勉強しているようだけど……、逆にしたほうがよいと思います」
マーナという7歳の男の子の担任、エーブル先生の意見は、はっきりしていた。マーナは教室で遊んでばかりいて、さっぱり勉強に身が入らないのだ。そこで、親である筆者は学校に呼ばれたのである。
「そういわれてもマーナは日本人だし、日本語は大事だし、せっかく続けている通信教育を辞めるのは・・・」
「この国に来て、オーストラリアの学校に入っている以上、この国での勉強
を第一にするべきです。今のままでは、マーナがかわいそうですよ。利口な子なのに、学校ではいたずら小僧としか、思われていませんから・・・」
「そうですか・・・。おっしゃることはよく分かりました。家に帰って妻ともよく相談してみます。たぶん、毎晩の日本語の通信教育は辞めて、学校の勉強を第一にするようにします」
「そうですね、それがよいと思います。日本語の勉強は、本をたくさん読んであげて、それと会話を忘れなければ、それで十分だと思います・・・」
「ハイ……」
教育方針を変えてから、半年経つ。結果は上々である。見事に立派なオーストラリア人の男の子が出来上がってしまった。英語は親よりうまく、完壁なオーストラリア弁を話す。日本語はというと、話せるし平仮名は書ける。片仮名も読める。だが、日本に住む同年配の子から見たら、大分遅れている。
オーストラリアに永住するなら、この教育方針は大成功だったが、この子はいずれ日本に帰るのである。
日本人の条件とは・・・
日本に帰ったら、どうなるのだろう?
日本人という四角い箱に押し込まれ、はみ出た部分は削られるのだろうか?そうだとすると、親としては心が痛む。
生まれながらの日本人というのは、もともと存在しない。日本人として生まれても、日本の国の規範に合うように創られねば、日本人にはなれないのだ。
極端な言い方をすれば、日本人として認められるためには、他の日本人と同じように物事を見、考え、同じような服を着て、同じ行動をしなければならないのだ。日本の社会には、アメリカやオーストラリアで味わえるような、個人の自由はない。自由の風になじんだ人々にとって、日本の社会がとても窮屈でたまらなく感じられるのは、そのためなのだ。
この現実を前にして、マーナの将来を考えると、きわめて悲観的にならざるを得ない。なにしろ7歳にして、やたらと理屈っぽい、独立心の強い、親でもたじたじとなる一言居士に育ってしまっているからだ。典型的な海外子女となったマーナは、果たして日本の社会に適応できるだろうか?
そこで考えてみたのが、「日本人として認められるための条件-適応の条件」である。マーナを日本に連れて帰る前に、よく研究しておかなければならないのだ。
いろいろ考えたが、ほぼ下記の条件が満たされる必要がありそうだ。
- 日本語を上手に喋る。
- 髪の毛と、目玉が黒い。
- 御辞儀が出来る。
- 先生を敬う。
- 年齢序列を守る。
- 理屈を押し通さない。
- 謙譲の美徳を知る。
- 低姿勢を保つ。
- 外国語をなるべく使わない。
- 調和を第一に考える。
いっそのこと、こんな条件は無視して、「大きく生きろ」と、励ましてやろうか? だが、大人の社会を見ても、この条件に従わないで生さ残っている人は、きわめて少ない。この「適応の条件」に従わないで、なお立派な日本人として社会的に認められている人々が、少数だが居るが、彼らはたぶん天才である。「国外人」にしない法
海外に長く住んだ日本人は、大人でも日本への再上陸には苦労する。特に、現地社会によく溶け込んでいた人ほど、その傾向が強い。
もっとも、ほとんどの日本人は、特に会社人間は、海外でも日本食を食べ、日本人同士とつき合い、日本を向いて生活しているから、日本再上陸の際も摩擦は少ないだろう。
一方、現地に溶け込んでいる一部の人間は、「国際人」だともてはやされるが、その実、日本の社会からは疎外されることを覚悟しなければならない。
日本の社会では、「国粋的国際派」(海外経験はあるが国際人ではない国粋主義者)であることは認められても、「国際人」(どこの国でも通用する人間)となると、異分子扱いで、実情は「国外人」(日本人なのに、外国人並みに扱われる人々)扱いである。
「国外人」とは「日本人の外人」である。マーナを「国外人」にはしたくないし、といって、今から「国粋的国際派」にするには、遅すぎる。何とかバランスの取れた「国際人」にしたいのだが、それは容易ではない。
さて、大分悲観的なことばかり書いてきたが、実は、マーナを日本に適応させる秘訣を、私は見つけたと思っている。
答えは簡単(?)である。マーナに日本社会が成り立つ、その「基本原理」を教えればよいのである。それが理解できれば、日本という国のほとんどの謎が解明される。そして、理屈で日本の社会が説明できるだろう。
「基本原理」とは、「和」である。
日本の社会では「和」を保つことを、善悪よりも、正義よりも、合理よりも、何よりも優先しているのである。
さて、この「和」を第一にして行動させれば、マーナはスムーズに日本の社会に溶け込めるはずである。だが、これからどのようにして、マーナに「和」の精神を教え込むか、それが大課題となって残っている。
4.ラッキーカントリーへの投資のすすめ
1988年、私はこの原稿を書きながら、同時にオーストラリアに投資をしてみた。シドニー市に家を買ったのだ。結果は失敗だった。帰国して数年後に豪ドルがどんどん安くなり、家の評価額は上がっていたが、日本円に換算すると目減りしていた。
日本でフリーライターになって生活費に困り、この家を売ってしまったが、利益はまったくなしだった。いつか再び、ラッキーカントリーの恩恵をこうむるために、投資をしたいと考えている。
600万円の豪邸
隣の士地に赤レンガのしゃれた家が建った。500坪(1650平方メートル)の士地に、かなり大きな家である。どんな人が住むのかと思ったら、22歳の電気技師と、銀行に勤める20歳の女の子だった。
「ピーター、若いのに偉いね-、お金持ちなんだねー」
「いやー、銀行や親から借金して建てたのさ、これからが大変だよ」
「ー生かかって返済するの?」
「エー、冗談じゃないよ、5、6年で返済するつもりだよ」
「でも……、この広い土地とこの家じゃ、10万ドルはかかったでしょ?」
「いやー、士地が1万5000ドルに家が4万5000ドルだから、全部で6万ドル(600万円)だよ」
「エー、日本でこんな家を建てたら、家だけで20万ドル(2000万円)はするよ……」
ピーターの案内で家の中を見せてもらった。
広い客間には大きな暖炉があり、踏むと沈む厚いジュータンが一面に敷かれている。天井から床までガラス張りの客間の窓からは、広い前庭が見える。主寝室にはウォーキングイン・クロゼツトと専用のバスルームが付いている。
寝室は全部で4部屋。それに広い台所と食堂、そして家族用の居間。居間の外には赤レンガのベランダが配置され、バーベキュー用コンロが置かれている。
暖炉の前のソファーに腰掛け、芝生の庭を眺めていると、「そういえば、俺は40歳を超したのに、まだ自分の家を持つなんて夢のような話だな…」と、思わず溜め息が出てしまった。
筆者の住んでいるブルーマウンテンズ市は、シドニー市から車で2時間、日本でいえば箱根のような、風光明媚な観光地である。
この辺りの土地、家屋の値段はシドニー市周辺に比べたら当然安い。市役所で調べたら、筆者の住んでいる300坪(990平方メートル)の土地の評価額は5000ドル(50万円)だった。
隣の家に比べると筆者の家は、3寝室に居間、食堂があるだけで狭い。家賃は1力月550ドル(5万5000円)である。
ハードワークの報酬
先日、あるテニスクラブ主催のダンスパーティに出かけ、若夫婦と親しくなった。夜中の二時頃、「俺の家に来て最後の一杯やろうじゃないか……」と誘われて、ノコノコ後についていった。
大きな家だった。プールが前庭にあり、その先は谷間の牧場。この辺りはシドニー市から一時間くらいのところで、住民の多くはシドニーまで毎日通勤している。
「俺もこの家や牧場が最高に気に入っているんだ。土地は5エーカーしかないけどね。でも、土、日にやる仕事がたくさんあるし、子供の教育上にもいい場所だろう? 夜になると、小さなカンガルーや大きな鳥が来て、俺の手から餌を食べるんだ。空気は清涼だし、シドニーから帰ってくると、生き返った気分になるよ」
「ウーン、そうだろうな、しかし、ただのサラリーマンでこんな家に住めるなんて……、親父さんから遺産でもあったんだろう?」
「イヤ、俺の親父は移民で、一生、労働者として働き、何も残してくれなかった。俺だって高校しか出てない。ただ一生懸命働いてきたのさ。そして無駄なことにお金を使わなかっただけさ。俺の国じゃ、だれでも真面目に一生懸命働けば、このくらいの家は持てるさ。ハードワークの当然の報酬だろう」
「ウーン、なるほど……でもね、日本じゃいくら一生懸命働いたって、まずこんな家には住めないね。土地の値段が高いし、人口が多いし、一生かかってハト小屋みたいな小さな家が自分のものになれば、運のよいほうだよ」
「本当かシュン? じゃー、お前はここに永住しろよ」
「……」
リッキーはオーストラリアに住んで8年になる。中国系マレーシア人で、4年間ほど観光ビザで不法滞在していたが、恩赦があったとき滞在ビザを取得し、この国の市民権を得ている。
このリッキーがシドニーの街に家を建て始めた。200坪(660平方メートル)ほどの狭い土地だが、土地代だけで1000万円はするだろう。
「リッキー、よくやるね!」
それ以上、私には言う言葉が出てこない。32歳で家を持つ。それも裸一貫でマレーシアから来て8年目だ。オーストラリアでは、ハードワークの報酬が約束されているようである。
牧場や別荘投資も
オーストラリアは広大な土地を持ち、豊かな資源に恵まれているラッキーカントリーである。一方、日本はそれと全く正反対の環境にある。
確かにそこには越えられない壁がある。日本人がいくら頑張ったって、このような広大な土地は日本にはないのである。
しかし、過去40年間、日本は敗戦による国土の崩壊という逆境を逆手にとって大成功し、経済大国となった。今後の問題は狭い士地の中で、どうやってより質の高い生活水準を実現するか、また国民のハー-ドワークに対して、欧米水準並みの報酬をどう与えていくかであろう。
問題の解決策はもちろん国内にあり、海外にはないことを、十分に弁えておく必要がある。
それを前提にして、南半球の国ぐに、例えばオーストラリアに個人が投資をするのはどうだろうか。そうすれば、我々日本人もまたこのラッキーカントリーから、豊かな恩恵を受けることができそうである。
投資対象としては、土地、建物などの不動産や、株式投資などが考えられる。すでに多くの日本人がハワイやアメリカ本土に別荘などを持っているようだが、これから先、オーストラリアに別荘や牧場などを持つのも悪くないアイデアではないだろうか。時差は一時間しかないし、日本の冬はこちらの夏であり、補完関係にある。
もちろん、個人投資をする先の国、つまりオーストラリアから金面的に歓迎されることが、大前提である。
歓迎されるためには、この国の文化を理解し、歴史を知り、先に住んでいる人々のプラスになるよう、立ち振る舞わなければならないのは、言うまでもない。
日本でフリーライターになって生活費に困り、この家を売ってしまったが、利益はまったくなしだった。いつか再び、ラッキーカントリーの恩恵をこうむるために、投資をしたいと考えている。
600万円の豪邸
隣の士地に赤レンガのしゃれた家が建った。500坪(1650平方メートル)の士地に、かなり大きな家である。どんな人が住むのかと思ったら、22歳の電気技師と、銀行に勤める20歳の女の子だった。
「ピーター、若いのに偉いね-、お金持ちなんだねー」
「いやー、銀行や親から借金して建てたのさ、これからが大変だよ」
「ー生かかって返済するの?」
「エー、冗談じゃないよ、5、6年で返済するつもりだよ」
「でも……、この広い土地とこの家じゃ、10万ドルはかかったでしょ?」
「いやー、士地が1万5000ドルに家が4万5000ドルだから、全部で6万ドル(600万円)だよ」
「エー、日本でこんな家を建てたら、家だけで20万ドル(2000万円)はするよ……」
ピーターの案内で家の中を見せてもらった。
広い客間には大きな暖炉があり、踏むと沈む厚いジュータンが一面に敷かれている。天井から床までガラス張りの客間の窓からは、広い前庭が見える。主寝室にはウォーキングイン・クロゼツトと専用のバスルームが付いている。
寝室は全部で4部屋。それに広い台所と食堂、そして家族用の居間。居間の外には赤レンガのベランダが配置され、バーベキュー用コンロが置かれている。
暖炉の前のソファーに腰掛け、芝生の庭を眺めていると、「そういえば、俺は40歳を超したのに、まだ自分の家を持つなんて夢のような話だな…」と、思わず溜め息が出てしまった。
筆者の住んでいるブルーマウンテンズ市は、シドニー市から車で2時間、日本でいえば箱根のような、風光明媚な観光地である。
この辺りの土地、家屋の値段はシドニー市周辺に比べたら当然安い。市役所で調べたら、筆者の住んでいる300坪(990平方メートル)の土地の評価額は5000ドル(50万円)だった。
隣の家に比べると筆者の家は、3寝室に居間、食堂があるだけで狭い。家賃は1力月550ドル(5万5000円)である。
ハードワークの報酬
先日、あるテニスクラブ主催のダンスパーティに出かけ、若夫婦と親しくなった。夜中の二時頃、「俺の家に来て最後の一杯やろうじゃないか……」と誘われて、ノコノコ後についていった。
大きな家だった。プールが前庭にあり、その先は谷間の牧場。この辺りはシドニー市から一時間くらいのところで、住民の多くはシドニーまで毎日通勤している。
「俺もこの家や牧場が最高に気に入っているんだ。土地は5エーカーしかないけどね。でも、土、日にやる仕事がたくさんあるし、子供の教育上にもいい場所だろう? 夜になると、小さなカンガルーや大きな鳥が来て、俺の手から餌を食べるんだ。空気は清涼だし、シドニーから帰ってくると、生き返った気分になるよ」
「ウーン、そうだろうな、しかし、ただのサラリーマンでこんな家に住めるなんて……、親父さんから遺産でもあったんだろう?」
「イヤ、俺の親父は移民で、一生、労働者として働き、何も残してくれなかった。俺だって高校しか出てない。ただ一生懸命働いてきたのさ。そして無駄なことにお金を使わなかっただけさ。俺の国じゃ、だれでも真面目に一生懸命働けば、このくらいの家は持てるさ。ハードワークの当然の報酬だろう」
「ウーン、なるほど……でもね、日本じゃいくら一生懸命働いたって、まずこんな家には住めないね。土地の値段が高いし、人口が多いし、一生かかってハト小屋みたいな小さな家が自分のものになれば、運のよいほうだよ」
「本当かシュン? じゃー、お前はここに永住しろよ」
「……」
リッキーはオーストラリアに住んで8年になる。中国系マレーシア人で、4年間ほど観光ビザで不法滞在していたが、恩赦があったとき滞在ビザを取得し、この国の市民権を得ている。
このリッキーがシドニーの街に家を建て始めた。200坪(660平方メートル)ほどの狭い土地だが、土地代だけで1000万円はするだろう。
「リッキー、よくやるね!」
それ以上、私には言う言葉が出てこない。32歳で家を持つ。それも裸一貫でマレーシアから来て8年目だ。オーストラリアでは、ハードワークの報酬が約束されているようである。
牧場や別荘投資も
オーストラリアは広大な土地を持ち、豊かな資源に恵まれているラッキーカントリーである。一方、日本はそれと全く正反対の環境にある。
確かにそこには越えられない壁がある。日本人がいくら頑張ったって、このような広大な土地は日本にはないのである。
しかし、過去40年間、日本は敗戦による国土の崩壊という逆境を逆手にとって大成功し、経済大国となった。今後の問題は狭い士地の中で、どうやってより質の高い生活水準を実現するか、また国民のハー-ドワークに対して、欧米水準並みの報酬をどう与えていくかであろう。
問題の解決策はもちろん国内にあり、海外にはないことを、十分に弁えておく必要がある。
それを前提にして、南半球の国ぐに、例えばオーストラリアに個人が投資をするのはどうだろうか。そうすれば、我々日本人もまたこのラッキーカントリーから、豊かな恩恵を受けることができそうである。
投資対象としては、土地、建物などの不動産や、株式投資などが考えられる。すでに多くの日本人がハワイやアメリカ本土に別荘などを持っているようだが、これから先、オーストラリアに別荘や牧場などを持つのも悪くないアイデアではないだろうか。時差は一時間しかないし、日本の冬はこちらの夏であり、補完関係にある。
もちろん、個人投資をする先の国、つまりオーストラリアから金面的に歓迎されることが、大前提である。
歓迎されるためには、この国の文化を理解し、歴史を知り、先に住んでいる人々のプラスになるよう、立ち振る舞わなければならないのは、言うまでもない。
5.「国際人」はどこにいる
この文章を今読んでも、違和感が無い。今なら、オランダ人の男にどう対応するか? たぶん同じだろう。今なら、怒るよりも相手を軽蔑すると思う。それにしても。世界はどんどん狭くなっている一方、貧富の格差は広がっている。「偽の国際人」が世界を支配しているためだと思う。
機内での出来事
ヨーロッパからの帰りだった。
ローマからシドニー行きのシンガポール航空に乗った。この便はアムステルダム発で、私はローマから途中乗機したことになる。
ジャンボジェットの中ほどのノン・スモーキングゾーンの席に座り、"やれやれ〃と思って足元を見たら、前の座席の下、つまり、私が足を伸ばすところに、大きな茶色の皮靴が一揃い置いてあった。
前の席に座っている大柄な自人のものに違いなかった。
前の座席の下は、後ろの座席の人が足を伸ばすところであり、あるいは手荷物などを置く場所である。この赤ら顔の大男の白人が、こんな初歩的な機内ルールを知らないのが不思議だった。
「前の人が私の足を伸ばすところに皮靴を置いているので、どかすように注意していただけますか?」と、私は丁重に、中国人のやせて小柄なスチュワーデスに頼んだ。直接言うより角が立たなくて良いと考えたのだ。
「いえ、それは出来ません。前の人も皮靴を置くところがないので……」
前の座席の前は出入口のドアのあるところで、広いスペースがあった。
「スペースは十分あるじゃないですか。それにこの下は、私が使うベきところでしょう?」
「でも、私にはどうしようもありません」
そういって、若いスチュワーデスは逃げるようにして行ってしまった。
憤怒で頭が"カッカ"としてきた。
<この中国人の子は、白人を恐れているんだ。だから勝手な振舞いを許しているんだ><自人コンプレックスの持ち主なのだ><白人は世界の支配者じゃないし、もうシンガポールは植民地じゃないんだ、何でそんなに卑屈になるんだ?><これはアジア的謙遜の美徳ではなくて、負け大根性だ><これではますます馬鹿にされるだけだ>色々な想念が頭の中を駆け巡り、冷静になるまで時問がかかった。
間違った思い込み
「失礼ですが、この皮靴どかして下さい。私の足元にあって、ふんづけそうなので……」
私はやんわりと、しかし断固とした調子で言った。
横柄な顔をした自人は面倒くさそうに振り返り、躊躇している。
「貴方の皮靴をふんづけたくないので、どかして下さい!」
私は断固として、でも、笑顔で言った。
隣に座っていた中年の夫人が振り返り、私の目をのぞき込み、そして、隣の男に「そうね、そこに靴を置くのはまずいわね」と、言った。
男はシブシブ靴を取り上げて前に置いた。一言の詫びを言うでもなく、傲岸不遜な態度であった。
少したったら、奴の靴がまた私の足元に転がってきた。私は思いきりふんづけ、前の座席の方へそ知らぬ顔をして蹴飛ばした。それ以後は、皮靴の侵入はなかった。
オーストラリアに着いてから、友人の元カンタス航空のマネジャーに、この話をした。
「私だったら"この靴は誰のだ!"と怒鳴って、遠くの方に放り投げていたよ……その白人というのは○○○○人だろう? 奴らは傲岸で、国際的にも評判が悪いのさ。アジア人のことは、昔ながらの"召使い"ぐらいにしか思っていないんだよ。全くけしからん」と言ってプンプン怒っていた。
さて、読者の皆さんが同じ立場に置かれたら、どうしただろうか?
何人の日本人がこの温厚なカンタス航空の元マネジャーのように振る舞えるだろうか? スチュワーデスに断られて、諦めて我慢する人はいないだろうか?
外国人、特に白人に向かって苦情を言うのは、我々日本人の苦手とするところではないだろうか?
また苦情を言っても、うまく言えなかったり、強い表現になり過ぎたりしがちである。
難しさの原因の一つは言葉だが、さらに、外国人であれば誰でも、我々よりも国際経験がある、と思い込んでいるのではないだろうか? 特に海外を飛び歩いている欧米人を見ると、国際人に違いない……と、思い込んでいないだろうか?
しかしそれは大間違いである。あの○○○○人は、一九世紀型の植民地主義者ではあっても、決して国際人なんかではないのである。
国際人であるためには
「シュン、何で俺がお前と付き合うか知ってるか? お前が日本人だからじゃないぜ」
「まあ、それほど物好きじゃないだろうけど、一でも、何でかねー」
「お前と俺が同じ"人種。だからさ」
「エッー?」
「俺は白人さ、でも・・・例えば、ビル・ホワイトなんかとは付き合ってないだろう。俺にとっては皮膚の色より、その人の物の見方、考え方の方が大切なんだ、分かるだろう?」
「ウーン」
トリントは生粋のオーストラリア人で、ある大企業の人事部長をしている。
「俺は一〇年問ロータリー・クラブに入っているが、今まで誰もクラブに人を紹介したことがないんだ。シュンが初めてだよ」
「ホントー、後悔してなけりゃいいけど……」
「満足してるよ。でも、それなりに決心が要ったよ」
「そうだろうな、外国人それも日本人ときちゃな。よく反対がなかったなー」
「イヤ、あったよ。でも俺が説得したのさ。資格、人格が間題で、人種、国籍は関係ないからな」
トリントがこれまで海外に出たのはただの一回、ヨーロッパに一ヵ月ほど旅行しているだけである。国際経験が豊富とはいえないだろうが、彼は立派な国際人である。
国際人というのは、国際的に通用する人間のことであろう。
そのためのもっとも大切な条件は、トリントのように、人種、国籍をはなれて、人間を個人としてみることのできる能力だ。
日本から一歩も外へ出たことがない人でも、外国人と会ったとき、人種、国籍、皮膚の色に捕らわれず、一人の人間として”感じ“、接することが出来れば、その人はすでに立派な国際人なのだと思う。
このような立派な国際人は日本中にたくさんいるのではないだろうか。
機内での出来事
ヨーロッパからの帰りだった。
ローマからシドニー行きのシンガポール航空に乗った。この便はアムステルダム発で、私はローマから途中乗機したことになる。
ジャンボジェットの中ほどのノン・スモーキングゾーンの席に座り、"やれやれ〃と思って足元を見たら、前の座席の下、つまり、私が足を伸ばすところに、大きな茶色の皮靴が一揃い置いてあった。
前の席に座っている大柄な自人のものに違いなかった。
前の座席の下は、後ろの座席の人が足を伸ばすところであり、あるいは手荷物などを置く場所である。この赤ら顔の大男の白人が、こんな初歩的な機内ルールを知らないのが不思議だった。
「前の人が私の足を伸ばすところに皮靴を置いているので、どかすように注意していただけますか?」と、私は丁重に、中国人のやせて小柄なスチュワーデスに頼んだ。直接言うより角が立たなくて良いと考えたのだ。
「いえ、それは出来ません。前の人も皮靴を置くところがないので……」
前の座席の前は出入口のドアのあるところで、広いスペースがあった。
「スペースは十分あるじゃないですか。それにこの下は、私が使うベきところでしょう?」
「でも、私にはどうしようもありません」
そういって、若いスチュワーデスは逃げるようにして行ってしまった。
憤怒で頭が"カッカ"としてきた。
<この中国人の子は、白人を恐れているんだ。だから勝手な振舞いを許しているんだ><自人コンプレックスの持ち主なのだ><白人は世界の支配者じゃないし、もうシンガポールは植民地じゃないんだ、何でそんなに卑屈になるんだ?><これはアジア的謙遜の美徳ではなくて、負け大根性だ><これではますます馬鹿にされるだけだ>色々な想念が頭の中を駆け巡り、冷静になるまで時問がかかった。
間違った思い込み
「失礼ですが、この皮靴どかして下さい。私の足元にあって、ふんづけそうなので……」
私はやんわりと、しかし断固とした調子で言った。
横柄な顔をした自人は面倒くさそうに振り返り、躊躇している。
「貴方の皮靴をふんづけたくないので、どかして下さい!」
私は断固として、でも、笑顔で言った。
隣に座っていた中年の夫人が振り返り、私の目をのぞき込み、そして、隣の男に「そうね、そこに靴を置くのはまずいわね」と、言った。
男はシブシブ靴を取り上げて前に置いた。一言の詫びを言うでもなく、傲岸不遜な態度であった。
少したったら、奴の靴がまた私の足元に転がってきた。私は思いきりふんづけ、前の座席の方へそ知らぬ顔をして蹴飛ばした。それ以後は、皮靴の侵入はなかった。
オーストラリアに着いてから、友人の元カンタス航空のマネジャーに、この話をした。
「私だったら"この靴は誰のだ!"と怒鳴って、遠くの方に放り投げていたよ……その白人というのは○○○○人だろう? 奴らは傲岸で、国際的にも評判が悪いのさ。アジア人のことは、昔ながらの"召使い"ぐらいにしか思っていないんだよ。全くけしからん」と言ってプンプン怒っていた。
さて、読者の皆さんが同じ立場に置かれたら、どうしただろうか?
何人の日本人がこの温厚なカンタス航空の元マネジャーのように振る舞えるだろうか? スチュワーデスに断られて、諦めて我慢する人はいないだろうか?
外国人、特に白人に向かって苦情を言うのは、我々日本人の苦手とするところではないだろうか?
また苦情を言っても、うまく言えなかったり、強い表現になり過ぎたりしがちである。
難しさの原因の一つは言葉だが、さらに、外国人であれば誰でも、我々よりも国際経験がある、と思い込んでいるのではないだろうか? 特に海外を飛び歩いている欧米人を見ると、国際人に違いない……と、思い込んでいないだろうか?
しかしそれは大間違いである。あの○○○○人は、一九世紀型の植民地主義者ではあっても、決して国際人なんかではないのである。
国際人であるためには
「シュン、何で俺がお前と付き合うか知ってるか? お前が日本人だからじゃないぜ」
「まあ、それほど物好きじゃないだろうけど、一でも、何でかねー」
「お前と俺が同じ"人種。だからさ」
「エッー?」
「俺は白人さ、でも・・・例えば、ビル・ホワイトなんかとは付き合ってないだろう。俺にとっては皮膚の色より、その人の物の見方、考え方の方が大切なんだ、分かるだろう?」
「ウーン」
トリントは生粋のオーストラリア人で、ある大企業の人事部長をしている。
「俺は一〇年問ロータリー・クラブに入っているが、今まで誰もクラブに人を紹介したことがないんだ。シュンが初めてだよ」
「ホントー、後悔してなけりゃいいけど……」
「満足してるよ。でも、それなりに決心が要ったよ」
「そうだろうな、外国人それも日本人ときちゃな。よく反対がなかったなー」
「イヤ、あったよ。でも俺が説得したのさ。資格、人格が間題で、人種、国籍は関係ないからな」
トリントがこれまで海外に出たのはただの一回、ヨーロッパに一ヵ月ほど旅行しているだけである。国際経験が豊富とはいえないだろうが、彼は立派な国際人である。
国際人というのは、国際的に通用する人間のことであろう。
そのためのもっとも大切な条件は、トリントのように、人種、国籍をはなれて、人間を個人としてみることのできる能力だ。
日本から一歩も外へ出たことがない人でも、外国人と会ったとき、人種、国籍、皮膚の色に捕らわれず、一人の人間として”感じ“、接することが出来れば、その人はすでに立派な国際人なのだと思う。
このような立派な国際人は日本中にたくさんいるのではないだろうか。
6.紙芝居旅行」からの脱却
日本に帰って、私もすっかり日本人に戻ったらしく、長い休暇を取ったことが無い。いや、これは私が貧しいだけで、豊かになった日本人も多く、彼らは悠々と長い休暇を取っているのだろう。
オーストラリアは世界一の金持ち国だったことがある。それが今や目立たない存在になった。だが生活水準は今も高い。デフレが続く日本も、経済小国になるにちがいない・・・が、豪州のような高い生活水準を保てるのだろうか?
