22 経済を安定にする心
経済の安定は、人間の幸福に欠くことのできないものです。安定は個人の自由を保証します。金銭は、大生命力が人類に与えた最大の恵みの一つだ、言えると思います。
お金は、あなたの生活に大きな善をもたらす手段で、正しくお使いになると、他の人びとの生活にも大きな善を与えます。お金は富と豊かな生活を象徴し、自由と力を示します。大生命力のどの恵みとも同じように、金銭も感謝をもって受けとり、たのしみ、善い目的に、使われるべきです。
お金は空気や日光のように、あなたの手にはいります。「与えて受ける」という簡単な自然界の法則をお使いになると、お金はあなたを取りまき、あなたのものになります。お金はいいものだ、あなたのためにいいものだ、という考え方を心に銘じなさい。あなたのお金でもってできる善いこと、なさりたい善いことを静かに想像なさい。
「なぜ私が金をほしいのか? お金を求める私の目的はなんなのだ?」と、ご自分に尋ねなさい。あなたの動機が正しく、非難の余地がなければ、心のうちで、お金を持つ権利があると感じます。そして、もし権利があれば、あなたはたしかにそれを得ることを期待できるのです。
お金あるいは、どんな善いものでも、まちがった方法で得たり、あるいは、なにか破壊的な方法で使ったりすれば、不幸な結果となりますが、その罪はお金にあるのではありません。罪は動機と、お金の不当な使用にあるのです。
一部の人は貧困と欠乏に生きることが道徳だと信じていますが、建設的な善いことに使うかぎり、大生命力が与えるいかなる善いものも、人間として持つ権利があるのです。欠乏とか極限という体験のはるか上に出るべきです。信念にしたがって、あなたに対する大生命力の愛に、あなたを祝福し他の人びとにも奉仕する豊かな思考に、信念を置きなさい。
最近ある男の話が出版されました。彼は払いきれない勘定がかさむのに閉口し、困苦に沈んでいましたが、キリストの有名な言葉である「まことに汝に告げん、もし芥子ダネのごとき信仰あらば、この山にむかって、かしこへ移れといえば、そこへ動いて行くであろう。汝に不可能なことは一つもない」というのを彼は再三再四読みました。この考えが彼の心に根をおろしました。
その一つのヒントから、芥子ダネをまん中に入れた小さいプラスティックの玉を製造する、かなり大きな事業をおこしました。初めはポケットに入れる玉をつくりましたが、やがて考えが進んで、芥子ダネを指環、腕環、耳飾り、ネクタイ止めなどに入れ、何百万という人びとに、彼らを今日あらしめた原因は、信仰のゆえであるということを思い起こさせました。これは世界をよくするために実用に供されたよい考えであったわけです。あなたも、こういう着想を心がけなさい。こういう考えは、私どもだれにでもわくものです。いい考えがわいたときには、軽率に退けてしまわないで、それを使いなさい! それをあなたのため、また世間に人びとのために役だてなさい。
こういう質問をあなた自身になさい・・・「どうすれば私はもっとも世界の必要に奉仕できるだろうか? どんな考案、どんな才能が私のうちに眠っているだろうか?」 そういう疑問を心の中に絶えず持ちつづけなさい。その答を期待していると、なにかの着想がわいてくるものです。そういう考えがわいたら、なんであろうとけっして粗末にしないがいいです。知性ある大生命力が、あなたを導き、方向を与えているのですから。
聖書のなかの第二王篇の第四章の東方の話は、着想を得て、それを使うことのたいせつさを説いています。近代的な翻訳をすると、こういうことです・・・
予言者組合の一会員の妻がエリツァという予言者に哀訴しました・・・
「あなたの下僕である私の夫は死にました。ご存じのとおり、彼は永劫の神をあがめたのですが、いまや債権者が来て私の二人の子どもを捕え、奴隷にすると言います」
エリシァは「私はなにをしてあげたらいいだろう? 家にはなにがあるか言ってみなさい」と尋ねました。
「あなたの下僕の家にはなにもありません。ただオリーブ油が一びんあるだけです」と彼女は答えました。
「それでは、近所の人のところへいって、あちこちから、からの容器をたくさん借りて来なさい。あなたも息子さんたちも家に閉じこもり、油を一つ一つの容器に注ぎ入れなさい。そして一つが満ちるごとに、わきへ取りのけておきなさい」