「真の休暇」を味わう
「この島に三日いたら、すっかりリラックスしたよ。最高の休暇だね」
シドニーで法廷弁護士をしているマーク氏は、家族ともどもあと四日ほどヘロン島に滞在するという。
ヘロン島は、グレート・バリアリーフ国立公園内の亀が産卵に来る、サンゴ礁でできた緑の島である。
小さな島で、大人の足で歩いて三〇分もあれば、島を一周できてしまう。離れ小島なので、子供も迷い子にはならない。
実は私も、このヘロン島に家族で八日間滞在した。この島での八日間は、実に奇妙な経験であった。
なにしろ「何かをやらねばならぬ」という義務、責務から、ほとんど全く解放されてしまったのである。
七歳になる男の子は、朝から友達と飛び回っており、どこにいるかも分からない。したがって、面倒を見なくても済む。三食はホテル側で作るから、決められた時間に行くだけでよい。
スキューバダイビング、シュノーケリング、魚釣り、テニス、ガラス底舟による海底の見物、プール、ビリヤード、そして近くの無人島へ出かけてのシュノーケリングと、やれることはたくさんあるのだが、別に何もしなくともよいのだ。
最初の三日間は、それでも一生懸命スケジュールを立て、精力的に過ごした。だが、三日目を過ぎたら、一通りのことはしてしまい、これといってやることがなくなった。
何をやっていてもよいのである。そうなると不思議と自分のリズムにあった生活ができてくる。そして、マーク氏と同様に、私も、全くリラックスしている白分を発見した。
私が好んでしたことは、ホテルの部屋の真ん前の白浜に出て寝そべることと、エメラルド・グリーンの海水の中に膝ぐらいまで入り、一〇~四〇センチぐらいの大きさの、七色の熱帯魚たちに、パンをちぎって与えることであった。
子連れで海に魚釣りに行ったら、六〇センチもあるスイート・リブという赤い魚が、三匹も釣れた。その夜は、子供を通じて親しくなったグレアム一家を我々のテーブルに呼んでの、魚をつっ突く大宴会となった。
この島で生活している間、仕事のことは、きれいさっぱり忘れてしまっていた。わずらわしい人間関係のことも。そして、一人の人間としての、原点に戻ったという実感があった。
島を離れて家に戻ったのは土曜日。翌日は一日中、精力的に庭仕事をした。なぜか、奇妙に精が出るのである。
そして、「なるほど、これが真の休暇というものか……」と、生まれて初めて悟った次第である。
忙しい日本人観光客
「我が家で一泊ぐらいできるんでしょう?」
「いやー、それがねー、シドニーには二泊しかできなくて」
「えらく忙しい旅ですね-」
「なにしろ休暇が一週間しか取れなくてね。それでニュージーランドと、オーストラリアを見ようというんだから…・」
姉夫婦が、日本からやって来たが、私どもの住む景勝の地、ブルーマウンテンズには泊まれないという。
「じゃー、ともかく一日だけでもご案内しますから……」
朝九時にシドニーのホテルで会い、シドニー市郊外のコアラを抱ける自然公園に連れて行き、そして、我が家で昼食を取ってもらった。
自然公園にいたのは三〇分ぐらいだったが、その間に、日本人観光客の顔ぶれが二回は変わった。つまり日本人観光客の団体は、コアラを抱き、写真を撮ると、すぐ次の観光地に行ってしまうのである。
この公園には、オーストラリアの珍しい動物がたくさんおり、見て回るのに、最低一時間はかかるはずなのだが・・・。
結局、姉夫婦は一時間だけ我が家にいて、すぐシドニーに帰ることとなった。帰る途中、ブルーマウンテンズの毎勝地スリーシスターズに案内した。
ここで会った日本人観光客も、あっ、という間に写真を撮ると、あっ、という間に、次の地に出発して行った。
わたしは、このような場面が次から次へと変わるような旅行を「紙芝居旅行」と呼んでいる。何か、昔あった紙芝居と似ていないだろうか? 紙芝居型の旅行は観光であれ、人に会う旅であれ、面白いが、疲れる、というのが私の実感である。
豊かにしない政策?
「日本の国と大企業は、世界一の大金持ちになったけど、その富を国民に与えないで、また海外に再投資しているね。それが世界経済に大混乱をもたらしている、と思わないかね、シュン」
「ウーン」
「休暇も実質的には一週間ぐらいしか与えてないんだろう? まあ、日本の会社や国が、国民にお金や休暇を渡さない気持ちも分からないこともないがな…。一を与えたら、一〇を取ろうとするのが人間だし…。お金持ちになったら、日本人も、オーストラリア人のように怠け者になるしな……」
ビル・ヒューム氏は、私の住んでいる町で三代にわたり金物屋をしている土地の名士である。彼の日本観察には、厳しいものがある。
彼に言わせると、日本の国と企業は、政策的に、意識的に国民を金持ちにしないのだ、という。国民を貧乏にしておけば、国民は生活のために、いつまでも一生懸命働く。だから怠け者にはならない、という理屈だ。
そして有り余ったお金で、日本の企業が海外の企業や不動産を買い占めるので、「そのうち日本は世界中の国ぐにから袋叩きに遭うよ…」と言うのである。
「おっしゃる通りかもしれないな、ビル。日本は基本的には貧乏な国だし、国民が怠け者になったら、いっぺんで滅びちゃうんだよ。でも、そろそろ危険を冒して、国民に余裕のある生活をさせる時がきたのかな?」
日本人の旅行の仕方も、相変わらず紙芝居型の忙しい旅行が主流とはいえ、「休暇」を目的として旅行する人々も、着実に増えているようだ。
私は紙芝居型旅行のよさや必要性を、否定はしない。しかし、日本の忙しいビジネス・パーソンに今必要なのは、人間としての原点に戻れるような「真の休暇」ではないだろうか?
私のヘロン島の休暇では、「真の休暇」は、仕事にやる気を起こさせるものであって、その逆ではなかった。
オーストラリアは世界一の金持ち国だったことがある。それが今や目立たない存在になった。だが生活水準は今も高い。デフレが続く日本も、経済小国になるにちがいない・・・が、豪州のような高い生活水準を保てるのだろうか?
「真の休暇」を味わう
「この島に三日いたら、すっかりリラックスしたよ。最高の休暇だね」
シドニーで法廷弁護士をしているマーク氏は、家族ともどもあと四日ほどヘロン島に滞在するという。
ヘロン島は、グレート・バリアリーフ国立公園内の亀が産卵に来る、サンゴ礁でできた緑の島である。
小さな島で、大人の足で歩いて三〇分もあれば、島を一周できてしまう。離れ小島なので、子供も迷い子にはならない。
実は私も、このヘロン島に家族で八日間滞在した。この島での八日間は、実に奇妙な経験であった。
なにしろ「何かをやらねばならぬ」という義務、責務から、ほとんど全く解放されてしまったのである。
七歳になる男の子は、朝から友達と飛び回っており、どこにいるかも分からない。したがって、面倒を見なくても済む。三食はホテル側で作るから、決められた時間に行くだけでよい。
スキューバダイビング、シュノーケリング、魚釣り、テニス、ガラス底舟による海底の見物、プール、ビリヤード、そして近くの無人島へ出かけてのシュノーケリングと、やれることはたくさんあるのだが、別に何もしなくともよいのだ。
最初の三日間は、それでも一生懸命スケジュールを立て、精力的に過ごした。だが、三日目を過ぎたら、一通りのことはしてしまい、これといってやることがなくなった。
何をやっていてもよいのである。そうなると不思議と自分のリズムにあった生活ができてくる。そして、マーク氏と同様に、私も、全くリラックスしている白分を発見した。
私が好んでしたことは、ホテルの部屋の真ん前の白浜に出て寝そべることと、エメラルド・グリーンの海水の中に膝ぐらいまで入り、一〇~四〇センチぐらいの大きさの、七色の熱帯魚たちに、パンをちぎって与えることであった。
子連れで海に魚釣りに行ったら、六〇センチもあるスイート・リブという赤い魚が、三匹も釣れた。その夜は、子供を通じて親しくなったグレアム一家を我々のテーブルに呼んでの、魚をつっ突く大宴会となった。
この島で生活している間、仕事のことは、きれいさっぱり忘れてしまっていた。わずらわしい人間関係のことも。そして、一人の人間としての、原点に戻ったという実感があった。
島を離れて家に戻ったのは土曜日。翌日は一日中、精力的に庭仕事をした。なぜか、奇妙に精が出るのである。
そして、「なるほど、これが真の休暇というものか……」と、生まれて初めて悟った次第である。
忙しい日本人観光客
「我が家で一泊ぐらいできるんでしょう?」
「いやー、それがねー、シドニーには二泊しかできなくて」
「えらく忙しい旅ですね-」
「なにしろ休暇が一週間しか取れなくてね。それでニュージーランドと、オーストラリアを見ようというんだから…・」
姉夫婦が、日本からやって来たが、私どもの住む景勝の地、ブルーマウンテンズには泊まれないという。
「じゃー、ともかく一日だけでもご案内しますから……」
朝九時にシドニーのホテルで会い、シドニー市郊外のコアラを抱ける自然公園に連れて行き、そして、我が家で昼食を取ってもらった。
自然公園にいたのは三〇分ぐらいだったが、その間に、日本人観光客の顔ぶれが二回は変わった。つまり日本人観光客の団体は、コアラを抱き、写真を撮ると、すぐ次の観光地に行ってしまうのである。
この公園には、オーストラリアの珍しい動物がたくさんおり、見て回るのに、最低一時間はかかるはずなのだが・・・。
結局、姉夫婦は一時間だけ我が家にいて、すぐシドニーに帰ることとなった。帰る途中、ブルーマウンテンズの毎勝地スリーシスターズに案内した。
ここで会った日本人観光客も、あっ、という間に写真を撮ると、あっ、という間に、次の地に出発して行った。
わたしは、このような場面が次から次へと変わるような旅行を「紙芝居旅行」と呼んでいる。何か、昔あった紙芝居と似ていないだろうか? 紙芝居型の旅行は観光であれ、人に会う旅であれ、面白いが、疲れる、というのが私の実感である。
豊かにしない政策?
「日本の国と大企業は、世界一の大金持ちになったけど、その富を国民に与えないで、また海外に再投資しているね。それが世界経済に大混乱をもたらしている、と思わないかね、シュン」
「ウーン」
「休暇も実質的には一週間ぐらいしか与えてないんだろう? まあ、日本の会社や国が、国民にお金や休暇を渡さない気持ちも分からないこともないがな…。一を与えたら、一〇を取ろうとするのが人間だし…。お金持ちになったら、日本人も、オーストラリア人のように怠け者になるしな……」
ビル・ヒューム氏は、私の住んでいる町で三代にわたり金物屋をしている土地の名士である。彼の日本観察には、厳しいものがある。
彼に言わせると、日本の国と企業は、政策的に、意識的に国民を金持ちにしないのだ、という。国民を貧乏にしておけば、国民は生活のために、いつまでも一生懸命働く。だから怠け者にはならない、という理屈だ。
そして有り余ったお金で、日本の企業が海外の企業や不動産を買い占めるので、「そのうち日本は世界中の国ぐにから袋叩きに遭うよ…」と言うのである。
「おっしゃる通りかもしれないな、ビル。日本は基本的には貧乏な国だし、国民が怠け者になったら、いっぺんで滅びちゃうんだよ。でも、そろそろ危険を冒して、国民に余裕のある生活をさせる時がきたのかな?」
日本人の旅行の仕方も、相変わらず紙芝居型の忙しい旅行が主流とはいえ、「休暇」を目的として旅行する人々も、着実に増えているようだ。
私は紙芝居型旅行のよさや必要性を、否定はしない。しかし、日本の忙しいビジネス・パーソンに今必要なのは、人間としての原点に戻れるような「真の休暇」ではないだろうか?
私のヘロン島の休暇では、「真の休暇」は、仕事にやる気を起こさせるものであって、その逆ではなかった。
7.日本はアジアだ
日本人は明らかにアジア人。だが、「脱亜入欧」の思想のためか、全世界という観念を知って以来、「日本人はアジア人である」という認識は、極力、避けられてきた。最近はベトナムやタイ、韓国や中国を好む日本人の若者が激増しており、アジアにたいする認識と興味が変わってきている。
それでも一般大衆の関心は、いまだに欧米中心。
いまや、EUのようなアジア共同体を創るときが、やってきたのではないだろうか。「脱欧入亜」こそ、今後の日本の道ではないだろうか。
朝の風景
朝八時、地下鉄から地上に出たサラリーマンの大軍は、まぶしい朝日に照らされ、足早にオフィス街に向かっている。
黒い髪に浅黒い肌、小柄でやせた体躯の持ち主が多いことから、ここは間違いなくアジアの一都会であることが分かる。
広い自動車道路の雨側は、活気のある商店街である。小さな食堂はもう開いており、店の中は人で溢れ、一部の人々は路上でヌードルをすすっている。他の商店も所せましと品物を並べ、品物棚を路上にまで出している。
「ここは一体どこの国だったかなー?」。私は一瞬戸惑った。
香港のようでもあるし、台北のようでもある。あるいはシンガポールだろうか。もちろん、バンコックでも不思議ではない。
私は努力して人々の話している言葉を聞き取ろうとした。
それは……、日本語だった。
やがて私は、今、自分が、東京の築地を歩いていることに気がついた。
〈日本ってこんな所だったっけ〉〈台北やシンガポールと変わらないなあ〉〈中国語が聞こえてきたら、ここは香港と間違えちゃうなー〉
私は、突然、目から鱗が落ちたような気分であった。自分の姿が、アジア人として、きわめて鮮明に見えてきたからだ。
〈そうだ、私はアジア人だったのだ。貧困と無秩序、混沌とした非合理な世界からきた東洋人だったのだ。いくら合理的な欧米社会になじみ、秩序ある生活をしていても、自分の素地はやはり変わらない。私は、タイやベトナムの人々と同じようにアジア人だし、混沌とした精神構造をやはり持っているのだ。
そして、そういうアジア人としての自分をはっきり自覚しておくことは、日本人として、大切なことに違いない・・・〉
他国の人がどう見るか
さて、アジア(ないしアジア人)と言っても、その定義は色々である。筆者の感覚で言っている、この稿でのアジアとは、歴史的に中国文明の影響を強く受けてきた地域を意味している。つまり独特な文明を持つインドやイランなどは含んでいない。
そうなると、日本人はもちろんアジア人である。我々は黄色人種であり、もともと、韓国や、中国、台湾、フィリピンなどから移住してきた、多くの人種の混血民族らしい。
日本人がアジア人であることを否定する人はまずいないとして、しかし、自分たちがタイ人や、ベトナム人、フィリピン人とあまり変わらない、という自覚を持っている日本人は、いったいどれほどいるのだろうか。
日本人は、自分たちのことを、アジアに住む「脱アジア人」で、「選良民族」と認識し、〈近代化の遅れた並のアジア民族と一緒にしてもらったら困る〉と、どこかで思っていないだろうか。
思っていても何ら不思議ではないと思う。世界中のどの民族も、自分たちが一番優れていると、思い込んでいるからである。
筆者自身、心のどこかに「日本人は特別に優れた人種」的な認識があったと思うし、それがまた、標準的日本人の本音であろう。
さて、我々日本人が自分たちのことをどのように高く評価しようと、他国に迷惑をかけないかざり、ある程度勝手なのかも知れない。しかし、他国の人々が日本人のことをどう見ているかを、しっかりと認識しておくことも大切なのではないだろうか。
その点から言うと、欧米人から見た日本人は、アジア人そのもので、ベトナム人やインドネシア人や中国人、韓国人と、まったく区別のつかない人々だ、ということになる。
アジア人から見た日本人は、運のいい、個人的には礼儀正しく利口な人々が多いが、集団になると野蛮な人たち、といったところに落ち着くだろう。
アジア人としての自覚
「日本はやはり、アジアだったよ!」
「…・」
「今まで何度も日本に帰っているけど、こんなに強烈にアジアの国だと感じたの、初めてだなあ」
「フーン」
「なんでかなー」
「こんな田舎の、イギリス系の村に長く住んでいるせいだろう…。でも、正直言って、日本には、一回行ったけど、典型的なアジアの国じゃない? 人は多いし、無秩序に見えるし・…。今までシュンは日本をどう思っていたの。ヨーロッパの国、とでも思っていたわけ?」
このオーストラリア人の友人は、けげんそうな顔をした。ほかの人たちに話しても、みんな「しごく当たり前だよ」といった顔をするか、あるいは少々同情したような顔をする。彼らの持っているアジアのイメージというと、人口稠密、混沌とした無秩序、貧困、野蛮といったところだからだろうか。
日本は経済先進国であり、アメリカ文化の極端な流入のせいか、欧米諸国に出かけても、それほど生活上の違和感を感じない。むしろ、常夏の東南アジア諸国に行ったほうが、異国情緒を感じる時がある。しかし、それでもやはり、日本はアジアの国だし、本質的にアジア諸国に社会構造、精神構造が近いのである。
「日本人って優秀なんですね。だって英語に比べたら、日本語の方が難しいのに、日本人はみんな喋って、使っているんだもん」
この可愛い認識は日本からオーストラリアに交換学生として来ている、ある女子高校生のものである。彼女を見ていると、昔から言い古された、「自人崇拝とアジア人蔑視」という、日本人の性向を示す図式は、簡単には当てはまらなくなってきたようだ。一七歳の彼女は〈白人なんて相手にしてない〉と言った感じである。
これが日本人の将来の姿なのだろうか。どうも違うようである。
このような認識に立ち、アジアの一員と自覚すると、一体何が変わってくるのだろうか。
過去一〇〇年間、日本人は欧米文明に一生懸命適応しようとしてきたが、いつもどこかで違和感を感じてきたと思う。じつは、その違和感は、タイ人や中国人などすべてのアジア人が共通して持っているものなのである。この違和感は、意外と大切なものに違いないと思う。
それでも一般大衆の関心は、いまだに欧米中心。
いまや、EUのようなアジア共同体を創るときが、やってきたのではないだろうか。「脱欧入亜」こそ、今後の日本の道ではないだろうか。
朝の風景
朝八時、地下鉄から地上に出たサラリーマンの大軍は、まぶしい朝日に照らされ、足早にオフィス街に向かっている。
黒い髪に浅黒い肌、小柄でやせた体躯の持ち主が多いことから、ここは間違いなくアジアの一都会であることが分かる。
広い自動車道路の雨側は、活気のある商店街である。小さな食堂はもう開いており、店の中は人で溢れ、一部の人々は路上でヌードルをすすっている。他の商店も所せましと品物を並べ、品物棚を路上にまで出している。
「ここは一体どこの国だったかなー?」。私は一瞬戸惑った。
香港のようでもあるし、台北のようでもある。あるいはシンガポールだろうか。もちろん、バンコックでも不思議ではない。
私は努力して人々の話している言葉を聞き取ろうとした。
それは……、日本語だった。
やがて私は、今、自分が、東京の築地を歩いていることに気がついた。
〈日本ってこんな所だったっけ〉〈台北やシンガポールと変わらないなあ〉〈中国語が聞こえてきたら、ここは香港と間違えちゃうなー〉
私は、突然、目から鱗が落ちたような気分であった。自分の姿が、アジア人として、きわめて鮮明に見えてきたからだ。
〈そうだ、私はアジア人だったのだ。貧困と無秩序、混沌とした非合理な世界からきた東洋人だったのだ。いくら合理的な欧米社会になじみ、秩序ある生活をしていても、自分の素地はやはり変わらない。私は、タイやベトナムの人々と同じようにアジア人だし、混沌とした精神構造をやはり持っているのだ。
そして、そういうアジア人としての自分をはっきり自覚しておくことは、日本人として、大切なことに違いない・・・〉
他国の人がどう見るか
さて、アジア(ないしアジア人)と言っても、その定義は色々である。筆者の感覚で言っている、この稿でのアジアとは、歴史的に中国文明の影響を強く受けてきた地域を意味している。つまり独特な文明を持つインドやイランなどは含んでいない。
そうなると、日本人はもちろんアジア人である。我々は黄色人種であり、もともと、韓国や、中国、台湾、フィリピンなどから移住してきた、多くの人種の混血民族らしい。
日本人がアジア人であることを否定する人はまずいないとして、しかし、自分たちがタイ人や、ベトナム人、フィリピン人とあまり変わらない、という自覚を持っている日本人は、いったいどれほどいるのだろうか。
日本人は、自分たちのことを、アジアに住む「脱アジア人」で、「選良民族」と認識し、〈近代化の遅れた並のアジア民族と一緒にしてもらったら困る〉と、どこかで思っていないだろうか。
思っていても何ら不思議ではないと思う。世界中のどの民族も、自分たちが一番優れていると、思い込んでいるからである。
筆者自身、心のどこかに「日本人は特別に優れた人種」的な認識があったと思うし、それがまた、標準的日本人の本音であろう。
さて、我々日本人が自分たちのことをどのように高く評価しようと、他国に迷惑をかけないかざり、ある程度勝手なのかも知れない。しかし、他国の人々が日本人のことをどう見ているかを、しっかりと認識しておくことも大切なのではないだろうか。
その点から言うと、欧米人から見た日本人は、アジア人そのもので、ベトナム人やインドネシア人や中国人、韓国人と、まったく区別のつかない人々だ、ということになる。
アジア人から見た日本人は、運のいい、個人的には礼儀正しく利口な人々が多いが、集団になると野蛮な人たち、といったところに落ち着くだろう。
アジア人としての自覚
「日本はやはり、アジアだったよ!」
「…・」
「今まで何度も日本に帰っているけど、こんなに強烈にアジアの国だと感じたの、初めてだなあ」
「フーン」
「なんでかなー」
「こんな田舎の、イギリス系の村に長く住んでいるせいだろう…。でも、正直言って、日本には、一回行ったけど、典型的なアジアの国じゃない? 人は多いし、無秩序に見えるし・…。今までシュンは日本をどう思っていたの。ヨーロッパの国、とでも思っていたわけ?」
このオーストラリア人の友人は、けげんそうな顔をした。ほかの人たちに話しても、みんな「しごく当たり前だよ」といった顔をするか、あるいは少々同情したような顔をする。彼らの持っているアジアのイメージというと、人口稠密、混沌とした無秩序、貧困、野蛮といったところだからだろうか。
日本は経済先進国であり、アメリカ文化の極端な流入のせいか、欧米諸国に出かけても、それほど生活上の違和感を感じない。むしろ、常夏の東南アジア諸国に行ったほうが、異国情緒を感じる時がある。しかし、それでもやはり、日本はアジアの国だし、本質的にアジア諸国に社会構造、精神構造が近いのである。
「日本人って優秀なんですね。だって英語に比べたら、日本語の方が難しいのに、日本人はみんな喋って、使っているんだもん」
この可愛い認識は日本からオーストラリアに交換学生として来ている、ある女子高校生のものである。彼女を見ていると、昔から言い古された、「自人崇拝とアジア人蔑視」という、日本人の性向を示す図式は、簡単には当てはまらなくなってきたようだ。一七歳の彼女は〈白人なんて相手にしてない〉と言った感じである。
これが日本人の将来の姿なのだろうか。どうも違うようである。
このような認識に立ち、アジアの一員と自覚すると、一体何が変わってくるのだろうか。
過去一〇〇年間、日本人は欧米文明に一生懸命適応しようとしてきたが、いつもどこかで違和感を感じてきたと思う。じつは、その違和感は、タイ人や中国人などすべてのアジア人が共通して持っているものなのである。この違和感は、意外と大切なものに違いないと思う。
8.キスと握手
欧米人とのつき合いが長い私は、ごく自然にキスと抱擁ができるようになった。でも、もちろん相手は欧米文化圏にすんでいる人だけに限っている。時々、日本の若い女性にもキスや抱擁をしたくなるが、自制している。日本では、即、セクハラと思われてしまうだろう。内緒の話、何度か試してみたが、やっぱり日本では不自然な感じがしてしまう。でも、感情を相手に知らせるには、キスや抱擁の方が、お辞儀よりも優れた方法であることは、今も昔も変わらない。
突然!の戸惑い
「グッドナイト、シュン……」
突然、柔らかくて甘い唇が、わたしの唇の上に被さってきた。ほっぺたへのキスを予想していたわたしは、完全に意表を衡かれてうろたえた。甘く、柔らかいキスは、一瞬わたしの体をしびれさせた。キスの相手は七歳になる男の子だった。
「サンキュー、シュン…-・」
ブロンワンとバネッサの一四歳と一六歳のスリムで美人の姉妹は、お礼の贈り物を渡してくれた。一年間テニス・チームのキャプテンとして、二人の面倒を見てきたのである。
「サンキュー、……」
二人は何かを待っている。
もちろん、キスである。でもわたしには何となく顔を近づけることができなかった。
さて、四〇歳を超えた日本男児にとっては、社交的なキスと抱擁は、タイミングが難しい。女性からキスや抱擁をされる場合はまだ楽だが、こちらから積極的にするのは、はなはだ難しい。
これは他人ごとではないと思うが、いかがだろうか? 読者だって、いつ、わたしのような立場に置かれるか分からないし、あるいはもうすでに色々と経験されているかもしれない。少なくとも、その程度の国際化の波は、読者のすぐ傍らまで押し寄せて来ているはずである。
実を言うと、自然なキスと抱擁ができるようになることは、筆者のオーストラリア滞在のテーマの一つでもあった。
努力を重ねているうちに、早五年の歳月が流れてしまったが、いまだにぎこちない、不自然なキスをしたり、仕損なっているわけである。
重要なタイミング
「キースはどんな時に、どういう人にキスをするの?」
カンタス航空の元マネジャーであるキースとは、何でも聞ける間柄になっている。
「そりゃー、愛情を感じる親しい女性にだけさ。だけど、妹なんかにはキスしないな」
「エッ、この間、妹さんがキースの頼にキスしてたじゃない……」と、奥様。
「エー、そうだったっけかなー、無意識でやってるから、記憶に残ってないよ。大体キスとか抱擁なんてのは、いちいち考えてやるもんじゃないよ。以心伝心で、無意識にしなきゃ、-…」
「それが難しいんだな…」
こちらに住む人々は、キスも抱擁も見事に、無意識にしている。日本人が無意識にお辞儀をするのと、一緒である。
お辞儀ならば、いつも同じで、ただお辞儀していればいい。が、キスや抱擁となるとそうはいかない。欧米諸国でも、キスや抱擁には、性的意味合いが含まれているからである。だから、キスをしようとしたら逃げられて、大恥をかくことも、十分ありうるのだ。
よくよく観察してみたら、どうやらキスや抱擁をするタイミングには次の五種類があるようである。
1.歓迎の意を表すとき。
たとえば、家に食事に呼んで、玄関で出迎えたときなど。
2.お別れをするとき。
「さようなら」、あるいは、「お休みなさい」を、言うとき。
3.「有難う」と、お礼を言うとき。
4.悲しんでいる友人を慰めるとき。
5.特別に愛情を感じたとき。
さらに、頬にキスをするのは、社交上、軽い気持ちでできるが、抱擁も一緒にするとなると、これはさらに深い関係を意味している。
唇にキスをするのは、もちろん、特別に深い愛情があることを示す。
そして、キスをするには、キースが言っているように、相手に対する好意と、愛情の存在が前提となっている。つまり、通常、赤の他人にはしない、ということである。
この説明で、社交上のキスや抱擁の基本を、理解して頂けただろうか? 大切なのは以心伝心であり、アンテナを張って、相手のシグナルを見逃さないことのようだ。
握手を拒むことも
さて、もう一つ、社交上欠かせないのが、「握手」である。握手にもいろいろな意味が含まれていることをご在じだろうか?
「そろそろ和解しようぜ、もうお互いに言いたいことは言ったし・…・」
車のディーラーはそう言って、手を伸ばしてきた。握手をしようというのである。
「あなたはずるい。この車はサビだらけだ。とても納得できない。あなたと握手なんかできない」
それを聞いたディーラーの男は、不快感をあらわにして、立ち去っていった。このように喧嘩別れをしたかったら、「握手」を拒むのが一番である。
テニスのゲームの後、必ず握手をするが、それも和解の意味である。つまり、「握手」をする行為には、「敵対関係を解消する」、という意味が含まれているのである。
「握手」にはまた、「友情の確認」の意味がある。
欧米諸国の文化圏で育った人たちは、握手をしないと、友人になった気がしないようである。会議などで何度も会っており、言葉も交わしている人が、突然傍らに来て、「そういえば、あなたとは正式に会っていませんでしたねー」といって握手を求めて来ることがある。
また、二~三週間会っていなかった友人と会うと、かならず握手を求めて来る。これも友情の確認をしているものである。
読者の方が、もしも欧米人と難しい、誤解を招きそうな会議、交渉事に臨まれるときは、真っ先に、相手に「握手」を求めに行くことをお勧めする。
握手をすると、相手は、少なくともあなたを敵とは見なさない。むしろ、友人と思い、誠意をもって交渉に当たろうとするだろう。
もしも、相手と握手をしないで交渉事に臨むと、相手はまず、あなたが敵なのか、友人なのかを見分けようとし、それに時間をかける。
そして、あなたへの不信感はなかなか解消されない。
信頼感の樹立に、そして確認に、「握手」は、重要な、欠かせない行動なのである。
突然!の戸惑い
「グッドナイト、シュン……」
突然、柔らかくて甘い唇が、わたしの唇の上に被さってきた。ほっぺたへのキスを予想していたわたしは、完全に意表を衡かれてうろたえた。甘く、柔らかいキスは、一瞬わたしの体をしびれさせた。キスの相手は七歳になる男の子だった。
「サンキュー、シュン…-・」
ブロンワンとバネッサの一四歳と一六歳のスリムで美人の姉妹は、お礼の贈り物を渡してくれた。一年間テニス・チームのキャプテンとして、二人の面倒を見てきたのである。
「サンキュー、……」
二人は何かを待っている。
もちろん、キスである。でもわたしには何となく顔を近づけることができなかった。
さて、四〇歳を超えた日本男児にとっては、社交的なキスと抱擁は、タイミングが難しい。女性からキスや抱擁をされる場合はまだ楽だが、こちらから積極的にするのは、はなはだ難しい。
これは他人ごとではないと思うが、いかがだろうか? 読者だって、いつ、わたしのような立場に置かれるか分からないし、あるいはもうすでに色々と経験されているかもしれない。少なくとも、その程度の国際化の波は、読者のすぐ傍らまで押し寄せて来ているはずである。
実を言うと、自然なキスと抱擁ができるようになることは、筆者のオーストラリア滞在のテーマの一つでもあった。
努力を重ねているうちに、早五年の歳月が流れてしまったが、いまだにぎこちない、不自然なキスをしたり、仕損なっているわけである。
重要なタイミング
「キースはどんな時に、どういう人にキスをするの?」
カンタス航空の元マネジャーであるキースとは、何でも聞ける間柄になっている。
「そりゃー、愛情を感じる親しい女性にだけさ。だけど、妹なんかにはキスしないな」
「エッ、この間、妹さんがキースの頼にキスしてたじゃない……」と、奥様。
「エー、そうだったっけかなー、無意識でやってるから、記憶に残ってないよ。大体キスとか抱擁なんてのは、いちいち考えてやるもんじゃないよ。以心伝心で、無意識にしなきゃ、-…」
「それが難しいんだな…」
こちらに住む人々は、キスも抱擁も見事に、無意識にしている。日本人が無意識にお辞儀をするのと、一緒である。
お辞儀ならば、いつも同じで、ただお辞儀していればいい。が、キスや抱擁となるとそうはいかない。欧米諸国でも、キスや抱擁には、性的意味合いが含まれているからである。だから、キスをしようとしたら逃げられて、大恥をかくことも、十分ありうるのだ。
よくよく観察してみたら、どうやらキスや抱擁をするタイミングには次の五種類があるようである。
1.歓迎の意を表すとき。
たとえば、家に食事に呼んで、玄関で出迎えたときなど。
2.お別れをするとき。
「さようなら」、あるいは、「お休みなさい」を、言うとき。
3.「有難う」と、お礼を言うとき。
4.悲しんでいる友人を慰めるとき。
5.特別に愛情を感じたとき。
さらに、頬にキスをするのは、社交上、軽い気持ちでできるが、抱擁も一緒にするとなると、これはさらに深い関係を意味している。
唇にキスをするのは、もちろん、特別に深い愛情があることを示す。
そして、キスをするには、キースが言っているように、相手に対する好意と、愛情の存在が前提となっている。つまり、通常、赤の他人にはしない、ということである。
この説明で、社交上のキスや抱擁の基本を、理解して頂けただろうか? 大切なのは以心伝心であり、アンテナを張って、相手のシグナルを見逃さないことのようだ。
握手を拒むことも
さて、もう一つ、社交上欠かせないのが、「握手」である。握手にもいろいろな意味が含まれていることをご在じだろうか?
「そろそろ和解しようぜ、もうお互いに言いたいことは言ったし・…・」
車のディーラーはそう言って、手を伸ばしてきた。握手をしようというのである。
「あなたはずるい。この車はサビだらけだ。とても納得できない。あなたと握手なんかできない」
それを聞いたディーラーの男は、不快感をあらわにして、立ち去っていった。このように喧嘩別れをしたかったら、「握手」を拒むのが一番である。
テニスのゲームの後、必ず握手をするが、それも和解の意味である。つまり、「握手」をする行為には、「敵対関係を解消する」、という意味が含まれているのである。
「握手」にはまた、「友情の確認」の意味がある。
欧米諸国の文化圏で育った人たちは、握手をしないと、友人になった気がしないようである。会議などで何度も会っており、言葉も交わしている人が、突然傍らに来て、「そういえば、あなたとは正式に会っていませんでしたねー」といって握手を求めて来ることがある。
また、二~三週間会っていなかった友人と会うと、かならず握手を求めて来る。これも友情の確認をしているものである。
読者の方が、もしも欧米人と難しい、誤解を招きそうな会議、交渉事に臨まれるときは、真っ先に、相手に「握手」を求めに行くことをお勧めする。
握手をすると、相手は、少なくともあなたを敵とは見なさない。むしろ、友人と思い、誠意をもって交渉に当たろうとするだろう。
もしも、相手と握手をしないで交渉事に臨むと、相手はまず、あなたが敵なのか、友人なのかを見分けようとし、それに時間をかける。
そして、あなたへの不信感はなかなか解消されない。
信頼感の樹立に、そして確認に、「握手」は、重要な、欠かせない行動なのである。
9.「調和主義」の輸出
最近の日本では小学校でも、欧米で尊ばれる討論の訓練「ディベート」を、導入している。確かにグローバル化が進んでいる世界で、日本人は討論の技術を身に付ける必要がある。グローバルスタンダードが欧米方式に先導されているからだ。だが、討論というのは、基本的に日本の社会には根を下ろしにくい。そして日本は、無意識かもしれないが、独自の文化「調和主義」をグローバルスタンダードにしようとしている。
世界はますます狭くなるが、欧米方式が世界方式として定着するかどうかは、まだ未定。
英語の方が多い悪日雑言
「日本語には、悪口雑言の言葉が少ないのね……。たとえばバカという言葉も馬と鹿でしょう。たいして悪い言葉じゃないわね。英語には何百という、それこそひどい意味の言葉があるのよ……」
東京大学の大学院で言語学を学んでいたアメリカ人の女性から、言われたのは、大分前のことになる。その頃はそんなものかなーと軽く聞き流したが、ここ南半球の英語圏に長く住んでいると、その意味がひしひしと伝わってくる。
「マーナ、そんな悪い言葉使っちゃだめでしょ!」
「ソーリー」
八歳になったマーナは、すっかりオーストラリア男児になってしまった。そして、最初に覚えた言葉には悪口雑言の類が多かった。時には親に向かっても悪い言葉を使っていたらしいのだが、悲しいかな、親の方は、意味が分からず涼しい顔をしていた。
だが、やがて近所の奥さんが、「マーナが悪い言葉使っているわよ」と、教えてくれるようになった。そこで、よく叱るようになったのだが、マーナの方も考えている。次から次へと新語を使うのだ。
「コラ! 悪い言葉使うな!」と、勘を働かせて怒鳴るのだが、「・・・ところで、その言葉どういう意味なの?・・・」と、後で教えを乞わなければならないのが現状である。
このことでも分かるように、英語には数限りなく「悪口雑言」があるのだ。
だが、何故か日本語にはあまりない。
何故なのだろうか?
「日本は、調和を尊ぶ社会で、悪口雑言が発達しなかったから・・・」と答えたら、読者の方は、唐突と感じられるだろうか? だが、それ以外に答えはないと思う。
企業の海外進出で輸出
日本の社会は、我々が意識する以上に「和」を重んじる「調和主義」の社会なのである。
以前、この連載で、「日本の社会では、“和”を保つことを、善悪よりも、正義よりも、合理よりも、何よりも優先しているのである」と、書いたが、同感して項けたであろうか?
「調和主義」とは、「民主主義」「自由主義」「共産主義」などと同様に、一つの思想なのだと筆者は考えている。
そして我々はこの「調和主義」の理念を、ほとんど無意識のうちに、企業の海外進出とともに、全世界に輸出しているのである。
さてそれでは、「調和主義」とは、どんな思想であろうか?
「調和主義」とは、「調和」をもっとも重要と考え、保とうとする主義である。
と言って、「調和主義」の世界に完全な「調和」社会があるか、というと、答えはもちろん「ノー」である。それはちょうど、「民主主義」の社会が、必ずしも「民主」でないのと同じことである。ただその方向を目ざして努カしているというだけのことである。
そして、社会にそれなりの「調和」を保っためには、莫大なエネルギーが消費されている。そこでもう少し詳しく「調和主義」の社会を分析してみよう。
「ノーが言えない社会」
日本では「調和」を保つことが正義であり、「調和」を壊すものはすべて白い眼で見られることを覚悟しなければならない。
一方、欧米の社会は、「契約社会」だとか「自由社会」といわれるが、別の言葉でいえば、「非調和を前提とする社会」である。
欧米社会では、それぞれが自分の利益を自由に追求している。そして、その結果生まれるもめごとや争いに対応する形で契約や、裁判の仕組みが発達したようだ。
それに比べて、日本の社会は、人々に勝手な行動を許さない、「調和」志向の社会である。これを別の言葉で言うと「自由を規制する社会」だということになる。
では、「調和主義」の社会では、どんな自由が規制されているのだろうか? いくつかを列挙すると、以下のようになる。
1.異端である自由
日本で異端であり、かつ尊敬されている人々が少数だがいるが、彼らは多分天才である。
普通の人である我々は、いかに他の人々と上手にスムーズにやっていくかで、四苦八苦している。大勢の赴くところに従って、あまり逆らわず、イワシの群れのように動いていくのが、せめて我々のできるところである。またそのようにしないと、調和を乱すと叱られ、迫害される。
2.理届を押し通す自由
「理屈じゃなか!」という言葉が、『青春の門』〈五木寛之著)の中に出てくるが、今でも妙に印象に残っている。「調和主義」の社会では理屈っぽい人間は嫌われる。そして議論好きなんて、もってのほかである。
欧米社会では"討論コンテスト"が、学校での重要な科目になっているが、日本では、明治以来このような科目が設置されたことはない。
「調和主義」の世界では、「討論」よりも「沈黙」が尊いのである。
3.人前で素直に感情を現す自由
お辞儀というのは便利な動作である。相手のことを腹の底から憎んでいても、表面的なお辞儀ぐらいは我慢して出来る。欧米式のキスやら抱擁ではそう簡単に感情を隠せない。「調和主義」では、本音の感情は、仮面の下に隠し、建前の表情を外に現すのが、善いとされる。
4.「ノー」と言う自由
日本人はよく「イエス、ノー」がはっきりしないと言われるが、本当は「ノー」を素直に言わないだけだと思う。
「ノー」と言うとそれだけで「不調和」を意味し、摩擦が起こることが予想される。そこで「ノー」と言うことを、知らず知らずのうちに避けてしまっているのである。
このように、「調和主義」の社会では、「調和」を乱すことは、すべて規制される傾向がある。この規制によって得ているプラスの面はもちろん大きいが、マイナスの面もまたたくさんあるのである。
世界はますます狭くなるが、欧米方式が世界方式として定着するかどうかは、まだ未定。
英語の方が多い悪日雑言
「日本語には、悪口雑言の言葉が少ないのね……。たとえばバカという言葉も馬と鹿でしょう。たいして悪い言葉じゃないわね。英語には何百という、それこそひどい意味の言葉があるのよ……」
東京大学の大学院で言語学を学んでいたアメリカ人の女性から、言われたのは、大分前のことになる。その頃はそんなものかなーと軽く聞き流したが、ここ南半球の英語圏に長く住んでいると、その意味がひしひしと伝わってくる。
「マーナ、そんな悪い言葉使っちゃだめでしょ!」
「ソーリー」
八歳になったマーナは、すっかりオーストラリア男児になってしまった。そして、最初に覚えた言葉には悪口雑言の類が多かった。時には親に向かっても悪い言葉を使っていたらしいのだが、悲しいかな、親の方は、意味が分からず涼しい顔をしていた。
だが、やがて近所の奥さんが、「マーナが悪い言葉使っているわよ」と、教えてくれるようになった。そこで、よく叱るようになったのだが、マーナの方も考えている。次から次へと新語を使うのだ。
「コラ! 悪い言葉使うな!」と、勘を働かせて怒鳴るのだが、「・・・ところで、その言葉どういう意味なの?・・・」と、後で教えを乞わなければならないのが現状である。
このことでも分かるように、英語には数限りなく「悪口雑言」があるのだ。
だが、何故か日本語にはあまりない。
何故なのだろうか?
「日本は、調和を尊ぶ社会で、悪口雑言が発達しなかったから・・・」と答えたら、読者の方は、唐突と感じられるだろうか? だが、それ以外に答えはないと思う。
企業の海外進出で輸出
日本の社会は、我々が意識する以上に「和」を重んじる「調和主義」の社会なのである。
以前、この連載で、「日本の社会では、“和”を保つことを、善悪よりも、正義よりも、合理よりも、何よりも優先しているのである」と、書いたが、同感して項けたであろうか?
「調和主義」とは、「民主主義」「自由主義」「共産主義」などと同様に、一つの思想なのだと筆者は考えている。
そして我々はこの「調和主義」の理念を、ほとんど無意識のうちに、企業の海外進出とともに、全世界に輸出しているのである。
さてそれでは、「調和主義」とは、どんな思想であろうか?
「調和主義」とは、「調和」をもっとも重要と考え、保とうとする主義である。
と言って、「調和主義」の世界に完全な「調和」社会があるか、というと、答えはもちろん「ノー」である。それはちょうど、「民主主義」の社会が、必ずしも「民主」でないのと同じことである。ただその方向を目ざして努カしているというだけのことである。
そして、社会にそれなりの「調和」を保っためには、莫大なエネルギーが消費されている。そこでもう少し詳しく「調和主義」の社会を分析してみよう。
「ノーが言えない社会」
日本では「調和」を保つことが正義であり、「調和」を壊すものはすべて白い眼で見られることを覚悟しなければならない。
一方、欧米の社会は、「契約社会」だとか「自由社会」といわれるが、別の言葉でいえば、「非調和を前提とする社会」である。
欧米社会では、それぞれが自分の利益を自由に追求している。そして、その結果生まれるもめごとや争いに対応する形で契約や、裁判の仕組みが発達したようだ。
それに比べて、日本の社会は、人々に勝手な行動を許さない、「調和」志向の社会である。これを別の言葉で言うと「自由を規制する社会」だということになる。
では、「調和主義」の社会では、どんな自由が規制されているのだろうか? いくつかを列挙すると、以下のようになる。
1.異端である自由
日本で異端であり、かつ尊敬されている人々が少数だがいるが、彼らは多分天才である。
普通の人である我々は、いかに他の人々と上手にスムーズにやっていくかで、四苦八苦している。大勢の赴くところに従って、あまり逆らわず、イワシの群れのように動いていくのが、せめて我々のできるところである。またそのようにしないと、調和を乱すと叱られ、迫害される。
2.理届を押し通す自由
「理屈じゃなか!」という言葉が、『青春の門』〈五木寛之著)の中に出てくるが、今でも妙に印象に残っている。「調和主義」の社会では理屈っぽい人間は嫌われる。そして議論好きなんて、もってのほかである。
欧米社会では"討論コンテスト"が、学校での重要な科目になっているが、日本では、明治以来このような科目が設置されたことはない。
「調和主義」の世界では、「討論」よりも「沈黙」が尊いのである。
3.人前で素直に感情を現す自由
お辞儀というのは便利な動作である。相手のことを腹の底から憎んでいても、表面的なお辞儀ぐらいは我慢して出来る。欧米式のキスやら抱擁ではそう簡単に感情を隠せない。「調和主義」では、本音の感情は、仮面の下に隠し、建前の表情を外に現すのが、善いとされる。
4.「ノー」と言う自由
日本人はよく「イエス、ノー」がはっきりしないと言われるが、本当は「ノー」を素直に言わないだけだと思う。
「ノー」と言うとそれだけで「不調和」を意味し、摩擦が起こることが予想される。そこで「ノー」と言うことを、知らず知らずのうちに避けてしまっているのである。
このように、「調和主義」の社会では、「調和」を乱すことは、すべて規制される傾向がある。この規制によって得ているプラスの面はもちろん大きいが、マイナスの面もまたたくさんあるのである。
10.ラッキー・カントリーヘの投資
オーストラリアに住んでいたころ、私は馬主だった。だが日本に帰ってからは、競馬馬の馬主になるなど、夢のまた夢、となってしまった。オーストラリアには小規模のレストランやホテルなどの大きな市場があり、簡単に購入できる。ステーキハウスを購入して、すぐに商売をはじめる・・・などということもできる。中でも日本との一番の違いは、オーストラリアでは、骨身惜しまず働けば、だれでも大金持ちになれることだと思う。ただし、人任せにはできないのが難点だが・・・。
誰でも馬主になれる
「ガンバレ、ガンバレ!」
「ヤッター!」
茶色の小柄なサラブレッドが断トツのトップでゴールポストを横切った。
筆者がジョンと共同で走らせている競走馬の「ジャスト・ア・メモリー」は、この日で五回目の優勝である。
過去二年間に一七回走って、五回優勝し、一〇回入賞している。当然、筆者の経費を差っ引いた純利益も四〇〇〇ドル(四〇万円)となり、全く笑いが止まらない。
***
「シュン、俺のパートナーになれよ、儲かる保証はないけど、チャンスはある。この馬は、俺の持っている馬で一番有望なんだ。全く勝たなくても、シュンの損失は年間一四〇〇ドル程度で済む。共同馬主は四人にするから・・・」
獣医をしている、ジョンからは三力月間にわたって勧誘された。
「シュン、止めとけ、止めとけ、ジョンはいい奴だけど賭け事には弱いのさ、あいつはまだ一度も、馬で儲けたことがないんだ」
「そうだろうな、じゃなきゃ-ズブの素人の俺なんかを誘ったりしないだろーな・・・」
友人たちのほとんどからは反対されたが、ジョンのパートナーになることに決めたのは、二年前である。理由は、欧米社会では競馬の社会的地位が極めて高いので、どんな世界か覗いて見たかったからである。
大方の予想を裏切って「ジャスト・ア・メモリー」はよく優勝してきた。筆者もシドニーの競馬場に背広を来て出かけ、馬主・会員席から競馬を楽しむことが出来た。
さて、日本ではこんなに簡単に馬主となれるのだろうか? 筆者は全く門外漢で、日本の競馬界の事情は知らない。だがもっとお金がかかると思う。
オーストラリアでも競走馬の所有者といったらやはりお金持ちという印象を受ける。だが、ただの庶民である筆者にも参画できるのである、門戸が広いのは間違いないだろう。
そしてジョンには、今度は種馬を育て、競走馬を売る仕事のパートナーになるように誘われている。二年前に三〇〇〇ドルで買えた「ジャスト・ア・メモリー」が今では六万ドルはするというのだから、悪い商売でもなさそうだ。
まだ安い郊外の不動産
競馬の例から見ても分かるように南半球ではせちがらい日本の経済観念は通用しない。
例えば、このラッキー・カントリーは移民の国なのである。酉暦二〇二〇年には、人口が今の四〇%増しになると予測されている。
シドニー市から西六〇キロほど内陸に入ったところに、ペンリスという町がある。シドニー市のベッドタウンなのだが、この町の人口は一〇年後には三借になるという。
シドニーの中心地が西に移動する傾向にあることと、最近の土地、家屋の異常な高騰で、シドニーに住んでいた人々が郊外に移動し始めたことなどが、その主な原因である。
こういう場所に店舗や、家を持っていれば、将来価値が上がることは目に見えている。そして、この辺りの店舗や家屋の値段は、まだまだ極めて安いのである。
「フランク、商売繁盛している?」
「ああ、まあまあだ」
「ところで、カットプライス・チェーンストアは幾らで買ったの? 二〇万ドル(二〇〇〇万円)はしただろうな」
「いやー、在庫品も買ったから、もーちよっとしたよ」
「ボブのコンビニヱンス・ストアも売りに出ているんだって?」
「うん、三〇万ドルで売りたいらしいぜ」
「それだけ金を使うなら、ドン・ケリーのガソリン・スタンドでも買ったほうがいいな」
「いやー、あそこは四五万ドルで売るんだそうだ」
「そりゃー、無理だな・・・、買い手がつくはずないな。ドンは本気で売る気がないんだろう・・・」
「うん、多分な」
オーストラリアでは、ありとあらゆる種類の店鋪が売りに出ている。ホテル・モーテルからレストラン、おもちゃ屋まで、市場があるのだ。
そして、お店の経営者になるのに専門知識はいらない。店舗を買うと、店の経営のノウハウまで教えてくれるからである。
親は店を売って楽隠居
「キースは料理の趣味でもあったんだろうね?」
「まあ、興味はあったけど、商売にしようとは考えていなかったなー」
元カンタス航空の総務部長をしていたキースは、今はステーキハウス兼モーテルの所有者になっている。
「それで……、今売りに出しているんだって?」
「うん、買ったときの借の値段で売れたら売るよ」
「それでどうするの・・・?」
「ウーン、まあタイかネパールに一ヵ月ぐらい行ってくるかな」
「その後どうするの?」
「ウーン、まだ何も決めてないけど、今度は喫茶店でも買ってみるかな」
キースのように、次から次へと店を買ったり売ったりするのは、南半球では珍しくない。大きな市場があり、日常茶飯事の出来事なのである。
日本では、親から子へと店舗を譲っていくケースがほとんどのようである。だから、簡単に“商売”を買ったりは出来ないようだ。だが土地が広く、豊かで自由なこの国では、親はサッサと店舗を売ってしまい、そして楽隠居を決め込んでしまうケースが多い。子は子で、自分のやりたいことをやるのである。
アメリカ、オーストラリアなどの新世界と、日本やヨーロッパなどの旧世界との、生活スタイルの違いなのであろう。
さて、それでは、具体的にどんな投資が考えられるかについては、次号でふれてみたい。
また、南半球に投資をする際の心構え、成功の条件などについても考えてみよう。
誰でも馬主になれる
「ガンバレ、ガンバレ!」
「ヤッター!」
茶色の小柄なサラブレッドが断トツのトップでゴールポストを横切った。
筆者がジョンと共同で走らせている競走馬の「ジャスト・ア・メモリー」は、この日で五回目の優勝である。
過去二年間に一七回走って、五回優勝し、一〇回入賞している。当然、筆者の経費を差っ引いた純利益も四〇〇〇ドル(四〇万円)となり、全く笑いが止まらない。
***
「シュン、俺のパートナーになれよ、儲かる保証はないけど、チャンスはある。この馬は、俺の持っている馬で一番有望なんだ。全く勝たなくても、シュンの損失は年間一四〇〇ドル程度で済む。共同馬主は四人にするから・・・」
獣医をしている、ジョンからは三力月間にわたって勧誘された。
「シュン、止めとけ、止めとけ、ジョンはいい奴だけど賭け事には弱いのさ、あいつはまだ一度も、馬で儲けたことがないんだ」
「そうだろうな、じゃなきゃ-ズブの素人の俺なんかを誘ったりしないだろーな・・・」
友人たちのほとんどからは反対されたが、ジョンのパートナーになることに決めたのは、二年前である。理由は、欧米社会では競馬の社会的地位が極めて高いので、どんな世界か覗いて見たかったからである。
大方の予想を裏切って「ジャスト・ア・メモリー」はよく優勝してきた。筆者もシドニーの競馬場に背広を来て出かけ、馬主・会員席から競馬を楽しむことが出来た。
さて、日本ではこんなに簡単に馬主となれるのだろうか? 筆者は全く門外漢で、日本の競馬界の事情は知らない。だがもっとお金がかかると思う。
オーストラリアでも競走馬の所有者といったらやはりお金持ちという印象を受ける。だが、ただの庶民である筆者にも参画できるのである、門戸が広いのは間違いないだろう。
そしてジョンには、今度は種馬を育て、競走馬を売る仕事のパートナーになるように誘われている。二年前に三〇〇〇ドルで買えた「ジャスト・ア・メモリー」が今では六万ドルはするというのだから、悪い商売でもなさそうだ。
まだ安い郊外の不動産
競馬の例から見ても分かるように南半球ではせちがらい日本の経済観念は通用しない。
例えば、このラッキー・カントリーは移民の国なのである。酉暦二〇二〇年には、人口が今の四〇%増しになると予測されている。
シドニー市から西六〇キロほど内陸に入ったところに、ペンリスという町がある。シドニー市のベッドタウンなのだが、この町の人口は一〇年後には三借になるという。
シドニーの中心地が西に移動する傾向にあることと、最近の土地、家屋の異常な高騰で、シドニーに住んでいた人々が郊外に移動し始めたことなどが、その主な原因である。
こういう場所に店舗や、家を持っていれば、将来価値が上がることは目に見えている。そして、この辺りの店舗や家屋の値段は、まだまだ極めて安いのである。
「フランク、商売繁盛している?」
「ああ、まあまあだ」
「ところで、カットプライス・チェーンストアは幾らで買ったの? 二〇万ドル(二〇〇〇万円)はしただろうな」
「いやー、在庫品も買ったから、もーちよっとしたよ」
「ボブのコンビニヱンス・ストアも売りに出ているんだって?」
「うん、三〇万ドルで売りたいらしいぜ」
「それだけ金を使うなら、ドン・ケリーのガソリン・スタンドでも買ったほうがいいな」
「いやー、あそこは四五万ドルで売るんだそうだ」
「そりゃー、無理だな・・・、買い手がつくはずないな。ドンは本気で売る気がないんだろう・・・」
「うん、多分な」
オーストラリアでは、ありとあらゆる種類の店鋪が売りに出ている。ホテル・モーテルからレストラン、おもちゃ屋まで、市場があるのだ。
そして、お店の経営者になるのに専門知識はいらない。店舗を買うと、店の経営のノウハウまで教えてくれるからである。
親は店を売って楽隠居
「キースは料理の趣味でもあったんだろうね?」
「まあ、興味はあったけど、商売にしようとは考えていなかったなー」
元カンタス航空の総務部長をしていたキースは、今はステーキハウス兼モーテルの所有者になっている。
「それで……、今売りに出しているんだって?」
「うん、買ったときの借の値段で売れたら売るよ」
「それでどうするの・・・?」
「ウーン、まあタイかネパールに一ヵ月ぐらい行ってくるかな」
「その後どうするの?」
「ウーン、まだ何も決めてないけど、今度は喫茶店でも買ってみるかな」
キースのように、次から次へと店を買ったり売ったりするのは、南半球では珍しくない。大きな市場があり、日常茶飯事の出来事なのである。
日本では、親から子へと店舗を譲っていくケースがほとんどのようである。だから、簡単に“商売”を買ったりは出来ないようだ。だが土地が広く、豊かで自由なこの国では、親はサッサと店舗を売ってしまい、そして楽隠居を決め込んでしまうケースが多い。子は子で、自分のやりたいことをやるのである。
アメリカ、オーストラリアなどの新世界と、日本やヨーロッパなどの旧世界との、生活スタイルの違いなのであろう。
さて、それでは、具体的にどんな投資が考えられるかについては、次号でふれてみたい。
また、南半球に投資をする際の心構え、成功の条件などについても考えてみよう。
11.敗者のいない経済社会
若いころからアジアが好きで、タイ王国だけでもすでに二〇〇回は訪問している。若いころからタイの学者の卵たちと、「アジアの思想」で、欧米の資本主義を修整しなければいけないなどと、熱く語り合ってきた。
だが、問題はもっと深いところにあるようだ、と思い始めている。人間という存在の原罪みたいなものだ。神道的資本主義、仏教的資本主義、キリスト教的資本主義、共産主義的資本主義などいろいろあるが、いずれも矛盾を含んだ存在だ。豊かさを求めるのは人間の本性で、それは許される。貧困は最悪だ。お金のために子どもを売るような世界にはしたくない。だが、人をけ落とさないと豊かになれないのが人間世界の現実。
やっぱり、輪廻転生があると思うほか、人生に救いはないようだ。
アジア型の経済発展
バンコクの街はいつ訪れても真夏である。それでも、ここチュラロンコン王立大学の二階の会議室は風が通って涼しい。窓から見える常夏の青空には、白い雲がまぶしく光っている。
「アジアの人々を豊かにすることが、日本の国の仕事だと思う。人口の多いアジアの国ぐにが豊かになれば、日本にとっても、米国以外の市場が大きくなってプラスだし……」
「それは日本政府の考え方ですか?」
「いやー、私個人の考えに過ぎないけど……」
「そお…-残念ね、日本政府の考え方だったらいいのにね……」
チュラロンコン大学の経済学部助教授と、女性講師は、そういって顔を曇らせた。
こんな会話のあった数力月後、タイ国では日貨排斥連動の大嵐が吹き荒れた。
当時タイ国には腐敗した軍事政権が君臨しており、経済進出した日本企業も、多かれ少なかれその恩恵に与っていた。
日貨排斥運動の真の標的は、腐敗した軍事政権であったが、しかし、日本人に対する不信感にも、根強いものがあった。
そして、激昂する高校生、大学生を背後から扇動し、精神的・理論的支柱となったのは、タマサート、チュラロンコン両国立大学の若い助教授、講師たちであった。
「シュン、同じアジア人なのにタイ国の弱点につけ込んで、俺たちを経済的に支配しようとするのは、ひどいんじゃないか!」 当時、タマサート大学の政治学部の講師をしていたP氏は、食ってかかってきた。
「でも、タイの軍事政権が日本企業の経済進出を推奨してるんだぜー。タイ国の内政干渉はできないしね……それに欧米型・資本主義の世界に生きているんだ、弱肉強食は当たり前じゃないか。白分の身は自分で守るべきじゃないの?」
「それはそうだ。でもやはり俺は不満だ。欧米型資本主義の経済学はアジアにはそぐわない。だから俺たちの手で改良すべきなんだ」
「そうだな、そういう時代がもうすぐ来るのかな……」
こんな会話を交わしてから、すでに一五~一六年経ってしまった。
豪州美人との握手で
いつの間にやら日本は、世界第一の債権国となり、経済大国となった。そして日本はアジア近隣諸国を、意図しないうちに繁栄させている。あのタイ国ですら、今や日本企業の進出ラッシュで高度経済成長をし始めたという。
そして日本経済の膨張に恐れ戦いているのは、オーストラリアや、アメリカ、ヨーロッパ諸国になってきている。
欧米が万能の時代は、この一〇〇年間で日本が中心となって終わらせてしまった、と言っても過言ではないだろう。次は「アジアの時代」だと言う人も多い。
だが「アジアの時代」が来るためには、我々アジア人が共通して感じる「違和感」を大切にし、その「違和感」を手掛かりとして、未知の世界を開拓していかなければならないと思う。
だが、果たして日本人に「アジア人」としての自覚と認識が、十分にできているだろうか?