彼女は立ち去って、息子たちとともに家に閉じこもり、言われたとおりにしました。息子は容器を持ってきて、彼女は油を注ぎ入れました。たくさんの容器が満たされると、彼女は子どもに、「ほかのをもう一つ」と言いました。「もうあと一つもありません」と息子は言いました。そこで油はもう流れ出なくなりました。彼女は、さきの予言者のところへ行くと、「その油の幾びんかを売って借金を払い、残ったぶんで彼女と息子たちの生計に当てなさい」と教えられました。
これは魔術や奇跡の話ではありません。困苦をどのように克服して繁栄に導くかを教える、一つの教訓です。
未亡人または女性は、潜在の心すなわち心の創造をつかさどる部分で、思考したり選んだりする客観かつ意識的な部分と対比するものです。夫または男性は客観的な、あるいは意識的に思う心です。未亡人(感じる、創造的かつ主観的な心)は恐怖に満たされています。私たちが恐れるときは、うまく推理を進める力を無くします。大きな苦難にあるときは、まっすぐにものを考えることができず、なにごとにおいても成就する力を失います。潜在の心は、からだを建造するものですから、手渡されるどんな思考にでも形態をあたえます。私たちがはっきりと推理する力または感情を統御する力を一時的にでも失うと、想像力のなかに恐怖のイメージをつくり、恐れたことが身にふりかかってきます。恐怖(貧乏や苦難や失敗の恐れ)に消耗されると、はっきりした推理ができないのみでなく、ますます深く負債や苦難にはまり込み、ついには価値の観念をことごとく失って、感情によって統御されてしまうのです。
この話のなかでは、未亡人が苦難におちいって、エリシァという予言者を訪ねました。男性は心の中の推理する力をさしています。予言者は理性を示すばかりでなく、直感や霊感の高い水準を示しています。
このたとえ話は、恐怖におそわれ、精神的に逆上して、どうしていいかわからないときは、心を落ちつけて、おだやかに私たちの中の霊感の水準のところをもとめ、その深奥の知恵になにをなすべきかを言わしめるべきだと教えているのです。恐怖、取り越し苦労、深い憂いなどで心が顚倒したときは、だれしもそうすべきです。この未亡人がしたように、心の高度な霊感の水準のところへ行って、回答を求めるべきです。
未亡人への回答は「あなたのために生産できる唯一の人は、あなたである。苦難からのがれるには、あなたがすでに持っているものを使うべきだ。回答はまさにあなたの家にある。それを使いさえすればいいのだ」ということでした。
私たちにはみな、これと同じ務めがあります。他人が助け、励まし、あるいは導いてくれるかもしれませんが、しかし、なにをなすべきかの正しい考えや、成就に必要な力を得る場所は、まさしく自らの体内にあるのです。未亡人と同じように、自分の力と工夫に立ち戻ることが大事です。なにが私どもの家にはあるのでしょうか? 私たちが利用することを忘れているなにがあるでしょうか? 奉仕と成功の考えは、私たちの持つ価値あるものを注ぎ出すことさえすれば、富に変えられるのです。私どもに必要なのは思考、思いつきです。
知識のない人は、この未亡人が助けを求めたように、外からなにかをつかんでこようとします。多くの人は「引き」にたよります。だれか他の人が考えを供給してくれるべきだと思うのです。しかし、だれもが富を自分の内に、自分の家の中に持っているのであって、それを認識し、組織し、行動にまで引き出せばいいのです。この未亡人は小さな油壺を持っていたのですが、それで十分だったのでした。霊感は、それこそ世間にとり価値あるものだと教えました。多くの容器を借りてくるよう励まされたのは、彼女の油には限界がないことを示しているのです。
世界のもっとも富める人であった自動車王H・フォードは、「もし全財産も事業も失うようなことがあったならば、どうするか」と質問されたのに対して、こう答えたそうです。
「私は人びとが根本的に必要とするものを、新しく考えて、その必要に対してだれよりも安く、いっそう効果的に供給する。五年以内には、ふたたび何千万ドルの大富豪になってみせる」
奉仕の好機は周囲にいっぱいあります。好機は、あらゆる人の手の上に乗っています。それを認め、その好機をつかんで効果的に用いさえすれば、私たちは負債を払い、よい生活ができるように、大生命力は必要なものを手渡してくれるのです。