「日本はアジアの国だと思う? それともアジアと欧米の間にある国だと思う?」と、数年前に何人かの日本の若者に聞いてみたことがある。
「ウン、アジアの国というより、西側先進国の一員だと思う」というのが全員の答えであった。
だが、我々は紛れもないアジア人なのである。
まず、体格がアジア人である。
女優のエリザベス・テイラーの手は握ったことがないけれど、オーストラリアの同じくらいの美女の手は握ったことがある。
手の厚み、太さが筆者の倍はあり、「コリャー喧嘩したら、殺されるわ……」と、"二年越しの片思い"もまたたく間に醒めてしまった。
それほど、欧米人と、日本人の間には、基礎的体力に差がある。
東南アジアを旅していると、日本の文化の源流に触れる思いのする時がある。
マレーシアには日本のお赤飯そっくりの家庭料理がある。見た目は同じだが、ただ甘いお菓子になっている。
インドネシアのバリの民族衣装を見ていると、何かそこに、日本の着物との共通点が見受けられる。
日本は、近代的最新ハイテク技術以外は、全くアジアの国なのである。
「敗者」が見えない社会
欧米を追いかけるのを止め、真似するのを止め、新しい思想、哲学、経済学などをほうはいと創り出していくのが、「アジアの時代」の到米を告げるものだとしたら、その第一歩は、まず我々が、「アジア人としての自覚」を持つところから始まるのだろう。
また、「アジアの時代」、ないし「日本の世紀」が来るとはいっても、今のところの現実は、アジア諸国、特に日本は、むしろ、世界経済に混乱をもたらしているだけで、さっぱり新しい風は吹き込んではいないように、南半球からは見える。
「アメリカと日本の経済摩擦がもっとひどくなればいいんだがな……」と、ビルは言う。
「何でまた?」
「日本人に、世界を支配されるのはまっぴらごめんだからさ。日本人は生活を楽しまないで、ガツガツと働くだけの"金"の亡者だろう。そんな気味の悪い日本と、経済戦争をして勝てるのはアメリカだけだからな。俺は日米経済摩擦・戦争を大歓迎するよ」
「そいつは、ご挨拶だなー、確かに金儲け以外に理想のない"働きアリ"に世界を経済支配されたら困る、というのは分かるけど、でも、経済戦争をしたらアメリカが負けるという観測もあるよ」
「それはないね。第二次世界大戦と同じで、最初は、日本の歩がよくても、最後は資源のあるアメリカが勝つさ」
金物屋のビル・ヒューム氏は、酒を飲むと、時々とんでもないことを言い出す。いや、本音が出てきてしまうようである。ビルはこの街の名土で、億万長者で、地元のロータリー・クラブの重鎮である。
「理想のない、貧欲な"金"の亡者に、地球を支配されたくない」というビルの意見は極端だろうか? だがオーストラリアの多くの人々が同じように感じているようだ。
アジアで生まれ育った「調和」志向は、その根を、貧困と無秩序、混沌とした非合理の世界に持っている。従って、貧困の中から育った日本の「調和主義」の経済戦略は、貧欲で、富を追うことに飽くことを知らない、といった姿になりがちだ。
「調和」に留意するのは、相手国が悲鳴をあげて、強行手段に訴えてくる寸前である。
だが一方、日本の「調和主義」の経済社会は、「敗者」のいない、あるいは敗者がはっきりしない社会である。国民誰もが中産階級に所属するという意識を持っており、そして失業者は少ない。つまり、敗者が見えない構造になっている。
だが、ここ南半球では、勝者と敗者ははっきり分かれている。金持ちは大邸宅に住み、貧乏人はバラックに住んでいる。
経済が停滞したら、街はたちまち失業者で溢れてしまう。
「アジアの時代」というか、「日本の世紀」が訪れたときの最大の功績は、この、「敗者のいない国際経済社会」の実現にあるのではないだろうか?
だが、問題はもっと深いところにあるようだ、と思い始めている。人間という存在の原罪みたいなものだ。神道的資本主義、仏教的資本主義、キリスト教的資本主義、共産主義的資本主義などいろいろあるが、いずれも矛盾を含んだ存在だ。豊かさを求めるのは人間の本性で、それは許される。貧困は最悪だ。お金のために子どもを売るような世界にはしたくない。だが、人をけ落とさないと豊かになれないのが人間世界の現実。
やっぱり、輪廻転生があると思うほか、人生に救いはないようだ。
アジア型の経済発展
バンコクの街はいつ訪れても真夏である。それでも、ここチュラロンコン王立大学の二階の会議室は風が通って涼しい。窓から見える常夏の青空には、白い雲がまぶしく光っている。
「アジアの人々を豊かにすることが、日本の国の仕事だと思う。人口の多いアジアの国ぐにが豊かになれば、日本にとっても、米国以外の市場が大きくなってプラスだし……」
「それは日本政府の考え方ですか?」
「いやー、私個人の考えに過ぎないけど……」
「そお…-残念ね、日本政府の考え方だったらいいのにね……」
チュラロンコン大学の経済学部助教授と、女性講師は、そういって顔を曇らせた。
こんな会話のあった数力月後、タイ国では日貨排斥連動の大嵐が吹き荒れた。
当時タイ国には腐敗した軍事政権が君臨しており、経済進出した日本企業も、多かれ少なかれその恩恵に与っていた。
日貨排斥運動の真の標的は、腐敗した軍事政権であったが、しかし、日本人に対する不信感にも、根強いものがあった。
そして、激昂する高校生、大学生を背後から扇動し、精神的・理論的支柱となったのは、タマサート、チュラロンコン両国立大学の若い助教授、講師たちであった。
「シュン、同じアジア人なのにタイ国の弱点につけ込んで、俺たちを経済的に支配しようとするのは、ひどいんじゃないか!」 当時、タマサート大学の政治学部の講師をしていたP氏は、食ってかかってきた。
「でも、タイの軍事政権が日本企業の経済進出を推奨してるんだぜー。タイ国の内政干渉はできないしね……それに欧米型・資本主義の世界に生きているんだ、弱肉強食は当たり前じゃないか。白分の身は自分で守るべきじゃないの?」
「それはそうだ。でもやはり俺は不満だ。欧米型資本主義の経済学はアジアにはそぐわない。だから俺たちの手で改良すべきなんだ」
「そうだな、そういう時代がもうすぐ来るのかな……」
こんな会話を交わしてから、すでに一五~一六年経ってしまった。
豪州美人との握手で
いつの間にやら日本は、世界第一の債権国となり、経済大国となった。そして日本はアジア近隣諸国を、意図しないうちに繁栄させている。あのタイ国ですら、今や日本企業の進出ラッシュで高度経済成長をし始めたという。
そして日本経済の膨張に恐れ戦いているのは、オーストラリアや、アメリカ、ヨーロッパ諸国になってきている。
欧米が万能の時代は、この一〇〇年間で日本が中心となって終わらせてしまった、と言っても過言ではないだろう。次は「アジアの時代」だと言う人も多い。
だが「アジアの時代」が来るためには、我々アジア人が共通して感じる「違和感」を大切にし、その「違和感」を手掛かりとして、未知の世界を開拓していかなければならないと思う。
だが、果たして日本人に「アジア人」としての自覚と認識が、十分にできているだろうか?
「日本はアジアの国だと思う? それともアジアと欧米の間にある国だと思う?」と、数年前に何人かの日本の若者に聞いてみたことがある。
「ウン、アジアの国というより、西側先進国の一員だと思う」というのが全員の答えであった。
だが、我々は紛れもないアジア人なのである。
まず、体格がアジア人である。
女優のエリザベス・テイラーの手は握ったことがないけれど、オーストラリアの同じくらいの美女の手は握ったことがある。
手の厚み、太さが筆者の倍はあり、「コリャー喧嘩したら、殺されるわ……」と、"二年越しの片思い"もまたたく間に醒めてしまった。
それほど、欧米人と、日本人の間には、基礎的体力に差がある。
東南アジアを旅していると、日本の文化の源流に触れる思いのする時がある。
マレーシアには日本のお赤飯そっくりの家庭料理がある。見た目は同じだが、ただ甘いお菓子になっている。
インドネシアのバリの民族衣装を見ていると、何かそこに、日本の着物との共通点が見受けられる。
日本は、近代的最新ハイテク技術以外は、全くアジアの国なのである。
「敗者」が見えない社会
欧米を追いかけるのを止め、真似するのを止め、新しい思想、哲学、経済学などをほうはいと創り出していくのが、「アジアの時代」の到米を告げるものだとしたら、その第一歩は、まず我々が、「アジア人としての自覚」を持つところから始まるのだろう。
また、「アジアの時代」、ないし「日本の世紀」が来るとはいっても、今のところの現実は、アジア諸国、特に日本は、むしろ、世界経済に混乱をもたらしているだけで、さっぱり新しい風は吹き込んではいないように、南半球からは見える。
「アメリカと日本の経済摩擦がもっとひどくなればいいんだがな……」と、ビルは言う。
「何でまた?」
「日本人に、世界を支配されるのはまっぴらごめんだからさ。日本人は生活を楽しまないで、ガツガツと働くだけの"金"の亡者だろう。そんな気味の悪い日本と、経済戦争をして勝てるのはアメリカだけだからな。俺は日米経済摩擦・戦争を大歓迎するよ」
「そいつは、ご挨拶だなー、確かに金儲け以外に理想のない"働きアリ"に世界を経済支配されたら困る、というのは分かるけど、でも、経済戦争をしたらアメリカが負けるという観測もあるよ」
「それはないね。第二次世界大戦と同じで、最初は、日本の歩がよくても、最後は資源のあるアメリカが勝つさ」
金物屋のビル・ヒューム氏は、酒を飲むと、時々とんでもないことを言い出す。いや、本音が出てきてしまうようである。ビルはこの街の名土で、億万長者で、地元のロータリー・クラブの重鎮である。
「理想のない、貧欲な"金"の亡者に、地球を支配されたくない」というビルの意見は極端だろうか? だがオーストラリアの多くの人々が同じように感じているようだ。
アジアで生まれ育った「調和」志向は、その根を、貧困と無秩序、混沌とした非合理の世界に持っている。従って、貧困の中から育った日本の「調和主義」の経済戦略は、貧欲で、富を追うことに飽くことを知らない、といった姿になりがちだ。
「調和」に留意するのは、相手国が悲鳴をあげて、強行手段に訴えてくる寸前である。
だが一方、日本の「調和主義」の経済社会は、「敗者」のいない、あるいは敗者がはっきりしない社会である。国民誰もが中産階級に所属するという意識を持っており、そして失業者は少ない。つまり、敗者が見えない構造になっている。
だが、ここ南半球では、勝者と敗者ははっきり分かれている。金持ちは大邸宅に住み、貧乏人はバラックに住んでいる。
経済が停滞したら、街はたちまち失業者で溢れてしまう。
「アジアの時代」というか、「日本の世紀」が訪れたときの最大の功績は、この、「敗者のいない国際経済社会」の実現にあるのではないだろうか?
12.投資をするなら合弁で
一九八九年というと、日本経済はバブルの真っ最中。バブル経済の浮沈を経験できるのは一生に一度しかないだろう。だからせっかくの経験も個人的には二度と活かせないわけだ。
オーストラリアで会社を買い、ジョニーに任せて不動産をいろいろ購入したが、一〇年後にすべてを売却した。利益はゼロ。家屋の価格は二倍以上上昇したが、オーストラリアドルの値打ちが二分の一以下になり、日本円に換算するとマイナス。息子に財産を残そうという夢も消えた。なんせ日本で税金が払えなくなり、オーストラリアの投資を引き上げてしまったからだ。
私には商売の才が無い。というか昔から武士の家系なのか、なんとなく守銭奴を蔑視する偏見がある。この言い方自体が偏見の存在を物語っている・・・。だが、やっぱりお金は欲しい。でもお金にかかわっても、損するばかり。会社で経理を担当したこともあり、人の金の管理はできても、自分の金はなぜかドブに捨ててしまう。
そこで考えたのが、商才のある有能な人と手を組むこと。その第一号がジョニーだったが、成功しなかった。その後も、同じ方針で商才がある人と手を組んだが、失敗がほとんど。商才があると思った人が破産したり、詐欺師だったこともある。
そうそう、オーストラリアで手を組んだジョニーも、ガソリンスタンドでモノポリーを作り上げ、シェル石油などの大企業からにらまれ、会社をつぶされた。その後、ゴールドコーストに移住し、五年後には再び億万長者に復活している。
いくら商才があっても、人間というのは摩訶不思議、自ら墓穴を掘るのが好きなようだ。人生では商才があろうと無かろうと、成功の後には必ず落とし穴が控えている。
無一文から一〇年で・・・
玄関を入るとすぐ右側に.巨大な客間がある。そしてダイニング・ルームが続き、そこから大理石の床の台所に入る。台所の隣の家族用の居間は、四〇畳はあるだろう。居間の隣室は、スヌー力ー(玉突き)ルームである。
居間から二階に上がると、そこには寝室と書斎と、三〇畳敷きほどの子供用遊び部屋がある。寝室は六部屋と少ないが、一つ一つの部屋が大きい。
家の持ち主ジョニーは今では億万長者だが、一〇年前は一文無しで、ガソリンを運ぶトラックの運転手をしていた。年齢もまだ四〇歳になったばかり。
「シュン、俺と一緒に事業でもしないか? 日本で事業を興すよりはオーストラリアで興したほうがチャンスあるぜ。なにしろここはラッキー・カントリーだからな」
「ウン、でも何するの?」
「何でも出来るじゃないか。今、隣町の繁華街のど真ん中のビルが売りに出ているんだ。興味あるかい?」
「値段は?」
「貸店舗四店と、二階、三階にアパートが六部屋あって、一〇万ドル(一〇〇〇万円)さ」
「エッー、そんなに安いの? それじゃ、大いに興味あるなー」
「じゃー、俺と一緒に会社を作ろうじゃないか、出資は半々でいいな?」
「そんなに簡単に会社なんて出来るの?」
「あー、シドニーの弁護士事務所に行けば、五〇〇ドルで会社がすぐ買える」
「え!?」
「事務所の壁一面が棚になっていて、そこにありとあらゆる会社の定款が用意されてるんだ。だから、"こんなことの出来る会社が欲しいと言えば、"ハイ、これでいいでしょう〃と書類一式くれるのさ。会村の名前も付いているから、後は公証人のところでサインすれば、それでおしまいだよ」
二年で二倍以上に
ジョニーと会社を作ってから一年半以上経つ。内緒の話だが……この間に、なんと、そのビルの値段が二倍以上に跳ね上がってしまったのだ。
「ジョニー、すごいなこれは、資産がたった二年で倍になっちゃった」
「なーに、こんなことで驚くのは早いよ、シュンのお金は五年で一〇倍以上にしてやるよ」
「エッー? そんなに無理しなくていいよ…」
「あー、俺だって無理なんかする気はないさ。でも、五年でせめて一〇倍にしなけりゃ刺激がないし、面白味もないじゃない」
「ウーン・・・」
ジョニーは過去一〇年間で、無一文から、資産一〇億円は持つ資産家になってしまった。今ではシドニー郊外に一五~六のガソリン・スタンドを所有し、他にも手広く商売をしている。しかも、全くの無借金経営だという。
一〇年前は、毎日数時間しか寝ず、ガソリン・トラックを運転し、金を貯め込み、大借金をし、次から次へとガソリン・スタンドを買収していったそうである。
「シュン、資金はいつまでオーストラリアに置いとけるんだい?」
「永遠にさ。口本に持って帰ることなんか全く考えていないよ。お金は、どこの国にあっても同じだし、それにいちいち為替の変動を気にしていたら、ストレスが溜まるだけだからな」
「それを聞いて安心したよ。一〇年は置いといて欲しいと思ったんだ」
「そういえば、オーストラリアには相続税がないし・・・、このお金は息子にでも譲ろうかな」
「そうだな、そういうことなら、俺もますますやる気が出てきたよ」
出稼ぎ根性ではダメ
一年半前の一九八七年九月に、オーストラリアの外資法が変更になった。それにより、外国人によるオーストラリアの不動産への投資は、すべて許可制になった。
この法律が出来る前は、一件五〇万ドル(五〇〇〇万円)以下の不動産の購入は自由にできた。当時、オーストラリア・ドルは価値が暴落し、対円べースで見ると、一九八四年のほぼ半値となってしまっていた。そこで、日本円に換算すると、何もかも割安になってしまったのである。
事情は、他の通貨に対しても同じで、外資法が変更される直前には、香港、シンガポール、日本から、個人の不動産投資家が雲霞のごとく押し寄せ、オーストラリア人をいらだたせた。
香港の金持ちたちは、香港に居ながらにして、ビデオを見て買い注文をしていたそうである。一方、日本人は、バスを連ねてゴールド・コーストの不動産屋に押し寄せ、現金で家などを買いまくっていた。
「シュン、"六〇分"というテレビ番組観た?」
「イヤー-、あんまりテレビは見ない方でして……」
「そお……、その番組でね、日本にいる日本人が言っていたのよ、"誰だって、外国人に土地を買い占められたら大反対しますよ"って。おかしかったわ、それが分かっている日本人たちが、ゴールド・コースト辺りの土地や、ゴルフ場を買いまくってるんだもの」
「そうですね…・-せめて合弁企業による買収ならいいのにね……」
「やっばりそう思う? 私もそう思うの」
ジェーンは市役所幹部の奥様で、日本に行ったこともある親日家。だが、彼女ですら、日本企業の不動産投資には不信感を持っている。外国からの投資で大きくなってきているオーストラリアは、基本的には外資に対して好意的である。だが、風習、文化の違う日本企業、日本人が進出する場合は、少々難しくても、極力、合弁体制を取るべき時代になっている。
また、投資したお金は利益を含め、日本にもって帰ることを考えない方がよい。出稼ぎ根性での海外進出は摩擦の種になるだけ。まず、歓迎されないし、時代遅れだと言っても過言ではないだろう。
オーストラリアで会社を買い、ジョニーに任せて不動産をいろいろ購入したが、一〇年後にすべてを売却した。利益はゼロ。家屋の価格は二倍以上上昇したが、オーストラリアドルの値打ちが二分の一以下になり、日本円に換算するとマイナス。息子に財産を残そうという夢も消えた。なんせ日本で税金が払えなくなり、オーストラリアの投資を引き上げてしまったからだ。
私には商売の才が無い。というか昔から武士の家系なのか、なんとなく守銭奴を蔑視する偏見がある。この言い方自体が偏見の存在を物語っている・・・。だが、やっぱりお金は欲しい。でもお金にかかわっても、損するばかり。会社で経理を担当したこともあり、人の金の管理はできても、自分の金はなぜかドブに捨ててしまう。
そこで考えたのが、商才のある有能な人と手を組むこと。その第一号がジョニーだったが、成功しなかった。その後も、同じ方針で商才がある人と手を組んだが、失敗がほとんど。商才があると思った人が破産したり、詐欺師だったこともある。
そうそう、オーストラリアで手を組んだジョニーも、ガソリンスタンドでモノポリーを作り上げ、シェル石油などの大企業からにらまれ、会社をつぶされた。その後、ゴールドコーストに移住し、五年後には再び億万長者に復活している。
いくら商才があっても、人間というのは摩訶不思議、自ら墓穴を掘るのが好きなようだ。人生では商才があろうと無かろうと、成功の後には必ず落とし穴が控えている。
無一文から一〇年で・・・
玄関を入るとすぐ右側に.巨大な客間がある。そしてダイニング・ルームが続き、そこから大理石の床の台所に入る。台所の隣の家族用の居間は、四〇畳はあるだろう。居間の隣室は、スヌー力ー(玉突き)ルームである。
居間から二階に上がると、そこには寝室と書斎と、三〇畳敷きほどの子供用遊び部屋がある。寝室は六部屋と少ないが、一つ一つの部屋が大きい。
家の持ち主ジョニーは今では億万長者だが、一〇年前は一文無しで、ガソリンを運ぶトラックの運転手をしていた。年齢もまだ四〇歳になったばかり。
「シュン、俺と一緒に事業でもしないか? 日本で事業を興すよりはオーストラリアで興したほうがチャンスあるぜ。なにしろここはラッキー・カントリーだからな」
「ウン、でも何するの?」
「何でも出来るじゃないか。今、隣町の繁華街のど真ん中のビルが売りに出ているんだ。興味あるかい?」
「値段は?」
「貸店舗四店と、二階、三階にアパートが六部屋あって、一〇万ドル(一〇〇〇万円)さ」
「エッー、そんなに安いの? それじゃ、大いに興味あるなー」
「じゃー、俺と一緒に会社を作ろうじゃないか、出資は半々でいいな?」
「そんなに簡単に会社なんて出来るの?」
「あー、シドニーの弁護士事務所に行けば、五〇〇ドルで会社がすぐ買える」
「え!?」
「事務所の壁一面が棚になっていて、そこにありとあらゆる会社の定款が用意されてるんだ。だから、"こんなことの出来る会社が欲しいと言えば、"ハイ、これでいいでしょう〃と書類一式くれるのさ。会村の名前も付いているから、後は公証人のところでサインすれば、それでおしまいだよ」
二年で二倍以上に
ジョニーと会社を作ってから一年半以上経つ。内緒の話だが……この間に、なんと、そのビルの値段が二倍以上に跳ね上がってしまったのだ。
「ジョニー、すごいなこれは、資産がたった二年で倍になっちゃった」
「なーに、こんなことで驚くのは早いよ、シュンのお金は五年で一〇倍以上にしてやるよ」
「エッー? そんなに無理しなくていいよ…」
「あー、俺だって無理なんかする気はないさ。でも、五年でせめて一〇倍にしなけりゃ刺激がないし、面白味もないじゃない」
「ウーン・・・」
ジョニーは過去一〇年間で、無一文から、資産一〇億円は持つ資産家になってしまった。今ではシドニー郊外に一五~六のガソリン・スタンドを所有し、他にも手広く商売をしている。しかも、全くの無借金経営だという。
一〇年前は、毎日数時間しか寝ず、ガソリン・トラックを運転し、金を貯め込み、大借金をし、次から次へとガソリン・スタンドを買収していったそうである。
「シュン、資金はいつまでオーストラリアに置いとけるんだい?」
「永遠にさ。口本に持って帰ることなんか全く考えていないよ。お金は、どこの国にあっても同じだし、それにいちいち為替の変動を気にしていたら、ストレスが溜まるだけだからな」
「それを聞いて安心したよ。一〇年は置いといて欲しいと思ったんだ」
「そういえば、オーストラリアには相続税がないし・・・、このお金は息子にでも譲ろうかな」
「そうだな、そういうことなら、俺もますますやる気が出てきたよ」
出稼ぎ根性ではダメ
一年半前の一九八七年九月に、オーストラリアの外資法が変更になった。それにより、外国人によるオーストラリアの不動産への投資は、すべて許可制になった。
この法律が出来る前は、一件五〇万ドル(五〇〇〇万円)以下の不動産の購入は自由にできた。当時、オーストラリア・ドルは価値が暴落し、対円べースで見ると、一九八四年のほぼ半値となってしまっていた。そこで、日本円に換算すると、何もかも割安になってしまったのである。
事情は、他の通貨に対しても同じで、外資法が変更される直前には、香港、シンガポール、日本から、個人の不動産投資家が雲霞のごとく押し寄せ、オーストラリア人をいらだたせた。
香港の金持ちたちは、香港に居ながらにして、ビデオを見て買い注文をしていたそうである。一方、日本人は、バスを連ねてゴールド・コーストの不動産屋に押し寄せ、現金で家などを買いまくっていた。
「シュン、"六〇分"というテレビ番組観た?」
「イヤー-、あんまりテレビは見ない方でして……」
「そお……、その番組でね、日本にいる日本人が言っていたのよ、"誰だって、外国人に土地を買い占められたら大反対しますよ"って。おかしかったわ、それが分かっている日本人たちが、ゴールド・コースト辺りの土地や、ゴルフ場を買いまくってるんだもの」
「そうですね…・-せめて合弁企業による買収ならいいのにね……」
「やっばりそう思う? 私もそう思うの」
ジェーンは市役所幹部の奥様で、日本に行ったこともある親日家。だが、彼女ですら、日本企業の不動産投資には不信感を持っている。外国からの投資で大きくなってきているオーストラリアは、基本的には外資に対して好意的である。だが、風習、文化の違う日本企業、日本人が進出する場合は、少々難しくても、極力、合弁体制を取るべき時代になっている。
また、投資したお金は利益を含め、日本にもって帰ることを考えない方がよい。出稼ぎ根性での海外進出は摩擦の種になるだけ。まず、歓迎されないし、時代遅れだと言っても過言ではないだろう。
13.サイパン・レディー
デニスと始めてであったのは、ゴルフックラブのバーだった。「仕事は何?」と聞いたら「ハンディーマン(何でも屋)だよ」という。私は耳を疑った。目の前にいるデニスは、かっぷくが良く、上品で、利口そうで、どう見ても億万長者に見える。「嘘だろう? どう見てもミリオネアにしか見えないな・・・」と私は、思わず本音を言った。
私は、人を見る目には自信がある。一目で、その人の全てが分かる。だが、欲得がからむと見損じる。
デニスは数年前まで、シドニーにお店をいくつか持つミリオネアだった。ゴルフコースを見下ろす豪邸に住み、四〇歳で引退する予定だった。だが、もうけ話に乗って、破産したのだという。
賢そうなデニスですら詐欺師に騙された。俺は利口で人を見る目がある、と自信がある人こそ、詐欺師に騙される。詐欺師から見たら、思い上がっている人が一番誘惑しやすいのに違いない。私がその典型か?
***
一回目の座礁
大型帆船は、木の葉のように波にもてあそばれていた。山のような海の壁が押し寄せ、そして、奈落の底に突き落とされ、黒い空も黒い海も区別はつかなかった。
「リリリーン」
電話のベルがけたたましく鳴った。
デニスは豪華なキングサイズ・ベッドから飛び起きると受話器を取った。朝の五時である。
「帆船がトレス海峡で座礁しました。船員は無事です。すぐ来てください」
この時から、デニスの悪夢は始まった。
デニスが友人と二億円をかけて改造した帆船は、ブリスベーンからグレート・バリア・リーフを通り、ダーウインに向かっていく途中でサイクロンに捕まったのである。
無事にダーウインに着けば、帆船はそこからグアム島に行く予定であった。グアム島でその帆船は、遊覧船として、日本人の新婚旅行客が使うはずであった。
日本のJTB他の旅行代理店も、首を長くして帆船の到着を待っていたのである。だが船はあえなく廃船となってしまった。
「座礁は、何か良くない事の前兆のようよ……、もうこの事業はやめましょうよ」
デニスの奥方のジョイスは、そう言ってこれ以上の深入りをやめさせようとした。
「いや、乗りかかった船だし、保険金は全額入る、だから俺は続ける」
共同出資をしているほかの三人も、同じ考えであった。
そして、今度は中古船を買い、フィリピンのセブ島で改造をすることにしたのである。
裏切り
当時デニスは四〇歳。やり手の実業家で、ブルーマウンテンズ市の、名士の一人だった。そして、早くも引退して、優雅に余生を送ろうとしていた。その矢先に、アンディという男からこのベンチャー・ビジネスに誘われたのである。他にロドニー、バリーという二人の仲間も加わった。
フィリピンでの船の改造は、予想以上にお金がかかった。
「これじゃー、日本で、新しく船を作った方が安上がりだったなー」と、ボヤいてみても、後の祭。それでもとにかく、船は完成した。名前も付いた。『サイパン・レディ』である。
「金が足りないなー、どうしようか?」
「あと一嵐で、夢が実現するのに・・・」
「俺がまた金集めに行くよ、でも、誰か自分の家を売れないか? デニスはどう?」
「ワイフと共同名義になってるし、聞いてみるよ」
「ロドニーはどう?」
「俺も一人じゃ決められないな」
肥って眼鏡を掛けたアンディはこのプロジェクトの発起人であり、金集めの名手ということだった。
「とんでもないワ! 家を売るなんて! それだけは嫌よ」
ジョイスは全く取りあわなかった。
だが、ロドニーとバリーは家を売って、資金を作った。
「俺が、もう少し資金集めをしてくるよ。このままじゃ、船の保険金が払えないしな……」
アンディの提案はもっともだった。船は完成し、グアム島に無事着いた。シュフも、ダンサーも、船員もそろった。前評判は上々で、オープン前から半年分の予約が出来ていた。「夢の九九パーセントは叶った、あと一息だ」と、デニスは思った。あと、船の保険金を払うお金があればよいのだ。
保険金の工面のためと称して、アンディは海外に飛んだ。
三週間後である。
「いやー、いい船ですねー、アンディさんの言っていた通りだ」
「あなたはどなたですか?」
「この船の持ち主の一人ですよ…、ブラジルから来ました」
「エエー! そんな話、聞いていないなー」
「ほら、契約書もありますよ」
何が起こったかは明らかであった。
アンディは仲間を裏切って、船を売ってしまっていたのだ。しかも、ブラジル、シドニー、パリの三ヵ所で、三重に売っていたのである。
再び海の藻くずに
嵐が迫っていた。
グアム島はその台風に直撃された。『サイパン・レディ』は乗組員三〇名と共に、海の藻くずと消えてしまった。保険はもちろん掛かっていない。
三人は破産した。その上、グアム島では犯罪者として扱われた。デニスはすべての財産を手放したが借金は返せなかった。ロドニーは自殺した。バリーは気が狂って、精神病院に入った。
一〇年たった今、デニスは、ようやく借金の後始未が出来た。デニスが生き残れた重要な決め手は、ジョイスと共同名義にしてあった家が温存されていたことにあった。
今、デニスとジョイスは山に囲まれた牧場に住み、ようやく心休まる生活が出来るようになった。
オーストラリアの「契約社会」には、アンディのような悪者が沢山いる。私は彼らを、「契約社会の海賊たち」と呼んでいる。
「オーストラリア人は正直で、日本人よりよっぽど信用できるねー。会社のペン一本持って行かないからね。それに比べて日本人は公私混同してだらしがないよ」
シドニーで、ある日本の大企業のマネージャーと食事をしていた時の話である。この人は、すでにこの国に六年も住んでいるという。
これは、全くの考え違いである。
契約社会の住人は、すぐバレるような悪いことは、まずやらない。だが、バレない事が確実なら、何でもやりかねない。と、考えておくのが正解だ。
契約社会で、契約違反をすると、その制裁は、日本の社会では考えられないほど厳しい。だから、事務所のペン一本ですら持って行かないのは、当然である。
簡単に、優しい「調和社会」に住み慣れている日本人と比較するのは、間違いなのだ。
私は、人を見る目には自信がある。一目で、その人の全てが分かる。だが、欲得がからむと見損じる。
デニスは数年前まで、シドニーにお店をいくつか持つミリオネアだった。ゴルフコースを見下ろす豪邸に住み、四〇歳で引退する予定だった。だが、もうけ話に乗って、破産したのだという。
賢そうなデニスですら詐欺師に騙された。俺は利口で人を見る目がある、と自信がある人こそ、詐欺師に騙される。詐欺師から見たら、思い上がっている人が一番誘惑しやすいのに違いない。私がその典型か?
***
一回目の座礁
大型帆船は、木の葉のように波にもてあそばれていた。山のような海の壁が押し寄せ、そして、奈落の底に突き落とされ、黒い空も黒い海も区別はつかなかった。
「リリリーン」
電話のベルがけたたましく鳴った。
デニスは豪華なキングサイズ・ベッドから飛び起きると受話器を取った。朝の五時である。
「帆船がトレス海峡で座礁しました。船員は無事です。すぐ来てください」
この時から、デニスの悪夢は始まった。
デニスが友人と二億円をかけて改造した帆船は、ブリスベーンからグレート・バリア・リーフを通り、ダーウインに向かっていく途中でサイクロンに捕まったのである。
無事にダーウインに着けば、帆船はそこからグアム島に行く予定であった。グアム島でその帆船は、遊覧船として、日本人の新婚旅行客が使うはずであった。
日本のJTB他の旅行代理店も、首を長くして帆船の到着を待っていたのである。だが船はあえなく廃船となってしまった。
「座礁は、何か良くない事の前兆のようよ……、もうこの事業はやめましょうよ」
デニスの奥方のジョイスは、そう言ってこれ以上の深入りをやめさせようとした。
「いや、乗りかかった船だし、保険金は全額入る、だから俺は続ける」
共同出資をしているほかの三人も、同じ考えであった。
そして、今度は中古船を買い、フィリピンのセブ島で改造をすることにしたのである。
裏切り
当時デニスは四〇歳。やり手の実業家で、ブルーマウンテンズ市の、名士の一人だった。そして、早くも引退して、優雅に余生を送ろうとしていた。その矢先に、アンディという男からこのベンチャー・ビジネスに誘われたのである。他にロドニー、バリーという二人の仲間も加わった。
フィリピンでの船の改造は、予想以上にお金がかかった。
「これじゃー、日本で、新しく船を作った方が安上がりだったなー」と、ボヤいてみても、後の祭。それでもとにかく、船は完成した。名前も付いた。『サイパン・レディ』である。
「金が足りないなー、どうしようか?」
「あと一嵐で、夢が実現するのに・・・」
「俺がまた金集めに行くよ、でも、誰か自分の家を売れないか? デニスはどう?」
「ワイフと共同名義になってるし、聞いてみるよ」
「ロドニーはどう?」
「俺も一人じゃ決められないな」
肥って眼鏡を掛けたアンディはこのプロジェクトの発起人であり、金集めの名手ということだった。
「とんでもないワ! 家を売るなんて! それだけは嫌よ」
ジョイスは全く取りあわなかった。
だが、ロドニーとバリーは家を売って、資金を作った。
「俺が、もう少し資金集めをしてくるよ。このままじゃ、船の保険金が払えないしな……」
アンディの提案はもっともだった。船は完成し、グアム島に無事着いた。シュフも、ダンサーも、船員もそろった。前評判は上々で、オープン前から半年分の予約が出来ていた。「夢の九九パーセントは叶った、あと一息だ」と、デニスは思った。あと、船の保険金を払うお金があればよいのだ。
保険金の工面のためと称して、アンディは海外に飛んだ。
三週間後である。
「いやー、いい船ですねー、アンディさんの言っていた通りだ」
「あなたはどなたですか?」
「この船の持ち主の一人ですよ…、ブラジルから来ました」
「エエー! そんな話、聞いていないなー」
「ほら、契約書もありますよ」
何が起こったかは明らかであった。
アンディは仲間を裏切って、船を売ってしまっていたのだ。しかも、ブラジル、シドニー、パリの三ヵ所で、三重に売っていたのである。
再び海の藻くずに
嵐が迫っていた。
グアム島はその台風に直撃された。『サイパン・レディ』は乗組員三〇名と共に、海の藻くずと消えてしまった。保険はもちろん掛かっていない。
三人は破産した。その上、グアム島では犯罪者として扱われた。デニスはすべての財産を手放したが借金は返せなかった。ロドニーは自殺した。バリーは気が狂って、精神病院に入った。
一〇年たった今、デニスは、ようやく借金の後始未が出来た。デニスが生き残れた重要な決め手は、ジョイスと共同名義にしてあった家が温存されていたことにあった。
今、デニスとジョイスは山に囲まれた牧場に住み、ようやく心休まる生活が出来るようになった。
オーストラリアの「契約社会」には、アンディのような悪者が沢山いる。私は彼らを、「契約社会の海賊たち」と呼んでいる。
「オーストラリア人は正直で、日本人よりよっぽど信用できるねー。会社のペン一本持って行かないからね。それに比べて日本人は公私混同してだらしがないよ」
シドニーで、ある日本の大企業のマネージャーと食事をしていた時の話である。この人は、すでにこの国に六年も住んでいるという。
これは、全くの考え違いである。
契約社会の住人は、すぐバレるような悪いことは、まずやらない。だが、バレない事が確実なら、何でもやりかねない。と、考えておくのが正解だ。
契約社会で、契約違反をすると、その制裁は、日本の社会では考えられないほど厳しい。だから、事務所のペン一本ですら持って行かないのは、当然である。
簡単に、優しい「調和社会」に住み慣れている日本人と比較するのは、間違いなのだ。
14.「フェア」&「アンフェア」
日本人は不正直?
「構わないわよ。見つかりっこないわよ、隠して持って行きなさいヨ」
「オーストラリアに帰ってすぐ食べたいんでしょ…」
「でも、税関には捕まりたくないしね……」
インドネシア旅行から帰るとき、筆者のボスは、友人たちから、肉や、香辛料などのお土産を、たくさん貰ったのである。
「せっかく皆がくれたんだし、持っていかないと悪いしネ」
「うーん」
「申告書は正確ですね?」
そう聞きながら、シドニー空港の金髪の女性税関職員はスーツケースを開けた。
「これは何ですか?」
それまで、ミロのビーナスのような柔和な笑みを浮かべていた税関職員の顔が、急にこわばった。
干した牛肉の袋が出てきたのだ。
ミロのビーナスの顔が紅潮した。ギラギラした眼で私達をにらんだ。そして、憤まんやるかたない、といった様子で、額に落ちてきた髪を掻き上げた。
「もう他にはないでしょうね!」
「スミマセン……もうありません」
「じゃー、肉は没収しますヨ」
ミロのビーナスは、天を仰ぎ、爆発しそうな感情を必死に抑えて、去って行った。
でも、これだけで済んだのは、幸運と言うべきだったろう。別室に連れ込まれ、洗いざらい調べられたって、文句はいえなかったのだ。
ある日本人の会社員は、鮭の燻製を駐在員へのお土産に持ってきた。ところが税関で見つかってしまった。鮭はオーストラリアでもとれ、輸入禁止品になっている。
契約社会では、ルールを守らないと、厳罰に処されるのだ。
日本の「調和社会」では「みんながやっているし、大したことじゃないから、大目に見てくれるかも……」などという甘い幻想を抱き、ルールを無視することもままありがち。だが、欧米の契約社会では、ルール違反は一切通用しない。
筆者もボスも、恥ずかしながらこの一件に懲りて、今では、税関に引っ掛かりそうな物は、一まとめにして手提げ袋に入れ、税関職員に見せるようにしている。
シドニーの税関では、「一般的に日本人は不正直な申告々する」という定評があり、日本人をブラックリストの上位に載せているそうである。
契約杜会のルール
「家を人に貸すのはいいけど、うっかりすると、そのまま居座られたりすると嫌だしなー」
「何を言っているんだシュン、そんな奴、警察を呼んできて、追い出せばいいじゃないか」
「工-、そんなこと出来るの?」
「当たり前だよ」
「でも・・・チョット厳し過ぎるんじゃない?」
「賃貸契約のルールを守らない奴なんて、どっちみち人間のクズさ、だから警察に追い出されても当たり前だよ」
「ウーン」
不動産屋のケリーは事もなげに言う。
このようにはっきりと言い切れる背景には、契約というものは、関係者に「公平」なものだ、という信念があるようだ。
だから、「公平」つまり「フェア」に出来ている契約を一方的に破る奴は悪人だ、と割り切れるわけである。
この「フェア」の観念は、契約社会では、きわめて重要視されている。
決められたルールないし契約に対して「フェア」であることは、契約社会が拠って立つ基盤であり、「アンフェア」が横行したら、契約社会は混乱に陥り、成り立っていかない。
だから「お前はアンフェアだ!」と言われることは、この国の人々にとって一番の侮辱になる。なぜなら、「お前はこの契約社会に住む資格がない」と宣言されているのと同じだからである。
こういう意識の中に住む契約社会の住人は、確かに表面的にはルールをよく守り、「アンフェア」などと後ろ指を差されるようなことはしないように努めている。
だが、だからといって、善人が多いと思ったら、それは大間違いである。
契約社会には「公平」のルールを悪用する「海賊たち」もまた、きわめて多いのである。
「海賊たち」の手口
「海賊たち」の手口には少なくとも三種類はあるようだ。
まず、「アンフェア」な内容の契約書を「フェア」であると偽るケース。
「フェア」の観念は、人の立場、考え方によって変わりうる。だから、外国で契約を結ぶときには、その内容が自分にとって「フェア」であるかどうかを、十分に検討する必要がある。
次は、契約書の不備を突いて、理屈をこじつけ違約金などを取るケース。
海外工事などで、日本企業がよくこの手に悩まされているという話を聞く。
そして、「フェア」な契約を一方的に破る犯罪者のケース。
今は億万長者となったジョニーの父親も、かつてはこんな「海賊」に一文無しにされた一人だという。
「俺の親父はね、チョットした資産家だったのさ。大きな牧場を経営し、大きな家を建てた直後に、詐歎にあったんだ。親父は、使っていた会計士に、株式投資するように勧められたのさ。親父は、家、土地を担保にいれて、銀行から金を借りたんだが、会計士は、その金を持ってドロンしたわけだ」
「警察に訴えなかったの?」
「もちろん裁判沙汰にしたさ。だけど、その会計士は、裁判に出頭するその日に高速道路で事故を起こし、丸焦げになってしまったんだ」
「死んだのは本当に本人なの?」
「いや、それがはっきりしなくてねー、なにしろ丸焦げで、身元確認が出来なくて。ただ、奴がその車に乗って家を出たのは確かなんだ」
「何か小説みたいな話だな…」
「ウン、俺は、奴がまだ生きていると思って、この十年間目を光らせてきたんだが、何の収穫もなかったよ」
15.ボスたちの陰謀
旦那の責任は奥さんを「美しく」保つことにある。そのためには昼も夜も男は献身しなければならない、と、洗脳されたのは、オーストラリアなのだろう。今でも、掃除・洗濯・料理・皿洗い、なんでもやる習慣が身について抜けない。大和男子としては情けないと言われるかもしれないが、まあ、慣れると苦ではない。だいたい、日本男児は国際的には女性からの評価が低い。雑誌「サピオ」を読んでいたら、エコノミストの森永さんが「専業主婦と子どもは不良債権です」と言っていたが、森永さんは外国には住めないな・・・、と思った。専業主婦を不良債権などといったら、『殺される』と思って間違いない。欧米では主婦が「ボス」なのだから。
バーベキュー・パーティ
ご夫人がたは台所、食堂にたむろし、ワインを舐めながらおしゃべりに夢中だ。筆者とトリントは寒い屋外で、ビールを飲みつつレンガでできているバーベキュー・コンロの鉄板の上に肉やソーセージなどを並べている。
夕方六時からのパーティに備えて、筆者は五時から火をおこし、薪の火加減を調節してきたのだ。子供たちは広い庭で、白転車を転がしながら遊んでいる。
「お肉が焼けたよ、お皿持ってきて」
「ハーイ」
こういういい返事ができるのも当然であろう。なぜなら、バーベキュー・パーティの場合、女性軍の仕事といったら、サラダを作ることと、ワインを飲むことぐらいしかないのだから・・・。イヤ、もう一仕事あった。おしゃべりである。
愚痴を言うわけではないが、オーストラリアでは、バーベキュー・パーティの料理を作るのは、男の仕事なのである。五年以上も鉄板の上で肉を焼いていると、不器用な筆者でも、いっぱしの料理の方法論を持つようになるから不思議である。
欧米社会では、何事も夫婦が一つの単位になって動くことは、読者もこ存じの通りである。だが、ご夫人がたが、男どもから「ボス」と呼ばれて尊敬されているとは、全く知らなかった。
私の「ボス」は、こちらに来たての頃は、家に人を呼ぶのを敬遠しがちだった。なにしろ三日がかりで、色々と料理の準備をしていたのである。
だが、こちらの生活に慣れるにしたがって、喜んで家に人を招くようになった。その一つの理由は、もちろんバーベキュー・パーティにある。なにしろ女性の仕事は楽だし、気軽に人を呼べるのである。
家に人を呼んでパーティをするかどうかを決めるのは、主としてご夫人がたである。だから、且那の方はその日になるまで知らないことも筆者の場合だけなく、よくあることなのだ。
そして、食事に呼んだり呼ばれたり、というのは、ほぼ二週間に一回はある。もちろん、夫婦同伴だし、コブも連れていくことが多い。その上、観劇だのダンス・パーティだのと、夫婦で外出する機会は、極めて多い。
結婚しない理由
「リック、そろそろ結婚しないの? 家も、士地もあるし、牧場まで持っているんだろう?」
「ああ、だけど結婚なんて嫌なこったね。シュン知ってるかい? 結婚したら、次の日に離婚しても、女に財産を半分持っていかれるんだぜ。それじゃ、一体何のために一生懸命働いてきたか分からないじゃないか。俺は、同棲はしても、結婚する気はないな」
これでは三〇歳になるリックは、当分結婚しそうもない。そして、この国には、同棲している人々、また、片親に育てられている子供たちが多い。何でもかんでも財産を半分持っていかれるとなると、いい加減な気持ちじゃ結婚できないわけだ。
「シュン、カモン、ダンス!」
「オー、イエス・・・」
「ダンスするのよ、シュン!」
「ハイ・・・」
こちらの女性に、このように命令されることが、たびたびある。もともと、純情可憐で気が弱く、若いころは、男でありながら、壁の徒花だった筆者には、このように命令されると、ダンスに出て行きやすくてありがたい。しかし、それにしても、こちらの女性は、男と対等か、それ以上の権力を持っている。
「何ですか、日曜の朝から庭の芝生も刈らずに奥様をほうり出して、ゴルフに行くとは!」
ある円本人の駐在員氏は、隣の家のオバさんから、このように怒鳴られたそうである。この日本人の家では、ご主人は営業マンであるうえに、根っからのゴルフ好きとあって、土日に、ほとんど家に居たことがなく、奥さんは「私はゴルフ未亡人」と嘆いていたらしい。その上、時々奥さんが芝刈りをしていたというのだ。
これでは、「日本の男はけしからん」とお小言を頂戴しても仕方がない。この国では、男が家庭を顧みず、家族を母子家庭同然にしていたら、たちまち奥さんに離婚されてしまうのだ。
女房たちの人脈
筆者が土地のロータリー・クラブに入ったのも、実は夫人がたの陰謀であった。なにしろ、筆者は家には寝に帰るだけで、住んでいる町の人々を、ほとんど知らなかったのである。
一方、わが家の「ボス」は、せっせと地元で友達を作っていた。三歳でこの国に来た息子のマーナを、幼稚園にやり、小学校に入れ、サッカー・チームに入れる間に、ガッチリと、強力なグループを作ってしまったのである。
「あなたの旦那様、昨日町で見たわよ、サングラスなんかかけちゃって、結構、色男風じゃない、ロータリー・クラブに入れたら?」
「でも……日本人だし、それにロータリー・クラブって、お金持ちの名士が入るんでしょ、私の家はただの庶民だから駄目よ」
「いいの、いいの、私たちが入れてあげるわよ。それにメンバーだって、そんなにお金持ちばかりじゃないのよ。社会に奉仕する気持ちがあればいいの。あなたのご主人は、町の子供たちに無料でテニスを教えているじゃない。そういう奉仕の心が大切なのよ」
「難しいと思うけど:::」
「まあ、いいから、私たちに任しときなさい。私たちのグループでロータリーのメンバーになっていないのは、あなたのご主人だけなんだから。それじゃ、つまらないじゃない」
「そうねー」
「シュン、キャッシーって覚えていない? ほら、幼稚園のパーティで紹介したでしょ」と、わが家のボスが聞く。
「ウーン」
「結構美人だ、って言ってたじゃない」
「あー、そういえば・・・」
「彼女のご主人がシングルの腕前で、シュンとゴルフをやりたいんだって」
「エッ、ほんと、それじゃいつでもやるって言っといて、いまアプローチで悩んでいるから、なにか教えて貰えるかもネ」 こんな具合にして、筆者をロータリー・クラブに入れる陰謀は、秘密裡のうちに進められていたのである。
バーベキュー・パーティ
ご夫人がたは台所、食堂にたむろし、ワインを舐めながらおしゃべりに夢中だ。筆者とトリントは寒い屋外で、ビールを飲みつつレンガでできているバーベキュー・コンロの鉄板の上に肉やソーセージなどを並べている。
夕方六時からのパーティに備えて、筆者は五時から火をおこし、薪の火加減を調節してきたのだ。子供たちは広い庭で、白転車を転がしながら遊んでいる。
「お肉が焼けたよ、お皿持ってきて」
「ハーイ」
こういういい返事ができるのも当然であろう。なぜなら、バーベキュー・パーティの場合、女性軍の仕事といったら、サラダを作ることと、ワインを飲むことぐらいしかないのだから・・・。イヤ、もう一仕事あった。おしゃべりである。
愚痴を言うわけではないが、オーストラリアでは、バーベキュー・パーティの料理を作るのは、男の仕事なのである。五年以上も鉄板の上で肉を焼いていると、不器用な筆者でも、いっぱしの料理の方法論を持つようになるから不思議である。
欧米社会では、何事も夫婦が一つの単位になって動くことは、読者もこ存じの通りである。だが、ご夫人がたが、男どもから「ボス」と呼ばれて尊敬されているとは、全く知らなかった。
私の「ボス」は、こちらに来たての頃は、家に人を呼ぶのを敬遠しがちだった。なにしろ三日がかりで、色々と料理の準備をしていたのである。
だが、こちらの生活に慣れるにしたがって、喜んで家に人を招くようになった。その一つの理由は、もちろんバーベキュー・パーティにある。なにしろ女性の仕事は楽だし、気軽に人を呼べるのである。
家に人を呼んでパーティをするかどうかを決めるのは、主としてご夫人がたである。だから、且那の方はその日になるまで知らないことも筆者の場合だけなく、よくあることなのだ。
そして、食事に呼んだり呼ばれたり、というのは、ほぼ二週間に一回はある。もちろん、夫婦同伴だし、コブも連れていくことが多い。その上、観劇だのダンス・パーティだのと、夫婦で外出する機会は、極めて多い。
結婚しない理由
「リック、そろそろ結婚しないの? 家も、士地もあるし、牧場まで持っているんだろう?」
「ああ、だけど結婚なんて嫌なこったね。シュン知ってるかい? 結婚したら、次の日に離婚しても、女に財産を半分持っていかれるんだぜ。それじゃ、一体何のために一生懸命働いてきたか分からないじゃないか。俺は、同棲はしても、結婚する気はないな」
これでは三〇歳になるリックは、当分結婚しそうもない。そして、この国には、同棲している人々、また、片親に育てられている子供たちが多い。何でもかんでも財産を半分持っていかれるとなると、いい加減な気持ちじゃ結婚できないわけだ。
「シュン、カモン、ダンス!」
「オー、イエス・・・」
「ダンスするのよ、シュン!」
「ハイ・・・」
こちらの女性に、このように命令されることが、たびたびある。もともと、純情可憐で気が弱く、若いころは、男でありながら、壁の徒花だった筆者には、このように命令されると、ダンスに出て行きやすくてありがたい。しかし、それにしても、こちらの女性は、男と対等か、それ以上の権力を持っている。
「何ですか、日曜の朝から庭の芝生も刈らずに奥様をほうり出して、ゴルフに行くとは!」
ある円本人の駐在員氏は、隣の家のオバさんから、このように怒鳴られたそうである。この日本人の家では、ご主人は営業マンであるうえに、根っからのゴルフ好きとあって、土日に、ほとんど家に居たことがなく、奥さんは「私はゴルフ未亡人」と嘆いていたらしい。その上、時々奥さんが芝刈りをしていたというのだ。
これでは、「日本の男はけしからん」とお小言を頂戴しても仕方がない。この国では、男が家庭を顧みず、家族を母子家庭同然にしていたら、たちまち奥さんに離婚されてしまうのだ。
女房たちの人脈
筆者が土地のロータリー・クラブに入ったのも、実は夫人がたの陰謀であった。なにしろ、筆者は家には寝に帰るだけで、住んでいる町の人々を、ほとんど知らなかったのである。
一方、わが家の「ボス」は、せっせと地元で友達を作っていた。三歳でこの国に来た息子のマーナを、幼稚園にやり、小学校に入れ、サッカー・チームに入れる間に、ガッチリと、強力なグループを作ってしまったのである。
「あなたの旦那様、昨日町で見たわよ、サングラスなんかかけちゃって、結構、色男風じゃない、ロータリー・クラブに入れたら?」
「でも……日本人だし、それにロータリー・クラブって、お金持ちの名士が入るんでしょ、私の家はただの庶民だから駄目よ」
「いいの、いいの、私たちが入れてあげるわよ。それにメンバーだって、そんなにお金持ちばかりじゃないのよ。社会に奉仕する気持ちがあればいいの。あなたのご主人は、町の子供たちに無料でテニスを教えているじゃない。そういう奉仕の心が大切なのよ」