未亡人が油を注ぎ出す仕事を続けている間じゅう、満たすことができたということは、あなたや私が、思考、エネルギー、好機などを使いつづければ、さらに多くの思考やエネルギーがあとからあとから出てきて、ますます使えるということを意味しています。注ぎ出すことをやめると、流れは止まってしまいます。初めに未亡人は自分の持ちものを、高くは評価していませんでした。世間に奉仕するに使える一つの小さな考えにしかすぎません。しかし、その考えを使いはじめると、それだけで彼女の必要を満たすには十分だとわかったのです。
だれしも世界のために価値ある油壺をからだの中に持っているのです。その価値を知るには、混乱と取り越し苦労と憂いをまず克服すればいいのです。
静かに内心の深奥の自己にむかって霊感をもとめ、私どもの持つものをどう使うがいちばんいいかをきき、そしておのれの活動を導かせるとき、持つものを注ぎ出す方法がみつかり、他の人びとへの奉仕となり自分自身の利益もあげることができるものです。人類の必要を満たせば、それがめぐりめぐっておのれを富まし、おのれもたいせつに扱われるようにしてくれます。奉仕のための思考、健康と幸福と成功にいたる思考は、私どもの体内にあります。
ここで、ちょっと時間をさいて、世間の人に奉仕できるような、そしてその人が喜んで代価を払うような、あなたの持つ才能リストに書き上げてごらんなさい。
お金を手に入れることをたんに企画するだけでは、創造的でもなく賢くもありません。正直に、かつ賢く大生命力に奉仕すれば、たいした努力もなしに、お金は正常に自然に手に入り、幸福と満足をもたらします。新鮮な清らかな空気は、いつも私どもを包み、私どもはそれを受け入れています。よい目的のために吸い入れます。お金に対しても、それと同じ態度をとれば、豊富に供給されるのです。宇宙に欠乏ということはないのですが、人は理解の不足から、善きものを見ず、それを受け入れないのです。大生命力に奉仕し、そのゆえに大生命力によって奉仕を受けるような彼自身の資質や才能を認めないでいるのです。安定と幸福は、大生命力の偉大な力やエネルギーを適切に正しく使うことから来るのです。私たちは、持つ権利があると確信できるような方法で生き、かつ奉仕すべきです。成功が自分のものだと信じるとき、それを持つことができ、また持つ権利があると信じられるとき、大生命力は私たちに奉仕してくれます。そのときに、はじめてそれを持てるのです。
あなた自身に満足できるような方法でなにごともなさい。想像力のなかで、他の人びとの必要に、多くの奉仕しているあなた自身を見なさい。この奉仕があなたへ、大きな富裕をもたらすことを心の目に見なさい。想像のなかで、あなたの利己的でない奉仕の結果として、大生命力が応答するのを心の目で見なさい。世界の人々に対するのと同じように、あなたにもたやすく金が流れてくることを信じなさい。どんな額であろうとも、それが来るときは深い感謝の気持で受け、感謝しつつ賢く使いなさい。
お金は世界的に普遍の物質です。すべての人びとのものです。すべての人が使うためにあるのです。あなたが豊富に持ちえないとか、持つべきでないとかいうようなまちがった信じ方をきれいに捨てなさい。お金は、あなたをとおして大生命力の十分な、自由な、幸福な表現のために必要です。
あなた自身に言いなさい・・・
「私のお金を健全な、建設的な、善い方法で惜しみなく使う。空気や日光に顔をそむけたり拒絶したりしないのと同じく、お金にも顔をそむけたり拒んだりはしない。大生命力が惜しみなく私にくれる賜り物を私は熱情をもって受諾する。私はお金の奴隷ではなく、お金を私の召使いとして見る。それは私にとり善いもので、他の人びとの生活にも善いことをもたらすように使う。正しい私の使い方によって、世間の人びとは福祉を受ける。経済的成功のための創造的、拡張的思考が、絶えず私に来る。利己的でなく、他の人びとのため、ますます多くの善を求めるとき、大生命力のあらゆる通路(人びと、私のまわりの事態や条件)は、お金をますます豊かに私に注いでくれる。あらゆる場合にあって、私は価値をさがし、かつ見いだす」
「私の中の大生命力の無限の力によって、なすべきことを、熱心に成功的におこなう。私は成功への権利を持つ。というのは知識と才能の最善をつくして、この地上における私の運命を満たしつつあるからだ。私は大生命力(善なる大生命力)を十分、健全な方法で表現している。毎日を勇気と理解を持って送っている」
「私は必要なお金を多く集め、多く散らせるだけに十分に持っている。世にお金の不足というものは無いことを知っている。お金は霊的な物質であることを認める。大生命力が私に応答する力は無限である。大生命力は一ドルを産出すると同じたやすさで、百万ドルを造り出す。信念の在り方が、私の受けとる高を定めるのだ。と知るからには心的および肉体的の私の存在のあらゆる道をことごとく開いて、ゆたかな富を生み出し、また受けとる」
「私はお金をひきつける。お金はたやすく、自由に、ゆたかに流れてくる。それはあらゆる供給の無限の源から私のところへ来るのだ。私は富について明瞭な、確固とした心の絵を持っている。ゆたかに満ち足りて、ぜいたくに暮らすためにほしいと思うだけの金を、すべて持つ私自身を見る。富のたくわえから与え、他の人びとに善の分けまえを得させている自分自身を見て、大きな喜びを感じる。私の心は、人に与えるために開かれている。私の手は、ふんだんに受けとるために開かれている」
「私は賢明かつ安全な投資をする。その一つ一つはゆたかな配当をもってくる。お金をつくる好機は、毎日やってくる。それは継続的に、予期しないときにやってくる。富を得るのは私にとり正常で自然で、呼吸と同じことだ。富に対してありがたく思う。最大の善をするところに、私はそれを使う。銀行の勘定を増すような絶えざる思考がわき流れてくるので、その一つ一つを善のために働かせる。利己的ではなく、いっそうの人助けと奉仕のためにだ。私の成功は確実で不断である。なんでも私がすることは栄える」
「私の高潔さのゆえに、たよりになる豊かな収入がある。世間の人への奉仕としてそれを使い続けると、さらに多くが流れ込んできて、流れ出たものを埋めあわせてくれる。私の持つものに対する感謝と、そのよい使用は自動的に、お金をつくるいっそう大きな好機を私にもってくる」
「お金をつくる考えは私の想像力のなかでたやすく自由に形成され、それは富につづく富として私の体験のなかに現われてくる。富はいまや私のものである。それを受け入れる。それに感謝する。私の業績に感謝する。私のものである富裕に感謝する」
経済の安定は、人間の幸福に欠くことのできないものです。安定は個人の自由を保証します。金銭は、大生命力が人類に与えた最大の恵みの一つだ、言えると思います。
お金は、あなたの生活に大きな善をもたらす手段で、正しくお使いになると、他の人びとの生活にも大きな善を与えます。お金は富と豊かな生活を象徴し、自由と力を示します。大生命力のどの恵みとも同じように、金銭も感謝をもって受けとり、たのしみ、善い目的に、使われるべきです。
お金は空気や日光のように、あなたの手にはいります。「与えて受ける」という簡単な自然界の法則をお使いになると、お金はあなたを取りまき、あなたのものになります。お金はいいものだ、あなたのためにいいものだ、という考え方を心に銘じなさい。あなたのお金でもってできる善いこと、なさりたい善いことを静かに想像なさい。
「なぜ私が金をほしいのか? お金を求める私の目的はなんなのだ?」と、ご自分に尋ねなさい。あなたの動機が正しく、非難の余地がなければ、心のうちで、お金を持つ権利があると感じます。そして、もし権利があれば、あなたはたしかにそれを得ることを期待できるのです。
お金あるいは、どんな善いものでも、まちがった方法で得たり、あるいは、なにか破壊的な方法で使ったりすれば、不幸な結果となりますが、その罪はお金にあるのではありません。罪は動機と、お金の不当な使用にあるのです。
一部の人は貧困と欠乏に生きることが道徳だと信じていますが、建設的な善いことに使うかぎり、大生命力が与えるいかなる善いものも、人間として持つ権利があるのです。欠乏とか極限という体験のはるか上に出るべきです。信念にしたがって、あなたに対する大生命力の愛に、あなたを祝福し他の人びとにも奉仕する豊かな思考に、信念を置きなさい。
最近ある男の話が出版されました。彼は払いきれない勘定がかさむのに閉口し、困苦に沈んでいましたが、キリストの有名な言葉である「まことに汝に告げん、もし芥子ダネのごとき信仰あらば、この山にむかって、かしこへ移れといえば、そこへ動いて行くであろう。汝に不可能なことは一つもない」というのを彼は再三再四読みました。この考えが彼の心に根をおろしました。