「難しいと思うけど:::」
「まあ、いいから、私たちに任しときなさい。私たちのグループでロータリーのメンバーになっていないのは、あなたのご主人だけなんだから。それじゃ、つまらないじゃない」
「そうねー」
「シュン、キャッシーって覚えていない? ほら、幼稚園のパーティで紹介したでしょ」と、わが家のボスが聞く。
「ウーン」
「結構美人だ、って言ってたじゃない」
「あー、そういえば・・・」
「彼女のご主人がシングルの腕前で、シュンとゴルフをやりたいんだって」
「エッ、ほんと、それじゃいつでもやるって言っといて、いまアプローチで悩んでいるから、なにか教えて貰えるかもネ」 こんな具合にして、筆者をロータリー・クラブに入れる陰謀は、秘密裡のうちに進められていたのである。
16.オーストラリア魂
集まったのは七〇人ぐらい。ロビン、スー、ジュデイ、ジョナサンも、みんな居た。記者兼ファッションモデルだったスーは四〇歳になってもゴージャスで、ダンスも上手。ジョナサンは会社の社長。ジュデイはデザイナー。マルコムはアラスカ知事の首席報道官。
二五年ぶりに会ったが、複雑な心境だった。なんせ私は、当時、英語も下手で、みんなに助けてもらうことばかりが多かったからだ。だがそこは大和魂、サムライらしく、ダンスや会話を楽しんだ。
土地が変わると人情も変わる。オーストラリアのメイト主義などは知っておくと便利。
サンタモニカの海岸で
「どうしたんだ、シュン」
「メガネを海に落としたんだ」
「どの辺だ?」
「ウーン、分からないけど、海からまっすぐ上がって来たからなー-…」
「ヨシ! じゃー、皆で探そう」
「エツー?」
「オーイ!みんな集まれ! シュンがメガネを海に落としたんだ。これから、見つけるんだ」
マルコムが叫んだので、編集部の仲間たち、男女七、八人が集まってきた。ロビン、スー、ジュデイ、ジョナサン……みんな二十代のライターであり、イラストレーターだった。
「そんな、無理だよ、俺のためにそんなことしなくていいよ」
私は、ボディーサーフの練習を、メガネをかけたまましていて、大波に飲み込まれ、波の中で二、三回転したとき、メガネが海に落ちてしまったのだ。
私は、無謀なことをしていた訳で、自業自得と、あっさり諦めていたのである。
「さあ、みんな一列に並んで! 腕を組んで、沖に向かって、ユックリ歩いて行くんだ、いいか!」
「オウ!」
私は、マルコムをストップすることも諦めた。
〈まあいいや、ゲームのつもりなんだろう。全く、酔狂な達中だ〉
私は、半信半疑で、マルコムの隣に立ち、スーとも腕を組んだ。
「行くぞ!」
九人は、ユックリと沖に向かって歩き始めた。
それは、サンタモニカの海岸だった。
二十代の前半、私は、アメリカの雑誌の編集部に勤めていた。そして毎週、水曜日の三時からは、若い仲間と海岸に行き、バレーボールや波乗りを楽しんでいた。
<結論は出ている。メガネが大海の中から出てくる訳がないのだ…・・・。でも、まあいいや、スーと腕を組んでるし>
可愛くて、薄いブルーのビキニのよく似合うスーは、記者なのだが、ファッションモデルとしても売れていた。
「ストツプ!」
ジュデイの声だった。
「何か、足に引っ掛かったワ・・・」
ジュデイは下を向いて、何かを拾い上げた。
「やった-!」
「………ア・・・、アリガトウ・・・」
紛れもなく、それは私のメガネであった。
何事にも、諦観の発達している東洋の国の筆者に、この一件は良い教訓を与えてくれた。
メイト(友達)主義
マルコムたちが持っている「ネバー・ギブアップ」<決して、諦めない>の精神は、アメリカだけでなく、ここオーストラリアにもある。新世界を切り開いてきた開拓者魂なのであろう。
だが、オーストラリアには、さらに独特の精神がある。
***
「シュン、オーストラリアのパブで酒を飲む時は、絶対に、コップを伏せてテーブルの上に置くなよ。コップを伏せて置くと、<俺はこのパブで一番強いんだ、文旬のある奴は、出てこい>と宣言をしたことになるんだ。そしたら、腕っぶしに自信のある奴が出てきて、いきなり殴られるからな」
今は、仕事のパートナーとなったジョニーに、初めて夕食に呼ばれたときに、言われたことだ。
「それから、もう一つ、パブでビールをおごって貰ったら必ずおこり返せよ。そうしないと、お高く留まっている奴だ、と思われて嫌われるぜ。俺の国で一番嫌われるのは、ポミーみたいに、お高く留まっている奴なんだ」
「ポミーって何?」
「なんだい、ポミーも知らないのか! イギリス人のことだよ。奴らは俺たちのことを見下して、お高く留まっているのさ。オーストラリアは階級のない社会だったんだ。それが俺達の誇りだったんだけど、最近は残念ながら、イギリスみたいな階級が出来つつあるんだ。それでも、俺達は、やっぱり、皆“メイト“(友達)でなきゃいけないんだ。それがオーストラリア魂だよ」
「ふーん、オーストラリア人が一番好きなのは、イギリス人だと思っていたよ。金物屋のビルなんて、全くの英国崇拝者じゃない?」
「奴は、まだ白豪主義の中に生きている人間さ。それでも、奴は、大衆パブに行くだろう? そこで労働者階級の連中とビールを飲みながら、“俺は金持ちでも、お高くは留まってないぞ”ってことを示しているのさ」
ビールの消費量
オーストラリアのパブに行くと、見知らぬ人々でもすぐ友達になれる。そして、四、五人の間で、ビールをおごったり、おごられたりする。従って最低でも大きなコップに四、五杯は飲むことになる。
二、三時間パブにいたら、一五杯、二〇杯とビールを飲むことになりかねない。一人当たりのビールの消費量が日本人の三倍だというが、それも、この飲み方ならうなずけるわけである。
オーストラリアは二〇世紀の初めには、世界一の金持ちの国であった。ところが、今は二〇番台の後半である。
そして、外国への政府借款は、一九七〇年は三五億ドルだったが、今では一〇〇〇億ドルに追っている。メキシコ、ブラジルと余り変わらない。
著名な実業家ジョン・レアード氏に言わせると、それはウイットラム労働党政権に始まり、今も続いている社会福祉政策の行き過ぎにあるという。政府が外国からお金を借りて、国民の生活水準を保とうとしてきた、というわけだ。
平等主義、メイト主義の理想が、空振りしてしまった、と言うのが現在のオーストラリアの姿である。
***
「ジョニーはメイト主義がオーストラリア魂だってさ。そんなものかね?」
「それは男の世界だけじゃない? それより、“ドント・ウオーリー、ユー・ウィル・ビ・ライト”の精神が、オーストラリア魂よ。この国の人って、すぐ言うじゃない、何とかなるよ、心配するなって。すごい楽観的なのネ」
筆者のボスが言うとおり、この方が本当のオーストラリア魂かも知れない。
二五年ぶりに会ったが、複雑な心境だった。なんせ私は、当時、英語も下手で、みんなに助けてもらうことばかりが多かったからだ。だがそこは大和魂、サムライらしく、ダンスや会話を楽しんだ。
土地が変わると人情も変わる。オーストラリアのメイト主義などは知っておくと便利。
サンタモニカの海岸で
「どうしたんだ、シュン」
「メガネを海に落としたんだ」
「どの辺だ?」
「ウーン、分からないけど、海からまっすぐ上がって来たからなー-…」
「ヨシ! じゃー、皆で探そう」
「エツー?」
「オーイ!みんな集まれ! シュンがメガネを海に落としたんだ。これから、見つけるんだ」
マルコムが叫んだので、編集部の仲間たち、男女七、八人が集まってきた。ロビン、スー、ジュデイ、ジョナサン……みんな二十代のライターであり、イラストレーターだった。
「そんな、無理だよ、俺のためにそんなことしなくていいよ」
私は、ボディーサーフの練習を、メガネをかけたまましていて、大波に飲み込まれ、波の中で二、三回転したとき、メガネが海に落ちてしまったのだ。
私は、無謀なことをしていた訳で、自業自得と、あっさり諦めていたのである。
「さあ、みんな一列に並んで! 腕を組んで、沖に向かって、ユックリ歩いて行くんだ、いいか!」
「オウ!」
私は、マルコムをストップすることも諦めた。
〈まあいいや、ゲームのつもりなんだろう。全く、酔狂な達中だ〉
私は、半信半疑で、マルコムの隣に立ち、スーとも腕を組んだ。
「行くぞ!」
九人は、ユックリと沖に向かって歩き始めた。
それは、サンタモニカの海岸だった。
二十代の前半、私は、アメリカの雑誌の編集部に勤めていた。そして毎週、水曜日の三時からは、若い仲間と海岸に行き、バレーボールや波乗りを楽しんでいた。
<結論は出ている。メガネが大海の中から出てくる訳がないのだ…・・・。でも、まあいいや、スーと腕を組んでるし>
可愛くて、薄いブルーのビキニのよく似合うスーは、記者なのだが、ファッションモデルとしても売れていた。
「ストツプ!」
ジュデイの声だった。
「何か、足に引っ掛かったワ・・・」
ジュデイは下を向いて、何かを拾い上げた。
「やった-!」
「………ア・・・、アリガトウ・・・」
紛れもなく、それは私のメガネであった。
何事にも、諦観の発達している東洋の国の筆者に、この一件は良い教訓を与えてくれた。
メイト(友達)主義
マルコムたちが持っている「ネバー・ギブアップ」<決して、諦めない>の精神は、アメリカだけでなく、ここオーストラリアにもある。新世界を切り開いてきた開拓者魂なのであろう。
だが、オーストラリアには、さらに独特の精神がある。
***
「シュン、オーストラリアのパブで酒を飲む時は、絶対に、コップを伏せてテーブルの上に置くなよ。コップを伏せて置くと、<俺はこのパブで一番強いんだ、文旬のある奴は、出てこい>と宣言をしたことになるんだ。そしたら、腕っぶしに自信のある奴が出てきて、いきなり殴られるからな」
今は、仕事のパートナーとなったジョニーに、初めて夕食に呼ばれたときに、言われたことだ。
「それから、もう一つ、パブでビールをおごって貰ったら必ずおこり返せよ。そうしないと、お高く留まっている奴だ、と思われて嫌われるぜ。俺の国で一番嫌われるのは、ポミーみたいに、お高く留まっている奴なんだ」
「ポミーって何?」
「なんだい、ポミーも知らないのか! イギリス人のことだよ。奴らは俺たちのことを見下して、お高く留まっているのさ。オーストラリアは階級のない社会だったんだ。それが俺達の誇りだったんだけど、最近は残念ながら、イギリスみたいな階級が出来つつあるんだ。それでも、俺達は、やっぱり、皆“メイト“(友達)でなきゃいけないんだ。それがオーストラリア魂だよ」
「ふーん、オーストラリア人が一番好きなのは、イギリス人だと思っていたよ。金物屋のビルなんて、全くの英国崇拝者じゃない?」
「奴は、まだ白豪主義の中に生きている人間さ。それでも、奴は、大衆パブに行くだろう? そこで労働者階級の連中とビールを飲みながら、“俺は金持ちでも、お高くは留まってないぞ”ってことを示しているのさ」
ビールの消費量
オーストラリアのパブに行くと、見知らぬ人々でもすぐ友達になれる。そして、四、五人の間で、ビールをおごったり、おごられたりする。従って最低でも大きなコップに四、五杯は飲むことになる。
二、三時間パブにいたら、一五杯、二〇杯とビールを飲むことになりかねない。一人当たりのビールの消費量が日本人の三倍だというが、それも、この飲み方ならうなずけるわけである。
オーストラリアは二〇世紀の初めには、世界一の金持ちの国であった。ところが、今は二〇番台の後半である。
そして、外国への政府借款は、一九七〇年は三五億ドルだったが、今では一〇〇〇億ドルに追っている。メキシコ、ブラジルと余り変わらない。
著名な実業家ジョン・レアード氏に言わせると、それはウイットラム労働党政権に始まり、今も続いている社会福祉政策の行き過ぎにあるという。政府が外国からお金を借りて、国民の生活水準を保とうとしてきた、というわけだ。
平等主義、メイト主義の理想が、空振りしてしまった、と言うのが現在のオーストラリアの姿である。
***
「ジョニーはメイト主義がオーストラリア魂だってさ。そんなものかね?」
「それは男の世界だけじゃない? それより、“ドント・ウオーリー、ユー・ウィル・ビ・ライト”の精神が、オーストラリア魂よ。この国の人って、すぐ言うじゃない、何とかなるよ、心配するなって。すごい楽観的なのネ」
筆者のボスが言うとおり、この方が本当のオーストラリア魂かも知れない。
17.組合国家への企業進出
オーストラリアは世界に冠たる組合国家。労働者が作る組合が、政治・経済を大きく左右している。平等主義が好まれるオーストラリアの良いところとも言えるが、反面、労使関係の専門家を雇うなど、いろいろ面倒だ。
だがこれは、主として大企業の話。オーストラリアでガソリンスタンドや金物屋、靴屋や本屋など小企業を経営すると、このような組合の問題には、ほとんど関係ない。そして人を雇わず、自力で働いている分には、働いた分だけお金持ちになれる。人に任さず、全てを家族でやる気なら、すぐにでも富豪になれる不思議な国。
生活レベルも住宅事情・食品の物価・テニスコートやゴルフ場の設備を考えると、日本よりも高いとも言える。ホント、こんなに住みやすい国も珍しい。オーストラリアは今も、ラッキーカントリー。
独裁者の存在
フサフサした白髪、白い顎ヒゲ、薄い唇、銀ぶちの眼鏡、眼鏡の後ろからは、鋭い、深いブルーの眼が、あたりを脾睨している、ランドールは、身長が一六〇センチもない、筋肉質の小男である。
隣には、助手を務める一流大学出の、才色兼備のルース嬢が、栗色の髪を風になびかせている。
二人はシドニーの中国人街の近くにある、ニューサウスウェールズ州労働評議会のビルに向かっていた。
ビルの入口には、オーストラリアを代表する大企業の幹部がたむろし、ランドールが来るのを待っていた。ランドールは、州の火力発電所で発生したストライキを解決するため、労働組合の代表たちとの交渉に当たる経営者側の中心人物である。
オーストラリアに進出する日本企業の、第一の関心は、この国の組合事情であろう。何といっても、オーストラリアは世界に冠たる組合国家だからである。
たとえば、組合労働者の賃金や労働条件は、個別の会社では決めず、職種別の組合と、経営者団体が交渉して決めている。
現在は国の政権を担当し、ストを押さえ込むのに懸命なホーク首相も、以前は労働組合の議長として、オーストラリアをストの嵐に巻き込んだ張本人なのである。
この「組合国家」が、このところ、日本の電力会社などに「うちに来て、会社の経営でもしませんか?」と、ウインク・シグナルを送っているという。
日本の大企業がこの国に進出する場合、労使関係の専門家を雇う必要が出てくるかもしれない。だが、この種の専門家を使いこなすのは、この国の経営者にとっても、易しくないようだ。
筆者は、過去二年間、ある日本企業の代表として、つぶさに労使の交渉現場を目撃して来た。そして、そこに“独裁者”と呼ばれる、労使関係(インダストリアル・リレーションズ)の専門家がいた。ランドールもそんな一人である。交渉の場で
「皆さんお早いですな……それでは行きますか…」
ランドールが言うと、総勢一九名の経営者側代表たちは、小さなランドールを押し包むようにして、エレベータヘ向かった。
大会議室は九階にあった。牛皮張りのアームチェアーが四〇ほど、マホガニーのテーブルを囲んでいる。三方の壁には歴代の組合議長の大肖像画が、所狭しとぶらさがり、侵入者たちを見下ろしている。
窓側の席には、各組合の代表たちが座り、反対側に経営者側、正面には議長を務める小肥りのサムが座っている。
「それではランドール、経営者側の考えを聞かせてくれ」
「エラリングでおこしているストライキは契約違反だ。発電所が定期点検中は、ストはしない約束だ。間題があればすぐサムに連絡し、会議をすることになっていたはずだ」
「いや! 違う! それは・…」
「ピート、人が発言しているときは、静かに聞くもんだ。あんたのその態度から見ても、組合側がルールを守らないのが良く分かる」
「先に進んでくれランドール」
「経営者側としては、今日中にストを中止するよう要求する。それができないなら、今年結んだ、賃金、労働条件の契約を、即、キャンセルする」
「分かったランドール、すまないが経営者側は、別室に控えていてくれ、ちょっと組合側だけで相談したいから……」
別室でのランドールは満面に笑みを浮かべていた。
「ピートのやつ、今頃みんなに吊し上げられているぜ。あいつは戦闘的だから、いいおきゅうになるよ」
「素晴らしい交渉術だったよランドール。契約を破棄するなんて、不可能なのに、みんな、信じ込んでたぜ。今日も勝ったな」
オーストラリア最大の建設会社、トランスフィールド社の組合担当部長は、いつも、ランドールの太鼓持ちをする。
実のところ、この経営者側の集まりで、面と向かってランドールと、対決できる人はいないのだ。大企業の取締役が揃っているのだが、それでも勝てない。
それというのも、ランドールは、組合、経営者側、そして客先である電力庁の、三者の力関係を巧妙に操り、その真ん中に堂々と君臨しているからである。
紛争は商売の種
「ソェームス、ランドールはいったい誰の味方なの? 我々が雇っているのに、電力庁の要求を押しつけて来るし、その上、組合ともベッドインしてるとか・・・」
ジェームスはGEC社の幹部で、経営者側の会長をしている。温厚な好人物で、"独裁者"とは、無二の親友だという。
「いや…、ランドールは随分身体を張って電力庁と戦ってくれているよ、シュン。組合とベッドインするのも、彼の仕事のうちさ。嫌な役目だと思わない?」
「ウン・・・それにしてもランドールを嫌う経営幹部は多いねー」
「ハッハッハッ、それはねシュン、いつもランドールにやり込められているからさ。労使関係というのは、昔からの人間関係と、いきさつが重要なんだ。だからほとんどの経営者は、素人同然さ。ランドールに苦言を呈する時には、気をつけなくちゃいけないことが分かるだろう?」
「うん・…」
「労使関係の専門家は、わざと、問題を複雑にしている処もあるけどな。誰にでもすぐ理解できるようだったら、専門家としての立場がなくなるからね……」
労使関係の専門家というのは、いわば「労使の対決」を、商売のタネにしているわけである。したがって、このような専門家を雇わなくてはならないような海外進出ならば、止めておいたほうが賢明だ、というのが筆者の結論である。
だがこれは、主として大企業の話。オーストラリアでガソリンスタンドや金物屋、靴屋や本屋など小企業を経営すると、このような組合の問題には、ほとんど関係ない。そして人を雇わず、自力で働いている分には、働いた分だけお金持ちになれる。人に任さず、全てを家族でやる気なら、すぐにでも富豪になれる不思議な国。
生活レベルも住宅事情・食品の物価・テニスコートやゴルフ場の設備を考えると、日本よりも高いとも言える。ホント、こんなに住みやすい国も珍しい。オーストラリアは今も、ラッキーカントリー。
独裁者の存在
フサフサした白髪、白い顎ヒゲ、薄い唇、銀ぶちの眼鏡、眼鏡の後ろからは、鋭い、深いブルーの眼が、あたりを脾睨している、ランドールは、身長が一六〇センチもない、筋肉質の小男である。
隣には、助手を務める一流大学出の、才色兼備のルース嬢が、栗色の髪を風になびかせている。
二人はシドニーの中国人街の近くにある、ニューサウスウェールズ州労働評議会のビルに向かっていた。
ビルの入口には、オーストラリアを代表する大企業の幹部がたむろし、ランドールが来るのを待っていた。ランドールは、州の火力発電所で発生したストライキを解決するため、労働組合の代表たちとの交渉に当たる経営者側の中心人物である。
オーストラリアに進出する日本企業の、第一の関心は、この国の組合事情であろう。何といっても、オーストラリアは世界に冠たる組合国家だからである。
たとえば、組合労働者の賃金や労働条件は、個別の会社では決めず、職種別の組合と、経営者団体が交渉して決めている。
現在は国の政権を担当し、ストを押さえ込むのに懸命なホーク首相も、以前は労働組合の議長として、オーストラリアをストの嵐に巻き込んだ張本人なのである。
この「組合国家」が、このところ、日本の電力会社などに「うちに来て、会社の経営でもしませんか?」と、ウインク・シグナルを送っているという。
日本の大企業がこの国に進出する場合、労使関係の専門家を雇う必要が出てくるかもしれない。だが、この種の専門家を使いこなすのは、この国の経営者にとっても、易しくないようだ。
筆者は、過去二年間、ある日本企業の代表として、つぶさに労使の交渉現場を目撃して来た。そして、そこに“独裁者”と呼ばれる、労使関係(インダストリアル・リレーションズ)の専門家がいた。ランドールもそんな一人である。交渉の場で
「皆さんお早いですな……それでは行きますか…」
ランドールが言うと、総勢一九名の経営者側代表たちは、小さなランドールを押し包むようにして、エレベータヘ向かった。
大会議室は九階にあった。牛皮張りのアームチェアーが四〇ほど、マホガニーのテーブルを囲んでいる。三方の壁には歴代の組合議長の大肖像画が、所狭しとぶらさがり、侵入者たちを見下ろしている。
窓側の席には、各組合の代表たちが座り、反対側に経営者側、正面には議長を務める小肥りのサムが座っている。
「それではランドール、経営者側の考えを聞かせてくれ」
「エラリングでおこしているストライキは契約違反だ。発電所が定期点検中は、ストはしない約束だ。間題があればすぐサムに連絡し、会議をすることになっていたはずだ」
「いや! 違う! それは・…」
「ピート、人が発言しているときは、静かに聞くもんだ。あんたのその態度から見ても、組合側がルールを守らないのが良く分かる」
「先に進んでくれランドール」
「経営者側としては、今日中にストを中止するよう要求する。それができないなら、今年結んだ、賃金、労働条件の契約を、即、キャンセルする」
「分かったランドール、すまないが経営者側は、別室に控えていてくれ、ちょっと組合側だけで相談したいから……」
別室でのランドールは満面に笑みを浮かべていた。
「ピートのやつ、今頃みんなに吊し上げられているぜ。あいつは戦闘的だから、いいおきゅうになるよ」
「素晴らしい交渉術だったよランドール。契約を破棄するなんて、不可能なのに、みんな、信じ込んでたぜ。今日も勝ったな」
オーストラリア最大の建設会社、トランスフィールド社の組合担当部長は、いつも、ランドールの太鼓持ちをする。
実のところ、この経営者側の集まりで、面と向かってランドールと、対決できる人はいないのだ。大企業の取締役が揃っているのだが、それでも勝てない。
それというのも、ランドールは、組合、経営者側、そして客先である電力庁の、三者の力関係を巧妙に操り、その真ん中に堂々と君臨しているからである。
紛争は商売の種
「ソェームス、ランドールはいったい誰の味方なの? 我々が雇っているのに、電力庁の要求を押しつけて来るし、その上、組合ともベッドインしてるとか・・・」
ジェームスはGEC社の幹部で、経営者側の会長をしている。温厚な好人物で、"独裁者"とは、無二の親友だという。
「いや…、ランドールは随分身体を張って電力庁と戦ってくれているよ、シュン。組合とベッドインするのも、彼の仕事のうちさ。嫌な役目だと思わない?」
「ウン・・・それにしてもランドールを嫌う経営幹部は多いねー」
「ハッハッハッ、それはねシュン、いつもランドールにやり込められているからさ。労使関係というのは、昔からの人間関係と、いきさつが重要なんだ。だからほとんどの経営者は、素人同然さ。ランドールに苦言を呈する時には、気をつけなくちゃいけないことが分かるだろう?」
「うん・…」
「労使関係の専門家は、わざと、問題を複雑にしている処もあるけどな。誰にでもすぐ理解できるようだったら、専門家としての立場がなくなるからね……」
労使関係の専門家というのは、いわば「労使の対決」を、商売のタネにしているわけである。したがって、このような専門家を雇わなくてはならないような海外進出ならば、止めておいたほうが賢明だ、というのが筆者の結論である。
18.テニスと人種差別
子どもたちのボスに
「シュン、テニスチームのキャプテンやってくれないか? 一三歳から一八歳の男の子と女の子を、九人ばかり預けるから面倒見てよ。シュンならプレーイング・キャプテンができるだろう」
ビンスからの電話だった。
ビンスは、スプリングウッドテニスクラブの責任者なのだ。
このテニスクラブは、ブルーマウンテン市最大のクラブで、特に若手の育成には、力を入れている。
そして、頼まれたチームは、シドニー市西方のネビアン地区のリーグ戦に出場するのである。試合は毎週土曜日の午後に行われ、男子ダブルス四試合、女子ダブルス一試合、混合ダブルス四試合の、計九試合で勝敗を決める。そして、リーグ戦は六ヵ月にわたって行われるのだ。私は妻に相談した。
「どう思う? 白人の子供たちのボスになるのは面白そうだげど・・・」
「大変そうねー、でも、よく頼んできたわね。外国人、それも日本人でしょう。子供たちが素直に従ってくれるかしら?」
「どうかなー、でもまー、やってみるか」
こんな事情でスタートしたテニス・チームのキャプテン稼業は、もう二年半も続いている。チームメイトも、延べ人数では二〇人を超えるだろう。
キャプテンの仕事というと、出場メンバーの決定、技術指導、マナー指導、送り迎え、家族のバックアップの確認など、いろいろある。そして、何よりも、子供たちの人間的な成長を計ることと、優勝をすることが、大切なのだ。
アジア人の犯罪
オーストラリアの子供たちは、しっかりしており、素直な子が多い。そのうえ、バネッサやサンディのような、ファッションモデルにしたいような、「カワユイ」子がいるのだから、ロリコン中年男にとっては、少々の苦労は物の数ではない。
とはいえ、楽な仕事では決してなかった。
「今日の相手はどんなチームかなー? 誰か知ってる?」
「……・……」
「コートは人工芝かな? それともクレーかな?」
「…………・」
「行ったことある人いないの?」
「・…・………・」
「今日は勝ちたいね」
「……………」
キャプテンになりたての頃の、車の中での会話と言うと、大体こんなものだった。こちらも緊張しており、会話が続かず、三〇分間も車の中で、無言のままだったりしたものである。
「今朝のニュース聞いた、シュン? またベトナム人が殺しあいやったのよ。まったくあのアジアの連中ときたら、ベトナムに帰ればいいのに・・・」
今日はマイケルの母親のジェーンが、一緒に車に乗った。
「ほんとにねー」
「このところ、アジアからの移民が多すぎるのよ。オーストラリアもアメリカみたいに、人種がごちゃまぜの、嫌な国になって来たわねー」
「・…………」
ジェーンは、全く悪気なく話している。
〈俺もアジア人だし、よくベトナム人とも間違えられるんだけどなー〉と、私は思ったけど、もちろん何も言わなかった。