その一つのヒントから、芥子ダネをまん中に入れた小さいプラスティックの玉を製造する、かなり大きな事業をおこしました。初めはポケットに入れる玉をつくりましたが、やがて考えが進んで、芥子ダネを指環、腕環、耳飾り、ネクタイ止めなどに入れ、何百万という人びとに、彼らを今日あらしめた原因は、信仰のゆえであるということを思い起こさせました。これは世界をよくするために実用に供されたよい考えであったわけです。あなたも、こういう着想を心がけなさい。こういう考えは、私どもだれにでもわくものです。いい考えがわいたときには、軽率に退けてしまわないで、それを使いなさい! それをあなたのため、また世間に人びとのために役だてなさい。
こういう質問をあなた自身になさい・・・「どうすれば私はもっとも世界の必要に奉仕できるだろうか? どんな考案、どんな才能が私のうちに眠っているだろうか?」 そういう疑問を心の中に絶えず持ちつづけなさい。その答を期待していると、なにかの着想がわいてくるものです。そういう考えがわいたら、なんであろうとけっして粗末にしないがいいです。知性ある大生命力が、あなたを導き、方向を与えているのですから。
聖書のなかの第二王篇の第四章の東方の話は、着想を得て、それを使うことのたいせつさを説いています。近代的な翻訳をすると、こういうことです・・・
予言者組合の一会員の妻がエリツァという予言者に哀訴しました・・・
「あなたの下僕である私の夫は死にました。ご存じのとおり、彼は永劫の神をあがめたのですが、いまや債権者が来て私の二人の子どもを捕え、奴隷にすると言います」
エリシァは「私はなにをしてあげたらいいだろう? 家にはなにがあるか言ってみなさい」と尋ねました。
「あなたの下僕の家にはなにもありません。ただオリーブ油が一びんあるだけです」と彼女は答えました。
「それでは、近所の人のところへいって、あちこちから、からの容器をたくさん借りて来なさい。あなたも息子さんたちも家に閉じこもり、油を一つ一つの容器に注ぎ入れなさい。そして一つが満ちるごとに、わきへ取りのけておきなさい」
彼女は立ち去って、息子たちとともに家に閉じこもり、言われたとおりにしました。息子は容器を持ってきて、彼女は油を注ぎ入れました。たくさんの容器が満たされると、彼女は子どもに、「ほかのをもう一つ」と言いました。「もうあと一つもありません」と息子は言いました。そこで油はもう流れ出なくなりました。彼女は、さきの予言者のところへ行くと、「その油の幾びんかを売って借金を払い、残ったぶんで彼女と息子たちの生計に当てなさい」と教えられました。
これは魔術や奇跡の話ではありません。困苦をどのように克服して繁栄に導くかを教える、一つの教訓です。
未亡人または女性は、潜在の心すなわち心の創造をつかさどる部分で、思考したり選んだりする客観かつ意識的な部分と対比するものです。夫または男性は客観的な、あるいは意識的に思う心です。未亡人(感じる、創造的かつ主観的な心)は恐怖に満たされています。私たちが恐れるときは、うまく推理を進める力を無くします。大きな苦難にあるときは、まっすぐにものを考えることができず、なにごとにおいても成就する力を失います。潜在の心は、からだを建造するものですから、手渡されるどんな思考にでも形態をあたえます。私たちがはっきりと推理する力または感情を統御する力を一時的にでも失うと、想像力のなかに恐怖のイメージをつくり、恐れたことが身にふりかかってきます。恐怖(貧乏や苦難や失敗の恐れ)に消耗されると、はっきりした推理ができないのみでなく、ますます深く負債や苦難にはまり込み、ついには価値の観念をことごとく失って、感情によって統御されてしまうのです。
この話のなかでは、未亡人が苦難におちいって、エリシァという予言者を訪ねました。男性は心の中の推理する力をさしています。予言者は理性を示すばかりでなく、直感や霊感の高い水準を示しています。
このたとえ話は、恐怖におそわれ、精神的に逆上して、どうしていいかわからないときは、心を落ちつけて、おだやかに私たちの中の霊感の水準のところをもとめ、その深奥の知恵になにをなすべきかを言わしめるべきだと教えているのです。恐怖、取り越し苦労、深い憂いなどで心が顚倒したときは、だれしもそうすべきです。この未亡人がしたように、心の高度な霊感の水準のところへ行って、回答を求めるべきです。
未亡人への回答は「あなたのために生産できる唯一の人は、あなたである。苦難からのがれるには、あなたがすでに持っているものを使うべきだ。回答はまさにあなたの家にある。それを使いさえすればいいのだ」ということでした。
私たちにはみな、これと同じ務めがあります。他人が助け、励まし、あるいは導いてくれるかもしれませんが、しかし、なにをなすべきかの正しい考えや、成就に必要な力を得る場所は、まさしく自らの体内にあるのです。未亡人と同じように、自分の力と工夫に立ち戻ることが大事です。なにが私どもの家にはあるのでしょうか? 私たちが利用することを忘れているなにがあるでしょうか? 奉仕と成功の考えは、私たちの持つ価値あるものを注ぎ出すことさえすれば、富に変えられるのです。私どもに必要なのは思考、思いつきです。
知識のない人は、この未亡人が助けを求めたように、外からなにかをつかんでこようとします。多くの人は「引き」にたよります。だれか他の人が考えを供給してくれるべきだと思うのです。しかし、だれもが富を自分の内に、自分の家の中に持っているのであって、それを認識し、組織し、行動にまで引き出せばいいのです。この未亡人は小さな油壺を持っていたのですが、それで十分だったのでした。霊感は、それこそ世間にとり価値あるものだと教えました。多くの容器を借りてくるよう励まされたのは、彼女の油には限界がないことを示しているのです。
世界のもっとも富める人であった自動車王H・フォードは、「もし全財産も事業も失うようなことがあったならば、どうするか」と質問されたのに対して、こう答えたそうです。
「私は人びとが根本的に必要とするものを、新しく考えて、その必要に対してだれよりも安く、いっそう効果的に供給する。五年以内には、ふたたび何千万ドルの大富豪になってみせる」
奉仕の好機は周囲にいっぱいあります。好機は、あらゆる人の手の上に乗っています。それを認め、その好機をつかんで効果的に用いさえすれば、私たちは負債を払い、よい生活ができるように、大生命力は必要なものを手渡してくれるのです。
未亡人が油を注ぎ出す仕事を続けている間じゅう、満たすことができたということは、あなたや私が、思考、エネルギー、好機などを使いつづければ、さらに多くの思考やエネルギーがあとからあとから出てきて、ますます使えるということを意味しています。注ぎ出すことをやめると、流れは止まってしまいます。初めに未亡人は自分の持ちものを、高くは評価していませんでした。世間に奉仕するに使える一つの小さな考えにしかすぎません。しかし、その考えを使いはじめると、それだけで彼女の必要を満たすには十分だとわかったのです。
だれしも世界のために価値ある油壺をからだの中に持っているのです。その価値を知るには、混乱と取り越し苦労と憂いをまず克服すればいいのです。
静かに内心の深奥の自己にむかって霊感をもとめ、私どもの持つものをどう使うがいちばんいいかをきき、そしておのれの活動を導かせるとき、持つものを注ぎ出す方法がみつかり、他の人びとへの奉仕となり自分自身の利益もあげることができるものです。人類の必要を満たせば、それがめぐりめぐっておのれを富まし、おのれもたいせつに扱われるようにしてくれます。奉仕のための思考、健康と幸福と成功にいたる思考は、私どもの体内にあります。
ここで、ちょっと時間をさいて、世間の人に奉仕できるような、そしてその人が喜んで代価を払うような、あなたの持つ才能リストに書き上げてごらんなさい。
お金を手に入れることをたんに企画するだけでは、創造的でもなく賢くもありません。正直に、かつ賢く大生命力に奉仕すれば、たいした努力もなしに、お金は正常に自然に手に入り、幸福と満足をもたらします。新鮮な清らかな空気は、いつも私どもを包み、私どもはそれを受け入れています。よい目的のために吸い入れます。お金に対しても、それと同じ態度をとれば、豊富に供給されるのです。宇宙に欠乏ということはないのですが、人は理解の不足から、善きものを見ず、それを受け入れないのです。大生命力に奉仕し、そのゆえに大生命力によって奉仕を受けるような彼自身の資質や才能を認めないでいるのです。安定と幸福は、大生命力の偉大な力やエネルギーを適切に正しく使うことから来るのです。私たちは、持つ権利があると確信できるような方法で生き、かつ奉仕すべきです。成功が自分のものだと信じるとき、それを持つことができ、また持つ権利があると信じられるとき、大生命力は私たちに奉仕してくれます。そのときに、はじめてそれを持てるのです。