オーストラリアの子供は、大体マナーがいいのだが、中には例外もいる。そういうマナーの悪い子は、準決勝、決勝戦などの大事な試合には、出さないのも、キャプテンの大事な仕事である。
「カイリー、今夜はテニスの後、シュンに送ってもらいなさいね。良い人に送ってもらうんだから大丈夫よ」
「ハイ」
カイリーは一五歳になる可愛い女の子である。筆者がキャプテンを務めるテニスチームの一員で、無口な努力家だ。
カイリーの親父さんは大工で、オーストラリアでは、労働者階級に属する一家である。そして、必ずしも外国人に対して好意的な家族とは限らない。
現に、カイリーと初めて会ったときは、私は、全く彼女に無視されていたのだが、今では不安気なく、慕ってくれるようになった。
同じ人間なのに
それにしても若い娘を、外国人の中年男に預けるのは、勇気ある決断だと思う。ここオーストラリアでは、麻薬がらみの犯罪が、レイプとともに増えており、午後六時を過ぎたら、若い娘は電車にも乗らないようにしているのだ。
シドニーなどのカラフルな大都会と違い、筆者の住む田舎の山村は、未だに白豪主義のモノトーン一色である。
徒って、カイリーのような子供たちから慕われるまでには、大きな壁を壊さなければならなかったのだ。
「シュン、またキヤプテンやってよ。子供たちがシュンがいいって言うんだ。シユンのこと気にいっているし、尊敬しているってさ」
「ホント? そ-言われちゃー断れないな」
このビンスのことばに勇気付けられ、何とかキヤプテン稼業を、続けてきたのである。
*「私達は全く同じ人間です。見た目は少々違っても、基木的には同じです。日本人の行動様式は皆さんには理解できにくいところがあるかもしれません。でも、それは、私がこれから説明する、口本の[調和主義]を理解して戴ければ、疑問は、全て、解消するはずです。」
筆者はこれまで四回ほどロータリークラブで日本の調和主義についてスピーチをしたが、いずれの場合にも必ず、「我々は同じ人間なのだ」という事の確認から、スピーチを始めている。
新聞への投書も三回ほどしているが、やはり、一言、同じことを確認している。
それというのも、日本人は、何か全く別の動物で、理解するのはほぼ不可能に近い、と思われている節があるからである。
この田舎町に長いこと住んでいて、正直なところ、未だに、珍しい動物を見るような目で、ジロジロ見られている感じがする時があるのである。
「シュン、テニスチームのキャプテンやってくれないか? 一三歳から一八歳の男の子と女の子を、九人ばかり預けるから面倒見てよ。シュンならプレーイング・キャプテンができるだろう」
ビンスからの電話だった。
ビンスは、スプリングウッドテニスクラブの責任者なのだ。
このテニスクラブは、ブルーマウンテン市最大のクラブで、特に若手の育成には、力を入れている。
そして、頼まれたチームは、シドニー市西方のネビアン地区のリーグ戦に出場するのである。試合は毎週土曜日の午後に行われ、男子ダブルス四試合、女子ダブルス一試合、混合ダブルス四試合の、計九試合で勝敗を決める。そして、リーグ戦は六ヵ月にわたって行われるのだ。私は妻に相談した。
「どう思う? 白人の子供たちのボスになるのは面白そうだげど・・・」
「大変そうねー、でも、よく頼んできたわね。外国人、それも日本人でしょう。子供たちが素直に従ってくれるかしら?」
「どうかなー、でもまー、やってみるか」
こんな事情でスタートしたテニス・チームのキャプテン稼業は、もう二年半も続いている。チームメイトも、延べ人数では二〇人を超えるだろう。
キャプテンの仕事というと、出場メンバーの決定、技術指導、マナー指導、送り迎え、家族のバックアップの確認など、いろいろある。そして、何よりも、子供たちの人間的な成長を計ることと、優勝をすることが、大切なのだ。
アジア人の犯罪
オーストラリアの子供たちは、しっかりしており、素直な子が多い。そのうえ、バネッサやサンディのような、ファッションモデルにしたいような、「カワユイ」子がいるのだから、ロリコン中年男にとっては、少々の苦労は物の数ではない。
とはいえ、楽な仕事では決してなかった。
「今日の相手はどんなチームかなー? 誰か知ってる?」
「……・……」
「コートは人工芝かな? それともクレーかな?」
「…………・」
「行ったことある人いないの?」
「・…・………・」
「今日は勝ちたいね」
「……………」
キャプテンになりたての頃の、車の中での会話と言うと、大体こんなものだった。こちらも緊張しており、会話が続かず、三〇分間も車の中で、無言のままだったりしたものである。
「今朝のニュース聞いた、シュン? またベトナム人が殺しあいやったのよ。まったくあのアジアの連中ときたら、ベトナムに帰ればいいのに・・・」
今日はマイケルの母親のジェーンが、一緒に車に乗った。
「ほんとにねー」
「このところ、アジアからの移民が多すぎるのよ。オーストラリアもアメリカみたいに、人種がごちゃまぜの、嫌な国になって来たわねー」
「・…………」
ジェーンは、全く悪気なく話している。
〈俺もアジア人だし、よくベトナム人とも間違えられるんだけどなー〉と、私は思ったけど、もちろん何も言わなかった。
オーストラリアの子供は、大体マナーがいいのだが、中には例外もいる。そういうマナーの悪い子は、準決勝、決勝戦などの大事な試合には、出さないのも、キャプテンの大事な仕事である。
「カイリー、今夜はテニスの後、シュンに送ってもらいなさいね。良い人に送ってもらうんだから大丈夫よ」
「ハイ」
カイリーは一五歳になる可愛い女の子である。筆者がキャプテンを務めるテニスチームの一員で、無口な努力家だ。
カイリーの親父さんは大工で、オーストラリアでは、労働者階級に属する一家である。そして、必ずしも外国人に対して好意的な家族とは限らない。
現に、カイリーと初めて会ったときは、私は、全く彼女に無視されていたのだが、今では不安気なく、慕ってくれるようになった。
同じ人間なのに
それにしても若い娘を、外国人の中年男に預けるのは、勇気ある決断だと思う。ここオーストラリアでは、麻薬がらみの犯罪が、レイプとともに増えており、午後六時を過ぎたら、若い娘は電車にも乗らないようにしているのだ。
シドニーなどのカラフルな大都会と違い、筆者の住む田舎の山村は、未だに白豪主義のモノトーン一色である。
徒って、カイリーのような子供たちから慕われるまでには、大きな壁を壊さなければならなかったのだ。
「シュン、またキヤプテンやってよ。子供たちがシュンがいいって言うんだ。シユンのこと気にいっているし、尊敬しているってさ」
「ホント? そ-言われちゃー断れないな」
このビンスのことばに勇気付けられ、何とかキヤプテン稼業を、続けてきたのである。
*「私達は全く同じ人間です。見た目は少々違っても、基木的には同じです。日本人の行動様式は皆さんには理解できにくいところがあるかもしれません。でも、それは、私がこれから説明する、口本の[調和主義]を理解して戴ければ、疑問は、全て、解消するはずです。」
筆者はこれまで四回ほどロータリークラブで日本の調和主義についてスピーチをしたが、いずれの場合にも必ず、「我々は同じ人間なのだ」という事の確認から、スピーチを始めている。
新聞への投書も三回ほどしているが、やはり、一言、同じことを確認している。
それというのも、日本人は、何か全く別の動物で、理解するのはほぼ不可能に近い、と思われている節があるからである。
この田舎町に長いこと住んでいて、正直なところ、未だに、珍しい動物を見るような目で、ジロジロ見られている感じがする時があるのである。
19.欧米コンプレックス
欧米人に対する日本人の劣等感には根強いものがある。だが、バブル経済の効用か、日本人も大分、自信をつけたようだ。でもそれでも、欧米崇拝はどうにもならない。なぜなら、謙虚に世界の現状を見れば、地球は欧米人によって経営されているからだ。
日本は今も昔も世界政治のわき役でしかない。完全な独立国とも言い難い。第二次世界大戦後は米国のお妾さん的立場からいまだに抜けていない。米国大統領の顔色を窺わなければ、何もできないのが、今も昔も日本の政治家だ。それが良いか悪いかは別として、事実は変わらない。
でも海外における日本人は、特に東南アジアで傲慢不遜に振る舞う。それは今も変わっていない。それにはもちろん理由がある。貧富の差が激しい東南アジア諸国では、教育を受けていない人が多い。そういう人々は、やはり思考することに慣れていない面がある。だから馬鹿にする。
バブルの時は日本人の傲慢さが、オーストラリア人や米国人にも向けられた。だがそれは一瞬で終わった。日本人が欧米からの劣等意識から脱却するには、まだ一〇〇年はかかりそうだ。
***機内販売の日本語
日本へ帰る途中の出来事である。カンタス航空のジャンボ機は成田に近づいていた。機内の後部では、最後の免税品の販売が行われている。
「コレハ、イイシナモノデス。オカイドクデスヨ」
オーストラリア人のパーサーは、一生懸命片言の日本語で、ウイスキーや香水の販売に努めていた。
「おいおい、もうちよっとましな日本語、しゃべれよー。お客様は日本人なんだからな」
「……………」
「ほんと、生意気だよな、乗客がほとんど日本人なのに、ろくな日本語しゃべれねんだから」
「………」
「俺だって英会話ぐらいできるぜ、だけど、日本人相手の店に行ったら、世界中どこでも日本語で通すことにしてんだ」
「……」
パーサーは何も言わず、下を向き、赤い顔をして販売を続けた。
苦言を呈した日本人は、まだ三〇歳前に見える著者だった。赤いシャツに白いズボンをはき、腹がすこし出てきており、背も高く、何やらお金持ち風だ。
こういう堂々たる? 傲岸不遜な日本人は、観光地のあちらこちらで見かける。
確かに理屈の上では、この若者にも、一理はある。日本人に物を売る商売をしているんだから日本語ぐらい上手に話せ、というわけだ。
だが、この若者の言葉は、いささかパーサーには酷なような気がする。パーサーは彼なりに一生懸命、日本語を話しているからだ。
それに、この若者は、もっと商売熱心になれと言いたいようだが、果たして全ての人が、日本人のように、商売熱心になる必要があるのだろうか?
事実、我々日本人は、商売熱心すぎて、世界中からエコノミック・アニマルとして、嫌われているではないか。
このように考えてくると、この若者の態度には、大きな問題があるような気がしてくる。
自然にでた現地語
インドネシアでもテニスは盛んである。
人口二〇〇万のスラバヤ市でも、やはりテニスは盛んだった。
四〇度を超える猛暑の中、筆者もよくテニスをしたものである。
「女房殿、ちょとテニスに行ってくるよ」
「こんなに暑いのに、本気?」
「もちろん……ロジャーというオーストラリア人とシングルスの約束してるんだ」
「ギラ(気違い)ねー、生きて返ってきてよ」
「まだ、死ぬお告げがないから大丈夫だ」
オーストラリアに住む前、筆者とその家族はスラバヤ市に二年間ほど住んでいたのだ。息子もスラバヤで生まれている。
試合は終わった。手強い相手ではあったが、なんとか勝てた。
「参った、参った、シュンがこんなにテニスができるとは知らなかったよ。今度、教えてもらわなくちゃ」
「アンダ、ジュガ、パンダイ、ブルマイン、テニス(君こそ、うまいじゃないか)」
「じゃ、また来週やろうか」
「サンパイ、クツム、ラギ、スラマツド、チアン(じゃ、また会おう、さようなら)」
この日はなぜか、ロジャーの顔を見ても英語がさっぱり出てこず、インドネシア語ばかり出てきたのだ。なぜか、うれしかった。
「万歳! 今日は乾杯だ」
「テニスに勝った程度で、おおげさね」
「イヤ、そんなことじゃ-ないんだ、今日ロジャーと話していて、全然、英語が出てこなかったんだ。最高だよ」
「何で?」
「だって、欧米人に会うと、無意識のうちに英語でしゃべっちゃうだろう、そういう自分が嫌でたまらなかったんだ。奴らに劣等感を持っている証拠のような気がしてね。でも、今日は自動的にインドネシア語が出てきたんだ。最高だよ! 俺はついに欧米人への劣等感からフリーになったのかな?」
「フーン、どうかしらね」
国際人への三段階
最近は変わったかも知れないが、二〇年ほど前は、東京の地下鉄の中などで欧米人と話をしていると、周りの人から、ジロジロと見られたものである。
そして、見られたほうは、何となく優越感を感じ、高揚した気分になったものだ。
まだ若かった筆者も、そういう人間の一人で、優越感を感じるたびに、自己嫌悪に陥ったものだった。
何故なら、この優越感は、欧米人に対する劣等感の裏返しでしかないことを、十分に知っていたし、痛く感じていたからだ。
インドネシアのテニスコートで、筆者がうれしかったのは、白人を前にして英語が全く出てこなかったからである。
* さて、欧米人に対する劣等感という視点からとらえると、一般的日本人の国際化には、次の三段階があるようである。
第一段階は、露骨に劣等感を持っており、欧米人を崇拝し、アジア人を蔑視する段階である。
このような意識を持つ人々は、まだ日本の社会にたくさん存在するが、少なくとも本誌を読むような人は、この段階を卒業していると見てよいだろう。だが潜在意識の中では、劣等感は今でも、根強く我々の中に存在し、時々表面に噴出してくる。
第二段階は、欧米人なんか恐くない。日本人は偉いんだ、と、開き直る段階である。
冒頭の若者はこの段階にあることになる。この段階は自己主張があるだけ第一段階よりはましだが、しかし、相変わらず潜在意識の中の劣等感は、変わらない。
第三段階になると、潜在意識の中の劣等感も、なくなるようだ。こういう人を国際人と言うのであろう。
日本は今も昔も世界政治のわき役でしかない。完全な独立国とも言い難い。第二次世界大戦後は米国のお妾さん的立場からいまだに抜けていない。米国大統領の顔色を窺わなければ、何もできないのが、今も昔も日本の政治家だ。それが良いか悪いかは別として、事実は変わらない。
でも海外における日本人は、特に東南アジアで傲慢不遜に振る舞う。それは今も変わっていない。それにはもちろん理由がある。貧富の差が激しい東南アジア諸国では、教育を受けていない人が多い。そういう人々は、やはり思考することに慣れていない面がある。だから馬鹿にする。
バブルの時は日本人の傲慢さが、オーストラリア人や米国人にも向けられた。だがそれは一瞬で終わった。日本人が欧米からの劣等意識から脱却するには、まだ一〇〇年はかかりそうだ。
***機内販売の日本語
日本へ帰る途中の出来事である。カンタス航空のジャンボ機は成田に近づいていた。機内の後部では、最後の免税品の販売が行われている。
「コレハ、イイシナモノデス。オカイドクデスヨ」
オーストラリア人のパーサーは、一生懸命片言の日本語で、ウイスキーや香水の販売に努めていた。
「おいおい、もうちよっとましな日本語、しゃべれよー。お客様は日本人なんだからな」
「……………」
「ほんと、生意気だよな、乗客がほとんど日本人なのに、ろくな日本語しゃべれねんだから」
「………」
「俺だって英会話ぐらいできるぜ、だけど、日本人相手の店に行ったら、世界中どこでも日本語で通すことにしてんだ」
「……」
パーサーは何も言わず、下を向き、赤い顔をして販売を続けた。
苦言を呈した日本人は、まだ三〇歳前に見える著者だった。赤いシャツに白いズボンをはき、腹がすこし出てきており、背も高く、何やらお金持ち風だ。
こういう堂々たる? 傲岸不遜な日本人は、観光地のあちらこちらで見かける。
確かに理屈の上では、この若者にも、一理はある。日本人に物を売る商売をしているんだから日本語ぐらい上手に話せ、というわけだ。
だが、この若者の言葉は、いささかパーサーには酷なような気がする。パーサーは彼なりに一生懸命、日本語を話しているからだ。
それに、この若者は、もっと商売熱心になれと言いたいようだが、果たして全ての人が、日本人のように、商売熱心になる必要があるのだろうか?
事実、我々日本人は、商売熱心すぎて、世界中からエコノミック・アニマルとして、嫌われているではないか。
このように考えてくると、この若者の態度には、大きな問題があるような気がしてくる。
自然にでた現地語
インドネシアでもテニスは盛んである。
人口二〇〇万のスラバヤ市でも、やはりテニスは盛んだった。
四〇度を超える猛暑の中、筆者もよくテニスをしたものである。
「女房殿、ちょとテニスに行ってくるよ」
「こんなに暑いのに、本気?」
「もちろん……ロジャーというオーストラリア人とシングルスの約束してるんだ」
「ギラ(気違い)ねー、生きて返ってきてよ」
「まだ、死ぬお告げがないから大丈夫だ」
オーストラリアに住む前、筆者とその家族はスラバヤ市に二年間ほど住んでいたのだ。息子もスラバヤで生まれている。
試合は終わった。手強い相手ではあったが、なんとか勝てた。
「参った、参った、シュンがこんなにテニスができるとは知らなかったよ。今度、教えてもらわなくちゃ」
「アンダ、ジュガ、パンダイ、ブルマイン、テニス(君こそ、うまいじゃないか)」
「じゃ、また来週やろうか」
「サンパイ、クツム、ラギ、スラマツド、チアン(じゃ、また会おう、さようなら)」
この日はなぜか、ロジャーの顔を見ても英語がさっぱり出てこず、インドネシア語ばかり出てきたのだ。なぜか、うれしかった。
「万歳! 今日は乾杯だ」
「テニスに勝った程度で、おおげさね」
「イヤ、そんなことじゃ-ないんだ、今日ロジャーと話していて、全然、英語が出てこなかったんだ。最高だよ」
「何で?」
「だって、欧米人に会うと、無意識のうちに英語でしゃべっちゃうだろう、そういう自分が嫌でたまらなかったんだ。奴らに劣等感を持っている証拠のような気がしてね。でも、今日は自動的にインドネシア語が出てきたんだ。最高だよ! 俺はついに欧米人への劣等感からフリーになったのかな?」
「フーン、どうかしらね」
国際人への三段階
最近は変わったかも知れないが、二〇年ほど前は、東京の地下鉄の中などで欧米人と話をしていると、周りの人から、ジロジロと見られたものである。
そして、見られたほうは、何となく優越感を感じ、高揚した気分になったものだ。
まだ若かった筆者も、そういう人間の一人で、優越感を感じるたびに、自己嫌悪に陥ったものだった。
何故なら、この優越感は、欧米人に対する劣等感の裏返しでしかないことを、十分に知っていたし、痛く感じていたからだ。
インドネシアのテニスコートで、筆者がうれしかったのは、白人を前にして英語が全く出てこなかったからである。
* さて、欧米人に対する劣等感という視点からとらえると、一般的日本人の国際化には、次の三段階があるようである。
第一段階は、露骨に劣等感を持っており、欧米人を崇拝し、アジア人を蔑視する段階である。
このような意識を持つ人々は、まだ日本の社会にたくさん存在するが、少なくとも本誌を読むような人は、この段階を卒業していると見てよいだろう。だが潜在意識の中では、劣等感は今でも、根強く我々の中に存在し、時々表面に噴出してくる。
第二段階は、欧米人なんか恐くない。日本人は偉いんだ、と、開き直る段階である。
冒頭の若者はこの段階にあることになる。この段階は自己主張があるだけ第一段階よりはましだが、しかし、相変わらず潜在意識の中の劣等感は、変わらない。
第三段階になると、潜在意識の中の劣等感も、なくなるようだ。こういう人を国際人と言うのであろう。
20.調和の仮面
感受性が強い若いときに欧米に住んで欧米文化の影響を強く受けると、日本の社会への復帰が難しくなる。
私も米国二年、オーストラリア五年、インドネシア二年、クエート半年と外国暮らしをしてきた。したがって、それらの国から帰国するたびに、日本再上陸の困難さを味わった。
どこの国も、それぞれ独得の文化を持っている。その中でも特に際立って異質な文化を持つ国は、米国と日本のように思える。両者とも極端な文化を持つ国だと思う。だから、米国から帰ったときは、日本の価値観に慣れるのに、ずいぶん時間がかかったと思う。
米国は極端に自由な国。日本は極端に制限の多い国なのだ。タイ王国にも二〇〇回以上は訪問している。タイも米国のように自由な国だ。だが、アジア的混沌と無秩序が顕著。
***K氏の敗北
「君はもう日本人じゃないなー、うちの会社には合わなくなった。どこか、アメリカの会社でも探してみたら?」
二年ぶりでアメリカから帰ってきた二五歳になるK氏は、ガックリと肩を落とした。
「そうですか、英語が上手になったし、きっと前よりお役に立てると思ったんですけどねー」
「うちは日本的な会社でね。あんたが入ってくると組織が乱れる。悪いこと言わないから、外資系にいきなさい」
K氏は、原色の黄色いシャツにエメラルド・グリーンのネクタイをしていた。そして、自信満々の態度を取っていた。
「社長のおっしゃることはよく分かりました。外資系の会社に当たってみます」
T社の社長の考えは、はっきりしていた。K氏は渡米する前にいた会社には、戻れなくなったのである。
K氏はアメリカのPR会社に入った。日本に進出したばかりの会社で、K氏は最初の男性社員であった。
そこでK氏が直面したのは、アメリカ企業を食い物にしようとする、英語使いのハイエナたちだった。ハイエナたちの属書きは、コンサルタントである。
K氏はPR会社の利益を守ろうと、ハイエナたちと戦った。だがK氏は敗北し、逆に会社から追いだされてしまった。
調和を乱す元凶
「シュンさん、今度はどこか日本の企業に入りたいんですけど……-」
「ウン、いいんじゃない。でも何故日本の会社がいいの?」
「いやー、外資系にいると、なんだか日本の社会に受け入れられないような気がしちゃって…・。帰国してから二年も経つのに、未だにみんなに"変な日本人"と、白い目で見られているんですよ」
「それは、外国文化にかぶれた人問が、みんな味わう悲哀だよ。Kさんは相変わらずビンクのシャツなど着て個性的だし、もう少し他の人と同じように、どぶねずみルックにしたらどお?」
「でも、白己主張をすることは、アメリカで学んだ一番いいことの一つですから」
「なるほど・・・でも、それじゃー、いつまで経っても、目本の社会に受け入れられないよ」
「そうですか、みんなと同じになれというのですね……それじゃ、仮面でもかぶって生きていくほかありませんね」
「そうそう、無口になって、本音は隠すことだよ。そうすれば、日本人として認められるよ」
K氏が苦労したのは、実は二〇年前なのだが、今でもK氏のような経験をしている帰国子女などの、外国帰りは多いらしい。
K氏の場合、日本の社会から疎外された理由としては、以下のことが考えられる。
実は、この三点は、調和主義の日本社会では、調和を乱す元凶として、排斥されているのだ。
日本は「会」主主義
「ロッド、そんなにバシャバシャ大きな音を立てるなよ。このアパートから追い出されるぜ」
アメリカに住んでいた時代、ロッドと私は、パサデナという町に安アパートを借りた。そして、その安アパートの真ん中にはスイミングプールがあった。
写真家の卵のロッドは、毎朝六時と、夜、仕事から帰ったあと、すぐ、プールに飛び込むのである。しかも、大きな音を立てるので、そのうち近所から苦情がくると、私は覚悟していた。
「心配するなよ、シュン。アメリカ的伝統ではな、隣人が気にいらなかったら、気にいらない奴が出ていくんだよ」
ここに往んでいた三ヵ月間、とうとう誰からも苦情がこなかった。これがアメリカ的自由なのだ。
似たような自由は、土地の広いオーストラリアにももちろんある。だが、日本にはない。
もう一つ日本にないのが個人主義だとは、よく言われる事だ。グループ中心で、みんな同じような格好をし、同じような顔をし、同じ意見で、個性に乏しいという印象を持たれている。
だが、一人一人の日本人を見ると個性的な人が多い。ということは、日本人の多くは、個性の上に、K氏と同じように「調和」の仮面をかぶっているに違いない。
しかし、一方、仮面がそのまま自分の顔になっている方も多いようだ。
さて、長いこと外国生活をしていると、いろいろな疑間が出てくる。
その一つは、果たして日本には欧米的な民主主義があるのだろうか、ということだ。
たしかに日本もオーストラリアと似た、議会制民主主義国家の体制を整えている。だが、その中身は同じなのだろうか。
個人主義を喜ばない「調和」の仮面の国に、真の民主主義は育つのだろうか。
「日本封じ込め論」だとか、「日本異質論」が叫ばれているが、一理も二理もあるのではないだろうか。もしも、日本の民主主義が、欧米のものとは異質なものであるとするならば……。
「人民の、入民による、人民のための-…」というリンカーン大統領の言葉が、民主主義の根幹を示しているとしたら、日本の現状は、さしずめ、「会社の、会社による、会社のための・・・」のような気がしてならないのだ。そして、第二次世界大戦前は「国の、国による、国のための……」だったに違いない。
豊かな経済大国・日本の次のステップは、「会」社主義から、真の「民」主主義に移行することではないだろうか。
私も米国二年、オーストラリア五年、インドネシア二年、クエート半年と外国暮らしをしてきた。したがって、それらの国から帰国するたびに、日本再上陸の困難さを味わった。
どこの国も、それぞれ独得の文化を持っている。その中でも特に際立って異質な文化を持つ国は、米国と日本のように思える。両者とも極端な文化を持つ国だと思う。だから、米国から帰ったときは、日本の価値観に慣れるのに、ずいぶん時間がかかったと思う。
米国は極端に自由な国。日本は極端に制限の多い国なのだ。タイ王国にも二〇〇回以上は訪問している。タイも米国のように自由な国だ。だが、アジア的混沌と無秩序が顕著。
***K氏の敗北
「君はもう日本人じゃないなー、うちの会社には合わなくなった。どこか、アメリカの会社でも探してみたら?」
二年ぶりでアメリカから帰ってきた二五歳になるK氏は、ガックリと肩を落とした。
「そうですか、英語が上手になったし、きっと前よりお役に立てると思ったんですけどねー」
「うちは日本的な会社でね。あんたが入ってくると組織が乱れる。悪いこと言わないから、外資系にいきなさい」
K氏は、原色の黄色いシャツにエメラルド・グリーンのネクタイをしていた。そして、自信満々の態度を取っていた。
「社長のおっしゃることはよく分かりました。外資系の会社に当たってみます」
T社の社長の考えは、はっきりしていた。K氏は渡米する前にいた会社には、戻れなくなったのである。
K氏はアメリカのPR会社に入った。日本に進出したばかりの会社で、K氏は最初の男性社員であった。
そこでK氏が直面したのは、アメリカ企業を食い物にしようとする、英語使いのハイエナたちだった。ハイエナたちの属書きは、コンサルタントである。
K氏はPR会社の利益を守ろうと、ハイエナたちと戦った。だがK氏は敗北し、逆に会社から追いだされてしまった。
調和を乱す元凶
「シュンさん、今度はどこか日本の企業に入りたいんですけど……-」
「ウン、いいんじゃない。でも何故日本の会社がいいの?」
「いやー、外資系にいると、なんだか日本の社会に受け入れられないような気がしちゃって…・。帰国してから二年も経つのに、未だにみんなに"変な日本人"と、白い目で見られているんですよ」
「それは、外国文化にかぶれた人問が、みんな味わう悲哀だよ。Kさんは相変わらずビンクのシャツなど着て個性的だし、もう少し他の人と同じように、どぶねずみルックにしたらどお?」
「でも、白己主張をすることは、アメリカで学んだ一番いいことの一つですから」
「なるほど・・・でも、それじゃー、いつまで経っても、目本の社会に受け入れられないよ」
「そうですか、みんなと同じになれというのですね……それじゃ、仮面でもかぶって生きていくほかありませんね」
「そうそう、無口になって、本音は隠すことだよ。そうすれば、日本人として認められるよ」
K氏が苦労したのは、実は二〇年前なのだが、今でもK氏のような経験をしている帰国子女などの、外国帰りは多いらしい。
K氏の場合、日本の社会から疎外された理由としては、以下のことが考えられる。
- 着るものがカラフルすぎる。そして頭髪が長い。
- 人と妥脇しない。
- 個人主義で、グループ活動を嫌う。
- 実力主義である。
実は、この三点は、調和主義の日本社会では、調和を乱す元凶として、排斥されているのだ。
日本は「会」主主義
「ロッド、そんなにバシャバシャ大きな音を立てるなよ。このアパートから追い出されるぜ」
アメリカに住んでいた時代、ロッドと私は、パサデナという町に安アパートを借りた。そして、その安アパートの真ん中にはスイミングプールがあった。
写真家の卵のロッドは、毎朝六時と、夜、仕事から帰ったあと、すぐ、プールに飛び込むのである。しかも、大きな音を立てるので、そのうち近所から苦情がくると、私は覚悟していた。
「心配するなよ、シュン。アメリカ的伝統ではな、隣人が気にいらなかったら、気にいらない奴が出ていくんだよ」
ここに往んでいた三ヵ月間、とうとう誰からも苦情がこなかった。これがアメリカ的自由なのだ。
似たような自由は、土地の広いオーストラリアにももちろんある。だが、日本にはない。
もう一つ日本にないのが個人主義だとは、よく言われる事だ。グループ中心で、みんな同じような格好をし、同じような顔をし、同じ意見で、個性に乏しいという印象を持たれている。
だが、一人一人の日本人を見ると個性的な人が多い。ということは、日本人の多くは、個性の上に、K氏と同じように「調和」の仮面をかぶっているに違いない。
しかし、一方、仮面がそのまま自分の顔になっている方も多いようだ。
さて、長いこと外国生活をしていると、いろいろな疑間が出てくる。
その一つは、果たして日本には欧米的な民主主義があるのだろうか、ということだ。
たしかに日本もオーストラリアと似た、議会制民主主義国家の体制を整えている。だが、その中身は同じなのだろうか。
個人主義を喜ばない「調和」の仮面の国に、真の民主主義は育つのだろうか。
「日本封じ込め論」だとか、「日本異質論」が叫ばれているが、一理も二理もあるのではないだろうか。もしも、日本の民主主義が、欧米のものとは異質なものであるとするならば……。
「人民の、入民による、人民のための-…」というリンカーン大統領の言葉が、民主主義の根幹を示しているとしたら、日本の現状は、さしずめ、「会社の、会社による、会社のための・・・」のような気がしてならないのだ。そして、第二次世界大戦前は「国の、国による、国のための……」だったに違いない。
豊かな経済大国・日本の次のステップは、「会」社主義から、真の「民」主主義に移行することではないだろうか。
21.竜宮城と昇竜
オーストラリアは、まことに住みやすいところだ。夢のような竜宮城のようなところだ。私も、なるべく早くシドニー近郊に家を買い、一年のうち三カ月は、そこで過ごしたいと考えている。
この記事で予測しているのだが、竜宮城から日本に帰ったら白髪が増えるという予言は、悔しいが当たってしまった。マーナを複合文化人間にする試みも、驚くことに成功した。マーナは日本語も英語も、読み書き、会話とすべてほぼ完ぺきだ。国籍不明人間になっている。先日も、日本人に「なんで、あなたはそんなに日本語が上手なのですか?」と聞かれたそうだ。
* **
「ボク、こちらに残るよ」
「ママたち日本に帰っていいよ。ボク、オーストラリアに残るから・・・、マーシアの伯母さんが、いくらでも住んでていいってさ、でもボク、一〇〇ドル払うからね、と言っといたけど……」
「一〇〇ドルって毎日なの、マーナ?」
「冗談じゃないよ、一年分だよ。……ちょっと、もう一回伯母さんと話してくる……、毎日だなんて思われたら大変だ」
このところ八歳になる息子のマーナは、必死になって、里親を探していた。
「でもマーナは、本当にこちらに残るつもりなの?」
「もちろん。でも……ママたち毎週会いに来てくれるんでしょ?」
「そりゃー、無理よ、日本は遠いのよ」
「じやー、月一回?」
「年一回ね」
「ずるいよ、そんなのー」
三歳から八歳までの五年間をオーストラリアで過ごしたマーナは、立派なOZ(オージー=オーストラリア人)になってしまった。
二〇〇坪以上はある広い庭で自転車を乗り回し、サッカー、ゴルフ、テニスの遊び事をしてきたマーナは、今度は狭い日本に適応していかなければならないのだ。ガールフレンドとも会えなくなるし、渓谷を飛び回り、ザリガニや魚を捕えることも、もうないだろう。マーナが帰るのは東京だからだ。
一〇年は日本で教育
「何で帰るんだ?」
「ウーン、いろいろあってね,」
「こっちに移住すればいいじゃないか」
「ウーン、それも考えたけど……」
「もし、本当に移住する気があるなら、俺が責任もって、永久ビザを取ってやるよ。これまで何度もやってきていて、コネがあるからね」と、イタリア系会社の人事部長を務めるトリントは、言ってくれる。
「ありがとう、でもやはり今回は日本に帰るよ。理由はいろいろあるけど、やっぱりマーナの教育かな・・・、マーナを複合文化人間にしたいんだ。つまり、日本でも生きていけるし、オーストラリアのような英語圏でも生きていけるような……。そのためにはいま日本に帰って、日本の教育を受けとく必要があるような気がするんだ。これ以上OZになったら、日本の社会に適応するのが大変になるからね……」
「OZにしたらいいじゃないか。マーナはもう完全に0Zとして、生きていけるよ」
「ウン、ありがとう、でも、俺自身もそうだけど、マーナはどこでも生きていける、多国籍人間にしたいんだな・・・。それが二一世紀を生きるのに都合がいいような気がするんだ。そう、思わない? だから、この先一〇年間は日本に住んで、それから先の事はまた考える事にするよ……」
「なるほどね-…マア、何となく分かったよ、じゃ・・・子供たちがもうすこし大きくなったら、お互いに子供を引き取って、一夏過こさせようじゃないか?」
「てれはいいアイデアだ、絶対やろう……」
“人魚”のいる海岸
「日本に帰りたがる人は、今まで一人もいませんでしたよ。シュンさん」と、シドニーに長い、ある日本の大企業の部長さんは言う。
「何でですかね?」
「そりやー、やはり土地が広いし、海はきれいだし、生活も人間もノンビリしていて、競争は厳しくないし、基本的に豊かですからね、この国は。わたしなんぞ、今はノースシドニーで、立派なプール付きの一軒家に住んでいますが、日本に帰ったら2DKか3DKのアパート住まいですから・・・」
そう言えば、まだまだ良いことはいろいろある・・・。例えば"人魚"だ。
メルボルンの白い砂浜の海岸で泳いでいたら、突然目の前に金髪のピチピチとした肢体の人魚が現れたのだ。青い空と緑の海を背景に、海から出てきた人魚は長い髪の毛を整えた。思わず、ボーとなって見とれていたら、人魚は、海岸の方に悠々と歩いていってしまった。筆者はこれで二歳は若返ったに違いない。
日本とオーストラリアの違い……、それは生活と、人生の余裕にあるようだ。目本人にとってオーストラリアは、浦島太郎の竜宮城のような所なのだ。
竜の体内に帰る
エアーズ・ロックは予想に反して黒ずんでいた。季節はずれの猛烈な雷雨が、三日も降ったのだ。
日本に帰ることが決まって、最後の旅行をすることにした。そして、最もオーストラリアらしい所に行きたいと考えて、地の果て、エアーズ・ロックに来たのだ。
エアーズ・ロックは、オーストラリア大陸の中心部の広大な砂漠の真ん中に、突然そびえる高さ三三五メートルの岩である。長さ二・五キロ、幅一・五キロという、巨大な一つの砂岩なのだ。
「真っ赤な砂の砂漠だと聞いていたのに、結構、緑が多いですネ」
「いやー、これはこの二、三年の現象ですよ。気候がおかしいんですね。雨が多くて、砂漠に灌木が生えてきたのは事実です」
日本や欧米の工業文明の吐き出す公害に、地球の自然環境が影響を受け、世界各地で異常現象が起こっているというが、その影響が南半球の砂漠の真ん中まで来ているのだろうか?
「さあマーナ、トカゲの串焼きだよ、これはカンガルーのステーキ、それともワニのステーキのほうがいいかい?」
「ワニ食べたい」
カナダから来ていた五人家族と親しくなった。マークという建設会社の若い社長が、マーナのオーストラリア弁が面白い、といって、ホテルのバーベキューに招待してくれたのだ。
夕陽に染まって赤さを取り戻したエアーズ・ロックを眺め、プール一サイドで、トカゲの串焼きに食い付きながら、考えた。
〈日本に帰るのだ! エネルギーに満ちた日本へ。竜宮城から戻ったら、たちまち白髪が増えることだろう。南半球から見た日本はまさに昇竜だ。空に舞い上がり、腕を伸ばし、世界中に爪を立てている。この竜の体内に入り込むのだ。大冒険が待っているのだ!〉
この記事で予測しているのだが、竜宮城から日本に帰ったら白髪が増えるという予言は、悔しいが当たってしまった。マーナを複合文化人間にする試みも、驚くことに成功した。マーナは日本語も英語も、読み書き、会話とすべてほぼ完ぺきだ。国籍不明人間になっている。先日も、日本人に「なんで、あなたはそんなに日本語が上手なのですか?」と聞かれたそうだ。
* **
「ボク、こちらに残るよ」
「ママたち日本に帰っていいよ。ボク、オーストラリアに残るから・・・、マーシアの伯母さんが、いくらでも住んでていいってさ、でもボク、一〇〇ドル払うからね、と言っといたけど……」
「一〇〇ドルって毎日なの、マーナ?」
「冗談じゃないよ、一年分だよ。……ちょっと、もう一回伯母さんと話してくる……、毎日だなんて思われたら大変だ」
このところ八歳になる息子のマーナは、必死になって、里親を探していた。
「でもマーナは、本当にこちらに残るつもりなの?」
「もちろん。でも……ママたち毎週会いに来てくれるんでしょ?」
「そりゃー、無理よ、日本は遠いのよ」
「じやー、月一回?」
「年一回ね」
「ずるいよ、そんなのー」
三歳から八歳までの五年間をオーストラリアで過ごしたマーナは、立派なOZ(オージー=オーストラリア人)になってしまった。
二〇〇坪以上はある広い庭で自転車を乗り回し、サッカー、ゴルフ、テニスの遊び事をしてきたマーナは、今度は狭い日本に適応していかなければならないのだ。ガールフレンドとも会えなくなるし、渓谷を飛び回り、ザリガニや魚を捕えることも、もうないだろう。マーナが帰るのは東京だからだ。
一〇年は日本で教育
「何で帰るんだ?」
「ウーン、いろいろあってね,」
「こっちに移住すればいいじゃないか」
「ウーン、それも考えたけど……」
「もし、本当に移住する気があるなら、俺が責任もって、永久ビザを取ってやるよ。これまで何度もやってきていて、コネがあるからね」と、イタリア系会社の人事部長を務めるトリントは、言ってくれる。
「ありがとう、でもやはり今回は日本に帰るよ。理由はいろいろあるけど、やっぱりマーナの教育かな・・・、マーナを複合文化人間にしたいんだ。つまり、日本でも生きていけるし、オーストラリアのような英語圏でも生きていけるような……。そのためにはいま日本に帰って、日本の教育を受けとく必要があるような気がするんだ。これ以上OZになったら、日本の社会に適応するのが大変になるからね……」
「OZにしたらいいじゃないか。マーナはもう完全に0Zとして、生きていけるよ」
「ウン、ありがとう、でも、俺自身もそうだけど、マーナはどこでも生きていける、多国籍人間にしたいんだな・・・。それが二一世紀を生きるのに都合がいいような気がするんだ。そう、思わない? だから、この先一〇年間は日本に住んで、それから先の事はまた考える事にするよ……」
「なるほどね-…マア、何となく分かったよ、じゃ・・・子供たちがもうすこし大きくなったら、お互いに子供を引き取って、一夏過こさせようじゃないか?」
「てれはいいアイデアだ、絶対やろう……」
“人魚”のいる海岸
「日本に帰りたがる人は、今まで一人もいませんでしたよ。シュンさん」と、シドニーに長い、ある日本の大企業の部長さんは言う。
「何でですかね?」
「そりやー、やはり土地が広いし、海はきれいだし、生活も人間もノンビリしていて、競争は厳しくないし、基本的に豊かですからね、この国は。わたしなんぞ、今はノースシドニーで、立派なプール付きの一軒家に住んでいますが、日本に帰ったら2DKか3DKのアパート住まいですから・・・」
そう言えば、まだまだ良いことはいろいろある・・・。例えば"人魚"だ。
メルボルンの白い砂浜の海岸で泳いでいたら、突然目の前に金髪のピチピチとした肢体の人魚が現れたのだ。青い空と緑の海を背景に、海から出てきた人魚は長い髪の毛を整えた。思わず、ボーとなって見とれていたら、人魚は、海岸の方に悠々と歩いていってしまった。筆者はこれで二歳は若返ったに違いない。
日本とオーストラリアの違い……、それは生活と、人生の余裕にあるようだ。目本人にとってオーストラリアは、浦島太郎の竜宮城のような所なのだ。
竜の体内に帰る
エアーズ・ロックは予想に反して黒ずんでいた。季節はずれの猛烈な雷雨が、三日も降ったのだ。
日本に帰ることが決まって、最後の旅行をすることにした。そして、最もオーストラリアらしい所に行きたいと考えて、地の果て、エアーズ・ロックに来たのだ。
エアーズ・ロックは、オーストラリア大陸の中心部の広大な砂漠の真ん中に、突然そびえる高さ三三五メートルの岩である。長さ二・五キロ、幅一・五キロという、巨大な一つの砂岩なのだ。
「真っ赤な砂の砂漠だと聞いていたのに、結構、緑が多いですネ」
「いやー、これはこの二、三年の現象ですよ。気候がおかしいんですね。雨が多くて、砂漠に灌木が生えてきたのは事実です」
日本や欧米の工業文明の吐き出す公害に、地球の自然環境が影響を受け、世界各地で異常現象が起こっているというが、その影響が南半球の砂漠の真ん中まで来ているのだろうか?
「さあマーナ、トカゲの串焼きだよ、これはカンガルーのステーキ、それともワニのステーキのほうがいいかい?」
「ワニ食べたい」
カナダから来ていた五人家族と親しくなった。マークという建設会社の若い社長が、マーナのオーストラリア弁が面白い、といって、ホテルのバーベキューに招待してくれたのだ。
夕陽に染まって赤さを取り戻したエアーズ・ロックを眺め、プール一サイドで、トカゲの串焼きに食い付きながら、考えた。
〈日本に帰るのだ! エネルギーに満ちた日本へ。竜宮城から戻ったら、たちまち白髪が増えることだろう。南半球から見た日本はまさに昇竜だ。空に舞い上がり、腕を伸ばし、世界中に爪を立てている。この竜の体内に入り込むのだ。大冒険が待っているのだ!〉
22.「アリ地獄」の国へ(最終回)
***涙、抱擁、キス
「朝っぱらから、そんなに熱いキスをして・・・」と、横に立つ母親に言われながらも、一一歳になる女の子セーラは、ひしと抱きつき、唇を重ねてくれた。
お別れなのだ。朝は七時のシドニー空港に、四家族が見送りに来てくれた。
あんなに、来なくていいと、言ったのに・…・、今朝は四時起きだったに違いない。
「ローレンにキスしておいでよ、マーナ」
「みんな、見てるじゃない、嫌だよ」
「もう、当分会えないよ・・・」
「ウン、知ってる」
八歳になるマーナは、見送りに来てくれた男の子ベン、ネーソンと、空港待合ロビー内を駆け回っている。大好きな女の子ローレンが、見送りに来てくれたのに、側に近づこうともしない
この一週間は、涙と抱擁と、キスとサヨナラ・パーティの連続だった。
「シュンは立派なロータリアンだった。最もロータリアンらしい口ータリアンだった。シュンとその家族が日本に帰ってしまうのは、本当に残念だ……」
一〇〇人ほど集まったロータリークラブでの、サヨナラ・パーティでの、金物屋のビルの言葉だった。ビルは保守的な白豪主義者で知られ、先祖代々この町に住む、町の重鎮であり、論客であり、そして三年前、筆者のロータリークラブ入会を、「よそ者だ、しかも日本人だ」と、難色を示した人物である。
筆者とその家族の住んでいた、ブラックヒースという田舎町は、シドニー市から、車で二時間のところにある、人口三五〇〇人の町というより、村なのだ。
「俺はもう二〇年この村に住んでるけど、いまだに、よそ者扱いされてるよ」と、近所に住む、トニーはボヤいていた。この村では、三代住まないと、町の住人とは見倣されないという。そして、シドニーなどから移り住んできた人たちは、「ブロー・イン」(風来坊)と呼ばれ、なかなか仲間に入れてもらえない。
「シュン一家はブロー・インじゃないわよ。ブロー・インというのはね、村に馴染もうとしない人たちのことを言うのよ」
村の名門一家のジョイスは、そう言ってくれた。破産から立ち直ったジョイスとデニスの住む牧場は、峡谷にあり、起伏の激しい、縁の牧場からは、峡谷の崖の上にある、ブラックヒース、カトンバなどの町が見える。この牧場は、いかにもオーストラリアらしい雰囲気を持っており、我々一家が、好んで遊びに行った所だ。
この一週間、上手になりたいと念願していた、筆者のキスと抱擁も、どさくさに紛れて、大分うまくなった。一五歳になる、テニス・チャンピオンの女の子が、思いがけず、甘い口づけをしてくれるし、幸せだった。
涙、涙で腫れぼったい目をした妻は、しっかりと友達たちと抱き合っている。日本に何が待っているかを知らないマーナは、無邪気に遊んでいる。ローレンは泣いているのに……。
とうとう、感情をあらわにする、抱擁と、口づけの国から、感情を隠す、御辞儀の国に出発するのだ。
丸裸になったオレンジの木
南半球から見た日本は、まさに「恐竜」、イヤ間違えた、「昇竜」である。天高く舞い昇り、世界中に腕を伸ばし、爪を立てている。南半球の人々は、驚異の目で見つめ、そして、「恐竜」に変身をするのではなかろうかと、一抹の不安も心に秘めて、注視している。日本のエネルギーと、技術力、金融力はすさまじい力で、世界を席巻しているのだ。
成田空港からのバスにゆられて観察した東京は、やはり、大都会だった。町には活気が溢れ、世界の富が集まっているという実感もした。
「その木は、大きくなり過ぎて、隣のうちの洗濯物に、陽が当たらないから、奥様、お切りになったら……」
「ハイ……」
近所の人にそう言われて、妻は、東京の郊外に借りた家の庭のオレンジの木を、丸裸にしてしまった。庭と言っても、オーストラリアの二〇〇坪の庭と比べたら、隙間と言うベきだろうが・・・。
「可哀相じゃないか・・・」
「でも、しょうがないのよ。また枝は、伸びて来るわよ」
「何かマーナも、この木と同じ目にあうような気がして、嫌な気分だなあ……」
「そんな……」
町を歩いてみた。
経済大国日本の人々が、どのくらい豊かになったのか、興味があったのだ。意外に質素だな……、という印象だった。
一〇年前と変わったのは、外車が増えたこと、異国人が増えたこと、とくに東南アジアの人々が増えたこと。そして、東京に住む欧米人の、「色」が薄くなったようにも感じられたことだった。
日本社会に埋没した欧米人は、個人主義の鮮やかな原色が抜け、調和主義の淡い色に染まっているようだ。
「東京はアリ地獄みたいだな。皆、地獄から這い出ようと頑張っているけど出られない。そして、出そうな奴の足をお互いに引っ張る……。そういえば、オーストラリアに自家用ジェット機で飛んできて、ホテルなどをサッと買って帰る“飛んでる”日本の若い実業家がいたなあ。こういう人が、さしずめアリ地獄から抜け出た人なんだろうな・・・」
「ウーン、ウスバカゲロウの巣か・・・」
「アリ地獄でも、住めば都のようだな、皆同じなら、我慢出来るということなんだろうな……」
「それはそうと、大地さん、大丈夫かね? 呑気なオーストラリアにいたから、こんな連載も書けたけど、日本は厳しいところだよ。フリーで生きていこうなんて……、路頭に迷うんじゃないか?」と、N編集長。
「さあ、どうかなー、何とかなるんじゃない?」
「本人はともかく、家族も居るんだよ、あんまり人に心配かけるなよな」
「ウーン」
「子供はどうしたんだ」
「公立学校にぶち込んだよ。小学校二年生に、一学年落とすべきだったかも知れないけど、三年にそのまま入れちゃったよ。日本語の読み書きはまったく出来ないけど、会話はマアマアだから、俺と同じで、何とか生き延びるんじゃない……」
「朝っぱらから、そんなに熱いキスをして・・・」と、横に立つ母親に言われながらも、一一歳になる女の子セーラは、ひしと抱きつき、唇を重ねてくれた。
お別れなのだ。朝は七時のシドニー空港に、四家族が見送りに来てくれた。
あんなに、来なくていいと、言ったのに・…・、今朝は四時起きだったに違いない。
「ローレンにキスしておいでよ、マーナ」
「みんな、見てるじゃない、嫌だよ」
「もう、当分会えないよ・・・」
「ウン、知ってる」
八歳になるマーナは、見送りに来てくれた男の子ベン、ネーソンと、空港待合ロビー内を駆け回っている。大好きな女の子ローレンが、見送りに来てくれたのに、側に近づこうともしない
この一週間は、涙と抱擁と、キスとサヨナラ・パーティの連続だった。
「シュンは立派なロータリアンだった。最もロータリアンらしい口ータリアンだった。シュンとその家族が日本に帰ってしまうのは、本当に残念だ……」
一〇〇人ほど集まったロータリークラブでの、サヨナラ・パーティでの、金物屋のビルの言葉だった。ビルは保守的な白豪主義者で知られ、先祖代々この町に住む、町の重鎮であり、論客であり、そして三年前、筆者のロータリークラブ入会を、「よそ者だ、しかも日本人だ」と、難色を示した人物である。
筆者とその家族の住んでいた、ブラックヒースという田舎町は、シドニー市から、車で二時間のところにある、人口三五〇〇人の町というより、村なのだ。
「俺はもう二〇年この村に住んでるけど、いまだに、よそ者扱いされてるよ」と、近所に住む、トニーはボヤいていた。この村では、三代住まないと、町の住人とは見倣されないという。そして、シドニーなどから移り住んできた人たちは、「ブロー・イン」(風来坊)と呼ばれ、なかなか仲間に入れてもらえない。
「シュン一家はブロー・インじゃないわよ。ブロー・インというのはね、村に馴染もうとしない人たちのことを言うのよ」
村の名門一家のジョイスは、そう言ってくれた。破産から立ち直ったジョイスとデニスの住む牧場は、峡谷にあり、起伏の激しい、縁の牧場からは、峡谷の崖の上にある、ブラックヒース、カトンバなどの町が見える。この牧場は、いかにもオーストラリアらしい雰囲気を持っており、我々一家が、好んで遊びに行った所だ。
この一週間、上手になりたいと念願していた、筆者のキスと抱擁も、どさくさに紛れて、大分うまくなった。一五歳になる、テニス・チャンピオンの女の子が、思いがけず、甘い口づけをしてくれるし、幸せだった。
涙、涙で腫れぼったい目をした妻は、しっかりと友達たちと抱き合っている。日本に何が待っているかを知らないマーナは、無邪気に遊んでいる。ローレンは泣いているのに……。
とうとう、感情をあらわにする、抱擁と、口づけの国から、感情を隠す、御辞儀の国に出発するのだ。
丸裸になったオレンジの木
南半球から見た日本は、まさに「恐竜」、イヤ間違えた、「昇竜」である。天高く舞い昇り、世界中に腕を伸ばし、爪を立てている。南半球の人々は、驚異の目で見つめ、そして、「恐竜」に変身をするのではなかろうかと、一抹の不安も心に秘めて、注視している。日本のエネルギーと、技術力、金融力はすさまじい力で、世界を席巻しているのだ。
成田空港からのバスにゆられて観察した東京は、やはり、大都会だった。町には活気が溢れ、世界の富が集まっているという実感もした。
「その木は、大きくなり過ぎて、隣のうちの洗濯物に、陽が当たらないから、奥様、お切りになったら……」
「ハイ……」
近所の人にそう言われて、妻は、東京の郊外に借りた家の庭のオレンジの木を、丸裸にしてしまった。庭と言っても、オーストラリアの二〇〇坪の庭と比べたら、隙間と言うベきだろうが・・・。
「可哀相じゃないか・・・」
「でも、しょうがないのよ。また枝は、伸びて来るわよ」
「何かマーナも、この木と同じ目にあうような気がして、嫌な気分だなあ……」
「そんな……」
町を歩いてみた。
経済大国日本の人々が、どのくらい豊かになったのか、興味があったのだ。意外に質素だな……、という印象だった。
一〇年前と変わったのは、外車が増えたこと、異国人が増えたこと、とくに東南アジアの人々が増えたこと。そして、東京に住む欧米人の、「色」が薄くなったようにも感じられたことだった。
日本社会に埋没した欧米人は、個人主義の鮮やかな原色が抜け、調和主義の淡い色に染まっているようだ。
「東京はアリ地獄みたいだな。皆、地獄から這い出ようと頑張っているけど出られない。そして、出そうな奴の足をお互いに引っ張る……。そういえば、オーストラリアに自家用ジェット機で飛んできて、ホテルなどをサッと買って帰る“飛んでる”日本の若い実業家がいたなあ。こういう人が、さしずめアリ地獄から抜け出た人なんだろうな・・・」
「ウーン、ウスバカゲロウの巣か・・・」
「アリ地獄でも、住めば都のようだな、皆同じなら、我慢出来るということなんだろうな……」
「それはそうと、大地さん、大丈夫かね? 呑気なオーストラリアにいたから、こんな連載も書けたけど、日本は厳しいところだよ。フリーで生きていこうなんて……、路頭に迷うんじゃないか?」と、N編集長。
「さあ、どうかなー、何とかなるんじゃない?」
「本人はともかく、家族も居るんだよ、あんまり人に心配かけるなよな」
「ウーン」
「子供はどうしたんだ」
「公立学校にぶち込んだよ。小学校二年生に、一学年落とすべきだったかも知れないけど、三年にそのまま入れちゃったよ。日本語の読み書きはまったく出来ないけど、会話はマアマアだから、俺と同じで、何とか生き延びるんじゃない……」