あなた自身に満足できるような方法でなにごともなさい。想像力のなかで、他の人びとの必要に、多くの奉仕しているあなた自身を見なさい。この奉仕があなたへ、大きな富裕をもたらすことを心の目に見なさい。想像のなかで、あなたの利己的でない奉仕の結果として、大生命力が応答するのを心の目で見なさい。世界の人々に対するのと同じように、あなたにもたやすく金が流れてくることを信じなさい。どんな額であろうとも、それが来るときは深い感謝の気持で受け、感謝しつつ賢く使いなさい。
お金は世界的に普遍の物質です。すべての人びとのものです。すべての人が使うためにあるのです。あなたが豊富に持ちえないとか、持つべきでないとかいうようなまちがった信じ方をきれいに捨てなさい。お金は、あなたをとおして大生命力の十分な、自由な、幸福な表現のために必要です。
あなた自身に言いなさい・・・
「私のお金を健全な、建設的な、善い方法で惜しみなく使う。空気や日光に顔をそむけたり拒絶したりしないのと同じく、お金にも顔をそむけたり拒んだりはしない。大生命力が惜しみなく私にくれる賜り物を私は熱情をもって受諾する。私はお金の奴隷ではなく、お金を私の召使いとして見る。それは私にとり善いもので、他の人びとの生活にも善いことをもたらすように使う。正しい私の使い方によって、世間の人びとは福祉を受ける。経済的成功のための創造的、拡張的思考が、絶えず私に来る。利己的でなく、他の人びとのため、ますます多くの善を求めるとき、大生命力のあらゆる通路(人びと、私のまわりの事態や条件)は、お金をますます豊かに私に注いでくれる。あらゆる場合にあって、私は価値をさがし、かつ見いだす」
「私の中の大生命力の無限の力によって、なすべきことを、熱心に成功的におこなう。私は成功への権利を持つ。というのは知識と才能の最善をつくして、この地上における私の運命を満たしつつあるからだ。私は大生命力(善なる大生命力)を十分、健全な方法で表現している。毎日を勇気と理解を持って送っている」
「私は必要なお金を多く集め、多く散らせるだけに十分に持っている。世にお金の不足というものは無いことを知っている。お金は霊的な物質であることを認める。大生命力が私に応答する力は無限である。大生命力は一ドルを産出すると同じたやすさで、百万ドルを造り出す。信念の在り方が、私の受けとる高を定めるのだ。と知るからには心的および肉体的の私の存在のあらゆる道をことごとく開いて、ゆたかな富を生み出し、また受けとる」
「私はお金をひきつける。お金はたやすく、自由に、ゆたかに流れてくる。それはあらゆる供給の無限の源から私のところへ来るのだ。私は富について明瞭な、確固とした心の絵を持っている。ゆたかに満ち足りて、ぜいたくに暮らすためにほしいと思うだけの金を、すべて持つ私自身を見る。富のたくわえから与え、他の人びとに善の分けまえを得させている自分自身を見て、大きな喜びを感じる。私の心は、人に与えるために開かれている。私の手は、ふんだんに受けとるために開かれている」
「私は賢明かつ安全な投資をする。その一つ一つはゆたかな配当をもってくる。お金をつくる好機は、毎日やってくる。それは継続的に、予期しないときにやってくる。富を得るのは私にとり正常で自然で、呼吸と同じことだ。富に対してありがたく思う。最大の善をするところに、私はそれを使う。銀行の勘定を増すような絶えざる思考がわき流れてくるので、その一つ一つを善のために働かせる。利己的ではなく、いっそうの人助けと奉仕のためにだ。私の成功は確実で不断である。なんでも私がすることは栄える」
「私の高潔さのゆえに、たよりになる豊かな収入がある。世間の人への奉仕としてそれを使い続けると、さらに多くが流れ込んできて、流れ出たものを埋めあわせてくれる。私の持つものに対する感謝と、そのよい使用は自動的に、お金をつくるいっそう大きな好機を私にもってくる」
「お金をつくる考えは私の想像力のなかでたやすく自由に形成され、それは富につづく富として私の体験のなかに現われてくる。富はいまや私のものである。それを受け入れる。それに感謝する。私の業績に感謝する。私のものである富裕に感謝する」